半月城通信
No.103(2004.6.2)

[ トップ画面 ]


    目次

  1. 広開土王碑と百済の倭兵導入策
  2. 「ナゾの世紀」の倭と朝鮮半島
  3. 浅草「三社祭」と檜前一族
  4. 映画「シルミド」の公開
  5. 三井鉱山「中国人強制連行」訴訟の高裁判決
  6. 明治の国境画定機関の竹島=独島認識と『水路誌』
  7. 愼教授の獨島問答(4)「領土編入」


広開土王碑と百済の倭兵導入策 2004/ 4/18 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#10212   半月城です。   ここの会議室のみか、国際的にも高句麗の広開土王(好太王)碑に書かれ た下記の辛卯年(391)条記事をめぐって、果てしない論争が50年間も繰りひろ げられているようです。  而倭以辛卯年来渡(海)破百残□□新羅以為臣民   碑に書かれた百残、すなわち憎き百済を破ったのは倭なのか、高句麗なの か、なかなか決着がつかないようです。途中で李進煕氏が碑文の改ざん説を唱 えるや、論争は火に油をそそいだ感がありました。それまで日本の学会は碑文 の「拓本」をほとんど信じて疑わなかっただけに李氏の説は衝撃的でした。   李氏の説を機に、碑文の徹底的な見直しが始まりました。その結果、かな り重要な事実が判明しだしました。それまでまったく疑わなかった「拓本」に 明らかな字の間違いがあることがわかりました。たとえば、第1面で「天」字 が石灰の塗布により「因」字に、「履」字が「黄」字にされてしまったことな どが判明しました。   この程度の「改ざん」はあまり罪がないようですが、論争の焦点になって いる上記文中の「海」字は影響が大です。この字について武田氏はこう記しま した。  <該字はしばしば「海」と釈文されてきたが、そうとは必ずしも断定できな いというのが近来の所見であり、だいたい私見も同じである(注1)>   どうやら武田氏はそれまでの自説を撤回したようです。というのも武田氏 の論戦相手である李氏は 1985年の読売新聞社主催のシンポジウムを回顧して <「原石拓本」の水谷拓本には「渡海破」が読めるとする武田幸男の主張とそ れを否定する私の主張が対立して平行線をたどった(注2)>と書いているか らです。   これに関するかぎり、李氏の主張が正しかったことになります。同氏は十 数回にわたり広開土王碑を現地調査し、やはり問題の字は字全体のバランスな どから「海」とは読めないとの結論をだしました(注2)。   さて、これまで「海」とされた字が不明となるといろいろな可能性が広が ります。一例ですが、韓国の徐栄洙氏は問題の字を「王」としてこう解釈しま した。( )内は徐氏が補った字です。  「しかるに倭は辛卯年来渡る。(王)は百残、(倭)を破る。新羅を(服し て)以て臣民と為す」   こうした解釈が生まれる背景には、当時の国際情勢からすると倭が百済を 攻めるような状況ではなく、逆に両国は友好関係にあったと推測されるのが大 きな理由です。ちなみに、山尾幸久氏は 391年以前の国際関係をこうまとめま した。        --------------------   3世紀の後半から約100年間、ヤマトに初期王権とよんでよい時代があった。 古墳時代の前期と大体において対応する。盛期の王権の形成は370年前後に転 機があり、400年前後から動きが加速され本格化した。   この歴史自体、百済王権の形成と深く関わっている。中国史料・朝鮮史 料・日本史料から考えると、百済王権の動きは次のようである。 364年 加羅の卓淳国(昌原)などと初めて交渉を開いた。百済王が倭王と 国交をもちたい意向が卓淳の首長に伝えられた。 366年 (1)新羅(慶州)と初めて交渉を開いた。      (2)卓淳の人と倭の人とが百済(広州)まで来た。 368年 新羅に再び遣使した。 369年 高句麗王親らが率いる大軍が押し寄せてきた。王子(仇首)が将軍      となってこれと戦い勝った。 371年 (1)肖古王・仇首王子が大軍を率いて平城城に攻めこみ大勝。高句       麗王は戦死。      (2)漢城(広州)を王都と定めた。      (3)中国東晋王朝に使者を派遣。 372年 (1)東晋皇帝の冊封使が漢城に来た。      (2)倭王に七支刀・七子鏡を贈って交渉を開き、高句麗の復讐に備       えた(注3)。        --------------------   当時の百済は高句麗と生死をかけた戦争のさなかにあっただけに、百済は 高句麗以外とは友好関係を保つべく東晋や新羅、倭などと交流を深めていた時 期でした。とても倭が百済を戦争で「破る」ような状況ではありませんでした。   こうした情勢から、百済を破ったのは高句麗であるとみる研究者が日本に もいます。佐伯有清氏はこう記しました。文中の□は不明な字です。  <たとえば日本でも鈴木武樹氏のように、「倭が辛卯の年に来たので、(高 句麗は)□(=海)を渡って百済を破り、新羅には遣使して臣民とした」と読 みとる人がいる。私もかつて、この箇所を「倭、辛卯の年に来るを以て、渡海 して百済を破る。新羅を・・・、以て臣民と為す」と読みくだしたことがある (注4)>   佐伯氏は奥歯に物がはさまったような物のいいかたですが、同氏はその後 も高句麗主導説を撤回したことはないようです(注1)。一方、倭主導説にあ くまでこだわるのが武田幸男氏です。同氏は問題の箇所を「而るに倭は辛卯年 を以て来り、□を渡りて百残を破り、新羅を□□し、以て臣民と為す」として 旧来の説を踏襲しました。その根拠として前置文説を発展させた大前置文説を 次のように記しました。        --------------------   大前置文説は任意の碑字を個別的局部的に問題とする方法とは次元を異に しており、碑文の中心をなす八年=八条の紀年記事全体という視野から、その 全体に基盤を置いた方法であって、いわば碑文の構造的分析法とでもいえよう。   これによれば、辛卯年条は第一に、永楽六年丙申条記事の本文を導く“前 置文”であり、そのうえ第二に、六年丙申条を筆頭とする一連の紀年記事、つ まり六年丙申条・九年己亥条・十年庚子条・十四年甲辰条・十七年丁未条など、 五紀年記事を導く“大前置文”でもあるのである。   この大前置文説によれば、辛卯年条は全体的に高句麗の不利・苦境を叙述 して、その後に全能的な高句麗王(広開土王)の登場を促し、親征を導く修辞 的機能を果たすのである。   従って、辛卯年条は新解釈の多くが主張するような高句麗主導の解釈とは なじまず、そもそもあえて「破」字の主体に「(高句麗)王」を“補入”すべ き理由も、根拠も否定する結果になる。        --------------------   武田氏はこうして新羅などを「臣民」にしたのは「倭」であると解釈した のですが、そうなると「臣民」の語に引っかかるのは、ここの AHO-mujunya説 のとおりです。碑文では倭を時に「倭賊」とか「倭寇」とかののしっているの に、碑文があたかも倭王権の権威を認めるかのように倭の「臣民」と書くのは 考えにくいところです。   やはり倭主導説は無理があるのか、国際的にはなかなか受け入れられない ようで、武田氏自身こう記しました。  「注目される辛卯年条解釈をめぐって、引き続いて多くの研究が発表された。 なかでは高句麗主導の解釈をうけつぐ主張がめだち、それに関連して大前置文 説への批判がようやく提出されて注目された。   しかし、従来提示されていた高句麗主導への疑問には、なお説得力をもつ 解答は示されず、また、大前置文説に対する確かな論拠をもった批判は、残念 ながら得られなかったと総括されよう(注1)」   他方、武田説には山尾幸久氏も反対のようです。それどころか山尾氏は辛 卯年に倭は出兵していないとの趣旨をこう記しました。        --------------------   高句麗に好太王(広開土王)が即位して(391年)、30年前に百済王からこ うむった大敗北にたいし、猛然たる雪辱戦を始めた。   百済王は30年前、こうなることを予想して、新羅王・倭王とも国交を開い ていた。397年、百済王は王子を倭王に「質」とし救援を要請した(『三国史 記』百済本紀。『応神紀』引用の『百済記』)。   倭王はこれにこたえた。399年(または400年),404年(または405年)、 歴史上はじめて、倭王は朝鮮半島に軍事力を派遣した(高句麗好太王碑銘)。 402年には新羅王の王子も倭王に「質」となった(『三国史記』新羅本紀。 『神功紀』本文)。   高句麗好太王碑の銘文は、好太王の報復侵略活動を正当化するため、倭の 介入を誇張している。直訳しても意味はないし、軍事力といっても、404,5年 に「兵士百人」(『三国史記』百済本紀)とある程度かもしれない。あまり オーバーに考えない方がよい。   しかし朝鮮半島に二度軍を出し、二国の王子が「質」としてやってきたの は確かである(注3)。        --------------------   ここで山尾氏が「質」にわざわざ「 」をつけたのは、特別な意味がある からです。山尾氏は古代における「質」をこう説明しました(注3)。  <「質」とは約束の証拠。『日本書紀』では「むかはり」(身代)と訓読し ている。王権間の特別の修好結縁に際し、「盟」約にともなう国際的儀礼の一 環として、王の近親の者を一時期提供する。政治的手段の性質があり戦略的色 彩が濃い(注5)>  「質」というと、日本では戦国時代の人質のイメージが強く、絶対服従の証 しととらえる傾向が強いのですが、古代中国では単なる「約束の証拠」とされ るようです。百済にしてみれば、強大国の高句麗を相手に滅亡しないためには 倭の援助が欲しくて「質」を日本へ派遣したのでしょうか。   それが高句麗には「属民」の百済が「倭と和通」(399)したと映るのであ り「不軌」の倭は許しがたい存在であるとの認識されることになります。そう した高句麗の世界観を鈴木英夫氏はこう記しました。        --------------------   そもそも「碑文」に示されている高句麗の国際観は周辺の諸国・諸種族を 「属民」すなわち高句麗に朝貢すべき地位にあるとの意識に貫かれており、か かる高句麗中心の国際秩序から離脱することは、高句麗の武力行使の対象とさ れ、当然、高句麗の行為は正当視されている。   一方、倭のみは「属民」たる位置にはなく、「不軌侵入帯方界」の一文が 示すように高句麗的世界の外部から侵入し、その国際秩序を攪乱する妨害者と して位置づけられている。「碑文」に記される種族の中では例外的な位置にい るといってもよい。   従って、倭の不当性・不法性を強調し、高句麗の倭征討の正当性を強調せ んとするならば、高句麗中心の国際秩序を破壊する倭の行為が事実を超えて誇 張されるのは至極当然の結果である(注6)。        --------------------   広開土王の息子である長寿王が父の偉業を顕彰するあまり、倭を誇張し、 トリックスターに仕立てて碑文を作成したという点で研究者の意見は一致して いるようです。それを考慮して倭の軍事力を考える必要がありますが「兵士百 人」は過小評価かもしれません。   その一方で、当時の倭の出兵が百済の単なる「傭兵」であったのなら、や はり人数はそれほど多くないのかも知れません。鈴木靖民氏は次のように語り ました。        --------------------   石上(いそのかみ)神宮の七支刀(しちしとう)は、369年と371年 の高句麗・百済戦争に倭が百済に味方して出兵した記念品といわれていますが、 その七支刀自体に直接(倭の)出兵のことが記されているわけではないんです。   では、どこに出兵の根拠があるかというと、この戦争のことは『三国史 記』の369年と371年の記事に出ていますし、『日本書紀』の「神宮皇后 紀」にもあります。  『日本書紀』は大変に古い出来事にしていますが、干支を(二運)くり下げ ますと364年、367年になります。そういうものをお互いに補って、百済 と倭の関係の成立ということが考えられます。   その関係の実態として、七支刀の銘文に「倭王」とありますから、列島に は王がいるんだから倭にまとまりをもった政治権力が構成されていただろう、 であればたぶん百済側に味方して出兵しただろうと考えるわけです。  ・・・   (倭は)『日本書紀』の任那記事のように侵略するために出兵したという のではなくて、海を隔てておりますけれども、倭と加耶、百済との間に政治的、 外交的利害が一致するところがあり、多くの場合、むしろ加耶や百済の主導下 に、軍事行動を起こしたのではないかと思います。  ・・・  『日本書紀』などから見た五世紀段階の研究からいえば、加耶諸国や百済が 倭兵導入策を何回かとっているんです。ですから倭兵導入はたぶん歴史事実だ と思います。   これは現代風にいえば外人部隊、外国の傭兵ですね。軍事的云々というこ との実体としては、こういうことは充分考えられるだろうということをつけく わえたいと思います(注7)。        --------------------   当時の倭は、百済や加耶から鉄やいろいろな文物を得ていたのですが、も ちろんこれは一方通行ではありえません。その対価に何かを提供していたはず です。軍事協力もその一手段であったのかも知れません。 <皇国史観と七支刀>   結局、当時の倭が百済を攻撃して「破る」ような状況でなかったことは鈴 木氏も認めているとおりと思われます。結論として、碑文にいう「百残」を 破ったのは高句麗とする高句麗主導説が妥当なようです。 (注1)武田幸男「その後の広開土王碑研究」『年報 朝鮮學』第3号、1993   九州大学朝鮮学研究会 (注2)李進煕『好太王碑研究とその後』青丘文化社、2003 (注3)山尾幸久『古代王権の原像』学生社、2003 (注4)佐伯有清『古代の東アジアと日本』教育社、1977 (注5)原著注、小倉芳彦「中国古代の質」『中国古代政治思想研究』1970年、    青木書店 (注6)鈴木英夫「加耶・百済と倭」『朝鮮史研究会論文集』第24号、1987 (注7)鈴木靖民他『幻の加耶と古代日本』文春文庫、1994


