半月城通信
No. 91

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  1. 韓国の青銅器時代
  2. 百済の武寧王と高野槇
  3. <竹島=独島>

  4. 于山国の歴史、『大日本史』1
  5. 于山国の歴史、『大日本史』2
  6. 『隠州視聴合紀』の読み方
  7. 竹島=独島に関する国会図書館の調査
  8. 竹島(鬱陵島)渡海事業1
  9. 竹島(鬱陵島)渡海事業2
  10. 竹島(鬱陵島)渡海免許の背景
  11. 「松島(竹島=独島)渡海免許」
  12. 朝鮮の「竹島一件」対応
  13. 朝鮮政府の松島(竹島=独島)認識


韓国の青銅器時代 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#5833 2002年9月15日   倭を代表する墓制といえば前方後円墳ですが、古朝鮮独特の墓制といえばもちろ ん支石墓になります。その数は数万基にのぼり、韓国の南海岸から満州の遼寧地方に までひろがりをみせています。   支石墓が築かれた時期は青銅器時代ですが、この時代を特徴づけるものに無文土 器があります。現在、韓国で青銅器時代はホットな話題になり、とくにその開始時期 の研究が集中的になされているようです。   その成果は教科書の書き替えが必要なくらい重大であり、興味深いものがありま すので、ここで lakshmi2032さんから紹介のあった記事を日本語で紹介します。        -------------------- 紀元前10世紀の青銅器説崩壊,教科書の書き替えを  連合ニュース 2001-03-05 http://news.empas.com/show.tsp/20010305n00026/?s=862&e=1041  (ソウル=連合ニュース)韓半島の青銅器時代はBC10世紀ころという韓国考古学界 の通説はくずれることになった。全国各地でこの時代の遺跡や遺物の年代測定を行っ た結果、BC10世紀よりはるかに古いBC15世紀頃にさかのぼることになった。  これにより韓国史は、当時の歴史を伝える文献記録が残っていない上古史はもちろ んのこと、「三国史記」で始まる古代史も新しい転機に迎えることになった。  同時にこうした結果は(百済の)風納土城発掘や「花郎世紀」筆写本発見に比肩し うる韓国史学会の一大トピックと評価される。  今まで韓国考古学界は、中国東北地方に接した北韓地域はともかく、韓半島中南部 以南は早くても BC 10世紀頃に無文土器を使う青銅器時代に入ったと見て来たし、現 行国史教科書にもそのようになっている。  しかし、晋州南江ダム水没地区や北韓に接した江源道,全羅南道などで最近確認さ れた青銅器時代遺跡と遺物の多様な年代測定結果は、通説を飛び越えて BC 15世紀前 後と出ている。  もっと驚くべきことは、青銅器時代の代表的な墓である支石墓や、琵琶形銅剣をは じめとする高度に発達した青銅器自体もBC 10世紀あるいはそれ以前と確認されたと いう点だ。  このような結果は、1993年壇君陵発掘以前まで北韓学界が主張していた韓半島青銅 器時代の開幕は BC 20世紀ころという主張が正しかったことを証明する一方、これに 対して主体思想を云々し"無条件年代を引き上げた"と排斥してきた南韓学界が完敗し たことを意味する。  最近調査された(慶尚南道)晋州南江の水没地区は、ここで確認された各種青銅器 時代遺跡と遺物年代が BC 10世紀をはるかに飛び越えてBC 15世紀頃と出ている。  南江の水没地区中、ソンムン大の調査チームが発掘したオクバン遺跡の場合、一辺 の長さが 15m以上に逹する超大型居住址から出た木炭2点の国立文化財研究所による 放射性炭素年代測定結果が、それぞれ BC 1590-1310年と BC 1620-BC 1400年という 衝撃的な結果が出た。  こうした結果は、他の南江水没地区でも同様であり、建国大博物館が発掘した青銅 器時代の住居址から出土した木炭2点も BC 1420-BC 1100年, BC 1400-BC 1100年と出 たし、慶南大博物館もソウル大とカナダのトロント大学に試料測定を依頼した結果、 紀元前10世紀を越えたことが判明した。  江原道地域の場合、青銅器時代は南江流域よりさらにさかのぼる。江陵キョ洞の住 居址1号の場合、その年代がおおよそBC 1878-1521年と出たし、他の二か所の住居址 も中心年代が BC 15世紀頃であると表れた。  これと共に南韓では唯一、青銅の斧が出土した束草の朝陽洞にある青銅器時代遺跡 も国立文化財研究所の年代測定結果 BC 1206-BC 830と出たし、日本の名古屋大学が 年代測定を実施した江陵バンネ里遺跡も早ければ BC 14世紀との結果が出た。  それだけでなく、朝鮮大博物館が発掘した全羅南道順天ズッネリ青銅器時代住居址 も外国の研究所に炭素年代測定を依頼したところ、BC 15-16世紀という結果が出た。  ここで注目すべきは、このような年代測定値が特定の研究所1か所から出たのでは なく、国内外の多くの機関に依頼して得た結果という点だ。これはそれだけ年代測定 値に対する信頼度を高めている。  住居址遺跡とあわせて、支石墓及び青銅器発生の時期も同時にさかのぼってくる。 琵琶形銅剣が出土された大田ビレ洞の支石墓遺跡と青銅の斧が出た束草の朝陽洞遺跡 は、その年代が BC 9-10世紀と出た。  これら琵琶形銅剣や青銅の斧は青銅器の中でもかなり鋳造技術が発達した段階の遺 物であるので、韓半島地域でこれらに先だって粗雑な水準の青銅器はこれより早い時 期に登場したことが確実になった。  国立文化財研究所のチョウ・ユジョン所長は "南江の先史遺跡だけでも炭素年代測 定値が出るまでは、その年代をBC 400-500年頃と推定していた" として、"寝てさめ ると、従来の学説がくずれているのが考古学であるが、青銅器時代に関する議論も新 しい段階に入っている" と言った。        --------------------   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


百済の武寧王と高野槇 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#6165 2002/11/ 3   半月城です。   百済で日本にもっとも関わりが深い王のひとりに第25代の武寧王(501- 523)をあげることができます。王は『百済新撰』逸文によれば九州筑紫の島で 生まれました。これについては次の機会にふれることにします。   武寧王は外国生まれといわれるだけあって、その活動は国際的で高句麗や 加耶、新羅はもちろんのこと、倭や中国の南朝とも深い交流があったようでし た。そうした国際交流を実際に裏づけるのが武寧王陵です。   75年前にかろうじて日本人の盗掘をまぬがれた武寧王陵からは 1971年、 千余点にのぼる遺物が発見されました。それらは国際色豊かで、二〇世紀最大 の百済発掘といっても過言ではありません。当時の韓国では被征服国である百 済の遺物は比較的少なかっただけに、この発見は韓国のみならず日本の考古学 会をも興奮させるものでした。   武寧王陵ですが、ふつう百済の代表的な墓室形式というと蘇我馬子の墓 (伝)のように羨道をもった横穴式石室が一般的ですが、武寧王の場合は横穴 式セン[土専]築墳、すなわちレンガ積みの構造でした。