半月城通信
No.128 (2007.8.21)

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    目次

  1. 日本の公的な官撰地図、舩杉氏への批判
  2. 太政官 正院地誌課の結論
  3. 『朝鮮水路誌』のとらえ方、舩杉氏への批判
  4. 「韓国松島沖」での漂民救助
  5. 朝鮮史書「改ざん」説、下條氏報告書への批判
  6. 安龍福が見た于山島はチクトウ(竹島)? 下條氏への批判
  7. 「竹島=独島問題ネットニュース」9、2007.8.20

  8. 日本の公的な官撰地図、舩杉氏への批判 2007/ 7/29 Yahoo!会議室「竹島」No.15696   半月城です。   前に書いたように、舩杉氏は最終報告書に雑多な地図を掲載しても、領有権問題の核 心になる日本の「地理担当部署」による日本地図を一枚も掲載しませんでした。   このように恣意的に資料を取捨選択したのでは、我田引水的な結果しか出ないのは火 を見るより明らかです。これでは、最終報告書の読者が日本政府の竹島=独島に対する領 有意識の経緯を確認するのは困難です。   そのように最終報告書でスッポリ抜けおちている日本の「地理担当部署」の公式見解、 とりもなおさず日本政府の公的な領有意識の推移を追跡したいと思います。その手始めと して、日本の「地理担当部署」とはどこかをはっきりさせたいと思います。 戦前の地理担当部署  1869(明治2)年 民部官に庶務司 戸籍地図掛を設置  1870(明治3)年 民部省に地理司を設置  1871(明治4)年 民部省の廃止にともない、太政官 正院(せいいん)地誌課となる  1874(明治7)年 内務省の地理寮となる  1877(明治10)年 内務省の地理局となる  1884(明治17)年 内務省の大三角測量事業を参謀本部の測量局に統合  1888(明治21)年 測量局が参謀本部の陸地測量部になる。 戦後  1945(昭和20)年 内務省に地理調査所が発足  1948(昭和23)年 地理調査所は建設省の付属機関となる  1960(昭和35)年 地理調査所の名称を国土地理院と改称   舩杉力修(ふなすぎ りきのぶ)氏は上記部署の地図を一枚も掲載しなかったのですが、 若干のコメントはつけました。まず、内務省の『大日本府縣分轄圖』について最終報告書 でこう述べました。  <「大日本府県分轄図」では松島を山陰道と彩色している(P159)>   舩杉力修氏は、あたかも松島が山陰道に属しているかのように記しましたが、この記 述は非常に疑問です。国会図書館に貴重書として所蔵されている『大日本府縣分轄圖』 (1881)中の「大日本全國略圖」において、隠岐島は山陰道として彩色されていても、竹 島・松島は彩色されませんでした。ただし、隠岐周辺などの小さな島も彩色されませんで した(注1)。   元来「大日本全國略圖」は朝鮮半島や「魯西亜領満州(ママ)」などを含む極東図で あるだけに、松島が彩色されていなければ、同図から松島は日本領として認識されたかど うかは不明です。それを知るためには、他のページに竹島・松島がどう扱われているのか を見る必要があります。   他のページを丹念に見ても、竹島・松島はどのページにも描かれませんでした。もち ろん「島根 岡山二縣圖」にも記載がありません。ちなみに、当時の島根県は鳥取県を含 みました。このように松島は詳細な地方図に描かれていないので、これを日本領とみるこ とは無理です。   さらに、それを裏付ける資料があります。『大日本府縣分轄圖』中の「青森縣圖」に 全体の序文が記されましたが、そこにヒントがあります。序文の読み下し文は下記のとお りです。        --------------------   この図、もっぱら行政上 郡区管轄を周知するを要し、3府37縣および北海道を 析って共に15幀とし、繁を省き、要をとり、設色して以て披覧に便にす。その精悉のご ときは地誌課すでに銅鐫大日本國全圖あり。今、彼に譲り、またこれを贅せず。   明治14年5月            内務省地理局                         監修 塚本明毅                      製図 吉田晋 高橋不二雄        --------------------   この序文を読むと、もともと『大日本府縣分轄圖』は簡略版であることがわかります。 たしかに同書は、各地図の大きさが 40 x 20 cm くらいと小さく、一目でコンパクト版と わかります。したがって詳細を知るためには、序文に書かれたように銅版の「大日本國全 圖」を見る必要があります。   同図は前年の1880年に発刊されました。この地図の作成には『大日本府縣分轄圖』と 同一部署の同一人物などがかかわりました。大きさは 161×151 cm で本格的な地図です (注2)。   この地図にも竹島・松島は記載されませんでした。これは、内務省の「大日本府縣管 轄圖」(1879)に竹島・松島が記載されなかったので、その流れから当然といえます。当 時の内務省のすべての地図は、竹島・松島を本州に属さないとした同省の『日本地誌提 要』(1878)を地図で表現したものといえます。両島が本州に属さなければ、もちろん九州 や北海道にも属さないし、日本領ではありえません。   ときに、地理担当部署が発足する前の官撰地図としては、江戸時代の伊能忠敬の地図 を元にした「官板 実測日本地図」をあげることができます。これは 1867(慶応3)年に 発刊され、1870(明治3)年にも東京大学の前身である開成学校(大学南校)から再版さ れました。この地図について徳島大学図書館はこう解説しました。        --------------------  本図は,江戸幕府が開港政策をとり,航海用の正確な沿海地図が必要となったことから, 伊能忠敬が作製した全国初の実測日本図である「大日本沿海輿地全図」(文政4年,1821) の小図をもとに,開成所から発行されたものである.「官板 実測日本地図」は,間宮林 蔵が測量した「北蝦夷(樺太)」図幅を含めて4鋪からなり,本図はそのうちの西南日本 の沿海地図である.明治3年(1870)には同じ版木を使って,大学南校(東京大学)から 再版されている.「輯製20万分の1地形図」(明治26年,1893)などにみるように,伊能 図は明治以降も多くの地図の基本図となった(注4).        --------------------  「官板 実測日本地図」は明治時代の地図の基本になった官撰地図ですが、その中の 「山陰 山陽 南海 西海」版などにも竹島・松島は記載されませんでした(注3)。な お、伊能図以前の官撰地図としては江戸幕府により日本国の絵図が4回編纂されましたが、 いずれにも竹島=独島は記述されませんでした。   時代は飛んで、1905年に竹島=独島を「領土編入」した後の状況はどうでしょうか。 当然、同島は日本領として描かれるべきですが、なぜか島根県のホームページに掲載され ている島根県の古地図は一枚として竹島=独島が記載されていないようです。   中には島根県土木課作成の島根県地図もありますが、竹島=独島は抜けおちています (注5)。島根県ですら竹島=独島に対する領土意識は希薄だったようです。これは、政 府レベルで竹島=独島をこっそり日本領へ編入したツケが回ったのでしょうか。   つぎに、戦後はどうでしょうか? 舩杉氏は次のように記しました。        --------------------   国土地理院に照会したところ、戦後の地図では、昭和33年(1958)の250万分の1地図 「日本とその周辺(2)」、昭和46年(1971)以降の300万分の1地図「日本とその周辺」、 昭和46年(1971)以降の5万分の1地図「西郷」(500万分の1位置図)、昭和46年(1971) 以降の2.5万分の1地図「西村」(250万分の1位置図)などに、竹島が記載されているこ とが分かった(P161)。        --------------------   舩杉氏の国土地理院への照会は不充分だったようです。私の調べでは 1958年以前に も国土地理院は竹島=独島を日本領と認識していました。「竹島」の記述自体は 1947年 に内務省の地理調査所で編纂された「日本全圖」および 1948年に建設省の地理調査所で 編纂された「日本全図」にも記載されました。ただし、これらは北方の「クナシリ」など と同様に日本の周辺として描かれたのであり、日本領とはされませんでした。   1948年版の「日本全図」は1952年に修正されましたが、依然として竹島=独島やクナ シリは外国領のままで描かれました。これは、毎日新聞社が出版した『対日平和条約』付 属の「日本領域図」(注6)の認識にほぼ等しいようです。すなわち、サンフランシスコ 条約でも竹島=独島は日本領にならなかったという認識を地図で表現したことになります。   その「日本全図」は、さらに1955年に「一部増補」がおこなわれ、この時に竹島=独 島やクナシリなどは初めて日本領として描かれました。「日本領」を明確に表現するため、 竹島=独島と欝陵島との間には国境線が引かれました。竹島=独島における日韓間の銃撃 事件をきっかけに世論に押されたのか、地理担当部署は同島を日本領に組み入れたようで す。その後の国土地理院の地図は最終報告書に書かれたとおりです。   