「ナゾの世紀」の倭と朝鮮半島 2004/ 5/ 2 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#10244   半月城です。   広開土王碑の 391年(辛卯年)の記事ですが、最近は倭が百済を破るよう な歴史的事実はなかったと考える研究者がふえたようです。   上田氏の見方は最後に紹介しますが、たとえば田中俊明氏は、大国の高句 麗に対峙した百済は倭と戦うどころか、倭へ七支刀を贈ったのを契機に、 百済ー加耶南部ー倭という同盟を成立させ、これに南朝の東晋を加えた連携関 係を成立させたと説きました(注1)。   百済と倭との関係はおおむねこのように理解できても、史書上で疑問なの は高句麗と倭との争いです。碑文では広開土王(好太王)十年に高句麗は退却 中の倭を任那加羅まで追って破ったことになっていますが、不思議なことにそ れを記す史書はまったくありません。   まず『三国史記』の「高句麗本紀」ですが、これには戦闘の記事どころか、 倭に関する記事すらまったくありません。高句麗の歴史にとって倭は眼中にな かったのでしょうか。   つぎに中国の史書ですが、この時期における倭の記事は皆無であり、その ためにこの時期の倭は「ナゾの世紀」とよばれているくらいです。   さらに『日本書紀』にも高句麗との戦いは書かれませんでした。天武ドク トリンにもとづく『日本書紀』は小中華意識に満ちているので、架空でも高句 麗と戦った記事があってよさそうなものですが、そうした記事すら一切ありま せん。これもナゾです。   その一方、倭と新羅との戦いは『日本書紀』や『三国史記』の新羅本紀に ふんだんに書かれました。ただし、2世紀から4世紀にかけて『日本書紀』の記 事は架空の物語が多く、信頼できる記事をさがすのが大変です。   他方、新羅本紀に書かれた倭の記事は歴史的事実を反映したものかどうか、 なかなか解釈がむずかしいところで、これに関する研究は日本では少ないよう です。その記事一覧を文末の(注2)に掲げます。   その中に面白い記事があります。「新羅本紀」173年に女王・卑弥呼の使 節が新羅にやって来たことを記しました。『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼は 239年に楽浪郡へ使節を派遣したとされているので、両史書で卑弥呼の時代が すこしマッチしないようです。   しかし「新羅本紀」の173年を干支で一運くり下げると 233年になり、両 史書は整合するようになるので、女王使節の新羅訪問は現実味を帯びてきます。 おそらく女王の使節派遣は事実だったのでしょうか。   その20年後の193年に倭は飢饉になり、千余人が新羅に食べ物を求めて来 たとされました。もし倭を日本列島とすると、はたして飢餓民が食糧を求めて 船で玄界灘を渡って遠い朝鮮半島へいったのかどうか、ちょっと考えにくい状 況です。たとえ行ったにしてもまずは加羅に行くはずなのに、その加羅の記述 がないのは倭と新羅が隣接していたとしか考えようがありません。   また、208年には倭が「境」を犯すと書かれましたが、これは新羅と倭が あたかも隣接しているような書き方です。また、232年には倭がにわかに新羅 の首都の金城(慶州)を囲むとあるのも倭が新羅のすぐ近くにあったような書 き方です。   当時の日本列島は邪馬台国および「倭国大乱」の時代で、倭国同士で熾烈 な戦いをくりひろげていた時期ですが、戦乱同然の邪馬台国や狗奴国などが新 羅の首都まで攻め入るとはとうてい考えにくいところです。   その一方、もし倭人が朝鮮半島の南部に多く住んでいたとしたら、上記の 記事はあながち考えられないことでもありません。中国の史書によれば、当時 の朝鮮半島最南端には狗邪韓国のあったことが『魏志倭人伝』に記されていま すが、そこは「倭の北岸」とされました。また『後漢書』韓伝にはこう書かれ ました。  「韓には3種があり、馬韓・辰韓・弁韓という。馬韓の北は楽浪郡と、南は 倭と接している。弁辰は辰韓の南にあって、これまた12国ある。弁辰の南も また倭と接している」   <倭人の国はどこ?>   これらの史料からすると、日本列島のみならず朝鮮半島の沿岸にも倭人が 多く住んでいたようです。古来、長身の弥生人が中国江南から山東半島あたり を経て朝鮮半島の西南部へ移住し、数百年にわたって九州へ入り、次第に広 がって弥生時代を築いたとみられます。   それが邪馬台国の時代に至っても、倭人の渡来ルートである朝鮮半島沿岸 に倭族は多数住んでいたと思われます。その時代、新羅をしばしば侵したのは かれら倭族だったのでしょうか。 <倭族の渡来> <弥生人の渡来ルート>   こうした侵略的な倭人が広開土王碑に登場するのですが、かれらはどのよ うな実体で、どこを本拠地にしていたのか不明です。中国の王健群氏は、碑文 に登場する倭を日本列島から渡海する海賊集団とみました(注3)。   しかし「海賊」とみるのはどうでしょうか。「新羅本紀」によると、312 年および344年、倭は新羅に結婚を申し込んだという記事がありますが、これ が事実とすれば、海賊とみるのは適当ではありません。やはり地方の豪族ない しは倭王権につながる人物とみるべきと思われます。   いずれにせよ、この時代が「ナゾの世紀」である以上、確かなことは何一 つ不明です。その時代の倭を上田氏はこう記しました。        --------------------   ヤマト(大和)朝廷の起源は、多くの謎におおわれている。三世紀の邪馬 台国がいったいどこにあったか。その所在について議論が分かれているばかり でなく、邪馬台国がその後の倭王権とどのような関係にあるのか、その権力の 発端についても未解決の問題が横たわっている。   多くの人々によって、謎の世紀とよばれている4世紀の倭王権の実体は、 まだじゅうぶんに解明されていないのである。そのために、三世紀の邪馬台国 の段階と五世紀のいわゆる倭の五王の段階との間におけるすじみちは、なお はっきり見定めがたい状況にある。   ヤマト朝廷の成立についても、統一ある見解はまだ提示されていない。ハ ツクニシラシシ天皇として『古事記』や『日本書紀』に描かれている崇神天皇、 その崇神天皇に始まる王朝とは、どのようなものであったのか。   崇神朝の謎を解き明かそうとして、戦後いち早く騎馬民族征服王朝説が提 起されたが、はたしてこの立論によって真相はつきとめえたかどうか。前方後 円墳の出現に象徴される古墳文化の歩みと王権の構造とは、どのようなつなが りをもつのか。そこにはいくつもの課題が残されているといってよい。   四世紀終わりころの応神天皇以降は、かなり王権の内容が明確に把握され るようになったかに思われるが、応神朝それ自体についても不明の個所が少な くないし、最近力説されつつある応神天皇をもって新しい王朝の創始者とする 考え方についても、もう一度検討し直してみる必要がある(注4)。        --------------------   騎馬民族征服王朝説や応神新王朝説の是非は、未だに決着がつかないよう ですが、それはさておき、上田氏は応神朝以降の倭と朝鮮半島とのかかわりを 次のように記しました。        --------------------   百済の近肖古王は、東晋と倭に交渉をもつ年より数えて三年後にこの世を 去り(375年)、ついで貴須王が王位についた。   その時期にも高句麗にたえず攻撃をかけていたが、貴須王も治世十年で没 し、ついで枕流(とむる)王が即位した。だがこの王はわずか一年ばかりで死 んでしまった。百済の政情はいっそう不安に包まれた。   そこで辰斯(しんし)王が即位したが、このころになると高句麗も反撃に 転じて南進をはじめ、ついに漢水以北の要地が高句麗に奪われてしまった。し かも百済王家内部に王位をめぐる対立がおこって、辰斯王もたおされてしまう のである。   その結果、阿花(あか)王が即位する。時に391年(辛卯)である。百済 と接近しつつあった倭の勢力は、あるいはこの阿花王の擁立を援助したかもし れない。その当時のありさまは 391年に高句麗王となった好太王の業績をたた えて414年に建てられた高句麗好太王(広開土王)の碑文にかなり詳しく述べ られている。   好太王は 396年には大進撃を行って百済を攻撃したが、「倭寇」はこの百 済の危機にあたって積極的な行動に出た。   新羅王が、「倭人がその国境にみちて、城や池を破壊し、新羅をもって民 となす」と好太王に報告しているように、その勢いにはあなどりがたいものが あった。   400年になると、高句麗は慕容氏の騎馬文化をとりいれた騎兵、それに歩 兵からなる大軍を新羅救援のために派遣して、これを撃退した。しかし404年 には、「倭寇」は勢いをもりかえして帯方の境域まで侵入した。   だが高句麗の騎兵威力ははるかにまさっており、ついに好太王の率いる高 句麗軍によって「倭寇」は完全に敗北した。碑文はこれを表現して「倭寇潰 敗」と記している。「倭寇」の実体としては弁辰(加羅)の有力国であった安 羅の軍を別働隊として編成しているように現地の人々が多かったと思われるが、 弁辰の地域をよりどころとしたその侵攻もこうしてついえ去ったのである。  「倭寇」の敗北は、当時の倭王権にとって深刻な打撃であった。朝鮮におけ る国々の成長に刺激されて、国内統一を進め、朝鮮諸国の争いの間隙を縫って 南部に拠点を確保しようとした倭の勢力は、新たな政治の局面を迎えたのであ る。   王権の動揺を国内的にいかに克服するか。朝鮮半島における激動にいかに して対処するかという課題が、倭王権の目前に迫ってくるのである(注4)。        --------------------   上田氏は、好太王碑に書かれた辛卯年(391年)の倭については何もふれま せんでした。暗に、この年に「倭の出兵」はなかったと解しているようです。 さらに、上田氏は「倭寇」と倭王権との関係についても語りませんでした。倭 王権の実体がほとんど不明なだけに慎重にならざるをえないのでしょうか。 「ナゾの世紀」における倭王権の実体を『日本書紀』の物語と、物言わぬ考古 学遺物だけからさぐるのは至難といわざるをえません。 (注1)田中俊明「百済と倭の関係」『古代日本と百済』大巧社,2002 (注2)佐伯有清編訳『三国史記倭人伝』岩波文庫、1988  2-4世紀『三国史記』に書かれた倭の記事 「新羅本紀」 121年 倭人、東辺を侵す。 122年 大風、東より来る。木を折り瓦を飛ばす。夕に至りて止む。都の人、訛言す。    倭兵、大いに来ると。山谷に争い遁る。 123年 倭国と和を講ず。 158年 竹嶺を開く。倭人、来聘す。 173年 倭の女王・卑弥呼、使を遣わし来聘す。 193年 倭人、大いに飢う。来たりて食を求むる者千余人なり。 208年 倭人、境を犯す。伊伐サン利音を遣わし、兵を将いて之を拒ましむ。 232年 倭人、にわかに至りて金城を囲む。王、みずから出でて戦う。賊、壊走す。    軽騎を遣わして之を追撃せしむ。殺獲するもの一千余級なり。 233年 倭兵、東辺に寇す。 233年 伊サン于老、倭人と沙道に戦う。風に乗じて火をはなち、舟を焚く。    賊、水に赴き死して尽く。 249年 倭人、舒弗邯于老を殺す。 287年 倭人、一礼部を襲い、火をはなちて之を焼き、人一千を虜にして去る。 289年 倭兵の至るを聞きて、舟楫をおさめ、甲兵を繕う。 292年 倭兵、沙道城を攻めおとす。一吉サン大谷に命じて兵を領して救わしめ、    之を完からしむ。 294年 倭兵、来りて長峰城を攻む。克てず。 295年 王、臣下に謂いて曰く。倭人、しばしば我が城邑を犯す。百姓、安居するを得ず。    吾れ百済と謀りて、一時に海に浮かび、入りて其の国を撃たんと欲す。如何にと。    舒弗邯弘権、こたえて曰く。吾人、水戦に習れず。険を冒して遠征せば、恐らくは    不測の危きこと有らん。況んや百済は詐り多く、常に我が国を呑ぜいするの心有り。    また、恐らくはともに謀を同じうするに難からんと。王、曰く。善しと。 300年 倭国と交聘す。 312年 倭国王、使いを遣わし、子の為に婚を求む。阿サン急利の女を以て之に送る。 344年 倭国、使いを遣わし、婚を請えり。辞するに女、既に出嫁せるを以てす。 345年 倭王、移書して交を絶つ。 346年 倭兵、にわかに風島に至り、辺戸を抄掠す。又、進みて金城を囲み、はげしく攻    む。王、兵を出して相い戦わしめんと欲す。伊伐サン康世曰く。賊、遠くより至る。    其の鋒、当る可からず。之を緩らぐるにしかず。其の師の老るるを待てと。    王、之をしかりとし、門を閉して出さず。賊、食尽きて将に退かんとす。    康世に命じ脛騎を率いて追撃せしめ、之を走らす。 364年 倭兵大いに至る。王、之を聞き、恐らくは敵る可かららずとして、草の偶人数千    を造り、衣をきせ、兵を持せしめて、吐含山の下に列べ立て、勇士一千を斧ケンの    東原に伏せしむ。・・・倭人、衆をたのみ直進す。伏せると発してその不意を撃つ。    ・・・倭人大いに敗走す。追撃して之を殺しほとんど尽く。 393年 倭人来たリて金城を囲む。五日になるも解かず。将士、皆、出でて戦うことを請    えり。王、曰く。今、賊は舟を棄てて深入し、死地に在り。鋒、当る可からずと。    すなわち城門を閉ざす。賊、功無くして退く。王、先ず勇騎二百を遣わして、その    帰路を遮らしめ、又、歩兵一千を遣わして、独山に追わしむ。夾撃して大いに之を    敗る。殺獲するもの甚だ衆し。 「百済本紀」 397年 王、倭国と好(よしみ)を結び、太子 腆支(てんし)を以て質と為す。 (注3)王健群『好太王碑の研究』雄渾社、1984 (注4)上田正昭『大和朝廷』講談社学術文庫、1995 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


