半月城通信
No. 94(2003.4.10)

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  1. 日本の偵察衛星
  2. 個人情報をめぐる米IT業界の苦悩
  3. 日向の「百済の里」
  4. 外務省内の「竹島・松島」島名混乱と結論
  5. 『東国輿地勝覧』と于山島
  6. 「竹島渡海免許」と光海君時代
  7. 「竹島一件」と竹島=独島再確認
  8. 竹島=独島と安龍福
  9. 「竹島一件」後の于山島認識
  10. 『高宗実録』と欝陵島検察


日本の偵察衛星 メーリングリスト[aml 33293] 2003.3.29   半月城です。   最近、天気予報は気象衛星「ひまわり5号」のおかげで正確にわかるよう になってきましたが、戦時中は天気予報を知ることができませんでした。天気 予報は軍事情報で公表が禁止されていたからです。戦時中とあれば、軍事優先 もやむを得ません。   ちなみに、ひまわりは1995年に打ち上げられ、耐用年数はとっくに過ぎま したが、予備の衛星が99年打ち上げに失敗したため、そのまま使い続けられま した。これまでひまわりは何度か故障しており、いつ突然映像が写らなくなる のか不安の連続でした。   そうした不安を解消するため、ひまわりはいよいよ交替することになりま した。代わりの衛星として、アメリカが予備として静止軌道上においている気 象衛星を借りることになりました。この窮余策は宇宙開発政策の失敗といえま す。   その一方、日本は偵察衛星(IGS)2機をかってない厳重な警備のもとで 3/ 28 打ち上げました。1機は光学衛星で、もう1機はレーダー衛星です。この ための予算として日本は 2000年度から毎年700億円を費やして来ました。 今年の夏、さらに2機が打ち上げられますが、これらはその寿命にあわせて5 年毎に代わりを打ち上げる必要があります。   そうした費用ですが、4機の偵察衛星を維持するには単純計算で毎年40 0億円もの費用がかかることになります。巨額の費用でもそれなりの有益な効 果が期待できるならかまわないのですが、実は有益どころか、偵察衛星は宇宙 開発事業に「甚大な悪影響」を与えているとの指摘が松浦氏からなされました。 <情報収集衛星、宇宙開発事業に甚大な悪影響>   偵察衛星(IGS)計画により、宇宙開発事業団(NASDA)は2年つづけて総予算 の1/4をIGSに振り向けました。また、人員も NASDA職員 1100人中10 0人がIGS専任に振り向けられたようで、偵察衛星は NASDAの人も予算も食 いつぶしているようです。そのため「IGSは日本の宇宙開発を先が見えない 状況に追い込む原因の一つになっている」とされました。たとえば、しわ寄せ を受けたのが地図作成に欠かせない地球観測衛星です。松浦氏はこう記しまし た。  「地球全域の地図を作成するための高分解能地球観測衛星は、IGSが開発 に入る以前から NASDAが「ALOS」という名称で開発を始めていた。しかし、 IGSのあおりをうけた予算削減のために計画はずるずると遅れ、当初 2002 年だったALOSの打ち上げ予定が、現在は 2005年になっている」   民生用途を犠牲にして軍事目的を優先させたのが今回の偵察衛星打ち上げ といえます。しかし、その軍事目的すら危ぶまれています。そもそも偵察衛星 は、98年の北朝鮮によるミサイル「テポドン」発射に驚いて急きょ計画された ものですが、静止軌道でなく周回軌道を回る偵察衛星ではミサイル発射を探知 するのはまず困難です。   また、単に北朝鮮の施設を偵察するのであれば、日本がこれまで利用して きている民間の商業衛星「イコノス」のほうがすぐれています。イコノスの分 解能は80cmなのに対し、偵察衛星の分解能は1mと劣ります。これはアメ リカの偵察衛星の分解能15cmに遠くおよびません。おまけに日本はデータ 解析能力の点でも疑問視されています。   朝日新聞は偵察衛星打ち上げ記事に「劣る解析能力 かさむ費用」(3/27) と見出しをつけましたが、それに加えて周辺国の強い反発をうけたことは特筆 に値します。北朝鮮を監視するために打ち上げられたのであれば、北朝鮮敵視 政策の一環としてみることもできるので、北朝鮮から猛反発をうけて当然です。 その懸念を韓国の新聞「東亜日報」も下記のように記しました。        -------------------- <日本、初の情報収集衛星打ち上げに成功 韓半島周辺24時間監視可能に> 東亜日報、MARCH 28, 2003 22:14 (前半省略) 日本の宇宙開発事業団は同日午前10時25分、鹿児島・種子島の宇宙セン ターで日本の主力ロケットH2Aを利用して情報収集衛生の2機を打ち上げ、 軌道に載せるのに成功したと発表した。 この2機の衛星は高度400~600kmの軌道を回り、朝鮮民主主義人民共 和国(北朝鮮)のミサイル発射基地と核関連施設を監視し、日本の近海での不 法な漁労、船舶などに関する情報を収集することになる。 日本はこれまで、北朝鮮関連の情報を米国の商業衛星が撮影した資料に依存し てきたが、98年の北朝鮮のテポドンミサイル試験発射を契機に、独自の衛星 の打ち上げ計画を進めてきた。 今回打ち上げられた情報衛星は、地上1mの物体まで識別できる光学センサー が搭載された衛星と、夜や悪天候にも撮影が可能な合成レーダーが搭載された 衛星の2種類。宇宙開発事業団の関係者は、「光学センサーを搭載した衛星は、 乗用車やトラックの車種まで識別できる。8月ごろ情報衛星2機を追加で打ち 上げ、計4機の体制を整える計画だ」と話している。 一方、北朝鮮は18日、「日本の情報収集衛生の打ち上げは、わが国を狙った 敵対行為であり、重大な脅威だ」として強く反発した。        --------------------   日本は高額な軍艦・イージス艦を4隻配備したうえに、今度は偵察衛星ま で打ち上げて、ますます軍事大国への道をつき進んでいるようです。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


個人情報をめぐる米IT業界の苦悩 2003.4.8 メーリングリスト[aml 33494]   半月城です。   国会に「個人情報保護法案」が提出されましたが、いまアメリカでは個人 情報をめぐってIT業界が苦悩しているようです。   アメリカは同時多発テロ後の2001年10月、テロ対策のため個人のプライバ シーなどを制限するパトリオット(愛国者)法を成立させました。さらに去る 3月25日には、米ブッシュ大統領がインターネットを重要な「インフラ」とし て、関連情報を機密扱いにできる権限を米政府に与えました。これがIT業界 に次のような苦悩をもたらしました。        --------------------   IT(情報技術)業界が心配しているのは、通信傍受や個人情報の提供を政 府が要求するケースが増えていることだ。例えば、米連邦捜査局(FBI)は 「カーニボー(肉食獣)」という名前の電子盗聴システムを開発、テロ後はイ ンターネット接続事業者にこのシステムの設置を熱心に働きかけている。どの インターネットの利用者がどんなメールをやり取りしているか、このシステム があれば簡単に盗み見ることができる。最近では傍受の対象も広がってきた。 パトリオット法がある以上、FBIの要請を断るのは難しい。        --------------------   FBIに負けず劣らず、CIAも個人情報収集に熱心です。CIAが出資 するベンチャーキャピタルの米インキューテルは、諜報活動に役立つ技術を開 発する企業25社に投資しました。IT技術の進歩は個人情報の収集を容易にし ました。   こうした流れの結果、アメリカでは「どこで監視されているか分からない 今は、表立って政府を批判しにくくなっていることは事実である」といった状 況になってしまったようです。くわしくは下記を参照してください。 「パトリオット法の乱用で、深まる米IT業界の苦悩」


日向の「百済の里」 2003.4.9 掲示板「日本人は百済から来たのか?」#7015   半月城です。   かねてより念願であった「百済の里」へ行って来ました。宮崎県の南郷村 ですが、村の入口では「天下大将軍」「地下女将軍」のチャンスン(守護神) とともに、「ようこそ南郷村へ」「百済の里・西の正倉院」と大書された看板 が迎えてくれました。   日向(ひゅうが)の山奥にあるこの小さな村は無謀なことをやりとげまし た。奈良東大寺にある正倉院を再現して建てたのです。はじめ、宮内庁に正倉 院の設計資料をもらいに行ったらまったく相手にされなかったそうですが、TV 番組「プロジェクトX」さながら十数年にわたる執念と情熱で「西の正倉院」 を完成させました。   そこまでこの村を動かしたのは1枚の銅鏡がきっかけでした。村内にある 神門(みかど)神社宝物の唐花六花鏡が正倉院に伝わるものと同型鏡だったの です。この事実は南郷村にとって衝撃的でした。なにしろ九州の山奥が都とし っかりつながっていたのですから。   それ以外にも南郷村と奈良飛鳥を結ぶ鏡が神門神社にありました。長屋王 の邸跡から出土した鏡と同型の八花鏡や「飛鳥の渡来人を代表する鞍作(くら つくり)氏の氏寺といわれる坂田寺跡発掘調査から出土した鎮壇具の鏡と同型 鏡」3面などです(注1)。これらは西の正倉院に展示されました。   なぜ、こうも神門神社は古都の奈良と関係が深いのか、それを解くカギは 隣町の比木(ひき)神社に伝わる『比木大明神本縁起』にあります。この縁起 は江戸時代に書かれたのでかならずしも正確ではなく、時代や年号に明らかな 誤りがあります。それを修正して、つぎの百済王族伝承が地元では信じられて います。        --------------------   西暦660年、百済王朝が新羅と唐の連合軍に滅ぼされた。その3年後の 白村江の戦いなどで敗れると、百済の王族・貴族たちは、大和王朝をたよって、 奈良県・大阪府方面に逃れてきた。   壬申の乱(672年)以後、大和王朝内の政争に巻き込まれた百済の亡命王 族の一団が、難をさけるため、二隻の船に分乗して、北九州にむかった。父親 の禎嘉(ていか)王と次男の華智王などが乗り、ほかの一隻には、長男の福智 王と母親の王妃たちが乗った。伊予灘を過ぎようとするころ、激しい時化(し け)に襲われて漂流し、二隻の船は離れ離れになり、宮崎県の海岸に別々に漂 着した。   日向市金ヶ浜に漂着した禎嘉王たちは、占いによって、西方の山中にわけ 入って、南郷村神門に住むことにした。長男たちの船は、その南の蚊口(かぐ ち)浦に漂着し、ここで福智王は球を投げて、居住地を占ったところ、西方の 児湯郡木城町比木まで飛んでいったという。禎嘉王父子は、別れ別れになった もののしばらく平穏な日々がつづいた。   しかし、やがて禎嘉王たちの所在を突き止めた追討軍は、神門に迫ってき た。この情報を得た比木の福智王も、父王と連合して、この追討軍と戦うこと になった。さらに、禎嘉王を慕うこの地方の豪族たちも、この防衛軍に加わっ たので、追討軍を撃退することができた。   しかし、陣容を整えた追討軍が再度神門を攻撃し、禎嘉王たちはこれと戦 ったが、ついに戦死した。