半月城通信
No.109(2005.4.2)

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    目次

  1. 週刊新潮の竹島=独島記事を批判する
  2. 竹島=独島問題、朝日新聞社への質問書
  3. 天皇騎馬民族説のその後
  4. 馬と騎馬民族の渡来
  5. 靖国神社の北関大捷碑
  6. 脱北者の現状、朝民研への批判
  7. 北朝鮮政策、制裁か経済協力か

  8. 週刊新潮の竹島=独島記事を批判する 2005.3.27 メーリングリスト[AML 0931]   半月城です。  『週刊新潮』には驚かされます。記事<「竹島」WARS!> において、小見出しに<竹島 は「日本の領土」という決定的証拠の「古文書」>と仰々しくあるので、話半分にしても さぞかし有力な証拠の古文書が出てきたのかなと期待していました。   ところがどうでしょうか。「決定的証拠」の古文書とは大谷家の「竹島渡海由来記 抜書控」のみでした。この文書は、漁猟のために竹島(今日の鬱陵島)へ渡海していた大 谷九右衛門が書いたもので、その内容は信頼性に欠け、とうてい「決定的証拠」になるよ うな代物ではありません。   実際、その内容ときたら、大谷家は江戸幕府から竹島を「拝領」したとか、さも領主 になったかのような虚言を弄しており、信憑性がありません。史実は、大谷家と村川家が 鳥取藩を通じて幕府から竹島(鬱陵島)への渡海免許をもらったにすぎません。   当時は町人が幕府から領地を拝領できるはずもありませんし、それを裏づける資料な どもちろんありません。そんな誇張に満ちた大谷家の文書を引用して同誌はこう記しまし た。        --------------------   『週刊新潮』(05.3.31)   江戸時代初期、日本では竹島を松島、鬱陵島を竹島と呼んでいた。「竹島渡海由来記 抜書控」という古文書は、元和4年(1618年)以降、伯耆藩(鳥取)の大谷・村川両氏が江 戸幕府から両島を拝領し、鮑、アシカ等の漁猟、木竹の伐採などを行っていたことが記さ れている。   この古文書に加え、1724年の古地図(伯耆藩差出 竹島図)などを収めた『島根県竹 島の新研究』という書物が昭和40年に刊行されていた。著者は元島根県職員の田村清三郎 氏で、昭和43年に54歳で他界した。        --------------------   日本の古文書に関する説明はたったこれだけです。そこには日本政府が日本領の根拠 にしている古文書すら登場しません。新潮社にとってもそれらの古文書は根拠が薄く、無 用の長物なのでしょうか。   ともかく「竹島渡海由来記 抜書控」のみを「決定的証拠」とセンセーショナルに書 く週刊誌の商業主義にはあきれるばかりです。   しかも、上記の記事は歴史にうとい人が書いたようで、文中に「伯耆藩」とあります が、江戸時代に伯耆国はあっても「伯耆藩」は存在しませんでした。これを見ても、書き 手は竹島=独島問題をほとんど理解していないのが赤裸々です。   記事はそんなレベルなので、編集者が「竹島渡海由来記 抜書控」の史料価値をわか らないのも無理はありません。その史料は領有権論争にはほとんど役立たず、そのため日 本政府はその史料を知っていても、かつて韓国との竹島=独島論争においてはそれを引用 すらしませんでした。とても「決定的証拠」にはなりえません。   その史料を、単に元禄時代までに大谷家などが松島(竹島=独島)で経済活動を行って いた証拠とするのならともかく、これは「固有領土」の証拠にはほど遠い、箸にも棒にも かからない古文書です。   つぎに、記事は書かれていることも重要ですが、何が書かれていないのかも時には重 要です。特に竹島=独島問題の場合、多くの人は自分の結論に不利になるような重要史料 を意図的に無視しがちです。  『週刊新潮』の記事もそうした観点から見る必要があります。記事は大谷家などの経済 活動がその後どうなったのか記していませんが、そこに竹島=独島問題の本質が隠されて います。記事がそれを書くと「日本の領土」説はあやしくなりそうなので、週刊誌では取 りあげなかったのでしょうか。それを具体的にみることにします。   元禄時代、鬱陵島で日朝の漁民は二度はち合わせしましたが、それが機になり、日朝 間で「竹島一件」とよばれる外交交渉が行われました。その経過を内藤正中氏はこう記し ました。        -------------------- 3.松島は因幡 伯耆附属には無御座候   無人島であると思い込んでいた竹島(鬱陵島)で、初めて朝鮮人に出会うのは 1692 年(元禄5)である。この年は53人が来ていたが、日本側は21人の少数であったので争う ことはしないで、朝鮮人が作っていた串鮑のほか、笠、網頭巾、こうじ味噌を持ち帰って 藩庁に届け出た。   江戸の藩邸から幕府に対処方法を紹介したところ、すでに朝鮮人が退去しているとす れば、「何の構もこれなく」という回答であった。   翌1693年、40人の朝鮮人が来ていた。そのなかの2人を捕えて米子に連行した。安龍 福と朴於屯の両名で、米子で2か月にわたる取調べの後、幕府の指示で長崎奉行所に送ら れ、対馬藩により帰国させた。ついでに幕府は、対馬藩に命じて竹島は日本領であるから 朝鮮人は出漁しないよう禁止措置をとることを朝鮮国に要請させた。   この時 対馬藩が朝鮮王朝に宛てた文書には「本国竹島」と記して、日本領土の島で あるという認識を示していた。また対馬藩の『朝鮮通交大紀』にも、1693年に朝鮮人が 「我隠州竹島に来り」と、竹島が鳥取藩に所属するということを表明している。   これに対する朝鮮側は、「倭人 所謂(いうところの)竹島、即 我国鬱陵島」と、一 島二名であるといって朝鮮領であることを主張した。  「竹島一件」といわれている日朝間の外交交渉は、釜山の倭館を舞台に3年間つづけら れた。そして1696年(元禄9)1月28日に、幕府が老中4名の連署でもって、「向後 竹島へ 渡航之儀 制禁 可申付旨 被仰出之候間」と、鳥取藩主に竹島渡航禁止令を達したのであ る。   この達は、たしかに竹島への渡海を禁止しただけである。このことから、幕府は竹島 の領有権を放棄したのではないという説もあるが、3年間にわたる日韓外交交渉が、竹島 の領有権をめぐるものであった以上、そうした説は無意味である。竹島が朝鮮領の鬱陵島 であることを幕府も認めることによって、竹島一件は決着したのである。   その場合、松島(現竹島)はどうであったかが残る。しかし、もともと松島について は、竹島に附属する島という理解で特段の取扱いはしてこなかった。そうである以上、松 島について言及する必要もなかったのである。   さらに幕府の決定に重大な影響を与えたと思われる鳥取藩の1695年(元禄8)12月25 日付の文書がある。これは、前日の24日に幕府老中 阿部豊後守からの質問に対する鳥取 藩の回答書である。   幕府から鳥取藩への質問は7か条で、その第1に「因州 伯州え付候 竹島はいつの此 より両国の附属候哉、先祖領地 被下候以前よりの儀 候哉」とあり、幕府としては、竹島 が因幡 伯耆を支配する池田藩に所属する島と考えていたことがわかる。したがって、い つから因伯の領地になったかと問いかけるのである。   これに対する鳥取藩の回答は、「竹島は因幡 伯耆附属には無御座候」であった。   さらに第7項には、「竹島の外 両国え附属の島 有之候哉、並是又 漁採に両国の者 参候哉」との質問がある。これに対する鳥取藩の回答では、「竹島 松島其外 両国え附属 の島 無御座候事」と、竹島とともに松島についても、因伯両国に附属するものでないこ とを明言した。   その結果、幕府は竹島が朝鮮領の鬱陵島であることを認めて、日本人の竹島渡海を禁 止することになるのであるが、ここでの決定について 30年後の1724年(享保9)に鳥取藩 がまとめた「竹島渡海禁止 並 渡海沿革」には、次のように記している。  ・・・(省略)・・・   なお、川上健三も竹島・松島が鳥取藩所属でないとしていることは「けだし当然」と いっている。