半月城通信
No.107(2004.12.26)

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    目次

  1. 外国人障害者への年金差別
  2. 大詰めの鄭香均裁判
  3. 平家は百済系か
  4. 白髭神社と新羅(3), 埼玉県と高麗神社
  5. 新羅の王子、天日槍の渡来
  6. 下條正男氏への批判、朝鮮史書改ざん説
  7. 下條正男氏への批判、竹島=独島放棄
  8. 国際司法裁判所への誤解

  9. 外国人障害者への年金差別 2004.12.25 メーリングリスト[aml 42314]   半月城です。   日本の裁判官や行政官には人権研修が必要である、これは私が毒舌でいっているので はありません。かつて国連の規約人権委員会が日本政府を批判して述べたものでした(注 1)。   規約人権委員会がこうまで辛辣な批判をしたのは、京都地裁の「指紋押捺」判決が引 き金でした。同地裁は「公共の福祉に基づいて、国民と外国人の間の異なる取り扱いは許 される」との判断をくだしたのですが、これは、人権は「内外人平等」という人権規約の 精神に明らかに反するので、規約人権委員会にとっては見過ごすことのできない重大事で した(注2)。   こうした「外圧」や指紋撤廃運動を受け、指紋制度自体は廃止されたのですが、裁判 官や行政官に対する人権研修がいまだになされていないためか、依然として日本の内外人 差別はつづいているようです。   そのひとつが、12月3日、臨時国会で成立した「特定障害者給付金法」といえます。 これは無年金障害者の救済を目的に作られた法律ですが、対象は「日本人」の元学生と主 婦に限られ、在日コリアンなどは当然のごとく排除されました。   身体障害者すら国籍で差別し、救済の手を冷たく払いのける社会、そしてそれがあま り問題にならないのが現実です。   国籍により差別される苦しみを脳性まひ1種1級の障害者である金順喜さんはこう訴 えました。  「私たちだけ先送りはなぜですか? 障害があって日本に住むのに。日本人も外国人も 辛(つら)く苦しいのは同じです。差別の論理はいいかげんやめてください。私たちは日 本で暮らすしか生きていけません。障害の程度こそあれみんな生活に困窮し、生きるのに 疲れています。日本に住む障害者として、安心できる日本社会にして下さい(注3)」   金さんは在日コリアン三世であり、生まれて以来、日本社会の一員としてあゆんでき ましたが、その金さんが国籍のゆえに差別されるなんて、決して許されるべきではありま せん。   こう書くと、なかには国籍が問題なら、いっそ日本人に帰化すればいいのではないか と思う方がおられるかも知れません。   こうした民族性やアイデンティティ否定の論理を、よしんば百歩ゆずって受けいれた としても、現実に金さんは日本人に帰化はできません。   それは、日本国籍取得は法務大臣の裁量、つまり「恩恵」であるので、金さんのよう に障害をかかえる人や、あるいは、はなはだしくは交通事故の加害者すら日本国籍を得る のは困難をともないます。   金さんは当初から国籍を理由に年金の対象外でした。養護学校の高等部時代、日本人 の友人たちに年金支給が開始されるなか、金さんだけは年金をもらえませんでした。   日本は、1981年、インドシナ難民問題の外圧を機に難民条約に加入し、年金の国籍条 項を撤廃しました。この時、はじめて金さんは年金に入れるようになりましたが、その時 はすでに遅く、期待はずれにおわりました。   この先、日本の国籍差別がどこまで金さんを苦しめるのか、これはひとえに日本がど のように排外主義を克服するのかにかかっています。   近々、金さんは「在日障害者訴訟」をおこすようですが、かつての京都地裁のような 「公共の福祉に基づいて、国民と外国人の間の異なる取り扱いは許される」などという排 外主義的な論理を許すわけにはいきません。裁判所が内外人平等という人権規約の精神を 尊重するよう、あらためて声をあげる時ではないかと思います。   そうした矢先、前回紹介したように、毎日新聞に記事<「排外」を問う:在日外国人 無年金訴訟>シリーズが掲載されましたが、これはタイムリーで、そうした声の大きな礎 になるものです。その全記事は[aml 42275]にリンク先が記されていますが、改めて(注 3)に引用します。 <お知らせ>下記でリンク先が二行にわたって画面に表示されるようでしたら、途中の改 行記号を取り除いて、一行にしてジャンプしてください。  (強制改行は技術的に何とかなくせないでしょうか?) (注1)規約第40条に基づき締約国から提出された報告の検討 自由権規約委員会の最終見解 1998年11月19日  「委員会は、(日本において)裁判官、検察官及び行政官に対し、規約上の人権につい ての教育が何ら用意されていないことに懸念を有する。委員会は、かかる教育が得られる ようにすることを強く勧告する。裁判官を規約の規定に習熟させるための司法上の研究会 及びセミナーが開催されるべきである。委員会の一般的な性格を有する意見及び選択議定 書に基づく通報に関する委員会の見解は、裁判官に提供されるべきである」 (注2)半月城通信<差別の合理化と詭弁、規約人権委員会> (注3)毎日新聞記事 2004.12.10 - 12.21 「排外」を問う:在日外国人無年金訴訟/1「障害」辛く苦しいのは同じ/京都 「排外」を問う:在日外国人無年金訴訟/2 置き去りにされた高齢者 /京都 「排外」を問う:在日外国人無年金訴訟/3 何でうちらに与えられへんの /京都 「排外」を問う:在日外国人無年金訴訟/4 生活に精いっぱい /京都 「排外」を問う:在日外国人無年金訴訟/5 70歳超えても働き詰め /京都> 「排外」を問う:在日外国人無年金訴訟/6止 「排除する理由が…」 /京都 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    大詰めの鄭香均裁判 2004.12.10 メーリングリスト[zainichi:28425]   半月城です。   これまで法的根拠のない「当然の法理」の理屈ほど私たち在日コリアンを苦しめたも のはありませんでした。   ま、外国人なので国会議員にはなれないとか、外交官にはなれないとかいうのなら話 はわかるのですが、外国人は「公権力の行使」や「公の意思の形成」にはたずさわれない という「当然の法理」を口実に、地方公務員への門戸すら固く閉ざされ、「国籍条項」の ために郵便配達員や保健師にさえなれなかった時代がありました。   こんな不条理に抗して、阪神地域から始まった国籍条項撤廃の運動は多くの人たちの 努力で次第に成果を上げ、最近では多くの自治体で理解されるようになり、高知県では橋 本知事が国籍条項の「完全撤廃をめざす」動きなどへとつながりました。   その延長線上に鄭香均裁判があります。7年前、東京高裁は「当然の法理」にメスを 入れ、東京都の国籍を理由とした鄭香均さんに対する管理職への受験拒否は「法の下の平 等」「職業選択の自由」に抵触し憲法違反との判決をだしました。   この判決がいま見直されようとしています。最高裁は舞台を小法廷から大法廷に移し、 下記のように歴史的な判断をくだそうとしています。多くの方に傍聴をすすめたいと思い ます。 鄭香均裁判 日時;12月15日(水)午後2時 場所:最高裁判所、大法廷 集合;1時20分ころ、南門にて傍聴券配布 以下の文は回覧で回ってきたのを転載します。        -------------------- 弁護士の張界満と申します。在日韓国人3世の弁護士です。  私の事務所で扱っている裁判(鄭香均事件)で,来週の12月15日水曜日 午後2時から(3時程度まで)最高裁判所大法廷において弁論が開かれます。  同事件の概要を簡単に説明しますと,原告(1審敗訴・2審勝訴)である被 上告人は,在日韓国人として東京都の保健婦第1号採用の方なのですが,平成 6年に管理職試験を受けようとしたら,東京都から受験を拒否されまして,そ れに対し東京都を訴えた事件です。  1審の東京地裁では,外国人は地方公務員の管理職になれないとの理由から 敗訴しましたが,2審の東京高裁では,外国人にも就任が許される管理職と許 されない管理職があり,一律の受験制限は違憲であるとの判断がでました。こ れに対し,今回,定住外国人の公務就任権の問題について,最高裁判所で判断 がなされることになります。  15日に行われるのは,判決の前に,最高裁判所が当事者の意見を聞くとい う手続きであり,弁論といいます。当日,代理人らが述べる意見や鄭香均さん ご本人が述べる意見を,是非とも,生の声で皆さんに聞いて頂きたいと思いま す。  ちなみに,外国人の人権共有主体性に関する問題で,最高裁の大法廷で判断 された事件としては,なんと!昭和53年のマクリーン事件判決以来になるそ うです。弁論が開かれると言うことは,少なからず,高裁の判断が覆される可 能性がありますが,いずれにせよ,マクリーン事件判決と同様に,今後半世紀 は,憲法の教科書等,様々なところで紹介される歴史的事件となることは間違 いありません。  傍聴席は140人程度あり,そのうち,市民団体で40くらいの人を動員す る予定ですので,世間の評判にもよりますが,たぶん傍聴は抽選にはならない だろうと思います。当日の傍聴券の配布は,最高裁判所の南門で,開廷の40 分くらい前(午後1時20分くらい)から配布されるそうです。  興味のある方は,是非とも,傍聴に来て下さい!!最高裁大法廷を見学する 良い機会ですから,最高裁判所がどんなところなのかを体験されてみてはいか がでしょうか。では,当日は法廷で皆様のお越しをお待ちしております。 以上,宜しくお願い致します。 最高裁判所の案内 住所等: 〒102-8651  東京都千代田区隼町4-2 電話: 03-3264-8111(大代表) 交通機関:永田町駅 【地下鉄半蔵門線・有楽町線・南北線】  南門・西門まで徒歩約5分 以下は民団新聞(2004.8.15)からの転載です。        -------------------- どうなる都庁任用差別訴訟最高裁判決(04.8.15) 2004-08-15 最高裁判決の見通しについて語る金敬得弁護士 鄭香均さん 「違憲判断見直しは解放の流れに逆行」  都の保健師、鄭香均さんによる都庁国籍任用差別訴訟を審理してきた最高裁第3小法廷 (藤田宙靖裁判長)は9月28日に原告、被告双方から主張を聴く口頭弁論を開く。東京高 裁判決がどのような形で見直されるのかは不透明だが、弁護団の金敬得弁護士は7日、支 援団体主催の学習会で高裁の違憲判決を覆すのは難しいだろうとの見通しを述べた。 焦点は損害賠償見直しか  書面審理中心の最高裁が下級審の判断を維持する場合には口頭弁論を開く必要はない。 弁論を開催するということは、高裁判決を見直す場合が多いといわれる。  これについて金弁護士は「都に命じた40万円の損害賠償を維持するかどうかが焦点とな るのではないか」との考えを明らかにした。  