浅草「三社祭」と檜前一族 2004/ 5/ 16 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#10336   半月城です。   昨年、NHKの朝ドラ「こころ」で浅草の三社(さんじゃ)祭は一躍有名 になりましたが、今日は三社祭りの最終日にあたります。すこし雨模様で心配 しましたが、おミコシをかつぐ江戸っ子の勇壮な姿は健在でした。ウソか本当 か、三日間の見物客が延べ百万人とのことですが、大変な人気です。 <三社祭写真館>   お祭りの主役はおミコシですが、その数は三宮あります。それらはどうや ら渡来人と深くかかわっているようです。てっぺんに鳳凰を飾った一之宮は土 師真仲知(はじの まつち)を祀ったとされますが、この人は浅草神社のHP によれば「文化人」だったとされます(注1)。   二之宮の檜前(ひのくま)浜成は、推古天皇の時代に弟である三之宮の竹 成とともに、隅田川で小さな観音菩薩を拾いあげた漁師とされます。その観音 像は現在の浅草寺(せんそうじ)のご本尊とされ、浅草観光の中心的存在にな りました。   その観音さまのお告げを夢で聞いて、土師真仲知の嫡子が三人を神として 三つの社に権現として祀ったのが三社権現社、今の浅草神社の始まりとされま した。   この縁起物語に登場する檜前ですが、遠く飛鳥(あすか)にある檜前(ひ のくま)の地とつながっているようです。そのあたりは、百済から 5世紀後半 に渡来したとされる東漢(やまとの あや)の本拠地でした。かれら檜前の住 人について『続日本紀』光仁条は、東漢の後裔である坂上苅田麻呂の奏上をこ う記しました。  「檜前忌寸(いみき)の一族をもって、大和国高市(たけち)郡の郡司に任 命しているそもそもの由来は、彼らの先祖の阿知使主(あちのおみ)が、軽嶋 豊明宮に天下を治められた応神天皇の御世に、朝鮮から17県の人民を率いて帰 化し、天皇の詔があって、高市郡檜前村の地を賜り居を定めたことによります。   およそ高市郡内には檜前忌寸の一族と17県の人民が全土いたるところに居 住しており、他姓の者は十のうち一、二割程度しかありません(注2)」   古代の高市郡は飛鳥とだいぶ重なるのですが、そこは百済あたりからの渡 来人が8,9割も占めるほどで、またの名を今来(いまき)郡とも称されるく らいでした。その中心である檜前には、後に天武天皇や持統、文武天皇の陵が 築かれましたが、そこは古くからヤマト朝廷と密接な関係にありました。 <東漢とヤマト朝廷>   継体新王朝(?)以来、樟葉(くずは)や飛鳥などのように、ヤマト王権の 宮は渡来人が栄えた地に築かれることが多いのですが、檜前がヤマト朝廷とか かわったのは宣化大王のころからでした。ここに盧入野(いおいりの)宮が築 かれたことを門脇禎二氏はこう記しました。        --------------------   檜前は、6世紀の中葉に近いころ一躍古代史の中心舞台となった。大王 高 田王子(宣化天皇)の檜前 盧入野宮は、いまの於美阿志(おみあし)神社に 比定されているのが通説である。檜前 舎人造(とねりの みやつこ)のもとに 檜前舎人や舎人部(べ)が指定されたのもこの宮号によるものであろう。   檜前舎人や檜前君を称した人々は、後の史からみて上総(かずさ)国 海 上郡や上野(こうずけ)国 佐位郡、檜前舎人部は遠江、武蔵、上総などの国 に点定されていたらしく、宮廷護衛軍の組織化とともに檜前の名は一躍ひろ まったのである(注3)。        --------------------   檜前一族は、直(あたい)や君、公(きみ)などの姓を与えられて各地に 配されたようですが、地方では豪族あるいはそれに近い存在だったようです。 それを荒竹清光氏はこう記しました。        --------------------   宣化天皇すなわち檜前高田王は、継体天皇の第二王子で、檜前の漢氏に支 えられて、この地に宮を築いて、漢氏や蘇我氏と政治をとっていたものであろ う。そしてその宮号「檜隈(ひのくま)」をもって舎人や舎人部を東国に設置 したのである。  ・・・   舎人や舎人部も直姓や君や公姓の首長が組織し支配していたものであろう。 中でも、直姓をもつ武蔵国 加美郡人と上総国 海上郡人、さらに上野国 佐位 郡の人々は、国造クラスの豪族だったことは間違いないことであろう。   とすれば、東国の檜前一族はかなりの経済力を持った人々だったに違いな い。そうであればこそ、宣化天皇の舎人や名代として指定されたのであろう。   太田亮氏の『姓氏家系大辞典』によると、檜前舎人直は、出雲臣(おみ) の族で、檜前舎人部の伴造(ともの みやつこ)家であり、武蔵国造の族とあ る。しかも土師氏と同族とある。要するに、武蔵国造は出雲臣の系譜を持つと いうのである。   実は、東京 浅草寺縁起に、つぎのような伝承がある。   武蔵国 宮戸川(今の隅田川と思われる)のあたりに、兄弟の漁夫がおり、 名を檜前浜成と竹成といい、一族の土師真中知とともに後に、三所権現として 祀られた。   さらに、浅草寺本尊縁起によると推古天皇の時、土師真中知が、故あって 家臣の檜前浜成、竹成を付き添ってこの地に流浪したということである。   以上のことから、檜前(熊)氏と土師氏は同族であることが判明する。と すれば、荒川や旧利根川をさかのぼって土師氏・檜前氏が侵入してきた可能性 がある。   たとえば、武蔵国 加美郡の檜前舎人直 中加麿の存在がそれを物語る。加 美郡の対岸 利根川に面して上野国 佐位郡があり、ここに三例、そのとなり那 波郡に一例の檜前氏が確認できるので、この北武蔵に一大根拠地を持っていた ことになる。   由加麿は、『続日本紀』承和7年12月条に、男女10人とともに左京三条に 貫付したこと、土師氏と同族であることが記されている。   上野国那波郡の檜前公は、後に上毛野 朝臣(かみつけの あそん)になっ たことが確認され、佐位郡の檜前君 老刀自も、上毛野 佐位朝臣となっており、 上毛野一族となったことがわかる。   要するに、土師・檜前・上毛野と変遷をたどれるが、それは、氏族の力関 係を示しているものであろう。土師氏は古墳時代からの雄族であり、彼らを掌 握していったのが漢氏であろう。とくに河内で両者は合体したようである。武 蔵や上毛野の檜前や土師氏一族は、この河内から移住した人々と考えられる。   上毛野国 緑野郡には土師氏が確認でき、土師明神があるので、先住の土 師一族がこの地に居住していたことは間違いのないところである。土師氏が葬 送儀礼などに関係し、土師器(はじき)などの土器製作技術などをもっていた ことは事実であろうから、檜前氏はそれを利用したのであろう(注4)。        --------------------   檜前一族のうち武蔵国造は「出雲臣の系譜を持つ」とされましたが、出雲 臣になぜ檜隈の名前を冠したのかはっきりしないようです。出雲の「国譲り」 に関連して檜隈と何らかのかかわりがあったのでしょうか?   そういえば、武蔵の一の宮である氷川神社では出雲系(?)で新羅とつなが りのあるスサノオや、大己貴(オオナムチ)などを祀っているのが注目されます。 また、武蔵一円には氷川神社が数多く存在し、出雲との関連をうかがわせます。   その後、大宝律令で厩牧令が出され、全国に牧場がおかれましたが、武蔵 には「檜前の馬牧」がおかれました。その場所は浅草だったとみられます。馬 の文化は渡来文化なので、渡来人と縁が深い場所であることも選ばれた理由の ひとつとみられます。   そうした牧の伝統か、明治時代になり欧米の文化の影響で牛乳の需要が増 えるようになると、浅草はそれに応じて永住町、小島町、森下町、馬道などで もたくさんの乳牛が飼われるようになりました。酪農の町と化したようです。 同時に靴の町にもなりました。歴史とは意外なものです。   さらに極論すれば、浅草の精神的支柱が大和 今来郡の檜前にあるという のも意外です。 (注1)<浅草(あさくさ)神社のホームページ> 祭神:檜前浜成・檜前竹成、土師真仲知   推古天皇の三十六年三月十八日、漁師の檜前浜成・竹成兄弟が隅田川で漁 労に精を出していたが、その日に限り一匹の漁もなく網にかかるのはただ人形 の像だけであった。   いく度か像を水中に投げ捨て、何度場所を替えて網を打ってもかかるのは 不思議と人形の像だけなので、最後には兄弟も不思議に思い、その尊像を奉持 して今の駒形から上陸し、槐(えんじゅ)の切り株に安置して、当時郷土の文 化人であった土師真中知にこの日の出来事を語り一見を請うたところ、これぞ 聖観世音菩薩の尊像にして自らも帰依(きえ)の念深仏体であることを告げ、 諄々との功徳、おはたらきにつき説明するところがあった。   兄弟は初めて聞く観音の現世利益仏であることを知り何となく信心をもよ うされて、深く観音を念じ名号を唱え、「我ら漁師なれば、漁労なくしてはそ の日の生活にも困る者ゆえ、明日はよろしく大漁を得さしめ給え」と厚く祈念 して、翌十九日に再び網を浦々に打てば、願いの如く大漁を得た。   土師真中知は間もなく剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの 観音像を奉安して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたという。いわ ゆるこれが浅草寺の起源である。   土師真中知の没した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を受け三社権現 と称し、上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりであ るとされている。   これによると創建は今を去る千三百五十年程の昔ということになるが、こ れは少々無理なようで、平安末期から鎌倉にかけて権現思想が流行しだした以 後、三氏の末裔が崇祖のあまり浅草発展の功労に寄与した郷土神として祀った ものであろうと推定される。   奇しくも明治維新の神仏分離令により浅草寺との袂を分かち、明治元年に 三社明神社と改められ、同六年に現在の名称に至る。   今もなお、「三社さま」として親しまれている浅草神社であるが、元来三 人の神様をお祀りしたことからそのように呼ばれている。 (注2)『続日本紀』光仁天皇、宝亀三年四月条、講談社学術文庫 (注3)門脇禎二『新版飛鳥』日本放送出版協会,1977 (注4)荒竹清光『古代の日本と渡来文化』明石書店,2004 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


映画「シルミド」の公開 2004. 5. 24 メーリングリスト[zainichi:27895]   半月城です。   韓国で空前のヒットになった待望の映画「シルミド(実尾島)」がいよい よ6月5日(土)から東映系で公開されます。   この映画は、北朝鮮の金日成主席暗殺という前代未聞の極秘任務を帯びた 韓国684部隊の暴動を、実話にもとづいて描いているだけに見逃せない映画 です。 <映画「シルミド」特集>   684部隊創設当時の韓国は北朝鮮と政治的、軍事的に鋭く対立し、両国 はお互いのトップを不倶戴天の敵として暗殺を謀るという、今では信じられな いような時代でした。   そうした金日成暗殺計画の概要が実に30余年ぶりに、作家のイ・スグァン 氏により実録小説としてまとめられました。それまで計画は国家機密のベール で隠されていただけに韓国ではたいへんな衝撃でした。この本はML[zainichi] のメンバーである米津篤八さんにより日本語に翻訳、出版されました。そのさ わりを紹介します。        --------------------   実録小説『シルミド、裏切りの実尾島』は、空軍特殊部隊である684部隊 の北派要員(注1)に関する非情な物語である。彼らは、鋭いイデオロギー対 立で南北朝鮮が極度の緊張状態にあった時代、北派工作員として選抜された。   平壌の金日成主席宮を爆破せよとの至上命令に従い、「逮捕されれば自爆 せよ、落伍者は死ぬ」をモットーに、殺人兵器として教育された。3年4か月に およぶ苛酷な訓練の間に7人が命を落としたが、誰も彼らを顧みることなく捨 て去った。   684部隊員は、名前も、兵士番号もなく、ただ祖国統一のために主席宮を 爆破せよと云う作戦命令を待ちながら、訓練に没頭した。   だが彼らは結局、北朝鮮に投入されなかった。待つことに疲れた彼らは、 実尾島の空軍教育兵18人を殺害し、島を脱出して青瓦台(大統領府)に向かう という、前代未聞の暴動を起こした。   祖国に忠誠を尽くすはずの彼らが、生死をともにし、苦楽を分かち合った 教育兵を無残に殺害し、大統領府と直談判をしようとバスを乗っ取って青瓦台 に向かった。その理由は何だろうか。いったい何が彼らをして、祖国に銃を向 けさせたのだろうか。   事件から30年、この凄惨な話は国家機密のベールに包まれてきた。彼らは ソウルの街中で手榴弾によって自爆し、生き残った4人も軍法会議にかけられ、 死刑が執行された(注2)。        --------------------   シルミドは仁川空港の近くにありますが、映画の影響で一躍観光スポット になりました。ただし、当時をしのぶ物は風景以外に何もないようです。惜し いことに映画のセットも撤去されてしまい、歴史のみが残りました。   エピソードですが、映画では684部隊員が北朝鮮軍に成りきる訓練のた め「赤旗の歌」を歌うそうです。それも二回も歌うということが国家保安法で 問題にされかかっているようです。たかが歌なのに。   歌が問題になるようでは朝鮮半島における冷戦の解消はまだほど遠いよう です。もっとも、朝鮮半島は実は「休戦中」であり、決して戦争は終わったわ けではないので仕方ないのかもしれません。   なお、実録小説に登場する歌のほうは「赤旗の歌」ではなく「金日成将軍 の歌」になっています。映画は国家保安法を意識してか、歌とはいえあからさ まな金日成礼賛を避けるため「赤旗の歌」に替えたのでしょうか? 問題の歌 詞を掲げます。  「金日成将軍の歌」  長白山の峰々を血に染めて  鴨緑江の流れを血に染めて  自由の花咲く朝鮮に  輝く偉大なその歩み  ああ、その名もゆかし我らが将軍  ああ、その名も輝く金日成将軍   おわりに関連番組を紹介します。テレビ朝日で 29日(土)午前10時45分 ~11時40分に番組「映画“シルミド”見どころ紹介」が放送される予定です。 単なる映画の宣伝番組ではなく、現地取材も行い、事件関係者へのインタ ビューもあるそうです。 (注1)原著注、北派要員:北朝鮮に派遣されてゲリラ活動などを行う工作員 解説、<韓国と北朝鮮の工作合戦> (注2)イ・スグァン『シルミド』ハヤカワ文庫、2004 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