この墓は中国南朝の王 侯貴族のものであるといってもおかしくないほど南朝様式が濃いものでした。   さて王陵と倭の関わりですが、王の木棺が倭の高野槇(こうやまき)で作 られたことが判明しています。高野槇は木曽五木のひとつであり、江戸時代は 無断でこの木を伐ると首を斬られるくらい貴重な木でした。   しかし、古く弥生時代から古墳時代にかけては大阪の河内平野周辺にも多 くの高野槇が自生していたようでした。この木は水に強く、たとえば明治時代 や永禄年間に建設されたとされる東京・千住大橋の橋桁の杭は高野槇で作られ たくらいでした。   このように水に強い特性は木棺材としても最適だったようで、そのために 河内の高野槇は古墳時代に木棺用に大量伐採されて姿を消したようでした(注 1)。   高野槇は倭だけでなく百済でも消費されました。長身である武寧王の木棺 には直径1m以上の高野槇が10本以上使用されたようでした(注2)。搬出 は、王の木棺の形式が倭のものとは異なることからすると木棺の状態ではなく、 原木か板材でなされたようでした。   ちなみに韓国で高野槇の木棺は武寧王陵だけでなく、百済の陵山里古墳群 や益山大王墓などでも使用されたようでした。これから察するに、当時の百済 は王族の木棺をつくるために、常に高野槇の素材を入手・管理していたようで した。この背景を京都大学の吉井氏はこう記しました(注3)。        --------------------   日本列島最高の木棺材として近畿地方の限定された人たちにだけ使用され ていた高野槇が百済に送られ、武寧王陵の木棺として使用されるようになった 歴史的背景としては、当時の百済と日本のヤマト政権間の密接な交渉関係を考 えざるを得ない。   6世紀前半台に百済は文物だけでなく、五経博士のようにさまざまな技術 者や仏教のように新しい宗教までヤマト政権に提供した。このような文物と技 術の提供に対する見返りにヤマト政権は何を百済に送ったかを知る資料は多く ないが、高野槇がその文物のひとつである可能性が高い。        --------------------   古代でも交流は原則的にギブアンドテイクなので、倭は百済から先進文物 をもらった見返りに当然何かを与えていたはずです。それが高野槇でありヒス イの勾玉や筒型銅器などだったのでしょう。あるいはそれでも不足だった場合 は傭兵なども供給していたかもしれません。 <皇国史観と七支刀>   高野槇以外にも倭と関連する遺物が武寧王陵で発見されました。銅鏡や環 頭大刀、クツなどです。とくに韓国で宜子孫獣帯鏡とよばれる武寧王陵の銅鏡 は、1872年に(伝)仁徳陵古墳から出土したとされボストン美術館に所蔵され ている七子(ななつこの)鏡と瓜二つです。   ふたつの銅鏡は、大きさをはじめとして白虎や青龍など四神の紋様がある ことや、全体の姿かたちなどがそっくりです。同志社大の森浩一教授によれば、 それらはいわば兄弟鏡で、中国ではなく倭か百済のどちらかで作られたのだろ うとのことでした(注4)。   ここで注意すべきは、銅鏡が副葬された時期です。武寧王の時代は倭でい えば継体大王(507-531?)の時にあたり、仁徳大王とは時期的にすこしずれます。 もっとも仁徳陵古墳はあくまでも伝承であり、古墳の主は本当はだれなのか確 定されていません。仁徳大王は実際に存在したことは間違いないのでしょうが、 古墳の主を確定するためには発掘が不可欠です。   つぎに武寧王陵の発掘品で注目されるのはクツや耳飾り、冠です。とくに 金銅製の飾履は熊本県にある江田船山古墳のそれとそっくりです。同じ工房で 作られた可能性が高いと思われます。   江田船山古墳の遺物は二期あるいは三期に分けられますが、朴天秀教授に よれば、初期遺物の舶載地は大伽耶であり、500年頃を境に後期の舶載地は百 済に変わったとのことでした(注5)。 <韓国の前方後円墳、倭韓交渉1>   このころになると対高句麗戦でいったん滅亡した百済もようやく立ち直り、 中興を迎えるのですが、その華やかな文物はヤマトのみならず九州や若狭など 倭の各地域にも伝えられたようでした。倭と百済との関係の深さをうかがわせ ます。 (注1)http://www.rekihaku.ac.jp/kodomo/5/tayori44.html (注2)荒木博之編『百済王族伝説の謎』三一書房,1998 (注3)吉井秀夫「武寧王陵の木棺」(韓国語)『百済斯麻王』国立公州博物   館,2001 (注4)韓国KBS1-TV,歴史SPECIAL,20020216 http://www.kbs.co.kr/history/vod.shtml (注5)朴天秀「三国・古墳時代における韓・日交渉」『渡来文化の波』和歌    山市立博物館、2001   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


于山国の歴史、『大日本史』1 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」2250 02/08/11   テレビでおなじみの水戸黄門が編纂を始めた『大日本史』ですが、この水 戸藩史料に鬱陵島はこう記載されました。  『大日本史』巻234,列伝5,高麗(注1)  <権大納言、藤原行成の日記によると、寛弘元年(1004)に高麗蕃徒である芋 陵島の人が因幡に漂流した。食糧などを与えて本国に帰したと本朝麗藻はいっ ている。  「高麗蕃徒」とは本朝麗藻による。「芋陵」とは朝鮮史書の東国通鑑による。 本書では芋陵を于陵とする。麗藻で芋陵としているのを正す。公任集では、新 羅の宇流麻(うるま)島の人が来たといっている。宇流麻はすなわち芋陵島で ある>   この時の高麗漂流民11人の中には「すこぶる詩篇を知っていた」人もい たようで、前大納言公任と詩篇のやりとりをしました。公任は別れを惜しんで 次の和歌を詠みました(注2)。   しらきのうるまの島人きて、ここのひとのいふ事を聞しらすときかせ給て、 かへりこと聞えさりける人に   おほつかな うるまの嶋の ひとなれや    我うらむるを しらすかほなる      かへし   はるかなる その嶋人の ことの葉を    あるとはみけむ 風の便りに   鬱陵島は日本で古くは新羅の宇流麻島、高麗の于陵島などと呼ばれていた ようでした。朝鮮史書の『東国通鑑』では芋陵島とありますが、この本は誤り の多い史料として知られていますので、芋陵島は于陵島を書き誤ったものと思 われます。しかし、東国通鑑は日本で水戸黄門により復刻され、江戸時代を通 して朝鮮史知識の源泉とされましたので、日本における資料価値は重要です。   さて、鬱陵島は『大日本史』志三「隠岐国四郡」にも記載されたようでし た。   RE:2232 & 2217  隠岐國・・・(隱州視聴合記、隱岐國圖、○属島一百七十九、總稱曰隱岐小 島、)別有松島、竹島屬之、(隱岐古記。隱岐紀行、○按自隱地郡福浦、至松 島海上六十九里、至竹島百里四町、韓人稱竹島曰鬱陵島、已曰竹島、曰松島、 爲我版圖、不待智者而知也、附以備考、)   すでに高麗の于陵島を認識していた『大日本史』は『隠岐古記』や『隠岐 紀行』を底本に、韓人が竹島を鬱陵島と称していると記す一方で、松島、竹島 を日本の版図にしたが、その事情を知る人がいないと記しました。   底本ですが、隠岐古記のほうは 1823年に編纂れた大西教保の『隠岐古記 集』と関連がありそうですが、そのものズバリではなさそうです。