そのため、王族や女官たちも、殉死した。   戦いが終わって、追討軍が帰国すると神門地方の人たちは、禎嘉王を「神 門大明神」として、神門神社に祭った。また、福智王はその母の禎嘉王妃とと もに比木神社に神として祭られた(注2)。        --------------------   禎嘉王一族が逃避行をせざるを得なかったのは「壬申の乱」の後遺症と見 られています。白村江の戦いで羅唐連合軍に敗れた天智天皇は、防衛のため大 野城や金田城など朝鮮式山城をあちこち築きましたが、この築城や軍事技術を 支えたのは百済から亡命した人たちでした。   天智天皇亡き後の皇位継承戦、すなわち壬申の乱において多くの百済系渡 来人たちはもちろん天智天皇系の弘文天皇側につきました。これに敵対する大 海人(おおあま)皇子は、大津の弘文天皇を攻めるのに隠遁地の吉野からそこ へ直行せず、いったん遠く伊勢や美濃・尾張へ向かいました。そこで豪族ある いは新羅系渡来人を糾合し、ついに弘文天皇を撃破しました。この謀叛を荒木 氏はこう記しました。        --------------------   壬申の乱およびその後の天武対天智系の確執を新羅系対百済系の争いとす る見方があることを付け加えておきたい。   その考え方はそもそも天武(大海人皇子)の出自にかかわっている。天武 の乳母は、上田正昭氏などの説くように尾張系の大海(おほしあま)氏である とするのが有力である。大海人皇子が吉野挙兵後、ただちに尾張を目指したの はこのゆえである。   大岩岩雄氏は尾張系の大海氏の出自は大和葛城の忍海漢人であるとし、忍 海の漢人が新羅系である以上、天武が新羅系の天皇であると断じて、さらに精 緻な考証を展開する。   たしかに壬申の乱に際しては、新羅は大海人皇子側を支援したとみられる し、天武朝になってからは、それまでの遣唐使を廃して遣新羅使をたびたび送 ったこと、天武の後宮に新羅系とされる宗像君徳善の娘 尼子娘が入内したこ となど親新羅的傾向を強くみることができる。とするならば、天武対天智系の 確執は新羅対百済の争いと置き換えることができるかもしれない(注3)。        --------------------   天武天皇の親新羅路線ですが、670年から から701年までの30年 間、倭の遣新羅使は11回、新羅からの遣日使は実に25回に達しました。毎 年のように使節の往来があるほど交流は盛んでした。この間、遣唐使の派遣は 一度もありませんでした。その結果、藤原不比等らによる『大宝律令』(701) などは新羅に学んだとされています。   また文化的にも天武・持統朝のいわゆる白鳳文化は新羅色が一層濃厚です。 仏教界も新羅に熱いまなざしを送りましたが、国宝1号に指定された広隆寺の 弥勒菩薩などは新羅からもたらされた考えられているようです。百済色の強か った飛鳥文化から大きな転換をとげました。 <倭と新羅の関係>   さて、壬申の乱に勝利した天武天皇は、おそらく敵方の武将をきびしく追 討したことでしょう。そうなると、天智・弘文天皇の軍事の一翼をになった百 済系渡来人は逆賊として弾圧されたに違いありません。そうした状況からする と、百済王族である禎嘉王への追討は実際にあり得た話と思われます。   しかし、倭と新羅との蜜月時代は長くつづきませんでした。倭は唐との修 復をはかり、702年に遣唐使を再開しました。その一方で新羅との関係は年 毎に悪化していきました。そうなると今度は百済系の勢力挽回もあり得たでし ょう。その一環で禎嘉王はヤマト朝廷により再評価されだしたのではないかと 思われます。   その根拠とされるのが先に紹介した唐花(瑞花)六花鏡のようです。この 鏡は正倉院にの鏡を元にして鋳造された踏返鏡であることが判明しています。 したがって、六花鏡はこのころ朝廷周辺からもたらされた鏡である可能性が高 いといえます。ほかにも唐代に流行した海獣葡萄鏡の踏返鏡が6面も神門神社 に残されましたが、こうした神門とヤマトとの交流を考えると、やはり禎嘉王 は名誉恢復がなされたのではないかと思われます。   その時期を NHK番組、歴史発見「九州山地・謎の百済王伝説」では聖武天 皇のころとしましたが、たしかにこのころ百済系渡来人の活躍はめざましいも のがありました。 <宮崎県南郷村>   地元では禎嘉王を今でも顕彰し、毎年旧暦の師走になると盛大に「師走ま つり」が連綿としてとりおこなわれてきました。比木神社の福智王のみたまが 神門神社に眠る親の禎嘉王を数日間かけて訪ねる形で儀式が進みますが、それ が1300年もの間つづいてきたのは、よほど親子にたいする地元の信頼が厚かっ たためでしょう。   その祭りでは、ソナンダン(石塚)への石置きなど百済の面影を色濃くみ ることができるようですが、それがもとで南郷村は百済最後の都である夫余と 姉妹都市の縁組みを結びました。そして禎嘉王親子のみたまは、1300年ぶりに 夫余へ一時里帰りをしました。   二つの村を結びつけるエピソードがもうひとつあります。前に書いたよう に、百済武寧王の木棺は倭の高野槇(こうやまき)で作られましたが、この木 は南郷村の村樹に指定されています。武寧王の高野槇はあんがい南郷村から運 ばれたのかもしれません。 <百済の武寧王と高野槇>   実際、古墳の密集地である日向は、古くから朝鮮半島と交流があったこと が古墳や遺物などからうかがえます。昨年秋、宮崎県の檍(あおき)1号墳で 朝鮮半島南部の木槨墓の影響をうけたと見られる全国最大の木槨が発見されま した。朝鮮半島とのかかわりを研究者たちはこう語りました。        --------------------  (宮崎大学教授)柳沢さんは檍1号墳にみられるような木槨墓は「起源は楽 浪郡にあり、それが朝鮮南部で変容しながら日本に伝わった」とみる。  (奈良県)ホケノ山には墓穴内に複数の柱穴があった。壁を補強する柱、あ るいは三角屋根の建物の支柱との見方が出ている。類例は福泉洞古墳など韓国 南部に多く、内部が土に埋もれている檍1号墳でも発見が予想されている。 「日向の勢力が大和と朝鮮半島を往来していたかもしれない」と石野さん(徳 島文理大教授)。   木槨のほかにも、大和や朝鮮と古代日向を結ぶ現象が確認されている。一 つは鉄製武器の流入。5世紀後半、地下式横穴墓の一部に、鉄製の甲冑や大刀 などが豊富に副葬され始めるが、これらの甲冑類は大和政権が全国に配布した とされる。   鹿児島大の橋本達也助教授は「当時の南九州は統一された世界ではなかっ た。その一部の勢力と結びつこうとした大和政権が、鉄製武器の配布を通じて てこ入れした結果ではないか」とみている。   さらには馬の殉葬も約20例確認されており、地下式横穴墓の分布圏と重 なる。同墓のつくられた5世紀は乗馬の風習が朝鮮半島から持ち込まれた時期 でもある。   西谷正・九州大学名誉教授は古代日向の動向を「大和と韓国とのトライア ングル的視野で考える必要がある」と話している(朝日新聞、2003.2.22)。        --------------------   日向がヤマトと韓国を結ぶトライアングルであるとは新鮮な見方です。つ いでにいえば、神話で初代天皇である神武天皇は日向から「東征」を始めまし たが、興味深いことに14歳の時、神武天皇は日向の「辛国(からくに)の 城」に還ったと『八幡宮宇佐宮御託宣集』には記されました。 <ナゾの秦王国と宇佐八幡宮>   辛国が韓(から)あるいは加羅と関係するのかもしれませんが、神話をい くら詮索しても歴史はみえてきませんのでそこそこにして、トライアングルの み強調するにとどめます。 (注1)南郷村役場企画観光課『百済伝説 神門物語』1995 (注2)井上秀雄「神門伝承の歴史と習俗」『百済王族伝説の謎』三一書房,1998 (注3)荒木博之「百済王族伝説の歴史的背景」『百済王族伝説の謎』三一書房,1998   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


外務省内の「竹島・松島」島名混乱と結論 Yahoo! 掲示板「竹島」#1567 2003.3.30   半月城です。   RE:1564 > そのとおり古来の松島(獨島)は、日本には全く関係の無い島であったわ けです。 > しかし、朝鮮国へ照会するという重要な手順を欠いた天城艦による「実地 調査」で、「然ルトキ今日ノ松島ハ即チ元禄十二年称スル所ノ竹島ニシテ 古 来我版図外ノ地タルヤ知ルヘシ」と云う突拍子もない「結論」を得ます。   たしかに古来の松島(獨島)は、日本に関係のないことを明治政府の太政 官も1877年に公式に確認しているくらいなので、前段の指摘には異論ありませ ん。   後段ですが、「松島開拓」問題の対象であった「今日の松島」が元禄時代 の竹島(欝陵島)であるという結論は、当時の外務省内の議論からみてそれほ ど唐突だったとは思われません。今回はそのあたりの事情をくわしく見ること にします   1876年ころから外務省に申請された「松島開拓願」ですが、そこに記され た「松島」の所在をめぐって外務省内では議論を呼び、数年間諸説ふんぷんで した。これは無理からぬことです。元禄時代の「竹島一件」以来、日本では9 0年近く松島、竹島の領有意識が失われ、渡航もほとんど途絶えてしまったの で、島名の混乱はしかたなかったといえます。   さて、かんかんがくがくの外務省の議論で「竹島日本領派」がつとにこだ わっているのが記録局長・渡邊洪基の意見です。外務省の記録によると、ただ ひとり渡邊は竹島、松島を「暗に日本所属と見なしたるべし」と述べましたの で、かれらが飛びつくのも無理からぬことです。同派の川上は渡邊の意見を下 記のようにまとめました(注1)。        -------------------- (1)古来わが国で「竹島」と称したのは、朝鮮の蔚陵島のことである。 (2)デラセ島(ダジュレー島)を松島としているが、それは本来の竹島であ   り、蔚陵島である。 (3)わが国で古来松島としているのは、ホルネットロックス(ホーネット・   ロックス)のことである。 (4)ヨーロッパ人は、古来の竹島を松島となし、さらに烏有の島(アルゴナ   ウト島)に対し竹島を想起したもののごとくである。 (5)ホルネットロックス(古来の松島)がわが国に属していることは、各   国のいずれの地図も一致している。        --------------------   渡邊は、古来の竹島はダジュレー島(欝陵島)、古来の松島はホーネット・ ロックス(竹島=独島)と正しく考えていたようでした。また、アルゴノート を烏有、すなわち架空の島であるとこれも正しくみていました。余談ですが、 烏有の読みくだしは「いずくんぞ有らんや」で、存在しないという意味です。   しかし、その渡邊も隠岐島の沖合にある島の数は、2島なのか3島なのか 確信がもてずに「若(もし)竹島以外ニアル松島ナレバ我ニ属セザルヲ得ザル モ 之ヲ決論スル者無シ」と意見書に記すくらいでした(注3)。   つまり、竹島(欝陵島)以外に開拓願いにいう「松島」が別に存在するの なら、それは日本領であるべきだが、判断できる人が誰もいないとの意見でし た。もちろん、実際はそのような島は存在しません。   