半月城通信
No.111(2005.6.1)

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    目次

  1. ドライなアサヒビールの企業倫理、質問書(2)
  2. 読者だより「春香伝様のアサヒビールへのメール」
  3. 読者だより「自分の国の歴史、ドイツにて日本を考える」
  4. 読者だより「いつも読まさせていただいています」
  5. 天皇中心の祝日と靖国神社
  6. 渡来人と『新撰姓氏録』
  7. 韓国KBS番組「日本軍“慰安婦”」
  8. 台湾の「理想の慰安婦」
  9. 竹島=独島と『隠州視聴合記』『大日本史』
  10. 「竹島渡海免許」と斉藤豊仙
  11. 「竹島渡海免許」の性格
  12. 竹島=独島と駐日アメリカ大使館
  13. 内藤正中教授の論文「竹島(独島)問題の問題点」

  14. ドライなアサヒビールの企業倫理 2005.5.20 メーリングリスト[AML 1630] アサヒビールお客様相談室、小出様宛のメール  半月城です。まずはご回答をありがとうございました。  しかしながら、貴社のご回答にはビックリさせられました。  貴社は中條氏の言動に対し、ご回答で「あくまでも中條氏の個人的な記述であり、これ に対して弊社は全く関知しておりません」との見解をのべられましたが、これは状況を見 誤ってはいないでしょうか。  中條高徳氏は、アサヒビールの関係者としてアサヒビールの社名で「新しい歴史教科書 をつくる会」のホームページにおいて靖国神社に関する見解を表明されました。これを貴 社はその事実を知りながら関知しないとするのは、言い逃れではないでしょうか。これは 別の例を考えれば容易に察せられます。  たとえば、もし貴社関係者が貴社の社名を用いて詐欺行為を働いた場合、貴社は被害者 に対し「個人的な言動であり、弊社は全く関知しない」とドライに割り切って、被害者を つっぱねるつもりでしょうか?   一般に、ある会社関係者がその会社名をなのって何らかの言動を行ったら、その会社 はその言動に無関係ではありえないし、もしそれが悪いことであれば会社として全面的に 非を認め、相応の対応をするのが日本の企業倫理であり常識です。そう考えようとしない 貴社の割り切り方は、貴社が得意とする「スーパードライ」の一環でしょうか。  かつて中條氏はアサヒビールの代表取締役を務められたそうですが、その代表取締役の もとで、小出様のように企業倫理や常識を欠いたと思われる社員が育てられたのでしょう か。  中條氏はアサヒビールの名で「国事行為たる戦争の犠牲者を祀る靖国神社に詣でる事を しない政治家に、国政に参加する資格はない(注1)」と公式見解を表明しましたが、こ れでは靖国神社に詣でようとしないキリスト教信者の議員や、多くの公明党議員は国政に 参加する資格がないということになり、それだけの理由で議員をやめなければならないと いうことになります。  中條高徳氏は皇軍、すなわち天皇の軍隊の犠牲者慰霊を強調するあまり、神道を奉ずる 靖国神社に詣でない政治家の存在を認めがたいと極論しているようでが、これは神道に心 酔しすぎた、あまりにも偏狭で狂信的な意見ではないでしょうか。  さらに、靖国神社にはA級戦犯が神として祀られており、そのために首相が靖国神社に 参拝する行為は、近隣諸国から日本は戦争に対する反省心が十分でないあらわれと受け取 られているくらいです。  たとえば、シンガポールのリー首相は靖国参拝について「悪い記憶を思い起こさせる。 シンガポール人を含む多くの人にとって、靖国参拝は日本が戦時中に悪い事をしたという 責任を受け入れていないことの表明、と受け取れる(注2)」と語ったくらいでした。韓国 や中国の反応はいうに及ばずで、その実状は現に中国で不買運動の苦杯を味わっている貴 社は先刻ご承知のことと存じます。  もっとも中條氏が何を語ろうが、貴社がいちじるしく企業倫理や常識に欠けるのなら、 貴社は関知しないとシラを切りとおし、頬かむりしてやり過ごすのでしょうが、すこしで も企業としての良識を自覚するのなら、企業責任を直視して貴社は適切に対応するよう期 待します。 (注1)<桜と花嫁人形と靖国神社> (注2)朝日新聞<靖国参拝「周辺国の視点を」 シンガポール・リー首相> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    読者だより「春香伝様のアサヒビールへのメール(転載)」 2005.5.25 半月城さま。 春香伝ともうします。   じつは、アサヒビール側と、メールで以下のようなやりとりをしましたので、参考ま でにお知らせします。最初は、誠意ある対応かと思っていましたが、とんでもないことで、 むしろ、アサヒ側の態度に、まったくの不誠実さを感じてしまいました。以下に紹介しま す。  (なお、アサヒへのメール送信は実名でおこないましたが、ここでは春香伝と変えてあ ります) 1、春香伝からアサヒビールへの最初のメール   最近、私の友人から、貴社名誉顧問の中条氏が、〝日本の政治家なら、靖国神社を参 拝して当然〟という趣旨の発言をしていることを知らされました。ネットで確認したら、 たしかにそういう主張をしておられます。   1個人がどのような主義・主張をもとうと、それ自体を問題にするつもりはありませ ん。しかし、貴社を代表する事実上の公人というべき氏の発言は、看過できません。わが 家は、ひたすらスーパードライを愛飲してきましたが、この問題での貴社の対応しだいで は、きっぱり縁を切る所存です。   この問題は、「氏に意見している」というような程度ではすみません。改善されない ようであれば、この事実を私の周りの人たちにも堂々と紹介するつもりです。以上、回答 を求めるしだいです。 2、アサヒビールから春香伝への返信メール 春香伝様   日頃は、スーパードライをご愛飲いただきまして、誠に有り難うございます。私はア サヒビールお客様相談室の小出と申します。この度は、大変貴重なご意見を頂戴いたしま して誠に有り難うございます。春香伝様より頂きましたご意見は、早速関係部署へ連絡さ せて頂きました。   また、中條高徳の発言は、あくまでも中條の個人的な発言であり、弊社は全く関知し ておりません。今後、中條の個人的な活動において、アサヒビールとしての肩書きを使用 することがないように、厳重に申し渡しました。本人も了解しております。どうぞご了承 賜りますようお願い申し上げます。   弊社としましても、たくさんの皆様に喜んでいただける商品のご提案、更なる努力を 重ねて参りたいと存じます。今後ともアサヒビールのご愛顧を宜しくお願い申し上げます。 3、春香伝からアサヒビールへの再度のメール   お客様相談室 小出さま。さっそくのご返答、感謝します。返信のなかで、「中條の 個人的な活動において、アサヒビールとしての肩書きを使用することがないように、厳重 に申し渡しました。本人も了解しております」とのこと。これはこれで大事なことと思い ます。   しかし、中條氏は、現に以下のようにネット上で「アサヒビール名誉顧問」の肩書き を使って--つまり、氏本人および貴社の主観的意図とは無関係に、事実上アサヒビール を代表する形で--「国事行為たる戦争の犠牲者を祀る靖国神社に詣でる事をしない政治 家に、国政に参加する資格はない」と発言しておられます。   したがって、小出さんがお書きになったように、もし氏が「了解している」というこ とでしたら、この発言をネット上から削除するか、少なくとも「アサヒビール名誉顧問」 という肩書きをとるのが筋と言うものです。そうでなければ、「弊社はまったく関知して おりません」という言葉は、文字通り、その場の言いつくろいでしかないということにな ります。 http://www.tsukurukai.com/07_fumi/text_fumi/fumi45_text02.html   返答をいただいたこと自体は多としたいと思いますが、たとえば1週間ほどが経過し てもひきつづきこの発言がネット上に掲載されているようであれば、残念なことではあり ますが、やはり今後、貴社製品の購入を断念することとします。なお、念のためあらため て申し添えますが、私は、1個人がどのような思想・信条をもとうと、そのこと自体を問 題にしているのではありません。   以上が、この間の春香伝とアサヒビール側のメールのすべてです。私がアサヒビール に最後にメールを出したのは、5月14日ですから、すでに一週間以上経過しておりますが、 いまだに「アサヒビール名誉顧問」たる中條氏の発言は、インターネット上に堂々と掲載 されています。そこで、私はすでに、アサヒビールの不買運動を--効果のほどはまった く分かりませんが、というよりほとんどアサヒ側はなんの痛痒も感じないでしょうが-- 断行することとしました。   