半月城通信
No.104(2004.7.31)

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    目次

  1. 外国人差別の今昔と日本の将来
  2. ドラマ「東京湾景」と在日二世の志操
  3. 猫の目の外務省「北方領土」見解
  4. 韓国独立と竹島=独島対応
  5. 愼教授の独島問答(5)、戦後の動き


外国人差別の今昔と日本の将来 メーリングリスト[zainichi:27983] 2004.7.7   半月城です。   最近、日本の社会は差別がだいぶ薄らいできたように感じています。たと えば大企業の就職差別です。ひところ、大企業では新卒者の定期採用にあたっ て下記の人を雇ってはならないとの不文律がありました。 1.左翼運動家 2.部落出身者 3.在日朝鮮人など「第三国人」   こうした不文律をつくったうらには、もちろん企業なりの論理がありまし た。左翼運動家は別にして、社会の底辺で貧困にあえいでいるエトランゼに近 い人たちは何をしでかすのかわからないといった、鬱屈したエネルギーを大企 業は不気味に感じていたことでしょう。   こうした企業の不文律ほど私たち在日コリアンを苦しめたものは他にあり ませんでした。フリーターなんてまったくなかった時代、卒業間近になっても 行くあてがないとなれば、どこかの片隅で「悶々として、それこそ甲斐のない 生き方」をせざるをえませんでした(注1)。   それでもまだ私たちは「外国人」なのだから、日本の社会で差別されて当 たり前と半ばあきらめもつくのですが、部落出身者の場合、同じ日本人なのに なぜ差別されるのかと、さぞかし憤懣やるかたなかったことでしょう。   このような差別社会では、上記以外の人でもとかく差別されがちでした。 女性は女性という理由だけで定年が10年も短かったり、男性とは与えられる仕 事の中味はもちろん、給与や昇進などで歴然とした差がありました。これでは 優秀な女性ほどスポイルされるシステムでした。また、身体に障害を持つ人は いわずもがなです。   つまるところ、在日外国人など一部のマイノーリティが差別されるような 社会では、実はたとえマジョリティーであっても、すこしでも何らかのハンデ がある人はあれやこれやと口実をつけられて差別されるような世の中でした。 ハンセン病をわずらった人にたいする宿泊拒否や差別などもそのほんの一例で す。   かつて公民権運動以前のアメリカでは、バスなどで白人用の座席と黒人用 の座席は仕切られていましたが、そのような差別社会ではマイノーリティのみ ならず、差別する側のマジョリティーにとっても決して住みやすい社会ではあ りませんでした。そうした事情も手伝ってアメリカで黒人差別が薄らいできた ことは周知のとおりです。   日本でも企業は変革の時代、競争の時代、国際化の時代を迎え、いつまで も金太郎飴的な等質の人材を求めるのではなく、変革のために異質な人材をも 受け入れはじめるなど変わりはじめました。同時にマイノーリティ側でも差別 に立ち向かう広範な運動の成果が徐々に実り、マイノーリティにたいする就職 差別もだいぶ薄らいできました。   その一方、最近は新たな外国人差別が台頭するようになったのが気がかり です。浜松の宝石店でブラジル人の入店を拒否する事件や、小樽で外国人の入 浴を拒否する事件、電話で借家を問い合わせるインド人に肌の色をしつこく問 いただした埼玉の事件、尼崎の在日コリアンにたいする借家入居拒否事件など、 これらは氷山の一角です。   こうした民間のできごともさることながら、もっと気がかりなのは、一部 政治家による外国人憎悪をあおる発言です。日本一の国際港をもつ神奈川県の 松沢成文知事はこう発言しました(2003.11.2)。  「中国なんかから、いろいろ就学だか学生だかと言って、ビザを使って入っ てくるけども、実際はみんなコソ泥。みんな悪いことやって帰るんです」   その後、この発言は撤回されたようですが、この発言に松沢成文知事の心 の奥底をかいま見た気がします。また、ショービニストでおなじみの石原慎太 郎・都知事も人種憎悪発言のトーンをますます高め、中国人同士の犯罪事件に ついてこう放言しました(2001.5, 2003.8)。  「こうした民族的DNAを表示するような犯罪がまん延することで、やがて 日本社会全体の資質が変えられていくおそれなしとはしまい」  「中国人のきわめて現実的なDNAは、・・・その願望をかなえるためには 堂々と盗みもする」   あたかも中国人の犯罪はDNAに根ざしているかのようなことを口走りま したが、日本社会の資質を変えるおそれがあるのは、中国人ではなく、むしろ 石原発言のような人種憎悪の発言ではないでしょうか。   こうした発言を荒唐無稽としりぞけるのは簡単ですが、根深いことに、こ うした発言に迎合するかのような研究すら警察庁で始まりました。   同庁の科学警察研究所はプロジェクト「DNA型分析による高度プロファ イリングシステムの開発」を推進中です。これは2002年度の研究「外国人犯罪 を糾明するための生体資料を用いた指標の開発」の後続プロジェクトとみられ ますが、外国人をターゲットとしたのは間違いないようです。他のプロジェク トも同様で、『THE SHAKAI SHIMPO』(04.5.19)はこう伝えました。        --------------------   さらに警察庁 科学警察研究所では、警察庁の要請と研究者の発意により、 昨年から四年計画で「来日外国人犯罪の増加に対処するための新しい検査指標 の開発」が進められ、一億円を超える予算が充てられている。   その中でも目を引くのが、犯罪現場に残された血痕や体液などから、犯行 に外国人がかかわったかどうかを割り出すための「民族識別指標」の開発だ。   この研究の前提に置かれているのが「外国人による犯罪の増加」という虚 構だ。また、このような研究がされていること自体が、特定の集団と特定の犯 罪を結びつける傾向に拍車をかけていると言えよう。   今年の二月には法務省 入国管理局がホームページで不法滞在者の情報を 集める「密告システム」を開始した。        --------------------   このような一連の動きの背景には、外国人犯罪にたいする過剰反応があり そうです。最近、外国人犯罪の報道がやたらと目につくようになりました。   一例ですが、朝日新聞は夕刊(3.11)のトップで「来日外国人の犯罪最多」 「留学・就学生の立件、5年前の2.4倍」として、法務省の発表をうのみにして 報道しました。こうした報道姿勢をマスコミ関係者はこう語りました。  <外国人犯罪のことは「いい版がつく」といって、記事になり易い。外国 人犯罪に関する統計の発表は、夕刊向けが多く、検証する時間があまりない (注2)>   なにやらマスコミの報道姿勢にも問題がありそうですが、実状はどうなの でしょうか? 本当に外国人犯罪は急増、凶悪化しているのでしょうか? こ れについて、自由人権協会の旗手明氏はこう記しました。        --------------------   警察庁などは、外国人犯罪について、常に「過去最高」「犯罪急増」「凶 悪化」「組織化」「広域化」などと発表してきた。   しかし、冷静にデータを見ると、警察発表やマスコミ報道の印象と、外国 人犯罪の実像との間には大きな落差がある。   まず、刑法犯のみで考えるのか、特別法犯をも含めるのか。来日外国人の 場合、特別法犯のほぼ八割は入管法違反であり、日本人との比較を考えるとき には、これを除くのが適当である。   次に件数でみるのか、人員でみるのかであるが、犯罪被害を考えるなら検 挙件数、犯罪行為者に注目すれば検挙人員でみることになる。実際には余罪を どうカウントするかで、検挙件数は大きく変動することがあり、その数値の信 頼性は低い。   