半月城通信
No.121(2006.8.6)

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    目次

  1. 日本の核兵器、過去と未来
  2. 七夕、渡来人の風流
  3. 姜尚中氏の『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』書評
  4. 「独島(=「竹島」)は朝鮮の領土だ」『前進』記事
  5. 太政官指令後の竹島=独島認識
  6. 明治政府「竹島」島名混乱の収束
  7. 軍艦・天城による朝鮮名「竹島」の認識
  8. 「竹島=独島問題ネットニュース」1, 2006.6.11
  9. 「竹島=独島問題ネットニュース」2, 2006.7.1

  10. 日本の核兵器、過去と未来 2006.8.5 メーリングリスト[AML 8555]   半月城です。   明日は広島の原爆投下61周年とあって、時節柄、原爆の話題が相次いでいますが、 つい先日、日本の原爆開発史にとって重要な資料がアメリカの公文書館で発見されました。 8月3日の東京新聞は、京都帝国大学で原爆開発にたずさわった科学者の研究ノートをこう 報道しました。        -------------------- 原爆研究者の直筆メモ発見   京大、戦中の核分裂実験  【ワシントン2日共同】太平洋戦争中に旧日本海軍から原爆開発を命じられた旧京都帝 大(現京大)の荒勝文策研究室で研究に携わっていた科学者2人が、核反応をはじめとす る基礎研究の実験記録などを克明に記載したメモ2冊がワシントンの米議会図書館で2日 までに見つかった。戦中の核分裂研究の実態など未解明な点が多い日本の原爆開発史をひ もとく上で貴重な史料となりそうだ。  ・・・・ 写真  旧京都帝大の荒勝文策研究室で原爆研究に携わった科学者、清水栄氏のメモ(右)と植 村吉明氏のメモ(共同)        --------------------   ここに紹介された清水氏は、戦時中、原爆製造に必要な酸化ウラン10kg程度をみずか らも収集したと韓国「ハンギョレ21」誌に証言したことのある、原爆開発の第一線に立つ 科学者でした(注1)。   清水氏のメモは「実験室覚書2」という表題のノートですが、内容は「サイクロトロ ンの製造を目ざし 1942年以降に進められた高電圧加速器の開発過程を詳しく記載してい る(注2)」とのことでした。   清水氏が所属する荒勝研究室が目指した原爆は広島型原爆、つまりウラン型原爆でし た。これは当然です。原爆は他に長崎型、つまりプルトニウム型もありますが、それに必 要なプルトニウムは天然にほとんど存在せず、もっぱら原子炉から作られるので、当時、 アメリカと違って原子炉をもたない日本では入手不可能でした。   ウラン型原爆を作るには、ウランの中に0.7%しか含まれない同位体のウラン235を高 濃度に濃縮する必要がありますが、この技術は至難の極にありました。現在ではウランを 気体の六フッ化ウランにして、高速で回転する数百台の遠心分離器をとおして、ほんの僅 かな比重の差を利用して濃縮しますが、この技術も難関であり、当時は未開発でした。   最近、パキスタンは核の闇市場をつうじて遠心分離器の部品を入手し、自国で組み立 ててウランを濃縮しましたが、その技術は 80年代のイラクも遠く手の届かない技術でした。   その一方、相対的に簡単なウランの濃縮技術は、ドーナツ型の粒子加速器、サイクロ トロンを利用する方法でした。これは技術のハードルが低いかわりに、生産効率がきわめ て悪いシロモノでした。1980年代、イラクもこの方法でウラン濃縮を試みましたが、もく ろみは湾岸戦争で霧消しました。   1945年、アメリカはサイクロトロンを改良したカルトロンを用いて、やっとの思いで ウラン型原爆を1発だけ完成させました。これは爆発テストすら行われず、すぐさま広島 に落とされました。爆弾の構造や原理が単純なので、テストをせずとも成功を確信してい たようでした。   戦時中の日本の原爆開発チームは、カルトロンより規模がはるかに小さいサイクロト ロンを保有していました。理化学研究所の仁科芳雄研究室が開発したものですが、それは 敗戦後、GHQにより当然のごとく太平洋へ投げ捨てられ、日本の原爆開発は終止符をう ちました。   今回、共同通信が発掘した資料によると、京大のサイクロトロンは計画段階だったよ うですが、資料自体が開発初期のものであり、理化学研究所とどう関係したのか、またそ の後の進行度はどの程度であったのかなど、全体像は不明です。   戦後の証言では、最初に原爆開発を提案した陸軍技術研究所の鈴木辰三郎が秘話「完 成寸前にあったニッポン製原子爆弾の全貌」を雑誌に発表しました(注3)。原爆が完成し なかったのは幸いでした。人類に惨劇をひきおこす核兵器は、全面的に廃絶されるべきで す。   戦後の日本は、名分上「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則 を守っていることになっていますが、韓国からすると日本の将来に大きな不安があります。 それを裏づけるかのように、大前研一氏は、日本はその気になれば、90日以内に核兵器を つくることができる「準核保有国」であると語りました(注4)。   これが単なる評論家の出まかせならさして問題にならないのですが、大前氏の経歴か らすると聞き流せない重みがあります。同氏は、東京工業大学の原子核工学科で修士号を、 マサチューセッツ工科大学の原子力工学科で博士号を取得し、その後、日立製作所原子力 開発部で高速増殖炉「常陽」や「もんじゅ?」の設計にたずさわった原子力技師でした。 原子力技術をよく知る大前氏がそのように語る裏には当然それなりの根拠があることで しょう。   ま、たとえ大前氏の言を話半分に聞くとしても、日本は決意さえすれば一年以内に核 兵器を製造可能なようです。しかも、核兵器に必要なプルトニウムは、今や数百発分もの 蓄えがあります。また、ウラン濃縮技術にしてもすでに実用化されています。残る起爆装 置さえ開発すれば、核兵器の量産がいつでも可能になります。   そのうえ、日本の政治家も公然と非核三原則を踏みにじるような発言をし始めました。 2002年5月30日、福田康夫内閣官房長官が「非核三原則は、国際情勢が変化したり、国民 世論が変化したり、国民世論が核をもつべきだとなれば、変わることがあるかもしれな い」「核兵器は理屈から言って持てる」「政策判断として持つのはやめるというのが非核 三原則」という歴代内閣の流れを覆すかの様な発言をして、物議をかもしました(注5)。   韓国からみると、核保有国である北朝鮮より準核保有国である日本のほうがむしろ脅 威かも知れません。静岡県立大学の平岩俊司氏は、中国や韓国にとって北朝鮮のミサイル や核兵器はそれほど脅威ではないと語っていましたが(注6)、たしかに韓国にすれば、北 朝鮮は同胞である韓国によもや原爆を落とすまいといった希望的観測があるのかも知れま せん。   その一方、日本では北朝鮮に対する反発が高じて、同国に対する先制攻撃論が飛び出 しましたが、これが韓国に少なからぬ波紋を起こし、韓国国会でも一時騒然となったくら いでした(注7)。   韓国では、<北朝鮮が実際に行ったミサイル発射よりも、実現してもない「先制攻 撃」発言のほうが韓半島においてより脅威的だという認識で、韓国、北朝鮮が意見の一致 を見たわけだ(注8)>という見方が徐々に広がっているようです。   