想定される第1は40万円についてだけ見直すというケースで、金弁護士は「いちばん可 能性が高い」とみている。本質的な違憲判断はそのまま維持するというものだ。  第2のケースとして国民主権の論理からして外国人が就任できるものとそうでないもの を厳密に判断するよう高裁に審理を差し戻すというケースもありうるという。「最悪」な のは違憲判断そのものを認めないというケースだが、金弁護士は「高裁判決を覆せるよう な判決はいまの時代の流れからしてできないのでは」と希望的に観測している。  その理由として金弁護士は、定住外国人の地方選挙権を許容した95年の最高裁判決との 整合性をあげている。「地方選挙権について法律を作れば可能とした。選挙権と被選挙権 は一体のもの。選挙権を認めた以上は被選挙権も法律で禁止されていないと読みとれる。 もっと開かれてもいいという判決も期待できる」。  東京地裁は「当然の法理」とのからみから間接的な統治作用に関わる公務就任権は憲法 上、外国人には「保障されない」とした。ただし、「法律で明示的に禁止されているわけ ではない。立法がなされれば可能」と含みを持たせた。  東京高裁も基本的には地裁判断を踏襲したが、国民主権の原理に照らして「できるも の」と「できないもの」があると踏み込んだ点では決定的に異なる。憲法上、禁止されて いると例示したのは国会議員、内閣総理大臣、およびその他の国務大臣、裁判官など。こ れは法律の改正をもってしても不可能とした。  ただし、このほかの公権力の行使や公の意思形成に参画する公務員については、職務の 内容、権限と統治作用との関わりかたや程度を個々具体的に検討し、外国人の就任を認め ていいものとそうでないものを区別しなければならないとした。これは外国人を一律、形 式的に排除することは憲法違反になるとの画期的な判断だった。  最高裁の判決は弁論を経て、年内にも出される見通し。 (以下省略) (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    平家は百済系か 2004.12.21 メーリングリスト[zainichi:28443]   半月城です。   坂口安吾は作家だけあって、なかなかオツなことを言っているようです。   RE;[zainichi:28428] >また、話しは飛ぶのですが、坂口安吾という文豪が、「源氏は新羅系で、平氏が百済 系」と言ったような発言をしていたと聞いた事があるのですが、半月城さんはこのことを どう思いますか。   これは言いえて妙です。源氏については十分に考えがまとまっていないのですが、平 家が「百済系」というのは、当らずといえども遠からずといったところでしょうか。   それを具体的にみる前に、まず、源平の生い立ちから調べることにします。   源氏、平氏の出身はよく知られるように、増えすぎた皇族の処遇から生まれました。 そのさきがけは桓武天皇でしょうか。桓武天皇は「朕の外戚は百済」と公言していた天皇 ですが、桓武天皇には数十人の妻がおり、下記のようにたいへんな子だくさんでした。 <桓武天皇の外戚>   そうしたおおぜいの子孫をいつまでも皇族として待遇していたのでは、ねずみ算式に 皇族が増え、財政的に困難になりかねません。そこで天皇は一部の子孫を皇族からはずし、 平氏という皇族賜姓を与えました。   具体的にいうと、桓武天皇の子である葛原(かつらはら)親王の子に高棟(たかむね)王 と高見王がいたのですが、高棟王が初めて平氏の姓を与えました。したがって平氏の本宗 家は高棟王系にあたり、平家の氏社である京都の平野神社の祭祀をつかさどりました。   一方、高見王系は、その子である高望(たかもち)王が平氏の姓を得ました。さらに、 高望王の孫で、平将門の乱の鎮圧に功のあった平貞盛の子である維衡(これひら)の系統が 伊勢・伊賀地方に所領を得て伊勢平氏となり、平家ではもっとも栄えました。   伊勢平氏は、平安末期に正盛・忠盛父子が白河・鳥羽 両院政下の軍事担当武門として 台頭し,忠盛の子である平清盛の代に保元・平治の乱(1159)で勝利をおさめ、「平家にあ らずんば人にあらず」とされるほどの平家の全盛時代を築きました。   さて、本題の百済との関連ですが、そのキーは桓武天皇の母にあります。ちょうど 3 年前の天皇誕生日に明仁天皇が桓武天皇にふれ、「私自身としては、桓武天皇の生母が百 済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆか りを感じています(注1)」と語りましたが、桓武天皇のみならず、つづく3代の天皇も百 済系の女を妻にもったようで、井上満郎氏はこう記しました。        --------------------   桓武天皇の子の平城天皇も、葛井(ふじい)氏の女(葛井氏は百済系渡来氏族。阿保 親王の母)を妻とし、その弟の嵯峨天皇も百済王氏の女の何人かを妻として忠良親王・基 良親王・基子内親王・源定・源善姫・源若姫などを、また仁明天皇も百済王氏の女とのあ いだに高子内親王をもうけている(注2)。        --------------------   この時代、天皇は百済系渡来人の子孫を重用し、その力を存分に活用したことが『続 日本紀』に記されました。しかし、その皇室から派生した平氏に、ただ単に百済系の血が 混じっているからといって、すぐそれを百済系と決めつけるわけにはいきません。問題は かれらの精神的よりどころがどうであったのかが重要です。   それを判断するには、平氏があがめた信仰の対象を分析してみるのがふさわしいので はないかと思われます。そこで平氏の氏社である平野神社の性格が焦点になるのですが、 同神社の祭神について『世界大百科事典』(日立デジタル平凡社)はこう記しました。        -------------------- 平野神社   京都市 北区 平野宮本町に鎮座。今木(いまき)神,久度(くど)神,古開(ふるあき)神, 比咩(ひめ)神をまつる。794年(延暦13)平安遷都により,それまで大和国各所に奉斎され ていた今木神,久度神,古開神を遷座,それに比咩神を加え奉斎した社。   祭神について諸説があるが,今木神は今来(新来)神であり,桓武天皇の母 高野新笠 (たかののにいがさ)(天高知日之子姫尊)の先祖 百済国 聖明王で,久度神はさらにその遠 祖 仇首(くど)王,古開神は古と開,すなわち始祖 温祚王の兄である沸流(ふる)王と肖古 王とのことで,桓武天皇外戚祖先にあたるその三神に比咩神をあわせ奉斎したとの説がい ちばん妥当とみられる。        --------------------   このように、諸説あるなかで平野神社は百済国の王を祭神にしていたようなので、や はり平氏の精神的支柱は、少なくとも初期のころは百済であったといえるのではないかと 思われます。こうした事実を考えるとき、平氏は百済系という坂口安吾の説はむべなるか なと納得がいきます。   ただ、平安末期の平清盛の時代になると、平氏の氏社は安芸の厳島神社が主になるの で、百済とのつながりは希薄になっていくばかりでした。   他方の源氏ですが、この氏族は桓武天皇の子である嵯峨天皇の代の嵯峨源氏が始まり で、これもやはり皇族賜姓になります。嵯峨源氏は多彩で、一族のなかでも源融(とおる) は『源氏物語』に登場する光源氏のモデルになりました。そうかと思うと、おちぶれた嵯 峨源氏の中には、後に九州で松浦党をつくって倭寇になったりする者もいました(注3)。   時代はくだって、嵯峨天皇の四代後に清和天皇が即位しましたが、このとき誕生した 清和源氏の系統は後に鎌倉幕府を開くなど新たな歴史を切りひらくことになりました。そ の主役は源頼信にはじまる河内源氏です。   頼信は、上総で平忠常の乱(1028)を平定したのを皮切りに、その子の頼義、孫の義家 は前九年・後三年の役に勝利し、関東・東国に勢力を扶植して多くの坂東武士をその傘下 に組み入れました。   義家の子孫からは新田氏・足利氏・今川氏・吉良氏などが派生しました。また、義家 の弟の義光からは武田氏や佐竹氏、南部氏などが輩出しました。鎌倉幕府を開いた源頼朝 も河内源氏の後裔にあたります。   さて、源氏の精神的支柱ですが、最初は平家と同じ平野神社を信仰していたようで、 『世界大百科事典』には「平野神社は、平,源,高階,清原,中原,大江,菅原,秋篠氏 などの氏神とされた」と記されています。   しかし、武家の頭領としての基礎を築いた源頼信が、京都にある石清水(いわしみ ず)八幡宮に加護を立願して願文を納めて以来、八幡宮が源氏の有力な氏神になりました。 石清水八幡宮は、豊前の宇佐八幡宮を勧請した神社ですが、八幡宮は下記に書いたように、 もとは新羅からの渡来神を祀ったのが始まりでした。 <ナゾの秦王国と宇佐八幡宮>   源頼信の子の頼義は、石清水八幡宮を相模地方に勧請し、鶴ヶ岡八幡宮の起源としま した。頼信の孫である義家は、石清水八幡宮で元服をしたので八幡太郎義家と名のりまし た。   ところがどうしたことか、義家の弟である義光は、前に書いたように、近江・三井寺 の守護神である新羅善神堂で元服をし、新羅(しんら)三郎義光と名のりました(注4)。 これは明らかに新羅を認識しての行為と思われます。   なぜ、義光は八幡宮で元服をしなかったのか、どうも明快な答はないようです。義光 は新羅明神と何か特別な因縁があったものと思われます。真相はナゾですが、ともかく義 光の元服がもとになり、日本全国各地に新羅神社が建てられました。その数は十社はくだ らないようです。   この新羅神社についてもいずれ書こうと思いますが、ここではとりあえず下記の三井 寺のホームページを紹介するにとどめます。  <新羅神社考「新羅神社への旅」> http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/ (注1)半月城通信<天皇「ゆかり」発言> (注2)井上満郎<皇室の「渡来度」>『歴史読本』1988,12月号 (注3)半月城通信<倭寇と松浦党> (注4)半月城通信<白髭神社(2)、琵琶湖西岸>  および、出羽弘明『新羅の神々と古代日本』同成社、2004 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    白髭神社と新羅(3), 埼玉県と高麗神社 2004/11/28 21:39 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか」#10848   半月城です。   今回は、白髭神社の密度が濃厚な埼玉県を取りあげます。同県における白髭神社の数 は小野迪夫氏によれば20社とされますが(注1)、埼玉県神社庁のホームページによれば 33社で、しかも住所がはっきりしているので、現在の数字としてはこちらのほうが正しい ようです(注2)。しかし、白髭明神を祀る神社ともなれば、後にふれるように、その数 倍はあるようです。   