半月城通信
No. 95(2003.5.29)

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  1. 箕子朝鮮のナゾ
  2. 明治期の鬱陵島侵略
  3. 明治政府の地図作成機関の竹島=独島認識
  4. 于山島から石島、獨島へ
  5. 石島と観音島
  6. 日本の竹島=独島編入と国際法
  7. 日本の竹島=独島編入にたいする反発
  8. 半月城の論文「日本の竹島=独島放棄と領土編入」


箕子朝鮮のナゾ 2003.5.11 メーリングリスト[zainichi:25658]   半月城です。   小野さんのご依頼ですが、私は中国史をほとんど知らないので、ここでは 箕子(きし)朝鮮についてのみ記すことにします。   小野さんは、箕子が殷から古朝鮮へやって来て箕子朝鮮を建国したという 『史記』の記述は可能性が高いとみられておられるようですが、日本、韓国の 学会ともにその記述には否定的な意見が強いようです。そうしたなかで、金両 基氏のつぎの意見に私は注目しています。        --------------------   箕子の東来説について、韓国史界の大元老の李丙燾博士は、古朝鮮の「王 室での始祖仮飾説から誕生した」とみなし、古朝鮮の王位を継いだという説を 否定している(『韓国古代史研究』)。韓国の史界では、箕子が檀君の跡を継 いだという話も後世の付会だとする説が有力である。   後世の付会だという説を是認するには、大きな難問を解決しなければなら ない。『魏略』に、箕子の後を朝鮮候が継ぐとあり、候とは王や君長のことで あるから箕子もその地位にあったということになる。   しかもここでの朝鮮は韓国史上に登場する実在した国の号だとされている から、箕子の扱いは非常にむずかしい。箕子の否定によって、民族主義的歴史 解釈だという批判さえおきかねない。   一方、箕子に関する多くの史書の記述にも矛盾点が多い。それらを整理す ればするほど、話の辻褄が合わなくなる。そこでそれを一介の伝説でしかない と切り捨てた史学者もいる。といって、切り捨ててしまうほどの軽い存在でも ないので、ことはやっかいである。   箕子のくだりを読み込んでいくと、箕子の名をかぶせられた別人の王がい たように思えてくる。どうも、そうらしい。衛満に王位を奪われた朝鮮(古朝 鮮・箕子朝鮮)の準王の系譜の格を高めるために、箕子の名を登場させた、と いう説が有力である。   箕子と準王との間に否王の名が登場し、準王は臣下の衛満に王位を奪われ て南に逃れ、そこで韓王となった。韓王とはいうものの、それが三韓(馬韓・ 辰韓・弁韓)なのか、それともそれに類する小国なのかよくわからない。  『三国遺事』は『魏志』からの引用と断って、「準は宮廷人と臣下を率いて 海を渡り、南に下って韓の地に至りそこに国を開いた。それが馬韓である」と、 語る。が、馬韓の王になったことと、海を渡ったことなど、そのくだりには疑 問が残る。さらに、後世、韓国の韓という姓の一つに準王を始祖とする清州韓 氏が生まれた。清州韓氏は自分たちの始祖を準王だとするが、それとてたしか な資料があってのことではない。   それらを整然と整理することはむずかしいが、衛満に追われたという準王 の弱いイメージを払拭しようとして、中国の殷の賢人箕子の名に結びつけたた めに、このような王位の迷路が出来上がってしまった、という説が有力になっ てきた。中国にとっても悪い話ではないから、ことさらに疑問を感じなかった。 それで、そのまま書に記述してしまった、ということである(注)。        --------------------   歴史書は、それを書いた人や時代背景が濃厚に投影されているので、史書 の記述は考古学資料や民族学など多方面から多角的に考証する必要があること はいうまでもありません。そのうえで歴史と伝承とを選別する必要があるので すが、檀君朝鮮や箕子朝鮮の場合、課題は山積しており、歴史的事実を明確に するにはほど遠いようです。   その一方、金氏は「衛満に王位を奪われた朝鮮(古朝鮮・箕子朝鮮)の準 王の系譜の格を高めるために、箕子の名を登場させた」とする説を有力として いますが、今でもこの説は有力なのかどうか、ご存知の方がおられたら教えて ください。 (注)金両記『物語 韓国史』中公新書,1989


明治期の鬱陵島侵略 2003.4.5 Yahoo!掲示板「竹島」#1571   半月城です。   前回「島名の混乱」において、1876年ころから「松島(鬱陵島)開拓願」 が外務省に出されたと書きましたが、これを朝鮮側からみると、そのころから 日本人の鬱陵島への侵入が目にあまるようになったことを意味します。   それからさまざまな紆余曲折を経て、やがて 1905年、日本は竹島=独島 を「無主地」という口実でこっそり領土編入するのですが、これはとりもなお さず日本の鬱陵島への侵略から派生したものでした。領土編入は、決して日本 がある日突然に無主地を発見して自国領に組み入れたというようなものではな く、それなりの背景がありました。今回は領土編入の前史である日本の鬱陵島 侵略を具体的にみることにします。   1881年、朝鮮政府は鬱陵島で日本人が伐木しているのを発見するや、日本 政府へ正式に照会して鬱陵島渡航禁止を要求しました。日本外務省は、前回書 いたように、すでに松島開拓問題で鬱陵島を朝鮮領と認めていたので、その非 を素直に認めて朝鮮に謝罪しました。   しかしこの時、外務省は謝罪のみで何ら対策を講じなかったので、日本人 の鬱陵島侵入はその後もつづきました。朝鮮の抗議がくり返されるや、やっと 日本政府は鬱陵島への渡航を禁止し、1883年、同島に在留していた日本人を強 制的に連れ戻しました。   しかし、木材や漁業資源が豊富な未開の鬱陵島はよほど魅力的だったとみ え、そこへ渡航する日本人はその後も跡を絶ちませんでした。当初は木材を伐 採するのが主な目的でしたが、やがて乱伐のために運びやすい沿岸の木材が枯 渇するや、次第に漁業が中心になっていきました。   日本政府も朝鮮への出漁を後押しするため 1889年、治外法権や種々の不 平等規定をもつ「日朝両国通漁規則」を朝鮮に押しつけました。そのため必然 的に日本人の鬱陵島侵入が激化し、それにともない朝鮮政府の日本人退去要求 は 1888年、95年、98年、99年、1900年としばしば出されました。95年以降、 間隔が短くなったのは、日清戦争(1894)に勝利した日本で対外進出の気運が一 層高まったためです。   鬱陵島に侵入した日本人の中には悪質な人もいたようで、業を煮やした鬱 陵島の島監・裵季周は取締を要請するため、はるばる鳥取県や島根県の警察署 にまでやってきたくらいでした。その時の記録が外務省にこう残されました。   1898年、鳥取県 吉尾万太郎、島根県 田中多造、大分県 神田健吉の三名 が「年々同島に赴き、刀剣銃砲を携え島内を横行し、人民を脅迫し婦女子を追 廻り、物品を盗奪する等不法の行為を為し、為めに島民非常に迷惑を感ずるを 以て、之が制止を求むると云ふにあり(注1)」(カナをかなに変換、以下同 様)   さらに裵季周は、何人かの日本人を材木の盗伐と窃取のとがで松江地方裁 判所に提訴しました。その事件を調べた日本の検事は「本邦人多数在住し そ の勢力は更に島民を圧し横暴を極め 殆んど無政府の有様」で、「時に在て乱 暴を以て彼れを威圧する徒も有之由(ありしよし)将来 此勢増長するに於て は如何なる珍事惹起するや量り難き」と記すほど日本人の乱暴狼藉はひどいも のでした(注2)。まるで、やくざが街を闊歩して威圧しているようなさまで す。   一方、このころ日本政府は遠洋漁業政策をさかんに推し進めていました。 日清戦争勝利の勢いに乗った日本は 1898年「遠洋漁業奨励法」を実施し、奨 励金まで出して海外進出を奨励しました。さらに1902年には「外国領海 水産 組合法」を制定し、従来の単なる通漁から外国における移住漁村の建設へと移 行するようになりました。   こうした流れから日本は、鬱陵島在住の日本人退去を要求する朝鮮政府に 謝罪するどころか、逆に定住を後押しするようになっていきました。そのよう な潮流が鬱陵島における乱暴狼藉を生む一因になったのですが、そうした事態 に日本と韓国はともかくも鬱陵島の実態を共同で調査することになりました。 それを堀氏はこう記しました。        --------------------   現地の状況を調べるために、1900年6月には朝鮮内部視察官 禹用鼎と釜 山領事館補 赤塚正助による合同出張調査まで行われた。それでも決着がつか なかったので、朝鮮政府は紛争の有無にかかわらず、条約に基づいて同島から 日本人が退去するよう再度要求した。   日本政府は、日本人の同島在留が条約規定外であることは認めつつも、ま た日本政府が直接に退去させねばならない責務もないと反駁した。そしてさら に、十数年来 日本人の同島在留を黙認してきたのは朝鮮政府の責任だとして、 逆にその既成事実を認めて居住を公許するよう要求したのである。   その後も、鬱陵島の紛争をめぐって、両国政府の応酬がくり返されていた。 そこで1901年12月 林公使は紛争の頻発を逆手にとって、在留邦人取締りのた めと称して、同島に日本人警察官を駐在させることを提案した。   勿論、条約上では日本人警察官が常駐する権利などないが、朝鮮政府に同 島の日本人を退去させる実力がないのだから、むしろ日本人警察官を派遣する ことによって現地の紛争を処理させようというものである。まさに盗人の論理 であるが、紛争の頻発に窮していた朝鮮政府が積極的に反対できないうちに、 日本側は強引にそれを実行にうつした。   1902年3月、釜山領事館の日本人警部・巡査計4人が同島に派遣され、以 後常駐するようになった。彼ら日本人警察官は、日本の諸法令に準拠して本邦 人の保護取締をすると称していたが、武装した彼らが侵略の現場で如何なる役 割を果たすかは明らかである。その警部の断片的な証言によっても、彼らが日 本人の材木輸出を阻止しようとする郡守 沈興澤と対立し、それを押し切って いるさまがうかがえる。   そして、1904年には鬱陵島に日本の郵便受取所が設けられ、さらに同島と 日本の境・浜田との航路さえ開かれていたのである。   以上、日露戦争直前の段階において、日本政府の支援をうけた日本人勢力 は、鬱陵島において既に強固な地位を獲得していた。日本人警察官に守られて、 多数の日本人が公然と不法に居住し、材木を密輸出し、また密漁していたので ある。   要するに、鬱陵島は朝鮮の辺境であったが故に、本土より早期に、日本帝 国主義によって主権を侵害され、支配されるにいたったのである(注2)。        --------------------   この時期、帝国主義の侵略は「盗人の論理」に等しいのが常でした。日本 は不法な日本人を退去させるどころか、乱暴狼藉の頻発を逆手にとって日本人 警察官を強引に常駐させるまでになりました。   こうして日本政府の積極的な後押しで鬱陵島への漁業が盛んになるや、そ の途中航路にあるリヤンコ島(竹島=独島)が注目されるようになりました。 日露戦争直前になると、市場における油や皮革の高値相場から同島のアシカが 注目されるようになり、ついには領土編入(1905)へとつながりました。   他方、禹用鼎は調査後に詳細な報告書「鬱島記」(逸失)や『日本人事 實』『本島等状』『監務報告』『日本人結幕人口成冊』『日本人犯斫槻木成 冊』『本島人犯斫成冊』などを提出しました。これをもとに朝鮮政府は鬱陵島 問題を本格的に検討し、官制を改革する官報(1900)を公告するのですが、これ が今日の竹島=独島問題に重要な一石を投じました。これらの詳細はいずれ書 くことにことにします。 (注1)『日本外交文書』第32巻、P287、明治31年9月16日鳥取県知事    報告(1)「韓国鬱陵島々監 裵季周提訴ノ件」 (注2)堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』    第24号,1987   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


