半月城通信
No. 83

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  1. 首相の靖国神社参拝
  2. ある特攻隊員のみたま
  3. ある「日本人」将校の死
  4. 韓国親日派の心情
  5. 「慰安婦」と教科書
  6. 内務省「竹島外一島」伺い書(1)
  7. 江戸時代の「竹島一件」
  8. 内務省「竹島外一島」伺い書(2)
  9. 読売新聞の「半月城通信」紹介


首相の靖国神社参拝 インターネット「問答有用」会議室 #8335 2001/08/12 http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain   半月城です。久しぶりに投稿します。 >靖国に祭られた人は、あくまでも国のために死んだ人だ。   津田さんは「靖国」の意味をご存じでしょうか?『国史大辞典』によれば、 靖国は天皇の国家を安んずるという意味です。したがってよく知られているよ うに、天皇にとって逆賊であった西郷隆盛などは靖国神社にまつられていませ ん。   その一方で、西南戦争など官軍の「戦没者は、天皇のために忠死したとい う唯一点で、国によって神として祀られ、現人神(あらひとがみ)天皇の礼拝 を受けるという、無上の栄誉を与えられた」とされました(注1)。   このように靖国神社にまつられるのは、あくまで天皇の名による戦争で天 皇のために忠死した戦没者のみであり、津田さんのいう「国のために死んだ 人」とはすこし意味あいがちがうのではないでしょうか。   同時に半世紀前の、天皇の名による「大東亜戦争」が侵略戦争であり、2 000万人にのぼるアジアの人々を犬コロのように殺してきただけに、その戦 争指導者である東条英機などA級戦犯をまつった靖国神社を日本の首相が参拝 し「心をこめて敬意と感謝の意をささげる」行為は韓国や中国の猛反発を招い て当然です。   かって、靖国神社は陸海軍省の所管におかれ「軍国主義を普及徹底させる うえで、絶大な威力を発揮」し(注1)、日本国民を無謀な侵略戦争にかりた てる精神的支柱としての役割をになってきました。アジアからみたとき、侵略 戦争の象徴、それが靖国神社です。   こうしたことを小泉首相は十分熟慮して、それでも行くのならそれも首相 の勝手でしょうが、その場合はなぜそうまでして行かなくてはならないのか全 世界に十分説明する必要があろうかと思います。   この問題は韓国や中国のみが注視するにとどまらず、アメリカやイギリス でも注目を集めました。イギリスの代表的な新聞、フィナンシャルタイムズは 社説で首相の参拝は「右翼勢力を喜ばせるためとしか受け取られない」と指摘 しましたが、まったく同感です(注2)。   小泉首相が純粋に「戦没者に対し、心をこめて敬意と感謝の意をささげた い」のなら、田中真紀子外務大臣がいうように政府主催の「全国戦没者追悼式」 に参加することで十分ではないかと思われます。逆に、それで十分でないとい うのなら、政府の式典が追悼式として問題があるということになりかねません。   それでも小泉首相が靖国神社に参拝するというのなら、フィナンシャルタ イムズが求めているように「靖国神社を重視する理由をはっきりと説明し、戦 争責任については国際世論の納得がいくよう明確に謝罪する」べきではないか と思います。   その際、首相が「個人的」に参拝するなどといった小手先の理由は通用し がたいと思います。問題の性質上、首相や天皇の場合、個人的な行動で片づけ られません。天皇の場合、そうであるからこそ1975年の参拝を最後に靖国 神社には行ってません。これは日本を代表する要人の個人的な行動の限界を示 しています。 (注1)「靖国神社」 『国史大辞典14』吉川弘文館より抜粋   (戦前、靖国神社の)所管は陸海軍省で、臨時大祭の委員長は天皇によっ て現役の将官が任命された。同社は、台湾出兵・日清戦争・日露戦争・第1次 世界大戦・日中戦争・太平洋戦争とつづく、天皇の名による戦争のたびに、多 数の戦没者を新祭神に加えた。   社号の「靖国」は天皇の国家を安んずる意味で、戊辰戦争の内戦でも、幕 府側の戦没者は「賊軍」であるとして合祀されなかった。戦没者は、天皇のた めに忠死したという唯一点で、国によって神として祀られ、現人神天皇の礼拝 を受けるという、無上の「栄誉」を与えられた。   この構造は、日本人の生活でながい伝統を持つ霊魂観と祖先崇拝を、たく みに天皇崇拝と軍国主義に結びつけており同神社の存在は、国民の間に天皇崇 拝と軍国主義を普及徹底させるうえで、絶大な威力を発揮した。            ---------------------- (注2)「靖国問題、英紙が首相に冷静対応求める社説」 朝日新聞ニュース速報 2001.08/09  英紙フィナンシャル・タイムズは9日付の社説で、「日本が国際社会で重要な役割を 果たせるかは、第2次大戦中の侵略行為を反省していることを近隣諸国に納得してもら えるかにかかっている」と論評し、靖国参拝の意向を示している小泉首相に冷静な対応 を求めた。  A級戦犯が合祀(ごうし)された靖国神社の参拝について、社説は「右翼勢力を喜ば せるためとしか受け取られない」と指摘。小泉氏が憲法9条の改正を支持していること にアジア諸国は一層懸念を深めるだけだとしている。  そのうえで、ドイツが欧州でなしえたように、もし小泉首相が日本がアジア諸国で信 頼を得たいと考えるのなら、(1)靖国神社を重視する理由をはっきりと説明し、戦争 責任については国際世論の納得がいくよう明確に謝罪する(2)日本の侵略行為を含む 20世紀の歴史を学校できちんと教える(3)従軍慰安婦への賠償を早急に進める(4 )平和憲法を改正すべきかどうかの論議を急ぎ、アジア諸国の不安を払しょくする-- という4段階を踏むべきだと提言した。  靖国参拝問題は、小泉改革の先行き不透明さとあいまって、日本が直面する不安定要 因として英国でも次第に関心を集めている。  日曜紙オブザーバーは靖国参拝や歴史教科書をめぐる論議をくわしくとりあげ、「日 本社会でまん延しつつあるナショナリズムは、日本経済の不振が背景にある」と分析。 中国や韓国との関係冷却に日本が十分な対策を講じられないことについて、「米中関係 がぎくしゃくする状況で、日本のナショナリズムはアジアの冷戦対立を一層助長してい る」と評した。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


