半月城通信
No. 68
2000.4.22
[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 日本の竹島(独島)認識
  2. 隠州視聴合記
  3. 竹島(鬱陵島)への渡海禁止
  4. 松島への渡海免許
  5. 韓国の領有意識
  6. 下條教授の誤読
  7. 江戸時代の地図
  8. 竹島(独島)と赤水図
  9. 林子平の地図
  10. 勝海舟の地図


日本の竹島(独島)認識 hangetsu_joh 2000年2月27日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える。#410   半月城です。江戸時代から明治にかけ、日本は竹島(独島)をどのように みていたのかについて「半月城通信」を抜粋してまとめましたが、ここの会議 室は1回に500文字しか受けつけないとわかり、がっかりしています。   これでは資料をふまえての議論がしにくいので、私にはあまり向いていな いように思えます。でも、ともかく今回は書き上げた文章を十数回に分け投稿 します。   江戸時代の代表的な地図「日本輿地路程全図」(1778版)で朝鮮、竹島、松 島を彩色していないことはよく知られているとおりです(注2)。   この事実から推定すると、当時、竹島(独島)は日本領ではないという認 識が強かったのではないかと思います。その背景には、元禄期に来日した安龍 福の騒動「竹島一件」が影響していたことは確かなようです。   松島(現・竹島=独島)の方はひとまずおくとして、少なくとも竹島 (現・鬱陵島)は竹島一件をめぐる外交交渉の結果、朝鮮に渡したと認識さ れたようでした。   まず徳川幕府の外交文書を集めた『通航一覧』ですが、ここに竹島一件以 後の竹島(鬱陵島)について、こう書かれています(注1)。  「・・・むかし隠岐の辺より渡て、大竹を切来て諸方へ売、甚だ大にしてよ き竹也と云ふ、近来その島へ渡る時は、朝鮮人多く来て、此方の船を見れば鳥 銃を打て船を近づけずと云ふ、この島果して日本の属島なれども、遂に朝鮮に 取られたり」   このころになると、朝鮮政府による竹島(鬱陵島)の空島政策も有名無実 になったようで、鬱陵島には朝鮮人が住みつき、日本の船を銃で追い払うまで になりました。   トラブルを憂慮した幕府は「異国航海」の厳禁を改めて通達しました。そ の政策にしたがって奉行所も密航者を処罰していたようで、内藤教授はこう記 しました(注1)。        -----------   享保年間(1716-35)までは、隠岐や長門から竹島に渡って大竹を持ち帰っ ていたのが、その後は朝鮮人が島にいて、船を近づけると鉄砲を打って島に上 陸させないと記してあります。さきの『朝鮮王朝実録』の記事(1710)に対応す る時期になります。   さらに1723年(享保8)6月には、大阪町奉行所が、7年以前に竹島 に渡って密貿易をしたといって、石見国・大森代官所支配地の3名を捕えて処 分しています。   また1836年(天保7)には石見国・浜田藩会津屋八右衛門の竹島密貿 易事件が発覚します。しかもこの事件は、浜田藩だけでなく、対馬、越後長岡、 北国などでも同様のことが行われていたと、江戸市内でいわれていた事実が松 浦静山の『甲子夜話』に出てきます。   そのためもあって幕府では、1837年2月21日付で、改めて「異国航 海之儀は重き御禁制」と全国に達します。とりわけて竹島については「元禄之 度 朝鮮国之御渡しに相成候以来、航海停止被仰出候場所に有之」と述べてい るのでした。   こうして江戸期の代表的な地図であるとされる林子平の「三国接壌図」 (1785年刊)では、竹島(鬱陵島)と松島(現竹島)を記して朝鮮領を示 す黄色で彩色しています。そして両島のところに「朝鮮ノ持ニ」と特記してい るのです。        --------------------   林子平とほぼ同時期に出版された長久保赤水の地図も、このような時代背 景から、松島・竹島が日本領でないことを色で表現したものと思われます。   そのうえ重要なことに、長久保赤水は、松島と竹島とのすき間をつなぐか のように文字を書き込み、誰が見ても明らかなように松島・竹島を一対に画き ました。   この地図にみられるように、江戸時代は松島・竹島は一対であるという認 識が強く、そのため幕府が竹島(鬱陵島)の領有をあきらめたとき、松島 (現・竹島=独島)も暗に一緒に放棄されたという認識が強かったものと思わ れます。   この認識は当然のごとく明治政府に受け継がれ、内務省から太政官まで松 島(独島)は竹島(鬱陵島)の属島として扱われました。その帰結として「竹 島外一島」は本邦に関係無しとして、明治政府は竹島(独島)の領有を放棄し ました。   明治政府が竹島(独島)を放棄した経緯について、堀和生氏はこう記しま した(注2)。        -------------------- 明治政府の竹島認識   幕末から明治初年にかけて欧米と接触したことにより、日本の鬱陵島と竹 島=独島の認識には甚だしい混乱が生じた。   まず、18世紀末日本海に進出してきた仏・英船が、あいついで鬱陵島を 発見した。ところが、その位置測定が不正確であったため、同島はダジュレー とアルゴノートという別の島として紹介された。   竹島=独島は遅れて、1849年仏船に発見されリャンクールと名づけら れた。そのため、19世紀半ばの欧米の地図には、日本海に鬱陵島が二つあっ たり、竹島=独島と合わせて三島が画かれたりした。   こうして江戸期の代表的な地図であるとされる林子平の「三国接壌図」 (1785年刊)では、竹島(鬱陵島)と松島(現竹島)を記して朝鮮領を示 す黄色で彩色しています。