というのも 1823年というと、すでに「竹島一件」は片づき、竹島(鬱陵島)は鳥取藩や幕 府により朝鮮領と認識されていたので「我が版図と為す」という記述にマッチ しません。  『大日本史』は、1823年以前の「竹島渡海事業」がたけなわのころ、つまり 松島、竹島が日本領と思われていたころの古記や紀行を元にしたのかもしれま せん。   そうでなければ、あるいは『大日本史』は水戸藩の歴史書にしかすぎず、 幕府史料を入手できず、事情を知悉できなかったためかもしれません。そうで あれば「不待智者而知也」は当然です。   なお『隠岐古記集』は松島、竹島をこう記しました(注2)。そのなかで 竹島に朝鮮人が来住していると書かれているのが目をひきます。  「亥ノ方 四十余里にして松島あり 周り凡壱里程にして生木なき岩嶋という 又酉ノ方七十里余に竹嶋といひ伝ふ 竹木繁茂して大島の由 是より朝鮮を望め ば隠州より雲州を見るより尚近しと云 今は朝鮮人来住すと云と 愚諸国の船人 に問尋するに方角誠に然り・・・竹島は朝鮮の池山に懐かれ遠く望めば朝鮮地 と見ゆる由 愚按当国にて古より磯竹と云伝へあり 視聴合記に見へたり」   他方、『大日本史』における『隠州視聴合紀』(1667)の引用の仕方は注目 されます。同書は『隠州視聴合紀』や「隠岐國圖」をもとに隠岐の属島を17 9と記しているのですが、これと別に松島、竹島があると記述しました。これ はとりも直さず『隠州視聴合紀』の隠岐国に松島、竹島は含まれないというこ とになります。   斎藤豊仙の『隠州視聴合紀』(1667) は松島、竹島をこう記しました。  隠州在北海中故云隠岐島・・・戍亥間行二日一夜有松島 又一日程有竹島 俗 言磯竹島多竹魚海鹿・・・此二島無人之地 見高麗如自雲州望隠州 然則日本之 乾地 以此州為限矣。   もし『大日本史』が日本の限界である「此州」を隠州と読んでいるのなら、 松島、竹島を隠岐国の属島に含めないのは当然と思われます。これは思いがけ ない掘り出し物です (注1)『大日本史』巻234,列伝5,高麗 寛弘元年 高麗蕃徒芋陵島人漂至因幡(権記、高麗蕃徒拠本朝麗藻、芋陵拠東 国通鑑、○本書芋陵爲于陵、麗藻迂陵、今訂之、公任集云、新羅宇流麻島人至、 宇流麻島即芋陵島也)給資糧、回帰本国 本朝麗藻 (注2)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


于山国の歴史、『大日本史』2 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」2271 &2282 02/08/18   RE:2258 >勿論、隠州には属島の中に松島が存在する(現在も存在する)わけですから、 「別有松島、竹島屬之」の記述は、獨島や鬱陵島は隠州ではないと解読するこ とは自然です。  『大日本史』を自然に解読すると、竹島=独島や鬱陵島は『隠州視聴合紀』 では隠岐の国でないという意見なら私も賛成です。これをくわしく見るため 『大日本史』を下記に訳しました。( )内は原文において小さな字で書かれ ている一節ですが、おもに史料の引用や解釈が記されました。        -------------------- 『大日本史』巻308,志3、隠岐国4郡(注1)  隠岐の国、下、(延喜式、一に淤岐、あるいは意岐とする)。  また隱伎三子島という(古事記、案ずるに国は海中にあるゆえ名がついた。 邦をいうに、海洋でいう澳をなす。隠岐はすなわち澳である)。  およそ4島、分けて島前、島後という(隠州視聴合記、隠岐国図、属島は1 79で、総称して隠岐小島という)。  別に松島、竹島があり、これに属する(隠岐古記、隠岐紀行、案ずるに隠地 郡の福浦より松島に至るには海上69里、竹島に至るには100里4町である。 韓人は竹島を称して鬱陵島という。すでに竹島といい、松島といい、我が版図 となした。智者を待つが知れない。ついては、以て考えに備える)。        --------------------  『大日本史』は松島や、韓人が竹島と称する鬱陵島を「我が版図となした」 とありますが、これはいうまでもなく、それ以前は「我が版図ではなかった」 ことを意味します。   その時期ですが、上記の「別に松島、竹島があり、これに属する」という 文脈から考えると、『大日本史』は隠州視聴合記の段階では竹島、松島を隠岐 の属島179に含めず、その後の隠岐古記や隠岐紀行の段階で我が版図にした と見ているようです。   ただ『隠州視聴合紀』が書かれた1667年はすでに竹島渡海免許がださ れ、渡海事業が実際に行われていたので、この時期に松島、竹島を「我が版図 となした」としても不自然ではありません。   それにもかかわらずそのように解釈しなかったのは、やはり『大日本史』 が『隠州視聴合紀』に記載された日本の限界である「此州」を隠州と解釈し、 松島、竹島を日本領から除外していたからと思われます。 (注1)『大日本史』巻三百八,志三、隠岐國四郡     (ふりがなや返り点は省略) 隱岐國、下、(延喜式○一作淤岐、或意岐)、又曰隱伎三子島、(古事記○按 國在海中、故名、邦言謂海洋爲澳。隱岐即澳也)、 凡四島、分曰島前、島後、 (隱州視聴合記、隱岐國圖、○属島一百七十九、總稱曰隱岐小島)、別有松島、 竹島屬之、(隱岐古記。隱岐紀行、○按自隱地郡福浦、至松島海上六十九里、 至竹島百里四町、韓人稱竹島曰鬱陵島、已曰竹島、曰松島、爲我版圖、不待智 者而知也、附以備考) ・・・   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


『隠州視聴合紀』の読み方 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」#2295 02/08/24   RE:2294 >しかし、『大日本史』では「別有松島、竹島屬之」の根拠として『隠州視聴 合記』を挙げないのは不思議です。  『隠州視聴合紀』に松島、竹島の記述があることを『大日本史』は当然知っ ているはずなので「別に松島、竹島あり」という事実だけはもちろん承知して いたと思われます。その一方、『隠州視聴合紀』からは松島、竹島が「これ (隠岐国)に属する」という解釈はけっして生まれないので、べつに不思議は ありません。   もう一度『隠州視聴合紀』を見てみましょう(注1)。同書の書き方は、 隠州から南へ行くと雲州、東南へ行くと伯州、西南へ行くと石州、北や東は住 むべき土地がない、北西へ行くと松島、竹島があるという書き方になっていま す。すなわち、隠州の東西南北は隠州でないので、松島、竹島も隠州ではない という認識です。   話は飛びますが、両島が隠州に属さないということでは日本、韓国政府と もに見解が一致しているようです。それだからこそ、日本の北西の限りである 「此州」を隠州と読むのか(韓国側)、この島と読むのか(日本側)という論 争が生まれ両国で未解決になっています。松島、竹島が隠州に含まれるのなら、 このような論争はありえません。   したがって松島、竹島が「これ(隠岐国)に属する」という認識は『大日 本史』に書かれているように、隠岐古記や隠岐紀行から生まれたと見るべきで す。『大日本史』はそれらの史料から「松島、竹島を我が版図と為す」「これ (隠州)に属する」という認識をもったと思われます。   他方「我が版図」になったいきさつに関しては「智者を待つが知れない」 と『大日本史』は記しました。同書は、幕府のだした竹島(鬱陵島)渡海免許 を知らなかったようです。さらには竹島を放棄した幕府の命令も知らなかった ようです。