半月城通信
No. 44

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 南京虐殺60周年(5)、捕虜の処置
  2. 南京虐殺60周年(6)、中国の主張
  3. 南京虐殺60周年(7)、南京レイプと慰安所
  4. 「従軍慰安婦」85,私の原点と願い


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/01/11 - 05498/05498 PFG00017 半月城 南京虐殺60周年(5),捕虜の処置 ( 7) 98/01/11 21:18   戦争において、敵兵の投降はいうまでもなく願ったり叶ったりです。敵が 投降すれば、それ以上戦わずして勝利を手中にできるからです。   一方、戦争のとき敵に捕らえられた捕虜ですが、国際法で捕虜は人道的に 「博愛の心をもって取り扱う」ことが、ハーグ条約などにより定められていま す。   日露戦争(1904)において、日本はこの条約をおおむね守ったようでした。 ロシア軍の数万にのぼる捕虜は、松山などの収容所にて人道的な扱いを受けた といわれています。   また、第一次世界大戦で捕虜になったドイツ兵のうち千名は、徳島県の板 東収容所に収容されましたが、そこで彼らがベートーベンの第9交響曲を演奏 した話はつとによく知られています。これなども捕虜が人道的に扱われたこと を示しているのではないかと思います。   ところが南京事件の場合はすこしばかり事情が違っていたようでした。あ る部隊では、捕虜をとるなという奇妙な命令が出されていました。1938年 1月14日、歩兵第30旅団の佐々木支隊長は「(各隊は担当区域を)掃討し 支那兵を撃滅すべし。各隊は師団の指示あるまで俘虜を受けつくるを許さず」 という命令を発しました。   つまり掃討作戦において、捕虜を作らず皆殺しにせよという命令でした。 これは佐々木支隊にかぎらず、それを統括する第16師団全体の方針でした。 それについて師団長の中島今朝吾中将は「捕虜掃討」という項目で、日記(1 2月13日)に次のように記しています。  「だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づくることとなしたる (れ)ども、千、五千、一万の群衆となれば、これが武装を解除することすら できず、ただ彼らがまったく戦意を失い、ぞろぞろ付いてくるから安全なるも のの、これがいったん掻擾(騒擾)せば、始末にこまるので、部隊をトラック にて増派して監視と誘導に任じ、13日夕はトラックの大活動を要したり。 (中略)   後にいたりて知るところによりて、佐々木部隊だけにて処理せしもの約一 万五千、大平門(太平門)における守備の一中隊が処理せしもの約1300, その仙鶴門付近に集結したるもの約7,8千人あり、なお続々投降しきたる。   この7,8千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当 たらず、一案としては百、二百に分割したる後、適当のヶ処(箇処)に誘きて 処理する予定なり」(注1)   この日記によれば最初、中島師団長は捕虜を殺して大きな壕のなかに埋め るつもりのようでした。こうした捕虜虐殺の方針は、当時の日本軍の実状から すれば、起こるべくして起こったといえます。その事情を、笠原十九司教授は 次のようにみています(注2)。            -----------------------   近代戦においては、大部隊は前線部隊と後方の兵站部隊とに分かれ、前線 の戦闘部隊は後方の兵站部からの食糧・軍事物資の補給をうけながら前進して いく。したがって、前線部隊のあらたな前進は、兵站部が補給可能な位置まで 移動してきてから行うのが常識であった。   ところが、中支那方面軍の独断専行で開始された南京攻略戦ではこの作戦 常識が無視された。上海派遣軍の場合、もともと上海周辺だけを想定して派遣 された部隊であったから、各師団の兵站部は最初から弱体だった。   それにもかかわらず、前線部隊は「南京一番乗り」を煽られ、補給を無視 した強行軍を余儀なくされたのである。そのため、中支那方面軍は糧秣(食糧 と軍馬の飼料)のほとんどを現地で徴発するという現地調達主義をとった。   これは「糧食を敵中に求む」「糧食を敵による」という戦法であり、通過 地域の住民から食糧を奪って食べることであった。            -----------------------   数千、数万人単位の軍隊が食糧を略奪しながら南京をめざしたのでは、通 過地域の住民はたまったものでありません。日本軍はイナゴの大群さながら食 糧をあさったので、当時の皇軍は変じてイナゴの軍隊すなわち「蝗軍(こうぐ ん)」に成りさがったのでした。   このように補給のない軍隊であってみれば、突然降って湧いたような数千 人いや数万人に達する捕虜のための食糧調達はほとんど不可能です。そうなる と、捕らえた捕虜を殺すこと以外にどんな手段があるでしょうか。   かくして一部の例外を除いて日本軍は、のちに「三光作戦」と命名される ように、奪いつくし、殺しつくし、焼きつくす蛮行をはたらかざるを得ません でした。   同じ「三光」でも三光鳥のほうは別名「極楽鳥」とも呼ばれ、鳴き声は 「月日星ほいほい」と優雅ですが、三光作戦のほうは中国人にとってこの世の 「地獄」そのもので、その泣き声は断末魔のうめきになるでしょうか。   こうして狂気に満ちた殺害がくりひろげられましたが、その一つの例とし て、幕府山虐殺を取りあげたいと思います。 ○幕府山虐殺   第13師団の山田支隊は南京陥落後、遅れて揚子江南岸に沿い南京をめざ して進撃していました。