半月城通信
No. 89

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  1. 倭寇と空島政策
  2. 韓国の前方後円墳、日本人学者の見解
  3. 「任那四県」の割譲
  4. 韓国の前方後円墳、韓国人学者の見解
  5. 朝鮮王朝実録
  6. 国際法の現実
  7. 長久保赤水の地図
  8. 于山国の歴史1、三国史記
  9. 于山国の歴史2、高麗史
  10. 「高麗を見る」ワナ
  11. 江戸、明治時代の官撰図
  12. 江戸時代、竹島=独島の所属
  13. 当時の小笠原諸島はアメリカ領?


倭寇と空島政策 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 02/06/17   #2182   鬱陵島にしかれた空島政策を理解するには、そうまでせざるを得なかった 倭寇というものの実態を知る必要があります。そこで今回は倭寇について書く ことにします。   鎌倉時代末期から南北朝にかけ、日朝関係は倭寇がすべてといっても過言 でないくらい猖獗をきわめました。鎌倉時代の歴史を記した吾妻鏡に隠岐の住 人が高麗に渡って夜討ちをかけ、多くの珍宝を奪取したことなどが記されまし たが、高麗のほうは深刻で倭寇が高麗滅亡の一因になるくらいでした。それほ ど重大な転機をもたらした倭寇について、関連記事を高麗史からひろって文末 に記します。   ふつう倭寇というと、つい海賊を連想しがちですが、高麗を襲った倭寇は そんななまやさしいものではありませんでした。ときには数百隻の船団を組ん で高麗の地に上陸、数百の騎馬を駆使し、略奪や人さらいなどやりたいほうだ いでした。人さらいは、奴隷用の若者がねらわれましたが、その数は数万人と もいわれています。   これには高麗王朝もほどほど手を焼きました。何しろ手薄なところをねら ってくるし、しかもいつ来るかわからないので、討伐軍はつい後手後手にまわ り、長いこと有効な対策を打ち出せませんでした。困りはてて室町幕府に取締 を申し入れるほどでした。   しかし、室町幕府とて有効な対策を立てられるはずがありません。なにし ろ日本全体が南朝と北朝に別れて争う戦国乱世の時代なので、倭寇の取締など 不可能でした。それどころか九州の大名は、戦さの兵糧米獲得のために倭寇に 加担したようでした。   そうした事情もあって、倭寇はとくに高麗官庁の漕倉をねらいました。そ こには高麗各地の年貢が首都の開京(開城)へ漕運船で運ぶため保管されまし たので、倭寇にとって宝の山でした。   それが倭寇にたびたび略奪され、しかも海上輸送もままならず、高麗は国 の疲弊に拍車がかかりました。対策として漕倉を内陸へ移すのですが、それも 一時しのぎにしかすぎませんでした。倭寇はそれを追いかけて、さらに高麗の 内陸へと入りこみました。   たとえば、倭寇が1377年に大敗した智異山や、1380年に焼き討ちした善州 や尚州などがその典型でした。それらは韓国でも相当な奥地になります。た だ、倭寇がそんな奥地へ入りこんだのは討伐軍に追いつめられた結果でした。 そこで倭寇はしぶとく戦国大名お得意の籠城戦まで繰りひろげるありさまでし た。   そうまで猛威をふるった倭寇も先進的な火薬の威力には勝てませんでし た。1380年代に形勢は逆転し、倭寇は英雄李成桂などにより次々に撃滅されま した。余談ですが、李成桂はその勢いを得て高麗王朝を滅ぼし、朝鮮王朝を建 てました。   しかし、倭寇は追っ払っても追っ払ってもハエのようにこりずにやって来 ました。それもそのはずです。疲弊した対馬の住民は他の生産手段がすくない ため、つい倭寇に走りがちだったからです。その根本原因を断ち切らないかぎ り、倭寇の根絶は困難でした。   1389年、高麗政府はついに倭寇の根拠地である対馬を討伐しました。これ でさしもの倭寇もしばらくはなりをひそめざるを得ませんでした。なかには羅 可温のように、兵船24隻を率いて投降する倭寇もあらわれました。ただし、 倭寇といっても、羅可温の場合は倭人ではないようで、倭寇に便乗したいわゆ る假倭だったようです。   対馬征伐により、息の根を止められた倭寇も2,30年たつとまたぞろ復 活しました。対馬島民の生計問題を解決しないことには、かれらはいずれ悪事 に手を染めることになりかねません。   復活した倭寇の征伐が、朝鮮王朝の世宗のときにもう一度行われました。 同時に懐柔策も用意され、対馬の宗氏には朝鮮王朝から禄が与えられるととも に、島民に貿易も認められました。そんなアメとムチの政策が功を奏し、倭寇 はやっと鎮まりました。   さて、本題の鬱陵島に空島の方針がとられたのは、1403年、太宗(世宗の 前代)の時で、倭寇が完全に退治されるまえでした。その前後、二度にわたっ て鬱陵島は倭寇に襲われました。   最初は1379年で「倭、武陵島に入る、留まること半月にして去る」と記録 されました。二度目は1417年で「倭、于山武陵を寇す」と記録されました。そ んな背景から鬱陵島に空島政策が実施されました。        --------------------   高麗時代の倭寇記事   (李萬烈『韓国史年表』1996) 1350 倭の侵略激化、固城・巨済・順天・合浦などに侵略    倭寇のために珍島県を内地に移す 1351 倭船100余隻、京畿地方を略奪 1354 倭寇、全羅道の漕運船を略奪 1355 全羅道に倭寇侵入 1357 倭寇、昇天府に侵入、倭寇のために漕運が途絶える 1359 礼成江・甕津に倭寇侵入 1361 慶尚道に倭寇侵入 1363 倭船200余隻、喬洞に碇泊、守安県で略奪 1364 慶尚道海岸に倭寇侵入 慶尚道都巡問使金続命、鎮海にて倭寇3000を大破 1365 喬洞・江華に倭寇侵入 1366 倭寇、喬洞に駐屯、略奪 1367 倭寇、江華を略奪 1369 倭寇、忠清道で漕船を略奪 1370 内浦・宣州に倭寇侵入 1371 海州に倭寇侵入。倭寇、礼成江に侵入し兵船40余隻を燃やす 1372 白川に倭寇侵入。順天・長興に倭寇侵入 安辺・成州に倭寇侵入。李成桂を元帥に倭に対備 1373 慶尚道都巡問使、亀山県の倭寇数百名を殺す 喬洞・西江に倭寇侵入。倭寇、海州に侵入し牧使を殺す 1374 慶尚道に倭寇、兵船40余隻を焼く 1375 藤(ふじ)経光ら倭人多数投降。藤、海上に逃亡。これ以来倭寇激甚 1376 夫余・公州などに倭寇侵入。崔ヨン、鴻山にて倭寇を大破 古阜・泰山などに倭寇、官衙を焼き討ち、全州を陥落 倭寇のために漕運を止める。扶寧にて倭寇を大破 1377 倭寇のために都邑を内地に移すべく鉄原の地勢を調査 李成桂、知異山で倭寇を大破。朴ウィ、黄山江で倭寇を撃破 崔茂宣、火薬を発明して各種火薬武器を製造 黄海・京畿・三南地方で倭寇が激甚 1378 倭寇が激甚 1379 晋州・豊川の倭寇、官衙と民家を焼き討ち 日本海盗捕捉官、倭寇との戦闘にて敗北 慶尚道元帥禹仁烈、泗川にて倭寇を大破 1380 倭船500隻、鎮浦口(忠南)に入り略奪、殺戮 羅世と崔茂宣指揮下の高麗海軍、火砲を使用し鎮浦で倭寇500隻を撃破 倭寇、善州・尚州を焼き討ち。李成桂、雲峰で倭寇を大破 以降、数年間、倭寇激甚 1383 海道元帥鄭地が指揮する高麗海軍、迫頭洋(南海)で倭寇120隻撃滅 1384 李成桂軍隊、咸州で倭寇大破 慶尚道都巡問使朴ウィ軍隊、倭寇多数殺す 1387 鄭地、対馬・壱岐両島の征伐を要請 1389 慶尚道元帥朴ウィ、倭寇の根拠地である対馬を征伐、倭船300余隻撃破   朝鮮王朝時代の倭寇記事 1396 東莱・平海・ヨン海・蔚珍・蔚州で倭寇の侵入を撃退 1397 倭寇羅可温、兵船24隻を率いて投降したので官職を与える 1399 倭寇がなくなったので、船軍を減じる 1419 庇仁で倭寇500余隻の侵入を撃退 三軍都体察使李従茂、倭寇根拠地の対馬を征伐   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