地方人が書いた史書なのでやむを得ません。   結論をいえば『隠州視聴合紀』からは、隠州に属さない松島、竹島が「我 が版図」であるという認識は生まれなかったといえます。したがって『隠州視 聴合記』の解釈に関するかぎり韓国政府の主張に分がありそうです。   さりながら、同書における松島、竹島の領有意識がどうあれ、徳川幕府が 「竹島一件」で竹島(鬱陵島)を放棄した事実が重要なのであり、それ以前の 『隠州視聴合紀』の解釈はさして重要ではないと私は考えています。竹島放棄 により「松島、竹島は我が版図」という構図が崩壊したことが重要なのです。 (注1)斎藤豊仙 『隠州視聴合紀』(1667年) (『續々群書類従 第九』圖書刊行會,1906,P450より引用) 隠州視聴合紀 巻一   国代記  隠州在北海中故云隠岐島・・・従是 南至雲州美穂関三十五里 辰巳至伯州赤 碕浦四十里 未申至石州温泉津五十八里 自子至卯 無可往地 戍亥間行二日一夜 有松島 又一日程有竹島(俗言磯竹島 多竹魚海鹿)此二島無人之地 見高麗如自 雲岐(ママ)望隠岐(ママ) 然則日本之乾地 以此州為限矣   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


竹島=独島に関する国会図書館の調査 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」#2308 02/09/01 10:04 半月城   RE:2279, >当初参加したころはまたYahooのループにしか過ぎない無意味な議論ばかり と思っていましたが、最近はYahoo以上に意義と価値のあるトピになってきた のではないかと勝手に関心しております。   Yahoo!でおなじみの虎三氏がいつ現れてディベートを繰りひろげるのかな と気にとめていたのですが、かれは掲示板閉鎖にあたってもついに現れないよ うです。痛手でもこうむって再起できないのでしょうか?   かれに代表される「竹島=独島日本領派」は、明治政府が竹島を放棄した 事実をどうしても認めたがらず、必死で智恵をしぼり、島名混乱でまぎらせよ うとしたり、「松島伺い」などと捏造もどきまで持ちだしましたが、結局は行 きづまったようです。   今では、「竹島=独島日本領派」の研究者すら明治政府が竹島=独島を日 本の版図外にしたことを認めています。国会図書館の報告書は下記のように記 載しました。この文は虎三氏が現れたら、とどめに書こうと思っていたのです が、どうやらその機会はなさそうなのでここに記します。以下は原文のままで す(注)。        --------------------   以上要するに、島根県は“竹島(鬱陵島)”について内務省から照会を受 け、県としては地籍を編纂する方向で「竹島外一島」の地籍編纂方伺いを提出 し、内務省は“竹島”(鬱陵島)をめぐる元禄の記録に基づいて「竹島は本邦 無関係」であると考え、右大臣は「竹島外一島」が本邦無関係と指示した。   この結果、元禄の日朝交渉で松島(今日の竹島)が話題になったことはな く(前記3)、内務省が検討し右大臣への伺いに別紙として添付した日朝交渉 関係文書ももっぱら“竹島”(鬱陵島)に関するものであったにもかかわらず、 形式的には、松島(今日の竹島)もまた「本邦無関係」とされることになった のである。『公文録』所収の一件資料は、韓国側の竹島領有主張を支持する日 本人研究者によって紹介された。        --------------------   明治政府は、江戸時代に日朝交渉で話題にもならなかった松島(竹島=独 島)までもすすんで放棄したのは、松島は竹島(鬱陵島)の属島であるという 認識を強くもったからと思われます。   松島は松の木どころか木がほとんどない岩嶼もかかわらずそう呼ばれたの は、もちろん松、竹は一対をなすという風流心からですが、それくらい松島、 竹島は一対として強く認識されていたようでした。「名は体を表す」とはよく いったものです。   私は諸資料やホームページの善し悪しを判断する際、この竹島=独島放棄 をどう書いているかを重要なキーポイントにしています。日本の外交青書のよ うに明治の竹島=独島放棄を無視して「日本の固有領土」を主張し、ショービ ニズムをあおるような資料は論外です。   ときに風の助さんは将来HPを立ち上げる際、この一件をどう書くつもり ですか? (注)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号、国会図書 館,1996   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


竹島(鬱陵島)渡海事業1 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」#2329 02/09/07   1614年、朝鮮との竹島(鬱陵島)領有権論争に敗れた対馬藩は、1620年、 竹島へ渡航した磯竹弥左衛門を幕府の命により潜商すなわち密貿易のとがで捕 らえました。   こうした経緯から、前に書いたように幕府は竹島(鬱陵島)を「朝鮮國属 島」と断定する一方、朝鮮外交をまかされていた対馬藩は竹島渡航を公儀御法 度(ごはっと)と認識するようになりました。   それにもかかわらず幕府は1618年(あるいは1625年)鳥取藩を通じて「竹 島渡海免許」を米子の商人、大谷・村川両家に出しました。これは日露戦争当 時に出された中井養三郎の「竹島(独島)貸下願」をほうふつさせます。いず れも他国の領土と認識していたにもかかわらず、商人に許可した例でした。   竹島渡海事業ですが、これまでこれに関する説明がほとんどなかったので、 あらためてその概要を記します。        --------------------   竹島渡海は年に一度春から夏にかけての時期に行われ、大谷家・村川家は それぞれ船を仕立てて隔年で出漁した。その年の天候や海の状態によっては渡 海を断念することもあり、また竹島からの帰途に漂流して十分な漁獲物を持ち 帰ることができなかったりもした。   次第に漁獲高が減少するなか、天和2(1682)年からは両家共同で船を仕立 て、漁獲物を折半するという方法に変更された。   一方、出漁する前年冬には大谷・村川両家は鳥取藩から前借銀四貫五百目 の補助を受け、収穫した鮑(あわび)や海驢(あしか)油を上納することで借 銀を相殺した。   鳥取藩はそうして得た鮑を「竹島串鮑」と称して将軍家・幕府要職あてに 献上したが、とりわけ享保2(1685)年頃からはそうした献上回数も増加した。   このようにして、竹島(鬱陵島)における利権は大谷・村川両家によって 排他的に確保されていた(注)。        --------------------   当時の竹島(鬱陵島)は、倭寇を警戒する朝鮮政府により空島政策がしか れ無人島になっていました。そのため、竹島渡海事業は長い間何の支障もなく 行われました。   途中、村川船が竹島渡海後朝鮮に漂着したことがありました。1637年、こ の処理に対馬藩があたりましたが、その際、釜山にある倭館の対馬藩士は、日 本人の竹島渡海は「公儀御法度(ごはっと)」と承知していると述べており注 目されます(注)。   この発言の背景ですが、対馬藩は「竹島渡海免許」の存在をまったく知ら なかったのかも知れません。渡海免許は鳥取藩にくだされたので、対馬藩が知 らなくても当然と思われます。   