半月城通信
No. 71

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  1. 日本語はクレオル語
  2. 憲法の「国民」
  3. 百済語と倭語
  4. 天皇中心の神の国とは?


日本語はクレオル語 「問答有用会議室」(http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain)#1573  半月城 2000/05/13   Gaouさんの下記書き込みは、私の意見を代弁している感があります。 > 「言語とはその文化の核心」であるから英語の公用語化 >には反対である、とクマ氏は仰いますが、私はこれは必ず >しも直接的反論になっていないと思います。と、いいます >のも、そもそもピジン語と「International Englishes」 >いう観点が欠如しているように思われるからです。   現在、日本語の語彙の半分は漢語だそうですが(注1)、またさらに幾分 かは欧米の言葉であるので、それらを差し引いた「やまと言葉」の比重は小さ いものです。それくらい日本語は外来語の比重が大きく、韓国語と同様に一種 のクレオル語といえます。   こうした現実からすると、日本語文化はすでに中華文化の植民地なのかも しれません。植民地という言葉がきついのであれば、中華文化の一員であると 言い換えることも可能ですが。   クレオル語である日本語は、クマさんがおっしゃるようにもちろん中国語 の一種とはいえませんが、奈良時代にまでさかのぼると、あんがい日本語は同 じくクレオル語だった百済語の一種だったのかもしれません。   その百済語は新羅語に吸収されてしまい、あまり記録がないようですが、 ともかく奈良時代に百済語と日本語は、文法はもちろん漢字の読み方や発音の 特徴までかなり共通だったようです。   そのため、百済の高官が倭に亡命してすぐ文部大臣クラスの学識頭(ふみ のつかさのかみ)になったときも、コミュニケーション上で何の支障もなかっ たようでした。   さらに時代をさかのぼって弥生時代になると、弥生文化をになった倭人の 言葉や文化は渡来人の言語や文化そのものといえそうです。   結局、日本語をつきつめていくと、昔も今も独自の部分というのは希薄な のですが、そんななかで「美しい日本語を守る」目的で、コミュニケーション をすこし犠牲にしてまでコンピューターやメールを電脳とか電便と漢字で書く 姿勢はすこし滑稽にみえます。   もし漢字をローカルな国際語であると認識していないのであれば、「美し い日本語」意識は、視野が日本に限定された小中華意識の表れといえるのかも しれません。   逆に、ローカルな国際語である漢字文化の共通化や推進をとなえるなら、 それはそれとして意義のあることです。しかし、これは東洋における時代の流 れに逆行している感があります。   かって、トウ小平でしたか中華文化が近隣諸国に黄禍をおよぼした例とし て漢字と儒教を引き合いに出しましたが、すでにベトナムや北朝鮮は漢字を全 廃し、今や韓国もゆっくりとその方向に進みつつあり、漢字文化圏の将来は決 して明るくないようです。   日本はそのローカルな国際語にとどまるのか、あるいは事実上の国際語で ある英語も強力に推進するのか、どちらが来る21世紀にふさわしいのか、答 はおのずと明らかではないでしょうか。   一昔前、日本のある外務大臣が国連においてジャパグリッシュで演説した とき、これを聞いた人が、日本語は英語によく似ているという感想をもらした そうですが、国際舞台で意志疎通を欠いた姿がIT革命の喧伝される21世紀 にいつまで通用するやら。   すでに、日本の常識は世界の非常識といううがった見方も生まれています。 そのすき間に、石原都知事のレイシズム発言などが誕生したといっても過言で はないと思います。 (注)加藤周一他「漢字文化圏の未来」『世界』2000.6