私がとくに許せないと感じたのは、あたかも〝断固とした対応〟をとっているかのよ うにいいながら、その実、まともに対応しようとしていないことです。   それは、「中條高徳の発言は、あくまでも中條の個人的な発言であり、弊社は全く関 知しておりません」「今後、中條の個人的な活動において、アサヒビールとしての肩書き を使用することがないように、厳重に申し渡しました。本人も了解しております」と言っ たことにたいし、私が、「その言葉が事実なら、中條氏の発言からただちに名誉顧問の肩 書きをはずす措置をとるべきだ」と指摘したのにたいして、完全無視を決め込んでいるこ とからも明白です。   つまり、アサヒ側は、お客様の意見は正当だと回答し、聞く耳をもっているかのよう に述べておきながら、しかるべき措置をとってほしいとの要求には、返答さえしないこと。 これは、端的に言えば「コケにしている」ということではないですか。   長くなりましたが、私とアサヒ側とのやりとりを、半月城さんがどう活用してもご自 由です。アサヒ側も転載不可とはしていません。いずれにしても、この企業体質は、今後、 必ずなんらかの形で問題にならざるをえないでしょう。 半月城から春香伝様へのメール   春香伝さん、ご連絡をありがとうございました。   アサヒビールの春香伝さんへの回答はおかしいですね。   回答に「中條高徳の発言は、あくまでも中條の個人的な発言であり、弊社は全く関知 しておりません。今後、中條の個人的な活動において、アサヒビールとしての肩書きを使 用することがないように、厳重に申し渡しました」とありますが、関知しないのに厳重に 申し渡したとするのは、明らかに矛盾です。   ここでアサヒは弱みを見せています。その弱みの現われが、春香伝さんの指摘する 「完全無視」です。反アサヒの盛り上がり次第では、完全無視も撤廃することでしょう。 それを目指したいと思います。そのために、お言葉に甘えて春香伝さんのメールも頃合い を見て活用したいと思います。 半月城


    読者だより「自分の国の歴史、ドイツにて日本を考える」 2005.4.26 ドイツの***子さんからのメールを、本人の了承をえて転載します。      ++++++++++++++++++  はじめまして、こんにちは。  わたしは東京出身のごく普通の日本人です。  現在、ドイツの学校にて勉強中です。  この夏学期に学校で取りかかろうと思っているプロジェクトのアイデア何候補かのリ サーチとして、ホームページを拝見させて頂きました。  本当に興味深く、今日1日中モニターにかじりつくように内容を読んでいました。ご自 身も本当によく勉強されているようですね。素晴らしいです。  ご存知のように、大事な世界史を学ぶ時期の日本の学生たち(中学、高校)の大半は、 その場だけ学び、試験がすめばその内容も忘れてしまうというのが現状ですが、恥ずかし ながら、わたしもそのような学生の一人でした。そもそも、その教科書の内容自体も、あ やふやな記憶ながら貴ウェブサイトで記述のある通り、現日本政府にとって都合の良い書 かれ方だったと思いますが。  わたしのドイツでの生活は3年ほどになりますが、その前はイギリスで2年ほど生活し ていました。  そして何年かのヨーロッパでの生活を通してきて思った事は、自分は自分の国の事、自 分の国の歴史を全くといいほど理解していなかった、知らなかったという事です。それは 歴史的な面でだけではなく、文化や生活習慣、様々な事についてですが、歴史的知識の面 については特にでした。  ヨーロッパに出てきて、色々な諸国の人たちと関わりあって行く中で、みんながどれほ ど自分の国や他国の歴史や情報を知っていて、そして興味があるのかを知らされました。 語学学校で戦争がテーマになった時などは、中国、韓国の生徒にちょっと攻撃的な意見を いわれ、何が何だかわからず不可解に思った事がありますが、今思えば、彼らの主張は十 分筋の通っていた事だと思います。  ごく最近、自分の国の歴史について、本当に何があったのか知りたいと思い、時間のあ る時にインターネットで色々なウェブサイトの資料などを閲覧したりしています。  わたしの婚約者がドイツ人なのですが、彼ともそういった話を多くしています。ドイツ の子供たちは、自国の非のある歴史ともしっかり向き合い、クラスでも話し合いの機会も 多く、そして過去から学び未来に向けて考えて行けるように、国からも全面的にサポート されているようです。わたしも、日本政府がなぜ過去の歴史をあそこまでしてもみ消そう とするのか、本当に理解しがたく思っています。  当時の戦争責任がドイツはナチスにあったのが日本は今なお存在する日本皇室、天皇 だったからでしょうか。わたしはそもそも、日本皇室自体、現日本に必然的なようなもの には思えないのですが・・・。  色々と勉強していくにつれ、わたしたちの祖先は本当に何という恐ろしい事をしたんだ ろうという事がわかりました。そして、その侵略戦争の被害を受けた朝鮮、中国などの 方々の訴えは、本当に心の痛むものばかりです。  わたしの両祖父母も戦争を経験している世代ですが、両祖父は既になくなっています。 幼い頃に、祖父が海軍に所属していた頃日本軍から受けたという勲章を見せてもらった事 があります。祖母たちからは、疎開生活の話、兄が戦死した話などを聞きました。  中学校の修学旅行では広島に行き、原爆資料館を訪れたり、被爆者の方のお話を伺った りして、核兵器や大戦の恐ろしさを間接的にではありますが実感しまし た。でも今思え ば、それらは日本が自分が被害者立場に立った視点からのもののみでした。  祖母が、わたしがイギリスへたつ前に、また戦争の話をしてくれました。その時は、彼 女は朝鮮で日本軍が行ってきた非人道的な行為についても少しでしたが 話してくれまし た。街や村の集会場に何もしらない市民を招集して閉じ込め、そして建物ごと焼き払った りしていた事。  そして国外に出てから、日本がしてきた本当の歴史について、もっと色々と学べるよう になりました。広島、長崎への原爆投下は日本の侵略戦争と、軍の侵略地での非人道的行 為へのいわゆる制裁であった事。  わたしは日本がしてきた侵略戦争によって、日本人が日本人である事を恥じて生きて行 かなければならないとは思いません。事実あった事を無かった事のようにしようとする日 本の一部の論述者のしている事はとても幼稚であり、それこそが日本人民の知的レベルの 低さを世界にさらしめている恥の根源だと思います。  歴史的事実を認め、被害者国へのお詫びと反省、そして補償をけじめを付けて行い、愚 かしい過去から学んだ事を未来に役立てて行くべきだと思います。  残念ながら過去にわたしもそうであったように、今の日本の若者層は先の大戦について は、事実があやふやにされた教科書から学び、大抵は右よりなメディアからの情報のみを 目の当たりにしているばかりか、彼ら自身、自国の歴史に興味がなさすぎるというのが事 実です。わたしは個人的には、今の若い世代、戦争経験世代から2世代下の若者が事実を 知りたいと国に訴えかけていく事が大事だと思います。  戦争経験者の次世代の日本人には、まだまだ他のアジア人への差 別心が潜在的にある からです。わたしの母には彼女の小学校時代よりの韓国人の親友が2人あります。母も、 彼女たちと仲良くし、いつも一緒にいる事に他の日本人生徒から非難を受けたりした事が あるそうです。幸い3人は今でも親友同士で、彼女らの娘たちと、わたしとも姉妹のよう な関係です。  少し話がそれてしまいましたが、わたし自身、日本の若い世代がこれからの日韓、日中 関係を考えて行く上で重要なこの歴史問題にもっと注目し、興味を持っていくように出来 る事をしていきたいと思っています。  また色々と勉強させて頂きました。本当にありがとうございます。 ドイツにて ****子      ++++++++++++++++++ <半月城からの返信> ****子 様   メールをありがとうございました。   最近の日本は右傾化し、教科書から侵略の歴史がどんどん薄れるなかにあって、** さんのように、恥じずに過去の歴史を率直に直視できる若者がいることに、大いに勇気づ けられます。   **さんは母親や祖母から伝承されたものに加え、みずからの国際体験により歴史認 識を築きあげられたのでしょうか、それだけに見方が着実で、足が地面にしっかりついて いるようで頼もしいかぎりです。   かつて明治時代、日本はドイツから近代法を学びました。また、戦前、戦後にあって は進んだ工業技術を学びました。今日でもドイツから学ぶものがあるとすれば、その筆頭 は戦後処理の方法ではないかと思います。ある薬品会社ドイツ事務所顧問の藤沢一夫氏は こう語りました。        -------------------- 歴史認識、ドイツに学ぶべきこと  (朝日新聞、2005.5.19)  ・・・   見習った方が良いと思う第一の点は、ドイツ政府首脳が公式の場で、説得力のある表 現と明解な論旨で、戦争責任を繰り返し認めていることだ。  ・・・   第二に注目すべきは、戦前・戦中の出来事を入念に国民に知らせていることだ。テレ ビはナチスの所業の記録映画やそれを題材にした劇映画を頻繁に放映している。   ベルリンの有名デパート前広場には、悪名高い12カ所の強制収容所の名前を記した 大きな表示板が立っている。「われわれが二度と忘れてはいけない恐怖の地」として。   このような実績があるから、ケーラー大統領の次のような言葉は説得力を持つ。「戦 後世代は、ナチの時代をドイツ史から消去し得ないことを知っています。彼ら自身に責任 はありません。しかし彼らは過去を忘れないことと未来を形作ることに対して責任を負う ことを知っています」(05年2月、イスラエル国会で)」。  ・・・   先月、反日運動に際し、独フランクフルター・アルゲマイネ紙は、近隣諸国との和解 が得られずに国際的に重要な役割を担い得るのか、と日本の国連安保理常任理事国入りに 疑問を呈した。確かに、日本側にもう少し誠意ある努力が必要ではないか、と私は思う。        --------------------   日本と同じく安保理入りをめざすドイツですが、この新聞が語るように、日本は中国 や韓国など「近隣諸国との和解が得られず」アジアで孤立していくのではないのだろうか と将来が案じられます。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    読者だより「いつも読まさせていただいています」 ichi様からのメール 2005.4.15   半月城通信のファンの在日です。あなたのような方が出るのを首を長くして待ってま した。   最近の日本の右傾化に、なぜ日本人そのものが気がつかないのか、私はそれが不思議 なんです。   日本社会の中で私たちが政治的に発言の機会がないということが日本の中に歪みを 作っていることに気がつかないのかな。   小林よしのりにあおられた世代と、それとは別に右翼の思想的バイブルでもあるんで しょうか。   竹島の問題でも一方的な報道しかされてないですよね。せめて各国の新聞の日本語版 くらい調べてもいいと思うんですが。   韓国で「ホタルの墓」が上映中止というニュースがあり、両国の意識の壁もまだまだ 厚く、半月城さんに何とかしていただけたらなあと思います。   とりあえず、全部英訳して、国連およびニューヨークタイムズあたりに送ってほしい と心より願います。 半月城からの返信   励ましのメールをありがとうございます。   私は、日本の社会にあって日本人なら軽く見過ごしてしまう問題でも在日コリアンと してどうしても一言いわずにおれないという心境で、靖国神社問題や竹島=独島問題など 多方面にわたって書いています。   日本の右傾化は、日本の左翼勢力が凋落して次第に強まったのですが、世界的な社会 主義体制の弱体化が影響し、なかなか歯止めがかからないようです。それが民族的な排外 主義に結びつくのかどうか懸念材料です。ただし、日本は少子高齢化のため外国人の役割 や比重が少しずつ増しており、バランスが成りたっているようです。   翻訳ですが、英語だけでなく韓国語サイトの作成も課題です。半月城通信は量が多す ぎて全部を翻訳するのはとても困難です。そのため、翻訳ソフトが格段に進歩することを 心待ちにしています。   多くの読者に励まされて成長してきた半月城通信ですが、これからも皆さんの応援を 背にどんどん書いていこうと思ってます。 半月城


    天皇中心の祝日と靖国神社 2005.4.29 メーリングリスト[AML 1326]   半月城です。   きょうは天皇誕生日で祝日ですが、日本の祝日は天皇に関係する日が多いようで、じ つに4割にものぼります。こう書くと驚かれる方がおられるかもしれませんが、年間祝日 15日のうち、下記の6日が天皇に関係します。 2/11 紀元節、架空の神武天皇即位日が「建国記念の日」となる 4/29 昭和天皇誕生日が「みどりの日」となる(注4) 7/20 明治天皇が東北から明治丸で横浜に到着した日が「海の日」となる 11/3 明治節、つまり明治天皇の誕生日が「文化の日」となる 11/23 新嘗祭が「勤労感謝の日」となる(注1) 12/23 「天皇誕生日」、別名「天長節」   過去、天皇関係の祝日が増えるのにともなって、民間伝統に根ざす祝日が廃止された こともありました。1873(明治6)年、紀元節や天長節、新嘗祭などが祝日になった代りに、 ひな祭りや七夕などの五節が祝日からはずされました。この時、日本の祝日は「民」中心 から「天皇」中心志向になったといえます。   かつて、森喜朗・元総理は「日本は天皇を中心にした神の国」と述べましたが(注2)、 祝日に関するかぎり天皇中心になっているようです。   祝日のみならず、日本がさらに「天皇を中心にした神の国」となるステップとして右 翼がねらうのは、天皇の靖国神社参拝です。天皇は、靖国神社にA級戦犯がまつられるよ うになって以来、参拝をとりやめているようですが、右傾化がこのまま進行すれば、天皇 の参拝は復活するかも知れません。   元来、靖国神社は天皇のために戦死した人、戦死させられた人を慰霊し、侵略戦争を 鼓舞してきただけに、天皇の参拝は右翼や過去の栄光の再現をめざす人たちにとって特別 な意味をもちます。それだけに、今後、もし天皇が参拝したら、かれらを限りなく鼓舞す ることでしょう。   それだけに、天皇参拝の露払いになりうる小泉首相の参拝は防ぎたいものです。それ に歯止めをかけるのは日本国民でしょうか、中国人でしょうか。あるいは韓国人も含めた 国際的な世論でしょうか。   小泉政権発足時、英紙フィナンシャル・タイムズは社説で「日本が国際社会で重要な 役割を果たせるかは、第2次大戦中の侵略行為を反省していることを近隣諸国に納得して もらえるかにかかっている」と論評し、靖国参拝の意向を示している小泉首相に冷静な対 応を求めました(注3)。   この指摘は小泉首相の耳を素通りしてしまったのでしょうか。首相は、過去の侵略行 為について近隣諸国の十分な理解や納得がないまま、靖国神社を参拝し、経済力を過信し て常任理事国入りを推進しました。その結果はどうでしょう。当然のごとく中国や韓国か ら猛烈な反発をくらいました。   それを教訓に、日本は進むべき方向をアメリカ追随からアジアの心を重視するスタン スに切り替えないかぎり、いつまでたってもアジアにおける信頼は得られないことでしょ う。 (注1)新嘗祭〈にいなめまつり〉または音読して〈しんじょうさい〉ともいう。宮中の  儀式の一つで,11月23日 天皇が新穀を天神地祇に供え,天皇みずから食す。旧祝祭日  の一つであったが,第2次大戦後〈勤労感謝の日〉として国民の祝日の一つとなった。  (『世界大百科事典』平凡社) (注2)半月城通信<天皇中心の神の国とは?> (注3)「靖国問題、英紙が首相に冷静対応求める社説」   朝日新聞ニュース速報 2001.08/09  半月城通信<靖国神社と陵遅処斬> (注4)その後「昭和の日」と改名されました。


    渡来人と『新撰姓氏録』 2005.5.1 メーリングリスト[zainichi:28767]   半月城です。  『新撰姓氏録』の種別「皇別、神別、諸蕃」ですが、これについて水野祐氏が斬新なこ とを書いているので紹介します。   水野氏についてはご存知のことと思いますが、戦後、皇国史観からフリーになったと き、いち早く三王朝交替論を提唱し、学界をゆるがす大論争をまきおこした人です。戦後、 史学の基礎になったといっても過言ではありません。   水野氏の説をおおざっぱにいえば、神別は弥生時代以前に日本列島にいた人たち、皇 別は古墳時代の帰化人、諸蕃はそれ以降の帰化人といえましょうか。   皇別の成り立ちですが、水野氏によれば欠史八代の天皇は存在しなかったのであり、 下記のように皇別の系譜をつくった結果、あとから9代までの架空の天皇が歴代の系譜に 加えられたとのことです。        --------------------   これは『新撰姓氏録』なんかに出てくる系譜上の類別なのですが、神別と、天皇から 出た皇別、この二つに分けられて、氏族の由緒が記されているのです。帰化した人はみな 蕃とされています。   ところが皇別という氏族をみていきますと、天皇から分かれて出てきたのが皇別の氏 族で、これは尊貴な家系なのかと言いますと、皇別よりも神別の方が上位のようです。   そうすると、いたかいないかわからない神様から出てきたより、れっきとした日本の 最高の主君である天皇から出てきた皇別のほうが上位に立つべきであると思うのですが、 そうではなくて、神別のほうが上で皇別は下なのです。   