半月城通信
No.119(2006.4.16)

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    目次

  1. 「嫌韓派」との対決
  2. スケート「村主章枝」の村主姓について
  3. 服部さんの語源と秦氏
  4. 靖国から北朝鮮へ、国宝級の石碑
  5. 独島問題についての林志弦教授インタビュー
  6. 安龍福の于山島像・隠岐島編、下條正男氏への批判
  7. 安龍福の于山島像・竹嶼編、下條正男氏への批判

  8. 「嫌韓派」との対決 2006.3.8 メーリングリスト[zainichi:29314]   日本テレビの討論番組ですが、私は出演依頼をことわりました。司会者が堂本だった かタレントだったので、日韓問題を語る意欲がわきませんでした。その番組を実際に見た ら嫌韓派?との対決を見せ場にともくろんでいたようなので、出なくてよかったと思って います。   嫌韓派?との「対決」依頼はインターネット新聞JANJANからもありました。こ れもことわりました。相手はドロンパさんとかいう人ですが、あとで本人や支持者とみら れる人から「残念です」とのメールをもらいました。   私はよくよく嫌韓派とは縁があるようで、ここのメンバーの紹介でマンガ『嫌韓流』 に反論する原稿を現在執筆中です。私の担当は竹島=独島問題ですが、真の批判相手は拓 殖大学の下条正男教授だと思っています。同氏は、島根県の予算?で相当な活躍ぶりです。 半月城通信で下記「下条正男批判」のコーナーを設けました。いつか「対決」する日が来 るかも知れません。 <下條正男批判>


    スケート「村主章枝」の村主姓(1) 2006.2.24 メーリングリスト[zainichi:29216]   半月城です。   フィギュヤースケートで4位に入賞した村主選手のことが前から気になっています。 村主をスグリと読むのは、歴史に登場する渡来人の村主と何か関係があるのでしょうか? 歴史上の村主は、デジタル平凡社の世界大百科事典では下記のように説明されています。        -------------------- 村主(すぐり)  日本古代の渡来系氏族の姓(かばね)の一つ。〈すぐり〉ともいう。村主を〈すくり〉と 読むのは,古代朝鮮語の郷,村を意味する su‐kur(足流)という語に由来する。5世紀以 降,主として朝鮮百済から渡来した技術者集団である漢人(あやひと)を,各国内の村に配 置したさいに,各集団を統率した渡来人の長を村主と呼称したものらしい。やがて姓制が 確立すると,称号である村主も姓の一つとなり,また後には氏名ともなった。村主の姓を 称する氏族には,高向(たかむく)村主,西波多(かわちのはた)村主,平方村主などがおり, 仁徳天皇の時代に百済などから村落の人たちが,こぞって日本に渡来したとする伝承を持 ち,いずれも,後に坂上氏となる東漢(やまとのあや)氏の統轄下に,各種の技術者集団の 統率者の役割を果たしていたらしい。後には,他の一般氏族と異ならないものとなり,律 令政府の下級の役人となっている。氏名の村主には,葦屋村主の同族と称する氏族などが あり,摂津や和泉国などに居住していたことが知られる。        -------------------- スケート「村主章枝」の村主姓(2) 2006.3.5 メーリングリスト[zainichi:29291]   半月城です。   久しぶりににぎわっているようです。しかし、私自身は holyさんの「クダラナイ」 発言をほとんど意に介していません。書き手の人間性あるいは人格を疑わせるような誹 謗・中傷に私は慣れっ子になっています。   むしろ、そうした誹謗・中傷も裏を返せば、私の発言はそれほどに無視できない影響 力があるのだと自負しています。実際、半月城通信は読売新聞に紹介されたり、講演依頼 があったり、日本テレビから討論番組に出演依頼があったり、マンガ『嫌韓流』「竹島 編」に対する反論の執筆依頼があったりなど、長い間にそれなりの反響がありました。   そんな状況にあって私は holyさんをほとんどスルーしていますので、皆さんにおか れましては、私の書き込みが元ですこし過熱気味のマナー論議をそろそろ終えるよう期待 します。   AKIUZKIさん > とりわけ「村主(すぐり)」という苗字は、単に めずらしいだけでなく、字と よみ  の乖離という特徴をそなえており歴史書にも でてくるという意味で、特異です。特異  であるからこそ、しらべてみる価値があるし、しらべたら何かが わかるかもしれない。   埼玉県の高麗(こま)さんがその典型例です。高麗神社の宮司である高麗家の系図に よると、先祖は高句麗から渡来した若光王にまでたどりつくそうです。若光王は『日本書 紀』にも記述があるようです。   スケートの村主章枝さんの場合、先祖が 18代、4-500年はさかのぼれるようで(注1)、 ますます古代の村主との関連が深そうです。   先日『世界大百科事典』の紹介で見出しを「村主(すぐり)」と書きましたが、フリ ガナは「すくり」でしたので訂正します。同時に、その「村主」の項目を書かれたのは佐 伯有清氏であることを追記します。   佐伯氏は、ご存知かも知れませんが、長年かけて『新撰姓氏録の研究』を完成した人 であり、古代の姓氏に関する専門家です。その佐伯氏が、村主を朝鮮語源としたうえで 「日本古代の渡来系氏族の姓(かばね)の一つ」などとしているので、古代の村主姓は朝鮮 半島からの渡来系であったとみて間違いないだろうと思います。また、広辞苑や大辞林、 大辞泉など主な辞典も大体そのように記しています。   この特異な「村主」姓について自己フォローしたいと思います。AKIUZKIさんなら興 味をもたれるのではないかと思います。   村主を「すくり」と読むのは、百済式のようです。663年、倭の百済救援軍は新羅・ 唐の連合軍に大敗しましたが、その場所が白村江(はくすきのえ)でした。百済の「村」 を倭では「すき」と読んだようです。   次に、村主を「すくり」と読むのは、佐伯氏は「古代朝鮮語の郷,村を意味する su ‐kur(足流)という語に由来する」と書いていますが、どうも説明が十分でないように思 えます。佐伯氏は言語学者でないので、専門家の意見もみることにします。大分古いので すが、1924年、金沢庄三郎はこう記しました。        --------------------   従来から村主の姓を韓国(からくに)における一種の称号から出たものとしているが、 その語源についてはまだ定説がない。   