半月城通信
No. 87

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  1. ハボマイ、シコタンと竹島=独島
  2. ハボマイ、竹島=独島のあいまい決着
  3. 李ラインの経緯
  4. 中央アジアの高麗人(1)
  5. 中央アジアの高麗人(2)
  6. 中央アジアの高麗人(3)
  7. 百済と馬韓、北九州
  8. 倭族の渡来
  9. 吉野ヶ里遺跡と朝鮮
  10. 「倭(やまと)という人名
  11. 「倭」姓と倭漢(やまとのあや)


ハボマイ、シコタンと竹島=独島 Lycos 掲示板167「日本の領土問題」(閉鎖)#57 2002年1月3日   1946年のGHQ指令 SCAPIN 677号によれば、ハボマイ諸島、シコタン島 は千島(Kurile)列島に含まれないと解釈されるので、同島はクナシリ、エトロ フとちがってサンフランシスコ平和条約で日本が放棄した千島列島に含まれな いことになります。   その一方、平和条約では同島について一言半句の記述もありませんでした。 したがって、同島を暫定的に日本の統治から切り離した SCAPIN 677号は否定 も肯定もされないままになりました。連合国はそうせざるを得なかったのでし ょうが、これが現在に問題を引きずることになりました。   日本の外務省がこれをどう考えているかはかならずしも明らかではないよ うで、竹島=独島のケースから推定するしかないようです。竹島=独島もハボ マイ・シコタンと同じように1946年、SCAPIN 677号で暫定的に日本の統治から 切り離され、同じようにサンフランシスコ条約ではなんらの規定もされません でした。   このように戦後に関するかぎり、竹島=独島は国際的にハボマイ、シコタ ンと同じ境遇におかれているのですが、その法的解釈を外務省条約局長の下田 氏は 53年9月の国会でこう説明しました。  「平和条約が竹島=独島に触れていないのは、竹島が日本領でないからでは ない。平和条約では、日本から剥奪する領土だけを書くのが当然で、書かない 限り日本に残る。もし平和条約に明にされている鬱陵島よりもっと日本に近い 竹島を奪うならば、正に平和条約に特記すべきである(注1)」   SCAPIN以来の類似した境遇から、この答弁にある竹島をハボマイ、シコタ ンに、鬱陵島をクナシリにそっくり置きかえることができるのではないかと思 われます。しかし、外務省はハボマイ、シコタンに関するかぎり、平和条約に 記載されなかったという理由で、同島がふたたび日本領になったとは主張して いないようです。すくなくとも同省発行の広報誌にはそのような記述はありま せん(注2)。   この違いはどこからくるのでしょうか? 50年前の竹島=独島に関する 答弁が誤りだったのでしょうか? あるいは事大主義のゆえか、相手国の大小 を見て言動を変えたり、あるいはダブルスタンダードを採用しているためでし ょうか? とにかく、終始一貫しない態度といえます。   同じようなちぐはぐは国際司法裁判所(ICJ)への対応にも見られます。 1954年9月、日本は竹島=独島問題を同裁判所に付託することを韓国に提案し ましたが、ハボマイ、シコタン問題では付託を提案していないようです。これ まで私は、韓国が竹島=独島の裁判に応じないことを非難する人たちにその理 由を聞いてまわりましたが、それらの答えは minami386さんの#53のようにほ とんどしどろもどろで、まともな返答は得られませんでした。   そのなかで比較的ましだった回答は「韓国の言い分ではないけれど、同島 は裁判に訴えるまでもなく日本領」というものでした。主張そのものは正しい のですが、付託を提案しないのは何らかの障害があるはずで、その説明がない かぎり回答にはなりません。   もし、日本が国際司法裁判所において竹島=独島問題で勝てる見込みなら、 ハボマイ・シコタンは竹島=独島とちがって相手国のロシアが歴史的に自国領 であるとの主張をしていないだけに楽勝はまちがいありません。それにもかか わらず日本が付託を提案しないのはなぜでしょうか? 理由はただひとつ、審 理で勝てる見込みがないからと思われます。   というのも、ハボマイ、シコタンを日本から切り離したSCAPIN 677号は現 在に至るまで明確な変更や否定がなされなかったので、従来のソ連・ロシアに よる統治という枠組みをくつがえすのは困難と思われます。それは、平和条約 への署名を拒否したソ連・ロシアが同条約の有効性を認めるはずがなく、まし てや SCAPIN 677号が同条約で終了したなどという主張にはとうてい同意しな いと思われるからです。   したがって、SCAPIN 677号に代わる新たな取り決めを結ばないかぎり、同 号に由来するロシアの同島占領は継続することになり、日本は国際法上におい て同島の統治権を主張できないと思われます。その新たな取り決めが 1956年 の日ソ共同宣言にうたわれた平和条約の締結ですが、東西冷戦の激化に応じて 日本がソ連の敵のアメリカサイドにたったため、締結見込みがつぶれたのは周 知のとおりです。   竹島=独島の場合も戦後の事情はまったく同じで、SCAPIN 677号に代わる 新たな取り決めを結ばないかぎり、SCAPIN 677号に由来する韓国の竹島=独島 統治は法的にも問題なく継続することになります。 (注1)田村清三郎『島根県竹島の新研究』(復刻版)島根県,1996 (注2)『われらの北方領土』2000年版、外務省国内広報課   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


