半月城通信
No.105(2004.10.6)

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    目次

  1. 「冬のソナタ」ブーム
  2. 在日コリアン三世の器量
  3. 二重国籍者のパスポート
  4. 関東大震災と「大正3-9年役」
  5. 間島事件と青山里大捷
  6. 三・一独立運動から五・四運動へ
  7. 下條正男氏への批判、勅令41号
  8. 下條正男氏への批判、『隠州視聴合紀』
  9. 陸軍省の『地圖区域一覧圖』と竹島=独島
  10. 竹島=独島「日本の固有領土」説の検証
  11. 竹島=独島と日本共産党
  12. 愼鏞廈教授の独島百問百答(6)、韓日条約以降


「冬のソナタ」ブーム 2004.9.8 メーリングリスト[zainichi:28145]   半月城です。2週間前、メーリングリスト[aml 40807] に書いた文を一部訂正して転 載します。   やるせなく紅涙を誘う韓国のメロドラマ「冬のソナタ」、そのブームはドラマの次元 を超えて新たな社会現象を起しているようです。   しかし、そのブーム、あるいは火付け役のNHKに対する批判として、<日の丸放送 局が「韓国ドラマ」ブームを煽動して商売とは恥ずかしい>という意見もあるようですが、 私はドラマの内容より冬ソナブームが引き起こす波紋に注目しています。   それはブームというより、フィーバといったほうが適切かもしれません。フィーバは 思いがけない効果や、時には新時代をつくりだすものです。   二、三十年前、インベーダゲームがフィーバしましたが、それがいい例です。フィー バは半導体技術の飛躍的発展を促し、ファミコンを生み、さらにパソコンを庶民レベルの ものにしました。それがデータ通信技術の発展と相俟って、軍事技術であったインター ネットが家庭レベルになり、今日のネット社会が築かれました。ここの参加者はその恩恵 に浴しているわけです。時に、フィーバからは何が生まれるか予断を許しません。   さて「冬ソナ」ですが、ブームのおかげでドラマのヒロインであるチェ・ジウさんが 日韓親善大使に抜擢されるまでになりました。これをきっかけに私も冬ソナをみるように なりました。たしかに引きこまれる要素があり、女性に圧倒的な人気がある理由が納得で きました。   ヒロイン役のジウさんは親善大使として小泉首相に会ったとき「ドラマの細かい部分 まで覚えていて、驚いた」と語っていたようですが、親善大使の役割をそれなりにはたし ているようです(注1)。   そうした中、きのうの毎日新聞を見て驚きました。二面にわたる全面広告で冬ソナが 宣伝されていました。途方もない宣伝費を出せるNHKの関連会社は確かにもうかってい るようです。NHKのみか、出版社やレコード会社、旅行会社まで広告に便乗していたの で、同じようにもうかっているようです。   冬ソナは韓国旅行ブームも起しているようです。韓国旅行といえば、昔は「キーセン 観光」、最近は「アカすり」か「焼肉」などが中心で、いずれも韓国文化や韓国人の理解 にはあまり結びつきませんでした。   それがドラマを通じてわずかながらも韓国人の気性や物の考え方を知るようになり、 さらにドラマのロケ地観光をとおして地方都市をも少しでも知るようになれば、これまで の観光旅行よりはベターといえます。しかし、何よりも大きな効果は韓国に対する親近感 です。   国際関係でよく言われるように、日本とアメリカとの友好は悪化しても一日にして回 復するが、韓国・中国との友好は良好でも一日で壊れるというたとえがあります。その差 は、日本が相手の国をどれだけよく知っているのか、またどれだけ親近感をもっているの かがキーです。   日本からすれば、アメリカはよく知っている国で、かつてのゴールドラッシュとか、 アパッチとか、リンカーンが奴隷解放をしたとか、やれワシントンは桜の木を伐って正直 に名乗り出たとか、こまかいエピソードまでも熟知しています。   それに比べ、日本の国民は韓国をどれだけ知っているでしょうか? 早い話、日本が 韓国を植民地統治した史実すらどれだけの人が正しく知っているのかどうかあやしいもの です。ましてや、韓国の文化や歴史、韓国人に対する理解といったらさびしいものです。   そんな寒々しい韓国理解で、時に韓国側から教科書問題や歴史妄言などで謝罪要求が でると、かえって「日本は何度謝ったら韓国は気が済むのか」といった開き直りの嫌韓感 情すら生まれました。   韓国とは一衣帯水、ごく近くにありながら今まで無関心に近かった国が、ドラマをと おして好ましいイメージが形づくられる効果は貴重です。それから進んで韓国語の学習を めざす人も増えたようです。   かつて韓国語といえば、学習者として自衛隊関係者や官吏が目につきましたが、それ が冬ソナのおかげでわずかながらも市民レベルになり、それがきっかけで韓国旅行をする となると、地道な韓国理解の第1歩になりそうです。「冬のソナタで学ぶハングル」、こ れがいずれ通用するようになるかも知れません。  「冬ソナ」に味をしめたNHKは、韓流シリーズの続きとして10月からBSで一女性の 生涯をあつかった歴史ドラマ「宮廷女官、チャングムの誓い」を始めるようですが、これ は娯楽番組としておすすめです。台湾などでも好評だったようです。それが日本でも人気 が出るかどうか、ちょっと気がかりです。 (注1)<小泉首相:崔志宇さんらと歓談 「冬ソナ通」ぶりを披露> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


在日コリアン三世の器量 2002.8.18 メーリングリスト[zainichi:28110]   ***さん、こんばんは。半月城です。***のかねての希望により、さんづけを省 きます。   暑さ対策ですが、私はなるべく汗をかくようにしています。とくに夕方、汗をかけば かくほどその後のビールが最高です。そう思うと昼の暑さもそれほど苦になりません。   先日、暑い中を韓国領事館へ行って、孫娘である悠里ちゃんの出生届をだしてきまし た。「悠里」は日本語読みでも韓国語読みでも同じ「ユーリ」です。たしか、ドラマ「東 京湾景」のヒロインの母親も日本語読みで「ユーリ」でしたっけ。   ただ、悠里の読み方は日韓共通でも、姓のほうは異なります。といっても日本風の 「通名」を使うからではありません。日本人としての姓と韓国人としての姓の両方をもつ からです。   そんな折り、***の書き込みを読んでちょっと気になりました。読むまでは、悠里 ちゃんは二重国籍だから、ハタチくらいまでは日本と韓国と両方のパスポートを持てるの かななどとぼんやり考えていたのですが、悠里ちゃんも大きくなったら***のように 「日本人なのか? 韓国(朝鮮)人なのか?」と問われ続けられるのかなという懸念が頭 をよぎりました。   ***が、そうした問いから解放されるための努力をしてきたと書いているのは注目 されます。また「AでもないBでもない領域のために命をかけたい」という一節は意外で した。   というのも、私は暗黙のうちに「Aでもあり、Bでもあるので、両方の特質を活かし たい」といったたぐいの考えを期待していたからでした。もっとも、***は「ヒトが 作った全ての二項対立的な観念を採用しない」とか、「やれるなら両方やっとけ!」とも 書いているので、両者は案外それほど差がないのかも知れません。早とちりかな?   それはともかく、両方の考えは日本のなかでは共に少数派に属するといえそうです。 私の甥などもそうですが、多くはAの道、すなわち日本人としての道に徹して、Bの道を 排除しているように見えます。   日本人としての徹しかたですが、中には生粋の日本人以上に日本人らしくふるまう人 をたまに見かけます。韓国人の血から逃れるつもりが、かえって韓国の影に振りまわされ た結果でしょうか。あわれ、二項対立の犠牲者をみる思いがします。   一方、これは二項対立の犠牲者といえるかどうか、先日、親戚の結婚式で数十年ぶり に学生時代の仲間に会いました。学生時代のかれは反独裁、民主化運動の理論家でした。 再会した時は民団の役員もしていたのですが、その時、かれは場所柄こんなことを言って ました。  「もし、娘が結婚相手に日本人を連れてきたら、バットをもって追い返す」   この言葉に、昔のかれを知る私は目を白黒させるばかりで、二の句がつげませんでし た。何とも「志操」の高いこと。ご立派です。昔のかれは理路整然としていたものでした。 たとえば、金日成に対する個人崇拝について、こう語るような人でした。  「人が人を崇拝するのは、人が偶像や実在しない神を崇拝するより、よほど人間らしい 行為である」   主張への賛否はともかく、内容は切れ者らしいあざやかな切り口でした。そのかれが 感情をむきだしにして、バットをもって日本人を追い返す姿なんて私には想像だにつきま せん。かれは二項対立の犠牲者なのか、あるいは勝者なのか決めがたいところです。もっ とも***流によれば、そうした二項対立の観念を持ちだすのが問題なのかもしれません が。   こんなかれの記憶からすると、***の意見<当事者が”主人公”になるべき話で あって、主人公以外の歴史性や思惑で「パートナー対象を制限され、生活がコントロー ル」されるような制度は、すべからくナンセンス>という見方に賛成したいところです。   しかし、これはその主人公が周囲と隔絶して生きられる場合なら問題ないのですが、 在日コリアンの場合はむずかしそうです。周知のように、在日コリアンの家庭は大家族的 な側面があり、親戚関係が濃厚です。   日本人の感覚ではハトコともなれば赤の他人に近いのでしょうが、われわれの場合、 ハトコは日本人の感覚でいうと、イトコくらいの親近感があります。それが伯父、伯母と もなればなおさらだし、ましてや親ともなれば大きな山です。   その親の見識や経験、人生観や歴史認識をいずれ乗り越えられるほどの器量が当事者 にあり、かつ当事者の選択が幸せな将来につながる見通しが濃厚であれば、問題なく** *の意見に賛成します。   その場合は、もちろん皮膚の色や国籍、信条などは問題にならないことでしょう。要 は一般論ではなく、当事者の器量次第です。それに自信がないのなら、親の意見に従うの がかえって幸せになる確率が高いでしょうか。***は、それらをうまくクリアしたこと 思います。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


二重国籍者のパスポート 2004.8.23 メーリングリスト[zainichi:28123]   半月城です。チッペルレさん、耳寄りな話をありがとうございました。 >少なくとも、外国の公職に就任せず、自ら日本国籍を離脱しない限り、日本国籍は無く なりません。   日本も子どもの戸籍が父母両系主義になって、二重国籍にだいぶ寛容になったようで す。両国の友好には好ましいことです。二重国籍を積極的に自覚する人こそ、両国に愛着 を持ち、両国の架け橋に少しは役立ちたいという思いが強いことでしょう。   ただ、本人にとっては重国籍が自然体でも、国家にしてみれば、重国籍者はある部分 でコントロール外になるので、二重国籍者をどう扱うのか悩ましいところかもしれません。 それを逆手に取れば、二重国籍者が旧来の国民国家の枠に穴をあけるキーになるかもしれ ません。   その典型例がパスポートでしょうか。ただ、日韓の場合、日本のパスポートはビザが 不要な国が多いなど応用範囲が広く便利なので、両国のパスポートを持っていても、自然 と日本のパスポートを多用することになるでしょうか。   実際問題として、日韓の重国籍者が韓国のパスポートで日本を出国したとき、再入国 が問題になりそうです。その時、日本人という理由でビザなしに入国できるかどうか興味 あるところです。   一方、日本入国のビザを取るとしたら、どこでとるのかも問題です。日本国内ではむ りかもしれません。外国人登録をしていない重国籍者に再入国許可制度は考えにくいとこ ろです。一方、日本の法律上で日本人である重国籍者が、外国で日本入国のビザを申請す るのも変で、受けつけてもらえないかもしれません。チッペルレさんはこうした経験をお 持ちですか?   もっとも、これは机上の単なる空論といえそうです。こんな苦労をわざわざしなくて も、日本のパスポートを使えば何の問題もないので、そんなことする人はまずいないで しょうか。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