明治政府の地図作成機関の竹島=独島認識 Yahoo!掲示板「竹島」#1580 2003/ 4/20   半月城です。   battleaxe152000さん、RE:1578 >そもそも >>『日本水路誌』や『朝鮮水路誌』でリアンクール島を朝鮮領と認識していた >↑こんな事実はありません。   一体、何を根拠にこうも明白な誤りを書くのでしょうか?   1894年に発刊された『朝鮮水路誌』には、鬱陵島とならんでリアンコール ト(竹島=独島)が記載されました(注1)。        -------------------- リアンコールト列岩  この列岩は、1849年 フランス船「リアンコールト」号はじめてこれを発見 し、船名をとってリアンコールト列岩と名づく。  その後、1854年 ロシア「フガレット」形鑑「パラス」号はこの列岩をメナ ヲイ及びヲリヴツア列岩と称し、1855年 イギリス鑑「ホルネット」号は、こ の列岩を探検してホルネット列島と名づけり。   該艦長フォルシイスの言によれば、この列岩は北緯37度14分、東経131度 55分の所に位する2坐の不毛岩嶼にして鳥糞つねに嶼上に堆積し、嶼色はため に白し。しかして北西彳西至南東彳東の長さおよそ1カイリ、2嶼の間距離1 /4カイリにして、見たるところ1礁脈ありてこれを連結す。        --------------------   同じ時期の『日本水路誌』第4巻(1897)に竹島=独島に該当する島の記述 はありませんし、関係海図にも竹島=独島は記載されませんでした。それが一 転して、日本の「竹島編入」(1905)以後に作成された関係海図(1907)には竹島 =独島が記載されました。   つまり 1894年当時、日本海軍は竹島=独島の存在を知っており、それを 日本領ではなく朝鮮領と認識していたことは明らかです。   なお、日本海軍の認識はそのまま日本国家の認識になります。というのも 当時、明治政府が国家事業として行った日本地図作成において、島嶼など水路 の測量は海軍が行いました。したがって、海軍が認識しなかった島は版図とし ての地図には記載されず、当然日本領とは認識されませんでした(注2)。   ちなみに、明治時代の地図作成は国家事業として下記のようになされました。        --------------------   民部省地理司は同省が四年(1871)7月に廃止されてからは、太政官地誌課 となり、幕府の地誌課纂調方の業を継ぎ、諸国の資料を徴したが六年(1873) 十一月内務省の設置にともないその地理寮となった。   のちに地理局と改め十一年(1877)八月、岩崎教章の手になる図式記号を 定めた測絵図譜を各府県に頒布し、民間の地図製作者もこれに倣うことを勧奨 し、数多くの地誌・地図の編纂刊行を行なったが十六年(1883)六月に陸軍測 量局に統合した。   民部省と同時に設けられた兵部省は、五年(1872)二月に陸軍省と海軍省 に分置され、海軍は水路の測量を、陸軍は陸地測量を行ない、ともに国防上の 観点から国用地図の作成に任じ、参楳本部測量局は全国を覆う基本図として、 十三年(1880)から関東地方二万分の一迅速測図の作製に着手し、内務省地理 局の統合を得て二万分の一正式地形図の作製が始められた。   二十一年(1888)五月陸軍測量部条例が公布され、測量局は参謀本部から 分離し、陸地測量部として発足したが、二万分の一基本図の完成に要する時間 と経費は、国際状勢の変化しつつあることからも許されぬとし、二十五年 (1892)その縮尺を五万分の一に改めた。国土地理院が継承する、わたしたちに 馴染探い五万分の一地図の誕生である。(注3)        --------------------   地図作成の過程において、竹島=独島をどう扱うのかは当然問題になりま した。その一端が地理寮の伺い書です。1877年、内務省の地理寮は地図を作成 するにあたり竹島(鬱陵島)をどう考えるのか島根県に照会しました。   地理寮の伺い書は、国立公文書館に保管されている『公文録』内務省之部 (注4)の中に、島根県からの伺い書の添付文書として記録されました(注5)。 その口語訳を下記に記します。        -------------------- 内務省の地理寮から島根県宛の伺い書            (島根県伺い書の添付文書・乙第28号)   ご管轄である隠岐(おき)国のかなたに、従来、竹島と呼ばれる孤島があ ると聞いております。もとより旧鳥取藩の商船が往復した船路もあります。伺 い書のおもむきは、口頭で調査依頼およびご協議を致しました。   加えるに、地籍編制に関する地方官心得書第五条の趣旨もありますが、な お念のためご協議をお願いします。以上の件、五条の適用となります。   このような次第で、古い記録や古地図などを調べていただき、内務省本省 へお伺いを立てていただきたく、ここにご照会致します。   明治九年十月五日 地理寮第十二番出仕 田尻賢信            地理大属      杦山栄蔵  島根縣地籍編纂係御中        --------------------   このとき、地理寮では竹島=独島を問題にしていませんでした。竹島=独 島を竹島(鬱陵島)の付属島とみていたのか、さもなければその存在を知らな かったようです。その伺い書にたいして、島根県は松島(竹島=独島)を含め た形で内務省に「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を提出しました。   内務省は、前に書いたように「版圖ノ取捨ハ重大之事件」としてさらに太 政官に伺い書を提出しました。最終的に太政官は内務省案のとおり、竹島(鬱 陵島)、松島(竹島=独島)を「本邦関係無」として放棄しました。 <太政大臣の竹島=独島放棄>   結局、日本政府の地図作成機関が竹島=独島を日本領として認識すること は、1905年の編入までありませんでした。その一環で海軍省水路部は竹島=独 島を朝鮮領として扱ったのです。 (注1)『朝鮮水路誌』1894年版  リアンコールト列岩 此列岩ハ洋紀一八四九年 佛國船「リアンコールト」號初テ之ヲ發見シ船名ヲ 取テ リアンコールト列岩と名ツク 其後一八五四年 露國「フガレット」形鑑 「パラス」號ハ此列岩ヲ メナヲイ及ヲリヴツア列岩ト稱シ 一八五五年 英鑑 「ホル子ット」號は此列岩ヲ探検シテ ホル子ット列島ト名ツケリ 該艦長フォ ルシイス ノ言に據レバ此列岩ハ北緯三七度一四分東經一三一度五五分ノ處ニ 位スル 二坐ノ不毛岩嶼ニシテ鳥糞常ニ嶼上ニ堆積シ嶼色爲メニ白シ 而シテ北 西彳西至南東彳東ノ長サ凡一里 二嶼ノ間距離一/四里ニシテ見タル所一礁脈 アリテ之ヲ連結ス ○西嶼ハ海面上高サ凡四一〇呎ニシテ形チ糖塔ノ如シ東嶼ハ較々低クシテ平頂  ナリ ○此列岩付近水頗ル深キカ如シト雖モ其位置ハ實ニ函館ニ向テ日本海ヲ航行  スル船舶ノ直水道ニ當レルヲ以テ頗ル危険ナリトス (注2)清水常太郎『大日本管轄分地圖』一八九四(影印版は注3) (注3)日本地圖選集刊行委員会『大日本管轄分地圖』人文社,1990 (注4)島根県「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」  御省地理寮官員地籍編纂莅檢ノ為メ 本縣巡回ノ切 日本海内ニ在ル竹島調査 ノ儀ニ付キ別紙乙第二十八号ノ通リ照會有之候處 本島ハ永禄中發見ノ由ニテ 故鳥取藩ノ時 元和四年ヨリ元禄八年マテ凡七十八年間 同藩領内伯耆國米子町 ノ商 大谷九右衛門 村川市兵衛ナル者舊幕府ノ許可ヲ経テ毎歳渡海 島中ノ動 植物ヲ持歸リ内地ニ賣却シ候ハ已ニ確証有之 今ニ古書舊状等持傳ヘ候ニ付 別 紙原由ノ大畧圖面トモ相副 不取敢致上申候 今回全島實檢ノ上 委曲ヲ具ヘ記 載可致ノ處 固ヨリ本縣管轄ニ確定致候ニモ無之 且 北海百余里ヲ懸隔シ線路 モ不分明 尋常帆舞船等ノ能ク往返スヘキ非ラサレハ 右大谷某 村川某カ傳記 ニ就キ追テ詳細ヲ上申可致候 而シテ其大方ヲ推按スルニ管内隠岐國ノ乾位ニ 當リ山陰一帯ノ西部ニ貫付スヘキ哉ニ相見候ニ付テハ本縣國圖ニ記載シ地籍ニ 編纂スル等ノ儀ハ如何取計可然哉 何分ノ御指令相伺候也   明治九年十月十六日 島根縣参事 境二郎   内務卿 大久保利通殿 (注5)島根県伺い附属文書、乙第二十八号  御管轄内隠岐國某方ニ當テ従来竹島ト相唱候孤島有之哉ニ相聞 固ヨリ舊鳥 取藩商船往復ノ線路モ有之 趣右ハ口演ヲ以テ調査方及御協議置候儀モ有之 加 フルニ地籍編製地方官心得書第五條ノ旨モ有之候得トモ 尚為念及御協議候 條 右五條ニ照準 而テ舊記古圖等御取調本省ヘ御伺相成度 此段及御照会候也   明治九年十月五日 地理寮第十二番出仕 田尻賢信            地理大属      杦山栄蔵  島根縣地籍編纂係御中   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