ただしその理由とするところは、竹島渡海事業が官許の公務であり、鳥取藩 が直接関係していなかったためであるというが(川上前掲書,P84)、これは事実ではない。   渡海免許も渡海禁止も幕府から鳥取藩主に出されており、鳥取藩としても毎年の渡海 にあたって米や鉄砲の貸付をしていたのであるから、幕府直轄で鳥取藩は関係がなかった から、竹島・松島は因伯付属の島ではないと回答したのは「当然」とするわけにはゆかな い。   鳥取藩領と思われていた竹島、そして松島について、鳥取藩としては自らに附属する 島ではないといったのである。   領主なき土地はないのが封建社会の原則であるから、日本領土ではないといったこと になる。下條正男の近著『竹島は日韓どちらのものか』には、このことについての言及が ない(注1)。 原著注、川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(古今書院、1966年)        --------------------   下條正男氏の近著に鳥取藩の回答書が記されていないのは、けだし当然かも知れませ ん。その史料からは竹島(鬱陵島)、松島(竹島=独島)は日本の領土でないという結論が おのずから導かれるので、何としてでも竹島=独島を日本領にしたい一念の同氏は、それ を無視せざるをえなかったのでしょうか。   この鳥取藩の回答書こそ、竹島=独島が日本の領土ではないとする「決定的証拠」で はないでしょうか。  『週刊新潮』(05.3.31)P33 > 田村氏は遺作の中で韓国側の主張を次々と論破している。 先ず、于山島または三峯島と呼ばれていたのは竹島ではなく、鬱陵島だったと指摘してい る。それは『三国史記』(1145年)など多くの文献が于山国とは鬱陵島のことであり、三 峯島も鬱陵島の別称だと明記しているからだという。   15世紀、朝鮮の正史である『世宗実録』地理志に東海の島が江原道蔚珍県条にこう記 されました(注2)。  「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が 清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。一に鬱陵島ともいう。 その地の大きさは百里である(注3)」   朝鮮王朝はおおむね鬱陵島(武陵島)と于山島をこのように理解していたのですが、 古く日本の江戸時代以前は、東海の絶海にある島が本当に二島なのか、また于山島はどこ にあるのかなど、空島政策をとっていたことも手伝って、必ずしも十分に把握をしておら ず、于山島やうわさの三峯島探索などをめぐってしばしば混乱しました。   こうした問題をクリアーにしたのが「輿地志」(1656)やそれを引用した文献でした。 現在「輿地志」は現存しませんが、その引用文が下記のような史書に残されました。 (1)『疆界考』(1756)  「按ずるに 輿地志がいうには 一説に于山 鬱陵は 本一島 しかるに諸図志を考えるに 二島なり 一つはすなわちいわゆる松島にして けだし二島ともにこれ于山国なり(注4)」 (2)『東国文献備考』「輿地考」(1770)  「輿地志(1656)がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところ の松島なり(注5)」   このように、東海には鬱陵島と于山島の二島があり、于山島は日本でいう松島である との認識が次第に確立しましたが、その背景には上に述べたた安龍福の言動が大きな影響 を与えていました。   安は 1693年「竹島一件」の際、鬱陵島において日朝漁民が二度目にはち合わせした とき、同島から日本へ連行されましたが、その時、かれは竹島=独島を経て鳥取藩へ来ま した(注6)。   竹島=独島を実見し、それが日本でいう松島であることを理解している安龍福は、 1696年、今度はみずから鳥取藩へ抗議活動にやって来てきました。その時、かれは船に 「朝鬱両島 監税将臣 安同知 騎」と墨書した旗をかかげました。   これは日本では「朝鬱両島ハ 鬱陵島 日本ニテ是ヲ竹島ト称ス 子山島 日本ニテ松島 ト呼フ」と理解されました(注7)。子山島は于山島の書き間違いとされます。   安の訴えは竹島一件をめぐる日朝の外交交渉自体にほとんど影響を与えませんでした が、安の言動は結果的に今日の竹島=独島問題に大きな影響を与えました。それは、日本 でいう当時の竹島は朝鮮の鬱陵島であり、松島は于山島であり、ともに朝鮮領という認識 を日本および朝鮮政府にうえつけました。   朝鮮では、于山島は日本でいう松島であるとの認識が官撰書である『万機要覧』 (1808)、『増補文献備考』(1908)などに引き継がれました(注8)。   日本では「竹島一件」の結果は、明治時代になって再確認されました。内務省から鬱 陵島と竹島=独島の取り扱い伺が出されたとき、国家の最高機関たる太政官は、竹島外一 島、すなわち鬱陵島と竹島=独島は本邦に関係なしとする指令を1877年(明治10)に通達 しました(注9)。このとき、明治政府は竹島=独島を放棄したことになります。   こうした竹島=独島の認識は内務省や太政官のみならず、外務省でも同様でした。外 国の誤った地図の影響で外務省内に松島・竹島について島名の混乱が起きたとき、公信局 長の田辺太一は、松島が于山島であると正しく理解して下記のように記しました。  「聞ク松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ 蔚陵島ノ朝 鮮ニ属スルハ旧政府ノ時一葛藤ヲ生シ 文書往復ノ末 永ク証テ我有トセサルヲ約シ載テ両 国ノ史ニ在リ」   このように明治政府の関連機関は、竹島=独島は朝鮮領であると認識していましたが、 日露戦争が起きるや、帝国主義的施策が台頭しました。戦争でロシアの艦隊を監視するた め、竹島=独島に軍事目的の望楼を建てる必要が生じたからでした。   政府は、漁師・中井養三郎から出された「リヤンコ島(竹島=独島)貸下願」を機に、 竹島=独島を「無主地」であるとこじつけ、閣議で同島を竹島と命名し、ついに領土編入 を決定しました。   この時、朝鮮との事前協議など一切なく、また官報による公示もなく、こっそり行わ れました。公表は島根県告示という形をとりました。これでは、朝鮮が気づくのはとうて い無理なのはいうまでもありません。  『週刊新潮』(05.3.31)P33 > この(田村氏の)労作には日本が竹島=独島の領有に関し、国際法の要求する先占の 要件を満たしていることが詳細に記載されているのだ。   当時の国際法は「万国公法」と呼ばれ、帝国主義国家間の植民地獲得競争における ルールが基本であり、侵略戦争が公然と認められているなど理不尽なものでした。そうし た「狼どもの国際法」にたとえ適合していても、それは時には不当なものであり、いずれ 清算されなければなりません。   竹島の場合、たとえそうした「狼どもの国際法」に照らしても、竹島=独島の領土編 入は適法ではありません。慣習法である万国公法では領土先占の要件として、その地が 「無主地」であることが必要条件ですが、竹島=独島の場合、日本政府は朝鮮領であるこ とを知りながら、強いて「無主地」であると強弁して領土編入しました(注9)。これは 「狼どもの国際法」に照らしてすら違法な略奪といえます。   ここで注目すべきは、日本は竹島=独島を「無主地」とこじつけたことです。これは とりもなおさず、竹島=独島を「日本の固有領土」と考えていなかったことになるので特 筆に値します。上記のような歴史的経緯からすれば当然の帰結です。   それにもかかわらず、日本の外務省が「竹島は日本の固有領土」と繰りかえしている のはコッケイです。内藤氏も「固有領土論は根拠が薄いというのが実態(注10)」と批判 しました。  『週刊新潮』(05.3.31)P33 > 外交評論家の田久保忠衛氏はこう語る。  「田村氏の主張が正しいことは、日本が提議した国際司法裁判所への付託を韓国が拒否 した一事でも明らか。韓国には自国領だと言えるだけの証拠がないのです」  妄言は韓国の方だった。   何とも貧弱な論理展開です。