今や世界屈指の軍事大国になった日本、その日本が朝鮮半島で再び軍事行動すること だけは韓国も北朝鮮もいかなる場合でも望まないことでしょう。 (注1)半月城通信「日本と原爆のかかわり」 (注2)中央日報「日本、太平洋戦争中の核開発裏付けるメモ発見」2006.8.3 (注3)半月城通信「日本の原爆開発」 (注4)朝鮮日報記事<日本の核武装化疑惑を徹底追跡>2005.6.10 (注5)ウィキペディア「非核三原則」 (注6)スカパー、朝日ニュースター「ニュースの深層」番組  「韓国・盧武鉉政権の実像」2006.7.31 (注7)中央日報記事、2006.6.8  <「日本の北朝鮮先制攻撃、排除できない」発言に国会が騒然> (注8)朝鮮日報、2006.7.13  <【ミサイル発射】南北、「ミサイルより日本が脅威」で一致> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    七夕、渡来人の風流 2006/ 7/ 9 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか」No.12009   半月城です。   しばらく原稿に追われて留守にしている間、「羊月城」さんが登場してこの掲示板も にぎわったようです。ここのところ、原稿も一段落したので、のんびり季節柄にちなんで タナバタの話題を書くことにします。   タナバタにはいろいろ疑問が多いのですが、まず「七夕」と書いて、なぜ「たなば た」と読むのか不思議です。   タナバタを『広辞苑』でひくと、漢字は「七夕」「棚機」とありました。どうやら 「棚機」が原語で「七夕」は当て字のようです。   棚機の「機」はすぐさま「機織り(はたおり)」の機とすぐわかるのですが、難解な のは棚です。これを『広辞苑』は単純に「棚すなわち横板のついた織機」としましたが、 あまりすっきりしません。そこで『日本語源大辞典』をひくと、棚は「水の上にかけだし た棚」とする説が有力とありました。   さらに、国文学者・折口信夫(歌人名・釈迢空)によれば七夕の起源は、古代、遠来 の客人の神を迎えるのに、海岸に棚を作って選ばれた乙女が機を織りながら待つのが祭り に先立つ儀礼だったが、その伝説が「外来の七夕の星神の信仰と結びついた(注1)」と されました。   この説もにわかには信じられません。それはともかく、釈超空のいう「外来の七夕の 星神の信仰」とは、いうまでもなく牽牛星、織女星のロマンスをさします。天の川をはさ んで別居させられたふたりは、7月7日の夕べ、年に一度の逢瀬を満喫するのですが、ここ で疑問なのは、ふたりはどこで再会するかです。   その日、ふたりは同時に天の川を渡り始めて橋の上で会うのでしょうか? 橋が木や 竹でできているのならそこで愛を確かめあうことも可能でしょうが、橋がカササギの群と あっては、愛をささやくのも鳥たちに気兼ねしてしまうことでしょう。   ふたりが愛を語らう場は、日本では先の伝説にみられるように織り姫の待つ所とする 説が強いようです。しかし、本場の中国では織り姫がカササギの橋を渡っていとおしい牽 牛に会いに行くというストーリーが、すでに南北朝のころには出来上がったようです。   この場所の違いは、婚姻形態が中国では「嫁入り」なのに対し、日本では「妻問い 婚」であった風習を反映した結果でしょうか。   七夕も中国から百済を経て日本へ伝わり、長年月をへる間にその土地に合うよう少し ずつ変容していったようです。現在の日本の各地にみられるような華麗なタナバタ飾りは 本場の中国や韓国では見られません。それも当たり前でしょうか、華麗なタナバタ飾りは 商業主義を反映した姿であり、伝統の街では決してみられるものではありません。   先日、七夕の発祥の地とされる大阪河内(かわち)の交野(かたの)の七夕を見てき ましたが、飾りなどは実に質素なものです。そのかわり、その地には天の川が流れ、カサ サギ橋がかかり、近くには機物(はたもの)神社や牽牛石など歴史的遺産にあふれ、いか にも日本の七夕のルーツをほうふつとさせます。   ただ、機物神社は本来、秦者神社であったのが、七夕にあやかって機物神社になった とされています。織物関連では力のあった秦氏がこの地で活躍していたようです。それを 物語るように、その付近に秦田、秦山、秦者などの名前がかつてはあったようです。   交野や、王仁博士の墓があるとされる隣町の枚方(ひらかた)市は、今では都会の塵 埃にまみれ、天の川どころかアルタイル(牽牛星)やベガ(織女星)もかすみがちですが、 昔はほんとうに天の川を思わせるような清流が白砂の間を縫うように流れ、今にも天から 星の降るような街だったようでした。   言い伝えでは、弘法大師(空海)が交野で仏眼仏母尊の秘法を唱えると天上より北斗 七星が降ったとされています。そうした景勝の地に七夕が根づいた歴史を「天の川七夕星 まつりの会」の平林会長はこう記しました。        --------------------   ここ交野が原の地は、古くから渡来人により開かれ、大陸の文化が伝えられました。 特に(枚方市)中宮の百済寺を造営した百済王家一族は、この地に多くの影響を与えまし た。   平安時代、百済王一族と関係が深かった桓武天皇をはじめ、平城、嵯峨、仁明天皇ら がたびたび交野に行幸し、風光に恵まれたこの地を愛したのでした。それについて多くの 宮廷人が訪れ、四季折々の歌や七夕歌を残しています。それは交野が原文芸ともいうべき すばらしい遺産です。   渡来人のもつ豊かな文化や風習も伝承され、大陸から伝来した七夕伝説も自然なかた ちで受け入れられました。交野が原は、地上での七夕の地として位置づけられ、それにふ さわしい名所がつくられたり、名づけられたりしていったのです。   日本には七夕祭りが盛んな地域は数多くありますが、平安の昔から交野が原のように 地域全体が七夕と星・天体に関連した地名や伝承に彩られているゾーンは、余所にはあり ません。   交野が原こそは、まさにわが国における七夕伝説・星祭りの発祥地といえるでしょう。        --------------------   七夕を詠んだ歌ですが、交野で在原業平のような歌人までが詠みました。業平の歌を 意訳すると次のようになるでしょうか。  「狩り暮らし、たなばた姫に宿を借りたし、天の川原に我は来たので」(注3)   これに対し、紀有常はこう返しました。  「ひととせに ひとたび来ます君待てば 宿かす人も あらじと思ふ」   一年に一回しか来ないのを待つようでは宿を貸す乙女もいませんよ、まさに当意即妙 の歌です。この歌からもわかるように、交野や枚方一帯は平安時代の狩り場でもありまし た。それも桓武天皇がしばしば好んでおとずれた御猟場だったようでした。   それにはわけがあったようです。一説には百済王氏出身の明信という夫人が目当てで 行幸したなどとささやかれますが、それはさだかではありません。確実なのは、交野の地 が当時の都である長岡京の南に位置し、天地の祭り、郊祀(こうし)を行うのにふさわし かったことです。上田正昭氏はこう史実を記しました。        --------------------  『続日本紀』には延暦4年の11月10日、「天神を交野の柏原に祀る・・・」と述べ、さ らに延暦6年11月5日に「天神を交野に祀る」と記す。