埼玉県で白髭神社が特に多いのは西南部の飯能市で、現在ここだけでも9社を数え、 市内の全神社48社のうち実に 1/5にもなります。こうも白髭神社が多いのは、飯能市がか つて高麗(こま)郡の首邑だからでした(注3)。ちなみに、旧高麗郡内の白髭神社は19 社にもなります。   高麗郡とは『続日本紀』によれば、716年、元正天皇が東国各地の高麗人 1799人を集 めて武蔵(むさし)国に新たに設けた郡でした(注4)。現在の地名でいうと、飯能市・ 日高市・鶴ヶ島市の全域と、川越市・狭山市・入間市内で入間川の西北地区になり、旧入 間郡に三方を取り囲まれています(注5)。おそらく、入間郡の一部をさいて高麗郡とし たようです。   ここでいう高麗とは、すべて高麗国のことではなく、その前の時代である高句麗をさ します。高句麗から渡来したかれらの移住の背景を『埼玉県の地名』事典(平凡社)はこ う記しました。  「これらの高麗人は 七世紀後半の朝鮮半島情勢の変化により滅亡した高句麗からの亡 命者といわれている。天武・持統朝では朝鮮半島からの渡来人を次々と東国各地に移住さ せていた。これらの渡来人には田地や食料が与えられ(注6)、また終身にわたり課役が 免除されていた(注7)」   飯能近辺に高麗人を移した理由ですが、同地方の開発といった目的以外にも、想像す るに秩父で産する銅と関係があるのかもしれません。高麗郡が置かれる8年前、秩父で和 銅(にぎあかがね)すなわち自然銅が発見されました。和銅というと日本初の本格貨幣であ る和同開珎が想起されますが、和銅の発見は画期的な事件で、それを祝って朝廷は年号を 和銅と変えたくらいでした。   和銅は、大塚初重氏によれば、発見は先進技術をもった渡来人によりなされたようで した(注8,P110)。和銅はそこから武蔵国の国府へ輸送されたと思われますが、その道筋 にあたる秩父の芦ヶ久保には白髭神社が現存します。これもやはり渡来人に関係があるよ うです。   そうした和銅に関係する渡来人を統括し、和銅を武蔵の国府へ運搬するために朝廷は 高麗郡をおいたのかもしれません。運搬手段である馬に関するかぎり、騎馬民族の血を引 く高麗人はお手の物だったに違いありません。   馬について、大塚氏は「馬のことを駒(こま)と言うのは もちろん高句麗のほかな い(注8,P110)」と語りましたが、駒の語源が高麗(こま)から転訛するくらい、馬は高 句麗と密着していました。   高麗郡でも高麗人が武蔵鐙(あぶみ)とよばれる馬具を作ったとされるくらい馬とは つながりが深いのですが(注9)、もともと武蔵は諸国のなかでも馬の一大生産地だった くらい馬の飼育が盛んだったようでした。荒竹氏は武蔵の馬事情についてこう記しました。  「延喜式によると、武蔵の国に御牧が四か所、諸国牧(牛馬)二か所とあり、貢馬数54 頭で信濃・甲斐に次ぐ多さである(注10,P31)」   武蔵は全国で3本の指に入るくらい馬の飼育が盛んだったようですが、高麗郡にも馬 の遺物として駒角などが高麗神社に残されました(注5)。   ここでひとまず、当時の武蔵の状況をみておきたいと思います。武蔵の中心というと、 今の感覚では都心ないしは江戸城あたりを思い浮かべる人がいるかもしれませんが、古代、 そのあたりは僻地でした。   かわりに、武蔵の中心は国府がおかれた多摩川沿いの東京・府中市あたりにありまし た。その近辺は早くから渡来人により拓かれ、府中の東隣である調布などには渡来人の遺 跡が数多く残されました。とくに狛江(こまえ)の亀塚などは、和歌森太郎氏によれば高 句麗系とはっきり断定されるようです(注8)。   武蔵は、当初、東山道に区分けされたので、ヤマトから武蔵へ行くには、上野(こう ずけ)の国府(前橋市)から東山道武蔵路を利用して高麗郡・入間郡をへて、武蔵の国府 に入ったとみられます。   上野など毛野(けぬ)国は蝦夷征服への根拠地として重視されていましたが、武蔵は そこから脇道へそれる位置付けにあったようです。そのためか、広大な1都2県にまたがる 地域がおおざっぱに一国として扱われたようでした。   武蔵へ入る道はもちろん東山道武蔵路だけではありませんでした。東海道に区分けさ れた相模の国府(平塚市、のちに大磯町か)から相模川沿いを北上して武蔵の国府へ通じ る官道もあったようでした。   その道は、宝亀二年(771)に武蔵が東山道から東海道に組み替えされたのにともない、 その後の武蔵への主要道になったようです。これは武蔵の地位が相対的に向上したためで しょうか。   この東海道はしばらくの間、豊島郡をへて下総(しもうさ)の国府(市川市)へ接続 されました。その官道は、初回に紹介した白髭橋あたりで隅田川を越えたのですが、そこ から先が下総の地でした。その近辺に白髭神社が集中するのは注目されます。下総からも 高麗郡へ移されたことが『日本書紀』に記されましたが、その高麗人はこのあたりに住ん でいた住人だったのかもしれません。   さて『和名抄』によると、高麗郡には高麗郷と上総(かみふさ)郷の二郷がおかれま した。上総郷は飯能市あたりに比定されますが、『埼玉県の地名』事典によると、この郷 名は移住民の原住地である上総国(千葉県中部)にちなんでつけられたのではないかとさ れています。また、同書は高麗郷についてはこう記しました。  「高麗郷は日高市の高麗神社一帯に比定される。高麗人の中心には大宝三年(703)四月 に王姓を与えられた「従五位下 高麗若光」(注11)がいたと思われ、高麗神社には若光 が祀られている。   若光は天智天皇五年(666)に高句麗王の使者として来日した「二位玄武若光」(注 12)と同一人物ではないかともいわれており、そうであるならば高句麗の滅亡(668年) で帰国できないまま土着したと推定される」   若光が遠くからはるばる高麗郡にたどりついた経緯ですが、それを高麗神社では次の ように伝えています。        --------------------   伝説によれば、若光の故国を去って我が国に投化するや、一路東海を指し、遠江灘よ り更に東して伊豆の海を過ぎり、相模湾に入って大磯に上陸した。そうして邸宅を化粧 (けわい)坂から花水橋に至る大磯村 高麗の地に営んで、そこに留まり住んだが、まも なく我が朝廷より従五位下に叙せられ、次いで大宝三年には王(こきし)の姓を賜った。  ・・・   若光が高句麗王族なるが故に、特に王の姓を賜ったものと思われる。「こきし」は王 を意味する朝鮮語である。さるほどに若光が王の姓を賜ってから十四年目の霊亀二年丙辰 に至り、駿、甲、相、両総、常、野、七国在住の高句麗人に対して、武蔵野の一部を賜う 旨の優詔が降った。   同時に若光は高麗郡の大領(郡長)に任ぜられたので、やがて大磯を去って武蔵 高 麗郡に赴いたが、その後も大磯の国人等は、長く王の徳を慕い、中峯の頂に高来(たか く)神社 上の宮をいつき、又その麓には下の宮を建てて高麗王の霊を祀った。  ・・・   高麗王は今もなお大磯の里人に崇敬され、高来神社の祭典は、古式によって盛大に行 われているのである。   高麗王の武蔵野入りは、高句麗滅亡を距てる四十年後で、王もかなりの高齢であった であろう。高麗郡に着くや、居を日高町 大字新堀 字大宮の、今社殿のある所に卜して全 郡を統(す)べられたが、その後 幾星霜を経、某年某月を以て、遂に日本における新封 土の高麗に逝いた(注5)。        --------------------   若光王が上陸したとされる大磯は平塚の西隣で、そのあたり一帯は相模の中心地帯で すが、若光王は相模国の大磯村でも崇敬されていたようです。王は高麗郡の大領に任命さ れた後、北上して高麗郷へ入り、高麗郡を統括したようでした。そこで世を去った若光王 は、高麗明神あるいは白髭明神として現在の日高市新堀に祀られたようで、高麗神社はこ う伝えました。        --------------------   里人の口碑に「高麗王はその髭髪白かりき、ゆえに高麗明神を一に白髭明神とたたえ 奉る」と言い伝えてあるが、その頭上の霜も世をなげき民をいためる結果ではなかったか。   またその卒せし時には郡中の貴賤ことごとく葬に会したと言い、ひとえに葬に会した ばかりでなく、後には霊廟を建てて高麗明神とあがめ祀り、その分霊を、白髭明神の名の もとに各所に奉祀し、中古においてすでに二十一社の称があり、後にはさらに増加して、 高麗郡はもとより、入間秩父から遠くは多摩郡にまで及び、総数四十有余社にのぼって、 それが村々の鎮守として崇敬の的となっていた(注5)。        --------------------   若光王をまつる高麗明神は白髭明神と同一視されましたが、白髭明神は付近一帯にひ ろまったようでした。高麗神社はそれらの本社とされるようです。白髭神社は時代ととも に数を増して栄えたようですが、その背景には高麗一族のパワーがあったことでしょう。   高麗一族を繁栄に導いた子孫で著名なのは、藤原仲麻呂の側近でもあった高麗福信と いう人物です。かれは後に高倉姓を名のりましたが、かれについて韮崎氏はこう記しまし た。        --------------------   福信は高麗郡の人で本姓は背奈(せな)といった。福信の祖父は高麗が滅亡するよう になったので、日本に帰化して武蔵国に移り住んだ。福信の一族はおそらく先着の若光と は同一家族であったろうとみられている。・・・   福信は相撲が強かったので、ついに重く用いられた。福信は力が強かったばかりでな く、建築上の才能もあったことは、称徳天皇のとき従三位造宮卿となったことでもこれを 知ることができる。かの楊梅宮をつくったのも福信であった。・・・   それから福信が累進して武蔵守(武蔵の国の頭で今の都知事にあたる)となったこと もこの理由によるものである。福信はさらに孝謙天皇の天平勝宝二年(750)には高麗朝臣 (こま あそん)の姓をたまわり・・・   福信はその後 官をやめ、延暦八年(789)八十歳をもって亡くなった。帰化人で従三位 の官にのぼったのは百済の敬福と二人で、和気清麻呂のごときも生前 従三位にのぼった にすぎないから、福信のこの栄達は武蔵国の人々のひとしく尊敬するところであったであ ろう(注13,P299)。        --------------------   歴史上、ひとりの傑出した人物が郷土を繁栄に導いた例はよくあることです。福信の ケースもそうだったのかもしれません。その結果か、高麗郡周辺には白髭神社が多く建て られました。   また、白髭神社とは名乗らなくても、白髭明神を祀る神社も多く、かつては付近に百 社以上あったようで、村高擔風はこう記しました。        --------------------  武蔵野の研究、第6回、武蔵野の開拓(國民新聞、1916.8.28) ○白髭明神分布   高麗王の子孫は其後 南北朝の頃から戦争に参加して活躍したさうで 今 町田氏方に 軍忠状があるといふ事なれど見ず、古昔は同族結婚なりしも他と婚を結べるは源氏が始め てなりと伝へられる。   