外交評論家を自称する田久保氏は、竹島=独島に関する 韓国の主張をほとんど知らないようです。上にその一端を書いたように、韓国領だといえ る根拠はいくらでもあるし、また日本の「固有領土」ではないとする根拠もいくらでもあ ります。   韓国にすれば、自国領として確信のある竹島=独島をあえて裁判沙汰にして、両国国 民の民族的対立を先鋭化するような愚を避けようとするのが当然です。   長くなりましたが、以上のように『週刊新潮』の記事はあまりにも的はずれで我田引 水的であり、竹島=独島問題の本質にはまったくふれていません。真実を報道する使命を もつジャーナリズムの本義にはずれた、まったくお粗末な記事というしかありません。 (注1)内藤正中「竹島(独島)問題の問題点」『北東アジア文化研究』第20号,2004,P7、   鳥取短期大学発行 http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/ronbun/naitou04.pdf (注2)半月城通信<『世宗実録 地理志』と于山島> (注3)『世宗実録 地理志』 「于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見 新羅時稱于山國 一云鬱  陵島 地方百里」   原文には句読点やスペースなどは一切ありません。以下同様。 (注4)申景濬『旅菴全書』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島  「按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島 而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而蓋二島倶是  于山國也」 (注5)申景濬『増補文献備考』巻之三十一「輿地考十九」蔚珍古縣浦条  「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」 (注6)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号、国立国会図書館,1996 (注7)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000,P100 (注8)半月城通信<下條正男氏への批判、朝鮮史書改ざん説> (注9)半月城の論文「日本の竹島=独島放棄と領土編入」 (注10)東京新聞<対論『竹島』はどちらのもの> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    竹島=独島問題、朝日新聞社への質問書 朝日新聞 論説主幹、若宮啓文様   私は朝日新聞の一読者で、ハンドルネームを半月城と申します。   私は、かねてから貴紙の竹島=独島記事にすこし疑問をもっていますので、あえて質 問したいと思います。   先日、韓国の中央日報が読売新聞の記事「摩擦の歴史的背景」を批判して、記事「不 利な独島資料は知らん振り」を載せ、こう記しました。  <(読売新聞には)決定的な問題点がある。 日本政府と地方政府が二度にわたり、自 ら「日本の領土でない」と明らかにした文献には全く言及していなかった(注1)>   この批判ないし不満は、そのまま貴紙にも当てはまるように思えてなりません。とい うのも、貴紙は「竹島問題、意見対立 解決の道遠く」(3/28)と題した解説記事を載せ、 日本と韓国、双方の主張の対立点を簡潔にまとめておられましたが、そこではなぜか明治 政府が1877年に竹島(鬱陵島)および松島(竹島=独島)を放棄したことなどにはまったく ふれておられないからです。   この明治政府の決定こそ、韓国の学者が<「獨島が韓国領である」という真実を日本 側資料が再確認する決定的な資料>とまで言い切るほど重要な史実なのですが、そうした 主張や史実をなぜ報道しないのでしょうか?   その史実を韓国の雑誌『新東亜』2000.5月号は次のように記しました(注2)。        --------------------   「愼鏞廈教授の獨島百問百答」 Q43.しからば、当時の日本の最高機関である太政官(総理大臣府)は鬱陵島と  獨島をどの国の領土と判定したのか? ANS.太政官ではこれ(内務省からの伺書、半月城注)を検討し、鬱陵島と その外一島の獨島(松島)は内務省の判断のように、やはり日本とはなんら関 係がなく、朝鮮領と判定して最終結論をだした。   太政官(右大臣・岩倉具視)は内務省の伺書を受けて検討した後、調査局 長の起案にて 1877年3月20日「伺いの趣である竹島(鬱陵島)外一島(松 島)の件は本邦(日本)と関係がないと心得ること」という指令文を作成し、 これを最終決定した。   日本の最高国家機関である太政官は最終決定であるこの指令文を 1877年 3月29日、正式に内務省に送り、指令手続きを完了した。日本の内務省はこの 指令文を1877年4月29日付で島根県に送り、現地でもこの問題を完全に終結し た。   日本の明治政府の最高国家機関である太政官は 1877年3月29日付で「鬱 陵島と獨島は日本領とは関係ない地であり、朝鮮領土である」と最終決定した 指令文を再確認して公文書で内務省と島根県に送ったのである。   当時、鬱陵島・獨島が朝鮮領であり日本領ではないという 1877年3月29 日付の日本最高国家機関の最終決定は、それに先立つ徳川幕府将軍が1696年1 月28日にくだした決定と同様に画期的なものであった。   明治維新当時、日本の最高国家機関である太政官が鬱陵島、獨島は朝鮮領 であり日本領ではないという要旨の決定をくだし、内務省と島根県に公文書を 指令したことは「獨島が韓国領である」という真実を日本側資料が再確認する 決定的な資料であり、今日の日本政府がごり押しをして、獨島が日本領である という主張の虚構性をよく証明する決定的な日本の公文書であるといえる。        --------------------   韓国の学者はこう指摘するのですが、失礼ながら、そもそも貴紙は明治政府の太政官 が竹島(鬱陵島)および松島(竹島=独島)を「本邦関係無」として放棄した事実(注3)を ご存知でしょうか?   この事実は日本の国会図書館でも確認しており、同館で調査にあたった塚本孝氏はこ う結論づけました。        --------------------   以上要するに、島根県は“竹島(鬱陵島)”について内務省から照会を受 け、県としては地籍を編纂する方向で「竹島外一島」の地籍編纂方伺いを提出 し、内務省は“竹島”(鬱陵島)をめぐる元禄の記録に基づいて「竹島は本邦 無関係」であると考え、右大臣は「竹島外一島」が本邦無関係と指示した。   この結果、元禄の日朝交渉で松島(今日の竹島)が話題になったことはな く(前記3)、内務省が検討し右大臣への伺いに別紙として添付した日朝交渉 関係文書ももっぱら“竹島”(鬱陵島)に関するものであったにもかかわらず、 形式的には、松島(今日の竹島)もまた「本邦無関係」とされることになった のである(注4)。        --------------------   このような歴史的事実を紹介せずに、下記のような「夢想」文を書くのは、かえって 日本の右翼をいたずらに刺激するだけではないでしょうか。  「そこで思うのは、せめて日韓をがっちり固められないかということだ。   例えば竹島を日韓の共同管理にできればいいが、韓国が応じるとは思えない。ならば、 いっそのこと島を譲ってしまったらと夢想する(注5)」   この文を若宮氏は「国賊」呼ばわりを覚悟で書かれたようですが、貴紙はいたずらに ショービニストをあおることなく、韓国の最近の主張は何なのか、また、明治時期におけ る歴史的事実はどうであったのかなど、もっと真実を報道する姿勢に徹していただき、よ りよい記事を書かれるよう期待します。   貴紙が現時点における真実をありのままに報道することこそ、騒がしい竹島=独島問 題を沈静化し、困難な問題解決への一歩前進につながると確信し、質問書を提出しました。 