于山島から石島、獨島へ Yahoo!掲示板「竹島」#1590 2003/ 4/26   半月城です。   これまでの書き込みで明治期における日本側の実状が明らかになったと思 います。明治政府は太政官や内務省、外務省、海軍などが竹島=独島は朝鮮領 という認識をもちながら竹島=独島をこっそり領土編入(1905)しました。対す るに朝鮮はどうだったでしょうか。今回はそれについて書きたいと思います。   1882年、朝鮮政府による鬱陵島検察を契機に同島の空島政策が廃止され、 鬱陵島は本格的に開拓され始めました。その時点における鬱陵島近辺の島の認 識ですが、下記の高宗の3島認識が鬱陵島住民の証言により裏づけられたこと が公的な承政院日記に記されました。したがって、下記(1)は当時の朝鮮政 府の認識といえます。 (1)鬱陵島(通称)=鬱陵島(本島)+松竹島+芋山島   芋山島、松竹島の位置は単に鬱陵島近傍と記されるのみで、位置など具体 的な記録はほとんどありませんでした。かろうじて16年後の地図が参考にな る程度です。   1897年、朝鮮政府は国名を大韓帝国と改めましたが、その学部(文部省相 当)が1898, 1899年と二年つづけて「大韓全図」を発刊しました。そこには鬱 陵島のすぐ近くに于山島が記されましたが、松竹島は記されませんでした。か わりに同島の南方に実在しない島が4,5島も想像で描かれました。これを文 で表現するとこうなります。 (2)鬱陵島+于山島+4,5島   鬱陵島周辺の島が不正確になったのは、鬱陵島検察などにおいて周辺の島 を実際に探査しなかったので、それらの島の位置を正確に知るすべがなかった ことを反映しています。つまり依然として芋山(ウサン)島、松竹島は鬱陵島 近傍という認識しかなかったとみえます。   ところで「大韓全図」に松竹島を描かなかったのは、それまでの地図作成 の伝統にしたがったためと思われます。それまでの地図で松竹島が明記された 地図は1枚もなかったようです。   さて、于山島ですが、これは当時の政府内の認識を考慮すると(1)の同 じ発音である芋山島に該当するとみられます。換言すれば、松竹島ではなかっ たとみられます。ましてや観音島とは考えられません。というのも「大韓全 図」が韓国名の竹島を描かずに、鬱陵島直近にあって同島とほとんど一体にな っている観音島のみを描くことはまず考えられないからです。   結局、「大韓全図」の于山島が松竹島でもなく観音島でもなければ、残る 可能性は竹島=独島のみということになります。この場合、地理上の知識不足 から島の位置は実際とかなりずれます。なお、鬱陵島近辺の主な島は、現在の 韓国名で竹島、独島、観音島の3島です。これ以外はいずれも鬱陵島本島直近 の小さな岩などでまったく問題になりません。   一方、前にも書きましたが、このころになると鬱陵島において日本人の侵 略が目にあまるようになりましたが、その現地状況を調べるために 1900年6 月、大韓帝国の内部視察官 禹用鼎と、日本の釜山領事館補 赤塚正助による合 同出張調査が行われました。内部とは内務省相当の官庁をさします。   禹用鼎の報告にもとづいて、大韓帝国政府は鬱陵島強化策をたてました。 鬱陵島の人口が増えたことや「外国人の往来交易」などを考慮し、鬱陵島を郡 に格上げしました。公的には勅令41号(1900)として官報に公表しました(注 1)。勅令は鬱陵島を鬱島と改名し、その管轄区域を鬱陵島全島と竹島、石島 としました。 (3)鬱島=鬱陵島全島+竹島+石島   これを(1)に対比させると、勅令にいう竹島は松竹島とみられます。こ の島は、現在の竹島(韓国名)であることに日韓で誰しも異論はないようです。   つぎに石島ですが、これは竹島=独島か観音島のどちらかになります。そ れ以外の可能性はありません。それは、竹島(韓国名)と同じくらいの大きさ の観音島を除外して、それよりもはるかに小さな岩、しかも鬱陵島直近の岩な どを勅令に含めることなど考えられないからです。   さて石島の比定ですが、上記(1)と(3)の対比からすると芋山島は石 島である可能性が高いといえます。これに関し「竹島日本領派」の塚本孝氏は 慎重を期して石島の比定を避けましたが、くだんの下條氏は大胆にも石島を観 音島と断定し、こう記しました。  <さらに「勅令41号」に記された竹島は、今日の竹嶼であったので、石島 は今の観音島とすることが出来る。何故なら獨島(竹島)でアシカ猟が始まる のは「勅令41号」が公布された三年後(1903年)で、それ以前は絶海の孤島 だったからである(注2)>   ここで下條氏は、勅令の竹島を今日の竹嶼としていますが、今日、竹嶼の 名は存在せず、韓国名で竹島と称されています。同氏の杜撰さぶりを露呈して いるようです。同氏はそれにとどまらず、いつもながらの飛躍論法で短絡的な 結論をだしているようです。   下條氏の言わんとするところは、要するに 1903年以前に韓国人は「絶海 の孤島」にある竹島=独島の存在を知らなかったので、石島は竹島=独島では ありえず、観音島以外は考えられないという単純な論法のようです。   そうだとしたら、これは反論として塚本氏の論文をあげるだけで簡単に一 蹴されます。塚本氏は、安龍福を「記録上今日の竹島に赴いた最初の朝鮮人」 と指摘しており、この一節からだけでも朝鮮人が竹島=独島の存在を知ってい た十分な根拠になり、下條説はもろく崩れさります。   さらにいうならば、観音島が石島と呼ばれたという記録はまったくありま せん。観音島は19世紀末の鬱陵島開拓以来一貫して Ggak sae seomと呼ばれ ていました。その由来ですが、当時の島民は観音島に集団的に棲息していた Ggak sae(韓国名で島鳥、日本名でカツオ鳥)を食糧にしていたことから、そ う命名されました。現在でも韓国市販の地図では韓国語で Ggak sae seomと表 記され、カッコ付きで観音島と書かれました。   石島が観音島でないとなると、石島はほぼ間違いなく竹島=独島になりま す。内藤正中教授もそう解釈しました。実際、竹島=独島はリヤンコルド岩と も称されたくらいですが、全島が岩で成り立っており、石島の名前はピッタリ 適合します。   当時、鬱陵島民は鬱陵島周辺の島を自分たちなりの愛称で Ggak sae島、 竹島、石島などと呼んでいたようでした。そうした事情を禹用鼎は鬱陵島調査 (1900)の過程で知り、それを勅令に反映したものと思われます。実際、禹用鼎 は鬱陵島を郡に格上げする際に何らかの関与をしたことが禹用鼎の報告書から うかがえます。この間の事情を宋氏はこう記しました。  「禹用鼎が鬱陵島から帰京した直後、内部大臣に提出した報告書に“本島 官制改編請議書が政府に留案された”としているのをみれば、関係改編作業は 1900年(光武4)6月中旬から始まり、禹用鼎自身もこれに関与していたよう である(注5)」   どうやら禹用鼎のアドバイスか、鬱陵島民が愛称で呼んでいた石島が行政 機関で島の正式名称になったようでした。しかし、石島の名称は記録ではこの 時だけのようでした。これは後日書くことにしますが、1906年の鬱島郡守によ る報告書で竹島=独島は獨島と表記されました。また 1904年、日本の軍艦・ 新高も韓国人が竹島=独島を獨島と表記していたと報告しました。『軍艦新高 行動日誌』1904年9月25日条にはこう記されました。  「松島ニ於テ『リアンコルド』岩 實見者ヨリ聽取シタル情報 『リヤンコルド』岩 韓人之ヲ獨島ト書シ 本邦漁夫等 略シテ『リヤンコ』島 ト呼称セリ」   こうした記録からすると、日本が竹島=独島をこっそり編入する以前から 鬱陵島の韓国人は竹島=独島へ往来し、その島を獨島と表記していたことがわ かります。なぜ、竹島=独島が獨島(Dok do)と呼ばれるようになったのかにつ いて韓国政府はこう説明しました。        --------------------   韓国慶尚道の方言によれば、"Dok"は石または岩を意味する。"Dok do"は 石あるいは岩の島を意味する。離れ島を意味する"Dok do"の発音は"Dok do" (石あるいは岩の島)とちょうど一致したのである。   このように、同島は韓国人によって至極当然のように、また象徴的に"Dok do"と呼ばれた。なぜなら、"Dok do"は実際に岩の島だからである(注3)。        --------------------   韓国政府は、"Dok do"は石島と離れ島の掛詞(かけことば)であったと説 明しました。このように、獨島が石島からきたという見方は 1947年ころから 言われていました。京城大学の国語学者である方鍾鉉氏は紀行文「獨島の一 日」で下記のように記しました(注5)。なお、下記で"seom"は島を意味しま す。また"Dok","Dol"は語頭など初声の場合は"Tok","Tol"とも表記されます。        --------------------   この島(獨島)の名前は「石島」の意から来たのではないかと考えられる。 これは"Dok seom"あるいは"Dol seom"の二とおりに呼べるが、ここで問題は、 この獨島の外形が全部石(岩)でできているようにみえるということと、また 「石」をどこの方言で"Dok"とするのかを解決すれば、この石島という名称が ほとんど近い解釈になろうというものである。        --------------------   方氏はこのように「石」の方言調査が石島=獨島説のカギになると説きま したが、この方言の研究は日本ですでになされていました。朝鮮語研究者の小 倉氏によれば、石を"Tok"と呼ぶ地域は下記のとおりです。ただし、カッコ内 の地方は標準語の "Tol"も併用して呼ぶ地域です(注4)。 全羅南道:(西歸)、(大静)、(麗水)、(順天)、筏橋、高興、     寶城、長興、(康津)、海南、靈岩、木浦、咸平、(靈光)、     羅州、長城、潭陽、玉果、谷城、求禮 全羅北道:雲峰、南原、淳昌、井邑、金堤、群山、全州、任實、長水、鎮安、     茂朱、錦山 慶尚南道:(梁山)、(河東)、(居昌)、(陜川)、(昌寧)、(密陽) 慶尚北道:金泉、尚州、(咸昌)、(聞慶) 忠清南道:(公州)、(江景)、(鴻山)、(青陽)、(舒川)、     藍浦、(洪城)、海美、瑞山、〓川、禮山、鳥致院 忠清北道:(清州)、(報恩)   何とも地道な研究があったものです。これをみると、石を"tok"と呼ぶの は、慶尚道より全羅道のほうが一般的なようです。それに符合するかのように、 初期の鬱陵島開拓民は全羅道出身者のほうが多かったことが知られています。 そうした歴史を宋氏はこう記しました。        --------------------   勅令41号にみえる石島の淵源は鬱陵島を往来した全羅南道沿海民に求め られるようである。全羅南道沿海民たちがいつから鬱陵島を往来したのか明確 にはわからない。ただ、鬱陵島に出漁した東莱出身櫨軍・安龍福の第2次渡日 のとき(1696,粛宗22)、楽安(全南順天郡楽安)の人、金成吉、そして順天の 僧・雷憲、勝淡、連習、靈律、丹責など6名が同行しているのをみれば、遅く とも17世紀末からは往来が始まったようだ。   しかし、全羅南道沿海民たちの往来が紹介され始めたのは、1882年(高宗 19)に李奎遠が鬱陵島を検察してからである。   李奎遠の調査によれば、鬱陵島にいる内陸人の数は約140名であった。 この中、全羅南道が一番多く、興陽(高興)94名、楽安21名など計115 名であり、つぎが江原(平海)14名、慶尚(慶州、延日、咸陽)10名、京 畿(坡州)1名の順である。   この全羅南道沿海民たちは船乗り(船主6,格卒109)で造船、採〓、 採魚などに従事したが、春に鬱陵島へ来て木を切り船を造ったのち、ワカメを 採取し、魚を捕らえて帰った。   全羅南道沿海民たちの鬱陵島往来は開拓が進捗するにつれ、さらに頻繁に なった。すでに前にのべたように、禹用鼎、金〓秀などの調査によれば、かれ らは10隻内外の船を建造したが、島民たちに米穀なども供給していた。   また、かれらは鬱陵島にてワカメも採取したが、その額は年間 10,000円 から 12,000円に達し、これは日本人の 1897-1899年の年平均海産物の採取量 より 6,000円から 8,000円上回る金額であった。全羅南道沿海民たちの鬱陵島 往来が開拓以来さらに活発になったことを物語っている。   かれら全羅南道沿海民たちは鬱陵島を往来する途中に、その東側200里 (約50カイリ)くらい離れて位置する獨島を目撃したであろう。また、ワカ メを採取したり、魚を獲るために、あるいは潮流や風浪のため獨島に到達した り、付近を通りかかったこともあったであろう。   そして鬱陵島、于山島に関する文献に接することも読むこともなかったか れら船乗りたちは、かれらが目撃したり到達した獨島にかれらなりの名前を付 けたのである。   そうして全羅南道沿海民たちは、かれらが目撃したり到達したこの島を "Dok seom"と呼んだと見られる。それは(1)獨島はよく知られているように、 木が一本もなく、草すらあまり育たない石(岩)でできた島であることに加え て、(2)全羅南道の方言では、石を Dolと呼ぶ例外はないでもないが(光 州)、ほとんどが Dokと呼ぶか、一部の地方(麗水、順天、康津、霊光)で Dolおよび Dokと混用して呼んでおり、この石でできた島をかれらの方言にし たがって "Dok seom"と呼ぶようになったのはごく自然なことであると考えら れるからである・・・   すでに前に書いたように、今でも鬱陵島民は獨島を "Dok seom"あるいは "Dol seom"と呼んでいる(注5)。        --------------------   鬱陵島民は竹島=独島を"Dok seom"と呼び、書くときは意訳して石島、音 訳して獨島と書いたようでした。このような例は他にも全羅道では数多く存在 するようで、愼鏞廈氏はこう記しました。        --------------------   全羅南道 莞道郡 蘆花面 古幕里にある島は、民間人は石が多いので"Dok seom"と呼んでいるが、表記は「石島」になっており、忠道里にある島は、住 民たちは今でも"Dok seom"と呼称するが、行政官庁にて表記するときは「石 島」としている。また、海南郡 花原面 山湖里にある島は、民間人は"Dok seom"と呼称しているのを公式的には「石湖島」と表記している。   また、民間人が「石」の意味で"Dok seom"と呼称しているのを音をとり 「獨島」と表記している事例もかなり多い。全羅南道 高興郡 五泉里にある島 は、石でできている島であるとして住民は"Dok seom"と呼称しているが、昔か ら漢字では「獨島」と表記されている。   また、全羅南道 新安郡 飛禽面 水雉里の前の海には石でできたふたつの 島があり、北川にある石島を「上にある石島」の意味で「上の"Dok seom"」と 呼んできたが、漢字で表記するときは「上獨島」と表記されてきており、南に ある島を・・・「下獨島」と表記してきている(注6)。        --------------------   愼鏞廈氏は石島、獨島の例をほかにも豊富に紹介しました。さらに同氏は 島にかぎらず村や谷などの名称で "Dok"を「石」や「獨」と表記する具体例を 数多くあげました。こうした例証からすると、"Dok seom"を意訳で石島と書い たり、音訳で獨島と書いたりする例は韓国ではざらにあったようです。また、 石島と同じような意訳の例として花島、松島、竹島、栗島・・・などがあるよ うです(注6)。   結局、"Dok seom"を音(おん)で表記すると獨島、訓で表記すると石島に なるようです。同じような例は日本にもあります。京都で有名な「かも川」は 音で書くと加茂川あるいは賀茂川、訓で書くと鴨川になります。賀茂川にせよ、 獨島にしろ、これらは最初に発音ありきで、表記はあとから適当につけられた といえます。   結論として、石島を竹島=独島とする韓国政府の主張は十分な根拠がある といえます。 (注1)大韓帝国官報 第1716号(1900.10.27) 勅令第41号、鬱陵島を鬱島と改称して島監を郡守に改正する件 第1条 鬱陵島を鬱島と改称して江原道に附属し、島監を郡守に改正して     官制中に編入し、郡等は5等にする事 第2条 郡庁位置は台霞洞に定め、区域は鬱陵島全島と竹島 石島を管轄する事    (第3条以下省略) 光武4年(1900)10月25日 (注2)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999.5,P52 (注3)『韓国政府見解』(英文)1953.9.9 (注4)小倉進平『朝鮮語方言の研究』上、岩波書店,1944, P218 (注5)宋炳基『鬱陵島と獨島』(韓国語)檀国大学校出版部,1999 (注6)愼鏞廈『獨島の民族領土史研究』(韓国語)知識産業社,1996   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


