- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/01/11 -
05498/05498 PFG00017 半月城 南京虐殺60周年(5),捕虜の処置
( 7) 98/01/11 21:18
戦争において、敵兵の投降はいうまでもなく願ったり叶ったりです。敵が
投降すれば、それ以上戦わずして勝利を手中にできるからです。
一方、戦争のとき敵に捕らえられた捕虜ですが、国際法で捕虜は人道的に
「博愛の心をもって取り扱う」ことが、ハーグ条約などにより定められていま
す。
日露戦争(1904)において、日本はこの条約をおおむね守ったようでした。
ロシア軍の数万にのぼる捕虜は、松山などの収容所にて人道的な扱いを受けた
といわれています。
また、第一次世界大戦で捕虜になったドイツ兵のうち千名は、徳島県の板
東収容所に収容されましたが、そこで彼らがベートーベンの第9交響曲を演奏
した話はつとによく知られています。これなども捕虜が人道的に扱われたこと
を示しているのではないかと思います。
ところが南京事件の場合はすこしばかり事情が違っていたようでした。あ
る部隊では、捕虜をとるなという奇妙な命令が出されていました。1938年
1月14日、歩兵第30旅団の佐々木支隊長は「(各隊は担当区域を)掃討し
支那兵を撃滅すべし。各隊は師団の指示あるまで俘虜を受けつくるを許さず」
という命令を発しました。
つまり掃討作戦において、捕虜を作らず皆殺しにせよという命令でした。
これは佐々木支隊にかぎらず、それを統括する第16師団全体の方針でした。
それについて師団長の中島今朝吾中将は「捕虜掃討」という項目で、日記(1
2月13日)に次のように記しています。
「だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づくることとなしたる
(れ)ども、千、五千、一万の群衆となれば、これが武装を解除することすら
できず、ただ彼らがまったく戦意を失い、ぞろぞろ付いてくるから安全なるも
のの、これがいったん掻擾(騒擾)せば、始末にこまるので、部隊をトラック
にて増派して監視と誘導に任じ、13日夕はトラックの大活動を要したり。
(中略)
後にいたりて知るところによりて、佐々木部隊だけにて処理せしもの約一
万五千、大平門(太平門)における守備の一中隊が処理せしもの約1300,
その仙鶴門付近に集結したるもの約7,8千人あり、なお続々投降しきたる。
この7,8千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当
たらず、一案としては百、二百に分割したる後、適当のヶ処(箇処)に誘きて
処理する予定なり」(注1)
この日記によれば最初、中島師団長は捕虜を殺して大きな壕のなかに埋め
るつもりのようでした。こうした捕虜虐殺の方針は、当時の日本軍の実状から
すれば、起こるべくして起こったといえます。その事情を、笠原十九司教授は
次のようにみています(注2)。
-----------------------
近代戦においては、大部隊は前線部隊と後方の兵站部隊とに分かれ、前線
の戦闘部隊は後方の兵站部からの食糧・軍事物資の補給をうけながら前進して
いく。したがって、前線部隊のあらたな前進は、兵站部が補給可能な位置まで
移動してきてから行うのが常識であった。
ところが、中支那方面軍の独断専行で開始された南京攻略戦ではこの作戦
常識が無視された。上海派遣軍の場合、もともと上海周辺だけを想定して派遣
された部隊であったから、各師団の兵站部は最初から弱体だった。
それにもかかわらず、前線部隊は「南京一番乗り」を煽られ、補給を無視
した強行軍を余儀なくされたのである。そのため、中支那方面軍は糧秣(食糧
と軍馬の飼料)のほとんどを現地で徴発するという現地調達主義をとった。
これは「糧食を敵中に求む」「糧食を敵による」という戦法であり、通過
地域の住民から食糧を奪って食べることであった。
-----------------------
数千、数万人単位の軍隊が食糧を略奪しながら南京をめざしたのでは、通
過地域の住民はたまったものでありません。日本軍はイナゴの大群さながら食
糧をあさったので、当時の皇軍は変じてイナゴの軍隊すなわち「蝗軍(こうぐ
ん)」に成りさがったのでした。
