半月城通信
No.102(2004.5.1)

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  1. 愼教授の獨島問答(3)、明治時代の経緯
  2. 靖国神社と陵遅処斬
  3. 韓国の前方後円墳、国学院大シンポジウム
  4. 『日本書紀』の誤読
  5. 東の「海のシルクロード」と新羅商人
  6. 新羅は「草原の道」の終着点?
  7. 現代の秘境、38度線の写真展


愼纛教授の獨島百問百答(3)、明治時代の経緯 Q41.(朝鮮国 交際始末 内探書)   近代に入り、明治政府は鬱陵島と獨島を継続して朝鮮領とみなしたのか? 明治政府は最初から「征韓論」を採択したが、かれらも鬱陵島と獨島を朝鮮領 と認定したのか? ANS.明治政府も鬱陵島と獨島を朝鮮領と認定した。その証拠に1869-1870 年の「朝鮮国 交際始末 内探書」というのが『日本外交文書』第3巻に収録さ れている。   1868年1月、日本ではサムライたちが政変を起こし、徳川幕府を打倒し、 中央集権的王政をふたたび興して明治政府を樹立したが、明治政府の外務省は 新政府樹立直後の1869年12月、朝鮮国との国交拡大再開と「征韓」の可能性を 内探するために外務省 高位官吏である佐田白茅、森山茂、齋藤栄などを釜山 に派遣した。   このとき外務省は内探すべき14項目を作成し、国家最高機関である太政 官(総理大臣府)に送り許可を受けたが、そのひとつに「竹島(鬱陵島)と松 島(獨島)が朝鮮付属になっている始末」を内探せよとの指示事項があった。   明治政府外務省と太政官は「鬱陵島(竹島)と獨島(松島)が朝鮮付属に なっていること」を明瞭に認知していたのである。   佐田白茅など日本外務省の高位官吏たちが釜山の草梁(倭館)に滞留し情 報と資料を入手したが、翌1870年4月に帰国し、外務大臣と太政官に調査結果 報告書を提出したのがいわゆる「朝鮮国 交際始末 内探書」であった。   この報告書は報告項目のひとつに「鬱陵島(竹島)と獨島(松島)が朝鮮 付属になっている始末」という項目を設置し、獨島(松島)は鬱陵島の隣島 (となりの島)で、二島ともに人の住まない無人島であると指摘し、さらに多 く産出する物産の名をあげて報告した。   この「朝鮮国 交際始末 内探書」は、日本外務省が日帝強占期に刊行した 「日本外交文書」第3巻に収録されている。この外交文書を刊行した時期は、 日本帝国が敗北するのを予期していない時期である。「日本外交文書」は重要 な古文書であり、この日本公文書に「鬱陵島(竹島)と獨島(松島)が朝鮮付 属領」であることを認知して記録したのは獨島が韓国領であることを明確に証 明する決定的な日本側資料のひとつであると見ることができる。   なかでも注目すべきは、日本政府の征韓論者たちが韓国侵略・征服に血眼 になって当時、無人島である鬱陵島と獨島を侵奪する野欲をいだいて秘密裏に 内探、情報収集を開始した事実である。 コメント:「朝鮮国 交際始末 内探書」の原文および読みくだし文は下記にあ ります。 <明治時代における松島、竹島放棄> <明治政府の内探書> Q42.(内務省伺)   日本の領土を管理する責任部署の日本内務省も獨島と鬱陵島を朝鮮領と認 知したのか? ANS.日本の内務省も獨島と鬱陵島を朝鮮領と確実に認知した。日本の内務 省(内務大臣 大久保利通)は 1876年(明治9年)日本の国土の地籍を調査し て近代的な地図を編制する事業に臨み、島根県の地理担当責任者から東海にあ る竹島(鬱陵島)と松島(獨島)を島根県の地図に含めるのか抜くのかという 伺書を 1876年10月16日付の公文書として受けつけた。   日本の内務省は、約5か月かけて島根県が提出した付属文書のみならず、 朝鮮の粛宗年間(日本の元禄年間)に安龍福事件を契機に朝鮮と交渉した関係 文書を精緻に調査した後、鬱陵島(竹島)と獨島(松島)は朝鮮領であり、日 本と関係ない地であるという結論をだした。   日本内務省はそのように結論をだしたが、領土を地図に入れたり抜いたり することは領有権に関連した重大事であるので、内務省単独で最終決定をだす ことはできず、国家最高機関である太政官(総理大臣府、右大臣 岩倉具視) の最終決定を受けるべきだと判断して、1877年(明治10年)3月17日、伺書 (質問書)を付属文書とともに太政官に提出した。   日本の内務大臣代理が太政官 右大臣に提出した伺書の要旨は、 (1) 竹島(鬱陵島)とその外の一島の地籍編纂に対してその所属管轄問題で島 根県から内務省に伺書がきたが、 (2) 内務省が島根県に提出した書類と1693年、朝鮮人(安龍福・・・原引用 者)が日本に入って以後に朝鮮とやりとりした往復文書を調査した結果、 (3) 内務省の意見は竹島(鬱陵島)とその外の一島は日本と関係ない所である と(朝鮮領であると)結論を出したが、 (4) 地籍を調査して日本国の版図に入れるか抜くかは重大な事件であるので太 政官の最終決定を要請する、というものであった。   これとともに、日本の内務省は朝鮮粛宗年間(日本の元禄年間)に朝鮮と 往復した文書を添付して「竹島外一島」の一島がまさに「松島(獨島)」を指 すことを説明する文書を添付した。  「次に一島あり、松島と呼ぶ。周回は30町ばかりで、竹島(鬱陵島、原引用 者)と同一線路に在る。隠岐を隔てる80里ばかりである。樹竹は稀である。魚 獣を産する」   すなわち、日本の内務省が1696年1月の徳川幕府将軍の鬱陵島(竹島)・ 獨島(松島)を朝鮮領に再確認し決定したときの文書を筆写し整理して太政官 に提出した伺書の付属文書で「次に一島あり、松島と呼ぶ」として、「その外 一島」が松島(獨島)であることを明確にしているのである。   日本の内務省は約5か月間の再調査結果「鬱陵島(竹島)とその外の一島 である獨島(于山島:松島)」は日本と関係のない所であり、朝鮮領と判断、 決定したのである。   しかし、領土に対する取捨選択は重大な問題であるので、その最終決定を 国家最高機関である太政官に要請したのである。 コメント:上記の主張を「竹島日本領派」の研究者もほぼ認めていることは下 記に書いたとおりです。 <「竹島日本領派」の松島(竹島=独島)放棄への対応> Q43.(太政官指令)   しからば、当時の日本の最高機関である太政官(総理大臣府)は鬱陵島と 獨島をどの国の領土と判定したのか? ANS.太政官ではこれ(内務省からの伺書、半月城注)を検討し、鬱陵島と その外一島の獨島(松島)は内務省の判断のように、やはり日本とはなんら関 係がなく、朝鮮領と判定して最終結論をだした。   太政官(右大臣・岩倉具視)は内務省の伺書を受けて検討した後、調査局 長の起案にて 1877年3月20日「伺いの趣である竹島(鬱陵島)外一島(松 島)の件は本邦(日本)と関係がないと心得ること」という指令文を作成し、 これを最終決定した。   日本の最高国家機関である太政官は最終決定であるこの指令文を 1877年 3月29日、正式に内務省に送り、指令手続きを完了した。日本の内務省はこの 指令文を1877年4月29日付で島根県に送り、現地でもこの問題を完全に終結し た。   日本の明治政府の最高国家機関である太政官は 1877年3月29日付で「鬱 陵島と獨島は日本領とは関係ない地であり、朝鮮領土である」と最終決定した 指令文を再確認して公文書で内務省と島根県に送ったのである。   当時、鬱陵島・獨島が朝鮮領であり日本領ではないという 1877年3月29 日付の日本最高国家機関の最終決定は、それに先立つ徳川幕府将軍が1696年1 月28日にくだした決定と同様に画期的なものであった。   明治維新当時、日本の最高国家機関である太政官が鬱陵島、獨島は朝鮮領 であり日本領ではないという要旨の決定をくだし、内務省と島根県に公文書を 指令したことは「獨島が韓国領である」という真実を日本側資料が再確認する 決定的な資料であり、今日の日本政府がごり押しをして、獨島が日本領である という主張の虚構性をよく証明する決定的な日本の公文書であるといえる。 コメント.   明治政府の国家最高機関である太政官の指令や、その際に審査した内務省 からの伺書ならびに島根県からの伺書などの原文や読み下し文などは下記サイ トに書いたとおりです。ahirutousagi2 さんが探していた付属文書の原文も下 記にあります。   内務省は「版図の取捨は国家の重大事」と認識して太政官に伺書を提出し ましたが、太政官はその趣旨を認識したうえで竹島(鬱陵島)、松島(竹島= 独島)を放棄しました。決して安易な判断がくだされたわけではありません。 この重大決定は徳川幕府の判断を引き継いでなされましたが、その慎重な判断 の過程は下記の資料から跡づけられます。   ところで ahirutousagi2さんは、明治政府が竹島(鬱陵島)、松島(竹島 =独島)を放棄した事実を認めるのでしょうか? <太政大臣の竹島=独島放棄> <内務省「竹島外一島」伺い書> <内務省「竹島外一島」伺い書(2)> <島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書> <島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2)> <島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(3)> 愼教授の獨島問答 Q44, 日本海軍省の認識 Yahoo!掲示板「竹島」#2793 2003/12/28 Q44.(日本海軍の認識)   そうであれば、当時の日本海軍は「獨島」をどの国の領土とみなしたのか? ANS.もちろん日本の軍部も獨島を朝鮮領とみなした。   日本の陸軍省参謀局は1875年(明治8年)に「朝鮮全図」を編纂したが、 鬱陵島(竹島)とともに獨島(于山島:松島)を朝鮮領として表示した。日本 陸軍のこのような観点は20世紀にも継続された。   たとえば、1936年、日本の陸軍参謀本部陸地測量部は日本帝国の支配領土 を元来の併呑区域別に区分けして表示した「地圖区域一覧圖」を発刊したが、 この地図にて獨島を鬱陵島とともに「朝鮮区域」に表示した。   この地図は日帝の敗亡(1945年)後、連合国最高司令部が日本帝国を解体 して併呑した領土を元の主に帰すとき、獨島が韓国に返還されるときに重要な 役割をした日本側根拠資料のひとつとして連合国最高司令部により使用された。   日本海軍も獨島を朝鮮領と判断した。日本海軍省水路局は英国、ロシアな ど西洋の船舶が調査・測量した資料を翻案、編集し1876年に「朝鮮東海岸圖」 を編纂したが、獨島を鬱陵島とともに「朝鮮東海岸」に含めて朝鮮領と表示し た。   また、ロシアの軍艦が「獨島」を3.5マイル真北の方向から描いた獨島の スケッチ、北西10度方向5マイルの距離で描いた獨島のスケッチ、北西61度方 向14マイルの距離にて描いたスケッチを「日本西北海岸圖」に入れず、無理に 空間を広げて「朝鮮東海岸圖」に入れ、獨島が「朝鮮領」であることを明確に 表示した。   日本の海軍省はその後 1877年「朝鮮東海岸圖」の再版をだすときも同じ 方式で獨島を朝鮮領に表示した。その後も版が重ねられたが、日本海軍省の 「朝鮮東海岸圖」のあらゆる版本は1905年まで獨島を朝鮮領に表示した。   また、日本の海軍省は 1886年に世界の水路誌である『寰瀛水路誌』を編 纂したが、獨島を「リアンクール岩」という名で「朝鮮東岸」に収録した。ま た、日本海軍省は1889年に『寰瀛水路誌』編纂を中断し、これを『日本水路 誌』『朝鮮水路誌』など国家領土別に分類して編纂し始めた。   このとき「獨島(リアンクール岩)」を『日本水路誌』と『朝鮮水路誌』 のどちらに入れたのかをみれば日本海軍の判断と決定を知ることができる。こ のとき、海軍省は「獨島(リアンクール岩)を『朝鮮水路誌』だけに入れ『日 本水路誌』には入れなかったのであり、「獨島(リアンクール岩)」を朝鮮領 として表示した。日本海軍は明らかに「獨島」を朝鮮領とみなして判定したの であった。 コメント1:連合国総司令部(GHQ)は、1946年1月、GHQ指令「若干の 外郭地域の日本からの政治上および行政上の分離に関する連合国総司令部覚書 (SCAPIN第677号)」を発し、竹島=独島などを日本から分離する地域と規定 した。   これは最終的決定ではないとされたが、この指令以降、竹島=独島の所属 に関する明示的な国際的取り決めは存在しない。とくに、サンフランシスコ条 約では竹島=独島に関して一言半句の記述もない。 コメント2.ahirutousagi2さんは #2716において、<政府はもとより「ホル 子ツトロツクス」は日本と考えており>と書き、外務省の一局長の考えと日本 政府の考えを一緒くたにしているようです。   しかし、当時において海の国境を明確化するのが海軍の仕事であったので、 海軍の考えこそが日本政府の代表ともいうべき性格をもちます。その海軍がリ アンクール岩を朝鮮領と考えていたのは愼纛氏が指摘しているとおりです。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 愼教授の獨島問答 Q45, 日本水路誌 Yahoo!掲示板「竹島」#2794 2003/12/28 Q45.