半月城通信
No. 28

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 建国記念日のある国
  2. 梶山発言と公娼制度
  3. 「従軍慰安婦」志願者
  4. 麻生軍医と理想の「従軍慰安婦」
  5. 西尾幹二教授の学問的姿勢
  6. 「従軍慰安婦」とアジア友好


文書名:[aml:3514] RE:建国記念日のある国についての質問 Message-Id: <199702101600.BAA26984@SV1.jca.or.jp> Date: Tue Feb 11 01:00:13 1997 Reply-To: Content-Type: Text/Plain; charset=iso-2022-jp MIME-Version: 1.0   petrof さん、メールありがとうございました。  >建国記念日を制定している国についておたずねします。   韓国では8月15日を「光復節」、北朝鮮では「祖国解放記念日」としてい ずれも祝日に制定しています。さらに、北朝鮮では9月9日が「創建記念日」で す。   一方、韓国では壇君神話にちなんで、10月3日を「開天節」として同じく 祝日に制定しています。そのうえ、この神話上の建国日を起点にした壇君紀元の 暦を1961年まで公文書に採用しました。これは「皇紀」に似ていますが、西 暦年に2333年を加算するものです。たとえば今年は壇紀4330年になりま す。この開天節が設けられた動機は、韓国が日本の植民地支配から解放された後、 抑圧されていた民族の魂を回復する精神論がことさら強調されたことによるもの です。   「皇紀」いえば、今年は「皇紀2657年」にあたるのでしょうか。「神武 天皇」にかなり関心のある韓国人としては、きょうは特別な日です。韓国人の場 合、古代の天皇と近代の天皇とでは、暴論を言うと評価は正反対になりかねませ ん。   かって天皇に関連して、マスコミで在日朝鮮人女性の代表格にまつり上げら れた感のある辛淑玉さんは、嫌がらせに対しこんなことをいっていました。   「こないだも<朝鮮人出ていけ!>って言うから、こっちもつい調子に乗っ て、<ハイハイ、わかりました。朝鮮人はみんなでていきます。天皇連れて出て いきます>って言ったらさ、それから余計ひどくなっちゃって。そしたらうちの 社員が、<社長、お願いだから右翼からかうのやめてください>だって」 (金栄「ルポ・在日を生きる」青丘、第18号)   この度胸にだけは感服します。   http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/02/02 - 01902/01902 PFG00017 半月城 梶山発言と公娼制度 ( 7) 97/02/02 07:45 01861へのコメント   「みなさん梶山官房長官を応援しましょう」と書いておられた河原さんは、 その後の長官の発言にズッコケてしまったようですが、梶山発言について私の 考えを記したいと思います。その手始めに、まず梶山長官の釈明の報道記事を 紹介します。             ーーーーーーーーーーー  「(日本の歴史教科書で)元慰安婦問題も当然取り上げるべきだと考えるが、 あの当時、日本各地に公娼、私娼がたくさんあって、軍隊が外地へ行くに従っ て、そういう方々も進出したという事実も、ご認識いただきたい」と改めて持 論を述べた(毎日速報、97.1.27)。  梶山氏は発言の背景について、「日韓問題にまたがる慰安婦問題を申し上げ たのではなく、教育改革の問題について、歴史教育を充実させるべきだ(とい う趣旨だった)。たまたま日が悪かった」と述べた(読売速報、1997.1.27)。             ーーーーーーーーーーー   政府のスポークスマンともいうべき官房長官が、「たまたま日が悪かっ た」と子どもじみたことをいうとはちょっと滑稽ですが、反面、「歴史教育を 充実させるべきだ」という発言には私も注目しています。どうやら官房長官は、 奧野誠亮氏などとは違って、「従軍慰安婦」問題なども当然歴史教科書で取り 上げ、歴史教育を充実させるべきであるというのが持論のようです。このスタ ンスから長官は  「貧しいために公娼(こうしょう)制度というものがあった。日本各地に公 娼、私娼がいて、軍隊が外地に行くことで、そういう方々も進出して行った。 悲しい現実に目をつぶることはできない。むごい悲しいことがあったんだ。私 の時代にあったことを伝えることが、私の年代に生きた者の責任だ」 と語りました。昨今にぎにぎしい「日韓問題にまたがる慰安婦問題」を抜きに した「慰安婦」を持ち出した長官の意図や政治感覚はよくわかりませんが、日 本内地出身の「慰安婦」について限定して上記のように述べたのであれば、こ の認識自体はある程度正しいのではないかと思います。特に「従軍慰安婦」第 1期の満州事変期(1931.9 - 37.7 )はこのような見方はかなり当たっている と思います。   しかし南京大虐殺、日本軍の強姦頻発を転機として、中国で「従軍慰安 婦」の需要が急増した第2期から「慰安婦」集めは変質していきました。とく に北支および中支派遣軍が選定した業者が日本内地で行った「慰安婦」の募集 が目にあまるようになり、誘拐事件に類する事件まで引き起こしました。   そのため軍の威信低下を恐れた陸軍省は1938年3月、派遣軍に募集業 者の選定をもっとしっかりやるように警告の通達をだしたくらいでした(#1 304の注1)。その通達の中で徴集の際、徴集業者と地元の警察・憲兵との 連携をもっと密接に行うように指令を出しました。   他方この当時、警察はこの「慰安婦」集めをどのようにみていたかを資料 から紹介します。1938年、内務省の通牒「支那渡航婦女の取扱に関する 件」(注)によると、内務省では軍関係の「醜業婦」集めを次のようにみてい ました。  1.最近、軍当局の了解を口にして、婦女を募集・周旋するものがしきりに 現れた。  2.婦女の渡航は中国現地の実情を考えると必要であり、やむを得ない。そ のため、警察でも特別な配慮をし、実情に即した措置を講ずる必要がある。  3.婦女の募集・周旋の取締を適正に行わないと、帝国の威信にかかわるの   みか、銃後の国民、とくに出征兵士の留守家族に好ましくない影響を与え   る。  4.婦女の渡航は、婦女売買に関する国際条約に違反しないよう留意しなけ   ればならない。   