半月城通信
No.123(2006.11.21)

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    目次

  1. 百済は大国「クンナラ」か
  2. 島根県『フォトしまね』批判
  3. 「松島渡海免許」と林志弦氏の主張
  4. 当局の地図に日本領「竹島」はなかった
  5. 「竹島=独島問題ネットニュース」4、2006.11.14

  6. 百済は大国「クンナラ」か 2006.10.25 メーリングリスト[zainichi:30296]   半月城です。   Re:[zainichi:30288] >10月5日に放送されたKBS放送の歴史スペシャルで、大阪の歴史をやっていたそうです。   KBSワールド(スカパー791ch)は 9月28日、歴史スペシャル「百済の熱風」を放送し ましたが、この再放送が10月5日にあったので、それが上記の「大阪の歴史」に該当する のかも知れません。その内容を下記に紹介します。   その前に気になることがあるのですが、半公開のMLにおいてダビングなどという語 はなじまないと思いますので、個人メールにまわしてください。   番組は、日本で百済をクダラと読むのはとても不思議だとして、それを解くところか ら始まりました。これについて、京大名誉教授の上田正昭氏がクダラの語源をこう語って いたのが印象的でした。        --------------------   サンスクリットの「クダラク」がなまってクダラになったとか、いろんな説がありま すが、私は韓国語の「クンナラ」、大きな国のクンナラがなまってクダラになったという 説が一番納得できる説じゃないかと思っています。        --------------------   これまで私は「百済=クンナラ」説に半信半疑だったのですが、古代史の大家がそう おっしゃるのなら、そのまま信じてもいいのかなと考えています。   それはともかく、古代、日本では百済を「大きな国」としてもおかしくないような状 況が確かにあったようです。番組によると 1098年の地図に、河川で囲まれた中之島の東 方に大きく百済州と書かれていたようですが、大阪東部の河内から飛鳥(あすか)一帯の 政治中心地において百済の影響は絶大だったようです。   ちなみに古代の大阪は天王寺の東部や南部を除いてほとんど海か、河内潟と呼ばれる 潟湖ないしは沼沢地で、かろうじて大阪城から新大阪駅西部にかけての上町台地が地上に 顔を出していたようでした。   そうした地形から関西地方における大陸への玄関は中之島のすぐ南、新羅江があった 現在の高麗橋あたりで、そこに外交使節を迎えるための迎賓館が置かれました。   一方、古代の大阪の中心は河内でした。そこは古墳時代に河内王朝があったとする有 力な説もあるくらいですが、そこから飛鳥へは至近距離にあり、その大和地方への入口は 「近つ飛鳥」と呼ばれる名所でした。   その河内一帯に渡来人が多く居住したことがよく知られていますが、渡来人は単に居 住していただけでなく、倭の衣食住を激変させるほどの文化をもたらしたと番組は紹介し ました。   まず建物ですが、5世紀ころ、倭では竪穴式の住居が主流だったのですが、そこへ百 済から大壁構造の巨大な建物を建てる技術が伝わり、そうした建物は村の中心的な存在に なったと番組は語りました。大壁建物は百済独特の構造とされ、韓国では公州の艇止山な どで発掘されました。   また、床暖房である朝鮮特有のオンドルは河内のみならず、遠く大津などでも遺構が 見つかりましたが、これは暖かい日本では結果的にあまり普及しなかったようです。   一方、渡来文化であるカマドは、その有用さが厨房革命を起こしたのか、関西地方を 中心に日本をたちまち席巻したようです。それと同時にカマドを使う蒸し料理も定着した ようでした。そうした新技術の定着過程を京都大学の吉井秀夫教授はこう語りました。        --------------------   初期の段階では韓国の技術で作られるのですが、6世紀になると日本にあった伝統的 な技術で新しい独自の技術が作られる。それは単純に新しい文化が伝わって来ただけでな く、それが広く受容されて調理の仕方、調理の道具が大きく変化してきたことを広角的に 知ることができる。        --------------------   うえに述べたような文化は、どちらかと言うと地味で面白みに欠けるのですが、それ に比べ華やかで絵になるのは何といってもファッションの世界です。衣服関連の文化伝来 は『日本書紀』によれば雄略大王の時代に顕著だったようです。   