関東大震災と「大正3-9年役」 2004.9.22 [aml 41162]   半月城です。   なすびさん、一年前の質問をよく思い出していただきました。それに応えてくださり、 【9.26姜徳相氏講演集会】要旨の紹介をありがとうございました。   その中で目を引いたのは、関東大震災時における朝鮮人虐殺の背景としてあげられた 「大正3-9年戦役」という耳慣れない語です。   RE:[aml 41058] > まず背景として押さえておきたいのは、なぜ当時の国家権力が朝鮮人を恐怖・脅威の 対象にしたのかということ。それは、権力側がいう「大正3-9年戦役」を見なければなら ない。   これは新しい資料のようです。大正3-9年というと 1914-1920年になるのですが、こ の時期が関東大震災時における朝鮮人虐殺とどうつながるのか、私はすぐにはピンときま せんでした。すこし気になって、姜徳相氏が書いたものをあたったところ、昨年12月17日、 東京大学での講演「私と歴史学」の要旨で、次のように書いてあることがわかりました。        --------------------   私は、関東震災の研究をしているうちに、この事件は単に在日の悲劇、悲しい物語で はないということに気づきます。   つまりそれは、朝鮮の解放運動、独立運動と密接にからんだ事件、つまりある面では 植民地主義の摂理だと考えるようになります。これについては、私は、最近改訂版を出す ことがありまして、新たに史料を検索したところ、朝鮮憲兵隊が作った史料をみつけまし た。   この史料の中に憲兵隊は、日本には「日清戦役」「日露戦役」という言葉があります が、その後に「大正三年乃至(ないし)九年戦役」という言葉を入れていました。さらにそ の記述の後にかっこして「(西伯利(シベリア)出兵、第一次、第二次朝鮮騒乱事件)、間 島事件」とありました。  「間島事件」というのは満州での朝鮮人虐殺のことです。だからシベリア戦争、三・一 運動、間島事件を「大正三年乃至九年戦役」と総括していたのはまちがいないのです。こ れはまさに植民地戦争なのです。   日本の当時の憲兵や軍隊は植民地で戦争が起きていたんだという認識を持っていた、 そのうえで関東大震災のときの虐殺を重ねると震災で権力機能が瓦解した、これに乗じて 朝鮮人が何かしでかすのではなかろうかという判断の中で、権力が先制攻撃をしたのが戒 厳令であり虐殺だろうと、私は最近思っています。        --------------------   1914年からのこの時期まで、日本軍の海外出兵が続いたのですが「第一次朝鮮騒乱」 とは、おそらく 1919年の三・一独立運動をさすものと思われます。この運動は多くの犠 牲者を出して終わりましたが,中国の五・四運動などにも影響を与えたようです。それに 関する質問がここでありましたが、ちょっと主題からはずれるので、詳細は次の機会に書 くとします。   一方「第二次朝鮮騒乱」ですが、これは朝鮮北方の間島地方における朝鮮独立軍の抗 争をさすのでしょうか。その概要を姜徳相氏はこう記しました。        -------------------- 独立軍抗争   三・一独立運動(1919)以後,朝鮮国内での非暴力闘争の失敗の教訓に学び,武装闘争 路線に再編して,国境を接する中国東北地方にまたがって展開された朝鮮独立運動。とり わけ中国東北地方は旧韓末の義兵闘争の志士が活動を継続しており,シベリア干渉戦争の 影響もあって,抗日独立軍は短時日のうちに武装力をいちじるしく強化することができた。   独立軍は朝・中国境地帯に一大軍団を形成し,1920年になると長大な国境線は独立軍 の散兵線となり,朝鮮総督府はその侵襲,テロにおびえた。独立軍は,豆満江岸の美占, 三屯子,鳳梧洞で組織的攻撃もはじめるが,日本軍は20年10月に琿春(こんしゆん)事件を 捏造(ねつぞう),〈満州〉侵略の口実とし,独立軍の〈討伐〉を開始した。   独立軍は李青天,洪範図,金佐鎮,李範・(はんせき)らの指揮下に正面衝突を避け, 〈旅行団〉を編成,移動しながら和竜県 青山里の森林で日本軍をむかえうった。約3000 の独立軍は同年10月20~23日,大小10余回の戦闘をくりかえし日本軍の加納大隊に壊滅的 な大打撃を与えた。   朝鮮独立軍が3000の兵力を集結して勝利を得たのは旧韓末の義兵蜂起以来かつてな かったことであった。青山里の勝利は独立運動の軍事路線の正しさを再確認させ,その後 の武力抗争の出発点になった。それは在外同胞の民族的信頼の回復,大同団結に大きな力 となり,上海の大韓民国臨時政府の威信を高めた(注1)        --------------------   日本軍の正規大隊に壊滅的な打撃を与えたとなれば、間島における独立軍の抗争は 「戦役」と呼ばれるのに不足はないようです。大打撃を受けた日本軍は朝鮮人が多く住む 間島で大量虐殺と村落の放火、略奪、破壊をほしいままにしたのですが、これが「間島事 件」でしょうか。   RE:[aml 41058] > さらに関東事変と呼ばれる朝鮮独立軍の鎮圧のために出動した日本軍の連隊が全滅す るという事態も起きている。この過程を体験した現地の司令官クラスが、関東大震災にお ける戒厳軍や憲兵隊を指揮することになる。こうした緊張状態にあって、国家権力にとっ ては、在日朝鮮人は要警戒の対象であった。  「関東事変」というのは「間島事変」の変換違いでしょうか? いずれにしても間島で の敗戦を体験した日本軍の司令官クラスが関東大震災で憲兵隊や戒厳軍を指揮したようで すが、そうなると彼らの脳裏には震災パニックの中で在日朝鮮人が何かをするかもしれな いという一種の恐怖心があったとしても当然といえるかも知れません。 そうした背景が、震災当日である9月1日には早くも戒厳令布告の動きにつながったとし て、姜徳相氏はこう記しました。        --------------------   政府当局の戒厳要請が、9月1日午後2時頃に始まり、種々の経過をへて、遅くとも 9月1日夜には戒厳軍隊の動きが見えるなど、臨戦態勢が確立されたのを知り(注2)、 戒厳令は「朝鮮人暴動」すなわち内乱を認定して発布したのではなく、朝鮮解放闘争との 日常的緊張関係に置かれていた日本政府当局が明らかに「朝鮮人を警戒すべきである」と いう予測の中でたてた対策であるとみなすのが、より妥当であると考えた。   そのように考えないと、出動命令を受けた千葉県駐屯軍隊が9月1日夜から戒厳出動 して臨戦態勢を整え、朝鮮人狩りを展開しながら東京へ進駐してきた過程を説明するのが むずかしい(注3)。        --------------------   当時の軍隊の動きについては、これを書き出すと長くなりそうなので、くわしいこと は下記を紹介するにとどめます。 <関東大震災と朝鮮の独立闘争> <軍の虐殺、関東大震災と朝鮮人(5)> (注1)日立デジタル平凡社『世界大百科事典』 (注2)原著注、姜徳相「関東震災下‘朝鮮人暴動流言’について」(韓国語)        『歴史批評』1973.10 (注3)姜徳相「関東大震災朝鮮人虐殺をみる新しい視点」(韓国語)『歴史批評』1999夏号 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