すでに都は長岡京に遷されており、 交野はその南郊にあたる。その天神郊祀が中国皇帝の郊祀にならったものであったことは まちがいない。  ・・・   延暦4年の場合も同6年の場合もその郊祀の日は、ともに冬至の日にあたっており、 冬至の日に天帝を南郊の天壇に祀るのは、中国皇帝の慣例であった。   しかも交野は前にも述べたごとく、百済王氏の有力な本拠であって、たとえば延暦6 年の10月17日には、桓武天皇は交野に行幸して遊猟し、藤原継縄の別業を行宮(あんぐ う)にしている。この継縄の別業が、妻 百済王明信とかかわりのある別業であったこと はいうまでもない。   そして同月20日にはその行宮で百済王らが「種々の楽」を奏し、百済王玄鏡、藤原乙 叡(明信の子)に正五位下、百済王元真・善貞・忠信に従五位下、無位の百済王明本に同 じく従五位下を授けて長岡へ遷宮した。・・・   桓武天皇によって始められた交野の郊祀は、その後においてもその内容がうけついで つづけられていたのである(注4)。        --------------------   桓武天皇は「朕の外戚は百済なり」と公言するくらい百済王氏と姻戚関係が深かった のですが、当時、百済王氏はかなり優遇されたようです(注5)。その百済王氏の根拠地で ある交野は、桓武天皇以後も天皇家代々の郊祀と関連して、ますます星の街としてのイ メージを強めていったようです。そしてついには七夕が日本でも五節句の一つとして定着 し、祝日にまでなりました。   しかし、1873(明治6)年、日本の祝日は民中心から天皇中心になり、七夕も祝日から はずされてしまいました(注6)。韓国でも七夕は祝日にはなっていませんが、それなり の伝統は残っているようです(注7)。 (注1)『日本語源大辞典』小学館 (注2)平林和典他『交野ケ原と七夕伝説』天の川七夕星まつりの会、2004 (注3)『伊勢物語』「狩りくらし 棚機津女に宿からむ 天の川原に我は来にけり」 (注4)上田正昭『論究・古代史と東アジア』岩波書店,P173,1998 (注5)半月城通信<天皇「ゆかり」発言> (注6)半月城通信<天皇中心の祝日と靖国神社> (注7)朝鮮の七夕『世界大百科事典』平凡社   朝鮮でも7月7日に牽牛・織女交会の日の伝説に基づいて中国の乞巧奠と同様,当夜婦 女子は裁縫の上達を二星に祈る。またレイ書・曝衣という書物や衣服の虫干しが行われる。   一方農家では,この日には二星の別離の涙が降るのでこれで身を清め髪を洗えば厄払 いになるといって沐浴したり,天穀鬼神が降りて来て穀物の収穫量を定める日であるとし て休業する。このように中国風の星祭のほかに,元来この時期に朝鮮固有の農耕予祝儀礼 が行われていたことが分かる。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    姜尚中氏の『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』書評 2006.6.18 メーリングリスト[zainichi:29910]   最近、『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』の書評がいくつか出されましたが (注1)、その中で東京大学教授・姜尚中氏の文が光ります。   特に『まんが嫌韓流』に対する分析は読みごたえがあります。まず、同氏は『ま んが嫌韓流』の手法をこう捉えました。        --------------------  マンガでは、「冷静」かつ「理性」的な主人公が、「激情」的で「非理性」的な 「韓国人」や「在日コリアン」の様々な「欺瞞」や「狂態」を暴き出し、結果として 「日本人」を悪意や虚偽、憎悪の犠牲者に仕立て上げる趣向になっている。読者が、 そうしたお人好しでかわいそうな犠牲者としての「日本人」に共感する筋立てになっ ているのである。この「俗情」におもねる手法こそが、『マンガ嫌韓流』の真骨頂と いえるかもしれない(注2)。        --------------------   姜尚中氏は、そのような手法をとる嫌韓本がよく売れるのは読者の社会的ポジ ションや意識にマッチするものがあるのだとみて、その正体を「他者を軽んじ、蔑視 することによってしか精神の均衡が保たれない人々の社会的な屈折と葛藤」と推測し ているようです。同氏は書評にこう記しました。        --------------------  本書(『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』)の論者たちはみな、実に丁寧かつ 誠実にマンガの「デタラメ」さにひとつひとつ反論を加えながらも、憎しみではな く、あくまでも「理解」の大切を力説してやまない。そこに真摯な誠実さを読み取る ことができるはずだ。  ただ、誤認や曲解、偏見をただせば、「嫌韓流」 は次第に消え失せていくものな のかどうか。いやむしろ、そうした「意図的な」曲解と誇張こそが、「嫌韓流」のエ ネルギー源になり、それで盛り上がっているのではないか。もちろん、本書の論者た ちはそんなことは百も承知のことだろう。  いずれにしても、マンガのコンテンツもさることながら、今後は、さらに読者 (オーディエンス)の社会的なポジションとその意識に分け入った『マンガ嫌韓流』 の読みが必要になってくるのではないか。他者を軽んじ、蔑視することによってしか 精神の均衡が保たれない人々の社会的な屈折と葛藤がそこから見えてくるに違いな い。『マンガ嫌韓流』は、はしなくも、現代日本社会論への窓口を開いてくれるかも 知れないのだ。この意味でも、本書はその第一歩になるに違いない。        --------------------  『マンガ嫌韓流』が売れる理由をつきつめれば「現代日本社会論」への窓口につな がるという見方は斬新で興味をひかれます。   しかし、嫌韓ブームもそろそろ終りになるのなら、そうした試みもほとんど不要 といえます。また、その方向を促進するのに『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』 が一役買うことができるなら、著者の一人として本望です。 (注1)「民団新聞」2006.6.7 <『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』、不毛な嫌韓と反日に終止符を> [朝鮮新報 2006.5.23] <醜悪な修正主義言説を斬る> (注2)姜尚中「真摯に、誠実に、理解を呼びかけ。「嫌韓流」のデタラメに反論す る」『週刊現代』2006.6.24 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    「独島(=「竹島」)は朝鮮の領土だ」『前進』記事 2006/ 6/18 Yahoo!掲示板「竹島」No.14644   明治政府の国家最高機関である太政官が竹島=独島を版図外とした史実などが日本で も徐々に浸透しているようです。   先日は、拓殖大学の下條正男教授がついにその史実を認めたことを紹介しましたが、 今回は週刊紙『前進』の記事を紹介します。   その記事において同紙は、独島(=「竹島」)は「朝鮮の領土」という主張をかかげ ており特に注目されます。        -------------------- 「日帝・小泉=海上保安庁の独島略奪策動を弾劾する」  「独島(=「竹島」)は朝鮮の領土だ」              『前進』2006.5.8 ○ 測量船を待機させ屈服迫る  (前略)  4月19日、海上保安庁の測量船「明洋」と「海洋」が鳥取県の境港に入港、待機態勢に 入る中、日帝・小泉政権は韓国側の反応次第では20日にも調査を始めるという強硬姿勢で 韓国に譲歩を迫った。  25日に韓国 盧武鉉(ノムヒョン)大統領は「日本が独島に対する権利を主張すること は韓国の完全な解放と独立を否定する行為」「物理的挑発には断固対応する」と表明。こ れは日帝の軍事行動にすさまじい怒りを噴出させる朝鮮人民の闘いによって押し出された 発言だ。小泉首相の靖国神社参拝や「つくる会」教科書をめぐるアジア侵略戦争と植民地 支配を肯定し、再び侵略戦争を構える日帝の軍事挑発に、昨年来の朝鮮人民の怒りが沸騰 しているのだ。  この朝鮮人民の怒りに麻生外相は「歴史問題とは関係ない。領有権の問題だ」(25日、 参院外交防衛委)と居直り、小泉・安倍は「(韓国に)冷静な対応を望む」などと盗人た けだけしく言い放ったのだ。  これが軍事挑発でなくてなんなのか! 韓国側の対応いかんで日本海に展開する海自の 巡洋艦がいつでも急行するという一触即発の事態だった。この時、舞鶴沖では自衛隊の軍 事演習中だったのだ。  小泉政権と海上保安庁は今回、6月のドイツでの国際会議で韓国が独島周辺の日本名の 海底地形を韓国名に変更する動きをみせていることを口実に、海洋調査を突如設定し、測 量船2隻を境港に待機させる挙に出た。そしてこの圧力を背景に谷内外務次官が訪韓、国 際会議で海底地名の変更提案を行わないことを韓国に約束させた。それを条件に日帝も調 査を中止することで「合意」が成立した。  日帝の今回の海洋調査の狙いは、歴史的にも国際法上も完全に朝鮮領であり、韓国が現 に実効支配する独島を「日本固有の領土」と強弁し国際問題化して、新たに独島略奪策動 を強めることにあったのだ。 ○ 1905年に略奪閣議決定  130年前の1875年に、日本の明治絶対主義政府は測量名目で江華島沿岸に雲揚号を出し、 朝鮮に江華島条約を押しつけ、植民地支配の足掛かりをつくった。そして歴史上初の帝国 主義戦争だった日露戦争のただ中で、100年前の1905年、独島を「日本領土」と閣議決定 して島根県に編入した。独島を歴史的に略奪したのだ。  日帝は日露開戦と同時に、韓国に「日韓議定書」を強要し、事実上の「属国」とした。 以降、1904年8月「第1次日韓協約」、1905年11月「第2次日韓協約」(乙巳保護条約)、 1907年7月「第3次日韓協約」と、韓国の内政も外交もすべて奪っていき、1910年の韓国併 合で植民地化を完成した。まさに1905年の独島略奪こそ日帝の朝鮮植民地支配の起点であ り、朝鮮人民にとって「屈辱の象徴」なのである。  重要なことは、日本は江戸時代と明治時代に、二度にわたり「竹島」の領有を否定して いることだ。  (1) 徳川幕府は1696年に鬱陵島への渡海を禁じた。これによって「竹島」に行く者も途 絶えた。  (2) 明治になって1876年には鬱陵島に渡った日本人から島の開発申請が出されたことに 対し、明治政府は鬱陵島ほか一島(竹島)は「本邦とは関係ない」という太政官決定を下 した。日本は領有を一度も主張してはいない。  他方、1900年に大韓帝国の勅令で鬱陵島を韓国領と宣言し、属島の「石島」(独島)を 管轄するとした。この時点で独島の韓国領有は国際的にも確定していたのだ。 こうした歴史的・国際法的関係を逆転させ、日帝が独島を略奪し、朝鮮植民地支配の転機 となったものこそ、1905年の閣議決定だったのだ。  戦後においても以上のような歴史事実を受けて、連合国軍総司令部(GHQ)は、1946 年の二つの「覚書」で、「竹島」への日本の行政権を停止し、日本漁船の操業区域から 「竹島」を除外している。  このように独島=朝鮮領はあらゆる意味で明白だ。  (後略)        --------------------  『前進』記事の歴史認識にほとんど問題はないのですが、「日帝」の策動を弾劾する同 紙が帝国主義列強間の「国際法」について何の批判もないのが気になります。紙幅の制約 のため「狼どもの国際法」に対する批判を割愛したのでしょうか。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    太政官指令後の竹島=独島認識 2006/ 7/17 Yahoo!掲示板「竹島」No.14772   半月城です。   Re:14725, ahirutousagi2さん、 > 私にはそもそも半月城さんが、どうして太政官判断で「現在の竹島」を放棄したと考 えうるのかよく分からないのです。 この発言の真意をはかりかねています。文面から察すると ahirutousagi2さんは、太 政官が「現在の竹島」を版図外にしたとは考えていないように読めます。その一方で  ahirutousagi2さんの発言から下記だけは確認できるでしょうか。 1.島根県が内務省に提出した伺書に記されている「竹島」は現在の欝陵島、「松島」は   現在の竹島=独島である。 2.それは島根県伺書の付属文書である地図「大谷家図面」からも確認できる。 3.太政官は、内務省経由で提出された上記 (1),(2)の資料などから判断して、島根県伺   書および内務省伺書に書かれた「竹島」と「松島」を版図外とした。   内務省や太政官判断の決め手になった資料である島根県伺書の内容を考えるなら、太 政官が版図外にした「竹島」は現在の欝陵島、「松島」は現在の竹島=独島という結論に なると思うのですが、どうやら ahirutousagi2さんの考えは違うようです。   念のために書くなら、こうした太政官の「版図外」指令に軍艦・天城の「松島」調査 はまったく影響しません。時間的にいうなら、太政官の判断は1877(明治10)年であり、 天城の調査はそれ以後のこと、すなわち翌年および1880年の出来事だからです。   時間的には、逆に太政官指令が天城の調査に影響を与えた可能性はありえます。しか し、その明らかな痕跡は見出せないようです。それも無理ないようです。   太政官が竹島(欝陵島)と松島(竹島=独島)を版図外とした指令は、伺書が提出さ れた内務省に対して回答されたので、外務省や海軍などがそれを直接知るのは困難です。 他部署がそれを公式に知ることができるのは、内務省からそれについての通知があった場 合のみです。実際、外務省はそうした公式通知で太政官指令を知ったようで、堀和生氏は こう記しました。        --------------------   1881年11月29日、内務省が竹島と松島を版図外とした先述の太政官の指令書を付して、 外務省に欝陵島の現状を照会したことがあった(25)。それに対して、外務省は何ら全く 異論を申したてていない。そしてその後も1905年に至るまで、外務省が竹島と松島の領有 権を分けて扱うようなことは決してしなかったのである(注1)。        --------------------   外務省が太政官指令書に異論をとなえなかったのは、独自の調査で太政官指令の正し さを認識したためと思われます。   かつての外務省は、同省宛に民間から提出された「松島開拓願」をめぐって、その松 島がどこをさすのか明確な判断ができずに混乱しました。