ハボマイ、シコタン、竹島=独島のあいまい決着 Lycos 掲示板167「日本の領土問題」(閉鎖)#72 02/01/06   RE:60 >鬱陵島は、日本から剥奪すると明記しているのですか?   鬱陵島など韓国関係および北方領土について、1952年発効の平和条約はこ う規定しました(注1)。   サンフランシスコ平和条約、第2条(領土の放棄) (a)日本国は朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に 対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 (b)・・・ (c)日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結 果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての 権利、権原及び請求権を放棄する。   このようにハボマイ、シコタンおよび竹島=独島は一言も記述されません でした。それにもかかわらず日本や韓国は我田引水的な解釈をしがちですが、 条約に書いていない以上、そこから何らかの結論をだすのは無理といわざるを えません。   条約に書かれなかった理由ですが、私は連合国がそれらの島の帰属をわざ とあいまいにしたと考えています。   当時、アメリカは日本を独立後も自国の忠実な衛星国に仕立てたかったこ とでもあるし、アメリカとしては日本の主張を入れてそれらの島を日本領にし たかったのかも知れません。実際、アメリカは竹島=独島に関して韓国の領土 編入の要求を拒否したことが知られています(注2)。おそらくハボマイ、シ コタンも同じような事情ではなかったかと想像されます。   その一方で、もしこれらの島を日本の要求どおり日本に組み入れるとなる と SCAPIN 677号を改定することになりますが、そうなるとソ連や韓国の猛反 発は避けられません。   そのうえ、ソ連や韓国が平和条約の当事国ではない事情もあります。当事 国以外の国々の国益を明らかに害するような条項をそうした国々の了承なしに 平和条約に盛り込むことは、いくらアメリカといえどもできかねると思われま す。   こうした事情から、アメリカはそれらの島の帰属をわざとあいまいにした のではないかと思われます。 (注1)『われらの北方領土』2000年版、外務省国内広報課 (注2)高崎宗司『検証日韓会談』岩波新書,1996


李ラインの経緯 Lycos 掲示板167「日本の領土問題(閉鎖)」#73 02/01/06 RE:65, >どういう法律に基づいて、李ラインって出てきたのですか?   これはGHQ指令 SCAPIN 1033号「日本の漁業及び捕鯨業許可区域に関す る覚書」がもとになっています。1946年6月、GHQは漁業資源を保護するた め、上記指令、通称「マッカーサーライン」を設定しました。その背景ですが、 アメリカは当時から海洋資源を守るのに積極的でした。デジタル平凡社の百科 事典はこう記しています。  「1945年9月にアメリカの大統領トルーマンは海洋政策に関する二つの宣言 を発表した。その一つは,大陸棚に関する宣言で,アメリカの領海以遠の大陸 棚に存在する鉱物資源をアメリカの管轄権におくことを宣言したものである。 他の一つは,保存水域に関する宣言で,外国漁船の活動から漁業資源を保護す るために,アメリカ沿岸に隣接する公海に保存水域を設定する権利を主張した ものであった」   こうした政策のもとに、GHQは優秀な日本漁船による乱獲を警戒して SCAPIN指令を発したようでした。しかし極度な食糧難の時代とあって、日本漁 船の侵犯はあとを絶たず、1951年4月だけでも拿捕(だほ)された漁船は27 隻、抑留された漁船員は330人にも達しました(注)。こうした状況で、も しサンフランシスコ条約を機にマッカーサーラインが廃止されたらどうなるで しょうか? 日本漁船の乱獲は火を見るより明らかでした。   これに危機感をもったのか、韓国の李承晩大統領は 1952年1月「大韓民 国隣接海洋の主権に対する大統領の宣言」を発し、マッカーサーラインをやや 広げた「平和線」、通称「李ライン」を設定しました。   しかし、GHQの指令には従順だった日本も相手が韓国になるやとたんに 高姿勢になり、日韓はことあるごとに不幸な摩擦を引きおこしました。 (注)高崎宗司『検証日韓会談』岩波新書,1996


中央アジアの高麗人1「奪われし“故郷”沿海州」 [zainichi:21274] 2002年2月9日   戦前、ソ連の沿海州から中央アジアへ強制移住させられた朝鮮人の歴史は、 在日韓国・朝鮮人のそれと似た部分があるだけに、私は NHKのTV番組「ETV特 集、中央アジア朝鮮人の20世紀」を時にはシンパシーをもって見ました。   この番組は昨年いつ放送されたのか定かではありませんが、村井さんのご 要望に応えるべく、ビデオを見て、その内容を3回に分け紹介します。 (1)第1回放送「奪われし“故郷”沿海州」   番組は、コリアンの血が1/4流れているという小説家の鷺沢萌さんが、 ソウル留学時代に興味をもった中央アジアの自称「高麗人」の歴史を紹介する という形式でした。第1回目は、現在「沿海州高麗人再生基金」の世話役をし ているキム・テルミルさんのルーツ紹介から始まりました。   かれの祖父は、李王朝末期の飢饉や日清戦争で荒廃した国土から逃れるた め、1894年、朝鮮からソ連のウラジオストックへ渡りました。その地に移住し たものの、かれら一世たちはろくな定職もなく、その日暮らしの貧しい生活を 余儀なくされました。それだけにかれらは将来の望みを子どもに託し、ひたす ら子どもの教育のため必死で働きました。在日韓国・朝鮮人にもよく見られた パターンです。   祖父の期待の星であったキム・アファナシーは、1917年のロシア革命に共 感するや、革命をつぶそうとシベリアに出兵した日本に対し反日闘争に立ち上 がりました。もともと沿海州は、かつて独立軍の安重根義士が1909年に伊藤博 文を暗殺するなど朝鮮人の抗日伝統が息づいていましたが、そこでアファナ シーは新聞「学生の声」を発刊したり、1919年朝鮮全土の3.1独立運動に連 帯し抗議行動を組織したり、活発な活動をくり広げました。   しかし、圧倒的な日本軍の弾圧により運動は頓挫し、アファナシーは追放 の身となりました。当時の日本軍は朝鮮人部落を襲撃するほど沿海州でも猛威 をふるっていました。   日本軍の撤退後、アファナシーは革命に邁進し、コルホーズすなわち農業 集団化で業績をあげ、1933年にはソ連最高の栄誉であるレーニン勲章をもらい ました。かれは息子の名前にドイツ革命家テルマーにちなんでテルミルと名づ けるほど熱誠的な党員でした。   そうした活動が認められ、1934年の党大会には極東代表として参加するほ どの幹部に成長しました。