村主の号は新羅 真興王 拓境碑、晋州 蓮池寺鐘銘(今 越前国 敦賀 常宮神社にあ る)などに見えているが、これは三国史記 巻45にある水酒村干・一利村干・利伊村干な どの村干と同じで、干に酋長の意味があることは前節に述べた通りであるから、村主は村 干の意訳と見なければならない。   しかるに、日本語ならびに朝鮮語の音韻上、舌音「ラ」、「ナ」両行の相違はもっと も著しい変化の一つで、たとえば播磨国風土記に宍禾(しさは)の郡 雲箇(うるか)の 里を「宇留加(うるか)といふ」とあり、雲(うぬ)の音をウルに転じ、竹取物語の初頭 に「さるきの みやつこまろ」とある「サルキ」は讃岐の訛りで、崇峻天皇紀の茅淳の県 の有真香(ありまか)の邑」を姓氏録 和泉国 神別に、安幕の二字で表している例など、 いずれもそうである。   万葉集にも「情進(さかしら)」(第16巻)、「思扁(おもへり)」(第11巻)などのほ か、「霜干冬柳者(しもがれし ふゆのやなぎは)」(第10巻)、「月数多、干西君(つき まねく、かれにしきみ)」(第12巻)、「韓藍種生之、雖干(からいまきおほし、かれぬれ ど)」(第3巻)など、干を「カル」、「カレ」に転じた例が多い。それで朝鮮の古語で人 という意味のある干(かぬ)もまた「カル」と転じうる訳であって、蒙古語でも hun(人) は助数詞の場合には hulaとなるのである・・・   それゆえ、村干は「スキカヌ」とよんで村主の意とし、それが「スカヌ」と約まり、 スカル、スクリと転じたものであろう(注2)。        --------------------   金沢説では、村主は村干の意訳であり、村干は「スキカヌ」と読まれたとされました。 万葉集の時代は日本語に「ん」の字はなかったので、外来語の干はたしかに「カヌ」と読 まれたようです。   さらに「カヌ」が「カル」に音韻変化し、村主はスカル、スクリと訛ったとされまし たが、これは一理あるようです。この金沢説を佐伯有清氏がどう評価するのか知りたいと ころです。   一方、「すぐり」は「勝」とも書きます。『新撰姓氏録』では「上の勝」を百済国人 としていますが、「勝」の表記はどちらかというと新羅や加耶系統に多いようです。これ は『日本書紀』雄略紀15年に、秦酒公が秦の民を180種の勝(すぐり)として率いたと いう記事にも表れているようです。これについては次の機会に書くことにします。 (注1)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「村主章枝(すぐりふみえ)」   村主家は横浜で18代続く旧家(古くから続いている由緒ある家)であり、先祖は酒造 職人。 「村主章枝」『ウィキペディア(Wikipedia)』 (注2)金沢庄三郎『日鮮同祖論』1978(復刻版)成甲書房,P155 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    服部さんの語源と秦氏 2006.3.8 メーリングリスト[zainichi:29313]   半月城です。SONGさんの疑問に答えたいと思います。   服部をなぜ「はっとり」と呼ぶようになったかですが、これは「機織部(はたおり べ)」の姓が語源です。次第に、機(はた)で織った布も「ハタ」と呼ばれ「服」の字が あてられました(注1)。この服の訓読みは現在ではなくなってしまったようですが、上代 の訓読みは「ハタ」とされ、服織部とも書かれたようです。   服織の発音「ハタオリ」で二重母音の部分が縮められ「ハトリ」となりました。これ が「ハットリ」に変化したのですが、漢字は「織」が抜けて「服部」になったようです。 機織や服織よりは服部のほうが姓としてはエレガントと感じられたのでしょうか。   なお、機は秦氏と深い関係にありました。秦が先か、機が先かですが、加藤謙吉氏は 「機」が先であるとしてこう記しました。        --------------------   ハタの氏名(「秦」は中国系と称したための当て字)は、貢納物の主体が糸・綿・絹 織物などの養蚕・機織製品であったために、織機やその構成品を表す言葉であるハタが氏 名化したものであるが、この氏はその巨大組織と技術力を利用して、製塩・鉱産(銅・朱 砂・水銀)・土木建築など種々の生産活動に進出し、殖産氏族として優れた手腕を発揮す る(注2)。        --------------------   服部さんのご先祖をたどると、中には機織部を包括した秦氏にいきつく人がいる可能 性もあります。一方、ハタの語源については加藤説以外にもいろいろあり、井上正昭氏は こうみています。        --------------------   ハタの語源についてはいろいろの説があって、ハタというのは朝鮮語の Pata に起源 があるという説とか、朝鮮の古地名に波旦というのがあって、それにもとづくというよう な説もあります。言葉の類似だけでいうのはむずかしいと思いますが、わたしはやはり新 羅系の渡来と考えてよいと思います(注3)。        --------------------  『新撰姓氏録』では秦氏の先祖を秦の始皇帝としていますが、これは漢氏と同様に先祖 の詐称のようです(注4)。 (注1)広辞苑「はた【機】」 (2)(「服」と書く) 機(はた)で織った布。古事記下「わが王(おおきみ)の織ろす服」 (注2)加藤謙吉「大和政権と渡来人」『歴史読本』2006.2 (注3)上田正昭他「秦氏とその遺跡」『日本の渡来文化』中央公論社,1975 (注4)半月城通信<秦氏のルーツ>