ある特攻隊員のみたま 「問答有用」掲示板 #8479 2001/08/14 http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain   RE:8461、靖国神社 >いっそのこと、世界中の戦争被害者すべての人を祭ったらどうですかね。 >ま、もっとも世界中から「それだけはやめてくれ」と言われそうだが。   台湾はともかく、すくなくとも韓国では靖国神社にまつられているのは恥 ずべきこととされています。そのひとりが元カミカゼ特攻隊員の金田さんです。   映画「ホタル」をご覧になった人はご存じでしょうが、高倉健主演の元特 攻隊員夫婦が、戦後半世紀たって朝鮮出身の元特攻隊員・金田さんの遺族に会 いに韓国の安東を訪問しましたが、けっして歓迎はされませんでした。   身内のなかに日帝の侵略戦争に荷担したものがいるというのは、韓国人に とって汚辱以外の何ものでもありません。ましてや、その兵士の「功績」が大 きければ大きいほど逆に民族の裏切り者扱いにされかねません。そんな場合、 遺族はその「功労者」の遺骨すら受取を拒否しかねません。   そのひとりが盧龍愚、日本名、河田清治大尉です。大尉の功績は、当時の 報道によれば「身をもって皇土防衛の任を達成した」とされ、「帝国軍人の亀 鑑(きかん)」でした。こうまで賞讃されるのも無理はありません。   河田大尉は、日本を空襲で恐怖のどん底に突き落とした憎きB29にカミ カゼ特攻機で体当たりし、みごと撃墜し絶賛されたのでした。この「快挙」に ふるいたった皇国少年少女はゴマンといたようでした。そうした「輝かしい」 精神的遺産を残し、かれ自身はもちろん散華しました。   しかし悲しいかな、河田大尉の遺骨は兄弟にすら受け取りを拒否されたよ うで、いまだに東京目黒の祐天寺にあずけられたままになっています(注4)。 ここにはそうした遺骨など、本来は韓国などへ還るべき遺骨が1136柱保管 されています。   この人たちのみたまも靖国神社にまつられているのでしょうが、遺族にし てみれば断腸の思いのようです。東条英機などA級戦犯は民族の敵であるのに くわえ、愛する肉親を侵略戦争にかりたて、日本軍のタマよけとして尊い命を いけにえにした、その憎き東條らと肉親がいっしょにまつられたのでは、はら わたが煮えくりかえる思いでしょう。   その思いから、ある遺族は靖国神社での合祀を取りやめるよう裁判まで起 しました(注)。そもそも、戦没者のみたまを遺族の了承もなしに神道形式で 軍国主義の象徴である靖国神社に勝手にまつる行為自体が問題といわざるをえ ません。   これは、ときには死者にたいする冒涜ではないでしょうか。靖国神社の再 考をうながしたいと思います。 (注)靖国神社合祀の位はいの返還を 韓国遺族団体 朝日新聞ニュース速報 2001.07/17  韓国の「太平洋戦争被害者補償推進協議会」のメンバー10人は16日、小 泉首相と金大中大統領に対し、靖国神社に合祀(ごうし)されている親の位は いの返還を求める嘆願書を郵送した。韓国メディアによると、遺族が公式に位 はいの返還要求をするのは初めてという。  韓国人の靖国神社への合祀をめぐっては先月30日、遺族らが合祀とりやめ などを求めて東京地裁に提訴している。  嘆願書で遺族らは「日本の歴史教科書わい曲と小泉首相の靖国神社参拝発言 に憤怒を禁じ得ない」「特に親の位はいが、戦犯と一緒に追悼されていること に対し、戦争被害者の子どもとして到底容認できない」と訴えている。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


ある「日本人」将校の死 「問答有用」会議室 #8608 2001/08/16 http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain   ある特攻隊員、盧龍愚(河田)大尉の死は、ここでもさまざまな波紋をお こしているようです。 RE:8487 >> 河田大尉は、日本を空襲で恐怖のどん底に突き落とした憎きB29にカミ >>カゼ特攻機で体当たりし、みごと撃墜し絶賛されたのでした。この「快挙」に >>ふるいたった皇国少年少女はゴマンといたようでした。そうした「輝かしい」 >>精神的遺産を残し、かれ自身はもちろん散華しました。 > >ここでなぜ「快挙」「輝かしい」と括弧をつけるのか、私にはとうてい理解 >し難いことである。 RE:8484 >この犠牲は、命令による強制とはいえ、侵略に荷担したというよりは「B29 の爆撃で殺される筈だった日本の一般市民、子供達を守って下さった」と解釈 し、盧龍愚大尉の御霊に敬意を表します。   日本軍の特攻戦法の愚かさは別にして、日本人にとって多くの臣民を守り、 敵に一撃を与えた盧龍愚(河田大尉)の行動は絶賛されるべきものであり、敬 意をもって迎えられるのはもっともなことです。   しかしながら韓国人の側からみれば、かれは、韓国を植民地におとしいれ 苦難を強いたほかならぬ日帝の将校のひとりでした。いいかえれば、かれは侵 略戦争の推進者であり、韓国の抗日独立軍や上海の大韓民国臨時政府にとって は打倒すべき敵軍の将校でした。   そして当時の韓国民は、親日分子を別にすれば心情的にもちろん独立軍な ど日帝を打倒する側にたつので、同胞といえども日帝将校は許しがたい存在で した。さらに、その意識は戦後、すなわち解放後になって不十分ながら親日派 の追求が始まるや一層強まり、当然のごとく日帝の協力者すなわち売国奴は迫 害されました。   余談ですが、そのため朴正煕・元大統領にかんして、かれが日帝時代に満 州軍官学校出身の将校であるという事実は長い間秘密にされたくらいでした。   このような日本軍将校にたいする評価から、私は「快挙」とわざわざカッ コをつけました。さらに大尉の遺族にしても、とても「快挙」と喜ぶどころか、 いかにその事実を隠すかに腐心せざるを得なかったことでしょう。   そうなると、たとえ親族意識が日本以上に強烈な韓国であっても、肉親で ある日帝将校の遺品や遺骨を引き取るのはそうとうためらわれて当然です。映 画「ホタル」で主人公の元特攻隊員夫婦が、善意でわざわざ日本から元同僚の 遺品を届けにいったにもかかわらず、遺族がそれを容易に受けとろうとしなか ったのも納得がいきます。   RE:8480 >歴史に翻弄された河田大尉の遺骨、遺族が引き取らぬならば我々が鄭重に供 養しよう。遺骨のほうは引き取らぬままに靖国合祀を拒み「位牌を返せ」との 裁判をするとは・・・いったい何が望みなのか?河田大尉のご遺族。   これは私の書き方が悪かったのかもしれませんが「位牌を返せ」、正確に は「合祀取り下げ」を要求して提訴しているのは別の遺族で「太平洋戦争被害 者補償推進協議会」のかたがたです。   その副代表である李煕子さんたちは、今月14日、右翼が妨害するなか、 靖国神社をおとずれ、父親の合祀取り下げを要求しました。ま、盧龍愚のご遺 族にしても、けっしてかれが靖国神社にまつられるのを希望しないと思います が。   そもそも、韓国人であれ日本人であれ、戦没者のみたまを遺族の了承もな しに、靖国神社が勝手にまつる行為は許されるべきではないと思います。   結局、盧龍愚の場合、心ならずも遺族からソッポを向かれる一方で、日本 政府の「創氏改名」政策のあおりをかぶり、厚生省のほうからはあっさり「遺 族不明」で片づけられようとしました。その間の事情を朝日新聞はこう伝えま した(注1)。        --------------------   河田少尉は死んだ。  (二階級特進で)河田大尉と肩書きが変わってまもなく終戦を迎えた。盧龍 愚には戻れなかった。遺骨は戦後も日本にとどまった。「遺族不明」とされた。   朝鮮半島出身の戦没者の遺骨は、身元が判明すれば政府間を通じて返還す ることになった。