石島と観音島 Yahoo!掲示板「竹島」1619 2003年5月02日   半月城です。   鬱陵島のすぐ東にある観音島ですが、この島を代表する鳥 Ggak sae につ いてネット上で問い合わせたところ、さっそくアドバイスがありました。それ によると Ggak saeは方言で、標準語は Seom saeというそうです。Seom saeを 意訳すると島鳥になりますが、日本語では俗称カツオドリ、正式にはアホウド リと同じ属のオオミズナギドリというそうです。この島について、韓国語サイ トにこう書かれてありました。 Ggak sae seom または観音島   初期開拓民182名の命をつないだのが、ニンニク科の Myong i 草と動 物性タンパク質を提供した Ggak saeであった。この Ggak saeが集団で棲息し ていたのが Ggak sae seomである。今は観音島と呼ばれている。 <わくわくする鬱陵島ー観音島(韓国語)> 観音島   北面 Seon chang(Seom mok,島の喉)前方、約 100mの海上に位置するこ の島は、林野込みの高さ 100m、面積 21,600坪で、竹島のつぎに大きい島であ り、Gkak saeが多く棲息したということから Gkak sae seomともいう。   ここには椿、ススキ、山菜である Bu ji gaeng i、ヨモギなどが多く自生 する野生植物の天国であり、高さ 14m の天然洞窟2か所が穿たれており観音 双窟とよばれる。 <観音島案内(韓国語)>   さて、観音島は昔も今も Ggak sae seomと呼ばれているうえに、上記のよ うに野生植物の天国であってみれば、下條正男氏がこじつけるような、この島 が石島と呼ばれた形跡はまったくありません。   なお、観音島と鬱陵島との間の 100m たらずの狭い水域は Seom mok すな わち「島の喉」と呼ばれています。これはその水域に両島の崖がせまって喉の ような景観をなすことから命名されました。つまり、観音島は鬱陵島とほとん ど一体同然に見なされていたわけです。こうしたことから勅令41号ではこと さら観音島の名を明記せずに「鬱陵島全島」という表現に含めたとみられます。   以上のように、地理的な考察からも石島を観音島とすることが困難なので、 塚本孝氏は石島の比定を避けたのではないかと思われます。やはり、石島を竹 島=独島とするのは妥当なところです。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


日本の竹島=独島編入と国際法 Yahoo!掲示板「竹島」#1639 2003年5月05日 投稿者: hangetsujoh   半月城です。   やっと領有権問題について書けるだけの歴史的背景が蓄積されたので、今 回は日本による竹島=独島の編入を国際法の観点からみることにします。   まず歴史的背景ですが、これまで何度も書いたように、明治政府は太政官 や内務省、外務省、海軍などがこぞって竹島=独島は朝鮮領という認識をもっ ていました。それが日露戦争(1904)が始まるや、軍事上の必要性から竹島=独 島にも望楼の建設が計画され、その実現をめざし、日本は戦時中という「時局 ナレバコソ領土編入ヲ急要トスル」という認識のもとに、1905年「韓国領地ノ 疑アル」竹島=独島を無主地とこじつけて、こっそり編入したのでした。 <竹島=独島の領土編入>   つぎに国際法の性格を確認しておきたいと思います。他国の領土を同意な しに自国領に編入するのは、侵略行為にあたることはいうまでもありませんが、 そうした侵略行為も狼どもの国際法によると時には有効とされるようです。た とえば武力征服などは、弱肉強食時代の国際法では時には合法とされました。 そうした国際法は、当時の日本で万国公法とよばれましたが、そこでは正義や 道義などは問題外でした。   明治時代の元勲である木戸孝允は「万国公法は小国を奪う一道具」と喝破 しましたが、貪欲な帝国主義国家が力による領土拡張や覇権が可能なように、 かれら仲間うちで野合したのが狼どもの国際法でした。   そのため、狼どもの国際法は、かって植民地であった国には受け入れがた い場合が多々ありました。1961年、インドは狼どもの国際法に反旗を翻してポ ルトガル領のゴアを接収しました。   しかし、このとき世界的にインドを非難したのは少数にとどまり、多くの 新興国は「反植民地主義の直接行動」としてインドの行動を支持しました。世 界の潮流は、狼どもの国際法に適合するかどうかを問題にするのではなく、そ れをいかに克服するのかを課題にするようになりました。   こうした視点からすると、日本の竹島=独島編入が狼どもの国際法に適合 したかどうかを議論するのはどれだけ意味があるのか疑問です。しかし、そう した道義を欠いた狼どもの国際法によってすら、日本による竹島=独島の領土 編入は疑問です。それは、韓国側の主張によれば竹島=独島が無主地でなく大 韓帝国領であったうえに、編入の時点では武力征服でもなかったからです。そ うなると、狼どもの国際法にすら違反します。   無主地に関する問題ですが、鬱陵島周辺の石島が大韓帝国の統治下にあっ たことが勅令41号(1900)により明確にされました。これに関するかぎり、日 韓間において異論はないようです。勅令は官報で公表され、しかも周辺諸国と の間になんらの紛争や異見がなかったので、韓国が石島を統治していたことは 明白です。   一方、この石島は、下記のリンクに書いたように、どの面からも竹島=独 島とみられます。すなわち、当時竹島=独島へ往来していた鬱陵島の韓人が呼 称していた島の発音 "dok seom"から独島あるいは石島と書かれたようでした。 この主張はきわめて有力で、日本ではそれに対する反論はくだんの下條正男氏 を別にしてほとんどみられません。下條氏の反論がまったく意味をなさないこ とも下記に書いたとおりです。 <于山島から石島、獨島へ>   石島が竹島=独島であるという韓国の主張が有効なかぎり、勅令が日本の 竹島=独島編入より前であるだけに、日本の立場は国際法上不利です。そうな ると、当時の竹島=独島は日本の領土編入以前から周辺国と何らの領土紛争も ないまま大韓帝国の統治下にあり、そのうえ同島へ鬱陵島の韓人が往来してい たので、大韓帝国の実効支配下にあったということになります。そうなると、 日本の無主地編入という名分は成り立たず、領土編入は当初から無効だったと いう結論になります。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


竹島=独島編入にたいする反発 2003/ 5/11 Yahoo!掲示板「竹島」#1658   半月城です。   1905年、日本は竹島=独島をこっそり領土編入しましたが、これにたいす る大韓帝国(韓国)の反応について記すことにします。というのは、日本の領 土編入が狼どもの国際法に違反するものであっても、韓国が正当な理由なしに それに何ら異議をとなえなかったとなると、日本の不法行為を容認したとみら れかねないからです。   前に書いたように、日本による竹島=独島の領土編入は官報など政府レベ ルではまったく公表されず、わずかに島根県告示第40号(1905.2.22)として 公表されました。これは、新聞ではわずかに地方紙の山陰新聞に報道されたよ うですが、これではほとんどの日本国民すらその事実を知ることができなかっ たことでしょう。   もちろん、韓国もそうした事実を知るよしもありません。当然、韓国は島 根県告示に何の反応も示しませんでした。韓国が日本による竹島=独島編入の 事実知ったのは、翌年の3月になってからでした。島根県は事務官(第3部 長)神西由太郎を責任者とする「竹島視察団」45名を竹島=独島へ派遣しま したが、一行は突然予定を変え、28日(陰暦4日)鬱陵島をおとずれ、郡守 の沈興澤に竹島=独島が日本領に編入されたことを告げたのでした。   これに沈興澤は驚き、翌日には報告書を下記のように書き上げ、江原道庁 に善処を求めました。        --------------------   本郡所属の獨島は本部外洋百余里にあるが、本月4日午前8時ころ輸船1 隻が島内道洞浦に停泊し、日本人官員一行が官舎をおとずれたが、かれらがい うには、獨島がこのたび日本領地に編入されたので視察に来て、そのついでに 来島したとのことであった。   一行は日本島根県 隠岐島司 東文輔および事務官 神西由太郎、税務監督 局長 吉田平吾、分署長警部 影山岩八郎、巡査一人、会議員一人、医師技士各 一人、そのほか随員十余人であった。   まず質問したことは、戸数、人口と土地の生産物の多少、ついで人員や経 費がどれくらいか、さらには諸般の事務を調査し記録していった。ここにその 事実を報告するので照亮されるよう伏望する。  光武十年丙午 陰三月五日(注1)        --------------------   報告書で獨島は鬱陵島の外洋百余里とありますが、これをメートル法に直 すと40数kmになるので、獨島が竹島=独島をさすことはいうまでもありませ ん。鬱郡の郡守 沈興澤は獨島を同郡所属と認識していたわけです。これは、 日本の軍艦 新高が日誌(1904)に「『リヤンコルド』岩 韓人之ヲ獨島ト書シ」 と記した事実に合致することはいうまでもありません。この報告書にたいし、 関係官庁はつぎのような対応をしました。        --------------------   鬱島郡守から右のような報告を受けた江原道庁では、4月29日に江原道 観察使署理 春川郡守 李明来から、議政府参政大臣に宛て「沈興澤報告書」と してそのまま同文を送っていた。   沈興澤が江原道に報告を送ったのは陰暦3月5日、陽暦では3月29日で あったから、鬱陵島から本土への便船の都合で1か月近くを要したものと思わ れる。そして中央の議政府では江原道庁からの報告書を5月7日付で受理し、 参政大臣 朴斉純は5月20日付の指令第3号で「獨島が日本領になったとい うことは全く根拠のないことであるが、さらに独島の状況と日本人の行動につ いて調査して報告すること」と指示した(注2)。        --------------------   韓国で参政大臣は首相に該当しますが、その指令第3号を直訳するとこう なります。  「来報は閲悉、獨島領地の説は全屬無根であるが、該島の形便と日本人の行 動如何をさらに調査報告すること」   この文にある「形便」は、うえの内藤氏のように「状況」とか、あるいは 「成りゆき」「事の次第」などを意味します。ところが拓殖大学の下條正男氏 は、これをなんと「形状」と誤訳し、そこから珍説をこう展開しました(注3)。  <「本郡所属の獨島」と記された報告を受けた中央政府が、新たな属島の出 現に困惑し、改めて島の形状を報告するよう江原道府に命じた・・・つまりこ の時、中央政府では「勅令41号」の石島と「本郡所属の獨島(竹島)」とを、 全く別の島として認識していたのである>   中央政府は日本の措置に困惑したのであり、べつに「新たな属島の出現」 に困惑したわけではないし、また「改めて島の形状を報告するよう」求めたの でもありません。   下條氏は勅令41号に書かれた「石島」を竹島=独島でなく、どうしても 観音島にしたてて、韓国は竹島=独島に領有意識をもっていなかったと主張し たいがための曲解のようです。こっけいです。同氏は日韓文化協会の常務理事 も務めましたが、その立場からしても重大な誤りと指摘せざるをえません。   さいわい、ここの会議室では同氏の主張を鵜呑みにしている人がみられな いようなので救いです。   話はもどりますが、沈報告は韓国で大きな反響を巻き起こしました。代表 的な新聞の皇城新聞は大きな見出しで「本郡所属の獨島」に関する沈報告をそ のまま報道しました。また大韓毎日申報は沈報告を要約したうえで「独島が日 本領になったということは全く理屈に合わない」と論評しました。こうして官 民あげて日本の竹島=独島編入を非難しました。   しかし、韓国はこれを外交問題にすることはできませんでした。これをと らえて、韓国が抗議すらしなかったのは竹島=独島領有の意思がなかったから だと短絡的に主張する人が時おりみられるようです。そこでこの背景について ふれたいと思います。   結論からいうと、当時の韓国は外交的に日本へ抗議できる立場ではありま せんでした。そうした事情を明らかにするために、当時の情勢をまずみること にします。   1904年5月、日本は韓国を半植民地化する対韓施設綱領を閣議決定しまし たが、9月にはその実行にとりかかり、第1次日韓協約を強要しました。その 一方で、日本は韓国を日本の保護国とするため列強に承認を働きかけました。   というのも、当時の韓国の首都にはアメリカやイギリスなど列強の公使館 がおかれていたので、たとえ日本が韓国の保護国化を宣言しても、それらの公 使館が韓国と外交関係をつづけるかぎり、保護国宣言は実質的に失敗しかねま せん。   そのために、保護国化のために列強の承認は不可欠でした。7月、日本は まずアメリカとの間に韓国とフィリッピンをテンビンにかけた取引「桂・タフ ト密約」を結びました。   ついで8月、日本は第2次日英同盟を結び、イギリスの了解をとりつけま した。これは前年の日韓議定書の内容に違反するものであったので韓国から抗 議を受けましたが、日本はイギリスのアドバイスにしたがい、韓国の抗議をイ グノヲア、つまり無視することを決めこみました。「万国公法は小国を奪う一 道具」と心得ている帝国主義国家では、日韓議定書は押しつけるものであり、 順守すべきものとは認識していないようです。   さらに日本は9月、ロシアとの間に日露戦争の終戦処理であるポーツマス 条約を調印し、韓国保護国化を承認させました。   こうした周到な準備のすえ、11月、日本は韓国に乙巳(いつし)保護条 約、すなわち第二次日韓協約を強要しました。この条約は韓国にとって日韓併 合条約に劣らず亡国的なものでした。   この暴挙にたいする韓国民の悲しみがいかに深かったか、当時の「皇城新 聞」は「この日たるや放声大哭す」と題し、怒りをこめてこう嘆きました。   「ああ痛ましいかな! ああ憤ろしいかな! わが二千万同胞。生か死か。 檀君・箕子いらい四千年の国民精神は、一夜の間に滅亡してしまった! 痛ま しいかな! 痛ましいかな! 同胞よ! 同胞よ!」   このように痛哭の哀悼文を書いた皇城新聞は、日本によりたちまち発禁処 分になってしまいました。   この嘆きにたがわず、韓国は保護条約により確実に亡国の道を余儀なくさ れました。条約により日本の保護国にされた大韓帝国は、外交権を完全に剥奪 され、日本の統監府による支配下に置かれ、事実上日本の属国にされました。   外交権とは、国家が国際法上の権利能力や法的人格を有することを示す最 大の主権であるので、外交権を失えばもはや国家は国際法上の主体ではなくな ります。その結果、近代的保護関係のもとでの隷属国家は独立国とはいえなく なります。   このように重大な意味を持つ保護条約が、どのような状況で結ばれたのか、 明治大学・海野福寿教授は当日の状況を次のように記述しました。           --------------------------- 銃剣で威嚇しつつ調印  (1905年)11月17-18日、歩兵一大隊・砲兵中隊・騎兵連隊が王宮前や目抜き 通りの鐘路で演習と称する示威をおこない、日本兵が物情騒然とした市中を巡 回し市民をおびやかした。   17日午前11時、林公使は大臣たちをチンコゲ(南山北麓)の日本公使 館に招き、予備交渉をおこなったのち、「君臣間最後の議を決する」ため御前 会議の開催を要求した。午後3時頃、大臣の途中逃亡を防止するため、護衛の 名目で憲兵付きで諸大臣と林が参内した。   御前会議は夜におよんだが、条約反対の意見がつよく、結論をうるにいた らなかったので、日本側との交渉を延期することにした。「事の遷延を不得 策」とみた伊藤は、あらかじめ打ち合わせしていた林から連絡をうけ、8時こ ろ、長谷川駐箚軍司令官、佐藤憲兵隊長をともなって参内し、御前会議の再開 を求めた。   しかし、皇帝が病気を理由に出席を拒否したので、閣議形式の会議がひら かれた。外国の使臣である伊藤・林が武官とともにこれに出席すること自体、 不法きわまりないが、会議は折衝の場と化した。   慶雲宮内も日本兵が満ちていた。『大韓季年史』は「銃刀森列すること鉄 桶の如く、内政府及び宮中、日兵また排立し、其の恐喝の気勢、以てことばに あらわし難し」と述べている。窓に映る銃剣の影が大臣たちを戦慄させたこと だろう。   伊藤は大臣一人ひとりに賛否を尋問した。韓圭ソル・参政と閔泳綺・度支 相(蔵相)は明確に反対を表明した。朴斉純外相も「断然不同意」と拒否した が、ことばじりをとらえた伊藤は、たくみに誘導し「反対と見なすを得ず」と 一方的に判定した。その他の肩を落とした四人の大臣のあいまいな発言も、伊 藤によりすべて賛成とみなされた。   こうして、国民から「乙巳(ウルサ)五賊」と非難された五人の大臣の賛 成をもって、会議の多数決とした伊藤は、気落ちした韓圭ソル参政に皇帝の裁 可を求めるよううながし、拒否するならば「余は我天皇陛下の使命を奉じて此 任にあたる。諸君に愚弄せられて黙するものにあらず」と恫喝した。   しかし、あくまで反対の韓圭ソル参政は、涕泣しながら辞意をもらして退 室した。伊藤は「余り駄々を捏ねる様だったら殺(や)ってしまえ、と大きな 声で囁いた」(西四辻公堯『韓国外交秘話』)という。大臣たちに聞こえる程 度の声でいった、という意味だろうか。   協約案は若干の文言修正ののち、午後11時半、林公使と朴斉純外相が記 名し、外部(外務省)から日本公使館員が奪うようにして持ってきた外相職印 を捺印した。18日午前1時半ころである(注4)。           ----------------------------   日本では明治の元勲とされ、紙幣にも登場した伊藤博文ですが、韓国では 武力を背景に「あまりダダをこねるようだったら、殺ってしまえ」と他国の総 理を脅迫する人物であり、そのさまは帝国主義の本性むきだしでした。   余談ですが、結局かれは韓国民にとって憎悪の的となり、安重根により暗 殺されたのはよく知られているとおりです。   こうして日本の保護国になった韓国は外交権を剥奪され、12月、韓国駐 在の外国公使館が閉鎖されたのにつづいて、翌年1月には外部(外務省)も廃 止されました。2月、日本の統監府とその指揮下の理事庁が事務を開始し、韓 国を日本の支配下におきました。日本の韓国統治は 1910年の日韓併合に始ま ったのではなく、1905年の保護条約の時点でスタートしたのでした。皇城新聞 の廃刊はそんななかでなされました。   こうなると、日本はもはや竹島=独島編入を隠しておく必要がまったくな くなりました。最初に書いたように、3月「竹島視察団」が大手を振って鬱島 郡守を訪問して、公然と竹島=独島編入を告げたのでした。このような状況下 では、韓国は日本による竹島=独島の領土編入を知ったところで、それになん ら抗議できる立場にはありませんでした。 (注1)愼鏞廈『獨島領有權資料の探求』第2巻(韓国語)獨島研究保全協会,    1999 (注2)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000 (注3)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999.5 (注4)海野福寿『韓国併合』岩波新書,1995   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