    靖国から北朝鮮へ、国宝級の石碑 2006.4.16 メーリングリスト[zainichi:29547]   半月城です。   昨年10月、靖国神社にあった北関大捷碑(ほっかん たいしょうひ)が百年ぶりに韓 国へ移送されましたが、さらに今年3月1日、独立運動記念日にあたる日に大捷碑は北朝鮮 へ返還されました。喜んだ北朝鮮は、その碑をさっそく国宝に指定しました。   北朝鮮がこの碑の到着を待ちこがれていたのも当然です。なにしろ、この碑は朝鮮の 義兵が破竹の勢いにあった加藤清正の侵略軍を撃退したのを記念して建てられたので、そ れが戻ったとなればまさに国をあげての慶事です。   大捷碑は、豊臣秀吉の軍が朝鮮へ侵略した時、北関と総称される咸鏡北道の地で加藤 清正の軍を撃退した義兵の戦闘を讃えるものであり、碑の冒頭には次のようなことが書か れました。        --------------------  昔、壬辰の乱のとき、果敢に戦って敵を破り、その武勇が一世に鳴り響いた戦(いく さ)がある。水上では李忠武(舜臣)の閑山島の戦であり、陸上では権元帥の幸州の戦で あり、李月川の延安の戦もある。これらは歴史に記録され講釈師が繰り返し語ってきた。  しかしこれらの戦は、地位が有り、軍資金や兵力に恵まれていた者によるものである。 力無く逃げ隠れていた者を奮い立たせ、規律が乱れていた者に忠義を感じさせて、ついに 完全勝利を克ち取り一地方を奪還した、北関の兵が最も優れていたのである(注3)。        --------------------   1592年、朝鮮へ侵攻した豊臣秀吉の軍隊は、緒戦において朝鮮の正規軍を次々に破り、 中国国境に迫る勢いだったのですが、そんな中で朝鮮民衆の義勇軍が最強の加藤清正軍を 撃退したことは驚天動地の画期的なできごとでした。   北関で義兵を指揮したのは兵馬評事の鄭文孚(チョン ムンブ)ですが、かれの戦闘 については文末(注1,2)にくわしく書くとして、かれの経歴や碑が建てられるように なったいきさつは次のとおりです。        --------------------   義兵将の鄭ムンブは、1565年ソウル生まれで、1588年24歳の時、科挙に次席で合格し た。27歳の時、咸鏡北道の北評事となって壬申倭乱にあたった。官軍が敗退した後、義兵 を集めて倭軍相手に大捷を上げた英雄だったが、戦争の後のぶ告事件で獄死してしまった。 しかし、壬申倭乱が終わってから111 年も経ってから、この事件が無実であることが判明 し、ようやく朝鮮朝廷は、鄭ムンブ将軍の功を称えるようになって北関大捷碑を建てた (注4)。        --------------------   かれのような義兵の活躍や、海戦における李舜臣将軍の圧勝、あるいは明の援軍、豊 臣秀吉の死などにより朝鮮侵攻の愚挙はもろくもくずれ去りました。しかし、その愚挙の ためどれだけ多くの犠牲が出たのかはかり知れません。数万、数十万にのぼる朝鮮人の耳 や鼻を無残にも切り取り、塩漬けにして豊臣秀吉のもとへ送った話はあまりにも有名です。   その耳や鼻は「耳塚」として京都に供養されましたが、1990年に「耳塚」を供養した 僧・柿沼洗心さんは、慰霊法要の席で韓国からの参加者が号泣する姿に感動し、こう語り ました。        --------------------   今でも耳に入って離れない言葉があるんですよ。それは韓国人が、何百人の人が絶叫 した言葉、3年でもない、30年でもない、300年も400年も異国の地へ放っておいた祖先に お詫び申し上げると号泣した姿、地べたにひれ伏してね・・・(注5)。        --------------------   柿沼さんは、日韓仏教福祉協会の日本側代表として、ここ十年来、朝鮮王朝末裔の李 玖(イグ)氏とともに北関大捷碑の返還に熱心に取り組んでこられました。碑の返還は、 日本、韓国、北朝鮮のはざまにあって容易ではありませんでした。靖国神社の意向が反映 されるまで長い年月がかかりました。   靖国神社の立場については、私も神主から直接聞いたことがありました。奇しくも、 私は柿沼さんと同じころ靖国神社を訪れて碑に関する話を聞きました。1996年1月、神主 は重い口でつぎのような趣旨のことを語りました。         ーーーーーーーーーーーーーーーー 1。この碑は日露戦争の時「戦利品」として日本へ運ばれた。 2。戦前、この碑は神社内にあった陸軍の博物館、遊就館(86年再開)に寄  贈された。そうした経緯から、碑は遊就館近くの現在地に置かれている。 3。いずれしかるべき所へ返したいが、朝鮮が統一されていない現状ではそれ  もむずかしい。ただし、今まで返還要求はどこからもなかった。 4。韓国からはマスコミが何回か取材に来た。 5。保存状態について、現状はプラスチック波板の屋根があるだけでちょっと  お粗末ではないかとの批判もあるが、石碑はもともと雨ざらしにされるもの  なので必ずしもこうした批判はあたらない。 5。拓本は複写に当たるので神社としては許可しない。拓本は神社でとったも  のを保存している(注6)。         ーーーーーーーーーーーーーーーー   神主の話からは、北関大捷碑が靖国神社に持ちこまれた経緯があまりはっきりしない ので、気になってすこし調べてみました。やはり日本軍が深くかかわっていたようです。 日本軍は日清戦争のころから帝国主義国家にふさわしい歴史像を形成するためか、朝鮮の 石碑に相当な関心をもっていました。かつて改ざんがあったかどうかで話題になった高句 麗の広開土王碑の調査などがそのいい例です。   北関大捷碑は、日露戦争で北朝鮮に入った池田正介少将により着目され、地元関係者 の了解のもとに日本へ運ばれたとされました。軍は地元関係者の了解をえたとのことです が、これはあるいはあり得るかも知れません。   なにしろ当時は、伊藤博文を暗殺した安重根ですら日本帝国に幻想をいだいていたよ うな時代だったので、関係者が日本軍に協力した可能性はゼロではないようです。1978年 に靖国で大捷碑を発見した研究者の崔書勉氏はこう記しました。        --------------------   明治39年(1906)の『歴史と地理』と『考古界』の両学会誌が、この碑に関して、彙報 であつかっているが、各々「北関大捷碑の輸送」「北韓大捷碑」「加藤清正撃退の碑」等 がそれであり中村久四郎が会寧府の顕忠祠碑文と誤認して書いた「韓国会寧府の顕忠祠碑 銘について」と題する論文もある。   この両学会誌の述べているところから知り得たことは、次のような内容である。   明治37,8年の日露戦役において、北韓進駐軍司令官 後備第二師団長、三好成行中将 麾下軍隊は、露西亜(ロシア)軍を豆満外に圧迫するため北韓に進駐していたが、第二師 団傘下の第十七旅団長、池田正介少将が咸鏡道臨溟駅にある「北関大捷碑」を発見し、所 在地の主たる者、数十名を招き、諒解を得て三好中将の帰国に託し、明治38年10月28日 広島に着き、翌年5月27日 東京湾に着き、宮城内の振天府に陳列されるとのことであった が、最後に遊就館に移立したことになっている。   