以上の変遷を総合すると、日本政府の公的な地理担当部署の認識は、神代の昔から 1954年にいたるまで、「領土編入」から終戦までの一時期を除いて、竹島=独島を日本領 と認識したことは一度もなかったようです。 (注1)内務省地理局『大日本府縣分轄圖』1881 (注2)内務省地理局「大日本國全圖」1880、岐阜県地図世界センター所蔵 (注3)伊能忠敬「官板実測日本地図、山陰 山陽 南海 西海」 (注4)同上、書誌事項 (注5)島根県デジタルライブラリー「島根県地図」 (注6)毎日新聞社編『対日平和条約』付属地図、毎日新聞社、1952 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 太政官 正院地誌課の結論 2007/ 8/12 Yahoo!会議室「竹島」No.15720   半月城です。   ararenotomoさん、No.15715 >半月城さんは『日本地誌提要』は竹島・松島を日本領としなかったと述べましたが(No. 15674)、塚本明毅には、「松島竹島」を隠岐の属島とし、日本領とする意図があったと 思います(Nos.15675, 15677)。   塚本明毅は、内務省地理局において明治初期の日本地図の製作を監修しました。もし、 かれに竹島・松島を日本領にする意図があったのなら、地理局発行の『大日本國全圖』 (1890)や『大日本府縣分轄圖』(1881)の山陰地方などに竹島・松島を載せたのではないで しょうか。   竹島・松島を本土外と記述した『日本地誌提要』「隠岐」条の編纂は太政官 正院地 誌課(1871-74)によりおこなわれましたが、その時、すでに竹島・松島を日本領にする のが無理だという調査結果が出ていたと思われます。   島根県「竹島問題研究会」の最終報告書に「幕府関係者が編修した『磯竹島事略』に は・・・」と記されていますが、幕府が竹島(欝陵島)を放棄した事情を記した『磯竹島 事略』(磯竹嶋覺書)を正院地誌課は知っていたか、あるいはもしかすると自ら編纂した のではないかと思われます。   その上で、竹島・松島を日本領とする無責任な地図に警鐘を鳴らす意味で、両島が日 本の領土外であることを明確にしたのではないでしょうか。   ともあれ、地理担当部署である地誌課による『日本地誌提要』の記述は相当なインパ クトがあったようで、地理学者の田中阿歌麻呂はその影響を『地学雑誌』にこう記しまし た。        --------------------   明治の初年に到り正院地誌課に於て其(竹島=独島、半月城注)の本邦の領有たるこ とを全然非認(ママ)したるを以て、其の後の出版にかかる地圖は多く其の所在を示さざ るが如し、明治八年 文部省出版 宮本三平氏の日本帝国全圖には之れを載すれども、帝国 の領土外に置き塗色せず、又 我海軍水路部の朝鮮水路誌には、リアンコールト岩と題し、 リアンコールト號の發見 其他外国人の測量紀事を載するのみなり(注1)。        --------------------   地理局が地図で竹島・松島を扱わなくなったため、逆に竹島・松島の島名混乱を招い てしまったようです。竹島・松島は日本領でないとの結論なので、それもやむを得ないと ころです。 (注1)田中阿歌麻呂「隠岐國竹島に關する舊記」『地学雑誌』第200号,1905,P594 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 『朝鮮水路誌』のとらえ方、舩杉氏への批判 2007/ 8/ 6 Yahoo!会議室「竹島」No.15711   半月城です。   舩杉氏は最終報告書において『朝鮮水路誌』の性格をどうとらえているのか、どうも 矛盾しているようです。同氏は、『朝鮮水路誌』は朝鮮の「領土の範囲」を規定している とみるのか、それとも単に朝鮮沿岸の水路を記述したにとどまっているとみるのか、それ らがゴチャゴチャになっているようです。同氏はこう記しました。        --------------------  ③『朝鮮水路誌』。明治27年(1894)水路部刊行。・・・   この史料では、第一編総論の形勢のところで、朝鮮国の範囲を記している。朝鮮国の 範囲、東限は東経130度35分と記している。『朝鮮水路誌』では、鬱陵島(中心)は東経 130度53分・リアンコートルト列岩(現在の竹島)は東経131度55分としていることから、 朝鮮国の東限は鬱陵島であり、現在の竹島は入っていないことが分かる。  ・・・・・・   また朝鮮国の東限は鬱陵島としており、現在の竹島は属島ではなく、単独の岩として 記載しているのである。こうしたことから、水路部、ひいては日本政府は、竹島を朝鮮領 とは認識していなかったことが分かる。海図や水路誌の作成目的は、航行の安全確保のた めであった。  「日本水路誌」には初期(明治初期から中期)の水路測量の項目で、海図、水路誌の作 成目的を以下のように記している。「水路測量の業務は、その関係することが大きく、有 事の際には艦の進退・兵備に過誤のないように、平時においては航路の安全に備えて、海 図および水路誌を刊行することを目的とする。そのため有形・無形の水路を詳明し、諸種 の海難を防ぎ、安心して航行・停泊を可能にする要具としたい」(海上保安庁水路部、 1971)とある。   また「水路部こそ日本の国境画定機関」との指摘(朴炳渉2005)や、水路部は「水路 誌の編纂をとおして、日本における国境画定機関に成長しました」(注1)が、上記文献や 海上保安庁での調査によれば、水路部は島嶼、岩礁など海図作製のための調査機関であり、 「国境画定機関」ではないことは明白である(P154)。        --------------------   舩杉力修氏は、水路部を「国境画定機関」ではないと考えるなら、水路誌から「日本 政府は、竹島を朝鮮領とは認識していなかった」などと、領土と関連づけるような読みと り方をなぜするのでしょうか?   しかもその論理には飛躍があります。明治「初期から中期」における水路誌の作成目 的を単純に明治後期にまで延長し、水路部は<「国境画定機関」ではないことは明白であ る>と短絡的にとらえました。明治後期における水路部の役割には目もくれないようです。   実は、水路部は東アジアでの測量をとおして水路や島嶼を熟知するようになった実績 に立ち、明治後期である日清戦争のころには帝国主義国家の先兵として領土拡張に一役買 うようになったのでした。   その実例が竹島=独島の「領土編入」時における水路部の役割です。よく知られてい るように、島根県の中井養三郎が「りやんこ島領土編入 並 貸下願」を内務省などに提出 する時にリヤンコ(竹島=独島)の所属を確かめた先が水路部でした。   また、中井の請願書を紆余曲折の末に受けつけた内務省は「領土編入」を閣議にはか る際、関係書類として「水路部長の回答」を添付しました(注2)。この一連の過程におい て、水路部が竹島=独島を「無主地」と強弁したからこそ「領土編入」の閣議決定が可能 になったのでした。このようにして水路部は日本の「実質的な国境画定機関」に成長した のでした。   その水路部が作成した『日本水路誌』は、対象は厳密に日本領に限られました(注3)。 『日本水路誌』において記述されなかった島嶼は日本領とは認識されませんでした。   その好例が竹島=独島です。同島は「領土編入」以前に作成された『日本水路誌』第 四巻では何ら記述されなかったのですが、「領土編入」後の同巻第一改版で“竹島 [Liancourt rocks]”の名称で初めて記述されました。   そのうえ、同島が日本領になったことを明確にするため、文末にわざわざ「明治三十 八年島根縣ノ所管ニ編入セラレタリ」との説明を加えられました(注4)。水路部がこの時 に初めて同島を日本領と認識したことは明らかです。   それ以前の竹島=独島に対する認識はどうであったのか、その回答が『朝鮮水路誌』 におけるリアンコールト(竹島=独島)の記述です。同島を『日本水路誌』ではなく『朝 鮮水路誌』に組み入れたのは、同島は朝鮮領という認識をもっていたからと解されます。   竹島=独島海域は歴史的には、舩杉氏も記した『長生竹島記』や『石見外記』などに 見られるように日本では江戸時代末期の北前船にかなり利用されていました。幕末、かの 高田屋嘉兵衛の千石船は速い海流などを利用すべく、竹島=独島と欝陵島の間を通った逸 話などはよく知られているとおりです。   そのため、この時期の多くの地図は松島(竹島=独島)のみか竹島(欝陵島)までも日本 領として描かれました。もっともそれらは例外なく日本の地理担当部署が作成した公的な 官撰地図ではないので無責任であり、領有権を論じる場合にはほとんど無価値です。   それはともかくとして、もし『日本水路誌』が海図と同様、単純に日本の水路を扱う 性質の書であれば、過去の経緯から竹島・松島は同書に載せられてしかるべきでした。そ うならなかったのは、両島の記載が、『日本水路誌』は日本領だけを扱うという方針に反 したからではないでしょうか。   一方、『朝鮮水路誌』は基本的に外国のことを記した水路誌なので、そこで領土をす べて正確に取り扱うのは困難です。また、水路部はそのような作業をおこなう機関でもな いし、そうした実力がないことも明白です。ここが『日本水路誌』との大きな違いです。 