例えば、2002年のトルコ人の刑法犯検挙件数は全国で4,272件であるが、 検挙人員は26人にすぎない。一人あたり164件という多さであるが、余罪をど うカウントしたのか大いに疑問がある。   以上からすると、「刑法犯について検挙人員で判断する」という方法が、 比較的信頼できる。93年には来日外国人刑法犯の検挙人員は7,262人であった が、98年には5,382人と減少し、03年には8,725人に増加している。   10年間でほぼ二割の増加であるが、その間に外国人の新規入国数は五割以 上増加しており、犯罪発生率としてはむしろ減少してきている。しかも来日外 国人は日本全体の刑法犯検挙人員の2.2%を占めるにすぎない。   では「凶悪化」というのは、本当であろうか。凶悪犯とは、殺人・強盗・ 放火・強姦の合計をさすが、02年の来日外国人検挙人員は353人で、対前年比 で12.4%の減少となっており、日本全体の4.6%を占めるに過ぎない。   このように見てくると、来日外国人犯罪を犯罪の主犯とするのは全くおか しいことが分かる。こうした検証もしないまま、警察発表を鵜呑みにして報道 する姿勢は、とてもジャーナリズムの名に値しない(注2)。        --------------------   どうやら、警察は数字のマジックで外国人犯罪を強調しているきらいがあ るようですが、それをそのまま報道しているマスコミは警察に踊らされている 感があります。あるいはマスコミがみずから進んで読者受けする「いい版」を つくるため警察庁発表に飛びついているのかもしれません。   数字のマジックですが、朝日新聞が報じた「留学・就学生の立件、5年前 の2.4倍」という記事などについて「コムスタカ、外国人と共に生きる会」の 中島真一郎さんはこう語りました。  「留学生、就学生それぞれの検挙人員の四割以上が『その他の刑法犯』検挙 者であり、その大半が放置自転車無断借用などの微罪である」   また、経団連も「凶悪犯も増加しつつあるが、放置自転車の無断使用(占 有離脱物横領)などの微罪が多く含まれているとの指摘もある(注3)」と記し ました。   以前、市民運動活動家の所沢市議が放置自転車を無断借用したとして話題 になりましたが、中国人はそのような微罪でも増幅され、おどろおどろしく 「外国人犯罪」のレッテルが貼られるようです。   おまけに、外国人犯罪は読者の目をひきやすいので、記事にされる率が5 倍も高いようです。『THE SHAKAI SHINPO』誌(5.19)はこう報じました。  「関西大学社会学部教員の間淵領吾さんは、98年の1月1日から6月1日までの 朝日新聞(朝・夕刊)紙面を分析し、犯罪報道の容疑者の国籍の分布と検挙件 数との一致について調べた。その結果、容疑者・犯人が来日外国人であった場 合、日本人と比べて4.87倍も過剰に報道されていることが明らかになった」   よく言われるように、新聞では犬が人をかんでも記事にならないが、人が 犬をかんだら記事になるという業界なので、日本人の犯罪は記事にならなくて も外国人の犯罪は記事になりやすいようです。外国人にたいする好奇心本位の 過剰報道はマスコミの体質的なものがあるようです。   しかし一番の懸念材料は、そうした記事に便乗して石原慎太郎知事など極 右民族主義者が民族憎悪をあおる発言をして人気を得ている構図です。石原・ 都知事などは300万票もの都民の支持を得ているというのでそら恐ろしくなり ます。   石原氏が公職にない単なる作家なら、同氏の漠然としたヘイト(憎悪)発 言は言論の自由として保障されるべきなのかも知れませんが、公職についてい る者のこうしたヘイト発言は許されていいものでしょうか?   ちなみに、日本がしぶしぶ批准した「人種差別撤廃条約」(注4)第4条C では「国または地方の公の当局または機関が人種差別を助長し、または扇動す ることを認めないこと」と定めました。明らかに石原・都知事は条約違反と思 われます。   しかし、これを裁判所に訴えてもムダなようです。日本は条約を批准した だけで、その精神を守るための具体的な法律をまったく制定しなかったので、 裁判で勝ち目はないようです。日本では差別防止に関する明文規定は憲法第14 条しかないようです。  第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会 的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されな い。   この憲法の建前だけで石原氏を訴えるのはきわめて困難なようです。憲法 の精神を反映した具体的な法律の制定が望まれるところです。その試みとして 2001年に「人権擁護法案」が国会に上程されましたが、先日の集会「人種差別 禁止法制定に向けて」での報告によれば、法案の議論はあまり盛り上がらない まま、昨年の国会で廃案になってしまったとのことでした。代わりの法律の制 定が望まれます。   こうして法案が流れた結果、先進諸国のなかで差別防止の法律がないのは 日本だけのようです。人権意識に関するかぎり、日本はまだまだ発展途上国の ようです。先日、日本における人身売買は要注意の段階にあるという記事があ りましたが、むべなるかなと納得がいきます。ともかく、外国人の人権はお寒 い状態です。   それを実証するかのように、憲法第14条でも差別されてならないのは「す べて国民」であり、国民でない外国人は差別どころか、基本的人権すら認めら れていません。基本的人権を定めた憲法第11条では「国民は、すべての基本的 人権の享有を妨げられない」と書かれ、外国人は除外されました。   もっとも、日本文でなく英文の日本国憲法においては、「国民」の訳語は “The people”とされているので、これだけをみれば外国人にも基本的人権は 保障されているかのようにみえます(注5)。しかし、これは米軍占領下でG HQの目をあざむくための小細工だったようです。実際、法務省はそのような 解釈をとらず、外国人に関するかぎり、基本的人権や諸権利についてはとかく 否定的であり、時には外国人についてこう発言しました。  <国際法上の原則から言うと「煮て食おうと焼いて食おうと自由」なのであ る(注6)>   法務省の官僚には、世界人権宣言や国際的な人権条約は眼中になかったよ うです。最も人権意識が遅れているのは法務省や警察庁ではないでしょうか。 かれらにとって外国人とは存在自体すら好ましいものでなく、治安の対象でし かないようです。   最近、それとは対照的に経済団体が外国人受け入れを積極的に模索してい るのが注目されます。厚生労働省とちがって、1.3 という出生率の低下を深刻 に受けとめ、少子高齢化による日本経済の将来を真剣に考えているようです。   ただし、経団連は労働力減少の埋め合わせのために外国人労働者を受け入 れるのではなく「多様性のダイナミズムを活かし、国民一人ひとりの“付加価 値創造力”を高めていく、そのプロセスに外国人がもつ力を活かす(注3)」と いう理念のようです。   時代は実に様変わりしたものです。「第3国人」を忌み嫌い、女性差別を 公然と行っていた企業が「多様な属性(性別、年齢、国籍など)や価値・発想 を取り入れることで、経営環境の変化に迅速かつ柔軟に対応し、企業の成長と 従業員の自己実現(注3)」を主張し、かつては差別していた女性や外国人、高 齢者の価値観や発想を重視するような時代になりました。   これは見方によっては風見鶏的な価値観の転換ですが、いったん「文化的 な多様性を活かす経営」を目標にかかげると、その障害になる現状の問題点が 浮かびあがります。まず日本政府をこう批判しました。        --------------------   日本では、1999年7月の閣議決定において、外国人の受け入れに関しては、 まず専門的・技術的分野の外国人について、「日本経済の活性化や一層の国際 化を図る観点から、受け入れをより積極的に推進」することを掲げた。しかし 政府は、縦割り行政の壁に阻まれ各省庁が連携して施策を展開していない。現 状を放置したままでは、日本において外国人がその能力を十分に発揮すること は難しく、受け入れが進まないというのが私たちの結論である(注3)。        --------------------   経団連がこう指摘するのも無理ありません。日本はブラジルなどから20- 30万人もの日系人を導入しましたが、かれらを単に労働力としか考えず、他の 問題、たとえば家族の存在などにはほとんど気配りをしませんでした。まして や、かれらを住民として位置づけるのか、あるいは市民として位置づけるのか、 それとも国民として位置づけるのか基本方針の策定など念頭にもないことで しょう。   そのうえ何か問題がおきると、その対応は法務省と警察のみ、あとは地方 や学校、NGOあるいはボランティアの献身的な努力にまかせ放しで、保険や 子どもの不就学など山積する問題などに制度的な抜本策を講じようとしないの が現状のようです。これではコミュニティにとっても外国人労働者にとっても、 かならずしも良い結果にはならないことでしょう。   行政の立ちおくれに加え、日本の社会は、元来が同胞であっても帰国した 中国残留孤児などに冷たい社会ですが、そうした土壌や、山積した問題をどう 乗り越えるのか、そこに外国人労働者を日本経済の活性化に活用できるかどう かの鍵がありそうです。ただし、国際関係の視点はまた別問題です。 (注1)<日立就職差別事件> (注2)人権新聞「外国人犯罪報道は真実を伝えているか?」2004.3.26 (注3)経団連<外国人受け入れ問題に関する提言> (注4)<差別撤廃条約> (注5)<英文「日本国憲法」はすばらしい> (注6)池上努『法的地位200の質問』京文社、1965 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


ドラマ「東京湾景」と在日二世の志操 メーリングリスト[zainichi:28016] 2004/7/22   半月城です。   ****さん、こんばんは。パチスロは性に合わないのでやりません。そ れに忙しいし。ところで、****さんの今回の書き込みはどうも婉曲的すぎ て、真意をつかむのに骨がおれます。 >  まぁダブルスタンダードっていうか、 >  「志操高さ」を他者に表現することは、 >  十分に「差別的」な要素があると僕は判断しますゆえに、 >  志操高いか差別的かなんて、対して変わらんです。   もしかすると、私が考える「志操」の意味を別な意味でとらえているのか なという気もしています。まず私の意図を明らかにするために、私が考える 「志操の高い」人の志操とはどのようなものか、卑近な例をいくつかあげてみ ます。 開発独裁者・朴正煕、「祖国発展」の志操 反独裁の闘士・金大中、「韓国民主化」の志操 ウルトラ右翼・石原慎太郎、「民族派」の志操 第1号の在日弁護士・金敬得氏、「差別打破」の志操   他にもいろいろありますが、要するに私はかれらの「志操」をことごとく 称賛しているわけではありません。ときにはその人の「志操」すなわち「守っ て変えない志」を逆説的あるいは皮肉的に「ご立派」ととらえています。   こういう意味で、私はドラマ「東京湾景」に登場する李美香の父親の生き 方「娘は日本人と結婚させない」という方針を「志操高い」と表現したのです。 もちろん、その方針を称賛しているものでもなく、またそれに賛同しているわ けでもありません。単に節を曲げない志のかたさに感じいっているだけで、そ の方針は私とは相当な開きがあります。   さて、在日コリアンの「志操」ですが、二、三十年前にはにつぎのような 「志操」も根強くあったのはよく知られています。  「息子は医者にさせる」   いうまでもなく、差別とは無縁の世界に息子の幸せを夢見た結果から生ま れた「志操」です。そうした時代には「娘は日本人とは結婚させない」という 「志操」もたしかに根強かったものでした。   しかし、美香の父親が語っていたように、今日のような「娘が大企業に就 職する夢のような時代」に、そうした結婚をめぐる「志操」を在日コリアン二 世が今でも一般的にもっているのかといえば、私は否定的にみています。多く の場合、せいぜい子供は同胞と結婚できればいいな、という願望程度に終って いるのではないでしょうか。   ****さんは、そうした願望を「差別」あるいは「逆差別」ととらえま すか? 質問ついでに、顔なじみのよしみで失礼をかえりみずに質問すると、 ****さんはどのような「志操」をお持ちですか? もしお気にさわったら、 これらの質問は無視してください。   なお、私は「志操」というほど大げさなものではないのですが、私の 「モットー」は下記HPの冒頭に書いてあるとおりです。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


猫の目の外務省「北方4島」見解 Yahoo!掲示板「竹島」#5487 2004/ 7/18   クナシリなど「北方領土」に対する外務省の見解は、猫の目のようにクル クル変わるようです。   RE:5279、ahirutousagi2さん >外務省の公式ホームページをご覧ください。「不法占拠」です。以前はそう 表現された「形跡」はなかったのでしょうか。ちなみに、竹島ももちろん「不 法占拠」とされています。   たしかに、今のホームページには「北方領土は、ロシアによる不法占拠が 続いている日本固有の領土です」と書かれていました(注1)。しかし、外務 省の見解の変遷を調べたところ、外務省は97年ころ「不法占拠論」をいったん 放棄したようです。朝日新聞(02.5.19)はこう報じました。        --------------------  「二島先行」97年に構想  外務省、橋本首相に極秘3案  不法占拠論から転換   ロシアとの北方領土交渉打開のため、外務省が97年8月に当時の橋本龍太 郎首相のために用意した戦略ペーパー「領土問題解決の今後のオプション (案)の全文が明らかになった。オプション(選択肢)は3案からなる。  ・・・   政府は96年、エリツィン大統領が再選されて指導力を増したのを好機とと らえ、対ロ政策の再構築に着手。「対中戦略」として日ロ関係改善が必要との 判断もあった。   翌年、橋本首相と大統領の信頼関係が深まったことをてこに交渉打開を狙 い、交渉案をまとめた。ペーパーは従来の四島「不法占拠論」を放棄するなど、 抜本的な路線転換を示している。・・・   三つの選択肢には重要な共通点がある。(1)ロシアの施政権を暫定的に 合法と認める。・・・        --------------------   この記事から判断すると、外務省は 97年ころ戦略を転換し、ロシアによ る北方4島の統治を「合法」と断定したようでした。この方針のもとに外務省 は詳細なパンフレット『われらの北方領土、2000年版』およびその改訂版であ る2003年版(注2)を発行したとみられます。   そこでは文脈上しぶしぶ「不法占拠」の語を使っているようです。そのた めか、外務省が「不法占拠」と考える理由や「不法占拠」の背景などの説明が 一切ありません。唐突に「不法占拠」の語が 89年の「北方4島渡航」に関する 一節のなかで用いられました。   89年、日本政府は日本人がソ連のビザを取得して北方4島へ行くのを防ぐ 政策を取ったのですが、その説明のためにはどうしてもソ連が北方4島を「不 法占拠」をしていると書かざるをえません。パンフレットはこう記しました。  