半月城通信
No. 96(2003.6.20)

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  1. 麻生太郎会長の「創氏改名」発言
  2. 麻生太郎「創氏改名」発言の背景
  3. 姜徳相先生古希・退職記念出版
  4. 竹島=独島と連合国指令
  5. 対日講和条約草案
  6. 対日講和条約と韓国の対応
  7. 竹島=独島と連合国


麻生太郎会長の「創氏改名」発言 2003年6月4日 メーリングリスト[aml 34343] <本文は、日本の戦争責任資料センター『Let’s』39号(2003.6)に掲載>   半月城です。   自民党の麻生太郎政調会長の発言には驚きました。会長は、日本が植民地 の朝鮮でおこなった創氏改名を「満州で仕事がしにくかったから、名字をくれ と言ったのが、そもそもの始まりだ」と語ったそうですが、すこし短見なよう です。   創氏改名がいかに朝鮮人の民族的プライドを傷つけたか、これは小説の題 材になったくらいで、梶山季之の『李朝残影』(講談社)にその一端をうかが い知ることができます。小説において、実在したと思われる薛(せつ)は朝鮮 総督府の強圧に負けて一族の創氏改名をしましたが、かれはそのことを先祖に 詫びるため自害しました。   麻生氏はおわびの記者会見で村山談話や橋本談話を引用し、「(談話が) 『いかに多くの韓国の方々の心を傷つけたかは想像に余りある』と述べている 通りで、その認識は変わらない」と釈明しましたが、どこまで創氏改名した人 の心情を理解しているのか疑問です。   創氏改名は、元総督府の関係者すら「あれは(総督)南さんのやりすぎ だ」と批判するような政策でした(注1)。朝鮮人の姓をむりやり日本名にす る南総督の発想がどこから生まれたのか、その背景は南の伝記からうかがうこ とができるようです。南は総督就任当時の目標をこう記しました(注2)。        --------------------   第一は朝鮮に陛下の行幸を仰ぐことで、第二は朝鮮に徴兵制度を施くこと である。朝鮮はまだ独立国時代、大正天皇が皇太子として訪問したことがある だけで、陛下の臨幸はなかった。日本の領土で陛下の御足跡のないのは朝鮮だ けである。行幸を仰ぐとすれば、それに応わしい統治の実績がなければならぬ。   従来の朝鮮は日本の領土とは名のみ、普通の治安さえ、完全には保たれて おらず、行幸など思いもよらぬことであった。ー略ー   徴兵は青年の心構えが国防を義務と感ずるようにならなければ実施出来る ものではない。同時に父兄や一般民衆が徴兵の義務を呑みこまなければ、実施 しても支障は続出する。役に立つ兵をつくる基礎は、国民としての心構えが、 青年にも一般民衆にも徹底した時である(注2)。        --------------------   このように朝鮮青年の徴兵をもくろむ南は現役の陸軍大将でした。1931年、 日本軍が柳条湖で満鉄を爆破して15年戦争を引き起こした時、南は陸軍大臣 を勤めましたが、その後、関東軍司令官をへて、36年8月、朝鮮総督に就任し ました。 <創氏改名>   かれのような陸軍大将が歴代にわたって統治しても、治安すら完全には保 たれない朝鮮、その一因は、総督府が期待するほど朝鮮民衆が天皇の赤子(せ きし)として皇民化されないことにありました。それを実証するかのように、 日章旗抹消事件が南の就任直前におきました。   1936年7月、オリンピックの花であるマラソンで優勝するという快挙を 「日本人」孫基禎はなしとげました。これを報道した東亜日報は、大胆にも孫 選手の胸につけられていた日章旗を黒く塗りつぶして写真を新聞に掲載しまし た。この写真が民衆の民族感情を鼓舞したためか、総督府は東亜日報を無期停 刊処分としました。   そのような状態の朝鮮民衆をなんとか手なづけて皇民化したうえで、その 地に徴兵制をしき、銃を朝鮮青年に持たせてもその銃口を日本に向けないよう な忠良な皇軍兵士をつくる、そうした皇民化政策の一環として創氏改名が始め られました。   1940年、紀元節に合わせて台湾と同時に創氏改名が始められましたが、こ の制度を朝鮮民衆がどう受け止めたのか、その詳細を知ることが麻生発言を検 証するカギになります。そこで、その一端を「半島文壇の大御所」である李光 洙の創氏改名にみることにします。   李光洙は、3.1独立運動(1919)の導火線になった二・八独立宣言書を起 草したことで知られていますが、32年には「ブ・ナロード(民衆の中へ)」を 精神的支柱にした作品「土」で農村啓蒙運動の実践を具体的に提唱するなど、 絶大な影響力のある作家でした。   李は、創氏改名の動機を総督府の朝鮮語版機関紙ともいうべき『毎日新 報』に「創氏と私」と題して載せましたが、このエッセイが創氏改名の状況を よく物語っているようです。        --------------------  私が香山という氏を創設したことに対して、ある人は面と向かって、ある人 は手紙で、私の創氏の動機を尋ねてきた。  大多数は私の香山という創氏について非難したが、中には賛成する人もあり、 創氏について意見をたずねる人もいた。  今日受けとった匿名の手紙では、私の創氏を激しく非難し、その動機と理由 を発表することを要求している。  私が香山という氏を創設し、光郎という日本的な名に改めた動機は、畏れお おくも天皇の御名と読みかたを同じくする氏名を持とうとする所からである。  私は深く深くわが子孫と朝鮮民族の将来を考えた末に、こうすることが当然 だという堅い信念に到達したためである。  私は天皇の臣民である。私の子孫も天皇の臣民として生きるだろう。  李光洙という氏名でも、天皇の臣民になれないことはない。しかし香山光郎 の方が、より天皇の臣民たるにふさわしいと私は信ずるためである。  <内鮮一体>  内鮮一体を国家が朝鮮人に許した。故に、内鮮一体運動を行わなければなら ないのは、朝鮮人自身である。  朝鮮人が内地人と差別がなくなる以外に、何を望むことがあろうか。したが って差別を除去するためにあらゆる努力をすることの他に、何の重大でかつ緊 急なことがあるだろうか。  姓名三字をなおすのも、その努力の中の一つならば、なんの未練もない。喜 ぶべきことではないか。  私はこのような信念で、香山という氏を創設したのである(注2)。        --------------------   長く朝鮮独立の展望を失った李光洙は、総督府に迎合的な文章のなかで 「差別を除去するためにあらゆる努力をすることの他に、何の重大でかつ緊急 なことがあるだろうか」と強調しましたが、この差別解消こそがかれにとって 創氏改名の最大の動機であったようでした。   差別からの脱却、これはかつて朝鮮独立のために活躍した闘士であっても、 その後の展望を見いだせず親日派にくら替えした知識人に共通した願いだった ようでした。宮田氏は、そのような他の例として朴煕道をあげました。        --------------------   かって3・1独立宣言文の署名者の一人であった朴煕道も、「畢竟(ひっ きょう)するに内鮮一体の要諦は、国民的な義務と権利において、内鮮が完全 に一元化することを意味するにほかならない。したがってこれは朝鮮人がその 為に悩み抜いてきたあらゆる問題 ー 民族差別の問題や植民地問題などを一挙 に解決して、朝鮮人の生活を内地人のそれにまで高揚せしめんとする偉大な歴 史運動の標である。」(朴煕道「希望と信念を持って」『東洋の光』39.3)と 述べています(注1)。        --------------------   日本人との差別から逃れるために、日本人になるしかないという生き方、 これは今日の在日韓国人の帰化に一脈通じるものがありますが、そうした背景 を知らずして、表面的に植民地の朝鮮人が創氏改名を望んでいたかのように理 解するのは、あまりにも浅はかといわざるをえません。この点、朝日新聞社説 は麻生氏をきびしく批判しました(03.6.3)。  「創氏改名は、日本が朝鮮の人々を『皇民化』するため、心の内側にまで統 制を加えようとした政策だ。学校での朝鮮語の使用も最後は事実上できなくな った。   朝鮮の人々のなかに日本式の名字を欲しがった人がいたとすれば、なぜか。 植民地支配が生んだ差別から逃れようとしたからだ。この差別を作ったのは日 本である。そこに思いを寄せることのできない麻生氏の想像力の貧しさを悲し く思う」   まったく同感です。「想像力の貧しい」麻生氏はほんの一面だけをみて、 創氏改名を「激しく非難」した人など眼中にないことでしょう。もっとも、そ のような非難や批判の声は、総督府による創氏改名の大合唱の中で歴史の片隅 に追いやられてしまったことでしょう。かろうじて、そうした民衆の声を総督 府は「流言蜚語」としてこう記録しました(注2)。  「鮮人が創氏するも内地人と同様の待遇を受くる筈もなく、何等変ることな きに付、仮令(たとえ)同族同門は創氏するも、自分は其の意思毛頭なし」  「現在朝鮮には参政権は勿論 義務教育も兵役義務もない、氏のみ内地式に 制定するも結局 形式的内鮮一体に非ずや」  「内地人と同氏名になし、朝鮮人に徴兵令を適用せんとする便法」  「鮮人の創氏により、内地人を装う鮮人を増加せしめ、却って内地人の感情 を害し、内鮮一体を阻害する結果となるべし」  「流言蜚語」の中には南総督の徴兵意図を見すかしたように核心をついたも のもあったようですが、そう語った本人はさぞかし高等警察で死ぬほどの拷問 をうけたことでしょう。そうした声をよそに、創氏改名は総督府の総力をあげ て推進されました。その結果、創氏改名の届け出件数は月を追うごとにうなぎ 登りに増えました。  2月(11日スタート)    15、746戸  3月             45、833  4月             95、495  5月     343、766  6月            580、724  7月          1、071、829 8月(10日締め切り) 1、067、300   この表をみると、8月は一日平均で10万件の届け出があったことになり ます。これは総督府の強制なくしては到底ありえない数字と思われます。その ありさまが最初に書いたように、総督府関係者の「あれは(総督)南さんのや りすぎだ」という批判につながったのでしょうが、創氏改名の積極論者である 鈴木武雄・京城帝大教授はこう総括しました。        --------------------   創氏制度は同時に日本人式の氏名をなのることを朝鮮人にも許すことであ ったために、これが形式的皇民化運動に利用され、遂に創氏制度本来の意義は 没却されて単に皇民化の外形的指標として日本人式氏名をなのることが創氏制 度のすべてであるかのように考えられるに至った。   創氏改名が末端行政当局によって自己の皇民化行政の成績を誇示する手段 として強制されるに及んで、朝鮮人の反感を買うに過ぎない結果となったので ある(注3)。        -------------------- 創氏届けの数が「皇民化」の度合いの指標として用いられたため、末端行 政機関が競って創氏届けを強制したという見方は当局側の反省だけに説得力が あります。   