日本の厚生省には戦死者名簿もある。河田清治の名もある。 ただ、盧龍愚の名はない。   名簿は、すべて当時の日本名で記載されている。戸籍の日本名は戦後、抹 消された。本名にさかのぼる手段は閉ざされた。   廬さんの身元捜しが始まったのは、90年。静岡県内の郷土史家が書いた 逸話が、沼津市の岩本俊雄さん(79)らの耳に入った。岩本さんは朝鮮半島出身。 戦後、日本国籍を取った。書き残された住所のメモを頼りに、遺族の転居先を 突き止めた。   それから十年。   今年(2000)6月、韓国出身の元学徒兵でつくる「1・20同志会」の副会 長・鄭琪永さん(80)が、廬さんの戸籍謄本などを添えて日本の厚生省に遺骨返 還を申し入れた。厚生省は7月、初めて韓国政府に公式に「遺族の意思を確認 してほしい」と依頼した。        --------------------   戦時中「輝かしい快挙」をなしとげた「日本人」将校も、長年「遺族不 明」のひとことで放置されるとは、朝鮮半島の出身がゆえにいかにもありそう な話です。数年前、沖縄県が「平和の礎」の碑に韓国人戦没者の名前を刻むた め遺族捜しに奔走した努力にくらべると雲泥の差で、暖かい人としての情がま ったく感じられません。   かって「身をもって皇土防衛の任を達成」し、「帝国軍人の亀鑑(きか ん)」とされた「日本人」将校も、8月15日を境に日本では朝鮮人というこ とで弊履のようにかえりみられず、さりとて韓国の遺族からも見放され、栄光 の座から無縁仏に近いあわれな存在になってしまいました。   最近になって、代替わりした遺族が前向きになり「もし遺骨がもどるなら、 感謝したい」と引き取りに積極的な姿勢をしめしているのがせめてもの救いで す。 (注1)「朝鮮人兵 遺骨帰らず」朝日新聞,2000.8.8   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


韓国親日派の心情 「問答有用会議室」 2001/08/19 http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain   朝鮮出身の特攻隊員について、前回書きたりなかったことを補足します。   RE:8480 >歴史に翻弄された河田大尉の遺骨、遺族が引き取らぬならば我々が鄭重に供 養しよう。   これを実行にうつした人がいました。千葉県在住の舞踊家・江藤勇さん (83)です。江藤さんは「朝鮮半島の遺族は肩身の狭い思いをしていると知り、 日本人こそ真心込めて慰霊すべき」と考え、特攻の町・知覧町の郷土史家の村 永馨さんに協力を要請し、石碑を特攻平和会館入口ちかくに立てました(注1)。   碑文には「アリランの歌声とほく 母の国に念(おも)い残して散りし 花々」と刻まれました。   しかし、この石碑はどうやら特攻平和会館にとって迷惑な存在であるよう です。会館の職員に一橋大学の吉田教授が石碑建立の由来などをたずねたら露 骨にいやな顔をされ、くわしいことは教えてもらえなかったそうでした(注1)。   会館は展示で特攻隊員の純真さ、健気(けなげ)さだけを一方的に強調す るだけの姿勢であるようで、それに疑問をさしたり、陰を覗くような調査は好 まれないようです。   吉田氏によると、散華(さんげ)した特攻隊員は1036名で、名簿上で朝鮮 出身とされているのは11名とのことでした。そのなかで、名前が朝鮮名のみ および日本名と朝鮮名が併記されている者が7名とのことでした。そのうちの ひとりが、映画「ホタル」で紹介された金田さんでしょうか。かれらは自己の アイデンティティをどのように考えていたのでしょうか。   RE:8611 >盧龍愚さんが自分のことを朝鮮人と考えていたか日本人と考えていたか、そ れは分かりません。   あんがい、盧龍愚さんは「天皇の赤子」を自任していたのかもしれません。 というのも、今日では日本の侵略戦争を糾弾する韓国、朝鮮人すら、かっては 「皇国少年」であったと信仰告白する人がわりといるからです。近代の日韓関 係史、とくに関東大震災時などの重要史料を発掘した滋賀県立大学の姜徳相教 授もそのひとりで、こう語りました(注2)。  「1945年夏、私は13歳だった。・・・中学の<疎開組>に在籍する皇 国少年だった。・・・日本人になるため自分のルーツをかくし、父母の文化を 否定し、一歩でも天皇にちかづく必要があると思ったし、そのためには職業軍 人への道にすすみたいと真剣に考えてもいた」   特攻隊員たちは姜さんと同じような動機から軍人を志願したのかもしれま せん。こうした動機をもつ人はけっして特殊なケースではありませんでした。 ほかにも皇国少年であると信仰告白した人に詩人・エッセイストの金時鐘さん がいます。金さんは、小泉首相の靖国神社参拝によせてこう語りました(注3)。        --------------------   (小泉首相は)過去の歴史に関する公式見解ともなっている村山富市元首 相の、「計り知れない惨害と苦痛を強いた」の談話まで周到に引用しながらの 参拝であった。   それこそ「惨害と苦痛」を直接強いた軍人、軍属を「神」として祀る靖国 神社に、言明どおり内外の批判を押して参拝したのだから、これは小泉首相の ゆるがぬ歴史認識の表明であって、「熟慮」の結果ではけっしてない。  ・・・   私も天皇のために命をささげることを一心に信じて育ったひとりだった。 小学校の行き帰りには「教育勅語」を納めてある奉安殿にふかぶかと頭を下げ、 事あるごとに神社に参っては、小さい掌を鳴らして聖戦完遂を祈った。        --------------------   金さんもみごとにマインドコントロールされた皇国少年でした。同様に、 さきに紹介した、日帝満州軍官学校出身の朴正煕・元大統領もそんなひとりだ ったかもしれません。とかく、ある集団で生粋(きっすい)でない人は誰より も本物たらんとして、完璧な帰属集団の模範生になりたがる傾向にあり、過剰 な忠誠心を発揮するものです。   盧龍愚(河田大尉)もそんなひとりだったかも知れません。しかし、たと えそうであったとして、はたしてかれのアイデンティティを日本人だったと断 定できるでしょうか?   いずれ、マインドコントロールがとけた暁には、その反動で極から極へ反 転する可能性があります。朴正煕・元大統領もそうなのか、こう記しました (注4)。        --------------------   日本が満州を侵略し、中国本土を支配しようとする軍国主義政策を強化す るに従って、韓国は軍事的前進基地として、日本への同化を強要されることに なったのである。彼らはわれわれの青年たちを日本の侵略戦争に強制動員し、 学校教育も思うように受けさせなくしてしまった。   1930年代後半から1945年の解放にいたるまでの十年間、韓国は固 有の言語すら抹殺されるほどの危機におかれていた。その間、ゆがめられた形 にしろ、内面的に近代化を指向していたすべての民族的な努力は、彼らの強要 と弾圧により、すべてが水泡に帰してしまった。        --------------------   この文章は現職の大統領として韓国民向けに書かれたので、それなりの配 慮が施されていることはいうまでもありませんが、そこには親日派の影はみじ んも見られないようです。    RE:8611 >半月城さんは「日帝の協力者すなわち売国奴」という表現を使われている。 >論理的に言えばこれは正しいのだろう。しかし、日本人である私はそのよう >にすっきりと言うことはできないし、言うべきでもないと思う。  「日帝への協力者、すなわち売国奴」という決めつけは、あるいは表面的な 理解にすぎず「泥棒にも三分の理」はあるので、個々のケースをもっと慎重に 判断すべきかもしれません。   しかし、たとえその後にいかなる功績があったにせよ、日帝の走狗として 同胞を一層苦しめた罪は罪として韓国は記録しなければならないと思います。 最近、韓国の一部でそうした親日派の徹底的な記録作業が始まったようですが、 どうやらその中に元大統領は入っていないようです。 (注1)吉田裕「特攻の町・知覧にて」『Let's No.28』日本の戦争責任資料    センター、2000.9月 (注2)良知会編『100人の在日コリアン』三五館,1997 (注3)金時鐘「侵された死者へ心ない祈り」朝日新聞,2001.8.17 (注4)朴正煕『民族の底力』サンケイ新聞社出版局,1973


「慰安婦」と教科書 メーリングリスト [aml 23174] 2001.8.19   半月城です。韓国のある「慰安婦」が日本の歴史教科書をどのように考え 行動しているのか紹介します。   最近、問題になった中学校の『新しい歴史教科書』(扶桑社)の採択は 「つくる会」の高森事務局長が「リベンジ」を口にせざるを得ないほど全滅に 近く、採択反対運動は大きな成果をおさめましたが、これにもっとも喜んでい るひとりが「慰安婦」の黄錦周さんです。   黄ハルモニ(おばあさん)は、7月17日、東京大学教養学部のキャンパ スで開かれた「黄錦周さんの証言を聞く会」で学生に「扶桑社の歴史教科書に ついてどう思いますか」と聞かれたとき、憤りをあらわにしました。   ハルモニは「私たちの存在を否定する教科書を絶対に認めることはできな い」といって、持っていた教科書の表紙を破り捨てました。その場にいた学生 は皆、改めて黄さんの強い怒りと歴史教科書問題の重大さを思い知らされたよ うでした(注1)。   この証言集会の模様は、8月15日、韓国KBS衛星第一TVの光復節特 別企画「黄ハルモニのある特別な授業」と題して放送されました。日本では SKY PerfecTV 331ch(KNTV) で18日に放送されました。   集会でハルモニは、14歳のとき、いわゆる「少女供出」で満州に連行さ れ、皇軍兵士のセックスのはけ口にされたつらい体験を語りました。その証言 は筆舌につくしがたいほどむごいものであり、怒りのあまりハルモニが「生き た人間をどうして便所と呼ぶか」と体を震わす姿は琴線にふれるものがありま す。   少女が戦時下で兵士たちのセックスの排泄所にされた事実に、ある女子学 生は衝撃をうけ「こんな小さい時にひどい目にあって、私なら生きていけな い」と目に涙を浮かべ、自分のことのように語りました。   翌日、ハルモニは千代田区民会館で開かれた「従軍慰安婦と歴史教師の懇 談会」に出席、さらに翌日は阿佐ヶ谷駅で「新しい歴史教科書採択反対」の行 動に参加し、82歳のご老体にむち打ってビラ配りまでしました。   こうまでハルモニを駆りたてる情熱は、日本の歴史教科書で「慰安婦」の 記述がつぎつぎに削除されたことにあるようです。同じ思いを「杉並市民協議 会会長」のドウモトさんはこう語りました。  「作る会の教科書だけでなく、今日、検定が「慰安婦」問題を削除したとい うことに関しては私たちはとても残念に思っています。怒りを込めていろいろ なところで告発しています。   それは、子どもへの国家権力による性暴力というのは、歴史上の問題だけ ではなくて、今でも通じている問題だと思いますので、これはぜひ中学生の子 どもたちに考えてほしい重要な問題だと思っています」   かって、国連の「慰安婦」にかんするクマラスワミ報告書において、日本 政府は「歴史的事実を反映するように教育内容を改めることによって、これら (軍事的性奴隷)の問題についての意識を高めること」と勧告されましたが、 今回の検定教科書は「作る会」にかぎらず、これに背く傾向にあります。「慰 安婦」問題をけっして風化させてはならず、日本政府に猛省をうながしたいと 思います。 (注1)東亜日報(日本語版)AUGUST 15, 2001 [オピニオン]日本は平和の道に向え     高橋哲哉(東京大学大学院総合文化研究科教授) http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=100000&biid=2001081552778 小泉首相の神社参拝を見て...。  先月17日の夕方、東京大学教養学部のキャンパスで、韓国人元従軍慰安婦 の黄錦周(ファン・クムジュ)さんの証言集会が開かれた。日本のアジア侵略 を正当化する扶桑社の歴史教科書を文部科学省が合格させたことに危機感を抱 き、教科書採択に対する反対運動を行ってきた学生たちが企画した集会であっ た。 初めて聞く元従軍慰安婦被害者の証言に、学生たちは強烈な印象を受けた。あ る学生が「扶桑社の歴史教科書についてどう思いますか」と尋ねた時、集会場 は衝撃が走った。  黄さんが「私たちの存在を否定する教科書を絶対に認めることはできない」 と言って、持っていた教科書の表紙を破り捨てたためであった。その場にいた 学生は皆、改めて黄さんの強い怒りと歴史教科書問題の重大さを思い知らされ たのであった。  今日は21世紀初の8月15日。しかし、残念なことに最近の韓日関係は芳 しくない。歴史教科書問題と小泉首相の靖国神社参拝が主たる原因だ。  私は、この責任がすべて日本側にあると考える。日本政府は、中曽根康弘元 首相が靖国神社を公式参拝(1985年)した翌年に、官房長官の談話で「近 隣諸国の国民」に「誤解と不信」を与える恐れがあるとし、参拝を中止した経 緯がある。  今回の小泉首相の行動は、当時の日本政府の約束を信じた隣国を裏切ったの も同然だ。歴史教科書問題も、近隣アジア諸国との関係を配慮して教科書を記 述するという「近隣諸国条項」(1982年)や適切な歴史認識に基づいて教 育するという韓日共同宣言(1998年)などの国際的公約を違反したものだ。  1990年代に入り、日本は戦後半世紀にして侵略被害国から責任を追及さ れ始めた。90年代後半、日本でナショナリズムが強くなった直接的原因は、 侵略責任の追及に対する反発であった。  さらにここ10年は、バブル経済崩壊と長期不況で、経済成長の神話が終焉 を告げたことを日本人が実感した時期でもある。  冷戦の「勝者」である日本が、過去の侵略責任を追及され、さらに「経済敗 戦」まで重なり、このような中「被害意識」を持つようになった。そこで「日 本人の誇りを回復しよう」というナショナリストらの訴えが受け入れられ始め たのだ。  1999年の夏、新ガイドライン関連法、国旗国家法などの一連の国家主義 的法律が制定されたことも看過できない。