「政府としては、広く国民に対し、89年9月19日の閣議了解、官房長官談話 で、ソ連の不法占拠下にある北方領土への入域の問題点を指摘しその理解を深 め、北方領土問題の解決までの間、このような北方領土への入域を行わないよ う要請しました」   この一節からすると、89年ころの日本政府の見解は「不法占拠」が公式見 解だったようです。しかし、その根拠はもともと薄弱だったとみえて、その後 の政治情勢により見解を変えたようです。それが 97年の新聞報道につながっ たのでしょう。   といっても、官僚が見解を公的に変えることは、明白な証拠でも突きつけ られないかぎり官僚の属性上まず困難と思われます。したがって新聞報道がど うあれ、見解を公式に質問されれば杓子定規に「不法占拠」と答えざるをえな いことでしょう。もちろん新聞社に抗議することなどおくびにも出さないこと でしょう。それが官僚の保身術です。   最近、外務省がふたたび不法占拠論を強調しだした背景ですが、その裏に は領土交渉が冷えたことが関係しているのかも知れません。これには今回の参 議院選挙で落選した鈴木宗男氏もからんでいるようです。同紙面はこう伝えま した。  「今年に入って表面化した四島支援事業などをめぐる鈴木代議士の疑惑や、 同代議士の領土外交への介入を許した東郷氏らの更迭などをきっかけに、領土 交渉は再び冷え始めている」   結局、外務省は不法占拠論を97年に撤回し、最近ふたたび見解を変えて不 法占拠論を強調しだしたもようです。しかし、もしロシアの統治を不法占拠と するなら、いつから不法占拠と断定するのか、外務省に問いただしたいところ です。   その時期をあえて詮索するなら、それは次の二点にしぼられるでしょうか。 (1)戦時中、ロシアが北方4島を占領した時 (2)1952年、対日講和条約発効時  (1)ですが、生半可な知識をもった人は、ロシアが北方4島を最終的に占 領したのは9月なので戦後ではないのかと思うかもしれませんが、狼どもの国 際法によれば、それは戦時中という解釈になります。   さらに狼どもの国際法では、宣戦布告をして軍事力で他国を占領するのは 合法とされていますので、(1)の時点で不法占拠とみなすのは困難ではないか と思います。もっとも宣戦布告が国際法違反であるという論理が成り立つのな ら話は別ですが、狼どもの国際法で宣戦布告は無条件で容認されていたようで す。   ちなみに、日本政府はさかんにソ連が「日ソ中立条約」に違反して宣戦布 告したようなことを喧伝していますが、帝国主義国家が覇権を争う時代にあっ て、平和条約や中立条約などは狐と狸の化かしあいみたいなものです。つまる ところ、宣戦布告の前に真珠湾やマレー半島を攻撃した日本が条約違反を口に するのは、狼を前にした負け犬の遠吠えにすぎないといえます。   また、よしんば宣戦布告が無効だとしても、1946年 最終的ではないにせ よ連合国指令 SCAPIN 677号で四島は日本から切り離されたので、この時点で ソ連の占領を不法占拠とみなすのはさらに困難となります。   つぎに(2)の対日講和条約発効時ですが、ソ連は対日講和条約を拒否し たのでこれは問題外です。ソ連が調印していない条約で、ソ連が既得権益とし てもっている四島の統治権が剥奪されるなんてことは、国際法を持ちだすまで もなく常識的にも考えられません。   これは竹島=独島の場合も同様です。SCAPIN 677号で日本から切り離され た同島は、対日講和条約発効時には韓国政府が統治していました。その既得統 治権を同条約において同じく条約非調印国の韓国から剥奪することはあり得な いことです。   したがって、対日講和条約に日本が放棄する島のリストに北方4島や竹島= 独島が入っていないからという理由で、それらが日本領に返還されたとするな ら、それはあまりにも我田引水がすぎます。   対日講和条約はソ連の「北方4島」に対する既得権や韓国の竹島=独島統治 を黙認したと解されます。特に竹島=独島の場合、同島を日本領にするとの改訂 案が最終的には同条約で採用されなかっただけに、韓国の既得統治権は黙認さ れたとみられます。   こうしてみると、ソ連やロシアはいつから北方4島を「不法占拠」したの か、また韓国はいつから竹島=独島を「不法占拠」したのかという質問に外務 省は回答不可能ではないかと思われます。それにもかかわらず、外務省が不法 占拠論を持ちだすのは暴論としかいいようがありません。その暴論もいつまた 再撤回するのやら知れたものではありませんが。   そうした暴論は国際的にもちろん通用するはずがありません。外務省の暴 論はこれにかぎったことではありません。竹島=独島問題でも、明治政府が竹 島=独島を放棄した事実をひた隠しにしたまま「竹島は・・・我が国固有の領 土である」と平気で強弁していますが、これはもちろん矛盾です。 (注1)<北方領土問題の概要> (注2)<われらの北方領土(2003年版)> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


韓国独立と竹島=独島対応 Yahoo!掲示板「竹島」#5183 2004/ 6/27   半月城です。独島問答Q88にたいするコメントを記します。   1948年8月15日、韓国が独立して竹島=独島を米軍政庁から引き継いだ当時、 竹島=独島周辺における米軍の爆撃が問題になっていました(独島問答Q89)。 そのためもあって、韓国政府は竹島=独島領有を明文化するために次のような 施策をとりました。  <1948年8月の(政府)成立後、韓国政府はさっそく(独島に)「慶尚北道 鬱陵郡 南面 道洞1番地」として行政を及ぼす措置をとった(注1)>   ここで重要なのは、日本政府は、竹島=独島を日本から切り離した SCAPIN 677号に始まるこれら一連の措置になんら異議の申し立てをいっさい行わな かったという事実です。   この当時、日本は連合国の占領下にあったとはいえ、日本国政府が存在し、 外務大臣も健在で、韓国政府の行政措置は別にしても、一連の事態をもちろん きちんと把握していました。それにもかかわらず、日本政府は何の申し立ても 行いませんでした。   それはとりもなおさず、米軍政庁、ついで韓国による竹島=独島領有を暗 黙のうちに承認したことを意味することはいうまでもありません。   一方、韓国政府は1948年の行政措置に先立って竹島=独島に学術調査団を 派遣していましたが、こうした韓国の取り組みを梶村秀樹はこう評価しました。        --------------------  (韓国では)47年から学術調査団を派遣するなどのことがいち早く実行さ れていた。つまり、国際法的にみて、韓国側は、日帝下のながい空白期間があ るとはいえ、可能な条件がある時には、常に竹島=独島をいいかげんに放任し たことはないといえるのである。   もちろん、その一連の強い主権行為は、「日本の強欲によって奪取され た」島を正当にとり戻すのだという歴史的経過についての相当の根拠をもつ確 信に支えられており、いまの日本国民が信じているように「火事場泥棒的に人 のものをかすめとる卑しい根性のあらわれ」とみなすことは不当である(注1)。        --------------------   梶村秀樹の論文が書かれたのは四半世紀前のことで、その当時はまだ明治 政府が竹島=独島を放棄した事実がまだ知られず、日本国民はやみくもに「竹 島は日本の固有領土」と擦りこまれていた時代でした。無知とは恐ろしいもの です。何を言いだすのやら。 (注1)梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店、1992(初出は1978年)