そして両島のところに「朝鮮ノ持ニ」と特記してい るのです。        --------------------   林子平とほぼ同時期に出版された長久保赤水の地図も、このような時代背 景から、松島・竹島が日本領でないことを色で表現したものと思われます。   そのうえ重要なことに、長久保赤水は、松島と竹島とのすき間をつなぐか のように文字を書き込み、誰が見ても明らかなように松島・竹島を一対に画き ました。   この地図にみられるように、江戸時代は松島・竹島は一対であるという認 識が強く、そのため幕府が竹島(鬱陵島)の領有をあきらめたとき、松島 (現・竹島=独島)も暗に一緒に放棄されたという認識が強かったものと思わ れます。   この認識は当然のごとく明治政府に受け継がれ、内務省から太政官まで松 島(独島)は竹島(鬱陵島)の属島として扱われました。その帰結として「竹 島外一島」は本邦に関係無しとして、明治政府は竹島(独島)の領有を放棄し ました。   明治政府が竹島(独島)を放棄した経緯について、堀和生氏はこう記しま した(注2)。        -------------------- 明治政府の竹島認識   幕末から明治初年にかけて欧米と接触したことにより、日本の鬱陵島と竹 島=独島の認識には甚だしい混乱が生じた。   まず、18世紀末日本海に進出してきた仏・英船が、あいついで鬱陵島を 発見した。ところが、その位置測定が不正確であったため、同島はダジュレー とアルゴノートという別の島として紹介された。   竹島=独島は遅れて、1849年仏船に発見されリャンクールと名づけら れた。そのため、19世紀半ばの欧米の地図には、日本海に鬱陵島が二つあっ たり、竹島=独島と合わせて三島が画かれたりした。   この欧米側の情報と日本の旧来の竹島、松島の知識が組み合わさるなかで、 二つの島についての認識が混乱していった。これらの経過は、既に従来の研究 によって明らかにされている。   陸軍参謀部の「朝鮮全図」(1875年)と文部省の「日本全図」(1877年)に は、鬱陵島が竹島と松島と二つに画かれ、現在の竹島=独島はぬけ落ちている。   やがてアルゴノートの存在が否定されると、鬱陵島は江戸時代とは逆に松 島という名称で呼ばれるようになり、日本海中に一島のみの地図が出た。また 民間には三島の地図もあった。   いずれにせよ、70年代から80年初頭にかけて、日本政府の二つの島に ついての認識は相当混乱していた。三島説、二島説、一島説があり、二つの島 の位置関係を正しく押さえていたものは少なかった。   これらの事実は、そもそも竹島=独島を古来の日本の固有領土だとする見 解への反証となるであろう。   日本政府内でこれらの混乱が整理されていくなかで、それらの島の領有権 の帰属も確定されていった。ただ、それを各機関が統一して行ったわけではな いので、個別にみてゆこう。   まず、内務省が二つの島の所属について、最初に決定をせまられた。18 76年内務省地理寮が地籍を編纂するために、島根県に同県の沖にある「竹 島」なる島の情報を照会したことが契機となった。   そこで島根県当局は、17世紀の大谷・村川両家による竹島=鬱陵島開拓 の経緯を取調べ、竹島と松島=独島の略図を付し、「日本海内竹島外一島地 籍編纂方伺」として内務省に提出した。つまり、島根県当局は、松島を竹島の 属島として理解していたため一括して取扱ったのであった。   内務省は、独自に元禄期の「竹島一件」の記録を調べ、島根県の「伺」の 情報と合わせ検討したうえで、この両島は朝鮮領であり、日本のものではない と結論をだした。   しかし、「版図ノ取捨ハ重大之事件」であるため、同省は翌77年3月1 7日太政官に「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を提出して、その判断をあ おいだ。附属書類中で「外一島」とは松島であると明記され、その位置と形状 も正しく記述されていた。   太政官調査局の審査では内務省の見解が認められ、次のような文章が起草 された。  (この文章は、注3に記す)   この指令按は、右大臣岩倉具視、参議大隈重信、寺島宗則、大木喬任によ って承認された。そして、同年3月29日正式に内務省に指令された。   即ち、当時の日本の最高国家機関たる太政官は、島根県と内務省が上申し てきた竹島=鬱陵島と松島=独島をセットにする理解に基づいて、両島を日本 領に非ずと公的に宣言したのであった。この指令は4月9日付で内務省から島 根県に伝えられ、現地でもこの問題に決着がつけられた。  ・・・   外務省がこの二島の所属について、主体的な判断がせまられたのは、76 年からの松島開拓問題に関してである。  ・・・   これらの開拓願いに対して、外務省の官僚にはさまざまな意見があった。  ・・・   これら省内の議論では結論がでず、結局開拓願いの対象松島を実地に調査 することになった。   1880年7月軍艦天城がその松島に赴き測量した結果、同島が鬱陵島で あることが判明した。久しく関心を集めてきた豊かな松島とは、まぎれもなく 朝鮮領であったわけで、ここにおいて開拓願いはすべて却下され、この問題は 終焉した。   いまひとつの竹島=独島は全く不毛な岩礁にすぎず、そもそも何らの関心 の対象となりえなかったからである。   後81年11月29日、内務省が竹島と松島を版図外とした先述の太政官 の指令書きを付して、外務省に鬱陵島の現状を照会したことがあった。それに 対して、外務省は何ら全く異論を申したてていない。   そしてその後も1905年に至るまで、外務省が竹島と松島の領有権を分 けて扱うようなことは決してなかったのである。   