半月城通信
No. 82

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  1. ナゾの秦王国と宇佐八幡宮
  2. 秦王国の所在地
  3. 蒙古襲来と珍島物語(1)
  4. 蒙古襲来と珍島物語(2)
  5. 「奈良」は朝鮮語か
  6. 島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(1)
  7. 島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2)
  8. 島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(3)


ナゾの秦王国と宇佐八幡宮 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#2403 投稿者: hangetsujoh 2001年6月09日 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#2403に書いた文を転載します。   半月城です。usokirai_newさん、ナゾの秦王国についてのコメント #2391 をありがとうございます。   随の裵(はい)世清の紀行文に書かれた秦王国の位置は、マイナーな江上 氏の奈良説以外に周防説などもありますが、やはりご指摘の豊前説が有力では ないかと思われます。古くは直木氏もこう記しました(注1)。        --------------------  『隋書』には、「又東して秦王国に至る。其の人、華夏に同じ」とある。華 夏は中華すなわち中国のことだが、中国系帰化人が日本にたくさん来ていたと は思われない。中国と似た風俗をもつ朝鮮系帰化人のことであろう。   秦王国は周防の音をうつしたのではないかともいうが、この文のすぐあと に、「又十余国を経て海岸に達す」とあり、海から隔たった地のようである。   筑前の博多あたりから豊前の中津・行橋(ゆくはし)あたりへでる陸路の 途中に、朝鮮系帰化人の多い地域があったのではあるまいか。北九州の文化を 考えるうえに注意すべきことである。        --------------------  「朝鮮系帰化人」についての資料ですが、行橋のすぐ近くにある鹿春(かは る、香春)では、新羅からの渡来があったことが8世紀初めの豊前国風土記逸 文からうかがえます。  「鹿春の郷というは(清河原が)なまれるなり。むかし、新羅の国の神、み ずからわたり来たりて、この河原に住みき。すなわち、名づけて鹿春の神とい う」   文中では新羅の神が渡来したとされていますが、実際はその神を信じる 人々が渡来したと見るべきです。資料からすると、行橋や中津では大宝2年 (703)の戸籍で秦部の姓および秦氏が多く名乗った勝(すぐり)姓が85%も 占めました。まさに隋書にいう秦王国にふさわしい地ではないかと思われます。 なお、「勝」は古代朝鮮語で「長(おさ)」の意味であり「村主(すぐり)」 とも書かれます(注3)。   秦王国があったとされる豊前は、九州のなかで豊かな先進地帯でした。豊 かさは物産のみならず、工業面や文化、精神世界にまでおよんでいました。   工業面でいうと、古来、香春(かわら)岳は、日本最大の銅生産地でヤマ ト朝廷にとっては重要な地域でした。のちに国家事業である東大寺の大仏の鋳 造にも半分近くの銅が香春から供給されました。   そうした銅の採鉱・精錬・鋳造など先進技術をになったのが朝鮮半島から の渡来人やその子孫だったのですが、それが「新羅の国の神」が渡り来たと比 喩的に表現されたと思われます。その神、鹿春の神はやがて八幡神(やはたの かみ)へ発展し、日本の神とされていったのですが、その一端は宇佐神宮の 『託宣集』に残りました。田村氏はこう記しました(注2)。        --------------------   宇佐八幡の出現を導いたのは、大神(おおが)比義であったとされる。し かし大神比義は五百歳ともいわれ、伝説的色彩が強い。『宇佐託宣集』によれ ば、大神比義が宇佐八幡の出現を祈ったところ、天童の姿となってあらわれた 八幡(ヤハタ)は   辛国の城(き)に、始めて八流の幡(はた)を天降して、我は日本の神と なれり。 といったという。   右の「城」は軍事的施設ではなく、「村」の意味であろう。つまり韓 (辛)国の人の住んでいる部落に、八流の幡を天降し、八幡(ヤハタ)神は初 めて日本の神になることができた、というのである。  「辛国城」に「辛嶋」(宇佐市辛島)を比定することもできよう。宇佐八幡 は大神比義の祈請にこたえ、宇佐の地に出現した。とすれば、宇佐八幡は元来、 韓国(辛国)の神であったことになる。        --------------------   五百歳の大神比義というのはあきらかに作り話ですが、そもそも『宇佐託 宣集』自体ずっとのちの鎌倉時代に作られただけに、内容はかなり脚色されて いるようです。したがって『託宣集』はどこまで信用できるのか疑わしいので すが、辛国の城があったことだけはたしかなようです。   その辛国の城ですが、おもしろいことに『託宣集』によれば、神武天皇は 「辛国の城」に帰ったと書かれ注目されます(注5)。神話で九州から東征し、 奈良で初代の天皇に即位したとされる神武は「辛国の城」出身だったと宇佐八 幡宮ではすくなくとも鎌倉時代まで信じられていたようです。これは神武を応 神天皇に置きかえるとあり得るかも知れません。偶然の一致か、応神天皇も宇 佐八幡宮の祭神にまつられました。   それはともかく、『託宣集』で八幡神を導いたとされる大神比義ですが、 これは中央の蘇我馬子の権威をバックに勢力を伸ばした大神氏により脚色され たのであり、本来、神職をになったのは大神氏ではなく秦氏系の辛島(からし ま)氏だったと大和氏は「太政官符」(814)を引用してこう記しました(注3)。        --------------------   欽明天皇の御世に、辛島郷の西北角の地に初めてヤハタの神があらわれ、 泉水を掘り出して、口・手・足を洗われたとある。   そのとき豊前の「神崇光津比咩」が酒を奉じたので、酒井泉社と称したと いい、のちに瀬社(辛島郷内)に移り、さらに辛島郷の東北角の鷹居(たか い)社に移ったとある。このように「太政官府」の記述ではすべて辛島郷内で ヤハタの神は祀られている。   はじめて「宮柱を立て」たのは鷹居社であり、そのとき辛島勝乙目(おと め)・意布売(おふめ)の二人が祝(はふり)・禰宜(ねぎ)に決められたと いうのだから、それまでは沖縄のウタキのように神殿はなく、きまった神官も なく、辛島郷の人々が祀っていたのである。        --------------------   ヤハタの神に奉仕した辛島勝ですが、姓(かばね)が勝であることや、辛 が韓(から)を意味することなどから、辛島氏は新羅系あるいは新羅に滅ぼさ れた加羅(加耶)系であるとみてまちがいないようです。   この辛島の名は、八幡宮の古宮あるいは元宮とされる香春(かわら)神社 に残されたようでした。そこの祭神は「辛国息長大姫(おきながおおひめ)大 目命(おおまのみこと)」とされましたが、息長大姫は天日槍(あめのひぼ こ)の子孫である息長帯姫(たらしひめ)から、大目は乙目からとり、それら を一つにしたと三品彰英氏はみているようです(注3)。   その後、辛島家伝によれば鷹居社は天智朝のころ、豪族である宇佐氏の勢 力圏とみられた小山田に移り、さらに725年、現在地の宇佐小倉山に遷座し ました。このころからヤハタの神は中央との関係を深め日本化が進んだと大和 氏はみているようです。   具体的には、天平3年(731)に八幡大神は神験をあらわし官幣を受けまし た。また、天平9年、朝廷は伊勢神宮とともに宇佐八幡宮に新羅の「無礼」を 告げ、12年には藤原広嗣の乱平定を八幡神に祈りました。   こうした過程に大神氏が活躍したようでした。力をつけた大神氏は、東大 寺の大仏が完成するころになると八幡宮の宮司(ぐうじ)のみか禰宜の座まで 独占するようになりました。   元来、宇佐八幡宮では降神秘儀と託宣をする巫女(みこ)が中心だったの で、巫女である禰宜が宮司より位階が上でした。その禰宜の座を大神氏は辛島 氏から勝ち取ったようでした。   しかし、そうした専横は、いったんは豊前国司であった和気清麻呂により たしなめられ、禰宜は辛島氏とあらためて定められたのですが、それも長続き しなかったようでした。ふたたび権力を独占した大神氏は、辛島氏の足跡を消 し、これらを大神氏の伝承に改竄したようで、五百歳の大神比義伝説などもそ の一環とみられます。   その過程で遷座とともに祭神の名も辛国や大目などが消され、単に大帯姫 (おおたらしひめ)すなわち神功皇后が八幡宮の祭神にされました。同時にそ の子で九州生まれとされる応神天皇なども祀られました。この変遷を大和氏は こう記しました(注3)。  「息長帯姫(神功皇后)の系譜は、新羅の王子天日槍を祖とし、息長氏は秦 氏ともかかわるが、神功皇后は新羅征討伝承をもつ。八幡宮は日本国の守護神 に変身したので、新羅征討の神功皇后をストレートに祭神名にしたが、奈良時 代の官製風土記でも、新羅の国の神をまつると書く香春の神は、神功皇后の類 似名に「カラ国」を冠し、本来の祭神の性格を残している」   香春の神は秦王国の神から日本国の守護神に変身する過程で、脱新羅化が すすんだようでした。   話はふたたび秦王国にもどりますが、豊前は随使が来る前からヤマト朝廷 にかなり注目されていたようでした。たとえば、雄略天皇が病気の時はシャー マンの豊国奇巫(くしかむなぎ)が、用明天皇が病気の時は司祭者の豊国法師 がよばれました。この豊国法師について、田村氏はこう記しました(注4)。        --------------------   崇仏派と反仏派との対立がつづいたが、586年に用明天皇が即位すると、 天皇家の仏教に対する態度が大きく変わった。用明天皇が病気になり、仏教の 力によって治癒を計ろうとしたからである。   宮廷に豊国法師が迎え入れられたが、九州の豊前地方には、のちに医術に よって文武天皇から賞せられた法蓮がいたように、朝鮮系の高度の文化が根を 張っており、したがって医術の名声も遠く大和にまで及んでいた。  「豊国法師」は、一人の僧を指すよりは、むしろ医療にあたる豊国の法師団 と解すべきであろう。        --------------------   このように医療技術などで豊前は早くから朝廷に注目され、秦王国の名は 知れわたっていたので、随使の裵世清が通りかかったとき、小野妹子が随使の 気を引くために秦王国を紹介したのだろうと大和氏はみました。同氏の秦王国 観をおわりに紹介します(注3)。        --------------------  「秦王国」を『隋書』が中国人の王国と書いているのは、裵世清ら随使に、 小野妹子らが、秦の始皇帝の末裔である秦人の国だといったからであろう。し かし「秦王国」は、朝鮮半島南部にいた人々の国だから、いわば「朝鮮王国」 である。   朝鮮半島南部の人々は、「秦王国」に移住しただけでなく、列島の各地に 渡来してきたが、豊前の香春岳を中心とする地域には、秦の始皇帝と自称する 人々がもっとも多く、所によっては90%以上の濃密さで居住していたため、 秦人の国として「秦王国」といわれたのだろうが、「秦王国」は大和政権から 独立した王国ではない。大和政権の行政内の「国」、豊国の一部である。   たぶん、随使が関門海峡をぬけて周防灘に入ったとき、同じ船に乗ってい た小野妹子らは、船上から見える陸地が豊国であることを承知していたうえで、 随使の関心を惹くために、「あなたたちと同じ中国人が住む国ですよ」といっ た。この発言に随使たちは強い関心をもったので、『隋書』は「秦王国」のこ とを記したのであろう。   日本の中に「秦王国」という外国人の国があると、七世紀初頭の人々が思 っていたことは確かだが、「秦王国」を含む地域は「豊国」と呼ばれた。この 国名も「秦王国」と無関係ではない。  「豊国」は農作物が豊かな国という意味だけではない。そういう国なら他に もある。農作物も豊かだが、それ以外に、金・銀・銅の鉱物資源や、養蚕・機 織などの殖産によって豊かであったから、「豊国」といったのであり、そうし た富を生み出す知識や技術をもっていた渡来人が、秦人であった。だから「秦 王国」を含む地域が「豊国」なのである。   このような「豊国」の中にある「秦王国」は、大和政権と関係なく、独自 に朝鮮半島から文化や信仰を受け入れていた。仏教も、大和の飛鳥の地に公伝 される前から入っていたし、医療や薬学の知識、採鉱・鋳造・鍛治の技術など もいち早く流入しており、こうした知識・技術を習得していた人々も大勢いた。   そうした人々の信仰する神こそ、初期の八幡神であり、したがってこの神 は、わが国固有の神祇(じんぎ)信仰の神とはちがっていた。  「秦王国」は、大和朝廷から完全に独立した国ではないが、倭人社会とはち がった独自の信仰・文化・習俗をもっていた点で、「日本にあった朝鮮王国」 である。        --------------------   秦王国の神であった渡来のヤハタの神は、宇佐八幡宮として日本化される 過程で大きく飛躍し、その後も鎌倉時代に源頼朝により鶴ヶ岡八幡宮であがめ られるや東国でも発展し、その数は八万にはおよばないものの、全国で四万余 社にもおよぶようです。その総本山である宇佐八幡宮は、明治時代に宇佐神宮 と名前を変え、今日でも隆盛をきわめています。 (注1)直木孝次郎『日本の歴史・2(古代国家の成立)』中央公論社,1965 (注2)田村圓澄『古代朝鮮仏教と日本仏教』吉川弘文館,1980 (注3)大和岩雄『日本にあった朝鮮王国』白水社,1993 (注4)田村圓澄『飛鳥・白鳳仏教論』雄山閣、1975 (注5)『八幡宮宇佐宮御託宣集』の記述(一部かなに変換)  「ヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)、御年14歳の時、帝釈宮に昇り、  印鑑を受けとり、日州辛国の城に還り来る、蘇於峰(そおみね)是也」


