半月城通信
No.110(2005.4.17)

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    目次

  1. 韓国の小泉首相へのいらだち
  2. 北朝鮮政策、アメリカへの追随か、働きかけか
  3. 竹島=独島問題、櫻井よしこ氏を批判する(1)
  4. 竹島=独島問題、櫻井よしこ氏を批判する(2)
  5. 竹島=独島問題、島根県議との対話
  6. 竹島=独島問題、裁判による決着
  7. 明治政府の竹島=独島認識
  8. 竹島=独島と韓海侵略
  9. 下條正男氏への批判、安龍福の于山島像


    韓国の小泉首相へのいらだち 2005.3.21 メーリングリスト[AML 0857] ***様   ***さんは物事を冷静に判断される方と見受けられますので、***さんの疑問に じっくりお答えしたいと思います。 > 韓国の歴史教育は反日ではないと書かれていますが、私にはそうは思えません。ほん の一例ですが、「日帝」という言い方ですが、普通の日本人にとっては喧嘩を売っている 言い方です。   韓国の教育が「反日」かどうかですが、まずは被害者と加害者とで相当な認識の ギャップがあることを念頭におく必要があると思います。その一例がまさに「日帝」とい う語です。   日本で「日帝」という語は左翼しか用いないので刺激的に聞こえるかもしれませんが、 韓国で「日帝」はほとんど日常語と化しています。日本人が大正時代、明治時代というの と同じ感覚で韓国人は日帝時代(1910-45)という語を使用しています。   この日帝時代という語は、時代区分のうえで欠かせないので、韓国ですっかり定着し ました。あえてこれを他の言葉に置きかえると植民地時代あるいは日帝強占期になるので すが、それらは大日本帝国による強権支配のニュアンスが薄かったり、あるいは逆に強す ぎたりするのか、韓国では日帝時代が一般的になりました。   それほど韓国にとって日帝時代の影響は深刻だったのですが、その史実や実態を日本 ではほとんど知らないのではないでしょうか。   なお、加害・被害に関する認識ギャップで連想するのですが、半年くらい前、身内が 電車の中で足を踏まれ、たいへん痛い目にあいました。今でも歩き疲れた時や冷えた時な どはかなり痛むようで、そのたびに足を踏まれた時のことを思い出すそうです。   一方、足を踏んだ方は今ごろおそらく踏んだ事実すら忘れているでしょう。被害者と 加害者は、えてしてそうしたものではないでしょうか。   被害者は、とくに軍靴で踏まれて痛い目にあった被害者にしてみれば、傷はたとえ60 年前であってもとうてい忘れることができないことでしょう。一方、加害者にしてみれば、 60年も前のことにいつまでこだわりつづけるのかと言いたくなるでしょう。そうした温度 差が「反日教育」の解釈に影響しているのではないでしょうか。 > 確かに日本人は100年前に朝鮮に侵略をして、朝鮮の植民地支配をし、その事実を認 めようとしないどうしようもない日本人が沢山いることは事実で、私も苛立たしく思って いますが、それにしても、大統領が口を開くたびに、「日本人は反省しろ」といっている のは、どうなんでしょうか。   多くの日本人には、<大統領が口を開くたびに「日本人は反省しろ」といっている> と映るのでしょうが、事実は逆です。最近の大統領は口を開くたびに「未来志向の日韓関 係」を格調高く述べ、反省や謝罪は口にしていません。盧泰愚大統領しかり、金大中大統 領しかり、盧武鉉大統領もしかりでした。ただし、これは条件付きです。たとえば盧大統 領はこう述べました。  「私は、日韓間の未来志向的な協力をより強化していく中、歴史問題が両国国民間の友 好親善を阻害しないよう互いに努力する必要があることを強調した。小泉総理も、これに 対し共感を示し、両国政府当局が協力していくことを希望された(注1)」   盧大統領は「歴史問題」が両国の友好を阻害しないかぎり、歴史問題にはふれないと 語りました。この発言は韓国で批判をあびたのですが、盧大統領自身は泰然としていたよ うで、朝日新聞はこう伝えました。  <盧大統領は、昨年の小泉首相との会談で「在任中は過去の問題を争点化しない」と語 るなど、金大中前政権の未来志向を引き継ぎ、「姿勢が甘い」と批判を浴びても泰然とし ていた(05.3.18)>   しかし、盧大統領の期待や希望は数回にわたって裏切られました。大統領の神経を逆 なでするような言動が日本で相次ぎました。まずは靖国問題です。小泉首相は中国や韓国 の反発を覚悟してまで靖国神社参拝の意思を明白にしました。   小泉首相だけでなく、他の閣僚からも無神経な発言が飛びだしました。昨年11月、中 山成彬文科相は、教科書から「従軍慰安婦や強制連行という言葉が減って良かった」と発 言し、韓国をいらだたせました。この発言は、日本はやはり過去の侵略の歴史を覆い隠そ うとしているとみられました。   そんなところへ竹島=独島問題がもちあがりました。島根県の「竹島の日」制定に関 連して 2月23日、高野・駐韓大使は「竹島は日本の国土」と述べ、韓国を刺激しました。   それまで歴代の韓国政府は、竹島=独島問題に関するかぎり「静かな外交」、つまり 波風たてない外交を基本としていました。その結果、たとえば日本は竹島=独島にEEZ (排他的経済水域)を設定しても韓国はEEZを宣布しなかったくらいでした。   同時に、竹島=独島への渡航を制限するなど日本を刺激しないように、いわば「腫れ 物」にできるかぎり触れない方針で対処しました。   そうした韓国の方針を知ってか知らずか、高野発言や島根県の「竹島条例」案はパン ドラの箱をあけてしまったようでした。ここまでくると、じっと我慢をしていた盧大統領 も限界にきたようです。   大統領は、朝日新聞(3/18)によれば <竹島条例案の存在を知った2月下旬、「物寂し い様子(側近)」に変わり、一部メディアは「これは侵略だ、と激怒した」と報じた>と されます。   こうした経緯から、日帝に対する独立運動記念日の3月1日、盧大統領はついにこう述 べました。        -------------------- 韓国大統領、歴史問題で日本批判 「謝罪と賠償を」、朝日新聞 05.3.1  (前略)  「韓国政府は国民の怒りと憎悪をあおらないよう自制してきたが、我々の一方的努力だ けでは(歴史問題は)解決できない。両国関係の発展には日本政府と国民の真の努力が必 要だ」と述べた。  大統領は北朝鮮による日本人拉致問題について「日本国民の怒りを十分理解する」とす る半面、「日本も、強制徴用から慰安婦問題まで日本支配時代に数千、数万倍の苦痛を受 けた我が国民の怒りを理解しなければならない」と強調。「真の自己反省」がなければ 「いくら経済力が強く 軍備を強化しても隣人の信頼は得られない」と述べた。  大統領は 65年の日韓条約で日本が経済協力をする代わりに韓国が請求権を放棄した 問題に言及。「韓日協定と過去補償問題については(韓国)政府にも不十分な点があった。 被害者としては、国家が国民個々人の請求権を一方的に処分したことは納得が難しいだろ う」として 韓国政府が今後、国民への個人補償問題を前向きに検討する考えを表明した。 同時に「日本も法的問題の以前に人類社会の普遍的倫理、隣国間の信頼問題との認識を持 ち積極姿勢を示さなければならない」と述べ、日本にも対応を促した。        --------------------   この発言を小泉首相はどう受止めたでしょうか。盧大統領のメッセージを「国内向 け」の発言であるとテレビの前で語りました。外交儀礼上、言ってはならないことを失言 してしまったようです。これは、やはり火に油をそそぐ結果になりました。韓国の中央日 報は韓国の反発をこう伝えました(05.3.18)。        -------------------- 鄭統一相「小泉首相、韓国の現実見誤っている」  (前略) 鄭長官は、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の3.1節(独立運動記念日)祝辞と関連、 小泉首相が「国内用」と評価したことについて「大統領は国内の事情が厳しいときも、国 内の負担(世論など)にもかかわらず、(韓日関係を)未来志向へ導こうと努力した」と し「そのため、国内用と決め付けるのは、ロジックにもはずれ、礼儀にも背く」と話した。 続いて「(小泉首相のコメントは)事実関係も間違っており、国家の元首に対する礼儀 でもない」と指摘した。鄭長官は「韓国としては、不十分なものの、日本の謝罪を受け入 れ、過去の問題を締めくくろうとし、それに基づいて、未来へ進もうとした」とし「(日 本が過去史を正当化することで)現在の問題が引き起こされたのであり、韓国こそ、北東 アジアの和平のため、過去史にこだわらず、未来志向へ進もうとしている当事国」だと強 調した。        --------------------   盧大統領は過去の問題を締めくくり、未来志向で進むつもりでいたのに、それが裏切 られて失望した結果、対日政策を大きく変えざるをえなかったようです。日本に植民地支 配の真実究明、真の謝罪と反省を求める方向へ転換しました。17日の政策転換声明を朝日 新聞は次のように伝えました。        -------------------- 韓国が対日政策で新原則 「断固対処」の姿勢強調  (前略)  声明は、竹島条例と検定申請中の一部の中学歴史教科書について「韓日友好関係への棄 損行為で遺憾」と批判。こうした行動や一部政治家らの「妄言」が、日本の自発的な過去 清算への努力を求めた盧政権の期待を裏切ったとの見解を示した。  声明はそのうえで今後の日韓関係の基調と対応方針を提示。「(植民地支配の)真実究 明、真の謝罪と反省、その後の許しと和解という世界の普遍的方式に基づいて歴史問題を 解決していく」と述べ、日韓友好の前提として日本の「謝罪と反省」が不可欠だとの認識 を示した。  竹島と教科書問題を巡る最近の動きに対しては「過去の植民地政策を正当化しようとし ており、断固対処する」とした。  植民地時代の個人被害補償を巡っては、65年の日韓条約に基づいて「韓国政府が負担 するものは直接解決する」とした。しかし一方、元慰安婦や被爆者、サハリン在住の韓国 人ら日韓条約当時、請求権問題の想定外だった人たちについては「日本政府が人権を尊重 し、人類の普遍的な規範を順守して解決するよう促す」としている。  一方で声明は「日本は東北アジアの平和と安定を実現する同伴者であるとの信念は放棄 しない」と言明。政治、経済、文化の交流は継続し、友好関係を維持することも強調した。 また韓国国民に対して「国家間の礼儀に反することがないように」と自制を促した。  以下省略(注2)。        --------------------   韓国の新対日政策、通称「対日ドクトリン」は、竹島=独島問題に関しても「静かな 外交」を改め、同島の開放など積極策に転じる方針のようです。   こうした韓国の政策転換に日本はだいぶ困惑しているようです。それが大きく報道さ れましたが、その記事を見て、***さんは<大統領が口を開くたびに、「日本人は反省 しろ」といっている>ととらえたのでしょうか。しかし、実はこれは数十年ぶりの発言な のです。それくらい今回の方針転換は歴史的なターニングポイントともいえます。   この転回を日本はどう受止めるのかが問題です。声明が「日本は東北アジアの平和と 安定を実現する同伴者であるとの信念は放棄しない」としていることに日本政府は一応安 心はするものの、じきに難問のくることが予想されます。   それはいうまでもなく教科書問題です。扶桑社の中学校用歴史・公民教科書の検定、 およびその採用をめぐって、成りゆき次第では韓国における反日の火はさらに燃えさかり、 皮肉な「日韓友情年2005」になりかねません。   扶桑社の教科書は、日本では今のところ大きな問題にはなっていないようですが、韓 国では「歴史歪曲教科書」として検定(3/5)前の段階ですでに大きな問題になりました。 それを中央日報はこう伝えました。        -------------------- <日本教科書歪曲>どんな内容なのか? 扶桑社発行の05年改訂版 公民・歴史教科書 検定申請本(白表紙版)は、侵略戦争な ど日本の過去の過ちについて、現行版同様ひた隠しにしている。 とりわけ、公民教科書 に「竹島は日本の領土」という記述を追加したことは、今後両国間のもつれを一層強める 要素だ。 ◇「朝鮮(チョソン)は中国の服属国」=公民教科書は、独島(トクト、日本名:竹 島)関連以外に、日本の防衛問題や主権侵害の事例にも言及し、北朝鮮の工作船やミサイ ル開発、拉致問題などを強調している。 帰国した拉致被害者の写真も載せている。  (中略) 歴史教科書の場合、19世紀の朝鮮(チョソン)を「中国の服属国」と記述するなど、 歪曲部分が多い。 現行版の「中国の強い政治的影響下にあった」から上記表現に変えた。 また「朝鮮の近代化を助けた日本」なる別項目を設け、いわゆる「植民地近代化論」を主 張する。「朝鮮人のうち、一部が日韓併合を受け入れた」という記述もある。 そして、今回も従軍慰安婦問題について全く言及しなかった。 「植民地によって苦痛 と犠牲を強要された」という現行版の記述も削除され、創氏改名に関しては「韓国人の日 本式名を認めた」と日本が強制したことをぼかした。 強制徴用や皇民化政策についての記述も巧妙だ。 壬辰倭乱(文禄の役)当時、朝鮮が受けた被害の事実も書かれていない。 中国による支配の視点で韓国史を描き、年表に古朝鮮を入れていない。 扶桑社を支援する極右団体「新しい歴史教科書を作る会」は、今年6月に全国で巡回展 示会を行うなど、採択率を高めるべく大々的な活動を展開すると発表した。 採択の締め 切り日は8月15日で、万一採択されると、来年4月から教科書として使われることにな る(注3)。        --------------------   扶桑社の教科書は、今後、右翼系の東京都や広島県、埼玉県などで採択問題がかまび すしくなるでしょうが、近隣諸国との友好関係を阻害するような教科書だけは、何として も防ぎたいものです。   日韓関係は、昨今の韓流ブームもあって、庶民レベルで相互理解が少しずつ深まりつ つあるところですが、日米関係とちがって日韓、日中関係は長年の友好も一日にして崩れ かねません。   実際、今回の「竹島の日」条例制定は、十余年にわたる各地の姉妹都市関係に多大な 影響を与え、各地で相互訪問が中断されつつあります。この裏には韓国の過剰反応がたぶ んに影響しているのですが、こうした事態は韓国にとってマイナスになることはあっても 決してプラスにはなりません。韓国にも冷静な対応を望みたいと思います。 (注1)<日韓首脳会談後の共同記者会見(2004.7.21)における盧武鉉大統領発言> (注2)朝日新聞 2005.3.17 <韓国が対日政策で新原則> http://www.asahi.com/politics/update/0317/006.html (注3)中央日報 2005.3.11 <日本教科書歪曲>どんな内容なのか? (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    北朝鮮政策、アメリカへの追随か、働きかけか 2005.3.19 メーリングリスト[zainichi:28682]  ****さん、こんばんは。半月城です。   Re:[zainichi:28664] >「憎き北朝鮮」をただ苛めてやろう、という安部晋三氏のような歴史的視点もビジョン ももたない人が北のレジュームチェンジを口にしポピュリズムにおもねて政治を動かすほ どに日本の政治土壌は貧しくなっていくでしょう。   拉致問題は、日本にとって二重の不幸ではないかと思います。この問題の影響が深刻 すぎて、日本は北朝鮮の核問題などに対し何の政策も立てられない手詰まり状態、韓国で いう「束手無策」になってしまったのではないかと思われます。   もっとも、こうした状態は、北朝鮮を仮想敵国とする軍部や右翼にとっては喜ばしい ことかもしれませんが。そうした人たちの威勢に押されて、日本はますますアメリカ追随 を深め、韓国とはますますギャップを大きくしているようです。   その点、韓国は政府も野党もそれなりのビジョンをもっているようです。韓国で最大 野党の党首・朴槿恵女史は、下記のようにアメリカは北朝鮮にもっと「前向きな姿勢」で 臨み、北朝鮮に特使を派遣すべきだと気炎を吐いているようで注目されます。        -------------------- 中央日報<「北朝鮮に米高官派遣すべき」訪米中の朴代表> 訪米中の野党ハンナラ党・朴槿恵(パク・クンヘ)代表は17日、米政府に、北朝鮮の 核問題を解決する案として、北朝鮮に特使を派遣することを提案した。 朴代表は、ヘリテイジ財団が主催した懇談会に出席し「6カ国協議がこう着状態に陥っ たのは、朝・米間の不信が一つの理由」だとし「議会の主要人物や政府高官を北朝鮮に派 遣するなど米国は北朝鮮との対話に前向きな姿勢で臨むべき」と提案した。 朴代表は、6カ国協議の枠組みの中で、2国間(朝・米)協議を行なうことの重要性に も触れた。朴代表は、韓国政府に対しても「北朝鮮が誤った判断をしたり、期限内に6カ 国協議に復帰しない場合、韓国としても北朝鮮を助ける方法がなく、交流協力もやはり厳 しくなる、との点を明確にすべき」だと強調した。 (以下省略)        --------------------   日本でこのようにアメリカにモノをいえる政治家がはたしているでしょうか? もっ とも拉致問題のおかげで、このような大局的な見地で発言できるような雰囲気が消滅して しまったので、そのような大物の政治家がいないのも仕方がないのかもしれません。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    竹島=独島問題、櫻井よしこ氏を批判する(1) 2005.4.7 メーリングリスト[AML 1044]   半月城です。   櫻井よしこ氏が<「竹島」領有権を検証する>と題して週刊新潮に記事を書いていま すので、この記事が妥当なのかどうか検証したいと思います。   記事を具体的に見る前の準備として、重要な朝鮮の古文書をみておきたいと思います。 江戸時代、今日の竹島=独島は日本で松島、鬱陵島は竹島と呼ばれていましたが、松島は 朝鮮でいう于山島であり、朝鮮領とする重大な記述が朝鮮の史書『東国文献備考』輿地考 にあります。   この史書は1770年、朝鮮の文物や制度を集大成した類書として刊行された官撰書です が、この書の一分類である「輿地考」に于山島がこう記されました。        -------------------- 『東国文献備考』「輿地考」(1770)  于山島 鬱陵島   東350里に在り 鬱は一に蔚と作る ・・・   輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島 なり(注1)        --------------------   このように「輿地考」は『輿地志』の記述を引用して、于山島が日本の松島(竹島= 独島)であると記録し、朝鮮の領有意識を示しました。さらに、この書は1908年に『増補 文献備考』として増訂されたので、朝鮮では于山島は朝鮮領であり、日本でいう松島とい う認識が百数十年後にも再確認されたことになります。   こうした『東国文献備考』の記述は、日本にとってきわめて不利な書であるだけに、 それを必死でほじくり返したのが下條正男氏でした。また、その下條説を無批判に採用し たのが櫻井よしこ氏で、問題の『週刊新潮』(05.04.07)にこう記しました。        -------------------- 改竄された歴史書   問題はこの文献(『東国文献備考』)に登場する于山島が、本当に日本の松島、つま り現在の竹島なのかである。結論から言えば、于山島は竹島ではなかった。下條教授が説 明した。  「韓国側の主張の根拠、東国文献備考に引用されている『輿地志』はすでに存在しませ ん。当然、輿地志の記述が本当にそのようになっているのか否かは確認できません。   そこで輿地考の底本である『疆界考(きょうかいこう)』を検証しました。するとそ こには<輿地志に云う。一説に于山鬱陵本一島>と書かれています。つまり于山島も鬱 陵島も同じ島だと書かれているわけです。   重要なのは、この記述の後に疆界考を著した人物の所見として、<而(しか)るに諸 図志を考えるに、二島なり。一つは則ち基(「其」の誤り、半月城注)の所謂(いわゆる) 松島にして、蓋(けだ)し二島ともに于山国なり>と書かれていることです。   元々の輿地志には于山島が松島であり、日本の竹島であるとは一切書かれていなかっ た。のみならず、于山島は鬱陵島のことだと記されていた。にもかかわらず、18世紀に著 された疆界考の解説の中で于山島は松島だという主張が作られていったのです。それが 『輿地考』で更に改竄されたのです」   つまり、512年から竹島は朝鮮領だったという主張は成り立たないのだ。韓国側の主 張する最も古い歴史的根拠が改竄によるものだったと、文献を示して証明したのは下條教 授が初めてである。事実に沿って検証するという意味で日韓両国にとって非常に意味深い。        --------------------   ここでまず問題なのは、下條正男氏の改ざん説が妥当かどうかです。結論からいえば、 これは下條氏の我田引水と思われます。その理由は下記に書いたとおりです。 半月城通信<下條正男氏への批判、朝鮮史書改ざん説>   その一方で、百歩譲って下條氏のいう改ざん説が正しい場合も考えておきたいと思い ます。この場合『輿地志』の著者である柳馨遠は于山島と鬱陵島は同一の島と考えたが、 『疆界考』の著者である申景濬はそれを明確に否定し、諸図志を考察して、鬱陵島と于山 島は別々の島であり、于山島は日本でいう松島であったという解釈になります。   この場合、申景濬は自己の考えを『輿地志』の記述であるかのようにいつわってまで も『東国文献備考』に記述したことになります。すなわち、それほどに于山島は松島であ るという確信を強くもっていたことになります。その裏づけには「諸図志」がひかえてい る構図になります。   そうなると、下條氏や櫻井氏がいうように『輿地志』では于山島=松島という認識が 成立しないので、たしかに「512年から竹島は朝鮮領だったという主張は成り立たないの だ」ということになります。   しかし、その一方で朝鮮ではすくなくとも 1770年の官撰書『東国文献備考』では、 引用の善し悪しは別にして、「于山国の一島である于山島は日本の松島である」と強く確 信していたという結論になります。   このように、たとえ下條説の史書改ざん説を認めたとしても、朝鮮の于山島=松島に 対する領有意識はその時期が単に1770年にずれるのみで大勢に影響はありません。そこか らは、櫻井よしこ氏がいう「于山島は竹島ではなかった」との結論は決してうまれません。   なお、申景濬が于山島=松島であると確信するにいたった諸図志ですが、これは『世 宗実録』地理志(注2)などであるとみられますが、そのほかにも安龍福の証言なども影 響しているようです。   それほど、漁夫・安龍福の足跡は大きな影響を与えたのですが、かれについても櫻井 よしこ氏は下條氏の説をウノミにしているようで、こう記しました。        --------------------   かれは1693年、江戸元禄時代に鬱陵島に渡ってきた。その時 日本人漁師に捕えられ、 隠岐島経由で鳥取藩に送致されて取り調べを受けた。やがて朝鮮に送還されるが、3年後 の1696年に再び隠岐に密航した。下條教授がこの人物を語った。  「朝鮮に戻った彼は、日本側(鳥取藩)に鬱陵島と于山島をもって朝鮮の地界とする、 つまり両方が朝鮮領であると告げたとか、鳥取藩主と相対で話したなどと朝鮮側に報告し ています。しかし、そのような事実はなく出鱈目です。   ところが、安龍福の語った<于山島は朝鮮領>というくだりは朝鮮王朝側の文献に記 載されていったのです」        --------------------   たしかに帰国後における安龍福の自供は、基本的に手柄話・自慢話なので、誇張や虚 偽が多いのは確かです。しかし、下條正男氏は「日本側(鳥取藩)に鬱陵島と于山島を もって朝鮮の地界とする、つまり両方が朝鮮領であると告げた」ことをデタラメとしまし たが、これだけは史実であることが判明しています。   鳥取藩の岡島正義の『竹島考』などによると、1696年、安龍福一行が二度目に鳥取藩 へ着岸したとき、船の先頭には「朝鬱両島 監税将臣 安同知騎」と記した旗をかかげてい たと記録されました。監税将臣は、安の詐称であり、同知とは従二品の官職をさします。   この旗について、『竹島考』は「朝鬱両島ハ鬱陵島(日本ニテ是ヲ竹島ト称ス)于山 島(日本ニテ松島ト呼フ) 是ナリ」と記し、安龍福の意図を正しく理解しました。   この時の安龍福の目的は、旗の記載から明らかですが、鳥取藩にもあらかじめ隠岐国 代官から「竹島の義に付 御訴訟に参り候」との連絡が入っていました。しかし、鳥取藩 において安龍福がおこなった交渉の詳細は同藩に記録が残っていないようです。   その理由は、鳥取藩が当初は誤ってかれらを外交使節として待遇したことにあるよう です。本来なら、外国との外交交渉は長崎藩がおこなうことになっているので、かれらを そちらへ行かせるか、あるいは追い返すのが筋なのですが、そうしなかったので、そうし た誤りを記録に残すわけにはいかなかったようです。   滞在中、安龍福たちは鳥取藩主とは会えなかったことは確かなようです。そのかわり 「安龍福が、関白すなわち徳川将軍に宛てた訴状を鳥取藩の役人に渡していたのではなか ろうか(注3)」とも推測されています。安龍福が日本で何らかの文書を提出したことは 記録にあり、日朝双方の共通認識になりました。   安龍福は帰国後、越境の罪で処罰されましたが、その時のかれの活動により「鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島」という認識が強固なものと なり、上に書いた『疆界考』や『東国文献備考』などに記述されました。   