(日本水路誌)   今日、日本政府は「水路誌」は超国家的に「水路」を説明するもので あり、国家別領土にたいする意味はないと反駁しているが、これは事実か?  でなければ「水路誌」も領土の概念を包含しているのか? ANS.「水路誌」の前に接頭語である「国家の名称」があり、領土の概念を 包含している。たとえば、日本海軍省の水路局は、朝鮮が独立国家であったと きには『朝鮮水路誌』を別に編纂し、朝鮮領土の水路はこれに含まれたが、朝 鮮が1910年に日本の植民地になるや『朝鮮水路誌』の発行を中断した。   そして1911年からは「朝鮮」を別に『日本水路誌』第6巻に編纂し、その 理由を「この本は朝鮮全岸の水路として明治43年(1910)朝鮮をわが帝国に併 合したために題目を『日本水路誌』第6巻として刊行する」と序文に書いた。 水路誌が国家別領土概念を包含したのを確認することができる。   日本の海軍省は「獨島(リアンクール岩)」を1905年2月以前までは常に 朝鮮領とみなし『朝鮮水路誌』に入れ「朝鮮地図」に入れたのであり、『日本 水路誌』には入れなかった。   日本の海軍省が獨島を『日本水路誌』に初めて含めたのは、日帝が1905年 2月獨島を大韓帝国政府に知られないように侵奪し、島根県に編入した後で あった。日本の海軍省は1907年の『日本水路誌』第4巻の海図にて隠岐島北方 に初めて小さな点を書き入れ、獨島を表示し始めた。  『朝鮮水路誌』に獨島を含めたこととその表示説明は、日本海軍が獨島を朝 鮮領土と見なした事実を如実に証明している。 コメント.水路の調査や、海の国境を明確化する作業は海軍省が担当しました。 したがって海軍省は離島の国家所属を厳格に認識していました。   そうした任務をもっている海軍が作成した『日本水路誌』や『朝鮮水路 誌』は、洋上の島がどこの国に所属するのかに関して厳密に表記されていたよ うです。   つぎに ahirutousagi2さんがこだわる外務省の渡辺局長ですが、ひとり< 「ホル子ツトロツクス」の我国に属するは各国の地図皆然り>と書きましたが、 そのような「各国の地図」が存在しないことはいうまでもありません。さらに、 Am_I_AHO_1stさんが書いているように、自国の領土は外国の地図で決まるもの でもないので、領土問題において当該国以外の地図は無用です。   なお、海軍が水路の測量を担当するようになった歴史は下記に書いたとお りです。 <江戸、明治時代の官撰図>   民部省と同時に設けられた兵部省は、五年(1872)二月に陸軍省と海軍省に 分置され、海軍は水路の測量を、陸軍は陸地測量を行い、ともに国防上の観点 から国用地図の作成に任じ、参謀本部測量局は全国を覆う基本図として、十三 年(1880)から関東地方二万分の一迅速測図の作製に着手し、内務省地理局の統 合を得て二万分の一正式地形図の作製が始められた。 愼教授の獨島問答 Q46, 島名の混乱 Yahoo!掲示板「竹島」#2803 2004/ 1/ 4 Q46.(島名の混乱)   この時、日本の海軍はなぜ「獨島(于山島)」を「松島」と表示せず「リ アンクール岩」と表示したのか? なぜ日本は最初は「鬱陵島」を「竹島」と 呼んだが、獨島を「リアンクール岩」と表示するときから「鬱陵島」を「松 島」と呼ぶようになったのか? 「竹島」という日本の表示は消えたのか? ANS.日本では 1878-1880年に「鬱陵島」と「獨島」の呼称に大混乱と変動 があった。日本では 1876年に武藤平學という人が東海に朝鮮の「鬱陵島」で なく自然資源が豊富な新しい島を発見したと騒ぎたて、外務省に「松島開拓之 議」すなわち松島開拓願いを提出した。   当時、日本の外務省は朝鮮の鬱陵島を「竹島」、朝鮮の「于山島(獨島)」 を「松島」と呼び、「竹島(鬱陵島)」と「松島(獨島)」をみな朝鮮領土と 確認し、その中で「松島(獨島)」は朝鮮の小さな岩の島にすぎないとみていた。   しかるに自然の条件が豊饒で人が数千名も住むことができる新島を発見し たということで「松島開拓」を願いでてくるや、海軍省にその実測調査を依頼 した。   日本の海軍省は「朝・日修好条規」(1876年)にて得た利権である朝鮮海 岸測量権に依拠して天城丸という軍艦を派遣して 1878年4月と 1890年9月 「松島」の実態を二度も実測調査した。   しかし、新たに発見したというその「松島」は他でもない朝鮮の鬱陵島で あった。日本海軍は「松島開拓」という名目で莫大な予算を使用し、また日本 海軍の軍艦を初めて「松島」実測調査に投入したのであった。   その結果、日本海軍は「松島」が朝鮮の「鬱陵島」と判明し、武藤の「松 島開拓之議」を却下した後にも、朝鮮の鬱陵島を新たに「松島」と呼び始めた。   その間、日本人と日本海軍は朝鮮の于山島(獨島)を「松島」と呼んでき た。しかし「松島」が朝鮮の「鬱陵島」に名づけられたので、朝鮮の于山島 (獨島)にフランス捕鯨船がつけた名である "Liancour Rocks"をとり、獨島 (于山島)を「リアンクール岩」と呼び『朝鮮水路誌』にもそのように表示し 始めた。   そうなると、海軍省水路局に大きく依存する日本漁民たちも次第に海軍省 の呼称にしたがうようになり、1880年代からは日本では朝鮮の「于山島(獨 島)」を「リアンクール岩」に、「鬱陵島」を「松島」と呼称するようになっ た。   しかるに日本漁夫たちは「リアンクール岩」が長く呼びづらいので、これ を「リャンコ島」と略称した。従来、日本人が「鬱陵島」につけた「竹島」は 消え去り、とんでもないことに 1905年1月28日、日本の内閣会議では朝鮮の 「于山島(獨島)」に「竹島」という日本の呼称をつけたのであった。 コメント:島名の混乱 Yahoo!掲示板「竹島」#2804 2004/ 1/ 4   半月城です。 獨島問答 Q46(島名の混乱)にかんするコメントをここに記すことにします。   1876(明治9)年10月、島根県から内務省に松島、竹島の所属を質問する 「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」が提出されました。   そのわずか3か月前、ロシアのウラジオストック在留の青森県士族・武藤 平学は、鬱陵島の材木伐採や鉱山開発などの計画をたて、外務省に「松島開拓 之議」を提出しました。外務省における島名混乱の始まりです。ここにいう松 島は鬱陵島をさしますが、これは欧米系の誤謬地図に惑わされた結果でした。   武藤の「松島開拓之議」を知った児玉貞易は同じ月に、斉藤七郎兵衛は翌 年に相次いでウラジオストックの日本領事館に「松島開拓願」を提出しました。 また、さらにその翌年には下村輪八郎が「松島開拓願」を提出しました。   これら外務省の動きとは別に 1877年3月、太政官は松島、竹島を放棄し ましたが、その2か月前に島根県士族の戸田敬義は「竹島渡海願」を東京府に 申請しました。ここで戸田がいう竹島ですが、願書のなかで米子町人による竹 島渡海事業や石見国浜田の会津屋八右衛門の密航などにもふれ「徳川氏執権之 時ハ殊ニ厳禁之海路」と書いてあるので、竹島は従来の呼び名のとおり鬱陵島 をさしていました。   この申請を受けた知事は、中央政府に照会するまでもなく「書面竹島渡航 願之儀 難聞届候事」とすげなく却下しました。竹島は朝鮮領の鬱陵島である と認識していたためと思われます。   さて、前記「松島」開拓願いを受けた外務省は、松島なる島がはたしてど こにあるのかをめぐって混乱しました。開拓願いの松島は当時の外務省の松島 認識とことなっていたためです。当時、松島、竹島にかんする外務省の代表的 な認識はおおむね次のとおりでした。( )内は代表的な意見の持ち主です。 古来の竹島:デラセ(ダジュレー)島(渡辺)、鬱陵島(渡辺) 古来の松島:ホーネットロックス(渡辺、坂田)、于山島(田辺)   混乱をおさめるべく、外務省の記録局長・渡辺洪基は島根県に松島を照会 するとともに、艦船を派遣して調査することを提案しました。渡辺は島根県令 からの回答や内外の資料を調査して下記のように推論しました(注1)。 (1) 古来わが国で「竹島」と称したのは、朝鮮の鬱陵島のことである。 (2) デラセ島(ダジュレー島)を松島としているが、それは本来の竹島であり、  鬱陵島である。 (3) わが国で古来松島としているのは、ホルネットロックス(ホーネット・  ロックス)のことである。 (4) ヨーロッパ人は、古来の竹島を松島となし、さらに烏有の島(アルゴナウ  ト島)に対し竹島を想起したもののごとくである。   烏有とは存在しないという意味ですが、渡辺は松島、竹島=独島の実状を ほぼ正しく把握していたようでした。しかし、渡辺は (5) ホルネットロックス(古来の松島)がわが国に属していることは、各国の  いずれの地図も一致している   としましたが、そのような地図が存在しないことはすでに記したとおりで す。ちなみに渡辺がそのように断定した根拠は、英仏の地図において対馬や竹 島 松島を朝鮮領と同色で塗っているが、対馬が日本領なので、対馬と同じ色 の竹島 松島も日本領であるべきで、日本色に塗り直すべきである、また、島 名に松島 竹島という日本語が使われているから「暗に日本所属」というもの で、思わず噴きだしてしまうような珍説です。 <外務省内の「竹島・松島」島名混乱と結論>   一方、艦船を派遣して「松島」を調査する案ですが、これにたいし同省の 公信局長・田辺太一は他国を測量するのは外交上好ましくないとしてこう反対 しました。  「いま、理由もなく人を派遣して松島を巡視する、これは他人の宝を数える というものである。いわんや、隣境を侵越するするようなもので、日本と韓国 との交わりがその緒についたといっても、猜疑や嫌悪がまだまったく除かれて いないとき、このように一挙に再び隙間を開くことは外交官のもっとも忌み嫌 うところである」   ちなみに田辺の考えは、開拓願いの「松島」は鬱陵島であり、江戸時代の 外交交渉で朝鮮領であると確定したと記すとともに、古来の松島は鬱陵島に属 する于山であると理解し、松島開拓願いに反対意見の付箋をつけました。田辺 は下記のように記しました。  「聞く、松島はわが邦人の命じた名前で、じつは朝鮮鬱陵島に属する于山で ある。于山が朝鮮に属するのは、旧政府(江戸幕府)のとき、葛藤を生じ、文 書を往復した末に、永く公文書で我々は有しないと約束、記載した両国の史書 にある」   鬱陵島(開拓願いの松島)、于山島(古来の松島)をともに朝鮮領である と理解しました。   以上のように外務省は隠岐の沖合にある二島をおおむね正しく把握してい たのですが、しかしだれもそれに確信がもてないままでした。そのため結局は 一時保留になっていた「松島」の調査を1880年に軍艦・天城を用いて実施する ことになりました。   軍艦・天城は、開拓願いの「松島」東岸近辺を測量し、その付近で目につ いた小島の竹嶼や北亭嶼を含めた地図を作成し水路報告としました(注2)。 その報告書をもとに当時の外務省取調官・北澤正誠はこう結論づけました。  「松島は鬱陵島にして、その他竹島なる者は一個の岩石たるに過ぎざるを知 り、事始て了然たり。然るときは今日の松島は即ち元禄十二年称する所の竹島 にして、古来我版図外の地たるや知るべし(注3)」   北澤は、開拓願いの松島はやはり江戸時代の竹島であり、日本の版図外で あると正しく結論づけました。しかし「竹島なる者は一個の岩石」という結論 は疑問です。その当時「竹島」はその名が消えかかっていたとはいえ、北澤が 自身が『竹島考證』で引用した戸田敬義の「竹島渡海願」にみられるように、 古来の認識どおり鬱陵島をさす場合が根強くありました。   その一方で「竹島」を鬱陵島近辺の島に比定した例は他に見いだされてい ません。北澤のいう「一個の岩石」とははっきりせず、あるいは竹嶼を想定し たのかもしれませんが、当時はahirutousagi2さんがいうように、竹島を竹嶼 などに比定した例はほかに皆無だったようです。   結局、軍艦・天城の報告書がダメ押しになったのか、鬱陵島は次第に「松 島」と称されるようになり、古来、鬱陵島をさした竹島の名は消えていきまし た。それと同時に竹島=独島をさした古来の松島の名は竹島=独島と無関係に なっていきました。何とも影の薄い島です。   名前を転用されてしまった竹島=独島は、外国名のホーネットあるいはリ アンクール、略してリャンコ島などと呼ばれるようになりました。当時、竹島 =独島は日本の島であるという認識がほとんどなかっただけに、島名が外国名 で呼ばれるようになっても何の違和感もなかったようです。 (注1)川上健三『竹島の歴史地理的研究』(復刻版)古今書院,1996 (注2)水路報告第三十三號   此記事ハ現下 天城艦 乗組員 海軍少尉 三浦重郷ノ略畫 報道スル所ニ係ル  日本海   松島[韓人之ヲ鬱陵島ト稱ス]錨地ノ発見 松島ハ我隠岐國ヲ距テル北西四分三約一百四十里ノ處ニアリ該島 従来 海客ノ 精檢ヲ経ザルヲ以テ其假泊地ノ有無ヲ知ルモノナシ 然ルニ今般 我天城艦 朝 鮮ヘ廻航ノ際 此地ニ寄港シテ該島 其東岸ニ假泊ノ地ヲ發見シタリ 即左ノ圖 面ノ如シ 右報告候也 明治十三年九月十三日      水路局長 海軍少将 柳楢悦 ([ ]内は原文で注釈風に2行に分けて書かれている) (注3)北澤正誠『竹島考證』(復刻版)エムテイ出版,1996   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 愼教授の獨島問答 Q47, 空島政策の再検討 Yahoo!