同書の雄略12年条や14年条に漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)および衣縫 (きぬぬい)の兄媛・弟媛らが倭へやって来たことが記されましたが、かれらを祭った飛 鳥の呉津彦(くれつひこ)神社について、京都橘大学の猪熊兼勝教授はこう解説しました。        --------------------   呉津彦と呉津媛、アヤハトリとも読んでいるのですけれども、そういう人々がこの地 へ来てハタを織った、そういう技術を伝えた。やがて、そのうち多くの渡来の人が来ます から、そういう人たちが百済式の服を作った原点であろう。        --------------------   6世紀、倭人の服装は、南朝の梁へ入朝した各国の使臣団を描いた「職貢図(注1)」 にみることができますが、粗雑な衣服を腰のところで紐で縛った程度でした。そうした実 状の倭へ豪華な百済式の衣服が伝来したとあれば、皆さぞかし目をみはったことでしょう。 実際、職貢図に描かれた百済使臣は、華やいだ絹の衣裳をまとった姿でした。    猪熊教授は、渡来人が百済式の服を伝えたとしましたが、百済服の実際の姿は、聖 徳太子のために作った天寿国マンダラ繍帳(しゅうちょう、注2)に見ることができると のことです。たしかに華麗な姿ですが、そこに描かれた百済服は、当時の宮廷人などハイ ソサエティの人々の間で身分を象徴するステータスシンボルだったようでした。   百済服の極めつけは、飛鳥寺にてハイライトである仏舎利(釈迦の骨)を奉納する式 典の時でしょうか、飛鳥寺の山本宝純住職は『扶桑略記』を引いてこう語りました。        --------------------   蘇我馬子の家がここの南、石舞台古墳の近くにあります。そこから百人の人々が百済 の服装を着て、百済の頭の髪を結って、皆さん行列して、そのブルサリ、仏舎利を運んで きて、この(塔址の)柱の位置へ埋めたんです。        --------------------   巨石からなる石舞台古墳は蘇我馬子の墓とされますが、馬子はいうまでもなく崇峻大 王を謀殺するなど絶大な権力をほしいままにした豪族でした。馬子にかぎらず、蘇我一族 と百済との関係は、一言でいえば密接不可分の間柄でした。それも本を正せば、蘇我氏の 祖先が百済出身なのかも知れません。冒頭の上田正昭氏はこう語りました。        --------------------   蘇我の一族が渡来系の人であったのではないかという説が、日本の学界でも次第に有 力になっています。蘇我の一番古い人で、蘇我満智が渡来系の人でないかと考えられてい るのですが、さらに蝦夷、入鹿などと蘇我氏の一族が続いていきますけれども、蝦夷のお 父さんの馬子という人が、当時の政界で非常な実力を発揮するわけですね。        --------------------   上田氏がこのように蘇我氏渡来の門脇説を支持したことは特筆にあたいします。蘇我 氏が百済出身かどうかについて私は5年前に詳細に書きましたが(注3)、当時は寡聞に して上田氏のそうした意見を知りませんでした。番組で大家の意見を聞けたのは私にとっ て大きな収穫でした。   上田氏も注目する蘇我満智は、対外的、軍事的に活躍したばかりか、『古語拾遺』に よれば雄略朝に宮廷の内蔵・斎蔵・大蔵の三蔵を検校したようなので、宮廷の財政管掌に おいて手腕を発揮し、押しも押されもしない大豪族に成長していったようでした。その財 力の背景には百済との交流や渡来技術の活用による巨富が基盤になっていたようです。   百済の先進技術の一端は今日でも容易に確認することができます。河内に築かれた狭 山池がその一例です。それは池というより、小さな潅漑用ダムといったほうが適切かも知 れません。616年、谷川を堤防で締め切って巨大な貯水池が作られました。それを大阪弥 生文化博物館の小山田宏一課長はこう語りました。        --------------------   これは当時の土木技術としては非常に高度な技術です。日本ではそうした技術があり ませんでした。その技術はたぶん百済から提供してもらって、初めて日本で培われた技術 になっていきました。        --------------------   今日、堤防はありふれているので、狭山池を見ても「高度な技術」という実感がなか なか湧かないのですが、古代、数百メートルの大規模な堤防を作るのは、さぞかし難事業 だったことでしょう。   