そこで同省は独自の調査を元禄 時代にまでさかのぼって徹底的に行い、1881年8月、開拓願にいう「松島」は古来の竹島、 すなわち欝陵島であると結論づけ、『竹島版圖所属考』にこう記しました。  「竹島 一名は磯竹島 又 松島と称す 韓名は欝陵島 又 芋陵島と称する者 此な り・・・今日の松島は即ち元禄十二年 稱する所の竹島にして 古来 我版圖の地たるや知 るべし(注2)」   外務省は開拓願いの「今日の松島」が「古来の竹島」と同じであることを確信したの みか、1878年には「今日の松島」すなわち欝陵島の緯度や経度の情報までも海軍の水路雑 誌からほぼ正確に知りました(注3)。   軍艦・天城は、1978年に松島(欝陵島)へ立ち寄り、その時の停泊位置を測量しまし たが、その経度や緯度が水路雑誌に記されたのでした。外務省はその資料により、松島 (欝陵島)の位置を正しく認識し、同島の位置についてはなんの疑問もなくなりました。   なお、天城は竹島=独島にはついに立ち寄らなかったようでした。それでも水路部は 両島の位置をイギリスから提供された海図により正確に把握していたようで、堀和生氏は こう記しました。        --------------------   日本の海軍が主に依拠していた英国版の海図では、六〇年代既に二島の所在が確定し ていた。そのため、日本の海軍も七〇年代末にはその点を充分認識していたようで、八〇 年代の日本製の海図には二島が正確に画かれていた。   しかし、海図は地理的な認識を示すだけなので、海図中の島の所属については、その 解説書たる水路誌を重視しなければならない(注1)。        --------------------   外務省が欝陵島を「今日の松島」と呼んだことからわかるように、同島の名は、その 位置を測量した海軍水路局が松島と呼んだことから、次第に「松島」の呼び名が主流に なっていきました。   海軍は竹島(欝陵島)の歴史にうとかったのか、あるいは世間の趨勢にしたがったの か、欝陵島を当初から松島とよんでいたようです。そして欝陵島のすぐ東にある竹嶼をど うやら「竹島」であると混同していたようです。北澤正誠はこう記しました。        --------------------   明治十三年 天城艦の再び松島に航するに及び海軍少尉 三浦重郷等 親しく其地に至 り 実見測量するに及び 該島東岸に假泊の地を発見し 又 松島は古代韓人称する處の欝陵 島にして 他に竹島と称する者あるも サイジたる小島に過ぎざるを知り 事情愈明了なり 由(注2)        --------------------   三浦少尉が画いた略画で「松島 一名 欝陵島」の東に「竹嶼 Boussole Rk」と記され ましたが(注4)、「竹嶼」の名は、あるいは三浦少尉の早合点によって名づけられたのか も知れません。竹嶼の名は、島根県士族・戸田敬義の欝陵島への渡海願い「竹島渡海ノ 儀」に付属する詳細な地図にすらないようです。   その後、竹嶼の名は 1894年版の『朝鮮水路誌』にも「欝陵島(一名 松島)」の項目 の中に記されました。「竹島」の名はありません。一方、現在の竹島=独島は「リアン コールト列岩」の名で同書に記されました。この島がかつて松島と呼ばれていたという知 見が水路部にはなかったようです。   最近、この『朝鮮水路誌』に関する「新事実」の報道が注目されます。これについて も書くことにします。山陰中央新報(7/12)は「竹島領有権で新事実」と題してこう記しま した。        -------------------- 「竹島領有権で新事実」   国立国会図書館が今春、朝鮮水路誌をインターネット上で公開したのを機に、島根大 学法文学部の舩杉力修助教授(歴史地理学)が調べたところ、冒頭の総記で、朝鮮国の東 の境界は「東経130度35分」と記していることを確認。位置関係から、鬱陵島を指し ているのが分かった。  ・・・  水路誌や海図について、島根県の竹島問題研究会の委員を務める舩杉助教授は「水路部 は大前提として、朝鮮国の東の境界を鬱陵島と認識していた」と強調。        --------------------   朝鮮国の東の限界が鬱陵までで、竹島=独島が含まれないという根拠は『朝鮮水路 誌』の「総記」にあるとのことなので、その部分を下記にぬき出しました。ただし、カタ カナは平仮名に変換しました。        -------------------- 総記 形勢   朝鮮国は亜細亜の東部にあり 其地勢たる狭長なる一大半島を成し 数多の島嶼 之を 圍繞す 其位置は北緯三三度一五分より同四二度二五分 東経一二四度三〇分より同一三〇 度三五分に至る・・・        --------------------   たったこれだけの記述から「朝鮮国の東の境界を鬱陵島と認識していた」と主張して いるようですが、そうだとすると、これは重箱の隅をつつくようなアラ探しといわざるを 得ません。   この理屈をそのまま朝鮮の南方へ適用すると、朝鮮の南の限界は『朝鮮水路誌』で北 緯33度15分とされたので、朝鮮の限界は済州島までであり、その南にある韓国領の馬羅島 (北緯33度7分)などは含まれないことになります。   こうした簡単な指摘からもわかるように、「総記」の経度や緯度は小島を無視した概 略値を示したものにすぎません。そうした小島が範囲に含まれるのかどうかは、具体的に 本文を見ればすぐわかることです。  『朝鮮水路誌』の本文では、前に書いたように竹島=独島は「リアンコールト列岩」の 名で取りあげられました。もし「リアンコールト列岩」が朝鮮に無関係であるなら、本文 に取りあげられるはずもありません。このように「総記」の経度や緯度は主要な島を表記 したにすぎないとみるべきではないでしょうか。   また、舩杉助教授は『朝鮮水路誌』に関して、これは「朝鮮領の範囲を示すのではな く、航行の安全確保」が目的としていますが、同氏は水路誌の歴史をよくご存じないよう です。水路誌は、歴史的な領土の範囲と密着して作成されてきました。それを堀和生氏は こう記しました。        --------------------  海図は地理的な認識を示すだけなので、海図中の島の所属については、その解説書たる 水路誌を重視しなければならない。  日本海軍は、八〇年三月より全世界を対象とした『寰瀛(かんえい)水路誌』の編纂を 始めた。そのうちの露韓編である第二巻第二版(一八八六年)には、欝陵島とリヤンコー ルト列岩が載せられている。しかし、これは世界の水路誌であるが故に、その所属の決め 手にはならない。  ところが、八九年三月その『寰瀛水路誌』の編纂は中止され、日本を中心とした東北ア ジア海域を重視する方針に転換した。まず、日本領海を他と区別して『日本水路誌』とし て独立させ、九二年から順次刊行していった。  この水路誌には、九五年の下関条約による日本の新領土台湾や澎湖島、さらにほ千島列 島最北端の占守島まで載せられているが、反面台湾の対岸やカムチャッカ半島は全然含ま れていない。すなわち、この『日本水路誌』の扱う範囲は、あくまで日本の領土・領海に 限定されていたのである。  そして重視すべきは、この水路誌の日本海のところで、リャンクール島=独島に全く触 れていない点である。当時の日本の海図には、同島は正確に位置づけられており、その所 在を知らなかったわけではない。  図2のとおり(注5)、この水路誌の一八九七年版の付図と、同島を日本に領土編入した 後の水路誌の付図を対照させれば、事態は明白である。