このような分析に基づいて、つぎのような婦女渡航取扱を定めました。  1.慰安婦などの「醜業を目的とする婦女」の渡航は、満21歳以上の、現   役の娼妓や醜業を営む女性で、性病などにかかっていないものに限る。  2.上記の女性が北支、中支方面に向かうとき、これを黙認することとし、   身分証明書を発行する。  3.身分証明書を申請するときは、かならず本人を警察に出頭させる  4.身分証明書の申請には、親や戸主の承認を必要とする。親や戸主がいな   いときはその事実を明確にする。  5.身分証明書の発行の際には、契約の内容などをよく調査し、婦女売買ま   たは誘拐などがないかよく注意する。  6.募集に際し、軍の名をかたる者は厳重に取り締まる。  7.募集の広告宣伝をする者は厳重に取り締まる。また、虚偽や誇大なこと   をいう者も厳重に取り締まる。   この取扱をみると、「厳重に取り締まる」が何度も出てきますが、内務省 は慰安婦募集の行きすぎが社会問題になることを、いかに懸念していたかがう かがわれます。それというのも、売春婦でない一般女性が「慰安婦」として中 国に送られれば、国民とくに出征兵士を送り出している家族にかなりの動揺を 与えることは容易に想像されます。   とくに、「慰安婦」がもし出征兵士の知り合いであったりしたら、兵士の 国や軍に対する信頼は崩壊するかも知れません。こうした「銃後の憂い」をな くすために「慰安婦」は公娼かそれに近い人に限定する必要があったものと思 われます。   このように「慰安婦」集めに一応の条件をつけると、内地で大量の「慰安 婦」集めにはおのずと限界がでてきます。そこで自然に目につけられたのが植 民地の女性でした。植民地の女性を「慰安婦」にするのであれば銃後の憂いも あまりないし、また国際条約の抜け道も利用することができました。   日本は「婦女売買に関する国際条約」において、これを植民地に適用する ことを保留していましたので、これに縛られず、内地ではできないような乱暴 な徴集方法も韓国や台湾では可能でした。韓国では多くの若い女性が「いい働 き口があるから」とだまされて連れ出され、慰安所に着いたとたん、皇軍兵士 による強姦と暴力により強制的に「慰安婦」にさせられました。これは本来な らもちろん国際条約に違反します。   さらに、国際条約では未成年の場合、たとえ本人の同意があっても「他人 の情欲を満足せしむるため、醜業を目的として、未成年の婦女を勧誘し、誘引 し、または拐去したる者は」罰せらるべしと、未成年保護の厳しい規定を設け ています。   これまで名乗り出ている元「従軍慰安婦」の証言によると、朝鮮人慰安婦 の場合は82%が、台湾では50%が、国際法に規定された21才未満のとき に「慰安婦」にさせられました(上杉聡「『慰安婦』は商行為か?」第2版、 日本の戦争責任資料センター)。このような少女を「慰安婦」にした大半の軍 慰安所は本来ならもちろん国際法違反であったといえます。   このような軍慰安所制度が、はたして日本内地の公娼制度と同じであると いえるでしょうか? もっとも「利用者」の立場からすると、その区別はむず かしいかも知れません。内地で公娼を利用する感覚で、軍慰安所において軍票 を払い、性欲を処理する兵士たちにとって、その違いは相手が日本人かどうか くらいでしょうか?   この利用者「じっちゃん」の立場からすると、「従軍慰安婦」は商行為で あったとする小林よしのり氏の発想はすんなり理解できるのかも知れません。 さらに「じっちゃん」の観点からすると、軍慰安所を400ヶ所も設置した陸 軍省恩賞課長などは、褒められこそすれ非難されるものは何もないことでしょ う。   さらにうがった見方をすれば、陸軍省が軍慰安所という情欲処理の場を提 供してくれたおかげで、「じっちゃん」たちは占領地の一般女性を強姦しない で済んだとして、あるいは逆に感謝されるのかも知れません。   余談はさておき、小林よしのりのいう「じっちゃん」には、公娼制度の娼 妓と「従軍慰安婦」との区別はつきにくいと思われますが、この際、両者は制 度上どのように違うのかをみたいと思います。   日本が「婦女売買国際条約」に加入するとき、外務省と内務省との間で娼 妓の年齢をめぐって真剣なやりとりがありました。日本の娼妓取締規則では1 8才以上であれば娼妓登録可能であり、この点、国際条約の21才未満という 規定に合致しませんでした。   そこで年齢に保留条件をつけて加入したいとする内務省と、国際的な対面 を重んじ、国内法規を改正したいとする外務省との間で論争があったのですが、 そのときの内務省警保局意見が公娼制度のたてまえを如実に物語っていますの で、その外務省宛の回答の要旨を次に記します(川田文子「戦争と性」明石書 店)。   「満18歳以上の婦女で娼妓になる者は本人自ら警察官署に出頭し、娼妓 となる事由、尊属親の承諾の事実、その他必要事項を記載する書面を提出して 申請する。警察官署は、厳重、慎重な調査をし、その事情がやむを得ないと認 められる者に限り、娼妓名簿に登録し、稼業を認める。   貸座敷営業者とのあいだに人身の自由を拘束する契約はなく、娼妓が廃業 しようとする場合には本人自ら警察官署に出頭し、また、出頭できない場合に は書面をもって登録の削除を申請すれば、警察官署はただちに名簿から削除す る。何人といえどもこれを妨害することはできず、もしこれを妨害すれば内務 省令で3カ月以下の懲役または百円以下の罰金に処する。その他娼妓の通信面 接等の自由を妨害する者に対しても、省令で制度の規定を設けている・・・」   この資料は外務省とのディベート用に作成されたので、娼妓は自由稼業で あるというたてまえが強調され、実態を反映していないきらいはあるかも知れ ません。しかしながら、公娼はすくなくとも「制度上」は本人の自由意思が尊 重され、国家がきっちり管理する登録制であることがわかります。   娼妓というと、すぐ映画などに登場する「吉原」を連想し、自由な人身売 買・奴隷的な拘束を考えがちですが、明治になって人権意識のそれなりの向上 とともに、売春婦の人権も少しは配慮され公娼制度が作られました。   それでも悲惨な娼妓の実情を、内務省は日本の恥部と考えていたのか、前 記の外務省宛回答に次のような一節がありました。   