とかく、昔の堤防は蟻の一穴からでも崩れてしまうほどデリケートなものですが、た だ単に土を安易に盛り上げただけでは大型の台風などで簡単にくずれかねません。狭山池 は1400年という悠久の歳月に耐えてきたのですが、その秘密は百済の先進土木技術にあっ たようです。   百済では堤防を築くのに、固めた土の層の上に木の枝や葉を敷き、それを土と交互に 何層も積みあげるという敷葉工法が用いられました。それは、夫余の羅城やソウル郊外の 風納土城などに現在でも残っているようです。   その工法が狭山池に応用されました。古代の堤防の一断面が狭山池博物館に実物保存 されましたが、枝葉は見られないものの、断面はたしかに層状になっていました。   ちなみに博物館は、今をときめく建築家・安藤忠雄氏により設計されただけに、周囲 の貯水池の景観と相まって風情があって見ものです。春、桜の花との調和が見事でした。   こうした百済の先進技術は、倭の朝廷にとり統治力に大いに寄与したことでしょう。 倭と百済との蜜月関係は、とりわけ舒明大王の時代に顕著にみられます。639年、日本初 の国立寺院である百済大寺と朝廷の百済宮が舒明大王により飛鳥の百済川のほとりに造営 され、そこに遷都がおこなわれました。その背景を明日香地方議会副委員長の広田仁吉氏 はこう語りました。        --------------------   百済という名前のある地域、場所に大きな寺を朝廷が大王(天皇)の命令で建てるわ けですから、百済に対して大変なあこがれと魅力を持っていた、感じていたと考えられま す。        --------------------   倭は百済から仏教や千字文などの文物や学問、あるいは先進技術や文化を取り入れる ことにより、その影響は政治、経済、社会、精神世界などあらゆる分野に深く浸透したよ うです。百済は倭にとって大国、まさに「クンナラ」と呼ぶにふさわしかったようです。 (注1)http://www.japanology.cn/picture/images/04b.JPG (注2)http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/tenzyukokumandara.html (注3)半月城通信<蘇我氏は渡来系氏族か(シリーズ)> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    島根県『フォトしまね』批判 2006/10/ 9 Yahoo!掲示板「竹島」 No.14956   半月城です。   今年2月、島根県は条例「竹島の日」制定一周年を記念してパンフレット『フォトし まね』No.161号を島根県の全家庭に配布したようです。島根県の取り組み姿勢もさること ながら、その内容にも注目すべき点があります。今回はそれについて記したいと思います。 注目点;その1、太政官指令   注目すべき第一点は、明治政府の最高国家機関である太政官が竹島=独島を日本とは 無関係であると宣言した史実を、日本の公共機関では唯一、島根県が認めたことです。 『フォトしまね』はこう記しました。        --------------------   地籍編纂のため、内務省から1876年に竹島(現在の鬱陵島)に関する照会を受け た島根県は「山陰一帯ノ西部ニ貫付(所属)スベキ哉」と回答したものの、同省が最終的 な判断を仰いだ太政官は、同島と外一島を「本邦関係無之」とし、日本領でないとの認識 を示した。外一島とは、現在の竹島とみられる。        --------------------   この記述は、外務省のいう「竹島は我が国固有の領土」とする主張を正面から否定す るものであることはいうまでもありません。まずはその史実を率直に認めた島根県の勇気 に敬意を表したいと思います。   島根県としても、太政官決定の際には内務省が「版図の取捨は国家の重大事」との認 識をもって竹島(欝陵島)と松島(竹島=独島)を慎重に調査したうえで結論を出し、そ れを太政官が追認しただけに、その史実の重みを認めざるを得なかったようです。 注目点;その2、明治政府外務省の見解   注目すべき第二点は、明治初期に日本の外務省が松島(竹島=独島)を朝鮮領と判断 した史実を島根県が認めたことです。同書はこう記しました。        --------------------   1870年に、朝鮮視察から帰国した外務省の佐田白茅は「竹島松島 朝鮮附属ニ相成候 始末」という表題の報告を行う。竹島(現在の鬱陵島)だけでなく、松島(現在の竹島) も、朝鮮領になったというわけだ。        --------------------   外務省のホームページは、この同省の報告書についてまったくふれていませんが、も ちろん外務省はその報告書の存在を知らないわけではありません。同省が編纂した『日本 外交文書』にその重要な報告書が掲載されているくらいです。ま、都合の悪い資料には頬 かむりしているのでしょうか。 注目点;その3,「竹島問題研究会」と下條座長  『フォトしまね』は島根県設立の「竹島問題研究会」が中間報告を要約する形で発刊さ れました。その研究会の座長は、かの拓殖大学の下條正男教授です。   座長である下條氏の竹島=独島に関する過去の見解は、上記の注目点とは大きく異な るのは周知のとおりです。下條氏は二年前の『竹島は日韓どちらのものか』と題する本で 外務省報告書について下記のように記しました。        --------------------   この(外務省の)報告書で問題になるのは、ここに書かれている松島がどこの島を指 しているのか、ということである。  ・・・・   この報告の松島が今日の竹島であったとすれば、佐田白茅が「是迄掲載セシ書留モ無 之」と記述するはずがない。なぜなら、今日の竹島を指す松島については、「是迄掲載セ シ書留」がいくつも存在しているからである(注1)。        --------------------   このように、報告書にいう松島を今日の竹島=独島とすることに否定的でした。これ は太政官指令についても同様です。同指令の「外一島」は不明であるとしてこう記しまし た。        --------------------   この太政官による審査は、十分とはいえなかった。「竹島外一島」の「一島」が、今 日の竹島を指すのかそうでないのか、判然としないからである。   もしその「一島」が今日の竹島だったとすれば、「本邦関係これ無き」というはずが ない。佐田白茅の報告を考察した際と同じ議論で、今日の竹島を日本領とする「書留」が すでにいくつもあったからである(注1)。        --------------------   このように下條氏は、太政官が領土外にした「外一島」は竹島=独島ではないと判断 しました。その下條座長の見解に反する結論を「竹島問題研究会」が導いたのでしょうか?   どうも、そうではないようです。最近、下條正男氏のほうが自分の見解を180度変え たようです。それを私はこう紹介しました。        --------------------   下條氏の論証方法には首をかしげることが多いのですが、今回は驚いたことに、同氏 はテレビ番組で「日本の太政官が、竹島は日本の領土ではない、関係がないといってい る」と語りました。   その時に述べられた「竹島」は、太政官のいう「竹島」すなわち欝陵島をさすのかな と一瞬思ったのですが、やはりこれは竹島=独島をさします。下條氏は、明治時代に太政 官の指令があったので、竹島=独島を日本の固有領土とするのは適切でないといみじくも 語ったので間違いありません(注2)。        --------------------   こうした論点にかぎらず、下條氏のたび重なる主張変更にはあきれるばかりですが、 なぜ主張を変えたのかについては明らかではありません。とかく主張変更は不名誉なこと なので、あまり思考錯誤の事実を知られたくないのが人情です。   その主張変更の影響でしょうか、島根県のホームページ「竹島」には「固有領土」の 主張を連想させるような記述はみられません。ましてや外務省ホームページのように、大 谷・村川両家が「幕府から竹島を拝領していた」などとする途方もない記述はどこにもみ られません。 注目点;その4,「竹島一件」以後の松島   島根県のホームページ「竹島」は外務省に比べるとマシなのですが、それでも最新の 研究成果が十分反映されていません。それを一部補ったのが『フォトしまね』とみられま すが、両者で記述がくいちがっている重要事項があります。「竹島一件」以降の松島(竹 島=独島)に関する説明です。   両者の食いちがいを具体的にみることにします。まず、ホームページにはこう書かれ ました。        -------------------- 元禄9年(1696年)  その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)鬱陵島への渡航を禁じ こ の島を放棄しましたが、竹島については日本の領土と考え渡航を禁じていませんでした。        --------------------   このようにホームページは「竹島一件」以降も竹島=独島を日本領と考えていたと断 言しました。これに対し『フォトしまね』は、松島(竹島=独島)を「日本の領土」と断 定するのではなく、何とか日本領と考えられる余地がわずかでも残されていないかと模索 し、こう記しました。        --------------------   一方、日本側の主張、見解も究明が必要な課題を抱える。その一つが、鬱陵島と現在 の竹島が鳥取藩に帰属した時期を問い合わせた江戸幕府に、両島が同藩に属さないとした 1695年12月25日付の回答だ。   現在の竹島が当時、同藩に属さないと考えられていたとしても、日本領との認識がな かったとは言えず、ましてや朝鮮領とする証明にはならないが、今後検証を深めたい。        --------------------   この一文に、松島を何とか日本に有利なように考えたいという「竹島問題研究会」の 願望をありありと読みとれますが、この文章には故意か偶然か、誤認があります。文中に 「鬱陵島と現在の竹島が鳥取藩に帰属した時期を問い合わせた江戸幕府に」と書かれてあ り、あたかも幕府は「現在の竹島」の存在を知ったうえで鳥取藩に質問したかのような書 きぶりですが、これは事実に反します。   当時、幕府は竹島(欝陵島)の存在は知っていても、実は松島(竹島=独島)の存在 を知らなかったのでした。そうした歴史的経緯を具体的にみることにします。幕府の質問 書を「竹島問題研究会」は現代文で下記のように読みくだしました。        -------------------- 一 因幡国・伯耆国に附属している竹島は、いつ頃から両国へ附属していたのか。・・・  ・・・・ 一 竹島のほかに、両国(因幡・伯耆)に附属する島はあるのか。・・・・(注3)        --------------------   このように松島(竹島=独島)の名は幕府の質問書に登場せず、鳥取藩の回答書に初 めて「竹島、松島、その他、両国(因幡・伯耆)に附属する島はありません(注3)」と 書かれました。   松島の名が新たに登場したことで幕府はその島を調査する必要性を感じたのか、さら に松島に関する質問を鳥取藩へ追加したようです。その質問書はまだ発見されていません が、それに対する鳥取藩の回答書「松島に関する覚書」の方は知られています。そこに松 島が下記のように詳細に説明されました。        -------------------- 鳥取藩が幕府へ提出した「松島」に関する覚書(元禄9<1696>年1月25日)  ・・・・ 一 福浦より松島へ、80里 一 松島より竹島へ、40里 別紙 一 松島へ伯耆国より、海路約120里あります。 一 松島より朝鮮へは、約80~90里もあるように聞いています。 一 松島は、何れかの国に附属する島ではないと聞いています。 一 松島へ猟に行っているというのは、竹島へ渡海する時の道筋であるためで、立ち寄っ  て猟をしています。他領(松江藩、浜田藩など)から猟に行っているということは聞い  ておりません。但し、出雲国、隠岐国の者は、米子の者と同じ舟で行っています。        --------------------   これらの書簡のやりとりから幕府が松島を知らなかったことが明白です。ましてや、 川上健三氏が主張した幕府の「松島渡海免許」の存在などは論外です。さらには松島は周 辺のどの藩にも属していなかったことが明らかです。   言いかえれば、幕府もいずれの藩も松島に領有意識をもっていなかったのでした。そ れにもかかわらず、どうして松島(竹島=独島)は「日本領との認識がなかったとは言え ず」などと言えるのでしょうか。 注目点;その5、国際司法裁判所  『フォトしまね』の巻頭言において島根県の澄田信義知事は、国際司法裁判所に関して こう記しました。        --------------------   もとより領土問題は、すぐれて国家間の問題であり、両国の外交努力により平和的に 解決されるべきものです。このため、国に対しては、国民の理解を深める努力をお願いす るとともに、国際司法裁判所に判断を仰ぐべきではないかとの提案を行っているところで す。        --------------------   島根県の知事は国際司法裁判所による解決も考慮にいれているようですが、「竹島問 題研究会」がまとめたと思われる『フォトしまね』本文の方には国際司法裁判所の話は、 年表以外にまったく登場しません。   それというのも「竹島問題研究会」の下條座長がそうした解決に反対しているので自 然な成りゆきです。