高麗神社は大宮(だいぐう)社 又は白鬚明神と稱え 高麗移民の氏神で高麗王が高齢 白髪であったので斯く呼ぶのだといふことなるが 高麗人の居た附近の部落に氏神として 白鬚明神を祭ったものが頗(すこぶ)る多い。   其數 約百三十からあるさうだが 中には社名は異るも祭神は白鬚明神である。入間川 に沿うた廣瀬神社も其一なのだ。   此 高麗人と關係深き白鬚明神の分布を研究するも亦た頗る興味あることで 向島(白 鬚橋)に在る白鬚明神の如き 高麗川から荒川を傳うて下る地形の上から 川と人文との關 係に考へて見るも何等かの關係を語るものではないか。        --------------------   すこし話は飛びますが、薩摩焼の沈寿官さんや戦犯の東郷茂徳・元外相の一家など鹿 児島県・苗代川の陶工たちは、明治時代まで技術伝承のために同族結婚を強いられました が(注14)、高麗一族もある時期まで同族結婚を繰りかえしていたという記事は興味をひき ます。   そうした風習を破ってか、高麗一族は源氏と婚姻関係をもちだしたようですが、両者 には通じ合う信仰があったようです。   源氏では、常陸佐竹氏,甲斐武田氏,信濃小笠原氏などの祖とされる源義光は、白鬚 明神と同一視される新羅明神の前で元服し、名前を新羅三郎義光としたくらいでした(注 15)。   また、鎌倉幕府を開いた源頼朝は八幡神社を氏神としましたが、その総本山である宇 佐八幡宮は、もとは渡来の神だったことが知られています(注16)。遠く渡来の神を信仰 するもの同士、両者の親近感は当然だったかもしれません。   それのみか、馬に親しんだ高麗人と武士である源氏の結びつきは必然的ともいえます。 高麗氏の一部は武士団・武蔵七党のうち丹党に加わりました。そのかかわりをみることに します。   高麗郡の飯能からは判乃(はんの)氏が丹党に加わりました。判乃は飯能の語源とさ れていますが、同氏は出身地を姓にしたようです。さらに高麗郡の加治からは加治実家が 加わっているようで、『大日本地名辞書』の「加治」項にこう記されました。  「(武蔵)七党系図を按ずるに、丹党の内、加治氏は其先 高麗五郎経家より出て、加 治太郎実家と号す、これらは皆 所在の地名を氏に称せしなるべし。   元久二年 武州二俣川の戦に、畠山重忠が為に討死す、其頃より連綿としてこの地を 領せしものと見えて、郡中所々に加治氏の古墳及び余裔あり(注3)」   畠山重忠は板東武者として誉れ高いのですが、かれも秩父氏の一族として丹党に属し ていたようです。   ところで丹党ですが、その主な根拠地は武蔵国の北部とされています。そこは、荒竹 氏によれば渡来系の檜前(ひのくま)氏の居住区と重なるようですが(注10,P84)、そこ に白髭神社のもうひとつの分布がみられます。高麗郡から隔たった旧加美郡には7,8社の 白髭神社がみられます。そこに白髭神社が多い理由は、やはり渡来人との関連に求めるの が妥当でしょうか。   関連を調べてみると、丹党は渡来系である檜前一族の後裔であるとの説があるようで す。檜前氏の名は、東京の浅草寺縁起にも記されましたが(注17)、武蔵北部の加美郡や 那珂郡など(現在の大里郡あたり)に豪族クラスである檜前舎人直(とねりのあたえ)な どの名が見えます。こうした事実などから荒竹氏は、丹党の祖は檜前氏であるとしてこう 記しました。  「檜前氏の檜前は飛鳥地方の地名と関係があろうとして、東国にその足跡をたどってみ た。その結果、太平洋岸を東上して、旧利根川や荒川から北武蔵に移住したのではないか と類推した。   しかも、檜前氏は、宣化天皇の名代で、土師氏と同族であり、後の丹党の祖と考える にいたった。丹党は、丹冶比(たじひ)氏であるが、丹冶比が、宣化の檜前舎人とするの は、宣化の皇子かあるいは孫が、丹冶比氏に養育された結果 丹冶比氏と称していたが、 檜前の地に宮をおいたので、その宮号をとって、檜前舎人あるいは檜前部とし、それを統 率したのが檜前氏一族だったものであろう(注10,P90)」   この説はもっともらしく見えます。そうだとすると、高麗郡にいる丹党の流れで、渡 来系の檜前氏が基盤とした加美郡の丹党まで高麗神社を本社とする白髭神社を奉じた理由 が理解できそうです。   ときに白髭神社の祭神ですが、多くは高麗明神でなく、やはり猿田彦を祭っているよ うです。これは若光王の高麗神社以前に、白鬚明神を信仰する渡来人が住んでいたのでは ないかとみられます(注8,P90)。   おそらく高麗郡以前に、白鬚明神すなわち猿田彦を奉じる新羅系の渡来人がすでに住 んでいたものとみられます。しかし、それを裏づける史料はほとんどなく、わずかに『日 本書紀』の記事から推測される程度のようで、上田正昭氏はこう述べました(注18)。        --------------------   例の(上野)多胡碑の場合でも新羅系が強いし、実際に新羅人が武蔵国に若光以前に 先行して存在したということが、『日本書紀』の伝承などにもうかがわれます。持統天皇 の元年や4年の条に「新羅人を武蔵に」とありますが、そこへ若光がそのあとに住まって いくということがありますから、(高麗)澄雄さんからのお話を伺って考えうべき伝承で はないかと思いましたね。 若光がただちに祭神になるというよりは、すでにそこにはいわゆる新羅明神系の祭 りが何らかの形で行われていて、そこへ若光が入り、そしてあらたに子孫によって祭神化 するというように考える方が自然ですね(注8,P92)。        --------------------   神社の祭神は時代とともに変遷する場合が多いので、高麗神社は最初に白鬚明神を祀 り、のちに若光王を高麗明神として合祀した可能性は強いようです。それがいつのまにか、 白鬚明神は忘れられ、高麗明神がメインになったものと思われます。   先日、いくつかの白髭神社を回ったのですが、高麗郡の白髭神社はほとんどが村社、 すなわち村の鎮守様になっていました。また、神社の周囲は鎮守の杜(もり)としてよく 保存されている場合が多く、武蔵野のおもかげが漂います。最近、狭山市などではこうし た杜を積極的に守ろうとする動きがあるようで、喜ばしいことです。   また、場所によっては境内に公民館などが設けられ、コミュニケーションの中心に なっているようです。ただし、公民館の職員が白髭神社の由来などをほとんどご存じない のはちょっと残念です。 (注1)小野迪夫「白髭神社について」『神道史研究』第33巻第4号、1985,P53 (注2)<埼玉県の神社>埼玉県神社庁 埼玉県内の白鬚・白髭神社数:33社 ○旧高麗郡内の白鬚・白髭神社の分布、19社  入間市:1社、川越市:2社、狭山市:3社、鶴ヶ島市:1社、飯能市:9社、日高市:2社。 ○旧高麗郡外の白鬚・白髭神社の分布、14社  入間市:1社、川越市:2社、大里郡:6社、熊谷市:1社、児玉郡:1社、坂戸市:2社、秩 父郡:1社。 (注3)吉田東伍「高麗郡」『大日本地名辞書』1903(初版) (注4)『続日本紀』霊亀二年(716)5月16日  駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七か国にいる高麗人1799人を武蔵国に移  住させ、初めて高麗郡を置いた。 (注5)高麗澄雄『高麗神社と高麗郷』1931(現代かなづかいに変換) (注6)原著注、「日本書紀」持統天皇元年条  原典「三月乙丑朔己卯 以投化高麗五十六人 居于常陸國 賦田受稟 使安生業  夏四月甲午朔癸卯 筑紫大宰獻投化新羅僧尼及百姓男女二十二人 居于武蔵國 賦田受稟  使安生業」 (注7)原著注、「続日本紀」養老元年11月8日条  同条「高麗・百済二国の士卒が、本国の戦乱にあって、天皇の治下に帰服した。朝廷で  は遠隔の地から来たことを憐れんで、終身租税負担を免除とされた」 (注8)大塚初重他「高麗氏とその遺跡」『朝鮮と古代日本文化』中公文庫、1982,P86   七世紀後半代の問題をあげると、群集墳と呼ばれる古墳のなかで渡来人なり、高句麗 系の文物なりを表出したような古墳があるのかどうか議論の分かれるところです。それで はこれこそ高句麗系のものだという文物をあげると、狛江(こまえ)の亀塚などはそのも のずばりだと思います。   七世紀後半で問題になるのは、武蔵国を中心とすると埼玉県の荒川上流の和銅遺跡で す。現在 秩父市の旧 原谷村で、数十基の古墳群があるのです。昭和二十年代に調査した のですが、積石塚がみとめられました。  ・・・   原谷村の群集墳の積石塚は石と土と半々に積んでいるので、純粋積石塚とは言えない という議論もあります。   ところが和銅の遺跡と言われているものがそばにあるものですから、そこに七世紀後 半から八世紀にかかる積石塚があって、内部構造は横穴式石室をもっている。多少 胴張 (どうばり)をもった石室が含まれているという点で、考古学的にこれこそ和銅の銅精錬 にたずさわった集団の残した墳墓群ではないかという問題が出てきます。   とくに製銅の鋳造技術をもった集団となると、新しい技術をもった渡来人集団と考え られるので、まず第一に秩父の原谷村周辺の群集墳はその可能性はひじょうに強い。   いままでの考古学研究者が考えてきた大陸文化というような一般的なことではなくて、 もう一歩ふみこんでものを言う時期に来ていると思います。この胴張石室というものが問 題になりまして、武蔵国だけでも二十遺跡は越しています。・・・   胴張の横穴石室というのは東京都の八王子から日野のあたりとか、南多摩郡などかな り広い範囲におよんでいます。   後藤守一先生が西多摩郡の瀬戸岡というところにある奈良時代の墳墓を調査されたと きに、胴張石室や積石塚に着目されて渡来人の墳墓ではないかと言われておりまして、多 少問題がありましても胴張石室や積石塚は渡来人に関係させるという見方のほうが強いだ ろうと思います。   これこそ高句麗系の墳墓だということは具体的には出てこないけれども、その蓋然性 は非常に高いのではないかとわたくしは思います。 (注9)『大日本地名辞書』「高麗郡」(注3)はこう記しました。  古くより世に武蔵鐙と称するものあり、此処に遷されたる高麗人の造るところぞ、盛衰 記に畠山重忠 小坪合戦の時、武蔵鐙を用ゆと云、今の世に五六鐙と称するもの其遺製な るべし (注10)荒竹清光『古代の日本と渡来文化』明石書店,2004 (注11)『続日本紀』大宝三年四月四日条  従五位下の高麗の若光に王(こにきし)という姓を賜った (注12)『日本書紀』天智天皇五年十月条  冬十月甲午朔己未 高麗遣臣乙相奄〓等進調 大使臣乙相奄〓 副使達相遁 二位玄武若光  等 (注13)韮崎一三郎「武蔵野における朝鮮文化」『日本文化と朝鮮』新人物往来社,1973,  P299 (注14)半月城通信<東郷・元外相は朝鮮出身?> (注15)半月城通信<白髭神社と新羅(2)、琵琶湖西岸> (注16)半月城通信<ナゾの秦王国と宇佐八幡宮> (注17)半月城通信<浅草「三社祭」と檜前一族> (注18)半月城通信<白髭神社は高句麗系?> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 高麗郡について 2004.12.15 [zainichi:28431]   簡単なところから答えます。高麗郡は、明治29年(1896)に入間郡へ併入されまし た。さらに、昭和30年(1955)、町村合併により高麗村の名前が消えて入間郡日高町に なってしまいました。現在は日高市になりましたが、高麗本郷の地名だけがかろうじ て残されました。 半月城