「公娼制度の存在は道義上及国家の体面上極めて望ましからざる所を以て、 相当改善の必要を認むると雖も、現下の国情に徴し今俄に之を禁止する能はざ るを以て、風俗衛生上行政庁の厳重なる監視の下に当分之を存置するの己むを 得ざる状態に在りとす・・・」   このように娼妓は一応「行政庁の厳重なる監視の下に」あったのですが、 一方、植民地から連行された「従軍慰安婦」にはもちろん、そのような登録制 度などあろうはずがありません。そこにはルールも歯止めもなかった結果、は なはだしくは14,5才くらいのいたいけな少女まで「従軍慰安婦」にさせら れました。   こうした点から、娼妓と植民地出身の「従軍慰安婦」との違いは歴然とし ているのではないでしょうか。   なお国際条約ですが、日本は内務省の主張が通り、年齢および植民地条項 に留保をつけ25年に加入しました。しかし案の定、デンマーク代表などから 「なぜ婦女の保護を危うくするのか理解に苦しむ」と批判を浴びたのをはじめ、 日本国内でも廃娼運動の争点になりました。その結果、26年、貴族院でも見 直しが行われ、27年に年齢留保は撤回されました。   しかし植民地留保はそのままにされ、これが後日、多数の朝鮮人・台湾人 に強制を強いた「従軍慰安婦」を生むもとになりました。これからさらに進ん で、フィリッピン・インドネシアなど、より強制度の高い、占領地「従軍慰安 婦」へと発展していったのは周知のとおりです。こうした国際的な広がりとい う視野を梶山官房長官はどのようにみているのか知りたいところです。 (注)支那渡航婦女の取扱に関する件(秘)   内務省警保局長     各庁府県長官宛 (1938.2.23)   最近、支那各地に於ける秩序の恢復に伴ひ、渡航者著しく増加しつつある も、是等の中には同地に於ける料理店、飲食店、「カフェー」又は貸座敷類似 の営業者と聯繋を有し、是等の営業に従事することを目的とする婦女寡なから ざるものあり。   更に亦内地に於てこれら婦女の募集周旋を為す者にして、あたかも軍当局 の諒解あるかの如き言辞を弄する者も最近各地に頻出しつつある状況に在り。   婦女の渡航は現地に於ける実情に鑑みるときは蓋し必要やむを得ざるもの あり。警察当局に於いても特殊の考慮を払ひ、実情に即する措置を講ずるの要 ありと認めらるるも、是等婦女の募集・周旋の取締にして適正を欠かんか、帝 国の威信を毀け名誉を害ふのみに止まらず、銃後国民、特に出征兵士遺家族に 好ましからざる影響を与ふると共に、婦女売買に関する国際条約の趣旨にも悖 ること無きを保し難きを以て、旁々現地の実情その他各般の事情を考慮し、爾 今之が取扱に関しては左記各号に準拠することを致度依命此段及通牒候                記 1.醜業を目的とする婦女の渡航は、現在内地に於て娼妓その他事実上醜業を 営み、満21才以上且花柳病その他伝染性疾患なき者にして、北支、中支方面 に向かう者に限り当分の間之を黙認することとし、昭和12年8月、米三機密 合弟3776号外務次官通牒による身分証明書を発給すること 2.前項の身分証明書を発給するときは、稼業の仮契約の期間満了し、又は其 の必要なきに至りたる際は速やかに帰国する様予め諭旨すること 3.醜業を目的として渡航せんとする婦女は、必ず本人自ら警察署に出頭し、 身分証明書の発給を申請すること 4.醜業を目的とする婦女の渡航に際し、身分証明書の発給を申請するときは 必ず同一戸籍内にある最近尊属親、尊属親なきときは戸主の承認を得せしむる こととし、若し承認を与ふべき者なきときは、其の事実を明ならしむること 5.醜業を目的とする婦女の渡航に際し、身分証明書を発給するときは稼業契 約其の他各般の事項を調査し、婦女売買又は略取誘拐等の事実なき様、特に留 意すること 6.醜業を目的として渡航する婦女、其の他一般風俗に関する営業に従事する ことを目的として渡航する婦女の募集・周旋等に際して、軍の諒解又は之と連 絡あるが如き言辞、其の他軍に影響を及ぼすが如き言辞を弄する者は総て厳重 に之を取り締まること 7.前号の目的を以て渡航する婦女の募集・周旋等に際して、広告宣伝をなし 又は事実を虚偽もしくは誇大に伝ふるが如きは、総て厳重に之を取り締まるこ と。又之が募集・周旋等に従事する者に付ては厳重なる調査を行ひ、正規の許 可又は在外公館等の発行する証明書等を有せず身許の確実ならざる者には之を 認めざること  (カナはかなに変換)   http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/02/09 - 01954/01954 PFG00017 半月城 「従軍慰安婦」志願者 ( 7) 97/02/09 13:33 01918へのコメント    河原さん、#1918  >半月城さんはいつも、朝鮮人は被害者で、加害者は日本人、という思い込  >みで発言されていますが、このような単純な民族の善悪二元論では、とう  >てい《真実》を語り伝えることなどできないでしょう。  >それに朝鮮にも公娼制度があったことは完全に無視されていますね。   未だに河原さんがこのような見方をされているとは心外です。まず、私は植 民地朝鮮での公娼制度について#657に書きましたが、よもやその時の河原さ んとのやりとりをお忘れではないでしょうね。また同じところで「前提としてい るのは日本軍や政府の国家犯罪であり、個人の問題は二の次です」と書きました が、この私のスタンスを河原さんはなかなか理解されないようですね。   私は、日本が過去の一時期、軍国主義の誤った道を歩み、その過程で多くの 人、とくに植民地出身の「従軍慰安婦」などが悲惨な人生を強いられた歴史的事 実を問題にしているのであって、決して河原さんが問題にするような「単純な民 族の善悪二元論」を展開しているわけではありません。   この視点から、私は内地から戦地におもむいた「従軍慰安婦」も、日本の侵 略戦争の犠牲者であると考えています。彼女たちは、たとえ自由意思で「従軍慰 安婦」を志願したとしても、戦地では軍国主義のメカニズムのなかでどのような 悲惨な人生を強いられたか測りしれないものがあります。   内地出身の「従軍慰安婦」の証言はあまり聞く機会がないので、その苛酷さ についてはよくわかりませんが、女性を性欲の処理対象として扱う軍慰安所にあ っては、たとえ内地出身の慰安婦といえども、時には地獄のような生活を強いら れたかもしれません。私たちはこれについても決して目をつぶってはならないと 思います。   具体的に軍慰安所の地獄絵を示す例として、すこし特殊かもしれませんが、 元皇軍兵士が1942年、シンガポールで体験したエピソードを紹介します。         