なお、かれの于山島=松島という認識は、最初に日本へ連行されたときに竹島=独島 を経由して同島を実見しているので(注4)、そのときに一層確信したものと思われます。   以上のように、韓国が竹島=独島を韓国領とする根拠は『東国文献備考』などの官撰 書で明確になっているのですが、これを認めない立場(?)の櫻井よしこ氏は、わらをもつ かむ思いか、日本の領有権を主張する米田健三氏の話をこう伝えました。        --------------------  「日本側には竹島が日本領であることを明示する多くの歴史的経緯と資料があります。 江戸時代の1618年には鳥取藩の回船業者、大谷甚吉と村川市兵衛の両名が鳥取藩を通して 幕府に鬱陵島への渡海・開発を願い出て許可されています。彼らは鮑やアシカ漁で大きな 利益を得ていました。   地図を見て下さい。両名が渡海・開発を許された鬱陵島は竹島の北西、朝鮮半島より の位置にあります。つまり江戸時代には、竹島のみならず、ずっと先の鬱陵島も日本領 だったのです」        --------------------   米田氏がいう「竹島が日本領であることを明示する多くの歴史的経緯と資料」とは、 結局は大谷家が幕府から鬱陵島を「拝領」したとかの虚言を記した大谷家文書であるよう です。こうした私文書は、日本政府ですら竹島=独島の領有権を主張する際にまったく用 いなかったことはすでに書いたとおりです(注5)。   櫻井氏が、竹島=独島を古来の日本領とする根拠は上の文につきるのですが、そこに は日本政府が「固有領土」の根拠としている古文書はひとつも登場しませんでした。櫻井 氏が不勉強なのか、それとも日本政府の根拠を薄弱と考えているのか、あるいはその両方 かも知れません。   櫻井氏の不勉強といえば、下記の文が目をひきます。        --------------------   1696年(元禄9年)、徳川幕府と李朝の間で鬱陵島の帰属問題が生じ、幕府は争いを 避けるために日本人の同島への渡海を禁じてしまった。   江戸時代の日本は、武器としての刀が心を写しとる鑑となった時代でもある。争いを 好まなかった時代なのだ。   結果として鬱陵島は朝鮮領となった。しかしその時でさえも竹島は明白に日本の領土 であり続けたのだ。        --------------------   櫻井よしこ氏は、幕府が鬱陵島を放棄した真の理由を勉強していないようです。同氏 はその理由を「刀の鑑」にしてしまいましたが、実は幕府の決定に影響を与えたのは、幕 府に対する鳥取藩の回答でした。   これについては、前回の書き込み<週刊新潮の竹島=独島記事を批判する>に書きま したが、重要な論点なので、内藤正中氏の論文をもう一度引用することにします。        --------------------   さらに幕府の決定に重大な影響を与えたと思われる鳥取藩の1695年(元禄8)12月25 日付の文書がある。これは、前日の24日に幕府老中 阿部豊後守からの質問に対する鳥取 藩の回答書である。   幕府から鳥取藩への質問は7か条で、その第1に「因州 伯州え付候 竹島はいつの此 より両国の附属候哉、先祖領地 被下候以前よりの儀 候哉」とあり、幕府としては、竹島 が因幡 伯耆を支配する池田藩に所属する島と考えていたことがわかる。したがって、い つから因伯の領地になったかと問いかけるのである。   これに対する鳥取藩の回答は、「竹島は因幡 伯耆附属には無御座候」であった。   さらに第7項には、「竹島の外 両国え附属の島 有之候哉、並是又 漁採に両国の者 参候哉」との質問がある。これに対する鳥取藩の回答では、「竹島 松島其外 両国之附属 の島 無御座候事」と、竹島とともに松島についても、因伯両国に附属するものでないこ とを明言した(注6)。        --------------------   竹島、松島が鳥取藩の領地でなく、幕府の天領でもなければ日本の領土ではありませ ん。江戸時代「領主なき土地はないのが封建社会の原則」なので、そうした土地は異国の 地になります。この原則にしたがい、幕府は竹島を放棄し、その旨を対馬藩を通じて朝鮮 へ伝えて「竹島一件」は落着しました。   櫻井氏は「結果として鬱陵島は朝鮮領となった。しかしその時でさえも竹島は明白に 日本の領土であり続けたのだ」と記しましたが、そのような事実はありません。うえに述 べたように、松島(竹島=独島)も因幡・伯耆両国に附属する土地ではなく、やはり異国の 地でした。   そもそも、幕府は「竹島の外 両国へ附属の島」があるのかどうかと鳥取藩にたずね ており、松島(竹島=独島)の存在自体をよく知らなかったようです。ましてや竹島(鬱陵 島)以上に領有意識はありませんでした。したがって「竹島は明白に日本の領土であり続 けた」というのは、櫻井氏の明らかな誤りです。   この後、話は近代になりますので、稿を改めることにします。 (注1)申景濬『増補文献備考』巻之三十一「輿地考十九」蔚珍古縣浦条  「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」 (注2)半月城通信<『世宗実録 地理志』と于山島> (注3)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000,P106 (注4)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号、国立国会図書館,1996 (注5)半月城通信<週刊新潮の竹島=独島記事を批判する> (注6)内藤正中「竹島(独島)問題の問題点」『北東アジア文化研究』第20号,2004,P7、   鳥取短期大学発行 http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/naitou04.pdf (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    竹島=独島問題、櫻井よしこ氏を批判する(2) 2005.4.10 メーリングリスト[AML 1067]   半月城です。   前回に引きつづいて、櫻井よしこ氏の竹島=独島記事に対する批判を継続します。今 回は近代以降を取りあげます。   島根県の「竹島の日」条例は、1905年、竹島=独島を同県の管轄下におくという県告 示100周年を機に制定されましたが、まずはその県告示にいたった当時の状況を簡単にみ ておきたいと思います。   1904年に始まった日露戦争の帰趨は、日本海=東海における制海権をどちらが握るの かにかかっていました。同海域において日本の輸送船はロシアのウラジオ艦隊にしばしば 沈められたので、劣勢の日本はウラジオ艦隊をいかに抑えるかが急務でした。   そこで注目されたのが、鬱陵島と竹島=独島でした。同島に望楼を築き、ウラジオ艦 隊の動きをさぐれば、日本は軍事的に有利になります。そんな時局のなかで漁夫の中井養 三郎からリャンコ島の「領土編入ならびに貸下願」が日本政府に出されました。   リャンコ島とは竹島=独島のことですが、当時は島名混乱の影響を受け、竹島=独島 はその日本名が完全に消えてしまい、フランス捕鯨船にちなんだ西洋名のリアンクール岩 か、リャンコ島とかよばれていました。   中井の領土編入願いに対して、内務省は、戦争という時局に際し、韓国領の疑いがあ る莫荒たる不毛の岩礁を収めたら、諸外国に日本は韓国併呑の野心があるのではと疑われ るとして反対しました。   それも自然な成りゆきです。同省は、鬱陵島と竹島=独島を「本邦に関係なし」とし て、太政官の裁可を得ていたので、容易に賛成するはずはありません。   ところが外務省の判断はちがっていました。戦争という「時局なればこそ その領土 (竹島=独島)編入を急要とするなり、望楼を建築し 無線もしくは海底電信を設置せば 敵艦監視上 極めて届竟ならずや」として内務省を説得しました。   明治政府内においてはこうした帝国主義者の意見がまさり、結局、竹島=独島は「無 主地」であり、中井養三郎の「移住」が国際法上の「先占」にあたると強弁して領土編入 を決定し「竹島」と命名する閣議決定をおこないました(注1)。   ただし実のところ、竹島=独島は無主地ではないし、また中井の移住とは名ばかりで、 実はアシカ猟の季節ごとに風で破損するような菰(こも)ぶき小屋に寝泊まりしたという のが実態でした。   この閣議決定は、政府の官報などには一切掲載されず、島根県へこっそり伝えられま した。そして秘密裡にことを運ぶためか、韓国には一切伝えられませんでした。小笠原諸 島の場合には関係国と十分な協議をおこなったのと対照的です。閣議決定を受けた島根県 は「竹島」を同県の所管とする告示をおこないました。   