憲法の「国民」 「問答有用会議室」(http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain)#1594 半月城 2000/05/14   渡辺さん、はじめまして。南京大虐殺について勉強されてるそうですが、 私のホームページ「半月城通信」がお役に立てば幸です。   さて、憲法の「国民」ですが、かの憲法9条に "the Japanese people forever renounce war..." と書かれているのを私は見落としていました。ご 指摘ありがとうございます。   もし、ここで主語を "the people"としたら、日本が侵略戦争を引き起こ したことにたいする反省や戦争をおこさない決意があいまいになってしまうの で、ここだけはどうしても"the Japanese people" と明記することが必要があ ったようです。   次に30条の納税義務ですが、対象を「すべての人」にしないで「国民」 としたのは、参政権とのかねあいがあったためではないかと思います。   憲法制定の20年前までは、納税資格を有するもののみに参政権が与えら れており、納税と参政権は密接不可分と考えられていました。その影響か、も し納税義務のみ課して参政権を与えないとなるとかなりの反発が予想されただ ろうと思われます。   とくに日本に住む旧植民地人の選挙権については、45年10月、いった んはそれまでどおり存続を決めたのに、その1カ月後にはその方針を突然変更 し選挙権を剥奪した経緯がありました(注)。   それに起因する反発を避けるためか、条文の見かけ上、納税の義務を「国 民」とするのが官僚にとって得策だったのではないかと思います。   そうしておいても運用面で外国人にたいする徴税はいくらでも可能だし、 実際そのような行政が行われてきました。   渡辺さん、 > 在日外国人には「国民」がもつ納税の義務が >あるのだろうか、ないのだろうか?   外国人にも納税義務を課しているのが世界的な傾向であることに加えて、 外国人も居住国の社会的インフラを利用していることになるので、やはり外国 人も納税義務をもつと思います。   とくに、一世はまだしも二世などは居住国から離れて生活することは考え られないくらい居住国と密接にかかわっているだけに、それは必至だとおもい ます。   一方で私は国籍に関し、アメリカやドイツのように「出生地主義」を主張 しており、二世には原則的に、三世以降には無条件に出生地の国籍も与えるべ きだと思っています。   この場合、納税義務はもちろんのこと、すべての権利や義務は居住国の人 間と完全に同じであるべきです。 (注)半月城通信「在日朝鮮人の選挙権剥奪」     http://www.han.org/a/half-moon/hm060.html#No.389


文書名:百済語と倭語 [zainichi:16017] Date: Fri, 19 May 2000   大学院で日韓の音韻構造を研究されておられる秋月さんを前に、資料も何 もないソウルのオンドル房で「半月城通信」だけをたよりに、あえて素人談義 を書きます。  秋月さん、RE:15962 > こうして抽出された朝鮮の三国時代の ことばでは、 >一般には高句麗語が かなり異質であるが、百済・新羅・ >伽耶などで 基層にある ことばは、よく にていて、かなり >つうじあっていたのではないかと いうのが、韓国の学会での >有力な かんがえだと きいています。   私も同じように「基層にあることば」を理解しています。いうまでもなく 百済や新羅、加耶はそれぞれ馬韓、辰韓、弁韓諸国の地に建国したので、これ らの三国では三韓のことばである原始韓語が基層になっていたとみるのが通説 のようです。   その一方で、私は、百済語は初期には支配者と民のことばという二重構造 をもっていたのではないかという李基文氏の説に注目しています(注1)。   かって、帝政ロシアの宮廷ではフランス語が話されていたようですが、百 済は高句麗系の騎馬民族が馬韓を征服したことからすると、初期の百済語は階 層により異なっていたのではないかと思われます。   その百済語も時代を経るにつれ融合がすすんでいったのでしょうが、とも かく新羅に征服されるころの百済語は、土着語が発展したと考えられる新羅語 とはすこし異なっていたのではないかと思います。   秋月さん、 > むしろ、弥生時代から言語が にていたという >よりも、倭に百済の高官が亡命してきたときには、 >当時の支配層の おおくが、朝鮮半島系の人物で >しめられていたので、支障がなかったと かんがえた >ほうが いいのではないかと おもうのですが。   