古代史】秦王国の所在地 BIGLOBE「日本史ボード」#9355 投稿者 :  SPM07550 投稿日 :  2001年06月17日   秦王国に関するコメントをありがとうございます。   RE:9342 > このように、『隋書倭国伝』を素直に読めば、秦王国は「長門国」のどこかに >あったと考えるのがもっとも妥当な解釈だと思います。  『隋書』だけの記述からすると、山口県西部の長門もたしかに有力な候補に はちがいないのですが、秦王国の位置は『隋書』の解釈だけできまるものでも ありません。というのも、ご存じのように『隋書』の記述はそれほど正確でも ないうえに、随所に疑問箇所があるからです。   たとえば、壱岐は、実際は対馬の南南東で南に近いのに『隋書』では都斯 麻(つしま、対馬)国の東と書かれました。この程度ならまだしも大目にみら れますが、なかには隋書の信頼性をそこなうような記述が散見されます。その ひとつに耽羅(たんら)があります。  『隋書』で随から倭への道筋を説明するのに、「百済をわたり、竹島にゆき、 南に[身冉]羅(たんら)国を望み、都斯麻国をへて、はるかに大海の中にあ る」と書かれていますが、もし[身冉]羅国が耽羅、すなわち韓国の済州島を さすのなら『隋書』の限界を露呈したものになります。このコースでは済州島 を望み見ることはとうてい不可能だからです。   このように疑問がみられる『隋書』ですが、それも無理はありません。そ もそも魏や随にとって倭など辺境に位置する小国はかかわりもすくないので正 確な知識をもつこと自体が困難だし、また、史書に詳細な記述をさくスペース もないことでしょう。   これは『隋書』だけでなく『魏志倭人伝』もしかりです。そのあいまいさ ゆえに邪馬台国の所在地論争では多くの人を楽しませてきたのですが、『隋 書』の秦王国も事情は同じように見うけられます。『隋書』で問題なのは秦王 国以降のつぎの行路です。   RE:9342 > (4)又経十余国、達於海岸。 >・・・ > (4)も行程で、秦王国からさらに十余りの国を経ると海岸に至ったとのこと。 >当然この部分の行程は陸路ということになります。ただし、この「海岸」がどこ >であるかは、明記されていません。   まず、陸路で問題はないでしょうか? かりに、随使および小野妹子が陸 路で「海岸」に達したと仮定します。秦王国が豊前だとすると、すぐ東に海が あるので「十余国を経る」という表現にあいません。   直木孝次郎氏は、随使が通った十余国は秦王国から都までの国の数ではな く、九州で随使が通った国の数として「海岸」を豊前沖と考えましたが、この 場合でも筑紫から周防灘の海岸まで随使の見地で何カ国あったかが問題になり ます。   おまけに『隋書』はこの記述の後に、倭王は数百人を派遣して随使をねぎ らったとつづけ、そのうえで都に入ったことを書いているので、海岸は豊前で はなく難波である可能性が強いのでなおさら疑問です。   つぎに、秦王国を長門としてもやはり問題は残るようです。この場合、一 行は難波まで瀬戸内海沿いの陸路を行くとなると、一行は「十余国を経る」前 に、じきに周防などあちこちで海岸に到達することになり、やはり記述にそぐ いません。このように、陸路では疑問が残ります。   一方、海路で「海岸」に達した場合を考えます。この場合「海岸」に達し たという表現は奇異に感じられます。しかし、地形をよくしらない随使が、港 なのか津なのかよくわからない到着場所を単に海岸と表現したのかもしれませ ん。   前回、紹介した大和岩雄氏なども海路説をとり、一行は船で筑紫から難波 の海岸まで移動したと結論づけました。私もこの説がもっとも矛盾がすくない のではないかと思います。   いずれにせよ『隋書』の記述だけから秦王国の所在を確定するのは無理な ように思われます。したがって『隋書』とべつに秦王国とよぶにふさわしい国 が実際あったかどうかの歴史的検証も重要になります。   秦王国の候補として『隋書』の記述から大きくずれた江上氏の奈良説は論 外として、有力なのは竹斯国の「東」にある長門や豊前、周防(すおう)など ですが、このなかで豊前は秦王国とよぶにふさわしい「辛国の城」があったこ とは前に記したとおりです。   また、周防も延喜8年(908)の戸籍で玖珂(くが)郡に「秦人」姓がきわ めて多いとされていますので可能性はありそうです(注1)。一方、長門です が、私は秦氏族との関係を明らかにした資料を未見です。また、長門単独説を となえる研究者も未見です。長門説は歴史的な根拠がうすいように思われます。   これらをふまえて研究者が秦王国の位置をどのように考えてきたのか、 #9352のコメントに補足します。 1.厳島説   松下見林氏が厳島説となえたようですが、根拠など詳細は不明で支持者も いないようです。 2.周防説   山田安栄氏が、秦王国は周防の音を秦王にうつしたとして周防説を主張し たのがはじまりですが、これはいろいろ批判をうけました。その進展を大和氏 はこう記しました(注2)。        --------------------   平野邦雄は、「秦王国」の「秦王」は、「広東音(tsun nongとして、『ス ワウ』の写しとみるのが自然」だが、「この音の問題を外せば、豊前、長門で も差支えなく、あるいはこれらの地域を含めたものとしても支障はないのであ る。当時の国の分化は事実問題として不明だからである」と書く。   しかし、・・・裵(はい)世清は小野妹子らと共に、隋の都の洛陽からき ているのだから、わざわざ華南の広東語を使うはずがない。   後藤利雄は、「秦王と周防の音は、相当に離れていて、到底音を写したと は考えられないのである。試みに双方の上古音と中古音を掲げれば、  秦 dzich 王 fiang  周 tiog   防 biuang の如くである」と書いており、このことからも、秦王=周防説は無理である。 (中古音は表記不能、ngは発音記号で1字、半月城注)        -------------------- 3.豊前説   豊前説を大和氏は次のようにまとめました(注2)。        --------------------   直木孝次郎は、秦王国を豊前とみる。(同氏は、)  <『隋書』には、「又東して秦王国に至る。其の人、華夏に同じ」とある。 華夏は中華すなわち中国のことだが、中国系帰化人が日本にたくさん来ていた とは思われない。