この経過に対して、櫻井よしこ氏は韓国側の意見、および日本人学者の反論をつぎの ように紹介しました。        -------------------- 週刊新潮<「竹島」領有権を検証する> 05.04.07   韓国側は、日本が竹島を島根県に組み入れたのは、1905年で、その際、韓国を含む他 国が抗議しなかったから日本領だと主張するのは理不尽だ、なぜなら、韓国は前年の二月 に日韓議定書を、8月には第1次日韓協約を結ばされて外交権を剥奪されており、発言でき なかった状況だったからと主張する。   米田教授はこの主張も誤りだと述べる。 「日韓議定書は韓国の外交権とは無関係です。第一次日韓協約によって日本が韓国の外交 権を管轄した事実はありません・・・   ちなみに日本が韓国の外交権を管轄するのは1905年11月の第二次日韓協約以降、竹島 編入の9カ月後である。        --------------------   米田氏や櫻井氏の趣旨は、韓国は日本の竹島=独島編入に抗議できる状況だったにも かかわらず抗議しなかったという点にあるようですが、狡猾にも竹島=独島編入がこっそ り行われた事実にはまったくふれませんでした。   編入が政府レベルで公知されなければ、韓国はその事実を知るのは困難であるし、抗 議のしようもありません。韓国が編入の事実を知らされたのは 1906年のことであり、そ の時は外交権を剥奪された第二次日韓協約以降でした(注2)。その時点で日本に対する 抗議は不可能です。   なお、ささいな補足ですが、第一次日韓協約で日本は外交顧問としてスチーブンスを 韓国へ送り込み、外交上の実権を掌握させていました。したがって、このとき韓国は外交 権を剥奪されないまでも、手足を縛られたも同然でした。米田氏の指摘はかならずしも妥 当ではありません。   米田氏はさらに「明治維新で近代国家に成長しようとしていた日本はあらゆる点で国 際法を重視しました。領土も国際法に沿って規定すべきだと考えて、日本領である竹島を 島根県に編入した」と書きましたが、これは疑問です。   まず、竹島=独島は前回書いたように、日本の最高国家機関たる太政官が暗に韓国領 と認識したうえで放棄した島であり、しかも無主地ではないので、そうした地を領土編入 するのは「狼どもの国際法」にてらしても違法であることはいうまでもありません。   そもそも日本が編入しようとした島の名は「竹島」でなく「リャンコ島」でした。古 来の日本名が失われ、外国名がつけられた島は、いわば領有意識がほとんどなかった証拠 ともいえますが、それでも強いて日本領というのはあまりにも我田引水がすぎるのではな いでしょうか。   さらに、もし島根県のような一地方の告示が「狼どもの国際法」に沿うというのなら、 戦後、韓国の慶尚北道が竹島=独島に行政権をおよぼしたことも国際法に沿うので、日本 はこれを認めるべきだというのでしょうか?   しかも、そのとき日本は韓国の行政措置に何の異議も抗議もしませんでした(注3)。 当時、竹島=独島は連合国により日本領から切り離されていたのですが、その連合国の措 置、SCAPIN 677号に関しても日本は何の異議申し立てをおこないませんでした。この時の 日本は韓国へ抗議しようと思えばできたことはいうまでもありません。   そうした事情をくわしくみることにします。1948年、韓国はアメリカ軍政庁の権限を 引きついで独立したのですが、それまで竹島=独島はアメリカ軍政庁の管轄下にありまし た。   1946年、連合国総司令部(GHQ)は指令 SCAPIN 677号を発し、その第3項(a)で竹 島=独島や鬱陵島、済州島を日本の政治、行政区域から切り離しました。これは最終決定 ではないものの、連合国はこれらの島を韓国領と認識していたようです。   そればかりか、GHQは漁業資源保護のためマッカーサーラインを引き、竹島=独島 へ日本の船が接近することを禁止しました。   こうした一連の措置に日本はまったく異議を申し立てませんでした(注4)。これは とりもなおさず、戦後の日本が竹島=独島を放棄したことを意味します。   こうした史実を櫻井よしこ氏は一言半句も語りませんでした。そのかわり、唐突に李 承晩ラインについてこう書きました。  「1952年1月28日、サンフランシスコ講和条約が発効される4月28日を前に、国際法を無 視した「隣接海洋の主権」を主張して、公海上に李承晩ラインを引き、その中に竹島を入 れてしまった」   櫻井よしこ氏はマッカーサーラインを知ってか知らずか、それについての国際法には 云々せずに李承晩ラインだけを問題にしましたが、実は両者はほとんど同じでした。   当時、日本漁船がマッカーサーラインを侵して拿捕(だほ)された漁船が 1951年4 月だけでも27隻にものぼるほど、日本は魚の確保に必死になっていました(注5)。   マッカーサーラインは講和条約の3日前に撤廃されましたが、その対策を韓国政府が もし立てなかったら、日本漁船による漁業資源の乱獲は火を見るより明らかでした。韓国 がマッカーサーラインを引きついで李承晩ラインを設定したのは、善し悪しはともかく、 漁業資源の 200カイリ時代を先取りしたものといえます。   そのような歴史的背景を無視して櫻井氏のように一方的で偏った記述をおこなうのは、 いたずらに偏見をあおるだけです。   こうした一方的な記述は、サンフランシスコ講和条約についても同様です。櫻井氏は、 記事で竹島=独島を韓国領として再確認することを要求した韓国の主張をアメリカが拒否 した事実については詳細に書きましたが、同条約において日本の要求も最終的には受けい れられなかった事実については記しませんでした。   竹島=独島は、アメリカの第1-5次草案で韓国領とされましたが、第6次草案では日 本のロビー活動の影響と、韓国「外務部の消極的政策と無為無能のために」日本領とされ ました(注6)。   しかし、条約はアメリカ一国の考えで決まるわけではなく、連合国の承認をうる必要 があります。その過程でイギリス案とのすりあわせがなされ、最終的には竹島を日本領、 韓国領のどちらにするわけでもなく、条約に竹島=独島は片言隻句も記されませんでした。 ハボマイ・シコタン諸島と同様に、あいまいなままで締結されました(注7)。   この条約の解釈ですが、櫻井氏は韓国の見方をこう記しました。  「韓国側は、サンフランシスコ講和条約には、竹島を日本領とするという記載がないた めに、日本は竹島を放棄し韓国の領土となった、と主張する」   この記述は意図的なのか、すこし舌足らずです。これでは読者に韓国は飛躍した論理 をごり押ししているという印象を与えかねません。   韓国の主張ですが、条約には独島を日本に編入するという積極的な規定がないので、 SCAPIN 677号で同島を日本から分離した規定には何ら変更がない、さらに韓国は独立を達 成して以来、独島の管理統治を回復しており、そのような状態の下で対日平和条約の該当 事国から正式承認を受けていたとするものです。   同時に韓国の基本的な言い分は、連合国のカイロ宣言やポツダム宣言を引きあいに出 した下記の文に集約されます。        --------------------   連合国の日本領土処理に関する基本方針は、日本領土を清日戦争以前の状態に戻そう としたことが明らかであり、1905年に日本が韓国政府に外交顧問を派遣しておいて、島根 県告示という一地方自治団体の告示で編入した独島の取得は、まさしく「暴力と強力(ご うりき)によって奪取」したものであることが明白であるから、日本は、当然にかかる地 域から駆逐されなければならない(注8)。        --------------------   これにつけ加えるならば、韓国やソ連はサンフランシスコ講和条約の非調印国であり、 そうした立場の国が同条約により著しい不利益を強制されることはありえません。   したがって、韓国やソ連が SCAPIN 677号にもとづいて、竹島=独島やハボマイ・シ コタン諸島を継続統治している現状は、サンフランシスコ講和条約によって影響されるも のではありません。   ただし、両者のちがいですが、ソ連の場合はそれらの島に歴史的な領有意識をもって いないのに対し、韓国の場合は官撰書などで歴史的に韓国領と考えてきたという点です。   これまで二回にわたり、櫻井よしこ氏を批判してきましたが、その中で感じるのは、 同氏は数人の根拠薄弱な意見のみを聞き、それ以外の研究者や韓国政府がどのような主張 や反論をしているのかについてほとんど検証しようとしないことです。   要するに、必要最小限の資料すら調べず、一部論者の意見のみをつなぎ合わせて「検 証」と称するのは、少しおこがましいのではないでしょうか。一部論者の我田引水的な主 張のみをコピーしたのでは問題の方向を大きく見失うのが常です。   