歴史教科書問題と靖国神社参拝問題 は、こうした流れの延長線上で理解することができる。  最近、日本の批判勢力は後退を繰り返した。政界はもとより、メディア、ジ ャーナリズムも生き残りをかけて「右傾化」が流行している。しかし、私は希 望を捨ててはいないし、今後も決して捨てるつもりはない。  現代の日本に今だに残っている「帝国の否定的な遺産」―その核心に天皇制 があるーを清算して、帝国主義日本との連続性を断ち切ることで、東アジアの 隣国と信頼を回復し、東アジアの民衆との間の相互信頼を基にこの地域に恒久 的な平和秩序を構築する、という希望である。  ここ数年、批判勢力が劣勢となりはしたが、巻き返しに出なかったわけでは ない。昨年12月に東京で開かれた「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法 廷」は、加害国日本の女性組織の主催で実現したもので、国際的な反響を呼ん だ。韓国と北朝鮮が合同検査団を構成して慰安婦制度を「人道への罪」と規定 し、昭和天皇にも「有罪」評決が下された。  これは東アジア各国と市民らが戦争犯罪に関し、共通認識を形成し、この地 域の平和秩序形成のためのモデルを提示した画期的な事件だった。  日本各地で扶桑社版歴史教科書採択に反対する市民運動が起き、結果的に採 択率がほとんどゼロに近くなったことは、日本社会の良識が最後の線を守って いることを示した快挙であった。在日韓国市民と日本市民が協力して採択を阻 止し、互い喜び合う姿は感動的だった。  黄さんは「悪いのは、あなたたちではなく日本政府だ」と語った。そうは言 っても、日本政府は日本国民の政治的代表者だ。日本国民の一人として、私も 日本政府の行為に一定の政治的責任を負っている。  日本政府は、北朝鮮には全く、韓国には十分に、 植民支配の過誤を認めて はいない。こういう非正常的な状態を是正するために私ができることをする。 それが韓民族の人々と友情と連帯を築くための基本的な条件だと考える。 (以下省略)   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


内務省「竹島外一島」伺い書(1) Yahoo! 掲示板 #2347 2001年7月15日 http://messages.yahoo.co.jp/   半月城です。これまでは島根県が内務省にだした「竹島外一島」伺い書を 紹介してきましたが、今回からはこれをうけた内務省の公文書をみていきたい と思います。   内務省は島根県からだされた資料にくわえ、独自に江戸幕府の資料を調査 しました。その中心は「竹島一件」とよばれる元禄時代の日本と朝鮮との交渉 記録が主です。内務省はそれらを十分検討した結果、竹島(鬱陵島)および外 一島(竹島=独島)は本邦に関係ないとの結論をだしました。   そのうえで内務省は、版図(領土)の取捨は「重大事件」との認識から念 のために、首相格に相当する太政官へ伺い書を提出しました。太政官の検討結 果、内務省の結論はやはり正しいとされました。   その結果「竹島外一島の件は本邦と関係なしと心得るべし」という文言が 内務省伺い書の末尾にとくに朱書きで加筆されました。この歴史的文書の写真 は愼教授の著書に掲載されましたが(注1)、それを(注2)に転載し、現代 語訳をつぎに記します。        -------------------- 日本海内 竹島外一島の地籍編纂方法の伺い書  竹島所轄の件について、島根縣から別紙の伺いがあったので調査したところ、 該当の島は、元禄五年に朝鮮人が入島して以来、別紙書類に抜き書きしたよう に、元禄九年正月、第一号 旧政府の評議の主旨や、第二号 訳官への達し書き、 第三号 当該国(朝鮮)から来た書簡、第四号 本邦回答および口上書などから して、元禄12年それぞれ書簡の往来が終わり、本邦は関係ないと聞いていま すが、版図の取捨は重大事件なので別紙書類を添付し、念のためにこの件をお 伺いします。  明治十年三月十七日      内務卿 大久保利通代理                 内務少輔 前島密 右大臣 岩倉具視殿 (朱書き加筆) 伺い書のおもむき、竹島外一島の件は本邦と関係なしと心得るべし。 明治十年三月二九日        -------------------- (注1)愼鏞夏『独島(竹島)』インター出版、1997 (注2)日本海内竹島外一島地籍編纂方伺 竹島所轄之儀ニ付 島根縣ヨリ別紙伺出取調候處 該島之儀ハ元禄五年 朝鮮人 入島以来 別紙書類ニ摘採スル如ク 元禄九年正月 第一号 旧政府評議之旨意ニ 依リ 二号 譯官ヘ達書 三号 該國来柬 四号 本邦回答及ヒ口上書等之如ク 則 元禄十二年ニ至リ 夫々往復相濟 本邦関係無之相聞候得共版圖ノ取捨ハ重大之 事件ニ付別紙書類相添為念此段相伺候也  明治十年三月十七日      内務卿 大久保利通代理                 内務少輔 前島密 右大臣 岩倉具視殿 伺之趣 竹島外一島之儀本邦関係無之儀ト可相心得事 明治十年三月二九日


江戸時代の「竹島一件」 Yahoo! 掲示板 #2367 2001年8月05日 http://messages.yahoo.co.jp/   半月城です。しばらくぶりに書き込みます。その間、I_LoveBakaChonさん から#2350で下記の質問がありました。 >竹島外一島の外一島が現在の竹島である根拠はいったい何?願望ですか?   これについてはすでに #2301,#2302に記したとおりで、島根県の伺い書に ある外一島が竹島=独島であることは疑いをいれません。それというのも伺い 書の基本になったのが、実際に松島(竹島=独島)を経て竹島(鬱陵島)へ渡 航した大谷家や村川家の所伝や地図であり、疑問の余地はありません。   さらに、伺い書に書かれた竹島=独島の位置関係は、江戸時代の松島・竹 島関係の諸文献にもよく合致しています。というよりも、それら文献の位置関 係は大谷・村川両家の資料にもとづいているといっても過言ではないので当然 すぎるくらいです。したがって、ずっと後に命名された架空の島「アルゴノー ト」島などとまぎれる可能性はみじんもありません。   さて、今回の書き込みは順序からいうと、前回のつづきとして内務省の 「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」付属文書を紹介すべきところです。   しかし、この文書を理解するには、元禄時代に竹島(鬱陵島)で日朝漁民 がはち合わせしたことから始まった「竹島一件」にかんする知識が不可欠です。 それというのも、付属文書には幕府が竹島(鬱陵島)を放棄した概略が書かれ ており、その背景を十分知らないと理解が困難になります。   そこで今回は「竹島一件」の概略を記すことにします。竹島一件は、島根 県「伺い書」の付属文書にも簡単に書かれていますが、発端は村川家が竹島 (鬱陵島)に出漁し朝鮮人と遭遇したことから始まりました。このとき、村川 家は衝突を未然にさけるため上陸せずそのまま帰りました。   島根県伺い書はその年を元禄7年(1694)としましたが、実際は1692年です。 翌年、島根県伺い書によれば、大谷家は武装したうえで出漁し、島で遭遇した 朝鮮人のうち二人を連行して帰り、幕府に報告しました。