一行が幕府山と揚子江にはさまれた道にさしかかった とき、難民と化した大群の軍民に遭遇しました。このときの体験を第5中隊長 代理の角田栄一少尉はこう回想しています。  「私たち120人で幕府山に向かったが、細い月が出ており、その月明かり のなかにものすごい大軍の黒い影が・・・。私は『戦闘になったら全滅だな』 と感じた。どうせ死ぬならと度胸を決め、私は道路にすわってたばこに火をつ けた。(中略)   ところが近づいてきた彼らに機関銃を発射したとたん、みんな手をあげて 降参してしまったのです。すでに戦意を失っていた彼らだったのです」 (注1)   大勢の捕虜を捕獲したのは、角田少尉が所属する両角(もろずみ)部隊の 「大武勲」でした。しかしこの大量の捕虜は、山田支隊長にとってたいへんな 重荷でした。山田少将は日記にこう記しています(注3)。 <12月14日>   他師団に砲台をとらるるを恐れ、午前四時半出発、幕府山砲台に向かう、 明けて砲台の付近に到れば投降兵莫大にして始末に困る。   捕虜の始末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せしところ、 14,777名を得たり。かく多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元 門外三軒屋に泊す。 <12月15日>   捕虜の始末その他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのこ となり。各隊食糧なく困却す。   膨大な捕虜の処置を上海派遣軍司令部に指示をあおぎに行かせたところ、 入場式を控えて敗残兵・捕虜を徹底的に殲滅する方針でいた上層部から、捕虜 の全員処刑を命じられたのでした。その命令に従い山田少将は捕虜の虐殺を実 行しました。その始末を陣中日記はこう記しています。 <12月16日>晴れ   捕虜総数17,025名、夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に 引出し一(第一大隊)において射殺す。一日二合給養するに百俵を要し、兵自 身徴発により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしと の命令ありたるもののごとし」         歩兵第65連隊第8中隊遠藤高明少尉の陣中日記(注4) <12月16日>晴れ   二、三日前、捕慮(捕虜)せし支那兵の一部5,000名を揚子江の沿岸 に連れ出し機関銃をもって射殺す。その后、銃剣にて思う存分突き刺す。自分 もこの時ばが(か)りと憎き支那兵を30人も突き刺したことであろう。   山になっている死人の上をあがって突き刺す気持ちは、鬼お(を)もひひ (し)がん勇気が出て力いっぱい突き刺したり。ウーン、ウーンとうめく支那 兵の声、年寄りもいれば子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首をも切っ てみた。こんなことは今まで中にない珍しい出来事であった。・・・   帰りし時は午後8時となり、腕は相当つかれていた。        山砲兵第19連隊第3大隊黒須忠信上等兵の陣中日記(注4)   翌日、残りの捕虜も同じように虐殺されました。しかし、銃殺された死体 の中には、生き残っている人も当然います。そうした人たちは後に大虐殺の惨 状を告発する可能性があります。そのため、日本軍にとって殺害は一人残らず 徹底的におこなう必要がありました。   そこで総仕上げとして考えられたのが、あぶり出しでした。山のように折 り重なった死体の上に、まきや燃えるものを無造作にばらまき、それに石油を かけて焼きました。熱さにたまらず手足を動かしたところを銃剣で突き刺して とどめを刺しました。   こうして完璧な処理を終えた1-2万の死体を揚子江に運び、川に流しま した。この死体処理だけでも連隊総掛かりで二日間を要したとのことです。   老人や子供まで皆殺しにしたこのむごたらしい虐殺は、織田信長の比叡山 焼き討ちを連想させます。   こうした事実を知ってか、旧陸軍将校の会・偕行社は機関誌『偕行』に中 国人民に深く詫びるという一文を掲載しました。『偕行』は82年頃、実際に 南京攻略戦を行った人たちの体験談を掲載し「南京大虐殺はなかった」とか 「世間に宣伝されているような故意の大虐殺などなかった」という論調を掲げ ていました。   しかし、相次ぐ研究により南京虐殺の全体像が明らかになるにしたがい、 『偕行』はいさぎよく南京虐殺の事実を認め、中国人民に詫びるという劇的な 編集部論文を発表し歴史認識を正しました(注7)。細部の認識はともかく、 認識の一大転換であることは確かです。 ○藤岡教授の認識   捕虜虐殺を、「自由主義史観」を提唱する東大の藤岡信勝教授は次のよう にみています。  「残る問題は、戦闘をやめて日本軍の拘束下に入った中国兵の処刑の問題で す。戦時国際法によれば、管理する側に圧倒的な力の余裕がある場合でなけれ ば、拘束した敵の兵士を処刑しても違法とはされません。自分たちの身の危険 をおかしてまで、拘束した敵の兵士に捕虜の特権を与える必要はないのです」 (注5)   さすがに藤岡教授はディベートの専門家です。「戦時国際法」をもっとも らしく持ち出して来ました。これには幻惑されそうですので専門家の意見を聞 くことにします。大本営海軍参謀を勤めた奥宮正武元中佐はこう解説していま す。 <戦時国際法とは>   いま一つ忘れてはならないことがある。それは、南京事件を論じる人々に よく使用されている戦時国際法なる用語である。この用語もよく検討されねば ならない。戦時国際法なる単独の条約はなかったからである。   