櫻井よしこ氏には、もう少しきちんと勉強されるよう望みたいと思います。 (注1)半月城通信<竹島=独島の軍事的価値> (注2)半月城通信<竹島=独島編入にたいする反発> (注3)半月城通信<韓国独立と竹島=独島対応> (注4)半月城通信<竹島=独島と連合国指令> (注5)半月城通信<李ラインの経緯> (注6)「愼鏞廈教授の獨島問題100問100答」(韓国語)『新東亜』2000.5月号   半月城通信<愼鏞廈教授の独島百問百答>Q93 (注7)半月城通信<対日講和条約草案> (注8)塚本孝「竹島領有権をめぐる日韓両国政府の見解」『レファレンス』2002.6, P65 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    竹島=独島問題、島根県議との対話 尾村としなり様 2005.3.19 前略   先生が島根県議会にて「竹島の日」制定に棄権されたことに敬意を表します。 しかし、先生がHPで「竹島は、一九〇五年の領有手続き以前にも日本の文献等に、日本 の実効支配を示すものがあり、歴史的にも、わが国に竹島の領有権があるという主張には 根拠があります」と書かれたことは疑問です。   失礼ながら、先生は明治政府が竹島=独島を一旦放棄した史実はご存知でしょうか? 同じような質問を「しんぶん赤旗」にしましたが、下記のように満足のいく回答がありま せんでした。失礼ながら、直言しますと、貴党は竹島=独島の歴史をさらに研究なさる必 要があるのではないでしょうか? 半月城通信<竹島=独島と日本共産党> なお、竹島=独島が日本の固有領土かどうかに対する私の見解は下記のとおりです。 半月城通信<竹島=独島「日本の固有領土」説の検証> 半月城より 半月城様 2005.3.26  メールの御返事が遅くなり、申し訳ありません。私の考えを述べます。  ご指摘頂きました「明治政府が竹島=独島を一旦放棄した史実」とういうのは、187 7年(明治10年)、当時の右大臣が地籍編纂に関して、そのときの名称であった竹島 (鬱陵島)ほか一島(松島、現在の竹島)を「本邦無関係と心得よ」と指示したこと (『太政類典』2編96巻19)だと思います。  ご存知のように、江戸時代に日本が竹島と鬱陵島を実効支配(鬱陵島については一時 期)していたことを示す文献が存在し、そのことをもって私は、「1905年の領有手続 き以前にも日本の文献等に、日本の実効支配を示すもの」があると指摘しました。  その後、幕末から明治にかけて、日本側の竹島に関する知識は混乱したようです。その 理由としては、行政制度の大きな変化とともに、西洋の地図や海図、水路誌などが流入し、 そのなかでの事実誤認や名称の混乱などが影響したという指摘もあります。  いずれにしても、日本側が一時期、竹島を「本邦無関係」としたことは事実のようです。  問題は、そうした事実があるとしても、その当時を前後して、韓国側が独島を実効支配 したという記録の存在を知ることができません。国際法上の先占の要件である実効的な占 有(実効支配)が、竹島について韓国側からなされたという事実が確認できません。  私が日本側の主張に「根拠がある」としたのは、以上のような理由からです。  他方、国際法上の1905年の領有手続きが、韓国の植民地化をすすめる過程でおこな われたものであることなどから、韓国の「無効」という主張にも検討すべき問題がありま す。  日本共産党はそうした見地から、「竹島問題の正しい解決のためには、なによりも相互 の主権を尊重し、平和友好の精神と原則を優先させることが重要」であると、一貫して主 張してきました。  竹島問題の資料については、専門家の解釈が複数存在するものがあります。私が知らな い文献や資料も存在するかもしれません。この問題は、今後、日韓が友好的な雰囲気のも とで冷静かつ理性的に、双方の文献や資料をつきあわせて、双方が納得できる解釈を積み 上げ、共通の認識を作り出していくことが望まれると考えるものです。 島根県議会議員 尾村利成 尾村としなり様 2005.3.30   誠実にご回答をいただき、ありがとうございました。 さすが、地元の方だけに「しんぶん赤旗」の足りない点をよく補っていると思われます。 竹島=独島問題は、おっしゃるように「平和友好の精神と原則」で、真実を冷静に知るこ とが何よりも重要だと思います。   尾村様に対する反論ですが、尾村様は「その当時を前後して、韓国側が独島を実効支 配したという記録の存在を知ることができません」と書かれましたが、当時、于山島は日 本でいう松島(竹島=独島)であり、朝鮮領であるという認識が日本と朝鮮とで成立してい ました。人が住めない無人島はそうした両国の認識だけで十分ではないでしょうか。共産 党議員の方が「狼どもの国際法」にいう「先占」の論理を持ちだすとは少し意外でした。   両国の認識に関しては「週刊新潮の竹島=独島記事を批判する」、あるいは私のホー ムページ「半月城通信」に書いたとおりです。両国でそのような共通認識をもち、かつ内 務省が当初、竹島=独島は「韓国領地ノ疑アル」として反対していたのを、日露戦争の 「時局なればこそ」として強引に領土編入がなされました。これは「狼どもの国際法」に てらしてすら違法ではないでしょうか?   なお、尾村様の下記ご回答をそのまま私のホームページに転載したいと思います。も し、ご訂正などがあればご連絡ください。 半月城 半月城様 2005.3.30  メールを頂きありがとうございました。 「竹島の日」条例が議員提案され、制定されて以降、韓国と日本の間では対立が続いてお り、今後、非友好的な関係となり兼ねません。このことは、話し合いによる竹島問題の解 決を遠ざけてしまいます。  先日も申し上げましたように、私は、竹島問題には1905年問題など複雑な経過と背 景があり、その正しい解決のためには、何よりも相互の主権を尊重し、平和友好の精神と 原則を貫きながら粘り強く交渉し解決するべきであると考えます。  貴殿のホームページへの掲載は、おまかせいたします。訂正はありません。 島根県議会議員 尾村利成 尾村利成様 2005.4.3   メールをありがとうございました。   たしかに竹島=独島問題の解決には「何よりも相互の主権を尊重し、平和友好の精神 と原則を貫きながら粘り強く交渉し解決するべき」はいうまでもありません。それと同時 に、竹島=独島問題の真実は何かを両国がもっと深く理解する必要があると考えます。   韓国では、江戸時代に日本へ抗議行動を行った安龍福の自供にもとづく史書を全面的 に信じがちなのが現状ですが、実は安龍福の自供には多くの虚偽や矛盾があり問題です。   一方の日本はどうでしょうか。尾村先生は<日本側が一時期、竹島を「本邦無関係」 としたことは事実>と認定されておられますが、多くの人は明治政府が1877年に竹島=独 島を放棄した史実などを知らないまま、竹島=独島は日本の固有領土と信じているのが現 状ではないでしょうか。   これには外務省の責任が重大です。外務省は、そうした放棄の事実を隠したまま「固 有領土」の主張のみを繰りかえすだけですが、これは明らかに矛盾です。固有領土であれ ばそれを放棄するはずがありません。そうした矛盾を隠したままの姿勢では韓国との外交 交渉すらむずかしいのではないでしょうか。   今後、竹島=独島問題の解決は、何よりも上記のような歴史的真実を両国が共有する ことから生まれるものと確信します。今後、尾村先生も史実を広く明らかにする方向でま すますご活躍されるよう期待します。 半月城 追伸 尾村利成様へ   最近、共産党に所属する国会議員の秘書の方と竹島=独島問題などでメールをやりと りする機会がありましたが、その方に尾村さんのことを話したら、率直に感想をこう述べ られてましたので、一応お知らせします。        -------------------- 竹島問題はきわめてナショナルな問題なので, 県議さんが独自の判断を下すのは荷が重いし, 政党としても中央が基本的に判断すべきことでしょうね。 個人的には「客観的な判断基準にしたがい,韓国領と判断すべし」 と言い切ってしまったほうが潔いと思います。        -------------------- 半月城より