韓国の前方後円墳、日本人学者の見解 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」 2002/ 6/ 9 メッセージ: 5261   半月城です。   日本独特の前方後円墳が韓国にもあるという意外な報道は、日韓考古学者 の間で注目の的になりました。これについて私は6年前に「明治大学の大塚初 重教授によれば、日本と韓国の考古学会でいま最大の関心事は、韓国の前方後 円墳問題です」と書いたことがあります。 <前方後円墳の本家争い>   その後の進展ですが、きっかけになった慶尚道の松鶴洞古墳は前方後円墳 ではないことがはっきりしたのをはじめ、韓国西南の全羅道で約10基の前方 後円墳が確定するとともに、その全体像もかなり明らかになってきました。   韓国全羅道沿岸は、邪馬台国の女王である卑弥呼が魏の楽浪郡に朝貢する 道すがらにあたりますが、それ以前からこの地方と倭との関係は密接なものが ありました。たとえば、初期の水田稲作や青銅器などはこのあたりから北九州 へもたらされたものとみられます。   また、大形かめ棺墓は日韓でこの両地域に限定されることなどに象徴され るように、両地域は一衣帯水であったことが推測されます。北九州に多くみら れる支石墓も韓国で支石墓の密集地帯である全羅道からもたらされたのでしょ うか。   その背景ですが、私は稲作文化をもった倭族が中国江南地方や山東半島あ たりから朝鮮半島西南部へ渡り、そこで土着する歴史があり、さらに北九州へ 渡来したのではないかと想像しています。 <中国史書に書かれた倭>   そうした有史以前からの長い交流の歴史を背景に、韓国西南部の馬韓は百 済の支配下に完全に統合されるまで倭とも交流を持ち続けたことは疑いありま せん。その流れで5世紀末から6世紀初にかけての一時期、馬韓の地域にごく 少数の前方後円墳が築かれたものと思われます。   ただし当時における倭との交流は限定的だったのか、前方後円墳の遺物は 一部に倭系の埴輪がみられるものの、ほとんどが百済系あるいは加耶系なのが 特徴です。この点にも関心がそそられます。   こうしたテーマを天理大学に本拠をおく「朝鮮学会」が会誌『朝鮮学報』 (第179輯,2001)で特集を組んでいましたので、以下にそれを紹介します。   まず興味のある前方後円墳に葬られた人の人物像ですが、これは学者によ り見方がすこしずつちがうようです。下記の要約に記すように、山尾氏は被葬 者を「百済王の臣となった倭国の有力者一世」、西谷氏は「倭人系百済官僚」、 東氏は「移住した倭系集団」、柳沢氏は「倭勢力とつながる(在地)首長」、 田中氏は「地域の特定の首長層」と見方はまちまちです。   しかし特筆すべきは、同誌では被葬者を倭の大王(おおきみ、天皇の前 身)の臣下とみる研究者は誰もいないことです。ましてや前方後円墳を天皇の 官家(みやけ)や、任那日本府と結びつけるような皇国史観論者はもちろんひ とりもいません。   さて、今回は日本人研究者の要約を紹介し、韓国人学者の要約は次回紹介 します。        -------------------- 山尾幸久(立命館大学) 「5,6世紀の日朝関係、韓国の前方後円墳の一解釈」   韓国全羅南道西部に、2000年10月現在、9基か10基の前方後円墳が認 められている。その造営を、百済熊津期の東城王・武寧王・聖明王(前半)の 時代における、全羅南道をも対高句麗の軍事力徴発地にしようとする、百済国 家形成過程の個性的な一現象とみる。5世紀第4四半期と6世紀第1四半期と に、移住して百済の臣下となった倭国の有力者は多数いた。   恰も当時、百済は、拠点的にだが、全羅道の要地の領有を進めていた。 「郡将」の前身となる武臣の派遣もあったに違いない。その一部に百済王の臣 となった倭国の有力者一世がいたと推測する。更にその一部に、現地で埋葬さ れた者もいたのではあるまいか。   本稿は、480年代から540年代までの、全羅南道における百済の「方 領」-「郡将」「城主」制の形成過程、その一事象として韓国の前方後円墳を 解釈する。        -------------------- 西谷正(九州大学) 「韓国の前方後円墳をめぐる諸問題」   1983年に、韓国における前方後円墳の存在が問題提起されたとき、その可 否をめぐって議論が湧いた。その後、精密な地形測量や発掘調査が行われ、そ の存在が確定的となった。   現在のところ、韓国の西南部に当たる全羅南道の栄山江流域に集中分布し、 11基が知られる。そのうち6基が発掘されている。それによると、5基まで が後円部に横穴式石室を包蔵する。   韓国の前方後円墳は、石室の構造や出土遺物などから考えて、5世紀中頃 からおよそ100年間にわたって築造されたものと思われる。   いまのところ、葺石や段築は認められない。それらの中には、周濠をめぐ らすものや、墳丘裾に円筒埴輪列が見られるものなどがあって、日本の前方後 円墳との共通性を見い出す。被葬者をめぐって種々の見解が知られるが、筆者 は倭人系百済官僚説を支持する。   韓国の前方後円墳は、日本のそれの源流にはならないが、5-6世紀の日 韓関係史を考える上できわめて重要な遺跡である。なお、3世紀頃を中心に、 一部、前方後円墳と分布が重なって築かれた、方形周溝墓や長台形異形質が知 られるようになったが、それらの墳墓と前方後円墳の関係も将来の課題として、 念頭に置いておく必要があるといえよう。        -------------------- 東潮(徳島大学) 「倭と栄山江流域」-倭韓の前方後円墳をめぐって   栄山江流域における前方後円墳の出現・消滅時期、分布状況、階層関係、 甕棺墳との関係などについてふれる。   5世紀以前の栄山江流域一帯を『宋書』倭国伝にみえる慕韓とかんがえて いるが、その時期の高句麗・百済・慕韓の境域について土器・冠帽・鐶頭太刀、 墓制などから考察する。   栄山江流域の前方後円墳の特質を明らかにするため、日本列島内の前方後 円墳の成立・発展過程を検討する。3世紀に卑弥呼の共立によって倭国王が生 まれ、3世紀中葉倭王の墓として箸中山(箸墓)古墳が築造される。その後倭 王族が形成、倭国政権が成立する。   奈良盆地に邪馬台(大和)王系列と倭国王系列の墳墓が併存した。倭国政 権と大和政権という権力の二重構造が存在した。4世紀後葉以後、大和政権は 倭国政権の実質的な支配権を掌握する。倭国の大王墓が奈良盆地・大阪平野に 築造される。倭の五王は倭姓王で、倭隋も倭姓の王族との問題提起をうけ、五 王および倭隋墓を比定、臣僚制と巨大前方後円墳古墳の構造・分布状況と対比 する。   栄山江流域の前方後円墳は、5世紀後葉以降の列島内の前方後円墳じたい の性格の変質と、高句麗・百済・伽耶・倭をめぐる政治的な国際環境のなかで、 その地に集住していたり、移住した倭系集団が築造したと結論づける。        -------------------- 柳沢一男(宮崎大学) 「全南地方の栄山江横穴式石室の系譜と前方後円墳」   5世紀末ー6世紀前葉の限られた期間内に、栄山江流域を中心とする全南 地方に築造された栄山江型石室は、その構造的特徴から九州系の北部九州型と 肥後型の二つの石室型を祖型とする直接関連型と、その発展型で構成されてい る。   同時に全南地方には倭的な前方後円墳(九基)も築造されているが、発掘 調査された六基のうち五基が栄山江型石室を採用し、両者につよい相関関係が 認められる。   こうした倭系墓制が出現するのは、百済による全南地方領有政策の本格的 な実行時期に対応するが、その政策実行には倭王権とそれを構成する倭の諸地 域首長が参画し、九州中北部勢力は以前からの交流を背景に積極的に関与した らしい。   百済の浸透の前にして、全南の在地首長のなかには倭勢力とつながる首長 層も出現したことが予想され、そうした政治的つながりを表すために、倭の墳 形(前方後円墳)や、九州系石室が採用されたと思われる。        -------------------- 田中俊明(滋賀県立大学) 「韓国の前方後円形古墳の被葬者・造墓集団に対する私見」   韓国における前方後円墳、次のような特徴を持つ。 (1) 10基程度が栄山江流域を中心に分布しそれ以外にはみられない。 (2) 一箇所に密集せずに、広く分散している。 (3) 他の古墳群とは離れ、孤立した位置にあるものが多い。 (4) 規模(全長)は、33mの明花洞古墳から77mの海南長鼓山古墳まであ るが、日本の前方後円墳に比べれば概して小型である。 (5) 築造プランには、全体の統一的な規格がない。 (6) 主体部埋葬施設はチャラボン古墳が竪穴式石槨で、ほかは横穴式石室とみ られる。 (7) 日本の前方後円墳のような段築・造り出しや葺石はみられない。周濠はあ るものもある。 (8) 副葬遺物の多くは百済的である。 (9) 埴輪型土製品(円筒型土器)や盾型木製品などが出土しており、それらは 倭的といえる。 (10) もっとも古いのはチャラボン古墳で、異論もあるが五世紀後半の造営と考 えられる。 (11) それ以外のものも、六世紀中葉までにはおさまる。   これらによって、この地域と倭との関係は明らかである。問題は、それが どのような関係であったか、ということである。私の考えは、次の通りである。 造墓を推進したのは、倭と頻繁に往来し、在倭の勢力とも交流・政治的な関係 をもったこの地域の特定の首長層ではないかと考えられる。   その場合に、倭に固有な墳形を選んだのは、単なる影響というよりは、対 外的な政治的アピールを込めたものとして、理解すべきである。   百済の領有がすすむ中で、それを全面的に受け入れることの抵抗のある勢 力が、倭の勢力とも通じていることを可視的に表現できるのが、墳形である。   つまりこの地域は、倭との関係も深く、倭への往来も頻繁にあり、また倭 人の流入も多い地域で、百済に対しては一定の距離を置いていた勢力が散在し ていた、と想定することができ、そうした現実・意識を共有し、共感する、首 長たちの連係が想定できる。   百済と徹底して敵対する、ということではなく、倭と百済と等距離的な関 係を維持したい、というような程度であったと考えることができるが、百済の 進出が、外見的に倭寄りの方向を選ばせた、ということであろう。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


「任那四県」の割譲 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」 2002/ 6/15  メッセージ: 5269   半月城です。私の書き込み「韓国の前方後円墳」を高く評価していただき ありがとうございます。   RE:5265 >全羅道に倭式前方後円墳が集中しているとなると、 日本書紀継体天皇六年十二月条にある(全羅道の) 四県割譲が気になりますが、これと関連付ける論考はない のでしょうか。   もちろん日本書紀の記述は無視できないので、数人の学者が『朝鮮学報』 で「任那四県の割譲」をとりあげていました。この機会に、継体紀六年条をあ らためて読んでみました。  <冬12月、百済が遣使して調を貢した。別に表して、任那国の上タリ、下 タリ、娑陀(さだ)、牟婁(むろ)の4県を請うた(注1)。タリの国守であ る穂積臣押山が奏して「この4県は、百済に近く連なり、日本とは遠く隔たっ ています。朝に夕に通いやすく、鶏や犬がいききしてどちらのものと別けるの がむずかしい。   いま百済に賜って、合わせて同じ国とするなら、固に存する策として、こ れ以上のものはありません。しかし、たとえ賜って国を合わせても後代なお危 ういかもしれませんが、まして別々の異なったところにしておくなら、いった い幾年よく守るというのでしょう」といった・・・表したとおり任那の4県を 賜った>   ちょっと余談ですが、「下」を「あろし」と読むのは皇国史観論者の末松 保和によれば韓語からきたことによるものだそうです(注2)。  <上・下の二字は、古訓として上を「オコシ」、下を「アルヒ」また「アロ シ」と傳へてゐる。これが韓語であることは、別條「南加羅」の南をまた「ア リヒシ」とよんでゐることからも推測されるのみならず、後世の朝鮮語で、前 を arpといひ、下を a-raiといふことによって、アロシ・アルシのアロまたア ルが、その古語を寫したものであることは確信される・・・>   どうやら「あろし」は「おろし」の古語というわけではないようです。そ れはさておき、継体紀に登場する「任那」ですが、この用語は日本書紀のなか で異質であると山尾幸久氏は述べていました。   その理由ですが、<『欽明紀』の説話に、562年、紀男麻呂らが、新羅 が任那を攻めたのを問うべく、「タリより出づ・・・任那に至る」>と書かれ、 タリは任那とは別な地名になっていることなどを指摘しました。   そのうえ、<任那の語は多義的であり、「512年の任那四県の割譲」な どと書くのは、学術書ではあってはならない>と戒めました。   さらに山尾は、「割譲」記事は物部氏の伝承をもとにした後世の8世紀初 の述作であるとし、もとの『百済本紀』に基づいてこう記しました(注5)。  <すなわち「穂積臣押山」は、諸博士の提供を要請するため、百済王都熊津 に赴いたのである。武寧王は、その条件として、蟾津江下流域の己モン(谷城、 求礼など)・帯沙(河東)の首長勢力が大加羅(高霊)王に結合しているのを 断ち、百済王の領有下に置くこと、それへの継体の尽力をもち出した。熊津か らの「東道」の確保に他ならない>   山尾は、「割譲」記事は百済が諸博士を派遣するかわりに、倭は百済の勢 力拡大に尽力するという交換条件を脚色したものとみているようです。一方、 「割譲」を虚構とする点では、東潮も同様です。  <『日本書紀において、慶尚南北道から忠清南道、全羅南北道一帯を「任那」 の境域とした、「偽任那国」がつくられたのであった。その意味で『日本書紀』 では「任那四県」の地は栄山江流域に想定されていた。   しかしこれらの地は倭の領土でなく、倭が百済に割譲したのでもなく、百 済による「任那四県」の地の領有化にほかならない。「割譲」記事は、『日本 書紀』の編纂過程でつくりあげられた「任那支配」という虚構の物語である。   ただ、「四県」にかかわる地名が栄山江流域に存在することからみて、 『日本書紀』による架空のことではなく、百済による栄山江流域の領有化とい う史実を反映しているとおもわれる。   任那支配を肯定する論からでさえ、「名目上は割譲・譲与とされても、実 質的には、百済の全羅南道大半の領有の承認といはねばならぬ」(注2)と解 釈せざるをえなかった。513年、百済は己モン・帯沙へ進出した。その己モ ンは南原、帯沙は河東で、蟾津江流域にある(注6)>   百済への己モン、帯沙の「割譲」についても多くの学者は否定的にとらえ ていますが、田中俊明はこう記しました。  <継体7年から10年に至る、いわゆる「己モン・帯沙事件」については、 別に詳論したように、実際は、加耶南部地域に進出していこうとする百済と、 それをくい止めようとする己モン・帯沙を含む大伽耶連盟、特に盟主大伽耶 (=伴跛、高霊)との抗争を記したものであり、もしそこに倭が関わっていた とすれば、百済がそうした進出に対して援軍、すなわち兵力の提供を要請し た、という程度だと考えられる。   そこには、倭が百済に己モン・帯沙の地を賜与した、と記しているのであ るが、それが事実ではなく、『日本書紀』によってつくりあげられた虚構であ ることが明らかなのである(注4)。   『日本書紀』はこのように、倭に領有権も帰属決定権もない地域につい て、あたかもそれがあるかのように記しているのである。そうした例をもとに 考えれば、このいわゆる「任那四県割譲記事」も、現実は、百済がその地を実 力でもって獲得したということであろう(注7)>   国際関係における『日本書紀』の虚構は、多くの学者により次第に明らか にされ、ご指摘のように「任那日本府説は全く流行りません」というのが実情 ですが、いまでは「官家(みやけ)」としての任那日本府説はほぼ否定された といっても過言ではないと思います。 (注1)「タ」は口編に多、「リ」は口編に利 (注2)末松保和『任那興亡史』吉川弘文館,1949 (注3)「モン」はさんずいに文 (注4)田中俊明『大伽耶連盟の興亡と「任那」』吉川弘文館,1992 (注5)山尾幸久「五、六世紀の日朝関係」『朝鮮学報』第179輯,2001 (注6)東潮「倭と栄山江流域」『朝鮮学報』第179輯,2001 (注7)田中俊明「韓国の前方後円型古墳の被葬者・造墓集団に対する私見」『朝鮮学報』第179輯,2001   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