三井鉱山「中国人強制連行」訴訟の高裁判決 2004.5.30 [aml 39889]   半月城です。   よく、戦後補償裁判には二つの壁があるといわれます。時効と国家無答責 の壁ですが、今回の三井鉱山「中国人強制連行訴訟」では、1審と2審とで壁の 解釈がまったく逆になりました。   時効あるいは除斥期間ですが、1審の福岡地裁は被害者が受けた辛酸や悔 しさ、憤りの大きさに配慮し、民法の「除斥期間」の規定を適用することは 「正義、衡平の理念に著しく反する」として退け、三井鉱山に総額1億6500万 円(原告1人当たり1100万円)の支払いを命じました。   この1審に関連して、三井鉱山や国がいかに悪質だったかについてはすで に書いたとおりですが、それは想像を絶します。日本は国策として中国人など を強制連行したうえ、内務省などは来日した中国人の扱いについてこんな指導 をしていました。  「中国人は食事はちゃんとやらんでいいと、少しひもじい思いをさせたほう が作業の能率が上がるんだとか、風呂に入れるなんてとんでもないことなんだ とか、宿舎も悪いほうがいいんだとか、彼らが故郷を思って流す涙は芝居であ ると、そんな人種じゃないんだ」   こうした指導などをうけ、三井はタコ部屋顔負けのやり方で中国人を酷使 しました。衣服は「そこに着いてから1つのシャツを1枚とふんどし1本、そ れと小さなズボンを1つもらっただけ」というから、とうてい人間扱いとは思 われません。   さらに食事ともなれば、一日ちっぽけなマントウ5個とのこと。これでは 豚のえさのほうがまだしも栄養があるかもしれません。そのうえ、三井の社員 による暴行やリンチ、拷問は日常茶飯事でした。 <三井鉱山訴訟判決に感動>   こうした事情を考慮して1審判決は除斥期間の規定を適用せず、三井鉱山 に前記のような賠償を命じました。ところが福岡高裁は除斥期間の適用をより 厳格にし、1審の画期的な判決を破棄しました。その際、一応は除斥期間の適 用に例外を認めた98年最高裁判決に照らして下記のような配慮はしました。 (1) 国の加害行為が極めて悪質、被害が甚大で容易に看過できない (2) 国は悪質な証拠隠滅活動をした (3) 原告は72年の日中国交回復までは賠償請求が不可能だった (4) 原告は86年2月まで私事による中国出国が認められず、賠償請求が不可 能だったとの点で当てはまる。   その一方で高裁は、中国人が 86年2月以降は私事でも出国でき、賠償請 求可能だったのに、最も早い提訴日の 2000年5月10日は出国可能日から14 年、事件から55年が経過しているので、権利行使が可能になってから速やか に権利を行使したとはいえず、最高裁判決に当てはまらないとして原告の主張 を退けました。   しかし、原告が出国可能になったからといってすぐに提訴できるものでは ありません。提訴するには、それなりに証拠を集めなければなりません。しか も重要な証拠は被告の三井鉱山や日本政府にしか存在しないのに、両者とも公 表はおろか、日本の外務省にいたっては証拠隠滅をはかるなど、公的機関とし て実に悪質でした。これでは提訴に必要な資料の収集は困難をきわめます。新 潟地裁が「実質的に原告側の提訴を妨害した」と指摘したのもうなずけます(注2)。   その根拠ですが、外務省は第2次世界大戦後すぐに中国人を連行した全企 業に調査員を派遣し、強制連行・強制労働の実態を詳細な報告書にまとめまし た。しかし、外務省はそれをひそかに処分し、証拠を隠滅してしまいました。   しかし、悪事は露見するもの、幻の外務省報告書「中国人強制連行の記 録」が東京華僑総会事務所にあることをNHKがスクープし、93年に放送しま した。この資料の存在で初めて提訴が可能になり、各地で裁判が開始されまし た。   しかし、福岡高裁はこうした困難な事情を十分くみとらず、不法行為に関 しては除斥期間を理由に原告の請求を認めませんでした。これは新潟港運判決 につづいて残念な結果です(注1)。   他方、福岡高裁は国家無答責については積極的な判断を行いました。1審 は、戦前の公務員の不法行為に対して国には責任がないという、いわゆる国家 無答責を認めて国には賠償を命じませんでした。   ところが、高裁は国家無答責には実定法規定が無く、民法715条が不法行 為責任の発生する余地を排斥していない以上、同条を適用するかどうかは判例 に委ねられているとの前提にたちました。   そのうえで、戦前の判例を前提としても、特段の事情があれば国は不法行 為責任を負わなければならないと解釈する余地はあったとして、国家無答責に 関する国の主張を退けました。この点は新潟港運判決を踏襲したものであり、 さらに前進しました。   新潟港運判決では「国家無答責」の法理について、「公権力の行使が人間 性を無視するような方法で行われ、損害が生じたような場合にまで、民事責任 を追及できないとする解釈・運用は、著しく正義・公平に反する(注1)」と 指摘し、国の主張を退けました。   しかし、福岡高裁は国と三井鉱山の不法行為は認定したものの、新潟港運 判決とはちがって、安全配慮義務違反については時効を理由に賠償請求の要求 を却下し、原告の敗訴になりました。   この点、新潟港運判決では「消滅時効を認めることは社会的に許容された 限界を著しく逸脱する」として時効を適用しなかったのに、同じような状況に もかかわらず、福岡高裁は時効の主張を認め、原告に何らの賠償や補償を認め なかったのはまったく残念な結果でした。   それでも、数年前は時効と国家無答責の壁が強固で、戦後補償裁判はこと ごとく門前払い同然だったのですが、近年はその壁がすこしずつくずされて来 ました。関係者のひとかたならぬ苦労が実を結びつつあります。   話かわって、最近は連日のように北朝鮮による日本人拉致問題がマスコミ をにぎわしていますが、平穏な生活を送っている市民が突然に拉致、あるいは 強制連行されるような犯罪は決して許されるべきではありません。   戦時中、日本に強制連行された中国人たちは、<たとえば道を歩いていて 突然日本兵に捕らえられた、市場にいたときに日本軍に包囲されて捕らえられ た、また「よい働き口がある」とだまされて連れて行かれたといったケースが ほとんど>とされます。 <中国人強制連行の生き証人たち>   そうして連行されたあげく、異国の日本で奴隷のような生活を強いられ、 飢餓のふちをさまよい、明日を知れぬ絶望にさいなまれていました。   そうした被害者の痛みを十分に理解できるはずの日本は、日本自身が犯し た過去の強制連行にもっと目を向け、被害者の踏みにじられた人生に少しでも 報いる道がないのかどうか、暖かい心をよせることができるのではないかと期 待しています。 (注1)<中国人強制連行訴訟、高裁で逆転敗訴…企業責任認めず>  読売新聞 2004.5.24  第2次大戦中に中国から強制連行され、福岡県内の炭鉱で働かされたとして、 中国人15人(うち1人は死亡)が、国と三井鉱山(本社・東京)に計3億4 500万円(1人2300万円)の損害賠償などを求めた訴訟の控訴審判決が 24日、福岡高裁で言い渡された。  簑田孝行裁判長は、国と三井鉱山の不法行為と安全配慮義務違反は認めたが、 いずれも時効などで原告の請求権が消滅していると判断。三井鉱山に1億65 00万円の賠償を命じた1審・福岡地裁判決を取り消し、原告の請求を全面的 に棄却した。原告側は上告することを決めた。  中国人強制連行訴訟での高裁判決は初めて。3月の新潟地裁判決では初めて 国の賠償責任を認めたが、今回、原告の請求が全面的に退けられたことで、他 の8地・高裁で係争中の10訴訟に影響を与えそうだ。  原告は張宝恒(ちょう・ほうこう)さん(80)(河北省保定市)らで、戦 時中に連行され、終戦まで福岡県大牟田市、田川市の三井鉱山の炭鉱で働かさ れた。現在70―80歳代。2000年5月以降、3回にわけて提訴した。  簑田裁判長は「原告らは、国策に基づき、強制的に連行された」と述べ、不 法行為の成立を認定。さらに、「十分に食事を与えず賃金も支払わないなど、 劣悪な環境下で労働させ続けた」として安全配慮義務違反もあったと指摘した。  しかし、不法行為については、行為の時点から20年が経過すれば賠償請求 権が消滅する民法上の「除斥期間」の規定を適用。安全配慮義務違反について は、1986年以降、中国国民が自由に出国できるようになった時点から、賠 償請求が可能だったとして、時効(10年)の成立を認定した。 (以下省略) (注2)新潟港運(現・リンコー コーポレーション)裁判 中国人強制連行訴訟で国と企業に賠償命令 新潟地裁 (朝日新聞、2004.3.26)  第2次大戦中に中国から強制連行され、新潟港で強制労働をさせられたとし て、11人の中国人男性やその遺族計12人が国と港湾輸送会社「リンコー コーポレーション」(新潟市)に計2億7500万円の損害賠償などを求めた 訴訟の判決が26日、新潟地裁であった。片野悟好(のりよし)裁判長は企業 の労働管理が不十分だったうえ、国も十分な管理を怠ったとして、企業と国の 双方が労働者に対する安全配慮義務に違反したと認定。労働者1人あたり80 0万円、総額8800万円を支払うよう命じた。  中国人強制連行訴訟は、東京、福岡など全国で12件提訴され、現在11件 が係争中。これまでに、戦後の国の行為について賠償を命じた判決や、戦中の 不法行為を認めて企業に賠償を命じた判決は一審段階で出ているが、強制連行 後の過酷な労働について国の賠償責任を認めた司法判断は初めてだ。国、リ社 とも控訴を検討している。  訴えていたのは、中国・山東省などに住む76歳~83歳の元労働者ら。  判決は強制労働の実態を考慮し、リ社の前身の「新潟港運」と労働者の間に 「労働契約と類似する関係があった」と、安全配慮義務の存在を認定。食事や 衣料、労働管理などの面で同社がこの義務に違反したと指摘した。国と労働者 の関係についても、国が強制連行・労働を政策決定していたことなどから、同 様に契約に類似した関係があり、国にも安全配慮義務があったと判断、「何ら 監督、是正せず、原告らを人として生きていくことすら困難な状態に置いた」 と述べて、国もこの義務に違反したと認めた。  民法上の消滅時効により、こうした義務違反に基づく損害賠償請求権は10 年で消える。だが、判決はリ社が時効を主張することについて「甚だ不誠実 だ」と指摘。72年の共同声明まで日中間の国交が存在しなかったことや、原 告らが賠償請求権を行使することが事実上不可能だったことも考慮し、「消滅 時効を認めることは社会的に許容された限界を著しく逸脱する」と判断した。  国は消滅時効を主張しなかったが、判決は主張していた場合の判断について も言及。「終戦直後に強制連行・労働について詳細な調査をして報告書を作成 し、全貌(ぜんぼう)を把握していたにもかかわらず、官民関係者の戦争責任 追及を免れるために焼却した。しかもその後、一貫して強制連行・労働の事実 はなかったなどと繰り返し答弁した」と厳しく批判し、「甚だ不誠実であるば かりか、実質的に原告側の提訴を妨害した」として、同様に時効は認められな いと断じた。  判決は、強制連行・労働を国と企業の共同不法行為とも認め、戦前の憲法で は国家が公権力の行使について民法上の責任を負わない「国家無答責」の法理 について、「公権力の行使が人間性を無視するような方法で行われ、損害が生 じたような場合にまで、民事責任を追及できないとする解釈・運用は、著しく 正義・公平に反する」などと指摘、この法理を適用すべきだとした国の主張を 退けた。  しかし、20年で損害賠償請求権が消滅するという民法の「除斥(じょせ き)期間」を適用し、不法行為への賠償責任は企業・国ともに消滅したと判断 した。 (以下省略)   <判決要旨> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


明治の国境画定機関の竹島=独島認識と『水路誌』 2004/ 5/30 Yahoo!掲示板「竹島」#4939   半月城です。   ahirutousagi2さんは、相変わらず断片的な知識から的はずれな推論をし ているようです。しかも断片的な知識のソースが私の書き込みからとは、管見 のさらにそのまた管見ではないでしょうか。   ahirutousagi2さん、RE:#4629        -------------------- 半月城氏の4613と3905の海軍の部分を抜き出すと次の通り。 1)『日本水路誌』(1897年)第4巻関係海図  朝鮮側 2)『日本水路誌』(1907年)第4巻関係海図  日本側 3)『日本水路誌』(1911年)第6巻      朝鮮側 4)『日本水路誌』(1920年)第10巻の上巻   朝鮮側 *参照:1933年水路誌も朝鮮側(大西本) さて、こうして見てみると、日本は1907年の水路誌だけでは日本側に入れてい ることに気づく。これはどういうことか。半月城氏の話に従うと、日本が一旦 自国領とし、その後、日帝時代に朝鮮側に渡したのであり、関心もなかった、 ということになる。        --------------------   ahirutousagi2さんは「朝鮮側」とか「日本側」とか「あいまいな用語」 を、さも私からの引用であるかのように書いていますが、私がそのように書い たことはありません。このようなまやかしは慎んで、引用は正確にしてくださ い。   私が「あいまいな用語」と指摘した理由ですが、「日本側」とか「朝鮮 側」と書いたのでは、それらは国をさすのか、それとも単に沿岸をさすのか不 明だからです。特に1910年以降は日本帝国の「韓国併合」により「朝鮮」ある いは「大韓帝国」という国名自体が消滅してしまいました。したがって「日帝 時代に朝鮮側に渡した」などという一節はますます意味不明になります。   そのような論旨不明の書き込みにこたえることに私は意義を見いだせない ので、ここでは竹島=独島が『日本水路誌』などでどのように記述されてきたの かを紹介することにします。これはとりもなおさず、海軍水路部ひいては日本 帝国が竹島=独島を版図としてどのように扱ってきたのかに直結します。   竹島=独島に関係した水路誌は時代により大きく変化しました。それは3 期にわけて考えることができます。それを各期ごとにみることにします。 第1期.日本の「領土編入」以前   水路や島嶼の測量をにない、日本の国境を画定する機関であった海軍水路 部は、同部が発行する『日本水路誌』においては厳密に日本の領土だけを扱い ました。   このことは、台湾や北方領土など新たに日本の領土に組み入れられた地域 のとりあげ方をみれば明快になります。それらが日本の領土とされた後に初め て『日本水路誌』に記述されました。もちろん竹島=独島もその原則にあては まります。   竹島=独島は1905年の「領土編入」まで日本の領土とは認識されていな かったので、当然『日本水路誌』には記述されませんでした。それなら、海軍 は竹島=独島をどこの国の領土と考えていたのでしょうか?   