    竹島=独島問題、裁判による決着 2005.4.17 Yahoo!掲示板「竹島」#8654   半月城です。   ****さん、 > 半城月さんは、この問題を国際司法裁判所で 平和的に解決する事に賛成ですか?反対ですか?   私は竹島=独島問題を国際司法裁判所に付託することに反対です。理由は、領土問題 の裁判となると「狼どもの国際法」を基準に判断されることになりますが、私はこれに反 対するためです。以前、これについて書いた文があるので、その一部を転載します。        -------------------- 半月城通信<国際法の限界>   フォークランドのように植民地がらみの国際紛争となると、国際司法裁判 所や国連安保理に解決を望むのはしょせん無理な相談になります。両者におい ては古い狼どもの国際法ががぜん力を発揮するなど、帝国主義時代の亡霊がよ みがえるからです。   こう書くと読解力が不足している人からは、私は国際法をすべて否定して いると誤解されそうです。その点、crazyOWL123 さんはきちんと理解されてお られるようですが、私は力による侵略を禁止し道義的な正当性を織りこんだ現 代の国際法を否定するつもりはなく、逆にそうした「最新の国際法の精神」で 紛争を解決すべきだと考えています。   その精神を基本に、各国は帝国主義時代の弱肉強食式国際法をすみやかに 清算すべきだと考えています。   一例として、インドによるポルトガル領ゴアの接収(1961)をとりあげます。 これは「既存の国際法に従うなら、これを肯定しうる論拠はどこにもない」と されています。それはポルトガルのゴア領有が、たとえ道義的に不当で今日の 国際法の基準では不法なものであっても、当時の狼どもの国際法にはかなうも のであり、法の不可遡及からそれを現時点では不法と認定できないからです。   それにもかかわらず、インドの行為は「反植民地主義の直接行動として新 興国から広く支持された」ようでした。その結果、インドの国際法上における 違法行為が道義的には正当な行為と評価され、国際世論を味方にしたようでし た(注1)。   これは、ポルトガルが衰退した帝国だったからこそ可能だったと思われま す。対するにフォークランドの場合、イギリスは落日とはいえ安保理の常任 理事国で国際的に力があるだけに、アルゼンチンは国際世論を味方にできなか ったようでした。また、国際機関も帝国主義時代の残渣の前では無力です。   この例から明らかなように、国際法はこと領土問題に関する限り、大国の 栄光や利益を温存し、帝国主義時代の慣行を引きずっているため、新興国の立 場からすると、ときには道義に反したものになりがちで「固有領土」の主張は 無視されがちです。   さて、インドにもどりますが、私はしばしば書いたように帝国主義国家の 侵略や、古い弱肉強食式国際法を非難するものであり、インドの場合はもちろ んインドを支持します。それに反し、法匪はおそらく反対にインドの行為を非 難することでしょう。ここに決定的な見解の相違があります。        --------------------   狼どもの国際法では侵略戦争すら合法的ですが、そのように時には正義のかけらすら 顧みない価値基準で領土問題を裁くことに私は反対です。   竹島=独島問題の解決は、両国がお互いに真実を徹底的に明らかにすることがその第 一歩であると確信しています。   特に日本政府は多くの史実を隠蔽したまま「固有領土」の主張を繰りかえすのみです。 江戸時代の「竹島一件」のてんまつや、明治政府が竹島=独島を「本邦関係なし」として 放棄した史実など、真実をあらいざらい明らかにすべきだと考えます。 (注1)梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店,1992, P351 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    明治政府の竹島=独島認識 2005/ 4/10 Yahoo!掲示板「竹島」#8502 半月城です。   ahirutousagi2さん、Re:8313 > ここの「このように明治政府の関連機関は、竹島=独島は朝鮮領であると認識してい ました」は、半月城さんの勇み足であると思いますよ。個人的には正確に把握できていな かったという程度かと考えます。松島を開くべきでないとした田辺太一とて、曖昧であっ たことには変わりありません。   田辺は、「古来」の松島は于山島であるとする一方で、その認識に合わない「開拓 願」の松島は不明としました。当然のことです。「開拓願」の方が島の名を誤っているの ですから。   結局、軍艦・天城の調査で「開拓願」の松島が鬱陵島であることが判明し、日本はそ れを松島に、その近くの竹嶼を竹島としてしまったわけです。   そのおかげで、竹島=独島はその日本名が完全に消えてしまい、フランス捕鯨船にち なんだ西洋名のリアンクール岩とか、リャンコ島とかよばれました。   古来の日本名が失われ、外国名がつけられた島は、いわば領有意識がほとんどなかっ た証拠ともいえますが、それを強いて日本領というのはあまりにも我田引水がすぎるので はないでしょうか。 > 日本政府が竹島を実際に朝鮮領であると考えていたかどうかですが、太政官判断では 実際の地理的な状況を把握しないままの「本邦関係無之」であったようで・・・   ahirutousagi2さんは、まだ真実に向き合おうとしないのでしょうか? 塚本孝氏も 日本の最高国家機関たる太政官は<松島(今日の竹島)もまた「本邦無関係」とされるこ とになったのである>と認めているのですが、この研究を疑問視するのですか?   内務省は、版図(領土)の取捨は「重大事件」との認識をもってこの件を処理しまし た。竹島外一島がどこの島か把握していないなんて、下記の伺書および竹島、松島を説明 した付属文書からはとうてい考えられません。 半月城通信<内務省「竹島外一島」伺い書(1)> 半月城通信<内務省「竹島外一島」伺い書(1)> 半月城通信<内務省の竹島外一島伺い書原文>   また、竹島、松島を説明した付属文書の説明は下記のとおりです。 半月城通信<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2)> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    竹島=独島と韓海侵略 2005.4.18 Yahoo!掲示板「竹島」#8652   半月城です。   ****さん、私のホームページを活用してくださり、ありがとうございます。 >この葛生修亮という人物は どんな人物で 『韓生通漁指針』という書籍は、どのような本なのでしょうか   本の題名は『韓海通漁指針』だと思いますが、これは 1903年、日本で国家主義・アジ ア主義を主張する黒竜会から出版されました。黒竜会の主幹は大陸浪人の内田良平、幹事 は葛生修亮、すなわち『韓海通漁指針』の著者でした。   大アジア主義をとなえる葛生は、大陸へ進出して日本の勢力を扶植し、日本の人口の 排泄場としてアジアをとらえ、その一環として、あふれる漁民の排泄場にするため韓国の 海に着目し、その本を出版しました。その総論に葛生はこう記しました。        --------------------   韓海通漁の緊要なる所以二あり、一は国家の上より見たる必要、外は漁業の上より見 たる利益即ち是なり   国家上より見たる必要   韓国は我邦と最も接近し 地理上互に唇歯輔車の関係ありて、特に今日の時勢に在り ては、此国に対して我国の勢力を扶植すると共に、親隣の誼を厚ふするの道を講ずるは急 勢中の急務と謂はざるべからず、且つ我邦の内情を顧みれば 人口年々繁殖して 之が好個 の排泄場を他に求むるの必要多々なり、然るに幸にして韓海漁業は疾くより本邦人の通漁 権内(ママ)に属し、其漁業区域は猶ほ裕に数千の漁船を容るるに足るの余地を存し、而 して漁利の以て国家国民を益すべきもの尠なからず、故に現今 九州、四国、山陽諸州の 韓海に接近せる地方に充溢する漁民を駆て、爾後 益々彼に赴かしむるは、一面に於て我 邦の勢力を扶植し、及び親隣の誼を厚ふする道を求むると同時に 他面に於ては我邦の人 口を排泄するに於て最も必要とする所以なり(注1)        --------------------   こうした傍若無人の韓海進出を可能にしたのはもちろん日本政府の施策です。日清戦 争に勝利した日本は朝鮮へ侵略の度合を深めましたが、これは漁業においても例外ではあ りませんでした。それを掘和生氏はこう記しました。        --------------------  (19世紀末)日本による鉄道・鉱山等の利権獲得や、通貨権の侵害は愈々露骨になって きた。本稿にかかわる漁業もその例外ではない。日本政府はすでに89年に、治外法権や 種々の不平等規定をもつ「日朝両国通漁規則」を押付けていた。そしてこれによって、日 本漁船が大々的に朝鮮沿岸各地に進出し、強盗的な乱獲を行った。   そのため、生活を脅かされた朝鮮漁民と進出して来た日本漁民との間で、衝突が頻発 したことについては、多くの研究が明らかにしている(注2)。        --------------------   このような朝鮮侵略の時勢にあわせて、葛生は『韓海通漁指針』を書きました。