しかし、このように共産党に身も心も捧げたかれに 突然魔の手が伸びました。36年、理由もわからず突然「黒いカラス」とよばれ た一団に連行されました。   当時、ドイツや日本の脅威下にあったソ連ではスターリンが実権を掌握す るや粛正の嵐が吹きました。番組では北海道大学の原暉之教授が、極東の人口 250万人のうち25万人が逮捕されたと解説していました。   そうした中で、これは40年後にわかったことですが、1936年、アファナ シーは「日本のスパイ」という汚名で銃殺されました。おそらく濡れ衣だった のでしょう。   これを機に、スターリンは「日本のスパイ」を阻止するため、沿海州に住 む17万人の全朝鮮系住民を強制移住させることを決定し、37年に実行しまし た。   戦時中、日系アメリカ人はやはりスパイ防止のため、サンフランシスコか らネバダ砂漠の収容所へ強制移住されましたが、朝鮮系住民は気候も風土もま ったく異なる中央アジアのカザフスタンやウズベキスタンへ送られました。   その混乱は目に見えるようです。突然、駅に集合するよう命じられ、貨物 列車に乗せられ、1か月かかって6000キロもへだたった未開の草原へ放り出さ れたのですから、その辛酸苦労たるや筆舌につくしがたいものがあったろうと 思われます。   そのうえ、日本人でもないのに「日本のスパイ」の可能性を疑われるなん て、どれほど悔しかったことでしょうか。かれらにとって日本とは、自分のア イデンティティが朝鮮人であれソ連人であれ、いずれにしても打倒すべき敵で あるのに、よりによって敵のスパイの可能性を疑われるなんてどれほどやりき れなかったことでしょうか。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


中央アジアの高麗人2「強いられた新天地」 [zainichi:21289] 2002年2月10日   半月城です。今回は NHKTV,ETV特集「シリーズ・流転、中央アジア朝鮮人 の20世紀」の第2回放送「強いられた新天地」を紹介します。   1937年、日本のスパイを防止するため、ソ連はシベリアの沿海州に住む朝 鮮系住民17万人をカザフスタンなどに強制移住させましたが、これに日本帝 国政府が抗議していたとは意外でした。   その理由は東大の和田春樹教授によれば、日本臣民であるかれらを勝手に 移住するのはけしからんとのことです。かつて、シベリアでは反革命のために 軍事侵攻を行ったり、傀儡満州国では満州族,朝鮮族などの「五族協和」をか かげてきた日本帝国にしてみれば、沿海州に住む朝鮮族も皇国臣民であり、か れらを見捨てられないという意識だったのでしょうか。   日本帝国が憂慮するくらい、中央アジアへの強制移住は苛酷なものでした。 14歳の時、ウシュベト駅で貨物列車から降ろされたユン・セルゲイさんの回 想を聞くと、かれらはよくも生き延びられたと感心せざるをえません。   かれらは、草原で風を避け丘のふもとに「たて穴」を堀り、日干しレンガ を作り、ほったて小屋を建てることからスタートしました。   開墾は、農機具がないため手作業で行われたというから、そのすさまじさ が伝わってくるようです。おそらく、最初の年は草の根などを食べて飢えをし のいだことでしょう。初めて収穫した米は「あまかった」と感慨深げに語るこ とから当時の生活がしのばれます。   それほどの艱難辛苦を強いたソ連政府をかれらはどう考えていたのでしょ うか。少しは反発もあったことでしょう。しかし、和田氏によれば、多くの人 はそうしたうらみつらみもさることながら、どうしてこういう衝撃的なことに なってしまったのかという問いかけから、やがて自分たちの地位向上のためソ 連に忠誠をささげる方向へと向かっていったようです。その実践として、移住 から四年後、ドイツがソ連に突如侵略したときにユン・セルゲイさんたちは軍 に志願しました。   このメンタリティは、戦時中アメリカで強制収容された日系人と共通する ものがあったようです。この点、多くの在日韓国・朝鮮人とは対照的です。こ の違いはどこからくるのでしょうか・・・。志願に正義や大義の名分を見つけ られるかどうかの違いでしょうか。また、もし自分がそうした立場におかれた らどうしただろうかなどと思わず考えてしまいました。   一方、かれらの忠誠心に疑問符をつけているソ連政府は、志願したかれら を軍ではなく労働戦線という名の炭坑などへ送りました。食糧難の時代、とき には一日300グラムのパンで一日20時間近く働いたようでした。その結果、 信じがたいことに半数近くが死んだとのことでした。   戦後、労働戦線からもどったユン・セルゲイさんはひたすら働いて働いて 働いたようでした。そのかたわら、9人の子どもを大学に通わせたというから、 子どもの教育にかける熱意たるや尋常ではありません。働き者のユン・セルゲ イさんは、集団農場化の功績が報われ、最高のレーニン勲章を受章しました。   セルゲイさんたちや私たちの一世など、ディアスポラ(民族離散)を経験 した人たちのそれぞれの過去はドラマそのものといえます。   さて、中央アジアの高麗人には別なドラマもありました。「高麗民族の故 郷」への貢献です。1947年、ソ連は北朝鮮の建国を応援するため中央アジアの 高麗人400人を派遣しました。   派遣されたかれらは、副首相や次官などの政府高官あるいは金日成大学の 教授などの要職につき活躍しました。かわったところでは、リ・セルゲイさん の父親は金日成の主治医兼保健省次官をつとめました。そうした関係からリ・ セルゲイさんは、沿海州生まれの金正日・現総書記とは幼友達で、ロシア語で よくケンカもしたとのことでした。   しかし、高麗人の「故郷」への貢献も長くはつづきませんでした。スター リンが死亡し、フルシチョフの時代になると朝ソ関係が冷却し、朝鮮語を十分 話せない特権階級の高麗人に対する弾圧が始まったと和田氏は解説しました。 政府内における路線の違いなどが表面化したのでしょうか、50年代後半、高 麗人は次々に「帰国」しました。その後、かれらの帰国子女組はカザフスタン で固い絆で結ばれているようです。   現在、中央アジアには30万人の自称「高麗人」が住んでいますが、かれ らの祖国はどこなのか、故郷はどこなのかといった問題は微妙なものがありま す。