ご多忙のこととは存じますが、拙文にご回答をいただければ多幸です。   なお、この質問書はメーリングリスト[AML]、および[zainichi]に公開するとともに、 私のホームページ「半月城通信」(文末)に転載することをつけ加えます。 (注1)中央日報「不利な独島史料は知らん振り」2005.3.28 (注2)「愼鏞廈教授の獨島百問百答 Q43」『新東亜』2000.5月号 (翻訳は半月城) (注3)半月城通信<明治時代における松島、竹島放棄> (注4)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号、国会図書館,1996, P5 (注5)若宮啓文<竹島と独島、これを「友情島」に・・・の夢想>  朝日新聞 「風考計」2005.3.27 敬具 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    天皇騎馬民族説のその後 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか」#11403 2005/ 2/20   半月城です。   chonkanchigaiyarodomoさん、Re:11416 >紀元前に出土される馬の骨はどのくらいの数なんですかね。 >あまり数が急激に増えていなければ、騎馬民族征服説は否定されるでしょう。   chonkanchigaiyarodomoさんは『魏志倭人伝』の記述すら知らないようです。倭人伝 にはこう書かれました。  「その地(倭)には牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない」   こうした動物は古墳時代に朝鮮半島からもたらされたものとみられます。以前、馬の 骨が縄文時代の遺跡から「発掘」されたとの論文もありましたが、現在は動物考古学から も否定されました。   馬にかぎらず、発掘された動物の骨にはフッ素が含まれるのですが、その濃度は地中 に埋まっている期間が長ければ長いほど高くなります。したがってフッ素濃度から骨の年 代がわかります。   結局、縄文時代の遺跡から出土した馬の骨は縄文時代のものでないことが明らかにな り、魏志倭人伝の信憑性が高まりました。   こうした研究もあって、今では馬や馬具は四世紀末から五世紀にかけて急速に広まっ たというのが定説になりました。この時代から発掘された馬具の特徴や出土地を橿原考古 学研究所はこう記しました。        --------------------   5世紀の古墳から出土する馬具の特徴は、5世紀後半までは鉄製の轡(くつわ)と鉄 板張りの輪鐙(わあぶみ)が中心であり、5世紀後半以降には杏葉(ぎょうよう)や轡の 鏡板の表面を金メッキした金具が加わる。   前者の馬具は、朝鮮半島南部の金海・釜山などの金官加耶のものに共通し、後者の馬 具は、大伽耶の中心地の高霊と陜川の出土品に類例があり、さらに百済の馬具にも共通し た特徴が見出せる。   このような馬具の故地は、それを付けていた馬と馬飼い集団の故郷に直接つながると 考えていいだろう。  ・・・   5世紀代の初期馬具をもつ古墳は、北部九州・瀬戸内・近畿から東海・中部・関東ま でがおもな分布地域であり、そのなかでも近畿は、河内の古市・百舌鳥古墳群の出土が目 立っている。   たとえば、鉄製の馬具は七観古墳と鞍塚古墳など、金メッキされた飾り金具は誉田丸 山古墳、長持山古墳、唐櫃山古墳など大王墓クラスの大型古墳に隣接する古墳に、最新式 の馬具が見られる(注1,P6)。        --------------------   初期の馬具は金官加耶から、5世紀後半以降の馬具は大伽耶あたりから倭へ滔々と 入って来たようですが、来たのは馬だけでなく「五世紀の日本列島に騎馬の風習をもつ 人々がたくさんやって来たのは確かである(注1,P6)」とされます。   そうした渡来人たちは、倭で馬を生産するために牧を営むのですが、牧は現在の大阪 から群馬県あたりまで広がりをみせているようで、橿原考古学研究所はこう記しました。        --------------------   河内平野の中央にひろがっていた河内湖、その東から生駒山西麓までの地域で、5世 紀中ごろから6世紀中ごろまで馬の牧と集落が営まれていた。   そのなかには大阪府四條畷市 奈良井遺跡のように、長期間にわたって殺馬祭祀が執 り行われていた祭場があり、さらにこの集落の墓地の一つ 清滝古墳群では、古墳に伴う 馬の墓も確認されている。   信濃では、長野県南部の飯田市域の伊那谷地域で、古墳に伴う馬の殉葬墓が集中する。 5世紀前半・中葉から後半の馬の墓があり、新井原4号土壙には、釜山 福泉洞23号墳の 出土品に似たf字型鏡板付轡と剣菱型杏葉を装着した馬が葬られ、径20mほどの茶柄山9 号墳では8頭の馬土壙が伴った。   伊那谷の牧の開始時期は、河内と同じかやや先行するようだが、河内の牧と一体的な 経営がなされたのだろう。つまり、この地域はのちの東山道のルート上にあり、そこで育 てられた馬を近畿まで運んで、河内の牧にいったん集めて、そこから必要に応じて馬を運 び出すことで、馬の需要の増加に対応したと考えられる。   それに加えて、同じ東山道沿いの群馬県西部でも、5・6世紀の馬の資料が知られて いる。なかでも剣崎長瀞西遺跡には5世紀後半代の古墳と集落があり、積石塚と馬土壙に 伴う環板轡、さらに韓式系土器が古墳と住居跡の両方に伴い、渡来人の馬飼集団に直接つ ながるのは間違いない。   このように馬と交通路の関係は、飼育された馬の移動とともに、馬の利用範囲の拡大 にも関わる問題であり、この頃から交通路の整備が進められたと考える手がかりにもなる (注1,P7)。        --------------------   馬は機動力があるだけにその普及も急速だったようで、4世紀末に九州に上陸した騎 馬民族は、5世紀には大阪から長野県や群馬県、茨城県まで疾風のように駆け抜けていっ たようです。それが軍事的にどう結びつくのか、そこに騎馬民族征服王朝説が成り立つの かどうかのカギがあります。   なお、長野県でとくに騎馬が盛んだったのは、そこには高句麗系の方墳が築かれてい たことから、あるいは森浩一氏がいうように渡来人の「疑似王国」がすでに成立していて、 そこに新たな騎馬民族が入り込んだからかも知れません。 (注1)橿原考古学研究所附属博物館『古墳時代の馬との出会い』2003


    馬と騎馬民族の渡来 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか」#11438 2005/ 2/27 22:16   半月城です。   samurai_03_japanさん、Re:11398 >*余談ですが他に、航海術、造船術の面からも「騎馬移動牧民諸族」が「渡海して」日 本列島に来るとは考えられません。   数十年前にすたれた説をいまだに後生大事にしているようです。この説について森浩 一氏がこう記しています。        --------------------   さすがにいまでは少なくなったが、江上氏の騎馬民族征服王朝説に異をとなえる人の なかには、騎馬民族は海を渡れるのかという人がいた。   しかし、中央アジア、ウズベク共和国のサマルカンドの壁画に立派な船が描かれてい たり、北魏の雲崗石窟にもたくさんの人が乗っている船の絵がある。北方系の民族が船を 使わなかったのではない。東北アジア系の騎馬民族も船の文化をあわせもっていたのであ る。   鴨緑江に限らず、東北アジアの地域の河は大河である。海で使われた船は、大河川の 船が応用されたものもあると私はみている(注1,P179)。        --------------------   グローバルな視野が狭いと、騎馬民族は海を渡れないなどと安易な結論をだしがちで すが、騎馬民族である高句麗が水軍を率いて百残(百済)を攻めたことは広開土王(好太 王)碑にも記されているくらいです。   好太王碑には漢文で「六年丙申(396)を以て、王、みずから水軍を率いて残国を討滅 す」と書かれています。