もし、対馬藩が免許のことを知ってて外交上の方便でそう答えたとすれば、 対馬藩は幕府の渡海免許を朝鮮には通用しない理不尽なものと判断したのでし ょうか。   外交交渉ですが、朝鮮は対馬藩の<竹島渡海は公儀御法度>という回答に 満足したのか、それ以上追求することはなかったようでした。これが問題を後 に残しました。   鬱陵島は空島政策がしかれているとはいえ、朝鮮人が入島するケースが何 度もあり、そのたびに朝鮮政府はかれらを本土に連れ戻しました。したがって、 日本人が竹島(鬱陵島)で朝鮮人に遭遇するのは必然でした。   それが実際に生じました。1692年、鬱陵島で日朝漁民の衝突があり、ここ から「竹島一件」とよばれる外交交渉が日朝間で始まりました。これについて は掲示板の最初に書きましたが、その文をすこし訂正します。        --------------------   事件の発端は、一六九二(元禄五)年、幕府の渡海免許を受けて竹島(鬱 陵島)に出漁した大谷・村川家が同島で朝鮮人と遭遇したことから始まった。 このとき、日本側は人数のうえで劣勢だったので早々に引き揚げて鳥取藩に報 告した。この処理をめぐって鳥取藩から対処方法を問われた幕府は、すでに朝 鮮人が竹島から退去したとすれば「何の構えも無之」と回答をして、特に問題 にしなかった。   翌年、大谷・村川家が竹島へ行くとやはり朝鮮人が来島していた。そこで 二名の朝鮮人を米子へ連行して帰った。ひとりは後年、鬱陵島、子山島(于山 島)は朝鮮領であると訴えるため日本に乗り込んできた韓国の英雄、安龍福で あった。   報告をうけた鳥取藩は幕府に朝鮮人が来島しないよう朝鮮に申し入れをす ることを要請した。幕府は、対朝鮮交渉の窓口であった対馬藩の宗氏をつうじ て朝鮮人の竹島への出漁禁止を朝鮮に申し入れ、両国の領土をめぐる外交交渉 が本格的に始まった。        -------------------- (注1)池内敏「竹島一件の再検討-元禄六~九年の日朝交渉」『名古屋大学 文学部研究論集、史学47』2001   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


竹島(鬱陵島)渡海事業2 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」#2335 02/09/08   tyojinnさんは、大谷、村川両家が得た竹島(鬱陵島)渡海許可について 誤解しているようです。   RE:2328,tyojinnさん >1618年伯耆・因幡の鳥取藩を通じて幕府より朱印状(許可証)を拝領し た。   これは朱印状ではなく奉書です。この違いは重要とみえて、鳥取藩が竹島 渡海事業に関して幕府に提出した答弁書では、わざわざ渡海が御朱印ではなく 御奉書であることを強調しました(注)。  「右島江渡海付 御朱印は無御座候、松平新太郎 伯耆国領知の節、渡海の儀 付 被成御奉書候」   朱印状、奉書ともに「異国」へ渡航するに際し必要なことには変わりない のですが、竹島(鬱陵島)の場合、朱印状を発行できない事情がありました。 内藤氏はこう記しました。        --------------------   幕府公認の外国貿易には朱印状が交付されていたのが、当時の通例であ る・・・   もし竹島渡海について朱印状を発給するとすれば、朱印状の書式に即して、 「自日本 到朝鮮国 舟也」と記すことになるであろう。しかしそれでは、竹島 を朝鮮領と認めることになるし、朝鮮国へは対馬を経由して釜山にしか行けな いことになっているので、竹島行きを朝鮮側が承認するはずもない。したがっ て、竹島渡海についての朱印状は発給できなかったのである。   もともと異国への渡海を許可する朱印状は、渡航先は明記されているが、 宛先も渡航期限も示されないのが通例で、渡航が終わるごとに返却する一回限 りのものであった。   これに対して奉書船制度における奉書とは異国への渡海許可を記した老中 文書で海外に携行したものとされている。ただし宛先は海外に行く本人であっ て、竹島渡海免許のように鳥取藩主に宛てたのは異例としなければならない (注)。        --------------------   奉書も1回かぎりで、渡海ごとに申請する必要があったのですが、竹島の 場合、最初の奉書の写しだけしか発見されていません。2回目以降の奉書は存 在しなかったようです。   それに代わる名分が、1626年にはじまる大谷・村川両人の「公儀御目見」 だったようです。これは村川が旧知の阿部四郎五郎の仲介により寺社奉行へ申 し入れたものであり、この「お目見え」により、実質的に竹島渡海を引き続き 公儀公認とすることに成功したようでした。 (注)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


竹島(鬱陵島)渡海免許の背景 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」#2355 02/09/14   ここ数年間、私は竹島=独島の歴史に関して掲示板などで多くの人と議論 してきましたが、オリジナルがここ20年以内に出された学術論文をもとに私 に反論してきた日本領派の方は皆無だったように記憶しています。   いわば20年以上も時代遅れの面々と私は議論してきたことになります。 ここで学術論文とは、とりあえず引用文献を明記したものとしておきます。し たがって下條氏の著作などはこれに該当しませんし、またそれを引用した学術 論文も見当たらないようです。   しかし驚いたことに、何と最近の論文をもとに反論してきた方がここにあ らわれました。やっと同じ土俵の上に立つ人が登場したといえます。そこで時 代遅れのやりとりはそこそこにして、最新の研究に注目することにします。   RE:2351,バトルアックスさん >池内は松島渡海免許は存在しないと断言している・・・ >結局、池内の研究は松島が日本領であることは支持しても、外国領であると いうことは支持しませんね。   池内氏は、松島(竹島=独島)が日本領であることを支持しているわけで はありません。それは次回書くことにして、今回はその準備として池内氏が竹 島(鬱陵島)をどうみているのかをまず紹介します。        --------------------   慶長19(1614)年、朝鮮政府(東莱府)と対馬藩とのあいだで、朝鮮領であ る竹島(鬱陵島)への日本人渡航・入居が禁止事項であると確認された。   また元和6(1620)年には、竹島に居住していた鷺坂弥左衛門親子が幕命を 受けた対馬藩によって捕縛された。   さらに寛永14(1637)年に村川船が竹島渡海後に朝鮮半島へ漂着した際、倭 館の対馬藩士は、日本人の竹島渡海は「公儀御法度」と承知していると述べた。   したがって、現在の視点にたって文献資料を眺める限りでは、17世紀初 頭の江戸幕府・対馬藩はいずれも、竹島は日本人の渡航・居住が禁止された朝 鮮領であると確認していたこととなる。   にもかかわらず他方で幕府は寛永2(1625)年、鳥取藩主池田光政あてに 「竹島渡海免許」を発給し、大谷・村川両家は竹島およびその周辺海域の利権 を享受した(注1)。        --------------------   1620年当時の幕府が竹島(鬱陵島)を「竹島 朝鮮國属島」とみていたこ とは公式記録『通航一覧』から明らかです。それにもかかわらず幕府は竹島渡 海免許をだしました。なぜなのか疑問が残ります。