民族問題は共産主義により止揚されるという考えの体制下にあって、祖国 などという言葉は危険でした。祖国と言うとき、偏狭な民族主義者にまちがえ られないように、かならずまくらことばをつけて「ソビエト祖国」などと表現 する必要があったとのことでした。   また和田氏によれば、かれら自身ソ連人に成りきるように努力し、民族の 記憶や言葉を封印してきたとのことでした。そのため、ペレストロイカの時代 になるまで、家庭内においてすら強制移住の歴史は語られなかったようでした。 そうすることがむしろ子どもたちの幸福になるのだと信じてきたようです。   その結果、大学助教授のメン・ドミートリーさんも大人になるまで強制移 住の歴史をしらず、高麗人はずっと昔から中央アジアに住んでいたとばかり思 っていたようでした。   1990年、ソ連は韓国と国交を結び、お互いの交流が深まりましたが、高麗 人は民族文化の違いに今さらのように気づかされているようで、ドミートリー さんがこう語っていたのが印象的でした。  「私たち中央アジアの高麗人たちは、北朝鮮の人たちとも韓国の人たちとも 異なるのです。違う社会風土に生きて、違う体験を重ねてきたのだからそれは 当然なのかも知れません。中央アジアの高麗人は、民族性もメンタリティも言 葉も文化も朝鮮半島からもう遠く離れたものになってしまった。私にはそう思 えるのです」   中央アジアは朝鮮半島から遠く隔たっている分だけ交流密度が薄く、さら に共産主義体制下で民族離脱のベクトルも加わり、在日韓国・朝鮮人の場合と はすこし事情が違うようです。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


中央アジアの高麗人 (3) [zainichi:21298] 2002年2月11日   半月城です。今回は NHKTV,ETV特集「シリーズ・流転、中央アジア朝鮮人 の20世紀」の第3回放送「まだ見ぬ父祖の地へ」を紹介します。ただし、内 容には無意識の歪曲がすこしありそうなのでご了承ください。   中央アジアの高麗人は、はじめ朝鮮からシベリア沿海州へ、ついで中央ア ジアへと移動してきた人たちですが、今回の解説者である東大の姜尚中教授に よれば、このような移動は決して特異なことではないとのことでした。   世界史的に20世紀は移動の歴史であり、戦争や内乱、動乱などで移動は 頻繁に行われました。日本人にしても帝国の拡張にともない、アジア各地に進 出、移動したのは記憶に新しいところです。   高麗人の場合、1世とことなり二世・三世の代になって今度は自分たちの 意志で父祖の地である沿海州に移住しようという気運が高まりました。すでに 2万人が移住したといわれていますが、その動機はカザフスタンとウズベキス タンとでは事情がすこし異なるようです。   カザフスタンのある村に住む独身のリ・ニカンドルさん(27)は、家族の反 対をおしきって沿海州への単身移住を決めました。村にいても食えることは食 えるのですが、将来性を考えて見切りをつけました。   1991年のソ連崩壊および独立以来、カザフスタンにも市場経済のひずみが あらわれ、都市と農村の格差はどんどん広がるばかりでした。インターネット の時代になっても村には電話さえないありさまです。さらにここ6年来、経済 悪化により現金収入は途絶え、すべてが現物支給になりました。おまけに好転 の兆しがみえず八方ふさがりの状態です。   そうかといって、もし沿海州に移住したとしても、そこでの将来は不透明 です。生活はあるいはもっと苦しくなるかもしれません。それにもかかわらず 静かな移住ブームが起きました。   同じ村のパク・サーシャさんは家を売り、一家あげて移住を決めました。 母親は、独ソ開戦を機に強制移住させられたドイツ系の2世ですが、住みなれ た地を離れるのをしぶっていました。しかし、結局は子どもに従うことになり ました。   サーシャさんは、沿海州では農場で働くことになっています。一日12時 間労働で月給は8千円です。日給ではありません。これで家族4、5人生活し なければなりません。今よりよくなるのかどうか疑問です。村に残った場合、 けっして生活できないわけではありませんが、それでも子どもや孫の将来のた め、移住を決めました。   話は飛びますが、こうした物語は日本赤十字の北朝鮮帰還事業を思いおこ させます。帰国した人たちは、日本で決して食えないわけではありませんでし た。その心情ですが、楽園かどうかは疑問だけれども、民族蔑視があり得ない 父祖の地に移住すればあるいは今より良くなるかも知れない、また、子どもの 将来にも希望がもてるかもしれない、さらに、そこで祖国のために何か貢献で きるかもしれない、そうした夢をもって9万人の同胞が戻れぬことを承知のう え、自分の意志で北朝鮮へ移住しました。   サーシャさんたちも似たような心境ではないかと想像されます。ペレスト ロイカ(情報公開)以来、日常生活が次第に悪化し、このまま将来に希望がも てないなら、いっそのこと父祖の地に活路を切り開こう、そんな思いからか、 その村から一度に30人もの高麗人が沿海州へ移住しました。   一般にペレストロイカというと、レポーターの鷺沢萌さんにかぎらず肯定 的なものにとらえがちですが、こうした西側の観点からはその中にいる人たち に何が起こったのか、それがその人たちに何をもたらしたのかというミクロな 観点が抜け落ちがちです。   姜氏はそう見たうえで、状況を政治学者としてこう分析しました。ソ連時 代は秩序がそれなりに安定していたので、人々は状況を運命として受けとめて いた。それが社会主義の崩壊により、人々は相対的な自由を得たことで運命を 自分で切り開けるようになった。反面、そのために時代はより不確実性へと向 かっていったが、いまやそれを誰も止められないのである。   運命を切り開こうとしているのは、ウズベキスタンの高麗人も同様です。 第2の都会ウスリースクに住むキム・リュドミラさんは公務員である夫と二人 でこれまでの安定した生活を捨て沿海州に移住しようとしています。   ここでは1989年の言語法により、公用語がロシア語からウズベク語になり 地殻変動がおきました。当初はあまり深刻にとらえていなかったのですが、こ の法律以来、社会は人口の7割を占めるウズベク人中心になりつつあり、ロシ ア語中心の高麗人18万人にとっては住みづらい社会になりつつあるようです。   