池田少将の諒解とは、地元の主たる人々に「日本は、朝鮮国の独立のため、日清戦役 と日露戦役の前後二回も大戦争を為したるが、今や、幸いに交戦の目的を達し、日韓両国 の親睦を永遠に保つ上において、このような記念碑を永存することは、両国間の感情を害 すべき因たるに過ぎざるに付、出来得べくんば、この石碑を撤去せられん事を切望すると の趣旨を諄々説きたるに彼等も大いに池田少将の至誠に感じ、遂にこれを撤去して池田少 将に譲与せしより同将軍は深く彼等の行為を徳とし、三好師団長凱旋の節し同師団長に託 して、東京まで持還へられたるものなり」となっている。   この記事の内容の真偽を問うことは、今更 意味があるとは思えない。日清、日露戦 役の直後においては日本軍は、天皇の開戦詔勅通り、韓国の独立のためであると信じてい た韓国人が多かったからである。伊藤博文を暗殺した安重根でさえ、日露戦争は韓国の独 立のためだと信じ日本軍に協力したことがあるほどであるからである。   しかし、このような記事の前後には加藤が敗退したというのは「うその記録」である とか、「針小棒大」のものであると不愉快を示し、はなはだしきは、この碑文を日本に もってきたことを讃え「吾人は皆挙を賛するものなり。尚、彼の満州懐仁県洞溝にある高 句麗古碑もこれと同じく、本邦へ輸送なせられんことを望むものなり」と飛躍している。   高句麗古碑とは、今、改竄されたかどうかで問題になっている広開土王碑のことであ るが、当時の意気高き、戦勝国の軍人として、日本軍が過去において負けたという記録が、 いかに彼らを不愉快にし、また信じたくなかったことであることは想像にかたくない(注7)。        --------------------   結局のところ、大捷碑は「日韓友好」を阻害するという理由で撤去され、戦利品を陳 列する皇居の振天府に展示するつもりで運ばれたようです。   その後、大捷碑は戦前の軍事博物館である遊就館へ持ちこまれました。しかし、北朝 鮮では国宝級の文化財でも、靖国神社にとっては単なる石ころだったようで、何の記録も ないまま長年放置され、その存在すら当の神社にも完全に忘れ去られてしまいました。   それを再発見したのが崔書勉氏でした。文献に記載された記事を手がかりに、靖国神 社の人すら知らない北関大捷碑を神社じゅう探しまわり、苦労の末やっと発見したようで した。その苦労話は写真とともに論文になって紹介されました。   その写真などをリンクしますが、碑の頭上にはいかにも場違いな火山岩のような石が かぶせられていました(注7)。今回、その覆いや同じように粗末な台座は取り除かれ、 代わりに韓国で端正なものに替えられ、威風堂々としたたたずまいになりました。   朝鮮にとってかけがえのない新しい国宝の誕生、その実現に対する感謝の念を韓国統 一部のイム氏は「北韓大捷碑の返還に関して肯定的な決定をして下さった靖国神社と協力 してくれた日本の外務省に心から感謝しています」と語りました。   私はこれまで靖国神社を軍国主義を象徴する神社として、そこに参拝する小泉首相な どを鋭く批判してきましたが、北韓大捷碑に関するかぎり、靖国神社や関係者の労をねぎ らいたいと思います。 (注1)北島万次「清正と戦った咸鏡道義兵」『豊臣秀吉の朝鮮侵略』吉川弘文館 1995,P98     (注釈は省略)   咸鏡北道でも、鄭文孚を盟主とする義兵が決起した。清正の咸鏡北道侵犯以来、北界 =北関(咸鏡北道の磨天嶺以北)の官吏や守将は鞠世弼らの叛乱者に捕えられてしまった。   しかし、鄭文孚はこれまで評事の仕事を堅実にこなし、これまでの役人のように刑杖 を用いることはまったくなかったばかりか、校生に儒学を教えるなど、人望が厚かった。 それだけに、文孚は、韓克誠のように清正につき出されることもなく、子弟に庇護されて 脱出することができた。鞠世弼らの叛乱者は文孚を捜索したが、文孚は鏡城の儒生・池達 源の家に匿れることができた。   九月、明軍救援の報が文孚のもとに届くや、士兵壮士 数百人が団結し、文孚を義兵 将に推戴して決起し鏡城に迫った。みずからを「礼伯」と称して鏡城およびその領域を支 配していた鞠世弼は敵せざるを知り、鏡城を明け渡して官衙の印を文孚に渡した。   鏡城が義兵の手に陥ちたことを聞いた吉州在番の加藤右馬允らの清正家臣は、兵を出 して鏡城を探索したが、義兵指導者のひとり前鏡城万戸 姜文佑はこれを撃退した。   このあと、咸鏡北道の義兵は吉州長坪で吉州に在番する清正の家臣団と戦い、吉州攻 撃に転じた。それはつぎのような経緯をたどって進行する。   吉州長坪の戦いを前にして義兵たちの戦意は昂揚していた。鄭文孚は吉日を選んで出 兵しようとしていたが、そのさい、義兵の将士たちは、日本軍を討つ前に日本の傀儡と なった民族の裏切り者をまず誅すべきだ、と文孚に申し入れた。   文孚は鞠世弼ら13人を斬刑に処し、当初の首謀者はかれらであり、そのほか陣中に捕 えられているものは首謀者でない、といましめ、仲間同士で争わないように配慮した。そ して穏城などの鏡城に檄文を送り、鞠景仁・鄭末守らの叛賊を血祭りにあげ、咸鏡北道の 鏡城をおさえた。   一方、吉州城の日本軍は城の周辺で略奪を重ねており、その一隊が明川海倉の略奪に 向った。鄭文孚はその帰路を待伏せ、長徳山でこれを敗った。   吉州城に逃げ帰った日本軍は城門を閉じて外に出ず、文孚らの義兵は吉州城をとり囲 んだ。このため、吉州城の日本軍は燃料の樵採もできず、ここに吉州の籠城が始まった。 ところで、吉州籠城の報を受けた清正はただちにこれを救援できなかった。その事情は 1592年11月21日、端川在番の九鬼広高らに宛てた清正の書状にみることができる。   第一に、清正自身、吉州などの咸鏡北道の救援を急ぐものの、そこへ赴けば、清正本 陣である安辺の守備固めの兵力を削ぐこととなり、救援に赴く兵力は3,000人にも満たな くなる。さらにその約半数は寒さのため悴けてしまうという兵力不足があった。   第二に、清正が朝鮮二王子を捕えているため、王子を安辺に置いて救援に赴くことは できず、もし王子を抱えたまま救援に赴いた場合、王子護衛の兵力に500人は割くことと なり、実際に北道救援に役立つ兵力は1,000人にも満たなくなる。さりとて王子を連れて 北道へ出陣することは実際にはできない(万一、王子を逃がしてしまえば元も子もなくな る。王子こそは加藤清正の「虎の子」であった)。戦功の証しとして捕らえた朝鮮王子の 存在が清正の行動の足枷となっていたのである。   このため、清正は来年の春まで吉州・端州の番城を死守することについて、朝鮮側が 番城を攻めてきた場合は、城際に引寄せて討つべきことから、兵糧・馬糧の節約にいたる まで細かく指示してきている。   