このように補給のない軍隊であってみれば、突然降って湧いたような数千
人いや数万人に達する捕虜のための食糧調達はほとんど不可能です。そうなる
と、捕らえた捕虜を殺すこと以外にどんな手段があるでしょうか。
かくして一部の例外を除いて日本軍は、のちに「三光作戦」と命名される
ように、奪いつくし、殺しつくし、焼きつくす蛮行をはたらかざるを得ません
でした。
同じ「三光」でも三光鳥のほうは別名「極楽鳥」とも呼ばれ、鳴き声は
「月日星ほいほい」と優雅ですが、三光作戦のほうは中国人にとってこの世の
「地獄」そのもので、その泣き声は断末魔のうめきになるでしょうか。
こうして狂気に満ちた殺害がくりひろげられましたが、その一つの例とし
て、幕府山虐殺を取りあげたいと思います。
○幕府山虐殺
第13師団の山田支隊は南京陥落後、遅れて揚子江南岸に沿い南京をめざ
して進撃していました。一行が幕府山と揚子江にはさまれた道にさしかかった
とき、難民と化した大群の軍民に遭遇しました。このときの体験を第5中隊長
代理の角田栄一少尉はこう回想しています。
「私たち120人で幕府山に向かったが、細い月が出ており、その月明かり
のなかにものすごい大軍の黒い影が・・・。私は『戦闘になったら全滅だな』
と感じた。どうせ死ぬならと度胸を決め、私は道路にすわってたばこに火をつ
けた。(中略)
ところが近づいてきた彼らに機関銃を発射したとたん、みんな手をあげて
降参してしまったのです。すでに戦意を失っていた彼らだったのです」
(注1)
大勢の捕虜を捕獲したのは、角田少尉が所属する両角(もろずみ)部隊の
「大武勲」でした。しかしこの大量の捕虜は、山田支隊長にとってたいへんな
重荷でした。山田少将は日記にこう記しています(注3)。
<12月14日>
他師団に砲台をとらるるを恐れ、午前四時半出発、幕府山砲台に向かう、
明けて砲台の付近に到れば投降兵莫大にして始末に困る。
捕虜の始末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せしところ、
14,777名を得たり。かく多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元
門外三軒屋に泊す。
<12月15日>
捕虜の始末その他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのこ
となり。各隊食糧なく困却す。
膨大な捕虜の処置を上海派遣軍司令部に指示をあおぎに行かせたところ、
入場式を控えて敗残兵・捕虜を徹底的に殲滅する方針でいた上層部から、捕虜
の全員処刑を命じられたのでした。その命令に従い山田少将は捕虜の虐殺を実
行しました。その始末を陣中日記はこう記しています。
<12月16日>晴れ
捕虜総数17,025名、夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に
引出し一(第一大隊)において射殺す。一日二合給養するに百俵を要し、兵自
身徴発により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしと
の命令ありたるもののごとし」
歩兵第65連隊第8中隊遠藤高明少尉の陣中日記(注4)
<12月16日>晴れ
二、三日前、捕慮(捕虜)せし支那兵の一部5,000名を揚子江の沿岸
に連れ出し機関銃をもって射殺す。その后、銃剣にて思う存分突き刺す。自分
もこの時ばが(か)りと憎き支那兵を30人も突き刺したことであろう。
山になっている死人の上をあがって突き刺す気持ちは、鬼お(を)もひひ
(し)がん勇気が出て力いっぱい突き刺したり。ウーン、ウーンとうめく支那
兵の声、年寄りもいれば子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首をも切っ
てみた。こんなことは今まで中にない珍しい出来事であった。・・・
帰りし時は午後8時となり、腕は相当つかれていた。
山砲兵第19連隊第3大隊黒須忠信上等兵の陣中日記(注4)
翌日、残りの捕虜も同じように虐殺されました。しかし、銃殺された死体
の中には、生き残っている人も当然います。そうした人たちは後に大虐殺の惨
状を告発する可能性があります。そのため、日本軍にとって殺害は一人残らず