共産主義体制下では、誰がロシア人で誰がウズベク人かは問題にならなか ったし、誰も気にとめなかったのですが、ペレストロイカ以来、民族というパ ンドラの箱が開かれ、バルカン半島同様ウズベキスタンもマイノーリティにと って安住の地ではなくなったようです。   これは姜氏によれば、いままで亀の甲羅のように圧縮され潜在化していた アイデンティティが時間軸で現れ、それが自分たちの日常に迫ってきた現象で あるとのことでした。   その結果、民族差別の動きが芽を出し、二世のリュドミラさんのように、 ここは我々の住む所ではないという意識に発展していったようです。   しかし一世ならともかく、二世がなぜ見ず知らずの父祖の地、沿海州を目 指すのか、その心理は複雑なようです。それを二世である姜氏は自分自身の境 遇に重ね合わせてこう語りました。  「僕も二世ですけれども、二世というのはある意味で非常に、何かこう一世 の記憶のある部分が身体化されている世代なんです。で、だんだん歳をとって いくと、自分もそういう面があるかも知れませんけれども、なにかこう先祖帰 りみたいな意識がでてきてしまうんです。それは自分が子どもを育て、ま、僕 にはもちろん孫はいなけれども、子どもを育て孫ができて、なにか自分の人生 の終わりが少しずつ見えてくるとき、かなり一世に近いような何かが記憶とし てかなり蘇る部分がままあるんです。ましてや、あういう状況ですから、それ がすこしこう、記憶というのが大きいのではないかと僕は思うんです」   鋭利な分析が持ち味の姜氏にしてはすこし歯切れが悪いのですが、姜氏が このような感性をもっているとは意外でした。二世の深層心理を先祖帰りのメ ンタリティに結びつける姜氏の分析は、的確なような気もするし、うがちすぎ なような気もします。   それはさておき、時代の変遷により高麗人の中央アジアから父祖の地、沿 海州への移住の波は当分つづきそうです。それは民族というパンドラの箱が開 かれたことが一因であるだけに、日本にいる私はいつか右傾化した日本でも似 たようなことが起きやしないかという妄想が一瞬脳裏をかすめましたが、これ は杞憂です。 (完)   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


百済と馬韓、北九州 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」 2002年2月17日メッセージ: 4527   半月城です。ここで百済の領域がどこまで広がっていたのか興味をもちま したので、久しぶりに加わりたいと思います。   百済の南のほうですが、すくなくとも韓国西南部の狭い栄山江流域は、韓 国KBSの歴史番組「羅州 大甕棺のミステリー、古代栄山江に王国があった」に よれば6世紀まで独自の文化をもち、百済の直接の支配下には入らなかったよ うです(注)。   ここで栄山江流域について補足しますと、この一帯は金大中大統領の出身 地である木浦や羅州、光州一帯をさします。このあたりは後背地が山で囲まれ、 古代の交通は海路が主体だったようでした。そうした隔絶された地理条件から 新羅末期の後三国時代に高麗はここを占領して飛び地にしましたが、それを後 百済はどうしても奪回することができませんでした。それくらい、ここは内陸 より外洋に開かれた土地柄でした。   古代、この地方が倭と交流があったことは魏志倭人伝から推測されます。  「(帯方)郡から倭にゆくには、海岸にしたがって水行し、韓国をへて、あ るいは南へあるいは東へ、その北岸の狗邪韓国にゆくのに七千余里」   このころの航法は沿岸航海が中心だったので、帯方郡から北九州へ行くの に途中で多くの中継地に立ち寄ったと思われれます。そのひとつに韓国南部の 勒島などがよく知られていますが、栄山江河口も中継地だったにちがいありま せん。   そのような交流と関係があるのか、ここは北九州と意外な共通点がありま した。それは世界的にも珍しい成人を埋葬した大形かめ棺墓です。小型のかめ 棺墓は別に珍しくなく、朝鮮半島でも南部や西海岸でかなりみられますが、製 作のむずかしい長さ2メートル以上の大形かめ棺は、偶然かもしれませんが日 韓でこの二地域だけだったようです。   北九州では吉野ヶ里遺跡からは2000基を超えるかめ棺墓が見つかっていま すが、なかでも首長クラスの墓と思われる墳丘墓の大形かめ棺から細型の朝鮮 式銅剣やガラス玉などが発掘されたのは記憶に新しいところです。   一方、栄山江流域では時代がすこしずれて3世紀から6世紀にかけて、か め棺を納めた古墳が多く築かれました。古墳は円墳がほとんどですが、中には 方墳や三角墳もありました。さらに時代がくだると、百済式の横穴式古墳やま れに倭系の前方後円墳なども6世紀に築かれました。   さらに、かめ棺を製作した窯跡も少なくとも17基発見されました。全体 で窯は100基くらいに達するようです。大形かめ棺の製作ですが、重さが数 百キロにもなり、現代でも製作は容易ではないようです(注)。   それを1500年以上も前に製作したほどの高度な技術をもった集団、こ れについては韓国でもほとんどナゾなようです。金銅冠の存在などからまとま った国があったと推定されますが、晋書でしたか「東夷馬韓、新彌諸国の使 者」を3世紀に派遣したのがこの地域の支配者だったのかもしれません。   あるいは、この地域が魏志韓伝にいう「倭」だったのかもしれません。韓 伝は「韓は帯方郡の南にあって、東西は海であり、南は倭と接している」とか 「弁辰の涜廬国は倭と境を接している」と書き、韓国南部にも倭が存在したよ うに記しました。   その史書を真に受けるなら、倭人が日本へ何派にもわたって渡来する過程 で、ある時期には栄山江流域も渡来の中継地だった可能性がありますが、やや 隔絶された地理的条件のおかげで、流れてきた倭人が土着化したとも考えられ ます。 (注)韓国KBS局番組「歴史SPECIAL」ビデオ http://www.kbs.co.kr/history/review.htm