愼鏞廈教授の独島百問百答(5)、戦後の動き Q84.(カイロ宣言)   連合国は第2次世界大戦途中で日本が敗戦すれば、侵奪した領土を元の主 人に返還させ、日本は元来の日本にもどるよう処置する政策をもっていたのか? ANS.   そうした政策をもっていた。まず、1943年11月20日、アメリカの大統領 ルーズベルト(Franklin D.Roosevelt), イギリスの首相チャーチル(Winston S. Churchill), 中国総統・蒋介石らが会合したカイロ会談ではつぎのような「カ イロ宣言」を合意、発表した。        --------------------   ルーズヴェルト大統領、蒋介石大元帥及びチャーチル総理大臣は、各自の 軍事及び外交顧問とともに北アフリカにおいて会議を終了し、左の一般的声明 を発した。 各軍事使節は、日本国に対する将来の軍事行動を協定した。   三大同盟国は、海路、陸路及び空路によって、その野蛮な敵国に対し仮借 のない弾圧を加える決意を表明した。この弾圧は増大しつつある。   三大同盟国は、日本国の侵略を制止し、かつ、これを罰するために、今回 の戦争をしているのである。   右の同盟国は、自国のために何の利益も要求するものではない。また、領 土拡張の念を有するものではない。   右の同盟国の目的は、日本国から、1914年の第一次世界戦争の開始以後に おいて日本国が奪取し又は占領した太平洋における一切の島嶼を剥奪すること、 並びに満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取した一切の地域 を中華民国に返還することにある。   日本国はまた、暴力及び貪欲により日本国が略取した他の一切の地域から 駆逐されなければならない。   前記の三大国は、朝鮮の人民の奴隸状態に留意し、朝鮮を自由かつ独立の ものにする決意を有する。   右の目的をもって、右の三同盟国は、同盟諸国の中で日本国と交戦中の諸 国と協調し、日本国の無条件降伏をするのに必要な、重大かつ長期の行動を続 行する(注1)。        --------------------  「カイロ宣言」は、日本から返還し日本を追い出すべき地域として、 (1) 1914年の第一次世界戦争の開始以後において日本国が奪取し又は占領した  太平洋における一切の島嶼 (2) 1894-5年、清・日戦争以後、日本が中国から盗取した満州、台湾及び澎  湖島など (3) 日本が暴力及び貪欲により略取した他の一切の地域  などであった。また、カイロ宣言は韓国の独立を約束した。   ここで韓国領土は (3)の「日本が暴力及び貪欲により略取した他の一切の 地域」に該当する。また、この時期の上限は、1894-5年 清・日戦争時、日本 が中国から盗取した領土を返還対象に含めたことにわかるように、日本が大韓 帝国から1905年2月、独島を略取した時期を含むのである。“独島”も「日本 が暴力及び貪欲により略取した島」として韓国に返還されるべき対象として規 定したのである。 コメント:   前回紹介したように、明治の国境画定機関であった海軍水路部は『朝鮮水 路誌』などでリアンコールト列岩(竹島=独島)を朝鮮領と認識しました。そ れにもかかわらず、軍事的な必要性から同島を「ウソも方便」で「無主地」と 強弁し、日本が「領土編入」したのは「日本が暴力及び貪欲により略取」した カイロ宣言に抵触すると考えられます。 (注1)<カイロ宣言(日本國に關する英、米、華三國宣言)> Q85.(独島の返還)   それなら 1945年8月15日、日本の無条件降伏にしたがい、第2次世界大戦 終結後、日本が略取した韓半島と「独島」は連合軍によりいかに韓国へ返還さ れたのか? ANS.   1945年9月2日、日本が降伏文書に調印した後、東京に連合国最高司令部 (General Headquarters Supreme Commander for the Allied Powers: 略称G HQ)が設置され日本統治を担当するようになり、連合国最高司令部はポツダ ム宣言の規定を執行しはじめた。   連合国側は即刻、韓半島は韓国(駐韓米軍政)に移管した。問題は日本領 土に規定した「本州・北海道・九州・四国と我々(連合国)が決定する諸小 島」中、隣接国家間に散らばっている小さな島について元の帰属国と日本のも のとを区別するのに若干の時間がかかった。   やっと数カ月の調査の末に、連合国最高司令部は1946年1月29日「連合国 最高司令部指令(SCAPIN: Supreme Command Allied Powers Instruction)第 677号」にて、若干の周辺地域を政治・行政上 日本から分離する覚書」を発表 して執行した。   このSCAPIN 第677号の第3条にて「独島」(Liancourt Rocks,竹島)は日本 領土から分離、除外されたが、その部分は次のとおりである。  「この指令の目的のために、日本とは、日本の主要4島(北海道、本州、九 州、四国)及び約1000の隣接諸小島を含むものと定義する。(1000の隣接諸小 島に)対馬諸島及び北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口之島を除く)を含 み、次の諸島を含まない。 (1)鬱陵島、リアンコールト岩(Liancourt Rocks; 独島、竹島)、済州島 (2)北緯30度以南の琉球(南西)諸島(口之島を含む)、伊豆、南方、小   笠原及び火山(硫黄)群島ならびに大東諸島、沖之鳥島、南鳥島、中之鳥   島を含む他の全ての外郭太平洋諸島 (3)クリル(千島)列島、歯舞諸島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を   含む)及び色丹島などである」   連合国最高司令部は、このSCAPIN 第677号を「日本の定義(the definition of Japan)として表現した。   SCAPIN 第677号 第3条で注目すべきは、(1)(2)(3)の集団分類である。(1) の集団には鬱陵島、独島、済州島を順番に範疇化して入れたが、この集団は日 本から分離され韓国へ返還される島であることが鬱陵島と済州島から明らかで ある。   すなわち、連合国最高司令部は、1946年1月29日、SCAPIN 第677号で「独 島」(リアンコールト島、竹島)を本来の主人である韓国へ返還することに決 定し、日本から分離したのである。   これは、連合国最高司令部が数カ月間にわたり調査した後に決定し公表し たものであるが、連合国最高司令部は当時において国際法上の合法的な機関で あったので、連合国最高司令部が「独島」を本来の主人である韓国(当時は米 軍政庁)へ返還し韓国領と決定したことは国際法上の効力をもつのである。こ れは、継いでSCAPIN 第677号の付属地図にも克明に表示されている。   1948年8月15日、大韓民国は政府樹立と同時に米軍政庁から韓半島と独島 などを引き継ぎ、これを韓国領とし、韓国の独島領有は1946年1月29日に国際 法上で合法的に再確認されのであり、1948年8月15日から同時に実効的支配を ふたたびするようになったのである。 コメント:戦後の韓国政府による竹島=独島支配は あいまいに1952年ころから 始まるのではなく、韓国が米軍政庁の施政を引き継いだ 1948年から始まりま した。この時、日本は占領軍統治下とはいえ、まがりなりにも政府が存在し外 務大臣もいたのですが、日本政府は韓国の竹島=独島支配に何ら異議の申し立 てを行いませんでした。 Q86.(SCAPIN の解釈)   日本政府はその後、SCAPIN 第677号は連合国最高司令部の最終決定ではな いので、この時点で「独島」(竹島)を日本から最終分離したとか、韓国に最 終返還したとかみることができないと抗議したが、本当にそうか? ANS.   