徹底的におこなう必要がありました。
そこで総仕上げとして考えられたのが、あぶり出しでした。山のように折
り重なった死体の上に、まきや燃えるものを無造作にばらまき、それに石油を
かけて焼きました。熱さにたまらず手足を動かしたところを銃剣で突き刺して
とどめを刺しました。
こうして完璧な処理を終えた1-2万の死体を揚子江に運び、川に流しま
した。この死体処理だけでも連隊総掛かりで二日間を要したとのことです。
老人や子供まで皆殺しにしたこのむごたらしい虐殺は、織田信長の比叡山
焼き討ちを連想させます。
こうした事実を知ってか、旧陸軍将校の会・偕行社は機関誌『偕行』に中
国人民に深く詫びるという一文を掲載しました。『偕行』は82年頃、実際に
南京攻略戦を行った人たちの体験談を掲載し「南京大虐殺はなかった」とか
「世間に宣伝されているような故意の大虐殺などなかった」という論調を掲げ
ていました。
しかし、相次ぐ研究により南京虐殺の全体像が明らかになるにしたがい、
『偕行』はいさぎよく南京虐殺の事実を認め、中国人民に詫びるという劇的な
編集部論文を発表し歴史認識を正しました(注7)。細部の認識はともかく、
認識の一大転換であることは確かです。
○藤岡教授の認識
捕虜虐殺を、「自由主義史観」を提唱する東大の藤岡信勝教授は次のよう
にみています。
「残る問題は、戦闘をやめて日本軍の拘束下に入った中国兵の処刑の問題で
す。戦時国際法によれば、管理する側に圧倒的な力の余裕がある場合でなけれ
ば、拘束した敵の兵士を処刑しても違法とはされません。自分たちの身の危険
をおかしてまで、拘束した敵の兵士に捕虜の特権を与える必要はないのです」
(注5)
さすがに藤岡教授はディベートの専門家です。「戦時国際法」をもっとも
らしく持ち出して来ました。これには幻惑されそうですので専門家の意見を聞
くことにします。大本営海軍参謀を勤めた奥宮正武元中佐はこう解説していま
す。
<戦時国際法とは>
いま一つ忘れてはならないことがある。それは、南京事件を論じる人々に
よく使用されている戦時国際法なる用語である。この用語もよく検討されねば
ならない。戦時国際法なる単独の条約はなかったからである。
戦時国際法とは、すでに述べたように、交戦国が守るべき戦争一般に関す
る条約、陸戦、海戦及び空戦のさい守られるべき条約や宣言などと、中立国人
の守るべき条約を総称したものである。
したがって、南京事件のように、個々の問題を言及するさいには、そのこ
とに直接関係のある条約名をあげることが望ましい。(注6)
奥宮氏によれば、国際法で捕虜の待遇に関係のある戦前の条約は以下の3
条約です。
1.ハーグ条約 (1899)、「陸戦の法規慣例に関する規則」
2.ハーグ条約 (1907)、 同付属書
3.ジュネーブ条約(1929)、「捕虜の待遇に関する条約」
これら全てに日本は調印しましたが、批准は当時において、(1)と
(2)のハーグ条約のみで、ジュネーブ条約は49年になって批准しました。
捕虜に関する規定で共通するのは、いずれの条約も「俘虜は敵の政府の権内に
属し、これを捕らえたる個人または部隊の権内に属することなし」とうたって
いることです。
これはいずれにもある「政府はその権内にある俘虜を給養すべき義務を有
す」という条文と密接不可分の関係にあります。つまり、捕虜は決してそれを
捕らえた部隊の権内にあるのではなく政府の権内にあり、部隊が勝手に捕虜を
処分するのは明らかに国際法違反になります。
もちろん、政府は捕虜を給養する義務があると同時に、注目すべきは、い
ずれの条約も捕虜は人道的に、あるいは博愛的に取り扱われるべきであること
が明記されています。
先ほどの藤岡教授の主張ですが、これに少しでも関係がありそうな条文は
ハーグ条約(1907)第8条でしょうか。この点、奥宮氏は下記のように解
説しています(注6)。
----------------------
ヘーグ条約(1907)第8条には、
「俘虜は、これをその権内に属せしめたる国の陸軍現行法律、規則および命令
に服従すべきものとす。すべて不従順の行為あるときは、俘虜に対し、必要な
る厳重手段を施すことを得」
とあった。
わが国には、本条にある厳重手段を、処刑を含むものと解釈する人々が少な
くなかった。そして、そのことが南京事件虚構説の根拠となっていた。