半月城の論文「日本の竹島=独島放棄と領土編入」 <本稿は、姜徳相先生 古希・退職記念『日朝関係史論集』新幹社,2003,P137-161 に寄稿した論文です。文はウェブ上で読みやすいように改行位置など変更しました>     目  次

  1. はじめに
  2. 江戸時代の「竹島一件」
  3. 明治時代における松島、竹島放棄
  4. 島名の混乱と「松島」開拓願い
  5. 竹島=独島の軍事的価値
  6. 竹島=独島の領土編入
  7. 戦後の国際的取り決め
  8. おわりに
  9. 竹島=独島年表


はじめに  サッカーワールドカップの日韓共催を迎え、両国は「日韓国民交流年」を築 きつつあるが、その両国にトゲのようにささった懸案問題がある。五十年たっ ても解決できない竹島=独島問題である。この島の所属をめぐって、両国はた びたび摩擦を引き起こし、一九五三年には銃撃事件に発展するほどであった (1)。  最近では九五年、韓国が「独島は歴史的にも国際法上も韓国固有の領土」と して竹島=独島に埠頭を建設したのが引き金になって両国の応酬が始まった。 日本の当時の池田行彦外務大臣がこれに抗議したのを皮切りに、それを受けた 韓国は当時の金泳三大統領が「日本側の領土主張の妄言は容認できない。断固 として対処してゆく」と強く反発し、両国に緊張をもたらした。  このように竹島=独島問題は事あるごとに両国で騒動の火種になり、そのた びに理屈抜きの民族感情が先走り、問題の解決をますます困難にしてきた。そ うした悪循環を絶つには何よりも冷静な対処および問題の根源への学術的取り 組みが望まれる。その取り組みであるが、韓国では「独島学会」が結成され組 織的に取り組みが行われているのにたいし、日本では組織的な取り組みがなさ れているとはいいがたい。  そうしたことの反映か、日本では往々にして同島の歴史的な重大事件が伏せ られたまま偏った議論がなされる場合が多い。伏せられた史実の典型例は、明 治時代における竹島=独島の放棄である。後に詳述するように、一八七七(明 治十)年、日本の最高国家機関たる太政官は竹島=独島を版図外とする指令を 発したが、多くの刊行物ではこれに一言半句も言及していないのが現状である。  その代表例が元外務省調査官・川上健三の著書『竹島の歴史地理学的研究』 である(2)。この本は日本における竹島=独島問題の理論的支柱になったく らい大きな影響力を持つ図書であるが、この書ではなぜか重要な太政官指令の 記述が脱落している。そのため、この本をベースにしている論議は首をかしげ るような結論を出しがちである。  たとえば、外務省の外交青書は毎年のように「竹島は、歴史的事実に照らし ても国際法上も明らかに日本の固有領土であり、このような日本の立場は一貫 している(3)」と記述している。しかし「固有領土」の主張は、すくなくと も明治時代に竹島=独島を版図外にした事実と矛盾している。  こうした外交青書などの記述に疑問をもった筆者は、インターネット上で竹 島=独島問題について多くの人と議論を重ねてきた(4)。それらをもとに、 本稿では江戸、明治時代を中心に日本の竹島=独島領有放棄と領土編入の過程 を日本の資料を中心にまとめてみた。