その回答は『朝鮮水路誌』と、世界の水路をあつかった『寰瀛(かんえ い)水路誌』にあります。双方ともに竹島=独島は「リアンコールト列岩」と して朝鮮沿岸に記述されました。内容はほとんど同じです。   これらの資料から海軍は明らかに竹島=独島を朝鮮領と理解していたこと になります。そうでなければ、リアンコールト列岩(竹島=独島)を『朝鮮水 路誌』でわざわざ詳述するはずがありません。しかも『朝鮮水路誌』にいたっ ては、5年後の改訂版でも朝鮮所属であることを再度確認しました。   なお、当時の朝鮮は国名を大韓帝国と変えていましたが、日本では依然と して「朝鮮」という国名が俗称として用いられていました。したがって朝鮮と は厳密にいうと大韓帝国をさします。   第1期の関係水路誌は下記のようになります。 1) 1886年『寰瀛水路誌』第2巻第2版、第4編 朝鮮東岸,「リアンコールト」列岩(注1) 2) 1894年『朝鮮水路誌』全、第4編 朝鮮東岸、リアンコールト列岩(注2) 3) 1897年『日本水路誌』第4巻、(竹島=独島の記述なし) 4) 1899年『朝鮮水路誌』第2版、第4編 朝鮮東岸、リアンコールト列岩 第2期.竹島=独島の「領土編入」期   海軍の認識に変化があらわれたのは、1905年の閣議で竹島=独島を日本領 へ「領土編入」した後でした。海軍はこの時から同島を日本領と認識しました。   ここの掲示板で一部の憶測に、竹島=独島の「領土編入」は官報に告示さ れず、ましてや関係国にも告知されずにこっそり行われたので、海軍すらその 事実を知らなかったのではないかとする見方もありましたが、これは日本帝国 の行政機構を甘く見ています。  「領土編入」という重大事項が閣議で決定されたのに、日本の国境を画定す る部門である海軍水路部がそれを知らないはずはありません。   あまつさえ、海軍水路部は「領土編入」の直前に竹島=独島の所属を当該 部署として質問されているので、もちろん「領土編入」の動きを熟知していま した。そうした経緯を1906年の「竹島視察員」のひとりである奥原碧雲はこう 記しました。        --------------------   中井養三郎氏はリヤンコ島(竹島=独島)を朝鮮の領土と信じ、同國政府 に貸下願の決心を起し、三十七年の漁期終るや、直ちに上京して、隠岐出身な る農商務省水産局員 藤田勘太郎氏に圖り、牧水産局長に面會して陳述する所 ありき。   同氏またこれを賛し、海軍水路部につきて、リヤンコ島の所属を確めしむ。 中井氏即ち肝付水路部長に面會して、同島の所屬は、確乎たる徴證なく、こと に、日韓両本國よりの距離を測定すれば、日本の方十浬近し、加ふるに、日本 人にして、同島經營に從事せるものある以上は、日本領に編入する方 然るべ しとの説を聞き、中井氏は遂に意を決して、リヤンコ島 領土編入並に貸下願 を、内務 外務 農商務三大臣に提出せり(注4)。        --------------------   軍人である肝付兼行 水路部長はリヤンコ島(竹島=独島)を「無主地」の ごとく中井に回答したようですが、実はこの人こそ同島を朝鮮所属と判断し、 それを『日本水路誌』でなく『朝鮮水路誌』に入れて刊行した責任者でした。   肝付はリヤンコ島が朝鮮領であることを知ったうえで、日露戦争を有利に 遂行するため、竹島=独島に望楼を築いてロシア艦を監視するという軍事利用 に協力すべく、同島の「領土編入」を後押しした人物でした。その目的のため にウソも方便でリヤンコ島を「無主地」と強弁したとみられます。   こうして 1905年の「領土編入」以後、海軍は竹島=独島を日本領土として 認識し、それを資料にも反映しました。編入前の『日本水路誌』第四巻では竹 島=独島が記述されなかったのを改め、同巻第一改版には同島を“竹島 [Liancourt rocks]”の名称で挿入しました。さらに日本領になったことを明確 にするため、文末に「明治三十八年島根縣ノ所管ニ編入セラレタリ」との説明を 加えました。   そうなると『朝鮮水路誌』をどのように改訂するかが問題になります。竹 島=独島を日本領としたので、『朝鮮水路誌』の性格からすると「リアンコー ルト列岩」を削除するのが筋道なのでしょうが、公的資料の性格上そう簡単に はいきません。一般論として公的資料に新たな項目を追加するのは比較的問題 が少ないのですが、従来の項目を削除するとなるととかく支障をきたしがちで す。   とくに竹島=独島は、日本では長久保赤水の地図などをはじめとして、ほ とんどの資料にみられるように鬱陵島とペアであるという意識が強かっただけ に、両者を切り離して竹島=独島だけを削除するのは問題が多かったとみられ ます。結局『朝鮮水路誌』第2改版でも同島を残しました。   そのかわり、島の名前を「リアンコールト列岩」から“竹島[Liancourt rocks]”に変更しました。明らかに同島は日本領という海軍の認識を反映した 結果です。これらの資料一覧は下記のとおりです。 5) 1907年『日本水路誌』第4巻、第1改版、第3編 本州北西岸、竹島[Liancourt rocks] 6) 1907年『朝鮮水路誌』第2改版、第5編 日本海及朝鮮東岸、竹島[Liancourt rocks](注3) 第3期.「韓国併合」以後   1910年、日本は韓国を帝国主義的方法で「併合」したので、国家としての 「朝鮮」は消滅して日本の一地方とされました。 <日韓併合条約>   併合にともない、水路部は『朝鮮水路誌』を絶版にし、かわりに朝鮮の水 路を『日本水路誌』第6巻として刊行しました。『日本水路誌』で日本の領土 を扱うという原則にしたがったのでした。同誌で竹島=独島は “竹島[Liancourt rocks]”の名称で記述されました。同島は朝鮮沿岸という 強固な意識に変わりはなかったようでした。   その一方で、竹島=独島を記述した先の『日本水路誌』第四巻は改版の際 にも“竹島[Liancourt rocks]”の項目を残しました。やはり、改版では追加 や訂正をしても、削除はほとんど行わないようです。   その後『日本水路誌』第6巻は、改版の際に分量が増えたためか、上・下 2冊になり、名称も変更して『日本水路誌』第十巻の上、下として刊行されま した。竹島=独島は上巻のほうに“竹島[Liancourt rocks]”の名で記述されま した。   その後、第十巻は絶版になり、かわりに『朝鮮沿岸水路誌』第1巻、第2 巻として出版されました。誌名にわざわざ「沿岸」の語を挿入したのは「朝鮮 国」の水路誌と誤解されない工夫とみられます。   竹島=独島は同誌の第1巻に“竹島(タケシマ)”の名で掲載されました。 ここでも同島は朝鮮沿岸という意識そのままだったようです。これらの資料を 整理すると下記のようになります。 7) 1911年『日本水路誌』第6巻、第2編 朝鮮東岸、竹島[Liancourt rocks] 8) 1916年『日本水路誌』第4巻、第1編 本州北西岸、竹島[Liancourt rocks] 9) 1920年『日本水路誌』第十巻上、第2編 朝鮮東岸、竹島[Liancourt rocks] 10) 1933年『朝鮮沿岸水路誌』第1巻 朝鮮東岸及南岸、竹島(タケシマ) 結論   以上を総合すると、日本海軍の認識をつぎのようにまとめることができま す。まず、竹島=独島を日本へ「領土編入」(1905)する以前は、海軍はリアン コールト列岩(竹島=独島)を朝鮮領と認識していました。   これは、水路部が日本の国境を画定する機関であった以上、この認識はと りもなおさず日本政府の見解そのものになります(注2)。   また、竹島=独島が朝鮮領という認識は単に政府のみならず、竹島=独島に もっともかかわりが深かった漁民、中井養三郎も同様でした。極言すれば、官 民ともに同島を朝鮮領と認識していました。   それを物語るかのように、明治政府が国家事業として制作した地図は1894 年に民間から『大日本管轄分地図』として発刊されましたが、そこに竹島=独 島は記載されませんでした(注5)。これは明治政府の国家最高機関である太政 官が1877年の指令で朝鮮との関連から竹島=独島を放棄した経緯があるだけに当 然といえます(注6)。   つぎに「領土編入」以後、海軍は竹島=独島を日本領の「竹島」として認 識し、水路誌には“竹島[Liancourt rocks]”として記述しました。一時期、 同島を水路誌の日本北西部に記述しましたが、それでも一貫して朝鮮沿岸ない しは朝鮮付属という意識は50年以上も変わることはありませんでした。愼鏞廈 教授の主張のとおりです。   これは、竹島=独島が日本の「固有領土」ではなく、朝鮮領と認識されて きた歴史的背景から当然といえます。 (注1)『寰瀛水路誌』第2巻第2版、第4編 朝鮮東岸  「リアンコールト」列岩 此列岩ハ一千八百四十九年 佛國船「リアンコールト」號 初テ之ヲ發見シ船名 ヲ取テ「リアンコールト」列岩と名付ケリ 其後一千八百五十四年 露國「フリ ゲート」形鑑「パルラス」號 此列岩ヲ「メナヲイ」及ヒ「ヲリヴツァ」列島 ト稱シ 一千八百五十五年 英鑑「ホル子ット」號 此列岩ヲ探検シテ「ホル 子ット」列島ト名付ケリ 該艦ノ艦長「フォルシス」曰ク 該列岩ハ北緯三十七 度十四分 東經一百三十一度五十五分ノ處ニ位セル濯々無産ノ二岩嶼ニシテ鳥 糞常ニ嶼上ニ充積シ嶼色爲メニ白シ 北西微西ヨリ南東微東ニ至ルノ長サ共計 一里 而シテ二嶼相距ル四分里一ナルモ疑ラクハ一礁脈アリテ之ヲ相連ルナラ ン 西嶼ハ海面上高サ四百十尺ニシテ形チ糖塔ノ如シ 東嶼ハ較々低クシテ平頂 ナリ 此列岩付近 水頗ル深キカ如シト雖モ其位置恰もモ函館ニ向テ日本海ヲ航 上スル船舶ノ直水道ニ當レルヲ以テ頗ル危険ナリトス (注2)『朝鮮水路誌』全、第4編 朝鮮東岸、リアンコールト列岩 <明治政府の地図作成機関の竹島=独島認識>参照 (注3)原文の一部は、下記参照   堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987 (注4)奥原碧雲『竹島及鬱陵島』報光社、1907 (注5)清水常太郎『大日本管轄分地圖』1894  (影印版、日本地圖選集刊行委員會『大日本管轄分地圖』、人文社、1990) (注6)<明治時代における松島、竹島放棄> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/mokuji.html#dokto


愼鏞廈教授の獨島百問百答(4)「領土編入」 Q60.(勅令第41号) 大韓帝国政府は日本側の無誠意かつ傲慢な反応にどう対応措置をとったのか? ANS.大韓政府は鬱陵島・竹嶼島・独島をまとめてひとつの「郡」となし、 地方行政上の格上げをし、鬱陵島に「郡守」を常駐させ、島の守護と行政管理 を強化するようにした。   すなわち、内部大臣・李乾夏は1900年10月22日、鬱陵島・竹嶼島・独島を くくって「鬱島郡」を設置し島監の代りに「郡守」をおく地方制度改定案を議 政府に提出した。改定案は1900年10月24日、議政府会議(内閣会議)にて8対0 の満場一致で通過し、皇帝の裁可をえた。   これに大韓帝国の政府は、1900年10月25日付の勅令第41号において全文6条 からなる「鬱陵島を鬱島に改定し、島監を郡守に改定する件」を「官報」に掲 載し公布した。   鬱陵島は、それまでは鬱珍郡守(時には平海郡)の行政下にあったが、大 韓帝国のこの勅令にしたがい江原道の独立した郡に昇格した。そして鬱陵島の 初代郡守には島監であった裵季周が奏任官6等に任命され、ついで事務官に崔 聖麟が任命され派遣された。   ここでわが主題と関連して注目すべきは、第2条の鬱島郡の「区域は鬱陵 全島と竹島 石島を管轄す」という部分である。ここで竹島が鬱陵島すぐ横の 竹嶼島をさすことは李奎遠の「鬱陵島検察日記」で確認される。   そして石島が獨島をさすことは間違いない。当時、鬱陵島住民の大多数は 全羅道出身の漁民であったが、全羅道の方言では「Dol(石)」を「dok」とし、 「Dol Seom(石島)」を「Dok Seom」とよぶ事実はよく知られており、大韓帝国 政府は「石島」を意訳して「石島」としたのである。   鬱陵島で初期移住民の民間呼称である「Dok Seom」「Dok Do(島)」を、意 味をとって漢字で表記すれば「石島」になり、発音を重視して表記すれば「獨 島」になるのである。 コメント:京都の「かも川」を漢字で書くと音で「賀茂川」「加茂川」、訓で 「鴨川」と書くように、「Dok Do (Seom)」を音で「獨島」、訓で「石島」と 書くとする説は十分な根拠があるようです。詳細は下記に記したとおりです。 <于山島から石島、獨島へ> 観音島と島項、ガッセ島 2004/ 3/ 7 Yahoo!掲示板「竹島」#3795   先生(seonsaeng )、初めまして。半月城です。   先生や下條正男氏は、石島をどうしても観音島に仕立てあげたいのでしょ うが、観音島が石島と呼ばれた痕跡はケシ粒ほどもありません。   まず 1882年、鬱陵島検察使・李奎遠は鬱陵島を一周して周囲の二島を確 認しましたが、観音島は「鬱陵島外圖」および『啓本草』において「島項」の 名で記されました。 <鬱陵島外圖> <『啓本草』>  『啓本草』において島項は「ただ竹藪があるのみ」と説明されましたが、当 時も石の島とはほど遠かったようです。さらにこの島を島民は鳥の名から俗称 で「Ggak sae島」と呼んでいたことが知られています。そうなると、鳥あるい は竹の島を「石島」と曲げて解釈するのは、馬を鹿といいくるめるようなもの ではないでしょうか。 <石島と観音島>   一方、竹島=独島のほうは 1904年にはすでに「韓人」すなわち鬱陵島の 韓国人が「獨島」とよんでいた事実が日本の軍艦、新高号の日誌で知られてい ます。したがって"Dok do"すなわち獨島=石島という主張は、下記に書いたよ うに無理がありません。 <于山島から石島、獨島へ>   結局、石島を鬱島郡に改編した勅令第41号は、獨島を韓国領として内外に 宣言したものにほかなりません。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ Q61.(石島の呼称)   なぜ「鬱島郡」を設置するとき、旧統治区域である「獨島」の名称を以前 のように「于山島」とせず「石島」と表示したのか? ANS.   鬱陵島再開発以降、鬱陵島に移住した南海岸漁民たちが従来の「于山島」 を岩島、すなわち「石の島」という意味で「Dok Seom」と呼んでいたためであ る。   