間島事件と青山里大捷 2004.10.3 メーリングリスト[aml 41268]   半月城です。   なすびさん、「間島事変」の確認ありがとうございました。   RE;[aml 41204] 、なすびさん >「間島事変」という言葉が一般的かどうか、私には分らないのですが、姜徳相先生は 「間島事変」という表現を使われていました(この報告を書いてくれた参加者に確認しま した)。   間島で起きた一連の事件を日本帝国の朝鮮軍司令部史料「間島出兵史」では「琿春事 件及間島出兵」とし、その中でまれに「事変」の名を使用しています。一般に「事変」の 名は宣戦布告なき侵略戦争をさす場合が多いのですが、正式には閣議決定によるみたいで す。この時はそうした決定がなかったこともあり、間島事件のほうが一般的なようです。   RE:[aml 41216] 、JAWAYさん >一方の資料だけではなく、多方の資料を参照して貰えませんか?   ふつう、体制側の史料は残されても民衆側の史料は少なく、多角的な分析はむずかし いのですが、間島事件では独立軍側の史料も一部が残っているようです。双方の史料を集 成して、金正柱氏は史料解題をしましたが、その解説文が間島事件の理解のみならず、遠 く韓・中間の高句麗歴史論争や北朝鮮の脱北者問題などの背景理解につながるので、長く なりますがここに引用したいと思います。        --------------------   間島出兵の前後および日帝による不逞鮮人剿討計画の全貌をみると、およそ次のよう な筋書きをたどっている。   三・一運動の翌年1920年にはいると、間島地方では在住韓人による組織的な抗日運動 が 1月・3月・5月・6月と相次いで起きた。これに対し、羅南(咸鏡北道)駐屯の第19師 団長は独断で越境出兵し追撃戦を敢行した。  ・・・   9月と10月に、またまた琿春地方に連続二回の集団襲撃(日本側は彼らを馬賊と称し ていた)が行われると、朝鮮軍司令官は予てからの中央部との連絡に従って、すかさず大 部隊の出兵をして本格的な掃討作戦を開始した(注1)。   これがいわゆる「間島出兵」で、その大義名分とするところは「琿春及び間島地方に 在る帝国臣民を保護し、該地方に於ける不逞鮮人を一掃して帝国 就中(なかんずく)朝 鮮の治安を維持するに在りて、国家自衛上 己むを得ざるもの」云々となっている。  ・・・   日本軍は第十九及び二十師団麾下の歩兵部隊を主力として、日本本土からも露領派遣 軍からも応援を求め、現地守備隊と警察軍とも合同した一大連合部隊による徹底した殲滅 作戦を展開した結果、500名に昇る殺戮、700名を越える逮捕者のほかに銃器弾薬の押収、 民家 学校 教会の焼却はもちろん、相当数の帰順者まで得た戦果ではあったが、結局はこ の地方における抗日運動を根絶するまでは、殆ど為し得る術がなかった。   その位、独立運動というものは日本当局が予想して圏内を遙かに越えた根深いしかも 幅広いものであったといえる。掃討作戦後、日本軍によって発表された「出兵の効果」な る報告書にも、「諸種の原因により彼等の壊滅的打撃を与うるに従わず、その中心的人物 と目すべきものの大部は之を逸したるが如し」と自ら嘆いている程である。   最後に、当時上海発行の韓字新聞である「独立新聞」中、間島出兵に関連する諸記事 について一言したい。これはやはり史料価値という点で、原文をそのまま転載することに した。しかしこれに対しては、若干の説明が必要であろう。   最初に掲げた「北墾島(間島の古名、半月城注)の独立運動」と題する一文であるが、 これは近世(1870年ごろ)に入って始めて二人の韓人兄弟が計画移植をしてから、当時 (1920年ごろ)10万人以上の入植者を算するまでの開拓史から筆を起し、その間における 独立運動の抬頭状況を詳細に叙述している。   即ち間島地方に韓人が移植した初期のころは、頭満江の北下畔嶺の南を限界として、 数百年の間、韓中両国の封禁が厳しくて渡江移住など考えられず、この禁を犯した者は 却って「越江罪人」という烙印のもとに断罪した程であった。それも咸鏡道民の渡航は夜 陰に乗じて行われ、しだいに農民たちの移住が漸増していった。   その後、これら移住民のなかで白頭山 定界碑の碑文が「左為土門、右為鴨緑」とい う字句を挙げて間島の韓領であることを指摘し、延いて韓中両国間に勘界問題まで提起す るようになるや、咸鏡道民は多大な自信をもって移住するようになり、それに韓日合邦後、 祖国光復の大志を抱いて渡航する者が激増して、ついに60万以上の人口になった。   同運動史は、ついで社会活動に従事している各種団体、民族精神の昂揚に努めている 80余の小学校、5000名を越える基督(キリスト)教徒たちの宗教活動など、項を逐って概 説を試みている。   間島出兵に関する記事は、韓人独立軍と日本派遣軍との間に展開された各地の戦闘状 況に併せて、日本軍による無故の韓人虐殺の惨状を数字を挙げながら具に報道している。   しかし何といっても圧巻をなしている記事は、有名な「青山里附近の戦闘状況」であ る。青山里は茂山邑を南に距る約十里の地点にある忠信場より連なる延々6里の長谷であ る。   間島出兵のなかで最も激戦を展開し、しかも韓人独立軍の戦勝に帰している「青山里 戦闘」は、韓人独立運動史における武力抗争の一高峰をなすもので、それこそ前後絶無の 奇戦とまで表現されている。   日本の間島出兵は、殆ど一個師団に匹敵する兵力であったが、これに比べて物の数で ない劣勢をもって、最後まで抵抗していた独立軍側の強烈な戦闘意識もさることながら、 前後一週間にわたる青山里戦闘の激闘ぶりは正に意気捲昂の物語である。   先ず両軍の編成の一例から見ても、如何に両者間に兵力の懸隔が顕著であったかが容 易に窺える。すなわち 韓軍独立軍  第一連隊 隊長 洪範図 (六個中隊)  第二連隊 隊長 金佐鎮 (二個大隊)  第三連隊 隊長 崔振東 (六個中隊)  後方隊  隊長 李範セキ (旅行団) 日本出兵軍(この方面における)  東支隊(支隊長 東少将)  局子街方面 歩兵一個大隊 機関銃一個小隊  天宝山方面 歩兵一個大隊 機関銃一個小隊  頭道溝方面 歩兵一個大隊  竜井村方面 支隊司令部、歩兵一個大隊 機関銃二個小隊 通信班騎兵一個連隊        野砲兵一個中隊 特殊砲隊 工兵一個中隊 となっている。とに角、この両軍が青山里谷間において戦闘を交えるのであるが、一つだ けたいへん奇異な点は、戦闘前の両軍の気構えがぜんぜん違っていたということである。 即ち出兵軍の積極的な殲滅意識に対し、独立軍の方は寧ろ避戦的態度であったのである。  ・・・   しかしこのような多勢に無勢、積極と消極の大差があったにも拘らず、戦果に至って は全く逆な結果を招いている。これを比較してみると、 出兵軍発表(日本軍) 10月21日戦闘(青山里)  我軍 戦死 兵卒4、負傷 下士1 兵卒2  賊徒 死体16 10月22日戦闘(漁朗村)  我軍 戦死 下士1 兵卒2、負傷 兵卒12  賊徒 死傷 約60 俘虜5、小銃22・・・ 10月24日戦闘(天宝山)  賊徒 死者2 10月25日戦闘(漁朗村)  賊徒 死傷 約30、小銃10・・・ 独立軍発表(大韓軍政署)  敵 死者 連隊長1 大隊長2 其他 将校以下1254(自軍相撃 射殺500余)    傷者 将校以下200余 という数字が見られる(注2)。        --------------------   独立軍の発表は、独立運動を高揚させるため誇大な発表をしているようで、どこまで 信頼できるのか疑問です。それをさしおいても日本軍は相当な打撃をこうむったようです。   どこでも軍の発表は、自軍の損害は控えめに、敵の損害は誇大に発表しがちなのに加 えて、敗北しても「敗退」を「転進」などといいかえるので、軍の発表は額面どおりに受 け取れないのが常です。   そうした事情を考慮するとき、つぎの陸軍大臣あての電報(10/25)などは日本軍の苦 戦を如実に物語っているようです。  「蜂蜜溝 及 青山里附近に於ける東支隊の戦闘に徴するに 此方面にある賊徒は 金佐鎮 の指揮下にある軍政署の一派と獨立軍中 洪範図の指揮する一團とを合せ機關銃等の新武 器を有し約六千より成るか如し 従て多方面と異なり頑強に抵抗しつつあり(注,P386)」   青山里戦闘における独立軍の勝利は独立軍や上海の大韓民国臨時政府に自信と勇気を 与えると同時に、植民地下の韓国人に一筋の希望を持たせたようでした。   その一方で、日本軍に刃向かう頑強な「不逞鮮人」のイメージが日本軍の現地司令官 にうえこまれたようでした。後日、それが関東大震災時における素早い戒厳令につながっ たとするのが、姜徳相氏の主張のようです。 (注1)姜徳相氏はこの琿春事件について、日本軍が中国人馬賊 長好江一味を利用した捏   造だとしてこう記しました。        -------------------- 琿春事件(日立デジタル平凡社『世界大百科事典』より)  日本は中国官憲に(間島における)朝鮮独立軍弾圧を要求,執拗に外交圧力をかける一 方,独立軍への追跡攻撃権を主張,直接進攻によりその根処地覆滅の機会をねらっていた。  そのため日本は独立軍が琿春の日本領事館を襲撃した事件を捏造(ねつぞう)したのであ る。事件に利用されたのは中国人馬賊長好江一味であった。総督府に買収された長好江は, 20年9月12日と10月2日の2回にわたり,約400名の兵力を指揮し,琿春城を襲撃,日本領事 館の破壊と日本人居留民の殺傷を目標とした(第1次,第2次琿春事件)。  日本政府は事件を誇大に粉飾,襲撃は日本に怨恨をもつ〈不逞鮮人団〉の妄動であり, 背後に労農ロシアの思想的指導があると宣伝し,中国政府は治安維持能力がないと非難し たが,日本人の生命財産を守るため出兵するという口実作りであった。  こうして20年10月5日から朝鮮駐屯軍,シベリア出兵軍,関東軍など2個師団の日本軍が 三方から同時に間島に進攻し,間島居住の朝鮮農民は〈不逞の徒〉として三光作戦の対象 となった (注2)金正柱編『朝鮮統治史料』第2巻、韓国史料研究所(日本)、1970 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


朝鮮三・一独立運動から五・四運動へ 2004.9.26 メーリングリスト[aml 41190]   半月城です。前回予告したように、1919年の朝鮮三・一独立運動が五・四運動などに およぼした影響について書くことにします。   RE:[aml 41177] >「三・一運動は、中国の五・四運動やインドのガンジーなどにも影響を与えた 大きな 意義を持つ闘いでした。」  に関して訂正すべき理由が見当たりません。   そのとおりです。それを具体的にみることにします。   中国史上、画期的な五・四運動は、ベルサイユの横暴に学生たちが立ちあがったのが きっかけでした。ベルサイユ講和会議が公理に反して、ドイツが有していた山東半島の利 権を日本帝国の意のままにするといったんは合意したのでした。これに反対する北京市内 12校の代表は次の大会宣言を発表、デモ行進をおこない、いわゆる五・四運動を展開しま した。        --------------------   いまや日本は国際会議場において青島の併合、山東における一切の権利の管理を要求 し、まさに成功せんとしている。彼らの外交は大勝利を収めた。わが外交は大敗北を喫し た。   山東の大勢ひとたび決すれば、中国の領土は破壊される。領土が破壊されれば中国は 滅びる。それゆえにわれら学界は本日 隊伍を整えて各国公使館に至り、各国が公理を維 持せんと要求するのである・・・(注1)        --------------------   この宣言文を起草したのは羅家倫ですが、かれは五・四運動を回想して朝鮮学生の勇 気をこう称賛しました。  「五・四以前の中国は口さきでは大口を叩くが、実行のだんになると、みな尻込みして しまい、ロシアの学生に及ばないだけでなく、朝鮮の学生に比べたら、全く恥ずべき存在 でしかなかった。この運動(五・四)の中で始めて中国の青年学生は空拳を振りあげ素手 で暗黒勢力と格闘した(注2)」   三・一運動に影響を受けたのは彼だけではありませんでした。五・四運動で先駆的役 割をはたした北京大学生の同人誌『新潮』にて傳斯年は「朝鮮独立運動中之新教訓」 (1919.4.1)と題して檄文を発表したことを小島氏はこう記しました。        --------------------   傳が朝鮮革命の素晴らしいこととして「このたびの朝鮮の独立は・・・未来の一切の 革命運動に対して三つの重要な教訓を与えている」、第一にこれは「非武装の・・・素手 の革命」であること、第二に「不可能と知りつつこれを為す」革命であること、第三に 「純粋な学生革命で・・・官僚、政客、軍人にたよらず・・・ひたすら一般書生の自覚心 だけに依拠した真に最も純潔で最も輝かしい行動」であることをあげ、その中で「朝鮮人 の強固な毅力を見るにつけ、我々は身のおき所のないような恥ずかしさを覚えざるを得な い」とのべ、「中国の学生が朝鮮の学生からその不屈の精神を学ぶべきことを強く訴え」 た(注2)。        --------------------   同様に、北京大学「学生救国会」の雑誌『国民』も三・一運動をとりあげ、「朝鮮人 老若男女の果敢な運動を賛え、日本の無法・野蛮・残忍・狡猾を非難し、日本の走狗と なって東北在住朝鮮人の独立運動を弾圧する自国当局を糾弾した(注3)」と記していま す。   一方、三・一運動に影響を受けたのは学生だけではありません。『新青年』によって 新文化運動を展開した陳独秀,魯迅らのグループも三・一運動には注目しました。   中でも共産党の創始者のひとりである陳独秀は、「偉大 誠実 悲壮かつ明瞭正確、民 意をもとにし・・・世界革命史に新紀元を開いた、朝鮮民族にはこの栄光があらわれて ・・・いっそう我々中国民族の萎靡していることの恥ずかしさが明らかになった。 ・・・みよ朝鮮人の活動を・・・朝鮮人にくらべて我々はまことに慚愧にたえない(注 1)」と書きました。   このように五・四運動のにない手は三・一運動に大きく鼓舞されたのですが、その根 底には日本による朝鮮の併呑は中国侵略の発端であり、日本による山東半島の要求などは 亡国の道へつながるという危機感があったからにほかなりません。5月8日、孫文のブレー ンである戴天仇は「告日本国民書」でこう語りました。        --------------------   日本は(日清講和)条約を破り信義にそむいて朝鮮を併呑した。中国人は日本のこう した驚くべき手段を見て、唇を失い歯寒きの感なきをえない。それというのも、日本の朝 鮮併呑は中国本部の侵略の発端であるのがわかっているからである。   近代日本の有識者は、アジアの前途に論究すれば、ひとしく英仏がインド・ベトナム を奴隷視するのを深く憎んでいる。この論に我々も同感である。しかし日本の朝鮮統治は、 英仏のインド・ベトナム統治とどこが違うのか。   多民族を奴隷視するのは罪悪だが、同種民族を奴隷視することの罪悪はさらに大きい。 そのうえ朝鮮と日本との関係は、血統からいって、中国よりもっと近いし、文化からいえ ばさらに、日本を啓発した恩人でもある。恨みをもって徳に報いるというのはとりわけ東 洋の道徳が許さぬことである。   今回の朝鮮人民の無抵抗の独立運動には、日本の言論界にこの運動に同情を表明した 者がきわめてまれであった。これをイギリスとアイルランドや、アメリカとフィリッピン の関係に比べればその違いははかりしれない・・・中国国民が日本を中国の国家および国 民の仇敵と見なすのはこのためである(注1)。        --------------------   余談ですが、日本の軍国主義は何も1930年代に始まったのではなく、その2,30年前 に主に朝鮮を舞台に着実に進行していたのですが、それに警鐘を鳴らす人たちはごく少数 だったようです。これでは、日本で三・一運動に同情を表明した者がまれだったのも当然 の成りゆきといえます。   それに比べ中国では三・一運動に多大な関心がはらわれました。それは朝鮮の次の侵 略対象が自分たちだという危機感からでしたが、同時に呂運享ら朝鮮の独立運動家による 中国での活躍も大いに機能していたようでした。   かれらの活動を、天津で五・四運動をになった鄭女史(周恩来夫人)が回想のなかで ふれていますが、それを小島氏はこう紹介しました。        --------------------   彼女(鄭女史)をふくむ天津の女学生たちが講演を聞き涙を流しながら、「朝鮮亡国 後の朝鮮人民の惨ましい苦痛について語った」ことや、彼女の同志だった劉清揚も往事を 振り返って、天津の多数の学生講演隊が「日本帝国がわが国を滅亡させている野心につい てのべ、朝鮮人民が亡国後受けている苦痛と圧迫に説き及ぶと後援者も聴衆もみなともに 憤激し、痛哭流涕した」(注1)        --------------------   この時の講演者は呂運享とされるようですが、かれらは主に上海を拠点にして活動し ていました。そこにはじきに大韓民国臨時政府もおかれるのですが、かれらは中国人と連 帯し運動をすすめました。そうした活動を中国の新聞も積極的にとりあげたようで、姜徳 相氏はこう記しました。        --------------------   中国の新聞は、そうした(独立運動の)苛酷な闘いの内実を踏まえて再び感動的な言 葉で朝鮮民族の尊厳を記事にするようになり、山東問題を論ずる時、「是れ迄 朝鮮人は 山東問題にて支那人の為に尽力し、支那人は朝鮮人のために尽力せり 現に上海の各新聞 は山東に於ける日本人の行動を論ずる場合には毎々朝鮮の虐殺云々の例を挙くるを常(注 4)」とし、つねに日本の朝鮮支配、その暴虐を批判して止まないようになった。そこに は三・一運動と五・四運動との出会いがあり連帯の発展があった(注1)        --------------------   五・四運動の高揚により、ベルサイユ講和会議の中国代表は 6月28日,ベルサイユ講 和条約調印を拒否するにいたりました。五・四運動は画期的な成果をおさめたといえます。   そうしたニュースを、英語に堪能なインドのガンジーやタゴールは逐一キャッチして いたことでしょう。かれらの思想に三・一運動や五・四運動などアジアにおける反帝国主 義運動が影響を及ぼしたのはいうまでもありません。   とくにノーベル賞作家であるタゴールは、三・一運動の挫折を詠んだ詩「敗者の歌」 を作ったことで知られています。同じく植民地支配を受ける境遇から感じるところが多 かったことでしょう。かれはインド独立運動の精神的支柱となり、時にはガンジーと論争 をくりひろげました。   また、タゴールはもうひとつ朝鮮を題材にした詩「東方の灯台」を作りましたが、こ れらの詩の日本語訳をどなたかどなたかご存じないでしょうか?「東方の灯台」の韓国語 訳なら下記にあります。 <東方の灯台> (注1)姜徳相『呂運享評伝1、朝鮮三・一独立運動』新幹社,2002 <綺羅星、呂運享1> <綺羅星、呂運享2> (注2)小島晋治「三・一運動と五・四運動」『朝鮮史研究会論文集』17,緑蔭書房 (注3)小野信爾「三・一運動と五・四運動」『朝鮮史叢』5,6号合併号,1982,青丘文庫 (注4)原著注、朝鮮軍参謀部朝特報第37号、大正8年8月25日「上海排日鮮人ノ状況」、   金正明編『朝鮮独立運動』2,P37 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