ーーーーーーーーーーーーーーーー   2月27日、われわれの駐屯地のほど近いところに慰安所が開設された。軍 隊は若い盛りの将兵をいっぱいに抱えている。従って、作戦を終わって一地につ くと、住民の女性とのトラブルの発生を防ぐために、一刻も早く慰安所を開設し て生理発散の場を与えようとするのが軍の習わしである。   軍司令部の後方係りが、早速住民の間に慰安婦を募集した。すると、今まで 英軍を相手にしていた女性が次々と応募し、あっという間に予定数を超えて係員 を驚かせた。難攻不落のシンガポール要塞を陥落させた日本の将兵は、今や住民 の憧れの的であったから、「日本兵のお相手ができるならば」と喜々として応募 し、トラックで慰安所に輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに 手を振って愛嬌を振りまいていた。   ところが慰安所についてみると、彼女らが想像もしていなかった大変な激務 が待ち受けていた。昨年の12月初めに仏印を発ってより、3カ月近くも溜まり に溜まった日本軍の兵士が、一度にどっと押し寄せていたからである。   私の部隊からも何人かの兵が喜び勇んで出かけていったが、気の弱い一人の 衛生兵が、間もなくしょんぼりと打ち沈んで帰ってきた。ちょうど医務室で軍医 と雑談していた私が、 「どうしたんだ、しょんぼりして。どうだった」 と聞くと、彼は言葉もなく座り込んで首を振り、ただ一言、 「かわいそうだったーーーー」 とつぶやいた。軍医が問いただしてみると、次のような話を聞かせてくれた。   彼が行ってみると、薄板を張って小部屋を仕切った急増の慰安所の部屋部屋 の前には、兵たちがいくつもの列を作って、並んで待っていた。前の奴が時間を かけていると、何しろ皆気がせいているから、 「何をしているか、早くすませてかわれ。後がつかえているんだぞう」 と叫んで、扉をどんどん叩いたという。中の奴がどんな格好でこの音を聞いてい たか、想像に余る奇怪な光景である。   英軍時代には一晩に一人ぐらいを相手にして自分も楽しんだらしい女性たち は、すっかり予想が狂って悲鳴をあげてしまった。四、五人すますと、 「もうだめです。体が続かない」 と前を押さえしゃがみこんでしまった。それで係りの兵が「今日はこれまで」と 打ち切ろうとしたら、待っていた兵士たちが騒然と猛り立ち、殴り殺されそうな 情勢になってしまった。恐れをなした係りの兵は、やむを得ず女性たちの手足を 寝台に縛り付け、 「さあどうぞ」 と戸を開けたという。ちょうど番が来て中へ入ったくだんの衛生兵は、これを見 てまっ青になり、体のすべての部分が縮み上がってほうほうのていで逃げ帰って きたというのであった。 (総山孝雄「南海のあけぼの」叢文社)          ーーーーーーーーーーーーーーーー   ある「従軍慰安婦」は、時には一晩に40人の日本兵を相手したと証言して いましたが、その凄さはこの証言から察するにあまりあります。   河原さんは鎖につながれるような奴隷の歴史を紹介されましたが、たとえベ ッドに縛り付けられなくても、異国の地に拘束され、在日韓国人・宋神道さんの ように、時には日本刀を突きつけられ強姦された女性は「性奴隷」と呼ぶのにふ さわしいのではないでしょうか。   もちろん、「性奴隷」の中には蓄音機を楽しんだり、外出を許可され買い物 を楽しんだりするなど、時には奴隷なりの自由はあったようですが、反面、慰安 婦生活で健康を害し病死したり、地獄のような奴隷状態に悲観して自殺した「従 軍慰安婦」がかなりいたことも事実です。   とくに朝鮮半島から連行されてきた女性の場合は8割くらいが21才未満で、 したが、そのようなあどけない少女にこのような苛酷な人生を強いた軍隊や、そ れを推進した陸軍省など日本政府の過ちはきちんと正されなければならないと思 います。   最近、小林よしのり氏などは、軍隊に慰安婦は必要であり、軍が関与するの は当然で何が悪いのかと日本軍本位の主張をしていますが、この発言のうらには 「従軍慰安婦」は軍需物資であったという「ゴーマン」な考えがあるのでしょう か。当時、海軍などでは「従軍慰安婦」は女というより軍需物資であるので、女 人禁制(?)の軍艦でも貨物室に乗せることができるという考えなども軍国主義 ならではの考えといえます。   こうした人たちにとって、「従軍慰安婦」は「人」である前に、性欲処理の ための「玩具」であったのかも知れません。しかし、これはまだましな見方かも 知れません。はなはだしくは、ある軍人など「従軍慰安婦」を「公衆便所」と表 現しました。1939年、第11軍の麻生徹男軍医は具申書「花柳病の積極的予 防法」のなかで 「軍用特殊慰安所は享楽の場所にあらずして、衛生的なる共同便所なる故・・」 と極論しました。こうした軍人の価値観で「従軍慰安婦」を判断することは、当 時の価値観でももちろん許されるものではないと思います。この麻生軍医は、公 衆便所としての機能を追求し、その答えとして朝鮮半島の少女に目をつけるので すが、それについては次回書くことにします。   http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/02/11 - 01988/01988 PFG00017 半月城 麻生軍医と理想的な「従軍慰安婦」 ( 7) 97/02/11 23:35   前回紹介したように、「従軍慰安婦」を「衛生的な公衆便所」と表現した 麻生軍医は、1939年、具申書「花柳病の積極的予防」を提出しました (注)。   具申書は、麻生軍医が上海で朝鮮人慰安婦80名、日本人慰安婦20名あ まりの性病検査を行った体験などをもとにまとめたものでした。それによると、 内地出身の「従軍慰安婦」は性病の急性症状こそなかったものの、局部に性病 の「烙印」があるようないかがわしい者のみで、とても「皇軍兵士への贈り 物」としてはふさわしくないので、内地で喰いつめたような娼婦を日本の最終 出港地で「淘汰」するよう提言しました。   一方これとは対照的に、朝鮮人慰安婦は若くかつ「初心者」が多いせいか、 花柳病の疑いある者はほとんどいないので「従軍慰安婦」として理想的である とほのめかしました。   この具申書に対する軍の対応はどのようなものであったでしょうか。いち 早く1970年ころ「従軍慰安婦」問題に取り組んだノンフィックション作家 の千田夏光氏によると、「麻生軍医の意見書が当時の軍幹部に、理想的な慰安 婦としての朝鮮人女性、その草刈り場としての朝鮮半島に目を向けさせた」と のことでした。