韓国の前方後円墳、韓国人学者の見解 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」 2002/ 6/22   メッセージ: 5293   予告したように、韓国にある前方後円墳に対する韓国人学者の見解を紹介 します。その前に注意すべきは前方後円墳の数です。ややもすると、日本では 前方後円墳ということで倭との関連をセンセーショナルに強調しすぎるきらい がありますが、その数は全羅道で千基はある古墳の中でたかだか10基程度に すぎないという事実です。   いわば、重箱のスミをつつくような議論をしていることに留意すべきです。 これは好奇心が原動力になる学問の性格上やむを得ないといえます。この点を しっかり踏まえないと、倭との関連を針小棒大にとらえて皇国史観の妄想につ ながりかねません。   この点を強調する意味をかねて、栄山江流域における墓制の全体像を簡単 に紹介します。この地域は古墳のデパートといっても過言でないくらい多種多 様な墓制が存在しますが、朴淳發氏によればそのおおざっぱな変遷は下記のと おりです。 土拡墓(木棺墓)   250年ー420年 低墳丘墓(土拡+甕棺)330年ー450年 低墳丘墓(甕棺)   350年ー450年 高墳丘墓(甕棺)   450年ー510年 月松里型石室墓    480年ー520年 (円墳、前方後円墳) 方形石室墓      480年ー520年 陵山里型石室墓    520年ー650年        -------------------- 金洛中(韓国国立文化財研究所)   「5-6世紀の榮山江流域における古墳の性格」     羅州新村里九号墳・伏岩里3号墳を中心に   榮山江流域の古代墓制は甕棺古墳に代表される。その中で最も勢力化して 群集をなした時期のものが潘南面古墳群であり、とりわけ金銅冠、装飾大刀な どを出土した羅州新村里九号が最も注目を受けている。   そして百済の成長と共に政治的に百済化して行く過程を象徴的に物語る例 が、羅州伏岩里3号墳である。すなわち、横穴式石室墓の導入と土着的な甕棺 墓制の存続という二重的性格を同時にもつ。   しかし、単純に百済とこの地域の関係だけでなく、周辺の加耶、倭などと 多元的であり、複合的な関係を維持し、性格の変化を経たことを知ることがで きる。榮山江流域での前方後円形古墳の一時的盛行とも関連がある時期の断面 を物語る例である。   羅州新村里九号墳からは、1917-19年の調査で、金銅冠、金銅飾履、環頭大 刀などの威勢品が出土し、榮山江流域の諸集団での位相と百済との関係を調べ る上に重要な端緒を提供した。   1999年の再調査で出土した円筒形土器は、榮山江流域の巨大古墳で確認さ れた最も古い例であり、元来の配置状態が確認され、その重要性が一層大きく なった。この円筒形土器についての理解は、以後石室墳を中心に展開する円筒 形土器の展開過程を調べる上の出発点となり、日本の円筒形土器との関連研究 にも重要な資料である。   また、九号墳についての再調査で、墳丘の追加的な垂直拡張が土層断面で 確認された点は、榮山江流域における墳丘造営の独特な特徴を調べるのに貴重 な資料である。   方台形墳丘である羅州伏岩里3号では、7種の墓制が41基確認され、榮 山江流域の多葬・複合墓的性格を克明に示している。現在の方台形墳丘は甕棺 墓を埋葬主体とした2-3基の先行する梯形墳丘を拡大調整して造られている が、伏岩里古墳群は全体的にこのような過程を経ており、5世紀後半のこの地 域の政治体の変革過程を示唆する。   特に甕棺墓を埋納した初期横穴式石室墓である。96石室墓と銀製冠飾、 冠帽、圭頭大刀、鬼面文三環頭大刀などが出土した第5,7号石室は、百済お よび倭との関係を調べる上に重要な端緒である。   5世紀後半から6世紀前半は、榮山江流域で大きな政治的変革のあった時 期と判断される。これは勿論、百済の動向と最も深い関係があり、榮山江流域 の幾つかの土着集団は、このような状況の中で、在来的な力をもとに、百済は 勿論のこと倭、加耶など多角的な交流及び協力体制の構築を通して新しく政治 勢力化を企てたが、大部分は存続できず伏岩里古墳造営集団など、幾つかの集 団だけが勢力を維持、百済の滅亡までそれなりに地域的基盤を維持したものと 判断される。倭と関連した遺物は、このような状況の中で出現した産物と思わ れる。        -------------------- 朴淳發(忠南大学/百済研究所長)    「栄山江流域における前方後円墳の意義」   前方後円墳は、日本列島固有の墓葬制であるが、栄山江流域では現在九基 が知られており、その存続期間は、5世紀後半ー6世紀前半頃にわたっている。 そして空間的には、栄山江流域の高墳丘甕棺墓の密集地域である潘南面をのぞ いた、その外郭に分布するというパターンをみせている。   百済が錦江流域に対する領域的な支配を実現する4世紀後半ー5世紀前半 以降、栄山江流域では内的な統合度が増大した。「栄山江流域様式」土器の成 立、および高墳丘甕棺墓の登場などが、それを示唆している。これは百済中央 との「支配的同盟関係」の維持が、外的な要因として作用した結果である。   しかし、南遷以後、百済は栄山江流域を直接的に領域支配する必要性が生 まれ、潘南勢力を中心とする栄山江流域の統合力を弱めようとした。百済の威 信財を副葬した伏願里3号墳96号室のような、新たな「月松里型石室」の出 現が、それを物語っている。   その結果、栄山江流域各地における首長層の政治的な自律性は、一時的に 増大した。月松里型石室を埋葬主体部とし、百済・加耶・倭など周辺諸政治体 との関係をみせる副葬品を埋納した前方後円墳や円墳などの出現はそうした事 情を反映している。  「任那四県」を最後として、伽耶地域に対する進出の拠点を蟾津江西側に確 保した後に、百済はついに栄山江流域の在地首長の政治的自律性を制限しはじ めた。前方後円墳を含む各地の首長墓の消滅は、そうした処置の最終的な結果 である。こうした政治情勢の変化は、それまで彼らと対をなす勢力であった。 九州を中心とする日本列島地域勢力の、韓半島に対する独自交渉の道を閉ざす 結果となった。   伽耶地域への進出が緊要であった百済の対外政策が、大和政権に集中する 状況で、栄山江流域を含む群小の交渉対象が消滅したことは、特に九州勢力に 打撃が大きく、筑紫国造磐井の乱はまさにそうした国際秩序の再編に対する、 九州勢力の抵抗であった。   結局、栄山江流域の前方後円墳は、熊津期百済が栄山江流域に対して領域 的な地方支配を貫徹する過程で、既存の潘南面を中心とする流域統合の求心力 が瓦解する中であらわれた、一時的な自律性増大の結果であり、その過程で日 本列島における各地域勢力との政治的親縁関係を標榜した、在地首長の墳墓で ある。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


朝鮮王朝実録 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 02/06/09 #2138   今後、『朝鮮王朝実録』を頻繁に引用することになるので、その前にこの 正史の性格を明らかにしておきたいと思います。   一般に歴史書は、編集者の偏見や不正確な記事、間違いがつきものです。 たとえば『三国史記』ですが、これは『日本書紀』記事の年代確定の決め手に なったくらい正確な史書ですが、ある種の偏見は避けられませんでした。たと えば渤海史を書きませんでした。このため高麗以降の長い間、渤海は朝鮮史か らすっぽり抜けおちました。また、同書は意図的にか加耶史を書きませんでし た。資料価値が高いだけに惜しまれます。   一方『実録』は、そうした批判が非常にすくない希有な歴史書です。じつ に500年もの歴史を連続して記録した全1076巻の膨大な史料は、その資料価 値が高く評価され、ユネスコの世界記録遺産に登録されました。   資料価値の秘訣は客観性重視にありました。科挙を合格した文官の中で高 潔で文書能力にすぐれた史官が国王に近侍し、毎日のできごとを「史草」とし て記録しました。これと政務を記録した『時政』を基本資料に、さらに『承政 院日記』や『備辺司謄録』をもとに、国王の死後に各巻の実録編纂が始められ ました。   そのときの最大の問題は、史官の政治的中立をいかに守るかにありました。 後日に史官が政治的報復を受けない工夫がされました。実録完成後、史草はご く一部の例外を除き、ことごとく水に溶かされ湮滅、リサイクルされました。   さらに、絶対君主である国王から実録の政治的中立を守るのはもっとたい へんなことでした。これにはひとつのエピソードがあります。名君とうたわれ、 ハングルを考案したとされる世宗が先王である太宗の実録を見たいといいだし ました。そのとき、臣下がこぞって猛反対し世宗をいさめました。実録を守る 努力はたいへんなものでした。   絶対権力を有する国王ですら容易に手出しができない実録の存在、そのた め国王はたえず『実録』にどう記録されるかを念頭に政治を行わざるをえなか ったといっても過言ではありません。   しかし、その実録もときには党争に巻き込まれました。すなわち、宣祖, 顕宗,景宗実録は完成後に改修されました。貴重な実録にシミのような汚点を 残しました。   一方、実録を保存するための努力もたいへんなものでした。天変地異、戦 乱を考慮し、実録を収める史庫を全国4箇所に建てました。しかし、その4箇 所とも豊臣秀吉の侵略軍により焼かれました。かろうじて全州に保管された実 録が多くの人の懸命な働きで避難に成功しました。   これにこりて、実録は首都の漢陽以外に人里離れた山奥4箇所に活字印刷 本が保管されました。もちろん山火事や盗賊対策がなされたことはいうまでも ありません。   そのうちの1セットは、盗賊ならぬ朝鮮総督府によりもちだされましたが、 おしいことに関東大震災で焼けました。また、ほかの1セットは朝鮮動乱で行 方不明になりました。これは北朝鮮に行ったものと思われます。また、さらに 1セットは火事で焼けました。現在、韓国では2セットが健在なようです。   現在、一般には学習院大学と韓国国史編纂委員会が縮印出版した書籍が出 回っています。韓国版にはCDーROM版があり、各種の検索が容易におこな えます。