加藤清正が吉州・端州両城を救出したのは、よく93年1月のことである。清正は鍋島 直茂に朝鮮二王子を預け、咸鏡北道に孤立する吉州・端州両城を救出した。ここに加藤清 正・鍋島直茂の咸鏡道在番支配は破綻した。 (注2)「北韓大捷碑」碑文の読み下し文   鄭(文孚)公は十一月に敵を加攻里で迎え討つべく、多くの将を配置した。鄭見龍は、 中衛将とし白塔に、呉応台、元忠恕は伏兵将とし石城と毛会に、韓仁済は左衛将と木柵に、 柳擎天は右衛将として涅河に、金国信 許珍は、左右斥候将として臨溟に陣を布かせ、対 時したところ、敵は戦勝に捲き、防備をおろそかにしていた。   我が軍は勇撃して、敵陣を襲い、勇気を得て、歓声をあげざる者なく、前進したとこ ろ、敵は敗れ退くを見、更に追撃して、その将五名を殺し、数多くの首をきり、その馬と 武器をとりあげた。これがため、遠近ともに震動し、兵士官吏ともに、逃げ去り、隠れて いた人たちが先を争い従う者がふえ、七千名に達し、敵はついに吉州にたて籠り、動くこ とができなくなり、道に伏兵を置き、敵が出さえすれば、これを打破った。   城津の敵が臨溟に大きく攻めてきたので、精兵なる騎兵を率い、これを襲い、山に伏 し、敵の帰るのを待って両方から挟撃して大きく敗り、数百をきり、まさにその腹をきり、 そのはらわたを道にさらしたところ、倭軍の志気大いに落ち、敵はおそれるばかりであっ た。   十二月にまた雙浦にて戦ったが、戦たけなわなるとき、偏将が鉄騎を率い、風雨の如 くすばやく横より攻め入れば敵は戦意を失い、たち向うこと忘れ逃げ散ったので、戦勝の 勢をかり敵をけ散らした。   翌年正月、端川で戦ったが、三戦して三勝して還り、吉州に陣を布き、兵士を休ませ ていたところ、清正戦況の不利なるを知り、大部隊を送り、吉州の敵を迎えようとしたの で、我軍は、その後を逐い、白塔にて大きく戦い、これを敗り、この戦において、李鵬寿、 許大成、李希唐が戦死したが、敵はついに敗走し、二度と北方に来ることができなかった (注7)。          ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー (注3)<北関大捷碑>南北合意…故地返還に現実味」『民団新聞』2005.7.13 (注4)KBSワールド「返還される北関大捷碑」2005-06-30 (注5)TBS番組、報道特集「靖国から北朝鮮へ」2006.4.2 (注6)半月城通信<文禄・慶長の石碑> (注7)崔書勉「七十五年ぶりに確認された咸鏡道 壬辰義兵 大捷碑」   『韓』第7巻第3号/通算第74号 1978.3 (732kB) (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    独島問題についての林志弦教授インタビュー 2006.3.12 メーリングリスト[zainichi:29317]   半月城です。   AKIZUKIさんが紹介された林志弦教授のインタビュー記事をざっと読んでみました。 国家間の隣接紛争地を「辺境」として理解する説には、うなづける点が多々あります。   しかし、隣接紛争地はそれぞれ特殊な歴史的経緯をかかえているだけに、それらを十 分吟味せずに一律的な視点で「辺境」としてくくってしまうと、時には誤った理解につな がりかねません。その一例が主題の竹島=独島問題です。記事はこう記しました。        --------------------  (林教授は)独島は歴史的に「辺境」であったので、最初から近代的国境概念に依拠し て規定し得る「領土」ではなかったとし、独島を取りまく韓日間紛争は善と悪の対決では なく, 東アジアで繰り広げられている他の領土紛争と同じく、ただ前近代的国境概念に対 する理解がない両国が岩島一つで時代錯誤的な領土争いになる. <「独島はわが領土」は非歴史的、辺境として理解すべき(韓国語)>        --------------------   どうも林教授は江戸時代の竹島(鬱陵島)をめぐる領土交渉「竹島一件」をどの程度ご 存知なのか疑問です。この「竹島一件」の結果、国境が前近代の江戸時代に確定しました。   日本では、幕府が竹島(鬱陵島)は鳥取藩領と思いこんでいた一方、松島(竹島=独 島)の存在を知らずにいたのですが、竹島・松島は鳥取藩でないという鳥取藩の回答が決 め手になり、幕府は「竹島一件」で竹島(鬱陵島)を放棄しました。   この際、幕府は松島(竹島=独島)については明言しませんでしたが、経緯から同時 に放棄したと理解されます。のちの明治政府もそう理解して松島・竹島を版図外と宣言し ました。  「竹島一件」の最中、松島・竹島をよく知る安龍福は日朝両国で「竹島は欝陵島、松島 は子山島で両島ともに朝鮮の江原道に属する島」と主張しましたが、それが両国の史書に 記録されました。   この主張が朝鮮では『東国文献備考』など官撰史書に取り入れられ「鬱陵、于山は皆 于山国の地、于山はすなわち倭人のいう松島」などと書かれました。竹島=独島に対する 領有意識が明確になったといえます。   一般に前近代では国境が明確でない場合が多いのですが、それは国境紛争がなかった 場合にかぎられます。尖閣=釣魚諸島の場合がその一例でしょうか。それに反し、竹島= 独島問題のように国家間の領土紛争があった場合は、結果的に国境が明確にされるので、 林教授の前提が成り立ちません。   なお、江戸時代ならびに明治初期に日本は松島・竹島を領土外にしたにもかかわらず、 竹島=独島の領有権が今日問題になっているのは、日本が日露戦争の最中に「時局なれば こそ、その領土編入を急要とする」との判断から竹島=独島を「無主地」と強弁し、こっ そり領土編入の閣議決定をしたことに起因します。 <竹島=独島は日本の「固有領土」か?>