即ち、一九〇〇年時点で日本の海 軍水路部当局は、明らかに同島を日本領から除いていたのである。  そして他方、日本海軍の 『朝鮮水路誌』一八九四年版と九九年版には、欝陵島と並ん でリアンコールト列岩が載せられている。つまり一九世紀末に、日本海軍の水路部当局が 竹島=独島を朝鮮領だと認識していたことは、疑いのないところである。  以上要するに、明治維新以後日本の政府が、竹島=独島に独自の関心を示したことは全 くなかった。そして、認識の程度に強弱はあっても、日本政府の関係諸機関のすべてが、 同島を欝陵島と合わせて朝鮮領だとみていたことは明らかなことであった(注1)。        --------------------   海軍水路部は、戦争によって新たに獲得した領土を『日本水路誌』に組み入れるのに 際し、どこまでが日本領であるのか、正確に知る必要がありましたが、そうした『水路 誌』の編纂をとおして、水路部は日本における国境画定機関に成長しました。   1904年、竹島=独島を朝鮮領と信じていた隠岐の中井養三郎が同島の所属を最終確認 したのも水路部でした(注1)。また、1905年、内務省が竹島=独島を領土編入を閣議に はかる際、竹島=独島の所属に関する水路部長の回答書を添付しました(注6)。水路部 が実質的な国境画定機関になりました。   その水路部が竹島=独島など朝鮮領の区分けを『水路誌』にていかに行ったのか、そ の変遷はすでに下記に書いたとおりです。1905年以前、水路部は竹島=独島を朝鮮領とし て扱ったことは明白です。  半月城通信<明治の国境画定機関の竹島=独島認識と『水路誌』> (注1)堀和生「一九〇五年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号 1987  影印版は(注5)  原著注(25)「内務書記官 西村捨三の外務省書記官宛照会」外務省記録3824 外務省外交  史料館所蔵 (注2)「朝鮮國蔚陵島ヘ邦人渡航禁止ノ件」附屬書二、北澤正誠「竹島版圖所屬考」  『日本外交文書』第14巻 P390,1951(原文はカタカナ) (注3)同上書における天城の記述  「海軍水路局の水路雑誌に拠れば 明治十一年六月 海軍少佐 松村安種 天城艦を以て朝  鮮海へ回航の際 其乗員 海軍大尉山澄直清 海軍少尉補小林春三 同福地邦鼎等と松島  に赴き吉田中尉は正午 本艦の所在を実測し 北緯三十七度四十八分を得 又 午前七時五  十八分に大陽高度を測りて本艦所在の東経一百三十度三十二分を得」 (注4)北澤正誠『竹島考證』下、内閣文庫「外務省記録」 (注5)堀和生「一九〇五年 日本の竹島領土編入」影印版 (注6)『公文類聚』第29編、明治38年、巻一 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    明治政府「竹島」島名混乱の収束 2006/ 7/23 Yahoo!掲示板「竹島」No.14790   半月城です。引きつづき、ahirutousagi2の質問に答えることにします。   ahirutousagi2さん、Re:14777 >2.竹島・松島がアルゴノート・ダジュレーの位置で示されている内務省地理局「大日  本府県分轄図」(1881)をどう考えるか。   質問に答える前に、簡単に地理局の地図をレビューすることにします。1875(明治 9)年、島根県に竹島(欝陵島)の地籍編纂伺いを出した内務省の地理寮は、その二年後 に省内で地理局と名を改め、79年に初めて『大日本府縣管轄圖』を、ついで 80年に『大 日本國全圖』を出版しました。   ただ、タイトルは「大日本」とはいえ、北海道は前者の地図では記載がなく、後者の 地図では南端のみ画かれました。北海道の調査が遅れていたのでした。   その両図において、竹島(欝陵島)・松島(竹島=独島)はもちろん記載されません でした。1877年、両島を版図外とする布告が太政官から内務省に通知されたので当然です。   1881年、地理局は北海道を含めた日本地図『大日本府縣分割圖』を出版しました。そ のデジタル版が国会図書館から公開されましたが、その冒頭に極東全体を描いた地図「大 日本全國略圖」が挿入され、そこに「竹島」「松島」の二島が隠岐の沖合に記載されまし た(注1)。   といっても、内務省は両島を日本領と認識したわけではありません。両島は、それま での同省の地図同様に日本領とは認識されていないので、各府県の詳細図にはどこにも画 かれませんでした。   同図における松島・竹島の位置は、内務省伺「竹島外一島地籍編纂方伺」付属の「大 谷家地図」に描かれた磯竹島(竹島)・松島の位置とほぼ同じです。これは当然の流れで あり、同省がダジュレー島や存在しないアルゴノートを記した誤った地図を参照した形跡 は見られません。   もし誤った地図を参照したとしても、隠岐の沖合には二島しか存在しないということ を内務省も大谷家地図などをとおして信頼していたので、三島を画いた誤った地図の信憑 性を疑ったことでしょう。   ちなみに、大谷家地図に記された竹島・松島の位置関係は次のようになります(注2)。  隠岐ー(80里)ー松島ー(40里)ー竹島ー(50里)ー朝鮮   このように、大谷家地図では竹島が実際よりかなり朝鮮寄りに描かれました。日本に は海路の測量技術や器械が普及していなかった時代の地図なので、正確な距離は望むべく もありません。海路の距離は不正確で当たり前でした。   それでも大谷家は実際に両島へ渡航して経済活動をした実績を持つので、同家の地図 に描かれた竹島、松島が今日の欝陵島と竹島=独島をさすことは、ここの会議室でも誰し も異存はないようです。   ahirutousagi2さん、Re:14778 > 太政官たるもの鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と分からなかったはずがない。  そう仰る半月城さんの理解は、私の理解の限界の幅をいささか超えたものであると言え  そうです。   これは曲解が過ぎます。私の考えを正しく理解したいのなら、まず私の語った言葉を 正しく引用することから始めてください。私の考えをいうなら、そもそも太政官のありよ うは「・・・・と分からなかったはずがない」などと云々するような性格の部署ではあり ません。   ahirutousagi2さんの考えを察するに、太政官は明治政府の最高機関であり、海軍や 内務省などを統括する立場であるので、各省からの松島・竹島に関する地理情報を総合し て独自の「地理(位置)的な理解」をもっていたというのでしょうか。   そうした理解は、1871(明治4)年から2年間だけはあり得たことでしょう。この期間 は、民部省の廃止にともない、同省におかれていた地理司が太政官地誌課へ臨時に移った ので、その地誌課を核に太政官独自の「地理(位置)的な理解」も可能だったことでしょ う。   しかし、73年に内務省が設置されたのに伴い、臨時の太政官地誌課は同省へ移管され、 前述の地理寮になりました(注3)。したがって、その時から太政官の「地理(位置)的 な理解」はそのままそっくり内務省へ移りました。   その結果、「抜け殻」の太政官では、ahirutousagi2さんのいうような独自の「地理 (位置)的な理解」を持つことはなくなりました。   