日本政府は「独島領有権論争」を起した直後、1952年4月25日付で韓国政 府に送ってきた日本側口述書において、SCAPIN 第677号第6条「この指令のな かのいかなる条項もポツダム宣言第8条に言及された諸小島の最終決定に関す る連合国の政策を示すものではない」という条項をあげ、これが日本の領土を 最終的に規定したものではないと主張した。   しかし、SCAPIN第677号にて強調されたのは、各国がそれぞれの国家利益 を追求する複雑微妙な連合国の利害関係のなかにあって他の連合国が異議を提 議する場合にそなえ、これが「最終的な決定」ではなく、必要なら修正するこ とができる可能性を残したにすぎない。   それなら、必要な修正を加えるときはどうするのか。SCAPIN 第677号第5 条で「この指令に含まれる“日本の定義(the definition of Japan)”は、そ れに関する他の特定の指令がないかぎり、また本連合国最高司令部にて発する 他のあらゆる指令、覚書、命令に適用する」として、SCAPIN 第677号の日本領 土定義に修正を加える時には連合国最高司令部がかならず特定の別番号の SCAPIN(連合国最高司令部指令)を発するものであり、そうでない限り SCAPIN第677号の規定は「日本の定義」が未来にも適用されることを明白にした。   つまり SCAPIN 第677号の規定を「独島」に適用すれば、第3条にて「独 島」を日本領から分離して鬱陵島や済州島とともに韓国領に返還したが、第5 条にて「独島」を日本領から分離して韓国領に返還したことに修正を加えよう とする時はかならず連合国最高司令部が別番号の特定指令を発してこそ修正す ることができるとして、第6条ではこのような(第5条の)前提下で「独島」を 日本領から分離して韓国へ返還するのは連合国政策の「最終的決定」ではない とみることができると規定したのである。   したがって「独島」を日本政府の主張のように日本領土に編入しようとす れば、かならず連合国最高司令部が別の特定(したがって別番号の)SCAPIN を発表して「韓国に返還した独島を今度は日本へ領土編入する」という要旨の 指令文が発表されれば成立するのである。 Q87.(SCAPIN 677のその後)   その後、連合国最高司令部は SCAPIN 677号を修正して韓国領に返還した 「独島」を日本領へ返還するというような別の特定 SCAPINを発表したのか? ANS.   1946年1月29日、連合国最高司令部は SCAPIN 第677号を発表して「独島」 を日本から政治・行政上分離して韓国へ返還した後、1952年に解体されるまで 「独島」を日本領へ帰属させるような内容をもった別の特定 SCAPINを発表し たことがない。   したがって独島は国際法上において1946年1月29日 SCAPIN第677号により 韓国領に再確認され、今日まで国際法上の合法的な支配が継続されているので ある。   連合国最高司令部が「独島」に関連して発表した SCAPINがもうひとつあ るが、その内容は大韓民国の独島領有をさらに保証するものであった。 Q88.(SACPIN 1033号)   大韓民国の独島領有をさらに保証するもうひとつの SCAPINはどのような ものか? また、それと SCAPIN第677号との関係はどのようなものか? ANS.   SCAPIN(連合国最高司令部指令)第1033号である。1946年6月22日、連合国 最高司令部は SCAPIN第1033号第3条にて「日本人の漁業および捕鯨業の許可区 域」(通称マッカーサーライン)を設定したが、その(b)項にて「今後、日本 人の船舶および乗務員は北緯37度15分、東経131度53分にあるリアンクール岩 (独島、竹島…原引用者)の12カイリ以内に接近できないし、また同島にいか なる接近もできない」と規定して独島接近を厳格に禁止した。   これは連合国最高司令部が「独島」とその領海、近接水域を韓国(当時は 米軍政庁)の領土、領海として再確認し、日本人が独島に接近するのはもちろ んのこと、独島周辺12カイリの領海と近接区域にも入れないよう禁止し、明確 に「独島」が韓国領であることを繰りかえし再確認したのであった。   このように国際法上の合法機関としての連合国最高司令部は SCAPIN第677 号と第1033号により「独島」が韓国(当時は米軍政庁)の領土であり日本領で はないことを明確に決定し、再確認したものであった。   そして 1948年8月15日、大韓民国政府が樹立されるや、大韓民国政府が米 軍政庁から独島をほかの韓半島領土とともに引きついで接収したのであった。   したがって、大韓民国の独島領有は SCAPIN第677号と SCAPIN第1033号に より国際法上からも「独島は韓国領」であることを明確に再確認したのであっ た。 コメント1:マッカーサーラインは、1949年9月19日 SCAPIN 2046号で改訂さ れた後、1952年4月25日、すなわち対日講和条約発効の3日前に廃止されました。 マッカーサーライン廃止に危機感をもった韓国の李承晩大統領は、廃止の3か 月前に同ラインをほぼ引き継ぐ形で平和線、通称「李ライン」の宣布を行いま した。 <李ラインの経緯> コメント2:米軍政庁から竹島=独島の引き継ぎに関しては下記に記します。 <韓国独立と竹島=独島対応> Q89.(米軍演習場)   このころ、米軍が「独島」を米空軍の演習場として使用したが、鬱陵島漁 夫を多数爆死させたことがあり、日本側は米空軍が独島を日本領と見なしたた めに米空軍演習場として使用したものであると主張したが、そのような事実が あるのか? ANS.   大韓民国政府が樹立される直前である1948年6月30日、アメリカ空軍機が 独島周辺で爆撃演習を実施したが、独島に出漁中であった韓国漁民30余名が犠 牲になる不祥事があった。   しかるに、この時期は独島を含め韓半島が駐韓米軍政統治下にあったので あり、決してこの事実が独島を日本領と見なしたとする傍証になるのではない。 日本側の主張はまったく不当なものである。   大韓民国は、政府樹立後である1950年4月25日、アメリカ第5空軍にこれを 照会、抗議した。アメリカ第5空軍から同年5月4日付で「当時、独島とその近 辺における出漁が禁止された事実はなく、また独島は極東空軍の演習目標に なっていなかった」という要旨の回答を受けとった。   その後、韓国戦争期間中に独島が米・日合同委員会によりアメリカ空軍の 演習基地に選定されたという情報が韓国に入った。   大韓民国政府は米空軍へこれに抗議したが、米国空軍司令官は1953年2月 27日付で「独島」はアメリカ空軍の演習地から除外されたという公式回答を大 韓民国政府に送ってきた。   このような事実は、大韓民国政府が樹立した1948年8月15日以後「独島」 に対して主権を行使してアメリカ空軍司令部と抗議文書を交換したのであり、 アメリカ空軍司令部も「独島」を韓国領として認定してそれに回答し、承服し たことをよく示すものである。 Q90.(対日講和条約)   日本政府は、1951年9月8日、アメリカをはじめとする48か国の連合国と日 本が署名した「対日講和条約」第2条にて「日本は韓国の独立を承認して済州 島・巨文島・鬱陵島を含めた韓国に対するすべての権利・権原および請求権を 放棄する」と規定したが、この表記文において「独島」は含むように表示され ていないので「独島」は日本領と主張しているということだが、この問題はど うなのか? ANS.   まったく成立する余地はない。連合国側は、前にも説明したように、連合 国最高司令部が1946年1月29日 SCAPIN(連合国最高司令部指令)第677号によ り「独島」を日本領土から除外して韓国へ返還し、第5条においてこの決定を 修正する時はかならず連合国(最高司令部)が他の特定の指令を出さなければ ならないと明確にした。   