その裏付けとして、同氏は麻生軍医が所属した第11軍の兵站 部に在職した元経理将校を探しだし、次のような証言を得ました(千田夏光 「従軍慰安婦」三一書房)。  「まず軍幹部というか作戦面しか知らない中堅幹部は、最初この意見書に大 した興味を持たなかったようです。しかし兵站担当のわれわれは一読して、よ く書いてくれた、調べてくれたと思ったものです。柳川軍司令官も大変に注目 されたと聞いていました。   正直に言って当時、彼女らに対し公衆便所という考えが強かったのですが、 兵站部がなくてはならないように、中国戦線でそれがなくてはならぬものであ ること、より優れたものでならぬことを考えていた高級幹部は、この意見書に 大いに賛意を強くしたようです。   シベリア出兵の教訓(性病の蔓延)ですか? そう言われると高級幹部に それがあった節は確かにあります。ただ、こんなことがあります。昭和初期の 日本陸軍の中堅幹部には精神主義がやたらに多く、そこから『糧を敵にもとめ る』という作戦が生まれていきました。つまり鉄砲と弾薬と銃剣だけを持って 敵中におどり込み、食糧は敵のものを奪っていくという考えです。例の辻参謀 などその代表でした。   この作戦思想が太平洋戦争になると、ひどい惨状へと軍自体が陥れていく のですが、当時の戦場は広い中国大陸でした。農村地帯でしたので、攻めれば 食糧がいくらでもあったことも事実でした。中国農民からすればそれは略奪に なりますが、食糧を奪いながら作戦することに日本軍は慣れきっていました。   これと同工異曲で、中堅幹部に『女(糧)も(必要なら)敵に求めればい いではないか』という思想が心のどこかにあったと考えてよかったということ です。高級幹部の考えとズレがあった訳です。したがって麻生軍医意見書にも 興味を示さなかったのでしょう。   しかし、もとめる『糧』が中国の軍隊の物であるなら問題はないが、民間 の物であれば治安問題につながることは戦史から見て彼らにもわかっていた。 さらに短期間の作戦ならまだそれですむとしても、長期作戦となると、こうし た事の積み重ねが大きな反動につながることも知っていた。   いっぽう、当時の中国首都である南京を攻略すれば日中戦争は終結すると 考えていた彼らの前に、蒋介石は南京陥落前に首都を漢口へ移し、徹底抗戦、 百年抗戦をとなえていました。軍の中堅幹部も長期の構えを備えなければなら ないことを悟りはじめた。ここに慰安婦についても考え直しはじめたのです。   兵隊を二年、三年と戦場にとどめておくには必需品であると考えはじめた のです。慰安婦第一号を日本から呼ぶことが決定されたのが昭和12年(37 年)末の南京攻略直後、徐州作戦発動の前であったのは、そうした動き、つま り戦争の長期化を考えはじめていたからです。最高幹部の考えに軍の実力者で ある中堅幹部がやっと賛成した、これが理由だと思われます」   この経理将校によれば、慰安所設置、慰安婦集めは、陸軍が短期作戦思考 を棄て、長期戦から持久戦に切りかえたことを意味するのであったとのことで した。さらにここから  「内地より慰安婦の大量動員を軍として考えるようになったのです。事実、 昭和13年(38年)早春から初夏にかけ、華中だけで千数百人の慰安婦が入 って来たと記憶しています」   ちょうどこのころ慰安婦集めは、内務省通達「支那渡航婦女の取扱に関す る件」(38.2.23,#1902) や、派遣軍宛の陸軍省通牒「軍慰安所従業婦等募集に 関する件」(38.3.4,#1304)からうかがい知ることができるように、内地で盛ん に行われていたようで時期的に符合します。こうして中国で「従軍慰安婦」は 増え続け、38年12月、武昌・漢口攻略のころ、一説には全中国戦線で3, 4万人にのぼったとされています。   これだけの慰安婦を日本内地のみから集めるのは不可能に近かったと、千 田氏は主張しています。以下に同氏の見方を紹介します。   「日本国内で集めるとしたら、常識からすれば売春経験者から集めること になるが、当時の日本国内の売春婦の数は、公娼・私娼を合わせ25万人から 30万人とされていた。これから3万人ないし4万人を引き抜くのは無理があ ったし、といって一般婦人から募集するには極めて問題があり、社会問題にな りかねない。さらに日本内地の売春婦の多くは麻生レポートに見るごとく疲れ きった性病経験者であり、慰安婦として適当と思われなかった。   前説が長くなったが、ここで、第1陣の中で『理想的慰安婦』が圧倒的に 多かった朝鮮人女性へと、軍幹部の目が必然的に向いていったのである。   その程度は、長期戦を予想し、全中国を制圧するために必要な兵力が50 万人から70万人と算出していき、必要慰安婦は3万人から5万人とされるに つれ、極めて強くなっていったという。   しかも、当時の朝鮮半島は植民地であり、植民地であるから多少強引な手 段で集めても問題はおさえられる。また、『共同便所』として使用するに抵抗 を覚えない差別意識が、当時の軍幹部だけでなく日本人にあったこともいなめ ない」   千田氏の見解についていうと、必要な「従軍慰安婦」の数が兵士の数に比 べてすこし多いような気もしますが、それはさておき本論の朝鮮人慰安婦がク ローズアップされた動機づけの主張は十分に納得できそうです。   また千田氏は、差別意識が朝鮮半島で慰安婦の大量徴集を可能にしたとみ ていますが、これに制度的な差別政策、すなわち前回詳述した婦女売買条約批 准の際の植民地条項留保なども影響したのではないかと思います。 (注)花柳病の積極的予防                   1939.6.26             第11軍第14兵站病院、陸軍軍医少尉・麻生徹男 1.緒言   或る疾病にして、患者及び其の周囲の者に関連する利害関係が大なれば、 其の疾病の社会的意義は大いなりと言ふ可し。此の意味に於て花柳病は其の平 時、戦時たるを問はず、急性伝染病は別して、結核に劣らぬ重要性を有するも のなり。・・・ 2.娼婦   昨年1月、小官上海郊外勤務中、一日命令により、新たに奥地に進出する 娼婦の検黴を行ひたり。この時の被検者は半島人80名、内地婦人20名余り にして、半島人の内、花柳病の疑ひある者は極めて少数なりしも、内地人の大 部分は現に急性症状こそなきも、甚だ如何はしき者のみにて、年齢も殆ど20 歳を過ぎ中には40歳になりなんとするものありて、既往に売淫稼業を数年経 来し者なりき。