一 江戸時代の「竹島一件」  現在の竹島=独島が記述された日本の古い文献は、一六六七年に編纂された 出雲藩士斎藤豊仙の『隠州視聴合記』が初出である。それ以降の記録によると、 現在の竹島=独島は江戸時代を通じて松島と呼ばれた。同様に鬱陵島は竹島あ るいは磯竹島とよばれた。島根県隠岐の沖合にあるこの二島は、明治時代末期 にお互いの島名が入れ替わるなど、相当な混乱を呈してきた。整理のために島 名の変遷を書くと次のようになる。  鬱陵島   江戸時代ー竹島、まれに磯竹島。明治時代ー竹島および松島を 混用。一九〇五年以降は次第に鬱陵島。  竹島=独島 江戸時代ー松島。明治時代(一九〇五年以前)ー松島あるいは リアンコールト、リアンクール、リヤンコ、ホルネットなどを混用。一九〇五 年以後ー竹島。  この稿における両島の呼び名であるが、史料との関連を重視して各時代の島 名をそのまま使用することにする。ただし混乱を避けるため、現在の島名を適 宜カッコ内に補足する。  古来、松島、竹島の両島は、天候などの条件さえよければお互いに望見でき ることもあって歴史的に密接な関係にあった。松島の名前からして、松の木ど ころか1本の木もない岩嶼にもかかわらず江戸時代にそう呼ばれたのは、竹島 と一対になっているという意識のゆえであろう。  そうした意識にもとづく表現は諸史料で散見される。その典型例は、後述す るように明治時代における内務省の文書や太政官指令である。そこでは松島 (竹島=独島)は竹島(鬱陵島)とひとくくりに「竹島外一島」と表現され、 一緒に版図外として放棄された。このように、松島は歴史的に竹島と密接な関 係にあるので、まずは日朝関係史における竹島の重要事件からみることにする。  元禄時代、竹島(鬱陵島)をめぐって、日本と朝鮮の間に領土紛争、いわゆ る「竹島一件」が生じた。これは元禄時代に竹島の領有をめぐって七年間にわ たり両国間で争われた外交案件である。この交渉結果が明治時代になって「竹 島外一島」の放棄に決定的な影響を与えた。  事件の発端は、一六九二(元禄五)年、江戸幕府の渡海免許を受けて竹島に 出漁した大谷、村川家が同島で朝鮮人と遭遇したことから始まった。このとき、 両家は人数のうえで劣勢だったので早々に引き揚げて鳥取藩に報告した。この 処理をめぐって鳥取藩から対処方法を問われた幕府は、すでに朝鮮人が竹島か ら退去したとすれば「何の構えも無之」と回答をして、特に問題にしなかった。  翌年も両家が竹島へ行くとやはり朝鮮人が来島していた。そこで二名の朝鮮 人を米子へ連行して帰った。ひとりは後年、鬱陵島、子山島(于山島)は朝鮮 領であると訴えるため日本を来訪した安龍福であった。  報告をうけた鳥取藩は、幕府に朝鮮人が来島しないよう朝鮮に申し入れをす ることを要請した。幕府は、対朝鮮交渉の窓口であった対馬藩の宗氏をつうじ て朝鮮人の竹島への出漁禁止を朝鮮に申し入れ、両国の領土をめぐる外交交渉 が本格的に始まった。  日本の申し入れにたいし、朝鮮は日本との友好を重んじ、穏便に解決をはか る方針で交渉に臨んだ。しかし、交渉が長引く間に朝鮮の方は領議政が替わり、 交渉方針を強硬姿勢に転じた。九五年、竹島はすなわち鬱陵島であり朝鮮領に 属するとした次のような趣旨の返書を対馬藩へ送った。  「我国の江原道蔚珍県に属島があり、鬱陵島という。東海にあり風濤が危険 で船の便がなかったので、住民を移して空島にした。そして時々役人を派遣し て調査させていた。  このたび我が漁民が島に行ってみたところ、貴国人が越境侵犯して島に来て、 逆に我が漁民二人を捕らえて江戸に送った。  幸いに貴国の将軍は事情を察し、厚いもてなしをした上で送り返してくれた。 交隣の情が厚いことはほんとうに感激の至りである。しかしながら、我が漁民 が猟をしていたところは、もともと朝鮮の領土である鬱陵島であり、竹を産す るので竹島といわれており、一島二名である。  鬱陵島については、ただに朝鮮の書籍に見られるだけでなく、貴国日本の人 も知っている。それにもかかわらず、書中で竹島は日本領であり、朝鮮の漁船 の往来を禁止しようとして、日本人が我が朝鮮の領土を侵犯したことを問題に しないで、逆に我が漁民を拘束したことは間違っており、誠信の道に欠けると ころがあると思う。  深く望むことは、この意向を江戸の幕府に報告し、日本辺海の人が鬱陵島に 渡海して再び事件が起こらないように命じてほしい(5)」  この回答を受けて幕府は竹島(鬱陵島)の本格的な検討を始めた。老中・阿 部豊後守は鳥取藩にたいし一七か条からなる質問「御尋の御書付」を問い合わ せた。そのなかで注目される質問は「因州 伯州え付候竹嶋はいつの此より両 国え附属候哉」「竹嶋の外両国え附属の嶋有之候哉」の二点である。幕府は、 竹島が鳥取藩付属であると思いこんでいたようである。  また、幕府は竹島以外に因幡、伯耆両国所属の島が存在するかどうか尋ねた が、これはとりもなおさず当時の幕府は松島(竹島=独島)の存在を認識して いなかったことを示している。大谷家の記録によると同家は幕府の許可を得て 松島の開発も行ったとされているが、そうした渡海許可の公文書は見当たらな いうえに、元禄時代の幕府が松島を認識していないようなので、幕府は松島渡 海許可の公文書を発行しなかったと考えられる(6)。  幕府の質問に対して鳥取藩は「竹嶋は因幡 伯耆附属ニては(ママ)無御座 候」「竹嶋松嶋其外両国え付属の嶋 無御座候」と明言し、竹島、松島は自藩 領ではないと回答した(7)。幕府は、鳥取藩が竹島は自藩領でないと回答し たことや、その島に日本人が住んでいないこと、さらに地理的に因幡からより は朝鮮からの方が近いことなどを考慮し、同島はかつて朝鮮領であったことは 明らかであると判断した。  このとき「兵威」を用いて竹島を日本領にする案もあったが、結局は竹島を 放棄した。九六(元禄九)年一月二十八日、竹島を「無用の小島」と断じて鳥 取藩に同島への渡海禁止を申しわたした。この決定は、対馬藩を通じて朝鮮へ 伝えられ、竹島一件は終結した。その際、幕府は松島(竹島=独島)について は何も言及しなかったが、幕府決定における鳥取藩回答書の役割からみて、幕 府は松島も暗に放棄したものとみられる。  それを示すかのように、後述するが徳川幕府の官撰地図に松島、竹島はとも に記載されなかったし、後の明治政府の認識も幕府は松島、竹島を同時に版図 外にしたものとみなしている。なお、竹島渡航禁止以後、独自の経済的価値の ない松島だけのために渡航することは幕末まですっかりなくなっていた(8)。  さて、すでに幕府の竹島渡海禁止令が出された一六九六年六月、その三年前 に日本へ連行されたことのある安龍福(安同知)は、鬱陵島および子山島は朝 鮮領であると訴えるため、隠岐を経て伯耆へやって来た。安は日本へ来たとき、 船に「朝鬱両島 監税将臣 安同知 騎」と墨書した旗をかかげた。これは日本で は「朝鬱両島ハ 鬱陵島 日本ニテ是ヲ竹島ト称ス 子山島 日本ニテ松島ト呼フ」 と理解された(9)。  安の訴えは竹島一件をめぐる外交交渉自体にはほとんど影響を与えなかった が、安の言動は結果的に今日の竹島=独島問題に大きな影響を与えた。それは、 日本でいう当時の竹島は朝鮮の鬱陵島、松島は于山島という認識を日本および 朝鮮政府に定着させたことによる。  たとえば、後述するように日本で明治時代「松島開拓」問題が起きた時、外 務省の田邊局長は「聞ク松島ハ・・・于山ナリ」と記した。朝鮮でも正史の 『粛宗実録』は「松島即子山島 此亦我國地」と記録した。子山島は于山島を 指す。  こうした安龍福の活動や竹島一件の結果、松島、竹島の一対の島は朝鮮領と 認識されるようになった。そのため、江戸時代の代表的な地図はほとんど松島、 竹島を日本の領土外として扱った。  官撰地図でいえば伊能忠敬の「日本輿地図藁」や「日本国地理測量之図」、 「伊能小図」などはすべて松島、竹島を記載していない(10)。換言すれば、 多くある伊能忠敬の地図で松島、竹島を描いた地図は一枚も知られていない。  同様に徳川幕府が幕末に伊能忠敬の日本全図や間宮林蔵の測量図をもとに唯 一出版した木版画の官撰地図『官板実測日本地圖』にも松島、竹島は記入され なかった(11)。  一方、民間発行の地図では、十七世紀前半に徳川幕府が最初に作成した日本 図を写したと思われる「扶桑国都水陸地理図」にも松島、竹島は記載されなか った(12)。また、一七一二年以来たびたび発刊され、江戸時代中期を代表 する地図である石川流宣の「大日本国大絵図」にも松島、竹島は記載されなかっ た(13)。  さらに、江戸時代後期を代表する地図としては、一七七八(安永七)年に官 許を得て半世紀にわたりたびたび発刊された長久保赤水の日本地図があげられ る。この地図は、日本領を色分けするに際して松島、竹島を朝鮮領同様に無着 色のままにした。たとえば、初期の安永八(一七七九)年『改正日本輿地路程 全圖』(14)や、晩期の天保四(一八三三)年『新刻日本輿地路程全圖』第 四刻などである(15)。  これらは幕府の官許を得ているので準官撰地図といえるが、そこにおいて松 島、竹島の両島は朝鮮領と認識されていたと見なされる。

二 明治時代における松島、竹島放棄  明治政府は成立早々の一八六九(明治二)年十二月、朝鮮の内情を調査する ため、外務省高官の左田白茅、森山茂、斉藤栄らを朝鮮に派遣した。佐田らは その翌年、報告書『朝鮮国 交際始末 内探書』を提出したが、そのなかで松島、 竹島が朝鮮付属になったとして、こう記した。     竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末  此儀ハ 松島ハ竹島ノ隣島ニシテ 松島ノ儀ニ付 是迄掲載セシ書留モ無之 竹 島ノ儀ニ付テハ元禄度後ハ暫クノ間 朝鮮ヨリ居留ノ為差遣シ置候処 当時ハ以 前ノ如ク無人ト相成 竹木又ハ竹ヨリ太キ葭ヲ産シ 人參等自然ニ生シ 其餘漁 産モ相應ニ有之趣相聞ヘ候事(16)  文中にある松島、竹島の比定であるが、明治二年ころはまだ欧米の誤った地 図が日本で普及し始める前なので、両島は古来の松島と竹島、すなわち現在の 竹島=独島と鬱陵島をさしているとみてよい。  外務省がこのように松島、竹島を朝鮮領と認識していたのは、文中の語句 「元禄」からみて、元禄時代における竹島一件の解決結果を確認したとみられ る。竹島一件自体は松島に言及しなかったにもかかわらず、報告書が松島をわ ざわざ追加したのは、松島、竹島は一対であるという認識が強く、両島は不可 分であるとみたからであろう。  同様の認識は、一八七七(明治十)年に松島、竹島を版図外とした太政官指 令にもみられる。指令の端緒になったのは、島根県から内務省に提出された伺 い書「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」であった。これは島根県が内務省地 理寮からの地籍編纂伺いに回答するために作成した伺い書であった。その際、 島根県は独自に鳥取藩の古文書や大谷、村川両家の記録など松島、竹島関連の 資料を付属文書として添付し、伺い書を内務省宛に七六年十月提出した。その 付属文書で松島、竹島はこう記述された。  「磯竹島 一ニ竹島ト稱ス 隠岐國ノ乾位 一百二拾里許ニ在リ 周回凡十里許 山峻険ニシテ平地少シ 川三條在リ 又瀑布アリ・・・次ニ一島アリ 松島ト呼フ 周回三十町許 竹島ト同一線路ニ在リ 隠岐ヲ距ル八拾里許 樹竹稀ナリ 亦魚獣 ヲ産ス・・・(17)」  この頃になると、松島、竹島の位置を誤って記入した欧米の地図が日本に入 るようになり混乱が起き始めたので、付属書に書かれた松島、竹島がどこを指 すのかは検討する必要がある。文中に書かれた島の位置関係を整理すると左記 のようになる。     隠岐 ー(八〇里)ー 松島 ー(四〇里)ー 竹島  ここに記載された島同士の距離は、欧米の地図に影響されていない江戸時代 の松島、竹島を記した他の史料ともよく合致する。また、島同士の相対的な距 離関係や島の大きさや様子などが現在の竹島=独島および鬱陵島に大筋で合致 するし、隠岐の沖合に上記の距離くらい隔たった島は明らかに鬱陵島と竹島= 独島の二島しか存在しない。したがって、伺い書で「外一島」と記載された松 島は現在の竹島=独島をさしている(18)。  伺い書を受理した内務省は、島根県からの付属資料に加え、独自に徳川幕府 の史料を調査した。その中心は竹島一件に関する日本と朝鮮との交渉記録が主 であった。内務省はそれらを十分検討した結果、竹島外一島は本邦に関係ない との結論をだした。  そのうえさらに「版圖之取捨ハ重大之事件」との認識から、七七(明治十) 年三月、慎重に太政官へ伺い書「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を提出し た。これは太政官調査局で審査された結果、内務省の結論がそのまま認められ、 次の指令案が同局で起草された。       明治十年三月二十日 大臣                    本局   参議    卿輔 別紙内務省伺日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件 右ハ元禄五年 朝鮮人入嶋以来 旧政府 該國ト往復之末 遂ニ本邦関係無之相聞候段 申立候上ハ伺之趣御聞置 左之通 御指令相成可然哉 此段相伺候也     御指令按   伺之趣 書面 竹島外一嶋之義 本邦関係無之義ト可相心得事(19)  この文書は明治政府内で稟議に回され、右大臣・岩倉具視、参議・大隈重信、 寺島宗則、大木喬任らにより承認、捺印された。これにもとづき、タイトル 「三月二十九日 日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」で始まる太政官の指令 が内務省に伝達された。  さらに内務省から四月九日付けで島根県に伝えられ、現地でもこの問題に決 着がつけられた。この結果、当時の日本の最高国家機関たる太政官は内務省が 上申したとおり、松島、竹島をセットにする理解にもとづいて、両島を日本領 でないと公的に宣言したのであった(20)。