戦時国際法とは、すでに述べたように、交戦国が守るべき戦争一般に関す る条約、陸戦、海戦及び空戦のさい守られるべき条約や宣言などと、中立国人 の守るべき条約を総称したものである。   したがって、南京事件のように、個々の問題を言及するさいには、そのこ とに直接関係のある条約名をあげることが望ましい。(注6)   奥宮氏によれば、国際法で捕虜の待遇に関係のある戦前の条約は以下の3 条約です。 1.ハーグ条約  (1899)、「陸戦の法規慣例に関する規則」 2.ハーグ条約  (1907)、 同付属書 3.ジュネーブ条約(1929)、「捕虜の待遇に関する条約」   これら全てに日本は調印しましたが、批准は当時において、(1)と (2)のハーグ条約のみで、ジュネーブ条約は49年になって批准しました。 捕虜に関する規定で共通するのは、いずれの条約も「俘虜は敵の政府の権内に 属し、これを捕らえたる個人または部隊の権内に属することなし」とうたって いることです。   これはいずれにもある「政府はその権内にある俘虜を給養すべき義務を有 す」という条文と密接不可分の関係にあります。つまり、捕虜は決してそれを 捕らえた部隊の権内にあるのではなく政府の権内にあり、部隊が勝手に捕虜を 処分するのは明らかに国際法違反になります。   もちろん、政府は捕虜を給養する義務があると同時に、注目すべきは、い ずれの条約も捕虜は人道的に、あるいは博愛的に取り扱われるべきであること が明記されています。   先ほどの藤岡教授の主張ですが、これに少しでも関係がありそうな条文は ハーグ条約(1907)第8条でしょうか。この点、奥宮氏は下記のように解 説しています(注6)。             ----------------------   ヘーグ条約(1907)第8条には、 「俘虜は、これをその権内に属せしめたる国の陸軍現行法律、規則および命令 に服従すべきものとす。すべて不従順の行為あるときは、俘虜に対し、必要な る厳重手段を施すことを得」  とあった。  わが国には、本条にある厳重手段を、処刑を含むものと解釈する人々が少な くなかった。そして、そのことが南京事件虚構説の根拠となっていた。  いずれの条約や法律も、人によって、また場合によって、その解釈に幅があ ることは周知のとおりであるので、そうされたことは止むをえなかったかも知 れない。言いかえれば、わが国に前記のような拡大解釈をする人々がいても不 思議はなかった。  ところが、同条約の第23条では、 「兵器を捨て、または自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」 が禁止されていた。  また、ジュネーブ条約(1929)第2条には、 「俘虜に対する報復手段は禁止す」  と明記されていた。  したがって、どう考えても、軍の正規の裁判によって死刑と判決されない限 り、捕虜を殺傷することは違法であるといわれても弁明の余地はなかった。           --------------------------   やはり藤岡氏の解釈は成り立たないようです。藤岡氏のように、国の栄光 のみを強調するあまり、過去のむごたらしい集団残虐行為を極力免罪にしたい という発想で「戦時国際法」を牽強付会したのでは、中国のみならず国際的な 反発をますます買うだけではないかと思います。 (注1)南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集』偕行社、1989 (注2)笠原十九司『南京事件』岩波新書、1997 (注3)南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集2』偕行社、1993 (注4)小野賢二、他編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』大月書店、                             1996 (注5)藤岡信勝、西尾幹二『国民の油断、教科書が危ない』PHP研究所、                             1996 (注6)奥宮正武「私の見た南京事件」PHP研究所、1997 (注7)「証言による南京戦史」最終回、<その総括的考察>(編集部)                    『偕行』1985年3月号   日本軍が「シロ」ではないのだと覚悟しつつも、この戦史の修史作業を始 めてきたわれわれだが、この膨大な数字を前にしては暗然たらざるを得ない。 戦場の実相がいかようであれ、戦場心理がどうであろうが、この大量の不法処 理には弁解の言葉はない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く 詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/01/18 - 05529/05529 PFG00017 半月城 南京虐殺60周年(6),中国の主張 ( 7) 98/01/18 18:06   ここの会議室でもそうですが、事件当時、南京の人口は20-30万人だ ったので、中国が主張する「大虐殺の犠牲者は30万人以上」という説は明ら かにおかしいという人がけっこういるものです。   これは明らかにつじつまが合いません。つじつまが合わないというより、 議論がかみ合っていないといった方が正しいでしょうか。このような食い違い の原因は、こうした人たちが中国側の主張を正確に把握せずに、一方的な解釈 をしているためではないかと思われます。   このような誤解を少なくするために、中国側がどのような主張をしている のか紹介したいと思います。ここであらかじめお断りしますが、中国側の主張 がどの程度正しいのかについて、私は専門家でないのでよくわかりません。