渡邊は、存在するのかどうかわからないけれど、もしあるならそれは日本 領であると主張するあたりは帝国主義の官僚らしい発想といえます。   さらに同じ発想で、古来の松島(竹島=独島)に関して「ホルネットロッ クスノ我国に属スルハ各国ノ地図皆然リ」と書きましたが、その根拠たるや笑 止ものです。それでも中には、わらをもつかむ思いか、この記述を特筆する人 もいるようなので、引導を渡すつもりで特に渡邊の他愛もない根拠を一応は紹 介しておきます。   渡邊は外国の地図における色分けから松島、竹島および対馬の所属をまず 一旦は下記のように理解しました。 1.英国の諸図  対馬(朝鮮色)、松島・竹島(朝鮮色) 2.仏(フランス)  対馬(朝鮮色)、松島・竹島(朝鮮色) 3.日耳曼ゴタ、スチーレルスノ図  対馬(日本色)、松島・竹島(日本色) 4.ウアイマル地理局図  対馬(日本色)、松島・竹島(朝鮮色)   この時期、対馬を朝鮮領にみていた地図がイギリスやフランスで出回って いたとは意外でした。そのような不正確な地図を渡邊は逆手にとり、こう記し ました(注3)。  「英仏の対州(対馬)を合せて朝鮮色にせしは、対馬既に日本版図に相違な ければ、したがいて松島 竹島も其の色を変ぜん。すなわちスチーレルノ図 (ママ)はこの結果なるべし。いわんや、松島 竹島を以て伝う其の語は日本 語なり。よって考うれば、この島は暗に日本所属と見なしたるべし」 (カナをかなに変換)   要するに渡邊の説は、英仏の地図は対馬や竹島 松島を朝鮮領と同色で塗 っているが、対馬が日本領なので、対馬と同じ色の竹島 松島も日本領である べきで、日本色に塗り直すべきだ、また、松島 竹島という日本語の島名が使 われているので「暗に日本所属」というもので、思わず噴きだしてしまうよう な珍説です。川上は、渡邊の意見は「透徹・明晰であって、まさに正鵠を得て いる」と激賞していますが、私はこれが本当に外務省の局長の「卓見」かと疑 いたくなります。   しかし、渡邊はさすがに自説が根拠薄弱と自認したのか「この島は暗に日 本所属と見なしたるべし」と控えめな結論を書くにとどめました。そのうえで、 事実を究明するために島根県等に問い合わせることと、艦船を派遣して現地調 査することを提案しました。渡邊は「古今東西の記録、地理書、その他の資料 に基づいて考証」しても、身近な島根県への問い合わせすら行わないで文章を 書いたようです。   他方、古来の松島(竹島=独島)の所属を朝鮮領と考える伝統は外務省を はじめとする明治政府内でもちろん生きつづけていました。それは、外務省係 官の出張報告(1870)「竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末」や内務省ならびに太 政官指令「竹島外一島」の放棄などにみることができます。こうした伝統にた ってか、外務省公信局長・田邊太一はつぎのような意見書を提出しました(注2)。  「聞く、松島はわが邦人の命じた名前で、じつは朝鮮 蔚陵島に属する于山で ある。蔚陵島が朝鮮に属するのは、旧政府(江戸幕府)のとき、葛藤を生じ、 文書を往復した末に、永く公文書で我々は有しないと約束、記載した両国の史 書にある」   田邊も渡邊と同様に開拓願いに書かれた「松島」は蔚陵島(欝陵島)であ り、古来の松島は竹島=独島であると正しく認識していたのですが、やはり確 信を持てなかったようでした。   その一方で田邊は、元禄の「竹島一件」の結果、古来の松島は朝鮮領の欝 陵島に付属する于山島であると認識していたようでした。その帰結として、か れは朝鮮領である松島に調査や巡視の船を派遣すべきではないとして、渡邊の 意見に反対し、こう書きました(注2)。  「いま、理由もなく人を派遣して松島を巡視する、これは他人の宝を数える といういうものである。いわんや、隣境を侵越するするようなもので、日本と 韓国との交わりがその緒についたといっても、猜疑や嫌悪がまだまったく除か れていないとき、このように一挙に再び隙間を開くことは外交官のもっとも忌 み嫌うところである」   こうして「松島」を実地調査する案は保留になり、同時に「松島開拓願」 も保留になりました。その間に内務省伺いを認める形で「竹島外一島」すなわ ち竹島(欝陵島)と松島(竹島=独島)を放棄する太政官指令が1877年に発令 されました。   1881年、内務省はこの指令書を添付して欝陵島の現状を外務省に照会しま したが、それに対して外務省は何ら異論を唱えませんでした(注4)。これは 外務省も太政官指令書を了承したと考えられます。すなわち、外務省も松島 (竹島=独島)を日本領でないと認めたと解されます。もちろん、渡邊流の竹 島、松島は「暗に日本所属と見なしたるべし」という認識は、その後の公的資 料には見られなくなりました。   そうした背景には、欝陵島の現地調査結果が明らかになっていたことも影 響したのかもしれません。開拓願いに書かれた「松島」の実地調査は、1880 (明治13)年に軍艦・天城を廻航して行われました。その結果、「松島」は朝鮮 の欝陵島であることが判明し、外務省はこう結論づけました(注3)。  「明治13年、天城艦を松島に廻航して、その地に至って測量し、はじめて 松島は欝陵島で、その他竹島なるものは1個の岩石にすぎないことを知り、こ とは初めて明らかになった。さすれば、今日の松島はすなわち元禄12年にい うところの竹島であり、古来、日本の版図外の地であることを知るべきであ る」   この調査報告書で、欝陵島の日本名は竹島から松島に置きかわってしまい ました。そして竹島は、欝陵島北方の岩石にされてしまいました。同時に「松 島」開拓願いはことごとく却下されました。   これを機に、1905年にいたるまで欝陵島の日本名は次第に松島に、竹島= 独島はリエンコールト(リャンコ)とよばれるようになりました。そして公的 な資料でそれらの島が日本領として認識されることはほとんどありませんでし た。 (注1)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院,1996 (注2)下記(注3)より引用  「聞ク 松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮 蔚陵島ニ属スル于山ナリ 蔚陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時 一葛藤ヲ生ジ 文書往復ノ末 永ク証テ 我 有トセサルヲ約シ 載テ両国ノ史ニ在リ 今 故ナク人ヲ遣テ コレヲ巡視セシム 此ヲ 他人ノ宝ヲ數フトイフ 況ンヤ隣境ヲ侵越スルニ類シ 我ト韓トノ交漸ク 緒ニ就クトイヘトモ猜嫌猶未全ク除カサルニ際シ 如此一挙ヨリシテ再ビ一隙 ヲ開カンコト 尤交際家ノ忌ム所ナルベシ・・・」 (注3)北沢正誠『竹島考證』明治14年、エムテイ出版(復刻版)1996 (注4)堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第   24号,1987   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


『東国輿地勝覧』と于山島 Yahoo! 掲示板「竹島」#1096 2003/ 2/11   半月城です。   ハングルの創成など文化面で輝かしい業績を残した世宗は、地理書『世宗 実録 地理志』も残しましたが、これ以降、地理志編纂の伝統は朝鮮王朝にし っかり根付きました。  『世宗実録地理志』が完成するや、さっそくその翌年(1455)から新しい地理 志の編纂が始まりました。梁誠之の『八道地理志』です。注目すべきは、この 地理志に初めて地図が添付されたことです。それも朝鮮の八道の地図に限りま せんでした。周辺の日本や明、遼東図なども添付されたようでした。   この地理志は成宗9年(1478)に完成しましたが、すぐれて資料価値が高か ったようで、それゆえに軍事上の観点から取り扱いが問題になりました。朝廷 で「地理志と地図は官衙で保管すべきで、民間に流布してはならない」とされ、 一般には流通しませんでした。そのため発行部数も少なく、戦乱などで散逸し てしまったのか現在に残りませんでした。わずかに、地方志の『慶尚道續撰地 理志』だけが伝わりました。   付属の地図も伝わりませんでしたが、朝鮮の地図だけは『東国輿地勝覧』 に引き継がれたとされています。『東国輿地勝覧』は八道地理志の直後から編 纂が開始され、成宗12(1481)年に完成しました。残念ながらこの初版は伝わ っていません。かわりに第四版にあたる『新増東国輿地勝覧』(1531)が現存し ますが、これは第1級の史料とされているようです。日帝時代の1930年に『三 国史記』や『三国遺事』についで古書としては三番目に朝鮮史學會から復刊さ れました。   ウェブでは、下記ソウル大学奎章閣のサイトで影印版をみることができま す。書名は『輿地勝覧』となっています。 <奎章閣、原文情報(韓国語)>  『輿地勝覧』の性格ですが、これは自然地理書というよりは人文地理に近く、 故事古典が豊富に記載され、歴史地理書あるいは読史地理書のように読みやす いのが特徴です。これは中央集権という政治体制の必要性からきたようでした。   当時の地方行政ですが、地方長官などは科挙に合格した官吏が中央から派 遣されました。任期は、腐敗や地方勢力の肥大化を防ぐため、監察使(道長 官)は1年、守令は5年と短く設定されていました。しかも地元出身者を避け ていましたので、観察使はその地方の事情に疎くて当然でした。そうした地方 長官や、かれらを統括する中央の官吏が地方の事情を把握するのに役立つよう 『東国輿地勝覧』は編纂されました(注1)。   前置きが長くなりましたが、『新増東国輿地勝覧』(輿地勝覧と略す)に 于山島、欝陵島はこう記されました(注2)。        -------------------- 『新増東国輿地勝覧』蔚珍縣 于山島、欝陵島   一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある。三峰が 高くけわしく空にそびえている。南の峯はすこし低い。天候が清明なら峯のて っぺんの樹木やふもとの砂浜や渚を歴々と見ることができる。風にのれば、二 日で到着できる。一説によると于山、欝陵島は本来一島という。その地の大き さは百里である。   新羅の時、その地がけわしいことをたのみにして服属しなかった。智證王 十二(511)年、異斯夫が何瑟羅の軍主となった。異斯夫はこういった。于山国 の人たちは思慮が浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させられないが、 計略をもってすれば、服属させることができる。そこで木製の獅子像を多く作 り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくや、こう偽りを言った。 「お前たちがもし服属しないのならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ」   これを聞いて、その国の人々は恐れおののいて降伏した。   高麗太祖13(930)年、その島民の使いである白吉と土豆が貢ぎ物をもっ てきた。   