倭族の渡来 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」 2002年2月17日メッセージ: 4527   半月城です。RE:4612 >日本列島を拠点とする弥生時代の日本人を「倭人」と表現して「倭族」とは >明確に区別されています。   鳥越氏のいう「倭族」ですが、それを同氏はこう定義しました。  <「倭族」とは、稲作を伴って日本列島に渡来した倭人、つまり弥生人と祖 先を同じくし、また同系の文化を共有する人たちを総称した用語です(注1)>。   同氏の定義では、日本に住む倭人は倭族の一種ということになります。北 九州の倭人ですが、鳥越氏はその軌跡を大略つぎのようにとらえています。  <紀元前千年頃、倭族は揚子江流域以南に広く住んでいた。それが秦の始皇 帝や漢に圧迫され、次第に中国西南部や東南アジアの山岳地帯に追いやられた。 その子孫が現在でも少数民族として山岳部に暮らしている。   一方、漢族や苗族に押され、揚子江を東に向かった倭族もいた。稲作遺跡 で名高い河姆渡人である。その子孫の越人は呉に統合されたが、その呉もさら に南の越に滅ぼされた。その呉の遺民が山東半島あたりを通り、朝鮮中南部に 移住し、さらに北九州にたどり着き弥生人になった>   弥生人が山東半島あたりからはるばるやってきたという説は、土井ヶ浜ミ ュージアム館長・松下氏による人骨の研究である程度裏づけられました。それ を端的に示すかのように、2200年前、山口県土井ヶ浜遺跡に葬られた人たちの 頭蓋骨は、かれらの故郷と思われる韓国西南部ないしは山東半島の方向を向い ていました(注2)。また、身体的特徴も山東半島あたりの同時代人と共通す る点が多いようです。   その一方で、弥生人が中国から直接日本へ来たのかについては疑問視する 人も多いようです。鳥越氏もそのひとりでこう記しました。        --------------------   大陸から直接、日本列島に渡来したのではなく、朝鮮半島を経由したとみ ています。しかも朝鮮半島の北部、現在の平壌の近くまで強盛な燕の勢力がの びていましたので、中・南部の西海岸に辿り着きました。そして先住のワイ・ パク族を征して、その地に辰国を建てます。   その辰国は後に馬韓を母体として辰韓・弁韓を分立しますが、その辰国に 属することを嫌った半島南部の倭族もいました。・・・   倭族は日本列島に渡来しましたが、必ずしも一様ではなく、それぞれが異 なる個性をもついくつかの部族であったとみられます。それがいくつに分類で き、またその特性を明らかにすることも、今後研究されなければならない問題 だと思っています。        --------------------   鳥越氏は、玄界灘をはさんで倭族が北九州と韓国南部に分布していたとみ ているようです。北九州の倭人が一様でないのは、渡来時期によりすこしずつ 形質が違う人たちが渡来したためかもしれません。 (注1)鳥越憲三郎「倭族と古代日本」『倭族と古代日本』雄山閣,1993 (注2)NHKTV番組「日本人はるかな旅」


吉野ヶ里遺跡と朝鮮 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」 2002年2月24日 メッセージ: 4632   半月城です。   弥生時代、玄界灘をはさんで北九州と韓国南部に「倭族」が住んでいたと いう鳥越氏の説は、遺跡からある程度裏づけられます。多くの遺物が共通して みられます。   まえに紹介したかめ棺などもそうですが、もっとはっきりした遺物として 支石墓があります。支石墓とは死体を納めた墓穴やかめ棺、石棺を囲む数個の 大きな石の上にさらに大きな天井石をのせたものです。   朝鮮半島では3千年前から築造され、現在では2300基も確認されてお り、全世界の40%を占めるくらい多数存在します。とくに多いのは朝鮮半島 の西南部、栄山江を含む馬韓地方や南海岸に密集しています(注1)。   日本では2,500年前、時代で言うと縄文晩期から弥生時代の中期前半にか けて数百年間、吉野ヶ里遺跡周辺や島原半島、あるいは魏志倭人伝の伊都国で ある糸島地方などに多く築かれました。とくに吉野ヶ里遺跡の隣りの丸山遺跡 からは118基もの支石墓が確認されました。   また、丸山遺跡の支石墓からはモミ殻圧痕のある土器がみつかりました。 近くの菜畑遺跡や福岡市の板付遺跡からは最古の水田跡もみつかっており、こ のあたり一帯は早くから稲作が行われていたようです。そうした人たちの初期 の墓が、支石墓だったようです。   それのみか、吉野ヶ里周辺の弥生人は早い段階で青銅器の鋳造技術も身に つけたようでした。鋳造技術はのちに奴国のあった福岡市がセンターになりま すが、それに先がけて佐賀平野でいち早く鋳造が行われていたようでした。   これらの技術は朝鮮半島からもたらされてことはいうまでもありません。 それを九州大学の西谷正氏はこう記しました。        --------------------   吉野ヶ里遺跡の、ああいう大規模な集落を生みだした生産基盤は、やはり あくまでも水稲稲作であると思います。   これにつきましては、私たちの先輩がこれまで何十年かけてやってきまし た研究の成果にてらせば、朝鮮半島南部の、当時の無文土器ないしは青銅器文 化がそのまま移植されたような格好で、弥生文化が始まった、稲作文化が開始 されたと考えております。・・・   青銅器につきましても、さっきこれも森(浩一)先生がおっしゃいました ように、非常によくできたものは、古代朝鮮のものと考えておりますように、 これは誰がみても技術的な系譜は朝鮮半島南部の青銅器文化にございます。   そしてそういうものと一緒に無文土器という、まあ弥生時代の人々が別に 苦労して手に入れなくても、簡単に縄文以来の伝統で日常的な容器がつくられ る時代に、なお数は少ないけれども、そういう朝鮮系の土器が出るということ、 これは日常生活に非常に密着した遺物であるだけに、やはり朝鮮渡来の人びと との関係を併せて考えるべきではないかと思うわけです。   そしてさらに、吉野ヶ里からは2000ほどの甕棺墓がみつかりまして、30 0体ほどの人骨がみつかっておりますが、それはどうも渡来系の形質の特徴を そなえた人骨であるという分析がなされております。   さらにそういう甕棺墓の人骨のみならず、さきほど、このあたりに支石墓 があるんです。