そのため、『朝鮮水路誌』に書かれた領土範囲の規定は不正確で当然です。   実際、同誌は朝鮮の北限を北緯42度25分としましたが、そこには朝鮮と清国で領有権 をめぐってもめていた間島地域を考察した形跡がまったくみられません。また、その必要 性もほとんど皆無です。したがって、そのような北限の緯度の数値は概略値と理解すべき です。   また、同誌は朝鮮の南限を北緯33度15分としましたが、そこに馬羅島(北緯33度7分) が抜けているのは明白です。その理由として舩杉氏は、馬羅島が済州島の付属島であるか らとかいうような言い訳めいたことを書いていますが、その前に『朝鮮水路誌』の性質か ら南限の緯度も概略値と理解すべきではないでしょうか。   また、同誌がナホトカ南東のワイオダ岩を記述したとしても、同誌が外国領土の所属 を正確に規定する性質の書ではないので、単純に水路の安全上の観点から記したものと自 然に理解されます。   以上の考察からすれば、舩杉氏が、同誌の総論にごく簡単に書かれた朝鮮の東限の経 度をもとに、竹島=独島が朝鮮領と認識されていなかったと書いたのは、木を見て森を見 ずの類ではないでしょうか。 (後半は都合により、別稿<「韓国松島沖」での漂民救助>として分割します) (注1)原著注は、<半月城通信121号(2006年8月)「太政官指令後の竹島=独島認識」> (注2)公文類聚・第二十九編・明治三十八年・第一巻  「隠岐島ヲ距ル西北八十五哩ニ在ル無人島ヲ竹島ト名ヶ島根県所属隠岐島司ノ所管ト為 ス」 (注3)堀和生「一九〇五年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987,P105 (注4)半月城通信<明治の国境画定機関の竹島=独島認識と『水路誌』> 「韓国松島沖」での漂民救助 2007/ 8/ 6 Yahoo!会議室「竹島」No.15711 (前稿<『朝鮮水路誌』のとらえ方、舩杉氏への批判>よりつづく)   くれぐれも視野狭窄に陥らないよう、視点を広げてみることにします。水路部以外の 日本政府の竹島=独島に対する認識はどうだったでしょうか。当時、同島が朝鮮領という 認識は、かつて「竹島外一島」を版図外とする太政官指令を受けた、地理部門を有する内 務省はいうに及ばず、外務省も同様の認識でした。そうした両者の共通認識を確認できる 資料が外交史料館にあります。   その資料は「韓国 松島沖」で遭難してロシア船に救助された46名の欝陵島民を漂民 として扱い、日本が長崎から韓国へ送還した一件の記録ですが、それは最近では名古屋大 学の池内敏氏により公開されました(注5)。その資料を紹介します。   1898(明治31)年、「韓国 松島沖」で遭難した漂民に関する公文書が長崎県知事より 外務大臣などへ送られました。その翻刻文を(注6)に掲げますが、口語訳は次のとおり です。        -------------------- 中房第八〇五號   韓国の漂民送還報告          韓国江原道平海欝陵島人               白汝玉               金乃益               ・・・・・・               内人七名               小児七名   右は韓暦三月十五日、釜山より平海欝陵島へ航行の途中、風波のため韓国松島沖に漂 流中、四月十四日、同所を通過した露国汽船「ピータスボルグ」號に救助されたとのこと で、長崎港の駐箚ロシア領事より右の漂民を韓国へ引渡すようにとの依頼が来たので、内 務大臣に伺い出たところ、漂民取扱手続に準じて取りはからうべき旨の指令があったので、 去る六日、右の漂民を本庁に引きうけることでロシア領事と協議の上、同国の費用を以て、 翌七日に出帆のロシア汽船「バイカル」号で本国ヘ送還する事に決めた。   かつ、ロシア領事の依頼に依り、在釜山の帝国領事に宛てて右漂民を韓国政府に引渡 すことを取りはからう旨の書面を作り、バイカル号の船長に託して、同釜山領事に送付の 為、当庁よりロシア領事ヘ送致する件に関し、この段をご報告します。  追って 漂民を当庁にて引受後、バイカル号ヘ引渡す迄に要する費用は日本政府で負担 すべきものと思考することを念の為に申し添えます。  明治三十一年五月十六日                            長崎県知事 小松原英太郎  外務大臣男爵 西徳二郎殿        --------------------   同様の文面の公文書が長崎県から内務省へも送られました。しかも、内務省警保局長 の牧朴真は長崎県からの文書を外務省へ転送しました。牧朴真は後に農商務省に移りまし たが、竹島=独島の「領土編入」に深くかかわった三羽がらすのひとりでした。そのかれ が「韓国 松島」を確認したことは重要です。   長崎県からの公文書に対し、外務省は日本政府が負担する費用に関して意見をつけま した。両者間で費用問題をめぐってやりとりが何回かおこなわれましたが、それらの公文 書において「韓国 松島」については何らの疑問もだされませんでした。   ここで「韓国 松島沖」の位置ですが、釜山と欝陵島とを結ぶ航路において遭難しそ うな「松島沖」は現在の竹島=独島沖以外には考えられません。もっとも、朝鮮半島沿岸 に松島の名称を持った小さな島はいくつかありますが、いずれも遭難に結びつくような場 所ではないし、また、日本の公文書で「松島沖」と書かれだけで場所が特定できるような 島ではありません。沿岸の松島の場合だったら、場所の記述を松島沖とせず、場所を特定 できるように浦項沖とか港の名前を書くのが一般的です。   したがって外務省の公文書に書かれた「韓国 松島」は現在の竹島を=独島をさすと 見て差しつかえありません。池内教授もそのような見方でした。   それにしても不思議なのは、「松島」の名は誰の口から出たのでしょうか? それは 欝陵島民の口から出たとも思えません。おそらく、長崎県の担当者が遭難場所を聞いて、 それを日本名に置きかえたのでしょうか。その際、欝陵島民は「松島」を何と呼んでいた のか、興味のあるところです。   他方、水路部は誤った西洋の地図などに惑わされて、『朝鮮水路誌』において欝陵島 を松島と記述しましたが、内務省や外務省、長崎県などは1877年の太政官指令に書かれた とおりの、竹島=独島の古来の名称である「松島」をこの時にいたるまで使用していたこ とは注目されます。   この「韓国 松島沖」の件は釜山の日本領事館へも伝えられたので、同領事館は当然 の職務としてその情報を朝鮮政府へ伝えたことでしょう。それを受けた朝鮮政府が「松 島」をどのように判断したのか、資料の発掘が望まれます。于山島に結びつく資料でも見 つかれば大きなニュースになりそうです。   以上のように、欝陵島民の遭難事件をきっかけに内務省も外務省も韓国領の「松島」 を改めて確認したことは注目されます。この記憶はその後も持続されたとみえます。内務 省は中井養三郎からの「りやんこ島領土編入 並 貸下願」が提出されたとき、同島は「韓 国領地の疑いある」として中井の請願書を一旦は却下したくらいでした(注7)。当然の成 りゆきです。 (注5)池内敏、講演会「竹島考ー近世日本の西北限界ー」2007.2.24 (注6)『困難船及漂民救助雑件』朝鮮国之部、第八巻、外務省外交史料館    請求記号:3-6-7-1-10  中房第八〇五號   韓国漂民送還報告          韓国江原道平海欝陵島人               白汝玉               金乃益               ・・・・・・               内人七名               小児七名   右ハ韓暦三月十五日 釜山ヨリ平海欝陵島ヘ航行ノ途 風波ノ為メ韓国松島沖ニ漂流中 四月十四日 同所ヲ通過シタル露国汽船「ピータスボルグ」號ニ救助セラレ候由ニテ 当 港駐箚露国領事ヨリ右漂民韓国ヘ引渡方依頼シ来リ候ニ付 内務大臣ニ伺出候処 漂民取扱 手続ニ準ジ取計フヘキ旨 指令相成候ニ付 去六日 右漂民本廳ニ引受ノ 露国領事ト協議ノ 上 同国ノ費用ヲ以テ 翌七日出帆ノ露国汽舩「バイカル」號ニテ本国ヘ送還候事ニ相定メ 且 露国領事ノ依頼ニ依リ 在釜山帝国領事ニ宛テ右漂民ヲ韓国政府ニ引渡方 可取計旨ノ 書面ヲ作リ バイカル號船長ニ託シテ 同釜山領事ニ送付ノ為メ 当廳ヨリ露国領事ヘ送致 致候条 此段及御報告候也  追テ 漂民 当廳引受後 バイカル號ヘ引渡迄ニ要シタル費用ハ日本政府ニテ負担スヘキ モノト思考致候条 此段為念申添候  明治三十一年五月十六日                            長崎縣知事 小松原英太郎  外務大臣男爵 西徳二郎殿 (注7)半月城通信<竹島=独島の領土編入> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 朝鮮史書「改ざん」説、下條氏への批判 2007/ 8/13   半月城です。   竹島問題研究会の最終報告書は、太政官「竹島外一島」の見解を中間報告書から180 度変えましたが、他にも引っかかる所があります。そのひとつが「朝鮮史書の改ざん」説 です。   昨年、中間報告書を要約し、島根県の全家庭に配布したパンフレット『フォトしま ね』161号にはこう記されました。        --------------------   韓国側は現在の竹島を于山島とし、歴史的に鬱陵島の属島だったとする根拠として、 「東国文献備考」にある「輿地志によれば、鬱陵島と于山島は、于山国の地であり、于山 島はいわゆる日本の松島(現在の竹島)だ」との記述を挙げる。   だが、東国文献備考の下地になった「疆界考」には、「輿地志によれば、于山島と鬱 陵島は同じ島」と記されている(P4)。        --------------------   この見解を最終報告書がどのように扱ったのかは後述するとして、先にこの文章の妥 当性を考察したいと思います。この文章は、研究会の座長を務めた下條氏の見解そのもの と思われますので、くわしいことは同氏の著書『竹島は日韓どちらのものか』にみること にします。下條氏はこう記しました。        --------------------  (『東国文献備考』の)「輿地考」の底本には、編者である申景濬の『疆界考』が使わ れたことが分かっている。底本となったその『疆界考』には、鬱陵島に触れたくだりに、 按記(分註)として柳馨遠の『輿地志』からの引用がある。・・・   申景濬が編著した『疆界考』の按記は次のようなものである。   按ずるに、「輿地志に云う、一説に于山鬱陵本一島」。而るに諸図志を考えるに二島 なり。一つは則ち其の所謂松島にして、蓋(けだ)し二島ともに于山国なり。   ここで申景濬が柳馨遠の『輿地志』から引用しているのは、「輿地志に云う、一説に 于山鬱陵本一島」だけで、「而るに」以下は申景濬の私見である。つまり、この按記から 言えることは、オリジナルの『輿地志』では、「一説に于山鬱陵本一島」と于山島と鬱陵 島は同じ島の別の呼び方(同島異名)としているが、松島(現在の竹島)にはまったく言 及していなかった、ということである(注1)。        --------------------   このように下條氏は、元の「輿地志」は一島説であり、于山・欝陵は同島異名だとし ましたが、これは妥当でしょうか? かつて、私は下記のように疑問を呈しました。        --------------------  「輿地志に云う、一説に于山 欝陵 本一島」という部分ですが、この文章からは『輿地 志』の著者が「本一島」という一説を有力視していたといえるでしょうか?   ふつう「一説」を紹介するとき、ほかに「本説」が書かれるものです。その場合、著 者はもちろん本説を有力視し、一説を参考程度に考えるものです。たとえば、1481年に成 立した『東国輿地勝覧』を例にとりあげます。そこに于山島はこう書かれました。   于山島、欝陵島  一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある・・・  一説によると于山、欝陵島は本来一島という(注2)   この文献から下條流に「一説によると于山、鬱陵島は本来一島という」という部分だ けを切りとれば、『輿地勝覧』は一島説であると誤解しかねません。しかし真実は、『輿 地勝覧』は見出しにあるように二島説を本説とし、付属の地図にも二島を描き、一島説は 参考程度にとどめました(注3)。        --------------------   しかしながら、「輿地志」の記述は一島説なのか二島説なのか、原書が見つからない 限り永遠の謎と思われていたのですが、存在しないと思われていた「輿地志」の写本が見 つかりました。そして「輿地志」は柳馨遠の『東国輿地志』(1656)であることが判明しま した。   同書はソウル大学校の奎章閣からインターネットで影印版が公開されていましたので (注4)、その中から「于山島 欝陵島」条の影印版リンクおよび翻刻文を(注5)に掲げ ます。同時にその冒頭部分の口語訳を次に記します。        --------------------   于山島、欝陵島  一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある・・・  一説によると于山、欝陵島は本来一島という        --------------------   この文は、先の『輿地勝覧』(『東国輿地勝覧』)と完全に同じです。といっても剽 窃ではありません。元来『東国輿地志』は、その「凡例」に断り書きがあるように、目的 は『輿地勝覧』の「増修」にありました。名著の『輿地勝覧』は出版後 200年近く経過し、 その間に変動が多々あったので、その増補を目的に『東国輿地志』が書かれたのでした。 したがって、于山島のように変動がない記述はそのままにされました。   つまり、同書は『輿地勝覧』の認識を受けついで、于山島と欝陵島を別々の島とし、 一島説を一説として書きとどめたのでした。したがって、下條氏の「于山島と鬱陵島は同 じ島の別の呼び方(同島異名)としている」という主張は誤った我田引水であることが明 白になりました。   同時に『フォトしまね』に記された「輿地志によれば、于山島と鬱陵島は同じ島」と いう記述も明らかな錯誤だったことが判明しました。   このような事実が明らかになっても、下條氏は「輿地志」では二島説が本来の説であ る事実を伏せたままでした。それどころか、依然として最終報告書において「輿地志」の 「一説に于山欝陵本一島」という断片的な一節のみの引用をしつづけたのでした。   そうすることにより「輿地志」が一島説であると読者に思いこませようとするのなら、 それはトリックであり、恣意的な我田引水といわざるをえません。   これは『春官志』の解釈も同様です。『春官志』は1744年に李孟休が王命により編纂 を始め、1781年に李家煥が補充して完成した官撰図書でした。この書は国家機関である礼 曹の法令や事例などを編纂した書でした。そして編纂の一環として対日関係を収録し、 「欝陵島争界」すなわち「竹島一件」を記述しました。   同書は基本的に地理書ではないので、欝陵島の地理的記述に関しては、二島説を本来 の説としている上記の『輿地勝覧』の一部を次のように引用しました。        --------------------  欝陵島 在江原道海中 属蔚珎縣 輿地勝覧曰 一云武陵 一云羽陵 在蔚珎正東海中。三峰 岌〓1〓2空 南峯稍卑 風日清明 則峯頭樹木及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説于 山 欝陵島本一島 (〓1、やまかんむりに業、ぎょう、〓2、てへんに掌、とう)        --------------------  『輿地勝覧』と異なる点は、『春官志』は欝陵島のみを小項目のタイトルにしたので、 『輿地勝覧』に書かれた「二島は県の真東の海中にある」との部分から「二島」の語を抜 き「蔚珎の真東の海中にある」と記述しました。   それ以外は『輿地勝覧』の記述を、「于山欝陵本一島」の語句を含めてそのまま引用 しました。こうした引用方法からわかるように、同書は専門書である『輿地勝覧』の記述 に異議をとなえたものではありません。したがって、問題の「于山欝陵本一島」も含めて 『輿地勝覧』の認識と同じです。すなわち、于山・欝陵の二島説を本来の説にした上で、 参考に一島説を記したにすぎなかったといえます。   以上のように、朝鮮では『世宗実録』地理志以降、ほとんどの地理志が于山・欝陵は 二島であるとの認識をもっていました。しかし、どの書もそれは本当に二島なのかどうか 確信が持てず「一説に于山欝陵本一島」との記述も付加したのでした。   このあいまいな記述に明確な結論をくだしたのが申景濬でした。かれは 1756年に著 わした歴史地理書である『疆界考』(別名『疆界誌』)において、上に書いたように、于 山・欝陵の二島は于山国の地であり、そのうちの一島はいわゆる「松島」であると断定し ました。   ここに「松島」の名が登場しましたが、これは安龍福が 1696年に日本へ渡って欝陵 島と子山(于山)島は朝鮮の地であると主張し、子山島は松島であると確認したことに由 来するようです。   以上のような歴史地理学の発展の成果を取り入れて記述されたのが問題の『東国文献 備考』(1770)でした。同書は于山・欝陵についてこう記しました。        -------------------- 『東国文献備考』「輿地考」(1770)  「輿地志がいうには 欝陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島 なり(注6)」        --------------------   この文書においても、『疆界考』と同様に『輿地志』からの引用は前半部分「欝陵 于山は皆 于山国の地」のみで、後半の「于山はすなわち倭がいうところの松島なり」は 申景濬の見解を記したものとみられます。したがって、下條氏のいうような改竄はなかっ たといえます。   ま、下條氏の「改ざん」説はともかくとして、史実として、于山島は松島であること が安龍福の日本での訴訟事件をとおして日本と朝鮮で確認され、その認識が朝鮮の官撰図 書に強固に反映され、後世の官撰図書などに何度も記録された事実はきわめて重要です。 (注1)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004,P100 (注2)半月城通信<『東国輿地勝覧』と于山島> (注3)半月城通信<下條正男氏への批判、朝鮮史書改ざん説> (注4)『東国輿地志』巻之七(江原道) (注5)『東国輿地志』「于山島欝陵島」条の影印リンク  翻刻文(句読点、改行記号を挿入) 于山島、欝陵島。 