毅宗13(1159)年、王が聞くところでは、欝陵の地は広く土地が肥え、民 が居住できるとのことだった。そこで溟州道(江原道)監倉使の金柔立を派遣 し調査させた。金が島から帰って奏上した。島には大山があり、山頂から東に 行くと1万余歩、西には1万3千歩、南には1万5千歩、北には8千余歩で海 に至る。村落の跡が7か所あり、石仏や鉄の鐘、石塔がある。柴胡藁本石南草 が多くはえている。   高麗時代、武臣政権の崔忠獻が武陵島は土壌が肥え、珍木や海産物が多い と発議したので人を派遣し調査させた。破損した家屋がみつかった。いつのこ ろのものか判然としない。ここに東郡民を移し実際に住まわせた。遣使は帰り、 珍木や海産物を進呈した。その後、しばしば風濤のため舟は転覆し犠牲者が多 く出た。よって居住民を引きあげさせた。   朝鮮王朝の太宗時代、その島に逃げる流民がはなはだ多いと聞く。再び三 陟の金麟雨を按撫使に命じ島民を連れ戻した。その地は空になった。金麟雨は いった。土地は肥え豊饒である。竹は旗竿のように大きく、ネズミは猫のよう に大きく、桃は升のように大きい。すべて物はこんな具合である。   世宗20(1438)年、県人で萬戸職の南顥を派遣した。数百人をひきいて逃 亡民を捜査させた。盡俘金丸等70余人を連れ戻した。その地は遂に空島とな った。   成宗2(1471)年、三峯島に人がいると告げる者あり。そこで朴宗元を派遣 し探索させたが、風濤のため行けずに戻った。同行の一船が欝陵島に到達し、 大竹やアワビなどを持ち帰った。島に居住民はいないと奏上した。        --------------------   以上が欝陵島、于山島に関する記述のすべてですが、内容は『三国史記』 や『高麗史』『朝鮮王朝実録』などの引用が大半です。したがってエピソード の内容はほとんど同じです。その一方、それらの史料同士には食いちがいがあ るので、輿地勝覧はそれらを整理する必要に迫られました。   最大の問題は東海にある島の数で、一島なのか二島なのかでした。『高麗 史』は「一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気 が清明であれば望み見ることができる」として、一島説を本説に採用しました。   ところが『世宗実録地理志』は二島説を本説に採用し「于山、武陵二島は 県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が清明であれ ば望み見ることができる」と記述しました。   ふたつの史料の食い違いですが、輿地勝覧は『世宗実録地理志』の二島説 を本説に採用し『高麗史』の一島説を一説として紹介するにとどめました。こ れはその後の史実を加味したためと思われます。   前回書いたように、成宗の時、朝廷にとって未知の島である「三峯島」探 索が行われました。その際、金自周の一行は「三峯島」に行ったことがある金 漢京も知らない島を発見し、図形を記録して持ち帰りました。こうした史実を 加味してか輿地勝覧は二島説を本説にし、二島二名としました。   こうした史料の発展をみようとしない人がいます。前回紹介した川上健三 氏ですが、史書では高麗史の一島説が古く正しく、他の史料はそれを若干修正 したにすぎないと主張しました(注3)。その結果が、金自周の描写した島を 無理に欝陵島に当てはめるという愚挙をおかしました。また、史料の古さを厳 密にいえば、堀和生によれば『世宗実録地理志』がわずかに『高麗史』より成 立が古いようで、この点からも川上健三の主張はまちがっているようです。   輿地勝覧の二島二名は具体的に地図にも表現されました。付属地図の「八 道総図」です。そこで于山島は欝陵島よりやや小さめに、しかも欝陵島の西側 に描かれました。于山島の位置や大きさをよく知らないままで地図が作成され たようでした。   これを今日の視点からみるといかにも信頼性が低い地図に見えますが、そ れでも八道総図は同じ時期の日本地図と比べると、むしろその正確さには驚か されるくらいです。   輿地勝覧と同年代の日本地図は存在しないようですが、それから半世紀後 の安土桃山時代に描かれた日本の代表的な地図に「日本地図屏風(二曲一隻)」 があります(注4)。そこには対馬と壱岐はほぼ同じ大きさに描かれているの をはじめ、千葉県の東に佐渡島と同じくらいの大きさの島がふたつ描かれまし た。これはもちろん存在しません。さらに本州は東西に伸びた形に描かれまし た。16世紀の地図はえてしてこの程度で、不正確で当たり前です。   そうした時代の制約を考慮するとき、輿地勝覧でとくに重要なのは、朝鮮 王朝は1531年以前に正確な位置は不明ながら、東海に于山島と欝陵島の二島を 認識していたということと、二島二名説が『世宗実録 地理志』についで本説 になったということです。 (注1)方東仁『韓国地圖の歴史』(韓国語)シング文化社,2001 (注2)『新增東國輿地勝覧』巻之四十五、蔚珍縣 <奎章閣、原文情報(韓国語)> 復刻版(朝鮮史學会発行,1930)より引用  (句読点は復刻版のままですが、上記サイトの奎章閣の原本に句読点はあり ません) 蔚珍縣 于山島、欝陵島。 一云武陵。一云羽陵。二島在縣正東海中。三峰岌 〓1〓2空。南峯稍卑。風日清明。則峯頭樹木及山根沙渚。歴歴可見。風便則二 日可到。一説于山、欝陵本一島。地方百里。  新羅時恃險不服。智證王十二年。異斯夫爲何琵羅州軍主。謂。于山國人愚悍。 難以威服。可以計服。乃多以木造獅子。分載戰船。抵其國誑之曰。汝若不服。 則即放此獣踏殺之。國人恐懼來降。  高麗太祖十三年。其島人使白吉土豆。獻方物。  毅宗十三年。王聞欝陵地廣土肥。可以居民。遣溟州道監倉金柔立往視。柔立 回奏云。島中有大山。從山頂向東行。至海一萬餘歩。向西行一萬三千餘歩。向 南行一萬五千餘歩。向北行八千餘歩。有村落基址七所。或有石佛鐵鍾石塔。多 生柴胡藁本石南草。  後崔忠獻獻議。以武陵土壌膏沃。多珍木海錯。遣使往觀之。有屋基破礎宛然。 不知何代人居也。於是移東郡民以實之。及使還。多以珍木海錯進之。後屡爲風 濤所蕩覆舟。人多物故。因還其居民。  本朝 太宗時。聞流民逃其島者甚多。再命三陟人金麟雨爲按撫使。刷出。空 其地。麟雨言。土地沃饒。竹大如杠。鼠大如猫。桃核大於升。凡物稱是。  世宗二十年。遣縣人萬戸南顥。率數百人往捜逋民。盡俘金丸等七十餘人而還。 其地遂空。  成宗二年有告。別有三峯島者。乃遣朴宗元往〓3之。因風濤不得泊而還。同行 一船。泊欝陵島。只取大竹大鰒魚。回啓云。島中無居民矣。 〓1、やまかんむりに業、ぎょう 〓2、てへんに掌、とう 〓3、不の下に見、べき (注3)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院,1996 (注4)神戸市博物館『古地図セレクション』(第2版)神戸市体育協会,2000   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


「竹島渡海免許」と光海君時代 Yahoo! 掲示板「竹島」#1201 2003/ 2/16   半月城です。   朝鮮史料の紹介もやっと中ほどになりましたが、今回は光海君時代をとり あげます。朝鮮時代、王の名前は*宗とか*祖とされるのが普通でした。これ は死後に送られた諱(いみな)であり、在任中の王には名前がありませんでし た。在任中は(主上)殿下と呼ばれ、名前は必要なかったのです。   しかし、死後に諱を送られなかった王もいました。そのひとりが第15代 の王で、実録には皇太子時代の名前のまま『光海君日記』というタイトルで編 纂されました。これは光海君が暴君であるとして、次の中宗の宮廷クーデター により廃位させられたためであり「実録」という名称すら許されませんでした。   たしかに光海君は政争がらみで兄弟を殺害し、義母を幽閉するなど暴君の 側面もありました。しかし、その一方で光海君は前回紹介した『東国輿地勝 覧』を刊行したり、現在の日本でも出版されている不朽の医学書『東医寶鑑』 を刊行したりするなど文化面でもすぐれた業績を残しました。   また、政治面でも豊臣秀吉の侵略で疲弊した国家経済を建て直したり、あ るいは外交面でも手腕を発揮するなど英明な政治もおこないました。   前置きが長くなりましたが、光海君時代は竹島=独島問題でいえば徳川幕 府による竹島(欝陵島)渡海事業が開始された重要な時代でした。ここでは 「竹島渡海免許」のいきさつや事情を日朝の史料から解明することにします。   竹島(欝陵島)渡海の序曲は対馬藩から朝鮮あての外交書簡でした。朝鮮 の史料『邊例集要』は対馬藩からの外交書簡を下記のように記録しました(注1)。   ここで『邊例集要』について補足しますが、これは壬辰倭乱(秀吉の朝鮮 侵略)後より1841年までの約240年間、日本との往来や貿易、釜山における 倭館の記録、条約や約定、日本の要求や潜商、雑犯罪など広範囲に収録した書 籍です。対日関係史研究において重要な文献であり、筆写本がソウル大学の奎 章閣に所蔵されています。  「対馬島主は、1614年(光海君6年)に朝鮮の東莱府に使者を遣わし、 外交文書を伝えた。その文書には“徳川幕府の申し付けで磯竹島(欝陵島)を 調査しようと思うが、台風の危険性があるので道案内をしてほしい”と書かれ てあった(注2)」   ここで対馬藩の役割について補足します。日本と朝鮮との正式国交は、豊 臣秀吉による朝鮮侵略により中断されましたが、これに困窮したのが対馬藩で した。かつて朝鮮から倭寇対策の一環で禄や官職を与えられ、日朝貿易で潤っ ていた対馬藩は大口の収入源を絶たれ困窮の極みにありました。藩主の宗氏は、 臣下に禄として与えていた土地はみる影もなかったので、実利的なものとして 貿易の権利を与えていたくらいなので当然でした。   困境にあった対馬藩は起死回生をはかり、日朝の正式国交回復に奔走しま した。その活動はたんに両国政府の間をとり結ぶだけでなく、両国政府の正式 国書を勝手に改竄するほど徹底したものでした。対馬藩の執念をうかがい知る ことができます。こうした偽造工作がみのり日朝国交回復が成し遂げられまし た。この功により同藩は朝鮮との外交や貿易を一手にまかされるようになりま した。   余談ですが、江戸時代は「鎖国」していたと勘違いしている人が多いよう ですが、それはまちがいです。すくなくとも朝鮮とは正式な国交が結ばれ、両 国の人々は頻繁に往来していました。それにともない両国間の貿易も長崎にお けるオランダや清との貿易に匹敵するほどでした。   さて、対馬藩の「道案内」依頼ですが、これに関連した日本側史料に幕府 の外交文書集『通航一覧』があります。これは対馬藩の『朝鮮通航大紀』をこ う引用しました。  「慶長17壬子年(19年,1614の誤り)宗対馬守義智より朝鮮国東来府使 に書を贈りて、竹島(欝陵島)は日本属島なるよしを論せしに、彼許さず、よ りて猶(なお)使書往復に及ぶ(注3)」( )内は半月城注。   前々から対馬藩は欝陵島に移り住みたいと朝鮮に申し出て、竹島(欝陵 島)の領有をもくろんでいたのですが、どうやら「道案内」の話は対馬藩と幕 府がある程度通じていたようでした。これを受けた朝鮮側は尹守謙の復書でこ う回答しました。  