中国と似た風俗をもつ朝鮮系帰化人のことであろう。   秦王国は周防の音をうつしたのではないかともいうが、この文のすぐあと に、「又十余国を経て海岸に達す」とあり、海から隔たった地のようである。   筑前の博多あたりから豊前の中津・行橋(ゆくはし)あたりへでる陸路の 途中に、朝鮮系帰化人の多い地域があったのではあるまいか。北九州の文化を 考えるうえに注意すべきことである。   北九州の後期古墳には、装飾古墳が多いとか、副室をもつ石室があるとか、 畿内やその他の地方と違う点が多いことなど、これと関係があるかもしれない> と書く。   泊勝美は、直木が豊前説の傍証にする装飾古墳は、「豊前地方にはなく、 分布の中心は筑後から肥後にかけてであり」、副室をもつ石室も、「筑後川流 域で壁画系装飾古墳と組み合って発達したものであり、豊前地方の特色である とはかならずしもいいがたい」から、直木のあげる傍証で、秦王国が豊前にあ ったとはいえないと批判する。   しかし、泊も秦王国豊前説である。泊の豊前説の根拠は、大宝二年(703) の豊前国の戸籍である。残っている上三毛郡塔里・加目久也里、仲津郡丁里 (現在の福岡県の築上郡、豊前市、京都郡の一部で、山国川北岸より行橋に至 る間の地域)の戸籍を表にすると、次頁のようになる。(表は省略)   この表で明らかなように秦氏系が圧倒的に多いから、豊前の国が「秦王 国」といわれたと、泊はみる。   私も泊説を採るが、秦氏は、秦の始皇帝の末裔と称し、漢に滅ぼされたあ と、朝鮮半島に逃げ、さらにわが国へ来たと称している(『新撰姓氏録』)。   小野妹子らは、この秦氏の伝承にもとづいて、秦王国の人々は「華夏と同 じ」だと随使にいい、それを聞いた随使は、中国人の国とすれば「秦王国」は 夷州(台湾)とみるべきだが明らかではない、と書いたのであろう。        --------------------   以上のように、周防説は発音上はなりたたず劣勢にみうけられます。歴史 的考察からすると豊前説が圧倒的に有利なようです。前回書いたように、泊氏 がかかげた地域では秦氏族が9割もしめ、新羅の神をまつるなど異文化のおも むきが濃厚だったので、まさに秦王国にふさわしいのではないかと思われます。 (注1)平野邦雄『帰化人』吉川弘文館、1993 (注2)大和岩雄『日本にあった朝鮮王国』白水社、1993   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ (ミラーサーバー)http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/


蒙古襲来と珍島物語 BIGLOBE「日本史ボード」 #9396 投稿者 :  SPM07550 投稿日 :  2001年06月28日   NHKの歴史ドラマ「北条時宗」は私もみています。   RE:9373, > 6/17放映分で,三別抄(さんべつしょう)が間接的(^_^;)に 登場してき >たわけですが,鎌倉幕府の面々は その実体が 判らずに 困惑の体たらく >のようでした。 >・・・ > 三別抄が ニッポンに送った文書の原文を見てないので なんともわから >ないが,仮に,<高麗国の正規軍>なる旨の肩書きをしていても,いや し >ていたら,そもそも外交音痴であったはずのニッポンの幕府も朝廷も「なん >のこっちゃ?」と,首を傾げたのは当然だらう!。   鎌倉幕府が首をかしげて困惑しているさまを示す資料が東京大学の史料編 纂所に残されました。その題名は「高麗牒状 不審條々」で、書いた人などくわ しいことは不明ですが、書かれたのは 1270年ころと考えられています。   資料の内容は、そのタイトルが示すように「高麗国」からの書状がいかに 不審に満ちたものであるかを列記しました。たとえば、高麗は1268年には蒙古 の徳を賞讃し、蒙古に臣下の礼をとったはずなのに、今回の牒状では一転して 蒙古を「オランカイ」(北狄の意)と呼び捨てにし、その風習を嫌悪したこと などでした。   さらに、牒状で高麗は珍嶋に「遷都」したと記されていたようですが、鎌 倉幕府はその真偽をはかりかねたようでした。   ここで、1268年というと高麗の使者・潘阜が蒙古フビライの書状をたずさ えて最初に筑紫に来た年にあたりますが、このとき高麗王はすでに蒙古に屈服 し、蒙古皇帝の臣下になりさがっていました。   さらに翌年、高麗は蒙古が拉致した対馬の島民二人を日本へ送り届けてく るなど、蒙古の忠実な臣下ぶりを示したのですが、さらにその翌年に問題の 「高麗国」の牒状が届けられました。その原文は残っていないようですが、三 別抄をしらない鎌倉幕府が「高麗国」の豹変ぶりに驚くのも無理はありません。   それにしても、三別抄の「高麗国」は日本へ外交使節を送るほどの実力を 備えるなど、堂々たる独立国の風情でした。1270年、高麗の臨時首都であった 江華島から珍島に「遷都」するときは千余隻の船を連ねたと『高麗史』は記し ているので、三別抄は元高麗の主力軍の面目躍如たるものがあります。   将軍の裵仲孫を中心とする三別抄の「高麗国」は、珍島に250万坪の山 城を築いたうえに堂々たる王宮まで建て、高麗王族のひとりである王温を奉じ ました。かれらは蒙古と30年以上も戦ってきただけにその意気たるや天をつ くものがあり、開京(開城)にもどった元宗たちを蒙古の傀儡(かいらい)政 権とみなし、自分たちこそ正統な「高麗国」を引き継いでいると自任しました。   かれらは政策として奴婢を解放したのでとくに下層民からの支持を受け、 一時は高麗の南海岸を中心に勢力を急速に伸ばしました。そのため、元や「傀 儡政権」にとってはたいへんな脅威でした。   実際、日本遠征のための造船所が三別抄に焼かれるなど、元は時には痛手 を負いました。この「高麗国」の活動のおかげで、日本遠征が数年遅れたとい っても過言ではありません。三別抄が健在のうちは、日本遠征は不可能でした。   その間、ドラマにみられるように、まとまりの悪かった日本は十分な時間 稼ぎができたので、三別抄はもっと評価されてしかるべきではないかと思われ ます。   なお、元寇を高麗の立場?で書いた歴史小説に井上靖の『風濤(ふうと う)』(新潮文庫)があります。すこし古いのですが、大家の筆になるだけに 読みやすくおすすめです。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