南海岸の方言では「石 Dol」を「Dok」としていた。1900年当時、鬱陵島 居住民たちは「于山島」を「Dok Seom」と呼称し、これを漢字に翻訳する場合、 意味をとった「意訳」で「石島」とし、発音をとった「音訳」で「獨島」と表 記した。大韓帝国の1900年の勅令第41号ではまさに意味をとり「石島」と表示 した。 コメント:「石」の方言に関しては下記に記したとおりです。 <于山島から石島、獨島へ> Q62.(新高号の行動日誌)   それなら、このころ于山島を「獨島」と表記した記録も発見されるのか? ANS.発見される。日本海軍が獨島に望楼を設置するための事前準備として 軍艦・新高号を鬱陵島と獨島に派遣したが、まず鬱陵島で住民たちから聞き取 り調査をした。  「軍艦 新高號 行動日誌」1904年9月25日条には"松島(鬱陵島)にてリアン クール岩 實見者より聴取した情報。リアンクール岩を韓国人は「獨島」と書 き、本邦(日本)漁夫たちは「リアンコ島」という"とする一節がある。   日本では「于山島」(獨島)を1882年以前までは「松島」と呼んだが、日 本海軍省が「鬱陵島」を「松島」と言い換えて呼称、表記した1882年以後は 「于山島」の日本における呼称名がなくなり「リアンコールド島」「リアンコ 島」と呼称したのは前に明らかにしたとおりである。   うえの日本軍艦 新高号の報告は、まさに「于山島」「リアンコ島」と日 本漁夫たちがよんだ島を韓国人は「獨島」と書くと記録しているので、「于山 島=獨島=リアンコ島」であることが明白である。   さらに、この行動日誌の記録日時は日本が獨島を侵奪する以前である1904 年のものであることを注目する必要がある。 コメント:「軍艦 新高號 行動日誌」1904年9月25日条の原文  「松島ニ於テ『リアンコルド』岩 實見者ヨリ聽取シタル情報『リヤンコル ド』岩 韓人之ヲ獨島ト書シ 本邦漁夫等 略シテ『リヤンコ』島ト呼称セリ」 Q63.(勅令と万国公法)   そうなら大韓帝国の1900年の勅令第41号公布は「近代」にはいり韓国政府 が「獨島」にたいする統治権を行使して制度化したきわめて重要な事件ではな いのか? ANS.そうだ。大韓帝国が1900年の勅令第41号で鬱陵島の行政区域内に獨島 (石島)を明確に表示したことは当時の万国公法(国際公法)体系下で対外交 渉をした大韓帝国が従来の固有領土である「獨島」にたいして再び近代国際法 の体系で獨島が大韓帝国の領土であることを再確認した画期的な事件であった。 さらに勅令第41号は官報に掲載され全世界に公布された。   この1900年の勅令第41号の公表は日本が獨島を侵奪しようと1905年1月28 日 日本の閣議でいわゆる領土編入を決定する約5年前のことである。   今日、日本政府が1905年 日本の閣議決定が当時の国際法上で瑕疵がない という無理な主張は、まさにこの1900年の勅令第41号とその全世界への公表に より完全に偽りであることを明らかにしている。   韓国の固有領土である獨島(于山島)に対して大韓帝国が近代国際法の体 系を整えた勅令第41号で1900年「獨島」が「鬱島郡守」の行政管理下にある大 韓帝国の領土であることをくりかえし確認したのである。 Q64.(「領土編入」の目的)   獨島が韓国の固有領土であるだけでなく、近代に入っても1900年に大韓帝 国が近代国際公法の体系下で鬱島郡に属した領土であることを再確認する勅令 第41号を「官報」に公表した。しかるに日本はなぜ獨島を侵奪し、いわゆる 「領土編入」をしようとしたのか? 日本が獨島を侵奪し「領土編入」を企図 した背景には特別な目的があったのか? ANS.日帝の「露・日戦争」挑発と関連がある。日本の帝国主義者たちは 「征韓」を実現するための大作業として、韓半島に入ってきたロシア勢力を排 除するため 1904年2月28日、仁川港と麗水に停泊していたロシア軍艦二隻を先 制奇襲攻撃で撃沈し、二日後の2月10日、ロシアに宣戦布告し、露・日戦争を 挑発した。   日帝はこれと同時に大規模な日本軍を韓国政府の同意なしに韓半島に上陸 させ、ソウルに侵入し、大韓帝国の首都であるソウルを軍事占領した。日帝は 1904年2月23日、大韓帝国政府を脅迫し「第1次 韓・日議定書」を強制調印した。   6か条からなるこの協定では、日本軍が露・日戦争期間中に韓国の土地を 一時収容し、軍用地として使用することを強要した。   日本海軍は、1904年2月8日の先制奇襲攻撃ではロシア軍艦四隻を撃沈して 機先を制したが、ロシアのウラジオストック艦隊が南下して1904年6月15日、 対馬海峡で日本軍艦二隻を撃沈するや、ロシア側が東海で機先を制した。   すると日本海軍はあわててあらゆる軍艦に無線電信を設置し、同時にロシ ア艦隊の動態を監視するため韓国東海岸の鬱珍郡竹辺をはじめ20か所に海軍の 望楼監視塔を設置した。そのうち2か所は鬱陵島に、1か所は「獨島」に海軍 の望楼を建てる計画が推進された。   従来、価値がなく岩島とみなされた獨島が露・日戦争のおかげで軍事上き わめて重要な島として浮上したのである。日本海軍は獨島に海軍の望楼を建て ながら獨島周辺に海底電線をひいて韓半島北部-鬱陵島-獨島-日本本土を連 結する電線網架設作業を積極的に進行した。   このとき、日本の漁業家である中井養三郎という者が獨島にアシカ猟独占 権を韓国政府に請願しようと交渉活動を始めるや、この機会に軍事戦略上の価 値が高まった「獨島」を必ずや日本領土に奪取し、ここに海軍の望楼を設置し ようとする工作が日本の海軍省と外務省を中心に展開された。 コメント:<竹島=独島の軍事的価値> Q65.(中井養三郎)   中井養三郎はどんな人であり、どんな目的で「獨島」の漁業独占権を持と うとしたのか? ANS.中井は学校の教育も受け、1890年から外国領海にでかけて潜水器漁業 に従事した企業的漁業家であった。1891-1892年にはロシア領付近で潜水器を 使用したアシカ猟の漁業に従事し、1893年には朝鮮の慶尚道・全羅道沿岸でや はり潜水器を使用したアシカ、魚獲りの漁業に従事した。   1903年、中井は獨島でアシカ猟をしたが、収益がとても大きいことを他の 日本漁夫も知って競争で乱獲になることを防止し、収益を独占するため獨島の 所有者である大韓帝国政府に漁業独占権を利権として獲得すべく東京へ行った。   その理由は、獨島が韓国領であり、韓国政府と直接交渉をする能力がな かったので日本政府の斡旋により韓国政府に獨島の漁業独占権を請願するため であった。 Q66.(中井の韓国領認識)   それなら、中井は獨島が韓国領であることを知っていたということではな いのか? 獨島が韓国の領土であることを中井が認知した文献上の証拠資料は あるのか? ANS.もちろん証拠資料はいろいろある。中井は1910年に書いた「履歴書」 と「事業経営概要」にて「獨島が鬱陵島に付属した韓国の所領であると考え る」と明確に書いている。1906年、中井がおこなった説明を引用して、1907年 に出された奥原福市の『竹島 及 鬱陵島』という本と、1906年に出た『歴史地 理』第8巻第6号に収録された中井の証言にも「獨島を韓国の領土と考え、上京 して農商務省を通じ韓国政府に"貸下請願"を出そうとした」と記録された。   また、1923年に出た『島根県誌』(島根教育會 編)にも「中井養三郎は、 この島(獨島…原引用者)を"朝鮮領土"と考え、上京して農商務省に話し、同 政府(韓国政府…原引用者)に貸下請願をしようとした」と記録された。この ように中井は獨島が韓国の領土であることを明確に認知していた。 コメント: 1.中井の履歴書付属文は下記参照 <竹島=独島の領土編入> 2.中井養三郎をはじめ、農商務省や海軍の水路部さえ竹島=独島は日本の領 土でなかったと考えていたことが奥原の著書『竹島 及 鬱陵島』からもわかり ます。これは次にアップします。 奥原『竹島及鬱陵島』 2004/ 3/21 Yahoo!掲示板「竹島」#3872 投稿者: hangetsujoh   半月城です。   1905年、日本が竹島=独島をこっそり領土編入したのに伴い、翌年、島根 県は「竹島視察」および鬱陵島訪問(後述)を行いました。そうした視察などに もとづいて書かれたのが下記の書でした。この書は、竹島=独島および鬱陵島 の地理や気候、生物、漁業、沿革などについて記しましたが、そのなかで中井 の言動を下記のように伝えました。 奥原福市『竹島 及 鬱陵島』報光社,1907   かくて、海驢捕獲業の有利なるを知り、三十七年の漁期には、各方面より 續々渡航し、競争濫獲の結果、種々の弊害を認めたる中井養三郎氏はリヤンコ 島を以て朝鮮の領土と信じ、同國政府に貸下請願の決心を起し、三十七年の漁 期終るや、直ちに上京して、隠岐出身なる農商務省 水産局員 藤田勘太郎氏に 圖り、牧 水産局長に面會して陳述する所ありき。   同氏またこれを賛し、海軍水路部につきて、リヤンコ島の所屬を確めしむ。 中井氏 即ち肝付 水路局長に面會して、同島の所屬は、確乎たる徴證なく、こ とに、日韓両本國よりの距離を測定すれば、日本の方 十浬近し、加ふるに、 日本人にして、同島経營に從事せるものある以上は、日本領に編入する方 然 るべしとの説を聞き、中井氏は遂に意を決して、リヤンコ島 領土編入並に貸 下願を、内務 外務 農商務三大臣に提出せり。 Q67.(日本の方針転換)   そうなら、中井が獨島を韓国の領土と認知して獨島の漁業独占権を申請し ようとした計画を日本政府はどのように変えたのか? ANS.中井は韓国政府に獨島の漁業独占権を申請するために、まず漁業を管 掌する部署である農商務省の水産局長を訪問して交渉した。   農商務省の水産局長は、海軍省の水路局長と連絡をとった後に獨島が韓国 領でないこともあり得るとして中井を海軍省の水路局長に送った。すると、日 本海軍省の水路局長(海軍提督)肝付は獨島を「無主地」と断定し、獨島の漁 業独占権を得るなら韓国政府に貸下願を申請するのではなく、日本政府に「獨 島(リアンクール島)領土編入及び貸下願」を提出するよう督励した。   1904年9月29日、中井は獨島を日本の領土に編入して自分に貸付けるよう 「リアンコ島(獨島)領土編入及び貸下願」を日本政府の内務省・外務省・農 商務省の三大臣に提出した。   しかし、この時も中井は獨島が韓国の領土であることを知っていたので、 主務部署である内務省と農商務省だけでなく外務省にもその請願書を提出して 韓国と紛争が発生する場合の解決にそなえた。   日本の内務省は中井の請願書を受け、当初はこれに反対した。その理由は、 露・日戦争が展開されているこの時局に、韓国の領土と考えられる不毛の岩礁 を持つのは、日本の動態を注目する諸外国に日本が韓国併呑の野心を持ったの ではないかという疑念を増幅させる可能性があるなど利益が少ない反面、もし 韓国が抗議でもすれば、事が決して容易ではないという理由であった。した がって内務省は中井の「獨島領土編入 及 貸下願」を却下しようとした。   しかし、日本の外務省は内務省とちがって、獨島の「領土編入」を積極的 に支持した。外務省の政務局長は中井に、獨島に望楼を設置して無線電信また は海底電線を設置すれば、敵の軍艦を監視するのにとても好都合であるとの言 葉を聞いていると話し、露・日戦争が起きたこの時局こそ、獨島を日本に領土 編入するのが緊急に要求されると主導した。   外務省の政務局長は中井に内務省が憂慮する外交上の問題は考慮する必要 がないと確言し、すみやかに請願書を外務省に回付するよう積極的に督励した。   このような過程をへて、中井が請願書を提出した後、4か月余のあいだに 日本政府内部でも獨島侵奪問題をおいて異論が展開されたが、結局、日本の内 務省も獨島を侵奪するのに加担した。以上のような過程は、中井自身が書いた 「事業経営概要」によく記録されている。 コメント1.海軍水路部の見解は次回アップします。 コメント2.外務省の政務局長・山座円二郎は「時局ナレバコソ其領土編入ヲ 急要トスルナリ、望楼ヲ建築シ無線若クハ海底電信ヲ設置セバ敵艦監視上極メ テ届竟ナラズヤ、特ニ外交上内務ノ如キ顧慮ヲ要スルコトナシ、須ラク速カニ 願書ヲ本省ニ回附セシムベシ」として、領土編入を進めました。やはり竹島= 独島を日本の領土とは考えていませんでした。詳細は下記を参照してください。 <竹島=独島の領土編入> 日本海軍水路局の見解 2004/ 3/27 Yahoo!掲示板「竹島」#3905   半月城です。   日本海軍水路局の肝付局長が竹島=独島を「無主地」と考えたことは、水 路局の政策に矛盾するものです。かつての水路局は竹島=独島を「無主地」ど ころか朝鮮領と考え、同島を『日本水路誌』ではなく『朝鮮水路誌』に公式に 記載しました。同誌にリアンコールト列岩(竹島=独島)はこう記載されまし た。        -------------------- 海軍水路部『朝鮮水路誌』1894.11.17,P255  第4章、朝鮮東岸 リアンコールト列岩   此列岩ハ洋紀一八四九年 佛國船「リアンコールト」號 初テ之ヲ發見シ 船名ヲ取テ リアンコールト列岩ト名ツク 其後一八五四年 露國「フレガッ ト」形艦「パラス」號ハ此列岩ヲ メナライ及ヲリヴツァ列岩ト稱シ 一八五五 年 英艦「ホル子ット」號ハ此列岩ヲ探検シテ ホル子ット列島と名ツケリ 該 艦長フォルシィス ノ言ニ據レバ此列岩ハ北緯三七度一四分 東經一三一度五五 分ノ處ニ位スル 二坐ノ不毛岩嶼ニシテ 鳥糞常ニ嶼上ニ堆積シ嶼色爲メニ白シ 而シテ北西彳西至南東彳東ノ長サ凡一里 二嶼ノ間 距離一/四里ニシテ 見タ ル所 一礁脈アリテ之ヲ連結ス ○西嶼ハ海面上高サ凡四一〇呎ニシテ形チ糖塔ノ如シ 東嶼ハ較々低クシテ平頂ナリ ○此列岩附近 水頗ル深キカ如シト雖モ 其位置ハ實ニ函館ニ向テ 日本海ヲ航 行スル船舶ノ直水道に當レルヲ以テ頗ル危険ナリトス        --------------------   同じ時期の『日本水路誌』第4巻(1897)に竹島=独島に該当する島の記述 はありませんし、関係海図にも竹島=独島は記載されませんでした。それが一 転して、日本の「竹島編入」(1905)以後に作成された関係海図(1907)には竹島 =独島が記載されました。   つまり 1894年当時、日本海軍は竹島=独島の存在を知っており、それを 日本領ではなく朝鮮領と認識していたことは明らかです。   このような資料を前にしても、どうしても当時の竹島=独島を日本政府が 朝鮮領と認識していた事実を認めたくない人はいるものです。