これについて森浩一氏はこう解説しました。        --------------------   王とはいうまでもなく好太王で、そのときの都は鴨緑江近くの集安である。もともと 『魏志』で鴨緑江のことを大水といい表していることは先にみたが、集安も水陸交通の要 衝の地であった。したがって水軍とは鴨緑江の水軍と考えられ、王はみずから鴨緑江の水 軍を率いて西方の海へ出ていったと解釈される(注1,P178)。        --------------------   この時、強力な水軍をもつ騎馬民族の高句麗は朝鮮半島の南端まで席巻したのですが、 ちょうどそのころから加耶地方や九州に異変がはじまりました。まず、加耶地方の異変に ついて、申敬澈氏はこう語りました。        --------------------   加耶には基本的に二つの謎があったと思います。一つは今お話ししたように、金海で 三世紀末以降、北方文化をもつ墓がそれ以前の墓を破壊しながら出現するという謎、もう 一つは、やはり金海で五世紀前葉以降、支配者集団の墓が急に築造されなくなるという謎 です。   加耶の盟主になった金官加耶の支配勢力が五世紀の初め頃、なぜか急にいなくなった んですね。学問的には謎という言葉はよくないのですが、その謎を解かなければ、韓日古 代史の解明は難しくなるのではないかと思っています(注2,P111)。        --------------------   そのいなくなった加耶の支配者集団はどこへ行ったのでしょうか? ちょうどそれに 符合するかのように、日本では北九州に騎馬民族の痕跡が濃厚に残されました。   四世紀の末ないしは五世紀初とされる老司(ろうじ)古墳や、池の上古墳などから騎 馬民族の特徴であるクツワなどの馬具や武器、あるいは加耶系の陶質土器などが出土しま した。これらこそ騎馬民族がやってきた痕跡とみて江上波夫氏はこう記しました。        --------------------   筑紫の地からは、福岡市老司古墳群と同県甘木市池の上古墳群等が検出され、しかも それら古墳群出土の武器・馬具などには、従来 日本の後期古墳時代に特徴的なものとさ れていた三角形鉄板 鋲留(びょうどめ)の短甲や衝角式鉄冑(てっちゅう)などを含み、 またいわゆる加耶式陶質土器の認められたのです(注2,P33)。        --------------------   その後、騎馬文化は急速に近畿地方へ波及したようで、大阪の百舌鳥(もず)古墳群 にある伝履中天皇陵の培塚である七観古墳や滋賀県の新開(しんがい)古墳から加耶のも のと思われる木芯板張りのアブミなどの馬具が出土しました。いずれも五世紀初のものと みられます。   また、大阪南部の岸和田市の陶邑(すえむら)古窯址群では、五世紀中頃、加耶の土 器と模様や形が瓜二つの初期須恵器が焼かれました。おそらく、加耶地方からの渡来人が 焼いたものとみられます。   これ以外にも多くの事実をふまえて、江上氏はますます天皇騎馬民族説の確信を深め てこう記しました。        --------------------   私の騎馬民族 日本列島征服説は発表当時はもちろん、その後も長い間資料不足で証 明できないところがたくさんありました。   しかし私は、東北アジアの古代史の大勢から見て、また、全く性格の違う稲作農耕・ 神権政治的弥生ないし前記古墳文化と、騎馬軍事政権的 後期古墳文化の突然の重なり合 いから見て、私の仮説でミッシングリンク(欠けた連鎖)と見られるところは、やがて一 連のものとして、全面的に新発見資料によって充足され、私の騎馬民族説が仮説でなく、 真実なものとして実証される日の来ることを確信し、期待しつづけました。   すなわち中国東北地区の古代騎馬民族 夫余族発祥の地から、その辰王朝が日本征服 の拠点とした朝鮮半島南端の加羅(加耶)の地、さらにかれらが日本列島に最初に進寇し た北九州の筑紫の地、また大和朝廷の初現の地としての畿内の河内・大和の地において、 古代東北アジア系騎馬民族を特徴づけた武器・馬具・服飾その他の文物が陸続と現れて、 私の仮説は今や現実のものとなったのでした(注2,P32)。        --------------------   このように、江上氏はますます自説に自信を深めたのですが、しかし、専門家はどう も否定的です。大塚初重氏はこう発言しました。        --------------------   だいたい私の知っている日本の古墳時代の研究者で、四世紀の終わりから五世紀代に 入った頃、騎馬民族が日本列島に入ってきて前王朝を倒し新しい王朝をうち立てたという 江上説に、ただちに賛成する人はほとんどいないのではないかと思います。   しかし、たしかに日本の五世紀代の古墳からは古い形式の馬具が出てきますし、古墳 の内部構造も変わり、朝鮮半島の新しい文化、たとえば須恵器などの焼物の技術が九州だ けでなくて近畿地方にも滔々と入ってきています。   ですから申先生が加耶の地域で北方文化に対する新しい理解を示していることは、日 本の古代史にとっても大きな影響をもっていると思います(注2,112)。        --------------------   数年前、大塚氏はNHKの文化講演会「天皇騎馬民族論の展開」において、北九州の 古墳は騎馬民族の墓とみられるし、大阪の陶邑や河内あたりには大量の人がやって来ただ ろうという趣旨のことを語りましたが、それが天皇騎馬民族論とどう結びつくかについて は、結論は時期尚早であると述べていました。江上説を否定はしないものの、やや懐疑的 なようです。 (注1)森浩一『騎馬民族の道はるか』日本放送出版協会、1994 (注2)大塚初重、申敬澈・鈴木靖民他『幻の加耶と古代日本』文春文庫,1994 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    靖国神社の北関大捷碑 メーリングリスト[zainichi:28641] 2005.3.1   半月城です。   靖国神社の本殿脇に、加藤清正軍を打ち破った記念の「北関大捷碑」があるのをご存 知でしょうか?   じきに、この歴史的な碑が日本では見られなくなりそうです。朝鮮日報(2005.3.1)は 碑の写真とともに、下記のように伝えました。        -------------------- 日本に略奪された「北関大捷碑」が返還へ  日本に略奪され、東京靖国神社の境内の隅に放置されて来た北関大捷碑が、早ければ今 年の上半期中に返還される見通しだ。  日本で北関大捷碑返還運動を展開している日韓仏教福祉協会の柿沼洗心僧侶と韓日仏教 福祉協会の樵山僧侶、靖国神社のナンブ・トシアキ宮司は1日、靖国神社で初交渉を行い、 北関大捷碑の早期返還に原則的に合意した。  北関大捷碑は壬辰の乱(1592~1598)当時、義兵長だった鄭文孚(チョン・ムンブ)将軍 が咸境道で倭軍を撃破したことを記念し、1707年に咸境道・吉州(キルジュ)に建てたも ので、1905年の日露戦争当時、日本軍が碑石を掘り出し、東京の靖国神社に持って行った。  靖国神社のナンブ宮司はこの日、「北関大捷碑はわれわれのものではなく、一時預かっ ているものであるだけに、必ず返すというのが神社側の立場」とし、「韓国政府が早期返 還を日本政府に公式要請し、日本政府がこの要請を靖国に通告すれば、直ちに返還する」 と明らかにした。  現在、南北の仏教界は昨年12月、金剛山で北関大捷碑返還と関連した実務接触を行い、 共同努力することで合意しており、今月末頃、北京で再度会合し、北関大捷碑の返還記念 祝祭をソウルと平壌、吉州で開く方案と、返還後の処理をめぐる問題を話し合う予定だ。        --------------------   韓国で返還運動をすすめている「北関大捷碑還国汎民族運動本部」の関係者によれば、 碑を北朝鮮にもどすことで南北の話し合いが進行中とのことでした。南北交流の面からも 喜ばしいことです。かならずや成就することでしょう。   なお、この碑に関して私が10年前に書いた文が下記のようにありますので紹介します。 <半月城通信> 文禄・慶長の石碑(1)、北関大捷碑 文禄・慶長の石碑(2)、加藤清正 文禄・慶長の石碑(3)、安眠の場所 文禄・慶長の石碑(4)、義兵将 文禄・慶長の石碑(5)、靖国神社の宮司の話