そ のため安直な意見は控えたいと思います。   なお、日本側の見解はこのシリーズ第1回に書いたように、たとえばある 検定教科書では「陥落から1か月余りのあいだに南京市内で婦女子をふくむ一 般住民のほか捕虜もあわせると、およそ20万人といわれる大量の人々を虐殺 した」(自由書房)とされています。   さて中国側の見解ですが、先日開かれた「南京大虐殺60年、東京国際シ ンポジウム」で、中国江蘇省社会科学院の孫宅巍氏は「南京大虐殺の規模を論 じる」と題して、犠牲者数を報告していました。まずはそれをレジメから引用 したいと思います(改行位置変更)。            ---------------------   南京大虐殺の規模に関する問題は、長年、国際学術界の大きな関心の的で あった。中国大陸の学者は、数十年に及ぶ真剣で、並大抵でない努力を重ねた 調査、研究を経て、大量の確実な歴史的文献などの資料を調査閲覧し、1,0 00人あまりにわたる生存者、証人を訪問・聞き取り調査した結果、それらの 事象がほぼ一致して指し示す結論を得た。   つまり30万人以上の人々が大虐殺にあったという事実だ。我々が南京大 虐殺の犠牲者が30万人以上という大規模なものであったと認めるのは、充分 な根拠に依拠している。   調査の可能だった記録に基づくと、千人以上の虐殺が少なくとも10回あ り、その犠牲者は19万人近い。この10回の代表的な集団虐殺には、以下が 含まれる: 12月15日、漢中門外での        2、000人あまりの虐殺 12月16日、中山埠頭での        5,000人あまりの虐殺        下関一帯の単耀亭などでの  4,000人あまりの虐殺 12月17日、煤炭港での         3,000人あまりの虐殺 12月18日、草鞋峡での        57,000人あまりの虐殺 12月    三チャ河での        2,000人あまりの虐殺        水西門外、上新河一帯での 28,000人の虐殺        城南鳳台郷、花神廟一帯での 7,000人あまりの虐殺        燕子磯江周辺での     50,000人あまりの虐殺        宝塔橋、魚雷営一帯での  30,000人あまりの虐殺               (合計  188,000人、半月城注)   このほかにも規模はそれぞれ異なるが、散発的な虐殺事件が870回あま りある。一回の犠牲者数は、少ないケースで12人から35人、多いときには 数十人から数百人だ。   三つの比較的大きな慈善団体である紅卍字会(こうまんじかい)、崇善堂、 赤十字社の遺体埋葬記録の中には、上述した10回の大規模な虐殺地点での数 字以外に、  紅卍字会では27回の虐殺、合計 11,192体の収容・埋葬:  崇善堂には 17回の虐殺、合計 66,463体の収容・埋葬:  赤十字社には18回の虐殺、合計  6,611体の収容・埋葬、               総計 84,266体 の埋葬記録が残されている。   以上により、集団虐殺は19万人、散発的虐殺は84,000人、合計 274,000人あまりが虐殺されたことになる。   また、以下のことも考慮に入れる必要がある:千人以上の虐殺は上述の1 0回だけではないし、散発的に虐殺された犠牲者の収容・埋葬に当たった団体 や私的埋葬隊も上述の三団体だけではないので、虐殺事件や埋葬活動がすべて 記録されるのは不可能なことだった。   それ故、我々は集団虐殺と散発的虐殺の事実認定だけから、この大虐殺の 被害者は30万人という驚異的規模であったという結論を得た。            --------------------------   シンポジウムでは千葉大学の秦教授とおぼしき方が、上記の数字の中に戦 闘による死者は含まれているのかと質問されていました。これに対し、孫氏は 含まれていないと回答されたのが注目されます。   孫氏は、犠牲者30万人以上という数字を別な角度、すなわち遺体の収 容・埋葬記録の面からも検討しています。報告によると、埋葬は下記のように なされました。ただし、この中には戦死した兵士も当然含まれるし、遺体収 容・処理の重複もあると、孫氏はことわっています。  国際委員会     30,000体  紅卍字会      43,123体  崇善堂      112,267体  赤十字社      22,683体  同善堂        7,000体  湖南の材木商    28,730体  城南市民       7,000体  南京市第1区役場   1,233体  南京市下関区役場   3,240体  南京市衛生局     3,000体  安達少佐     100,000体 長江に投棄や江北にて焼却・埋める  南京侵攻部隊    50,000体   合計      408,276体   孫氏は一方で人口の推計もおこないました。南京陥落時の常住人口、駐留 軍人および流動人口の総計は60-70万人であったのが、大虐殺後である3 8年春には30万人に激減したと主張しています。   なお陥落時の人口に関し「マボロシ派」は少ない数字を採用する傾向にあ り、20-30万人を主張しており、孫氏の見解と大きく食い違っています。 この点、宇都宮大学の笠原教授は孫氏とほぼ似た数字を次のようにあげていま す(注1)。           ---------------------------   日中全面戦争勃発前の南京城区の人口は100万以上であったが、日本海 軍機の連日の空襲のために同区の人口は激減していき、37年11月初旬には 50万近くになっていた(注2)。   