「書中に磯竹島とあるのを見て驚いているところである。日本からの使者に この島はどこのものかと問うたところ、これは慶尚道と江原道の海上にある島 であるという。   これはすなわち朝鮮の鬱陵島であり『東国輿地勝覧』にも掲載されており、 いまは荒廃しているが他国人に占拠される理由はない。   日本と朝鮮との間の境界は明確になっており、日本人が朝鮮に往来できる のは対馬を経由する一路だけであり、それ以外の来航は海賊とみなすというこ とは、すでに約定している通りである。対馬が知らないはずはない(注4)」   朝鮮は、磯竹島は欝陵島であり、空島にしているとはいえ、朝鮮領である という立場から強硬な姿勢で返書を送りました。その結果、幕府は竹島(欝陵 島)を朝鮮領と認めざるをえなかったようで、それは磯竹弥左衛門事件の処理 に示されました。   事件の発端は、1617年、京都の伏見城における朝鮮通信使と老中・土井利 勝との対話がきっかけだったようでした。朝鮮通信使とは日朝両国の信や誼を 通じるため、室町時代から将軍の代替わりなどのおりに日本を訪れた朝鮮政府 の使節でした。   伏見に来た通信使は、秀吉の侵略戦争で断絶した国交を修復すべく徳川家 康および対馬藩の積極的な働きかけで来日したものであり、正式には「回答兼 刷還使」とよばれました。このとき同行した従事官の記録『李石門 扶桑録』 に弥左衛門のことがこう記されました。  「秀吉の時代に願い出て磯竹島に渡って材木などを伐採して持ち帰り、秀吉 に大変喜ばれ、磯竹弥左衛門と呼ばれていた。彼は島に渡ることで生計を立て 毎年貢租を納めていたが、秀吉の死後に弥左衛門もつづいて死去し、いまでは 島に往来する者もいなくなったという。このことを聞いた家康が事実確認を求 めた(注3)」   国交回復に熱心だった当時の徳川幕府は、弥左衛門の件は通信使のほうか ら切り出された話とあって放っておくわけにもいかなかったとみえ、対馬藩に 命じて弥左衛門らを潛商、すなわち密貿易の罪で捕らえました。   その結末が『通航一覧』に「元和六庚申年、宗對島守義成、命によりて竹 島(朝鮮國属島)に於て潛商のもの二人を捕えて京師に送る(その罪科いま所 見なし)」と記されました(注3)。   ここで( )内は小さな字で書かれた部分ですが、竹島の補足として「朝 鮮国属国」と明示されたのが注目されます。幕府は竹島(欝陵島)を朝鮮領と 考えていたことを示します。これについてはすでに#661<江戸時代の竹島 (欝陵島)「編入」>に書いたとおりです。 <江戸時代の竹島(欝陵島)「編入」>   その一方で幕府は「竹島渡海免許」をおそらく1625年に出したようでした。 これらのふたつの政策は明らかに矛盾します。これについて塚本孝は、幕府は 竹島(欝陵島)が朝鮮領であることを知らなかったと記しました。        --------------------   この“竹島”(鬱陵島)について徳川幕府は、元和4年5月16日(1618 年7月8日ー明治5年までの年月日は陰暦のため西暦に一致しない)付けで、 それが朝鮮領であるとの認識がないまま、米子の大谷、村川両家に対し渡海許 可(独占的開発権というべきもの)を与えた(注5)。        --------------------   どうやら塚本氏は幕府の『通航一覧』の記述すら知らなかったとみえます。 さらに塚本氏を批判すれば、竹島(欝陵島)渡海免許を1618年としていますが、 これは疑問点が多く、最近の学説では1625年ころとするのが有力です(注6)。   ともあれ、幕府の矛盾する政策は竹島領有の既成事実をつくろうとする幕 府の画策だったのかもしれません。内藤氏はこう述べました。        --------------------   幕府当局者にあっては、1614年(慶長19)以来の磯竹島をめぐる朝鮮国東 莱府と対馬藩との交渉経過はもとより、1617年(元和3)に来日した通信使従 事官が、土井大炊頭を相手に磯竹弥左衛門のことを話題にしたことも承知の上 であった。土井大炊頭は、米子町人に対する鳥取藩主への竹島渡海免許に署名 している老中四名のなかにその名が見られるのである。   したがって幕府においては、竹島は朝鮮領である磯竹島であるが、空島政 策で無人島になっていること、物産が豊富であることから、対馬藩がかねてよ り領有化を画策している島であることなどを十分承知の上で、対馬藩に代って 鳥取藩に領有化の既成事実をつくらせる意味を込めて、申請をしてきた米子町 人二名に竹島渡海免許という特別許可を与えたものと解釈することができるの であった(注3)。        --------------------   ともかく、幕府は竹島(欝陵島)が朝鮮領であることを承知の上で、竹島 渡海免許という特別許可を出したことはたしかですが、これはやはり朝鮮領の 竹島(欝陵島)をもぎ取ろうとする意図だったにちがいありません。 (注1)国史編纂委員会『邊例集要』巻17,欝陵島条、下巻 P502 (注2)愼鏞廈『独島(竹島)』インター出版、1997,P65 (注3)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2001 (注4)『光海君日記』6年9月辛亥条 (注5)塚本孝「竹島領有権問題の経緯(第2版)」『調査と情報』   第289号、国会図書館,1996,P1 (注6)池内敏「竹島一件の再検討」名古屋大学文学部研究論集』   史学四十七号,2001,P61   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


「竹島一件」と竹島=独島再確認 Yahoo! 掲示板「竹島」#1290 2003/ 2/23   半月城です。   元禄時代、1692年、93年と2年つづけて日本、朝鮮双方の漁民が竹島(欝 陵島)でハチあわせしましたが、この事件「竹島一件」は竹島=独島の帰属問 題に重大な影響を与えました。   日本では、この掲示板でたびたび書いているように、徳川幕府は松島(竹 島=独島)の存在を知らない一方、同島と最も関係が深く、同島が所属してい ると思われた鳥取藩は、松島(竹島=独島)は同藩の所属ではないと幕府に公 式回答をしました。当時の日本は竹島=独島に領有意識をもっていなかったと いえます。 <江戸時代の「竹島一件」>   一方、朝鮮ではこの事件を契機に欝陵島へ大調査団を派遣しましたが、そ の調査の過程で竹島=独島の存在が再確認されました。今回は、この調査団の 詳細や「竹島一件」への朝鮮側の対応を中心に書くことにします。  「竹島一件」交渉の当初、朝鮮政府は穏便に事を済ませようとして苦肉の策 をとりました。対馬藩の主張する「竹島」が実は朝鮮の蔚陵島(欝陵島)と同 一の島であるということを知りながら、それらを名目上別々の島ということに して、蔚陵島を朝鮮領に「竹島」を日本領にすることで竹島一件の解決をここ ろみました。   しかし、蔚陵島を日本領にするのが目的であった対馬藩はこれに満足せず、 朝鮮の書契から「弊境之蔚陵島」の文字を削除するよう強硬に求めました。そ れは朝鮮政府に弥縫策を許さない匕首だっただけに、朝鮮政府は反発しました。   朝鮮政府内では、問題の二島が同一の島であるという真実を重視した原則 的な解決策が次第に優勢になり『粛宗実録』によれば、政府は下記内容の強硬 な書契を日本に送りました。        --------------------   我国の江原道蔚珍県に属島があり、鬱陵島という。東海にあり風濤が危険 で船の便がなかったので、住民を移して空島にした。そして時々役人を派遣し て調査させていた。  このたび我が漁民が島に行ってみたところ、貴国人が越境侵犯して島に来て、 逆に我が漁民二人を捕らえて江戸に送った。  幸いに貴国の将軍は事情を察し、厚いもてなしをした上で送り返してくれた。 交隣の情が厚いことはほんとうに感激の至りである。しかしながら、我が漁民 が猟をしていたところは、もともと朝鮮の領土である鬱陵島であり、竹を産す るので竹島といわれており、一島二名である。  鬱陵島については、ただに朝鮮の書籍に見られるだけでなく、貴国日本の人 も知っている。それにもかかわらず、書中で竹島は日本領であり、朝鮮の漁船 の往来を禁止しようとして、日本人が我が朝鮮の領土を侵犯したことを問題に しないで、逆に我が漁民を拘束したことは間違っており、誠信の道に欠けると ころがあると思う。  深く望むことは、この意向を江戸の幕府に報告し、日本辺海の人が鬱陵島に 渡海して再び事件が起こらないように命じてほしい(注1)        --------------------   さらに両国間で書簡のやりとりが何回か行われ、結局、日本は外交交渉に 敗れ、竹島(欝陵島)を放棄しました。前回書いたように、徳川幕府はもとも と欝陵島を「朝鮮属国」と記録していたので、当然の結末です。 「竹島渡海免許」と光海君時代   一方の朝鮮政府は150名からなる大調査団を蔚陵島(欝陵島)へ派遣し ましたが、そのいきさつを宋炳基氏はこう記しました。        --------------------   日本との欝陵島紛糾は、政府担当者だけでなく一般人にも関心を呼び起こ したようである。たとえば、1694年(粛宗20)7月の前武兼宣伝官の成楚[王行] の上疏がそうしたものであった。   彼は、欝陵島が国家の要衝で土地が広く肥沃であるにもかかわらず久しく 見捨てられてきており、最近日本が思い切って「求居之計」を出しているので、 ここに僉・制両鎮を特設して日本人をして見下すことができないようにすべき であると主張した。   必然的に、政府でも問題になっていた欝陵島備禦策について関心を持ち始 めていた。領議政の南九万が、三陟僉使(せんし)を欝陵島に派遣、生活状態 を調査して民戸を移住させ、鎮を設置することで日本に対備すべきとする建議 をしたのがそれである。   南九万の建議により張漢相が三陟僉使に抜擢された。張漢相はこの年 (1694、粛宗20)9月19日、三陟を出発した。一行は別遣訳官(倭語訳官) の安慎徽を含み総勢150名で、騎船二隻、汲水船四隻が動員された。   張漢相一行は9月20日から10月3日までの13日間滞留して、欝陵島 から10月6日三陟へ戻った。張漢相の欝陵島審察については『粛宗実録』に も記録されているが、「蔚陵島事蹟」により詳しく記されている。   張漢相は欝陵島審察結果を、山川・道里を記して挿入した地図とともに政 府に報告した。その要旨は、倭人が往来した痕跡はあるが住んではいないこと、 海路が穏やかではなく日本が横占しても除防が難しいこと、土質から〓麦を植 えてきたこと等であった(注2)。        --------------------   調査団長である張漢相が任命された僉使ですが、これは各鎮台に属した従 三品の武官職をさします。張僉使が日本語の通訳まで連れていったのは、日本 人と遭遇した場合にそなえたためだったことはいうまでもありません。本腰を 入れた対応でした。   そうした周到な準備のため、一行は150人もの大人数になったのですが、 それだけに調査には熱が入りました。一行は欝陵島の地図まで作成するなど綿 密な調査をしたようですが、このとき冒頭に述べたようなエピソードがありま した。