掲示板「竹島」#2875 2004/ 1/11 Q47.(空島政策の再検討)   日本が軍艦を派遣して鬱陵島を実測調査して「竹島」だの「松島」だの 「リアンクール岩」などの名前を勝手につけ、海岸と領土をねらっていたとき、 朝鮮政府は何をしていたのか? ANS.朝鮮政府も徐々に覚醒していた。鬱陵島に対する「空島政策」を廃止 して鬱陵島に国民移住を許可し、鬱陵島および獨島を再開拓しようとする動き もでてきた。   1868年、日本で徳川幕府政権が崩壊し、明治維新政府が樹立され「征韓論」 と対外膨張が積極的に鼓吹されるや、徳川幕府時代末までは国境を越えて鬱陵 島・獨島に渡れなかった日本人の中には、今度は国境を越え鬱陵島にこっそり 入り、木材を伐り漁をする輩が次第に増えていった。   1881年、この事実を鬱陵島の巡視・捜討にやって来た朝鮮の捜討官たちが 摘発し、江原道の観察使をつうじて中央政府に報告した。   朝鮮王朝が開港したのちに設置された新行政機構である統理機務衙門はこ の問題に対し、(1)日本政府に抗議文書を送り、日本人の鬱陵島不法侵入に 対する禁止令の実施を要求し、(2)鬱陵島防衛と守護のために副護軍の李奎 遠を鬱陵島検察使に任命し、詳細な現地調査を実施したのちにその報告を検討 し、鬱陵島「空島政策」廃止の是非と「再開拓」の是非を決定することにし、 この対策を国王に建議した。国王も統理機務衙門の建議を允許し、李奎遠を 1881年5月23日「鬱陵島検察使」に任命した。   鬱陵島検察使の李奎遠は、もし発令後に準備を整えて出発すれば、伐木の 季節が過ぎ日本人が撤収してしまうので、出発予定日を翌年にした。その結果、 李奎遠が鬱陵島の現地調査のために実際にソウルを出発したのは陰暦 1882年4 月10日であった。   李奎遠は出発に先立ち、4月7日に国王に謁見し出発の挨拶をしたが、そ の場で国王は鬱陵島の東30里(12km,半月城注)程度に「于山島(獨島)」が あり、また「松竹島」という島もあり、島が三つという説もあるので、これも 調査してくることと、鬱陵島の現地調査時に、人を移住させ邑を設置しうる候 補地を調査してくるように命令し、鬱陵島「再開拓」の意志を強力に示した。 コメント:李奎遠が王と面談した会話は下記に記したとおりです。 <『高宗実録』と鬱陵島検察>   両者の鬱陵島や周辺の島に関する認識は下記のとおりで、王のほうが李よ り正確だったといえます。  王(3島認識)、鬱陵島(通称)=鬱陵島(本島)+芋山島+松竹島  李(マクロ的に2島、ミクロ的に3島認識)、鬱陵島=芋山島、松竹島=松 島+竹島 愼教授の獨島問答 Q48, 鬱陵島検察 Yahoo!掲示板「竹島」#3137 2004/ 1/18 Q48.(鬱陵島検察)   鬱陵島検察使・李奎遠が鬱陵島に入り現地調査を実行した結果はどうで あったのか?日本人たちが実際に鬱陵島にこっそり侵入し伐木していたのか? ANS.日本人と本国人多数がこっそり入島し、木材を伐採したり、船を造っ たり、漁をしていた。   鬱陵島検察使・李奎遠は3隻の船と 102人で構成された大規模な現地調査 団を編制した。李奎遠一行は 1882年陰暦4月29日、3隻の船に分かれて乗り、 江原道 平海 邱山浦を出発し、4月30日、鬱陵島西面小黄土邱尾に到着した。   5月1日から満6日間、徒歩で鬱陵島内を現地踏査し、ついで2日にわた り船で鬱陵島海岸を一回りし、海岸調査を実施した。   李奎遠一行は、この過程で鬱陵島のすぐ近くにある岩島の竹嶼島(または 通称、竹島)を探しだし観察したが、鬱陵島から 49カイリも離れた于山島 (獨島)は鬱陵島滞在者から存在するという話だけを聞き、現地調査は風浪を 恐れ実行しなかった。   李奎遠一行は出発当初から風浪を恐れ、鬱陵島に到着後はいつも明け方に 風浪を鎮める山神祭を行っていた。しかし、李奎遠は古代の于山国の基盤が鬱 陵島・竹嶼島・于山島(獨島)の三島で構成されていたと確信し認識を強固に して戻った。   鬱陵島検察使 李奎遠一行が鬱陵島の現地調査で検察した内容のうち、鬱 陵島・獨島再開拓と関連したいくつかの事項をかれの日記と報告書でまとめる と次のような事実が特に目を引く。 (1)鬱陵島に入っている本国人(朝鮮人)は全部で 140名だが、出身道別に みれば、全羅道が 115名(全体の82%)、江原道(平海)が 14名(10%)、慶尚道 が 10名(7%)、京畿道(披州)が1名であった。   全羅道出身は南海岸の島や沿岸に居住する人たちが1隻の船に 13-24名ず つ乗って来ており、集団別にテントを張り滞留しながら木を伐り船を造ってい た。 (2)本国人の職業をみれば、木を伐り船をつくる人が 129名(全体の 92.2%)、 朝鮮人参など薬草を採る人が9名(6.4%)、竹を伐る人が2名(1.4%)などであった。   全羅道(115名)と江原道(14名)から来た人たちは 13-24名がひとつの集 団をなしてテントを張って暮らし、材木を切り船(船舶)を造り、時にはワカ メ採りをしたり漁をしたが、船(船舶)ができると、その新しい船にワカメと 魚を積んで帰った。   慶尚道の慶州から来た7名と咸陽から来た1名(全錫奎)、京畿道の披州 から来た1名は朝鮮人参と薬草を採り、慶尚道の延日から来た他の2名は竹を 伐っていた。 (3)鬱陵島に侵入した日本人は全部で 78名であった。かれらはみな材木を 切って積みだすために来たのであり、材木を切り板材を作る所が海岸に18か 所あった。   日本人と筆談をしてみたところ、その答の要旨は (A) 日本の東海道、南海道、山陽道の人たち 78名が今年4月に鬱陵島に入り テントを張って伐木をしており、 (B) 今年8月に日本から船舶が来れば木材と板材を積んで帰る予定であり、 (C) 朝鮮政府が鬱陵島の材木伐採を禁止しているのを知らないばかりか、 (D) 鬱陵島が「日本帝国地圖」に松島と表示されており、日本領と理解してい  ると答えた日本人もおり、 (E) 二年前にも鬱陵島に入り材木を伐採して積んで行き、 (F) 鬱陵島南浦には鬱陵島を「日本国松島」と書いた標木が立っている、 とのことであった。 (4)検察使一行が鬱陵島の長斫之浦に行ったところ、海辺の石だらけの道に 長さ6尺、幅1尺(30cm)の標木が立っていた。その標木の前面には「大日本国 松島槻谷」と書かれ、左辺には「明治二年二月十三日 岩崎忠照 建立」と書か れていた(注)。日本人が 1869年に鬱陵島に入り、日本国の「松島」という 標木を立てていたのである。 (5)鬱陵島を再開拓して邑をつくる場合に住居地としては羅里洞が長さ10里、 周囲が40余里にて数千戸を居住させることができるし、このほかにも 100-200 戸を収容できるところが6−7か所あることを調査した。また、浦は 14か所 と比較的豊富で、代表的な物産として 43種をあげ報告した。   朝鮮の中央政府はこの現地調査報告書にしたがい、1882年5月鬱陵島の実 態を正確に把握するようになった。 (注)原文では「明治二年二月二十三日 崎岩忠照」とあるのを訂正。 愼教授の獨島問答 Q49, 空島政策の廃止 Yahoo!掲示板「竹島」#3262 2004/ 1/25 Q49.(空島政策の廃止)   そうであれば朝鮮国王と大臣たちはこの時どのような対応をしたのか?  鬱陵島「空島政策」と「捜討政策」を廃止して「再開拓政策」を採択して施行 したのか? ANS.朝鮮の朝廷は、まず駐朝鮮の日本公使・花房義質に抗議書を送り、つ いで従来の鬱陵島「空島政策」を廃止すると同時に鬱陵島「再開拓政策」を採 択した。   鬱陵島検察使の李奎遠は 1882年陰暦6月5日、国王に復命書を呈して謁 見する席において、日本人が鬱陵島に「日本国松島」云々の標木を立てたこと にたいして駐朝鮮の日本公使・花房と日本の外務省に抗議文書を発送すること を建議した。   国王はこれを採択し、政府をして即刻日本公使と日本外務省に抗議文書を 送るよう命じた。しかし 1882年7月「壬午軍乱」がおき、すべての政策が一 時停止になった。「壬午軍乱」がいったん収拾されるや、領議政・洪淳穆は鬱 陵島「再開拓」が急務であるとし、1882年陰暦8月20日、鬱陵島再開拓方案を 国王に建議した。   その要旨は (1) 鬱陵島は絶海のなかにあっても土地が肥沃なので、まず志願する民を募集  し、農耕地を開墾するようにし、 (2) 開墾した農耕地にたいし5年間免税する特恵を与え、次第に民を増やし集  落をなし、 (3) 嶺南と湖南の漕運船(歳穀を運ぶ船)が鬱陵島に入り材木を切るのを公的  に許可し、 (4) 鬱陵島官吏には、検察使・李奎遠の推挙を受け堅実な者を島長に任命し、  移住民の規律と秩序を保つようにし、 (5) まず設邑(邑の設置)した後、つぎに設鎮(軍事駐屯地を設置)する意向  をあらかじめ講論し、江原道観察使に命じて移住民保護の準備をさせる、 というものであった。国王は即刻この建議を允許した。   こうして 1882年陰暦8月20日、鬱陵島「空島政策」は廃止され歴史的な 鬱陵島「再開拓政策」が採択された。朝鮮の朝廷は李奎遠の推挙を受け、咸陽 で朝鮮人参と薬材を求めて早くから鬱陵島に出入りしていた全錫奎を島長に任 命じて、鬱陵島再開拓事業を準備した。 愼教授の獨島問答 Q50-52, 鬱陵島の再開拓 Yahoo!掲示板「竹島」#3516 2004/ 2/ 1 Q50.(鬱陵島再開拓)  いつ、どのように鬱陵島「再開拓事業」が本格的に実行されたのか? Q51.(金玉均)  東南諸島開拓使 兼 捕鯨使・金玉均は鬱陵島、独島の再開拓に成功したのか? ANS.金玉均など開化党は「近代国家」意識が強かったために鬱陵島・竹嶼 島・独島に日本人が入りこむのを懸念して再開拓事業に熱心であった。いくつ か例をあげれば次のとおりである。 (1)政府の主導下に江原道、慶尚道、全羅道地域を中心に移住民や志願者を 集め、鬱陵島へ移住させ、積極的に支援した。その結果、移住民の数が1883- 84年に急速に増加した。 (2)政府と開拓使は、日本へ日本人の鬱陵島不法侵入を強硬に抗議し、鬱陵 島に入ってきた日本人をみな撤収させるのに成功した。日本の内務省は 1883 年9月、官吏と巡査など 31名を乗せた越後丸という船を鬱陵島に派遣し、そ れまで鬱陵島に不法侵入し居住していた日本人 254名をみな乗船、撤収させた。   その結果、鬱陵島に日本人はひとりも残らなかった。これは開拓使・金玉 均の鬱陵島、独島再開拓事業の大きな成果であった。 (3)開拓使・金玉均は、政府の許可なく日本船籍の天寿丸船長に米穀をも らって鬱陵島の森林伐採許可証を発給した鬱陵島島長・金錫奎を罷免、処罰し た。金玉均は、鬱陵島の森林は国家にとり外貨を稼ぎだせる重要な資源とみな した。 (4)開拓使・金玉均は、朝鮮政府が鬱陵島の森林を伐採し日本に輸出する政 策を採択したので、開化党の白春培を1884年8月、日本に派遣し、日本船の萬 里丸船長と販売契約を締結した。金玉均は鬱陵島の森林伐採と林業、漁業開発 に必要な資金調達のため鬱陵島の森林を担保に借款導入を交渉した。   しかし 1884年12月、甲申政変に失敗した金玉均たちが日本に亡命するや、 開化党の鬱陵島、独島再開拓事業は障壁に当面した。 Q52.(「季周) 甲申政変後、鬱陵島・独島再開拓事業はどのような障壁に当面したのか? ANS.中断はされなかったが、閔妃(明成皇后)を中心とする守旧派政府は 関心を持たなかった。そのため、閔妃政府は鬱陵島に専任の島長をおかず、開 港以前の捜討制度時と同じように平海郡越松浦の水軍萬戸に鬱陵島を兼任で管 理させるようにした。   甲申政変失敗後、政府の鬱陵島再開拓事業は熱意がさめたが、一般民衆の あいだでは南海岸の多島海地方から鬱陵島に移住する民が着実に増加した。   1894年に穏健改革派が執権するや、1894年12月、鬱陵島の捜討制度を廃止 して再び専任の島長をおいたが、1895年8月には島長を島監に換え、判任官職 級に格上げし、初代島監に「季周を任命した。   これにより鬱陵島の再開拓事業は再び活気をおびた。「独立新聞」に1897 年3月現在の鬱陵島再開拓事業統計がのっているが、造成した村が 12洞里、 戸数が 379戸、人口が1134名(男子622名、女子 472名)、開墾した農耕地が 合計 4775斗落であった。 コメント:後に記すように、鬱陵島の朝鮮人が増えたことで竹島=独島の認識 がより確実なものになりました。 愼教授の獨島問答 Q53-55, ロシアと日本 Yahoo!掲示板「竹島」#3613 2004年2月08日 Q53.(その後の日本人)  日本人たちは鬱陵島から撤収した後、ふたたび入る意図はなかったのか? Q54(ロシア)  鬱陵島の木材を日本が切望していたのは経済的な価値が大きかったためだろ うが、朝鮮政府はなぜ木材を伐採して外国に輸出する政策を樹立しなかったの か? ANS.  清・日戦争後の陽暦 1895年10月8日、日本は景福宮を夜襲して閔妃(明成皇 后)を弑虐するという蛮行を犯した。これに対し、国王の高宗は日本の毒牙か ら抜けだため 1896年2月11日、ロシア公使館に移る、いわゆる「俄館播遷」を おこなった。  