かれ はこの本を書くため、1900年に約1年間かけて朝鮮周辺の海を調査しました。そのうえで、 葛生は竹島=独島をヤンコ島という名前で本に取りあげ、こう記しました。        -------------------- ヤンコ島   鬱陵島より東南の方三十里、我が隠岐国を西北に距ること殆ど同里数の海中に於て、 無人の一島あり、晴天の際 鬱陵島山峯の高所より之れを望むを得べし、韓人及び本邦漁 人は之れをヤンコと呼び、長さ殆んど十余町、沿岸の屈曲極めて多く、漁船を泊し風浪を 避くるに宜し・・・        --------------------   葛生は竹島=独島を明らかに韓国領と認識していたようです。当時、日本海=東海を よく知る葛生にかぎらず、地元・島根県米子の商人である中井養三郎にせよ竹島=独島を 韓国領と考えこそすれ、日本領と考えていた人は皆無だったようです。   それも無理はありません。竹島=独島の古来の名前である松島が鬱陵島につけられて しまった結果、竹島=独島の和名が失われ、かわりにフランスの捕鯨船にちなんでリャン コ島とかヤンコ島とか呼ばれるようになっていたので、そうした新しい洋名の島を日本領 と考える人がいないのも当然です。   日本政府の後押しで韓海侵略の気運にのり、鬱陵島へは日本漁民が漁期によっては千 人もなだれ込み、朝鮮漁民を使い、あるいは協力してその近海で漁をしていたようでした。 そのような状況なので、竹島=独島の呼び名として日本漁民が使用していたヤンコ島、あ るいはリャンコ島の名はもちろん朝鮮漁民にも通用していたようでした。   その一方で、****さんも書かれたように、日本の軍艦である新高は1904年9月25 日の日誌に「『リアンコルド』岩 韓人之ヲ独島ト書シ 本邦漁夫等 略シテ『リヤンコ』 島と呼称セリ」と記しました。こうしてみると、朝鮮人の間では独島とリャンコ島の両方 の名前が使われていたようです。   独島の名はその時に突然あらわれたのではなく、それ以前からもちろん使用されてい たのはいうまでもありません。独島の読みである"Dok do"は、その由来を「石の島」の全 羅道方言に求める有力な説についてはすでに書いたとおりです(注3)。しかし、独島の名 が勅令(1900)の石島と食い違っているのは、たしかに韓国の弱みです。 (注1)葛生修亮『韓海通漁指針』黒竜会出版部,1903.1月   (旧漢字は新漢字に変換、以下同様) (注2)堀和生「1905年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』24号,1987,P108 (注3)半月城通信<于山島から石島、独島へ> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    下條正男氏への批判、安龍福の于山島像 2005.4.18 Yahoo!掲示板「竹島」#8650   半月城です。   最近は竹島=独島問題に関する問い合わせが数多く寄せられており、そのすべてに答 えるのはなかなかむずかしい状態です。そのため、****さんの質問には重要な下記の 一点のみ回答することにしますのでご了承ください。 ○安龍福と松島へ向かう倭人   たしかに、田中邦貴氏はホームページ「竹島問題」の「安龍福密航事件 in 1696」で 「(韓国政府は)竹島は人が住めない島であることが分かっているので、辻褄を合わせる 為に、故意に資料を捏造解釈したのである」と、毒々しく記しているようです。   はたしてそうでしょうか? 上記の「捏造解釈」呼ばわりが、史料の検証をきちんと おこなったうえでの結論なら聞くべきものがありますが、それにはほど遠いようです。そ の理由を以下で明らかにしたいと思います。   韓国で「独島の英雄」とされる安龍福ですが、かれの抗議行動について、私は『増補 文献備考』を引用してこう記しました。        --------------------   憤慨した安龍福は蔚山の海辺に行った。そこの商僧、雷憲は船を持ってい た。龍福はかれを誘った。鬱陵島は海菜が多いので、そこへ行く道を案内した いと言った。僧は快くこれに従った。  (1696年)ついに帆をあげ3昼夜航海して鬱陵島に停泊した。そこへ倭船が 東からやって来た。それを見た龍福はかれらを縛ろうといったが、船乗りたち は恐れてしりごみした。   龍福はひとり前に出て怒り、なぜわが境域を犯すのかと倭人をののしった。 倭人がいうには、かれらはもとより松島に向かうところで、ちょうど帰るとこ ろだということだった。さらに龍福は倭人を追って松島に至り「松島はすなわ ち芋山島である。お前たちは、芋山島もまた我が境域であることを聞いていな いのか」と叱り、棒でその釜を砕いた(注1)。        --------------------   この最後の部分について田中邦貴氏は『粛宗実録』を引いてHPにこう記しました。        --------------------   安龍福が倭人に向かい「鬱陵島は我が境域である。どうして越境侵犯するのか、縛り 上げてしまうぞ」と、船の舳先に立って大喝すると、倭人はこう答えた。「吾が輩は本、 松島に住んでおり、たまたま漁採の為に来ただけだ。今、丁度戻ろうとするところだ」。 そこで安龍福は、「松島は即ち于山島だ。これもまた我が国だ、どうして住めるのだ」と 言った。        --------------------   田中氏が「于山島」と訳したところは原文では「子山島」になっています。さらに私 が引用した『増補文献備考』では「芋山島」になっています。   これら「子山島」や「芋山島」は明らかに「于山島」の誤記と思われますが、古文書 ではこのような誤字や誤記は宿命です。そのため、古文書を解読する際は、まず誤字や誤 記がないのかどうかを検証するのが鉄則です。さもないと、的はずれな結論をだしかねま せん。   さて、***さんが問題にしている「松島に住んでおり」という部分が原文でどう なっているのか、二、三の史書で比較してみます。 (1)『粛宗実録』22年9月戊寅   倭言 吾等 本住松島 偶因漁採出來 今當還往本所 (2)『増補文献備考』   倭對曰 本向松島 固當去 (3)『疆界考』   對曰 本向松島 固當去也   このように(2)や(3)では「松島へ向かう」となっているので、(1)で「住」は「往」 の誤記であることが容易に推定されます。さらに当時の状況を考えても、松島を知る日本 人漁夫が「松島に住んでいる」というはずがなく、「住」を「往」とするとつじつまが合 います。すなわち「松島に向かう」が正しいといえます。   ただ、安龍福の朝鮮における供述は、基本的には手柄話・自慢話であるのと、客観的 な証人がいないためか、あまりにも誇張や虚偽が多いので、私はかれの供述をほとんど信 用していません。   上記のように『粛宗実録』の誤記は、ほかの重要史書を参照すれば容易にわかるのに、 故意か怠慢か、そうした検証を行わず、まるで鬼の首でもとったかのように韓国政府を 「捏造解釈」呼ばわりする田中邦貴氏の主張はいかがなものでしょうか。   同じように、そうした文献批判をおろそかにしたうえで、安龍福について下條正男氏 はあらぬ方へ結論を導いているようです。かれは安龍福の「于山島像」をこう語りました。        --------------------   安龍福は、鬱陵島で遭遇した日本の漁民が「われわれはもともと松島(現在の竹島) に住んでいる」と言ったように証言しているが、松島では飲料水の確保も難しく、人の定 住は困難である。   安龍福は、松島がどのような島かも知らずに、朝鮮領の于山島と思い込んでいたので ある(注2)。        --------------------   安直に文献を読む人は、安直な結論をすぐ出したがるものです。下條氏は文献批判を 怠った結果、安龍福は松島を人が住めるような島であると思い込んでいる、と誤解してい るようです。   これなども下條正男氏が強調する「我田引水的 文献解釈」の見本ではないでしょう か。半月城通信で「下條正男氏への批判」と題するのは、今回で 7回目になりますが、書 いても書いても批判のネタはつきないようです。   そんな下條正男氏の言をウノミにして引用しているホームページには、くれぐれも用 心してください。 (注1)半月城通信<竹島=独島と安龍福> http://www.han.org/a/half-moon/hm094.html#No.688 (注2)下條正男氏『竹島は日韓どちらのものか』文春新書,2004,P75 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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