海軍については、当時の原文書が残されていないので、その出版物から当 局の認識をうかがうほかない。日本の海軍水路部が主に依拠していた英国版の 海図では、60年代既に二島の所在が確定していた。   そのため、日本の海軍も70年代末にはその点を充分認識していたようで、 80年代の日本製の海図には二島が正確に画かれていた。   しかし、海図は地理的な認識を示すだけなので、海図中の島の所属につい ては、その解説書たる水路誌を重視しなければならない。  ・・・  (海軍は)日本領海を他と区別して『日本水路誌』として独立させ、92年 から順次刊行していった。   この水路誌には、95年の下関条約による日本の新領土台湾や澎湖島、さ らには千島列島最北端の占守島まで載せられているが、反面台湾の対岸やカム チャッカ半島は全然含まれていない。すなわち、この『日本水路誌』の扱う範 囲は、あくまで日本の領土・領海に限定されていたのである。   そして重視すべきは、この水路誌の日本海のところで、リャンクール島= 独島に全く触れていない点である。当時の日本の海図には、同島は正確に位置 づけられており、その所在を知らなかったわけではない。   図2のとおり、この水路誌の1897年版の付図と、同島を日本に領土編 入した後の水路誌の付図を対照させれば、事態は明白である。即ち、1900 年の時点で日本の海軍水路部当局は、明らかに同島を日本領から除いていたの である。   そして他方、日本海軍の『朝鮮水路誌』1894年版と99年版には、鬱 陵島と並んでリアンコールト列岩が載せられている。つまり19世紀末に、日 本海軍の水路部当局が竹島=独島を朝鮮領だと認識していたことは、疑いのな いところである。   以上要するに、明治維新以後日本の政府が、竹島=独島に独自の関心を示 したことは全くなかった。そして、認識の程度に強弱はあっても、日本政府の 関係諸機関のすべてが、同島を鬱陵島と合わせて朝鮮領だとみていたことは明 らかなことであった。        ------------   うえの文に出てくる図2は、残念ながらここに表示できませんが、竹島 (独島)が記載されていない1897年版の付図は、水路部・肝付兼行部長が 編集しました。   したがって、肝付部長は竹島=独島が朝鮮領であると当然知っていたとい えますが、その肝付らは1905年、竹島(独島)の日本領編入をもくろみ、 反対であった内務省を押し切り、中井養三郎に「りゃんこ島領土編入並ニ貸下 願」を提出させました。   その際、肝付は名目上「無主地の先占」理論の適用をぬけぬけと提案しま した。これについて、堀氏はこのように記しました。        ------------   1904年時点で竹島が全く無主地であるという肝付の主張は、先述のよ うに海軍水路部の従来の認識とは明らかに異なるものであった。   にもかかわらず、中井が前年から同島で漁業を始めたという事実をもって、 「無主地の先占」理論の適用を提案したのである。   しかし、これはあくまで表向きの理論にすぎず、日本政府を本当に突き動 かしたのは、山座の発言にあるように、ロシア艦隊に対抗するための施設が必 要だという軍事の理論なのであった。   つまり、竹島の領土編入とは、同時期日本が戦争遂行のため朝鮮各地でそ の主権を侵害しながら行った軍事措置と同様のものであった。   ただそれが、漁場独占をねらった一漁民の動きを利用したがために、単な る占領にとどまらず領土編入の形式をとったのにすぎない。   朝鮮全土の軍事占領が「朝鮮併合」の前提であったことからすれば、この 竹島の領土編入は、その小さなさきがけともいえるのである。   中井養三郎は、先の三人の指示によって、1904年9月29日「りゃん こ島領土編入並ニ貸下願」を、内務・外務・農商務の三省に提出した。そして これを認める形で、1905年1月28日日本政府は同島の領土編入を閣議決 定したのであった。        --------------------   明治政府は、竹島(独島)は朝鮮領であるという認識を持ちつつ、領土拡 張欲から竹島(独島)を日本領に編入したことは、韓国から帝国主義的方法と 批判されても無理からぬことと思われます。 (注1)内藤正中「竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史」   『韓国江原道と鳥取県』富士書店(鳥取)、1999 (注2)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』   第24号、1987 (注3)別紙内務省伺 日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件   右ハ元禄五年 朝鮮人入嶋以来 旧政府該国ト往復之末 遂ニ本邦関係無之   相聞候段申立候上ハ 伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉 此段相伺候也     御指令按   伺之趣竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事   http://www.han.org/a/half-moon/