・・・   そういうことで、あそこには朝鮮から渡ってきた人とお墓の形式において、 非常に密接な関係のある支石墓がみられるというようなことを考えますと、こ の吉野ヶ里遺跡に最初に足跡を残し、そしてまたあれだけの大規模な環濠集落 を生みだしていった、そういう歴史の流れのなかで、朝鮮渡来の文化や技術、 あるいはそういうものをもってきた人びととのかかわりは無視できないのでは ないかと、そういう面を強調したいわけでございます(注2)。        --------------------   西谷氏の説を端的にいうと、縄文時代晩期、稲作文化や青銅器文化をもっ た人びとが朝鮮半島から北九州渡来したことにより、弥生時代が始まったとい うことになりそうです。   これから、玄界灘をはさんで北九州と韓国南部に「倭族」が住んでいたと いう鳥越氏の説もある程度はうなづけます。 (注1)早乙女雅博『朝鮮半島の考古学』同成社,2000 (注2)西谷正「吉野ヶ里遺跡と古代朝鮮」『吉野ヶ里、藤ノ木と古代東アジア』小学館,1991


倭(やまと)という人名 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」 2002年2月27日 メッセージ: 4677   半月城です。RE:4664 >何度言えばわかるんでしょうか? >倭漢氏も和氏も全部地理的概念に由来するんですよ。   記紀(古事記、日本書紀)において、人名や地名に倭(やまと)がどのよ うに使われているのかが井上秀雄氏により研究されました。それによると、人 名についていうと記紀では57例あり、そのうち10例が在地豪族とされまし た(注)。   たとえば、これは在地豪族というより在地皇族といったほうが適切でしょ うが、丹波の倭彦(やまとひこ)王もそうです。記紀の物語では武烈天皇亡き あとの政局が困難な時代、大伴金村など大連・大臣はかれを擁立しようと丹波 へ迎えにいきました。しかし、かれは迎えの軍勢に恐れて逃げだし、そのまま 行方不明になりました。   その後、記紀ではオオドが継体天皇として迎えられたことになっているの ですが、かれは地方の豪族を懐柔するためか、9人の皇后をめとりました。そ の8番目だったか、皇后の名が倭媛(やまとひめ)で、近江または越前の出身 とされているようです。   こうした倭彦王や倭媛の例から、記紀で「倭」のはいった人名はかならず しも地名のヤマトと関係なさそうです。 (注)井上秀雄『倭・倭人・倭国』人文書院,1991


「倭」姓と倭漢(やまとのあや) Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」 2002年3月03日 メッセージ: 4712   半月城です。  RE:4664 >姓に「倭」がつく氏族は皇族や渡来系に限ったことではなく、 >椎根津彦の後裔といわれる大倭氏の一族もおり、 >「倭」が特別身分の貴賎を表す文字でない事がわかると思います。   姓にかぎらず、人名に「倭」が使われるのは記紀において特別な場合であ り、ほとんどが皇族やその縁故者、渡来人であるという研究が井上秀雄氏によ りなされました。   大倭(やまと)氏の祖である椎根津彦(しいねづひこ)も伝承において皇 族と深い縁がありました。記紀の神話によると、かれは神武天皇が「東征」し た時に「速水の門」で水先案内を申し出た国神(くにつかみ)です。日本書紀 ではその功により椎根津彦の名前をもらいました。倭直部(やまとのあたい) の始祖です。倭直は、天武朝に大倭連(むらじ)となり、後に大倭忌寸(いみ き)・大倭宿禰(すくね)になりました(注1)。   なお、椎根津彦は古事記ではサオネヅヒコになっており、倭国造(やまと のくにのみやつこ)の祖とされました。倭国造を現代風にいうと首都の知事に なります。神話上、祖先が天皇と懇意になった縁で、子孫が重職についたとい う構図になっています。   このように、人名に倭がつくと天皇と何らかのつながりがあったことが推 定されますが、それを井上秀雄氏は数字で示しました。記紀で人名に倭(やま と)がつく人物57例を下記のように分類しました(注1)。  天皇(7例)、皇子(8例)、皇女(8例)、皇后(4例)、皇族(2例)、 天皇の後裔(2例)、在地豪族(10例)、渡来民(16例)   これらの数字を同氏はこう解釈しました(注1)。        --------------------   「倭」を冠する人名は天皇家の人びとにきわめて多く、ついで渡来民に集 中している。記紀によって若干の相違はあるが、天皇家のうちでも、天皇およ び天皇の子である皇子・皇女が全体の過半数に近い23名になっている。そし て、そのうち22名までが景行天皇以前の記事にみられる。   この時期の記紀の記事は説話・伝承記事であって、その人名は記紀編纂の 時代ないしはこれに近い時代に作られたものが少なくない。   前述のように、8世紀の天皇の自称や諡号に「倭」「大倭」が多く使用さ れていたことの反映として、これら伝承時代の天皇名や皇子・皇女の名に 「倭」を冠したものと思われる。   これに対して、渡来民で「倭」を冠する人名(氏族名)は、歴史時代とみ られる6世紀後半以降の『日本書紀』の記述に集中している。   この「倭」は、『日本書紀』編纂当時の国名の大倭(やまと)国に由 来し、その地に住む住民という意味で使用されている。ただ、在地豪族の人名 や氏族名より渡来民のそれに集中しているところに特徴がある。        --------------------   渡来系で人名に「倭」がつくのは倭漢(やまとのあや)氏に多いのですが、 この氏族は天皇家と深いつながりがあったことはいうまでもありません。古く は東漢と表記していましたが、そのひとり東漢駒(やまとのあやのこま)は蘇 我馬子と組んで物部守屋を滅ぼしたり、崇峻天皇を暗殺したりするなど、朝廷 でかなりの力をもっていました。   その東漢が、推古朝になぜか倭漢と表記を変えました。そのころ、やはり 渡来系である西漢(かわちのあや)も河内漢と表記を変えました。この時期、 各地の国名が制定されたので、そうした時代の風潮において、倭漢は大和地方 の国名「大倭」と関連していると考えられます。   しかし、それまで人名における「倭」の使用はほとんどが天皇と深い関わ りがある場合に限られたのに、それがなぜか渡来民の人名に多くみられるよう になりました。