すなわち、調査の過程で一行は竹島=独島を目視することができたよう でした。張漢相はそれを報告書(?)「蔚陵島事蹟」に次のように記しました。        --------------------   東側五里ほどに一つの小さな島があるが、高大ではなく海長竹が一面に叢 生している。雨があがり、霧(?、ママ)が晴れた日、山に入って中峰に登る と南北の両峰が見上げるばかりに高く向かい合っているがこれを三峰という。   西側を眺めると大関嶺のくねくねとした姿が見え、東側を眺めると海の中 に一つの島がみえるが、はるかに辰方向に位置して、その大きさは蔚島の三分 の一未満で(距離は)三百余里に過ぎない(注3)。        --------------------   東側五里(2km)の小さな島は、その方向や距離から現在の韓国名の竹島を 指すのは疑いありません。その一方、張漢相が欝陵島の辰方、すなわち東南東 に見た島ですが、これは竹島=独島以外に考えられません。その島までの距離 を張漢相は三百余里(120km)としていますが、これは欝陵島と竹島=独島間の実 際の距離92kmにかなり近い値です。   ちなみに、日本の江戸時代の史料で両島間の距離は40里,160kmとされま した。それよりは正確といえますが、張漢相はその距離をどうやって割り出し たのか好奇心をそそられます。100kmも離れたところから実際の距離を言い当 てるのは当てずっぽうでも困難なので、あるいは途中まで実際に航海したのか も知れません。そうでなければ、記録などであらかじめそうした知識があった のかもしれませんが、この可能性については後にまたふれます。   一方、島の大きさは欝陵島の1/3未満と書かれていますが、実際の竹島 =独島は 1/317であり、たしかに1/3未満にはちがいないのですが、張漢相 は竹島=独島をかなり大きく見ていたことになります。この事実は、張漢相は 実際に竹島=独島の間近までは行かなかったことを示しているようです。   しかし、島の大きさは違っても東南東方向にそれくらい離れた島は現実に ただひとつ、竹島=独島しか存在しないので、その島は竹島=独島であること はまぎれもありません。   さて、調査団は出発前に欝陵島について記録などである程度調べてから出 発したと思われますが、張漢相が于山島に関して知り得た可能性がある予備知 識を整理すると下記のとおりです。 1.1454年、『世宗実録』地理志 「于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見」 <『世宗実録』と于山島> 2.1476年、『成宗実録』三峰島探索記録および竹島=独島の地形図 「二五日 西距島七八里許到泊 望見則 於島北 有三石列立 次小島 次巌石列立 次中島 中島之西又有小島 皆海水通流 亦海島之間 有如人形 別立者三〇 因 疑惧 不得直到 畫島形而來」 <『成宗実録』と三峰島> 3.1481年、『東国輿地勝覧』 「蔚珍縣 于山島、欝陵島。 一云武陵 一云羽陵 二島在縣正東海中」 <『東国輿地勝覧』と于山島> 4.1656年、柳馨遠「輿地志」  (1)ー(3)についてはすでに記したので詳細は省き、ここでは(4)の 「輿地志」を取りあげます。これは私的な史料なので、本来なら取りあげる価 値はありません。領有論争には公的な史料のみが重要です。   しかしながら「輿地志」は官撰史料『東国文献備考』(1770)にその一部が 引用されたので決して無視できない史料です。「輿地志」自体は現在伝わりま せんが、于山島に関する「輿地志」の記述は「東国文献備考」に下記のように 引用されました(注4)。  「成宗二年、別に三峯島について告げる者がいた。そこで政府は朴元宗を見 に行かせた。しかし、風濤が荒かったため到達できずに帰ったが同行の一船だ けが欝陵島に泊まり、大竹や大きいアワビを取った。島には居民はいないとい う。<輿地志がいうには、欝陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がい うところの松島である>」  < >内は小さな字体で書かれた部分ですが、これにより1656年以前からす でに下記の認識が朝鮮政府で主流だったことがわかります。  于山国=欝陵島 + 于山島、朝鮮領  于山島=倭がいう松島   こうした史的背景を考慮するとき、張漢相が目視した竹島=独島は于山島 に違いないのですが、張漢相はその島名を記録に残さなかったようでした。も しこのとき、島名が記録されていたら、江戸時代における竹島=独島問題は完 全にクリアになっていたかもしれません。   なお、これらの史料では欝陵島と于山島との具体的な距離については何も 記述はありません。したがって、張漢相が言及した距離の割りだしかたは依然 として疑問のまま残ります。   さて、調査団の2年後、漁民の安龍福が官吏を装って大胆にも上記の認識 を日本に確認させるため隠岐へ渡航したのですが、これについては次回書くこ とにします。 (注1)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000,77頁 (注2)宋炳基『欝陵島と獨島』(韓国語)檀國大学校出版部,1999 (注3)張漢相「蔚陵島事蹟」、注2より引用  東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生於一面 霽雨〓捲之日 入山登中 峯 則南北両峯 岌崇相面 此謂三峯也 西望大関嶺透〓之状 東望海中有一島 杳 在辰方 而其大未満蔚島三分之一 不過三百余里 (注4)『増補文献備考』巻之三十一、輿地考十九  『増補文献備考』(1908)は『東国文献備考』(1770、逸失)の増補版。下記の 記述は増補部分に含まれないことが明確になっているので、1770年当時のオリ ジナルな記述のままと思われます。なお『成宗実録』では成宗3年に朴宗元を 派遣したとあります。 「成宗二年 有告別三峯島者 乃遣朴元宗往見之 因風濤不得到而還 同行一船泊 欝陵島 只取大竹大鰒魚 囘啓云島中無居民矣<輿地志云 欝陵于山皆于山國地 于山則倭所謂松島也>」   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竹島=独島と安龍福 2003/ 3/ 2 Yahoo! 掲示板「竹島」#1335   半月城です。   前回予告したように安龍福の渡日について書くことにします。元禄時代、 安は二回も日本へ渡りました。最初は鳥取藩の商人、村川家による連行、二度 目は安みずから欝陵島と于山島は朝鮮領であると訴えるため渡日しました。   安の渡日に関する朝鮮の同時代史料としては、正史の『粛宗実録』があり ます。これはその性格上、事件の逐次的な記録です。一方、それらを要約した 官撰史料に「東国文献備考」(1770、逸失)とその増補版である『増補文献備 考』(1908)がありますが、こちらは要約されているだけに読みやすいのが特徴 です。   これらの史料に安の供述が引用されましたが、それは基本的に「手柄話」 の性格を有することはいうまでもありません。史料はもちろんそれらを全面的 に信頼しているわけではありません。『粛宗実録』では、かれを「漂風愚民」 と記しました。   さらに、安の二度目の官吏を装った勝手な渡日は、斬首刑に相当する罪と されました。しかし、その一方でかれの抗議行動が対馬の欝陵島横取りを防い だとして、安の功績も同時に認定しました。そのため、かれは斬首刑をまぬが れ、流刑ですまされました。   他方、かれの抗議行動を今日の視点でみると、安はすでに「輿地志」が記 した「欝陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいうところの松島であ る」という認識を日本にも定着させたという点で注目されます。これは今日の 竹島=独島問題に重要な一石を投じたので特筆にあたいします。 <江戸時代の「竹島一件」>   前置きが長くなりましたが、安龍福(アン ヨンボッ)の渡日を『増補文 献備考』にみることにします。        --------------------   最初、東莱(現 釜山市)の安龍福は隷能櫓軍として倭の言葉に通じてい た。粛宗19年(1693)夏、海で漁をしていたところ漂流して欝陵島に到着した が、たまたま倭船に遭い拘束され五浪島に入った。そこで安龍福は島主にこう いった。  「鬱陵島はわが国までの距離は一日なのにたいし、日本までは五日ほどかか る。これはわが国に属するのではないか。朝鮮人みずから朝鮮の地へいくのに なぜ拘束するのか」   隠岐島主は安を屈服させられないとみるや、かれを伯耆州へ送った。州の 太守はかれを銀銭などで厚くもてなした。安龍福は、日本人がふたたび鬱陵島 に入らないように願うのみであり、銀をもらうのは意にそわないといった。と うとう伯耆州の太守は関白に稟議して書契を作成し、かれに授け「鬱陵島は日 本領ではない」といった。   安は長崎島へ移った。島主はすなわち対馬島の一党である。関白の書契を 見せるように求められたので、これを出したところ奪われてしまい、ついに返 してもらえなかった。   安龍福は対馬島に送られた。その時、対馬島主は関白の命令を偽り、鬱陵 島に関して数回もめ事を起こしたが、これは関白の意思ではない。鬱陵島は魚 や竹が豊富なので、倭がその島を持つのは利益が大きい。また、倭の一行が島 にいけば、国家がそれを厚く遇するので、このため倭の往来はやまなかった。   ここに至り、対馬島は自分たちの奸計を安龍福がことごとく暴露するのを 恐れて安を牢に入れた。かれを東莱に押送して倭館に幽閉し、前後90日して はじめて龍福を帰した。   安龍福は東莱府に報告したが聞き入れてもらえなかった。翌年、接慰官が 東莱に来るや安はふたたび以前のできごとを訴えたが、朝廷もやはりこれを信 じなかった。そのころ、倭の使節がたびたび東莱に来たが、将来もし両国にひ びが入っても人はこれを憂うのみで、だれも対馬島の欺瞞を知らないであろう。   憤慨した安龍福は蔚山の海辺に行った。そこの商僧、雷憲は船を持ってい た。龍福はかれを誘った。鬱陵島は海菜が多いので、そこへ行く道を案内した いと言った。僧は快くこれに従った。  (1696年)ついに帆をあげ3昼夜航海して鬱陵島に停泊した。そこへ倭船が 東からやって来た。それを見た龍福はかれらを縛ろうといったが、船乗りたち は恐れてしりごみした。   龍福はひとり前に出て怒り、なぜわが境域を犯すのかと倭人をののしった。 倭人がいうには、かれらはもとより松島に向かうところで、ちょうど帰るとこ ろだということだった。さらに龍福は倭人を追って松島に至り「松島はすなわ ち芋山島である。お前たちは、芋山島もまた我が境域であることを聞いていな いのか」と叱り、棒でその釜を砕いた。   倭人はおおいに驚いて逃げた。龍福は伯耆州に行き状況を太守に告げた。 太守はかれらをことごとく捕らえて裁いた。龍福は鬱陵監税官と偽って称し、 堂にのぼり太守と対等に礼をかわした。そして大声でこう言った  「対馬島の中間の偽りを正すのは、単に鬱陵の一事だけのことではない。わ が国が送った幣貨を対馬島が日本に転売し多大な利益をあげた。