その口実に「水 路誌は、単に船の水路を示したものであり、領土の認識とは無関係である」な どと苦しまぎれをいう人がいるようです。   しかし、これは見苦しい言い訳といわざるを得ません。それというのも、 当時の日本において領土を画定する部署がまさに海軍の水路部だったからです。 つまり、日本海軍の認識は、そのまま日本国家の認識になります。   当時、明治政府が国家事業として行った日本地図作成において、島嶼など 水路の測量は海軍が行いました。したがって、海軍が画定しなかった島は版図 としての地図には記載されず、当然日本領とは認識されませんでした。こうし た明治時代の地図作成機関については下記に記したとおりです。 <明治政府の地図作成機関の竹島=独島認識> Q68.(閣議決定) 日本政府はいつどのような方法で韓国領土である獨島を日本に「領土編入」す るという決定をくだしたのか? このとき「韓国領土 獨島」にどんな口実を つくって処理しようとしたのか? ANS.日本政府は、内務大臣に中井の請願書を受けさせ、1905年1月10日付 で日本の閣議決定にはかるようにした。この要請をうけ 1905年1月28日、日本 の閣議で獨島を日本領土に編入すると決定した。この時の閣議決定原文は重要 なので全文を引用すればつぎのとおりである。 明治38年1月28日 閣議決定   別紙内務大臣請議 無人島所属ニ関スル件ヲ審査スルニ 右ハ北緯三十七度 九分三十秒 東経百三十一度五十五分 隠岐島ヲ隔ル西北八十五浬ニ在ル無人島 ハ 他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク 一昨三十六年 本邦人 中井 養三郎ナル者ニ於テ 漁舎ヲ構ヘ人夫ヲ移シ猟具ヲ備ヘテ海驢(あしか)猟ニ 着手シ 今回領土編入並に貸下を請願セシ所 此際所属及島名ヲ確定スルノ必要 アルヲ以テ該島ヲ竹島ト名ケ 自今島根県所属隠岐島司ノ所管ト為サントスト 謂フニ在リ 依テ審査スルニ 明治三十六年以来中井養三郎ナル者 該島ニ移住 シ漁業ニ従事セルコトハ 関係書類ニ依リ明ナル所ナレバ 国際法上占領ノ事実 アルモノト認メ 之ヲ本邦所属トシ島根県所属隠岐島司ノ所管ト為シ 差支無之 儀ト思考ス 依テ請議ノ通 閣議決定相成可然ト認ム   この閣議決定で「獨島」を日本領に編入した根拠となったのは「獨島(リ ヤンコ島)」は「他国において占領したりと認むべき形跡がない」として獨島 が主のない「無主地」と主張したのだった。すなわち「韓国領である獨島」に て「韓国領土」を「無主地」に仕立てて片づけようとしたのだった。   獨島を「無主地」と主張したのは中井の請願書にはないことで、日本の内 務省と閣議が創りだして入れたのだった。   日本政府は「無主地」である「獨島(リヤンコ島)」は、中井という日本 人が1903年以来この島に入り漁業に従事したことがあったために、国際法上で 日本人が「無主地」を先占した事実があったと認定し、これを日本領土に「編 入」するという「無主地先占」による領土編入という当時の国際公法の規定に 合わせようとしたのだった。   したがって獨島が1905年1月以前に「無主地」でなく「韓国領」であるこ とが証明されれば、この「無主地先占論」に依拠した日本の閣議決定は完全に 無効になるのである。   しかるに獨島は西暦512年(新羅智證王13年)于山国が新羅に統一されて 以来、継続して韓国領として存続してきたのであり、歴史的事実は「韓国領と いう主人がある」島なのである。   また、その間、韓国の資料だけでなく、決定的には日本の公文書の中にも 獨島は「韓国という主人がある」島である事実が多数出てくる。   結局、獨島を「無主地」と主張し「無主地 先占論」に依拠して獨島を日 本に「領土編入」するという1905年1月28日の日本の閣議決定は不法であり、 完全無効であり成立しないのである。すなわち獨島が「無主地」なので日本に 領土編入するという1905年1月28日の日本の閣議決定は、国際法上まったく成 立しないのである。   これに加えて指摘すべきは、最近日本政府が1905年1月以前に獨島が「無 主地」でなく「韓国領」という事実が多くの証拠書類により実証されるや、今 度は獨島が歴史的に古代以来日本領と主張しているが、これは矛盾した虚構に すぎない。   獨島が歴史的に日本の固有領土であった証拠はたったの1件も発見されな いだけでなく、万一、日本政府の主張のように獨島が古代以来日本の固有領土 であるなら、日本政府は1905年1月になって、それ以前は獨島が「無主地」で あって「他国の人がこれを占有した形跡がない」ために、改めて日本に「領土 編入」したと閣議決定をする必要がないのである。 コメント:無主地先占論が狼どもの国際法においてどのような意味をもつのか   は下記参照 <井上清著『「尖閣」列島-釣魚諸島の史的解明』> Q69.(島根県告示) 日本政府は獨島を日本に「領土編入」することを決定し、これを韓国政府に事 前または事後に照会、通報したのか? 日本政府はこの事実をどのような方法 で世間に知らせたのか? ANS.その島がたとえ「無主地」だと仮定しても、国際法上その「無主地」 を領土編入する時はそこに面した国々に事前照会することが要請され、また国 家慣例でもあった。   たとえば、日本政府は 1876年 太平洋側の小笠原島を「領土編入」した時 は、この島と間接的に関係があると考えた英国、米国などと何度も折衝し、欧 米12か国に対し「小笠原島」に対する日本の管理統治を通告した。   獨島は鬱陵島の付属島嶼であり、韓国の于山島(獨島、石島)であり、そ の上「領土編入」を形式的に請願した中井と内務省も初めからこれを韓国領と 認知していたので、当然、日本政府は韓国政府にこれを事前照会すべきであり、 また事後通告をすべきなのに、このような手続きをふまなかった。   日本政府は「獨島」を日本に「領土編入」するという閣議決定をした後、 1905年2月15日、内務大臣が訓令で島根県知事にこの事実を告示せよと指示し、 島根県知事は1905年2月22日付の「竹島編入に関する島根県告示第40号」で 「北緯37度9分30秒、東経131度55分、隠岐島の西北85カイリの距離にある島を 竹島と命名し、同島を隠岐島司の所管とする」との告示文を島根県「県報」に 小さく掲載し、この告示内容を地方新聞である「山陰新聞(1905年2月24日 付)」が小さく報道した。   日本政府のこのような告示方法は事実上、日本が「獨島」を日本に「領土 編入」した決定を大韓政府に秘密事項としたのであり、世界にも知らせなかっ た措置であった。   なぜなら、当時、日本の首都である東京には駐日本韓国公使館もあり、韓 国人たちもいたが、島根県には島根県庁で発行する「県報」や、その地の地方 新聞「山陰新聞」を即刻綿密に読み、日本が獨島を「領土編入」することを決 定した事実を察知し、ソウルの韓国政府に報告するような韓国人が居住してい なかったからである。 Q70.(領土編入の秘匿方針) なぜ日本政府は「獨島」を日本に「領土編入」した事実を韓国政府と世界各国 に「事実上の秘密事項」にすべく、そのように手のこんだ告示方法を選んだの か? ANS.「獨島」が「無主地」でなく「韓国領」であることを彼らはよく知っ ていたためである。獨島の日本への「領土編入」を形式的に申請した中井も獨 島が「韓国領」であることを認知しており、海軍省も「獨島」を韓国領と認知 していながら「無主地」と主張し、外務省も「獨島」を韓国領に認知していな がら、獨島に日本海軍の望楼を設置し、露・日戦争の勝利に寄与するため「獨 島」を日本へ「領土編入」すべきだと力説した。   しかし内務省は、「獨島」は「韓国領」なのに、この不毛な島を露・日戦 争の最中に日本へ「領土編入」したら、韓国政府がこれを知り抗議してくるな り、あるいは世界各国がこれを知れば、日本は韓国領を侵奪する野欲で露・日 戦争をおこしたと考えようになり、利益より損失が大きいと反対した事実に注 意する必要がある。   日本が韓国領である「獨島」を「無主地」として日本に「領土編入」し、 「竹島」と呼ぶよう決定した事実を大韓帝国政府や韓国民が知れば、これは韓 国付属領土を侵奪したのであるから、いくらソウルと韓半島が日本軍の軍事占 領下にあったとしても、抗議文を出すなり、抗議の外交活動をする可能性があ る。   すると、まだ韓国の首都ソウルに各国公使館が駐在し活動しているので、 韓国と紛争がおきれば、西洋各国が日本の韓国領侵奪を批判するようになり、 露・日戦争後における日本の韓国侵奪に対する疑心を強めることを日本は憂慮 して「獨島」の「領土編入」決定を隠そうとしたのだ。 Q71.(「竹島」の呼称)  「獨島」を日本で「竹島」と呼称したのは 1905年1,2月ころからか? ANS.そうだ。獨島を壬申倭乱後は「松島」と呼んだが、海軍省が1882年頃 から鬱陵島に「松島」という名をつけて獨島を「リヤンコ島」と呼んだ。   こうして日本人は「リヤンコ島」と略称して呼んだが、1905年2月から 「竹島」という呼称をもつようになったのである。元来、日本人は1880年以前 までは「鬱陵島」を「竹島」と呼んだが、1905年2月以降は「獨島」を「竹島」 と呼称するように日本政府が訓令した。 Q72.(望楼の設置、撤去)   その後、日本政府は露・日戦争の最中、獨島に日本海軍の「望楼」を実際 に設置したのか? ANS.設置した。日本海軍省は「獨島」望楼設置作業を1905年7月25日起工 し、同年8月19日竣工、その日から業務を開始した。   獨島の望楼に配置された人員は要員 4名と雇用人 2名の定員 6名であった。 獨島と鬱陵島を連結する海底電線であるが、日本海軍は獨島望楼と鬱陵島望楼 間を1905年10月8日敷設し、獨島と日本の出雲地域の松江間を1905年11月9日設 置完了した。その結果、日本海軍は韓国東海岸の竹辺ー鬱陵島ー獨島ー日本出 雲 松江を連結する海底通信網と海上監視望楼を設置した。   1905年9月5日、日本海軍はポーツマス講和条約に調印した。10月15日、 露・日戦争が日本の勝利で終戦になり、海軍の監視望楼は必要なくなったので 10月24日、獨島の望楼を撤去した。 Q73.(領土編入の周知度)   日帝が海軍省主導で韓国の領土である獨島を日本にいわゆる「領土編入」 する閣議決定をし、侵奪を企図し、獨島に日本海軍の「望楼」を撤去するなど の作業をした事実を当時の大韓帝国政府はまったく知らなかったのか? ANS.まったく知らないでいた。日本政府は大韓政府にそのような事実を照 会または通告をしなかったし、日本の「官報」や中央の新聞にも報道しなかっ た。   日本はやっと島根県の官吏用の「県報」と地方新聞に告示する形式だけふ んだのみで、実質的には「実効的な秘密措置」を取ったのであり、当時の大韓 帝国政府と韓国民はこれを知ることができなかった。   それのみではない。当時、露・日戦争を挑発した日本軍は韓半島に不法上 陸し、韓半島を事実上軍事占領しており、すべてのことを軍事上の秘密として 処理したので、「獨島」に日本海軍の望楼が設置、撤去され、「獨島」周辺に 日本の海底電線が引かれた事実を当時の大韓帝国政府と韓国民はまったく知る ことができなかった。   この点は日本国民も同様であった。大部分の日本の知識人や国民は1905年 末まで日本が韓国領である「獨島」を侵奪し、日本にいわゆる「領土編入」し た閣議決定を知らなかった。   そのため、1905年に出された地図や出版物には「獨島」を韓国領に分類、 記録したものが何点もあらわれた。たとえば、日本の東京で最も大きな出版社 のひとつである博文館は1905年6月20日「日露戦争實記」という膨大な露・日 戦争の勝戦記録も文章を出版したが、その76編の付録に1905年6月現在の「韓 国全図(34.5 X 48 cm)」を付録に載せ、そこで「獨島」を韓国領に分類、収録 した。 Q74.(「領土編入」を知った時期)   それなら、大韓帝国政府は、日本が獨島を侵奪すべく、日本へのいわゆる 「領土編入」の事実をいつ知ったのか? ANS.韓国側が日本政府の「獨島」侵奪と、日本にいわゆる「領土編入」し た事実を初めて知ったのは 1906年3月28日であった。知った過程は、日本政府 が大韓帝国政府に照会してくるなり、通報してきたのではなく、日本の島根県 隠岐島司一行が「獨島(竹島)」を視察し、帰り道に鬱陵島に寄り、鬱島郡守 の沈興澤を訪問し、自分たちが「獨島」を日本へ新たに「領土編入」したので あり、その管理者が隠岐島司であるので、新領土を視察しに来たが、帰り道に 鬱島郡守を訪問したと間接的に知らせに来たのだ。   ここで注目すべき事実は、間接的に知らせたその方式と時期である。日本 政府は韓国領の「獨島」を侵奪し、日本へ「領土編入」してしまった重大な事 実を1905年2月当時に照会または通報しなかったのみか、1906年末でもまだ厳 然とその名前が残っている大韓帝国政府に通報せずに、島根県隠岐島の末端地 方官吏の間接的な話をつうじて鬱島郡守が知るようにしたことである。   日本政府のこのような方式は、大韓帝国政府の領土侵奪という重大な事実 を大したことのない些細な事件として処理し、また現地の地方官が抗議する場 合にも、これを日帝統監府が些細なこととして処理するよう仕向けたのであり、 (統監府時代以前の)大韓帝国中央政府に知られるのを極力回避したためと解 釈される。 コメント:島根県事務官の神西事務官や隠岐の東島司ら一行の数十人が鬱島に 寄ったのは「帰り道」のついでではありません。鬱島は竹島=独島から90kmも 離れているにもかかわらずわざわざ鬱島に寄ったのは、次の Q75に書くように 明確な目的があったものとみられます。 Q75.(「領土編入」措置のリーク)   日本側は、なぜ「獨島」を日本へ「領土編入」した事実をわざわざ1906年 3月末を選んで大韓帝国地方官が知るようにリークしたのか? その日時に特 別な意味があるのか? ANS.特別な意味がある。日本は意図的に1906年3月末を選んだのである。 日帝は1905年9月5日のポーツマス条約締結において、露・日戦争を10月15日 日本の勝利で終結するや、まさに武力で朝鮮の宮殿を取りまいて威圧し、1905 年11月17日、かれらが草案した「乙巳5条約」を締結するよう強要した。   この条約の内容の要点は (1)韓国の外交権を剥奪し、日本が韓国の外交権を行使し、 (2)日帝統監府が韓国の政治一般を監督するというものであった。   日帝統監府が韓国の政治一般を監督するのは、韓国の内政を指揮監督する ことを意味する。   