このように、学問的な研究が進めば進ほど創氏改名の強制が朝鮮人の心を 深く傷つけた実態が明らかになっていくのですが、麻生会長は、発言そのもの はいまだに撤回せず「双方で色々な認識があり、学者等々で続いている話だ。 その経過を見守らないと、きちんとした発言はできないということだと思う」 と述べて開き直っているようです。   しかし、日本の朝鮮統治に関するかぎり「双方」がひざつきあわせての研 究会は実に300回、6年間にもわたって十分なされ、朝鮮統治の功罪はそう とう明らかになっています。研究会は、旧総督府高官の集まりである「友邦協 会」の故・穂積真六郎理事長が、総督府統治に批判的な「朝鮮史研究会」メン バーにこう提案したのがきっかけでした。  「私は、日本の朝鮮統治がいかように、批判されても、聞く耳をもっている つもりですが、しかし、やりもしないことを、やったといわれたり、事実にも とづかない批判を受けることは絶対に承服できない。そこで残された余生を、 朝鮮統治にかんする資料を集めることに、捧げたいと思っています。どうです、 一緒にやりませんか?」   この提案を受けて「朝鮮近代資料研究会」の宮田節子氏や姜徳相氏、故・ 梶山秀樹、権寧旭氏なども参加して友邦協会との研究会がスタートし、毎回 激論がかわされました。その結果、研究会において双方の間にひとつの共通認 識が生まれました。姜徳相氏によれば、総督府統治は「善意の悪政」だったと いう共通認識が研究会で生まれたとのことでした。   創氏改名はもちろん「善意の悪政」のひとつです。ほかにも「土地調査事 業」や「徴兵制」や「徴用」など「善意の悪政」は枚挙にいとまがありません。 しかもそれら「善意の悪政」は軍・警察力を背景にした強権政治であったこと は強調してもあまりあります(注4)。 (注1)宮田節子「日本の朝鮮支配を考える」『朝鮮学報』第166輯、天理大学,1998 (注2)宮田節子他『創氏改名』明石書店、1992 (注3)大蔵省管理局「日本人の海外活動に関する歴史的調査」通巻第11冊,1947 (注4)朝日新聞社説、2003.6.3 「麻生発言、ソウル大でぜひ講演を」  (前半省略)   歴史を見れば、麻生氏が指摘したような事実は、部分的にあるいは一時期 あった。しかし、彼の発言は誤りである。   まず、自分に都合のいい事実だけを取り出し、それが歴史の全体像である かのようにいいくるめようとしていることだ。日本政府が植民地時代の朝鮮半 島に鉄道や道路、学校をつくったことをあげて「いいこともした」と主張する 政治家は過去にもいた。そうした論者といえども、日本が軍事力を背景に朝鮮 を併合し、強権的に支配した事実を覆い隠すことはできない   創氏改名は、日本が朝鮮の人々を『皇民化』するため、心の内側にまで統 制を加えようとした政策だ。学校での朝鮮語の使用も最後は事実上できなくな った。   朝鮮の人々のなかに日本式の名字を欲しがった人がいたとすれば、なぜか。 植民地支配が生んだ差別から逃れようとしたからだ。この差別を作ったのは日 本である。そこに思いを寄せることのできない麻生氏の想像力の貧しさを悲し く思う。   日本の閣僚や自民党の有力者が、韓国の植民地支配や中国侵略を正当化す るかのような発言をし、韓国、中国で大問題になる。日本側でも「歴史問題で いつまで謝ればすむのか」と反発が起きる。80年代からしばしばくり返され てきた構図である。   だが、93年には当時の細川首相が訪韓時に創氏改名を謝罪し、日韓関係 を大きく前進させた。98年の日韓共同宣言も「過去」の直視と「21世紀の 確固たる善隣友好協力」をうたい、日韓間のあしき構図を絶つための努力が重 ねられてきた。  ・・・   自民党内で、麻生氏は小泉首相の後継候補の一人と目されているが、いま のままでは国政を委ねるわけにはいかない。麻生さん、まずソウル大学で学生 たちとじっくり語り合ってみてはどうですか。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 追伸:   麻生太郎議員の創氏改名発言はほとんど根拠がないようで、発言の背景を保坂氏に こう弁明しました。        -------------------- 朝鮮日報記事, 2003.11.19 <「本当の韓国人として日本の妄言を批判します」保坂祐二教授>  自民党の麻生太郎議員が「創氏改名(日本植民地時代、韓国人の氏名を強制的に日本名 にしたこと)は朝鮮人が先に希望して始まった」という妄言を吐いた時も、保坂教授は直 ちに麻生議員側に電話をかけた。  「一体どんな資料を根拠にそのような発言をしたのか資料を提示して欲しい」と問いた だした。「感情的になるばかりだった」韓国政府の対応とは違い、日本人教授という立場 から鋭く「根拠となる資料」を要求すると、慌てた麻生議員側は結局、「創氏改名の発言 は講演が終った後に行われた質疑応答で出た突出的なものだった」と弁明したという。        --------------------


麻生太郎「創氏改名」発言の背景 2003.6.15 メーリングリスト[zainichi:26020]   半月城です。   私は麻生太郎・自民党政調会長の「創氏改名」発言を最初に聞いたとき、 ちょっと意外でした。というのも、これが自民党長老の奧野誠亮氏のように、 戦前の日帝官吏だった人なら日本の朝鮮統治を美化する発言は十分考えられる けれど、麻生氏のように戦争をほとんど知らない世代が、なぜ日帝の植民地統 治を美化する発言をするのだろうかと疑問に思っていました。   そこで麻生氏の経歴をホームページで調べるうちに「麻生商店」に行き当 たりました。のちに麻生鉱業と名義を変えた麻生商店は「筑豊の御三家」にか ぞえられるような代表的な地元の炭坑資本で、麻生太郎氏はその麻生商店の後 継者だったのでした。   麻生商店は、日帝の朝鮮統治時代、朝鮮人労働者を強制連行し、三井鉱山 よりさらに安い賃金で酷使し、莫大な利益をあげていたようでした。つまり、 麻生は日本の朝鮮統治に寄生し、その甘い汁を吸っていたのでした。   そうであれば、麻生グループの後継者である麻生太郎氏が日帝の植民地統 治を美化し、創氏改名を「満州で仕事がしにくかったから、名字をくれと言っ たのが、そもそもの始まりだ」などと語った背景が理解できます。   戦前、麻生商店がいかに朝鮮人の膏血をすすっていたのか、ここでその詳 細を明らかにしたいと思います。   麻生商店は、大正時代(1923)には早くも朝鮮から労働者を移入するなど、 朝鮮とのつながりは深いものがありました。わざわざ朝鮮から言葉もろくに通 じない労働者を坑夫として導入した理由は、いうまでもなく低賃金で雇い、利 益をあげるためでした。   1932年、麻生は昭和不況に直面するや、朝鮮人坑夫の賃金を3割以上もカ ットし、しかもそれすら遅配するありさまでした。しかも強制配置転換など、 不況のしわ寄せを主に弱い立場の朝鮮人に転嫁しました。これでは朝鮮人も立 ちあがらざるをえず、麻生赤坂炭坑でストライキに突入しました。   余談ですが、ゴム風船は押しつぶせばつぶすほど破裂したときのエネル ギーは大きいものです。朝鮮人坑夫の日ごろのうっ積した不満が一挙に噴出し、 そのエネルギーをストに向けたので、争議は激しくなりました。そうした事情 を、ストを取り締まる側である飯塚署の柿山重春 特高主任はこう証言しまし た。        --------------------   翌7年(1932)の夏、降って湧いたような爆発的な朝鮮人争議が始まって、 私がその主務となって直接タッチすることになった。労働運動を本格的に手が けたというか、まあ最初の仕事だから私にとっては生涯忘れられんよな。   麻生系の炭坑と三菱系の炭坑は、筑豊では朝鮮人坑夫の数が最も多く、日 鉄系の炭坑なんかはその数では問題にならん。麻生が経営する炭鉱では殆どの ところで使っとったからね。   被差別部落出身坑夫と同様、安い労働賃金のうまみがあったからではなか ろうか。納屋制度でがんじがらめに縛りつけられ、朝鮮人は徹底的に圧制され て働かされていた。   その納屋制度そのものの弊害も大きいこともあるが、賃金、労働条件、待 遇なんかで朝鮮人の不満が爆発したわけだよ。賃金は安いし遅配はするし、休 日はないというように、朝鮮人が起ち上がらざるをえない状況があったからね。   納屋の頭領とか人繰りはもちろんだが、朝鮮人を人間として扱わなかった 炭坑を、個人的にもよくは思っとらんやった。   当時の不況にもよるが、労働者が要求するとすれば、賃金のことが第一に なるからね。警察の賃金は特別安かったので朝鮮人には同情はしても、私たち は取り締まりが職務だからそうはいかんよ。   朝鮮人坑夫の組織的な争議は日本じゃはじめてのことで、政府はとっても 心配してくさ。県警察も特別に力を入れとった。お国が違うし、彼らが何を考 えているのやら気持ちが分からんで困った。言葉が通じないことも、この争議 を長引かせた原因の一つでね。  ・・・   今、私が冷静に見るに、根本的にいえば、麻生系炭坑はひどいところで、 坑夫を一方的に酷使していた点に問題があった。それを昔から圧制 炭坑(や ま)といったけどね。   俺たちが石炭増産に協力しているという、プライドの気持ちはいくらか坑 夫にはある。それを汲んでやる気持ちが経営者にないと、何時かは不満が爆発 する。朝鮮人だから酷き使ってもかまわないという考えなら、人間である以上 怒るんですよ。   昔ながらの納屋制度を押しつけて圧制するだけじゃ、坑夫が働かなくなる のは当然のことといえる。麻生系の炭坑は労務管理がひどかったからね。   麻生朝鮮人争議は、昭和初期の不況の総決算のようなもので、それによっ て、それまでの納屋制度そのものが抜本的に改革されたことは評価できるので はなかろうかね(注1)。        --------------------   特高といえば、泣く子も黙るといわれたくらい庶民には恐れられた存在で したが、取り締まる側の特高が、戦後の証言とはいえ、朝鮮人坑夫の心情をく みとるような発言をして、麻生を「圧制炭坑」と断定していたとは驚くべきこ とです。さらに、特高すら「麻生系の炭坑は労務管理がひどかった」と証言し た事実は重いものがあります。   こうした麻生の「圧制」に朝鮮人労働者はよほど我慢がならなかったので しょう、坑夫たちの要求書の筆頭に「暴力行為ヲ以(もって)坑夫ヲ酷使 虐 待スル悪習を絶対厳禁セラレタシ」、三番目に「坑内労働十時間法ヲ厳重履行 サレタシ」と強調したくらいでした。これらが「賃金を元に戻せ」という要求 より優先していたとは、「圧制」も度を過ごしていたと思われます。   ストの結末は、成果として要求を麻生にある程度約束させたものの、解雇 者191名という痛い代償を払って終結しました。しかし、麻生の虐待や暴力事 件はこれで解決されたわけではありませんでした。後述するように、その暴力 的体質は機会あるごとにむきだしになりました。   当時の政治情勢ですが、日本は5・15事件(1932)、2・26事件(1936) を経て軍国主義が支配する国家になり、1937年には蘆溝橋事件をきっかけに中 国へ大軍を派遣し、侵略を一層強めるようになりました。   