その理由を池内氏はこう推 測しました。        --------------------   しかしながら幕府にあっては、そうした竹島渡海禁止の方針がきちんと継 承されなかった。寛永2年(あるいは元年)に「竹島渡海免許」なるものを発 給したのちは、幕府は敢えてその問題に踏み込まなかった。   渡海免許の更新をすることはなかったが、竹島渡海禁止方針にかかわる幕 閣の共通認識も公式見解ももたず、その一方で「竹島」の名を冠した珍品を献 上品として収めるなど、曖昧に対処しつづけた(注2)。        --------------------   元和6(1620)年、幕府は「竹島 朝鮮國属島」という認識をもち、そこへ渡 航した者は潜商であるとして罰していたはずなのに、その方針が変わったのは、 池内氏のいうように幕府の政策に一貫性がなかったからでしょうか?   なお、竹島渡海免許が出された年をこれまでの通説のように元和4(1618) 年とすると、渡海免許の背景に関して次のような塚本氏の見解も一見可能です。        --------------------   日本海にある鬱陵島は、新羅への帰服以来朝鮮領であったが、久しく無人 島となっていた。他方、我が国では16世紀以来同島を「磯竹島」「竹島」と 呼んでいた。   この“竹島”(鬱陵島)について徳川幕府は、元和4年5月16日(1618 年7月8日-明治5年までの年月日は陰暦のため西暦に一致しない)付けで、 それが朝鮮領であるとの認識がないまま、米子の大谷・村川両家に対し渡海免 許(独占的開発権というべきもの)を与えた(注3)。        --------------------   塚本氏は、幕府は竹島(鬱陵島)が朝鮮領であるという認識がなかったと 書いていますが、同氏は幕府の『通航一覧』を読んでいないのか、どうやら慶 長19(1614)年の竹島(鬱陵島)領有権論争を知らないようです。   さらに『通航一覧』に「竹島 朝鮮國属島」と書かれていることも知らな いようです。これらの事実を知っていたら「それが朝鮮領であるとの認識がな いまま」などとは書かなかったことでしょう。   さて、竹島渡海免許の出された年ですが、免許の写しには年号が入ってい ませんでした。通説の元和4(1618)年説は村川家の文書をもとにしており、当 初から信憑性はうすいものでした。   別な資料で、大谷家文書は免許を大獣院殿(徳川家光)の時代として「大 獣院殿御代、五十年以前、阿部四郎五郎様御取持を以 竹島拝領仕」と記しま した。家光が即位したのは1623年なので1618年の根拠はますますあやしくなり ます。   その資料に加えて、免許署名者の構成から考えてもやはり家光の時代と考 えるのが妥当なようです。署名者は永井信濃守、井上主計頭、土井大炊頭、酒 井雅楽頭の四人ですが、藤井譲治氏によれば元和4年当時、土井と酒井は年寄、 永井は御小姓番頭、井上は「奉公人に列す」という地位でした。   したがって、そうした4人が大名宛の文書に同時に署名するとは考えにく いところです。その4人が同時に書名可能なのは元和8(1622)年以降とされて いますので、私も藤井氏にしたがって免許の年を寛永2(1825)年あるいは元年 と考えることにします(注4)。 (注1)池内敏「竹島一件の再検討-元禄六~九年の日朝交渉」『名古屋大学   文学部研究論集、史学47』2001,P3 (注2)池内敏「竹島渡海と鳥取藩」『鳥取地域史研究』第1号,1999,P44 (注3)塚本孝「竹島領有権問題の経緯(第2版)」『調査と情報』第289   号、国立国会図書館,1996,P1 (注4)池内敏「竹島渡海と鳥取藩」『鳥取地域史研究』第1号,1999,P32   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


「松島(竹島=独島)渡海免許」 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」#2366 02/09/16   前回、私は「池内氏は、松島(竹島=独島)が日本領であることを支持し ているわけではありません」と断言しましたが、これにはもちろん根拠があり ます。   というのは、池内氏の研究態度は竹島=独島の領有問題にからめた評価を 避け、資料にもとづいて「竹島一件」を評価しようとする点にあるからです。 同氏はこう記しました。        --------------------  「竹島一件」に言及した論稿は少なからず存在するが、それらは例外なく現 在わが国でいう竹島の領有問題と絡めた議論の立て方となっている。   そのため、この元禄五年から同九年に到る日朝交渉の過程の理解について も、個別史実を評価する際に、現在わが国でいう竹島の領有問題と絡めた評価 が混じり込む傾向にある。   元禄期の「竹島一件」それ自体を考察対象とし、かつ史料に基づいて具体 的に掘り下げた論稿を見出すのは甚だ困難である(注1)。        --------------------   前回書いたように、池内氏はこうした立場で竹島(鬱陵島)について「現 在の視点にたって文献資料を眺める限りでは、17世紀初頭の江戸幕府・対馬 藩はいずれも、竹島は日本人の渡航・居住が禁止された朝鮮領であると確認し ていたこととなる」と記しました。   このような認識をもつ池内氏ですから、松島(竹島=独島)にいたっては バトルアックスさんがいうように「松島が日本領であることは支持しても、外 国領であるということは支持しません」などと受け取れる文を書くはずがない し、またそのような文は見当たりません。   池内氏はひたすら松島、竹島をめぐる史実の解明に努め、村川市兵衛や大 谷九右衛門の松島渡海の実態や、両者の利害関係を調整した旗本、阿部四郎五 郎の役割などを解明し、こう述べました。        --------------------   1640年代後半ないしは50年代はじめから、右史料(8)傍線部に見られる ような松島経営の展望を温めていた村川からすれば、たとえ単独であっても松 島渡海事業は行いたかったであろう。そして遅くとも明暦3(1657)年にはそれ を実行に移していた。   こうして村川単独による松島渡海の既成事実が進められていた以上、阿部 四郎五郎の存生中に老中から得たという内意(史料7b)は、松島渡海の新規許 可ではありえない。   また、「市兵衛殿・貴様(九右衛門のこと、半月城注)へ」交付した「証 文(史料7c)もまた同様に松島渡海の新規許可ではありえない。それらは「市 兵衛殿・貴様」両者へ交付されたものであったから、村川単独により既成事実 化された松島渡海を追認し、免許を与えるものともなりえない。先年渡してお いた「證文」どおりに「船御渡可被成」(史料7d)ともいうのだから、「内 意」にしろ証文にしろ、おそらくは村川が先行して進めていた単独での松島渡 海を刷新し、大谷・村川双方による渡海事業へと調整する内容をもつものでは なかっただろうか。大谷と村川の「談合」(史料5f)や「御相談」(史料7c) を重視したのはその点と関係する(注2)。        --------------------   竹島(鬱陵島)渡海免許が出された1625年ころは、まだ松島(竹島=独 島)の存在は知られなかったのか話題になりませんでしたが、1657年ころ、は じめて村川家が松島へ渡海するようになった後、同島への渡海をめぐって大谷 家と利害調整をする必要が生じました。   