どうして天皇から出てきたものが下になるのかというと、はっきり天皇が出現するの は、第五世紀以後で、そうした天皇から分立した氏族はまれで、その後の天皇から分立し た皇別と称する氏族は、本当は少ないのです。   あとの皇別氏族というのは何かというと、崇神天皇以前、すなわち神武天皇から開化 天皇まで九代の、私が言うあとから歴代に加えられた天皇の中の一天皇を祖先としている のが皇別氏族のほとんどなのです。   ということは、第六世紀以後 新たな時代になって、記録時代になってから帰化した人 は何々の王の末孫だとかいうことをいいますが、それ以前から住みついていた、弥生時代 ぐらいから入ってきていた人々は、日本人と仲間になったときに、みんなが神様から出て きた、出てきたというので、そのうち自分たちは何々のミコトというものを作り出して、 それの分かれだといったらしいのです。   そのミコトたちを集めて、初代から九代までの系譜にしたものが皇統譜なのです。昔 渡来してきた人がみんな氏祖をなんとかのミコト、ミコトという。それを全部集めてみる と同じようなものがあるから、その何某の氏祖のミコトが天皇とされて九代の天皇の系譜 が加上されました。   それを縦に並べて系譜にしたのですから、この時期に分立した氏族はみな皇別とされ たわけです。   ですから神別の下に皇別があって、そして蕃というのは一番あとから入ってきて、隼 人の出であるとか、あるいは高麗の王の出であるとかいうような人が蕃になった。   ですから蕃より、数世紀も前から定着していた帰化した人は皇別になるのです。そし てそれ以外のものは最初から日本にいた、いわゆる神別の古い氏族だというふうに私は解 釈しているのです(注1)。        -------------------- (注1)水野祐「日本古代における帰化人とその文化」『渡来人は何をもたらしたか』   新人物往来社、1994,P254 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    韓国KBS番組「日本軍“慰安婦”」 2005.5.1 メーリングリスト[AML 1356]   二、三か月前、ここの場において吉見義明先生への連絡方法でご協力いただいた半月 城です。   おかげで韓国KBS局は先生に取材でき、TV番組・人物現代史シリーズ「歴史が記 憶をするように」を制作しました。その番組は、日本ではスカパー331ch KNTVで 4月16日 に放映されました。お礼をかねて、そのあらましを紹介します。   番組の副題は「日本軍“慰安婦”のハルモニたち」ですが、番組は「慰安婦」にされ たハルモニ(おばあさん)が暮らす「ナヌムの家」を今年1月24日、日本の市民団体の女 性たちが訪問するシーンから始まりました。   ビデオで紹介される「慰安婦」の映像に目頭をおさえながら食いいるように見ていた 女性たちも、「慰安婦」李玉仙さんの話は正視にたえないのか、うつむきかげんでした。 ハルモニはこう語りました。  「軍人が列をなしているんですね、たくさん来て・・・15才の少女に一日 50名を受け いれろと・・・ここにお座りの方たちはおわかりでしょう。15才の少女に何ができましょ うか・・・性根がなってないと言って、刀でこんなふうに斬りつける。斬りつけても屈服 しなければ殺してしまう・・・」   李さんはこう語りながら、ひざの長い切り傷を皆に見せました。彼女のあまりにもリ アルな話はハンカチなしにはとうてい聞けないようです。軍人に犯されつづけた彼女の恨 (ハン)は、60年たった今でも決して晴れることはないようです。  「少女を引っぱっていき病人にしておいて、今になって自分の足で行ったなどとウソを ついて、これがどれほど腹が立つのか、このハンをどう晴らすか・・・」   彼女たちがこう語れるようになったのも、わずか十年そこそこのことでした。それま でそうした話は自分ひとりの秘密であり、恥ずかしくおぞましい「慰安婦」時代の過去は 家族にすら語れず、ほとんど完璧に沈黙してきました。   彼女たちが重い口をひらいたのは、日本の労働省の局長発言がきっかけでした。  「従軍慰安婦なるものにつきまして・・・やはり民間の業者がそうした方々を軍ととも に連れて歩いているとか、そういうふうな状況のようでございまして、こうした実態につ いて、わたしどもとして調査して結果を出すことは、率直に申しまして できかねると 思っております」(1990.6,参院予算委)   そうした報道を韓国のテレビでみた金学順さんは、憤りのあまり涙がとまらなかった とのことでした。  「そんな話がされるのを聞いて、まったく胸がふさがり、その場でひとしきり泣きまし た、ひとりで。・・・こんなことがあっていいのか、なぜ皆、過去をこうも知らずにいる のか。生きている自分が証言できるのに。そんなこと(「慰安婦」)がなかったと話すの で、本当に涙がでて胸がいっぱいになり・・・それで(名乗り)始めた」  「16才そこそこで強制的に引っぱられ、やられまいと泣きながら逃げ回るのを放してく れない、日本の奴らがつかまえて放してくれない。どうすることもできなくて、泣きなが らやられた。   日本政府は、こんなふうにしてやられた人を知らない、いない、いないとか・・・胸 がつかえて言葉がでない・・・死ぬ前に、目を閉じる前に一度ハンを晴らし、必ずや言葉 だけでもハンを晴らしたい」   50年の沈黙を破った金さんは、積もりつもった憤りを思いっきりぶちまけました。こ の金さんの勇気ある証言は、たいへんな衝撃をもたらしました。   韓国では民間による「挺身隊申告電話」がもうけられるや、勇気づけられた「慰安 婦」がぞくぞくと名乗り出ました。文さんもそのひとりです。金さんの話を聞いて涙がと まらず、ついに決心したとのことでした。   衝撃は日本にも伝わりました。日本政府は史実の隠蔽が常套手段なのか、ろくな調査 もせず、加藤紘一官房長官が「慰安婦」は民間業者がやったもので、政府は無関係とする 無責任な見解をだしました。   その一方で、日本にも良心的な学者はいるものです。中央大学の吉見義明教授はこう 語りました。  「(研究の)直接のきっかけは金ハクスンさんが名乗り出て、その訴えているところを 見て、調べてみようという気になったのです。実際に被害者が名乗りでたことに対する衝 撃は大きかったですね。   彼女は、事実関係を明らかにしたいということと、事実を日本の若者たちに知ってほ しいということを訴えていましたので、事実関係を明らかにするのは歴史家の役割かなと 思って調査を始めたんです」   吉見氏は、日本軍の機密文書などを丹念に研究して「慰安婦」の成立時期や募集方法、 「慰安所」の運営体系などを明らかにしましたが、その一端をこう語りました。  「実際に朝鮮半島で何が起きたかというと、最初は総督府が業者を選定して集めさせる わけですけれども、集めていく過程でもっともありうる形は人身売買ですね。業者が親に 前借金を与えて連れて行く。   もうひとつは、慰安所とはどういう所なのかをきちんと説明せずだまして連れて行く、 だましてというのは誘拐になるわけですけれども。またある場合には拉致ということが あったと思います」   吉見氏の画期的な研究により、日本軍「慰安婦」の実におぞましい歴史が明るみにだ されました。最初の「慰安所」は1932年ころ上海で設立され、おもに日本人「売春婦」が 集められました。   1937年、日本は中国侵略のボルテージをあげ、日中戦争に軍を大幅に増派しましたが、 そのころから軍が本格的に「慰安所」をつくるようになり、それにあわせて朝鮮半島で 「慰安婦」が大々的に集められるようになりました(注1)。   朝鮮総督府の御用紙である毎日申報には「徴用とはちがう 行こう女子挺身隊」「内 鮮一体 挺身隊で技術と労力の交流」「出でよ半島女性たち」「白衣天使募集」などと、 美辞麗句で少女たちに体制奉仕をよびかける活字が踊りました。   日本軍が「慰安婦」を必要としたのには切羽詰まった事情がありました。まず、日本 軍による強姦が問題でした。これは何よりも中国人の反日感情を極度に刺激しました(注 2)。   つぎに、兵士の性病も問題でした。性病のまん延で戦力が半減するというデータも あったようでした。そうした問題に加え、戦闘能力を維持するには兵士にいっときの解放 感を与える慰安施設が不可欠という理解のもとに、日本軍により「慰安所」が作られ管理 されました。   そうした実態を明らかにし、日本政府の誤認を覚醒させたのが吉見氏でした。吉見氏 は日本軍歩兵第九旅団の陣中日誌(1938)に書かれた文などを番組で具体的に示しました。 そこにはこう書かれていました。  「強烈な反日意識を激化せしめる原因は 各所に於ける日本軍人の強姦事件が全般に伝 播し 実に予想外の深刻なる反日感情を醸成せるに在りと謂う・・・速に性的慰安の設備 を整え・・・」   日本軍は、兵士の強姦などにより対日感情が悪化するのを防ぐために、積極的に「慰 安所」を設置した事実が明白になりました。