    安龍福の于山島像・隠岐島編、下條正男氏への批判 2006/ 3/21 Yahoo!掲示板「竹島」No.12595   半月城です。あるメーリングリストに書いた文をすこし修正して転載します。   Re:[zainichi:29322] > 安龍福は 日本で「松島」とよんでいる島が朝鮮領だと主張したらしいけれども,逆  に,それが独島であると朝鮮政府が わかっていたのかどうか。安龍福も,どこにある  島なのか,はっきり わかっていないまま,日本で勝手に名前をつけている島が あるの  で,それは朝鮮の文献にある于山島であると主張したのではないかと おもうし,・・・   この文を読むと、下条正男氏の言をほうふつとさせます。同じ「竹島日本領派」の塚 本氏ですら、安龍福のいう于山島および松島は今日の竹島=独島とするのが妥当であると してこう記しました。        --------------------   安龍福は前述のとおり元禄6年に日本へ連れ帰られているが、同人を連れ返った船は 松島(今日の竹島)に立ち寄っている。したがって、同人は記録上今日の竹島に赴いた最 初の朝鮮人ということになる。   同人はその際 今日の竹島を見、その名称(松島)も聞いたと考えるのが自然である が、そうであれば後に同人が「松島はすなわち于山である」と述べたのは、この時の体験 に鬱陵島・于山島があるという朝鮮における伝承を当てはめた結果であると考えられる。   すなわち、朝鮮古文献にみえる于山(島)はその実は欝陵島にあった于山(国)に由 来する観念上の存在であったが、安龍福は朝鮮人として初めて松島(今日の竹島)を実見 し、鬱陵島以外に島があるとすれば于山島であると考えたものと思われる(注1)。        --------------------   ここで朝鮮王朝の官撰書にみられる于山島の記述がすべて「観念上の存在」であった かどうかはひとまず置くことにして、安龍福が竹島=独島を実際に見たという塚本氏の見 解は妥当と思われます。しかし、くだんの下條正男氏はかつてこう記しました。        --------------------  欝陵島の北東に位置する「竹嶼」を于山島と認識していた安龍福は、(元禄6年)欝陵 島の東南の地点で拉致され、そこから隠岐島に向う船上で島影を目撃したため、夕闇の中 の隠岐島を「頗(すこぶ)る大」きな于山島と思いこんだのであろう。  実際に隠岐島の面積は、欝陵島の4.7倍程度であったからだ。こうして隠岐島を于山島 と誤認した安龍福は、「(今日の)竹島は朝鮮領の于山島である」と供述したのである (注2)。        --------------------   下條氏は、安龍福のいう于山島は竹嶼ないしは隠岐島だとして、頭から于山島が竹島 =独島であった可能性を度外視しているようです。   かねてより安龍福の供述には虚偽が多いと主張していた下條氏ですが、それにもかか わらず「すこぶる大」という供述を無批判にそのまま採用しました。そのうえで、そのよ うな大きさの島は隠岐島しか実在しないという理由で、安龍福は「隠岐島を于山島と誤認 した」という短絡的な結論をだしたのでした。   これに対し塚本氏は「すこぶる大」という安の供述を誇張として排除したのか、「同 人はその際今日の竹島を見、その名称(松島)も聞いたと考えるのが自然である」という 結論を導いたのでした。   安龍福の供述は、基本的に手柄話や自慢話のたぐいであり、誇張や虚偽が多いので、 それらを検証して裏づけのある供述を採用するのが研究者本来の姿です。その基本が下條 氏には欠けているのではないでしょうか?   下條氏は口癖のように韓国の学者を「我田引水的 文献解釈」と批判していたのです が、はたして下條氏自身はその批判に当てはまらないのでしょうか? 具体的にいうと 「すこぶる大」という供述を引用したのは「我田引水的 文献解釈」ではないでしょうか。   そのような手法は後日どこかで惨めな結果を招くものです。上記の主張と矛盾するよ うな一節が、下條氏の著書『竹島は日韓どちらのものか』に書かれました。そこにはこう 記されました。        --------------------  (元禄9年)安龍福をはじめ 僧 雷憲、劉日夫、李仁成ら11人は、それより先の5月20日、 舟で隠岐島に着くと出雲藩の代官に、自分たちは竹嶋(鬱陵島)へ渡海した朝鮮舟32艘の 内の1艘で、「伯耆国(鳥取藩)へ訴訟ノ為 渡来」したと伝えていた。  ・・・   安龍福はこのとき、「鬱陵 于山両島監税」という実在しない官職を僭称していた。 安龍福としては、「鬱陵 于山両島」と称することで、鬱陵島と于山島を管轄する朝鮮の 官吏としてやってきた、と言いたかったのだろう。つまり、鬱陵島と于山島も朝鮮領であ るという主張である。   鬱陵島は理解ができるとしても、問題は于山島である。   先に『太宗実録』に、太宗17(1417)年2月、于山島から島民を引き揚げることになっ た、と記されていると述べたが、そこに出てくる于山島は竹嶼とも称される鬱陵島の近傍 の小島である。   しかしここで安龍福が言っている于山島は、その竹嶼のことではない。では、どこを 指していたのか? じつは、今日の竹島なのである。安龍福は、于山島を今日の竹島と思 い込み、鬱陵島とともに朝鮮領だと主張したのである(注3)。        --------------------   この本を読んで、私はわが目を疑いました。下條氏はいつの間にか、安龍福のいう于 山島を「隠岐島」から「今日の竹島」に変えていたのでした。一事が万事、下條氏はこれ までたびたび自説をいとも簡単に変えてきた人ですが、それにもかかわらず世間の受けは いいようです。島根県では竹島=独島問題の顧問といってもいいくらいです。   下條氏が自説を大きく変更した理由はわかりませんが、ともかく今日では安龍福のい う于山島が今日の竹島=独島であることを疑う研究者は皆無のようです。これは、近年、 隠岐島で発見された「朝鮮舟 着岸一巻之覚書」により一層確実なものとなりました。そ の中において隠岐の代官は安龍福の言い分をこう記録しました。        -------------------- 1.安龍福がいうには、自分が乗ってきた船の11人は伯耆へ来て、鳥取藩の伯耆守様へ  「おことわりの儀」があってやって来たという。順風満帆で隠岐へ寄ったという。伯耆  へ渡海する予定である。   5月15日、竹島を出港、同じ日に松島へ着く。16日に松島を出て18日の朝、隠岐の西 村の磯へ着く。20日、大久村へ入港という。 1.松島は、江原道のうち子山という島があるが、これを松島というそうである。これも  朝鮮八道の地図に記されているという。(注4)        --------------------   この資料により、安龍福が松島(竹島=独島)すなわち子山(于山)島で一夜をすご したことが明確になりました。安の于山島像を隠岐島とする下條氏の説はこっぱ微塵に崩 壊したといえます。下條氏はこの資料の存在をいち早く知って、あるいは自説を変えたの かも知れません。   Re:[zainichi:29322] >しかし,一方,朝鮮政府が この「竹島一件」のとき以来,国家意志として独島の領有  を意識したのかというと,そのことは あやしいと 思っています。   