三 島名の混乱と「松島」開拓願い  元禄時代の竹島渡海禁止令以降、日本から松島、竹島への渡航は密漁などを のぞき途絶えたので、次第に両島の所在があいまいになりだした。明治時代、 文明開化で日本が欧米文化を積極的に取り入れるようになると、両島に関する 欧米の間違った地図が流入するようになり、ついには松島、竹島の島名すら混 乱する事態に発展した。  混乱の遠因は、一七八九年、イギリスの探検家コルネットが鬱陵島の位置を 本来より朝鮮寄りに見誤ったことにあった。コルネットはそれをアルゴノート 島と名づけたが、この誤った知識にもとづき作成された地図がのちに日本に混 乱をもたらした。正しい鬱陵島の位置は、欧米では一七八七年にフランスの軍 艦により確認されており、確認者にちなんでダジュレー島と命名されていた。  結果的にひとつの島が二島と認識され、ふたつの名前がつけられてしまった。 やがて、アルゴノート島は存在しないことがロシアの軍艦パルラダ号により一 八五四年に確認された。この確認に、じつに六五年もの歳月がかかったのであ る。絶海にある無人島の正確な位置の確認は、一九世紀なかばになっても容易 ではなかった。  アルゴノート島が存在しないことが確認される前、日本になじみの深いシー ボルトはそれらを別々の島と考え、あわせて古来の日本地図を参照し、朝鮮寄 りとされた架空の島を「Takasima I.Argonaute(ママ)」、本来の竹島(鬱陵 島)を「Matsusima I.Dagelet」と記入した誤りの地図を一八四〇年に作成した。  当時、欧米の地図で竹島=独島はまだ知られていなかったので、シーボルト の比定はやむを得ない面もあったが、この誤りが島名の混乱に拍車をかけた (21)。  一方、竹島=独島が欧米で知られるようになったのは、一八四九年、フラン スの捕鯨船リアンクール号による確認が最初であった。ついで、一八五五年、 イギリスのホーネット号によっても確認された。これから同島は、のちにホー ネットとかリアンコールト、リアンクール、リヤンコなどと呼ばれるようにな った。こちらは位置の測定が正確だったのか、別々な島として認識されること はなかった。  こうした知識は、日本遠征をもとに一八五五年に作成されたペリー提督の 「日本近域図」やハイネの「中国 日本近海図」に反映され、三島(実質は二 島)は和訳で「アルゴノート 存在せず」「ダジュレー マツシマ」「ホーネッ ト 一八五五」と記入された。ここで竹島の名前が松島に入れ替わってしまっ たが、ペリーたちの情報はまだしも正確なほうで、ほかの欧米地図では架空の アルゴノートが一八九四年ころまで存在し続けたものもあった。  そうしたまちがった欧米の地図に惑わされ、日本でも鬱陵島を松島、架空の アルゴノートを竹島と記入した地図が次第に出回るようになった。そうした地 図の一方で、もちろん従来どおり鬱陵島を竹島、竹島=独島を松島と正しく記 した地図も多数存在した。これらは、江戸時代後期を代表する長久保赤水の 『日本輿地路程全図』の系統によるものである。  ほかにアルゴノートを記載しないものの、欧米式に鬱陵島を松島と記した地 図などもあった。以上のような混乱の結果、竹島は鬱陵島を指したり、架空の アルゴノートを指したりまちまちであった。同様に松島は竹島=独島を指した り、鬱陵島を指したりした。  こうした島名の混乱が始まるなかで、鬱陵島開拓の目的で「松島開拓の議」 「松島開拓願」などが外務省に、「竹島渡海之願」が東京府に七六年から七八 年にかけて相次いで提出された。  このなかで「松島」開拓願いを受けた外務省は、「松島」なる島の所在をめ ぐって混乱した。記録局長の渡邊洪基は「其松島『デラセ』嶋ナル者ハ本来ノ 竹嶋即チ蔚陵島ニシテ我松嶋ナル者ハ洋名『ホル子ットロックス』ナルカ如 シ」と述べ、開拓願いの松島は古来の竹島(鬱陵島)であり、古来の松島はホ ルネットロックス(竹島=独島)であろうと推測していた(22)。  一方、公信局長の田邊太一は開拓願いの松島を「朝鮮ノ鬱陵島」と断定し、 開拓願いに却下の意見を付した。ただし「聞ク松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と述べ、古来の松島は鬱陵島付属の于山 島であると理解していたようである。  このように、外務省では古来の松島と開拓願いの松島をおおむね見分けてい たようだが、誰も確信を持てない状況であった。それを明確にするために実地 調査しようとする意見が根強くあった。しかし、これは朝鮮領を巡視すること になり、外交上好ましくないとする田邊太一局長の次のような意見により一時 保留となった。  「聞ク松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ 蔚陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時一葛藤ヲ生シ 文書往復ノ末 永ク証テ我有 トセサルヲ約シ載テ両国ノ史ニ在リ 今故ナク人ヲ遣テコレヲ巡視セシム 此ヲ 他人ノ寳ヲ數フトイフ 況ンヤ隣境ヲ侵越スルニ類シ 我ト韓トノ交漸ク緒ニ就 クトイヘトモ猜嫌猶未全ク除カサルニ際シ如此一挙ヨリシテ再ヒ一隙ヲ開カン 事 尤交際家ノ忌ム所ナルベシ(23)」  保留になった「松島」の実地調査は、やっと八〇年(明治十三)年になって 軍艦天城を廻航して行われた。その結果「松島」は元禄時代の竹島、すなわち 朝鮮の鬱陵島で日本の版図外であることが判明し、外務省はこう結論づけた。  「明治十三年 天城艦ノ松島ニ廻航スルニ及ヒ 其地ニ至リ 測量シ始テ松島ハ 鬱陵島ニシテ 其他竹島ナル者ハ一個ノ岩石タルニ過キサルヲ知リ事始テ了然 タリ 然ルトキ今日ノ松島ハ即チ元禄十二年称スル所ノ竹島ニシテ 古来我版図 外ノ地タルヤ知ルヘシ(24)」  報告書で竹島は鬱陵島近辺の「岩石」にされてしまったが、これを契機に日 本では鬱陵島が公文書でも次第に松島と称されるようになった。それだけ古来 の松島(竹島=独島)は存在感が薄かったのである。その結果、古来の松島は 本来の島名を失ってしまい、かわりに欧米名そのままにリアンコールトあるい はリアンクール、リヤンコ、ホーネットなどと称されるようになった。  その一方で明治政府はこれらの島、鬱陵島とリアンクール島(竹島=独島) を日本領として認識することは一九〇五年までほとんどなかった。それを物語 るかのように、明治政府が国家事業として制作した地図は一八九四年に民間か ら『大日本管轄分地図』として発刊されたが、そこに両島は記載されなかった (25)。これは、島嶼など水路の測量を担当した海軍がリアンクール島など を日本領でなく朝鮮領として認識していたためであろう。  海軍が同島の領有をどのように考えていたのかは、九二年以降発刊されるよ うになった海軍の『日本水路誌』『朝鮮水路誌』により知ることができる。堀 によれば『日本水路誌』の扱う範囲は、日本の領土・領海に限定されていた。 そこには九五年の下関条約による日本の新領土である台湾や澎湖島、さらには 千島列島北端の占守島まで載せられているが、反面、台湾の対岸やカムチャッ カ半島は全然含まれていない。また、リアンクール島にも全く触れていない。  他方、海軍の『朝鮮水路誌』九四年版と九九年版には、鬱陵島と並んでリア ンコールト列岩が載せられている。つまり、十九世紀末に日本海軍の水路部当 局が竹島=独島を朝鮮領と認識していたことは、疑いのないところである(2 6)。

四 竹島=独島の軍事的価値  竹島=独島に対する明治政府の認識は日露戦争を機に転換点を迎えることに なった。その背景を知るために、ひとまず当時の東アジア情勢をふり返ってみ る。日本は韓国を勢力圏におさめるべくロシアと「満韓交換」交渉をしたが不 調に終わり、一九〇四年二月八日、ロシアに対し戦闘行動を開始した。連合艦 隊が旅順で停泊中のロシア艦隊に奇襲攻撃をかけるとともに、韓国では仁川に 臨時派遣隊が上陸、漢城に入り首都を制圧した。  その軍事的威圧のもとで韓国に軍事協力を強要し、二月二十七日「軍略上必 要ノ地点ヲ臨機収用スル」と規定した日韓議定書の調印を強制した。日本はこ の条項を拡大解釈して韓国に思うがまま軍事施設を設けるようになった。  しかし、その日韓議定書もほどなく日本により踏みにじられるようになった。 議定書では「大日本帝国ハ大韓帝国ノ独立及領土ノ保全ヲ確実ニ保障」とうた っていたが、日露戦争の本格化にともない、日本は韓国の独立を保証するどこ ろか、早くも五月には韓国を半植民地化する「対韓施設綱領」を閣議決定した。 その方針のもと、九月には第一次日韓協約を強引に承諾させ、保護国化を着々 と実行にうつしていった(27)。  他方、戦局は六月になると日本海で一挙に緊張が高まった。ロシアのウラジ オ艦隊が朝鮮海峡に出現、日本の輸送船を次々と沈めていったのである。これ に対処するため、海軍は監視や通信施設の増強をはかった。九州・中国地方の 沿岸各地と並行して、朝鮮東南部の竹辺湾、蔚山、巨文島、済州島等に望楼を 建設し、それらを海底電信線によって連結していった。朝鮮内の望楼は約二十 か所にもおよんだが、それらはすべて有無をいわせぬ軍事占領であった。  そしてそれらの戦略の一環として、七月五日、鬱陵島に望楼を建設して、そ こと朝鮮本土の日本海軍碇泊地である竹辺湾との間を軍用海底電信線で結ぶこ とが決定された。  堀によれば、鬱陵島の望楼は東南部(松島東望楼、配員六人)と西北部(松 島西望楼、配員六人)の二か所で、八月三日に建設着工、九月二日から活動を 始めた。海底電信線の方は、九月八日からウラジオ艦隊に脅かされながらも敷 設が進められ、同月二十五日に完成した。これによって鬱陵島の望楼は朝鮮本 土を経由して、佐世保の海軍鎮守府と直接交信できることになった。  さらに、リアンクール島(竹島=独島)にも望楼の建設が計画された。十一 月二十日、軍艦対馬の予備調査で望楼の建設が可能であることが確認された。  翌一九〇五年一月、後記するように明治政府はリアンクール島の領土編入を 閣議で決定し「竹島」と命名した。さらに六月十三日、軍艦橋立を同島に派遣 し、望楼建設の詳細な調査をおこなった。そのうえで海軍は六月二十四日、鬱 陵島、リアンクール島を含めた日本海同水域の総合施設計画を立てた。その計 画にしたがい、リアンクール島の望楼は七月二十五日に着工、八月十九日から 活動に入った。  海底電信線の方は、九月に講和が成立したため当初の計画が変更され、リア ンクール島と隠岐との間ではなく松江との間に敷設されることになった。この 工事は十月末に開始され、鬱陵島からリアンクール島を経て、十一月九日松江 との結合が完了した。  つまり、朝鮮本土(竹辺)から鬱陵島、リアンクール島、松江に到る一連の 軍用通信線の体系がつくりあげられたのである。このように、日本政府にとっ て日本海中のリアンクール島とは軍事的な利用対象にほかならず、またそれは 当時朝鮮各地でおこなった軍事的占領と密接不可分なものであった(28)。