国王の高宗がロシア公使館内で新政府を樹立して政事を行うようになるとロ シア側は影響力を行使して、新政府は親ロシア守旧派政府で組織され、国王の 高宗はロシアをはじめとする西欧列強から利権侵奪の要求を受けた。  このとき、ロシアは高宗に圧力を加え 1896年9月「豆満江・鴨緑江流域対岸 の山林と鬱陵島の森林伐採権」をロシアの会社(代表 J.I.Briner)に「利権」 として25年間譲渡するようにした。  こうして鬱陵島・獨島は朝鮮(大韓帝国)の領土ではあるが、鬱陵島の材木 は 1896年から25年間、帝政ロシアが「伐採権」を持つようになったのである。 したがって1896年9月以降は朝鮮政府は鬱陵島の木を伐って外国に輸出できな いようになった。 Q55(日本の再侵入)  大韓政府がロシアに鬱陵島の森林伐採権を渡したのに、日本人が侵入して鬱 陵島の森林を不法伐採し、三国のあいだに国際紛争は発生しなかったのか? ANS.発生しないはずがない。駐韓ロシア公使が何度も抗議文を送ってきた。 とくに1899年、ロシア側は大韓政府に日本人が不法に鬱陵島に入って森林を伐 採し運んでいるので、これを禁止してほしいと強硬に抗議してきた。  大韓政府はロシア側の抗議はもちろん、何より開港場ではない韓国領に日本 人が不法侵入し、勝手に森林を伐採していることに驚いて、これを止めさせ同 時に鬱陵島の移住民にたいする行政管理のため 1899年5月、「季周を鬱陵島の 島監に再任し派遣した。  大韓政府はロシア側と日本側の疑心を解くために、「季周とともに、釜山港 の税務司に勤務している外国人税務使を同行させ、日本人の鬱陵島侵入の実態 を観察し報告するようにした。 愼教授の獨島問答 Q56-57, 鬱陵島の国際調査 Yahoo!掲示板「竹島」#3679 2004年2月15日 Q56.(日本人の密入島)  再赴任した鬱陵島島監の「季周と釜山港外国人税務司の鬱陵島実態調査はど うであったのか? ANS.かれらの報告によれば 1899年5-6月現在、鬱陵島には日本人数百名が 群をなして不法侵入し、村落を作って居住しており、引き続き森林を伐採し船 舶を運航して日本へ運びだし穀食と物貨を密貿易していた。  鬱陵島に移住した韓国人がこれを少しでもとがめると、日本人は刀を抜いて 振り回し暴動を起こすので、韓国人の移住民はみな驚愕し、恐れて安堵できな い実状であると報告書は指摘した。  あわせて鬱陵島島監の「季周は、鬱陵島に不法に入ってきた日本人や、かれ らの行状はけっして軽視すべきでなく、これを中央政府の命令で厳重に取り締 まらなければ、鬱陵島に移住してきた韓国人が離散してしまうので、取り急ぎ これを報告するとともに中央政府が積極的に処置するよう要請した。  こうして実態を知るようになった大韓政府は、外部大臣が駐韓日本公使に公 文を送り、鬱陵島に不法密入島した日本人を期限を定め本国に送り返すことと、 開港場でない港で密貿易した罪を「朝・日修好条約」(1876年)の約定により 調査、懲罰し、後日の弊害を永久に根絶することを要請した。  一方、ロシア側は 1899年9月15日付で大韓帝国の外部大臣に公文を送り、日 本人が鬱陵島に不法に入島して村を作って住み、森林を伐採し狼藉を働いてい るので、開港場でもない鬱陵島に不法密入島した日本人たちを刷還するよう日 本公使館へ強力に要請するよう大韓政府に圧力を加えた。 Q57.(国際調査団)  大韓政府は日本人の不法入島と森林伐採および不法な行状を禁止することを 強力に要求してきたロシア側の圧力にどのように対応したのか? ANS.当初、大韓政府は日本公使館をつうじて日本人を撤収させようと日本 公使に公文を送った。しかし、日本公使の回答は傲慢不遜にもほどがあった。 たとえば、万一、日本人の違法行為があれば韓国の官憲が逮捕し、近くの日本 領事に引き渡すよう「朝・日修好条約」に規定されているので、韓国官憲はそ うしろというものであった。  これに大韓帝国の内部当局は、根本対策の樹立が必要なのを痛感し、1899年 12月、内部官吏の禹用鼎を鬱陵島視察委員に任命し、日本側と第三国の外国人 を含めた調査団を派遣し日本人の不法侵入と森林不法伐採の実態調査をし、そ の後、鬱陵島・獨島の行政官制を改定、格上げし、その行政管理を強化するよ うにした。  大韓政府は鬱陵島にもっとも近い日本領事館である釜山の日本領事館の責任 者を同行させ、日本側と交渉した。  こうして大韓帝国政府は内部官吏の禹用鼎を責任者にし、韓国側の釜山監理 署主査・金〓秀と封辧の金聲遠、日本側は釜山駐在の日本領事館副領事である 赤塚正助と警部一名、第三国人は釜山駐在税務司の英国人 ラポルテ(E.Raporte, 羅保得)らで調査団を構成し、1900年5月25日、鬱陵島に出発した。 愼教授の獨島問答 Q58, 禹用鼎報告書 Yahoo!掲示板「竹島」#3734 2004年2月22日 Q58.(禹用鼎報告書)   禹用鼎調査団一行が実際に調査した1900年当時、鬱陵島の実態はどうで あったのか? 日本人が密入島し村をつくって住み、森林を伐採していたのか? ANS.禹用鼎一行は1900年5月31日に鬱陵島へ到着し、6月1日から5日間鬱陵 島の実態を調査した後、帰京して調査報告書を提出したが、その要旨だけを抜 粋すると次のとおりである。 (1) 鬱陵島は長さ70里(28km)、幅40里、周囲が140-150里の島であるが、槻木、 紫檀、栢子、甘湯などの珍しい木々と各種の樹木がうっそうとしている。島民 が開墾した土壌は肥沃であり、こやしをやらなくても穀物がよく育ち、大麦、 小麦、黄豆、甘藷などを収穫し、余れば売っている。   その間に開墾した農耕地の面積は7700斗落あまりであり、戸数は400余、 人口は男女合わせて1,700余名である。綿花、麻布、紙屬なども外部に頼らず 自給している。凶年には鶴鳥という羽鳥と、茗夷という植物が救荒として用い られるので飢餓をまぬがれられる。森林がうっそうとしていても、猛獣や茨の 樹木などによる害はない。ただ、地勢の傾斜が急で水田農業をできないのは惜 しいことである。 (2) 日本人の潜入残留者は57間に男女144名であり、停泊している日本の船舶 は11隻で、往来する商船は一定でなく、正確な数は把握できない。   昨年以来、日本人が不法伐採した槻木は71周で、その他に香木と雑木を盗 伐したのは枚挙が困難なほど多い。また、過去1年間に日本人が甘湯木の皮を はぎ、生汁を運んだのが1000余桶にもなるが、かれらがさらに数年間住めば山 にあふれる樹木が必ずや枯渇してしまうであろう。   また、日本人たちは暴動と乱行がはなはだしい。しかし島監は単身素手で これを禁じようとしてもできない状況である。日本人が鬱陵島に1日来て泊ま れば、1日分の害があり、2日泊まれば2日分の害がある。   今回の調査時にかれらは渋々退去すると答えたが、元来日本人の潜入は条 約違反であり、日本公使に要求して撤去させた後にはじめて島民を保護し、森 林を守ることができる。   本調査委員の巡視中にも日本の商船4隻が入ってきたので、翌日聞き取り をおこなったところ、オノやノコギリなどを装備した伐木の人夫40名とその他 に工匠など計70余名が上陸したという。   日本領事と議論して日本人が盗伐できないよう厳命をくだしたが、われわ れの船が戻った後はどのような侵略と暴行を繰りひろげるのか心配であり、今 やすべて撤帰させなければならない。 愼教授の獨島問答 Q59, 日本公使の対応 Yahoo!掲示板「竹島」#3750 2004/ 2/29 Q59.(禹用鼎報告書への反応)   禹用鼎 調査団一行の報告書に対し日本側はどう反応したのか? ANS.日本側は日本人を撤収させる意思がまったくなかった。ソウルの日本 公使館は、視察委員である禹用鼎の報告書にもとづいて日本人の撤還問題を論 議しようという大韓帝国政府の要請にたいし、日本側調査委員の復命書が提出 されていないとして時日を遅延し、まったく誠意のない反応を示した。   鬱陵島民は、大韓帝国内部調査委員の声援を受け、合資して開運会社を設 置し、開運丸を購入して運航を開始した。しかし日本公使館は調査結果にたい し討議することすら誠意を示さなかった。   大韓政府の鬱陵島日本人撤還要求にたいし、日本側調査委員である赤塚正 助の報告書はすでに6月15日付ですでに提出されていた。しかるに日本側は2か 月以上も回答をのばしたが、1900年9月初旬の回答文で (1) 日本人が鬱陵島に在留しはじめたのは十数年も前のことであり、鬱陵島へ  の密入島の責任は貴国の島監が黙認しただけでなく、慫慂したためであり、 (2) 盗伐うんぬんは、島監の依頼ないしは合意のうえでの売買であり (3) 鬱陵島島民と日本人の商業貿易は島民の希望にしたがったものであり、将  来、島監は 輸出入税を徴収する予定であると理解しており (4) 鬱陵民は本土との交通面で日本人居留者のおかげで便利になっており、日  本人の居留は鬱陵島民に不可欠の要件であるなどとまったく理にかなわない  デタラメな主張をして日本人の撤還を事実上拒否した。   これにたいし、大韓政府は (1) 鬱陵島の島監が日本人の居留を黙認あるいは慫慂したという主張はまった  く理にあわないもので事実に反し (2) 盗伐が合意のうえでの売買というのも事実に反し (3) 島監が徴収する税は輸出入税ではなく (4) 鬱陵島民が日本人のために困惑がはなはだしいのに、逆に便宜をえている  という主張はまったく根拠がないなどと反駁した。   また日本公使は鬱陵島に来居する日本人に税金を徴収し、撤還させないで ほしいと要請したが、大韓帝国外部は不通商港口で税金を徴収するのは朝・日 修好条規違反であると指摘し、日本人の撤還をくりかえし強力に要求した。


靖国神社と陵遅処斬 2004年3月19日 メーリングリスト[aml 38321]   半月城です。   日本は新幹線の売り込みを台湾では成功しましたが、中国ではかなり苦戦 しているようです。その理由が、何と小泉首相の靖国参拝問題にあるとは意外 でした(注1)。   中国は、こと靖国問題に関してはつとに神経をとがらせているようです (注2)。しかし、小泉首相の動きを注視しているのは中国だけではありません。 韓国も小泉首相の靖国参拝を深刻に憂慮しています(注3)。いうまでもなく、 靖国神社に東条英機などのA級戦犯が祀られていることが問題です。   小泉首相は外国の批判に対し「死んでも許さないというのは日本人になじ まない」として、逆に外国に理解を求めています(注4)。どうやら、小泉首相 はA級戦犯たちが日本国民はもとより諸外国の人々にいかに残虐なことをしで かしても、死者になったという理由でその罪悪を一切追求せず、ひたすら戦犯 の魂が安らかに眠ることを祈っているようです。   こうしたスタンスは疑問です。たとえ本人が死のうと、本来その人の罪の 重さは変わるものではありません。当然、中国や韓国に受け入れられるはずが ありません。   中・韓両国は、そもそも死者に対する考え方が日本とは根本的に違ってい るようです。国際日本文化研究所長の山折哲雄氏によれば、中国は基本的に 「死者を許さない」精神風土であるのに反し、日本は死者を浄化してしまう国 であるとのことでした。   春秋時代などの歴史をまとめた中国『史記』の中に、復讐のため楚王の死 体を掘りかえして 300回もムチを打つエピソードがあるようですが、中国人か らすると日中戦争で<殺光(殺しつくす)・搶光(奪いつくす)・焼光(焼き つくす)>という三光作戦をもたらした日本のA級戦犯は、何百回ムチ打って も飽きたらないことでしょう。   韓国についても同様です。韓国で奪ったのは土地や米などのモノだけでは ありませんでした。皇民化政策で名前を奪い、言葉を奪い、はては人すら奪っ ただけに、韓国人のハン(恨)としては、A級戦犯などを極刑にしたい心情で はないでしょうか。   極刑といえば、先の朝鮮王朝時代は「陵遅処斬」がその最たるものでした。 これは死者の手足や頭をバラバラにする仕打ちで、もっとも苛酷な刑だったよ うですが、韓国もやはり死者を容赦しない風土でした。   日本と中国、韓国とのこうした風土の違いはどこからくるのでしょうか?  山折氏は宗教の違いをあげていました。日本は仏教思想で死者を浄化してし まうが、かつては仏教国であった中国や韓国では、儒教などを取りいれた結果、 仏教の衰退とともにそうした浄化思想が消えてしまったと説きました。そうか も知れません。   いずれにせよ、根本的に死者に対する考え方が中国や韓国で違うのであれ ば、小泉首相の心情が中・韓両国で理解されるのはほとんど絶望的です。   さらに問題なのは、死者を浄化することで死者の罪を不問にしてしまいか ねないことです。これはそのまま「過去の総括や清算」を行わないことに直結 しがちです。実際、かつて日本政府は三光作戦などをきちんと検証して謝罪し たことがあるでしょうか? または、植民地の韓国で犯した罪過などを総括し たことがあるでしょうか?   そうした検証なしに、たとえ戦後50年の国会決議で「我が国が過去に行っ たこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反 省の念を表明する」と表明したところで、しょせんはうわべだけに終わってし まいがちです。   