于山島を確認したのは安龍福だけではありませんでした。安龍福の拉致がきっかけに なって起きた「竹島一件」の最中、朝鮮王朝の蔚陵(欝陵)島調査団も竹島=独島を確認 し「蔚陵島事蹟」としてこう記録しました。  「(蔚陵島の中峰から)西側を眺めると大関嶺のくねくねとした姿が見え、東側を眺め ると海の中に一つの島がみえるが、はるかに辰(東南東)方向に位置して、その大きさは 蔚島の三分の一未満で(距離は)三百余里(120km)に過ぎない(注5)」   張漢相は欝陵島からはるか東に存在する島を確認したのですが、これは朝鮮王朝の記 録『世宗実録』の記述を裏づけるものでした。同書の地理志(1454)には、武陵島と于山島 は天気が清明ならお互いに望み見ることができると記されました。   同書の武陵島は欝陵島をさしますが、そこから天気が清明な時にだけ望める島は現在 の竹島=独島以外ありません。したがって、于山島は竹島=独島をさします。すくなくと も地理志の記述だけは、于山島が単に「観念上の存在」でなかったことを示しています。   張漢相が竹島=独島を確認したことや、安龍福の備辺司における供述などが元になっ て、日本の松島は朝鮮領の子山島(于山島)であるという認識が朝鮮で強固になりました。 それ以前にも、そうした認識は国家が編纂した図書である『東国文献備考』(1770)にこう 記されました。  「輿地志がいうには、鬱陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいうところの松 島である(注6)」   この見解は『萬機要覧』、『増補文献備考』など数多くの官撰史書に繰り返し記述さ れました。国家として竹島=独島に対する領有意識を明確にしたといえます。ただし、官 撰図書以外の雑多な史料では竹島=独島に対する認識がかならずしも正しくない図書があ りますが、それはさして重要ではありません。領有権問題において官撰史書の認識が優先 することはいうまでもありません。 (注1)塚本孝「竹島領有問題の経緯(第2版)」『調査と情報』第289号,P3,1996 (注2)下條正男「竹島論争の問題点」『現代コリア』P32,1998年7,8月号 (注3)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書,P65,2004 (注4)「元禄九丙子年 朝鮮舟 着岸一巻之覚書」原文   読み下し文(一部)は半月城通信<新発見史料「朝鮮舟 着岸一巻之覚書」>   解説文は、内藤正中「隠岐の安龍福」『北東アジア文化研究』第22号,2005 (注5)宋炳基『欝陵島と獨島』(韓国語)檀国大学出版部、P42,1999   訳文は、内藤浩之訳「朝鮮後期の鬱陵島経営」『北東アジア文化研究』第10号,1999 (注6)半月城通信<「竹島一件」後の于山島認識> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 追記(2007.6.19)   名古屋大学の池内敏氏は、下條氏の見解を下記のように批判しました。 (「隠岐・村上家文書と安龍福事件」『鳥取地域史研究』第9号,2007,P14) (竹島=独島論争)http://www.kr-jp.net/ronbun/ikeuchi/ikeuchi2007.pdf        --------------------   安龍福を虚言癖の男と評価する流れは、近年では下條正男に代表される。しかしなが ら、たとえば安龍福が見た松島(竹島=独島)は竹島/独島ではなく隠岐島だったとする 下條正男の主張は荒唐無稽である。安龍福が竹島(鬱陵島)および隠岐諸島と区別された 島として松島(竹島/独島)を認知していたことは隠岐・村上助九郎家文書によりはっき りしたが、そもそもから右主張は『邊例集要』の誤読にもとづく誤謬であった。こうした 誤謬がもたらされた背景には、安龍福を虚言癖の男とする評価への過剰なこだわりがある。        --------------------


    安龍福の于山島像・竹嶼編、下條正男氏への批判 2006.3.26 Yahoo!掲示板「竹島」No.12625   半月城です。あるメーリングリストに書いた文を修正して転載します。   RE:[zainichi:29348] > 安龍福の独島の地理的認識は,日本に連行されてくるまでは あいまいだっただろう  ということが,すなわち それが「辺境」であったということをしめしていると おもう  のです。   そのとおりだと思います。安龍福は1693年に米子の村川家によって拉致されるまでは 伝聞によって于山島を知るのみでした。そのことは安が拉致された時の次の供述から明ら かです。  「この度 参候 島(欝陵島)より北東に当り大きなる嶋これあり候。かの地 逗留の内、 ようやく二度、これを見申し候。彼島を存じたるもの申し候は、于山島と申し候通り申し 聞き候。終に参りたる事はこれ無く候。大方 路法一日路余もこれ有るべく候(注1)」   安龍福は、于山島に行ったことはないが、その島が欝陵島から船で一日の所にあると いうことを伝聞で知っていたと供述しました。そのような距離にある島は竹島=独島しか 存在しないので、少なくとも伝聞にいう島は竹島=独島だといえます。   また、この伝聞は『輿地志』(1656)の逸文「鬱陵、于山、皆于山国の地。于山はすな わち倭のいわゆる松島なり」にも一脈通じます。   その伝聞とは別に、安龍福が于山島と信じて目撃した島が竹島=独島かどうかが一時 問題にされました。下條氏はこう記しました。        --------------------   安龍福が「ようやく二度見た」という于山島は、どの辺りにあったのだろうか。鬱陵 島の「北東」にあると証言しているところからすると、この于山島は今日の竹島とは無縁 である。今日 領有権が争われている竹島は、鬱陵島の東南に位置しているからだ。   安龍福らが和布(わかめ)採りや鮑(あわび)獲りに従事していた海域は、鬱陵島の 海岸線に沿って、島の東南部から時計回り(ママ)で北部までに限定されていた。この状 況で、鬱陵島で東北に島が見えるという場所は、今日の苧洞付近である。苧洞辺りからは 東北の方角に、竹嶼という島が見える(注1)。        --------------------   下條氏は、このように方角を重視して、前回書いたように<欝陵島の北東に位置する 「竹嶼」を于山島と認識していた安龍福>と速断しましたが、これも典型的な「我田引水 的 文献解釈」のように思えます。   