半島人の若年齢且つ初心なる者の多きは興味ある対照を為せり。 その後者の内には今次事変に際し応募せし、未教育補充とも言ふ可きが交り居 りし為めならん。   一般に娼婦の質は若年齢ほど良好なるものなり。即ち「ミュンヘン市」に 於ける検査にては、2,686人の娼婦中、花柳病に罹れる者は、26.5% に及び年齢別にすれば、・・・   されば、戦地へ送り込まれる娼婦は年若き者を必要とす。而して小官、某 地にて検黴中屡々見し如き両鼠蹊部に横根手術の瘢痕を有し、明らかに既往花 柳の烙印をおされし、アバズレ女の類は敢へて一考を与えたし。此れ皇軍兵士 への贈り物として、実に如何はしき物なればなり。如何に検黴を行ふとは言え。   一応戦地へ送り込む娼婦は内地最後の港湾に於て、充分なる淘汰を必要と す。まして内地を喰いつめたが如き女を戦地へ鞍換へさす如きは、言語道断の 沙汰と言ふ可し。   此れと類似せる問題として、現地支那の娼婦及び難民中の有病売淫者への 黴毒性疾患の浸潤驚くべきものあるが如し。此れ等に対しては軍として若し必 要なら軍用慰安所として我が監督下に入れるか、然らざる者に対しては断乎と して処置す可きなり。   此の為め該市にては英米先例にならひ、女警官を置き、この粛正にあたら しめ功を奏したりと言ふ。ここに注意すべきは支那娼婦の内、或る者は予防法、 殊に「コンドーム」の使用を拒否し、其の甚しきは之を破棄すと。此れ敵の謀 略により戦力の消耗せらるる、と同一たり。 3.検黴           省略 4.アルコール飲料   ・・・   軍用特殊慰安所は享楽の場所にあらずして、衛生的なる共同便所なる故、 軍に於ても慰安所内にて酒類の禁止されあるは寧ろ当然の事なり。然れども小 官慰安所監視中屡々酒類飲用の跡を見しは甚だ遺憾とする所なり。この為めに も営業の監視、娼婦の監督、引いては之れ等の教育指導を必要とする。 5.禁欲           省略 6.花柳病の認識       省略 7.狭義の予防法       省略 8.患者の取扱        省略 9.結言     ・・・  七.防疫軍紀の厳守   前記各項の目的達成は実に軍紀振作、防疫軍紀の高揚にあり。花柳病対策 も広義の防疫作業たる可く、将来、兵站司令部は此のため自己の医療能力を増 進充実せしむるか、或ひは他の有力なる衛生、防疫機関に作業の一部を譲渡す 可きなり。   ・・・   http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/02/15 - 02019/02019 PFG00017 半月城 西尾幹二教授の学問的姿勢 ( 7) 97/02/15 00:19 01962へのコメント    #1962,近藤さん  >いい加減に複数の方々から指摘されている、 > 「同胞を売り飛ばした朝鮮人の罪」  >に対するあなたの見解を聞かせて下さいよ。  >この重大な問いに対する解答がない限り、あなたの主張はすべて一方的な  >反日行為と受け取ります。 よろしいですね。   このような、私にはコメント強要型と思える書き込みは無視しようかなと も思ったのですが、ともかく今回は一旦は答えることにします。   私は、植民地時代に同胞を苦しめた輩については#657に書きましたが、 近藤さんはこれはお読みでしょうか?   近藤さんの書き込みを読んで、私は「朝まで生テレビ、従軍慰安婦と歴史 教育」に出演した、電気通信大の西尾幹二教授を思い出しました。「従軍慰安 婦」問題やドイツ問題でかなりの発言をし、「新しい歴史教科書を作る会」の 会長になられた西尾教授の意外な側面を発見し驚きました。   その内容はともねこさんが一部紹介されていましたが、あらためてその シーンをここで再現します。            ーーーーーーーーーーー 高島・琉球大教授「西尾さんは、吉見さんがこのこと(「従軍慰安婦」)につ  いて熱心に研究しているのを病的だとおっしゃいましたが、」 西尾教授「はい、たいへん病的です」 高島教授「これはあなたの言い方かも知れませんが、」 西尾教授「私は病理学の領域に入っていると思います」 高島教授「これはたいへん人格を傷つける表現ですが、私は、教育の場にて教  師同士または教師が生徒に対して「あなたは病的だ、君は病的だ」という言  葉は絶対にいってはいけない言葉、人権侵害だと思います」 水口司会者「西尾さんと藤岡さんね、やはり学者同氏でね、やはりひとつの、  吉見さんが資料を探し出していらっしゃるのに、そういう言い方、病的とい  う言い方はないと思います」 西尾教授「吉見さんにお伺いしますが、吉見さんはどうして世界の他のそうし  た機構・組織、世界で、私はドイツのそうした材料を持っていますが、そう  したものを比較したり、そうしたものがあるという前提でお書きにならない  のですか?」 吉見・中央大教授「ちゃんと私の「従軍慰安婦」のなかには、各国の比較もあ  るではないですか。ちゃんとお読みになったのですか?」 西尾教授「いや、読んでいません」           ーーーーーーーーーーーーー   議論がヒートするあまり、思わず失言するのはやむを得ないとしても、 「従軍慰安婦」について語ろうとする学者が、自分と反対意見の学者の代表的 な著書を読んでいないという事実にはほんとうに驚きました。この事実に会場 では失笑がもれましたが、西尾教授の学問的姿勢は疑問そのものです。西尾氏 は「常識を尊重し、常識に立脚して考える」とさかんに「常識」を強調されて いましたが、こうした姿勢が西尾教授のいう「常識」でしょうか?   http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 97/02/16 02062/02062 PFG00017 半月城 「従軍慰安婦」とアジア友好 ( 7) 97/02/16 22:25 02001へのコメント    河原さんからいろいろコメントをいただきましたが、これには一度に対 応しきれないので何回かに分けて書くことにします。  >もし半月城さんが、本気で「日本軍や政府の国家犯罪」を糾弾したいとお  >考えなのなら、いわゆる「従軍慰安婦問題」にだけこだわるのではなく、  >「進駐軍慰安婦」も含めた“慰安婦問題”を提起されるべきだと思います。  >なお、売春防止法が実施された57年以後も“特殊浴場”(ソープラン  >ド)などという売春施設が稼働?していることはご存じでしょう。