大軍の派遣は必然的に日本国内における労働力不足を招きました。それを 補うために、日本政府は「朝鮮人労働者募集要項」(1939)を作成し、不足した 労働力を朝鮮で「募集」し始めました。労働力移入の第1期に該当します。具 体的には企業の労務係が朝鮮総督府の許可を受け、指定された地域から労働者 を「募集」しました。麻生鉱業の労務係・野見山魏氏は「募集」をこう回顧し ました。        --------------------   朝鮮に募集に行く時、麻生本社の京城(ソウル)出張所の駐在員が、総督 府にコネをつけて一番条件のいい地域を指定してもらいました。労働力の豊富 な郡と、山ばかりで人口の少ない郡とは全然違ってくるんです。   道庁の社会課から、郡庁へ、郡庁から面事務所へと人数が割り当てられま した。郡庁に頼んだだけで、うちの炭坑は容易に募集が出来ました。  ・・・   第1回目が三百人で、郡で集まった朝鮮人を釜山まで連れて行き、そこで 炭坑から出迎えの労務と巡査に渡しました。   問題なく募集出来たのは最初の二年だけで、昭和16年(1941)から大東亜 戦争になると たちまち募集難に陥って、坑夫募集のポスターをいろんなとこ ろに張りました。もう、面の中に、炭坑に連れて行くような男がいなくなりま してね。いよいよ募集が困難になりました。   第一、炭坑の危険性を知っているから敬遠されて、外の軍需工場に行きた がってね。最後には南朝鮮の募集が不可能になって、黄海道方面まで行って、 無茶苦茶に引っ張って来ました。昭和19年の終わりの百人が最後でした(注1)。        --------------------   労働力を「募集」することがむずかしくなると、労働者の徴集方式は朝鮮 総督府内におかれた「朝鮮労務協会」が主体になる第2期の「官斡旋」に切り 替えられました。それもつかのま、1944年には第3期の「徴用」に切り替えら れ、強制連行の度合も次第に「無茶苦茶」になったのでした(注2)。   そうした中、坑夫の文有烈氏は 1942年「官斡旋」方式により、全羅道か ら麻生鉱業へ連行されました。文氏は当時のもようをこう証言しました。        --------------------   ちょうど26歳の時に結婚して、明後日が大晦日(おおみそか)という凍 りつくような寒い夜でした。家族で粟のおかゆをすすっていると、大勢の足音 が近づいて家の前でぴたりと止まった。   突然、「オナラ(出て来い)!」と呼ぶ声がした。   その頃は、毎日のように面の若い働き手が徴用されて、日本へ連れて行か れていたので、私はその声が何であるか一瞬に事態を悟りました。   面の巡査と、面書記が5,6人土足のまま侵入してきたのです。   「文、ちょっと一緒に来い」   と、面巡査が横柄な態度でいいました。あんまり突然のことで、私はもう うろうろするばかり。私にとっては今行けといわれても、残される妻と兄弟の ことが心配でした。気持ちが動転して、後のことを打ち合わせる余裕もない。 もう兄弟はおびえてしまって泣き出す始末で、女房は狂ったように取り乱した。  「私たちを置いて行かないでおくれ。これから先、兄弟の面倒は誰が見るの よ!」   と叫んだんです。  「早う立たんか、男の癖にめそめそするな!」   巡査は大声で叫ぶと、私を家の外に突き出したんです。   同じ面の34人は、面事務所の広場へ集められた。そこへ妻と妹が、私の 後を追うようにやって来た。結婚式の時に着た新品の絹の上下を風呂敷に包ん でいた。  「早う帰るから、家のことを頼む」   風呂敷包みをもらう時に、それだけを妻にいっただけで、私たちは迎えの トラックに積み込まれて順天へと送られた(注1)。        --------------------   夜、ご飯を食べているところへ巡査たちが突然やって来て、家庭の事情を 一切考慮せず、すぐそのまま日本へ強制連行するなんて信じられない光景です。 こんな「無茶苦茶」なやり方で文さんが連れてこられた先が麻生の赤坂炭坑で した。そこがいかに危険できつく、きたないか文さんはこう述べました。        --------------------   赤坂炭坑の(朝鮮)半島切羽といわれる私の採炭現場は、坑口から2キロ 以上の深いところにありました。しかも尺無しといわれる低石(炭層が低い) で、寝堀りで鶴嘴(つるはし)を打ち込みましたからね。4,5分採炭するだ けで腰がしびれ、感覚がなくなって化石のように動かんごとなる。   ガスの異常発生と地熱で、頭がぼうっとかすんで来てね。とても1カ所に、 30分と続けて採炭出来んとですたい。   炭層が摩擦を起こして、そこが自然発火して火の玉が出来るとですよ。ガ スが異常発生するから、下手をすると大爆発を起こす可能性がありますからね。   天井が緩んで落盤が起こる時は、大体、何らかの前兆があるものよ。   ある日、私が切羽で採炭をしていると、ミシ、ミシ、バリ、バリと不気味 な音がしたので振り返るとですな、目の前の直径20センチもある松の枕木が、 地圧で張り裂けたんですよ。   その音だったんです。それを見た瞬間、足がすくんで、地下足袋が接着剤 をつけたように、地面について動かんで、全身でがたがた震えました。坑内は 上から荷がかかるばかりじゃなくて、地面が下から盛り上がって来ることもあ りますたい。   そうしているうち、天井からばらばらと小さいボタが落ちて来たので、さ っと身をかわすと、どーっと大音響がして真っ暗闇ですたい。もうもうと暴れ 舞ってから、見ると背中から下半身が埋まってしまいました。   私は「助けてくれ!」と、朝鮮語でおらんだ(叫ぶ)よ。   前で採炭していた3人の姿は何処にも見えないよ。   悲鳴を聞いて助けに来てくれたが、私の体がぴくとも動かんですもん。ま あ、生きとることは確かでね。助け出された3人を見ると、車に轢かれた蛙の ような無残な姿でぺしゃんこだった。  ・・・   退院した翌朝、部屋で寝ていると、労務が来て威張りくさってから、  「おい、文。お前は何時まで寝とるか! 休んだ分だけ余分に頑張って来い」   と、木刀を振り上げて叩くですたい。私は恐いばっかりに、這うようにし て入坑したですよ。3人死んだ後で採炭するのは、とてもじゃないが気持ちが 悪か。ミシ、ミシと音がすると、もう鶴嘴を放り投げて逃げました。仕事どこ ろじゃなく、その時ほど生命が惜しいと思ったことはありませんでした。  ・・・   炭坑というところは、一寸先が闇ですたい。   私が知っとるだけでも、赤坂炭坑の寮生で30人は死んどる。坑内事故が あっても、採炭現場が一方(ひとかた)違うと分からんし、隣の寮でさえ何が あっても知らされない。ただ噂が流れて、誰かが事故死したことを知る程度で ね。怪我で入院したのか、それとも死んでもいっさい知らされない(注1)。        --------------------   石炭は、太古の植物などが地熱や高圧で長い間に炭化したものですが、炭 化の度合が高ければ高いほど燃やしたときに煙が少なく良質とされます。この 炭化の過程で石炭はメタンガスを発生します。したがって、良質の石炭を産す る炭坑ほどガス爆発が多く、筑豊はその代表的な鉱脈でした。   日本の炭坑が危険であるといううわさは朝鮮にまで届いていたようですが、 麻生の炭坑では、メタンガスがよく異常発生して燃えるような危険なところで した。そんなガス爆発の地獄から生還して治療まもない文さんを、麻生の労務 係りは木刀でたたいてまで酷使していたようでした。   文さんの場合は幸い命拾いしましたが、炭坑がいかに危険で、そこで朝鮮 人がどのように扱われていたのか、飯塚市観音寺住職の古賀博演さんは体験談 をこう証言しました。        --------------------   戦争中の2カ月間、(麻生鉱業)下三緒炭坑で 勤労報国隊で坑内で採炭 した。  ・・・   炭坑側は、坑内の設備はちゃんとして安全だから、そんなに事故はあるも のではないと宣伝したが、終戦前になると毎日のように死者が出たからね。   事故のない日が不思議だった。炭層の高さが1メートルもないところでは、 人間が立って採炭することはできない。中腰のまま寝堀りすると、30分もし ないうちに腰がしびれてしまう。女工哀史どころではなく、人間の極限状態の 労働で、ほんとに炭坑というところは残酷極まりない職場でした。   朝鮮は日本の植民地だから、どう酷き使って殺そうと問答無用で、炭坑経 営者の意のままだった。外国人捕虜の中にはずい分栄養失調の者もいたが、坑 内で虐殺されることは少なかった。それは国際赤十字がうるさいからでね。   炭坑は、納屋制度時代は納屋頭領の意志一つで坑夫は殺され、戦時中の朝 鮮人坑夫は労務係や坑内係の意志一つで殺される。それが別に不思議とは思わ ない、当り前だとの雰囲気があったからね。   朝鮮人は強制連行される時、炭坑とはどんな職場か知らない。全く自分の 意志というものが通用しない時代だった。困ったことに彼らは、言葉が通じな いことが原因で、暴力的な労務係や坑内係指導員から殴り殺された。   1日1円26銭、これが日給だった。大体、麻生系炭坑の低賃金は評判で、 その上に立って戦時利益を上げた。日本人は自分の国のために戦争をしている し、戦争に勝つためにはどんなことも我慢しなければならないという自覚があ るが、朝鮮人は自分の国でない日本のために犠牲になって、生命を賭してまで 働く理由は全くないわけだ。ところが日本人はそこをごっちゃにして、働かな いとは何事だと圧制した。   坑内の採炭現場は、6人1組、そのうち日本人は2人で後の4人は朝鮮人 だった。下三緒炭坑は、坑内にメタンガスの発生がひどくて、私たちの切羽 (採炭現場)は、最も危険な場所と恐れられていた。  「あそこはガスがあって、生きては帰れない」   と、朝鮮人たちは何時もいっていた。2カ月間、彼らと危険なところで一 緒に働くうちに親しくなり、私たちはもう兄弟以上になった。   大出し日にたまたま煙草の特配があった。坑内から上がると国防婦人会の 人たちが出迎えてくれたが、朝鮮人だけ煙草を渡さなかった。私は繰込場で彼 らに、そっと渡してやった。するとそれを見つけた労務係が飛んで来て私の腹 を蹴り上げ、煙草を吸っている朝鮮人を殴り倒した。  ・・・   炭坑の寮の飯の寮は極端に少ない。脱脂大豆を入れるが、それを大量に入 れると米の量は少なくてすむ。脱脂大豆を食べるとお腹をこわして、坑内では 下痢が散って衛生的には最低だった。血便さえ出ていたので、天井からしたた り落ちる水で坑底は血の海だった。  ・・・   炭坑資本は戦争になると、笑いが止まらないほど儲けるものだ。勤労奉仕 はただ同然、朝鮮人は安い労働賃金、たとえ坑内事故で死んでも四、五百円の 僅かな弔慰金を渡すだけだった。人間一人の生命の値段ではない。   私は二カ月間の坑内経験だが、人生の半分にも相当するものを経験した。   朝鮮人たちは、日本人から鞭(むち)をもらいながら、暗闇の労働に追い 込まれ死んで行った。彼らは炭坑の中で一番危険な場所で働かされたのだ。   