いずれの条約や法律も、人によって、また場合によって、その解釈に幅があ
ることは周知のとおりであるので、そうされたことは止むをえなかったかも知
れない。言いかえれば、わが国に前記のような拡大解釈をする人々がいても不
思議はなかった。
ところが、同条約の第23条では、
「兵器を捨て、または自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」
が禁止されていた。
また、ジュネーブ条約(1929)第2条には、
「俘虜に対する報復手段は禁止す」
と明記されていた。
したがって、どう考えても、軍の正規の裁判によって死刑と判決されない限
り、捕虜を殺傷することは違法であるといわれても弁明の余地はなかった。
--------------------------
やはり藤岡氏の解釈は成り立たないようです。藤岡氏のように、国の栄光
のみを強調するあまり、過去のむごたらしい集団残虐行為を極力免罪にしたい
という発想で「戦時国際法」を牽強付会したのでは、中国のみならず国際的な
反発をますます買うだけではないかと思います。
(注1)南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集』偕行社、1989
(注2)笠原十九司『南京事件』岩波新書、1997
(注3)南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集2』偕行社、1993
(注4)小野賢二、他編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』大月書店、
1996
(注5)藤岡信勝、西尾幹二『国民の油断、教科書が危ない』PHP研究所、
1996
(注6)奥宮正武「私の見た南京事件」PHP研究所、1997
(注7)「証言による南京戦史」最終回、<その総括的考察>(編集部)
『偕行』1985年3月号
日本軍が「シロ」ではないのだと覚悟しつつも、この戦史の修史作業を始
めてきたわれわれだが、この膨大な数字を前にしては暗然たらざるを得ない。
戦場の実相がいかようであれ、戦場心理がどうであろうが、この大量の不法処
理には弁解の言葉はない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く
詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった。
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
- FNETD MES( 7):情報集積 / 海外政策 98/01/18 -
05529/05529 PFG00017 半月城 南京虐殺60周年(6),中国の主張
( 7) 98/01/18 18:06
ここの会議室でもそうですが、事件当時、南京の人口は20-30万人だ
ったので、中国が主張する「大虐殺の犠牲者は30万人以上」という説は明ら
かにおかしいという人がけっこういるものです。
これは明らかにつじつまが合いません。つじつまが合わないというより、
議論がかみ合っていないといった方が正しいでしょうか。このような食い違い
の原因は、こうした人たちが中国側の主張を正確に把握せずに、一方的な解釈
をしているためではないかと思われます。
このような誤解を少なくするために、中国側がどのような主張をしている
のか紹介したいと思います。ここであらかじめお断りしますが、中国側の主張
がどの程度正しいのかについて、私は専門家でないのでよくわかりません。そ
のため安直な意見は控えたいと思います。
なお、日本側の見解はこのシリーズ第1回に書いたように、たとえばある
検定教科書では「陥落から1か月余りのあいだに南京市内で婦女子をふくむ一
般住民のほか捕虜もあわせると、およそ20万人といわれる大量の人々を虐殺
した」(自由書房)とされています。
さて中国側の見解ですが、先日開かれた「南京大虐殺60年、東京国際シ
ンポジウム」で、中国江蘇省社会科学院の孫宅巍氏は「南京大虐殺の規模を論
じる」と題して、犠牲者数を報告していました。まずはそれをレジメから引用
したいと思います(改行位置変更)。