    脱北者の現状、朝民研への批判 メーリングリスト[AML 0570] 2005.2.23   半月城です。ML[zainichi:28615] に書いた文を手直しして転載します。   私の書き込み「変質する脱北者支援」[AML 0258](注5)に対し、朝民研なるサイトが 批判しているようです(注1)。   かれらは、私が「脱北問題の根本的解決は、もちろん北朝鮮住民が貧困苦から抜けだ すことにあります」と書いたことに反発しているようですが、そのもととなる朝民研の現 状認識は下記に要約されるようです。  <石丸次郎氏は、以前は北朝鮮国内で食えなくなって中国に出てきた人が大半だったが 現在は自由を求めて脱出する例が多い、と指摘している(『北朝鮮難民』講談社現代新書)。 脱北者支援より前に脱北そのものが「変質」しているわけだ(注1)>   朝民研は北朝鮮に関する情報を熱心に収集している割には、最新の情報を活用してい ないようです。朝民研が唯一の根拠にしている石丸氏の『北朝鮮難民』は3年前の本です が、その内容の信ぴょう性はともかく、その本は少なくとも私への反論には古くて使える ものではありません。   というのも、私の書き込み「変質する脱北者支援」が問題にしているのは、ここ一、 二年の変化ですから。   かれらが期限切れの本を持ちだしたのは、とりもなおさず、情報が豊富なかれらが私 を批判するのに、ここ一、二年の適切な情報がどうしても見当たらないので、仕方なしに 三年も前の古い資料を引っぱりだして反論の体裁を糊塗したとみられます。   そうせざるを得なかったのは、最近の脱北者の動機は前回も書きましたが、朝日新聞 にも紹介されたように<多くが「餓え」や「生活苦」>とされており、政治的な理由によ る脱北は稀とされているので(注2)、反論の材料に事欠いたからでしょうか。   といっても、脱北者の中には 3年前の石丸氏が強調したように「自由を求めて脱出」 する反体制的な人ももちろんいるでしょうが、これは現時点では稀なケースになってし まった感があります。   反体制的な理由による国外脱出ですが、朝鮮半島全体の状況をいうと、北朝鮮だけで なく韓国でもそうした人は以前から跡を絶ちません。これは日本ではあまり知られていな いようですが、昨年も韓国から北朝鮮へ越北した人がいました。   韓国と北朝鮮は、半世紀をすぎた現在でもいまだに休戦状態のままであり、南であれ 北であれ、反体制的な思想の持ち主は根強く存在します。当然、そうした信念にもとづく 国外脱出は跡を絶ちませんが、そのようなレアケースをことさら強調すると問題の本質を 見失いかねせん。   北も南も政治的に反体制的な亡命者を特筆大書して宣伝する傾向にありますが、そん な状況にもかかわらず、昨年は韓国へ反体制的な理由で脱北したケースは稀にしか聞こえ てきませんでした。私の実感では昨年は数件あるかどうかといったところでしょうか。昨 年のデータをお持ちの方がおりましたら、お教えください。   一方、脱北の動機として他に武夫さんがいわれるように「親戚に会いたい」という理 由も項目としては考えられます。何しろ韓国人の1/5は離散家族問題をかかえていると いわれるだけに、肉親をさがすため脱北するケースも可能性としてはあります。   しかし、半世紀以上もお互いに音信不通で、生死もわからないような肉親をさがすた めに脱北するというのは、実際にはレアケースです。たまに何十年かぶりに劇的な再会を はたした脱北者もいましたが、奇跡に近いといえます。昨年はそうした話を寡聞にも耳に しませんでした。   ただし、すでに脱北した肉親をたよって、ブローカーの手引きで脱北する人はあとを 絶ちません。1か月前にもそうした人たちが北京日本人学校の塀を乗り越えました。これ もやはりブローカーがからんでいたとみられます(注3)。   ふたたび朝民研にもどりますが、かれらはこうしたブローカーのはたす役割や、ビジ ネス化している現状にはほとんど目を閉ざしているようです。かつての「企画脱北」で失 敗したNGOの側にたつと思われるかれらにしてみれば、ブローカーの役割を素直に認め がたいのかもしれません。朝民研はこう私を非難しました。  <彼は、一時期流行った強引な「企画脱北」は破綻した、脱北者支援は現在ではほとん どビジネス化している、と論じることにより、脱北者支援をうさんくさいものとして印象 づけている(注1)>   何しろNGOは中国の法律を犯し、危ない目に遭遇してまで得た企画脱北の成果が、 昨年は数的にはブローカーの数十分の一以下とあっては、かれらの実績そのものが過小評 価されかねないという危惧をもっているのかもしれません。   さらにかれらが手引きした人びとが、実は「自由を求めて脱出」したのではなく、単 に「食料を求めて脱出」したのであったということになれば、かれらの目標とする理念を もゆるがしかねないのかもしれません。   そのため、私が脱北の動機を韓国のメディアにもとづいてほとんどが「貧困苦からの 脱出」と伝える言動は許しがたいものに映ったことでしょう。そうした心情を下記で吐露 しているようです。  <もともと脱北者支援には関わっていないし賛成してもいない人物が「変質」を語るの は小ずるいと言うしかない(注1)>   私は脱北者の同胞として、脱北者問題の現状を正確に伝えて問題解決の一助になれば という思いから脱北支援の変質ぶりを紹介したのですが、これを「小ずるい」と中傷する にいたっては書き手の良識を疑うものです。   今や、韓国政府からも忌み嫌われるようになってしまったNGOの側に立つ人が、N GOが脱北問題をより困難な状況に追い込んでしまった状況を総括するどころか、自分た ち以外は脱北問題を語る資格がないと言わんばかりの主張は、あまりにも独善的で自己中 心主義的といわざるをえません。   さらに、NGOやブローカーが韓国へ送った脱北者ですが、かれらは必ずしも幸せな 生活を送っているわけではないことをつけ加えます。   今年、韓国mbcテレビ局は番組「南行のその後、脱北者は語る」を放映しましたが、 脱北者の多くは自分たちのみじめな姿をさらけだすのを嫌って取材拒否をしたり、取材に 怒りをあらわにしているくらいでした(注4)。   というのも、かれらは飢餓地獄からは抜けだしたものの、韓国社会へとけ込むのは容 易でないようで、相当な経済的・精神的苦痛を味わっているようです。   そうしたなか、mbc局は脱北一年になる朴氏を取材しました。かれは困難な就職活 動のかたわら、スーパーでアルバイトをしているのですが、生活環境の違いから多様な商 品の陳列や、電話注文品を棚から集める簡単な仕事すらままならないようです。   さらに深刻なのは、韓国社会のまなざしです。隣近所の人たちの目は温かくても、社 会は冷たいものです。朴氏が働くDマートの金社長はそうした雰囲気をこう語りました。        --------------------   世間の視線もすこし意識する必要がありますね。(脱北者を)嫌がる方もいますか ら・・・それを行動にあらわす人はいないのですが、仲間内で話すときに間接的に聞こえ てきます。家族を棄て、自分たちの体制を棄てて来たために・・・事実、私たち韓国側か らみた時、私たちの国を棄てて行った人たちとまったく同じではないですか。   もちろん、食べて生きるためでしょうが、そこで暮らすのが苦痛で、このように自分 たちの体制を棄てて・・・そのように否定的にみる見解もありますね(注4)。        --------------------   韓国では義務である兵役から逃れるために、計画的に国外脱出する男性が時々います が、こうした自国に背を向ける行動には相当厳しい目をそそぐ国柄です。その厳しい目が そのまま脱北者にも向けられているようです。   そうした冷たい視線や、生活環境や価値観の違い、言葉のなまりなどがかれらの就職 をはばみ、たとえ壁紙貼りなどの職業訓練を受けてもなかなか仕事にありつけないようで す。