隠州視聴合記 hangetsu_joh 2000年3月25日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #514   ひたちなか太郎さん、 >隠州視聴合記は鬱陵島が日本領と考えられていた時代の記録です。   隠州視聴合記(1667)は出雲藩士・斉藤豊仙により書かれましたが、斉藤が 鬱陵島を日本領と考えていたのか朝鮮領と考えていたのか、人によって意見が 分かれるようです。問題の記述はこうです。  隠州在北海中・・・戌亥間 行二日一夜有松島 又一日程有竹島・・・  此二島 無人之地 見高麗 如自雲州望隠岐 然則日本乾地 以此州為限矣   末尾に「日本の乾(北西)の地は、此州をもって限りとなす」とあります が、此州を隠州(隠岐)とするのが素直な読み方ではないかと思います。そう すると、竹島・松島は日本領でないということになります。   人によっては、八州を「やしま」と読むように、此州を「このしま」と読 んで、それを竹島(鬱陵島)と解釈し、それを日本領とする人がいるようです が、やや強引な解釈ではないかと思います。   そのような意図なら「此二島 無人之地」も「此二州」と一貫して書くの がスジではないかと思われます。


竹島(鬱陵島)への渡海禁止 hangetsu_joh 2000年3月25日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える  #515   ひたちなか太郎さん >元禄9年の鬱陵島への渡海禁止の通告文ですが、これには松島(現在の竹 >島)の名は全く出てきません。また、鬱陵島を朝鮮にに引き渡す、とも書い >ていません。だから鬱陵島は立ち入り禁止ではあるけれども依然として日本 >領であるという解釈もあり得るし、事実、米子の大谷、村川の両家はそのよ >うに解釈したのです。   ひたちなか太郎さんはわらにもすがる思いで大谷家などの解釈をもちだし たのでしょうが、竹島の領有問題を論じる際に重要なのは、漁師など民間人の 認識や行動などではなく、徳川幕府などの公的機関がどう判断し、どう行動し たかではないでしょうか。   幕府は竹島一件の結果、竹島(鬱陵島)は「遂に朝鮮に取られたり」と結 論づけたのは前に記したとおりですが、この背景には次のように興味ある経緯 がありました。   安龍福に関連した竹島一件処理の際、幕府は竹島(鬱陵島)を鳥取藩付属 と考えていたのにたいし、地元の鳥取藩は自藩の付属ではないと考えていたよ うでした。   幕府の外交文書を集めた『通航一覧』によると、幕府は「御尋の御書付」 で鳥取藩に「因州伯州に付候竹島はいつの頃より両国へ附属候哉」と質問した のに対し、鳥取藩は「竹島は因幡伯耆附属にてはござなく候」と明言し、大谷、 村川の米子町人に対しては幕府の御奉書で渡海が許可されたと回答しました (注)。   この回答が影響したのか、幕府は竹島(鬱陵島)に渡海することを禁じ、 それを朝鮮に知らせました。これで日朝両政府に竹島(鬱陵島)は朝鮮領とい う認識が確立しました。   幕府の決定を鳥取藩は「竹島渡海禁止並渡海沿革」にこう記しました。  「思ふに、幕府当局も初め竹島の事情を詳悉せず、我出漁者の為めに宗氏を して朝鮮に交渉せしも、後竹島は鬱陵島にして、往古朝鮮の属島たり、出漁者 又定住するに非ず、又我藩の支配地たるも非ざるを知るに及び、むしろ事態を 発生せず、無事に問題を落着せしむとせしものの如し」   その後、1723年を初めとして幕府は竹島(鬱陵島)で密貿易した者を たびたび厳しく罰しました。こうした歴史が長久保赤水や林子平の地図に反映 され、竹島、松島は朝鮮領に描かれたと思われます。   その後も竹島での密貿易が絶えなかったようで、あらためて幕府は竹島 (鬱陵島)について「元禄之度 朝鮮国之御渡しに相成候以来、航海停止被仰 出候場所」と通達(1837)し、竹島(鬱陵島)を朝鮮に「御渡し」したことを明 記しました。 (注)内藤正中『韓国江原道と鳥取県』富士書店,1999   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


松島への渡海免許 hangetsu_joh 2000年3月26日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #524   ひたちなか太郎さん、 > 韓国側は、鬱陵島が渡海禁止になったということは、その付属島である松 >島も当然渡海禁止になったのだと主張しています。では聞きますが、なぜ松 >島への渡海免許は鬱陵島への渡海免許とは別に出されたのか。なぜ元禄9年 >の鬱陵島渡海禁止処分に松島が含まれていないのか。   江戸時代、竹島一件以前に竹島(鬱陵島)とはべつに松島(竹島=独島) への渡海免許がだされたのはどうやら確かなようです。   しかし、申請は松島への単独渡航が目的ではなかったようです。元来、松 島は大きな帆船が接岸できるような島ではなく、おもに竹島(鬱陵島)への航 路標識、あるいは緊急避難用として利用されてきたようですが、大谷家は松島 の豊富なアワビに目をつけたのか、同島への渡海免許を取得したようでした。   渡海免許自体は資料として残されていませんが、川上健三によれば、それ をうらづける資料のひとつに、仲介者である亀山の下記書簡(1660)があるよう です。 「来年より竹嶋之内松嶋へ貴様舟御渡之筈に御座候旨 先年 四郎五郎御老中様 へ得御内意申候」   免許取得の際、老中・阿部四郎五郎(注)の口利きがあったようですが、 この手紙の中に「竹嶋之内松嶋」とあるのが注目されます。すなわち、松島は 竹島の付属島のように表現されており、やはりここでも松島・竹島は一対との 認識が強かったようです。   そのような認識ではあっても、万一、免許なしに松島でアワビをとって、 幕府のおとがめを受けたのでは身の破滅なので、やはり渡海免許を取得したほ うがいいと判断して申請したのではないでしょうか。   その後、竹島一件を機に竹島への渡海は禁止されたのですが、このとき松 島への渡海はあからさまには禁止されなかったようでした。しかし、先に書い たように、江戸時代の準官撰地図である赤水図で松島・竹島は一対の朝鮮領と して扱われたことにみられるように、このとき、松島・竹島はともに異国の地 で渡海は困難という認識が事実上確立されたといっても過言ではないと思いま す。 (注)(2004.10.12) 阿部四郎五郎は老中でなく旗本の誤りでした。 また、松島渡海免許は存在しなかったというのが最近の通説です。 <「松島(竹島=独島)渡海免許」> http://www.han.org/a/half-moon/hm091.html#No.656