一云武陵。一云羽陵。二島在縣正東海中。三峰岌〓1〓2空。南峯稍卑。 風日清明。則峯頭樹木及山根沙渚。歴々可見。風便則二日可到。一説于山、欝陵島本一島。 地方百里。  新羅時恃險不服。智證王十二年。異斯夫為何琵羅州軍主。謂。于山國人愚悍。難以威服。 可以計服。乃多以木造獅子。分載戦船。抵其國誑之曰。汝若不服。則即放此獣踏殺之。國 人恐懼來降。  高麗太祖十三年。其島人使白吉土豆。獻方物。  毅宗十三年。王聞欝陵地廣土肥。可以居民。遣溟州道監倉金柔立往視。柔立回奏云。島 中有大山。從山頂向東行。至海一萬餘歩。向西行一萬三千餘歩。向南行一萬五千餘歩。向 北行八千餘歩。有村落基址七所。或有石佛鐵鍾石塔。多生柴胡藁本石南草。  後崔忠獻獻議。以武陵土壌膏沃。多珍木海錯。遣使往觀之。有屋基破礎宛然。不知何代 人居也。於是移東郡民以實之。及使還。多以珍木海錯進之。後屡爲風濤所蕩覆舟。人多物 故。因還其居民。  本朝 太宗時。聞流民逃其島者甚多。再命三陟人金麟雨爲按撫使。刷出。空其地。麟雨 言。土地沃饒。竹大如杠。鼠大如猫。桃核大於升。凡物稱是。  世宗二十年。遣縣人萬戸南顥。率數百人往捜逋民。盡俘金丸等七十餘人而還。 其地遂空。  成宗二年有告。別有三峯島者。及遣朴宗元往〓3。因風濤不得泊而還。同行一船。泊欝 陵島。只取大竹大鰒魚。回啓云。島中無居民矣。 〓1、やまかんむりに業、ぎょう 〓2、てへんに掌、とう 〓3、不の下に見、べき (注6)「輿地志云 欝陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 安龍福が見た于山島はチクトウ(竹島)? 下條氏への批判 2007/ 8/19 Yahoo!会議室「竹島」No.1573   半月城です。   下條正男氏は、安龍福が大谷船により連行される途中で見た島は、欝陵島のすぐ近く にあるチクトウ(竹島)であると「最終報告書」の巻頭言で断定しました。しかし、論拠 にしている『竹島紀事』からそのような解釈がはたして可能かどうか、ここでじっくり検 証したいと思います。   同氏はこう記しました。        --------------------   安龍福は、欝陵島より「北東に当たり大きなる嶋あり」、彼島を存じたるもの申し候 は于山島と申し候」と証言している。この証言から見ても、安龍福が主張する于山島は、 今日の竹島ではない。安龍福が見たのは、地図上に「所謂于山島」とされたチクトウ(竹 島)である。チクトウは安龍福が漁撈活動をしていた欝陵島の苧洞から東北に位置し、竹 島は欝陵島の東南にあるからである。        --------------------   これに反論する前に、準備として当時の于山は朝鮮でどのように認識されていたのか を簡単に見ておきたいと思います。まずは最も重要な官撰地理志をひもとくことにします。   于山の名ですが、国名としての于山は『高麗史』「地理」に登場しましたが、島名と しての于山は『世宗実録』が初めてでした。そこにこう記されました。  『世宗実録』地理志、江原道蔚珍縣(1454年)  于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見 新羅時稱于山國 一云欝 陵島 地方百里   この地理志に書かれた「二島はお互いに遠くなく、天気が清明なら望み見ることがで きる」という記述は、于山島が今日の竹島=独島であることを想起させます。天気が良い 時にだけ見える島は竹島=独島しかないためです。   しかし、それから27年後の官撰地理志である『東国輿地勝覧』では于山島、欝陵島 を別々の島にするものの、于山島が竹島=独島であることを想起させるような記述は消え、 しかも一説として于山・欝陵の一島二名説がつけ加えられました。  『東国輿地勝覧』(略称『輿地勝覧』)江原道蔚珍縣(1481年)  于山島 欝陵島 一云武陵 一云羽陵 二島在縣正東海中 三峰岌〓1〓2空 南峯稍卑 風日 清明 則峯頭樹木及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説于山 欝陵島本一島 地方百里 (注1)   しかも付属の絵図では、なんと于山島が欝陵島の西に描かれました。実際は、欝陵島 の西に島は皆無です。これは『東国輿地勝覧』の本文に于山島の名が欝陵島より先に書か れたので、それにつられて絵図で于山島を本土の近くに書いたとみられます。   そもそも、これは15世紀の絵図とあっては、離島の位置や大きさなどで正確さを望 むべくもありません。ともあれ、同絵図は東海中に于山・欝陵の二島が存在するという空 間認識だけはしっかり表現しました。   このように『輿地勝覧』に書かれた于山島は現在のどの島をさすのか不明です。その 後『輿地勝覧』は何度か改訂されましたが、于山島に関するかぎり改訂はされませんでし た。したがって、同書において于山島は観念的な存在にとどまりました。   なお、この『東国輿地勝覧』は「竹島一件」交渉において重要な役割をはたしました。 同書などに欝陵島が書かれたことが決め手になり、日本は最終的に同島を朝鮮の領土と認 めました。もちろん、于山島も一緒です。   官撰地理志とは別に、朝鮮の官衙である東莱府などが于山島をどのように認識してい たのかを史料に見ることにします。対馬藩が元禄期の「竹島一件」をまとめた書『竹島紀 事』です。   この書は対馬藩士である越常右衛門により享保11(1726)年にまとめられたので「竹島 一件」(1693-99)とほぼ同時代の記録といえる重要書です。同書が朝鮮人、なかんずく安 龍福の于山島像をどのように記録したのかを精査したいと思います。   元禄6(1693)年、対馬藩は幕府の命により、朝鮮人が竹島(欝陵島)へ入島しない ように朝鮮政府に求める外交交渉「竹島一件」を始めました。その直前、朝鮮領の「磯 竹」はよく知っていても「竹島」の名をよく知らない対馬藩は「竹島」の事前調査をおこ ないました。   6月5日、国元家老の杉村采女は、東莱の倭館に滞在していた通詞(通訳)の中山加兵 衛に訓令を発し、下記事項を懇意の朝鮮人に内密に尋ねるよう命じました。それが『竹島 紀事』8月23日条にこう記されました。 1.竹嶋は朝鮮でブルンセミと称している由であるが、ブルンセミはどのように書くのか、  欝陵島という島があるが、これを下々ではブルンセミというのではないか。   日本では竹嶋のことを磯竹といっている。欝陵島とブルンセミは別の島なのか。ブル  ンセミを日本人が竹嶋といっているのは誰の話として聞いているのか。  ・・・・・ 1.竹嶋は朝鮮のどの方角にあたり、どこからどの方向の風に乗り、海路はどれくらいで、  島の大きさはどれくらいか。   この質問に対し、通訳の中山は6月13日付の書付で下記のように回答しました。        --------------------   今年もその島へ稼ぎのため釜山浦より商売船が3艘出かけたと聞いています。ハンビ チャグという異国の者を加え、島の様子や諸事を見届け、海路に至るまで入念にと申し付 けましたので、右の者どもが帰着次第追って申し上げますが、先に聞いていることを別紙 の書付で差し上げます。   「恐れながら口上の覚え」 1.ブルンセミの件は島違いです。聞いたところではウルチントウと申す島です。ブルン  セミの件はウルチントウと申す島です。ブルンセミはウルチントウより北東に当りかす  かに見えると聞いています。 1.ウルチントウ島の大きさは一日半廻りほどあるとのことです。もっとも高山にて田畑  や大木などがあると聞いています。 1.ウルチントウへは江原道のエグハイという浦から南風で出帆すると聞いています。 1.ウルチントウへ通っている件、一昨年から出かけているのは間違いありません。 1.ウルチントウへ出かけている件、官衙では知らず、自分たちの稼ぎのためにでかけて  います。  右の外の件は、ハンビチャグが帰着次第聞いて重ねて委細を申し上げます(注2)。        --------------------   倭館の日本人通訳が、懇意にしている朝鮮人から聞いたという「ウルチントウ」は、 発音からみてほぼ欝陵島(Ul Leung Do)をさすようです。次に「エグハイ」ですが、後の 安龍福の口上書で彼の出発地である「寧海」にヨグホイとルビがふられたので、これは寧 海(Yeong Hae)を指すとみられます。   中山が懇意にしている朝鮮人は、漁夫が寧海から欝陵島へ出かけていた事実などを的 確につかんでいたようです。ただ、欝陵島に大木はあるにしても、同島には政府の空島政 策がしかれていたので、田畑は荒廃して形をなさなかっただろうと思われます。この点は はずれているようです。   次にブルンセミですが、語尾のセミは島を意味する韓国語 Seom を聞取ったものと思 われます。ブルンの意味や漢字表記は不明ですが、ブルンセミがウルチントウからかすか に見える島であるという証言は重要です。これは安龍福の証言とも微妙にからむだけに後 述します。   この調査後「竹島一件」の交渉が始まるのですが、交渉相手である東莱府などは欝陵 島付属の島をどうとらえていたでしょうか。それを示す資料が『竹島紀事』11月1日条に 12月5日の記事として残されました。