下條正男氏への批判、勅令41号 2004/ 8/29 Yahoo!掲示板「竹島」#5571   半月城です。   最近、竹島=独島に関する書籍が相次いで出版されましたが、その中で下條氏の本に は驚かされます(注1)。随所で以前とは違う説明がなされています。   ふつう、研究者はよほどのことがないかぎり自説をなかなか変えないものです。それ というのも研究者が新説をとなえる時は相当な調査、研究が土台になっているためであり、 他の研究者といえどもそれに異議をとなえるのは容易ではありません。   それくらい研究者の新説には重みがあります。ところが下條正男氏の場合、研究者と 呼ぶのがふさわしくないのか、あるいはその研究手法に問題があるのか、自説をしばしば 変えるようです。   たとえば、大韓帝国の勅令41号をめぐる解釈です。この勅令41号(1900)は領有権問題 にとってきわめて重要です。もし、そこに書かれた「石島」が竹島=独島をさすのなら、 同島は「狼どもの国際法」にてらしても韓国領とするのが妥当であり、竹島=独島を無主 地と強弁して領土編入(1905)した日本の行為は無効になります。   石島の比定で下條氏の考えがどう変遷したのか、その詳細は後回しにして、まず日本 の研究者は石島をどの島に考えているのか分類してみます。 1.竹島=独島:内藤正中(注2)、大西俊輝(注3) 2.石島は不明:塚本孝(注4) 3.観音島:無?   日本人研究者は、石島を竹島=独島ないしは不明と考えているようですが、そのなか でただ一人(?)、下條氏は、かつて石島は欝陵島直近の観音島であると断定してこう記し ました。  <さらに「勅令41号」に記された竹島は、今日の竹嶼であったので、石島は今の観音 島とすることが出来る。何故なら獨島(竹島)でアシカ猟が始まるのは「勅令41号」が 公布された三年後(1903年)で、それ以前は絶海の孤島だったからである(注5,P52)>   この一節からわかるように、下條氏は石島と観音島を直接結びつける文献資料をまっ たく提示せず、単なる当て推量で石島を観音島と断定しました。   ところが、最近、同氏は石島を観音島とする自説を撤回したのか「石島はどこを指す のか判然としない」として、こう記しました。        --------------------   1900(明治33)年、大韓帝国は禹用鼎を鬱陵島に派遣、その報告をもとにして十月二 十五日、鬱陵島を「鬱島郡」に昇格させ、郡守の常駐を決定した。   その際、大韓帝国政府は「勅令四十一号」を発布し、鬱島郡の行政区域を「鬱陵島全 島と竹島、石島」と定めた。政府の認識では、鬱陵島には竹島と石島という二つの属島が あったことになる。   しかしこの「勅令四十一号」には、属島の緯度や経度までは明記されておらず、竹島 と石島が実際にどこの島を指すのか、正確さを欠いていた。   今日の竹島は、当時はまだ竹島と呼ばれておらず、古くは松島、そのころでは日朝と もにリャンコ島と呼ばれていたので、「勅令四十一号」にある竹島は、李奎遠の調査でも 「竹島」とされた鬱陵島近傍の竹嶼と思われるが、石島はどこを指すのか判然としない (注1,P112)        --------------------   通常、研究者は自説を撤回したり変更したときは、事が重大なのでその理由を明確に するものですが、下條氏は何の説明もなしに自説を突然ひるがえしたようです。昔の自説 はまるでなかったかのような書きぶりです。   一体、「石島は今の観音島とすることが出来る」と断定した主張はどこへ行ってし まったのでしょうか? それはたんなるプロパガンダだったのでしょうか? それともそ れは下條氏みずからがいう「我田引水的文献解釈」だったので、こっそり抹殺してしまっ たのでしょうか?   一事が万事です。下條氏の自説撤回や変更はこれにかぎりません。それらはここの掲 示板でおいおい明らかにしますが、そうしたレベルの下條氏は、去る 96年から99年にか けて大胆にも韓国の学者と竹島=独島論争を展開しました。   下條氏は日本側論者の代表になった感がありますが、同氏の変遷ぶりや実力では結果 は歴然としています(注6)。そのうえさらに同氏の韓国語に対する理解度の問題が加わ ります。下條氏は韓国語が未熟なのか、あるいは別な意図があったのか、独島の「形便」 に関して誤読をしたようです(注7)。   あるいはこれは、勅令41号に書かれた「石島」を竹島=独島でなく、どうしても観 音島にしたてて、韓国は竹島=独島に領有意識をもっていなかったと主張したいがための 曲解だったのかもしれません。   具体的にいうと、日本の領土編入にともなう「竹島調査団」の欝陵島郡守・沈興澤 訪問(1906)に関連して、韓国語の「形便」を誤読したのか、こう記しました。  <「本郡所属の獨島」と記された報告を受けた中央政府が、新たな属島の出現に困惑し、 改めて島の形状を報告するよう江原道府に命じた・・・つまりこの時、中央政府では「勅 令41号」の石島と「本郡所属の獨島(竹島)」とを、全く別の島として認識していたの である(注5,P62)>   中央政府は日本の措置に困惑したのであり、べつに「新たな属島の出現」に困惑した わけではないし、また「改めて島の形状を報告するよう」求めたのでもありません。   中央の議政府では江原道庁からの報告書に対し、参政大臣 朴斉純は5月20日付の指 令第3号で、内藤氏がいうように「独島が日本領になったということは全く根拠のないこ とであるが、さらに独島の状況と日本人の行動について調査して報告すること(注2,P182)」 と指示したのです。   下條氏がうえのように資料の誤読をしたのは、韓国語の「形便」を形状と誤訳したた めと思われます。韓国語で「形便」とは、うえの内藤氏の解釈のように「状況」とか、あ るいは「成りゆき」「事の次第」などを意味します。   これに下條氏は気がついたとみえ、最近の著書では「形便」の略語として「形状」を 撤回したのか「概容」としました(注1,P131)。   このように、猫の目のように自説をしばしば変えざるをえない下條氏ですから、あわ れ、金炳烈氏から「良心的日本人」の対極に位置づけられてしまったようです。 (注1)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004 (注2)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000、P176 引用  「1900年(光武四・明治三二)一〇月二五日の大韓帝国勅令四一号で、欝陵島を「欝 島」と改称し、島監を「郡守」と改正するとともに、「欝島郡」の区域に欝陵島、そして 「竹島」と「石島」を含めると明定したことにより、石島すなわち独島に対する大韓帝国 の領有権が明確に示されたのである」 (注3)大西俊輝『日本海と竹島』東洋出版、2003, P76 引用  「石島の文言のある勅令は、中央官・禹用鼎と、地方官・裵季周の報告に拠ったもの、 そこに立ち会うのがラ・ボーテである。だから彼らの島の認識は一致していなければなら ない。勅令は鬱陵島の属島として、竹島と石島を記す。そしてラ・ボーテの報告は、鬱陵 島の属島として、竹島と于山島を記す。となれば石島とは、すなわち于山島を指すものと なる。それは遙かな岩礁の島、独島(リアンクール岩)のことだった」 (注4)塚本孝「竹島領有権問題の経緯(第2版)」『調査と情報』289号,国立国会図書館,   1996、P6 引用  「鬱陵島の海岸近くには今日 観音島をはじめいくつかの岩礁島“石の島”があるので、 勅令の石島がそれら周辺岩礁島の総称ないし 代表格たる観音島のことでなく 必ず竹島の ことであるというためには、今少し証明が必要であると思われる」 (注5)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999.5  <石島と観音島> (注6)金炳烈『独島論争』(韓国語)DADAMIDIA社発行、2001 (注7)<竹島=独島編入にたいする反発> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