まず重要なポイントは、于山島の位置です。下條氏のいう「竹嶼」は鬱陵島の東わず か2kmの所に位置する島なので、距離的に「一日」の路法という供述に全然合いません。   つぎに重要なのは、安龍福が于山島をみた回数です。安龍福が活動した海域が島の東 南部から「反時計回り」で北部までとすると、竹嶼はほとんど毎日のように見えます。な お、下條氏は「時計回り」と記しましたが、文脈からすると「反時計回り」の間違いと思 われます。   安龍福の欝陵島における滞在期間は数週間以上なので、その間に竹嶼を「ようやく二 度」どころか毎日のように見たことでしょう。逆に、長期の滞在で「ようやく二度」しか 見れない島は、それこそ竹島=独島であると言ってさしつかえありません。   しかも、この場合でも下條氏の指摘する方角の違いは合理的に説明可能です。安龍福 が于山島を見た位置は記録にありませんが、于山島が見える場所は欝陵島の海辺ではあり えません。そこから于山島は、地球が丸いので物理的に見えないからです。見える場所は、 欝陵島内なら 200m以上の高所か、あるいは海上なら欝陵島から15km以上も竹島=独島よ りの地点のどちらかになります。   欝陵島の高所から竹島=独島をみる場合は、よほど天気や光の加減が良くないと見え ません。現在、欝陵島から竹島=独島が見える日は大体1年の1/7くらいとされていま す。   もし安龍福が高所から于山島を二度見たのなら、確率的にいうと、かれは14回も山を 登ったことになります。しかし、海が活動場所である漁夫には、それは考えにくいところ です。やはり、かれは海上から于山島を見たとするのが妥当と思われます。   その場合、同島から15kmも離れた海上から于山島を見ることになるので、よほど三角 測量の原理がわかったうえで、目撃地点の位置や距離、方角を正確に知らないと、欝陵島 からみた于山島の方向は正確にはわかりません。そのような状況はまず無理でしょう。そ うなると、安が二回しか見ていない島の方向を北東方向と見誤ることは十分考えられます。   ちなみに竹島=独島の方向は平面地図で見ても鬱陵島の東南東あたりにあたりますが、 実際は下條式に8方位の分類でいえば同島は「東南」ではなく「東」に位置します。した がって、たとえ于山島を欝陵島の東北と認識したとしてもそれほど重大な間違いでもあり ません。   なお、正確には球面三角法を修正したヒューベニの拡張式(注2)で方向を計算すると、 鬱陵島の中心である聖人峰から竹島=独島は真東から南18度の方角になり、東南東より少 し北寄りです。   以上の考察からすると、安龍福やそれ以前の朝鮮漁夫は于山島の位置を正しく現在の 竹島=独島と認識していたと思われます。そうした知識があったからこそ、欝陵島調査団 の張漢相が欝陵島の中峯から米粒くらいにしかみえない竹島=独島を発見できたのだろう と思います。   さらに張漢相の報告書は島までの距離を三百余里(120km)とかなり正確に記述しまし たが、それはやはり距離に関する予備知識があってこそ可能で、目視で三百余里と推測す るのはほぼ不可能と思われます。   そのような予備知識や伝承が先ほどの『輿地志』逸文に反映したと思われます。ただ、 『輿地志』逸文で于山島が日本でいう松島であるという認識はどこから生じたのか、これ はナゾです。   もっとも下條氏にいわせれば、『輿地志』逸文は「改ざん」されたのだろうとのこと ですが、私もかれの主張や発想には毎度のことながらあきれています。   これについてはすでに詳細に書いたのでふれませんが、そもそも他人が容易に『輿地 志』の原文を確認できるような時代にあって、学者が他人の文章をわざわざ「改ざん」し て引用するなんて、およそ想像もつきません。そんな改ざんで名誉を損じることはあって も、得することは何も考えられません。   ともあれ「竹島一件」のころは朝鮮で官民ともに竹島=独島の位置をきちんと認識し ていたのですが、それ以後、政府レベルでは于山島がだんだん書物だけの世界になり、そ の位置すらあいまいになっていきました。それも、竹島=独島は政府にとってほとんど利 用価値がない岩であったので、前近代では自然な成りゆきだったと思います。   世界史的には、シベリアであれ、アメリカ中西部であれ、本国政府にとって利用価値 が高くない土地は粗末に扱われがちです。ほとんど二束三文で売り払われました。そこが 金の卵を生む黄金地帯と気づいた時はもう後の祭りです。   竹島=独島の場合は買い手もなかったのでそのままになったのですが、その結果、朝 鮮政府にとって竹島=独島は次第に林志弦教授のいう「辺境地帯」になっていったようで した。   一方、民間レベルでは記録がないのではっきりしませんが、1904年になって、突然、 竹島=独島と朝鮮漁民とのかかわりが記録に表れました。ご存知のことと思いますが、 『軍艦新高行動日誌』1904年9月25日条に「独島」の名がこう記されました。  「松島ニ於テ『リアンコルド』岩 實見者ヨリ聽取シタル情報『リヤンコルド』岩 韓人 之ヲ獨島ト書シ 本邦漁夫等 略シテ『リヤンコ』島ト呼称セリ」   こうした記録からすると、すでに1904年以前に欝陵島の韓国人は竹島=独島へ往来し ていたようです。これは竹島=独島の伝承が17世紀以来連綿と続いていたのかどうかは疑 問ですが。   しかし、たとえそうした伝承が途切れたとしても、竹島=独島は欝陵島から視認でき るだけに欝陵島の付属島あるいは一対として意識されたことでしょう。多くの官撰史書で 于山、鬱陵は一対で扱われました。日本でも竹島=独島には松の木どころか、樹木が1本 もないのに松島と名づけられたのは、もちろん両島が一対であるという意識からです。   ただ、韓国でこの一対の意識が強すぎたのか、地図で于山島は欝陵島に近い所に描か れ、竹嶼と誤解される余地を残してしまいました。それが明治政府に竹島=独島は「無主 地」であるという口実を与え、帝国主義的領土編入を許す結果になってしまったようです。 (注1)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春文庫,2004,P70 (注2)<2点間の距離と方位計算ツール> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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