これは単に第九旅団にかぎられたことではな く、北支那方面軍参謀長による指示「軍人軍隊の対住民行為に関する注意の件 通牒」に もとづく組織的なものでした(注3)。   これらの資料をもとに、吉見義明氏は日本軍の関与や責任をこう語りました。  「慰安所をつくる時には、たとえば建物は軍が提供するわけですね。内部を改造する場 合も軍がやります。それから料金も軍が決定する。それからどの部隊が何曜日に利用する のかも全部決めていく。   それから業者には、そこに入っている女性は名簿を含めて全部ださなければならない、 売り上げなんかもチェックするということをやっていたと思うんですね。   ですから仮に慰安所で問題が起こったとすれば、業者にももちろん責任はあると思い ますけれども、慰安所制度をつくり運営した主体は業者ではなく、軍ですから・・・主要 な責任は軍にあるということになると思いますね」  「慰安所」では軍により「慰安所規定」が作られ、利用料金や時間、各部隊の利用日、 避妊具の着用などがきっちり定められました。料金は「慰安所」経営者に払われたので、 結果的に徐ハルモニたちはほとんどお金をもらえなかったようでした。   また、規定では避妊具の使用が義務付けられていても、避妊具「さくら」の使用を嫌 う軍人もおり、そのため妊娠した「慰安婦」もいたようでした。しかし、日本軍の「慰安 所」で出産は許されるはずがありません。子どもに最後まで固執した「慰安婦」は銃殺さ れたと、文ハルモニは証言しました。   軍は性病にはことさら神経を使い「慰安婦」に週1回の検査を実施しました。性病が みつかった「慰安婦」は休むことになりますが、これはかえって歓迎されたようです。   徐ハルモニは、台湾で性病が発見されることをいつも願っていたとのことでした。一 日に何十人もの軍人を相手にするくらいなら、病気で休んだほうがマシなことはいうまで もありません。   余談ですが、これまで見てきたように「慰安所」の設立や運営に関する日本軍の関与 が、吉見氏の研究などによって次第に明確になるや、日本政府は政府責任を認める河野一 郎官房長官の談話を公表し「お詫びと反省の気持ちを」を明らかにしました(注4)。   それ以前に、金学順さんたち犠牲者は補償を求め、被告を日本国として東京地裁に提 訴しました。ここまでこぎつけるには韓国挺身隊問題対策協議会や日本の市民団体などの 積極的な活動があったことはいうまでもありません。しかし、裁判所は被告側が明確でな いという理由で受付けられませんでした。   ハルモニたちは、社会正義を求める多くの人たちに暖かく支えられてきましたが、93 年には韓国の仏教関係団体が、ハルモニたちが名乗りでた後にも安心して暮らせるように と「ナヌムの家」を用意しました。そこのハルモニたちは毎週水曜日に日本大使館にデモ をおこなっているのはよく知られているとおりです。そのデモも600回を数えました。  「ナヌムの家」の入口には少女の銅像が立っていますが、これは人一倍思いやりが深い 金順徳ハルモニが描いた絵「未完に咲く花」の少女をモデルにしました。彼女は雑談でこ う話しました。  「自分は死んで生まれ変われるなら、男に生まれて軍人になりたい。軍人としてこの国 をよく守りたい。奪われて踏みにじられたのが余りにも悔しく、痛恨にたえない」   金さんは、国を失ったのがよほど悔しかったのでしょう。本来なら田舎で田畑を耕し、 女性として平穏な生活を送っていたはずなのに、国を失ったため、そのしわ寄せの極限を 「慰安婦」という姿で、ひたすら体を張って受けとめざるをえない、苛酷な人生をしいら れました。   彼女たち「慰安婦」は95年に北京で開かれた世界女性大会でも「女性人権侵害のもっ とも悲惨な例」として認識されました。   金ハルモニは昨年亡くなられましたが、はたしてあの世で軍人の道をめざしているで しょうか。ともかく、冥福をいのります。   こうしてまた一人ハルモニが世をさりましたが、金順徳ハルモニにしても金学順ハル モニにしても、日本政府からは謝罪や補償を一切受けられませんでした。   日本政府の立場は、1965年の日韓条約で韓国人の請求権はすべて消滅したと主張し、 「慰安婦」に対しても法的責任は一切ないとしました。その一方で、残る道義的責任をは たすため、日本国民から寄付をつのり「女性のためのアジア平和国民基金」を設立し「慰 安婦」に「償い金」を支給してきました。   しかし、これには日本政府の謝罪がないため、多くの韓国人「慰安婦」が反発しまし た(注5)。金学順ハルモニは、こう言い残して亡くなりました。  「(日本政府から)謝罪を受けなければならない。はっきりと。日本がおこした戦争だ。 謝罪がなくてなるものか。こんなに人生をめちゃめちゃにして、なぜ謝罪をしないのだ!」   日本軍兵士の公衆便所として扱われ、女性としてもっとも苦難にみちたイバラの道を 歩んだハルモニにとって、傷ついた心をいやすのは国民基金などの「慰労金」ではないよ うです。「青春を返せ!」が心の底からの叫びであり、ハルモニに何よりも望まれるのは、 彼女たちを性奴隷におとしいれた日本政府の謝罪です。   この「慰安婦」問題は2000年「女性国際戦犯法廷」でも扱われました。そこで韓国・ 北朝鮮の南北共同検事団は日本政府の責任をこう追求しました。 1.日本軍慰安所の政策樹立と施行 2.韓国人「慰安婦」の強制連行 3.「慰安所」における強姦、拷問、傷害、故意の身体障害、殺人、虐待などの犯罪   検事団は証人に韓国の文ピルギさん、北朝鮮の朴ヨンシムさんをたてて上記の犯罪事 実を立証しました。その結果、6か国からなる「女性国際戦犯法廷」はヒロヒト天皇に有 罪を宣告しました。その場面は、最近のNHKドキュメンタリー番組では政治家の圧力に より放送されなかったようです。   この市民法廷について韓国の出席者はこうコメントしました。  「この世に正義は生きています。ヒロヒトは有罪判決を受けたし、日本国は責任が問わ れました」   こうした国際世論を日本政府は受けいれ「慰安婦」にきちんと謝罪することを願って やみません。ハルモニたちは高齢のため、年毎に少なくなっています。韓国で名乗り出た 「慰安婦」は215名で、そのうち半分近い91名が3月現在でなくなりました。彼女たちが生 きている間に日本政府は何としても謝罪すべきです。 (注1)半月城通信<麻生軍医と理想的な「従軍慰安婦」> (注2)半月城通信<南京レイプと慰安所、南京虐殺60周年(7)> (注3)軍人軍隊の対住民行為に関する注意の件 通牒  昭和13(1938)年6月27日   北支那方面軍参謀長 岡部直三郎 1.軍占拠地の治安は・・・ 2.治安回復の進捗遅々たる主なる原因は・・・ 3.由来 山東、河南、河北南部にある・・・自衛団体は古来 軍隊の掠奪 強姦行為に対 する反抗熾烈なるか 特に強姦に対しては各地の住民一斉に立ち 死を以て報復するを常と しあり・・・従て各地に頻発する強姦は単なる刑法上の罪悪に留らず 治安を害し軍全般 の作戦行動を阻害し 累を国家に及ぼす重大反逆行為と謂うべく 部下統率の責にある者は 国軍国家の為め 泣て馬謖を斬り 他人をして戒心せしめ 再びかかる行為の発生を絶滅す るを要す 若し之を不問に附する指揮官あらば 是不忠の臣と謂わざるべからず 4.右の如く 軍人個人の行為を厳重取締ると共に 一面成るべく速に性的慰安の設備を整 へ 設備の無きため不本意乍ら禁を侵す者無からしむるを緊要とす 5.右の外・・・ (カタカナはひらがなに変換) (注4)外務省<慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話>1993.8.4 (注5)半月城通信<国民基金の苦衷、「従軍慰安婦」100> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    台湾の「理想の慰安婦」 2005.5.12 メーリングリスト[zainichi]   **さん、こんばんは。半月城です。   RE:[zainichi:28777] > 恒久的駐屯地に常駐している(移動がありえない)いわば安全地帯にいる慰安婦は従 軍慰安婦にならないと考えているのですが、的はずれな質問だったでしょうか。   日本軍が駐屯した場所では、台湾などの「安全地帯」であれ「慰安所」は存在したよ うです。台湾で李容洙さんが特攻隊兵士相手に「慰安婦」生活をしいられた過去を「英文 中国日報」はこう伝えました。           ---------------------------- 「慰安婦」日本の慰安所を再訪   (China News、英文中国日報,1998.8.23)   昨日、韓国人の元「慰安婦」は、台湾北部にある新竹空軍基地の東ウィン グが世界第二次大戦当時、日本帝国軍により設けられた軍慰安所であることを 確認した。   