    新羅の王子・天日槍の渡来 2004/12/23 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか」#11265   半月城です。   ここの会議室#10824において「半月城さんに天日鉾あたり、書いて貰いたいのです が」という依頼がありましたので、それに応じたいと思います。   それというのも、これまで書いてきた白髭神社を理解するためには新羅系の渡来人に ついて知る必要がありますが、そうなるとその象徴的存在である天日槍の伝説を追うのは 必然となります。とくに、近江の白髭神社を理解するには必要です。   アメノヒボコ、あるいはアマノヒボコは『日本書紀』では天日槍と書かれましたが、 『古事記』では天之日矛と書かれました。記・紀の両書は、単に漢字表記が違うだけでな く、内容にも大きな差があります。それは両書の性格を反映しています。記・紀は天日槍 の重要な参考書なので、両書の性格をさきにみておくことにします。  『日本書紀』は徹底した反新羅の立場で書かれているのに対し『古事記』はどちらかと いえばやや新羅シンパの立場で書かれており、それが天日槍伝説にも反映されました。   それを理解するために、最初に『日本書紀』の反新羅ぶりをみることにします。たと えば、天日槍がすこしは関係する神功皇后の記事をくらべてみます。『日本書紀』は新羅 王を小心者として扱い、その臆病ぶりをこう記しました。        --------------------   新羅王は、はるかに望んで、常ならぬ軍が、まさに自分の国を滅ぼそうとしていると 思い、恐れのあまり気を失った。そして気をとりもどした今、「われが聞くところでは、 東に神国があり日本といい、また聖王があり天皇という。きっとその国の神兵である。兵 を挙げて防ぐことなどできはしない」といい、すぐさま白旗をかかげて投降した。   白い組みひもを首にかけ、後ろ手に縛り、地図・戸籍を封印して王船の前に降った。 そして叩頭して「今から以後は天地とともに長く降伏して馬飼部となります。船の舵を乾 かさずに、春秋に馬を洗うクシと馬のムチを献じ、また海路の遠いのをものとせず年毎に 男女の調(みつぎ)を貢上しましょう」といった。・・・   新羅王が、いつも80船の調を日本国に朝貢するのはこれが源である。        --------------------  『日本書紀』の記述はマンガチックでこっけいですが、同じ説話を『古事記』はこう記 しました。        --------------------  (神功皇后の)御船の立てる波は新羅の国に押し上がって、すでに国の半分にまで達し た。そこで新羅の国王が畏れをなして申すには「今後は天皇の御命令のとおりに従い、御 馬飼となって、毎年船を並べて、船の腹を乾かすことなく、棹や舵を乾かすことなく、天 地のつづく限り怠ることなく、貢ぎ物を献じてお仕え申しましょう。        --------------------  『古事記』の記述もマンガチックぶりには変わりないのですが、記述にはトゲがなく、 『日本書紀』に書かれたような新羅王の小心ぶりなど、あからさまな反新羅感情は影をひ そめています。   さらに『日本書紀』に書かれた多くの反新羅の記事は『古事記』では無視されていま す。こうしたことを理由のひとつにして、大和岩雄氏は『古事記』の編纂に新羅系の秦氏 がかかわっていたと主張しているくらいです。   なお、神功皇后の新羅遠征ですが、この説話は津田左右吉によれば「事実の記録また は伝説口碑から出たものではなく、よほど後になって、恐らくは新羅征討の真の事情が忘 れられたころに、物語として構想せられたものらしい」とされました。   いまでは、こうしたかつての「危険思想」が主流になり、神功皇后の新羅遠征どころ か、神功皇后の存在自体がほとんど疑問視されています(注1)。   一方、神功皇后の出自に関する記述ですが、『日本書紀』は神功皇后(=息長 足姫、 おきなが たらしひめ)の出自を「開化天皇の曾孫で、息長宿禰(すくね)王の娘である。 母は葛城 高額媛(かつらぎ たかぬか ひめ)という」と書くのみですが、『古事記』は 母方の六代前の祖先を、今回の主題である天之日矛にしています。   こうした天日槍との関連づけは『日本書紀』にはもちろんありません。、反新羅の立 場では皇族の遠い外戚を新羅につなげることは考えにくいので当然と思われます。   そうした記・紀の違いは天日槍の説話にも反映されました。元来『古事記』の独自説 話はほとんどが皇室関係なのですが、津田左右吉も不思議がっていたように、なぜか皇室 にそれほど近くはない天之日矛の説話だけは『古事記』で実に詳細に記述されました。こ れは注目すべき説話なので、その内容をみることにします。        -------------------- 『古事記』応神天皇条   また昔、新羅の国王の子で、名は天之日矛という者がいた。この人がわが国に渡って きた。渡来したわけはこうである。   新羅の国にひとつの沼があって、名は阿具(あぐ)沼といった。この沼のほとりに一 人の賤しい女が昼寝をしていた。このとき太陽の輝きが、虹のように女の陰部を射した。   また一人の賤しい男がいて、その有様を不審に思って、いつもその女の行動をうか がっていた。するとこの女は、その昼寝をしていた時から妊娠して、赤い玉を生んだ。そ こでその様子をうかがっていた賤しい男は、その玉を所望してもらい受け、いつも包んで 腰につけていた。   この男は、田を谷に作っていた。それで耕作する人夫たちの食料を一頭の牛に負わせ て谷の中にはいって行くとき、その国王の子の天之日矛に出会った。天之日矛がその男に 尋ねていうには、「どうしておまえは食料を牛に背負わせて谷にはいるのか。おまえは きっとこの牛を殺して食うつもりだろう」といって、すぐその男を捕えて牢屋に入れよう とした。   その男が答えていうには、「私は牛を殺そうとするのではありません。ただ農夫の食 料を運ぶだけです」といった。けれども天之日矛はやはり赦さなかった。そこで男は、そ の腰につけた赤玉の包みを解いて、その国王の子に贈った。   それで天之日矛は、その賤しい男を赦して、その赤玉を持って来て、床のそばに置い ておくと、玉はやがて美しい少女に姿を変えた。それで天之日矛は少女と結婚して正妻と した。   その少女は、常々いろいろのおいしい料理を用意して、いつもその夫に食べさせた。 ところがその国王の子は思いあがって妻をののしるので、その女がいうには、「だいたい 私は、あなたの妻になるような女ではありません。私の祖先の国に行きます」といって、 ひそかに小舟に乗って逃げ渡って、難波に留まった。これは難波の比売碁曽(ひめこそ) 神社に坐す阿加流比売(あかるひめ)という神である。   そこで天之日矛は、その妻の逃げたことを聞いて、ただちにその跡を追って海を渡っ て来て難波に着こうとしたところ、その海峡の神が行く手をさえぎり、難波に入れなかっ た。それで、またもどって、但馬の国に停泊した。   天之日矛はそのまま但馬の国にとどまり、但馬の俣尾の女(むすめ)の前見津という 名の人と結婚して生んだ子が多遅摩 母呂須玖(タジマ モロスク)である。  ・・・   上に述べた多遅摩 比多訶(ひたか)が、その姪 由良度美(ゆらどみ)と結婚して生 んだ子が葛城 高額比売命である。この人は息長 帯比売命(たらし ひめのみこと)の御 母である。   そして、その天之日矛が持って渡って来た宝物は、玉つ宝といって珠の緒二連、それ から浪を起こす領巾(ひれ)・浪を鎮める領巾、風を起こす領巾・風を鎮める領巾、およ び沖つ鏡、合わせて八種である。これらは伊豆志(いずし)神社に祭る八座の大神である。        --------------------   天之日矛の渡来説話は『三国遺事』に登場する、新羅の日の神である延烏郎(ヨノラ ン)が東の国へ行く説話を想起させます。こちらの方は、かれを追って月の神である妻の 細烏女(セオニョ)も東の国へ行くというストーリーになっていますが、話のモチーフは よく似ています。おそらく何らかの関連があるのでしょう(注2)。   また、アカルヒメが陰部に日の光を受け妊娠して玉を生む話は、高句麗の朱蒙伝説と 同工異曲です。夫余国の王妃である柳花も日の光を浴びて卵を生みましが、その卵から高 句麗の初代王である朱蒙が誕生しました。これがアカルヒメ説話の原形かもしれません。   アカルヒメは難波のヒメコソ神社に祭られたとされますが、大阪市のJR鶴橋駅近く には比売許曽(ひめこそ)神社があります。また、西淀川区で阪神電鉄の姫島駅近くにア カルヒメを祭る姫島神社もあります。   このように記・紀に登場する地名は現在でもその名が残っている場合が多いようです が、天日槍を祭神とする兵庫県の一の宮である出石(いずし)神社ももちろんそのひとつ です。   さて天之日矛は、『古事記』では難波(大阪)と但馬(兵庫県北部)のみに関係する のですが、『日本書紀』では但馬や播磨(兵庫県南部)、近江(滋賀県)が登場します。 また、渡来の時期も垂仁天皇の時代とされ、こう記されました。        -------------------- 『日本書紀』垂仁天皇 三年条   三年、春三月、新羅王の子である天日槍が来帰した。将来した物は、羽太の玉一個、 足高の玉一個、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一個、出石(いずし)の小刀一口、出石の鉾 (ほこ)一枝、日鏡一面、熊の神籬(ひもろぎ)一具、すべて七物である。但馬の国に蔵 して、永く神の物とした。   一書はいう。はじめ天日槍は船に乗って播磨の国につき、宍粟(しさわ)邑にいた。 このとき天皇は、三輪君の祖である大友主と倭直の祖である長尾市とを播磨に遣わして天 日槍に問うた「お前はだれか、どこの国の人だ」。   天日槍は答えた「僕は新羅の国王の子だ。しかし日本国に聖皇ありと聞き、すぐさま 国を弟の知古に与えて帰化した」。   よって葉細の珠、鵜鹿鹿の赤石の珠、出石の刀子、出石の槍、日鏡、熊の神籬、膽狭 浅(いささ)の大刀、あわせて八物を貢ぎ物とした。そこで天日槍に詔して「播磨の国の 宍粟邑と淡路島の出浅邑と、この二つの邑は、お前が心のままにいるがよい」といった。   