下條正男氏への批判、『隠州視聴合紀』 2004/ 9/ 5 Yahoo!掲示板「竹島」#5594   半月城です。   今回も下條正男氏の著書『竹島は日韓どちらのものか』に対する批判を続けたいと思 います。   RE:5090, NEO_SWATさん >この本で一点気になった部分があります。 『隠州視聴合紀』の解釈の部分なんですが、「此州を以て限りと為す」の「此州」は鬱陵 島だと云う解釈は大丈夫なんでしょうか? 「此州」が「此嶋」となっていれば全く問題ないと思うのですが...   半世紀前、日本の限界とされた「此州」が、此島すなわち竹島(欝陵島)なのか、そ れとも隠州すなわち隠岐なのか日韓間で外交論争になりましたが、結論からいうと『隠州 視聴合紀』の「此州」を竹島(欝陵島)とみるのは困難です。それを検証したいと思いま す。   56年9月、日本政府は見解書を韓国政府に送りましたが、そのなかで斉藤豊仙の『隠 州視聴合紀』についてこう紹介しました。  「さきに掲げた『隠州視聴合紀』(一六六七年)も松島(今の竹島)及び竹島(鬱陵 島)をもって、日本の北西部の限界と見ており、・・・(注2,P330)」   私は、この主張の出所は外務省関係の川上健三説かなと思って同氏の著書を調べたの ですが、意外なことにそこには欝陵島を日本の限界とする主張はありませんでした。そこ にはこう書かれました。  「寛文七年秋八月に命を奉じて隠岐島を巡見した際に、著者自ら視 または聴いたとこ ろを採録したものであるが、それが後述するように竹島(鬱陵島)渡海の最盛期における 著作であったことは、特に注目に値する。この記述中にある隠岐に近い「松島」というの が、今日の竹島であり、さらにそれより一日程の行程にある「竹島」というのが鬱陵島で ある(注2)」   どうやら、川上氏は著書の出版時点である66年には「日本の限界」問題を避けている ようです。韓国政府の反論を暗に認めたのかもしれません。また、田村清三郎氏も『隠州 視聴合紀』を書いても「日本の限界」については何もふれませんでした(注4)。さらに、 中村栄孝氏の研究書をあたったところ、そこでは「日本の限界」に関する記述のみがすっ ぽり抜けていました(注5)。   狐につままれた思いで「竹島日本領派」である塚本氏のレビューを見ましたが、そこ には『隠州視聴合紀』の名前すらありませんでした(注6)。何か不都合でもあるのか、あ るいは題名にある「竹島領有権問題」を考えるうえで、『隠州視聴合紀』論争は同氏に とって取るにたらない問題なのでしょうか。   他の文献を調べたところ、下條正男氏以外に田川孝三氏が「日本の乾の方の限界は此 の州(州はシマの意である)なのであると釈読しなければならぬ(注7)」と書いている のが判明しました。   はたして日本で「州」をシマと読む例はあるのでしょうか?「洲」の字なら、これを シマと読む例は『日本書紀』に下記のようにあります(注8)。  淡路洲(あはぢのしま)、佐度洲(さどのしま)、大八洲(おおやしま)   これをサポートするかのように『広辞苑』でも「洲」を下記のように説明しています。 しゅう【洲】シウ ・川の中にできた島。す。「洲渚・汀洲」 ・地球上の大陸。   『広辞苑』によれば、「州」の方は行政区画単位などに用いられるようで、自然にで きた島などの意味はないようです(注9)。もっとも両者は時には混用され「アジア州」 「アジア洲」などとも書かれるので、その区別は絶対的なものではないかもしれません。 ちなみに、下條氏は「州」をシマと読める根拠をこう記しました。        --------------------   愼氏は何ら疑うことなく、「此の州」を「隠州」のこととされているが、「州」には 「島」の意味があり、隠岐島を隠州とするように「此の州」を鬱陵島のこととしても問題 はないのである。   現に李ヨクも『星湖[イ塞]説類選』の中で、安龍福の功で鬱陵島が朝鮮に復したこと を「一州の土を復す」と記しているからだ(注10)。        --------------------   驚いたことに下條氏は「隠岐島」と「隠州」を同列に考え、島名と行政区画単位を混 同しているようです。単純な反論ですが、たとえば「因州」といったら「因幡」のことで あり、決して「因島」のことではありません。こうした誤りは「一州の土」についても同 様です。金学俊氏はこう反論しました。  「州が島の意味で使われる場合がなくはないが、このような場合は群島や、行政体制を 持つ村がある場合にだけ該当する。   例えば、安鼎福が書いた『星湖[イ塞]説類選』にあるように、「安龍福の功労で欝陵 島、独島などを取りもどした」という意味であって欝陵島一島を取りもどしたという意味 ではない(注11)」   安龍福は日本へ乗り込んだとき「朝欝両島監税将」すなわち「二島」の監税将を名乗 り、「一島の土」ではなく「二島の土」を取りもどす端緒になりました。「二島の土」が すなわち「一州の土」であり、下條氏の主張は成り立ちません。   さらに下條氏の間違いですが、同氏は『星湖[イ塞]説類選』の著者を李ヨクとしまし たが、正しくは金氏がいうように安鼎福です。安鼎福は星湖・李ヨクの弟子にあたります。 どうも下條氏は杜撰なようです。   このように漢字の読み方に関しても下條氏は分が悪いのですが、さらに斉藤豊仙の松 島、竹島認識についても読み違いをしているようにみえます。下條氏はこう記しました。        --------------------   実際『隠州視聴合記』中の別の記事「知夫郡 焼火山縁起」にも、「伯耆の国の大賈 村河氏、官より朱印を賜り大船を磯竹島(鬱陵島のこと)に致す」と記されており、齋藤 豊仙が鬱陵島を日本領として『隠州視聴合記』に書くのは当然のことなのである(注12)。        --------------------   斉藤豊仙は、竹島(欝陵島)へ渡航する村川家の船を「朱印船」と理解していたよう でした。いうまでもなく、朱印船とは「外国」への渡航を幕府から許された船をさします。 実際は、村川家の船は朱印船でなく奉書船に近いのですが、斉藤が朱印船と認識していた 事実は、斉藤が渡航先の松島、竹島を日本領ではなく、外国と考えていたことを暗示しま す。   これは鳥取藩の認識にも共通します。幕府の竹島渡海免許を村川家などに取り次いだ 同藩は、後日、幕府から松島、竹島に関する「お尋ね」を受けましたが、それに対し「竹 嶋は因幡 伯耆附属ニては(ママ)無御座候」「竹嶋松嶋其外両国え付属の嶋 無御座候」 と回答し、松島、竹島が同藩の所属ではないことを明らかにしました。   したがって、鳥取藩や出雲松江藩などが自藩の国絵図に松島、竹島を描かなかったこ とはいうまでもありません。結局、斉藤豊仙も松島や竹島を日本領とは認識していなかっ たとみるべきではないかと思います。   また、『隠州視聴合紀』の内容をみても、下記で詳細に書いたように、文脈上で日本 の限界を隠州と解釈するのが妥当です。 <『隠州視聴合紀』の読み方> <「高麗を見る」ワナ>   さらにダメ押しを書くと、昔の日本人も「此州」を隠州と読んでいたようです。具体 的にいうと、水戸黄門が編纂を始めた『大日本史』がそのような読み方をしました。 <于山国の歴史、『大日本史』1> <于山国の歴史、『大日本史』2>  『大日本史』における『隠州視聴合紀』の解釈では、竹島、松島を隠岐の属島179に 含めず、「我が版図」扱いにしませんでした。かわりに『隠岐古記』や『隠岐紀行』から 松島、竹島を「我が版図」と考えました。ただし、どうしてそのようになったのかは誰も 知らないとつけ加えました(注13)。   この資料の存在により、はからずも日本政府や下條正男氏の『隠州視聴合紀』に関す る解釈は我田引水だったことがはっきりしました。  「此州」を「隠州」と解釈したのは堀和生氏も同様ですが、最近では大西俊輝氏も韓国 側の見解を支持してか、こう記しました。  「さて戌亥(いぬい)の方向を、二日と一夜たどれば島あり、松島という。そこから一 日程にして竹島がある。これは俗に言う磯竹島のことである。竹や魚や海鹿(あしか)が 多い。此の二島は無人の地である。ここから高麗を見るに、隠州から雲州を望むが如き有 様である。してみると日本の乾(いぬい)の地とは、此の隠州を以て限りと為すものであ ろうか。云々(注14)」   妥当な訳です。なお、韓国側の主張については次回記します。 (注1)斉藤豊仙 『隠州視聴合紀』(1667年)  (『續々群書類従 第九』圖書刊行會,1906,P450より引用したが、論文によっては下記 と一部異なる。書名も下條氏は『隠州視聴合記』としたが、下記『續々群書類従 第九』 では『隠州視聴合紀』となっており、「紀」の字が使われている) 隠州視聴合紀 巻一   国代記  隠州在北海中 故云隠岐島・・・従是 南至雲州美穂関三十五里 辰巳至伯州赤碕浦四十 里 未申至石州温泉津五十八里 自子至卯 無可往地 戍亥間行二日一夜有松島 又一日程有 竹島(俗言磯竹島 多竹魚海鹿)此二島無人之地 見高麗如自雲岐(ママ)望隠岐(ママ) 然則日本之乾地 以此州為限矣 (注2)愼鏞廈『独島領有権資料の探求、第4巻』(韓国語)独島研究保全協会,2001 (注3)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院,1996(初版1966) (注4)田村清三郎『島根県竹島の研究』島根県,1996 (注5)中村栄孝『日鮮関係史の研究』下、吉川弘文館,1969,P447 (注6)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』289号、国立国会図書館,1996 (注7)田川孝三「竹島領有に関する歴史的考察」『東洋文庫書報20』1988,P41 (注8)『日本書紀』前編、吉川弘文館、2002,P5 (注9)『広辞苑』岩波書店 しゅう【州】シウ ・中国の行政区画の一。古代では全土を分つ大きな行政区画の称(九州・十二州の類)。 次第に細分化され、郡との区別がなくなったので、隋では郡を廃し、州に県を統轄。近世、 県と共に府に属した。辛亥革命の後、省の下に道・県を置き、州の名称は全く廃止。 ・くに。日本の国郡制度の国。「九州・武州・六十余州」 ・もと、台湾の行政区画の一。 ・(state) アメリカ合衆国・オーストラリアなどの行政区画。 ・(provinciaラテン) 古代ローマで、各総督の下に置かれた地方領土。 ・(Landドイツ) ドイツなどの地方行政区画。「邦」とも訳す。「バイエルン州」 ・地球上の大陸を分けた称。洲。「アジア州」 (注10)下條正男「竹島問題考」『現代コリア』1996.5, P70 (注11)金学俊『独島/竹島 韓国の論理』論創社,2004, P103 (注12)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書,2004, P171 (注13)『大日本史』巻308,志3、隠岐国4郡   http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/dainihonshi.jpg  読み下し文、( )内は小文字で書かれた部分を示す。  隠岐の国、下、(延喜式、一に淤岐、あるいは意岐とする)。  また隱伎三子島という(古事記、案ずるに国は海中にあるゆえ名がついた。邦をいうに、 海洋でいう澳をなす。隠岐はすなわち澳である)。  およそ4島、分けて島前、島後という(隠州視聴合記、隠岐国図、属島は179で、総 称して隠岐小島という)。  別に松島、竹島があり、これに属する(隠岐古記、隠岐紀行、案ずるに隠地郡の福浦よ り松島に至るには海上69里、竹島に至るには100里4町である。韓人は竹島を称して 鬱陵島という。すでに竹島といい、松島といい、我が版図となした。智者を待つが知れな い。ついては、以て考えに備える)。 (注14)大西俊輝『日本海と竹島』東洋出版,2003, P178 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


陸軍省の『地圖区域一覧圖』と竹島=独島 2004/ 9/12 Yahoo!掲示板「竹島」#5619   半月城です。  「獨島問答Q83、日帝強占期」へのコメント、および NEO_SWATさんの #5603へのコ メントをかね記します。   RE:4613 独島問答 Q83, > この『地圖区域一覧圖』では「獨島」を「朝鮮」と「日本本州」のどちらに分類する かがとても重要だが、日本陸軍参謀本部は、地図上で「獨島」を日本本州に入れる空間が 十分あるのにもかかわらず、欝陵島と「獨島(竹島)」をひとくくりにして朝鮮区域に分 類して描き、獨島の右側に「朝鮮区域」と「日本本州区域」を区分する太い線を引いた。   愼鏞廈氏は別な資料で『地圖区域一覧圖』についてこう記しました。        --------------------   しかるに、日本の陸軍参謀本部 陸地測量部は独島を「朝鮮区域」に含めたのである。 これは日本軍が、日本帝国主義の最盛期である1936年の時点で、大日本帝国が解体すれば 独島が朝鮮領として返還することをあらかじめ例証する資料を準備したにひとしい。   1945年8月15日、日本の帝国主義が敗亡し、連合国が大日本帝国を解体する時、この 『地圖区域一覧圖』がもっとも重要な資料のひとつになったのは論難の余地がない。   なぜなら、連合国最高司令部が従来日本領の特定区域に対して日本政府の政治・行政 上の権利行使、または企図の停止を命令したSCAPIN第677号の集団分類(grouping)がこの 『地圖区域一覧圖』とほとんど一致するためである(注)。        --------------------   日帝強占期には、竹島=独島が日本区域に入ろうと朝鮮区域に入ろうとほとんど影響 がないので、陸軍省は率直に本来あるべき姿で独島を分類したようでした。そうした認識 が、日本の敗戦で朝鮮支配が終ったとき、連合国により SCAPIN 677号という形で反映さ れたようで、竹島=独島は日本の政治・行政から切り離されました。   このSCAPIN 677号に対し、日本政府は何ら不服やクレームを一切申し立てず、率直に 従ったのでした。帝国主義時代に新たに獲得した領土であるので、敗戦により切り離され ても当然視されたのでしょうか。 (注)愼鏞廈『独島の民族領土史研究』(韓国語)知識産業社 1996,P251