採炭という慣れない仕事、言葉が分からないことから来る坑内係とのトラ ブル、殴られて殺されてもその実態さえ掴めない。寮と寮が分離されているの で、何人殺されたかも分からない。坑内係から殺されても落盤で殉職したこと を巧妙に隠すので、他の寮のことは一切不明でした。寮の中で突然姿を消すの で、事故死したのかそれとも逃亡したのか、お互いに話すことも禁止された奴 隷工場と同じだった。  ・・・   病気と疲労でどんどん死んで行っても、一人死ねば、一人朝鮮から強制連 行してくればいいと、彼らは戦時消耗品に過ぎなかった。  ・・・   炭坑の周辺に、朝鮮人の無縁仏が無数にあることを発見した。   哀れだなとつくづく思った。“石炭一塊は鉄の弾”といって、自分の炭坑 で掘った石炭でも無駄使いを禁じられて、火葬用の石炭さえもったいないとい って使うことを禁止された。すると、労務係は、炭坑の敷地内に穴を掘らせて、 遺体を投げ込んで埋めたからね。   ある炭坑では、重傷の坑夫をトロッコに乗せて昇坑して、どうせこの朝鮮 人は死ぬんだからと、道路脇に生きたまま埋めて、ボタ石をぽいと置いて去っ た。それがまだ生きている人間をだね。そういう現場は、朝鮮人から見られる と問題になるので、労務係はそっと処理したんだよ。筑豊の各地に、このよう にして葬られた朝鮮人の無縁墓がいくつもある。   分かっているものは、戦後、朝鮮人が掘り起こして、強制連行されて来た 仲間が持って帰った。   まだ不明のものが無数にある。ボタ山を見ると、赤いどろどろした血が、 べっとりとついているように見えてね。特に夕日の照りつけるボタ山を見ると、 どうかすると亡くなった朝鮮人坑夫の顔がちらついて来る。私たちは坊主とい う職業柄、死人との対話が多いが、戦後ずっと私の脳裏から朝鮮人のことは消 え去ることはない。 (注1)。        --------------------   麻生鉱業では「どうせこの朝鮮人は死ぬんだからと、道路脇に生きたまま 埋める」ようなむごいことを平気でやっていたようですが、これではまるで野 良犬か野良猫を処理するやり方です。かれらの目には、朝鮮人は人とは映らな かったのでしょう。   ある日、親兄弟から突然ひき離されて強制連行された先が麻生鉱業、ここ で粗末な食事で飢えをしのぎ、労務係に木刀でなぐられ、いつガス爆発するか しれないという恐怖にさいなまれながら、むし暑い暗い坑内でフンドシ一枚で 重労働にあえいだ末、予期した事故に遭い、そのあげく道ばたにイヌ・ネコの ように埋められていった坑夫の怨念はいかばかりだったでしょうか。   ふるさとでは愛する家族や肉親が帰りを待ちわびていただろうに、毎日が 地獄のような異国の地で、極悪人以外誰にも知られることなく死んでいくなん て、これがもし私の肉親だったらと、想像するだけで私は涙があふれそうにな ります。   筑豊のボタ山には、こうして果てていった人たちの死体がいまでも冷たい 地下で眠っているようです。現在のボタ山には草木が生えて、小さな丘と区別 しにくくなりましたが、そこは朝鮮人無縁仏の墓標でもあるようです。   突然の死、それは事故だけとは限りません。観音寺住職の古賀さんが証言 するように、労務係の意思ひとつで朝鮮人の命が左右される場合もありました。 その典型例が「キン玉」事件です。この暴動事件を、麻生の赤坂炭坑で「二鮮 直」の寮長をしていた持田次男氏はこう証言しました。        --------------------   昭和19年の秋、赤坂炭坑のわしの寮で大事件が起こった・・・   その朝の暴動の原因は、労務係の吉村が引き起こしたことが分かった。   寮にあった酒を飲んで酔っ払って、夜勤で寮生が出て行った後を 各室を 巡回した。そこへ一人の坑夫がうんうん唸って寝ていた。  「こらっ! 起きて入坑せんか! スカブラするな!」   と叫んで、足で蹴って布団をめくった。するとその寮生は腹部を押さえて、  「キン玉にインキンが出来て菌が入って、痛いから仕事を休みました。哀 号!」といった。  「勝手に休みやがってこの野郎。インキンだと? じゃ、俺が治療してやる から詰所まで来い」   吉村は嫌がる寮生を詰所まで連れてくると、ズボンを脱がせて褌を引きず り降ろした。いすに座らせると、机の引き出しからカミソリを取り出すと、そ の刃先を真っ赤に腫れている局部に当てた。一杯機嫌の面白半分でやったつも りが、酔っているので手許が狂い、意外に深いところまで傷つけた。見る見る うちに股の間から血が吹き出て、下半身が真っ赤に染まってしまった。   その寮生は出血を見て、キン玉を抜き取られたと思い込んで、半狂乱にな って逃げようとしたらしい。   吉村は襟首を掴んで引き戻すと、その場に押し倒した。カミソリを握り直 すと、もう一度切りかかろうとした。それを見たその寮生は、恐怖のあまり気 絶してしまった。   吉村は詰所の椅子に敷いてあった破れ座布団を手前に引き寄せると。黒く 汚れた綿をちぎって局部に当て、  「そこに寝ときゃようなる」といって、そのまま寮を出た。  ・・・   そのうち出血多量でその寮生は死んでしまったというのだ。   吉村は酔いが覚めたのか、その場に来て震えとったらしい。  「困ったの!」   労務課長は、そこにいる者に寮生の処置をどうしようかとたずねた。早く 処置をせんと、夜が明けると人目につきやすい。  「お前たち、この半島(朝鮮人)のことは俺しか知らんし、幹部にはまだ報 告しとらん。運んで来る時に誰かに見られんやったか?」   と、念を押した。みんなはあせり始め、労務課長は頭を抱え込んだ。  「課長、今夜、もうすぐそこの引込線に積出しの石炭貨車が入りますばい。 船路に寝かせて、酔っ払って寝ていて轢かれたとか、自殺にみせかけましょう や」  ・・・   寮生の死体は引込線の上に放り出されたままになった。  「おい、あれは何だ。誰か線路の上に寝ているぞ!」   夜勤帰りの二人の寮生が戻ってきた。手を触れると、体を硬直させて死ん でいた。よく見ると貨車に轢かれた跡もなく、下半身だけが血だらけになって いた。不自然な死に方に疑問を持って寮に知らせに走って大騒動となった。  ・・・   事件があった日から寮生が怒ってストライキに入り、採炭は4,5日スト ップした。   暴動の激しさは話にならなかった。四,五百人が投石するので、全く近寄 れず、警察も大勢来ているが、遠巻きに見るだけでね。驚いたことに、暴動を 利用して会社側に要求書を出して来た。   こうなると計画的で、誰かが指導しているとしか思えない。要求書を認め ないと、何をされるかわからないほど暴動は強烈だった。あれだけ可愛がっと った寮生でもなだめようたってそれは近づけなかった。   炭坑側との交渉で表面に出て来たのが、わしの第二鮮直の林と安と金の三 人で、暴動の力を背景にして、要求闘争に切り替えた点は実に見ごとなものだ った。   6項目を炭坑側が認めると、やっと彼らはストライキを解いた。三人は飯 塚署に逮捕され、すぐ朝鮮へ強制送還された。   赤坂炭坑に強制連行されていた朝鮮人は約1200人、何時彼らの不満が 爆発するか、寮長としてこれほど気を使ったことはない。もう労務係が力で抑 えることは限界になって、飯塚から憲兵に来てもらった。わしのところの労務 詰所には、それ以来憲兵二人が常駐することになった。        --------------------   この事件で寮生を死に追いやった吉村・労務係や、寮生の死体を貨車に轢 かせようとした労務課長は罰せられたのかどうかについて、証言を精力的に集 めた林えいだい氏は何も書きませんでした。おそらく、古賀氏の「戦時中の朝 鮮人坑夫は労務係や坑内係の意志一つで殺される」という当時の状況からする と、何の罪にも問われなかったのかも知れません。   もっとも、それより問題なのは企業責任です。麻生は「キン玉事件」など 数々の暴力事件や強制連行、強制労働にたいする企業責任をはっきりさせ、補 償すべきは速やかにおこなうべきです。   同じ筑豊の炭坑でも、三井鉱山は「強制連行訴訟」判決で、「原告らに労 働の対価を支払わないばかりか十分な食事も与えなかったのに、国からは多額 の補償金を受け、強制労働で多くの利益を得た」と福岡地裁からきびしく指弾 され、1億6500万円(原告1人当たり1100万円)の支払いを命じられました。 <三井鉱山訴訟判決に感動>   麻生の所業も三井と同類です。朝鮮人を強制連行し、末期には憲兵に守ら れながら低賃金で坑夫を強制労働させ、莫大な戦時利益をあげました。しかし、 会社の知名度が低かったためか、そうした不法行為はこれまでほとんど見過ご されてきたようです。   それをいいことに、麻生太郎氏が開き直るかのように、創氏改名を美化す るような発言をするなんて到底許されるものではありません。麻生氏が「新時 代を創る」をモットーにするのなら、過去の麻生鉱業の所業をきちんと清算す べきです。ましてや、祖父・吉田茂のように首相をめざすならなおさらです。   過去の清算を促すために、私は議員会館の麻生事務所へ前回の書き込みの コピーを送りました。多くの人が何らかのアクションをされるよう期待します。 <抗議先> 郵便番号100-8962 東京都千代田区永田町2-2-1 衆議院議員会館(03-3581-5111)、 麻生太郎事務所 【麻生太郎 筑豊事務所】0948-25-1121 (注1)林えいだい『消された朝鮮人強制連行の記録』明石書店、1989 (注2)半月城通信、<「官あっせん」および「徴用」> http://www.han.org/a/half-moon/hm023.html#No.190