私は、弥生時代に定着した渡来人の言語が、かならずしもその後の時代に そのままで使われ続けたとは考えていません。古墳時代にもう一回大きな渡来 の波があったので、このときも言語の二重構造が生じたのかもしれないと思っ ています。   渡来の波とは騎馬民族・文化の流入です。この4,5世紀は、物語は別に して記録がまったくない時代なのでたしかなことは言えませんが、天皇騎馬民 族説が成り立つのかどうかは別にして、倭語に大きな変化があったのではない かと思います。   そんなところへ、今来(いまき)と呼ばれる次の渡来の波が6世紀にあり ましたが、この時には、おっしゃるように支配層の多くが朝鮮半島系の人物で 占められていたとも考えられます。   ともかく、小室直樹氏によれば、このとき日本では「朝鮮語」がかなり通 用していたとされています(注2)。        --------------------   聖徳太子時代に、日本と三韓とがいかに親密であったかということは、「 日本書紀」をよく読んでみると、容易に看取されうることである。日本の高官 が外国の使臣と会うとき、相手が中国(この時は随、のちに唐)だと通訳をつ ける。それが三韓の使節だと通訳がいらないのである。ということは、日本の 指導者層の人びとは、朝鮮語を自由に話せた、ということである。日本の貴族 にとって朝鮮語とは、ロシア貴族におけるフランス語の位置を占めていたこと がわかる。   とくに、百済と天智天皇の日本とは仲良しであった。百済が日本の親の国 (クンナラ)であったかどうか、それはわからないが、すくなくとも、一種の 「兄弟の国」であったことはたしかである。天智天皇の詔に、「百済はわが兄 弟の国である。なにがなんでも助けなければならない」とある。        --------------------   奈良時代、百済語が通用したといっても倭語との違いは、秋月さんが書か れたようにもちろんいろいろあったことでしょう。   その一方で、私が、発音の特徴がかなり類似していたと書いたのは、たと えばやまと言葉や韓語では「ら行」から始まる単語がないとか、発音における 母音調和の原則などをさします。これはウラル・アルタイ語系の特徴のようで す。   そのような背景に加えて、奈良時代、漢字の読み方などは現代よりはるか に共通していたことはあらためていうまでもないと思います。   たとえば、釈迦に説法かもしれませんが「男女」の読み方は奈良時代には おそらく「なんにょ」であり、百済語どころか現代の韓国語にも近いものです。 これは漢字が百済から日本にもたらされたことを考えれば、当然の結果といえ ます。   つぎに、漢字が借用語かどうかですが、漢字は日本語や韓国語において、 現代のカタカナ語などとは違って、単に借用語の範囲にとどまらず、日本語な どは漢字なしには成り立たないほど本質的な影響を与えました。   というわけで、私は借用語とは異なる別次元の表現として、軽いタッチで 文中に「一種のクレオル語」と書きましたが、中米など本家のクレオル語とは もちろん差異があることは、おっしゃるとおりだと思います。 (注1)大野晋編『古代日本語と朝鮮語』毎日新聞社,1974 (注2)小室直樹『韓国の悲劇』光文社   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


天皇中心の神の国とは? 「問答有用会議室」 http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain  #1852   半月城 2000/05/28   韓国は、植民地時代に朝鮮神宮などの神社に参拝を強制された過去をもつ だけに、森総理大臣の信念にもとづく「日本は天皇を中心にした神の国」とい う発言は見過ごせないところです。   韓国の中央日報は、5/17の社説で「一国の総理として軽率な行動だったと しか思えない。天皇を神格化した結果、皇国史観に染まっている軍部が権力を 独占して侵略戦争・植民地収奪・敗戦に至ったことは明らかな歴史的事実では ないか」と批判しました(注1)。   これはもっともな指摘ではないかと思います。