国際法の現実 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 02/04/14  #1612 RE:1594, うろちいさん >むしろこれから国際司法裁判所が世界から裁判を信託されるために >は、世界中が納得する判例を出し続け世界中から信用を得ることが >求められると思います。   かっての帝国主義国家がからむ領土問題に関するかぎり、国際司法裁判所 が「世界中が納得するような判例」をだすことは不可能と考えます。   その卑近な例がハボマイ・シコタンです。国際連合の綱領などが確立され るまで、他国への軍事占領は問答無用で合法的でした。私が「狼どもの国際法」 とよぶゆえんです。   そのため、ソ連によるハボマイ・シコタン軍事占領は当時の国際法で合法 的であるし、また SCAPIN 677を経て、それを受けついだロシアによる現在の統治 は国際法上は合法的と思われます。   これは弱肉強食時代の遺産が国際法に反映された結果といっても過言では ありません。日本が北方領土問題で国際司法裁判所に付託を提案しようとしな い理由はここにあります。国際法にたよることはほとんど無意味です。   話はかわりますが、そうした国際法の現実を考慮して 1961年、インドは国 際法にさからってポルトガル領ゴアを強引に接収しました。これは「既存の国 際法に従うなら、これを肯定しうる論拠はどこにもない」とされています。   それはポルトガルのゴア領有が、たとえ道義的に不当で今日の国際法の基 準では不法なものであっても、当時の狼どもの国際法にはかなうものであり、 法の不可遡及からそれを現時点では不法と認定できないからです。   それにもかかわらず、インドの反国際法の行為は「反植民地主義の直接行 動として新興国から広く支持された」ようでした。その結果、インドの国際法 上における違法行為が道義的には正当な行為と評価され、国際世論を味方にし たようでした(注1)。   さて、竹島=独島問題ですが、私は1905年の日本による竹島=独島軍事占 領を当時の国際法上は合法的であったとみています。その一方で、その直前に 竹島=独島をこっそり日本領に編入した行為は、内務省の見解にみられるよう に日本政府は竹島=独島を朝鮮領と認識していたこともあり、当時の国際法を もってしても無効であったと考えています。   そうなると、1905年の軍事占領はカイロ宣言にいう「暴力および貪欲によ る略取」に相当すると考えられ、日本はポツダム宣言受諾により竹島=独島を 放棄する義務があると思われます。   これは日本が敗戦国になったからそうした義務が発生したのであり、もし 日本が戦勝国になっていたら、イギリスなどの植民地同様、日本は竹島=独島 どころか朝鮮すら放棄する義務はありません。これが大国エゴをひきずった国 際法の現実といえます。 (注1)梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店、1992


長久保赤水の地図 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 02/05/06   #1858   tyojinnさん、RE:1777 >長久保赤水図ですが、着色の仕方からすると著者は竹島=独島を外国領と >考えていたことが読みとれます。 >・・・ >ご高説は受けたまわりました。手彩ですので、着色なぞ、どうでも良いことです。   手彩色の場合、色を検証するのに地図を一枚一枚確認しなければならない ので、たしかに資料価値はさがります。tyojinnさんは、そこに目をつけて手彩 色だけの赤水図リストを並べ、さも赤水図はすべて手彩色であるかのように装 ったのでしょうか? それに天保11年の赤水図は「色刷り」でなく、本当に 手彩色ですか? また、そこでは松島(竹島=独島)、竹島(鬱陵島)はどの ように彩色されているのでしょうか?   赤水図で手彩色は初期のころに限られるものと思われます。売れ行きがい い地図をいつまでも一枚一枚手彩色で出版するとは考えにくいところです。安 く大量に売ろうとすれば、必然的に大量生産が可能な木版「色刷り」になりま す。実際、天保、弘化ころの赤水図がそうでした。赤水図を復刻出版した日本 地圖選集刊行委員會はこう解説しました。        --------------------   赤水作日本図は、売行がよかったため再版、版元名の異なる図と、版元名 が無い図など種類が多い。本図は版元名 年号とも記入がないが天保弘化ごろ出 版と推定する。恐らく袋があって出版社の名を記入してあったと思う。   本図の序文に「新刻日本輿地路程全図序」と題し末尾に安永乙末三月阿波 国儒学者讃岐 柴邦彦による解説文があって文中に長久保玄珠の名を挙げている、 図の寸法は竪66×96センチメートル木版色刷である。   赤水作経緯度記入図の初版と推定される安永八年大阪の浅野弥兵衛版と前 記の序文は同一であるが本図との相違の点は、   初版は手彩色だが、本図は色刷、序文だけ同じだが凡例文其他相違し、コ ンパスなど記入場所が異なる、初版の末尾にある赤水名がけずられているなど がちがっている。   以上小さな相違があっても赤水図の忠実な後版であることは間違いない、 また本図の原図は題簽が落ちているが同種版の図名を利用した。   赤水作日本図上に示された経緯度は実測によったものでなく伊能図と比較 すると誤差が多いが従来の石川流宣式の日本図と比べると格段に日本の形がよ くなっており幕末まで続いたほど進歩した図であった。安永八年初版以後年号 入図は寛政三年、文化八年、天保四年、天保十一年、弘化三年に再版された(注)。        --------------------   いずれにしても「官許」後の彩色した赤水図で、松島(竹島=独島)、竹 島(鬱陵島)を外国なみに彩色せず、暗に外国領と表現した地図が一般的であ り、これに相違する地図は発見されていないようです。   結論として、よしんば tyojinnさんのおっしゃるとおり手彩色では「着色 なぞ、どうでも良いこと」であるにせよ、資料価値として申し分のない「色刷 り」の、しかも官許図で松島(竹島=独島)、竹島(鬱陵島)が外国なみに彩 色されなかった事実は重要です。   これは徳川幕府の官撰図に松島(竹島=独島)、竹島(鬱陵島)が記載さ れなかった事実につぐ重大事といえます。 (注)日本地圖選集刊行委員會『日本地図選集 第9巻 江戸時代 日本絵圖並  萬國全圖集成』京文社、1990