姜徳相先生古希・退職記念出版 メーリングリスト[zainichi:25754] 2003年5月29日   半月城です。   姜徳相先生の古希・退職を記念して『日朝関係史論集』が発刊されました。 かつて「皇国少年」だった先生は、学業終了後20年にわたり日本各地の大学 に籍をおいたすえ、困難を乗り越え、在日韓国人として初めて国立大学の教授 になり話題になったのでご存知の方も多いと思います。   その後、先生は一橋大学を定年退職して滋賀県立大学へ移られましたが、 そこも定年退職になられました。それと古希を記念して、このたび本が出版さ れましたので、その目次を紹介します。 姜徳相先生古希・退職記念論文集刊行委員会編『日朝関係史論集』新幹社,2003         (ISBN4-88400-028-5) 第1部 古代ー近代における日朝関係  田中俊明  倭の五王と朝鮮  北島万次  壬辰倭乱における朝鮮水軍の水夫について         「乱中日記」を中心に  梁聖宗   耽羅(済州島)と日本         日本の古記録から交流史を試みる  朴孟洙   甲午農民戦争期における東学農民軍の日本認識  木村健二  京釜鉄道株式会社の株主分析         岡山・広島・山口を中心として  半月城   日本の竹島=独島放棄と領土編入  小田原宏幸 統監伊藤博文の韓国法治国家構想の破綻        「韓国ニ於ケル発明、意匠、商標及著作権保護ニ関スル日本条約」         施行に伴う韓国国民への日本法適用問題をめぐって 第2部 植民地下の朝鮮とその残滓  朴燦鎬   日本曲の翻案歌謡と「倭色歌謡」論難  長田彰文  ワシントン会議と朝鮮問題         朝鮮独立運動と日本の対応  河かおる  朝鮮金融組合婦人会について         植民地下朝鮮の農村女性史への手がかりとして  真木玲奈  植民地下における朝鮮語学         近代朝鮮語完成を目指した朝鮮人語学者の民族的葛藤  田中正敬  1930年代以降の朝鮮における塩受給と塩業政策  高仁淑   朝鮮における芸術歌曲の展開と洪蘭波  高谷美穂  植民地朝鮮における神社政策の展開と実態  金根煕   「皇民化政策期」の神社政策について  佐野通夫  朝鮮植民地支配末期の教育政策         義務教育制度実施を中心に  水野邦彦  韓国社会意識のなかの日本         「日帝の残滓」粗描 第3部 在外朝鮮人をめぐる諸問題  金廣烈   1920年代初期日本における朝鮮人社会運動         黒濤会を中心に  金廣植   金子文子の思想形成に関する研究         手記「何が私をかうさせたか」を中心に  古庄 正  日鉄大阪裁判の問題点  長澤 秀  第二次大戦末期の朝鮮人の闘い         北海道石狩炭田を中心に  吉沢佳世子 内地派遣朝鮮農業報国青年隊の研究         派遣先「内地」を中心に  樋口雄一  敗戦直後の在日朝鮮人         帰国問題を中心に  谷川雄一郎 「南満東蒙条約」と在満朝鮮人統合政策         鴨緑江対岸地域(西間島)を中心として  申奎燮   治外法権撤廃と在満朝鮮人統合政策         治外法権撤廃から協和会への編入まで  金隆明   指紋押捺制度と在日朝鮮人の人権  西川 誠  共生社会に向けた地方自治体の在り方  堀添伸一郎 ネオナショナリズムの起源と展開について         対朝鮮「帝国意識」を踏まえて   蛇足ですが、私も論集に寄稿しました。Yahoo!掲示板などに書き込んだも のをもとに小論「日本の竹島=独島放棄と領土編入」を載せました。内容は下 記で読むことができます。 <論文「日本の竹島=独島放棄と領土編入」>   本はかなり高価(\12,000+税)なので、手が出ない人は地元の図書館に購 入依頼を出してみるのも一法です。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


竹島=独島と連合国指令 2003/ 5/17 Yahoo!掲示板「竹島」#1801   半月城です。今回から戦後の事情をとりあげたいと思います。   1905年、日本は竹島=独島をこっそり領土編入して同島に軍事望楼を建設 しましたが、戦後、日本の植民地支配を脱した韓国はこれらを不当な措置であ ると非難しました。   具体的には、竹島=独島はカイロ宣言にいう暴力および貪欲(どんよく) により日本が略取した地域に該当するとし、日本はカイロ宣言を順守して竹島 =独島の領有意図を放棄すべきだと指摘しました。カイロ宣言は、1943年、日 本の領土を次のように制限しました。  「右同盟国の目的は日本国より一九一四年の第一次世界戦争の開始以降に於 て日本が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること 並 に満州、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華 民国に返還することに在り 日本国は又暴力及貪欲に依り日本国の略取したる 他の一切の地域より駆逐せらるべし(注1)」   カイロ宣言自体は米国、英国、中国の共同宣言であり、当時は日本を拘束 するものではありませんでした。しかしカイロ宣言は、日本が降伏時にポツダ ム宣言を受諾したことにより日本を拘束するようになりました。ポツダム宣言 の第8項はカイロ宣言の履行をこう規定しました。  「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラレルヘク 又日本国ノ主権ハ本州、北海道、 九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ(注1)  ポツダム宣言にいう諸小島ですが、国際的取り決めとしては占領軍である連 合国総司令部(GHQ)覚書があります。1946年、GHQは指令 SCAPIN 677 号を発し、その第3項で竹島=独島やハボマイ、シコタン島を日本の政治、行 政区域から切り離しました。連合国は竹島=独島を朝鮮領と認識していたので す。その一方で、第6項でこれは最終的決定ではないと明示されました(注2)。   しかし、この指令以降、竹島=独島の帰属に関する明示的な国際的な取り 決めは存在しません。換言すれば、竹島=独島の所属を明文化したものとして は SCAPIN 677号が最後になりました。これは特筆にあたいします。   ところで、竹島=独島が朝鮮領という連合国の認識がどこから生まれたの か、それが明らかになったようです。愼鏞廈氏によれば、線引きは日本陸軍参 謀本部の測量部が作成した「地図区域一覧図」(1936)を参考にして作成された ようでした。        --------------------   日本陸軍参謀部は、1936年3月現在の大日本帝国(日本本州、朝鮮、台湾、 関東州、樺太を含む)の「地図区域一覧図」を同年4月に刊行したのだが、こ の地図の目的は大日本帝国に属する全地域を、本州、朝鮮、関東州、台湾、樺 太、千島列島、南西諸島、小笠原諸島などにグループを分類することであっ た・・・ところが日本陸軍参謀部は、独島を“朝鮮区域”に入れたのである。   日本帝国主義が1945年8月15日に降伏し、連合国が大日本帝国を解体す るにおよんで、この「地図区域一覧図」が最も重要な資料のひとつになったこ とは言うまでもない。   なぜなら連合国最高司令部がそれまでの大日本帝国領の特定区域に対して、 日本政府の政治的、行政的権利の行使およびその停止を命じる最高司令部の命 令第677号を公布したとき、特定地域のグループ分類がこの「地図区域一覧 図」とほとんど100%一致したからである。   上の資料が教えているように、日帝治下で独島が行政上、島根県に属した としても、日本国民はもちろん、日本政府さえもが実際、形式的にも実質的に も、独島を朝鮮領とみなしていた(注3)。        --------------------   日本が竹島=独島編入を官報などで公表せず、こっそりおこなったツケが まわってきたようです。日本陸軍の測量部すら竹島=独島を朝鮮領と認識して いたのでは、連合国も韓国領と認識するのは当然です。   1946年6月、連合国は SCAPIN 677号の補強になるような指令までだしま した。SCAPIN 1033号「日本の漁業及び捕鯨業許可区域に関する覚書」です。 この指令の目的は題名からうかがえるように、日本漁船による漁業資源の乱獲 を防ぐのが目的で、漁業の許可区域を線引きしました。これは通称「マッカー サーライン」と呼ばれています。   アメリカは当時から海洋資源を守るのに積極的だったようで、デジタル平 凡社の『百科事典』はこう記しました。  「1945年9月にアメリカの大統領トルーマンは海洋政策に関する二つの宣言 を発表した。その一つは,大陸棚に関する宣言で,アメリカの領海以遠の大陸 棚に存在する鉱物資源をアメリカの管轄権におくことを宣言したものである。 他の一つは,保存水域に関する宣言で,外国漁船の活動から漁業資源を保護す るために,アメリカ沿岸に隣接する公海に保存水域を設定する権利を主張した ものであった」   トルーマンの海洋政策にそうかのように、連合国は指令でマッカーサーラ インを引いたのですが、その SCAPIN 1033号のなかに竹島=独島がこう記され ました。 (a)日本漁船または船員はタケシマ(北緯37度15分、東経131度53 分)の12カイリに近づいてはならず、また同島にいかなる接近もしてはなら ない(注4)。   SCAPIN 1033号にこの条項がわざわざ設けられたのは、マッカーサーライ ンを竹島=独島付近で日本側にふくらませて規制区域を拡げるためでした。こ れはとりもなおさず、竹島=独島は韓国領という SCAPIN 677号の認識を継承 し、その領海12カイリに接近することを禁じたものでした。   その後、マッカーサーラインは 1952年4月25日、すなわち対日講和条 約発効の三日前にSCAPIN指令により廃止されました。この措置からすると、占 領軍時代の指令 SCAPINは占領終了、すなわち講和条約の発効により自動的に 無効になるのではなさそうです。 (注1)『われらの北方領土』外務省国内広報課、二〇〇〇年 (注2)「若干の外郭地域の日本からの政治上および行政上の分離に関する連 合国総司令部覚書」SCAPIN 677号  3.この指令において日本とは、日本の主要4島(北海道、本州、九州、四 国)及び約1000の隣接諸小島を含むものと規定する。上記の隣接諸小島は、 対馬諸島及び北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口之島を除く)を含み、次 の諸島を含まない。 (a)鬱陵島、リアンクール岩(竹島)、済州島 (b)北緯30度以南の琉球(南西)諸島(口之島を含む)、伊豆、南方、小 笠原及び火山(硫黄)群島ならびに大東諸島、沖之鳥島、南鳥島、中之鳥島を 含む他の全ての外郭太平洋全諸島 (c)千島列島、歯舞諸島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)及び 色丹島  ・・・  6.本指令のいかなる規定もポツダム宣言第8項に述べられた諸小島の最終 的決定に関する連合国の政策の指標と解されてはならない。  ・・・   原文は下記のとおりです。 SCAPIN NO.677 GENERAL HEADQUARTERS SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS (29 January 1946) AG 091 (29 Jan.45)GS (SCAPIN-677) MEMORANDUM FOR : IMPERIAL JAPANESE GOVERMENT THROUGH : Central Liason Office, Tokyo. SUBJECT : Governmental and Administrative Separation of Certain Outlying Areas from Japan 1. The Imperial Japanese Government is directed to cease exercising, or attempting to exercise, governmental or administrative authority over any area outside of Japan, or over any government officials and employees or any other persons within such areas. 