それを取りもったのが旗本、阿部四郎五郎ですが、同時にかれは松島渡海 に関して老中の「御内意」を得たようでした。これをふくらませて川上健三氏 は「松島渡海免許」なるものを創造したようですが、池内氏はこれに疑問を呈 しました。        --------------------   三代目大谷九右衛門は松島拝領と渡海について述べるものの、「寛永初年 竹島渡海免許」のごとき文書の存在については言及しない。   また、寛文6(1666)年、大谷船が朝鮮に漂着して対馬藩による所持品検査 がなされた際、「竹島渡海免許」は見いだされたが「松島渡海免許」なるもの は見当たらない。(川上説の、半月城注)発行からわずか10年を隔てない時 期に、大谷船はなぜゆえに免許を携行しなかったのだろうか(注2)。        --------------------   もし「松島渡海免許」が存在するなら大谷船はそれを当然携行すべきなの に、それがなかったということは最初から存在しなかったと考えるのが妥当で す。それを池内氏は文献考察からも上のような論理を組み立て、こう結論づけ ました。        --------------------   以上を要するに、「松島渡海免許」なるものは存在しないのである。万治 元年~寛文の交に現れた事態は新たな渡海免許発行ではなく、渡海をめぐる大 谷・村川両家の利害調整に過ぎなかった。   寛文六年(1666)、竹島渡海の帰りに漂流した大谷船が「寛永初年竹島渡海 免許」の写のみを携行し、松島渡海免許を携行しなかったのは蓋し当然であっ た。        --------------------   松島渡海に際して免許が出されず、老中の「御内意」で済まされたのは、 松島は「竹嶋渡海筋」にあたり、同島に対する認識が「竹嶋近所之小嶋」とか 「竹嶋之内松嶋」というもの、すなわち松島は竹島の属島と理解されたためだ ったと思われます。   また、実際に松島渡海も竹島への渡航がてらになされたようで、竹島あっ ての松島だったようでした。こうした属島意識のゆえに、幕府が竹島(鬱陵 島)放棄の際、外交書簡で松島についてふれなかったのにもかかわらず、のち の明治政府が竹島(鬱陵島)と同時に松島(竹島=独島)までも版図外とした のではないかと思われます。 (注1)池内敏「竹島一件の再検討-元禄六~九年の日朝交渉」『名古屋大学   文学部研究論集、史学47』2001,P62 (注2)池内敏「竹島渡海と鳥取藩」『鳥取地域史研究』第1号,1999 <史料8傍線部>  松島へ七八拾石之小舟遣、鉄砲ニ而ミち打申候ハ、小島之方ニ候間、竹島江  ミちにけさり、竹島之納所大分候ハンと市兵衛望申候 <史料7b>  来年より竹嶋之内松嶋へ貴様舟御渡之筈ニ御座候、先年四郎五郎 御老中へ  得御内意申候 <史料7c>  渡海之番年相定、市兵衛殿・貴様へ証文相渡し置候間、村川殿と御相談候而、  其証文次第ニ可被成候、市兵衛殿も貴様も其証文之通少しも御違背者有之間  敷儀と存候 <史料7d>  先年相渡し候證文ニ具可有御座候間、今以其通ニ舟御渡し可被成候 <史料5f>於然者互事六ヶ敷く無之様御談合可被成候   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


朝鮮の「竹島一件」対応 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」#2375 02/09/22   元禄時代、1692年、93年と2年つづけて日本、朝鮮双方の漁民が竹島(鬱 陵島)でハチあわせをしたことから、日本は対策に乗り出しました。幕府は対 馬藩をとおして、朝鮮漁民の竹島(蔚陵島=鬱陵島)出漁禁止を求めました。 外交交渉「竹島一件」の始まりでした。   これは朝鮮にとって鬱陵島を再検討するきっかけになりました。交渉の当 初、朝鮮政府は穏便に事を済ませようとして苦肉の策を弄しました。名目上 「竹島」と蔚陵島を別の島にして、蔚陵島を朝鮮領に「竹島」を日本領にする ことで解決をはかろうとしました。   しかし、蔚陵島を日本領にするのが目的であった対馬藩はこれに応じず、 朝鮮の書契から「弊境之蔚陵島」の文字を削除するよう強硬に求めました。そ れは朝鮮政府に弥縫策を許さず、抜本的な解決策を迫るものでした。その間の 朝鮮側の動きを韓国檀国大学の宋氏はこう記しました。        --------------------   対馬島主のこうした要求を顧みないで、政府内で一度穏健論が台頭したこ ともあった。その要求を聞き入れるというものであった。しかし次第に強硬論 が優勢になった。   そうして前述の書契を回収する代わりに、竹島すなわち鬱陵島は江原道蔚 珍県の属島に、従って朝鮮漁民が境界を犯すことはできず(ママ)、将来は日 本海沿民の鬱陵島往来を禁じる要旨の改作書契を送った(1694,粛宗20)。はじ めの書契に比べとても強硬な内容のものであった。   日本との鬱陵島紛糾は、政府担当者だけでなく一般人にも関心を呼び起こ したようである。たとえば、1694年(粛宗20)7月の前武兼宣伝官の成楚[王 行]の上疏がそうしたものであった。   彼は、鬱陵島が国家の要衝で土地が広く肥沃であるにもかかわらず久しく 見捨てられてきており、最近日本が思い切って「求居之計」を出しているので、 ここに僉・制両鎮を特設して日本人をして見下すことができないようにすべき であると主張した。   必然的に、政府でも問題になっていた鬱陵島備禦策について関心を持ち始 めていた。領議政(総理格、半月城注)の南九万が、三陟僉使を鬱陵島に派遣、 生活状態を調査して民戸を移住させ、鎮を設置することで日本に対備すべきと する建議をしたのがそれである。   南九万の建議により張漢相が三陟僉使に抜擢された。張漢相はこの年 (1694、粛宗20)9月19日、三陟を出発した。一行は別遣訳官(倭語訳官) の安慎徽を含み総勢150名で、騎船二隻、汲水船四隻が動員された。   張漢相一行は9月20日から10月3日までの13日のあいだで滞留して、 鬱陵島から10月6日三陟へ戻った。張漢相の鬱陵島審察については『粛宗実 録』にも記録されているが、「鬱陵島事績」により詳しく記されている。   張漢相は鬱陵島審察結果を、山川・道里を記して挿入した地図とともに政 府に報告した。その要旨は、倭人が往来した痕跡はあるが住んではいないこと、 海路が穏やかではなく日本が横占しても除防が難しいこと、土質から〓麦を植 えてきたこと等であった(注1)。        --------------------   対馬藩の要求は寝た子を起こすようなものでした。朝鮮政府に原則にそっ た対応策を強いることになりました。朝鮮政府は僉使(せんし)を鬱陵島調査 に派遣するなど本格的な対策に乗り出しました。   僉使とは各鎮台に属した従三品の武官職をさしますが、僉使が日本語の通 訳まで連れていったのは、日本人と遭遇した場合にそなえたためだったことは いうまでもありません。本腰を入れた対応でした。   そうした周到な準備のため、一行は150人もの大人数になったのですが、 それだけに熱意をもって使命にあたりました。一行は地図まで作成するなど綿 密な調査をしたようですが、ここで注目されることがあります。   一行は調査の過程で竹島=独島を望み見ることができたようでした。張漢 相はそれを「鬱陵島事績」に次のように記しました。        --------------------   東側五里ほどに一つの小さな島があるが、高大ではなく海長竹が一面に叢 生している。