韓国の領有意識 hangetsu_joh 2000年3月9日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #462   hitatinakatarouさん >百歩譲って、政府が竹島を朝鮮領と考えたとしても、肝心の朝鮮が領有意識 >を持っていなければお話にならないわけです。では当時、朝鮮が国土の範囲 >をどう考えていたのか見てみます。   近代の資料として、鬱陵島を朝鮮の東端とし竹島(独島)を欠落させてい た朝鮮側資料は、ご指摘のものを含めて次の3点くらいでしょうか。  玄釆『大韓地誌』1899年  張志淵『大韓新地志』1907年  崔南善『朝鮮常識問答』1946年   しかし、これらはいずれも民間人が出した書籍で、国家の領有意識とはな んら関係がありません。それに、たかだか2,3の資料で竹島が欠落していた からといって、朝鮮は竹島(独島)の領有意識をもっていなかったなどという 結論を導いたとしたら、あまりにも短絡的すぎるのではないでしょうか。   結論をだすには、関連するすべての古文献や地図などを総合的に判断すべ きではないでしょうか。   地図に関していえば、于山島、すなわち竹島(独島)が記載された地図は、 堀氏によれば数百枚あるそうで、こうした実態こそ朝鮮側の竹島(独島)領有 意識を如実に示しているのではないかと思います。   近代においても、大韓帝国学部の『大韓輿地図』(1898)、同『大韓全図』 (1899)などの官撰地図が于山島を記載しています(注1)。これは国家として の竹島(独島)領有意識を示しているといえます。   逆に、竹島(独島)を明確に日本領としているのは、川上氏の著書をみる かぎり長久保赤水くらいで、他にはほとんどないようです(注2)。その赤水 すら竹島(独島)を日本領としなかったことは #410 に記したとおりです。   これからしても、外務省のいう「竹島は日本の固有領土」という認識は疑 わしいといえます。 (注1)『独島(竹島)』インター出版(TEL075-212-6559)1997,(著者)愼鏞廈 (注2)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院,1996(初版,1966) 竹島(独島)の領有意識 hangetsu_joh 2000年4月1日 #540, #543   くにたかさん、 > 無主地の領有では「実効支配」というのも重要です。日本側はアワビや若 >布を取り、アザラシ猟も竹島周辺で行いました。逆に朝鮮人が一度でも竹島 >に上陸したという記録はありません。あなたはこの事実を一体どう説明され >るのか、聞きたいです。   まず、簡単にいえることとして、島に上陸したかどうかなどというのは、 島の領有になんら関係がないのではないでしょうか?   たとえば、沖の鳥島などは満潮になるとほとんど水没してしまい上陸すら 不可能ですが、それでも日本領に確定しました。他にも上陸できない島は世界 にごまんとあります。   つぎに、記録にないからといって実際になかったとは言い切れません。朝 鮮で竹島(独島)は于山島としてよく知られているうえに、『世宗実録』の記 述どおり天候条件のいいとき鬱陵島から見えるので、鬱陵島民はときには同島 に訪れたと考える方が自然ではないかと思います(続)。   くにたかさんは、竹島(独島)を無主地であったとお考えでしょうか?  歴史上、竹島は無人島ではあっても無主地ではありませんでした。日本ではす くなくとも竹島一件以降は赤水図にみられるように朝鮮領と認識されてきまし た。   また朝鮮側も『世宗実録』以来、于山島(竹島=独島)は自国領であると いう認識をもっていましたが、竹島一件以降は日本がいう松島(竹島=独島) は于山島であるという認識が固まりました。こうした両国の一般的な認識が領 有問題でもっとも重要なのではないでしょうか。   これは、ひたちなか太郎さんの#532へのコメントになるかもしれませ んが、たとえ密貿易の実績を積み重ねたところで「実効支配」につながるもの でもないし、国家間の領有意識になんら影響するものでもないと思います。


下條教授の誤読 hangetsu_joh 2000年4月9日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #566   半月城です。どうやら、くにたかさんは誤解されているようです。 >ハハハッ。于山島は鬱陵島です。   くにたかさんの紹介されたホームページは、おそらく下條正男氏の説をも とに書かれているようですが、同氏の主張は、韓国の古文献で于山島の存在が あいまいだとするもので、于山島=鬱陵島を主張しているわけではないと思い ます。   下條氏の主張は、『春官志』では一島説すなわち于山島=鬱陵島としてい るが、『東国文献備考』輿地考(1770)は『春官志』を参考にしつつ、安龍福の 主張である于山島=松島を考慮し、二島説すなわち于山島と鬱陵島を別な島と して記述したという説です。   また、同じく二島説の『世宗実録』地理志(1432)では于山島のくわしい説 明がないが、そのもとになった『太宗実録』では于山島は鬱陵島近辺の竹嶼で あり現在の竹島(独島)ではないと主張されているようです。   