2. Except as authorized by this Headquarters, the Imperial Japanese Government will not communicate with government officials and employees or with any other persons outside of Japan for any purposes other than the routine operation of authorized shipping, communications and weather services. 3. For the purpose of this directive, Japan is defined to inclued the four main islands of Japan(Hokkaido, Honshu, Kyushu and Shikoku) and the approximately 1,000 smaller adjacent islands, including the Tsushima Islands and the Ryukyu(Nansei) Islands north of 30°North Latitude (excluding Kuchinoshima Island), and excluding (a) Utsryo (Ullung) Island, Liancourt Rocks(Take Island) and Quelpart (Saishu or Cheju Island), (b) the Ryukyu(Nansei) Islands south of 30°North Latitude(including Kuchinoshima Island), the Izu, Nanpo, Bonin (Ogasawara) and Volcano(Kazan or Iwo) Island Groups, and all the outlying Pacific Islands (including the Daito(Ohigashi or Oagari) Island Group, and Parece Vela ( Okinotori), Marcus (Minami-tori) and Ganges (Nakno-tori) Islands, and (c) the Kurile (Chishima) Islands, the Habomai (Hapomaze) Island Group (including Suisho, Yuri, Akiyuri, Shibotsu and Taraku Islands) and Shikotan Island. 4. Further areas specifically excluded from the governmental and administrative jurisdiction of the Imperial Japanese Government are the following : (a) all pacific Islands seized or occupied under mandate or otherwise by Japan since the beginning of the World War in 1914, (b) Manchura, Formosa and the Pescadores, (c) Korea, and (d) Karafuto. 5. The definition of Japan contained in this directive shall also apply to all future directives, memoranda and orders from this Headquarters unless otherwise specified therein. 6. Nothing in this directive shall be construed as an indication of Allied policy relating to the ultimeate determination of the minor islands referred to in Article 8 of the Postdam Declaration. 7. The Imperial Japanese Government will prepare and submit to this Headquarters a report of all governmental agencies in Japan the functions of which pertain to areas outside a statement as defined in this directive. Such report will include a statement of the functions, organization and personnel of each of the agencies concerned. 8. All records of the agencies referred to in paragraph 7 above will be preserved and kept available for inspection by this Headquarters. FOR THE SUPREME COMMANDER : (sgd.)H.W.ALLEN Colonel,AGD, Asst.Adjutant General (注3)愼鏞廈『独島(竹島=独島)』インター出版,1997 (注4)SCAPIN 1033 (a) Japanese vessels or personnel thereof will not approach closer than twelve(12) miles to Takeshima(37°15' North Latitude,131°53' East Longitude) nor have any contact with said island.   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


対日講和条約草案 2003/6/1 Yahoo!掲示板「竹島」#1946   半月城です。   やはり「石の山」にも玉はありました。私にとってコメントする価値があ る書き込みがやっとあらわれました。nobuo_shoudoshimaさん、ほんの一部と はいえ、米国草案の情報の転載をありがとうございました。   その一方ですこし気になるのですが、資料の一方的解釈でヌカ喜びするの はすこし早いのではないでしょうか。いうまでもなく、資料は総合的に分析す る必要があります。それを考慮して、今回は対日講和条約成立までの過程を書 きたいと思います。   まず全体像をわかりやすくするために、文末にサンフランシスコ対日講和 (平和)条約にいたる年表をかかげます(注1)。そこに見られるように、連 合国はアメリカおよびイギリスがそれぞれ独自に条約の草案を作成し、両国案 を統合する形で条約が作成されました。決してアメリカ一国の考えで条約が成 立したわけではありません。イギリスも重要な役割をはたしました。   イギリス草案は3度作られましたが、第1次草案は荒唐無稽な案でした。 領土範囲を示す地図上で竹島=独島はいうにおよばず、済州島や鬱陵島などを 日本領に含めて線引きしました。この誤りにすぐ気がついたイギリスは、さっ そく第2次草案で竹島=独島などを韓国領として線引きしました。これは第3 次の最終草案まで変わりませんでした。   イギリスはどのていど竹島=独島を知っていたのかはっきりしませんが、 おそらく 1946年の連合国指令 SCAPIN 677号や、翌年の連合国が合意した旧日 本領土処理の合議書にしたがったものと思われます(注3)。   他方のアメリカですが、竹島=独島についてほとんど無知だったため、竹 島=独島に関する同国の草案は迷走しがちでした。当初、アメリカは竹島=独 島を韓国領として第1次から第5次草案を作成しましたが、1949年、日本に説 得された駐日政治顧問シーボルドの下記意見書により突然方針を変えました。  「竹島(リアンクール岩)--日本海中ほぼ日本と朝鮮の等距離にある、二 個の無人の小島である竹島は、1905年に日本により正式に、朝鮮の抗議を受け ることなく領土主張がなされ、島根県隠岐支庁の管轄下に置かれた。   同島は、アシカの繁殖地であり、長い間 日本の漁師が一定の季節に出漁 していた記録がある。西方近距離にあるダジュレ島(注、鬱陵島)とは異なり 竹島には朝鮮名がなく、かつて朝鮮によつて領土主張がなされたとは思われな い。同島は、占領期間中 合衆国空軍によつて射爆場として使用され、また、 気象またはレーダー局用地として価値がある可能性がある(注2)」   アメリカは、日本が竹島=独島をこっそり領土編入した事実を知らなかっ たのか「領土主張がなされ」などと事実とかなり異なることを記しました。ま た、わずかに「領土主張」まがいが島根県の地方官吏から鬱島郡守に告げられ、 韓国が初めて日本の領土編入を知ったとき、韓国は外交権を失っていて抗議で きる立場になかった事実も知らなかったようでした。   さらに驚いたことに、竹島=独島には朝鮮名がなかったと記録されていま すが、これでは明治政府が竹島=独島を版図外として放棄した事実をもちろん 知らなかったことでしょう。   こうした無知のせいか、アメリカは竹島=独島を日本領とする日本の主張 を一方的にうのみして草案を変更したようでした。第6次草案では竹島=独島 を日本領としてこう記しました。        -------------------- 米国務省第6次草案(1949.12.29)  第3条 1.日本の領土は、四主要島である本州、九州、四国及び北海道並 びに瀬戸内海の島々、対馬、竹島(リアンクール岩)Takeshima (Liancourt Rocks)、隠岐列島、佐渡、奥尻、礼文、利尻・・・歯舞群島及び色丹を含むす べての隣接諸小島からなる・・・  第6条 日本は、ここに、朝鮮のために、朝鮮本土並びに済州島、巨文島、 鬱陵島及び日本がかねて権原を獲得したその他のすべての島嶼を含む、朝鮮の すべての沖合島嶼に対するすべての権利及び権原を放棄する(注2)。        --------------------   この第6次案で竹島=独島やハボマイ・シコタンがはっきり日本領と明記 されたことは注目されます。しかし、これが次の第7次案では記述が簡略化さ れ、朝鮮関係では竹島=独島はおろか、鬱陵島など具体的な島名の記載が一切 なくなりました。   こうした簡略な記述は同盟国の不審をかいました。オーストラリア政府は 「旧日本領の処分に関して一層精密な情報を求む」と要求しました。当然の疑 問です。これに対し、アメリカは「瀬戸内海の島々、隠岐列島、佐渡、奥尻、 礼文、利尻、対馬、竹島、五島列島・・・これらは日本によって保持されるで あろうことが考えられている・・・」と回答しました。