というのも、森総理は「神 道政治連盟」に属し「神社本庁の指導をいただき、政治活動をする」と発言し ているだけに、韓国では日帝時代にことあるごとに復唱させられた「皇国臣民 の誓詞」の悪夢が想いおこされます。   ところで、森総理が指導を仰ぐ神社本庁ですが、ここはどういうところな のかおおいに気になります。そこで、神社本庁について自分なりにすこし調べ てみました。   1945年、GHQは天皇を中心とする国家神道が日本の侵略戦争を支えたと して、いわゆる神道指令を発し、神社を国家や地方公共団体から切り離しまし た。翌年、それへの対応から全国神社の統合包括団体として宗教法人の神社本 庁が誕生しました。   各都道府県には支部的役割をもつ神社庁をおき、約8万の神社を傘下にお さめました。そして中心になる本宗(本山)は、皇室との関係がとくに深い伊 勢神宮とされました。   同神宮は全国の神社の頂点にたつだけに、そのめざす方向はとくに注目さ れます。伊勢神宮崇敬会によれば「私共の希望いたします理想的なかたちは、 率直に申しまして神道指令以前の神宮の姿に復ることであります」としていま すので、やはり戦前のような天皇中心の祭政一致が目標であるようです。   そうした長期的展望にたったうえで、現時点(1995)では柔軟に対応してい るようで、崇敬会はこのように続けています(注2)。  「立法手続きによりこれが実現を期することは、現在の憲法下に於て、又今 日世論の動行(ママ)に徴して著しく困難な事柄であると考へられますので、 せめて最小限に神宮の正しいご本質を生かす方法を見出すべく種々研究を続け て参ったわけです」   神宮関係者は、憲法改訂で神宮の理想を実現するまでのつなぎとして、現 実的に神宮の「本質」を生かす道をこう記しました。  「私共が真に念願いたしますところは、神宮の祭祀が新憲法下に於ても、国 家国民統合の象徴としての法的御立場に在らせられる天皇が、公的に祭祀せら れるものであるとの確認を得たいといふ一事であり、その餘の一切のことはす べて枝葉末節に属するといふことであります」   天皇の国事行為としての祭祀こそが神宮の当面の目標であるようです。こ こにいう祭祀とはそもそも何でしょうか? 神宮側の要点はこうです(注2)。 1.二千年来、伊勢神宮は日本国の天皇が皇祖を奉祀するところの神宮であり 「三種の神器」のひとつである「ヤタの鏡」を奉祀しているなど、皇室国家と は不可分である。   ちなみに皇居賢所にある鏡は神宮のものの御代宮であり、ともに天皇の地 位と不可分である。 2.憲法で「日本国及び国民統合の象徴」とされた天皇の国事行為は儀式儀礼 の性質が著しい。   何故に憲法は、儀式儀礼等の天皇の国事行為を必要としたのであるか。そ れは国の内外に対して、常に日本国が悠久なる歴史と伝統を有する皇位を象徴 と仰いでいることを想起せしめ、国事をして心理的に荘重ならしめんためであ る。   憲法の所期する皇位の荘重は、悠久なる皇統を無視しては意味をなさない。 天皇が皇祖の神宮へ参拝されるということは、これは「国家の象徴」としての 公としてみとめられなくてはならない。   第2項にある「悠久なる歴史と伝統」の語句からは、森総理の「(天皇中 心とは)日本の悠久なる歴史と伝統文化という意味で申し上げており・・・」 という発言が思い起こされます。   しかし、天皇が歴史と伝統文化の中心であったなどとは、どうやら伊勢神 宮関係者もあからさまには口にしていないようです。歴史的にも封建時代は天 皇の存在感が希薄で、とても歴史と伝統文化の中心であったとはいいがたいの で、よほど極右の民族派でないかぎり森総理のような飛躍した主張はしないよ うです。   その一方で、神宮としては儀礼儀式をもっぱらとする皇室の荘重さや伝統 を権威づけるため、天皇の皇祖参拝を国事行為として公に認めよと主張してい るのですが、こうした宗教儀式は必ずしも憲法に反しないと考えているようで す。   その根拠として国事行為に宗教儀式をもちこんだ例をあげているのですが、 それによれば、葬儀として幣原喜重郎や尾崎行雄の衆議院葬(仏式)、松平恒 雄の参議院葬(神式)があり、他にも国事として皇太子の結婚式(神式)など があったと主張しています。   これらの実例を突破口に、伊勢神宮は天皇の神宮公式参拝をとなえている ようですが、これは「天皇を中心とした神の国」実現への第一歩となることは いうまでもありません。   