さらに同氏は、東国文献備考は『輿地志』を「書き換え」「改竄」したの だと学者らしからぬものの言い方をしていますが、これは輿地志の解釈をまち がっているのではないかと思われます。   ここで正確を期するために、同氏の主張を引用します(注1)。        -------------------------------------  (書き換えの)痕跡は、次の申景〓の「彊域考」でも指摘することができる。 (〓は、さんずいに睿)  「按ずるに、輿地志に云う、一説に于山、鬱陵島本一島。而(しか)るに諸 圖志を考へるに、二島なり。一つは則ちその所謂(いわゆる)松島にして、蓋 (けだ)し二島は倶(とも)に是れ于山国なり」   となっているからだ。この分註から知れる事は、申景〓自身が引用した 「輿地志」では「一説に于山、鬱陵本一島」と、鬱陵于山同一島説を採ってい るのに、申景〓は古地図や文献に于山島や鬱陵島が描かれていることを理由に、 「輿地志」の字句を勝手に改め、于山島と鬱陵島を別々の島としていた事実で ある。   そればかりか申景〓は、安龍福の供述である「于山」は則ち倭の所謂松島 なり」をあたかも「輿地志」の説のようにして挿入し、于山島を松島(現、竹 島)と臆断しながら、それを于山国に入れていたのである。   韓国政府が竹島の領有権を主張する根拠とした『東国文献備考』の分註は こうして改竄されたものだったのである。        -------------------------------------   下條氏は、輿地志の「一説に于山、鬱陵本一島」という文言から于山・鬱 陵を同一島説と断定していますが、これは誤読ではないかと思います。すなわ ち、輿地志では于山・鬱陵二島説がメインで、一島説はマイナーな見方になる という事実を同氏は見落としているようです。   これは下記の『新増東国輿地勝覧』をみるとはっきりします。そこでも下 記のように「一説于山鬱陵本一島」とありますが、本説は二島が東海沖にある と明白に書かれています。  「于山島 鬱陵島 一云武陵 一云羽陵 二島在県正東海沖・・・   一説于山鬱陵本一島」   また、日本語の用法として一説というのは、一つの説、別の説、異説など を指し、けっして本説を意味しません。「改竄」の用法とともに、同氏の日本 語能力が問われます。   一般に、ある本を書くときは諸資料を取捨選択してつじつまのあうように 書くのが普通のやり方なのに、東国文献備考が『春官志』をそっくり引き継が なかったからといって、その資料を「改竄」呼ばわりするとはずいぶん乱暴な 学者です。   とくに、春官志の記述は後半で于山島を日本の松島としていて(注2)、 日本でいう竹島との関連が不明であり、資料としては欠陥があります。したが って、東国文献備考でそれをそのまま丸写しせず「諸圖志」を参考にするのは 当然です。   それはさておき、下條氏の意見もある点では一理あるようです。中世の朝 鮮政府は竹島(独島)の位置を正確に把握していなかったという指摘はあたっ ているかもしれません。   一般に陸地から遠く離れた無人島をきちんと把握するのは至難であり、日 本でも時代がくだって明治時代ですら混乱があり、勝海舟のように三島説があ ったり、あるいは一島説があったり支離滅裂でした。   そうした認識がどうであれ、竹島(独島)のような無人島の領有問題を考 える際に重要なのは、国家間の認識や外交決着がどうであったかという点にあ ると思います。   したがって、たとえ民間人の安龍福が隠岐島を于山島と誤解しようとも、 結果的に竹島一件を機に「于山はすなわち倭のいわゆる松島なり」という認識 が両国政府間で成立したことはきわめて重要です。   この認識にもとづいて、明治政府は竹島(独島)を放棄する一方、朝鮮政 府は竹島(独島)の領有意識を固めたことはいうまでもありません。 (注1)下條正男「竹島論争の問題点」『現代コリア』98年7・8月号 (注2)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』99.5  (本記事は下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/


江戸時代の地図 hangetsu_joh 2000年3月11日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #477   林子平の『三国通覧図説』(1785)に関して、すでに回答があったかもしれ ませんが、半月城からもお答えします。 >竹島の所に「朝鮮ノ持也」と書いてありますが、 >他に何か書かれています。何と書かれていますか?   竹島のそばに「此嶋ヨリ隠州ヲ望 又朝鮮ヲモ見ル」と書かれています。 この書き方は長久保赤水『日本輿地路程全図』(1775,1779)の影響を受けたよ うです。長久保は、松島と竹島とのすき間をつなぐかのように「見高麗猶雲州 望隠州」と書き、両島を一対にして描きました。   長久保の影響は林子平にとどまらず、中島彭や葎〓貞雅などにも影響を与 え、それらの図にも同じような文言が記されました(注)。 >子平は竹島は朝鮮の領土だと言っておりますが、 >これは明らかに松島(現竹島)ではなくて、竹島(現鬱陵島)です。   そのとおりです。その一方、子平は竹島のすぐ東側に無名の小島を描きま したが、これは、子平が長久保の影響を受けたことからすれば、それは松島 (現・竹島=独島)とみるべきではないでしょうか。   子平が竹島とその属島を朝鮮と同じ黄色で彩色し、緑色の日本領と区別し たのも長久保の影響といえます。#413に記したように、長久保も松島・竹 島を日本領と同じ色に彩色しませんでした。   これらの地図にみられるように、江戸時代、松島・竹島は一対であるとい う認識が強く、そのため幕府が竹島(鬱陵島)の領有をあきらめたとき、松島 (竹島=独島)も暗に一緒に放棄されたという認識が強かったものと思われま す。   とくに長久保の地図は、堀氏によれば官撰地図で、その後も1791年、1811 年と何回も出版されただけに、そこで松島(竹島=独島)が日本領でないとい う認識は重要です。江戸時代は竹島一件以来「松島・竹島は朝鮮の持也」とい う認識が定着したと考えられます。   この認識が明治政府に受け継がれ、同政府は「竹島外一島之儀、本邦関係 無」として、外一島である竹島(独島)を放棄したものと思われます。 (注)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院,1996(初版,1966)