雨が晴れ霧の深い日、山には入って中峰に登ると南北の両峰が見 上げるばかりに高く向かい合っているがこれを三峰という。   西側を眺めると大関嶺のくねくねとした姿が見え東側を眺めると海の中に 一つの島がみえるがはるかに辰方(東南東方向、半月城注)に位置してその大 きさは蔚島の三分の一未満で(距離は)三百余里に過ぎない(注2)。        --------------------   東南東にある島までの距離を三百余里 120kmとしていますが、鬱陵島と竹 島=独島間の実際の距離は92kmです。しかし、日本の江戸時代の史料では40 里 160kmとされていますので、当時の水準ではこれくらいの誤差は当たり前と いえます。   一方、島の大きさは鬱陵島の1/3未満と書かれていますが、実際は 1/ 317なので、張漢相は竹島=独島をかなり大きく見ていたことになります。島 までの距離や島の大きさをどうやって推測したのか興味のあるところです。   島の大きさは違っても、東南東の方向というと竹島=独島しかないので 「鬱陵島事績」に記された島が竹島=独島であることはまちがいないようです。 これは『世宗実録』地理志の次の記述が正しかったことを示しているようです。 「于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見」 (注1)内藤浩之訳「宋炳基『朝鮮後期の鬱陵島経営』」『北東アジア文化研  究』第10号、鳥取女子短期大学北東アジア文化総合研究所,1999 (注2)張漢相「鬱陵島事績」、注1より引用  東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生於一面 霽〓捲之日 入山登中峯 則南北両峯 岌崇相面 此謂三峯也 西望大関嶺透〓之状 東望海中有一島 杳在 辰方 而其大未満蔚島三分之一 不過三百余里   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


朝鮮政府の松島(竹島=独島)認識 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」#2381 02/09/23   朝鮮政府は『新増東国輿地勝覧』(1531)にみられるように、東海には鬱陵 島と于山島の二島があると認識していました。そして朝鮮領の鬱陵島は日本名 が磯竹島、あるいは竹島であるという認識が「竹島一件」交渉過程において日 朝双方で確立しました。   一方、松島(竹島=独島)のほうはどうでしょうか。松島の名が記された 朝鮮の文献は柳馨遠の「輿地志」(1656)が初出のようです。ただし、この本は 現存しません。それを引用した本に『疆界考』と『東国文献備考』の「輿地考」 があります。『疆界考』も「輿地考」も申景濬が編纂しました。  『疆界考』(1756)は朝鮮歴代国家の領域を中心に記したもので、筆写本が高 麗大学図書館にあるようです。一方『東国文献備考』(1770)ですが、これは王 命により編纂された百科全書風の文献で文物や制度を解説したものでした。資 料価値が高い文献です。   この本も現存しませんが、これを増補、出版した『増補文献備考』(1908) は日本の国会図書館にもあります。この本は増補した部分が明確にされていま すが、「輿地志」于山島条は増補した部分には入っていません。したがって、 于山島を引用した部分はオリジナルである『東国文献備考』当時の記述のまま ではないかと思われます。そこに松島はこう記されました。  「輿地志がいうには、鬱陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいう ところの松島である(注1)」   この認識は「輿地志」(1656)の見方であると同時に、『増補文献備考』が 発刊された1908年当時の認識でもあるといえます。   次に松島が朝鮮の史料に登場したのは「竹島一件」のころでした。この時 期は前に書いたように、張漢相「鬱陵島事績」で東海にある二島の認識が確定 すると同時に、日本へ抗議のため渡航した安龍福の証言などもあって、実見者 による地理上の知識が豊富になった時期でした。   記録上の松島ですが、安龍福の証言をそのまま掲載する形で『粛宗実録』 に記され、粛宗22年9月戊寅条に「松島即子山島 此亦我國地」と書かれま した。なお、安の証言は基本的には手柄話なので、細部までそれをそっくり事 実とみなすわけにはいきません。内藤氏がいうように十分な検証が必要です (注2)。   それはさておき、隠岐の沖合には二島しかなく、その朝鮮名が鬱陵島、于 山島、日本名が竹島、松島であり、しかも竹島が鬱陵島ということになると于 山島は必然的に松島になります。   日本でも当然そのように理解されました。1696年、渡日した安龍福の船が 掲げた船験「朝鬱兩島監税將 臣 安同知騎」の意味を鳥取藩ではこう理解しま した(注2)。< >内は小さな字で書かれていたことを示します。     「朝鬱両島ハ鬱陵島<日本ニテ是ヲ竹島ト称ス>子山島<日本ニテ松島ト呼 フ>是ナリ、其トキノ船長ヲ安同知ト呼フ」。   なお、当時の幕府は松島を認識していなかったので、幕府の理解は問題外 です。こうした事情が明治政府による竹島、松島放棄(1877)につながったこと はいうまでもありません。   朝鮮のほうでは、これ以後、松島=于山島という認識がすっかり定着した ようで、宋炳基氏はこう記しました。        --------------------  「東国文献備考」に続いて19世紀はじめ(1808・純祖8年頃)には王命に より『萬機要覧』が編纂された。そしてその軍政編4,海防東海条には『増補 文献備考』に載せられた「東国文献備考」蔚珍条の附録記事、すなわち鬱陵 島・于山島の位置と沿革、鬱陵島領有権紛糾、安龍福渡日事件等を加減無くそ のまま転載している。   これは、于山島は朝鮮領で日本側から呼ばれる松島というのは「東国文献 備考」の見解を『萬機要覧』でもそのまま継承使用していたことを意味してい るのである。『萬機要覧』は国王が座右に置いて参考にする目的で編纂された 政務指針書であった(注3)。        --------------------   結局「竹島一件」でいやおうなく対応を迫られた朝鮮政府は、それ以降、 朝鮮領の鬱陵島は日本名の竹島、同じく朝鮮領の于山島は日本名の松島である と確信するようになったのでした。   一方、日本では「竹島一件」以降の徳川幕府も、日露戦争以前の明治政府 も竹島(鬱陵島)、松島(竹島=独島)に領有意識をもったことは一度もなか ったのでした。その間、両国政府間に領土をめぐる意見の相違は存在しなかっ たといえます。 (注1)『増補文献備考』巻之三十一「輿地考十九」蔚珍古縣浦条  「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」 (注2)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000 (注3)内藤浩之訳「宋炳基『朝鮮後期の鬱陵島経営』」『北東アジア文化研  究』第10号、鳥取女子短期大学北東アジア文化総合研究所,1999   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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