蒙古襲来と珍島物語(2) BIGLOBE「日本史ボード」 #9421 投稿者 :  SPM07550 投稿日 :  2001年07月08日   A.D.Pさん、こんばんは。   紹介されたホームページ『中世日本紀略』では三別抄軍の末路が下記のよ うに書かれており、たしかにあまり評価されていないようです。 >遷都以来、新政府の命はわずか十ヶ月であった。残党は金通精に率いられて >抵抗を続けたが、もはや呼応するものはなかった。  http://geojweb02.geocities.co.jp/HeartLand/3608/hisindex.html   珍島に遷都した三別抄の「高麗国」がもうすこし長らえたら、おっしゃる ように日本の南北朝のような時代が到来したのでしょうが、圧倒的な蒙古軍の 軍事力にひねりつぶされてしまい、「南朝」はまぼろし同然でした。   珍島で敗戦した三別抄軍は、耽羅島(済州島)を拠点に反蒙古活動をつづ けたのですが、求心力だった王族の王温を失って、その軍事活動はたしかに急 速に弱まりました。   それでも三別抄軍は血気盛んで、高麗の招諭使・琴薫(きんくん)を半死 半生にして追い返したくらいでした。その心意気や活動を作家の井上靖は小説 『風濤』でこう記しました。        --------------------   琴薫の報ずるところに依ると、三別抄の兵たちの間には、降伏の意志は全 く見られず、自分たちだけが祖国高麗のために闘っているのであり、やがて遠 からず蒙兵たちをこの国から追放し、飢えている民を彼等の手から解放するの だと豪語しているということであった。  ・・・   (1272年)夏の終りから秋にかけて、三別抄の跳梁は烈しくなった。全羅 道の貢米八百石の掠奪、忠清道孤瀾(こらん)島に於ける造船所の襲撃、合浦 (釜山)および巨済島の兵船の焚毀(ふんき)、そうした事件が次々と起こっ た。   殊に孤瀾島の造船所の襲撃は何日かにわたって行われ、兵船の全部が焚 (や)かれ、船匠は拉し去られ、造船の吏人、工人は一人残らず斬られた。   こうした事は、元の高麗政策への組織的な反抗であるとも言えたが、一方 で守備の薄い州県に寇(こう)し、その府吏を捕え、農漁村の掠奪を行うとこ ろは完全な海賊行為と言うほかはなかった。しかも、次第にそれが船団を組ん で京畿道の霊興島に来泊したりして、近海を横行するようになったので、もは やそのまま放置しておくわけには行かなかった。        --------------------   蒙古撃滅という理想をもった三別抄軍ですが、軍隊維持のため兵糧調達の 目的で傀儡政権の官衙を襲うのは当然としても、それが次第に困難になるや農 漁村の掠奪に手を染めたのでは海賊行為であり、それが民衆の支持を遠ざける 結果になるのは目に見えています。   それでも三別抄軍のゲリラ戦は、日本侵攻のための造船所を焼き討ちにし たり、蒙古にときには痛手をあたえました。蒙古としても、三別抄軍をこのま ま放置したのでは日本侵攻がおぼつかなくなるので本格的な掃討に乗り出しま した。   1272年8月、フビライは耽羅島攻略を命じました。その兵力は蒙古軍2千、 漢軍2千、高麗軍6千で合計1万人にものぼりました。翌年4月、この軍勢に 三別抄軍もあえなく敗れ去りました。しかしながら、それまで三別抄軍は独力 で蒙古を相手に3年近くもよく健闘したといえます。その健闘が、蒙古の日本 侵攻を確実に遅らせたといえます。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


「奈良」は朝鮮語か Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか? 」#2574 2001年7月07日   半月城です。   RE:2543 >これ(奈良は韓国語の「國」)は必ずしも確認されたことではないんですか?   私は、奈良と韓国語の「ナラ」とは単なる語呂合わせと思っていたのです が、数カ月前、NHK第二放送の番組「文化講演会」で意外な話を耳にしまし た。元群馬大学のミズカミ シズオ氏が奈良のことを断片的にこう話していま した。        -------------------- 講演題目「中国人とその文化の源流を探る」             2000.10.16 野村ホールで収録   ナラって何でしょう?奈良の都。あれ、実は叱られるかもしれません、朝 鮮語なんですよ。奈良というのは、記録によるとね、飛鳥の宮・推古天皇の飛 鳥の宮の一角のなかに、7割が朝鮮人が住んでいたということなんです。これ は最近の記録にもそういう記録がでています。  ・・・   奈良というのは、国とか国体とか訳す朝鮮語なんです。朝鮮古語によると 「ナーリ」と申しまして、水平地という意味なんです。        --------------------   妙なことをいうものです。奈良を朝鮮語だとするとだれが叱るのでしょう か?反対派の学者でしょうか?それとも右翼でしょうか?   それはともかく、奈良の語源を学者がこのようにいうのですから、それ相 応の根拠があるはずです。その根拠は、中島利一郎氏の『日本地名学研究』で しょうか。同書はこう記しているようです(注1)。        --------------------   松岡静雄氏は『日本古語大辞典』に、  ナラ(那良・那羅・奈良) 大和の地名旧都として有名である。崇神紀に軍 兵屯聚して、草木を踏みならした山を、那良山と号(なづ)けたとあるのは信 じるに足らぬ。   ナラは韓語ナラで、国家という意味であるから、上古此(この)地を占拠 したものが負わせた名であろう。此語は用いられたのが、夙(つと)に廃語に なったのか。或は大陸系移住民のみが用いて居たのであろう。  と述べ、奈良、朝鮮語説を提供したのであった。私自身としても、夙にこの 説を採っていたのである。  朝鮮語 Nara 国、平野、宮殿、王  の四義を有するもの。今日では「国」及び「野」の義だけで、「宮殿」 「王」の義は、全く朝鮮人からは忘れられている。  わが奈良に、皇都を始めて設けられたのは、元明天皇の和銅年間であるが、 それ以前、平城の地には朝鮮人部落があったものの如く、現に奈良市内に、東 大寺の地主神ということで、韓国(からくに)神社というのが存している位で ある。  従って奈良という地名は、最初から朝鮮人によって名づけられたものである と思われる。        --------------------   中島氏は、平城京のあたりは神社を祀るほど朝鮮からの渡来人が住み、朝 鮮人部落をつくっていたと想定しているのにたいし、ミズカミ氏は渡来人とし て飛鳥の地に住んでいた東漢(やまとのあや)をイメージしているようで、両 者は若干の食い違いがあります。   ところで、ミズカミ氏のいう「最近の記録」ですが、これは続日本紀を意 味するのでしょうか。同書の宝亀3年条はこう記しました(講談社学術文庫版)。        --------------------   坂上 大忌寸(おおいみき)刈田麻呂らが、次のように言上した。  