このとき、天日槍が意をのべて「臣が住むところは、もしも天恩をたれて臣が心から 願う地をゆるすのなら、臣は自分で諸国をめぐってみて、臣の心に合うところを給わりた いと思う」といった。すぐに許した。   そこで天日槍は菟道川(宇治川)をさかのぼり、北は近江の国の吾名(あな)邑に 入ってしばらく住んだ。またさらに近江から若狭の国を経て、西は但馬の国にいたり、住 むところを定めた。   こういうわけで、近江の鏡村谷の陶人は天日槍の従者である。そして天日槍は、但馬 の出嶋(いずし)の人である太耳の娘の麻多烏(またお)を妻にして但馬 諸助(もろす く)を生んだ。諸助は但馬 日楢杵(ひならき)を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。清彦 は田道間守(たじまもり)を生んだ。        --------------------   このように『日本書紀』では、天日槍がいかに日本の聖皇の徳をしたって帰化したの かに力点がおかれて記述され『古事記』とは対照的です。ここにも『日本書紀』の国家意 識があらわに示されました。   なお『古事記』に書かれた、石からうるわしい乙女が生まれる話ですが、『日本書 紀』の一書では、乙女は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が夢中になって追っかけた相 手として、こう書かれました。        -------------------- 『日本書紀』垂仁天皇 二年条   一書はいう、はじめ都怒我阿羅斯等が国にあったとき、黄牛に農具を背負わせ田舎に 行こうとした。と、黄牛がたちまちいなくなった。跡をたどってさがしもとめた。跡は、 ある郡家の中でとまっていた。   ときに老夫がいて「お前のさがしている牛は、この郡家の中に入った。ところが郡公 らが『牛の背負った物から推しはかると、きっと殺して食おうと準備したものだ。もしそ の所有者がさがしにきたら、物を償うだけだ』といって、殺して食べてしまった。もし 『牛の値にどんな物が欲しいか』と問うたら、財物を望むな。『それなら郡内の祭神がほ しい』とそういうのじゃぞ」といった。   しばらくして郡公が郡公らがやってきて「牛の値になにをほしい」といったので、老 夫の教えのように答えた。その祭る神というのは白い石だった。白い石をもって牛の値に つけたのである。   白石を持ってきて寝屋の中におくと、その神の石はうるわしい童女となった。都怒我 阿羅斯等は歓喜して交合しようとした。   ところが都怒我阿羅斯等が席を外しているうちに童女はふいっといなくなってしまっ た。都怒我阿羅斯等はびっくり仰天して、自分の婦に「童女はどこへいった」と問うと、 「東の方へ向かいました」と答えた。   すぐにあとを追い求めたが、とうとうはるかに海を渡って日本国へ入った。求めた童 女は難波までいき、比売語曽(ヒメコソ)の神となった。かつ、豊の国(大分県)の国前 (くにさき)郡に着いて、これまた比売語曽の神となった。二か所ともに祭られたのであ る。        --------------------   ここに書かれたように、石から生まれた麗しい乙女が日本へ行き、難波で比売語曽の 神として祭られたとされたのですが、その美女を追いかけた都怒我阿羅斯等は明らかに 『古事記』の天之日矛と同一人物を描写したとみられます。   ただし、都怒我阿羅斯等は『日本書紀』の別の一書によれば、意富加羅(おほから) の王子で、穴門(山口県?)に上陸し、出雲をへて、笥飯浦(けひうら、敦賀)に泊まっ たと記されました。これは天之日矛を新羅の王子とする『古事記』の記述とはすこし違う ようですが、何度にもわたる新羅からの渡来において、その時期の違いなどが異伝を生ん だのかもしれません。   ところで『日本書紀』に「近江の鏡村谷の陶人は天日槍の従者」「近江の国の吾名 (あな)邑に入ってしばらく住んだ」とされましたが、滋賀県草津市近辺には伝説を地で いくような遺跡がのこされています。   近江の鏡神社で天日槍は「大勢の技術者を従えて医師、薬師、陶師、金工師、建築、 造船、農耕に至るまで広く昔の日本に貢献して下さった神である」と崇拝されました。   また、安羅神社では祭神を「新羅国王子 天日槍」とし、「日本医術の祖神であり、 地方開発の大神であられ、わが国社会文化産業発展史上 甚大な貢献を致された恩人の神 霊」としてあがめられました。ちなみに、安羅神社の社宝は石とされました。これは治療 に用いる温石(おんじゃく)とされるようです(注3)。   天日槍は、記・紀のみならず奈良時代に書かれた各地の風土記にも書かれました。 『筑前国風土記』逸文では「高麗の国の意呂山に天降った日鉾(ひぼこ)の苗裔・五十迹 手(いとで)是なり」と記されました。   また、摂津国風土記(逸文)では、応神朝に夫のもとをのがれて来た新羅国の女神は、 しばらく筑紫の国の伊波比の比売(ひめ)島に住んでいたが、男神の追跡を恐れて、さら に摂津国の比売島に移ったと書かれました。   さらに新羅系の秦人が多く住んだ播磨(注4)でも『播磨国風土記』にその足跡が記 されましたが、その詳細は後にみることにします。   さて、今井啓一氏はアカルヒメが関係した地を次のように整理しました(注5,P250)。 イ.筑前(福岡県)の姫島・姫大神社 ロ.筑前の高磯比咩神・伊覩(いと)県主 ハ.豊前(福岡県)田川郡の香春神 ニ.豊後(大分県)東国東(くにさき)郡の姫島・比売語曽(ひめこそ)社 ホ.(無関係なので削除) ヘ.摂津(大阪市)の姫島・比売語曽社・赤留比売命神社・楯原神社   福岡県の姫島は糸島半島の西 3kmの所にありますが、国学者の本居宣長は摂津国風土 記にみえる伊波比の比売島をこの姫島に比定しました。しかし、この島には比売許曽に類 した伝説がないこともあり、今井啓一氏は否定的です。   同氏はかわりに(ロ)の高磯比咩神を天日槍ゆかりの神としました。この神社は、魏 志倭人伝にいう伊都国地方で有力な豪族である伊覩県主、風土記にいう日鉾の子孫である 五十迹手が奉じる神であり、渡来ルートからみてこの神社、いまの高祖神社が天日槍ゆか りの神社であるとしました(注5)。   つぎに豊前、豊後ですが、これら豊の国には秦人(はたひと)が多く住んだことが知 られています。豊前の香春(かわら)岳は日本最大の銅生産地であり、ヤマト朝廷にとっ て重要な地域でした。銅の採掘や精錬などに秦人がたずさわり、かれらが信仰した神が香 春神だったと思われます。   この神は、豊前国風土記(逸文)によると「むかし、新羅の国の神、みずからわたり 来たりて、この河原に住みき。すなわち、名づけて鹿春(かはる)の神という」と記され ました。香春(かはる)神が鹿春神の転訛であることはいうまでもありません。   香春神社は宇佐八幡宮の古宮、あるいは元宮とされますが、香春神社の祭神は「辛国 息長大姫大目命(からくに おきなが おおひめ おおまのみこと)」とされています(注 6)。辛国は韓国(からくに)をさすことはいうまでもありませんが、この姫がヒメコソ であることを今井啓一氏はこう記しました。  「この香春神の主祭神である辛国息長比咩神を、前引のように卜部兼方・本居宣長、特 選神名牒・神祇志料・同付考などは、比売許曽神としている(注5,P230)」   このように根拠がしっかりしていますが、同神社自身は、その姫を神功皇后と考えて いるようです。   つぎに豊後ですが、姫島にある比売語曽神社は、名前からして明らかに天之日矛とア カルヒメの伝説につながっているようです。おまけにご神体が白い石とされるので、伝説 にピタリです。   このようにヒメコソの伝説や天日槍の伝説は近畿以西に多く残されましたが、それら を総合的にどう解釈するのか、ここはひとつ歴史家の意見を聞くことにします。天日槍に ついて直木孝次郎氏はこう分析しました。        --------------------   古代から広く信仰された名神大社のうち、祭神が外国より渡来したという伝えをもつ 神社は、(出石神社以外)ほかに少ないのではあるまいか。  ・・・   そうしたなかでも出石神社のアメノヒボコだけが新羅の王子と古典に記されているの は、異例である。これをアメノヒボコ伝承の第一の問題点といってよい。   第二の問題点は、アメノヒボコは新羅の王子であって、神ではないのに、出石神社の 祭神になっていることである。現実の人間を祭神として祭ることは日本の原始信仰にはな く、さきにあげた各社の祭神も、はじめから神として姿をあらわすか、あるいは神として 語られている。   氏の祖先を氏神として祭ることはあるが、その場合の氏の祖は伝承上の人物で、現実 に生存した人間ではない。   この場合は、アメノヒボコだけが例外とはいえないだろう。おそらくアメノヒボコは 現実の人間ではなく、信仰の対象として祭られる神の名であって、アメノヒボコが渡来し たというのは、それを祭る集団の渡来を意味するのだろう。   さらに想像すれば、その集団の使用する重要な祭器がアメノヒボコと呼ばれる矛(ほ こ)であったので、それが神の名となったと思われる。その信仰集団が新羅から渡来した ので、第一の問題点とした所伝が生じたのである。   新羅の王子というのは、信仰集団の地位を高めるための作為であって、新羅の王子が 実際にこの集団をひきいてきたのではあるまい。アメノヒボコは明らかに日本語で、新羅 王子の名とは考えられない。   第三に問題にしたいのは、アメノヒボコの名から考えられる信仰の内容である。さき に、神をまつる祭器からきた名ではないかとしたが、アマノヒ(天に輝く太陽)を修飾語 とするホコ(鉄製武器)というのは、いかにも威圧的である。   水や川の神を主要な神として祭る水稲農業の社会--日本--の神の名にはふさわし くない。大陸のきびしい自然と階級支配の進んだ社会における神を思わせる名である。新 羅からの渡来という伝承に適合する。   神話学の大家、三品彰英氏は、弥生時代の祭器である銅鐸が地中に埋蔵された状態で 発見されるところから、銅鐸は地霊・穀霊の依代(よりしろ)であって、その宗儀は地的 宗儀であったと考え、つぎの時代に北方アジアから天をまつる天的宗儀が伝えられた、と 論ぜられたが、アメノヒボコの祭祀はまさにその天的宗儀の流れを汲むものであろう。   しかしそれだけに、アメノヒボコの集団の宗儀・信仰は、在来の日本のそれとは異質 のものであった。アメノヒボコの伝承のつぎの特色は、それにかかわるであろう。   その特色が第四の問題点になるのであるが、渡来したアメノヒボコは、渡来人伝承の 多くの例とちがって、簡単には受けいれられていないのである。まず『古事記』では、ヒ ボコは、自分のもとから逃げた妻のあとを追って、難波に上陸しようとするが、渡りの神 に塞られ、引きかえして但馬に行き、そこに留まった、とある。  『書紀』は本文は簡単だが、「一に云う」として詳しい記事がある。それによると、播 磨国宍粟郡にきたとき、天皇は使者を送って身もとを問い質し、ヒボコは八種の神宝を献 じたのち、宇治川をさかのぼり、近江・若狭をへて、但馬国に留まった、という。   