李容洙(71)はかって日本軍の性奴隷として足かけ三年間従事した場所 を涙のうちに探しだした。   その場所は現在、中華民国空軍の将兵用三階建ての寮になっていた。彼女 は、1944年(43年の間違い)のある夜、韓国の故郷からどのようにして 日本軍により誘拐され、いかにして日本軍の性奴隷になったかを涙ながらに語 った。   彼女が、日本空軍(ママ)カミカゼ隊の駐屯する見知らぬその地の慰安所 に送られた時はわずか数え年16歳であった。李は、ハセガワという日本人将 校からそこは台湾北部の新竹であると聞かされて、初めてその地名を知った。   李は日本軍慰安所の生活を悪夢として語った。彼女は木造二階建ての家に 住まわされた。彼女は慰安所の前100mくらいの範囲で動くことを許された だけなので、思いだせるのは青い野原と近くを流れる小川くらいである(注1)。          ----------------------------   李容洙さんは韓国の大邱から中国の上海へ、そして現在はシリコンバレーとしてしら れる台湾の新竹の「慰安所」へ連れて来られたようでした。   そうした「慰安所」では主に朝鮮半島から連行された女性が多かったのであり、秦郁 彦の「従軍慰安婦の過半が日本人」というのは疑問です。   ただ、日中戦争が本格化し始めた1938年ころは、急いで大量の「慰安婦」が求められ たので、内地でも内務省通達「支那渡航婦女の取扱に関する件」(38.2.23) や、派遣軍宛 の陸軍省通牒「軍慰安所従業婦等募集に関する件」(38.3.4)にみられるように日本人もお おぜい集められたようでした。そのころまでは日本人が多かった可能性もあります。   しかし、38年に多くの慰安婦を日本内地のみから集めるのは不可能に近かったようで、 千田氏はこう記しました。。        --------------------    日本国内で集めるとしたら、常識からすれば売春経験者から集めることになるが、 当時の日本国内の売春婦の数は、公娼・私娼を合わせ25万人から30万人とされていた。   これから3万人ないし4万人を引き抜くのは無理があったし、といって一般婦人から 募集するには極めて問題があり、社会問題になりかねない。さらに日本内地の売春婦の多 くは麻生レポートに見るごとく疲れきった性病経験者であり、慰安婦として適当と思われ なかった(注2)。        --------------------   麻生レポートとは1939年に作成された具申書「花柳病の積極的予防」をさしますが、 麻生軍医は上海で朝鮮人慰安婦80名、日本人慰安婦20名あまりの性病検査を行った体 験などをもとに具申書をまとめました。   それによると、内地出身の「従軍慰安婦」は性病の急性症状こそなかったものの、局 部に性病の「烙印」があるようないかがわしい者ばかりで、とても「皇軍兵士への贈り物」 としてはふさわしくないので、内地で喰いつめたような娼婦を日本の最終出港地で「淘 汰」するよう提言しました。   一方これとは対照的に、朝鮮人慰安婦は若く、かつ「初心者」が多いせいか、花柳病 の疑いある者はほとんどいないので「従軍慰安婦」として理想的であるとほのめかしまし た(注3)。        --------------------   こうした提言に加え「銃後」に対する配慮から日本人「慰安婦」は遠ざけられたよう でした。兵士が出征先で日本人「慰安婦」に出会ったとき、その兵士にもしかして自分の 妻や娘も生活のために「慰安婦」になっているのではないだろうかという疑念をいだかせ たら戦意や士気に影響します。そうした理由もあって日本人は避けられ、朝鮮で「慰安 婦」がかり集められたようでした。   こうして「慰安婦」として理想的な彼女たちは「皇軍兵士への贈り物」にされ、「衛 生的な公衆便所」として性奴隷の地獄をのたうちまわる日常を強いられたのでした。 (注1)戦争犠牲者を心に刻む会編『私は「慰安婦」ではない』東方出版,1997  半月城通信<台湾の慰安所、「従軍慰安婦」99> (注2)千田夏光『従軍慰安婦』三一書房 (注3)半月城通信<「従軍慰安婦」58,麻生軍医と理想の「従軍慰安婦」>


    竹島=独島と『隠州視聴合記』『大日本史』 2005/ 5/ 5 Yahoo!掲示板「竹島」#9290   te2222000さん、はじめまして。半月城です。   日韓の政府間で『隠州視聴合記』の解釈が対立しているだけに、その原典に直接あた り、実証的に研究を深めるのは意義深いことです。   特に同書(1667)は地方政府の公文書という性格を有するだけに、もし同書において竹 島=独島が日本領であるという記述が明確であれば、これは日本政府にとって「固有領 土」の有力な根拠になります。そのため、かつての日本政府も同書を前面にだしていまし た(注1)。   逆に同書において、松島(竹島=独島)が異国の地であると判明すれば、これは日本政 府にとって打撃になります。同書は両刃(もろは)の剣といえます。   ところがどうしたことか、最近の外務省のホームページにはもっとも「有力」な根拠 であるはずの『隠州視聴合記』の記述がまったくありません(注2)。ふしぎです。外務 省は同書をもはや無益と判断したのでしょうか。   さらに「竹島日本領派」の学者である塚本孝氏の「竹島=独島領有権問題」レビュー には『隠州視聴合記』の記述がないばかりか、はては外務省のブレーンであった川上健三 氏の著書は『隠州視聴合記』を日本領の根拠として扱いませんでした(注3)。なにやら 『隠州視聴合記』は日本にとって不利な材料ではないかと推測されます。   その理由はふたつ考えられます。 【理由1】   私は同書にある「知夫郡 焼火山縁起」の記述に注目しています。そこで竹島(鬱陵 島)は「伯耆国の大賈 村川氏、官より朱印を賜り、大舶を磯竹島へ致す(注4)」と書か れました。   これから著者の斉藤豊仙は、磯竹島、すなわち竹島(鬱陵島)を朱印船がいくような 島と理解していたことがわかります。朱印船とはいうまでもなく、外国へ渡航することを 江戸幕府から許された船をさします。  そうなると、竹島(鬱陵島)は異国の地であり、同書における記述「日本の北西地は この州をもって限りとなす」の「この州」は竹島(鬱陵島)ではなく、やはり隠州になり ます。 【理由2】   「大日本史」によれば、『隠州視聴合記』からは竹島(鬱陵島)と松島(竹島=独島) は隠岐国すなわち隠州付属ではないということが読みとれます。これについてはすでに詳 述したので(注5)、ここでは要点のみを書きます。『大日本史』は隠岐国についてこう 記しました。        -------------------- 『大日本史』巻308,志3、隠岐国4郡  隠岐の国、下  ・・・  およそ4島、分けて島前、島後という(隠州視聴合記、隠岐国図、属島は179で、総 称して隠岐小島という)。  別に松島、竹島があり、これに属する(隠岐古記、隠岐紀行、案ずるに隠地郡の福浦よ り松島に至るには海上69里、竹島に至るには100里4町である。韓人は竹島を称して 鬱陵島という。すでに竹島といい、松島といい、我が版図となした。智者を待つが知れな い。ついては、以て考えに備える)。        --------------------   同書は『隠州視聴合記』の記述を引用したときは松島と竹島を隠岐国に入れず、それ と別に隠岐古記(1823)や隠岐紀行を引用してはじめて松島、竹島を隠岐国所属としました。 しかも、それらの史料においてなぜ松島、竹島が「我が版図」になったのかよくわからな いので識者を待つと率直に記しました。   これは、大谷家や村川家による竹島(鬱陵島)渡海事業、すなわち竹島(鬱陵島)侵 略の実績が長年つみかさねられた結果、隠岐国の人々が両島をおのずと隠岐国所属と考え るようになったことを反映したと思われます。 【長久保赤水】   以上のように『隠州視聴合記』からは、竹島や松島が隠岐国所属であるとするのは困 難であることが明確になりました。   その考えは長久保赤水の地図に反映されました。赤水は『隠州視聴合記』を参考にし て「日本輿地路程全図」を作成しました。赤水図で竹島の脇に記された「見高麗 猶望雲 州隠州」は、『隠州視聴合記』の記述「見高麗 如自雲州望隠岐」を引用したとみられま す。   赤水は『隠州視聴合記』の解釈を踏襲してか「日本輿地路程全図」にて松島、竹島を 暗に異国領と表現しました。すなわち、幕府官許(1778)後の彩色した地図において松島、 竹島は異国同様に彩色されませんでした(注6)。   それを推しすすめ、竹島(鬱陵島)を明確に朝鮮領と表現したのが林子平でした。子 平は赤水図を参考にして『三国通覧図説』の付録「三国接壌図」を作成しましたが、そこ において竹島(鬱陵島)のわきに「朝鮮ノ持ニ」とわざわざ記しました(注7)。