「檜前(ひのくま)忌寸の一族をもって、大和国高市(たけち)郡の郡司に 任命しているそもそもの由来は、彼らの先祖の阿知使主(あちのおみ)が、軽 嶋豊明宮に天下を治められた応神天皇の御世に、朝鮮から17県の人民を率い て帰化し、天皇の詔(みことのり)があって、高市郡檜前村の地を賜わり居を 定めたことによります。   およそ高市郡内には檜前忌寸の一族と十七県の人民が全土いたるところに 居住しており、他姓の者は十のうち一、二割程度しかありません。        --------------------   飛鳥は高市郡に属していたのですが、この郡では「七割」どころか8,9 割が渡来人だったようです。自然に、韓語が飛びかっていたことでしょう。こ こか、あるいは平城京のあたりか、いずれにしても韓語から奈良が生まれたと する学説は有力なようです。 (注1)金達寿『日本の中の朝鮮文化3』講談社文庫、1984   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(1) Yahoo! 掲示板 #2284 2001年6月24日   竹島=独島の帰属問題を考えるうえで、明治期に太政官が竹島(鬱陵島) と松島(竹島=独島)を放棄した事実は重要なので、そこにいたるまでの経過 を資料中心にみていきたいと思います。それらの資料は量がかなりあるので、 しばらくはこれに専念したいと思います。   太政官が竹島(鬱陵島)、松島(竹島=独島)の領有問題を考えるきっか けになったのは、内務省の地理寮が地籍を編纂するために、島根県に「竹島」 なる島の情報を照会したのがきっかけでした。   その地理寮の伺い書は、国立公文書館に保管されている『公文録』内務省 之部(注1)の中に、島根県からの伺い書(注2)の添付文書・乙第28号と して記録されました。その原文は(注3)に記しますが、これはなにぶん文語 体で読みにくいので、この際、私なりの口語訳をつくってみました。下記に誤 りなどがありましたらご指摘ください。        -------------------- 内務省の地理寮から島根県宛の伺い書(口語訳)            (島根県伺い書の添付文書・乙第28号)   ご管轄である隠岐(おき)国のかなたに、従来、竹島と呼ばれる孤島があ ると聞いております。もとより旧鳥取藩の商船が往復した船路もあります。伺 い書のおもむきは、口頭で調査依頼およびご協議を致しました。   加えるに、地籍編製に関する地方官心得書第五条の趣旨もありますが、な お念のためご協議をお願いします。以上の件、五条に照らして、古い記録や古 地図などを調べていただき、内務省本省へお伺いを立てていただきたく、ここ にご照会致します。   明治九年十月五日 地理寮十二等出仕 田尻賢信            地理大属     杦山栄蔵  島根縣地籍編製係御中        --------------------   うえの文書をそえ、島根県は内務省に伺い書を提出しました(注2)。そ の口語訳を下記に記します。        --------------------  「日本海内にある竹島他一島の地籍編纂方法に関する伺い書」                        (口語訳)   貴省(内務省)の地理寮職員が地籍編纂確認のため本県を巡回したおり、 日本海内にある竹島調査の件で別紙乙第28号のような照会がありました。   この島は永禄年間(1558-1569)に発見されたそうですが、旧鳥取藩のとき、 元和4年(1618)から元禄8年(1695)までおよそ78年間、同藩領内伯耆(ほう き)国の米子町の商人・大谷九右衛門と村川市兵衛が江戸幕府の許可を得て、 毎年渡海し、島の動植物を積み帰って内地で売却していました。これについて は確証があります。現在まで古書や古い書状が伝えられていますので、別紙の ように由来の概略や図面をそえ、とりあえず申しあげます。   今回、全島を実検のうえ、詳細をそえて記載すべきところですが、もとよ り本県の管轄に確定したものでもなく、また、北海百余里を隔て船路もはっき りせず、ふつうの帆船ではよく往復できないので、右の大谷、村川家の伝記 など詳細を追って申し上げます。   しかして大勢を推察するに、管内の隠岐国の北西に位置し山陰一帯の西部 に付属するとみられるなら本県の国図に記載し地籍に編纂しますが、この件は どのように取りはからうべきか御指令をお伺いします。   明治九年十月十六日 島根県参事 境二郎   内務卿 大久保利通殿        --------------------   この文書に、島根県は独自に竹島外一島について調査し、その資料も添付 しましたが、それらは次回以降に紹介します。 (注1)『公文録』内務省之部一、第25巻、明治10年3月   以下の詳細は、titleist_userさんの #1508より引用  件名:日本海内竹島外一島地籍編纂方伺  件名番号:16  作成部局:太政官  作成年月日:明治 10年 03月  請求番号:1-2A-010-00・公-02032-100  マイクロフィルム番号:公-256-1345 (注2)日本海内竹島外一島地籍編纂方伺  御省地理寮官員地籍編纂莅檢之為 本縣巡回ノ砌 日本海中ニ在ル 竹島調査ノ儀ニ付キ別紙乙第二十八号之通 照會有之候處 本島ハ永禄中發見之 由ニテ 故鳥取藩之時 元和四年ヨリ元禄八年マテ凡七十八年間 同藩領内伯 耆國米子町之商 大谷九右衛門 村川市兵衛ナル者旧幕府ノ許可ヲ経テ毎歳渡海 島中ノ動植物ヲ積帰リ 内地ニ賣却致シ候ハ已ニ確証有之 今ニ古書旧状等持傳 候ニ付 別紙原由ノ大畧圖面共相副 不取敢致上申候 今回全島實檢之上 委曲 ヲ具ヘ記載可致ノ處 固ヨリ本縣管轄ニ確定致候ニモ無之 且 北海百余里ヲ懸 隔シ線路モ不分明 尋常帆舞船等ノ能ク往返スヘキニ非ラサレハ 右大谷某 村川 某カ傳記ニ就キ追テ詳細ヲ上申可致候 而シテ其大方ヲ推按スルニ管内隠岐國 ノ乾位ニ當リ山陰一帯ノ西部ニ貫附スヘキ哉ニ相見候ニ付テハ本縣國圖ニ記載 シ地籍ニ編入スル等之儀ハ如何取計可然哉 何分ノ御指令相伺候也   明治九年十月十六日 縣令 佐藤信寛代理 島根縣参事 境二郎   内務卿 大久保利通殿 (注3)第二十八号  御管轄内隠岐國某方ニ當テ従来竹島ト相唱候孤島有之哉ニ相聞 固ヨリ舊鳥 取藩商船往復ノ線路モ有之 趣右ハ口演ヲ以テ調査方及御協議置候儀モ有之 加 フルニ地籍編製地方官心得書第五條ノ旨モ有之候得トモ 尚為念及御協議候 條 右五條ニ照準而テ舊記古圖等御取調本省ヘ御伺相成度 此段及御照会候也   明治九年十月五日 地理寮十二等出仕 田尻賢信            地理大属     杦山栄蔵  島根縣地籍編製係御中 (注4)原文で切は[石切]を1字に組み合わせた字。今後も同様の表記とする。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2) Yahoo! 