こうした現状を作家の明石散人さんはこう分析しました。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   この国(日本)の人達は、朝鮮半島の人達が何を求めているのか理解して いないのだ。だから謝罪を求められると精巧な人口声帯や立派な義足を差し出 してしまう。   再び謝罪を求められる。すると更に高性能なものを用意して「今度の義足 はとても軽くて綺麗で本物の足より素晴らしい」と何だか施しでもするような 物言いだ。   再び謝罪を求められる。この国の人達は困惑を通り越して「何度謝れば良 いのだ」と怒りさえ覚えてしまう。この思いが間違いなのだ(注5)。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   先の国会決議などは、さしずめ精巧なツクリ物といったところでしょうか。 さらには苦心して編みだした「施しもの」がまやかしだと指弾されると、次に 来るのは「開き直り」や「怒り」でしょうか。昨年の麻生太郎発言などのよう に閣僚級人物のあからさまな日帝擁護発言が相次ぐことになります。 <麻生太郎会長の「創氏改名」発言>   そうした発言を日本の豊かなマネーが支えているだけに、日帝擁護発言と その取り消しとのいたちごっこはいつまでたっても終わらないようです。これ では日本は信頼されるはずがありません。先日の朝日新聞(04.2.21)にはこん な投書がありました。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  「米こそ世界混乱の源」というフランスの人類・歴史学者のインタビュー記 事(4日)に、日本は「アジアにさえ真の友がいない。いま米国と手を切れる 状況にはない」との指摘があった。外国人にして核心を突く見方ができている のに、日本の為政者はこのことを理解したくないようだ。   真の友を作ることのできなかった、作ろうともしなかった長年の外交は何 だったのだろうか。迷惑を掛けた国々に満足な謝罪すらせず、首相が靖国参拝 を繰り返してはばからず、札束でほおをたたくような援助をする日本にどうし て真の友ができるだろうか。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   きびしい見方は日本国内だけではありません。英紙フィナンシャル・タイ ムズは「日本が国際社会で重要な役割を果たせるかは、第2次大戦中の侵略行 為を反省していることを近隣諸国に納得してもらえるかにかかっている」と論 評し、靖国参拝の意向を示している小泉首相に冷静な対応を求めました(注6)。   小泉さん! あなたはこのような内外の声を圧殺してまで、靖国で戦犯の 魂も安らかに眠ることを祈るのですか? (注1)「首相の靖国参拝、新幹線の導入に影響」中国公使が言明 http://www.asahi.com/politics/update/0317/001.html  在日中国大使館の程永華公使は16日、中国の北京―上海間高速鉄道計画へ の日本の新幹線導入の動きが、小泉首相の靖国神社参拝によって「影響を受け た」と言明した。都内の大使館で記者団に語った。 (注2)全人代閉幕後に記者会見した中国の温家宝首相=AP http://www.asahi.com/international/update/0315/003.html  中国の温家宝(ウェン・チアパオ)首相は14日、全国人民代表大会(全人 代)閉会後に北京の人民大会堂で記者会見した。「中日関係の主要な問題は、 日本の一部の指導者がA級戦犯がまつられている靖国神社に何度も参拝し、中 国とアジアの人民の感情を大きく傷つけていることだ」と、小泉首相の靖国参 拝を強く批判し、日中首脳往来が中断している原因だとの認識も示した。台湾 問題では「独立には断固反対する」と、中国政府の原則を強調した。 「日本の指導者は相手の身になり自省を」 外交部   朝日新聞 04.3.7 http://www.asahi.com/international/jinmin/TKY200403070071.html  現在非常に際立っている問題は、第2次世界大戦のA級戦犯14人が祀られてい る神社を日本の指導者が参拝していることだ。これはアジアおよび中国人民の 心を深く傷つけるものであり、絶対に受け入れることはできない。 (注3)新韓国大使の羅氏、小泉首相の靖国参拝を憂慮   朝日新聞 04.3.17 http://www.asahi.com/international/update/0317/011.html  韓国の新しい駐日大使に決まった羅鍾一(ラ・ジョンイル)前大統領国家安 保補佐官は17日、ソウル駐在の日本人記者団と会見し、小泉首相の靖国神社 参拝問題について「首相の靖国参拝は日本政府の歴史認識を代弁するもの。両 国の未来志向的な関係発展の障害にならないよう思慮深い対応が必要だ」とし、 事実上、参拝中止を求める考えを明らかにした。 (注4)首相の靖国参拝、欧米諸国にも疑問の声   朝日新聞、2003.2.1  小泉首相が来年も靖国神社に参拝するようだ。合祀(ごうし)されているA 級戦犯についても「死んでも許さないというのは日本人になじまない」と言う。 首相は一方で、こうした気持ちを「外国の方には理解してほしい」というだけ で、日本外交や国際関係への影響を考え抜いた気配はない。首相の姿勢への疑 問はいま、中韓両国だけでなく、欧米諸国や首相周辺にも及び始めている。 (注5)毎日新聞 04.3.18 下記の記事 「日本人拉致問題、日朝の溝を考える」 「作家 明石散人さん;遠回りのようだけど、彼らの気持ちも受け止めなければ」 (注6)「靖国問題、英紙が首相に冷静対応求める社説」   朝日新聞ニュース速報 2001.08/09  英紙フィナンシャル・タイムズは9日付の社説で、「日本が国際社会で重要 な役割を果たせるかは、第2次大戦中の侵略行為を反省していることを近隣諸 国に納得してもらえるかにかかっている」と論評し、靖国参拝の意向を示して いる小泉首相に冷静な対応を求めた。  A級戦犯が合祀(ごうし)された靖国神社の参拝について、社説は「右翼勢 力を喜ばせるためとしか受け取られない」と指摘。小泉氏が憲法9条の改正を 支持していることにアジア諸国は一層懸念を深めるだけだとしている。  そのうえで、ドイツが欧州でなしえたように、もし小泉首相が日本がアジア 諸国で信頼を得たいと考えるのなら、(1)靖国神社を重視する理由をはっき りと説明し、戦争責任については国際世論の納得がいくよう明確に謝罪する (2)日本の侵略行為を含む20世紀の歴史を学校できちんと教える(3)従 軍慰安婦への賠償を早急に進める(4)平和憲法を改正すべきかどうかの論議 を急ぎ、アジア諸国の不安を払しょくする−−という4段階を踏むべきだと提 言した。  靖国参拝問題は、小泉改革の先行き不透明さとあいまって、日本が直面する 不安定要因として英国でも次第に関心を集めている。  日曜紙オブザーバーは靖国参拝や歴史教科書をめぐる論議をくわしくとりあ げ、「日本社会でまん延しつつあるナショナリズムは、日本経済の不振が背景 にある」と分析。中国や韓国との関係冷却に日本が十分な対策を講じられない ことについて、「米中関係がぎくしゃくする状況で、日本のナショナリズムは アジアの冷戦対立を一層助長している」と評した。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


韓国の前方後円墳、国学院大シンポジウム 2004/ 3/14 22 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#10060   半月城です。   先日の朝日新聞(04.2.18)に、韓国にある前方後円墳の解説記事がのって いましたが、これを読んで意外な感がありました。「任那(みまな)」の用語 がまったく見当たらなかったためです。   これまで韓国の前方後円墳を語るとき、肯定であれ否定であれ「任那」の 用語がたびたび登場したのですが、それが今回の記事では皆無でした。   90年代以降の歴史学の発展を知らない人は、ややもすると、<仁徳陵など 巨大な前方後円墳は天皇を中心とする強大な統一国家の証しであるが、その日 本固有の前方後円墳が韓国西南部に存在した事実は、倭が百済に半島西南部の 「任那四県割譲」を行ったことを裏づけるものであり、大和政権の「任那」支 配は不動である>などと安易に信じてしまうのではないかと思われます。   しかし、今やそうした皇国史観は確実に克服されつつあるようです。朝日 の記事が時代の変化を雄弁に物語っているようです。記事は昨年暮れに東京の 国学院大で開かれたシンポジウム「韓国古代の前方後円墳と日本の古墳文化」 を受けて書かれました。ここにその一部を紹介します。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  ・・・   5世紀の朝鮮半島。西に百済、東に新羅、南東部に伽耶(かや)諸国が競 う南部に、北の高句麗が勢力拡大を始める。新羅は当初屈服し、服属を余儀な くされたが、5世紀半ばから百済と共同戦線を張るようになる。475年には百済 が首都の漢城(ソウル付近)を奪われ、南の熊津(公州)へと移った。  <積極的に百済を支援>   朝鮮半島の混乱は、倭と呼ばれた当時の日本にとっても深刻な問題であっ た。倭の大和政権は、近畿の勢力が各地の豪族と結んだ連合体であり、その目 的は鉄の確保にあったというのが有力な見解だ。  ・・・   依存したのは、鉄だけではない。5世紀後半、古墳の副葬品の中心が、鏡 などの呪術的なものから、馬具をはじめ朝鮮半島の影響が強い品々に移る。  ・・・   高句麗の圧迫で、親密な関係を保ってきた百済や伽耶が危うくなれば、鉄 をはじめとする先進文化を得るルートが断たれかねない。危機感を抱いた倭は 積極的な関与に乗りだす。   百済の南遷直後の479年、大和政権の指示で、倭で生まれ育った百済の東 城王が筑紫国(九州北部)の軍士500人に守られて朝鮮半島に帰ったと伝える など、『日本書紀』には、当時の雄略朝が百済にたびたび支援を送ったとする 記事がみられる。  (前方後円墳がある韓国西南部の)栄山江流域には比較的自立を保っていた 勢力がいたとされ、南遷した百済は、さらに南のこの地域を支配下に組み込む ことで盛り返そうとしたとの見方が強い。南下をめざす百済への倭への支援が、 前方後円墳につながったと研究者はみる。   宮崎大学の柳沢一男教授は、石室の構造に、九州のものとの共通点が多い ことに注目し、「地理的に近く、弥生以来の長い交流を持つ九州の首長らが、 百済支援に重い役割を果たしたことの反映ではないか」という。   被葬者については諸説ある。韓国の朴天秀 副教授は、「百済に仕えた倭 人の墓ではないか」という。「遷都後の百済は栄山江流域を自力で抑える力が 不足していたため、土着勢力を地理的に囲むように百済系の倭人官僚を派遣し た」というのだ。   一方で、百済を牽制するために倭人とのつながりをアピールしようとした 現地の豪族が眠るとみる説や、交易などで移住した倭人の墓とする説などもあ る。  <直接支配期に消滅>   6世紀前半、栄山江流域から前方後円墳が消えた。百済は538年、より栄 山江に近い泗ヒ(扶余)に遷都した。流域まで直接支配が及んだとみられる。   一方、日本も過渡期を迎えていた。6世紀初頭、近江や北陸の豪族たちに 支えられた継体朝が登場し、巨大化の一途をたどっていた前方後円墳も小規模 になり始める。  「韓国で前方後円墳が築かれた時期、大和政権は国造りを模索した時期だっ た。継体のあとの欽明朝以降、強固な王統と支配機構ができあがり、古墳の規 模を主張する必要のない時代が始まった」(鈴木靖民・国学院大教授)。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   この記事で注目されるのは「倭の大和政権は、近畿の勢力が各地の豪族と 結んだ連合体であり、その目的は(韓国産)鉄の確保にあったというのが有力 な見解」という一節です。ちなみに、倭がそうした連合から完全に脱却し、盤 石の天皇体制、すなわち律令国家体制を完成したのは天武天皇(673-686)のこ ろとみられます。   国学院大のシンポジウムで明らかになった見解は、天理大学で開かれた創 立50周年記念シンポジウム「古代日朝関係史研究の現段階ー5,6世紀の日朝 関係」を発展させたものといえます(注)。天理大シンポジウムの概要は下記 に書いたとおりです。 <韓国の前方後円墳> (注)朝鮮学会『朝鮮学報』第179輯、2001,天理大学、 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