竹島(独島)と赤水図 hangetsu_joh 2000年3月18日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #497   kunitakaさん、 >私も長久保赤水の『大日本輿地路程全図』を論議したいのですが、竹島及び >鬱陵島付近の拡大写真が無いので、コメントが出来ないのです。   江戸時代、赤水の地図は一世を風靡したほどなどで、資料の入手は容易で す。いたるところに掲載されていますが、カラーとなるとさすがに少ないよう です。まさか、日本にとって不利になるからカラーを避けてるわけではないの でしょうが。   そんななかで、赤水図(畳一枚くらい)のカラー復刻版が出版されていま す(注1)。その『改正日本輿地路程全図』を見ると、発行年が天保4年 (1833)の第4版とありました。   初版は安永7年(1778)と書かれているので、この地図は50年以上にわた るベストセラーであることがわかります。しかも「宦許安永7年戊戌2月原 刻」と記されているので、幕府公認の地図であるようです。   hitatinakatarouさん、 >日本輿地路程全図は官撰地図ではありません   厳密にいうと、赤水は江戸幕府の命で地図を作成したのではないので官撰 地図といえないかもしれませんが、官撰地図をもとに作成しているうえ、幕府 から公認されているので準官撰地図といってもさしつかえないようです。   純官撰地図のほうは、慶長の国絵図(1605)、正保の国絵図(1645)、元禄の 国絵図(1697)、享保の改訂図(1719)、伊能忠敬の日本全図(1821)、天保の国絵 図(1831)などが作成されましたが、ひとつとして竹島(独島)を認識した地図 はなかったようでした。   これからすると、江戸幕府は国家として竹島(独島)の領有意識をもって いなかったといえるのではないでしょうか。そのために赤水も日本領の認識が なく、松島・竹島を日本と同じ色に彩色しなかったものと思われます。   hitatinakatarouさん、 >朝鮮本土と同じく無着色であっても、それが直ちに朝鮮領というのは早計です。   おっしゃるとおりです。一枚の地図のみから判断するのは早計です。しか し、その一方で赤水の地図以前すでに松島・竹島は日本領でないという認識が 確立されていたようです。   だからこそ、赤水図の影響を受けた林子平も竹島(鬱陵島)および松島 (竹島=独島)とおぼしき島を三国接壌図で朝鮮領に彩色して描いたものと思 われます。   このころ、徳川幕府ではすでに竹島(鬱陵島)は「遂に朝鮮に取られた り」という結論がでていたことは#411に書いたとおりですが、松島は竹島 と対をなすので、そのとき松島(竹島=独島)も同時に放棄されたと考えるの が自然です。   松島・竹島が対をなすのは赤水図に如実に表現されていますが、名前から して竹島(独島)は松どころか木が一本もない岩島にもかかわらず、松島と名 づけられたのは、竹島と一対との認識が強かったためにほかなりません。   松島・竹島が一対との認識は明治政府に受け継がれ、ともに領土として放 棄されたのはすでに記したとおりです。このように江戸時代から明治にかけ、 竹島(独島)は日本領という国家の認識はほとんどなかったといえます。   梶村秀樹氏は、「竹島は日本の固有領土」という通念が日本国民の間に定 着したのは実は1945年以後のことなのである(注2)と記しましたが、戦 後、日本国民は外務省の宣伝にだいぶ踊らされているようです。   それのみか、福田元首相まで「竹島は一点の疑いもなき日本固有の領土」 と発言し(注2)、歴史的な検証を抜きにして国民をあおったようです。この ように歴史的事実を無視するやり方では、問題をいたずらにこじらせるだけで はないかと思います。 (注1)日本地圖選集刊行委員會『江戸時代 日本全圖歴覧』人文社,1990 (注2)梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店、1992   半月城です。赤水図にある松島・竹島についてコメントします。   hitatinakatarouさん、 >外国領としたら、こんな小島をわざわざ載せること自体が不自然です。無着 >色であることについては、他に解釈の余地があります。   日本近海にある外国の島を日本地図にいっしょに載せるのはべつに不自然 ではないと思います。長久保赤水の地図に載っているのは松島・竹島だけでな く、釜山近くの槇島なども記載されています。それらも、日本領と違って着色 されていません。   このように無着色であることについて、他にどんな解釈の余地があるので しょうか?   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