ひとりは後年、鬱陵 島、于山島は朝鮮領であるとして日本に乗り込んだ韓国の英雄・安龍福でした。   報告をうけた幕府は、捕らえた漁民を送還するとともに、対朝鮮交渉の窓 口であった対馬藩の宗氏をつうじて朝鮮人の竹島(鬱陵島)出漁禁止を朝鮮に 申し入れました。1693年、こうして元禄時代の領土紛争がはじまりました。   日本の申し入れにたいし、日本との平和・友好を重んじる朝鮮はつぎのよ うに腰の引けた回答をしました(注1)。  「朝鮮側ではきびしい海禁を行っているので、東海の漁民が外洋に出てゆく ことはない。もちろん朝鮮領である鬱陵島といえども、遠隔だからといって任 意往来を許しているわけではない。ましてその他についてはいうまでもない。   今回、漁船が日本の竹島にいったものをわざわざ送還してくれたことは、 隣好の誼(よしみ)とはいえ、非常に嬉しいことである。漁民であるから風に あって漂流することはあろうが、越境して漁採をするのはよくない。犯人につ いては法律に従って処罰する」   朝鮮側は鬱陵島(蔚陵島)が竹島であることをしりながら、穏便な解決策 をはかり、あえて両者を別の島であるかのように回答しました。朝鮮としては 鬱陵島が朝鮮領であるという原則さえ確認できればよかったものと思われます。   ところが交渉役の対馬藩はこれに満足せず、朝鮮の回答文にある「弊境之 蔚陵島」を問題にし、この文言を削除するよう要求しました。これから事態は 深みにはまるのですが、それを内藤氏はこう記しました(注1)。        --------------------   朝鮮側も日本側も、竹島が鬱陵島であることは十分に承知の上で、朝鮮側 としては日本との友好関係を維持していこうとする配慮から、「弊境之蔚陵 島」と「貴界竹島」があたかも別の島であるかの如き表現をとっていたのであ る。   だが日本側は、「貴界竹島」と明記していることを幸いとして、「只 冀 (こいねがう)除去蔚陵島」と要求する。このことは、朝鮮国を代表する礼曹 参判の書契から「弊境之蔚陵島」の文言を削除することによって、竹島(鬱陵 島)が日本領であることを朝鮮側に認めさせようとしたとみるべきであろう。   しかし朝鮮側は日本側が意図しているところを見抜いて、この要求を受け 入れなかった。このため対馬藩の使者は、翌年の1694年(元禄7)6月まで回 答を待って釜山に滞在していたが、朝鮮側からの回答がもらえないままで対馬 に帰国する。        --------------------   その間、朝鮮では領議政が南九萬に代わり、この問題を正面から取り組む ようになりました。朝鮮側は熟慮のすえ、前回とは方針を変え 1695年、竹島 はすなわち鬱陵島であり朝鮮領に属するとした本来の返書を日本に渡しました。 その返書を内藤氏は下記のように要約しました(注1)。        --------------------   我国の江原道蔚珍県に属島があり、鬱陵島という。東海にあり風濤が危険 で船の便がなかったので、住民を移して空島にした。そして時々役人を派遣し て調査させていた。   このたび我が漁民が島に行ってみたところ、貴国人が越境侵犯して島に来 て、逆に我が漁民二人を捕らえて江戸に送った。   幸いに貴国の将軍は事情を察し、厚いもてなしをした上で送り返してくれ た。交隣の情が厚いことはほんとうに感激の至りである。しかしながら、我が 漁民が猟をしていたところは、もともと朝鮮の領土である鬱陵島であり、竹を 産するので竹島といわれており、一島二名である。   鬱陵島については、ただに朝鮮の書籍に見られるだけでなく、貴国日本の 人も知っている。それにもかかわらず、書中で竹島は日本領であり、朝鮮の漁 船の往来を禁止しようとして、日本人が我が朝鮮の領土を侵犯したことを問題 にしないで、逆に我が漁民を拘束したことは間違っており、誠信の道に欠ける ところがあると思う。   深く望むことは、この意向を江戸の幕府に報告し、日本辺海の人が鬱陵島 に渡海して再び事件が起こらないように命じてほしいというものである。        --------------------   この報告を聞いて、幕府は竹島(鬱陵島)の本格的な検討を始めたようで した。老中・阿部豊後守から鳥取藩にたいし17か条からなる質問書「御尋の 御書付」がだされました。その最大眼目は、竹島(鬱陵島)の所属にかんする 問い合わせでしたが、それを内藤氏はこう要約しました(注1)。        --------------------   幕府の「御尋」では「因州 伯州え付候竹島」と述べて、幕府としては竹 島が因伯両国を支配する鳥取藩に属するものと思っていたことがわかる。しか し鳥取藩の回答書では、「竹島は因幡 伯耆附属にては無御座」と明言してい る。鳥取藩が自領でないといったことは重要である。幕府当局者が決断する最 大の根拠になって、1か月後の(1696)1月28日には渡海禁止の達(たっし) となる。  ・・・   老中・阿部豊後守は、鳥取藩が「竹島は因幡 伯耆附属にては無御座」と 回答したにもかかわらず、竹島が「因幡に属せりといへとも」と述べている。 阿部としては朝鮮領であることは認められないという立場である。   ただしかし、その島に日本人が住んでいないこと、地理的には因幡からよ りも朝鮮からの距離の方が近いことからして、かっては朝鮮領であったことは 明らかであるとする。   いま日本が兵威をもって対処すれば手に入れられないものではないが、 「無用の小島」のことで隣国との友好関係を損なうことになるのは得策でない、 いつまでも争っているよりも、「無事(ことなし)」がよいという幕府当局者 の立場を表明したのである。        --------------------   鳥取藩が竹島(鬱陵島)は自藩領でないと明言しても、老中はそれをくつ がえしてまで因幡付属と強弁する理由は何でしょうか? 78年間の「実効支 配」の実績から、意識の上だけでも日本領としたいのでしょうか。   ただ、さすがの老中も竹島(鬱陵島)はその前は朝鮮領だということは認 めており、こう語りました(注1)  「今その地理をはかるに、因幡を去るもの160里ばかり、朝鮮を隔てる4 0里ばかりなり。これかって彼が地界たるその疑いなきに似たり」   老中は、日本からの距離のほうが朝鮮からよりも4倍も遠いので、地理的 にも朝鮮領であることは疑いないと認識していました。そのため、武力を行使 して竹島(鬱陵島)を占領する案は考慮はしたものの、結局はボツにしたもの と思われます。ここで武力行使を考慮するなど、徳川「武家政権」の本領はい まだ健在なようです。   こうした判断のもとに、幕府は竹島(鬱陵島)への渡海を禁止しました。 その一方で松島(竹島=独島)についてはふれませんでしたが、竹島(鬱陵 島)が「無用の小島」なら、それと対になっている松島(竹島=独島)はいう に及ばずといったところでしょうか。   なお、松島(竹島=独島)が竹島(鬱陵島)と対になっているという意識 は前にも書きましたが、江戸時代にたびたび出版された代表的な地図、長久保 赤水の『日本輿地路程全図』などに如実に示されているとおりです。 (注1)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