そうまで渇望する「神の国」とは一体どのようなものなのか、ここでちょ っと視点を変えて、神話の世界に踏み込んでみたいと思います。   まず、伊勢神宮と神話のかかわりですが、次のように説明されています (注3)。        --------------------   日本書紀によれば、天孫降臨の際、天照大神はニニギノミコトに三種の神 器を授け、そのうちヤタの鏡について「この鏡を見ること我を視るが如くせ よ」と仰せられ、同じ宮殿の中でご神体として奉斉するように命じられたとい う。   この同床共殿が守られて、歴代皇居に奉安されたが、崇神天皇のとき、神 人分離によってヤタの鏡を他へお遷しすることになり、皇女豊鍬入媛命が命を 奉じて大倭の笠縫邑(桜井市)にお祭りした。   ついで垂仁天皇のとき、皇女倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が、大神の御 意に従い、ヤタの鏡と天叢雲(あめのむらくもの)剣を奉じて、転々、伊賀・ 美濃を遷幸、ついに五十鈴川のほとりに鎮座されたと伝える。        --------------------   この神話を分析するとなかなかおもしろいものです。ニニギノミコトが筑 紫の日向(ひむか)の高千穂のクシフル峰に降臨したのが倭の始まりとされて いますが、そもそもこの「天孫降臨」神話は、三品彰英氏によれば、降り立っ たクシフル峰の名といい、ふすまなど布につつまれていたことといい、その内 容は日本と関係が深かった加耶国の首露王建国神話に重要な点で一致している ようです(注4)。   これから江上波夫氏は、韓国、ことに伽耶地方からその建国説話をもって 北九州に渡来した外来民族が、その支配地の高い連山(高千穂峯)にこれを結 びつけたのが記紀所伝の天孫降臨建国神話に他ならないとしました(注5)。 すなわち、ニニギノミコトの神話は、渡来人の神話であると結論づけました。   さて、ニニギノミコトの曾孫である神武天皇が九州から大和へ東征し、今 は祝日になっている2月11日に大和の橿原で即位したことになっていますが、 大林太良氏によれば、神武東征伝説の随所に高句麗や百済の建国神話がはいっ ているようです。   その一例ですが、移動の途中で亀や鳥に助けられたり、逆に獣に悩まされ たり、あるいは海の兄に対し、陸の弟が建国するストーリーの枠組みまでそっ くりなようです。これから同氏はこのように記しました(注5)。  「(朝鮮の建国神話が)日本の建国伝承とこれだけ大幅の、しかも細部にわ たる一致は、私の知るかぎり、中国や東南アジアの伝承には見られず、朝鮮の 伝承においてのみ見られるものである。   そして日朝両地域間の地理的隣接、歴史的接触、密接な文化の関連からみ て、同一系統のものであることを物語っているといって差支えない。   しかも、ここでは何よりも建国伝承が問題になっている。これは、日本の 支配者文化の系統を考える上にもきわめて示唆的である」   大林氏は控えめに語っていますが、支配者文化の系統を暗に渡来系として いるようです。そのような文化の上に成り立つ伊勢神宮は、必然的に渡来文化 の要素が濃厚になるのは当たり前ではないかと思います。そのあたりを司馬遼 太郎はこう記しました。         ---------------   ぼくは伊勢の御遷宮をたまたま昭和20年代と数年前の二回行きましたが、 境内でドナルト・キーンさんにもたまたま会いました。もとの権宮司さんが側 に来てくれましたが、真夜中に御霊が、皇女が祭宮になって行列を作って通っ ていくのです。   ぼくがその権宮司さんに「あれは中国の行列ではないか」と言うと、その 人はぐっとつまって、「あれは奈良時代の女帝の最高の行幸行列なんです」と いうことを三べんも四べんも言うのです。単一性の強調です。「いや、それが 中国なんだって」とくり返し言いました。   ぼくは出かける前に『古事類苑』を見ていきました。偉いもので、平安時 代からの式次第から行列の絵までちゃんとかいてあるんです。これは中国だと あらかじめ気持ちを決めて行ったから、現実で見ても古代中国の匂いがありま すね。   