掲示板 #2300 2001年7月01日   前回は、曲解なのか Torazo_xxxさんが<「松島」伺い>と称した鳥取県 の「竹島外一島」に関する伺い書を紹介しましたが、今回はそのなかの重要な 付属文書である「由来の概略」を中心に紹介したいと思います。   この文書ではじめて争点になっている松島(竹島=独島)の名が登場しま す。島根県伺い書の全体をとおして「松島」の説明文はここだけで「次に一島 あり 松島と呼ぶ」という一節のみです。ほかにはありません。   この記述から、島根県伺い書のタイトルにある「竹島外一島」の外(ほ か)一島が松島をさすことが判明します。しかも竹島(鬱陵島)の付属島のよ うに扱われているのが目をひきます。   なお、付属文書の全体構成は下記のようになっています。番号および付属 文書のタイトルは便宜上つけました。ただし、本文のタイトルは原文のままで す。  島根県「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」の付属文書一覧 (1).第28号「地理寮の伺い書」 (2).島根県「由来の概略」、原文は(注1) (3).幕府「渡海許可書」、原文は(注2) (4).島根県「渡海禁制いきさつ」 (5).幕府「渡海禁制令」 (6).島根県「あとがき」、原文は(注4) (7).大谷家「図面」   これらの資料のうち(1)は前回紹介しましたが、今回は(2),(3),(6)を中心 に紹介します。        -------------------- 島根県「由来の概略」の現代語訳   磯竹島、あるいは竹島と称する。隠岐国の北西120里(480km)ばかりの ところにある。周囲およそ10里(40km)である。山は峻険で平地はすくない。 川は3条ある。また滝がある。しかし、谷は深くうっそうと樹木や竹が繁り、 水源を知ることはできない。   多く目にふれるのは、植物では五りょう松、紫栴檀、黄蘗(おうばく)、椿、 樫、桐、雁皮(がんぴ)、栂(つが)、竹、マノ竹、コラフ(ニンジン)、蒜 (ひる)、カンドウ(ツワブキ)、ミョウガ、ウド、百合、ゴボウ、グミ、フ ボンシ(草イチゴ)、虎杖(いたどり)、アラキパである。   動物では海鹿(うみしか)、猫、ネズミ、ヤマガラ、鳩、鴨、ヒワ、ノガ モ、鵜(う)、ツバメ、ワシ、クマタカ、タカ、ナヂコアナ鳥、シジュウカラ の類である。   そのほかには、辰砂、岩緑青などを見る。魚貝類は枚挙にいとまがない。 なかでもアワビと海鹿が代表的な物産である。アワビをとるのに、夕方に竹を 海に入れ、朝これを引きあげれば、アワビが枝や葉にビッシリ着く。その味は 絶倫とのこと。また、海鹿一頭から数斗(50リットル)の油が得られる。   次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路 にある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。 また、魚や獣(アシカか)を産する。   永禄年間(1558-1569)に伯耆(ほうき)国・会見郡米子町の商人、大屋 (のちに大谷と改名)甚吉が航海で越後より帰るさい、熱帯性低気圧に遭遇し、 この地(竹島=鬱陵島)に漂流した。ついに全島を巡視したところ、すこぶる 魚貝に富んでいるのを知り、帰国の日、検使の安倍四郎五郎 <時に幕名によ り米子城に居る>にそのおもむきを申し出、以後、渡海を申請した。安倍氏が 江戸に紹介して、許可書を得た。じつに元和4年(1618)5月16日である。        --------------------   安倍四郎五郎が仲介したとされる渡海の許可書ですが、これは江戸幕府の 老中から鳥取藩主の松平新太郎に下記のようにだされました(注2)。        -------------------- 幕府「渡海許可書」の現代語訳   伯耆国の米子から竹島へ先年船で渡りたいとのこと、そして今度はその ように渡海したいとの件に関し、米子町人の村川市兵衛・大屋甚吉からの申し 出をお上に達し聞いたところ、異議がないとの仰せがあり、渡海の件はその 意がかなえられるとの仰せつけがあったので謹んで申し上げる。  五月十六日        永井信濃守 尚政               井上主計頭 正就               土井大炊頭 利勝               酒井雅楽頭 忠世 松平新太郎殿        --------------------   これらの一連の文書で、竹島が現在の鬱陵島、松島が竹島=独島であるこ とを疑う人はもはやいないようですが、念のために文書に書かれた位置関係を チェックしたいと思います。松島は竹島と同じ船路とされましたが、これは竹 島へ行く場合、松島をとおって行くことをさします。それらの距離を要約する と下記のようになります。  隠岐--80里(320km)--松島--40里(160km)--竹島   この距離は、ずっと時代がくだって1814年、岡嶋正義『竹島考』所収の 「竹島考圖説 竹島松島之圖」でもそれぞれ70里、40里となっており、ほ とんどかわりありません(注3)。また、他の江戸時代の資料でも距離の記述 はほとんど大同小異です。   ただ、実際の距離は隠岐と竹島=独島間が160km、竹島=独島と鬱陵島間 が92kmなので上記の約半分です。このちがいは、あるいは大谷氏などによるな んらかの作為があったのかもしれませんが、当時の状況からすればこれくらい のちがいはまず妥当と思われます。   いずれにしても、相対的な距離関係や島の大きさなどが現在の竹島=独島、 鬱陵島に大筋で適合するので、松島が竹島=独島に合致するのはまちがいない ようです。   なお、こうした位置関係をあるいは付属文書の大谷家「図面」は記してい るのかもしれませんが、この図面は国立公文書館で簡単にみられないようです。 この図面に関し、島根県「あとがき」はこう補足しました。        -------------------- 島根県「あとがき」   元和4年丁巳(1618)より元禄八年乙亥(1695)にいたるまで、およそ78年 である。(つづく原文の注釈は省略)   当時、伝えられるように柳沢氏の変があり、幕府は外事をかえりみること ができず、ついにここにいたったという。今、大谷家に伝わる享保年間(1716- 30)の製図を縮写して添える。なお、両家所蔵の古文書などは後日、謄写され るのを待って全備する。        --------------------   以上のように、島根県の伺い書で特筆すべきは松島(竹島=独島)の扱い があまりにも軽いことです。そもそもタイトルからして外一島と表現され、竹 島の付属島のような扱いになっています。   このような属島意識は、島に松が一本もはえていないのにもかかわらず、 松島と命名されたことからも予想されることです。すなわち、竹島とペアをな す意味あいから松島と名づけられたのは容易に推察されることです。   