竹島(鬱 陵島)を朝鮮領と断定したことが明白です。   なお同図では、松島(竹島=独島)が描かれたのかどうか判然としません。竹島(鬱陵 島)のそばの小島が松島でないのなら、松島は林子平の眼中になかったといえます。いず れにせよ、松島、竹島は異国という赤水の暗黙の認識に影響ありません。   さらに、そうした長久保赤水の認識が『大日本史』に反映されたようでした。赤水は 「日本輿地路程全図」作製後は水戸藩において『大日本史』の地誌編纂にたずさわったよ うで、かれの子孫である長久保光明氏はこう記しました。        --------------------  『大日本史』の地理志草稿は赤水自筆の漢文体が10数冊残っている。天明6年(1786)に 赤水(70歳)は、地理志編修に従事し「彰考館編修」の職名で致仕(退官)する81歳まで 10年余りを侍講の傍ら、日本68か国の各郡村の由来・名所旧跡などの地誌を 諸資料を閲 覧して要約した。  ・・・   十数冊に及ぶ草稿は、詳し過ぎて『大日本史』には不採用となった。明治時代にはい り栗田寛(彰考館編修のち東京大学教授)の新たな編修で、「国郡誌」の名称で、大日本 史に集録された(注8)。        --------------------   赤水の彰考館時代の原稿をもとに『大日本史』の地誌が改めて編集されたようでした。 その際『隠岐古記』など、ポスト赤水の史料が加えられたようです。   以上のように、『隠州視聴合記』の記述で松島、竹島は異国の地であるという解釈が 赤水図や『大日本史』に受けつがれたようでした。   余談ですが、外務省のホームページは「竹島の領有権を確立していた(注2)」根拠の ひとつに赤水図をあげていますが、なんともコッケイです。以上のような考察からすれば、 赤水は松島(竹島=独島)を異国の地と考えていたのですから。ここでも根拠薄弱な史料を 領有の根拠にしているようです。   いろいろな史実が判明するにしたがい、かつての外務省の見解がしだいにくずれてい くようです。 (注1)塚本孝「竹島=独島領有権をめぐる日韓両国政府の見解」『レファレンス』2002.6, P53   日本政府の見解  「『隠州視聴合紀』(1667年)も、松島(今の竹島)及び竹島(鬱陵島)をもって日本 の北西部の限界と見ている」   半月城の補足ですが、同書は史料によっては『隠州視聴合記』と記されます。現在は 両方の表記が混用されます。 (注2)外務省ホームページ<竹島問題>の記述  <日本は古くより竹島(当時の「松島」)を認知していた。このことは多くの文献、地   図等により明白である。 (注:経緯線投影の刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の「改正日本輿地路程全  図」(1779年)では現在の竹島を位置関係を正しく記載している。その他にも明治に至  るまで多数の資料あり。)> (注3)半月城通信<下條正男氏への批判、『隠州視聴合紀』> (注4)内閣文庫『隠州視聴合記』知夫郡焼火山縁起の記述  「伯耆国之大賈 村川氏 自官賜朱印 致大舶於磯竹島」 (注5)半月城通信<于山国の歴史、『大日本史』2> (注6)半月城通信<長久保赤水の地図> (注7)半月城通信<林子平の地図> (注8)長久保光明「長久保赤水の日本地図編集のあらまし」『歴史地理学』第127号,P25 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    「竹島渡海免許」と斉藤豊仙 2005/ 5/ 8 Yahoo!掲示板「竹島」#9346   半月城です。   竹島(鬱陵島)渡海免許について議論を深めたいと思います。   te2222000さん、Re:9298 > 素人の勝手な空想になりますが、実は竹島渡海免許にも赤い判子が押されていたため  に斉藤豊仙はそれを「朱印」と表現したまでで、日本史上の「朱印」という用語とは関  係ないということがあるかもしれません。  『隠州視聴合記』の著者である斉藤豊仙が見たであろう文書は、実は竹島渡海免許の写 しなので、そこに「赤い判子が押されていた」可能性はないようです。   竹島渡海免許は、幕府老中の連署という形で鳥取藩主である松平新太郎にだされまし た(注1)。そのオリジナルの文書は鳥取藩で重要書類として大切に保管されたでしょう から、それを斉藤豊仙が目にできるチャンスはなかったと思われます。   さらにいうなら、そのオリジナルにも「朱印」はなかったようで、後日、鳥取藩は竹 島(鬱陵島)渡海に関する幕府への回答書において「右島江 渡海付 御朱印は無御座 候・・・被成御奉書候」として「朱印」はなかったと答えました(注2)。「朱印」は特 別な場合に使用されたので、それは特別な意味をもちます。老中の奉書すら朱印ではな かったようでした。   村川家は竹島(鬱陵島)渡海時にその奉書の写しを携行したようで、そうした事情が、 村川家が朝鮮へ漂流したときに明らかにされました。それを池内敏氏はこう記しました。        --------------------   寛永14(1637)年6月29日、竹島渡海を終えて伯耆米子に帰ろうとした村川市兵衛船の 30人が朝鮮半島に漂着した・・・。対馬藩の公式文書には「伯耆ノ国之船、竹嶋ニ商売ニ 参候船、朝鮮蔚山ニ流著候」「磯たけニ参候船、朝鮮ニなかれ候」などと記載された事件 である。   この漂流民たちを取り調べた際に、その所持品の中に「松平新太郎殿へ参候 御連署 之写」のあることが対馬藩の記録に残されている。これは右の「竹島渡海免許」の写と考 えてよかろう。竹島渡海にあたって写を携行したのである(注3)。        --------------------   斉藤が竹島(鬱陵島)渡海免許の写しをみて「村川氏、官より朱印を賜り、大舶を磯 竹島へ致す」と記録し、村川家の大船を朱印船のように考えたのは、朱印状の形式をよく 知らなかったこともあるでしょうが、さらに下記の事情もあったものと思われます。   前回書いたように、斉藤は竹島、松島を隠州所属と考えていなかったようです。 te2222000さんは『隠州視聴合記』の解釈で「竹島、松島は隠州に含まれる」という説に ついて疑問点を述べておられましたが、そのとおりで、一般にも異論はほとんどありませ ん。   te2222000さんは、私の半月城通信を読んでおられるとのことなので、あるいはお読 みかもしれませんが『隠州視聴合記』における竹島、松島が隠州に含まれないという解釈 は、日本、韓国政府双方で一致しているようです(注4)。   日本政府は、竹島が隠州に含まれないからこそ「此州」をわざわざ「この島」と読み、 それを日本の西北の限界としました。もし、竹島が隠州に含まれるなら「此州」が「隠 州」であっても一向にかまわないので、あえて「此州」を「この島」などと強弁する必要 はありません。くだんの下條氏ですら、竹島が隠州に含まれるとの我田引水はしていない ようです。   なお、竹島、松島が隠州付属でないのなら、どこの所属でしょうか? 天領? 当時、 隠州自体が幕府直轄地になり、松江藩に預けられました。それと別に、さらに竹島が別の 幕府直轄地であったとは考えられません。そもそも、幕府自体「竹島一件」の際、竹島、 松島をてっきり鳥取藩所属と思いこんでいたくらいでした。   封建時代、領主なき土地はありえません。また、村川家などの町人が領主になれない のはいうまでもありません。そうなると、斉藤豊仙は竹島、松島を異国と考えざるをえな かったのではないでしょうか。 (注1)<日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺>  読み下し文は半月城通信<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2)> (注2)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000, P53 (注3)池内敏「竹島渡海と鳥取藩」『鳥取地域史研究』第1号,1999,P32 (注4)半月城通信<『隠州視聴合紀』の読み方>