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南京大虐殺の規模に関する問題は、長年、国際学術界の大きな関心の的で
あった。中国大陸の学者は、数十年に及ぶ真剣で、並大抵でない努力を重ねた
調査、研究を経て、大量の確実な歴史的文献などの資料を調査閲覧し、1,0
00人あまりにわたる生存者、証人を訪問・聞き取り調査した結果、それらの
事象がほぼ一致して指し示す結論を得た。
つまり30万人以上の人々が大虐殺にあったという事実だ。我々が南京大
虐殺の犠牲者が30万人以上という大規模なものであったと認めるのは、充分
な根拠に依拠している。
調査の可能だった記録に基づくと、千人以上の虐殺が少なくとも10回あ
り、その犠牲者は19万人近い。この10回の代表的な集団虐殺には、以下が
含まれる:
12月15日、漢中門外での 2、000人あまりの虐殺
12月16日、中山埠頭での 5,000人あまりの虐殺
下関一帯の単耀亭などでの 4,000人あまりの虐殺
12月17日、煤炭港での 3,000人あまりの虐殺
12月18日、草鞋峡での 57,000人あまりの虐殺
12月 三チャ河での 2,000人あまりの虐殺
水西門外、上新河一帯での 28,000人の虐殺
城南鳳台郷、花神廟一帯での 7,000人あまりの虐殺
燕子磯江周辺での 50,000人あまりの虐殺
宝塔橋、魚雷営一帯での 30,000人あまりの虐殺
(合計 188,000人、半月城注)
このほかにも規模はそれぞれ異なるが、散発的な虐殺事件が870回あま
りある。一回の犠牲者数は、少ないケースで12人から35人、多いときには
数十人から数百人だ。
三つの比較的大きな慈善団体である紅卍字会(こうまんじかい)、崇善堂、
赤十字社の遺体埋葬記録の中には、上述した10回の大規模な虐殺地点での数
字以外に、
紅卍字会では27回の虐殺、合計 11,192体の収容・埋葬:
崇善堂には 17回の虐殺、合計 66,463体の収容・埋葬:
赤十字社には18回の虐殺、合計 6,611体の収容・埋葬、
総計 84,266体
の埋葬記録が残されている。
以上により、集団虐殺は19万人、散発的虐殺は84,000人、合計
274,000人あまりが虐殺されたことになる。
また、以下のことも考慮に入れる必要がある:千人以上の虐殺は上述の1
0回だけではないし、散発的に虐殺された犠牲者の収容・埋葬に当たった団体
や私的埋葬隊も上述の三団体だけではないので、虐殺事件や埋葬活動がすべて
記録されるのは不可能なことだった。
それ故、我々は集団虐殺と散発的虐殺の事実認定だけから、この大虐殺の
被害者は30万人という驚異的規模であったという結論を得た。
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シンポジウムでは千葉大学の秦教授とおぼしき方が、上記の数字の中に戦
闘による死者は含まれているのかと質問されていました。これに対し、孫氏は
含まれていないと回答されたのが注目されます。
孫氏は、犠牲者30万人以上という数字を別な角度、すなわち遺体の収
容・埋葬記録の面からも検討しています。報告によると、埋葬は下記のように
なされました。ただし、この中には戦死した兵士も当然含まれるし、遺体収
容・処理の重複もあると、孫氏はことわっています。
国際委員会 30,000体
紅卍字会 43,123体
崇善堂 112,267体
赤十字社 22,683体
同善堂 7,000体
湖南の材木商 28,730体
城南市民 7,000体
南京市第1区役場 1,233体
南京市下関区役場 3,240体
南京市衛生局 3,000体
安達少佐 100,000体 長江に投棄や江北にて焼却・埋める
南京侵攻部隊 50,000体
合計 408,276体
孫氏は一方で人口の推計もおこないました。南京陥落時の常住人口、駐留
軍人および流動人口の総計は60-70万人であったのが、大虐殺後である3
8年春には30万人に激減したと主張しています。
なお陥落時の人口に関し「マボロシ派」は少ない数字を採用する傾向にあ
り、20-30万人を主張しており、孫氏の見解と大きく食い違っています。
この点、宇都宮大学の笠原教授は孫氏とほぼ似た数字を次のようにあげていま
す(注1)。
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日中全面戦争勃発前の南京城区の人口は100万以上であったが、日本海