また、対馬島 は米15斗を1斛(こく)とすべきなのに7斗を1斛に、布30尺を1疋(ひ き)とすべきなのに20尺を1疋に、1束の紙を3束に偽ったが、関白がこれ をどう扱うのか知る由もない。我は関白に一書を送りたい」   伯耆州の太守はこれを許可した。このころ、対馬の島主の父親が江戸にい てこれを聞いて大いに驚き、伯耆の太守に「その書が朝に知られると夕にはわ が子が死ぬので、太守はよろしく取りはかってほしい」と乞うた。   太守は江戸から帰るや、龍福に書を差し出さないように言った。また、す みやかに対馬島に帰り、もし争いごとのようなものがあったら人や書を送るよ うに言った。   安は帰国し、裵陽に泊まり官衙に報告した。また、伯耆州にいたときに太 守に呈した文書をこれまでの証拠として提出した。ほかの従者も一人一人調べ られたが、龍福の言と違いはなかった。ここに至り、倭はふたたび偽りをいう ことが不可能なのを知り、東莱府に書状を送り「ふたたび鬱陵島に人を送らな いようにする」と謝罪した。   このとき、事の発端が龍福にあったため、倭はかれを憎み、龍福が対馬島 を経由しなかった行動を罪とした。旧約定では対馬島から釜山に向かう一路以 外はすべて禁止とするという一文があるためである。   朝廷の議論は、龍福の罪は斬首刑に該当すると皆主張したが、ただ領敦 寧・尹趾完、領中枢・南九萬はかれを殺せば対馬島を喜ばす一方、その人傑を 憤激させる結果になるので、その非や碌々としたところを正すべきであり、生 かして後日のために役立てられるようにすべきだとした。結局、かれを流刑に した。今や倭が鬱陵島をふたたび日本の地にしようとしないのは、みな龍福の 功である。        --------------------   安の手柄話は虚実こもごもですが、日本ではささいなことで虚の部分のみ 強調して指摘する傾向にあり、冷静な研究はすくないのが実情です。たとえば、 下條氏は安の「于山島像」に関する矛盾点をいろいろ指摘していますが、正史 で愚民とされている安の「個人的」な于山島像が政府の于山島像に置き換わる はずもなく、竹島=独島の領有問題にはほとんど無用な詮索です。   そんな中で郷土史を重視した内藤氏は客観的観点で核心にせまる研究をし ているようです。核心というのは、安龍福の訴状および安がもらったとする 「関白の書契」についてです。内藤氏は、関白の書契はありえないとする一方、 安の訴状についてはこう述べました。        --------------------   問題はそれ(安の処遇)だけではない。帰国した安龍福(安同知)が備辺 司で供述していることで、伯耆州と対座して、鬱陵・于山両島が朝鮮領である とする書契を受けとったかどうかの問題である。   このことについては、まず鳥取藩主が(江戸から)帰国したのは7月19 日であり、6月23日付の幕府の指示(安の処遇)を受けている以上、異客の 訴願を鳥取で受理することなどありえないのである。そして藩主が帰国した時 には、異客一行は湖山池の青島に監視つきでとじ込められていたのである。   しかし湖山池に移されるまでは、彼らは町会所にあって外交使節としての 待遇を受けていた。したがって、その間に安龍福が、関白すなわち徳川将軍に 宛てた訴状を、鳥取藩の役人に渡していたのではなかろうかという疑問である。   それというのも、1697年(元禄10)2月に、対馬藩主が朝鮮の東莱府使に 行った質問のなかで、「去秋、貴国人呈単ノ事アリ、朝令ニ出ヅルカト」と述 べていることが問題になる。これに対して東莱府使は、「漂風ノ愚民」ニ至リ テハ、設ヒ作為スル所アルモ、朝家ノ知ル所に非ズシテ」と答え、さらに翌年 3月の文書には、「呈書の事に至りては、誠に其の妄作の罪あり」と記してい る。   対馬藩主は「貴国人呈単ノ事」といって、日本と朝鮮との外交の場で問題 にした。これに対して朝鮮側も「呈単ノ事」と答えて、「漂風ノ愚民」にすぎ ない安龍福が勝手にしたことであり、朝鮮政府として関知するところでなく、 「妄作ノ罪」があると述べている。   安龍福が日本で文書を提出したことは、日朝が共通して認めている事実と いうことになる。日本で提出したといえば、安龍福の足跡から鳥取藩以外には 考えられないのである(注)。        --------------------   安の訴状が鳥取藩に提出され、それを対馬藩が知っていたことからすると、 かれの訴状は徳川幕府にあるいは届いたのかもしれません。しかし、そのころ には徳川幕府は竹島(欝陵島)放棄をすでに決定していたので、かれの抗議行 動は幕府の政策になんらの影響も与えませんでした。   その一方で「松島はすなわち芋山(于山)島・・・我が境域」という訴え は後世に重要な影響を残しました。なお、安がそのような認識をもつに至った 背景ですが、「輿地志」の「欝陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭が いうところの松島である」という見方が当時は東莱の漁民にまでひろまってい たことを示しているといえます。 (注)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000,P106   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


「竹島一件」後の于山島認識 2003/ 3/ 9 Yahoo! 掲示板「竹島」#1398   半月城です。   私が安龍福の個人的な于山島=松島という認識を書いたのは、ある人の 「東国文献備考」改竄発言を検証する意味あいもありました。それを具体的に みる前に再度確認すると「東国文献備考」(1770)に于山島と松島の関係がつぎ のように記されました。  「輿地志がいうには、欝陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいう ところの松島である」  「東国文献備考」は官撰史料であるだけに、于山島=松島という認識は当時 の朝鮮政府の見解を示すものでした。そのときの松島は現在の竹島=独島をさ すだけに、下條氏は于山島=松島の記述にいたく不満なようで、そのためか改 竄発言がこうなされました。  <申景濬は、安龍福の供述で成立した「松島は即ち于山島なり」説に従い、 あたかも『輿地志』の説のように(「東国文献備考」を)改竄したのである (注1)>  「改竄」とはただならぬ言葉遣いです。そもそも「輿地志」(1656)の実物が 現存しない以上、改竄したかどうかは知るすべがありません。すなわち改竄の 証明は不可能です。それにもかかわらず、改竄したと言い切るなんて下條氏は 研究者失格といわざるをえません。   ここの会議室でも下條氏の説をすっかり信じ切っている人が多いようです が、『太宗実録』の誤読といい、『世宗実録』地理志の曲解といい、下條氏の 発言にはあきれるばかりです。このような人の存在が竹島=独島問題をまぎれ させているのではないでしょうか。  「東国文献備考」以降、「輿地志」の于山島=松島という認識は朝鮮の官撰 史料ですっかり定着しました。これ以降、欝陵島=于山島という一島説は消え 去りました。それにともない于山島の地図も変化しましたが、それを宋氏はこ う記しました。        --------------------   欝陵島に対する地理的知識の拡大は地図作成にも影響を与え、于山島の位 置が明確に浮き彫りにされたことも注目にあたいする。従来の地図、たとえば 『新増東國輿地勝覧』に載せられた「八道總圖」や「江原道圖」は于山島を内 陸側に、欝陵島をその東側におき、ほとんど同じ大きさとし接近させて描いて いる。   しかるに鄭尚驥(1679-1752)の「東國地圖」になると、欝陵島が内陸側に、 于山島がその東側に移されただけでなく、距離や大きさが正確に表記されたの を見ることができる(注2)。   これは1694年(粛宗22)に三陟僉使・張漢相が欝陵島東側300余里 (120km)離れたところにある小さな島があるのを確認したことや、安龍福たち が于山島を直接踏査した事実とも関連して考えることができる。   以来、朝鮮後期の地図には、たとえその位置が鬱陵島東南側に下がったり とか一定していないが、于山島あるいは子山島が継続して表示されている。こ れは鄭尚驥の「東國地圖」に影響を受けたのである。その一方、鬱陵島の他に ある島が于山島という認識が継続しているのを意味しているのである(注3)。        --------------------  「竹島一件」のおかげで朝鮮では于山島に関する知識が次第に蓄積されてき たようでした。それに「愚民」安龍福の活動が一役かっていることはいうまで もありません。ところで安の「直接踏査」ですが、くだんの下條氏は、安龍福 がみたのは于山島でなく隠岐島だったなどと、ここのショービニストが飛びつ きそうなことを記しました(注1)。   しかし、ある「竹島日本領派」の研究者は、安龍福と于山島の関係をもっ と冷静に分析しました。塚本氏はこう述べました。        --------------------   なお、安龍福は前述のとおり元禄6年に日本へ連れ帰られているが、同人 を連れ返った船は松島(今日の竹島)に立ち寄っている。したがって、同人は 記録上今日の竹島に赴いた最初の朝鮮人ということになる。   同人はその際今日の竹島を見、その名称(松島)も聞いたと考えるのが自 然であるが、そうであれば後に同人が「松島はすなわち于山である」と述べた のは、この時の体験に鬱陵島・于山島があるという朝鮮における伝承を当ては めた結果であると考えられる(注4)。        --------------------   塚本説は下條説よりはるかに説得力があります。下條氏は文献考証が恣意 的なのか、安龍福の取り調べ時における3、4年前の手柄話をそのまま真実で あるかのように採用し、我田引水的な主張を行っているようです。同氏の傾向 を如実に示した例といえましょう。これでは学術論文に同氏の主張が引用され ないのも無理はありません。   さて「竹島一件」以降、朝鮮政府は日朝間で問題になった鬱陵島を定期的 に捜討するようになりました。これは必然的に鬱陵島周辺の関心をよびおこし ました。『粛宗実録』40年条によれば 1714年、江原道御使の趙錫命が嶺東 地方の海防を論議しましたが、そこで鬱陵島周辺のことがこう記されました。  <浦人の話をくわしく聞いてみると、「平海、蔚珍は鬱陵島からもっとも近 い距離にあって、海路が少しもさえぎられることがない。鬱陵島東側から島嶼 が続いて倭の境界と接している」ということである>   この一節は日本との国境付近に朝鮮領の島があったことを示唆していると 同時に、日本との境界付近まで浦人が行った可能性を語っています。国境付近 のその島は名前が記されませんでしたが、これは于山島と考えるのが妥当なと ころです。もし、そのように『粛宗実録』に記されていたなら、竹島=独島問 題に重要な史料になったことは疑いありません。   さて「東国文献備考」に書かれた于山島=松島という認識は、その後の官 撰史料でも再確認されました。まず『萬機要覧』(1808)をあげることができま す。宋炳基氏はこう記しました。        --------------------  「東国文献備考」に続いて19世紀はじめ(1808・純祖8年頃)には王命に より『萬機要覧』が編纂された。そしてその軍政編4,海防東海条には『増補 文献備考』に載せられた「東国文献備考」蔚珍条の付録記事、すなわち鬱陵 島・于山島の位置と沿革、鬱陵島領有権紛糾、安龍福渡日事件等を余すところ なく無くそのまま転載している。   これは、于山島は朝鮮領であり、日本側で呼んでいる松島であるという 「東国文献備考」の見解を『萬機要覧』でもそのまま継承使用していたことを 意味しているのである。『萬機要覧』は国王が座右に置いて参考にする目的で 編纂された政務指針書であった(注3)。        --------------------  『萬機要覧』にも「輿地志がいうには、鬱陵、于山は皆于山国の地、于山は すなわち倭がいうところの松島である」と書かれ、于山島=松島という認識は 朝鮮でも盤石になりました。 (注1)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』   1999,5月号,P59 (注2)李燦「韓国古地図にみる獨島」(韓国語)『鬱陵島・獨島學術調査研究』 韓国史學會,1978,P119 (注3)宋炳基『鬱陵島と獨島』(韓国語)檀国大学校出版部,1999 (注4)塚本孝「竹島領有問題の経緯(第2版)」『調査と情報』第289号、   国会図書館,1996   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