ここで一旦、太政官の性格をより理解するために、太政官への伺書について少し書く ことにします。   内務省が太政官に提出した問題の「竹島外一島地籍編纂方伺」には「十六」という番 号が付されました。これは内務省が1877年3月中に出した数ある伺い書の中で16番目に相 当することを意味します。この月の一カ月間だけでも内務省から太政官へ提出された伺書 は、私がざっと確認しただけでも29になります。   明治政府の代名詞である太政官には内務省のみならず、他の省庁、外務省、大蔵省、 司法省、海軍省、工務省など、10省庁から毎月のように相当数の伺書が提出されました。 その数は、毎月おそらく数百に達したことでしょう。   当時、太政大臣、左大臣、右大臣、参議からなる太政官は、そうした多くの伺書を決 裁するにあたって、伺書に矛盾点がないかどうか、他部署との調整が必要かどうか、政策 的に妥当かどうかなどを検討して裁可しました。内務省の「竹島外一島地籍編纂方伺」も そうした伺書のひとつにすぎません。   そうした国策・政策の最終決定をおこなう機関である太政官が、松島・竹島について 独自の「地理(位置)的な理解」を組織的にもつというのは、地誌課という専門の担当部 署を欠いた太政官においては微塵もあり得ないことでしょう。   結局、1877年、太政官は内務省の伺書を承認したことにより、内務省の松島・竹島に 関する認識をそのまま承認して版図外と布告したのでした。つまり、下條正男氏すら自説 を覆して認めたように、竹島=独島を版図外として布告したのでした。   ahirutousagi2さん、Re:14799, > また、太政大臣三条実美が1883年に鬱陵島を松島(一名竹島)としていることの整合  性も無視なさっています。   これは何を問題にしたいのでしょうか? 同年の太政大臣の布告は欝陵島に関する外 務省の伺書をそのまま承認したものなので、太政官は欝陵島に関する外務省の認識をその まま認めたといえます。   外務省の認識は、伺書に添付した「竹島版圖所属考」(1881)に示されましたが、そこ に両島はこう記されました。  「竹島 一名は磯竹島 又 松島と称す 韓名は欝陵島 又 芋陵島と称する者 此な り・・・今日の松島は即ち元禄十二年 稱する所の竹島にして 古来 我版圖外の地たるや 知るべし(注4)」   外務省は、朝鮮領である竹島(欝陵島)の名を、海軍水路部の表記にしたがって松島と 改めましたが、これは81年に内務省から同省へ送られてきた「竹島外一島地籍編纂方伺」 関係の資料と矛盾しません。内務省資料でも江戸時代の竹島は朝鮮領の欝陵島であるとさ れており、外務省の認識に一致しました。   このころ、新島名・松島(旧島名・竹島)に日本人が入り込み「禁令を犯し 密商を なす者」「樹木を討伐する者(注5)」などが現われ、1882年、朝鮮政府から抗議を受け る事態になりました。   これに対処するため、外務省は上に述べた伺書「朝鮮国所属蔚陵島ヘ我国民渡航禁止 ノ件」を83年に提出したのですが、注目すべきは、それを受けた太政官の対応です。外務 省の伺書を裁可すれば、その渡航禁止令は内務省から出すことになるので、内務省への根 回しが必要でした。   その根回しの過程で内務省は「日本称 松島 一名竹島 朝鮮称 蔚陵島」の位置を「北 緯37度30分 東経134度49分」と知らされたのでした。この時、初めて「日本称 松島 一名 竹島 朝鮮称 蔚陵島」の位置に関する認識が太政官、外務省、内務省、水路部間で一致し たのでした。   こうした手順を踏んで、1883年、太政官は下記の指令を内務省へ発しました。  「北緯37度30分 東経134度49分の洋上に位する日本称 松島 一名竹島 朝鮮称 蔚陵島の 儀は従前 彼我政府議定の儀も有之 日本人民妄りに渡航上陸不相成候条 心得違の者無之 様 各地方長官に於て諭達可致旨 其省より可相達 此旨及内達候也(注6)」   これを受けた内務大臣は、単に渡航禁止の通達を各地方に出すにとどまらず、松島 (欝陵島)に在住する日本人を強制的に連れ戻しました。   なお、松島の固有名を欝陵島に取られてしまった古来の松島(竹島=独島)ですが、 その後の明治政府関係の公文書にはその名が見られなくなってしまったようでした。太政 官が同島を版図外と布告したため、その後ほとんど関心を持たれませんでした。わずかに 『朝鮮水路誌』(1894)にリアンコールト列岩の名で記されました。当然の成りゆきでした。 (注1)国会図書館「近代デジタルライブラリ」 「大日本全國略圖」 (注2)半月城通信「磯竹島略圖」(大谷家地図) (注3)日本地圖選集刊行委員会『大日本管轄分地圖』人文社,1990 (注4)「朝鮮國蔚陵島ヘ邦人渡航禁止ノ件」附屬書二、北澤正誠「竹島版圖所属考」  『日本外交文書』第14巻 P390,1951(原文はカタカナ) (注5)「朝鮮国所属蔚陵島ヘ我国民渡航禁止ノ件」 (公文録・明治十六年・第十三巻・明治十六年三月~四月・外務省) (注6)外務省『日本外交文書』第16巻、原文のカタカナを平仮名に変換 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    軍艦・天城による朝鮮名「竹島」の認識 2006.7.30 Yahoo掲示板「竹島」No.14825   半月城です。   ahirutousagi2さんの曲解はまだつづくようです。今回は、その一部のみ指摘してお きます。   ahirutousagi2さん、No.14806 > ましてや、その後、すぐに鬱陵島=松島、竹嶼=竹島と正式に認定されているのです。  太政大臣も禁止令でそう言及しています。つまり、この時期の二島認識は、結局は鬱陵  島・竹嶼に収斂されたという事実があるのです。   前回も書いたように、太政官や外務省の公文書における欝陵島の名称は「日本称 松 島 一名竹島 朝鮮称 蔚陵島」で終始一貫しています。ましてや太政官が「竹嶼=竹島と 正式に認定」したという記録はありません(注1)。   また、外務省の付属文書においても「竹嶼=竹島」という表現は見られません。添付 文書である北沢正誠「竹島版圖所属考」にはこう書かれました。  「明治十三年 天城艦の再び松島に航するに及び 該島東岸に假泊の地を発見し 又 松島 は古代韓人称する處の欝陵島にして 他に竹島と称する者あるも サイ爾たる小島に過ぎざ るを知り 事情愈(いよいよ)明了なり   由此 觀之は 今日の松島は即ち元禄十二年 称する所の竹島にして古来 我版図外の地 たるや知るべし(注2)」   この文章は、一読しただけでは難解です。元禄時代の竹島と「サイ爾たる小島」の竹 島との関係が明了ではありません。文脈からすると、「竹島と称する者」は元禄時代の竹 島ではなく、一見、当時でいう「今日の竹島」をさし、それが「サイ爾たる小島」である と結論づけているようにみえます。   しかし、それではつじつまが合いません。当時、北沢は当時でいう「今日の竹島」が しばしば欝陵島をさすことを十分承知済みであり、その例として、戸田敬義の「竹島渡海 之儀」資料一切を『竹島考證』でたっぷり紹介していたくらいでした。   もちろん、そこにいう竹島は「サイ爾たる小島」ではなく、朝鮮の欝陵島であり、そ のために「竹島渡海之儀」が却下されたことを北沢は承知していたのでした。   そうした背景を考慮すると、「竹島と称する者」はどうやら当時でいう「今日の竹 島」ではないようです。それが何をさすのか、この疑問に対する解答は『水路雑誌』にあ るようです。