同11月23日、南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤 務部に送付した書簡には、「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約 50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のための食糧送付 が必要である」と記されている(注3)。   11月下旬には、国民政府はすでに首都遷都を宣布しており(11月20 日)、中支那方面軍の南京進撃もすでに始まっていた段階で、南京から遠隔の 地に避難したい階層は基本的に脱出を終了していた。   その後、南京城区から安全と思われた近郊農村に避難していった市民も多 かったが、いっぽうでは、南京防衛軍の「清野作戦」の犠牲になった城壁付近 の膨大な農民が難民となって城内に避難してきたし、日本軍の南京進撃戦に追 われた広大な江南地域の都市、県城からの難民も移動してきた。   したがって、南京攻略戦が開始されたときに、南京城区にいた市民はおよ そ40-50万人であったと推測される。 (途中省略)   南京防衛軍に参加した中国軍の総数については、私はかって詳細に検討し たことがあり(注4)、戦闘兵が11-13万、それに雑役を担当した少年兵、 輜重兵などの後方勤務兵、軍の雑務を担当した雑兵、防御陣地工事に動員され た軍夫、民夫(民間人人夫)等々、正規非正規の区別もつきづらい膨大な非戦 闘兵をくわえて、総勢15万人いたと推定した。 (南京防衛軍の戦闘詳報など中国側の豊富な原資料を整理・分析した孫宅魏・  江蘇省社会科学院研究員の『南京保衛戦史』も、南京防衛軍に参加した中国  軍の総数を15万人としている)            -----------------------   このように笠原教授も南京の人口を、市民40-50万人、軍関係者15 万人、合計55-65万人としており、孫氏の60-70万人とだいたい一致 しています。   この人口推計を、あるいは「犠牲者30万人」説を補強するため、増量し ているのではないかと思う方がおられるかも知れません。しかし、孫氏は犠牲 者数の誇張などは不必要、無意味であると戒め、事実を尊重する姿勢をこう示 しています。  「数十万人の軍人、市民が虐殺されたのは中国人の大恥辱であることは指摘 されなければならないが、このような屈辱を誇張する必要はない。誇張しても、 中国人民は栄光も何も得られない。世界には無垢の人々が何人虐殺されれば、 戦犯としての裁判が実施されるかというような法律規定はない。   しかし、実際には、南京大虐殺のある一回の集団虐殺を根拠に、あるいは 一埋葬隊の遺体埋葬を証拠に、松井石根(いわね)、谷寿夫などの戦争犯罪者 を断頭台に送ることができた。   故意の重複や証拠の増量は、なんら実際的な意義をもたない。しかし、事 実は尊重されるべきで、歴史は容易に覆せるものではない。詳細な事実を記し た歴史文献と生存者の証言が、明白に、南京大虐殺の犠牲者が30万人以上で あったことを証明している。これは揺るがぬ事実なのだ」   犠牲者がたとえ十万人であろうと、三十万人であろうと大虐殺の事実には 変わりなく、歴史的意義や波及効果が大きく変化するものでもありません。そ のため、犠牲者数の数字論争は、歴史事実の細部を正確に記録するという学問 的興味に限定されるべきではないかと思います。 (注1)笠原十九司「南京事件」岩波新書、1997 (注2)スマイス「南京城区における戦争被害」 (注3)中国抗日戦争史学会編「南京大虐殺」 (注4)笠原十九司「南京防衛軍と中国軍」(洞富雄・他編『南京大虐殺の研     究』晩聲社所収)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/02/08 - 05696/05696 PFG00017 半月城 南京レイプと慰安所、南京虐殺60周年(7) ( 7) 98/02/08 23:26   南京事件はその事件の特異性から、とかく虐殺の事実のみがクローズアッ プされがちですが、その一方で、女性に対する強姦や市民に対する略奪が日常 茶飯事のように頻発しました。   なかんずく、強姦は女性には特別許しがたい事件で、それが多発したこの 歴史的事件を、アメリカのアイリス・チャン女史などはわざわざ「南京レイ プ」と呼んでいるくらいです。   強姦や略奪がどれくらい行われたのか、調査資料などほとんどないためは っきりしませんが、日本軍の上層部は強姦略奪が数万件くらいあったと大ざっ ぱにみています。その例として、南京虐殺の翌年8月、武漢攻略のために第1 1軍司令官として赴任した岡村寧次中将は、その回想録に次のように記しまし た(注1)。  「上海に上陸して一、二日の間、先遣の宮崎参謀、中支那派遣軍特務部長・ 原田少将、杭州特務機関長・萩原少佐等から聴取したところを総合すれば、次 のとおりであった。 1.南京攻略時、数万の市民にたいする略奪強姦等の大暴行があったことは事  実である。 1.第一線部隊は給養を名として俘虜を殺してしまう弊がある」 (「岡村寧次大将資料(上)」原書房)   このように数万件の強姦略奪があれば、いかに厳しい言論統制をしいても、 当事者の兵士たちを放っておけば口コミでうわさが広がってしまうものです。 それを懸念した軍首脳は帰還兵の「言論指導取締」にのりだしました。陸軍次 官は諸部隊にあてた通牒「支那事変地より帰還する軍隊および軍人の言論指導 取締に関する件」で、帰還兵が強姦などの事実を言い立てるのを取り締まるよ う命じました。   しかし皮肉なもので、その通牒に添付された参考資料「事変地より帰還の 軍隊・軍人の状況」に略奪や強姦の一端を雄弁に物語る露骨な発言が公式に記 録されました(注1)。 ・○○で親子四人を捕へ、娘は女郎同様に弄(もてあそ)んでいたが、親が余  り娘を返せと言ふので親は殺し、残る娘は部隊出発迄相変わらず弄んで、出  発間際に殺してしまう。 ・ある中隊長は、「余り問題が起こらぬように金をやるか、又は用を済ました  後は分らぬ様に殺して置く様にしろ」と暗に強姦を教えていた。 ・戦争に参加した軍人を一々調べたら、皆殺人・強盗・強姦の犯人ばかりだろ  う。 ・戦地では強姦くらいは何とも思わぬ。現行犯を憲兵に発見せられ、発砲して  抵抗した奴もある。 ・約半年にわたる戦闘中に覚えたのは強姦と強盗くらいだ。 (洞富雄編「日中戦争史資料9、南京事件2」河出書房新社)   こうした言動は決して誇張ではないようです。これを裏づけるように、南 京安全区の代表者であったドイツ人のラーベは、日本軍の乱行ぶりを12月1 7日の日記にこう書きました(注2)。  「塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。このなかの一軒で女性が暴行 を受け、さらに銃剣で首を刺され、けがをした。運良く救急車を呼ぶことがで き、鼓楼病院へ運んだ。  いま、庭には全部で200人の難民がいる。私がそばを通ると、みなひざま ずく。けれどもこちらも途方に暮れているのだ。アメリカ人の誰かがこんなふ うに言った。  『安全区は日本兵用の売春宿になった』  当たらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子 文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦に つぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日 本兵の残忍で非道な行為だけ。・・・」   さて、古今東西「略奪や強姦は戦争にはつきものだ」と主張する人がよく いるものです。しかし日本の場合、日清戦争や日露戦争、「満州事変」などで は目につくような略奪強姦はなかったようでした。   元来、日本軍隊の特徴は、世界にもまれなほど厳しい規律と、兵士に対す る服従の強制にありました。がんじがらめの規則と苛酷な罰則とで軍隊の秩序 が維持されていました。   その規律正しいはずの日本軍も、南京事件では司令官すら強姦はある程度 やむをえないというほどの惨状になってしまいました。それについて南京攻略 の総大将である松井石根・中支那方面軍司令官は「戦陣日記」にこう記述して います。 「一時我将兵により少数の奪掠行為(主として家具なり)強姦もありし如く、 多少は己(や)むなき実情なり」(12月10日) 「南京、杭州付近また奪掠、強姦の声を聞く」(12月26日) (偕行社編「南京戦史資料集」偕行社)   このように司令官が「やむなし」とあきらめるほど、南京にかぎって略奪 や強姦がなぜ頻発したのか興味のあるところです。   その理由の一つに、南京攻略戦の場合、補給を無視した作戦が影響したの ではないかと思います。軍が食糧の補給なしに進軍を続けるとなると、必然的 に必要な食糧などをすべて住民から徴発することになります。   ただし、この徴発は必ずしも違法ではありません。徴発を規定した国際法 があり、その規則を守るかぎり戦時には許されます。しかし南京の場合、その 規則が守られることはほとんどなく、全軍が略奪の集団と化したにひとしいの が実態でした。南京攻略戦時、そのようすを第9師団経理部将校の渡辺氏は次 のように回想しています(注1)。            ------------------------   徴発品の代金の支払いは如何にされて居ったのか、軍隊は強盗でも山賊で もない。必ず代金を払って買はねばならないのである。しかし物はあっても人 が逃れて居らぬ今日、生きん為めに食ふものは是非必要と云ふ時は徴発という ことになる。従って之(これ)については国際法等で厳重な規定がある。  後日、所有者が代金の請求を出来るようにして置かねばならない故に、徴発 書はかねて印刷配布して所要の事項を記入すればよいようにして、記載事項や 注意事項も詳細印刷して一読すれば誰にでもわかるのである。   しかるに後日所有者が代金の請求に持参したものを見れば、其記入が出鱈 目(でたらめ)である。例えば○○部隊先鋒隊長加藤清正とか、退却部隊長蒋 介石と書いて、其品種数量を箱入丸升とか樽詰少量と云ふものや、全く何も記 入してないもの、はなはだしいものは単に馬鹿野郎と書いたものもある。全く 熱意も誠意もない。 (渡辺卯七「第9師団経理部将校の回想・4,南京戦の思い出」)            ------------------------   このように徴発とは名ばかりの略奪行為をくり返し、軍紀や風紀が乱れき った皇軍は、先ほどの経理将校の渡辺氏によれば「まるで百鬼夜行の行列であ った。石川五右衛門の物取りの帰りもかくやと思はれた」ありさまでした。   このように日本が国際法を無視するようになったのは、時の流れでしょう か。1932年、日本は満州国の建国を宣言をしましたが、これがご存じのよ うに国際社会にまったく受け入れられず非難の的となり、これがため日本は翌 年、国際連盟を脱退しました。   こうして国際社会に背を向け、ひたすら軍国主義の道を歩んでいった日本 には、「国際法」はもはや無用の長物になってしまったのかも知れません。   しかし、国際法の認識に希薄な日本軍中央も、こうした略奪や強姦が中国 人の敵愾心をかきたて、「聖戦」遂行に有害であるという認識を持つようにな りました。とくに、強姦は中国人にとって最悪の暴虐行為であるという認識を 日本軍は以前から持っていました。たとえば32年7月、関東軍参謀部は次の ように記録していました(注3)。  「支那人は面子(めんつ)を重んじ、外見上婦人を大切にするが、強姦は悪 徳暴虐行為の中、其最悪なるものとして非常に重大なる社会問題として居る。 (匪賊や盗賊も)虚言、瞞着(まんちゃく)、掠奪、強盗等は平気でやるが、 強姦だけは滅多にやらぬ」(関東軍参謀部宣伝参考「漢民族の特質」)。   匪賊でもやらないような悪逆無道な強姦を日本軍がおおっぴらにやったの ですから、中国人の憤激や抗日意識は想像を絶するものがあったのではないか と思います。   こうした観点から、強姦防止は日本軍の重要課題になりました。それと同 時に、性病の多発が多少戦力の低下につながっていたこともあり、それらの総 合対策として「慰安所」の設置が考えだされました。   こうして中支那方面軍は指揮下の上海派遣軍や第10軍に37年12月1 1日、軍慰安所設置の指示を命じました。これを受けて第10軍の山崎正男少 佐は、湖州における軍慰安所の設置について、日記(12月18日)にこう書 いています(注3)。            -----------------------   先行せる寺田中佐は憲兵を指導して湖州に娯楽機関を設置す。・・・別に 告知を出したる訳でもなく、入口に標識を為したるにもあらざるに、兵は何処 からか伝え聞きて大繁盛を呈し、動(やや)ともすれば酷使に陥り注意しあり とのことなり。   先行し来れる寺田中佐はもとより自ら実験済みなるも、本日到着せる大阪 少佐、仙頭大尉この話を聞き耐まらなくなったと見えて、憲兵隊長と早速出掛 けて行く。約一時間半にて帰り来る。・・・概ね満足の体なり(南京戦史編集 委員会編「南京戦史資料集」)。            -----------------------   将校が憲兵を指導し設置した慰安所が大盛況で、慰安婦は酷使されるほど であったというのは何とも空恐ろしい話です。しかも少佐や憲兵隊長などが話 を聞いて「たまらなくなって」早速でかけて行ったとは、よほど好きな将校た ちだったようです。   かくして慰安所は日本軍に定着していったようでした。そうしたいきさつ を女子栄養大学の藤原彰教授は次のように解説しています(注1)。            --------------------------   南京攻略にさいして多発した強姦事件が、軍規の維持、志気の振興のため には慰安施設が不可欠だとする認識を軍上層部にもたせることになったのであ る。翌年の武漢攻略戦のさいには、兵站の一部のような形で慰安婦を同行させ たと軍司令官が語っている。   軍が組織的に慰安所を設けることは、たちまちのうちに全線戦にひろがっ た。そのため必要となった大量の慰安婦は、朝鮮、台湾などの植民地、あるい は占領地から直接に調達された。   その方法は、欺瞞や強制拉致などさまざまであったが、大部分の女性は 「婦人児童の売買禁止に関する国際条約」が禁止している21歳以下の未成年 者であった。   慰安所における彼女たちの処遇は、人権のひとかけらも認められない性奴 隷そのものであった。それは軍の管理統制のもとにおかれた、組織的な強姦に ほかならなかったのである。   そこには人権無視と民族差別の極限の状態が示されていたというべきであ ろう。ここにも南京事件がひきおこした、大きな問題が存在している。            --------------------------   慰安所が軍全体にたちまちひろがったのは、軍中央による慰安所の設置や 指導によるものであったことはいうまでもありません。1940年、軍中央は 「軍紀振作対策」をたて、「主として事変地に於て著意(ちゃくい)すべき事 項」として慰安施設の「意義」を次のように高く評価していました。  「事変地に於ては特に環境を整理し慰安施設に関し周到なる注意を払ひ、殺 伐なる感情及劣情を緩和抑制することに留意するを要す。   環境が軍人の心理延いては軍紀の振作に影響あるは贅言を要せざる所なり。 故に兵営(宿舎)に於ける起居の設備を適切にし、慰安の諸施設に留意するを 必要とす。   特に性的慰安所より受くる兵の精神的影響は最も率直深刻にして、之が指 導監督の適否は志気の振興、軍紀の維持、犯罪及性病の予防等に影響する所大 なるを思わざるべからず」(陸密第1955号「支那事変の経験より観たる軍 紀振作対策」陸軍省、1940)   慰安所に対する指導監督の適否が、「志気の振興、軍規の維持、犯罪及性 病の予防」に大きく影響するという考えは、単純明瞭にして軍人らしい短絡的 な発想といえます。その延長上に、「従軍慰安婦」は公衆便所であるという人 権意識のひとかけらもない男性本位の慰安所政策が採用されました。   上記の経過からすると、南京事件は「従軍慰安婦」問題の発端になったと いっても過言ではないといえます。 (注1)藤原彰「南京の日本軍」大月書店,1997 (注2)ジョン・ラーベ「南京の真実」講談社,1997 (注3)吉見義明「従軍慰安婦」岩波新書,1995   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