ヒボコの渡来に日本側はある種の拒否反応を示しているが、在地勢力との対立がもっ とも顕著なのは、『播磨国風土記』の伝承である。   たとえば揖保(いぼ)郡 揖保里の粒丘(いいぼのおか)の条では、韓国から渡って きたヒボコは、宿を土地の神の葦原志挙乎に請うが、志挙乎は上陸を許さず、海上に宿ら せた。ヒボコは剣で海中を掻きまわして宿ったという。  ・・・   これらの伝承は、新しい信仰を奉ずる渡来人の集団が、従来の信仰をもつ土地には定 着しにくかったことを物語るものであろう。   しかし、そうした話が、とくに播磨の西部の宍粟郡・揖保郡に多いのは、現実にこの 地方に新羅系渡来人が多かったからではあるまいか。   新羅系と考えられる秦氏や秦氏と同族の伝承をもつ巨智(こち)氏が西播地方にひろ く分布していることは、古代の史料では立証できるし、『播磨国風土記』には、飾磨(し かま)郡 枚野里に新羅の人が渡来したので、この地を新羅 訓(くに)という伝えがある。   渡来人たちは、当初 若干の摩擦を引きおこしたが、しだいに融和してこの地方に住 みつき、土地の人びとも渡来人の伝える新しい宗教を新しい文化とともに受けいれたので あろう。   アメノヒボコが但馬にとどまり、出石にまつられたというのも、この地方に新しい祭 儀をうけいれやすい条件があったからだろう。その条件とは日本海を流れる対馬海流に のって、新羅方面の人びとが早くから但馬の地方に渡来し、ヒボコ集団の奉ずる天的祭儀 がおこなわれていたことである。   ヒボコ集団を特定の、一回限りのものと考えてはいけない。同種の集団がなん度もな ん度もこの地方に渡来し、土着の人びともその新しい宗教・宗儀に違和感をもたなくなっ ていたのであろう(注7,P20)。        --------------------   当時としては画期的な鉄製の矛などの武器を身につけ、異国語を話し、天孫の選民思 想をもった異集団が襲来したのでは、さぞかし地元の土着民には脅威だったにちがいあり ません。播磨や難波など、地元民の拒絶反応が強くて当たり前といえます。   直木氏は、但馬の土着民は「宗教・宗儀に違和感をもたなくなっていたのであろう」 と述べましたが、そうかもしれません。しかし、いきなり最初からすんなり土着民に受け いれられたとは考えにくいところです。渡来人は、招かれて移住したのならともかく、そ うでない場合は土着民が住みにくい未開地に移住せざるをえなかったのではないかと思わ れます。   但馬はそんな土地だったようです。天日槍を祭る出石神社の「由緒略記」は、天日槍 を「当時、泥海であった但馬を瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現 在の肥沃な但馬平野を現出され、円山川の治水に、殖産興業に功績を遺された神として尊 崇を集めております。また、鉄の文化を大陸から持って来られた神ともいわれています」 と記しました。   このように天日槍は但馬では鉄器をもち、大規模な治山・治水に取り組み、但馬平野 を作りだした開拓者とされましたが、近江でも同じような見方をしていることは前に書い たとおりです。   結局、天日槍集団のイメージは、高度の産業、農業技術や医術をもったフロンティア として、日本各地を開拓したパイオニアといったところでしょうか。 (注1)半月城通信<皇国史観と神功皇后伝説> (注2)半月城通信<天日槍> (注3)半月城通信<琵琶湖東南の渡来人> (注4)半月城通信<大酒神社と世阿弥と赤穂浪士> (注5)今井啓一『帰化人と社寺』綜芸舎、1969 (注6)半月城通信<ナゾの秦王国と宇佐八幡宮> (注7)直木孝次郎『古代日本と朝鮮・中国』講談社学術文庫、1988 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    下條正男氏への批判、朝鮮史書改ざん説 2004/11/14   半月城です。   下條正男氏に対する批判を継続します。今回は同氏の主張する「ある朝鮮史書の改ざ ん」をとりあげます。「ある朝鮮史書」とは、英祖の命により編纂された百科全書風の文 献である『東国文献備考』の「輿地考」をさします。   その史書に引用された『輿地志』逸文によると、朝鮮は日本の史書より先に于山島と される松島(竹島=独島)を認識していたことになります。そのためか、この「輿地考」 と『輿地志』(1656)の検討は同氏にとって非常に重要なポイントになるようです。   ここでいう日本の史書とは『隠州視聴合記』をさしますが、実際のところ、朝鮮の史 書が竹島=独島を認識したのはその史書より前であろうと後であろうと領有権論争にはほ とんど影響しません。   というのも、下記に書いたように『隠州視聴合記』の記述をみると、日本の限界は松 島や竹島ではなく隠州であり、竹島(鬱陵島)は朱印船がいくような外国の島であると認 識されていたので、この史料は領有権論争に影響しないからです。  <下條正男氏への批判、『隠州視聴合紀』>   しかし『隠州視聴合記』(1667)こそが竹島=独島を歴史的に日本領とする不動の史料 と誤解している下條氏にとっては、同書以前に竹島=独島を認識していた『輿地志』が存 在したとなると、どうやら都合が悪いようです。   現在『輿地志』は伝わらず、引用文が『東国文献備考』と『疆界考』の二書に残され ました。『疆界考』は、朝鮮歴代国家の領域を中心に記述した書ですが、両者とも申景濬 が編纂しました。しかし、両書では輿地志からの引用の仕方が下記のように微妙にこと なっています。 (1)『東国文献備考』「輿地考」(1770)  「輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島 なり(注1)」 (2)『疆界考』(1756)  「按ずるに 輿地志がいうには 一説に于山 鬱陵は 本一島 しかるに諸図志を考えるに 二島なり 一つはすなわちいわゆる松島にして けだし二島ともにこれ于山国なり(注2)」   引用の体裁ですが、(1)は上記の一節だけを特に小さな字で、(2)は上記の一節の みを段落を変えて記しました。いずれも、上記の部分は特に他と区別されて記述されまし た。また、原文には句読点などは一切ありません。   つぎに内容ですが、表現はちがっても内容はほとんど同じとみられ、申景濬は『輿地 志』の解釈として于山島は日本の松島であり、于山国に属するとして『疆界考』や『東国 文献備考』を記述しました。   ところがこれに異をとなえたのが、くだんの下條正男氏でした。同氏は『疆界考』に おける『輿地志』からの引用は「一説に于山 鬱陵 本一島」の部分のみで、それに続く 「しかるに・・・」以下の部分は著者である申景濬の考察であると主張して『疆界考』を こう読みくだしました。  <按ずるに、「輿地志に云う、一説に于山 鬱陵 本一島」。而るに諸図志を考えるに二 島なり。一つは則ち其の所謂 松島にして、蓋し二島ともに于山国なり(注3,P101)>   同氏はこのように申景濬が按じた内容は、単に「輿地志に云う、一説に于山 鬱陵 本 一島」の部分として、そこでピリオドを入れました。しかし、原文には句読点などはない ので、そこの部分にピリオドを入れる必然性は何もありません。これは検討を要します。   こうして、同氏は『疆界考』において于山島が松島であると考察した者は申景濬であ り、それを『東国文献備考』ではさも『輿地志』からの引用であるかのように書いたので あり、これは『輿地志』の改ざんであると断言しました。   はたしてこの説は成立するでしょうか? 申景濬に引用された『輿地志』は、当時は もちろん実在し、知られていたことでしょう。そうした中で下條氏のいうような、容易に 指弾されるような「改ざん」を学者がはたしておこなうでしょうか?   改ざんなどという発想は、下條氏ならではことではないでしょうか? 同氏は、下記 のように自説をしばしば変えような「学者」なので、そんな着想がうまれるのかもしれま せん。  <下條正男氏への批判、勅令41号>   素朴な疑問はともかくとして、つぎに『疆界考』の内容を検討してみることにします。 「輿地志に云う、一説に于山 鬱陵 本一島」という部分ですが、この文章からは『輿地 志』の著者が「本一島」という一説を有力視していたといえるでしょうか?   ふつう「一説」を紹介するとき、ほかに「本説」が書かれるものです。その場合、著 者はもちろん本説を有力視し、一説を参考程度に考えるものです。たとえば、1481年に成 立した『東国輿地勝覧』を例にとりあげます。そこに于山島はこう書かれました。  「蔚珍縣 于山島、鬱陵島  一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある・・・  一説によると于山、鬱陵島は本来一島という」  <『東国輿地勝覧』と于山島>   この文献から下條流に「一説によると于山、鬱陵島は本来一島という」という部分だ けを切りとれば、『東国輿地勝覧』は一島説であると誤解しかねません。しかし真実は、 『東国輿地勝覧』は見出しにあるように二島説を本説とし、付属の地図にも二島を描き、 一島説は参考程度にとどめました。   これと同様に『輿地志』で「一説に于山 鬱陵 本一島」と書いたのなら、その著者の 本説は別にあるはずです。こうした検証からすると、下條氏の下記「改ざん説」は成り立 たないと思われます。        --------------------   柳馨遠の『輿地志』の「一説に于山鬱陵 本一島」という文章は、まず申景濬の『疆 界考』の按記で、于山島と鬱陵島が別々の島であることを主張するための材料として引用 され、さらに「輿地考」の文中で洪啓禧の手が加わって、「輿地志に云う、鬱陵、于山、 皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂 松島なり」という形に改竄されていたのである(注3, P102)。        --------------------   結局、この文章もまさに同氏のいう「我田引水的 文献解釈」のひとつではないでしょ うか。   なお、于山島と鬱陵島は別々の島でであるという認識は『輿地志』が書かれた1656年に はすでに成立していたと見るべきではないでしょうか。この認識は、1432年の『世宗実録』 地理志ですでに示されていました。 。  「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が 清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。一に鬱陵島ともいう。 その地の大きさは百里(40km)である」  <『世宗実録』と于山島>   前回書いた安龍福は、于山島は松島(竹島=独島)であるという認識をどの時点で もったのかは不明ですが、かれは 1696年に日本へ乗り込んだとき、こう語りました。  