『高宗実録』と鬱陵島検察 2003/ 3/21 Yahoo! 掲示板「竹島」#1547   半月城です。  「竹島一件」以後の江戸時代、「于山すなわち倭がいうところの松島(竹島 =独島)」をめぐって日朝両国では何事もなく平穏な時代がつづきました。   ところが明治維新をきっかけに日本帝国では対外膨張の気運が高まり、日 本政府の政策とは別に、日本人の鬱陵島への渡航が盛んになりました。これは 必然的に鬱陵島にしかれていた朝鮮政府の空島政策を激変させることになりま した。今回はこれを取りあげることにします。   1881年、朝鮮の鬱陵島捜討官は同島で日本人が伐木しているのを発見しま した。朝鮮政府としても放ってはおけず、関係機関が対策にのりだしました。 統理機務衙門は次のような提案をしたことが『高宗実録』18年5月条に記さ れました。        --------------------   ところで彼ら日本人が鬱陵島で人知れず木を切り運び出すのは辺禁政策に かかわることであり、厳重に防がねばならない。将来、この事実を書契にした ため、東莱(釜山)の倭館に送り、日本外務省に転送するようにする。   考えるに、この島は茫々たる海のなかにあるが、そのまま空島にしておく のはさみしいかぎりである。その形勢が要害であるかどうか、また防御が緊密 であるかどうかなどをことごとく審査して処理すべきである。副護軍の李奎遠 を鬱陵島検察使に任命して早々に行かせ、徹底的に検討し意見をまとめ稟議す るのはいかがであろうか。        --------------------   この提案は承認され、検察使の李奎遠は王に召されましたことが『高宗実 録』や『承政院日記』に記されました。承政院とは王命や王への提言を取り扱 う官庁ですが、その公的な記録が『承政院日記』であり、現在 1623‐1894年 分の3047冊という膨大な史料が残されました。朝鮮は『実録』といい『承政院 日記』といい、記録を重視した国でした。   さて、李奎遠は鬱陵島へ出発する前に王と面談しましたが、そのときのよ うすが『高宗実録』と『承政院日記』に記されました。後者はその対話を高宗 19年(1882)4月7日条にこう記録しました。        --------------------  王曰く「近ごろ、鬱陵島に他国人がたえず往来して、かれらが占拠するまま になっている弊害がある。また松竹島と芋山島が鬱陵島近辺にあるが、相互の 遠近や距離がどうであるか、またどんな物があるのかよくわからない・・・」  李奎遠曰く「謹んで精一杯奉公します。芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は 昔の国都の名です。松竹島は一小島で鬱陵島との距離は30数里(12km)です。 その産物は檀香と簡竹であるといいます」  王曰く「あるいは芋山島と称し、あるいは松竹島と称しているが、みな『輿 地勝覧』の所産である。また松竹島と称するが、芋山島とあわせ3島をなして おり、それらの通称名が鬱陵島である。そのありさまをよく検察せよ・・・」  李奎遠曰く「謹んで深く入って検察します。あるいは松島竹島と称する島が 鬱陵島の東にありますが、これは松竹島のほかに松島竹島があるということで はありません」        --------------------   王と李奎遠の芋山島認識にはすこし差があることが読みとれます。それを 整理すると下記のようになります。  王(3島認識)、鬱陵島(通称)=鬱陵島(本島)+芋山島+松竹島  李(マクロ的に2島、ミクロ的に3島認識)、鬱陵島=芋山島、松竹島=松島+竹島   単に鬱陵島というと、鬱陵島本島をさす場合と于山島など付属の島を含め ていう場合のふたとおりあったことがわかります。つまり、于山島と松竹島は 鬱陵島の付属扱いにされる場合がありました。一方、松竹島の名が登場したの はこのときが官撰史料では初めてではないかと思われ注目されます。   1882年4月、李奎遠は東海の島についてあやふやな知識のまま鬱陵島検察 に旅立ちました。帰京後、復命書『啓本書』を政府へ提出しましたが、そこに 于山はこう記されました。        --------------------   松竹于山などの島を現地仮住の同胞たちは、みな近傍の小島をこれに当てて いる。しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に高 いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石 も一握りの土もなかった。すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称 するごとくである(注1)。        --------------------   于山島=鬱陵島と信じこんで鬱陵島に来た李奎遠は、松竹島、于山島は鬱 陵島近傍の小島であるという住民の話を聞いて、鬱陵島、松竹島以外に于山島 が存在することを住民の伝聞という形で確認しました。王の3島認識は島に住 む住民の証言で裏づけられたことになります。   なお、文中に「耽羅」が登場しますが、済州島の別名である耽羅は高麗に 吸収された耽羅国をさします。ここで注意すべきは、耽羅は国名であり島名で はありません。そうした事情は、新羅に吸収された于山国に似ており、于山は 鬱陵島の別名になりました。それらを整理すると、この時代の認識は下記のよ うになります。  耽羅国=済州島+近傍の小島  于山国=鬱陵島+松竹島+于山島   結局、李奎遠の復命書で于山島の名は確認されたものの踏査は行われず、 その位置はあいまいなままでした。しかし、すくなくともこの島は松竹島と区 別されていたことだけは確かです。とかく朝鮮の古地図で于山島は鬱陵島のす ぐ東に描かれることが多かったため、于山島を現在の韓国名の竹島と混同して いるのではないかと思われがちですが、少なくとも19世紀末ころはそうでな かったことがはっきりしました。一方、松竹島は後に韓国官報(1900)に掲載さ れた竹島とみられます。   なお、李奎遠が高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見な かったことから、李奎遠は于山島の存在を認識していなかったと短絡的にとら える人がいますが、それは下條式の飛躍というものです。   その論法を推し進めると、単に見えなかったという理由で、李奎遠は出発 前に認識していた松竹島の存在をも否定してしまったという結論になりかねま せんが、史料にそのような記述はもちろんありません。   実際は、李奎遠は松竹島や于山島が見えないような状況で周囲を見渡した に過ぎません。当然、目視しなかったことと認識していないこととは別です。 史実は、李奎遠は検察の過程で于山島の存在を名前だけでも確認しました。   他方、李奎遠の本来の任務である鬱陵島本島の踏査は詳細になされました。 その過程で李は島においてマジョリティである全羅道出身者と多数会ったり、 日本人に遭遇したりしました。   日本人とは筆談で会話しましたが、そこで日本人が鬱陵島に「松島」の標 木を立てたことを知り、李は実際にそれを確認しました。長さ1.8mの標木 には「大日本国松島槻谷 明治二年二月一三日 岩崎忠照建之」と書かれていま した。   鬱陵島が日本で松島と呼ばれるようになったいきさつは次回書くことにし ますが、こうした日本のあからさまな侵入は朝鮮政府に数百年来の空島政策を 転換させることになりました。それを堀氏はこう記しました(注2)。        --------------------   その(李奎遠の)報告に基づいて同年12月「鬱陵島開拓令」が出された。 そして、同年まず島長が置かれ、移民入植政策が始められた。つまりここから、 鬱陵島は単なる地図上の版図たるのみならず、朝鮮社会に実質的に組み込まれ ていくことになった。   83年、金玉均が「東南諸島開拓使兼捕鯨事」に任命され、意欲的な同島 開発策がたてられたが、これは彼の失脚によって実を結ばなかった。   その後、同島の行政機構は何度か改編され95年に島長は島監と変わった が、その間の政府の賦税免除と移住奨励によって朝鮮人の人口は着々と増加し た。そして1900年10月ついに鬱陵島は郡に昇格し、中央派遣の郡守が任命さ れたのである。   このように、鬱陵島は80年代以降全く未開の状態から、次第にまとまっ た朝鮮人社会を形成しつつあった。しかし、行政機構が本土より格段に未整備 であったため、日本の侵略をより早期にこうむることになったのである。        --------------------   その後、鬱陵島が日本によっていかに侵略されていったかについてはおい おいと記すことにしますが、この段階で重要なのは李奎遠の鬱陵島検察の結果、 鬱陵島のほかに于山島、松竹島が存在するという3島認識が明確になったこと です。これが朝鮮の後の行政に受けつがれましたが、その詳細はあらためて記 すことにします。 (注1)『啓本書』 是白乎〓 松竹于山等島 僑寓諸人 皆以傍近小島當之 然既無圖籍之可據 又無 鄕導之指的 清明之日 登高遠眺 則千里可窺 以更無一拳石一撮土 則于山指稱 鬱陵 即如耽羅指稱濟州 (注2)堀和生「1905年日本の竹島編入」『朝鮮史研究会論文集』24号,   1987,P97   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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