竹島=独島「日本の固有領土」説の検証 2004.9.27 [zainichi:28268]   半月城です。Yahoo!掲示板「竹島」#5705 に書いた文を転載します。 掲示板では竹島=独島を日本領と言い張る人が圧倒的なのですが、珍しいことに下記の文 に対する反論が1週間たってもまったくありませんでした。        +++++++++++++++++++   日本の外務省は「竹島は、歴史的事実に照らしても国際法上も明らかに日本の固有領 土である」というのを常套句にしていますが、これは本当に根拠があるのでしょか? 今 回はその根拠を検証したいと思います。   かつて、日本政府は韓国との竹島=独島論争で「固有領土」らしき根拠をこう説明し ました。        --------------------   元和4年(1618年)の大谷、村川両家に対する幕府の竹島(鬱陵島)渡海免許以後は、 両家が同島において独占的に漁採を行うようになったので、両家はもとより、一般も竹島 (鬱陵島)をもって幕府から拝領したものと考えるに至った。  『隠州視聴合紀』(1667年)も、松島(今の竹島)及び竹島(鬱陵島)をもって日本の 北西部の限界と見ている。   韓国側では、元和4年(1618年)の大谷、村川両家に対する幕府の竹島(鬱陵島)渡 海免許をもって朱印状とみなし、朱印は外国貿易の許可であるから、竹島が韓国の主権下 にあったことを十分承知していたといい、また、両家が許可されたのは鬱陵島方面への遠 洋に出漁することだけで、日本政府が主張するような「竹島の支配」を許可されたもので はなかったとも述べている。   しかしながら、大谷、村川両家に幕府から与えられたのは朱印状ではなく竹島(鬱陵 島)に対する渡海免許で、両家は右免許に基づき、将軍家の葵の紋を打ち出した船印を立 てて竹島(鬱陵島)に航して、アワビ、アシカ等の採捕、木材の伐採等に従事し、特にア ワビは竹島アワビと称して将軍家をはじめ閣老に献上するのを常としていたのであって、 いわば同島の独占的経営を免許されたものに他ならなかった。   竹島(鬱陵島)について、すでにこのようであった以上、その渡航の途中にあって明 歴2年(1656年)またはそれ以前に、同じく幕府から渡海を免許された松島(今日の竹島) について、人々が日本領土と考えていたことは申すまでもない。   しかも松島(今日の竹島)の場合は、元禄9年(1699年)の幕府の竹島(鬱陵島)渡 海禁止措置とは関係がないので、後に至るまで、この考え方は変わっていない。   たとえば『竹島図説』(1751-63年)には「隠岐国松島」と書かれており、また、 『長生竹島記』(1801年)では松島をもって「本朝西海のはて也」としている。   これは、幕府の竹島(鬱陵島)渡海禁止以前の『隠州視聴合紀』をもって日本の西北 部の限界とみなしているのと比べて、興味深いものがある(注1)。        --------------------   この文からすると、竹島=独島を日本の「固有領土」とする日本政府の根拠は次の古 文献によるようです。 (1)『隠州視聴合紀』 (2)『竹島図説』 (3)『長生竹島記』   これら史料の性格ですが、『隠州視聴合紀』は隠岐を管轄する出雲藩の特命により藩 士の斉藤豊仙が、竹島渡海事業の最中である1667年にまとめた調査報告書であり、地方政 府の公式見解書ともいえます。   したがって領有権問題にとってはきわめて重要な史料であり、もし同史料で竹島=独 島が日本領と解釈されるのなら、日本政府にとってはまたとない有利な史料になります。 そのため、日本政府は同書にある「日本之乾地 以此州為限」の此州を「この島」と読み かえ、日本の西北(乾)の限界は松島、竹島であるとして外交文書を作成したようでした。   しかし、これは無理な解釈であることはすでに下記に書いたとおりです。 <下條正男氏への批判、『隠州視聴合紀』>   さらに、日本政府は「韓国側では、元和4年(1618年)の大谷、村川両家に対する幕 府の竹島(欝陵島)渡海免許をもって朱印状とみなし、朱印は外国貿易の許可であるから、 竹島が韓国の主権下にあったことを十分承知していたといい」と記しましたが、朱印によ る渡海という認識は韓国政府の創作ではありません。   前回書いたように、すでに斉藤豊仙は『隠州視聴合紀』で竹島(欝陵島)、松島(竹 島=独島)を朱印船が行くような島、すなわち異国の島と認識していたのであり、これは 『隠州視聴合紀』の性格上、出雲藩の見解になっていたといっても過言ではありません。   したがって同藩は、もちろん「両家はもとより、一般も竹島(欝陵島)をもって(大 谷、村川家)幕府から拝領したものと考えるに至った」などと考えていたわけではありま せん。これは日本政府の我田引水といえそうです。   結果的に『隠州視聴合紀』は日本政府にとって逆に大きなダメージを与える史料にな りました。そのためか、外務省関係者の川上健三氏などは「日本の西北の限り」に関する 政府主張をバックアップしなかったものと見られます。日本政府はヤブヘビになった感が あります。   次の史料は竹島一件後の『竹島図説』です。これは民間人の単なる伝聞史料であり、 川上健三氏はこう紹介しました。        --------------------   宝暦年間(1751-63年)に北〓通〓(きたもと つうあん)が因人某に伝記するとこ ろによって編したといわれる『竹島図説』にも、次のような松島・竹島に関する記事が載 せられている。  「隠岐国 松島ノ西島ヨリ海上道規 凡四十里許リ北方に一島アリ 名テ竹島ト曰 フ・・・隠岐ノ福島(ママ)ヨリ松島マテ海上道規六十里許 松島ヨリ竹島マテ四十里許 ト云也 以上ノ諸説ハ享保九甲辰年 官府江府ノ叩問ニ依テ米子ノ市人 大谷九右衛門 村川 市兵衛カ貴答ノ上 書ニ原ケリ」(注2,P53)        --------------------   たしかに『竹島図説』では「隠岐国 松島」と明確に書かれているようです。しかし、 それは単なる伝聞であり、しかもそのソースが、竹島渡海免許を取り消された大谷、村川 家とあっては、内容の信頼性はおのずと明らかです。   大谷家は、竹島(欝陵島)を幕府から「拝領」したと、さも領主になったような虚言 を広言していましたが、竹島(欝陵島)渡海禁止処分で打撃を受けた際「朝鮮王の御証 文」を云々するような商人でした。それを内藤正中氏はこう記しました。        --------------------   幕府の竹島渡海禁止令については、「是非なく御請申上ぐ」として上で、「竹島の儀 往古より日本御支配 相違無之旨」の証文を朝鮮王より取り付けた上で、自分たちは渡海 したのであって、此度 幕府より「朝鮮国へ御預相成」ということから、竹島渡海が禁止 になったとする認識をもっていたことがわかる(注3)。        --------------------   このように虚言癖をもつ大谷家などの言い分を元にして作成されたのが『竹島図説』 なのですが、そうした杜撰な民間人の史料すら外交資料として援用しなければならない日 本政府の苦衷が察せられます。さすがに大谷家文書を引用しなかったのは、資料価値とい うものをすこしは理解しているようです。   しかし、次の『長生竹島記』を引用するにいたっては、あいた口がふさがりません。 記事のソースが渡海事業を行っていた大谷あるいは村川家の水主(かこ)すなわち船員で あり、しかも内容は伝聞の伝聞、いわゆる又聞き、それも百年前の話を神社関係者がまと めたものであり、領有権主張にあたっての資料価値はほとんどないに等しいといえます。 その史料の性格について川上健三氏はこう書きました。        --------------------   享和元年(1801年)の大社の矢田高当の著『長生竹島記』にも次のような一節がある。 この書物は、元禄年中 隠州から竹島(鬱陵島)に渡海した竹島丸の水主から伝え聞いた 大社仮宮漁師 椿儀左衛門の話をとりまとめたものであり、当時 竹島丸の渡航に際しては、 松島(今の竹島)を途中の寄港地として常に利用していた様子を知ることができる。これ でもまた松島をもって「本朝西海のはて」としているのである(注2,P54)。        --------------------   日本政府は、さすがに船員からの又聞きの話を引用するのに気が引けたのか、これら の史料を単に「興味深い」とするにとどめたようでした。しかし、これはまだましかも知 れません。資料価値がなくても、ともかくそうした史料が実在するのですから。   それに反して、史料もないのに、さも実在したかのように主張したのが「松島(竹島 =独島)渡海免許」です。うえの外交文書に「幕府から渡海を免許された松島」と記しま したが、最近では川上健三氏の「松島渡海免許」説を信じる日本の研究者はひとりもいな いようです。   それを否定する見解が池内敏氏や、竹島日本領派の塚本孝氏などから出されましたが、 どうやらくだんの下條正男氏すらさすがにこれにはふれていないようです。  「松島渡海免許」は、かつての日本政府にとって「竹島=独島経営」を裏づける有力な 資料であり、韓国の愼鏞廈教授ですら最近の資料でその存在を誤認していたくらいでした。 私も一時それに惑わされていましたが、何とも罪作りな捏造です。   しかし、旧石器の例を持ちだすまでもなく、捏造の効果が大きければ大きいほど、そ れが露見した時の反動は大きいものです。「松島渡海免許」がほぼ否定された現時点では、 竹島=独島に関する歴史論争の趨勢は決したようなものではないでしょうか。   それを反映してか、外務省のホームページ「竹島=独島問題」には、上記に書いた諸 史料は影かたちもありません。わずかに長久保赤水を持ちだして<「改正日本輿地(ヨ チ)路程全図」(1779年)では現在の竹島を位置関係を正しく記載している>と記すのみ で、「固有領土」につながる文献史料の記述は一切ありません。   結論として、竹島=独島が「日本の固有領土」であることを裏づける信頼性のある史 料は、外務省のホームページが暗示するように、明治時代はおろか江戸時代にも何一つあ りません。   発見される史料は、出雲松江藩の『隠州視聴合紀』といい、幕府の「御尋の御書付」 といい、鳥取藩の返答書といい、すべて竹島=独島が異国であることを証明するものばか りです。 <江戸時代の「竹島一件」>   結局、日本政府による竹島=独島の「日本の固有領土」説は外務省の単なるプロパガ ンダにすぎないようです。 (注1)塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両国政府の見解」『レファレンス』2002.6,P53,   国立国会図書館 (注2)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院,1996(初版1966) (注3)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000,P88 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