内務省「竹島外一島」伺い書(2) Yahoo! 掲示板 #2375 2001年8月12日 http://messages.yahoo.co.jp/   半月城です。  「竹島一件」の概略がわかったところで、今回は内務省が太政官に提出した 伺い書中、竹島(鬱陵島)および外一島(竹島=独島)を放棄するという歴史 的な結論をだすにいたった内務省の伺い書「日本海内竹島外一島地籍編纂方 伺」附属文書を紹介します。これら文書の全体構造は下記のとおりです。  内務省「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」附属文書一覧 (1)島根県「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」本文、附属文書一式 (2)第一号「旧政府評議の主旨」 (3)第二号「訳官への達し書き」 (4)第三号「当該国(朝鮮)からの書簡」 (5)第四号「本邦回答および口上書」   附属文書のなかで今回紹介する「旧政府評議の主旨」は、江戸時代の幕府 が竹島(鬱陵島)を放棄するにいたった過程が要約されているので、竹島=独 島問題にとっては重要な資料です。   この文書は、江戸城で老中が対馬藩主の天龍院公(刑部大輔)と会見し、 竹島(鬱陵島)への渡海禁止決定を申し渡すことが中心になっています。   前回書いたように、幕府は鳥取藩が竹島(鬱陵島)は自藩領でないとした 申し出などを考慮して渡海禁止を決定したのですが、領土的野心をもっていた 交渉役の対馬藩は朝鮮側が竹島(鬱陵島)を放棄するよう求めていただけに幕 府とは思惑が食いちがっていました。そうした事情を考慮したうえで、幕府は 対馬藩に渡海禁止を強く申しわたし「竹島一件」に終止符をうちました。   この文書は内容的にも事実関係が難解ですが、ともかく現代語に訳してみ ました。どうもできばえはよくありません。まちがいがありましたらご指摘く ださい。 内務省「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」附属文書 (2)第一号「旧政府評議の主旨」現代語訳 「一号」   元禄九年(1696)正月二十八日   天龍院(宗義真)公が江戸城へおいとま乞いで登城されたおり、白書院の間で老中4人 が列座した席にて、(老中)戸田山城守様が竹島(欝陵島)の件で覚書一通を渡され、先 年来、伯耆米子の町人ふたりが竹島に行き漁をしたところ、朝鮮人もその島へ行き漁をし ており、日本人と入りまじるのは無益なので、今後は米子の町人の渡海を差し止めるとの 件を仰せつかった。   同年、これより前の正月九日、三沢吉左右衛門方より(対馬藩の)直右衛門に用があ るのでまかり出るようにとのことだったので参上したところ、(老中の)阿部豊後守様が 逢われ、じかに仰せられたのは、竹島の件で中間(ちゅうげん)衆の出羽守殿、右京大夫 殿にも内談を遂げられた。元来、竹島に関してはよくわからない。これまで伯耆から出か けて漁をして来たいきさつから松平伯耆守殿に尋ねたところ、因幡や伯耆に附属するとい うものでもないという。先年、米子町人ふたりが渡海したいとの申し出があったので、そ のときの領主・松平新太郎殿より案内があったように以前は渡海するよう新太郎殿へ奉書 をもって申しわたした。そのときは酒井雅楽頭殿 土井大炊頭殿 井上主計頭殿 永井信濃 守殿が連判したので、考えてみればおおかた台徳院(徳川秀忠)様の時代だったように思う。 先年といっても、年数は不明である。以上のような首尾で渡海し、漁をしたまでであって、 朝鮮の島を取ろうというものでもない。島には日本人は居住していない。島への道のりを たずねると、伯耆から160里(640km)ほど、朝鮮へは40里(160km)ほどあるので、した がって朝鮮国の蔚陵島であるようだ。それとともに、日本人が居住しているか、こちらへ 取るべき島であれば、いまさら渡しがたいのだが、そのような証拠もなく、こちらからは かまえて言いださないようにしたらいかがであろうか。または、対馬守から蔚陵島につい て書いた件は、その語を削除するようにとの返書を送られ、返事がないうちに対馬守が死 去したため、その返書は朝鮮に差し置かれたとのことである。それなら、刑部(宗義真) 殿より蔚陵島の件はもう言うべきではないか、またはともかく竹島の件についてひととお り刑部殿から書簡にても申し入れるべきとお考えなのか。以上の三通りの了見を考慮され、 よりくわしく仰せ聞かされたい。アワビ取りに行ったまでで無益な島であるところに、こ の件がこじれて年来の通交が絶えてもどんなものだろうか。ご威光あるいは武威をもって 談判におよぶのも筋違いといえるので事をすすめるわけにはいかない。   竹島の件は元はたしかにそうではない。例年は来なかった異国人が渡海するので、か さねて渡海しないように申し渡すよう(老中)土屋相模守殿から申し渡された。元バツと した事である。無益なことに重くかかわってもいかがなものか。宗刑部殿は律儀であり、 始めにこのように申し置いたところ、いまさらこのようにはいえないとの遠慮もあり得る と考えられる。そのことは少しもかまわない。我らがよきように取りはからう間、お考え のように遠慮なく仰せ聞かされるべきである。その方たちも知っており遠慮なく申すべき である。同じことを幾度もいうのはくどいようだが、異国へ申し入れることだけに、たび たび知ってのとおり申したが幾度と仰せ聞かせるようにとのことなのは存じている。こと は繁雑なので、すこし筋道をたてたうえでお上に申しあげるべきと考える。   以上のように申し渡した口上のおもむきは覚えのために書付を残すようにとのことで、 覚書をただちに渡されたので受取って拝見したところ、ただいまの意向があらまし書かれ ているように思える。そうであれば、以後日本人は竹島へ渡海してはいけないとの意向か と伺ったところ、いかにもそのとおりである、かさねて日本人は渡海しないようにとの意 向がなされたとのことなので、竹島の件はお返しなされるのでもないのであるのかと申 し上げたところ、その段もそのとおりである、元から取っていた島ではないので、返すと いう筋でもないのである。こちらからはかまえて言わない以前のことである。こちらより 間違ってもいわないことである。   以上のように仰せつかったのは趣とすこし食いちがっているが、ことを重くいうより は、すこしは食いちがっていても軽くすむようにいうのがよく、このあたりを承知される ようにとのことなので、じっくり落ち着いていうのである。帰って刑部大輔に申し聞かせ るよう申し上げて退座した。 