    「竹島渡海免許」の性格 2005/ 5/ 8 Yahoo!掲示板「竹島」#9347   半月城です。   RE:9303, VIVA_VIVA_21さん >よって、鬱稜島渡航への朱印が朱印船貿易制度の一部をなすが如き論調はまったくの欺  瞞、妄言、絵空事です。   これは私の書き込みに対するコメントのようですが、これは相当な誤解ではないで しょうか。   私の論点は、斉藤豊仙が『隠州視聴合記』で「村川氏、官より朱印を賜り、大舶を磯 竹島へ致す」と記録したのは、村川家の大船を「朱印船」のごとく考えたためではないだ ろうかという点にあります。   竹島(鬱陵島)への渡海船が、朱印船貿易制度の朱印船だったかどうかを問題にして いるのではありません。竹島渡海免許による船が朱印船でないことは、すでに下記のよう に記したとおりです。        +++++++++++++++++++++ 半月城通信<竹島(鬱陵島)渡海事業2>   これ(渡海免許)は朱印状ではなく奉書です。この違いは重要とみえて、鳥取藩が竹 島渡海事業に関して幕府に提出した答弁書では、わざわざ渡海が御朱印ではなく御奉書で あることを強調しました(注)。  「右島江渡海付 御朱印は無御座候、松平新太郎 伯耆国領知の節、渡海の儀付 被成御 奉書候」   朱印状、奉書ともに「異国」へ渡航するに際し必要なことには変わりないのですが、 竹島(鬱陵島)の場合、朱印状を発行できない事情がありました。内藤氏はこう記しまし た。        --------------------   幕府公認の外国貿易には朱印状が交付されていたのが、当時の通例である・・・   もし竹島渡海について朱印状を発給するとすれば、朱印状の書式に即して、「自日本 到朝鮮国 舟也」と記すことになるであろう。しかしそれでは、竹島を朝鮮領と認めるこ とになるし、朝鮮国へは対馬を経由して釜山にしか行けないことになっているので、竹島 行きを朝鮮側が承認するはずもない。したがって、竹島渡海についての朱印状は発給でき なかったのである。   もともと異国への渡海を許可する朱印状は、渡航先は明記されているが、宛先も渡航 期限も示されないのが通例で、渡航が終わるごとに返却する一回限りのものであった。   これに対して奉書船制度における奉書とは異国への渡海許可を記した老中文書で海外 に携行したものとされている。ただし宛先は海外に行く本人であって、竹島渡海免許のよ うに鳥取藩主に宛てたのは異例としなければならない(注1)。        --------------------   奉書も1回かぎりで、渡海ごとに申請する必要があったのですが、竹島の場合、最初 の奉書の写しだけしか発見されていません。2回目以降の奉書は存在しなかったようです。   それに代わる名分が、1626年にはじまる大谷・村川両人の「公儀御目見」だったよう です。これは村川が旧知の阿部四郎五郎の仲介により寺社奉行へ申し入れたものであり、 この「お目見え」により、実質的に竹島渡海を引き続き公儀公認とすることに成功したよ うでした。         ++++++++++++++++++++   なお、奉書船制度についての追加説明ですが、池内敏氏は奉書船と竹島(鬱陵島)渡 海免許との違いをこうつけ加えました。        --------------------   奉書船制度の奉書とは、朱印船が出航のつど、老中から長崎奉行に宛てた奉書を必要 とするというものであったから、宛先は「竹島渡海免許」にあるようなものとはならない (注2)。        --------------------   いずれにしても、竹島(鬱陵島)渡海免許は、従来の幕府の慣行にない異例ずくめの 免許だったようです。 (注1)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000, P53 (注2)池内敏「竹島渡海と鳥取藩」『鳥取地域史研究』第1号,1999,P33 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    竹島=独島と駐日アメリカ大使館 2005/ 5/22 Yahoo!掲示板「竹島」#9494   半月城です。   RE:9455   kwsk_myさん、最近マーク・ロブモ氏により発見された重要な資料の紹介および翻訳 をありがとうございました。しかし、翻訳は機械翻訳のため意味が通じにくいのが難点で す。これを私なりに翻訳してみました。文末に掲げます(注1)。   この資料の価値ですが、サンフランシスコ講和条約前後、竹島=独島問題で迷走を繰 りかえしたアメリカの最終見解を知るのに貴重な資料です。   この文書で特に重要なのは、アメリカが何回か竹島=独島問題を検討した結果、1952 年10月の時点で、リアンコールト岩(竹島=独島)は「ある時期に朝鮮王朝の一部であっ た」という結論を出したことです。   この結論は、ラスク国務次官補の書簡(1951.8.10)と明らかに矛盾します。同書簡は 駐米韓国大使宛てにこう記しました。        --------------------   独島、又は竹島ないしリアンクール岩として知られている島に関しては、この通常無 人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として扱われたことが一度もなく、1905 年ごろから日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。この島は、かつて朝鮮によって領 土主張がなされたとは思われません。        --------------------   この書簡の一年後に、上記のように竹島=独島は「朝鮮王朝の一部だった」と結論を だしたのはナゾです。考えられるのは、竹島=独島問題に熟知していないアメリカがまた もや猫の目のように見解を変えた可能性です。   そうでないとしたら、アメリカは政治的意図をもって韓国へ冷たい書簡を送ったのか も知れません。駐日政治顧問のシーボルトは1949年にアメリカ国務省へ同島の軍事的価値 を強調しましたが(注3)、アメリカはそれを考慮し、同島を日米安保協定下で軍事利用 した方がベターと考え、韓国大使にはつれなく回答したのかもしれません。   いずれにしても、イギリスのみならずアメリカも竹島=独島は朝鮮王朝の一部であっ たとの結論を出した事実は、今後の領有権論争に大きな影響を与えそうです。 (注1)<駐日アメリカ大使館の秘密資料>  ロブモ氏HP<Memo #659, American Embassy to State Department>  秘密(解除) 発信:アメリカ大使館・東京 659 受信:国務省、ワシントン 1952.10.3 件名:リアンコールト岩の韓国人   韓国と日本の間で相次ぐ利害関係の衝突により、両国関係が悪化している。最近、発 生したある事件は、今後より大きな問題に発展しかねない。また、アメリカへ少なからぬ 影響を与えかねない。その事件と言うのはリアンコールト岩(独島)をめぐる領土紛争で あり、日本と韓国の間で領有権をめぐる紛争である。   国務省はリアンコールト岩の歴史をすでに数回も検討したことがあるが、それをここ で詳述する必要はない。その岩はアザラシの繁殖地であり、ある時期、朝鮮王朝の一部で あった。その岩は、日本がその帝国を朝鮮に拡張した時、もちろん朝鮮の残りの領土とと もに併合された。   しかしながら日本政府は、帝国支配の過程においてこの領域を日本の本土に編入し、 ある県の行政下においた。   そのため、日本が平和条約の第2章で「済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対す るすべての権利、権原及び請求権」を放棄することに同意した時、条約の起草者はこの岩 を放棄すべき領域に含めなかった。   日本は、リアンコールト岩に対する日本の領有権は理由のあることとしている。それ に韓国が異議を唱えているのは明白な根拠にもとづくものである。   この岩は韓国と日本の間にある日本海の公海上にあり、国連軍の航空機にとって北朝 鮮での爆撃から戻る際に有用である。この岩は、投下目的地で使用されなかった爆弾を落 とせるレーダー照準点として使うことができる。   リアンコールト岩は無人島で、しかも航路の目印になるので、実際の爆撃の標的とし て理想的である。そのため、日米安全保障協定にもとづく合同委員会による作戦区域の選 定において、この岩は上記の目的に役立ち、日本政府により施設として指定されることが 合意される。   その岩は爆撃目標になっており、危険区域として宣言され、週7日、24時間のベー スで立ち入り禁止区域として知らされている。   この効果に関する情報は、極東司令部やおそらく極東空軍および海軍・極東の下部組 織をつうじて配布された。つい最近、情報は真珠湾にある太平洋艦隊の最高司令官に流さ れた。水兵への通達、あるいは hydropacの形で事務的に配布できるようにするためであ る。 (注2)Foreign Relations of the United States, 1951,Vol4 (注3)半月城通信<愼鏞廈教授の独島百問百答(5)、Q92(シーボルトのロビー活動)>



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