アメリカはひきつづき 竹島=独島を日本領と考えていたようでした。   このように具体的な島名を条約で明示しない方式は、その次の第8次案や 第9次の最終草案などにも引き継がれました。これはハボマイ・シコタンなど 北方4島をめぐり、連合国であるソ連の意向が影をおとしたようでした。ソ連 は、東西冷戦のさなかにあって、アメリカ案に反対し、結局は講和条約に調印 しませんでした。   こうして日本の付属島嶼を条約で明確化しないアメリカ案と、逆に日本領 を地図で明示するイギリス案とが対立することになりました。そこで米英両国 間で調整がはかられ、折衷案が作成されました。その経過をアメリカ国務省の 注釈書(1951.6.1)はこう記しました。        --------------------   ワシントンでの(イギリスとの)話し合いにおいて合衆国は、日本の周り に連続した線を巡らすと日本を柵の中に囲い込むように見えるという心理的不 利益を指摘し、英国はこの提案を落とすことに同意した。日本も、東京で英国 の提案が話し合われたとき、これに反対した。   条約中に朝鮮の領土が済州島、巨文島および鬱陵島を含む旨 明細に述べ ることを合衆国が進んで受け入れたこともまた、英国を説得するのに役立った (注2)。        --------------------   米英両国の折衷案として、条約には済州島、巨文島、鬱陵島の三島のみが こう記載されることになりました。  「日本国は、朝鮮(済州島、巨文島および鬱陵島を含む)、・・・に対する すべての権利、権原および請求権を放棄する」   一方、北方領土関係では北方4島について何らの記述もありませんでした。 こうしたあいまいな記述では、将来領土紛争が起きかねないと憂慮した連合国 のニュージーランドはこう見解を表明しました。  「日本近傍のいずれの島にも主権紛争を残さないようにすることを確保する 必要性にかんがみ、英国草案第1条で提案されているように日本が保持すべき 領土を経緯度によって正確に画定することが望ましいと考える。   この方式を採用すれば、たとえば現在ソ連の占領下にある歯舞諸島及び色 丹が日本に残ることを明確にすることができるであろう(注2)」   ニュージーランドの見解は、今日の竹島=独島や北方領土問題の発生を予 見したともいえる至極もっともな憂慮です。しかし、アメリカには日本の付属 島嶼を明らかにできない事情がありました。それが米英両国草案の調整過程で 明らかになりました。 1951年6月、米国務省注釈書はこう記しました。  「歯舞諸島および色丹については、ソ連がその島を占領していることからし て、日本への返還を明確に規定しない方がより現実的であると思われる」   ここで重要な事実が明らかになりました。講和条約にハボマイ・シコタン を明記しなかったのは、現にソ連がそれらの島を連合国指令 SCAPIN 677号に もとづいて統治している実態を追認して日本領とは明示できなかったためでし た。   これは当然です。ソ連の了解なしに条約参加国の仲間うちだけでソ連統治 のハボマイ・シコタンを勝手に日本領として決定することは不可能です。その ため、同島の領有権をわざとあいまいにするために講和条約ではそれらの島に あえてふれなかったのでした。   したがって、条約に記載されなかった島は「サンフランシスコ平和条約上、 日本が保持することが確定した」とする塚本孝氏の解釈はとうてい無理である といえます。   こうした米英の協議をへて共同草案は改訂され、朝鮮に関しては米英案を 折衷する形で条文が作成されました。最終的に朝鮮は講和条約の第2条(a)に こう記されました。  第2条(a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を 含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。   結局、ここでもニュージーランドの提案は生かされないまま、講和条約で ハボマイ・シコタンや竹島=独島は一言半句も記載されませんでした。竹島= 独島はアメリカの草案で、ある時は朝鮮領、ある時は日本領とされましたが、 最終的にはどちらも削除されました。なかでも竹島=独島を日本領とする草案 が削除された背景は、ハボマイ・シコタンの場合と同じように考えることがで きます。   すなわちソ連のハボマイ・シコタン統治と同様、韓国の竹島=独島統治は SCAPIN 677号が起源になっています。しかも韓国はソ連同様に講和条約には参 加しなかったので、日韓間の領土確定に対日講和条約は無関係だったとみるべ きです。すなわち、竹島=独島やハボマイ・シコタンが講和条約により自動的 に日本領になったとする解釈は不可能です。   日本政府は、「平和条約が竹島にふれていないのは、竹島が日本領でない からではない。平和条約では、日本から剥奪する領土だけを書くのが当然で、 書かない限り日本に残る」と主張しました(注4)。   しかし、条約で書かなかったのは条約非調印国とのかねあいから、それら の島の帰属をわざとあいまいにしたためであり、日本政府の解釈はとうてい無 理です。   ともあれ、講和条約は竹島=独島について一言もふれていない以上、そこ から明確な結論を導くのは無理といえます。結局、対日講和条約はニュージー ランド政府が心配した「主権紛争」を残したままのあいまい決着でした。 (注1)対日講和(平和)条約年表  1946.1.29 、SCAPIN 677号、竹島=独島、北方4島を日本から分離  1947-1950 、連合国、旧日本領土処理合議書、竹島を韓国領、北方4島日本領  1947.3.20 、米国第1次草案、竹島=独島を韓国領、北方4島記述なし  1947.8.5 、米国第2次草案、竹島=独島を韓国領、北方4島を日本領  1948.1.12 、米国第3次草案、竹島=独島を韓国領、北方4島を保留  1948.8.15 、韓国独立  1949.10.13、米国第4次草案、竹島=独島を韓国領、北方4島を保留  1949.11.2 、米国第5次草案、同上、ただし北方4島は日本に同情的  1949.11.19、米国、シーボルド意見書、竹島=独島、北方4島を日本領  1949.12.29、米国第6次草案、竹島=独島、ハボマイ・シコタンを日本領  1950.6.25 、朝鮮戦争勃発  1950.8.7 、米国第7次草案、竹島=独島や鬱陵島、北方4島の記述脱落  1950.9.11 、米国第8次草案(対日講和7原則)、同上  1950.10.26、豪州政府質問への米国回答、竹島=独島を日本領、北方4島の        記述脱落  1951.2.28 、英国第1次草案、済州島や鬱陵島、竹島=独島を日本領に線引き  1951.3.3 、米国最終草案、竹島=独島や北方4島の記述脱落、韓国へ提示  1951.3  、英国第2次草案、済州島や鬱陵島、竹島=独島を韓国領に線引き  1951.4.7 、英国最終草案、同上  1951.5.3 、米英共同第1次草案、竹島=独島や北方4島の記述脱落  1951.6.1 、共同草案への米国注釈書、竹島=独島にはふれず        ニュージーランド政府、ハボマイ・シコタンの日本領明記を要求        注釈書はハボマイ・シコタンのあいまい決着理由を説明  1951.6.14 、米英共同第2次草案、竹島=独島や北方4島の記述脱落  1951.7.12 、韓国第1次覚書、連合国への参加など10項目を要求  1951.7.19 、韓国第2次覚書、独島など5項目を要求  1951.7.26 、韓国第3次覚書、マッカーサーラインの存続など3項目要求  1951.8.10 、米国、韓国へラスク書簡、竹島=独島を日本領  1951.8.16 、条約最終草案、竹島=独島や北方4島の記述脱落  1951.9.8 、対日講和(平和、サンフランシスコ)条約調印  1952.4.28 、同発効 (注2)塚本孝「平和条約と竹島(再論)」『レファレンス』国立国会図書館、   1994,3月号 (注3)愼鏞廈『獨島領有權資料の探求』第3巻(韓国語)獨島研究保全協会,2000 (注4)田村清三郎『島根県竹島の新研究』島根県総務部、1966   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


対日講和条約と韓国の対応 2003/ 6/ 1 Yahoo!掲示板「竹島」#1951   半月城です。   今回は韓国と対日講和(サンフランシスコ)条約とのかかわりを書くこと にします。とくに、韓国が竹島=独島をどう扱い、どのような失敗をおかした のかを明らかにしたいと思います。   日本の敗戦により植民地支配から解放された朝鮮は、当初、連合国の一員 として対日講和会議に招待されるとみられていたようでした。それを高崎宗司 氏はこう記しました。        --------------------   47年3月27日、マッカーサー元帥は、東京に立ち寄った朝鮮合同通信社 の金東成社長と会見し、「来る対日講和会議には朝鮮も当然代表を送ることに なろう」と語った。また、ムチオ駐韓米大使も韓国を参加させるよう本国政府 に進言していた。本国政府も韓国政府に連合国として平和条約に署名させる方 針であった(注1)。        --------------------   しかし、当時の朝鮮は講和会議どころではありませんでした。植民地支配 から脱したものの、亡命臨時政府は力不足のため連合国から認知されず、日本 の統治に代わりうる政権は存在しませんでした。そのうえ、朝鮮は東西冷戦対 立のあおりをうけ、左右の主導権争いが日に日に激化の一途をたどっていきま した。   結局、左右の争いは修復されないまま分裂し、1948年、北と南に別々な政 権が誕生してしまいました。しかも不幸はこれだけに終わらず、50年には南北 の内戦が勃発しました。熾烈な戦争を反映して、首都ソウルの掌握は南から北 の政権へ、さらに南、北、南の手に落ちるなど三転、四転しました。そのたび に民衆が筆舌につくしがたい苦難をこうむったことはいうまでもありません。   国家がこのように存亡の危機にあったので、韓国は対日講和会議に十分な エネルギーをそそぐ余力はありませんでした。ましてや、日本と違って竹島= 独島を存分に研究する余裕はありませんでした。韓国はそうした戦争のさなか に、しかも切羽詰まって講和会議対策をせざるをえない状況でした。        --------------------   李承晩大統領は51年1月26日の記者会見で、対日講和会議に対する韓 国政府の方針を、(1)会議に参加すること、(2)1904年から10年にかけて結ば れた韓日間の諸条約、すなわち「日韓併合ニ関スル条約」などを廃棄させるこ と、(3)不合理な賠償は請求しないこと、であると明らかにした。そして、4 月16日、外務部に「対日講和会議準備委員会」を発足させた。   委員会では対日講和条約の草案をめぐっていろいろな議論が起こった。