なぜ古代中国の行列をやっているということで喜ばないのか、その行列に ひじょうに広い地域の匂いと姿を見ることができるんで、もう一皮むいて、次 の遷宮式年には中国の行列がいまだに残っておると宣伝するかもわかりません ね。         ---------------   この話に出てくる宮司さんと司馬遼太郎の見方はあまりにも対照的です。 どんなに専門的な知識が豊富でも、国際的な視野を欠くと「井の中の蛙」にな りかねません。   こうした配慮は伊勢神宮の場合にかぎらず、日本の伝統文化や民族などに ついて語るとき、とくに必要ではないかと思います。民族主義も偏狭に走ると 小中華意識に陥って、全体像が見えなくなってしまうものです。   したがって、日本固有と考えられている神道も東アジアのスケールで考察 する必要がありますが、それを井上正昭氏は、さる座談会でこう述べました (注5)。        ----------------   かっては仏教渡来以前が日本の固有文化だという考え方が支配的でして、 仏教渡来以前が原神道とかプロト神道の世界とかよばれましたが、これにも中 国的なものや朝鮮的なものが混入されていて仏教渡来以前の文化が固有文化な どとは言えないのですね。   たとえば、固有の文化であると言われている原神道の世界においても中国 や朝鮮あるいは南方諸地域の影響があるし、朝鮮の道教なども渡来人の手によ ってもたらされています。「神道」の語自体が古く中国にあって、「易」の観 卦の象伝に早くもみえ、宗教的な意味では漢の武帝の頃から用例がある。そし て二世紀のなかば、後漢の順帝の頃には仙道の意味で使われている。   また、神道の禊(みそぎ)とか祓(はらい)とか言われるものもそうです が、これなども中国や朝鮮に先例がある。「周礼」に「祓除」のことがみえ、 春禊、秋禊は民間行事としてもあり、魏晋の頃になると、春禊は3月3日に固 定してくる。   有名な「三国史記」の「加羅国記」に亀旨(くし)峰に首露が降臨すると いう話がありますが、それは3月の禊浴の日です。禊の日に降臨するという伝 えなどもあります。それらの例をみてもわかると思います。  (民族)単一が尊いという世間の空気。これは後期水戸学や幕末以後の国粋 思想などによってたかめられているためで、それらを十分に克服できなかった。 大正年間には、日本民族や日本文化は決して単一なものではないと言った先学 もあります。   先学の例をあげると内藤湖南博士は、大正9年頃、日本文化の中心は中国 文化だと主張されて、中国文化は日本文化の苦汁(にがり)の役を果たしてい ると言われましたし、喜田貞吉博士は、大正5年頃には、天皇家の祖先は扶 余・百済系であるとはっきり言われております。   そういう主張があるにもかかわらず、大勢は日本中心の悪しきナショナリ ズムに陥っていった。貴重な問題提起はあったのですが、大勢を打ち破ること はできずにきたわけです。        -----------------   上田氏の主張によると、純粋に日本的と思われている神道の「みそぎ」や 「おはらい」なども、中国や朝鮮などにその起源があるようです。   さらに神社という文字も『墨子』に登場します。神宮という用語は2世紀 後半の『詩経』の鄭玄註の中に出てきます。朝鮮では『三国史記』に5世紀後 半から6世紀の新羅に神宮という用語が出てきますが、日本の神社、神宮はそ れらの借用であることはいうまでもないと思います。   そうした点をよくふまえて「神の国」を理解していれば、「日本は天皇を 中心にした神の国」などといった偏狭なナショナリズムに陥らないのではない かと思います。 (注1)中央日報社説<「神の国」の総理は誰?>http://japanese.joins. com/Article_opn.asp?inputdate=20000517&inputtime=191345&gubun=E (注2)幡掛正浩『日本国家にとって「神宮」とは何か』 伊勢神宮崇敬会,1995 (注3)岡田米夫『神社』東京堂出版,1997 (注4)「半月城通信」http://www.han.org/a/half-moon/hm017.html#No.152 (注5)司馬遼太郎他「朝鮮と古代日本文化」中公文庫,1996


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