『日本書紀』の誤読 2004/ 3/21 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#10074   半月城です。   honkytonk_2002_xさんは、倭が任那を支配する中、ある時期に「任那四 県」を百済に「割譲」したと信じているのでしょうか?   RE:10062 >「任那四県割譲」を否定するなら、五経博士段楊爾(だんように)も、実在 しなかった事になりますが、如何? 穂積臣押山(ほづみのおみ おしやま)も 架空の人物ですか? あの『日本書紀』の記述を否定出来るカウンター資料で も、発掘されましたかな???   この回答はすでに #5269<「任那四県」の割譲」>に書いてあります。山 尾幸久氏は、『日本書紀』の「任那四県割譲」記事は物部氏の伝承をもとにし た後世の8世紀初の述作であるとし、もとの『百済本記』をこう解釈しました。  <すなわち「穂積臣押山」は、諸博士の提供を要請するため、百済王都熊津 に赴いたのである。武寧王は、その条件として、蟾津江下流域の己モン(谷城、 求礼など)・帯沙(河東)の首長勢力が大加羅(高霊)王に結合しているのを 断ち、百済王の領有下に置くこと、それへの継体の尽力をもち出した。熊津か らの「東道」の確保に他ならない> <「任那四県」の割譲>   また、上記URLに紹介しましたが、東潮氏も次のように「任那四県割譲」 を否定しました。  <「割譲」記事は『日本書紀』の編纂過程でつくりあげられた「任那支配」 という虚構の物語である。ただ「四県」にかかわる地名が栄山江流域に存在す ることからみて、『日本書紀』による架空のことではなく、百済による栄山江 流域の領有下という史実を反映しているとおもわれる>   もともと『日本書紀』には虚構の物語が多いのですが、こと朝鮮半島の記 事に関するかぎり「任那日本府」といい、それが甚だしいのですが、それはそ の編纂過程に問題があるためです。   『日本書紀』の編纂にあたっては百済三書がしばしば引用されました。よ く知られるように『百済本記』は『継体紀』『欽明紀』に、『百済記』は『神 功紀』『応神紀』に、『百済新撰』は『雄略紀』『武烈紀』に引用されました。 ところがその百済三書はとんでもない誤読をされていたようでした。その歴史 を山尾幸久氏はこう記しました(注1)。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   かっては、“三書”は六世紀後半の威徳王の時代に、対倭国政策の必要か ら、倭王に提出するために百済で編纂されたと見られ、『紀』編者はその原文 を尊重したと見られていた。   だから、“三書”に基づく『紀』の記事を厳正に選別し、これを繋いでい くと、実在した日朝関係史が客観的に復元できる。固くそう信じられていた。   ところが、そのように高度の信用性をもつと考えられた記事の中に、百済 王自らの言葉として、自分は天皇の「黎民」と「封」建された領土とを治めて いるとか、自分たちの国は天皇に「調」を貢いで仕えまつる「官家(みやけ)」 の国だとか、元来の天皇の「封」域を侵して「新羅の折れる」加羅諸国を天皇 の命令で「本貫に還し属け」てほしいとか、自分は天皇の「蕃」(藩屏)をな す「臣」だとか、この種の表現が溢れている。地の文には、百済王が、天皇か ら、全羅北道の地を「賜」与されたとある。  “三書”の中でも最も記録性に富むのは『本記』だが、それに基づく『継体 紀』『欽明紀』の記述には、日本の天皇が朝鮮半島に広大な領土を有っていた としなければ意味不通になる文章が頗る多い。「百済本記に云はく、安羅を以 て父とし、日本府を以て本とす、と」とあるように「任那日本府」もその中に 出てくる。   百済王に「賜」与したとか、新羅王が「封」域を侵したという地の古地名 を考証し、その最も北に線を引いたもの、それがかつて馴染み深かった「任那 境域の縮小過程」図における「370年ころ」の「直轄領土」に他ならない。   全羅道の総て、忠清道の南半分、慶尚道の西半分の広大な地域である。そ れは“三書”に拠ったものであり、それ故に長く信用されてきた。   ところが、"三書”についての通説は誤算の上に立てられていたのである (注2)。『神功紀』『応神紀』の注に引かれた『百済記』の文に「新羅、貴国 に奉らず。貴国、沙至比跪(さちひこ)を遣して討たしむ」、「阿花王立つ、 貴国に礼なし」、(木満致は)『我が国に来入りて、貴国に往還ふ」「日本 の貴国」などとある。   この「貴国」を「二人称的称呼」(あなたのおくに)と誤解していた。総 ての説明はここから発している。しかし『紀』本文では第三者相互の会話でも 日本のことを「貴国」と呼んでいる。   貴国とは、「可畏(かしこき)天皇」「聖(ひじり)の王」が君臨する 「貴(とうとき)国」「神(かみの)国」の意味である。「現神」が統治する 「神国」という観念は、“三書”の原文にもある「日本」「天皇」号の出現と 揆(ママ)を一にしており、それは天武の時代である。六世紀後半はおろか “推古朝”にも実在しないであろう(注3)。   今日では次のように考えられている。“三書”の記事は、原形は、百済王 朝の史籍に遡るであろう。七世紀末〜八世紀初めに、滅亡後に移住した百済の 王族・貴族が、将来した本国の史書から改めて編纂し直して、天皇の官府に進 めたのであろう(注4)。『紀』編者はこれに大幅に手を加えている(注5)。   仮に“三書”の“原文”にまで遡り得たとしても、用字用語や評価や意味 付けは、ひとたびは、七,八世紀の交の日本において、理解せねばならない。 直ちに百済の原史籍の陳述に遡ることは出来ない。   記事当代の記録を推測するのは至難である。ともかく七、八世紀の交の意 味付けはこれを徹底的に排し、百済王朝側の正当化の論理に充分注意して、客 観的事実のみから蓋然性の範囲を推測せねばならない。   何故なら、七世紀末以後の在日百済王族・貴族は、悉く天皇の臣下として 組織されていたからである。八世紀半ばごろまで、難波の百済郡には、「日本 天皇」が藩屏として冊立する「百済王」の“小百済国”的実体が存続していた 可能性さえある。   この根本的事実、つまり、律令国家体制下の編纂という時代性、編纂主体 が置かれていた天皇の臣下という立場性、政治的地位保全への期待という思想 性、それらを無視して“三書”に基づく『紀』の叙述を読むことは、全く出来 ないのである。   天皇が百済王に「賜」わったという地は、忠清道の洪城・維鳩・公州あた りから、全羅道の栄山江・蟾津江流域にまで及んでいる。これは、滅亡時の百 済王が独立かつ正当に統治していた国家の領土と殆ど一致する。   しかし七、八世紀の交の在日百済王族・貴族は、それを、天皇から委任さ れた統治と表現せざるを得ない臣下の立場に置かれていたのである。   かかる観念を実体化して、「高麗・百済・新羅・任那」は「海表の蕃屏と して」「元より賜はれる封の限」をもつ「官家を置ける国」だった(『継体 紀』)などというのは、全く虚構の歴史像である。「直轄領」と「保護国」と をもつ「東夷の小帝国」と言い換えてみても、事実認識は変わらない。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   まったく信じがたい話です。貴国を「とうとき国」と読むべきなのに、そ れを「あなたの国」と読み違えてしまったとは開いた口がふさがりません。そ の結果、百済三書の編者を百済王の周辺と断定してしまい、そうなると同時代 の史書がほとんどないだけに、日本では百済三書の記述がほとんどそのまま批 判なしに受け入れられてしまったようです。  それが実は、百済三書は天武 天皇の臣下である亡命百済人が自己の地位保全的な意味あいも込めて編纂した となると、その客観性や限界はおのずと明らかです。   それに気がつくまで何と長い年月がかかったことでしょうか。その間に一 連の「聖戦遂行」とのかねあいから政策的に皇国史観がますます盤石になって いきました。その誤読は 1970年代、韓国の学者からの指摘をきっかけに次第 に是正されたようです。   こうした誤った先入観の是正は、外部の異質な視点からでないとなかなか 気がつきにくいものです。それはともかく、百済三書は七世紀末ころに天皇の 臣下である亡命百済人により書かれたへつらいの史書であるという理解のもと に『日本書紀』を再解釈する作業が進みつつあるようです。その成果として 「任那四県割譲」は虚構であるというのが大勢になっているようです。 (注1)山尾幸久「倭王権と加羅諸国との歴史的関係」『青丘学術論集』第15集,1999 (注2)原著注、丁仲煥「『日本書紀』に引用された百済三書について」1972   泊勝美訳『古代日本と朝鮮の基本問題』学生社、1974 (注3)原著注、山尾幸久「飛鳥池遺跡出土木簡の考察」『東アジアの古代文化』97,1998 (注4)原著注、坂本太郎「継体紀の史料批判」『坂本太郎著作集 二』吉川弘文館,1988   久信田喜一「『百済本記』考」『日本歴史』309,1974   鈴木靖民「いわゆる任那日本府および倭問題」『歴史学研究』405,1974   山尾幸久「百済三書と日本書紀」『朝鮮史研究会論文集18』龍渓書舎,1978 (注5)原著注、山尾幸久『カバネの成立と天皇』吉川弘文館,1998 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


東の「海のシルクロード」と新羅商人 2004/ 3/27 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#10122   半月城です。   新羅商人のネットワークは目をみはるものがありました。ある時は、唐に 留学していた円仁(慈覚大師)にお金を届けました。電話もインターネットも ない時代に、伝言だけで大金を外国に送金するとは容易なことではありません。 それをまかされた新羅商人の実力とネットワークは盤石だったようです。   その新羅商人を統率し、シーレーンを支配していたのは、青海鎮大使の肩 書きをもつ張保皐(ちょう・ほこう)でした。かれは韓国の史書『三国史記』 のみならず『新唐書』や『日本後紀』などの史書に記録されました。かれのよ うに、三国の歴史に残った人は数えるほどしかいないことでしょう。そのかれ を讃えて一昨年には比叡山の延暦寺に張保皐の顕彰碑が建てられ、除幕式が行 われました。 <張保皐の顕彰碑>   新羅商人が活躍した東アジアの「海のシルクロード」ですが、ちょうど一 年前、その航路をたどってイカダ作りの「張保皐号」が冒険の航海を行いまし た。長さ14mのイカダは竹を二段に組んで作られ、帆には「張保皐号」と大書 されました。   張保皐号は、唐時代に三大貿易港のひとつに数えられた寧波を出発しまし た。そこは新羅人の居留地「新羅坊」のひとつがあったところで、その名残は 今でも散在するようです。近くの「新羅礁」などもそのひとつです。これは新 羅人が海難事故を起した岩礁でしょうか。   張保皐号は、往時のコースにしたがって寧波から山東半島まで行くのです が、この時は自力でなく他船に曳航されました。これは季節柄、北西風にさか らっての航海が困難なためでした。一方、山東半島からはその季節風を利用し て黄海を横断し、韓国へ向かいました。   山東半島は、秦時代に徐福が始皇帝の命を受け、不死不老の薬を求めて東 へ船出した出発点でしたが、そこは朝鮮半島への出発港でもあります。今日で はそこから仁川に向かうフェリーの航路が開設されていますが、その航路は古 来から朝鮮半島へ向かう海の幹線ルートでした。山東半島東端には新羅人の居 留地である「新羅坊」はもちろん、新羅の寺院「赤山(せきざん)法華院」ま で張保皐により建てられました。   最初に書いた、延暦寺を飛躍的に発展させた円仁も帰国の時に山東半島を 出発しましたが、円仁と山東半島および赤山とのかかわりはひとかたならぬも のがありました。それを国学院大学の「中国山東省・遣唐使帰国航路及び延暦 寺僧 円仁の巡礼地の調査」チームはこう記しました。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   平安時代初期の延暦寺僧 円仁は、この山東半島に滞在し、その後も帰国 までに2回、この地を訪れている。そのことは、円仁が道すがら記した『入唐 (にっとう)求法巡礼行記』に多く記録されている。   円仁は、遣唐使の一員として中国に渡ったあと、聖地巡礼と求法活動の継 続を願って、山東半島の東端(現在の栄成市石島鎮)に所在した赤山法華院に 留まり、この辺りを拠点に集住していた新羅人の助けを借りて中国滞在の方便 を得る。   そして、ここから五台山、さらに長安への旅に出る。9年余りの中国滞在 ののち、帰国した円仁は、多くの経典等を日本にもたらし、天台宗の発展に寄 与したが、そればかりでない。円仁以後、五台山巡礼は、日本僧侶の渡唐と重 ね合わせられて憧憬の対象になり、日中仏教交流の一脈となる。   また、山東で新羅人の力を借りた奇縁に端を発して、円仁は帰国後に新羅 明神を勧請し、次いで中国に渡った弟僧 円珍が赤山明神を勧請したことはよ く知られるところである。 <中国山東省・遣唐使帰国航路及び延暦寺僧円仁の巡礼地の調査>        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   往時の赤山法華院は失われてしまいましたが、その後ほぼ同じ所に再建さ れ、今でも赤山明神とともに張保皐の影像を祀っています。また、現在の日本 でも赤山明神は延暦寺の「西の別院」である赤山禅院に祀られています。   場所は京都市左京区の修学院ですが、ここは京都御所の表鬼門であり、赤 山明神は都を守護しています。