1880年、海軍は天城艦を再び欝陵島へ派遣しましたが、その記録が『水路雑 誌』第41号にこう記されました。  「竹嶼 [朝鮮人 之を竹島と云ふ]を除くの外 一岩嶼の岸より二鏈半を出る者なし 竹嶼 は此島の近海にして最大・・・(注3)」   さらに『水路雑誌』には丁寧にも欝陵島東岸の地図が挿入されましたが、その地図で 今日の韓国名「竹島」は「竹嶼 Boussole Rk」とだけ記され、竹島の名はありませんでし た(注3)。   北沢は、その地図を海軍の『水路雑誌』ではなく「水路報告第三十三號」から入手し て『竹島考證』にのせましたが、その時に朝鮮人がいうところの「竹島」が「サイ爾たる 小島」にすぎないことを知ったのでした。   したがって、上の文章にいう竹島は当時でいう「今日の竹島」というより「韓人称す る處の」竹島とみるのが妥当なようです。さらに、海軍がわざわざ竹嶼に [朝鮮人 之を 竹島と云ふ]という割り注を入れたことから判断すると、日本ではその島を竹島と呼ばず、 竹嶼と呼んでいたことが明瞭です。   しかし、日本が竹嶼と呼んでいたことを示す資料は他にはないようです。大谷家地図 は同島を「マノ島」と記しており、竹嶼の名は見当たりません。また、海軍の主要な情報 の入手先であるイギリス海軍の海図や水路情報では朝鮮名の竹島は"Boussole"と記される のみで、竹嶼の名はありません。   イギリス海軍の情報ですが、欝陵島は"Matu sima"、あるいは"Dagelet island"と記 されました。イギリスの情報を金科玉条にしていた海軍水路部は、その情報から水路雑誌 や朝鮮水路誌において一貫してダジュレー島を「欝陵島(一名松嶋)」として一項目を設 けて記載しました。かつて、欝陵島が竹島と呼ばれていたことには知見がまったくなかっ たようです。   一方、アルゴノートの存在ですが、イギリス海軍はすでに1850年代にはその存在を否 定していました。これはフランスの海軍でも同様です。その影響を受け、水路部は同島に ついてまったく記載しませんでした。   Re:14795、Am_I_AHO_1stさん > また、『大日本全國略圖』が描かれた当時は、アルゴノートは烏有の島として、その  存在を否定されており(描かれたとしても疑存の島として破線で描くのが通常)、『大  日本全國略圖』の竹島をアルゴノートに比定できる可能性はゼロです。   そのとおりです。かのペリー提督の「日本遠征記」(1856)に載せられた「日本近域 図」では、わざわざ「アルゴノート 存在せず」と地図中に記入したくらいでした。外務 省でも「松島開拓願」による混乱のころ(1877)、おっしゃるように同島を「烏有の島」す なわち存在しない島と認識していました(注4)。   その十年前の1867年、勝海舟の「大日本國沿海略圖」ですら、アルゴノートに相当す る「竹島」は島の輪郭の半分が点線で書かれました。これを「疑存」の島というのでしょ うか。勝海舟すら島の存在を半分疑問視していたようです。   ahirutousagi2さんは、そんな地図を主張の柱にすえ、内務省の地理局はそうした疑 存の島の位置情報を信じたと考えるのでしょうか? たとえ、内務省が作成した「大日本 全國略圖」の島の位置が勝海舟の地図に似ていたとしても、それは単なる偶然の一致にす ぎません。   Re:14795、Am_I_AHO_1stさん > そもそもが『大日本全國略圖』が『大日本沿海略図』を参照したと思われる経緯もな  く、また、参照すべき合理的根拠も考えづらい事から、両図を結びつけるべき理由すら  不明とするのが、慎重な科学的態度と云うべきと思われます。   そのとおりです。たとえ、内務省は勝海舟の地図を持っていたとしても、それよりも 松島・竹島へ実際に渡航した大谷家地図に信頼を置き、勝海舟の疑存の地図を排除するの ではないでしょうか。それとうらはらに、島根県をつうじて提出された大谷家地図を内務 省が排除する理由は皆無です。   また、ahirutousagi2さんは文部省の地図や陸軍の地図など、島嶼に関しては門外漢 の部署の地図をしきりに強調しますが、それらの内容がどうであれ、それらを内務省地理 局が島嶼の地図作成の際に活用することなど、およそ考えられないことでしょう。 (注1)「蔚陵島(欝陵島)渡航禁止の件」『日本外交文書』14-16巻,1881-83 (注2)カタカナを平仮名に変換、「サイ爾」の「サイ」は草かんむりに最。   デジタル版は(注1)。 (注3)『水路雑誌』第41号,P34、「欝陵島(一名松嶋)」の項 (注4)北沢正誠『竹島考證』1881、影印版はエムテイ出版(1996) (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    「竹島=独島問題ネットニュース」1, 2006.6.11   12日(月)からの日韓EEZ交渉を迎え、竹島=独島問題があわただしくなりました。 この問題の理解を深める試みとして、竹島=独島関連のニュースをピックアップして送り ます。 【テレビ番組】 1.朝日ニュースター(スカパー256ch)2006.5.15  <ニュースの深層「竹島=独島問題、現状と今後の課題」>  関連記事は、半月城通信<国際司法裁判所による解決に反対、下條氏>をご覧ください。  この番組をご覧になりたい方は、半月城へ住所と氏名をご連絡ください。アドレスは下 記です。 【新聞記事】 1.朝日新聞 2006.6.10  <日韓EEZ 12日から境界線画定交渉、竹島絡み難航か> 2.東亜日報 2006.6.8  <「日本EEZ」侵犯時は巡視船出動、日本海上保安庁幹部が語る> 3.民団新聞 2005.5.10  <【寄稿】独島は日本の「固有領土」か?> 4.朝鮮日報 2006.5.9  <日本の独島領有権主張、江原大教授が考えた対抗策とは> 半月城 half-moon@muj.biglobe.ne.jp


    「竹島=独島問題ネットニュース」2, 2006.7.1 1.新資料発見か 「磯竹島略圖」(pdfファイル、591kB) 明治政府が日本の領土外と布告した竹島(鬱陵島)および松島(竹島=独島)の地図 (ご提供:漆崎英之氏)  上記に関連した解説は下記をご覧ください。 <半月城通信「明治政府、竹島=独島の版図外確認」> 2.新聞記事ピックアップ 「独島近海の海流調査、予定通り来月3日に行う」 東亜日報2006.6.28 「<独島の領有問題>国際司法裁判所裁定について」『民団新聞』2006.6.21 梁東洙「独島・鬱陵島を訪れて 兄弟島のイメージ実感」『民団新聞』2006.6.21 「竹島関連資料の目録をウェブサイトで公開」『山陰中央新報』2006.6.21 「海の線引き 危機避ける日韓ルールを」『朝日新聞』社説、2006.6.15 <【時論】日本外交の舞台裏で起きたこと>『中央日報』2006.6.12 「日韓抜けぬ竹島のトゲ」『日本経済新聞』2006.6.8 「韓日EEZ交渉、妥協点はあるのか」『朝鮮日報』2006.6.6 「日帝・小泉=海上保安庁の独島略奪策動を弾劾する」 「独島(=「竹島」)は朝鮮の領土だ」『前進』2006.5.8 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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