林子平の地図 hangetsu_joh 2000年3月12日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #484   kunitakaさんは、数多くある地図の中で一民間人が描いた地図、それも誤 りの多い林子平の『三国通覧図説』の地図にえらくご執心のようです。   それに水をさすようですが、竹島(独島)の領有問題に焦点をあてるとき、 子平図は長久保赤水の地図に比べ資料価値はほとんどないに等しいのではない でしょうか。   ま、せっかくのお骨折りなので、枝葉末節かもしれませんが、あえて子平 の地図にコメントしたいと思います。   林子平の地図もかなり研究されているようですが、その成り立ちは、下條 氏によれば次のとおりです(注)。      ーーーーーーーーーーーー   林子平はこの『三国通覧輿地路程全図』を作成することになった背景を、 『三国通覧図説』の題初で次のように述べている・・・  「今新たに本邦を中にして朝鮮、琉球、蝦夷及び小笠原諸嶋の図を明するこ と小子微意あり」。   これによると「三国通覧輿地路程全図」は、日本の地図を中心に、朝鮮、 琉球、蝦夷など別個の地図を繋ぎ合わせ、一図にまとめたものなのである。   そしてそれらの地図は、林子平が「此数国の図は小子敢えて杜撰(ずさ ん)するにあらず」とするように、自らの蒐集に係るものであった。   朝鮮図の場合は、「崎陽人楢林氏秘蔵の珍図」で、それは朝鮮の通訳官が 伝えたものという。『三国通覧図説』の付録にある「朝鮮図全図」がその模写 図である。   ではそうなると、「本邦を中にして」という日本地図は、何を拠所とした のであろうか。林子平は『三国通覧図説』の「題初」で日本地図にふれ、「本 邦の地理を知んと欲するものは赤水の図に因べし」としている。   この「赤水の図」は、当時最も詳密な日本地図として知られた、長久保赤 水の『大日本輿地路程全図』のことである。  ・・・   朝鮮の通訳官が伝えたとする「朝鮮国全図」を見ると、そこには鬱陵島が 描かれているだけで竹島の姿はない。   するとこの「竹嶋」は、林子平が「赤水の図に因べし」とした、長久保赤 水の『大日本輿地路程全図』に拠ったとみてよいであろう。      ーーーーーーーーーーー   下條氏が指摘するように、林子平は朝鮮国全図にある鬱陵島と、赤水図の 竹島、つまりふたつの鬱陵島を『三国接壌図』に一緒に描く誤りをおかしたの です。   一方、松島のほうですが、下條氏は子平図に描かれている竹島付属の小島 については何も記しませんでした。しかし、子平が赤水図をもとに描いている ことを考えれば、その無名の島は赤水図にある松島(竹島=独島)だと考えた 方が自然ではないでしょうか。   素直にみれば、子平はかれが信頼する赤水図から松島(竹島=独島)を意 図的に削除したうえで、赤水図にない小島を根拠もなしにわざわざつけ加えた とは考えにくいところです。   さらに、赤水が松島・竹島の双子島を朝鮮領とした認識を子平もそのまま 受け継ぎ、両島を朝鮮領として描いたと考えるのが自然ではないでしょうか。   ま、よしんば子平の図に松島(竹島=独島)が描かれていなかったとして も、同島は林子平の視点で無視される存在でしかなかったということになりま す。 (注)下條正男「竹島問題考」『現代コリア』1996.5月号(カナはかなに変換)  (本記事は下記ホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


勝海舟の地図 hangetsu_joh 2000年3月26日 ヤフー掲示板 > 地域情報 > 大韓民国:竹島問題を考える #526   ひたちなか太郎さん、 >日本で作成された地図では大日本国沿海略図(1867年)にすでにリアン >クール岩が見えます。だから、半月城さんが言うように「明治政府はそれ以 >外の島が隠岐の沖合にあることを認識していなかった」というのは間違いで >すね。   初期の明治政府は、隠岐沖合にあるのは松島・竹島のみであると正しく理 解していたのですが、そのうちに三島を描いている誤った欧米の地図に惑わさ れ、それと対照できなかった島の名を、原語をもじってリャンコ島と名づけま した。すなわち、リャンコ島は明治政府にとって新島と思われていたのです。   これは、勝海舟による『大日本国沿海略図』に如実に示されています。海 軍の母胎になった軍艦操連所の要職もつとめた勝は、隠岐沖合に誤って三島を 描きました。その名前のなかで、竹島、松島は江戸時代からの認識を受け継い でいましたが、それ以外の認識がなかった三番目の島をリエンコヲルトロック として地図を作製しました。   しかも、ホウルリロックを松島として、リャンコ島と区別しました。この ように明治時代初期、この地図のみならずすべての地図は松島・竹島に関し混 乱の極にありました。   その混乱のなかで、外務省記録局長渡辺洪基は「ホルネットロックスの我 国に属するは各国の地図皆然り」と記しましたが、もちろんそのような外国の 地図は一枚もありません。   なお、渡辺のいうホルネットロックスとは、勝のいうホウルリロックと同 系統の資料による島と思われますが、勝のいうホウルリロックは現在の竹島 (独島)ではなく、鬱陵島をさします。   その後、明治政府は島名の混乱を整理するために軍艦天城を派遣して測量 を行ったのですが、その結果として松島・竹島が「古来我版図外の地」である ことを再確認しました。すなわち、隠岐沖合に日本の領土はないという結論を 再認識しました。  (本記事は下記のホームページ「半月城通信」に転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/


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