その資料は朝鮮の訳官が対馬藩の裁判・高瀬八右衛 門に語ったのを記録したもので、こう書かれれました。        --------------------   首譯中(朝鮮訳官首席?)がこう云いました。日本で竹嶋というのは必ずや欝陵島の ことであるが、そのように朝廷に言っては大事である。かの方角には三島があり、ひとつ は欝陵島、ひとつは于山島という、ひとつは名前を言わなかった。この内いずれかを日本 で竹嶋を云われている竹嶋と決め、他の島を朝鮮の欝陵島に用いれば、朝廷方のメンツも 立つし、日本向けも首尾良く済むので、右の通り我々で相談して回答をした(注3)。        --------------------   この文では于山島がどこに位置するのか示されませんでした。しかし、この時すでに 対馬藩は于山島に関する情報を、同藩へ連行されてきた「人質」である安龍福(An Yeong Bok)と朴於屯(Bak Eo Dun)の口述から得ていました。同日の記事はこう記しました。        --------------------   人質がここ(対馬)に逗留中に尋ねられた時に回答したのは、今回出かけた島の名は 知らない、今回出かけた島の北東に当り大きな島がある、その地に逗留した間に二度見え た、その島を存じている者がいうには于山島というと聞いている、ついに行ったことはな いが、大体一日の道のりに見えたといっています。   欝陵島という島の件はかつて知らないといっています。しかしながら、人質の申し分 は虚実計りがたいので、ご参考のため申し上げます。そちらにてよく聞きとどけてくださ い(注4)。        --------------------   この文において「人質」が「今回出かけた島の名は知らない」としたのは『竹島紀 事』全体の文脈に合いません。というのは、かれらはその島の名前が「ムルグセム」であ ると数回も供述しており、それが同書に記録されているからです。たとえば、長崎奉行所 で7月1日に次のように述べたことが『竹島紀事』六月条の「朝鮮人弐人 申由」に記録 されました。        --------------------   朝鮮慶尚北道の東莱郡釜山浦の安ヨクホキ、朴トラヒと申す者です。我々は蔚山とい う所から竹嶋という所へ蚫(あわび)や若布(ワカメ)採りに3月11日に出帆し、25 日に寧海という所に着きました。そこを27日朝8時ころ出発し、午後6時ころ竹嶋へ到 着しました。   右の蚫や若布稼ぎに逗留していた所、日本人が4月17日に我々のいる所へ来て、着 物など入れておいた平包みを収め、我々ふたりを彼らの船に乗せ、即刻午の刻に出帆し、 鳥取へ5月1日未の刻に着きました。  ・・・・・   今回、我々が蚫採りに行った島は朝鮮国ではムルグセムといいます。日本の竹嶋とい う所であることは今回知りました(注5)。        --------------------   さらに、安龍福と朴於屯のふたりは長崎から対馬へ送られ、そこでも尋問を受けまし た。その時の口上書がより詳細に『竹島紀事』9月4日条にこう記録されました。        --------------------   朝鮮人口書 一 我々二人の内、ひとりは釜山浦の者でアンヨグトと申します。ひとりはウルサンの者 でバクトラビという者でございます。我々は一艘に10人乗組みましたが、内ひとりは 患ったので、寧海(ヨグホイ)という所へ残して、9人が乗り竹嶋へ渡りました。  ・・・・・ 一 その島の名を朝鮮ではムルグセムと申します。 一 その島は、日本のものか、朝鮮の地であるのか一切知りません。日本へ渡って日本の  ものであるとのことを初めて聞きました(注6)。        --------------------   以上の史料をまとめると、于山島について日朝の間で下記のような認識があったこと が読み取れます。 1.日本でいう竹嶋は、東莱府などの官衙では欝陵島と呼ばれ、対馬藩ではウルチントウ  と聞取っていた。しかし、安龍福など漁夫の間ではその名は通じず、ムルグセム(セ  ミ)と呼ばれていた。この名は『世宗実録』の武陵(Mu Leung)島と発音が通じる。 2.東莱府では欝陵島の他に于山島、および名の知れぬ島を認識していた。 3.対馬の通訳が聞いた朝鮮人は、欝陵島の北東にかすかに見えるブルンセミという島が  あることを認識していた。 4.漁夫の間では欝陵島から一日の航路の所に大きな于山島があることが知られていた。  安龍福はその存在を仲間から知らされた。かれはその方向を欝陵島の北東と認識してい  る。   このように整理すると、ある共通点に気がつきます。于山島もブルンセミも欝陵島の 北東に位置するという口述です。しかも、于山島までの距離は一日の航路なので、かすか に見えるというブルンセムの記述にも合います。   このブルンセミは于山島と思われますが、これを研究者はどう考えているのか調べる ことにします。名古屋大学の池内敏氏はこう記しました。        --------------------  プルンセミ之儀嶋違ニ而御座候 具承届候処 ウルチントウト申嶋ニ而御座候   (「おそれながら口上の覚え」第1条傍線部)  ブルンセミ之儀者ウルチントウより北東にかすかに相見申由承候事   (第1条後半、上記のすぐ後に続く)  ・・・・・   ブルンセミは欝陵島の北東に微かに見える島のこと(第1条後半)となり、ブルンセ ミは欝陵島とは別の島であって(「嶋違ニ而御座候」)欝陵島はウルチントウのことであ るというのが第1条傍線部の趣旨であろうか。もっともこれでは竹島とブルンセミとの関 係については何の返答にもなっていない。  ・・・・・   ブルンセミの「セミ」とムルグセムの「セム」はおそらく「島」を意味する朝鮮語に 間違いない。「ブルン」は「欝陵」ないし「武陵」の、またムルグは「武陵」の朝鮮読み と見て大過なかろうから、結局のところブルンセミにせよムルグセミにせよ欝陵島を指し ている(注7)。        --------------------   池内氏は「ブルンセミは欝陵島とは別の島」という趣旨を理解しながら、ただ単に 「ムルグ」と「武陵」とが発音が似ているという理由だけで、いとも簡単にブルンセミは 欝陵島であると結論づけてしまったようです。   次は田川孝三氏ですが、意外なことにブルンセミは于山島であると主張しました。意 外と記したのは、同氏は日韓両政府の領有権論争において日本政府のブレーンとして活躍 した人だからです。   その一環として、同氏は韓国政府が参照していた『粛宗実録』などを痛烈に批判しま した。すなわち、同書における安龍福の証言を「犯罪者の供述書に出ずるものをとって、 無批判にも適宜摘録転載したものに過ぎない」「供述者の虚構と誇張に満ちたものであっ た(注8)」などと批判しました。   その人が「取扱注意」の警告印が押された研究論文「于山島について」にて下記のよ うに記したことは注目に値します。        --------------------   以上要するに高瀬八右衛門に語った朝鮮訳官の言にある彼の方角に三島あり、と云う 所説と、安龍福の言と、及び中山通詞の尋ねた鮮人の言とこの三つが問題になるわけであ る。 (A)譯官の言は三島ありと云ふのみで、その遠近、方位は全く觸れてゐない。只ここで  確なことは、三島の中 一は欝陵島、一は于山島と云ふことである。 (B)中山通詞の尋ねし鮮人の言では、その名稱は誤りと思はれるが、兎も角 欝陵島よ  りかすかに見える島が北東に存すると云ふこと (C)安龍福等は、欝陵島の北東に現に二度目堵した島を于山島とあると聞かされ、その  距離は大体一日路であり、大いなる島であると云ふことである。  ・・・・・   もし、この三島(欝陵島、竹嶼、観音島)を以て前記訳官の言に比定するとせば、欝 陵島は云ふまでもなく、于山島は竹島(竹嶼)に当てねばならない。   然し乍ら于山島は、前掲の(B)、(C)であると云ふによれば、此の竹嶼は近きに 過ぎる。北東と云ふ方位にこだわらずして東方に島を求むれば、東南に我が今日の竹島、 往昔の松島即ちリヤンクール島が存するのみである。   而も之は東西二島よりなり西島は海抜約 157米、各島を併せて総面積 69.990坪の岩 島である。従って(C)に云ふ如き「大いなる島」とは決して云はれない。然し乍ら 海 島にあってかすかに遠望する際、その方位と云ひ、大きさと云ひ、誤り易いことは、当時 の知識より判断すれば、先づあり得ることと云はねばなるまい。   欝陵島よりこの竹島(リヤンクール島)を望み得ることは、中井教授等の大正八年 欝陵島植物調査によれば、   欝陵島最高峰上峰より天気清澄の日 卵島(リヤンクール島)を遠望し得る。 とあるのである。(C)の言を全くの誤りでないとするならば、凡そこの條件に適い得る ものとしては、この竹島(リヤンクール島)以外に求むることは出来ない。即ち、于山島 はこの竹島に比定せねばならない(注9)。        --------------------   田川氏はこの論文では冷静な分析を記すのですが、「取扱注意」の警告印が押されて いない書物では後半の「然し乍ら・・・」以降の文章をカットし、簡単に「兎もかく、決 定的ではなく、依然混乱が見られるが、欝陵本島の別個に于山島なる島が知られ、且 位 置は正確ではないが、或る一島に命名されたことは事実であったのである」とあいまいに 記すのでした(注10)。   