これを「独島」の場合に適用すれば、万一、連合国が SCAPIN第677号の決 定を修正し、たとえば「日本から除外して韓国へ返還した独島を修正して日本 へ付属させる」という「修正」を加えようとする時は、連合国側が他の特定の 指令を発するか、それに相当する明文規定をせねばならないのである。   しかるに 1952年、連合国最高司令部が解体し、日本が再独立する時まで 他の特定の指令を発表しなかったので「独島」は依然として連合国側も韓国領 と認定し、国際法が保証する韓国領なのである。   日本はこれをよく知っていたので、1951年「対日講和条約」草案作成時に 猛烈にロビー活動を展開し、一時は「独島」を日本領土に含めて明文規定を草 案にもるところまで成功したが、最終段階で連合国側がこれを削除し、他の特 定の SCAPINに該当する連合国側の明文規定による「修正」に失敗した。   したがって、1951年 サンフランシスコにて締結した「対日講和条約」に おいて「独島」を日本領土に含めるという内容の明文規定がないかぎり、連合 国側は「独島」を韓国領として認定したのであり、日本は国際法上「独島」に 対する領有権を主張することができない。   したがって 1951年、連合国側の「対日講和条約」の条約文は連合国側が 独島を日本領と認定したのではなく、かえって反射的に SCAPIN第677号が有効 であり「独島」が韓国領であることを引きつづき認定したのである。 コメント:竹島=独島やクナシリ、エトロフ島などを政治上、行政上において 日本から切り離したSCAPIN 677号の規定は日本領土を最終決定したものではな く、第5条にうたわれたように別な指令で処遇が明文規定されるまでの暫定措 置であった。   その後、それらの島に関するかぎり明文規定を有する指令や条約は今日に いたるまで皆無である。したがって、それらの島がサンフランシスコ条約で放 棄する島のリストに単に入っていないからといって、それらが政治上、行政上 において日本へ渡されたと解釈するのは困難である。対日講和条約では、条約 非調印国のソ連や韓国が現実に支配しているそれらの島について最終的な所属 をわざとあいまいにするために、それらの島について一切ふれなかったのであ る。   対日講和条約後、日本はこうした事情からクナシリやエトロフ島などが日 本へ返還されたと誤解するようなことはせず、そこへ巡視船を強行派遣するよ うな行動はとらなかった。当然の理である。ところが竹島=独島の場合、日本 は1953年に巡視船を強行派遣し、そのため韓国から銃撃され追い返されている。   この両者の違いは歴然としている。相手がソ連という大国の場合、日本は 理性を働かせたのか、あるいは猟犬におびえる小鳥のようにすくんで動けな かったのか、何の行動も起さなかった。ところが相手が韓国となると、相手を みくびってか居丈高な行動に走ったのである。この当時、日本政府の行動はダ ブルスタンダードであった。 <日本国との平和条約> Q91.(講和条約草案の推移)   連合国側は、1946年に連合国最高司令部がSCAPIN第677号で「独島」を韓 国領と判定したのに、なぜ1951年の「対日講和条約」では「独島」が抜け落ち たのか? ANS.   初めは「独島」が含まれていた。アメリカが主導して1947年3月20日付で 成案になった第1次草案では「日本は韓国(韓半島…原引用者)の済州島、巨 文島、鬱陵島、独島(リアンクール岩、竹島)を含め、韓国沿岸のすべての小 さな島に対する権利および権原を放棄する」として、そこには明確に「独島」 が含まれていた。   そして第2次草案(1947年8月5日 成案)、第3次草案(1948年1月2日、成 案)までは「独島」が明文で記録され含まれていた。しかし第6次草案(1949 年12月29日 成案)からは「独島」の名前が抜けていた。 コメント:対日講和条約は、正式名「日本国との平和条約」で、別名「サンフ ランシスコ条約」「単独講和条約」とも呼ばれる。 <日本国との平和条約> Q92.(シーボルトのロビー活動)   どのようにして、連合国側の「対日講和条約」第5次草案までは「独島」 の名があったのに、第6次草案からは「独島」の名称が抜けおちたのか? ANS.   日本側の猛烈なロビー活動があったためである。日本側は連合国の「対日 講和条約」第5次草案の情報を入手するや、当時日本政府の顧問であったシー ボルト(Sebald)をたてて猛烈にロビー活動をした。  「対日講和条約」にて独島を韓国領から除外し、日本領に含めるよう明文規 定を入れてほしいというものであった。これは連合国(最高司令部)が1946年 1月29日に発したSCAPIN第677号の「修正」を要求したロビー活動であった。   シーボルトは1949年11月14日、アメリカ国務省に「リアンコールト岩(独 島)に対する再考」を要請する電報を打った。シーボルトはついで書面で次の ような意見書を提出した。  「日本がかつて領有していた、韓国側に位置した諸島の処理に関連して、リ アンコールト列岩(独島、竹島)を第3条にて日本に属するものとして明示す ることを建議する。   この島にたいする日本の主張は古く、正当と思われる。この島が韓国の沿 岸から離れている島とみるのは困難である。安全保障の側面にてこの島に気象 とレーダー基地を設置するのはアメリカの国家利益の側面から考慮されうる」   このシーボルトの意見書で注目されるのは、独島を連合国の「対日講和条 約」第3条にて日本領に属すると明記することを強力に要請しただけでなく、 これを貫徹するために狡猾にも独島を日本領に編入すれば、この島に米軍の気 象およびレーダー基地を設置するのがアメリカの国家利益にマッチすると強調 し、アメリカの政治家たちが重視する国家利益に訴えた事実である。   これはもちろん独島を日本領に編入しようとする日本人ロビーストたちが 背後で教唆した狡猾性とみることができる。   シーボルトのロビー活動はすぐに効果を発揮し、アメリカ国務省は連合国 の「対日講和条約」第6次草案(1946年1月29日)第3条の日本領を表示した条 項に「独島」を日本領に含めた。   そしてその注釈は「独島(竹島)は1905年、日本により正式に明白に韓国 からの抗議を受けることなく領土と主張され、島根県の隠岐支庁管轄下におか れた」と説明した。   第7次草案(1951年3月23日成案)には、独島(竹島)が日本領に含まれて 表示され、韓国領土条項には巧妙な方法で目につかないように消された。   アメリカに向けられた日本側ロビー活動の影響で、連合国の「対日講和条 約」において韓国領である独島は日本領に含められ表記されるという切迫した 危険に瀕したのであった。 コメント:日本、韓国ともに竹島=独島が自国領であるという両国の主張は、 最終的に対日講和条約にいずれも反映されず、竹島=独島は一言も書かれない 「あいまい決着」になりました。あいまい決着は北方4島も同様です。 Q93.(竹島=独島の最終決着)   連合国の「対日本講和条約」第6-9次草案にて「独島」を日本領へ組み込 もうとする日本側の活動と、これに同調したアメリカ人の活動はどのように阻 止されたのか? 当時の大韓民国外務部はこれを阻止するために積極的な活動 をしたのか? ANS.   他の連合国がアメリカの「修正案」に同調しなかったために、日本のロ ビー活動で「独島」を日本領に入れて表記しようとしたアメリカ(および日 本)の企図は阻止された。   連合国の「対日講和条約」はアメリカだけでなく、他の連合国も草案を作 成することができるし、連合国48か国の同意署名を受けてこそ成立するのであ る。   しかし、第8次草案(独島を日本領に「修正」表示)をみて、オーストラ リアおよびイギリスがこれに対して質問すると、アメリカは「独島を日本領と して解釈する」との答弁書を送ったが、両国はアメリカの「修正」に同意する 文書を送ってこなかった。   