竹島=独島と日本共産党 2004.9.26 Yahoo!掲示板「竹島」#5714   半月城です。   日本共産党に下記のように竹島=独島問題を質問したところ、数カ月後に回答があり ましたので紹介します。        -------------------- <質問> 日本共産党「しんぶん赤旗」御中 TO; info@jcp.or.jp Sub:竹島=独島問題に関する質問 2004年1月25日   前略   竹島=独島問題に関して一筆啓上致します。   貴HPに記事「竹島の帰属が問題になっているわけは?」(末尾に引用)が掲載され ていますが、失礼ながら竹島=独島問題をどこまで理解されてお書きになったのか疑問に 感じられます。   端的に言いますと、明治政府が竹島=独島を「本邦関係無」として放棄した史実をご 存知でしょうか?   また、記事の中で「一九五二年、韓国は一方的に竹島を武装占拠し」とありますが、 これは韓国が連合軍の SCAPIN677号を引き継いだものであり、「一方的」とは事実誤認で はないでしょうか?   そうした経緯は、下記に引用する小生の論文「日本の竹島=独島放棄と領土編入」に 記したとおりです。これに対する貴新聞の見解をお聞かせくだされば幸いです。 <「日本の竹島=独島放棄と領土編入」>        --------------------   小生の質問に対する日本共産党からの回答は二カ月過ぎてもなかったのであきらめて いたのですが、催促したところやっと下記のような回答がありました。よほど回答しづら かったとみえます。        -------------------- <日本共産党の回答> Form: 日本共産党中央委員会メール室 RE: 竹島=独島問題に関する質問 2004年4月6日  メールありがとうございました。  「しんぶん赤旗」編集局あてでご質問をいただきましたが、国際局からお答えします。  日本共産党のホームページに掲載されている2002年7月の「赤旗」の記事は、1977年2月 28日に立木洋・外交政策委員長(当時)が雑誌『世界週報』(時事通信社)からの質問に 答える形で「竹島問題について」党の見解を表明したもの(「赤旗」同3月1日付)が基礎 となっています。  ご指摘の点については、当時、検討の対象とならなかった問題も含まれており、今後、 この問題の報道の際の参考にさせていただきたいと考えます。  今後ともよろしくお願いいたします。  日本共産党中央委員会 国際局        --------------------   以上のように、小生の論文に対する反論はまったくありませんでした。それにしても 革新を標榜する日本共産党が竹島=独島問題に関するかぎり、四半世紀も昔の知識にとど まったままとは驚きました。   なお、日本共産党の該当HP記事は現在もそのままで、見直しがされた形跡は今のと ころないようです。 ++++++++++++++++++++++++++++++++ <日本共産党「しんぶん赤旗」の記事> 2002年7月17日(水)「しんぶん赤旗」 <竹島の帰属が問題になっているわけは?>  〈問い〉 日本と韓国とがそれぞれ竹島の領有を主張しているのはなぜですか。 (島根・一読者)  〈答え〉  (冒頭省略)  竹島は、古くから日韓両方の文献に登場していますが、長くどこの国の領土としても確 定されない無人島のままでした。一九〇五年、日本が竹島を島根県に編入してからは、国 際的にも日本領として扱われるようになり、現在は島根県隠岐郡五箇村に属するとされて います。  一方、韓国は、一九〇五年の日本の領有手続きそのものが無効だとして、「独島は厳然 たる韓国領土」と主張しています。この時期は、日本の天皇制政府が朝鮮の植民地化をす すめていた時期でもあることから、こうした主張には検討すべき問題もあるといえるで しょう。  第二次大戦後の一九五二年、韓国は一方的に竹島を武装占拠し、八八年の領海十二カイ リ宣言以降は、日本漁船は韓国側に排除され、竹島の十二カイリ以内には近づけなくなっ ています。最近では埠頭(ふとう)まで建設するなど、韓国は「実効支配」の既成事実化 をすすめています。こうしたやり方に、道理はありません。  竹島問題には、このような複雑な経過と背景があり、その正しい解決のためには、なに よりも相互の主権を尊重し、平和友好の精神をつらぬきながら、ねばりづよく交渉し、解 決することが大切です。そのためにも韓国側は、竹島の一方的占拠を中止するべきです。  日韓両国は、九八年の新日韓漁業協定で竹島の領有権問題の決着を事実上棚上げし、周 辺海域を「暫定水域」とし、日韓の入りあい操業をおこなうことで合意しました。日本共 産党は、この新協定を現実的な解決策として賛成しました。  (以下省略) ++++++++++++++++++++++++++++++++