田川氏といえば、『隠州視聴合記』に書かれた一節「日本之乾地 此州為限矣」の州 を無理に「シマ」と釈読して竹島・松島を日本の西北限界と解釈し、それが日本政府の公 式見解になったことが思いおこされます。   その説は韓国政府に反論されるや、日本政府は再反論を放棄したようですが、そのよ うに我田引水的な解釈をしてでも、何とか竹島=独島を日本領にしたいという願望が見え 見えです。その田川氏すら、于山島は「竹島(リヤンクール島)以外に求むることは出来 ない」と判断せざるを得なかった事実は万鈞の重みがあります。   田川氏は「海島にあってかすかに遠望する際、その方位と云ひ、大きさと云ひ、誤り 易い」と述べましたが、これは的を射ています。方位ですが、竹島=独島は欝陵島の海辺 からでは地球が丸いために見えず、その方角を知ることができません。   同島の方角を確認するにはふたつの方法があります。ひとつは「天気清澄の日」に欝 陵島の高峰にのぼり、かすかに見える竹島=独島の方向を確認する方法です。その際、高 価な羅針盤をわざわざ山へ携行しない限り、方角を正確に知るためには太陽の南中時の方 向をきちんと知る必要があります。これを意図的におこなわない限り、正確な方向を知る ことはできません。   もうひとつの方法は、欝陵島から竹島=独島寄りに10km以上離れた海上で方向を確 認することです。安龍福などの漁夫が天気清澄の日に漁を休んで山登りするのは考えにく いので、かれらが竹島=独島を見たのは欝陵島から竹島=独島寄りに10km以上離れた所 と思われます。   その場合、目撃地点の位置が両島を結ぶ直線上にあれば、携行したかも知れない羅針 盤で竹島=独島の方角を確認できますが、それ以外の場所では三角測量の原理からいって、 両島までのそれぞれの距離を正確に知らなければ、竹島=独島が欝陵島のどの方向に当る のかを割りだすことは不可能です。   このように海上でも離島の方角を正確に知るのはかなり困難なので、安龍福が竹島= 独島の方角をズレて北東と見たのも無理はありません。同島の実際の方向を球面三角法な どで計算すると、同島の方角は東から18度南寄りであり、北東とは63度のズレがあり ます(注11)。このような事情を考慮するとき、ブルンセミや安龍福が見た于山島は田川 孝三氏がいうように竹島=独島に間違いないと思われます。   他方、安龍福は大谷船により米子へ連行される途中にも竹島=独島を見たことが『邊 例集要』巻17「欝陵島」条に記録されました。同書は数百年にわたる日本との交隣関係を まとめた書ですが、「欝陵島」条に「竹島一件」が記されました。その書で朴於屯の詳細 な尋問の後に安龍福の口述が簡単にこう記されました。        -------------------- 甲戌(1694)正月   竹島で捉えられた罪人である蔚山居住の朴於屯、安龍福を尋問した。朴於屯を内に招 いた  ・・・・・  安龍福を内に招いた。山の形や草木などの話の内容は(朴と)同じであった。末節なこ とであるが、身を捉えられて島を去る時、一夜を経た翌日の夕食の後、一島が海中にある のを見た。竹島に比べすこぶる大きいという。云々(注12)。        --------------------   安龍福たちが捉えられた場所を欝陵島とせずに竹島として記録したのは、当時の朝鮮 政府は欝陵島と竹島は別の島であるという立場をとったためでした。この時、安龍福が見 た「一島」に関する証言は末節なこととして片付けられてしまったようです。   しかるに、欝陵島から一日の道のりにあるこの島こそが、まさしく竹島=独島でした。 下條氏がいうような、欝陵島からわずか数kmしか離れていないチクトウ(竹島)ではあり得 ません。当時、大谷船は竹島=独島を航路の目印として、あるいは漁撈のために往復の途 中でかならず同島へ寄っていたのでした。   なお、朴於屯はこの時「水疾」をわずらって寝ていたため竹島=独島を見ることがで きず、他に島はなかったと口述しました。   安はその島を「竹島に比べすこぶる大きい」と表現しましたが、これは彼一流の誇張 表現と思われます。かつて、下條氏はそのように「大きい島」は隠岐島しかないとして、 安龍福が見たのは竹島=独島ではなく隠岐島であるという説を発表したことがありました が、単なる揚げ足取りにすぎなかったようです。最近は変説してその説を言わなくなった ことはすでに紹介したとおりです。   ともかく、ここで重要なのは、安龍福が実際に見たその島が于山島であり、日本で松 島とよばれていることを彼が知ったことです。その認識を彼は連行船のなかで知るように なったのかどうかは不明ですが、その認識を強固にし、かつ同島などは朝鮮領であること を訴えるために、三年後、みずから進んで二度目の来日を実行したのでした。韓国で英雄 視される由縁です。 (注1)(〓1、やまかんむりに業、ぎょう、〓2、てへんに掌、とう) 『東国文献備考』「于山島 欝陵島」条の影印リンク (注2)『竹島紀事』元禄6年8月23日条  (下記において、〓は「峠」のヤマヘンをテヘンに変えた字、以下同様) 八月廿三日  宋對馬守殿 〃(元禄六年)右御到来二付 竹嶋之儀 内々聞合のため 六月五日 杉村采女方より在館之  通詞 中山加兵衛方江左之通相尋遣候 〃竹嶋之儀 朝鮮二而ハ ブルンセミト申候由 被申越候 竹嶋与書候而 朝鮮讀ニプルンセ  ミト不申候哉 プルンセミとハ如何様二書申候哉 欝陵嶋与申嶋有之候 是を下々之詞ニ  ブルンセミとハ不申候哉 日本二而者欝陵嶋之儀を磯竹と申候 欝陵嶋とブルンセミハ別  之嶋二而有之候哉、プルンセミを日本人ハ竹嶋と申候与申儀者誰之咄二而被承候哉 〃竹嶋江ハ去々年より初而罷渡候哉 以前より渡候得共隠シ候而 去々年より罷渡候与申候  哉 朝鮮人共自分之〓之為蜜々罷渡申事二候哉 又々  公儀より差図二而罷渡候哉 当  年も又々罷渡たる事ニ候哉 〃竹嶋江日本より十二三端之船三艘宛毎歳罷わた渡 彼嶋江長小屋を三四軒茂掛置候由被  申越候 干今其通ニ仕候哉 日本人者何之国之者共ニ而有之候哉 〃竹嶋者朝鮮国より何方江当り何之所より何風ニ而乗候与之儀 海路何程之大キサ如何程  有之候哉 尤尤費殿より之口上書ニ書載有之候得共 又々得与可被承候   右之段々委細ニ承度候様子ニより  公儀江茂御案内被仰上事ニ候間 何とそ懇志之  朝鮮人江密二相尋 書付早々可被差越 慥成咄二而無之候共 下々之咄ニ而茂被承候通 委  書付可被差越候、此段為可申入如此候    通詞中山加兵衛方より六月十三日之書状を以右返答申越候付左記之 〃当年も彼嶋江為〓 釜山浦より商売船三艘罷越候由承届候付 ハンビチヤグ与申釜山之唐  人相加 嶋之様子諸事具見届 海路ニ至迄入念候様ニ申付態右之者共二相加差越候 帰着  次第具承 追而可申上候 先荒増承候通別紙書付差上候     乍恐口上之覚 〃プルンセミ之儀嶋違ニ而御座候 具承届候処 ウルチントウト申嶋ニ而御座候 プルンセ  ミ之儀者ウルチントウト申嶋ニ而御座候、プルンセミ之儀者ウルナントウより北東ニ当  かすかに相見申由承候事 〃ウルチントウ嶋の大サ一日半廻り程有之由ニ御座候 尤高山ニ而田畑大木等有之候由承  及候事 〃ウルチントウ江者江原道之内エグハイと申浦より南風ニ出帆仕候由承及候事 〃ウルチントウ江通申候事 去々年より罷渡候儀 相違無御座候事 〃ウルチントウ江罷渡候儀 公儀江相知不申 自分之為〓密々二罷渡候事  右之外之儀 ハンビチヤグ帰着次第具承届重而委細可申上候 (注3)『竹島紀事』元禄六年11月1日条、12月5日のご返事   首譯中申談候ハ日本二竹嶋と申候ハ必定欝陵嶋之儀二候へとも左様朝廷方江申候而者 至而大切成事二存候故彼方角三嶋有之候 一者欝陵嶋、一者干山嶋と申候 一者嶋之名不申 候、此内いつれニ而も日本ニ而竹嶋与被仰候を竹嶋ニ相極候而 外之嶋を朝鮮国之欝陵嶋 二用申候得ハ 朝廷方之存分茂立 日本向も御首尾能相済申事候故 右之通我々内談仕候而 返答仕候 (注4)同上   質人爰許逗留之内 相尋候節申候ハ 今度参候嶋之名者不存候 今度参候嶋より北東当 り大キ成嶋有之候 彼地逗留之内漸二度見江申候 彼嶋を存たるもの申候ハ 于山嶋与申候 通申聞候 終ニ参りたる事ハ無之候 大方路法一日路余も可有之哉与相見江申候由申候 欝 陵嶋与申嶋之儀者曽而不存候由申候 乍然質入之申分虚実難斗候得共 為御心得申進候 其 元ニ而能御聞可被成候 (注5)『竹島紀事』六月条、「朝鮮人弐人 申由」   朝鮮国慶尚道之内東莱之郡釜山浦之安ヨクホキ 蔚山之朴トラヒ与申者ニ而御座候 我々儀 蔚山与申所より竹嶋与申所江蚫 若布〓ニ三月十一日ニ出帆仕、同廿五日ニ寧海与 申所ニ参着仕、某所を同廿七日辰之刻ニ出帆仕 酉之刻竹嶋江参着仕 右之蚫 若布〓逗留 仕居申候所ニ日本人四月十七日ニ我々罷在候所ニ罷出 則着物抔入置申候ひら包をおさめ 我々両人彼方之船ニ乗せ即刻午之刻ニ出帆仕 鳥取江五月朔日未刻偶着申候  ・・・・・   此度我々共蚫取ニ参候嶋之儀 常ニ朝鮮国にてハムルグセム与申候 日本之内竹嶋与申 所之由ハ此度承申候御事 (注6)『竹島紀事』元禄六年九月四日条  同六年九月四日大目付内野九郎左衛門を以朝鮮人問情被仰付也      朝鮮人口書 一 我々両人之内壱人者釜山浦之者アンヨグト申候、壱人ハウルサン之者パクトラビト申  者ニ而御座候、我々一艘ニ十人乗組候處 内壱人相煩申ニ付 寧海与申所ニ残置 九人乗  