神仏習合の典型例です。同時に、赤山明神は唐 名で泰山府君と呼ばれますが、これは安部清明により道教である陰陽道の祖神 とされました。 <赤山禅院 赤山明神 赤大明神>   他方、新羅明神は滋賀県にある三井寺の守護神として新羅善神堂(国宝)に 祀られたのをはじめ、日本各地の神社に祀られました。三井寺のホームページ によると新羅神社がある都道府県は、京都、福井、石川、新潟、長野、青森、 山形、福島、宮城などと枚挙にきりがありません。三井寺HPには載っていな くても、兵庫県などにも新羅神社はあり、日本全国では相当な数になりそうで す。 <三井寺「新羅神社考」>   さて、その後の張保皐号ですが、激しい季節風に見舞われ、一時は帆が折 れてしまうというアクシデントもありました。暴風雨は黄海ではよくあること です。その強い風のおかげでイカダの航行速度があがり、群山沖あたりまです ぐ南下しましたが、順風ばかりではありませんでした。   風が凪ぎの状態になってしまいました。こうなるともちろん帆は役に立た ず、人が櫓でこぐしかありません。速度は極端に落ちました。おまけに、凪は 風の向きが変わる兆しでした。今度は強い南風になり、イカダは南北の軍事境 界線近くまで北上し始めました。空では軍用機が警戒を始めました。張保皐号 はなんとか近くの島に接岸し、ともかくも黄海横断には成功しました。   その後、イカダは日本への道を途中までたどりました。木浦附近の扶安沖 では海神に航路の安全を祈りましたが、そこは海の難所だったようでした。 1992年に唐の沈没船から宝の山が発見されました。景徳鎮の青磁や倭の須恵器 や勾玉らしきもの、宗の銅銭や貨幣、東南アジア産の胡椒や壇、はては京都 東福寺の銘が入った木簡など、国際的に多彩な遺物が発見されました。   こうした国際交流を物語る遺物は扶安沖だけではありません。さらに張保 皐号が立ち寄った韓国南岸の勒島でも漢の半両銭や楽浪土器、弥生土器などが 発見され、やはり日中韓の交流が濃厚だったことを物語っています。   張保皐号の航海はここで終りましたが、いにしえの張保皐はさらに博多ま で行き、そこで交易を行ったことが『日本後紀』に書かれています。ただし、 そこでは張宝高という名で記録されました。張保皐の本拠地は韓国南海岸の莞 島であり、日本に近かったので日本との往来は頻繁だったことでしょう。   さて、奈良時代以前の古代航路ですが、これはほとんどが沿岸に沿う沿岸 航法だったと考えられます。したがって、倭と中国大陸との交易はほとんど朝 鮮半島西海岸を経由したと見られます。実際に邪馬台国の使節が通ったルート もこの西海岸でした。また、奈良時代でも初期の遣隋使や遣唐使もこの「北 路」を利用しました。   遣唐使船はやがて航路を朝鮮沿岸ではなく、黄海を直接横断する「南路」 に切り替えましたが、これは難路でした。倭と新羅との外交関係悪化が原因で 航路を変更したのですが、そのツケで遣唐使船に遭難が続出したのはよく知ら れています。   有名な話ですが、日本が招聘した唐の鑑真(がんじん)は5度も遭難して 失明し、6度目にやっと日本へたどりつきました。沿岸航法ならイカダでも黄 海を横断できるのに、黄海の直接横断は遣唐使船のような構造船でも困難をき わめました。   鑑真のケースは極端な例ですが、それでも黄海の直接横断が危険なことに 変わりありません。円仁は往路で黄海を横断しましたが、その時の困難を作家 の金重明氏はこう記しました。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   承和(じょうわ)遣唐使船 第一舶   遣唐使船の航海に困難はつきものだが、この承和 遣唐使は、出発当初か ら事故続きだった。   遣唐大使に藤原常嗣、副使に小野篁が任命されたのは、承和元年(834)正 月18日のことである。二年後の承和3年5月14日、通例に従い四隻の遣唐使船が 難波津を出発し、博多に向かった。   そして7月2日、博多津から大陸に向け船出したが、逆風にあおられて吹き 戻されてしまい、第一舶、第四舶は肥前に、第二舶は松浦に漂着し、第三舶は 難破して大破してしまうという結果に終わった。   第一舶、第二舶、第四舶の修理が完了し、再び大陸に向かったのは翌 承 和4年7月22日のことだった。しかしこの試みも逆風のため失敗におわり、第一 舶、第四舶は壱岐に、第二舶は値賀島(平戸島)に漂着してしまう。   その後、遣唐副使 小野篁が病に倒れ、第二舶の派遣は取りやめとなった。 承和5年6月13日、残った第一舶、第四舶が博多津を出発した。  ・・・   それから六日、激しい東北風にあおられながら、船は西南へと流されて いった。昼は目で確認し、夜は火による信号でお互いの無事を確かめあってき た第四舶の姿も、四日前から見えない。風浪にあらわれた、遣唐使船 第一舶 の船体を補強する平鉄もすべて剥がれて落ちてしまった。  ・・・   九世紀の半ば、日本には遠洋航海の技術が定着しているとはいいがたく、 そのため遣唐使船にも数多くの新羅水夫が乗り込んでいた。   この時代、朝鮮には海洋民族としての性格がいまだに色濃く残っている。 とりわけ、海の民といわれた百済の伝統を受け継ぐ西南部には、海を生活の場 とする人々が多く住んでいた。   遣唐使船そのものも、新羅船や唐船を使用するのが通例となっていた。船 のつくりそのものが脆弱な日本船では、外洋での航海が困難だったからである。 これまで幾度か、風を間切って風上に進むことのできる縦帆を持ち、外海の荒 波をものともしない頑健な新羅船と同型の船の建造が日本でも試みられたが、 全て失敗に終わった。   強風にあおられた波の破片が円仁の頬を打つ。最新の技術をもって建造さ れた新羅船に、腕自慢の新羅水夫が乗り込んでいたが、この風浪では手の施し ようがない。闇の中を白兎に追い立てられるようにして、遣唐使船はあてどな く流されていく(注2)。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   黄海を横断するのは、まさに命がけでした。円仁だけでなく、空海もほう ほうの体(てい)で唐にたどりつきました。また、比叡山を開いた最澄は海が 荒れた時、仏教で一番大切なものをいれる舎利容器を海に投じて必死に無事を 祈り、命からがら唐へたどりつきました。   日本は、新羅との外交関係の悪化に大きな代償を払いました。そうした外 交のきしみを埋めたのが新羅商人でした。最後の遣唐使船も帰りは新羅船を 雇って帰国したくらいでした。   極言すれば、海のシルクロードを日本にまで延長したのは新羅の商人と皐 (みぎわ)の民だったといえます。実際、東大寺の正倉院にある宝は、下記に 書いたように多く新羅商人によってもたらされたようです。 <正倉院と国際交流>   現在、正倉院にはみごとなササン朝ペルシャのローマングラスが保管され ていますが、これも張保皐の手によって運ばれたのかも知れません。比叡山 延暦寺の張保皐 顕彰碑の前におかれた墓誌は、張保皐がペルシャにまで行っ たことなどをこう記しました(旧漢字は新漢字に変換)。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 清海鎮大使 張保皐 碑   張保皐(弓福、弓邑、宝高)は、新羅の人で九世紀前半に新羅、日本、唐 三国の海運秩序を治め、東南アジアをはじめとして アラビア、ペルシャと活 発な海上交通を広げた海上王である。   新羅西南海の莞島で生まれ、崇高な意志をいだき唐にわたり、三十歳にし て武寧軍軍中小将に昇進する。彼は生来の勇猛さと海のごとき度量の持ち主で あった。   東アジアの海上で横行した人身売買に義憤慷慨し、興徳王3年(828)帰国、 莞島に清海鎮を設置し、海賊を掃討し安全で平和な航路を開いた。   日本天台宗 第三世座主 慈覚大師 円仁は、九世紀中葉 九年半に及ぶ入唐 求法の際、張大使の援助のもと大使建立の赤山法華院に留錫して、その因縁に より五台山や長安の地に巡礼を果たすことができた。   大使の日記「入唐求法巡礼行記」のなかで、張大使に対する欽仰の情を次 のように誌している(注3)。   いまだ御尊顔を拝することはかないませんが、遠くにあっても大使の人徳 は薫風のように伝わってきます。ただ伏してつつしみ仰ぎみるばかりです。   春も半ば、あたたかな季節になりました。大使の御尊体は常に万福に満た されているものと思います。円仁ははるかかなたの地で、大使の仁徳を受け、 心より感謝しております。   円仁は宿願を果たさんがため唐の地に久しく滞在しています。幸いにも大 使本願の地である赤山法華院にとどまることができ、その感懐はとても言葉で 表現できるものではありません。   円仁は日本を発つにあたって、筑前の太守から大使にあてた書状を預かり ました。しかし唐に渡る際、船が座礁し、その書状は波に流されてしまいまし た。自責の念に日夜苛まれています。どうかけしからぬとおしかりにならない よう、伏してお願い申し上げます。   いつお会いできるかはわかりませんが、一日も早くその機会が来ないもの かと願っております。ここに書状をもって御機嫌をうかがう次第です。    開成5(840)年2月17日 日本国求法僧伝灯法師位 円仁 状上 清海鎮大使 麾下(きか)謹空   後学の者は、大使の求法体験談を通じて 九世紀の新羅・日本・唐の文化 交流の実相を伺い得る。二人の築き上げた深い友情が、今後の韓日両国の人々 に周知され、両国の友好に寄与することを望みつつ、大使棲身の地、比叡山に この碑を建てる。           設立 2001年 12月 大韓民国 莞島郡(清海鎮)        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   日本ではペルシャやアラビアの宝物は数が少ないようですが、韓国には数 多く残されているようです。それらの品々も張保皐が運んだのかもしれません。 かれの活躍は国際交流に大きな足跡を残しました。   なお、張保皐の碑は韓国式にデザインされ、亀に似た想像上の動物である 贔屓(ひいき)の台座の上に「清海鎮大使 張保皐 碑」と刻まれ、上部には竜 が彫られた石が乗せられました。碑のうらには上記の墓誌が韓国語で刻まれま した。碑は、これから千年以上、最澄や円仁が眠る延暦寺を見守ることでしょ う。 (注1)朴鐘鳴『滋賀のなかの朝鮮』明石書店、2003 (注2)金重明『皐(みぎわ)の民』講談社、2000 (注3)原文は漢文、その口語訳を(注2)から引用 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


新羅は「草原の道」の終着点? 2004/ 4/11 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#10179   アラビア近辺のどんな宝物が新羅に来たのかについて質問があったので、 これに答えることにします。   オリエント近辺の遺物でもっとも目をひくのは、新羅の13代王とされる 味鄒王(?〜284)の王陵から出土したネックレスのガラス(トンボ)玉で す。 <The Unified Silla Period>   上記URLにネックレスの写真がありますが、結びのカナメの位置に黒っぽ い丸い玉がみえます。大きさは直径 15mmくらいですが、この小さなトンボ玉 に、驚くなかれ人の顔や白鳥が象嵌されました。   その顔は白く、イヤリングやネックレスを身につけ、目はパッチリ、眉が つながった美形ですが、そのモデルは由水氏によれば、黒海北方のルーマニア かブルガリアあたりの古代人とのことです。類似の人面ガラス玉は、シリア海 岸やエジプトのアレキサンドリアから多数出土しました(注1)。   次にオリエントの遺物で目をひくのが、上のURLにある黄金の剣です。こ の剣は多文化融合の見本です。粒金、細金細工はギリシャおよびローマ系、中 央部の巴模様はケルト系、紅玉はドナウ川周辺、それに月桂樹やギリシャ花紋 など美の粋をよりすぐった感があります。これと似た黄金の剣はカザフスタン や中国の西域でも発見されました。いずれもローマ文化のなごりとみられます。   新羅に残されたオリエント文化は他にもあります。ローマンガラスです。 これはソーダガラスで、中国系の鉛を含むガラスと容易に識別されます。4-5 世紀の古墳からローマやササンのガラスが新羅で次のように発見されました。 ガラス杯2点 ローマンガラス 月城路13号墳 ガラス瓶など8点 ローマンガラス 皇南大塚の南墳および北墳 ガラス杯2点 ローマンガラス 金冠塚 ガラス杯2点 ローマンガラス 天馬塚 ガラス杯など3点 ローマンガラス 瑞鳳塚 ガラス碗2点 ローマンガラス 金鈴塚 ガラス碗 ローマンガラス 安渓里4号墳 ガラス碗 ローマンガラス 玉田M1号墳 舎利容器 ササンガラス 松林寺   これらの宝物がどのように新羅に伝わったのか、少し謎です。というのも、 中国との関係でいうと、4-5世紀の新羅は中国とほとんど交流がありません。 わずかに377年と382年に新羅は前秦に使節を送っている程度で、ローマンガラ スの入手には結びつきそうにありません。   