そして  >それを日本政府(国家」はフーエー法(風俗営業法)で「関与」しつづけ  >ています。   この文章をみると、河原さんは私の「アジアからの視点」を十分に理解さ れていないようですね。この私の視点からすれば、RAAやソープランド・援 助交際など日本国内の性問題より、アジアに広がった買春問題の方が比重が高 くなります。いずれにせよ今は「従軍慰安婦」問題に重点をおいているので、 これにはふれないことにします。   私の基本的立場は#1318に書いたとおりです。そこで私は、日本軍が 軍事力を背景にした「従軍慰安婦」集めをしたことについてふれ、地元有力者 に「協力要請」をしたことに関して、次のように書きました。  > この「日本軍の協力要請」についてこれを文字通り協力とみるのか、あ  >るいは強制とみるのかは問題になるところです。これは日本軍の立場で考  >えるのか、あるいはアジアの一員として考えるのかによって意見が分かれ  >ます。ここの会議室の主要なメンバーはたぶん日本軍の立場で考えると思  >われますが、そこに私との考え方に基本的な食い違いが生じます。   ここに記したように、どんなスタンスで「従軍慰安婦」を考えるかにより、 意見が大きく食い違い、その両端の立場に立つ人同士の議論は、この前のテレ ビ討論「従軍慰安婦と歴史教育」のように、どこまでいっても平行線になりか ねません。   かたや、小林よしのり氏のように日本軍本位、男性本位の立場にたつと 「従軍慰安婦」はさぞかし必要不可欠であったことと思われます。性欲旺盛な 兵士の暴発を押さえるために慰安所は必要であり、その慰安所の開設にあたり 健康的な慰安婦の徴集が、場合によっては手段を問わず必要であったことでし ょう。また慰安所での性病の蔓延を防ぐためには軍医の関与はもちろん不可欠 であったことでしょう。   いっぽう、アジア各国の立場や女性の立場からすると、自国の同胞女性が 強制的に日本軍の「公衆便所」にされた歴史的事実は許しがたいものに写りま す。こうした義憤や「従軍慰安婦」本人が負った苦難に対し、男性本位主義者 や日本政府はどのように向き合うのかが現在問われているのではないかと思い ます。しかもその義憤は本来なら国際法違反に直結する犯罪を告発する性質の ものです。   こうした国際的な見解の相違をそのまま棚上げしたままでは将来、日本と アジアはどこまで本当に信頼関係を築いていけるのか危ういものがあります。 たとえばよく言われますように、日米の友好関係は悪化しても一日で修復でき ますが、日韓・日中間の友好関係は一日で損なわれる場合が往々にしてありま した。   この背景には、歴史認識に関して韓国や中国が、日本の閣僚などの日本軍 本位の発言に感情的反発をする一方で、日本は「戦後50年国会決議(注)」 などに見られるように戦争責任を直視するのを避けたがる傾向にあるため、日 韓・日中間の溝がなかなか埋まらないことが原因として指摘できそうです。   その溝を埋める第1歩は、過去を水に流し忘れ去ることではなく、過去に ついて明確な事実認識を持つことではないかと思います。この作業は日本の戦 争遂行世代にとってはかなりつらいことかも知れません。「新しい歴史教科書 を作る会」の西尾会長のような学者ですら、争点の「従軍慰安婦」について正 面から学ぼうとしないことは#2019に述べたとおりです。それどころか、 このように学問的姿勢に疑問のある西尾氏は、「従軍慰安婦」は教科書に1行 たりとも書かせないという頑迷ぶりです。   さらに、日本の若い世代も問題かも知れません。数年前まで、日本がアジ アを侵略した記述を認めたがらなかった検定教科書により教育されてきた日本 の若い世代は、日本がアジアで何をしてきたのかあまり知らないのが実情です。 これではアジアとの真の対話はもちろん困難です。   この点、日本の外務省はある程度アジアの心情を理解しようとしていたこ とは特筆に値します。ここの会議室#1988で千田夏光氏の著書「従軍慰安 婦」を紹介しましたが、この本は1970年代、外務省でアジア関係の外交官 にとって必読書であったようでした。そのことを千田氏は三一新書版「従軍慰 安婦」に次のように書いていました。  「アジア各地の駐箚大公使館をはじめ外交出先機関に、この「従軍慰安婦」、 「続・従軍慰安婦」が配備されていて、新たに赴任してきた外交関係者の必読 書にされているというのである。新任外交関係者へ、これによりアジア各地で 旧軍がしてきたことの一部でも知らしめようとしているというのである。とこ ろが、配備されている本書の多くはボロボロになり、中には散逸してしまった のもあるというのである」   この例などは、「従軍慰安婦」に見られるような日本軍の過去の行為につ いて十分な知識がないと、アジアとの外交推進に支障がでるという外務省なり の認識を示したものといえます。   さて過去の事実認識の次に、アジアとの溝を埋めるポイントは、その認識 の上にたつ明確な「ことば」であると思います。先日、ドイツとチェコは歴史 的な和解に同意しましたが、その和解宣言にはこう書かれていました。   「ともに未来への道を進むためには過去についての明確なことばが必要だ。 出来事の原因と結果を取り違えてはならない」   この宣言にならって、日本がアジア諸国とともに未来への道を進むために は、過去について日本軍本位でない明確なことばと行動、さらに教育が必要で あると私は思います。   ドイツの場合、ナチスの過ちや犯罪について学校では子どもが12歳にな った時点で1年間かけて教育するとのことです。その結果、昔ナチス親衛隊員 であった親は、自分の子どもの目が何よりもこわいそうです。これくらい徹底 した学校教育は、ドイツはもう二度と過去のような過ちは繰り返さないという 強い決意のあらわれでしょうか。こうした教育を藤岡教授や西尾教授はあるい はドイツ版「自虐史観」というのでしょうか?   ドイツのような徹底した教育が日本でもなされれば、アジアで日本もやが て心から信頼されるパートナーになることでしょう。しかし、現実は「従軍慰 安婦」についてわずか数行の記述をめぐって一騒動がおきている始末です。こ れでは日本はアジアにますます疑念を持たれるのではないでしょうか。   おわりに、アジアが日本の侵略戦争を現在どのようにみているのかを示す 新聞論調を紹介します。その代表的な例としてタイの新聞を紹介します。ちな みに、タイについて下落合95さんは「アジアのなかの日本」(#1766)と題し、 次のように書かれています。   > はっきりいって、日本の戦争責任が問題だとか   >謝罪が必要などと本気で考えているタイ人などほ   >とんどいないし、たいていはそういう問題がある   >ということすら知らない。   なお、記事の紹介は著作権が問題にならないよう一部にとどめます。日本 語訳の全文は、和田春樹他編「日本は植民地支配をどう考えてきたか」(梨の 木舎)を参照してください。 バンコク・ポスト社説            1995.6.8   「謝罪は認めよう、そして未来に向かって前進しよう」 (前半、日本の「戦後50年国会決議」に関する経緯は省略)   日本の植民地支配と暴虐について、率直な謝罪をすることを道義的な義務 と考えた村山首相に反対した者たちの考え方はまちがっている。   自民党の国会議員らは、謝罪の表明は第二次世界大戦における戦死者の名 誉を汚すと主張した。だが、すでに1930年代から40年代前半にかけての、 アジアにおける日本政府自身の行為によって、彼らの名誉は傷つけられている のである。   右派勢力はまた、日本は西欧の植民地支配からアジアを解放したのだから、 賞賛されるべきだと論じてきた。アジアのほとんどの人々はこうした主張に腰 をぬかすにちがいない。   満州からビルマ、さらに広きにわたるアジアの国々への日本の侵略は、抑 圧的であり、不道徳であり、野蛮なものであった。中国の南京における強姦か ら、カンチャナブリでの死の鉄道の敷設にまつわる残虐行為に至るまで、日本 の戦争当時の行為には道義というべきものはほとんどなかった。   アジアを植民地化した西欧諸国は、それでも、みずからの暗黒の歴史を正 そうと努めてきている。大日本帝国が植民地支配と戦う天使であったと主張す る日本人は、謝罪をなすべきところで、単に弁解をしているにすぎない。   第二次世界大戦における暴虐行為に対して、国家として謝罪しなければな らないという村山首相の主張は高い道義に基づくものである。日本の首相であ る彼は、議会が謝罪を拒否するなら辞任する構えさえ示した。結局、長い議論 の末に、議会は村山首相の求めたものの相当部分を受け入れたのだった。日本 は、アジアにおける「侵略的行為」と「植民地支配」に対し反省を表明するこ とになる。   大戦中の日本の暴虐による傷跡がいまだ癒えていないことは否定のしよう がない。日本の蛮行によって最も被害を受けた国々ではとりわけつらい感情が 根深く残っている。中国・韓国・フィリッピンなどでは若い世代さえ日本の残 虐行為をひどく嫌っている。   日本政府は、たとえ道義をそなえた村山氏が率いる政権であっても、心の こもった謝罪なくして日本に対するアジアからの疑惑を解くことはできない。   今日のアジアの指導者の多くは、第二次世界停戦について漠然とした記憶 しか持っていない。しかし、日本がアジアをいわゆる「大東亜共栄圏」の名の 下に支配したことの意図については、身にしみてわかっているはずだ。   大戦への謝罪をするかどうかで、日本の中でかくも広範で激しい議論がた たかわされたことから、アジアの多くの人々は、かえって日本の今日の政策を 疑いの目で見るようになっている。実際、日本は、戦後は経済的にアジアを支 配しようとしているのではないかと疑う者も存在するのだ。   過去の暗い歴史に率直かつ真摯に堂々と向き合うことを日本が避けるなら ば、日本が本当に排斥されていた戦中の帝国主義的支配が今も生き残っている と、人々に思わせることになっただろう。   アジアは、村山首相のかち取った国家的謝罪を寛容の心で受け入れるべき であろう。アジアは現在および将来のさらなる重要な問題に向け前進すべきと ころだ。第二次大戦を過去と呼んでいい段階にわれわれはたどりついている。 もちろんそれは、恐るべき戦争の教訓を忘れるべき時が来たということではさ らさらない。日本はこれから、現在の行動、将来へのプランによって評価され るべきなのである。   その証拠に、国際関係においてほとんど孤立主義ともいうべきだった日本 の姿勢は、近年あらためられてきている。日本はインドとパキスタンの両国に 対し、援助交渉のルートを活用し、武器輸出についての問題を提起した。   また、南アジアの安全保障問題に初めて中国を巻き込み、北朝鮮の核疑惑 に際しても公正な立場をとりえた。カンボジアでの平和の定着をめざしての日 本の行動は慎重だがしっかりしたものだった。さらに日本は、アメリカと旧ソ 連諸国との核軍縮、核廃棄の計画について経済的支援を行ってきた。   村山首相のかち取った国家としての謝罪は、日本自身にとっても近隣諸国 にとっても、重要なひとつのステップである。日本における世論調査でも、日 本の市民の大多数は謝罪に同意している。これはよいニュースである。   アジアにおける戦争での残虐行為を遠く将来に向かってつぐなっていくた め、この公式の謝罪と民意は契機となるべきである。とはいえ、日本が記憶し なければならない今回の謝罪は、決してひとつの時代の終わりではなく、新し い時代の出発点にほかならない。   謝罪が、アジアおよび世界の指導的で責任ある一員として懸命に努力して いくことの表明であることを、日本は身をもって示さなければならない。 (注)戦後50年国会決議 「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」    1995.6.9   本院は、戦後50年にあたり、全世界の戦没者及び戦争等による犠牲者に 対し、追悼の誠を捧げる。   また、世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをい たし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与 えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。   我々は、過去の戦争についての歴史観の相違を超え、歴史の教訓を謙虚に 学び、平和な国際社会を築いていかなければならない。   本院は、日本国憲法の掲げる恒久平和の理念の下、世界の国々と手を携え て、人類共生の未来を切り開く決意をここに表明する。   右、決意する。   http://www.han.org/a/half-moon/       半月城


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