その代表格である倭漢は天皇と何か特別な関係があったのでし ょうか?疑問は深まります。それを井上氏はこう続けました(注1)。        --------------------   天皇・皇子・皇女と渡来民とは一見、身分上大きなへだたりがあると考え られるにもかかわらず、人名・氏族名では同じく「倭」を冠している。その時 期の相違などから、ただちに両者が同一ないしは共通の性格があったとみる必 要はないであろうが、反面、まったく無関係なもので偶然の一致としては処理 できないところもある。   たとえば、桓武天皇以前の歴代天皇・皇子・皇女の諱(いみな)には、し ばしば渡来民の氏族名などを使用している。これは乳母の氏族名を諱がわりに 使ったとする説などもあるが、今後、古代史における天皇制の問題や、渡来民 の国内における社会的地位・活動分野、とくに天皇家との関係を解明する場合 にきわめて有力な手掛かりとなりうるであろう。   これに対して在地豪族に「倭」を冠した人名が比較的少ない点などからも、 大和朝廷の政治機構や中央貴族の構成なども、新しい視点から考察する余地が あるように思われる。        --------------------   うえの文は1985年に書かれたものであり、その後どのような発展があった のかは知りません。ともかく、これは「桓武天皇以前の歴代天皇・皇子・皇女 の諱(いみな)には、しばしば渡来民の氏族名などを使用している」問題とあ わせて興味をそそられます。   なお倭漢一族ですが、大化改新のころには坂上氏、書(ふみ)氏、民(た み)氏、長(おさ)氏などにわかれ、そのうち坂上氏は平安時代に坂上田村麻 呂などが活躍するなど発展をとげました。一方で、当時の慕華思想から先祖を 中国皇帝に結びつける造作が行われ、その集大成である『新撰姓氏録』が作ら れたようで、井上氏はこう記しました(注1)。        --------------------  『新撰姓氏録』の記事は正確ではなく、とくにその(倭画師の)出自につい ては、慕華思想によって、中国の皇帝との系譜的な結合をはかろうとしたもの で、史実としては韓国・朝鮮からの渡来者であったと思われる。  ・・・   倭画師氏も倭馬飼氏も、ともに韓国・朝鮮から新文物をもって渡来した氏 族で、川内(河内)や山背(山城)など畿内各地に居住している職業部を率い る氏で、倭(大和)に居住するものをさしている。   これと同様なものに倭漢直氏がある。この氏族は前二者と異なり、奈良時 代から平安朝にかけて、中央、地方の官僚として活躍したため、その系譜伝承 は数多く伝えられている。   倭漢直氏の始祖伝承は応神紀20年(289)9月条にあり、倭漢直の祖先の 阿知使主(あちのおみ)がその子都加使主(つかのおみ)や一族の17県の 人々を率いて渡来してきたものであるという。さらに応神紀37年(306)2月 条には、この阿知使主と都加使主を呉(くれ、中国地方か、高句麗か)に派遣 して、衣縫(きぬぬい)の女工を求めさせた。   このような伝承記事は、8世紀後半に、倭漢直氏の先祖を後漢霊帝の曾孫 阿智王(阿知使主)とするようになるが、これは平安初期の中国文化礼賛に便 乗した伝承の改変とみられる。   漢氏の出自は、その音から阿耶伽耶(別名、阿羅・阿尸良国・阿羅加耶。 現在の慶尚南道咸安)とみるのがよいであろう。なおこの説話は、漢氏が大和 朝廷内で、韓国・朝鮮・中国の新文物導入や、対外交渉に功績のあったことを 説話化したものと思われる。        --------------------   井上氏以外にも東漢氏は朝鮮半島から渡来したとみる研究者は多いようで す。これは秦氏の渡来伝承についてもいえることですが、それらの記事は中国 との関連において述べられているのではなく、朝鮮半島南部に関連した文脈に おいて登場するからです。同じような見方を上田正昭氏もとっています(注2)。        --------------------   漢人のアヤという言葉は、後には中国の漢を意味するかのように考えられ て、アヤに漢の字があてられてくるが、もともとはこの用字よりも、「穴織 (あなおり)」とか「穢人(あやひと)とかの用例にもみられるように、穴・ 穢などがあてられていた(三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考証』)。   つまりアヤの原義は、朝鮮南部の加羅の有力国で、四世紀より六世紀中葉 までの代表的な存在であった安羅に由来するものと考える方が合理的である。 そしてそれが、外来人の総称として、あるいは特定氏族グループのよび名とし て用いられるようになっていくのである。        --------------------   井上氏、上田氏が安羅伽耶説をとっているのに対し、平野邦雄氏は百済説 をとり、こう記しました(注3)。  「彼らは実際には、百済から渡来したものと思われ、同族に百済王から出自 したと称するものが多い」   平野氏の見解は、始祖の渡来に限定せず、漢人のマジョリティを指してい るのではないかと思われます。というのも、5世紀に多数の「新漢(いまきの あや)」が渡来したと考えられるからです。   当時の雄略朝において、百済の蓋鹵王の弟君が倭に派遣されるなど、倭と 百済の関係が緊密になりましたが、同時に「今来の才伎(てひと)」とよばれ る技術者などが多数渡来したようでした。   日本書紀によれば、東漢直掬(つか)は新漢の陶部(すえつくりべ)、鞍 部(くらつくりべ)、画部(えかきべ)、錦部(にしごりべ)、訳語(おさ) などを上桃原、下桃原、真神原に移住させたと記しています。   東漢はこうした百済からの渡来人を統括し、かれらの技術を活用して勢力 をさらに伸ばしたものと思われます。 (注1)井上秀雄『倭・倭人・倭国』人文書院、1991 (注2)上田正昭『帰化人』中公新書、1965 (注3)平野邦雄『帰化人と古代国家』吉川弘文館、1993   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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