五 竹島=独島の領土編入  日露戦争の時局柄、日本はリアンクール島(竹島=独島)を軍事的に必要と していたが、同島を領土編入するきっかけになったのは、日露戦争中に提出さ れた一漁師の同島「貸下願」であった。まずはこの「貸下願」が出されるに至 った経緯をみることにする。  明治維新以後、対外膨張の気運に乗り多くの日本人が竹島(鬱陵島)に渡航 するようになった。当時、朝鮮政府は鬱陵島を空島にしていたが、日本人の移 住は空島政策を転換させる契機になった。一八八一年、朝鮮政府は日本人の渡 航禁止を日本政府に申し入れるとともに、翌年十二月「鬱陵島開拓令」を発布 し開拓に乗り出した。  こうした朝鮮の措置に日本政府は八三年に島内の日本人を強制帰国させたが、 その後も日本人の無断渡航は絶えなかった。朝鮮政府の日本人退去要求は、八 八年、九五年、九八年、九九年、一九〇〇年とたびたび出されるようになった。  九八年以降、毎年のように退去要求が出されたのは、日清戦争に勝利した日 本政府が一八九八年に遠洋漁業奨励法、一九〇二年に外国領海水産組合法を制 定し、一貫して海外進出を奨励し、官民一体となって朝鮮の漁場へなだれ込む ようになったからである。  その結果、鬱陵島には日本人警官が常駐するまでになった。それにともない、 鬱陵島への途中航路に当たるリアンクール島が注目されるようになった。とく に同島のアシカは日露戦争直前になると皮革や油の高値相場から注目され、ア シカ猟が盛んになった。  そのなかで漁師の中井養三郎は同島におけるアシカ猟の独占をはかるため、 一九〇四年九月二十五日「りゃんこ島領土編入並ニ貸下願」を内務・外務・農 商務の三省に提出した。「りゃんこ島」とはリアンクール島のことである。中 井は「貸下願」を出した経緯を隠岐島庁へ提出した履歴書の付属書でこう記し た(29)。  「本島ノ鬱陵島ヲ(ママ)付属シテ韓国ノ所領ナリト思ハルルヲ以テ、将ニ 統監府ニ就テ為ス所アラントシ上京シテ種々画策中、時ノ水産局長牧朴眞ノ注 意ニ由リテ必ラズシモ韓国領ニ属セザルノ疑ヲ生ジ、其調査ノ為種々奔走ノ末、 時ノ水路部長肝付将軍断定ニ頼リテ本島ノ全ク無所属ナルコトヲ確カメタリ。  依テ経営上必要ナル理由ヲ具陳シテ、本島ヲ本邦領土ニ編入シ且ツ貸付セラレ ンコトヲ内務外務農商務ノ三大臣ニ願出テ、願書ヲ内務省ニ提出シタルニ、内 務当局者ハ此時局ニ際シ韓国領地ノ疑アル莫荒タル一箇不毛ノ岩礁ヲ収メテ、 環視ノ諸外国ニ我国ガ韓国併呑ノ野心アルコトノ疑ヲ大ナラシムルハ、利益ノ 極メテ小ナルニ反シテ事体決シテ容易ナラズトテ、如何ニ陳弁スルモ願出ハ将 ニ却下セラレントシタリ。  斯クテ挫折スベキニアラザルヲ以テ、直ニ外務省ニ走リ、時ノ政務局長山座 円二郎氏ニ就キ大ニ論陳スル所アリタリ。氏ハ時局ナレバコソ其領土編入ヲ急 要トスルナリ、望楼ヲ建築シ無線若クハ海底電信ヲ設置セバ敵艦監視上極メテ 届竟ナラズヤ、特ニ外交上内務ノ如キ顧慮ヲ要スルコトナシ、須ラク速カニ願 書ヲ本省ニ回附セシムベシト意気軒昂タリ。此ノ如クニシテ、本島ハ竟ニ本邦 領土ニ編入セラレタリ」  リアンクール島(竹島=独島)をよく知る中井が同島は鬱陵島附属であり、 かつ韓国領であると判断していたことは注目される。これは鬱陵島の韓国人が リアンクール島を「独島」と呼称していたことと関連するのであろう。軍艦新 高の一九〇四年九月二十五日付の日誌は「松島ニ於テ『リアンコルド』岩実見 者ヨリ聴取リタル情報」と明記して「『リアンコルド』岩韓人之ヲ独島ト書シ 本邦漁夫等畧シテ『リヤンコ』島と呼称セリ」と記したのである(30)。  リアンクール島を朝鮮領と認識していたのは内務省も同様であった。同省は、 一八七七年「竹島外一島」すなわち鬱陵島とリアンクール島を朝鮮領と考え放 棄していた経緯もあり、当初「韓国領地ノ疑アル」リアンクール島の領土編入 に猛反対であった。  一方、内務省の反対をよそに、当面の戦争を何としても勝利させたい海軍は、 かつて『日本水路誌』や『朝鮮水路誌』でリアンクール島を朝鮮領と認識して いたにもかかわらず、望楼建設という作戦上の観点から同島は無所属であると 判断を変更するようになった。  さらに外務省にいたっては、戦時中という「時局ナレバコソ領土編入ヲ急要 トスル」と帝国主義の本性をあらわにして、かつて『朝鮮国 交際始末内探書』 で朝鮮領と考えていたリアンクール島の領土編入を急いだのである。  結局、内務省は最後には外務省の意見に賛成し、リアンクール島の領土編入 を閣議にはかった。一九〇五年一月二八日、閣議は中井の申請を認める形で領 土編入を左記のように決定し、竹島と命名した。  別紙内務大臣請議 無人島所属ニ関スル件ヲ審査スルニ 右ハ北緯三十七度九 分三十秒 東経百三十一度五十五分 隠岐島ヲ隔ル西北八十五浬ニ在ル無人島ハ 他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク 一昨三十六年 本邦人 中井養 三郎ナル者ニ於テ 漁舎ヲ構ヘ人夫ヲ移シ猟具ヲ備ヘテ海驢猟ニ着手シ 今回領 土編入並に貸下ヲ請願セシ所 此際所属及島名ヲ確定スルノ必要アルヲ以テ該 島ヲ竹島ト名ケ 自今島根県所属隠岐島司ノ所管ト為サントスト謂フニ在リ 依 テ審査スルニ 明治三十六年以来中井養三郎ナル者カ該島ニ移住シ漁業ニ従事 セルコトハ 関係書類ニ依リ明ナル所ナレバ 国際法上占領ノ事実アルモノト認 メ 之ヲ本邦所属トシ島根県所属隠岐島司ノ所管ト為シ 差支無之儀ト思考ス 依テ請議ノ通 閣議決定相成可然ト認ム(31)  ここで日本政府が竹島=独島を領土編入した論理であるが、それは「無主地」 であるリアンクール島に一九〇三年来、中井が「移住」したので、これを国際 法上の占領と認めて日本の領土に編入したというものであった。  しかし、この論理には無理がある。まず、竹島=独島は民間人が居住できる ような島ではなかったし、また中井が竹島=独島に本格的に居住した事実もな かった。中井が同島を利用した実態は、四月から八月にかけてアシカ猟のたび に菰葺小屋で「毎回約十日間仮居」したにすぎないのであり「移住」や「占 領」とはほど遠いものであった(32)。  それにも増して重要なのは、日本政府が朝鮮領であるリアンクール島を無主 地と判断したことにある。かつて明治政府は、内務省や外務省、海軍、太政官 など関係機関が同島を朝鮮領と考えていたが、その路線を根本的に覆すもので あった。そしてその主な動機は、これまで見たように日露戦争遂行のため同島 に軍事施設を設けることであった。  閣議決定に際し、日本は関係国である朝鮮との協議はおろか、政府レベルで の公示すら一切しなかった。これは小笠原諸島の領土編入とくらべると対照的 である。小笠原諸島の場合、日本は関係国であるアメリカなどと十分な協議を 重ねて相手国の同意を得て領土編入を行ったが、それに反し竹島=独島の場合 は政府内で秘密裏に処理された。官報による告示もなく、わずかに政府の訓令 を受けた島根県が告示で公表したにとどまった。同県は県告示四〇号で同島を 竹島と命名し、隠岐島司の所管にすると公示した。

六 戦後の国際的取り決め  以上のように、一九〇五年、リアンクール島(竹島=独島)の領土編入は「急 要」の軍事目的でなされたのであるが、これが戦後になって韓国からの非難材 料になった。すなわち韓国から竹島=独島はカイロ宣言にいう「暴力及貪欲に 依り日本国の略取」した地域であると非難されている。さらに、日本はカイロ 宣言を遵守し、竹島=独島の領有意図を放棄すべきだと指摘されている(33)。 カイロ宣言は、四三年、日本の領土を次のように制限した。  「右同盟国の目的は日本国より一九一四年の第一次世界戦争の開始以降に於 て日本が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること 並 に満州、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華 民国に返還することに在り 日本国は又暴力及貪欲に依り日本国の略取したる 他の一切の地域より駆逐せらるべし(34)」  カイロ宣言自体は米国、英国、中国の共同宣言であり、日本を拘束するもの ではなかった。しかし、カイロ宣言は日本が降伏時にポツダム宣言を受諾した ことにより日本を拘束するようになった。ポツダム宣言の第八項はカイロ宣言 の履行をこう規定している。  「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラレルヘク 又日本国ノ主権ハ本州、北海道、 九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ(35)  ポツダム宣言にいう諸小島であるが、国際的取り決めとしては一九四六年の 連合国総司令部(GHQ)覚書がある。一九四六年一月、GHQ指令「若干の 外郭地域の日本からの政治上および行政上の分離に関する連合国総司令部覚書 (SCAPIN第六七七号)」は、竹島=独島などを日本から分離する地域と規定し た。これは最終的決定ではないとされたが、この指令以降、竹島=独島の所属 に関する明示的な国際的取り決めは存在しない。  わけても五二年に発効したサンフランシスコ講和(平和)条約では草案段階 において竹島=独島の処遇が二転三転したが、結局は同島に関してなんらの言 及もされなかった。当初、アメリカ案でリアンクール岩(竹島=独島)は韓国 領とされた。これに不満の日本は同島を自国領にすべく努力した結果、一旦は 成功し、四九年十二月のアメリカ案で竹島=独島は日本領とされた。  しかし、アメリカ案は竹島=独島を日本領外とするイギリス案との間で調整 がはかられ、最終的に講和条約で竹島=独島は何らの記述もされなかった(3 6)。このように竹島=独島を明確に日本領にしようとした日本の要求は認め られなかったのであるが、日本はそれを承認して講和条約を批准した。  一方、同条約の非調印国になった韓国も同島を明確に韓国領にすべくアメリ カに働きかけたが、これも成功しなかった(37)。このように講和条約にお いて日本、韓国ともに竹島=独島を自国領にする要求は通らなかったのである。 この結末が領有権問題を今日に残すことになった。  韓国は「対日講和条約は日本の領土問題に関する限り、この SCAPINの条項 と相容れない如何なる条項も規定していない・・・講和条約は全く実質的な変 更をなすことなく、本問題に関する総司令部の処分を確認したものと了解でき る」と解釈し、竹島=独島を自国領と主張している(38)。  一方、日本は同条約について「平和条約が竹島にふれていないのは、竹島が 日本領でないからではない。平和条約では、日本から剥奪する領土だけを書く のが当然で、書かない限り日本に残る」と解釈し、やはり同島を自国領と主張 している(39)。  両国の主張であるが、講和条約に竹島=独島が明示されなかった以上、条約 から領有権に関して何らかの結論を引き出すのは無理と言わざるをえない。こ うした戦後の事情は、北方領土のハボマイ諸島、シコタン島の場合とまったく 同様である。これらの島も同じく SCAPIN第六七七号で日本から分離される地 域と明記されたが、講和条約ではやはり何らの規定もされなかった。そのため、 ハボマイ、シコタンならびに竹島=独島は講和条約以前からのソ連や韓国によ る統治が継続され、今日にいたっているのは周知のとおりである。

おわりに  明治政府は、元禄時代の「竹島一件」の決着にもとづいて「竹島外一島」す なわち鬱陵島および竹島=独島を版図外として放棄し、日露戦争に至るまで日 本領とは認識しなかった。一九〇五年になって竹島=独島を「無主地」という 名目で領土編入したのである。  それにもかかわらず、現在の外務省がこの事実を伏せたまま「竹島は歴史的 事実に照らしても日本の固有領土」と主張しつづけているのは歴史を無視した 強弁といわざるを得ない。外務省はもっと率直に歴史的事実を内外に明らかに すべきである。  さらに外務省は、かつて大日本帝国が同島を戦争という時局ゆえに他国領と 知りながら日本領に編入したという帝国主義的領土獲得の厳然たる事実を重視 し、カイロ宣言の精神を尊重して今日の竹島=独島問題を再検討する必要があ ろう。


(注) (1)梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店、一九九二年、三四七頁 (2)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻新装版)古今書院、一九九六年 (3)外務省『外交青書』二〇〇一年、三九頁 (4)半月城通信、http://www.han.org/a/half-moon/mokuji.html#dokto (5)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版、二〇〇〇年、七七頁 (6)池内敏「竹島一件の再検討」名古屋大学文学部研究論集』史学四十七号、    二〇〇一年、八一頁。 (7)塚本孝「竹島関係旧鳥取藩文書および絵図」『レファレンス』一九八五年    四月号、八一頁 (8)梶村秀樹、前掲書、三三七頁 (9)内藤正中、前掲書、一〇〇頁 (10)神戸市立博物館『古地図セレクション』神戸市体育協会、二〇〇〇年、四一頁 (11)徳川幕府開成所『官板実測日本地圖』発行は一八六七年と推定される     (影印版、日本地圖選集刊行委員會『江戸時代 日本絵圖並萬國全圖集成』     人文社、一九九〇年) (12)神戸市立博物館、前掲書、三〇頁 (13)同右書、三三頁 (14)同右書、三七頁 (15)長久保赤水『新刻日本輿地路程全圖』一八三三年     (影印版、日本地圖選集刊行委員会『江戸時代 日本全圖歴覧』     日本地図選集第四巻、人文社、一九九〇) (16)『日本外交文書』第三巻、一三七頁、明治三年四月十五日付 (17)『公文録』内務省之部一、明治十年三月十七日条、国立公文書館所蔵     (二A一〇―公二〇三二/マイクロリール二五六、一三五〇コマ~) (18)塚本孝「竹島領有権問題の経緯(第二版)」『調査と情報』第二八九号、     一九九六年、五頁 (19)『公文録』内務省之部一、明治十年三月二十日条、国立公文書館所蔵     (二A一〇―公二〇三二/マイクロリール二五六、一三六四コマ) (20)堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』     第二四号、一九八七年、一〇四頁 (21)川上健三、前掲書、一二頁 (22)北澤正誠『竹島考證』(復刻版)エムティ出版、一九九六年、一九〇頁 (23)同右書、二六一頁 (24)同右書、二七三頁 (25)清水常太郎『大日本管轄分地圖』一八九四(影印版、     日本地圖選集刊行委員會『大日本管轄分地圖』、人文社、一九九〇) (26)堀和生、前掲稿、一〇六頁 (27)海野福寿『韓国併合』岩波新書、一九九五、一三二頁 (28)堀和生、前掲稿、一一四頁 (29)島根県広報文書課編『竹島関係誌料』第一巻、一九五三年。 (30)『軍艦新高行動日誌』防衛庁戦史部所蔵 (31)『公文類聚』第二十九編巻一政綱門行政区、国立公文書館所蔵     (二A十一―類九八一/マイクロリール一七三、一三七五コマ) (32)内藤正中、前掲書、一七五頁 (33)愼鏞廈『史的解明 独島(竹島)』インター出版、一九九七年、一九三頁 (34)『われらの北方領土』外務省国内広報課、二〇〇〇年、一六頁 (35)同右書、一七頁 (36)塚本孝「平和条約と竹島(再論)」『レファレンス』一九九四年三月号、三九頁 (37)高崎宗司『検証 日韓会談』岩波新書、一九九六年、一八頁 (38)田村清三郎『島根県竹島の新研究』島根県総務部、一九九六年、一四九頁 (39)同右書、一二二頁



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