于山国の歴史1,三国史記 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 02/05/03 #1841   竹島=独島にかんして私は #1719で“ここの掲示板では、もはやショービ ニスト以外「日本の固有領土」説を信じる人はいないと思われます”と書きま したが、これにはなんらの反論もなかったようです。   一方「韓国の固有領土」説はどうでしょうか。韓国ではもちろんそのよう に信じられていますが、それなりの根拠があるのでしょうか。しばらくはこの 「韓国の固有領土」説を検証したいと思います。   その際「于山」という語がキーになります。「于山」は于山島を意味する 場合と于山国を意味する場合があります。ここの掲示板で両者を混同している かたもおられるようなので、議論がまぎれないよう「于山」という語をはじめ にはっきりさせておきたいと思います。   この語の使い分けは、増補文献備考(1908)などに明確にされています。安 龍福も登場する「竹島一件」以来、すっかり韓国で定着した認識は同書にみら れるように「輿地志がいうには、鬱陵島と于山島は皆于山国の地である。于山 島はすなわち倭(日本)がいうところの松島である(注1)」と一貫してきま した。これを確認のためにあらためて書くと下記のようになります。  于山国=于山島+鬱陵島   今後、おいおいと書きますが、日本の元禄時代以来、韓国ではこの于山島 が日本でいう松島であると認識されてきました。松島は、日本ですくなくとも 江戸時代は今日の竹島=独島をさしました。これもこの掲示板で異論がないこ とと思われます。   さて、本題の于山国の歴史ですが、朝鮮の正史に登場したのは『三国史記』 が最初でした。この史書は高麗時代の1145年に編纂されたのですが、于山国は こう記述されました(注2)。        -------------------- 三国史記巻四 智證王  13年(AD512)夏6月、于山国が服属してきて、年ごとにその地の産物を貢ぎ 物として献上した。于山国は溟州の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島と いう。この島は、百里四方ほどで、それまでは交通が困難であることをたのみ として服属しなかった。伊喰(注3)の異斯夫が何瑟羅の軍主となった。かれ は、于山国の人たちは思慮が浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させら れないが、計略をもってすれば、服属させることができると考えた。(そこで) 多くの木製の獅子像を作り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくと、偽 って次のように言った。 「お前たちがもし服属しないならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ」 (このことを聞いて)この国の人々は恐れおののいて、降伏した。        --------------------   tihiroさんによれば、鬱陵島には史跡として朝鮮南方型の支石墓があるの で、紀元前から韓族が居住していたようでした。その人たちが于山国をたてた ようですが、新羅が隆盛するや同国に征服されたようでした。   この当時、于山国はまたの名を鬱陵島とされましたが、于山国のなかに于 山島が含まれるのかどうかは明記されませんでした。それでも韓国は歌の影響 で小学生でも智證王時代以来「独島は我が地」と信じられているようです。   日本でも韓国でも鬱陵島と于山島を一対と考える傾向が強いので、それも 無理からぬところがあります。   一方、朝鮮正史でなく野史の『三国遺事』にも同じような于山国征服の記 述がありますが、こうした資料や個人的な資料は必要がないかぎり取りあげな いことにします。時々、ここの掲示板で個人的な資料や認識を特筆大書するか たがおられますが、国による資料や認識と個人的なそれとは峻別したいもので す。 (注1)「輿地志云 鬱陵・于山皆于山國地 于山則倭所謂松島也」 (注2)三国史記巻四 智證麻立干  十三年、夏六月、于山國歸服、歳以土宜為貢、于山國、在溟州東海島、或名 鬱陵島、地方一百里、恃嶮不服、伊喰(注3)異斯夫、為何琵羅州軍主、謂于 山人愚悍、難以威来、可以計服、乃多造木偶師子、分載戦船、抵其国海岸、誑 告曰、汝若不服、則放此猛獣踏殺之、国人恐懼則降 (注3)伊喰は新羅官位17等級のうち第2等級。喰は、正しくは「にすい」 に食と書く。JIS範囲外のため表示不能。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


于山国の歴史2,高麗史 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 02/05/05 #1847   前回書いたように、新羅時代の認識は于山国=鬱陵島であり、于山島の名 は登場しませんでした。この図式は初期の高麗にそのまま受けつがれました。 于山国について、高麗史は女真族との関連でこう記述しました。  「顕宗9年(1018)、于山国が東北の女真の侵略をうけ農業がすたれたので、 李元亀を派遣して農機具を下賜した(注1)」   初期の高麗にとって最大の敵は女真族でした。かれらが建国した契丹は、 高麗の盟邦である渤海を滅ぼしたうえ、しばしば高麗に侵入してきました。か れらは北方の国境地帯のみならず、鬱陵島にまで侵入しました。遊牧騎馬民族 であるかれらが海を渡って鬱陵島に侵略するとは意外です。   それはさておき、于山島の名前は高麗史にはじめてが登場しました(注2)。        -------------------- 『高麗史』巻58、地理志3、蔚珍縣  鬱陵島:県の真東の海中にあり。新羅の時に于山国と称された。ときに武 陵、ときに羽陵ともいう。島は百里四方で新羅の智證王12年(ママ)に降伏 した。(高麗初代)太祖13年(930) にその島民は白吉と土豆を遣わし、貢ぎ 物を献上した。  ・・・   一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気が清 明であれば望み見ることができる。        --------------------   于山島の名が一説の形で書かれたところをみると、当時、于山島の認識は 確固たるものではなかったようです。その于山島の比定ですが、一説の内容か らすると于山島は竹島=独島をさすものと思われます。   鬱陵島の近辺でめぼしい島は、現在の韓国名で竹島と観音島しかありませ んが、それらは鬱陵島からの距離がそれぞれ2km, 数十メートルと近く天気が 清明でなくても十分見えますので、これらは該当しないようです。そうなる と、残る島は竹島=独島しかありえないことになります。 (注1)『高麗史』巻四世家、顯宗九年十一月丙寅  以于山國 被東北女真所寇 廢農業 遣李元龜 賜農器 (注2)『高麗史』巻58、地理志3、蔚珍縣 鬱陵島:在縣正東海中 新羅時稱于山國 一云武陵 一云羽陵 地方百里 智證王一 二年(ママ)来降 太祖一三年 其島人使白吉土豆 献方物 毅宗十一年 王聞 鬱 陵島 地廣土肥 舊有州縣 可以居民 遣溟州道監倉 金柔立往視 柔立回奏云 島中 有大山從山頂 向東行至海一萬余歩 向西行一萬三千余歩 向南行一萬五千余歩 有村落基址七所 有石佛鐵鍾石塔 多生柴胡蒿本石南草 然多岩石 民不可居 遂寝 其議 一云于山・武陵本二島 相距不遠 風日清明 則可望見   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


「高麗を見る」ワナ LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 02/05/15 #1893  しばらくは「于山国の歴史」を休んで、tyojinnさんに反論したいと思います。   tyojinnさん、RE:#1865 >今回は、そのため隠州視聴合記と長久保赤水の地図を取り上げ論証したいと 考えます。その理由は直ぐにお分かりになると思いますが、いずれも資料とし ては官撰記録以上に信頼性の高い一級資料であるからです。   tyojinnさんは、それらの資料価値が「官撰記録以上」と本気で思いこんで いるのですか? 逆にtyojinnさんが官撰資料を最重要視しないのは、それらの 資料がtyojinnさんにとって何か具合が悪いからですか?  『隠州視聴合記』(1667)ですが、前にも書いたように、私は出雲の一藩士の 個人的な認識は領有権問題にとってどうでもいいことだと思っています。しか し、それを tyojinnさんが「一級資料」と過大評価をし、陥穽におちいってい るようなので、今回は予定を変えて『隠州視聴合記』に関連して反論を書くこ とにします。   まず『隠州視聴合記』の著者である斎藤豊仙の所属ですが、tyojinnさんは これを松江藩士としていますが、学術書や学術論文をみるかぎり出雲藩士にな っています。ささいなことですが確認してください。   