愼鏞廈教授の独島百問百答(6)、韓日条約以降 Q96.(韓日条約)   1965年、韓日基本条約と韓日漁業協定が締結された時、韓国の「独島」領有権は損傷 を受けなかったのか? この時「平和線」が撤廃されたが・・・。 ANS.   1965年の韓日基本協定は、韓国が当然の権利を設定できないまま締結された疑惑だら けの条約である。今後、精緻で膨大な研究が必要である。   当時の大韓民国は、韓国の独島領有権に関して確乎、不動で断固たる立場にたって韓 日会談に臨むことすら強力に反対する一方で、日本は「独島問題」をぜひ論議しようとす る立場であった。こうした論議過程であらゆる詭弁があふれ出た。   当時、東海における漁業の実態は、日本側が一方的に優越した装備をととのえ東海を 席巻していたが、「平和線」は東には「独島」と日本の「隠岐島」の間に引かれて漁業資 源の保護に大きな役割を果たしていた。   また、大韓民国政府は「平和線」を越えてくる日本漁船を拿捕して処罰していたので、 「独島」と日本「隠岐島」の間に引かれた平和線は「独島」を守るのにも一定の役割を果 たしていた。   1965年、そうした「平和線」の撤廃は日本にきわめて有利な条件を形成した。装備が 圧倒的に優勢な日本の漁船は韓国領海である沿岸12マイルまで入り魚を獲っていった反面、 韓国の漁船は漁場を喪失したまま、劣悪な装備で日本の漁船と開放競争をしいられた。こ の状態は、韓国が経済発展に成功して漁船装備を近代化するまで継続した。   しかし、大韓民国政府は、独島とその領海12カイリを固く守り、日本の領有権主張に 断固と反発し、大きな問題は生じなかった。ただ、日本政府と議会は周期的に「独島問 題」を引っぱりだし、議会が政府を批判する形式で挙論したのみであった。   日本政府は「竹島(独島)は日本領という日本政府の立場に変わりはない」と答弁し て速記録に記録し、日本の海上保安庁巡視船が年に1,2回、定期的に独島周囲を巡視して 帰っては報告書を提出し、次を期した資料を蓄積していた。 コメント1;条約での竹島=独島の扱い   条約の公式文書に竹島=独島は一言半句も記述されませんでした。そのため、国際的 には対日講和条約段階の連合国による韓国の竹島=独島統治黙認の状況がそのまま継続さ れたままといえます。 <日韓基本条約>   コメント2;日韓交渉過程の公開   日韓条約交渉で竹島=独島問題をめぐり議論の応酬がなされましたが、その詳細は公 表されていないので全容は不明です。一時、韓国政府は資料の一部公開をはかりましたが、 それすら日本政府の強い反対意見にあい、公開は見送られました。日本の外務省内には 「日韓交渉と聞いただけで、公開を嫌悪する空気がある」ようです。 <日韓交渉資料の非公開申し入れ> コメント3;<李ラインの経緯> Q97.(韓日漁業協定の破棄)   しからば、日本政府がふたたび独島問題に対し攻撃的な外交を展開し始めたのは、日 本が「UN新海洋法」を採択、適用した1996年からか? この時、日本は独島侵奪に対し 強い意思表示をして攻撃的な外交政策と海洋政策をくりひろげたのか? 1998年の韓日漁 業協定の一方的破棄と1999年の新しい韓日漁業協定締結で「独島問題」はどのように扱わ れたのか? ANS.   UN新海洋法は1994年に発効するようになったが、その特徴はこの新海洋法を採択す る国は200カイリの「排他的経済専管水域(EEZ)」をもつことができるという点であ る。   日本は1995年にこのUN新海洋法を採択する意思を公表したが、その年の総選挙では ひとつの群小政党をのぞき、執権党をはじめ大きな保守政党はすべて「竹島奪還」を選挙 公約にたてた。自民党と自由党もそのような政党であり、総選挙で勝利して連合政府を構 成した。   1996年1月、日本政府はUN新海洋法を採択することを決定し、東海側は「独島(竹 島)」を日本のEEZにして国会に提出した。   これを実践するため、日本政府は1996年2月にも内外信の記者を集め、日本の外相が 「独島(竹島)は歴史的にも国際法上も日本領であるので、大韓民国は独島から撤収し、 付属施設を即刻撤収せよ」と説明し、駐日韓国大使を外務省に招いて強硬に要求した。   1996年5月、日本の国会は最終的にUN新海洋法を採択し、200カイリ経済専管水域 (EEZ)を設定することに決定し、東海側の日本EEZ基点を「独島」(竹島)とする ことを決定した。日本は韓国領である「独島」を自国領と主張し、日本のEEZ基点にし たのであった。   また、日本政府は1997年「十大外交指針」のひとつに「独島奪還」を設定し、猛烈な 攻撃的外交とロビー活動を展開した。   その影響を受けたのか、あるいは他の理由があったのか、大韓民国外務部は日本側が 韓国領「独島」を日本EEZの基点とした時から 1年2か月後である1997年7月末に「独 島」基点を採用せず、韓国のEEZ基点を「欝陵島」にすると発表して国民を驚かせた。   この後、日本政府は韓国が外国為替危機のために1997年12月3日,IMF経済管理体制に 入るや、これを絶好の機会と考えたのか「韓日漁業協定」を事前協議なしに1998年1月23 日、一方的に破棄すると宣言した。   日本は、戦時の敵対国家に対して行うような傲慢な外交的蛮行を友好国である大韓民 国に行ったのである。これにより、1年後である1998年1月23日以後は両国間の漁業協定効 力がなくなってしまった。   したがって、韓日両国は1999年1月23日までに新しく韓日漁業協定を締結するか、一 般国際法下の漁業をするかの二者択一をせねばならない状況に陥った。   新しい韓日漁業協定をめざして韓日実務者会議が継続し、日本側は「独島」を含めた 「中間水域」(韓日共同管理水域)をつくろうという新協定案を出した。   協議の末、両国沿岸で35カイリを中間水域の左(西)境と右(東)境にする「中間水 域」を設定し、独島は名称の表示なしに「中間水域」内に含める案が合意された。1998年 11月28日、新韓日漁業協定は日本の鹿児島で両国の外務長官により署名され、1998年1月 22日、両国の政府により締結された。   こうして新韓日漁業協定にて欝陵島は韓国EEZ内に含まれたが、欝陵島の付属島嶼 である「独島」は欝陵島の水域(韓国EEZ)から離れた別の水域である「中間水域」 (韓日共同管理水域)に「独島」の表示なしに含まれたのであった。 コメント:   日本による一方的な漁業協定破棄の通告を、韓国日報は「折しも難局に陥った隣人の 背を銃撃するのと変わりない非紳士的行為」と伝えました。 <日韓漁業協定破棄(1)、韓国の論調> <日韓漁業協定破棄(2)、交渉の争点> Q98.(新韓日漁業協定の失策)   新韓日漁業協定にて、韓国側の関係者は新韓日漁業協定は魚獲りにだけ関係したもの であり、領土やEEZとは無関係であるので、独島領有権とは何の関係もないと主張した が、事実か?   また、関係者は新韓日漁業協定は第15条にて韓国の独島領有権には影響をおよぼさな いとの条項を記したというが、事実か?   新韓日漁業協定にて「独島」が「中間水域」に含まれたのは韓国の独島領有権を多少 でも損なうものか? 関係者は「中間水域」を公海の性格と解釈したが、日本側もそう見 るのか? ANS.   一般的に漁業協定は魚獲りにだけ関係し、領土問題とは関連がない。しかし、今度の 1999年の新韓日漁業協定は第1条にて「この協定は大韓民国の排他的経済水域(EEZ)と日本 側の排他的経済水域(以下「協定水域」という)に適用する」と規定し、EEZとそれを とおして領土問題に影響をおよぼす失策をおかした。   今度の新韓日漁業協定は魚獲りだけでなく、EEZの基点・基線問題をとおして領土 問題を関連させた失策であった。協定関係者は自己の失策をうやむやにするために、魚獲 りに限定すると説明したものと思われる。   新韓日漁業協定の第15条は、協定が韓国の既存独島領有権を侵害しないというのでは なく、「この協定のどのような規定も漁業に関する事項以外の国際法上に関する各締約国 の立場を侵すものと見なされてはならない」となっている。   これを「独島」に適用すると、日本の「立場」は、「独島」は日本の領土であり、そ の12カイリは日本の領海という立場であるが、この漁業協定はこれを侵すものではないと いうものである。   一方、韓国の「立場」は「独島」は韓国の領土であり、その12カイリは韓国の領海と いう立場であるが、この漁業協定はこれを侵すものではないというものである。   結局、韓国の立場は「真実」であり、日本の立場は「主張」にすぎなかったのが、新 韓日漁業協定がこれを「同格」に尊重したのである。韓国側の協定関係者は日本の立場が 韓国と同等になり日本の利益がさらに保障されたことを知るべきなのだが、日本に籠絡さ れてしまったものとみえる。   また、UN新海洋法121条3項には「人間が居住できないか、独自の経済活動を維持す ることができない岩礁は排他的経済水域や大陸棚をもたない (Rocks which cannot sustain human habitation or economic life of their own shall have no exclusive zone or continental shelf)」と規定した。   ここでは動詞が現在形 (cannot sustain)であるので「現在または未来に」人間が居 住できないか、独自の経済活動をすることができない岩嶼がEEZの基点になることがで きないのみで、「現在または未来に」人間が居住できるか、独自の経済活動をすることが できればEEZの基点になることができるのである。   日本側はこれを積極的に解釈し、太平洋側では独島の 1/10 にもならない小さな岩礁 の上にも鉄板を敷いて小さな灯台を建てた後、日本のEEZ基点となし、膨大な日本のE EZを設定した。   1996年5月、日本は東海側にも韓国領である「独島」を日本領と主張し、日本のEE Z基点にすると発表した。これは韓国に対する重かつ大なる挑戦であった。   したがって、政府は韓国領である独島を日本が自国のEEZ基点とすることを即刻批 判し、「独島」を韓国のEEZ基点と宣布するのが当然である。国民と専門家は当然その ようにするものと期待した。   しかし、大韓民国外務部は右往左往した末、それから1年2か月後である1997年7月末 に意外にも韓国のEEZ基点を「欝陵島」にすると発表した。   そうして韓国領である「独島」を日本がEEZ基点となし、韓国は「独島」でなく 「欝陵島」を韓国のEEZ基点とする奇異な現象が現れた。これは大韓民国外務部の大失 策であった。   1997年12月3日、韓国が外国為替危機でIMF管理体制に入るや、日本政府はこの時 期を悪用して1998年1月23日、韓日漁業協定を一方的に破棄した。   1年後には破棄の効力が発生するので、韓国と日本は新韓日漁業協定を締結するため の実務会談を開始した。日本側は日本のEEZ画定線の主張(欝陵島と独島間)を西境に、 韓国EEZ画定線の主張(欝陵島と隠岐島間)を東境にして独島をその中に取りこんだ 「韓日共同管理水域(暫定措置水域)」を提議した。   韓国側はこれを修正し、海岸からおのおの35カイリ以内をそれぞれのEEZとみなし、 西境は東経131度40分、東境は東経135度30分を区画基準として独島をその中に入れる「中 間水域」を設定しようと提案し、合意された。   新韓日漁業協定正文では「中間水域」は名称なしに緯度と経度で表示され、その中に 入った「独島」にいかなる表示もしなかった。   新韓日漁業協定で「独島」を韓国領という表示なしに「中間水域」に入れた結果は最 初に指摘したように、 (1) 独島が欝陵島の水域から離れ、質的にまったく違う「中間水域」に入ってしまい、 (2) 中間水域内の「独島」を日本は自国のEEZ基点にしたが、韓国は自国のEEZ基 点にしなかったのであり、 (3) 不必要な中間水域を作り、その西境を欝陵島と独島の間で合意して、日本のEEZ 主張線を韓国が受容、反映したと受けとられかねない誤解の余地を残し、 (4) 中間水域にある「独島」に韓国領有という表示をせず、日本は「独島」とその領海 を日本領・領海と主張、解釈し、韓国は依然として韓国領土・領海と説明しており、 (5)「中間水域」に対する名称と性格の協議もなく、緯度・経度のみ表示した末、韓国外 務部は国民に「中間水域」は公海の性格をもった水域と説明しているが、日本政府は「韓 日共同管理水域」と説明している。   こうして新韓日漁業協定により、韓国の独島領有権は奪われはしなかったが、大きく 損傷を受けたのである。 Q99.(日本の戦略)   最近、日本政府が日本国民の戸籍を独島に移して登録したり、陸海空軍自衛隊が硫黄 島で独島の上陸接収演習をしたという報道は何を意味するのか? ANS.   国内外の新聞報道によれば、最近、日本側は日本人の戸籍を「独島」に移す行政措置 を実行した。戸籍移転の申請までは日本の民間人の行動であるが、これを受けつけて登録 した行政行為は日本政府の行動である。   これは後に日本による独島行政の証拠例に使用しようと準備した行動であり、大韓民 国の独島主権に対する重大な挑発である。   また最近、日本の陸海空軍自衛隊が独島接収訓練を秘密裏に硫黄島で実行した事実を 日本の新聞が特ダネで暴露報道したが、これは日本政府が独島を「侵奪」しようとする頑 強な意思をちらつかせたものである。   日本は、韓国政府の最近十年間にわたる独島守護政策がきわめて消極的であるとみて 韓国外務部の独島関連外交官に接触し、独島「侵奪」に自信感をもって中長期の戦略をた て、段階的に推進しているものと観測される。   日本側がどのような攻撃的政策を実行するのか予測するのはむずかしい。しかし、大 韓民国が適切な独島守護対策を立てて実行しなければ、日本はいつか絶好の機会がきたと 判断したとき、一挙に「平和的」方法、または「軍事的」方法、あるいはふたつの方法を 織りまぜ「独島」を「侵奪」しようと狙っているのが明白に観測される。   万一、日本が独島に戸籍を移した日本人を本籍地である「独島」の東・西、いずれか の島に上陸させ、次にかれらを保護するという口実で「独島」の韓国警察隊がいない東・ 西いずれかの、日本人が上陸した島に日本の自衛隊が上陸すれば、「実効的占有」も両分 されるのである。   韓日両国が武力衝突でもすれば、両友好国の武力衝突を望まないアメリカが「国際司 法裁判所」において判決を受けろと圧力をかけるだろうし、国際司法裁判所で日本が万全 の準備をして待っていることであろう。   さらに日本は武力行使を準備するため、去る1998年に米日防衛条約40個ガイドライン に合意し「韓半島有事時」には韓半島の東海・南海・西海・東中国海にてアメリカ海軍を 助け、日本海軍が海上警察権をもって作戦できるようアメリカ側の同意を得た。   ひょっとしたら日本はこの時を「絶好の機会」ととらえ「独島」を武力で「接収(侵 奪)」しようと準備するのかも知れない。   その他にも日本は攻撃的外交に韓国が後退する隙間をつき、既成事実化して国際社会 に日本の強力な「独島領有の国家意思」を知らせ、韓国外務部の消極的対応や無能無策を あたかも韓国の独島領有権に問題があって対応できないかのように知らせようと画策して いる。 Q100.(政府への提言)   そうなら、大韓民国は自国領である「独島」を守るためにどのような対策を立てて実 行すべきなのか? まず、新韓日漁業協定で独島領有権を毀損した部分をどのように復元 すべきか? 今後「独島」を守護、保全するためにどのような方向に政策を立案、実行し なければならないのか? ANS.   新韓日漁業協定は三年間有効で 1999年1月23日に発効し2002年1月22日に終了する。 韓国は1月23日付でこれを破棄するとか、再改訂を宣言することができる。新韓日漁業協 定をふたたび改訂する準備を今年(2000年)からすべての分野で本格的に開始する必要があ る。   まず、韓国のEEZ基点が独島であると早急に宣言すべきである。過去、独島は我が 国の3家族が常駐した歴史があり、現在と未来にいくらでも人が居住できるし、独自の経 済生活をすることができる小さな島(ilets)である。   独島は200カイリの排他的経済専管水域の基点になるのに十分な島である。したがっ て韓国政府は新しく韓国EEZ基点を「独島」と宣布し、「欝陵島」基点は取り消すべき である。   そうして「独島」が産み出す200カイリ専管水域の生産力を認め「独島」を守護、保 全する積極的な政策を推進せねばならない。   遠からず中間水域を否認してEEZを画定するために韓国、日本、北韓、ロシアなど 関係国会談が開かれるだろうが、大韓民国政府が「独島」を韓国のEEZ基点に宣布する のは最も緊急を要するのである。   二番目、「中間水域」を一日も早く廃棄、修正する準備をすべきである。韓国外務部 は「中間水域」という名称を使用して、これを「公海的性格」の水域と説明する。   日本側はこれを「暫定措置水域」と呼び「韓日共同管理」性格の水域と説明する。 「暫定措置水域」とは国際法上その水域内に「領土紛争」があり、EEZ画定がむずかし いときに暫定的に設定する水域となっている。   まさに、新韓日漁業協定の原文にはこの中間水域が名称もなく、性格の規定もなく、 経度と緯度上の位置のみで表示されている。「独島」をこのような状態の「中間水域」に 入れておいても、また韓国領であることをうかがわせるいかなる表示もないままでも韓国 側は「独島」とその12カイリ領海は韓国の領土と領海であると確信している。   したがって、韓国は「中間水域」を「公海的性格」と固守すべきで「韓日共同管理水 域」とされてはならず、万一、手におえなければ、ロシア、北韓、アメリカ、中国など隣 接国も入れる「公海」とすることがかえって「独島」にたいしては安全であるという事実 に注目すべきである。   三番目、本来の韓国と日本のEEZ画定線は「独島」と「隠岐島」の中間線であるこ とをよく認識し、これを政策として立案し実践すべきである。   当面、これが解決できなければ、国力が大きくなる後代にこれを残し、当代に合意で きない部分は一般国際法規下で活動できる「公海」状態にしておくのがより切実である。   四番目、独島を固く守るために独島を開発し、10-20戸の住民を常駐させ、新しい村、 あるいは新海洋都市をつくり、国民の日常生活圏にする必要がある。   独島の東島と西島の間は約200mの距離だが、その 2/3は水深 2mにもみたない。東 島と西島との間に鉄橋を架け、東島と西島の間に散らばる岩礁に人工地盤をつくり、海上 のユースホテルと現代的な建物を建て、湧き水を開発し、海水を淡水に変える設備および 発電施設(風力、火力など)と各種の現代的施設をつくる必要がある。   そうして独島を(1)欝陵島と韓国沿岸漁業の前進基地に、(2)独島と欝陵島をひ とまとめにして国内外の一大観光地区に、(3)海洋気象観測所、海洋水産研究所など研 究実験機関の設置地区および海洋水産関係の国際会議行事地域に、(4)韓国の初、中、 高、大学生たちの訓練場、野営場、教育の場として開発すれば、独島を守護し、保全する のに非常に大きな役割をはたすであろう。   最近、欝陵島の議会が独島の行政区域を欝陵郡 欝陵邑 道東里 山42-76番地から欝 陵郡 欝陵邑「独島里」山1-37番地に改称、改編しようと提議したのも望ましいことで ある。独島を開発すれば 10-20戸が独島の所得だけで独自の経済生活を裕福に暮らすこと ができるのは言うまでもないことである。   韓国外務部は日本側の抗議を恐れて独島の開発に反対する。これは無事安逸を追う退 行的な外交である。独島は韓国領である。いま、アメリカ第5軍と第7艦隊がこの地域で警 察の役割をしながら、日本の独島にたいする武力侵攻を根本的に規制し、韓日武力衝突を 防いでいる。国際的な関心と調査をいま掘り起こすのが韓国に有利である。   万一、アメリカ軍がこの地域から撤収するとか、日本の海軍がアメリカの海軍と共に この地域の海上警察権をもつ時期がくれば、韓国はもっと不利になり、独島を日本に侵奪 される危険が増大する。したがって、いまから独島を本格的に開発するのは独島を守護し 保全するのにとても有益な政策である。   5番目、韓国外務部の構成と政策を改革すべきである。外務部の一部関係者は国際法 の規定、保障する韓国領「独島」の「実効的占有」に終始し、無事安逸的な消極策のみに 終始している。   日本の攻撃的な外交に押されて後退を繰りかえし、今日「独島」を「中間水域」に入 れ、「独島」を韓国EEZの基点にできないような外交力では「独島」を守護、保全する のに多くの困難があるだろう。   6番目、海軍力と海洋警察隊を、独島を守るのに十分なくらい増強すべきである。海 軍を増強し、海洋巡視船を増強して先鋭化するのは早急に実施すべき課題である。 コメント:   韓日漁業協定は2002年に改訂されましたが、領有権にかかわる論議はまったくなかっ たようです。これは2005年の改訂でも同様と予想されます。   外交交渉は相手があるもの、妥協はいつの場合でもかならず必要ですが、これが時に は過激な人たちから弱腰外交と突きあげられるのが政治家や官僚にとってつらいところで しょうか。



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