大韓帝国の条約締結権者である皇帝 高宗が「乙巳条約」の承認と署名捺 印を最後まで拒絶したので、国際法上この条約は成立しないのだが、日帝は武 力でこれを強制執行した。   日帝は1905年12月20日「韓国統監府および理事庁官制」を公布した。つづ いて大韓帝国外部(外務部)が1906年1月17日完全に廃止された。   1906年2月1日、ソウルに日帝の統監府が設置され、伊藤博文が初代統監に 任命され、事務が開始された。今や大韓帝国は1906年1月17日 外務機関すら閉 鎖され、国際的な抗議を担当する機関がなくなったまま、1906年2月1日から内 政も日帝統監府が支配するようになったのである。   日本側は以上のような措置をした後、この時間表に合わせて1906年3月28 日島根県隠岐島司という地方官を通じ、獨島を日本へ「領土編入」した事実を 鬱島郡守の沈興澤にリークするようにした。   万一、鬱島郡守の沈興澤がこれを中央政府に報告しても、当時の大韓帝国 中央政府は日本統監府の支配下にあり、外部(外務部)が完全に廃止され、大 韓帝国は日本政府に外交上の抗議をできないので、大韓帝国の外交権をもった 日帝統監府が日本政府に抗議する建前であった。   このように日本は大韓帝国が抗議書すら提出できないよう完全に準備を整 えた後に、1906年3月末を選んで日本が獨島を侵奪した事実の情報をリークし たのであった。 コメント:乙巳条約は韓国保護条約ともよばれますが、この条約締結の過程や 国際法上の問題点などは下記に記したとおりです。 <韓国保護条約シリーズ> Q76.(沈興澤の報告)   鬱島郡守の沈興澤は、1906年3月28日に鬱島郡庁を訪問した日本の島根県 隠岐島司一行から「獨島」を日本へ「領土編入」したという情報を聞いた時、 どう対応したのか? ANS.鬱島郡守の沈興澤はその話を聞くや非常に驚き、かれらが去った翌日 の1906年3月29日(陰暦3月5日)直属の上官である江原道観察使に緊急報告を おこなった。   沈興澤の報告に注目すべきは「本郡所属の獨島が本部外洋百余里にある が・・・」として、獨島が自分の統治郡(本郡)である「鬱島郡」の所属であ ることを明確に明らかにして抗議している事実である。   沈興澤は、つぎに日本人の官吏一行が自分の官舎を訪れ「自ら云うには、 獨島が今や日本の領地になったので視察のついでに来島した」として「自云」 という表現を使い、かれらが「獨島が今や日本領になった」と云々したのは、 日本側の一方的な「強弁」であるという意味を込めて、かれが承服していない ことを明確に表現した。 Q77.(江原道観察使)   江原道観察使は鬱島郡守である沈興澤の報告を聞いてどのような反応をみ せたか? ANS.当時、江原道観察使は空席であり、春川郡守の李明来が江原道観察使 を兼職していたが、かれは自分の直属上官である内部大臣と議政府の参政大臣 に沈興澤の報告を論評なしに忠実に筆写した報告書を作成して提出した。   当時は江原道観察使が空席であり、観察使署理を兼務した春川郡守に報告 書が到達するのに時間がかかったのか、李明来が内部大臣と議政府の参政大臣 に報告書を提出した日付は、1か月が過ぎた1906年4月29日であった。 Q78.(内部大臣の抗論)   大韓帝国 中央政府の内部大臣は江原道観察使の報告を聞いてどのように 反応したのか? ANS.当時、大韓帝国の内部大臣は江原道観察使署理から日本が獨島を日本 へ「領土編入」したという報告を受け、「遊覧途中に土地面積と人口を記録し ていったのは怪しむべきではないとして許せるかもしれないが、獨島が日本の 属地と称して云々するのはまったく理に合わないことであり、いま受けた報告 はまったくあきれるばかりである(遊覽道次に地界戸口之録去は容或無怪であ るが、獨島之稱云日本屬地は必無其理なので、今此所報が甚渉訝然である)」 という指令文を書いて送り、獨島を日本属地と称して云々したのはまったく理 にかなわない話であるとして断固否定し、抗議の意志を明確に表示した。   大韓帝国 内部大臣の指令文にあらわれた反応は、獨島を日本へ「領土編 入」したという日本の主張を「まったく理にかなわないこと」として断固とし て拒否し、日本の無理な横車に驚愕し、抗論を指令文で指示したのである。   当時の大韓帝国 内部大臣である李址鎔は親日派であったにもかかわらず、 日本の獨島侵奪にたいして断固とした抗論を指令した。   親日派の内部大臣すら日本が韓国領である「獨島」を日本へ「領土編入」 した決定に断固として「まったく理にかなわないこと」として抗論をしたこと に注目する必要がある。 Q79.(参政大臣の指令)   大韓帝国 中央政府の参政大臣は江原道観察使の報告を受け、どう反応し たのか? ANS.大韓帝国 参政大臣も日本が韓国領である獨島をいま日本領地に編入 したという報告を受け、「提出された報告をよく読んだが、獨島が日本領地 云々という説は全面的に根拠がない主張に属するので、獨島の状況と日本人が どのような行動をとっているのか更に調査して報告せよ(來報は閲悉であり、 獨島領地之説は全屬無根なので該島形便と日人如何行動を更爲査報せよ)」と 指令した。   当時の大韓帝国 参政大臣は「乙巳5賊」のひとりである朴斎純であった が、朴斎純も「獨島を日本領に編入した日本政府の主張と措置には強力に反対 し、全面的に根拠のないことに属すること」として抗論をなし、獨島の状況と 日本人のその後の動静をふたたび調査、報告せよと命令したのである。 コメント1: <竹島=独島編入にたいする反発> コメント2:乙巳5賊 1905年、伊藤博文の脅迫に屈し、韓国保護条約に賛成した5人の売国奴を指す。 Q80.(大韓毎日申報と皇城新聞))   当時の世論はどうであったのか? 当時の新聞は日本の獨島侵奪、「領土 編入」をどのように報道したのか? ANS.当時、韓国に駐屯していた日本軍の憲兵隊司令部と統監府は韓国の新 聞にたいする事前・事後検閲を実施していたので、これを自由に報道したり論 評できなかった。   しかしながら、当時の代表的な新聞である「大韓毎日申報」と「皇城新 聞」は婉曲的な方法で日本の獨島侵奪に抗議し、これを批判して報道した。   たとえば「大韓毎日申報」1906年5月1日付の雑報欄に「無変不有」(変が ないのではなく有るという意味)というタイトルで鬱島郡守の沈興澤が内部に 報告した報告書を引用して報道しながら、日本の獨島侵奪を鋭く批判した。   ここで注目すべきは、まず「変」があるとしたタイトルである。国民(読 者)に「変」があったことを知らせたのだ。つぎは「日本の官員一行が本郡 (鬱島郡)に来て、本郡に所属している獨島は日本の属地であると自称」した というフレーズである。   鬱島郡守・沈興澤の報告を引用しながら「鬱島郡所属の韓国属地である獨 島を日本の官員一行が日本の属地と自称」したというものだった。そのフレー ズで「大韓毎日申報」は、獨島が韓国領で鬱島郡に属した島なのに日本の官吏 が日本の領土であるとみずから称したと批判、報道して抗議したのである。  「大韓毎日申報」はつづいて「獨島を日本の属地と称したのは全く理にかな わないものであり、このたびの報告は本当に唖然とするのみである」とした内 部(内務部)の指令文を引用報道する方法で、獨島を日本の領土へ「領土編 入」と称して云々したのは全く理にかなわないもので唖然とするものだとして 日本政府を辛辣に批判した。   一方「皇城新聞」は 1906年5月9日付の雑報欄でタイトルの活字の大きさ を通常より4倍も大きくして報道することにより、日帝の獨島侵奪の意図を断 固と否定、批判した。   ここで注目すべきは、まず「鬱島郡守が内部に報告」というタイトルの活 字の大きさで、これは慣例的な大きさの4倍に達する特号活字である。読者が 異例な特号活字の大きさに注目してまっ先に読むよう重要性を強調した。   つぎに鬱島郡守・沈興澤の報告を引用して「本郡所属の獨島が本部外洋百 余里にあるが、本月4日に日本の官員一行が官舎に来て、みずから云うには獨 島が今や日本の領地になったので視察のついでに来島した」という行動を批判 した事実である。   ここで「皇城新聞」は、鬱島郡守・沈興澤の報告にある「本郡(鬱島郡) 所属の獨島」の文字が注目されるようにして、獨島が鬱島郡に属し、鬱島郡 守・沈興澤の行政下にある「大韓帝国領」であるのを強調した。   つづいて「皇城新聞」は、日本官吏一行が鬱島郡守の官舎を訪ねて「みず から云うには(自云)獨島が今や日本領になったので視察のついでに来島し た」とした出来事を報道し、今や日本がまさに獨島を侵奪して日本領にしてい ると暴露し、みずから云うには(自云)」という報告書の説明を引用し、日帝 が獨島を侵奪する意図の不当性を指摘、批判した。   結局、当時の日本軍憲兵隊司令部と統監府の峻厳な検閲制度下でも「大韓 毎日申報」と「皇城新聞」は日帝の獨島侵奪の意図を間接的な方法で批判し、 抗議したのである。 Q81.黄[王玄]の批判   当時の大韓帝国国民と知識人たちは、この報道を読んでどう反応したのか? ANS.1906年当時は日帝の「乙巳5条約」強制執行と国権侵奪に対抗して、 国民が国権回復をめざした愛国啓蒙運動と抗日義兵武装闘争を展開していた時 期であり、もちろん国民は日帝の獨島侵奪事件を国権侵奪の企図に対する抵抗 運動にいれて展開したのはいうまでもない。領土侵奪は国権侵奪の一部である からである。   知識人の記録にあらわれる代表的な事例として梅泉・黄[王玄]の『梧下記 聞』と『梅泉野録』をあげることができる。黄[王玄]は『梧下記聞』にて 「鬱陵島の外100里(40km)にひとつの属島があり獨島とよばれるが、倭人が今 や日本領になったとし、審査して行った」と記録した。   この記録で注目すべきは「鬱陵島の外100里にひとつの属島があり獨島と よばれるが」として「獨島」が鬱陵島の「属島」であることを明確にして韓国 領であることを明らかにし、つづいて「倭人が今や日本領になったとし、調査 して行った」と記録し、今まさに日本側が獨島を日本領にしようとしているこ とを暴露して批判したのである。   また、黄[王玄]は『梅泉野録』にて「鬱陵島の東の沖に距離が100里の ところに一つの島があり、鬱陵島に旧属しているが、倭人がかれらの領地であ ると勒称し、審査していった」と記録した。   ここで注目すべきは「獨島」がその時まで鬱陵島に旧属(昔から所属)し ている島であるとして、大韓帝国の領土であることを明確に明らかにした点と、 つぎに「倭人がかれらの領地であると勒称」したとして、獨島を日本人が勒称 したことを批判した点である。  「勒称」とは、「強制で称する」「強弁で称する」「偽りで称する」「不当 に称する」などの意味がみな含まれる用語である。   つまり、獨島は昔から当時まで鬱陵島に付属してきた韓国の領土であるこ とが明確であり、獨島をいま日本領と称するのは不当な主張、強弁であること を黄[王玄]は明確にして記録したのである。 Q82.(侵奪の手始め)   それなら、1906年以後と日帝強占下で獨島はどうであったのか? ANS.大韓帝国政府と当時の韓国民は、すでに大韓帝国の外部(外務部)が 1906年1月17日に廃止されてしまい、日帝の統監府が韓国の外交と内政を指揮 監督していために、単に日帝の獨島侵奪に対して抗議と抗論をしたのみで、抗 議の外交文書を日本政府や国際社会に提出するルートあるいは機構がなかった。   それのみならず、日本の帝国主義者たちは韓半島全体を植民地として強占 しようとしており、獨島侵奪はその作業の手始めであった。獨島は、韓国の領 土であるが、東側で日本にもっとも近かったために一番最初に侵奪されたので ある。したがって、韓国人たちは韓半島全体が侵奪される危険に対処するのに 余念が無く、獨島を顧みられなかった。 Q83.(日帝強占期) 日帝強占期に獨島は完全に島根県の付属島嶼に分類されたのか? ANS.かならずしもそうではない。日帝強占期に日本は獨島を「竹島」と命 名し、形式上は島根県の付属として取り扱ったこともあった。しかし、歴史的 な事実はそうでなく、朝鮮の鬱陵島に付属した島であることを知っている日本 人たちは獨島を実質的に朝鮮に付属した島として扱ったり、または形式上も実 際上もみな朝鮮付属に扱った場合がもっと多かった。   日帝強占期にも獨島を朝鮮に付属した島として形式上も実質上も取り扱っ た文献の代表的な例では (1)『日本水路誌』(日本海軍省水路部、1911年)第6巻 (2)『日本水路誌』(日本海軍省水路部、1920年)第10巻の上巻 (3)『歴史地理』(第55巻第6号)に掲載された桶細雪湖)の論文「日本海    にある竹島の日鮮関係に対して」(1930年) (4)芝葛盛『新編日本歴史地圖』(1930年) (5)釋尾春ジョウ『朝鮮と満州案内』(1935年) (6)『地圖区域一覧圖』(日本陸軍参謀本部、1936) などをあげることができる。   このような資料は日本帝国が滅亡するなどとは夢にも考えず、韓国が永久 に日本の植民地と考えたのか、獨島を「竹島」と呼称してはいるが、形式と内 容説明においてすべて朝鮮付属として記録した。   特に、日本帝国主義が隆盛であった 1936年に刊行された日本陸軍参謀本 部陸地測量部の『地圖区域一覧圖』(1)は注目を要する。この地圖の目的は いわゆる「大日本帝国」を日本本州、朝鮮、台湾、関東州、樺太(サハリン)、 千島列島、南西諸島、小笠原群島などに元来の地域別に集団分類したものであ る。   この『地圖区域一覧圖』では「獨島」を「朝鮮」と「日本本州」のどちら に分類するかがとても重要だが、日本陸軍参謀本部は、地図上で「獨島」を日 本本州に入れる空間が十分あるのにもかかわらず、鬱陵島と「獨島(竹島)」 をひとくくりにして朝鮮区域に分類して描き、獨島の右側に「朝鮮区域」と 「日本本州区域」を区分する太い線を引いた。   この『地圖区域一覧圖』は日本帝国主義者たちが日本帝国が永続するもの と考えた1936年に日本陸軍省が公式発行した地図であるために、日帝が軍事的 に強制併合した地域の元来の住人を判別するのに決定的な重要性をおびた資料 である。   この資料で「獨島」が「朝鮮区域」に分類されれば、日本の帝国主義者た ちも「獨島」の元来の主人が朝鮮であることをみずから認めるものに他ならな いからである。



半月城の連絡先は half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。

[トップ画面]