つぎは核心となる「以此州為限矣」の読み方です(注1)。tyojinnさんは AM_I_AHOさんの日本語に関する解説 #1774を無視して「州」を島と読み「この 州(磯竹島)を以て(国境)限りとす」としました。しかし、これは AM_I_AHO さんの指摘のように明らかに無理です。「洲」なら「しま」と読めますが、 「州」は「しま」とは読めません。   外国人が日本人に日本語の解説をするというのも皮肉な話ですが、現代と ちがって江戸時代「州」と「洲」は明確に区別されました。双方の意味を『広 辞苑』で確認すると下記のようになります。 「洲」 (1)川・湖の中に土砂が盛り上がって水面上にあらわれた所。しま。なかす。  す。「三角州さんかくす・砂州さす」 (2)大陸。「欧州・豪州・太洋州」 「州」 (1)くに。地方。「神州・州俗」 (2)日本で、国郡制の国。「六十余州・関八州・九州・信州」 (3)古代中国で、全土を九つまたは十二に分けたそれぞれ。漢代では郡の上位。 「四百余州・冀州」 (4)連邦国家を構成する単位。「加州(=カリフォルニア州)」   なお『隠州視聴合記』の原文はいうまでもなく「州」です。これは「く に」とか「しゅう」とは読めても、「しま」とはけっして読めません。したが って、松島・竹島の二島が日本の限界ではなく、漢文のうえでは隠州(隠岐)、 雲州(出雲)の二州が日本領の限界です。   おわりは「見高麗如自雲州望隠州」の解釈です。この読みくだしは「高麗 を見るは、雲州より隠州を望むがごとし」でいいと思います。ただ、注意すべ きは、これが書かれた1667年には高麗という国はすでに存在しません。滅びて からすでに275年もの長い歳月がたっています。   そのため「高麗」はもちろん国の名前を意味しません。漠然とした地名と して用いられました。高麗とはいうまでもなく朝鮮半島です。   したがって「見高麗如自雲州望隠州」の解釈は「朝鮮半島を見るは、雲州 より隠州を望むがごとし」ということになり、この一節からは、松島、竹島が 日本領であったという認識はもちろん生まれません。   これは林子平の三国接壌地図(1785)をみるともっと明快になります(注2)。 竹島と、松島(竹島=独島)とおぼしき無名の島のわきに似たような文言「此 嶋ヨリ隠州ヲ望 又朝鮮ヲモ見ル」と書かれました。これだけ見ると、朝鮮を見 ている竹島、松島は朝鮮の地ではないと受けとられかねません。   そうした誤解をさけるため、林子平はわざわざ「朝鮮ノ持ニ」との注釈を 追加しました。それらの島が朝鮮領であることを明記したのです。そのうえ、 それらの島を日本ではなく朝鮮国と同じ色に塗り分けました。   こうした例から、長久保赤水図で「見高麗猶雲州望隠州」と書かれていて も、これはそれらの島が日本領の認識であったとはかぎらないということにな ります。   むしろ、赤水図が作られた1770,80年代は「竹島一件」で徳川幕府が竹島 (鬱陵島)に渡海禁止令(1696)をだした後なので、長久保赤水はそれらの島が 朝鮮領という認識のもとに地図を作製したと考えるのが妥当ではないでしょう か。その表現として竹島、松島を彩色せず、朝鮮国同様に無着色にしたといえ るのではないでしょうか。   なお、天保版の赤水図で特筆すべきは、竹島(鬱陵島)、松島(竹島=独 島)をひとくくりにして、二島の近海を緑色に彩色したことです。誰の目にも 明らかなように、二島は一対として描かれました。   赤水図は影響力が大きいだけに、赤水図の一対表現から「竹島一件」にお ける竹島(鬱陵島)の放棄は、松島(竹島=独島)を同時に放棄したとの認識 が浸透し、明治時代の太政官指令につながったのではないかと思います。   また、竹島・松島一対の認識は林子平の三国接続地図などにも如実にあら わされました。ただ人によっては、同図の無名の島は鬱陵島直近の現韓国名 「竹島」であり、竹島=独島ではないと主張する人もいるようです。   もしそうであれば、子平は松島(竹島=独島)を認識していなかった、す なわち松島を日本領であるとの認識をもっていなかったことになるので、どち らでもかまいません。   さりながら、私にいわせれば林子平も一民間人であり、そうした人の認識 がどうであれ、領有権論争には直結しません。やはり、重要なのは国家の認識 です。その点、江戸・明治時代の官撰図には竹島(鬱陵島)、松島(竹島=独 島)は記載されませんでした。この詳細をつづけて書きます。 (注1)斎藤豊仙『隠州視聴合記』(1667年)  隠州在北海中故云隠岐島・・・戍亥間行二日一夜有松島 又一日程有竹島 俗 言磯竹島多竹魚海鹿・・・此二島無人之地 見高麗如自雲州望隠州 然則日本之 乾地 以此州為限矣。 (注2)愼鏞廈『独島(竹島)』インター出版、1997   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


江戸、明治時代の官撰図 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 02/05/15 #1897   日本が国家として竹島=独島をどう認識していたのかは、領有権問題に直 結するだけに重要な問題です。その表現として、官撰図は国家の認識そのもの といっても過言ではありません。そこで、江戸時代、明治時代の官撰図につい てその詳細を記すことにします。 1.江戸時代の官撰図   江戸時代、官撰図の木版画は唯一『官板実測日本地圖』として出版されま した。もちろん、この地図に鬱陵島と竹島=独島は記載されませんでした(注)。 この官撰図は下記のような背景から作成されました。  「幕末になって官用に正確な地図を使用する必要が多くなり以前のように手 書図だけでは需要に間に合わずこの伊能(忠敬)図を基にして木版色刷図四巻 にまとめ開成所から出版した。本図は徳川幕府が出版した唯一の木版日本図で あった。   忠敬は北海道北部と樺太は実測していないためその欠部分は間宮林蔵など の測量成果を利用してこの木版画を完成している。   実測図には開成所の朱印があるだけで刊記が記入されていないが開成所は 慶応三年蕃書調所が開成所と改称されたので初版は慶応三年と推定できる。こ の実測図は評判もよく需要者が多かったせいか明治三年大学南校から大日本沿 海実測録十四冊とともに再版されたが図の内容は誤字の訂正など小異があるだ けであった(注)」 2.明治時代の官撰図   近代国家として地図の重要性が認識され、詳細な地図作成が国家事業と進 められ、1892年、5万分の一の地図の制定が決定されました。その方針のもと 1895年『大日本管轄分地図』が出版されましたが、これが日本の本来の領土を 示した官撰図の完成版といえます。   この地図にももちろん鬱陵島、竹島=独島は記載されませんでした(注)。 明治政府に竹島=独島の領有意識がなかったことを地図で表現したといえます。   その事実にいたる過程ですが、地理製作部局である内務省地理寮の伺い書 にはじまり、島根県伺い書、内務省伺い書、政府部内稟議書など慎重な手続き を経て太政官が「竹島外一島」を放棄する指令をだし終止符をうちました。詳 細はすでに記したとおりです。   なお、ほぼ完璧な官撰図が完成するまでのいきさつは下記のとおりです。        --------------------   民部省地理司は同省が四年(1871)七月に廃止されてからは、太政官地誌課 となり、幕府の地誌編纂調方の業を継ぎ、諸国の資料を徴したが、六年(1873) 十一月内務省の設置にともないその地理寮となった。のちに地理局と改め十一 年(1877)年八月、岩崎教章の手になる図式記号を定めた測絵図譜を各府県に頒 布し、民間の地図製作者もこれに倣うことを勧奨し、数多くの地誌・地図の編 纂刊行をおこなったが、十六年(1883)六月に海軍測量局に統合した。   民部省と同時に設けられた兵部省は、五年(1872)二月に陸軍省と海軍省に 分置され、海軍は水路の測量を、陸軍は陸地測量を行い、ともに国防上の観点 から国用地図の作成に任じ、参謀本部測量局は全国を覆う基本図として、十三 年(1880)から関東地方二万分の一迅速測図の作製に着手し、内務省地理局の統 合を得て二万分の一正式地形図の作製が始められた。   二十一年(1888)五月陸軍測量部条例が公布され、測量局は参謀本部から分 離し、陸地測量部として発足したが、二万分の一基本図の完成に要する時間と 経費は、国際情勢の変化しつつあることからも許されぬとし、二十五年(1892) その縮尺を五万分の一に改めた。