法 制処長から高麗大学総長に転じていたユ鎮午は、「日本国は、朝鮮の独立を承 認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原、 および請求権を放棄する」(第2章第2条a)を修正し、独島(日本でいう竹 島)なども韓国領土であることを平和条約の中に明記させるべきだとした(注1)。        --------------------   韓国政府の訓令をうけて、1951年7月19日、駐米韓国大使・梁祐燦は済 州島・巨文島・鬱陵島・独島・波浪島の5島を講和条約に明示するようアメリ カへ第2次覚書で要請しました。   これに対し、独島・波浪島の位置をどうしても特定できなかったアメリカ は、その位置を韓国大使館に質問しました。そのやりとりがアメリカの記録に 残っていますが、その内容は驚くべきもので、愼鏞廈氏はこう記しました。  「(質問に)韓国大使館官吏は 獨島は鬱陵島か竹島付近にある島であり、 波浪島もやはり同様な位置と考えるという回答であった。韓国外交官たちが当 時、獨島と竹島が同一の島であるということも知らず、また済州島南にある波 浪島を鬱陵島付近にあるかのように回答しているが、かれらの無知と無事安逸 主義に驚愕するばかりである(注2)」   当時、波浪島は幻の島であったので(注3)、その位置を駐米韓国大使館 員が知らなかったのは仕方ないとしても、獨島とタケシマが同一の島であるこ とを知らなかったのは大使館員の勉強不足といえます。   そのうえ、それらを本国に問い合わせようともせず、アメリカへデタラメ な回答をしたのは大使館員の致命的なミスでした。それが重大な結果をもたら しました。梁祐燦大使の条文修正要求にたいし、ラスク国務次官補は 1951年 8月10日付の書簡でこう回答しました。        --------------------   ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、 この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われ たことが決してなく、一九〇五年ごろから日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあ ります。   この島は、かつて朝鮮によつて領土主張がなされたとは思われません。 「パラン島」を日本が放棄したものとして条約に名前を挙げる島の中に加える という韓国政府の要望は、撤回されたものと理解します(注4)。        --------------------   こうして韓国の要求は拒絶され、条約文において竹島=独島を韓国領とす る修正努力は水泡に帰しました。1週間後には条約の最終案ができあがり、1 か月後には西側の連合国により対日講和条約が調印されました。韓国は絶好の 機会をのがしました。国家が混乱状態にあり準備不足であった当時の韓国にと って痛恨の外交交渉でした。   さりながら、竹島=独島やハボマイ・シコタンは条約文には記載されず、 それらは連合国により日本領と認定されたわけでないことは再度強調しておき たいと思います。その結果、連合国の一員であるニュージーランド政府が憂慮 したように「主権紛争」が現存するわけです。 (注1)高崎宗司『日韓会談』岩波新書、1996 (注2)愼鏞廈『獨島領有權資料の探求』第3巻(韓国語)獨島研究保全協会,    2000 (注3)パラン(波浪)島、Yahoo! Korea百科事典より  済州島の馬羅島から西南方向に152km離れた東中国海にある。中国領の童島 から245km、日本の長崎県鳥島から276kmの距離に位置している海上交通と航路 の要衝である。  岩礁頂上が海の表面から4.6m下に潜っており、波涛が激しいときだけその姿 を現す。このために昔から済州島では幻の島または伝説の島とされてきた。  科学技術庁では154億ウォンを投じて延べ建坪300坪規模の鉄骨構造の 海洋科学基地を建設するために、1994年10月から現状の調査活動に入った。 この基地が1997年に完工し、各種観測施設、通信施設、灯台、船舶係留場、ヘ リ基地が整えられ、台風、津波などの研究や予報に活用される。 (注4)塚本孝「平和条約と竹島(再論)」『レファレンス』国立国会図書館、    1994,3月号   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


竹島=独島と連合国 2003/ 6/ 7 Yahoo!掲示板「竹島」#2013   半月城です。   nochonggakkさんはご存知かもしれませんが、連合国の「旧日本領土処理 に関する合議書」関連の報道が下記「世界日報」のサイトにあります。 <連合国領土合意書、独島を韓国領として処理>(韓国語) 拙訳<アメリカ公文書館資料>   上の記事では合議書の作成年を1947年としています。これは、合議書がア メリカの第1次草案(1947)から第5次草案(1949)の書類綴りにすべて複写され てつづられているので、合議書の作成開始年として 1947年は妥当かもしれま せん。   一方、合議書の文中に 1950年の字句がありますが、これは竹島=独島を 日本領としたアメリカの第6次草案(1949)と明らかに相容れません。合議書に はこう記されました。        -------------------- 秘密    旧日本領土の処理に関する合意  連合国および関係国の平和条約会議は、日本に関して、1950年、同条約にお いて日本により放棄される領土を下記のように処分することで結論に達した。 第1条 ・・・台湾・・・ 第2条 ・・・サハリン・・・ 第3条 連合国および関係国は朝鮮本土や済州島、巨文島、鬱陵島、リアン クール(タケシマ)、・・・を含むすべての朝鮮沿岸の諸島にたいするすべて の権利、権原を韓国の完全な統治に移すことに合意する。  (線引きの)ラインは、この合意書付属の地図に示される。 第4条 ・・・小笠原群島・・・ 第5条 ・・・琉球・・・  1950年( )月( )日、英語で( )市にて。        --------------------   どうも、合議書は 1950年に最終合意書として残される予定だったようで す。それがどうやらアメリカの方針変更か、そのままになってしまったようで す。   竹島=独島を日本領から除いたこの合議書が、アメリカのみならずイギリ スやニュージーランド、オーストラリアなど同盟国の日本領認識に重要な役割 をはたしたことはいうまでもありません。その後、対日講和条約の時点にいた り、アメリカ以外の同盟国が竹島=独島の領有をどのように考えていたのか、 それは私も不明であると考えています。   ニュージーランドの意見書がハボマイ・シコタンにはふれても竹島=独島 にはふれていないところをみると、連合国は竹島=独島にはあまり関心をもっ ていなかったようです。こうした姿勢は、その後の国際関係に反映しているよ うです。その推移をみることにします。   1948年6月、竹島=独島に出漁中の韓国漁夫30名が米軍の爆撃演習にあ い、死者16名の犠牲をだしました。韓国政府の抗議にたいし、アメリカ第5 空軍は演習場として指定していなかったことを認め韓国政府に陳謝しました。   その後、竹島=独島を演習場とする指定は連合国によりSCAPIN-2160号 (1950.7.6)をもってなされました。   このころはすでにアメリカは竹島=独島を日本領と考えていた時期でした。 それを反映してか、講和条約後の1952年7月、日米安全保障条約の実施のため に設立された合同委員会は行政協定第2条にもとづき、竹島=独島を在日米軍 の使用する海上演習および訓練区域として指定しました。   しかし翌年2月 アメリカは、この指定に対する韓国政府の抗議を受けて 竹島=独島を演習区域から解除するとの公式回答を韓国政府へ行いました。こ れは3月の合同委員会でも承認されました。   このとき、アメリカは韓国の抗議をはねつけず、韓国政府の要望に応じる ように回答したことからすると、このころ竹島=独島は日本領というアメリカ の考えがぐらついていたのかもしれません。あるいは、SCAPIN-677号(1946)に 起源をおく韓国の竹島=独島統治をアメリカが重視した結果かもしれません。   韓国は、1948年8月に独立するや、さっそく竹島=独島を慶尚北道の一部 として行政をおよぼす措置をとっていました。これには日本政府をはじめ、ど こからも異論や抗議はありませんでした。   さらに 1951年3月には、連合国は竹島=独島を韓国の防空識別区域 (KADIZ)に設定しました(注)。この時は時間的にアメリカがすでに竹島=独 島を日本領と認識したのちなので、むしろ竹島=独島を日本の防空識別区域に 組み入れたほうが自然に思われます。   それにもかかわらず、連合国が KADIZに組み入れた事実は、アメリカの認 識がそのまま連合国の認識にならなかったのか、あるいは連合国もアメリカも 韓国の竹島=独島統治を重視して KADIZにしたためでしょうか。こうした決定 をした連合国は、SCAPIN-677以来、対日講和条約後も韓国寄りとみられます。   KADIZはその後も変更されることなく、現在にいたるまでそのまま使用さ れていると愼鏞廈氏はこう記しました。        --------------------   日本は再独立した後、1969年から日本列島周辺に「内部日本防空識別区域 (Inner JADIZ:約100km」と「外部日本防空識別区域(Outer JADIZ:約400- 600km)を設定し使用しているが、獨島は除外されており、「韓国防空識別区 域」に含まれるとするUN軍の決定にしたがっている。   各国 ADIZは国際法上認定されたものではないが、航空界では他国 ADIZに 進入する時は事前通報をおこない摩擦を避けるのであり、慣習法としての地位 が認定されつつあるのが趨勢である。   韓半島周辺の KADIZは獨島上空を含んでおり、KADIZの外郭は地図のよう に「Outer JADIZ」と一致している。獨島上空をその中に含んだUN軍・米空 軍・韓国空軍の KADIZの設定とその国際的尊重は SCAPIN 第677号および SCAPIN第1033号の基礎と背景のうえに展開されたのはもちろんのことである(注)。        --------------------   連合国にとって竹島=独島の統治権に関する国際的な規定は SCAPIN-677 号が最後であり、対日講和条約が竹島=独島について条文でまったくふれてい ない以上、連合国が韓国のSCAPINを起源とする竹島=独島統治を前提に事を進 めるのは自然な成りゆきです。   それにしても、日本がすすんで竹島=独島を日本の防空識別区域(JADIZ) からはずしていたとは意外でした。これは、防空識別区域に関して日本は国際 的に通用しないような振る舞いを自制しているということでしょうか。 (注)愼鏞廈『獨島領有權資料の探求』第3巻(韓国語)獨島研究保全協会,2000   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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