このペア意識は、江戸時代の代表的な地図、長久保赤水の「日本輿地路程 全図」でも明瞭に表現されました。すなわち、松島と竹島とのすき間をつなぐ かのように説明文が書きこまれているのは周知のとおりです。そのペア意識が 太政官指令まで維持されてきたといえます。 (注1)島根県「由来の概略」の原文   (「〓」は、原字が JIS範囲外のため、表示できない字です。発音のみを かっこ内に示しました。また JIS範囲内でも場合によっては文字化けします。 なお、原文には改行がありません。[ ]内は原文に小さな字で書かれている注 釈です)  磯竹島 一ニ竹島ト稱ス 隠岐國ノ乾位 一百二拾里許ニ在リ 周回凡十里許 山峻険ニシテ平地少シ 川三條在リ 又瀑布アリ 然レドモ深谷幽邃樹竹稠密 其 源ヲ知ル能ハス 唯眼ニ觸レ其多キ者 植物ニハ五〓(りょう)松 紫栴檀 黄蘗 椿 樫 桐 雁皮 栂 竹 マノ竹 胡蘿蔔 蒜 款冬 〓(みょう)荷 独活 百合 午 房 茱萸 覆盆子 虎杖 アラキパ 動物ニハ 海鹿 〓(ねこ) 鼠 山雀 鳩 鴨 鶸 鳧 鵜 燕 鷲 鵰 鷹 ナヂコア ナ鳥 四十雀ノ類 其他 辰砂 岩緑青アルヲ見ル 魚貝ハ枚挙ニ暇アラス 就中 海鹿 鮑ヲ物産ノ最トス 鮑ヲ獲ルニ夕ニ竹ヲ海ニ投シ 朝ニコレヲ上レハ鮑 枝 葉ニ着クモノ夥シ 其味絶倫ナリト 又 海鹿一頭能ク數斗ノ油ヲ得ヘシ  次ニ一島アリ 松島ト呼フ 周回三十町許 竹島ト同一線路ニ在リ 隠岐ヲ距ル 八拾里許 樹竹稀ナリ 亦魚獣ヲ産ス 永禄中 伯耆國 會見郡 米子町商 大屋 [後 大谷ト改ム] 甚吉 航シテ越後ヨ リ歸リ颶風ヲ遇フテ此地ニ漂流ス 遂ニ全島ヲ巡視シ頗ル魚貝ニ富ルヲ識リ歸 國ノ日 検使 安倍四郎五郎 [時ニ幕名ニ因リ米子城ニ居ル] ニ彼趣ヲ申出シ以 後渡海セント請フ 安倍氏 江戸ニ紹介シテ許可ノ書ヲ得タリ 實ニ元和四年五月 十六日ナリ (注2)幕府「渡海許可書」の原文  従伯耆國米子竹島先年舩相渡之由候 然者如其今度致渡海度之段 米子町人 村川市兵衛 大屋甚吉申上付テ 達上聞候之處 不可有異儀之旨被仰出間 被得其 意渡海之儀 可被仰付候 恐々謹言  五月十六日        永井信濃守 尚政               井上主計頭 正就               土井大炊頭 利勝               酒井雅楽頭 忠世 松平新太郎殿 (注3)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000 (注4)島根県「あとがき」の原文  元和四年丁巳ヨリ元禄八年乙亥ニ至テ凡七十八年ナリ [因ニ云フ 隠岐國隠 地郡南方村字福浦ノ辧才天女社ハ 當時 大谷村川両家 海波平穏祈祀ノ為メニ 建立スル所ナリ 今ニ至テ 本社修繕ヲ加フルニ當レハ 必ス之ヲ両家ニ告ク] 相傳フ當時 柳澤氏の變アリ 幕府外事ヲ省ルコト能ハス 遂ニ茲ニ至ルト云フ 今 大谷氏傳フ所 享保年間ノ製圖ヲ縮冩シ 是ヲ附ス 尚 両家所蔵ノ古文書等 ハ他日謄冩ノ成ルヲ俟テ全備セントス   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(3) Yahoo! 掲示板 #2311 2001年7月08日   前回にひきつづき、島根県の「竹島外一島」伺い書で残りの付属書類を紹 介します。 (4).島根県「渡海禁制のいきさつ」(注1)   当時、米子同町に村川市兵衛なる者がいた。大屋氏と同様に阿部四郎五郎 氏と懇意だったので、両家に竹島(鬱陵島)への渡海許可がだされた。されど、 竹島の発見は大屋氏である。両家はこれより毎年継続して渡海し、漁労をおこ なった。   幕府は、この遠隔の地が本邦の版図に入ると称して船旗などをあたえたが、 とくに両家を幕府に出仕、謁見させ、しばしば葵(あおい)の御紋がはいった 服をあたえた。その後、大屋甚吉は同島で亡くなった。その墓は今もあるとい う。   元禄7年(1694)になり、島に上陸した朝鮮人が若干いた。かれらの感情は おしはかれない。そのうえ、こちらの船の人数がすくなかったので帰り、お上 にこれを訴えた。   翌年、幕府の許可を得て武器を積み、島に渡航したところ、朝鮮人はおそ れて逃げた。残ったふたり、アヒチヤン(安龍福)とトラヱイを捕らえ縛って 帰った。命令により、江戸幕府に知らせ朝鮮に送還した。   同年、朝鮮から竹島は朝鮮に接近しているので、朝鮮に属しているとの申 し出がしきりにあった。幕府で協議して、日本管内たるべき証書があれば、以 後は朝鮮に漁労の権利をあたえるべきとの命があった。朝鮮はこれを奉じた。 これにより元禄9年(1696)正月、竹島への渡海を禁制とした。 (5).幕府「渡海禁制令」(注2)   先年、松平新太郎が因幡(いなば)国と伯耆(ほうき)国を治めていたと き、伺いのあった伯耆国米子の町人、村川市兵衛・大屋甚吉が竹島へ渡海し、 今に至るまで漁をしていたが、今後、竹島へ渡海の件は禁制を申しつけるべき むねが(徳川綱吉から)仰せつけられたとの由。そのおもむきは保持されるべ きである。謹んで申し上げる。   元禄9年(1696)1月28日   土屋相模守                  戸田山城守                  安部豊後守                  大久保加賀守 (注1)島根県「渡海禁制のいきさつ」原文  當時 米子同町ニ村川市兵衛ナル者アリ 大屋氏ト同シク安部氏ノ懇親ヲ得ル カ故ニ両家ニ命セラル 然レトモ本島ノ發見ハ大屋氏ニ係ル 此ヨリ毎歳間断ナ ク渡海漁猟セリ 幕府遠陬ノ地 本邦版圖内ニ入ルヲ称シ船旗等ヲ與エ 殊ニ登 営謁見セシメ 屡 葵章ノ服ヲ給ス 後 甚吉島中ニ没ス [墳墓今尚 存スト云フ]  元禄七年甲戌ニ至リ朝鮮人上陸スル者若干ナリ ソノ情測ル可カラス 且 船 中人數ノ寡少ナルヲ以テ歸リ是ヲ訴フ 明年 幕命ヲ得 武器ヲ載セテ到レハ其 人恐レテ遁レ去ル 残ル者ニ二人 [アヒチヤン トラヱイ]アリ 即チ捕縛シテ歸 ル 命アリ江戸ニ致シ本土ニ送還ス  同年 彼國ヨリ竹島ハ朝鮮ニ接近ナルヲ以テ 頻リニ其地ニ属センコトヲ請フ 幕府ニ議シテ日本管内タルヘキノ證書上ラハ 以後 朝鮮ニ漁猟ノ権ヲ與フ可 キノ命アリ 彼國此ヲ奉ズ 此ニ因テ同九年丙子正月渡海ヲ禁制セラル (注2)幕府「渡海禁制令」原文 先年 松平新太郎 因州伯州領知ノ節 相窺之 伯州米子ノ町人村川市兵衛 大屋 甚吉 竹島ヘ渡海至干今雖致漁候 向後竹島ヘ渡海ノ儀制禁可申付旨被仰出ノ由 可被存其趣候 恐々謹言  正月二十八日       土屋相模守               戸田山城守               安部豊後守               大久保加賀守   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


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