またニュージーランドとイギリスは独島を韓国領とみる見解を婉曲的に示 し、日本周辺にあるいかなる島も主権紛争の余地を残してはならないと強調し、 アメリカの「修正」提案と説明に同意しなかった。それのみならず、イギリス は独自の「対日講和条約」草案を何度も作成した。   そうして結局、アメリカとイギリスの合同草案(1951年5月3日成案)にて 独島を日本領の条項にも、また韓国領の条項にも入れず、「独島」という名を 連合国「対日講和条約」すべてからことごとく削除した草案を作成し、合意署 名したのである。この間、大韓民国外務部は関連情報を得られなかったためか 「独島」領有権に対しては活動したことがなかった。   しかし、SCAPIN第677号第5項にしたがい、「修正」は独島を日本領としな いかぎり問題が発生する。「独島」の名を日本領に入れて明記できなければ、 国際法上「独島」はSCAPIN第677号にしたがい、依然として韓国領と再確認で きるのである。   日本のロビー活動が失敗し、イギリス、オーストラリア、ニュージーラン ドがアメリカの「修正案」に対する同意を保留したのは、大韓民国の独島領有 に反射利益を与えたのであった。   それだけでなく1948年8月15日、大韓民国は独立国家になり、同じ年の12 月12日には国際連合(UN)により韓半島の唯一の合法政府として承認された ので、国際法上において大韓民国は合法的にすでに独島を領有していたことに なる。   しかし大韓民国は、独島に対する外務部の消極的政策と無為無能のために、 独島を韓国領と記録した連合国側の「対日講和条約」草案と第1-5次草案を最 後まで守護できなかった。へたをしたら、当時の外務部の消極的政策と無為無 能により独島を奪われかねなかったのであった。 コメント:対日講和条約において、竹島=独島を韓国領に組み入れる企図は韓 国外務部の無為無能により失敗に帰した。一方、竹島=独島を日本領に組み入 れようとする日本やアメリカの企図は、イギリスやオーストラリア、ニュー ジーランドなどの同意が得られず、やはり失敗した。 Q94.(返還領土の基点)   1951年、日本政府は連合国との「対日講和条約」にて日本が韓国に返した 領土は1910年8月のいわゆる「併合条約」で占領した領土であり、それ以前の 1905年に領土編入した所は含まれていないと主張しているとか・・・。 ANS.まったく成り立たない主張である。連合国の「対日講和条約」は前に もふれたとおり、1894-95年に奪った台湾と澎湖島を中国に返還し、独島より 10か月後である1905年11月に奪った遼東半島を中国に、サハリンをロシアに返 したのを再確認した。   論理的にみたとき、万一 1905年2月「独島」を奪う10年前である1895年に 日本が「暴力と野欲で略取」した韓国の島があるなら「独島」だけでなく、 1895年に略取した島も返還されるようになっていた。   したがって、1905年2月に「日本が暴力と野欲で略取」した独島は当然に 韓国へ返されるべきで、それは1946年1月29日 SCAPIN 第677号で実現されたの である。 Q95.(国際司法裁判所)   日本政府は、国際法が「独島」を「韓国領」に再確認したにもかかわらず、 1952年1月29日「独島」(竹島)を日本領と主張し「領有権論争」を仕掛けて きた。韓国政府が日本の主張を一蹴するや、日本政府は1954年9月「独島問 題」をハーグにある「国際司法裁判所」に提訴したそうだが、事実か? 日本 は独島問題を国際司法裁判所に提訴すれば勝算があると判断したのか? ANS.   日本政府が1952年1月28日「独島領有権論争」を始めたのは、日本政府が 大韓民国国民と韓国政府に挑戦した重大な失策であった。   日本政府は外交文書上の論争を継続してきたが、韓国政府へ送った1954年 9月25日付の口述書において「独島」(竹島)問題は国際法上の基本原理に関 する解釈を含む「領有権論争」であるので「紛争の平和的解決」のために国際 司法裁判所にその最終決定を委任しようと提案してきた。   もちろんこの時の日本政府は国際司法裁判所に「独島領有権紛争」を解決 してほしいと韓国を提訴して委任した。   国際司法裁判所は国内法とはちがって、相手国が委任を承諾して応訴しな ければ案件が成立しない。大韓民国政府は1954年10月28日付で日本政府に送っ た口述書において、大韓民国が「独島領有権」をもっているのは論議の余地が ないとして日本政府の提議を断固として拒否し、応訴しなかった。   韓国政府は当時、日本政府があたかも独島領有権をもっているかのような 前提に立ち、存在しもしない「独島領有権紛争」を作りだし、たとえ一時でも 韓国と同島の立場にたとうとしたのであると批判した。   当時、大韓民国政府は「独島」は「鬱陵島」の付属島嶼であり、「鬱陵 島」が韓国領であるのと同様「独島」も韓国領であり、この事実は SCAPIN 第 677号が保障してくれていると判断した。また、日本が「独島」を日本領と主 張してきたのは「論争」のための「独島領有権論争」であり、「独島領有権 (領土)紛争」は存在しないとする断固たる立場であった。韓国政府のこうし た立場は相当に正確なものであった。  「国際法上の合法的機構である連合国最高司令部」が SCAPIN 第677号です でに1946年に「独島」を鬱陵島とともに日本領でないと判断し、日本領から除 外し、韓国に返還したので、国際法上「独島」と鬱陵島は明白に韓国領であっ た。   したがって、日本が独島や鬱陵島を日本領であるといくら強力に主張し、 国際司法裁判所に提訴しても韓国はこれに応訴する理由がまったくなかった。   現在、国際司法裁判所の判事15人の中で一人は日本人判事である。日本政 府は国際司法裁判所に運営費用の相当な分担金を出しており、ロビー活動に関 するかぎり、世界最強であるとの自信がある。   そうであるから、日本が「独島」問題を国際司法裁判所にもっていきさえ すれば、「真実」が大韓民国側にあるにせよ、最後の勝利は日本のものである と作り出すことができるという自信をもったのであると観察される。 半月城のコメント:   1950年代は、竹島=独島をめぐる多くの真実がまだ公になっていない段階 だったので、日本政府は国際司法裁判所で勝てるかも知れないと本気で思いこ んでいたようです。   しかし、もし現段階で国際司法裁判で審議されるとなると、一番困るのは 日本の外務省ではないでしょうか。それは外務省の情報隠しが満天下にさらさ れるためです。   たとえば、明治政府が竹島=独島を朝鮮との関係で放棄した事実です。あ るいは「竹島一件」の時、江戸幕府は松島(竹島=独島)の存在すら知らな かった事実です。はたまた、竹島=独島は、実は1905年に「無主地」と断定し て「領土編入」したのであり、決して「固有領土」とは考えていなかった事実 などです。   これらは、国立国会図書館の塚本孝氏のように、竹島=独島を日本領と考 える日本の学者すら認めている事実です。   そのうえ、たとえ「固有領土」であったとしても、北方4島のように SCAPIN 677号が国際法上の壁になり、ロシアなどの既得統治権をくつがえすの は困難なのが現実です。   そうした状況もあってか、外務省は国際司法裁判所への付託を最近はまっ たく口にしていないようです。ましてや、北方4島に関しては国際司法裁判所 への付託は当初からおくびにも出していません。ダブルスタンダードでしょうか。   今や、情報隠しやウソまみれの外務省にとって、裁判は最も避けたい解決 手段ではないでしょうか。



半月城の連絡先は half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。

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