国土地理院が継承する、わたしたちに馴染深 い五万分の一地図の誕生である。   これらの国家事業として作製された基本図を土台に、それぞれの土地のみ がもつ雅俗を国土にあらわし、整理編集された地図は明治年間にはその数が多 く、なかには思わず微笑をうかべるものさえある。   本編集に収められた大日本管轄分地図が発行された明治二十八年(1895)三 月は、下関の春帆楼で日清講和談判が開かれた時にあたり、日本の国土が、す なおなたたずまいを、東海にみせているときの記録でもあって、この以降日本 地図は文字どおり塗り替えられていった。   本図に描かれているケバ式地形表現は、この年制定をみた陸地測量部の、 二十八年図式から姿を消してはいるが、この時代に県名を記した図は少なく、 読物風の地誌を付した編集者の意欲は高く評価されたのであろうが、大正初年 にかけて版を重ねている。   印刷様式は銅版彫刻を転写した石版刷りに、色彩を木版の手摺りで加えた もので、この期に民間から刊行された、多くの地図にみられる手法であるが、 この歩みの足跡を辿ることは興味の宿題であろう(注)。        --------------------   以上のように地図の上からも日本は国家として江戸・元禄時代から明治の 日露戦争にいたるまで竹島=独島の領有意識をもっていなかったことが明らか になったのではないかと思われます。外務省のいう「竹島は日本の固有領土」 という主張はとうてい無理だといわざるをえません。 (注)日本地圖選集刊行委員會『江戸時代 日本絵圖並萬国全圖集成』人文社,1990   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


江戸時代、竹島=独島の所属 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 02/05/26 #1959   RE:1930, AM_I_AHOさん >日本名「竹島」は江戸時代はどの藩に属していたのか、或いは、どの州に区 >分されているのか、全く主張がないのはどういうことだろう。   江戸時代、竹島=独島の所属は公文書のうえで「竹島一件」の時に明確に なりました。そのとき、幕府は鳥取藩とのやりとりから竹島(鬱陵島)を放棄 する結論をだしたのですが、その一環で松島(竹島=独島)が日本のどこにも 属さないことがはっきりしました。   その経過はつぎのようなものです。1695年(元禄8)幕府は竹島一件を処 理するため鳥取藩に「御尋の御書付」をだしました。そのなかで下記のように 竹島(鬱陵島)はいつから因幡(いなば)伯耆(ほうき)両国の付属になった のか、また竹島(鬱陵島)以外に両国付属の島があるのかどうかなどの質問を しました(注1)。 1.因州 伯州え付候竹島は、いつの此より両国の附属候哉・・・  ・・・ 1.竹島の外 両国え附属の島 有之候哉(ありしそうろうかな)、・・・   これにたいして鳥取藩は、竹島(鬱陵島)は因幡、伯耆両国の附属ではな い、松島(竹島=独島)や竹島(鬱陵島)そのほか両国付属の島はないとして、 こう回答しました。 1.竹島は因幡 伯耆附属にては無御座候(ござなくそうろう)、・・・  ・・・ 1.竹島 松島其外両国之附属の島無御座候事   江戸幕府の「御尋の御書付」をみると、幕府は竹島(鬱陵島)を鳥取藩付 属と思いこんでいたようですが、このころになると竹島渡海免許のころのいき さつがすっかり忘れられていたようです。さらに松島(竹島=独島)にいたっ ては、かって幕府は渡海免許をだしたのに、島の存在すら忘れていたようです。 同島は幕府にとって取るにたらない島だったようです。   こうして鳥取藩が竹島、松島は自藩領でないと回答したことがきっかけに なって、幕府は竹島渡海禁止を申しつけ、竹島(鬱陵島)を放棄しました。そ の際、忘れられた存在の松島(竹島=独島)について幕府は何もふれませんで した。   このように、松島(竹島=独島)は幕府にとって忘れられるような存在で あり、もちろん幕府領であるという認識はありませんでした。さらに同島は鳥 取藩付属でもなかったので、結局、日本領という公的な認識や記録はなかった といえます。   これを象徴するかのように、幕府作成の官撰図はすべて竹島、松島を記載 しませんでした。これは竹島一件以前であれ同様です。具体的にいうと、17 世紀前半の「扶桑国都水陸地理図」および「寛文日本図」(1661-1673)に松島、 竹島は記載されませんでした。いずれも竹島一件以前の幕府官撰図です(注2)。 なお、幕府最後の官撰図「官板実測日本地圖」も同様の認識であることは先に 記したとおりです。   江戸時代、官撰図であれ幕府の公式記録であれ、竹島(鬱陵島)松島(竹 島=独島)は幕府の天領でもなかったし、鳥取藩付属でもなかったということ になります。ということは日本領ではなかったという結論になります。   これが明治初期に外務省の認識「竹島 松島 朝鮮付属に相成候」につなが ったことはいうまでもありません。 (注1)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000 (注2)神戸市立博物館『古地図セレクション(第2版)』神戸市体育協会,2000   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


当時の小笠原諸島はアメリカ領? LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 02/06/02    #2047   バトルアックス君、RE:2001 >わりいが、小笠原は小笠原家の領地じゃないよ。 >正確に言うと、誰の領地でもないし、官選図にも載ってない。それでいて日 >本領という意識はとぎれることはなかったという場所です。   まさか「日本領」という未練をもっただけで、そこが日本領になると考え ているのではないでしょうね。享保以来百年ぶりに小笠原に渡ったら、そこは 浦島太郎伝説さながら見知らぬ人が住んでいました。しかも日本語が通じませ ん。ほとんどアメリカの島でした。   日本はたいへんな苦労をしたようですが、アメリカ人が住む小笠原をよく もモノにできました。下記の歴史をみると、当時の小笠原はむしろアメリカ領 としたほうが自然なくらいでした。 <小笠原諸島の領土編入> 小笠原諸島【歴史】 <日立デジタル平凡社『世界大百科事典』>  小笠原諸島の呼称は,1593年(文禄2)豊臣秀吉の命で南方航海をした小笠原貞 頼が発見し,のち徳川家康が発見者の名をつけることを許したからと伝えられ る。すでに1543年(天文12)スペイン人ビラロボスが一部発見していたともいわ れるが確証はない。文献的には1670年(寛文10)の《紀伊蜜柑船漂流記》に初め て表れる。その5年後江戸幕府は開拓をはかるが失敗,1727年(享保12)小笠原貞 任の一族が渡島を試みたが帰還せず,長く無人島のまま放置された。  対外的危機を訴えた林子平や渡辺崋山,高野長英らにより,蝦夷地とともに 開拓することが説かれたが,1823年(文政6)アメリカの船員が母島に上陸し,27 年にはイギリスの艦船が父島に寄港して領有を宣言した。次いで30年(天保1)に はアメリカ人セボリーらがハワイ系住民20人をつれて移住し,53年(嘉永6)には ペリーが日本渡航のさい寄港してセボリーをアメリカの植民政府長官に任じ, 貯炭所の敷地購入などを行った。このため米英間に諸島の帰属問題をめぐって 紛議が生じたが,幕府は62年(文久2)ようやく外国奉行らを派遣して日本領たる ことを宣言し,八丈島民30余人を移住させて開拓に当たらせようとした。この とき総称を小笠原諸島とし,各島に父島,母島など親族名を付けることが正式 に決められた。  しかし邦人の移住は失敗し,73年(明治6)に諸島の本格的経営が廟議の決定を みた。75年に日本領再回収を宣言,所管ははじめ内務省,80年から東京府に移 し,また先住のアメリカ人らは翌々年までに全員日本に帰化させた。86年には 父島大村に小笠原島庁が設けられ,開拓・移住が進められたが,特に昭和期に入 ると南進基地として急速に開発された。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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