その結果、正規の職につけた人はわずか12%、アルバイトなどが18%、無職は42%と いうありさまであり、有職者の仕事はやはり3K職場が中心になっているようです。   したがって、かれらの収入は惨たんたるものです。月収100万ウォン(10万円)以下 が57%、100-150万ウォンが25%、150万ウォン以上はわずか18%にしかすぎません。韓 国は物価が安いとはいっても、かれらは爪に灯をともすような生活を送っているようです。   政府からの援助としては脱北者定着支援金として、入国時に住宅賃貸費用として750 万ウォン(75万円)、以後は3か月毎に 120万ウォンが5年間払われるようですが、その中 から脱北を手引きしたブローカーに 30万円ないしは 100万円を巻き上げられるので、か れらは支援金の支給期間内であってもどん底の生活を強いられているようです。   番組は「かれら北韓離脱住民は韓国で最極貧層にある」と紹介しましたが、韓国社会 で必死に生きようとする新住民が「最極貧層」から抜けだすことを心から願わざるにはい られません。   最後に、脱北者問題は、かれらを韓国へ送り込むことで解決するのではなく、それは かれらにとって新たな苦難の始まりであることを強調したいと思います。 (注1)朝鮮民主主義研究センター「脱北者支援にたいする小ずるい批判」 (注2)朝日新聞、04/08/22 「脱北者キソン君の『資本主義はつらいよ』(3) 脱北者についてのFAQ 」 Q1 なぜ脱北したの?  キソン君の場合は、ある理由で朝鮮労働党党員になれなかったことがきっかけで す。「北朝鮮では国民の7割近くが党員で、非党員に対しては明確な差別が存在す る」というのが、彼の言い分です。ただ、キソン君のようなケースはまれで、多くが 「餓え」や「生活苦」を挙げています。出身地域別の脱北者の割合では、咸境道出身 者が脱北者の9割近くを占めています。寒さが厳しいこと、土地がやせていること、 中朝・露朝国境線に接していることなどが、その理由と言われています。 (以下省略) (注3)東亜日報記事、JANUARY 24, 2005 「脱北者8人、北京の日本人学校に駆け込み 」 北朝鮮から脱出したとみられる男女8人が24日午前3時40分ごろ(現地時間)、中国 北京の朝陽にある日本人学校に駆け込み、韓国行きを求めた。駆け込んだのは9歳、11 歳の姉妹など女子7人と20代の男子1人。 彼らは同日、塀に準備しておいた鉄製のハシゴを掛け、鉄さくを越えた後、校内に駆け込 んだ。彼らは韓国に定着した家族の助けを受け、北朝鮮から脱出したもようだ。学校側の 連絡を受けた日本大使館は中国当局に同事実を通報し、駆け込んでからおよそ3時間後、 彼らを大使館内に移送し、事情聴取を進めている。 (以下省略) (注4)韓国MBCスペシャル「南行のその後、脱北者は語る」  日本ではスカパー331ch,KNTVで2005.2.20放映 (注5)半月城通信<変質する脱北者支援> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    北朝鮮政策、制裁か経済協力か 2005.3.13 メーリングリスト[AML 0762]   半月城です。   脱北問題ですが、脱北の動機は<多くが「餓え」や「生活苦」(注1)>とされている ので、問題の根本的解決は、前に書いたように北朝鮮住民がいかに貧困苦から抜けだすか にあります   その解決策として国際社会にできることは、力ずくでも北朝鮮の政権転覆をはかるこ とだと考える国や人がいるかも知れませんが、これは韓国にとって決して望ましいもので はありません。   政権転覆の道は論外とすると、残る方法は中国や韓国のように経済協力を模索し、北 朝鮮を飢餓地獄から引き上げるしかないと思われます。そこで今回は、韓国が進めている 経済協力、とくに開城工業団地における南北合作事業の現状を中心に書きたいと思います。   高麗時代の首都であった開城での南北合作事業の構想は4,5年前からスタートしま したが、最近やっと小さな果実がみのり始めたようです。昨年末、韓国ソウルのデパート で開城発のナベが売り出されましたが、物珍しさも手伝って飛ぶように売れました。じき に靴や衣類などもデパートで売り出されるようです。   ここまで来るのにだいぶ長い年月がかかったようですが、これは北朝鮮内の事情によ るものとされます。一般に北朝鮮は「金正日の独裁体制」なので、かれの一声ですべてが すぐ決まり実行されると思われがちですが、韓国MBC-TVによれば、金総書記は軍部を説得 するのに2年もかかったとされます(注2)。   それも無理はありません。開城は軍事境界線の板門店からわずか十数キロ、ソウルか ら車で検問さえなければ1時間半で行ける近さなので、休戦中の北朝鮮は開城を重装 備の軍事基地にしているに違いなく、そう簡単に公開できるものではありません。   開城工団の近さは、南北合作事業において最大のメリットになります。物流はもちろ んスムーズであり、電力なども韓国から容易に送れます。2,3日後には本格的な送電が 開始されますが、南北の電線が接続されるのは、何と57年ぶりの歴史的な事件です。その 意義を朝鮮日報紙はこう記しました。        --------------------   分断とともに北韓が切ってしまった電気を、今や南韓がふたたび連結するのは、南韓 の経済力で北韓同胞の苦痛をすこしでも和らげようとする思いやりである。   同時に開城工団をつうじ、北韓経済の管理者と勤労者に資本主義の生産方式を習わせ ようとする意味も含まれている。南韓の電気が単純なエネルギーではなく、南北がともに 協力して発展できる媒体になれるかどうかは、北韓当局にかかっているのである(注3)。        --------------------   このように、電力の供給ひとつを取りあげても必ず政治的な意味あいがついてまわる のですが、それだけに体制や思想が極端に違う国同士では、たとえ同じ民族であっても政 治的な影響を受けやすいものです。いや、同じ民族であるがゆえに、時に問題はより深刻 になりかねない危険をはらんでいるともいえます。   そうした中、北朝鮮の「核保有」発言は事業に一抹の影をおとしました。一応、韓国 は冷静に受止めているようで、朝鮮日報はこうつづけました。        --------------------   韓国は北韓の核保有宣言にもかかわらず、開城工団建設を予定どおり推進する立場で ある。それほど南北経済協力の意味と、それが南北関係進展におよぼす影響を重要に考え るためである。   しかし、北韓が核冒険を継続していけば、開城工団建設はもちろん北韓への送電も結 局は壁にぶつかるしかない。57年ぶりに連結された南北間の電気がふたたび切れることが ないよう、北韓は世界と韓半島の情勢を深く読み、賢明に対処しなければならない(注3)。        --------------------   開城工団は政治状況次第では荒波に翻弄されかねません。さらにアメリカの意向にも 左右されます。パックス アメリカーナの現状では、事業はすべてアメリカの許可ないし は了承が必要です。開城工団で光ファイバー部品生産工場の建設が遅れましたが、これは 部品が戦略物資に該当するということで、アメリカとの調整が必要だったとされるくらい です。   このようにアメリカの影響は絶大なのですが、それは逆にいえば、韓国がアメリカの 政策に影響をおよぼす要因にもなります。そうした影響力を東亜日報紙はウォール スト リート ジャーナルの報道としてこう伝えました。        --------------------   ブッシュ行政府は、韓国が開城工団事業のように対北経済協力に没頭するあおりを受 け、北韓の取り扱いに制約を受け、現実的な軍事手段をもてない状況であり、韓国と中国 は、アメリカが対北経済制裁を考慮することにも相当な拒否感をもっていると新聞(アジ アン ウォール ストリート ジャーナル)は伝えた(注4)。        --------------------   この記事をみると、どうやら開城工団は、アメリカが北朝鮮へ軍事侵攻するのをふせ ぐ抑止力になっている感があります。これはなまじ北朝鮮の核物質よりは抑止力として もっと効果的なようです。   同時に開城工団が経済制裁の歯止めにもなっているようですが、それほど開城工団は 規模も影響も効果も大きくなりつつあるようです。それを連合通信はこう報道しました。        --------------------   新聞(ウォール ストリート ジャーナル)は、開城工団が第一段階開発事業に300の 韓国企業が参加し、7万5千名の北韓労働者を雇用し、初めの9年間で96億ドルが北韓 経済に投入されるとみられると伝え、これは国際援助および貿易などとともに北韓の経済 難を緩和しうる要因であると分析した。   国際経済研究所のノーランド研究員は、毎年10億ー20億ドルの資金は北韓を延命する のに十分な規模であると分析した(注5)。        --------------------   開城工団は貧しい北朝鮮にとって相当な比重を占めるようです。現在、開城工団はモ デル事業段階として5万坪の敷地に韓国企業15社が入り、生産を開始した段階ですが、 第1段階では72万坪、最終的には2000万坪、およそ東京の山の手線の内側に匹敵す る広大な規模に発展する予定です。   この壮大な計画がうまくいけば、南北統一という民族の悲願達成のワンステップにな ることは疑いありません。韓国がアメリカを押しきってでも計画を進めたい理由のひとつ が、まさにそこにあります。もちろん、他に北朝鮮の安い賃金が魅力であることはいうま でもありません。   これまで韓国企業は激しい国際競争に打ち勝つため、安い労働力を求め、カルチャー ギャップを乗り越えて中国やベトナムなどに進出しましたが、開城工団の計画がうまくい くなら、わざわざそんな遠くへリスクを背負って進出する必要性が薄れます。   実際、開城工団での労賃は安く、月給は 5000-6000円とされています。これは日給 ではありません。信じられない安さです。おまけに勤労意欲が高く、しかも労働力は高水 準であり、北朝鮮では最高レベルの金策工業大学出身者が何人も応募してくるほどです (注2)。当然、良い製品が生まれそうです。   明治時代、官営の富岡紡績工場に士族の娘が女工として勤め、経験を積んだ後、諏訪 や岡谷など各地の紡績工場で女工の指導にあたりましたが、開城工団の勤労者もそうした 役割をはたすのかも知れません。テレビに映るかれらの表情は使命感にあふれているよう でした。   このような韓国の動向に反し、拉致問題で手足を縛られた日本はますます北朝鮮から 離れつつあるようです。北朝鮮への圧力と称して「船舶油濁損害賠償保障法」を実施し、 北朝鮮船を締めだし、北朝鮮との交易を縮小する方向に向かっているようです。   しかし、韓国ではこの効果を疑問視し、<かえってこうした「北朝鮮たたき」が、北 朝鮮に対する中国の影響力をさらに大きくする結果につながりかねない(注6)>と懸念を 示しました。東亜日報紙は中国の進出をこう記しました。        -------------------- ●近付く中国   2004年の北朝鮮の海外貿易に占める中国の割合は、50%を上回るものと推算さ れる。2000年までは24.7%だったことを考えると、5年間で2倍以上増加したこ とになる。   昨年の北朝鮮と中国の貿易規模は、前年に比べ35.4%増加しており、今後このよ うな上昇は続く見通しだ。   大韓貿易投資振興公社(KOTRA)は、投資契約を約束しているものまで含めると、 昨年中国の企業による対北朝鮮投資は2億ドル以上に上ると推定されるという報告書をま とめている。   2003年の中国の対北朝鮮投資が130万ドルに過ぎなかったことを考えると、昨 年の1年で北朝鮮への投資がいかに活発に行われていたか十分わかる。   最も目立つのは、中国による投資が飲食業やサービス業などから、徐々に戦略資源開 発や基幹市場の先取りといった形に変わっていることだ。   北朝鮮の中国への依存度が高くなるほど、北朝鮮に対する中国の影響力が増すのは避 けられない(注6)。        --------------------   中国の北朝鮮への進出は着実に進みつつあるようです。北朝鮮は中国寄りのいくつか の都市を解放することを決定したようで、朝鮮日報はこう伝えました。        --------------------   北朝鮮が2002年の7.1経済管理改善措置以後、経済活路を模索するため多様な努力を 傾けている中、最近中国との国境都市を開放することにし、準備作業を活発に進めている と伝えられた。  また、私有財産制が相当部分導入され、住宅の取り引きとともに農地の個人所有を許可 しており、個人の商行為も比較的自由になったと伝えられた。   中国北京の某北朝鮮消息筋は31日、「北朝鮮当局が中国との交易拡大に向け、両江 (ヤンガン)道・惠山(ヘサン)市を中心に4~5の都市の開放を準備中」とした。   この消息筋は「来年開放を目処に、現在『住民成分分析』を行っており、この作業が 終了すれば、これらの都市に両川(鴨緑江と豆満江)をつなぐ橋を建設、中国と自由に往 き来するようにするという計画」と付け加えた(注7)。        --------------------   中国が北朝鮮へ進出するのに反比例するかのように、日本は北朝鮮から遠ざかり、影 響力を低下させているようです。それを東亜日報紙は数字でこう示しました。        --------------------   2000年までは北朝鮮の海外貿易に占める日本と中国の割合がほぼ同様だったが、 5年間でその格差は約5.5倍にまで広がった。2004年の北朝鮮と日本の貿易規模が 2億5187億ドルに過ぎなかったのに対し、北朝鮮と中国の貿易規模は13億8521 億ドルに上っている。   これに、日本が対北朝鮮制裁まで加えると、北朝鮮は中国への依存をさらに強めるこ とになる。日本が現時点では清々とするかもしれないが、数年後になると北朝鮮への経済 的な影響力を失い、中国の顔色だけをうかがう立場になり得るということだ(注6)。        --------------------   将来、国連で常任理事国入りをめざす日本は、現時点で「清々とする」のに汲々とし、 中国や韓国とは逆の道を歩み、北朝鮮への影響力を低下しつつあるようです。そうした状 態で日本やアメリカが結束して北朝鮮に経済制裁を行ったところで、交易の主要国である 中国と韓国が同調しないかぎり、その影響力はたかが知れているようです。   経済制裁に中国と韓国の同調が絶望的な現状において、日本の「北朝鮮たたき」は核 問題の解決に障害になることはあっても、決してプラスにはならないと韓国ではみている ようです。   日本の単純な「北朝鮮たたき」は本当に日本にとってプラスなのかどうか、再検討す べき時期ではないかと思われます。私の意見としては、日本が北朝鮮に影響力をもちうる 好機は日朝交渉の再開であり、その交渉の出口段階で核問題や拉致問題を解決すべきでは ないかと思います。 (注1)朝日新聞、04/08/22 「脱北者キソン君の『資本主義はつらいよ』(3) 脱北者についてのFAQ 」 (注2)韓国MBC-TV「PD手帳、開城を行く」(韓国語)2005.2.15放映 (注3)朝鮮日報社説「57年ぶりに南側の電気は北側へ流れていくのだが」(韓国語)2005.3.10 (注4)東亜日報「AWSJ“韓国は北に思いがけない同盟”」(韓国語)2005.3.11 (注5)連合ニュース「対北、経済関連で韓米間の異見が拡大」(韓国語)2005.3.11 (注6)東亜日報社説「大きくなる中国、小さくなる日本」2005.3.2 (注7)朝鮮日報「北、中国との国境都市4~5か所を開放へ」2005.1.31 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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