竹嶋ニ罷渡候  ・・・・・ 一 彼嶋之名を朝鮮ニ而ムルグセム与申候 一 彼嶋之儀 日本ニ而御座候も朝鮮之地ニ而御座候も一円存不申候 日本ニ罷渡候而日本  之地ニ而御座候由初而承申候 (注7)池内敏『大君外交と「武威」』名古屋大学出版会、2006,P280 (注8)田川孝三「竹島領有に関する歴史的考察」『東洋文庫書報』20,P24,1988   (執筆は1960) (注9)田川孝三「于山島について」『竹島問題研究資料』10、島根県図書館所蔵,   1953,P100 (注10)前掲書、P23,1988 (注11)半月城通信<安龍福の于山島像・竹嶼編、下條正男氏への批判> (注12)『邊例集要』巻17「欝陵島」条   (〓は「かたへん、方」に「ム」、下に「小」)  甲戌(1694)正月 竹島被捉両人處 發問目推問 則朴於屯招内 癸酉三月 租二十五石 銀 子九兩三銭等物 載持貿魚次 自蔚珍向三陟之際 漂風到泊於所謂竹島 而竹島至於伯耆州遠 近事段 矣身留駐本島  第三日 倭人七八名 不意中乗船來到 執捉矣身 仍自其島 發船經三畫四夜之後 始達伯耆 州爲白乎〓 竹島大小周回段 其大 較之於釜山前洋絶影島 則二倍有餘是白遣 周回則不能 詳知 而所見極廣闊是白乎〓 山形段 山有三峯 高峻接天是白遣 其餘多是平廣之地 而川水 流出於海是白乎〓 樹木 芦竹 禽獣等物段 有柯重木 柄子木 香木 又有冬栢木是白遣 有大 竹 其節甚大 而直聳參天是白遣 又有箭是乎〓 島中人戸居住事段 即今雖無居住之人戸 而 遣基礎石相連 而空基 多有生蒜是處是白乎〓 本島去伯耆州水路里數事段 矣身被捉入去之 時 得水疾 僵臥舶中、只記其三畫四夜之後 得達伯耆州 而水路里數 不能詳知是白乎〓 此 島前後 更無他島云々  安龍福招内 山形草木辭綠一様 而末端良中 矣身被捉入去之時 經一夜 翌日晩食後 見一 島在海中 比竹島頗大云々 綠由馳啓 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 竹島=独島問題ネットニュース9   2007.8.20                 竹島=独島問題研究ネット発行  ニュース一覧 1.セミナー「竹島(独島)問題、解決の方途をさぐる」 2.島根県の竹島問題研究会が最終報告書を外務省へ提出 3.独島本部「竹島報告書」強力に対応せねば 4.8/24「Web竹島問題研究所」が初会議 5.独島:「サイバー歴史館」がオープン 6.竹島海域の環境放射能調査、昨年に続き日韓で共同実施へ 7.東海海底の10地形、IHOに韓国名で登録 8.防衛白書の中で「独島は日本領」とうそぶく日本 9.オープン10周年迎える独島博物館、記念行事開催 10.独島:韓米FTA協定文の領土条項めぐり訴訟 11.邑南で韓国主張覆す竹島地図見つかる 12.独島:トド復活計画スタート /慶尚北道 13.【訃報】金景浩さん79歳=独島義勇守備隊員 14.独島:殉職警察官の慰霊碑建立へ 15.日巡視船、独島旅客船に一時接近 16.「仮想現実独島」が登場 1.セミナー「竹島(独島)問題、解決の方途をさぐる」 日時:9月1日(土) 14時~16時 講師:内藤正中(島根大学名誉教授) 参加費:1000円(会員800円) 場所:韓人歴史資料館、事前の申し込みが必要です。 TEL:03-3457-1088 2.島根県の竹島問題研究会が最終報告書を外務省へ提出  山陰中央新報、2007.7.13  日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)をめぐる歴史的経緯を研究してきた 島根県の竹島問題研究会がまとめた最終報告書を十二日、同県が領土問題を担当する外務 省へ提出した。同省はホームページに研究成果を掲載する意向を示した。 【コメント】最終報告書に対する批判を下記に掲載済みです。  半月城通信<島根「最終報告書」批判> 3.独島本部「竹島報告書」強力に対応せねば  中央日報、2007.7.17 市民団体である独島(トクト、日本名竹島)本部は17日、声明を通じて「日本の島根 県が作った竹島研究会が最近“最終報告書”を外務省に提出し、領土問題に対する積極的 関与を要求した。これらの邪悪な行為に対し、これ以上安逸な対応はだめだ」と明らかに した。 4.8/24「Web竹島問題研究所」が初会議  山陰中央新報、2007.8.18  日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)をめぐり、島根県は、県のホーム ページに新たな研究成果を公開する「Web(ウェブ)竹島問題研究所」の初の会議を2 4日に開く。3月で活動を終えた竹島問題研究会に代わる研究組織がスタートを切る。 5.独島:「サイバー歴史館」がオープン  朝鮮日報、2007.8.15  独島(日本名竹島)をサイバー空間で体験できる道が開いた。北東アジア歴史財団(キ ム・ヨンドク理事長)は14日、6500万ウォン(約820万円)を投じて制作した「サイバー 独島歴史館(www.dokdohistory.com)」をオープンした。 6.竹島海域の環境放射能調査、昨年に続き日韓で共同実施へ  読売新聞、2007.8.18  政府は18日、日本独自で実施する予定だった竹島(韓国名・独島)周辺海域での環境 放射能調査の一部を、昨年に続いて韓国と共同で行う方向で最終調整に入った。  日韓双方が主張する排他的経済水域(EEZ)内にある調査地点で日本が独自調査を行 えば、調査船が韓国側に拿捕(だほ)される可能性もあるため混乱回避を優先した。 7.東海海底の10地形、IHOに韓国名で登録  聯合ニュース、2007.7.11  政府は11日、モナコで開かれた国際水路機関(IHO)の海底地名小委員会で、東海 海底の10地形に対する韓国名登録が確定したと明らかにした。登録が決まったのは江原 台地、鬱陵台地、于山海谷、于山海底絶壁、オンヌリ盆地、セナル盆地、厚浦堆、金麟雨 (キム・インウ)海山、李奎遠(イ・ギュウォン)海山、安竜福(アン・ヨンボク)海山。 金麟雨は15世紀に鬱陵島の調査を行った人物、李奎遠は19世紀の鬱陵島検察使、安竜 福は独島の韓国領有を日本に認めさせた人物として、その名前がつけられている。 8.防衛白書の中で「独島は日本領」とうそぶく日本  朝鮮日報、2007.7.9  日本政府は6日、2007年防衛白書で独島(日本名竹島)について「日本の固有の領土」 と主張した。日本政府は2005年の防衛白書から「日本の固有領土である北方領土と竹島の 領土問題はいまだ解決していない」と記載し始めた。そして韓国政府がこれに抗議し、削 除を要求したにもかかわらず黙殺する態度を取った。 9.オープン10周年迎える独島博物館、記念行事開催  聯合ニュース、2007.7.13  国内唯一の領土博物館、独島博物館が来月8日に開館10周年を迎える。  光復(植民地支配からの独立)50周年に当たる1995年に建設を開始した独島博物 館は、1997年8月8日にオープンした。 10.独島:韓米FTA協定文の領土条項めぐり訴訟  朝鮮日報、2007.8.18  「民主社会のための弁護士の会」(以下「民弁」)は17日、「韓米自由貿易協定 (FTA)最終協定文で修正された領土条項や北朝鮮・開城工業団地の繊維原産地条項で、 修正過程に関する文書を公開せよ」と主張、宋旻淳(ソン・ミンスン)外交通商部長官を 相手取り情報公開請求訴訟をソウル行政裁判所に起こした。 11.邑南で韓国主張覆す竹島地図見つかる  山陰中央新報、2007.7.4  島根県邑南町で見つかった「亜細亜小東洋図」の日本周辺部分。「ヲヤ」と表記された 隠岐島の北西にある、現在の竹島を示す「松シ」(松島)と鬱陵島を示す「竹シマ」(竹 島)に、日本領を表す茶色の彩色がある 【コメント】ほとんどの日本全図で松島と竹島は常に一対です。地図上の松島(竹島=独  島)が日本領なら竹島(欝陵島)も日本領と考えられます。ただし、官撰地図でない私  的な地図は無責任であり、領有権の判断にはほとんど無価値です。 半月城通信<最終報告書の明治初期地図、舩杉氏への批判> 12.独島:トド復活計画スタート /慶尚北道  朝鮮日報、2007.8.16  慶尚北道は、日本統治時代に日本人に乱獲され絶滅した独島(日本名竹島)のトドを復 活させるためのプロジェクトに着手した。 13.【訃報】金景浩さん79歳=独島義勇守備隊員  朝鮮日報、2007.6.18  金景浩氏(キム・ギョンホ=独島義勇守備隊員)が16日午後6時、病気のため死去した。 79歳だった。 14.独島:殉職警察官の慰霊碑建立へ  朝鮮日報、2007.6.6  1958年、独島(日本名竹島)で勤務中に殉職した警察官の慰霊碑が50年ぶりに建立され る。 15.日巡視船、独島旅客船に一時接近  中央日報、2007.6.14 日本の海上巡視船が東海(トンヘ、日本海)の韓日領海境界線をはさんで、韓国の独島 (トクト、竹島)旅客船に急接近し、独島観光中だった乗客たちに一時緊張が走った。 16.「仮想現実独島」が登場  中央日報、2007.7.27 オンライン韓国広報団体のコリアスコープは27日、3D仮想現実サービスであるセカ ンドライフのコリアタウン東海に「独島ランド」をオープンした、と発表した。 以上



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