新羅はそれらの宝物を百済あるいは高句麗を通して入手したと考えられま すが、不思議なことに、両国では4,5世紀のローマンガラスはほとんど発見さ れていません。これも謎です。ちなみに、日本ではこの時期のローマンガラス は唯一、新沢千塚126号墳から碗と皿が見つかりました。 <新沢千塚資料館>   さて、新羅の謎ですが、他にもいろいろあります。中でも新羅の黄金文化 はとくに謎です。新羅の古墳は、金冠塚、金鈴塚などの名前からもわかるよう に、金銀がきらびやかで『古事記』にも金銀の国と記されたくらいでした。実 際、5-6世紀頃の古墳は、天馬塚にしろ皇南大塚にしろ、出土品は目をみはる ほど絢爛豪華でまばゆいものです。   被葬者は、頭には冠飾りセットを、耳には太環耳飾りを、首から胸にかけ ては頸胸飾りを、腰には金の跨帯や垂飾を、そして足には飾履(しょくり)を 身につけ、黄金づくしでした。   こうした黄金文化は突然現れました。新羅の前身である辰韓などは『魏書 東夷伝』によると「金銀と錦繍を珍宝としない」とされていましたが、それが 5-6世紀になり黄金文化がなぜ突然あらわれたのか未だに謎です。   しかも、新羅では金鉱石は産出しないようなので、それらの金がどこから 来たかも謎です。ただし、砂金なら新羅でもとれますが、砂金から作った金製 品では光沢がでないとされています。したがって新羅のきらびやかな金冠など の材料は外から入手したにちがいないのですが、そのルートも不明です。   そもそも、百済や高句麗に比べて圧倒的な新羅の黄金文化が、一体どこか ら来たのか不明です。おそらく、黄金をこよなく愛したスキタイ族の伝統が騎 馬遊牧民族に残り、それが「草原の道」を通って新羅に入ったのだろうと推測 されています。ちなみに、新羅自体も騎馬民族国家とみられています。   スキタイ民族は、BC7世紀頃に黒海の北方あたりを根拠地としていました が、次第にアルタイ山脈のあたりまで東進しました。「アルタイ」とは「黄金 の山」を意味しますが、スキタイは黄金と縁が深い民族です。   かれらのトーテムは、頭と翼がワシで、胴体がライオンの形をしたグリ フィンですが、この動物は黄金を守る動物とされています。黄金をとても大切 にする民族です。そうしたかれらの燦然と輝く黄金のコレクションは、ロシア のエルミタージュ美術館に残されました。   また、スキタイ古墳はアルタイ山脈の北に位置するウコック高原に未盗掘 のまま数多く存在し、最近になって国際協力のもと発掘されはじめました。そ れらの古墳は凍結しているので、当時の姿そのままで発掘が可能です。   その古墳は積石木槨墓が特徴なのですが、これは新羅の古墳と符合します。 違いは、新羅では積石のうえに封土をかぶせたことです。こうした積石木槨墓 は先ほどのカザフスタンの古墳でもみられます。黄金の剣など共通の文化を もっているようです。   さて、新羅の王冠は飾りが漢字の「出」字形あるいは樹木状の形になって いますが、由水氏によれば、これらもやはり遊牧騎馬民族系の特徴だそうです。 スキタイの岩刻画には木や鹿の絵が描かれており、鹿の角にせよ樹木にせよ、 新羅の王冠のデザインに結びつくとされています。   これらを綜合して由水氏は新羅のローマンガラスは、黒海からカザフスタ ン、草原の道(ステップルート)を通り、黄河北方の大同や遼寧省(高句麗) を経て新羅に入ったとの説をだしました。   その一方で、最近出土したサマルカンドの壁画が興味をひきます。7世紀 のアフラシャブ宮殿の壁画で、各国の使臣を迎えた様子を描いたものですが、 その中でひとりの使臣の姿が注目されます。   長い羽毛で装飾した帽子をかぶり、黒い帯紐で上着を縛り、細いズボンと 長靴をはき、環頭太刀を身につけた姿ですが、これは新羅人あるいは百済人を 連想させます(注2)。かれらは本当にサマルカンドまで行ったのでしょう か? しかし行ったにしても、それは7世紀の話なので、4-5世紀のローマン ガラスにはつながらないようです。 http://www.marymount.k12.ny.us/marynet/TeacherResources/SILK%20ROAD/html/sillatrade.htm   やはり、4-5世紀の新羅のローマンガラスは遊牧騎馬民族によって新羅 にもたらされたのかも知れません。ちなみに、日本の新沢千塚のローマンガラ スは、由水氏によれば新羅から入ったとされます。   しかし、新沢千塚は百済系の東漢(やまとのあや)一族の群集墳とみられ るだけに、新羅とのつながりが希薄な一方で百済との関連が濃厚です。考古学 者の森浩一氏も新沢千塚のローマンガラスは百済からもたらされたとみていま す。   いずれにしても、「草原の道」の終着点は新羅あるいは倭なのかも知れま せん。   RE:10184 >サマルカンドの壁画人物はKBSテレビの別の番組で見ましたが、頭部に鳥 の羽を付けるのは高句麗の習俗だし、KBSも高句麗人として紹介していまし た。新羅人説は何を根拠にしているのですか。   韓国KBSの番組「歴史スペシャル、2000年前 ローマガラスが新羅に来 る」の台本は、中央アジアのサマルカンドにある壁画についてこう語りました。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   ここで非常に興味深い壁画が出土しました。7世紀アフラシャブ宮殿の壁 を装飾した絵です。当時、シルクロード隣接国家のなかでもっとも繁栄をきわ めたサマルカンドの統治者が各国から訪れた使臣たちを迎接する姿をとても詳 細に描写しています。   その使臣のなかで私たちは見慣れた姿をした二人を見いだすことができま す。この二人の使臣は、長い鳥の羽で装飾した帽子をかぶっていますが、これ はまさに古墳壁画によく登場する鳥羽冠です。鳥の羽をつけて装飾するこの帽 子は新羅や百済でもよく使用しました。   そして服装をみれば、胸の結びヒモでなく黒い帯で前を合わせたチョゴリ (上着)と細くフィットしたズボンを身につけ、長靴をはいています。これま た私たちにはあまりにも見慣れた身なりです。   そして腰には長い大刀を帯びていますが、大刀の握りの部分がまるく装飾 されているのを確認することができます。これも古代の武士たちが着用した環 頭大刀の姿とまったく同じですね。   新羅の使臣か、高句麗の使臣かは正確に明かせませんが、はっきりしてい るのは7世紀ころ、すでに我が国の使臣が中央アジアのサマルカンドまで直接 往来していたという事実です。   このようにシルクロード上でなされた東西の出会いのなかで、私たちは新 しい文物を受け入れ、私たちの文化は世界に紹介されていたのですね。それな ら、このような東西の出会いは草原の道をとおしてのみ可能だったのでしょう か?(注2)        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− <使臣図>   KBSの番組はこの後「海の道」を紹介しましたが、その一部は#10188に 紹介されたとおりです。ちなみに、その関連の要約全文は次のとおりです。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 海の道 <新羅人の稀少宝石:ロマンガラス>   韓国金海市では1990年から四次に渡っての発掘調査が行われ、その結 果紀元前1世紀からの伽耶社会の生活がみられる遺物が出土した。その中には 金箔がついた鮮やかな彩りの装身具に使われていたガラスの玉も発見された。 これは韓国扶余で発見された紀元前2世紀頃の中国産鉛バリウムガラスとは違 うソーダガラスのローマンガラスであった。   またガラスと共に馬具、農機具などの鉄器遺物も多量出土し、当時鉄貿易 も活発化されていたことがわかった。2世紀から4世紀の間は鉄貿易が盛んに 行われていた時期で、中国歴史書である「三国志」の魏書には伽耶の鉄貿易の 事実を記録している。また金海地域ではそこに豊富に生産されていた鉄を海上 を通じて輸出していたという。   鉄を輸出していた海の道(Marine Route:シルクロードの一つ)はガラス が輸入されていた道でもあった。これは地中海を出たローマガラスが、インド、 インドネシアなどに輸出され、海上シルクロードを通じて中国南部(広東省) と韓半島まで届いたということをあらわすものであると言える。百済武寧王陵 で出土した彩りのガラスの玉も、このような海の道を通って入ったローマンガ ラスである。   ローマ帝国の一部であった地中海東沿岸を出発したガラスは、大陸を横断 していた遊牧民により、草原の道シルクロードに沿って韓半島に入ってきた、 また他にそれよりも早い時期には、インドと東南アジアを通る海の道に沿って 伝わっていたという。このように古代社会では、海と陸地での世界各地との活 発な交流が行われていたのである。   今回皇南大塚のガラス遺物に注目したのは、その遺物がそのような事実を 直接語る生 きた証拠であり、2000年前、韓半島が閉ざされた社会ではなく、世界に向 かって広く開いていた社会であったことを証明するからである。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (注1)由水常雄「新羅の謎」『NHK人間講座、ガラスと文化』1996 (注2)韓国KBS番組「歴史スペシャル:ローマンガラス、2000年前に新羅に来た」 http://www.kbs.co.kr/history/vod.shtml (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


現代の秘境、38度線の写真展 2004.4.29 メーリングリスト[aml 39349]   半月城です。   おすすめの写真展を文末に紹介します。   この地球上で社会主義陣営と自由主義陣営が銃をつきつけあって、直接に らみ合っている地域として唯一、朝鮮半島の非武装地帯(DMZ)が残りました。 悲しい現実です。   幅4km、長さ249kmのDMZには民間人は立ち入りを許されないうえに、 ふだん銃を撃つこともできないので、そこは鳥たち動植物の楽園になりました。 絶滅したと思われていた野生の山羊も実はここで生き残っていることがわかり ました。それが写真家の崔さんにより確認されました。   詩人でもある崔秉寛さんは韓国軍の特別許可を得て、そうした非武装地帯 の写真十万枚を撮りましたが、そのうち200枚がこのほど日本で公開されました。   置き去りにされた鉄カブトの隙間からけなげに咲くナズナ、「地雷」と大 書された標識の下で可憐に咲くコスモスなどは人間の愚かさを慰めるかのよう です。そうした姿などが、第1章「動植物の表情」として展示されました。   第2章は「38度線の緊張と平和」と題して、氷点下数十度の酷寒でも活動 する韓国軍の姿や、砲撃にかろうじて残った銀行の大金庫、半世紀以上の野ざ らしの機関車や鉄道の橋脚の写真などが生々しく展示されました。   第3章は「山河、原野の四季、限られた人の生活風景」と題して、DMZ の南5km幅に設定された「民間人統制区域」に暮らす北出身「失郷民」の生活 の様子などを展示しました。北に向かい「尽きない涙」を流す老人の姿は何と も哀れです。   これらの写真をとおして、崔さんは写真展の意図が平和を守り、自然を守 ることにあるとして、こう語りました。  「韓半島の非武装地帯は先にも話しましたけれども、戦争がこの地に残した 最も悲しい場所です。悲劇が今も続いているところですから、韓国も日本も戦 争をしてはいけない。そして、この世の中で平和が何より美しいもので、戦争 は悲哀を残すだけであるということを考えさせられました。   それから、自然がいかに大切であるかということを非武装地帯の撮影で実 感することが出来ました。平和で美しい自然は人間に多くのものを与えてくれ るため、非武装地帯の自然は絶対保存されなければならないと、幾度も痛感し ました。  ・・・   第二次世界大戦の際に日本も戦争を経験した国です。韓国も6.25(韓 国戦争)という民族同士の戦争を経験した国ですので、日本にしろ韓国にしろ、 両国を含め全世界の人類が戦争をなくしていくべきなのです。   共に平和を求めることで日本人も幸せに暮らすことができると思います。 そういう訳で、この写真展を通して両国が理解し合えるきっかけとなり、この 地にも日本にも、また世界に平和が定着することを切に願って止みません。  (崔秉寛『現代の秘境』遊人工房、2004)        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   近々、崔さんは韓国と北朝鮮とをつなぐ鉄道「京義線」や道路連結復元工 事現場を撮影した写真集『途切れた半世紀、つながる京義線、平和・繁栄のシ ルクロード』を出版する予定とのことです。         記 写真展「現代の秘境、休戦ライン155マイル」   写真で見る38度線非武装地帯の自然 場所:東京都写真美術館、JR恵比寿駅東口より徒歩7分 期日:2004年4月24日〜5月16日 休館日:毎週月曜日(休館日が祝日または振替休日の場合はその翌日) 入場料:一般500円、学生400円、他 主催:東京日韓親善協会連合会 03-3503-4659



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