「一号」  丙子 元禄九年正月二十八日 天龍院公 御登城御暇御拝領被遊候上 於御白書院御老中御四人御列座ニテ戸田 山城守様 竹島ノ儀ニ付御覺書一通御渡被成 先年以来 伯州米子ノ町人両人竹 島ヘ罷越致漁候處 朝鮮人モ彼島ヘ参致漁 日本人入交リ無益ノ事ニ候間 向後 米子ノ町人渡海ノ儀 被差留トノ御儀被仰渡候也 同是ヨリ前正月九日 三澤吉左衛門方ヨリ直右衛門御用ニ付罷出候様ニトノ 儀ニ付参上仕候處 豊後守様御逢被成 御直ニ被仰聞候ハ竹島ノ儀 中間衆出羽 守殿右京太夫殿ヘモ遂内談候  竹島元シカト不相知事ニ候 伯耆ヨリ渡リ漁イタシ来リ候由ニ付 松平伯耆守 殿ヘ相尋候處因幡伯耆ヘ附属ト申ニテモ無之候 米子町人両人先年ノ通リ船相 渡度ノ由 願出候故 其時ノ領主松平新太郎殿ヨリ按内有之如以前渡海仕候様ニ 新太郎殿ヘ以奉書申遣候 酒井雅楽頭殿 土井大炊頭殿 井上主計頭殿 永井信濃 守殿連判ニ候故 考見候ヘハ大形台徳院様御代ニテモ可有之哉ト存候 先年ト有 之候ヘトモ年數ハ不相知候  右ノ首尾ニテ罷渡リ 漁仕来候マテニテ朝鮮ノ島ヲ日本ヘ取候ト申ニテモ無 之 日本人居住不仕候 道程ノ儀相尋候ヘハ伯耆ヨリハ百六十里程有之 朝鮮ヘ ハ四十里程有之由ニ候 然ハ朝鮮國ノ蔚陵島ニテモ可有之候哉  夫トモニ日本人居住仕候カ此方ヘ取候島ニ候ハハ今更遣シカタキ事ニ候ヘト モ左様ノ証據等モ無之候間此方ヨリ構不申候様ニ被成如何可有之哉  又ハ對島守殿ヨリ蔚陵島ト書入候儀 差除返簡仕候様被仰遣 返事無之内對島 守殿死去ニ候故右ノ返簡彼國ヘ差置タル由ニ候左候ヘハ刑部殿ヨリ蔚陵島ノ儀 被仰越候ニ及ヒ申間敷カ 又ハ兎角竹島ノ儀ニ付 一通リ刑部殿ヨリ書翰ニテモ 可被差越ト思召候哉  右三様ノ御了簡被成思召寄委可被仰聞候 蚫取ニ参リ候迄ニテ無益島ニ候處 此儀ムスホホレ年来ノ通交絶申候モ如何ニ候 御威光或ハ武威ヲ以テ申勝ニイ タシ候テモ筋モナキ事申募リ候儀ハ不入事ニ候  竹島ノ儀元シカト不仕事ニ候 例年不参候 異国人罷渡候故 重テ不罷越候様 ニ被申渡候様ニト相模守殿ヨリ被申渡候元バットイタシタル事ニ候 無益ノ儀 ニ事オモクレ候テモ如何ニ存候 刑部殿ニハ御律儀ニ候間 始如此申置候處 今 更ケ様ニハ被申間敷トノ御遠慮モ可有之カト存候 其段ハ少モ不苦候 我等宜敷 様ニ了簡可仕候間 思召ノ通リ無遠慮可被仰聞候 其方達モ存寄リ無遠慮可被申 候 同シ事ヲ幾度モ申進候段クドキ様に存候エトモ異国ヘ申遣候事ニ候故 度々 存寄申遣候間思召寄幾度被仰聞候様ニト存候 御事繁内ニ候故今少シ筋道ヲモ 付候上ニテ達上聞可申ト存候  右申渡候口上ノ趣 其方覺ノ為ニ書付遣候トノ御事ニテ御覺書御直ニ御渡被 成候故 受取拝見仕候ト只今ノ御意ノ趣 有増落着申候様ニ奉存候 左候ハハ以 来日本人ハ彼島ヘ御渡被遊間敷トノ思召ニ候哉ト伺申候ヘハ 如何ニモ其通ニ 候 重テ日本人不罷渡候様ニト思召候由御意被成候故 竹島ノ儀返被遣候ト申手 ニ葉ニテモ無御坐候哉ト申上候ヘハ其段モ其通リニ候島ニテモ無之候上ハ返シ 候ト申筋ニテモ無之候此方ヨリ構不申以前ニ候 此方ヨリ誤リニテ候共不被申 事ニ候  右被仰遣候趣トハ少シクイ違ヒ候ヘトモ事オモクレ可申ヨリ少ハクヒ違候ト モ軽ク相濟申候方宜敷候間此段御了簡被成候様ニトノ御事故トクト落着申候罷 歸リ刑部大輔ヘ可申聞ヨシ申上候テ退坐仕ル   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


読売新聞の「半月城通信」紹介(1) ◇ 従軍慰安婦の真実追求 ◇ 読売新聞(大阪)夕刊 2001/08/14 <発信する仲間たち> ハン・ワールド <10>  http://osaka.yomiuri.co.jp/oh_net/nakama2.htm  「ハン・ワールド」で見落とせないのは、在日の研究者や団体による寄稿メ ニューの豊かさだ。中でも充実した内容で知られ、多くのホームページ紹介本 にも取り上げられているのが「半月城通信」。  「半月城」さんは関東在住、五十代の在日韓国人男性で、会社勤めのかたわ らパソコン通信やインターネットでかなり早くから韓国・朝鮮について発言し ていた。ハンドルネームは韓国の古都・慶州にある地名に由来する。  まだ自分でホームページを作るのが珍しかったころ、膨大な原稿を見た「ハ ン・ワールド」管理人の金明秀さんが公開を持ちかけ、九六年六月、それまで に発表された通信約百十本がまとめてこのサイトに登場した。その後も更新、 追加され、総数はこれまでに五百六十六本に上る。  最も多く取り上げたテーマは、従軍慰安婦。日本には「商行為だった」など としてその存在を否定する人もおり、半月城さんは当事者の証言のほか、政府 答弁や民間団体の調査資料、国連報告や学者の論文まで詳しく引用しながら実 態の究明に努めてきた。  むりやり慰安婦にさせられた女性が朝鮮半島ほかアジア各地にいたことは間 違いない、と半月城さん。「軍慰安所で何人の女を抱いたとか……そうしたこ とを堂々と書いた本が神田の古本屋で山積みにされていた」(ジャーナリスト 松井やよりさん)ともいう。しかし、通信では、自分の見方と、判明した事実 をはっきり区別した。 (以下省略) <写真説明>従軍慰安婦をテーマにした韓国ドキュメンタリー映画「ナヌムの 家2」の一場面   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 読売新聞の「半月城通信」紹介(2) ◇ 従軍慰安婦の真実追求 ◇ 読売新聞(大阪)夕刊 2001/08/21 <発信する仲間たち> ハン・ワールド <11> http://osaka.yomiuri.co.jp/oh_net/nakama2.htm  従軍慰安婦の問題が九〇年代に入って注目されたのは、それまで沈黙してい た当事者が急に発言し始めたからだ。そこに違和感を覚える人もいるが、半月 城さんは「長い沈黙の背後にある朝鮮民族特有の精神風土をまず理解してほし い」として、韓国・梨花女子大の研究者の言葉を引く。  「秀吉に侵略された時代、船で逃げようとした避難民の男性が遅れてきた女 性を助けようとしたが、彼女は手を握られるのを恥じて水中に消えた。戦後の 私でさえ、そんな逸話とともに学校で『貞操は命より大切』と教えられた」  厳格な儒教道徳の下にいた女性たちにとって、性を汚された痛みは尋常のも のではなかった。一族にそんな女性がいること自体、恥とみなされた。そうし た背景を知ることが、真実の解明にも両民族の新しい出会いにも結びつくとい う。  半月城さんは「私自身は、古代史も重視しています」と話し、「東大寺シ リーズ」などで考察を加えている。当時、日本は東アジア全体を視野に入れて 国づくりを進めており、朝鮮半島との関係は現代と比較しても示唆に富むから だ。  それによると、大宝律令は唐との交渉が三十年途絶え、代わりに朝鮮半島の 統一国家、新羅への日本からの派遣が十回、新羅使節の渡来三十二回という交 流の中で制定された。東大寺についても、建立の動機となる「国家仏教」の考 え方は新羅のもので、造営を担当した国中公麻呂は百済の技術者の孫だったと いう。  東大寺の勧進役で、奈良時代の仏教の布教に大きな功績を残した行基につい ても、田村圓澄氏らの著作を引いて新羅の高僧・元暁の影響を暗示している。 (以下省略) <写真説明>東大寺大仏殿(近畿大学の藤原助教授らが作る「奈良観光」の  ホームページから)   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


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