軍機の連日の空襲のために同区の人口は激減していき、37年11月初旬には
50万近くになっていた(注2)。
同11月23日、南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤
務部に送付した書簡には、「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約
50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のための食糧送付
が必要である」と記されている(注3)。
11月下旬には、国民政府はすでに首都遷都を宣布しており(11月20
日)、中支那方面軍の南京進撃もすでに始まっていた段階で、南京から遠隔の
地に避難したい階層は基本的に脱出を終了していた。
その後、南京城区から安全と思われた近郊農村に避難していった市民も多
かったが、いっぽうでは、南京防衛軍の「清野作戦」の犠牲になった城壁付近
の膨大な農民が難民となって城内に避難してきたし、日本軍の南京進撃戦に追
われた広大な江南地域の都市、県城からの難民も移動してきた。
したがって、南京攻略戦が開始されたときに、南京城区にいた市民はおよ
そ40-50万人であったと推測される。
(途中省略)
南京防衛軍に参加した中国軍の総数については、私はかって詳細に検討し
たことがあり(注4)、戦闘兵が11-13万、それに雑役を担当した少年兵、
輜重兵などの後方勤務兵、軍の雑務を担当した雑兵、防御陣地工事に動員され
た軍夫、民夫(民間人人夫)等々、正規非正規の区別もつきづらい膨大な非戦
闘兵をくわえて、総勢15万人いたと推定した。
(南京防衛軍の戦闘詳報など中国側の豊富な原資料を整理・分析した孫宅魏・
江蘇省社会科学院研究員の『南京保衛戦史』も、南京防衛軍に参加した中国
軍の総数を15万人としている)
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このように笠原教授も南京の人口を、市民40-50万人、軍関係者15
万人、合計55-65万人としており、孫氏の60-70万人とだいたい一致
しています。
この人口推計を、あるいは「犠牲者30万人」説を補強するため、増量し
ているのではないかと思う方がおられるかも知れません。しかし、孫氏は犠牲
者数の誇張などは不必要、無意味であると戒め、事実を尊重する姿勢をこう示
しています。
「数十万人の軍人、市民が虐殺されたのは中国人の大恥辱であることは指摘
されなければならないが、このような屈辱を誇張する必要はない。誇張しても、
中国人民は栄光も何も得られない。世界には無垢の人々が何人虐殺されれば、
戦犯としての裁判が実施されるかというような法律規定はない。
しかし、実際には、南京大虐殺のある一回の集団虐殺を根拠に、あるいは
一埋葬隊の遺体埋葬を証拠に、松井石根(いわね)、谷寿夫などの戦争犯罪者
を断頭台に送ることができた。
故意の重複や証拠の増量は、なんら実際的な意義をもたない。しかし、事
実は尊重されるべきで、歴史は容易に覆せるものではない。詳細な事実を記し
た歴史文献と生存者の証言が、明白に、南京大虐殺の犠牲者が30万人以上で
あったことを証明している。これは揺るがぬ事実なのだ」
犠牲者がたとえ十万人であろうと、三十万人であろうと大虐殺の事実には
変わりなく、歴史的意義や波及効果が大きく変化するものでもありません。そ
のため、犠牲者数の数字論争は、歴史事実の細部を正確に記録するという学問
的興味に限定されるべきではないかと思います。
(注1)笠原十九司「南京事件」岩波新書、1997
(注2)スマイス「南京城区における戦争被害」
(注3)中国抗日戦争史学会編「南京大虐殺」
(注4)笠原十九司「南京防衛軍と中国軍」(洞富雄・他編『南京大虐殺の研
究』晩聲社所収)
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
ご意見やご質問はNIFTY-Serve,PC-VANの各フォーラムへどうぞ。
半月城の連絡先は half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。