文書名:私の原点と望み、 My Wish [zainichi:04698] Date: Thu Jan 15 22:31:14 1998   半月城です。 [zainichi:04666],Tsukamoto さんの好奇心に答えたいと思います。 >あなたを、そこまで突き動かす力の源は、何ですか? >端的に。目的は何ですか?   私を駆り立てるものをひとことでいえば、自由主義史観論者に対する怒り でしょうか。近代史の暗い遺産を矮小化するあまり、「慰安婦は商行為であっ た」とか「強制連行」はなかったという彼らの発言に対する怒りです。   その怒りを具体的にパソコン通信という形で表現しようと思い立ったのは、 あるテレビ番組を見たのがきっかけでした。その転機について、かって私は次 のように書いたことがあります。           --------------------------- 「従軍慰安婦」に対する感性            (半月城通信、<「従軍慰安婦」25>より)    ある韓国の「従軍慰安婦」、名前を金順徳さんといいますが、この人の 話で強く印象に残る話がありました。彼女は自分自身を題材にした絵「あの時 あの場所で」などを描いた人です。彼女は「従軍慰安婦」問題が注目を浴びる ようになった時に名乗りでようかどうしようかとさんざん悩みました。親戚に 相談したらやめた方がいいと止められました。    しかし、彼女は日本政府の対応などをみて、あまりの悔しさについに決 心して名乗りでました。名乗りでた後は、その事実が自分の息子にいつ知られ るのかびくびくしながら暮らしていました。しかし、ついにその恐れが現実の ものになってしまいました。その時の息子との会話の思い出をNHKのTVで 語っていましたが、私にとってこの話はとても印象的で、おそらく生涯忘れる ことはできないものです。その内容を紹介します。 子「どうして今まで自分に隠していたんですか?」 母「自分の母親にも言えなかったのにおまえに話せるわけがないだろう。」 子「お母さんが自分の意志でやったことではないし、当時の韓国人は日本人に  奴隷のような扱いを受けたことは教育を受けた者なら誰でも知っています。  どうして打ち明けてくれなかったんですか?」 母「打ち明けたところでおまえはそれを許すことができたのかい?」 子「歴史は正す方がいいと私は教わりました。私がこのことを理解できないと  思ったのですか?」    この会話のあと、彼女は嫁から聞いたそうですが、息子は部屋の窓をあ け、放心状態で外をぼんやり見ていて、嫁が声をかけてもしばらく気がつかな かったそうです。そこで嫁が「何をしているの。早くご飯を食べて会社にいか ないと!」と強く言ったらやっと息子は我に返ったそうでした。その後もこう したことが何回もあったそうで、その話を聞いて以来、彼女は心が安まる時が なかったそうです。    この番組をみて、私はいつのまにか自分をこの息子さんに置き換えてい ました。まかり間違って、私の母も運が悪ければ「従軍慰安婦」にさせられて いたかも知れません。もし、そうであったとしたら自分はこの息子さんのよう な境地に置かれるわけです。その時、自分はその事実の重みにどう耐えるのだ ろうか? 私が「従軍慰安婦」を考えるときの原点はここにあります。彼女たちの 筆舌に尽くしがたい虐げられた青春や苦しみは、私にとってはとても他人事と は思えないのです。ましてや決して遠い昔のできごとなどではないのです。こ うした感性が河原さんと決定的に違うのではないでしょうか。           --------------------------  「従軍慰安婦」に限らず、戦時中、人としてまともに生きる道を断たれた犠 牲者が、今でも何の補償も受けられないどころか、極端な場合「うそつき」よ ばわりされる現状を、私は黙って見過ごすわけにはいきません。また、そのよ うな悪質な発言には反論せずにおられません。   この動機から、私はパソコン通信で積極的に発言するようになりました。 ところが彼らはなかなか手強く、くじけないよう必死で続けてきました。その ためには本を読み、集会にも参加して知識を吸収しました。   こうしてみると、私をここまで突き動かした力の源は、私に論戦を挑んで きた自由主義史観シンパであるといえます。   そうしたやりとりの末、近頃、彼らニフティの FNETDメンバーから、めぼ しい反論がほとんどなくなりました。しかしながら自由主義史観シンパはそこ だけではないので、別なところ、たとえばインターネット・ニュース fj.soc. などに移ろうかなと思っています。 >あなたの理想は、どのような世界ですか? >具体的に。将来どのような日本社会を望むのですか?   私は、戦争のない世界、差別の少ない社会をとくに望んでいます。差別に ついていえば、私は時代の制約もあって骨身にしみる経験をしてきただけに、 差別解消、中でも「出生地主義」は私の悲願です。   人は生まれながらにして平等で、親の門地や貧富、国籍などで差別される べきではないと思っています。世界人権宣言にも「すべて人間は、生まれなが ら自由で、尊厳と権利について平等である・・・」(第1条)とうたわれてい るのはよく知られているとおりです。   血統主義は日本や韓国、ドイツなどで採用されておりますが、世界人権宣 言の精神からすると、親の国籍で子どもの権利が制限される血統主義は早急に 改められるべきであると思います。   もちろん、出生地主義で問題がすべて解決されるわけではありません。こ の制度を採用しているアメリカで差別が厳然としてあるのは周知のとおりです。 そのアメリカは公民権運動により差別がかなり薄まりましたが、その結果得ら れた社会は、差別する側であった白人にも住みやすいものになったのではない かと思います。   差別はどこの国でも存在するのでしょうが、その深刻さの度合いがその国 の成熟度を示すバロメータになっているのではないかと思います。そうした意 味で、私が住んでいるこの日本がより成熟した社会になり、部落差別やアジア 人に対する差別がなくなるよう期待しています。   最後のご質問の、若い世代の戦争責任ですが、これについては、ゆうき@ 北京さんが適切なコメントをされていますので割愛したいと思います。   一方、ときのETRANGERさんの南京虐殺に関する質問には別な機会 に答えたいと思います。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


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