「松島はすなわち于山島、これまた我国の地」   かれの渡日やその後の活動により、朝鮮で于山島=松島という認識が強まり、『東 国文献備考』や『萬機要覧』『増補文献備考』などの官撰史料で于山島は着実に朝鮮領 と認識されました。また、日本でも朝鮮と同じ認識が確実になったのですが、これはす でに下記に書いたとおりです。  <江戸時代の「竹島一件」> (注1)申景濬『増補文献備考』巻之三十一「輿地考十九」蔚珍古縣浦条  「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」 (注2)申景濬『旅菴全書』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島  「按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島 而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而蓋二島倶是  于山國也」  (原文には句読点やスペースなどは一切ありません) (注3)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文藝新書,2004 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    下條正男氏への批判、竹島=独島放棄 2004/12/ 5 Yahoo!掲示板「竹島」#6152   半月城です。   下條正男氏に対する批判を継続します。今回は、明治政府が松島(竹島=独島)を放 棄した問題をとりあげます。   1877年、明治時代の最高国家機関たる太政官は、「竹島外一島」は本邦に関係なしと 心得るべきという指令を発し、竹島(鬱陵島)と松島(竹島=独島)を放棄しましたが (注1)、下條氏はどうしてもこれに承服できないとみえてこう記しました。        --------------------   この太政官による審査は、十分とはいえなかった。「竹島外一島」の「一島」が、今 日の竹島を指すのかそうでないのか、判然としないからである(注2)。        --------------------   このように下條氏は「一島」がどこを指すのか判然としないと書きましたが、そんな ことはありません。関係書類で「一島」は明確になっています。下條氏はその関係書類を 恣意的に無視しているようです。   関係書類ですが、島根県が内務省へ提出した「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」 (「島根伺い」と略す)に、「現在まで古書や古い書状が伝えられていますので、別紙の ように由来の概略や図面をそえ、とりあえず申しあげます」と書かれ、詳細な資料が添え られていることが記述されました(注3)。   その添付書類のひとつに「由来の概略」があります。この書類で「一島」がどこを指 すのかが明らかになっています。   ところが、下條氏は「島根伺い」の存在にはふれても、領有権問題のキーになる重要 な「由来の概略」、原文でいう別紙「原由の大略」についてはまったく無視しているよう です。これも同氏のいう「我田引水的 文献解釈」ではないでしょうか。   下條氏が意識的に避けていると思われる「由来の概略」には何が書かれているのか、 それについてはすでに書いたとおりなので、ここでは核心になる部分の口語訳を引用しま す。  「磯竹島、あるいは竹島と称する。隠岐国の北西120里(480km)ばかりのところにあ る。周囲およそ10里(40km)である。山は峻険で平地はすくない。川は3条ある。また滝 がある。しかし、谷は深くうっそうと樹木や竹が繁り、水源を知ることはできない。  ・・・   次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠 岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカ か)を産する(注4)」   この文に記載された松島、竹島の位置関係を整理すると下記のようになります。     隠岐 ー(80里)ー 松島 ー(40里)ー 竹島   ここに記載された島同士の距離は、欧米の地図に影響されていない江戸時代の松島、 竹島を記した他の史料ともよく合致します。また、島同士の相対的な距離関係や島の大き さや様子などが現在の竹島=独島および鬱陵島に大筋で合致するし、隠岐の沖合に上記の 距離くらい隔たった島は明らかに鬱陵島と竹島=独島の二島しか存在しません。   したがって「島根伺い」で「外一島」と記載された松島は現在の竹島=独島をさして いることは疑いありません。これは「竹島日本領派」の塚本孝氏すら認めました。同氏は こう記しました。  「この“竹島”は鬱陵島のことであり“ほか一島”は同じく江戸時代に渡海した松島す なわち今日の竹島のことである(注5)」   ところが、下條氏は肝腎かなめの「島根伺い」の内容には目もくれず、例の「我田引 水的 文献解釈」をもちだしてか、「一島」を松島(竹島=独島)と解釈しない理由をこ う書きました。  <もしその「一島」が今日の竹島だったとすれば、「本邦関係これ無き」というはずが ない。佐田白茅の報告を考察した際と同じ議論で、今日の竹島を日本領とする「書留」が すでにいくつもあったからである(注2)>   下條氏は「一島」が今日の竹島=独島かどうかを検討するのに、本丸である「一島」 を説明した「島根伺い」の関連文書を吟味するのではなく、かわりに三の丸あたりをこね 回し、松島(竹島=独島)を日本領とする「書留」があるから太政官は「本邦関係これ無 き」というはずがないとしました。その論法には唖然とせざるをえません。   それでも一応は下條氏の考えを聞いてみることにします。同氏は、松島(竹島=独 島)を日本領とする「書留」として三つの資料を持ちだしました。  (1)『隠州視聴合紀』  (2)『竹島図説』  (3)『長生竹島記』   しかし、これらの文献は、松島(竹島=独島)を日本領とするにはほど遠い史料であ ることはすでに論破したとおりです(注6)。したがって、それらの「書留」がなんら根 拠とならないことがはっきりした以上、下條氏の説は砂上の楼閣のように土台からくずれ さるしかありません。   さらにつけ加えるなら「一島」を不明とする下條氏は、それなら「一島」はどこかと いう点にはまったくふれませんでした。それは竹島=独島以外に候補が考えられないので、 安易にほかの島に比定するのが困難だったようです。 (注1)半月城通信<明治政府の竹島=独島放棄> (注2)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004,P123 (注3)半月城通信<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(1)> (注4)半月城通信<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2)> (注5)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号,1996,P5 (注6)半月城通信<竹島=独島「日本の固有領土」説の検証>


    国際司法裁判所への誤解 2004/12/12 Yahoo!掲示板「竹島」#6387   半月城です。   Re:6333 >だから、日本政府は国際裁判所で白黒付けようと言うんでしょう。   ちょっと待ってください。現在、日本政府は竹島=独島問題を国際司法裁判所に提訴 していると誤解している人が多いようですが、これは明らかな間違いです。   意外に思われるかもしれませんが、過去 50年間、「日本政府は国際裁判所で白黒付 けよう」として動いたことは一度もありませんでした。ちなみに裁判に関して、外務省の ホームページは下記のように書いています。 >(注2:1954年(昭和29年)9月、我が国は本件問題につき国際司法裁判所に提訴するこ とを提案したが、韓国側は右提案を拒否。なお、日韓両国間では国交正常化の際に「紛 争の解決に関する交換公文」を締結。)   このように、国際司法裁判に関する話は 50年以上も昔の話です。当時、日本政府は 国際司法裁判所で勝てるかもしれないと本気で思いこんでいたようです。それというのも、 韓国政府側に反論に必要な日本の史料がほとんどなかったので弱かったのと、竹島=独島 をめぐる多くの真実がまだ公になっていない段階だったので、日本政府はよほど自信が あったようです。   しかし、もし現段階で国際司法裁判で審議されるとなると、一番困るのは日本の外務 省ではないでしょうか。それは外務省の情報隠しが満天下にさらされるためです。   たとえば、明治政府が竹島=独島を朝鮮との関係で放棄した事実です(注1)。あるい は「松島(竹島=独島)渡海免許」が存在しないという事実です(注2)。これらは、国立国 会図書館の塚本孝氏のように、竹島=独島を日本領と考える日本の学者すら認めている事 実です(注3)。   また、外務省が日本領の有力な根拠としてきた『隠州視聴合紀』は、実は逆に不利な 材料になってしまい(注4)、「固有領土」の主張が根底から危うくなりました。それに 追い打ちをかけるように、1905年の領土編入でも日本政府は竹島=独島を「無主地」と断 定して「領土編入」したのであり、決して「固有領土」とは考えてはいなかったことも明 らかになりました(注5)。   さらに元禄期の「竹島一件」の時、江戸幕府は松島(竹島=独島)の存在すら知らな かった事実も今では明らかになっています(注6)。こうした経緯からして、どうみても 裁判で日本に勝ち目は薄いとみられます。そのためか、最近の竹島=独島が関係する日韓 交渉、たとえば海洋法条約関連などで国際司法裁判所の件はおくびにも話題になりません でした。   今や、情報隠しやウソまみれの外務省にとって、裁判は最も避けたい解決手段ではな いでしょうか。もし、外務省に自信があるのなら、北方領土問題のようにしっかりした冊 子ないしは資料集をつくっているはずと思われますが、現状はごく簡単なホームページの みでお茶をにごしているようです。   将来、もし外務省の本格的な資料集が出たら、そこで明治政府の竹島=独島放棄をど う記述するのか、その時を私は楽しみにしています。 (注1)半月城通信<明治時代における松島、竹島放棄> (注2)半月城通信<「松島(竹島=独島)渡海免許」> (注3)半月城通信<「竹島日本領派」の松島(竹島=独島)放棄への対応> (注4)半月城通信<下條正男氏への批判、『隠州視聴合紀』> (注5)半月城通信<竹島=独島の領土編入> (注6)半月城通信<竹島=独島と鳥取藩池田家文書>



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