同氏は、かつてCSスカパー256ch「ニュースの深層」5月15日放送の 番組「竹島問題 現状と今後の課題」で30分以上熱弁をふるいましたが、その中で裁判に よる解決に反対し、こう語りました(注4)。        --------------------   それ(国際司法裁判所による解決)はやめたほうがいいと思いますね。韓国との間で はそこまでもっていかないで、交流をつづけるなかで問題を解決する道をさぐっていくの が賢明だと思っています。これは100年、200年後のことを考えて。        --------------------   ちなみに国際司法裁判所による解決は、現時点では日韓条約の精神に反します。同条 約の交換公文は、外交で解決できない紛争は「両国政府が合意する手続に従い,調停によ つて解決を図るものとする」と定めており、国際司法裁判所へ提訴する前に第3国へ調停 を依頼する必要があります。これは韓国政府の主張を強く反映した結果でした(注5)。 注目点;その6、サンフランシスコ条約   外務省のホームページは同条約について簡単に<日本がその独立を承認し、すべての 権利、権原及び請求権を放棄した「朝鮮」に竹島が含まれていないことは、米国記録公開 文書等で明らかである>と記すのみでした。   これでは最近の外務省が、竹島=独島をサンフランシスコ講和条約で日本領に確定し たと考えるのかどうか、あるいはSCAPIN 677号を引き継いで竹島=独島を統治している韓 国の既得権益をどう考えるのかなどについては何も知ることはできません。   これに対し『フォトしまね』は、サンフランシスコ講和条約を積極的に解釈し、小見 出しで「条約の締結、発効で日本領土に」と断定しました。そうした解釈が成り立つのか どうか、たぶんに疑問です。それを内藤正中氏はこう述べました。        --------------------   問題は、一九四九年(昭和二十四)十二月の第六次草案で、日本が保持する領土に竹 島を加える修正が行われたが、それがそのまま平和条約に反映されたわけではないという ことである。   一九五一年(昭和二十六)四月のイギリス案では、経度緯度により線引きをして日本 が保持する島を特定する方式がとられ、竹島はその線の外側、すなわち韓国側に位置づけ られていたのである。この案を支持していたニュージーランドは、「主権紛争を残さない ようにすることを確保する必要性」を主張していた。しかしアメリカはこれに反対し、日 本が主権を放棄する領域だけを挙げることで連合国の合意をとりつけ、最終案をまとめた のである。   そのためもあってか、竹島については何らの記述もされなかった。竹島を明確に日本 領としようとした日本の要求は認められなかったのである。一方、平和条約の非調印国で ある韓国も、独島(竹島)を韓国領とするようにアメリカに働きかけをしていたが、この 韓国の要求も実現しなかった。アメリカは、日本領と断定しなかったことで、韓国にも配 慮したというわけである。   要するに、対日平和条約に竹島についての言及がないのは、アメリカが竹島(独島) の領有権について決着させないで、意図的にアイマイにした結果であるといってよい。外 務省の川上健三が「未解決地域の一つ」になったとする所以である。   したがって、報告書がいうように、国際法の原則が、領土問題は平和条約によるもの としても、平和条約に何らの記述もないものを「竹島が含まれたと読み解くのが適切であ る」などと、勝手な解釈をするのは如何かと思われる。まさに未解決のままで残されてい る問題というべきであろう(注6)。        --------------------   内藤氏は「アメリカが竹島(独島)の領有権について決着させないで、意図的にアイ マイにした」と記しましたが、それを裏づける資料も見いだされています。   その資料、在日アメリカ大使館の秘密書簡によれば、アメリカは日韓両国の主張にそ れぞれ一理あるとして竹島=独島の帰属をあいまいなままにしたとされました。その資料 の存在を竹島問題研究会は知らなかったようです。その資料「リアンコールト岩の韓国 人」と題する秘密書簡は、次のように記しました。        --------------------   国務省はリアンコールト岩の歴史をすでに数回も検討したことがあるが、それをここ で詳述する必要はない。その岩はアザラシの繁殖地であり、ある時期、朝鮮王朝の一部で あった。その岩は、日本がその帝国を朝鮮に拡張した時、もちろん朝鮮の残りの領土とと もに併合された。   しかしながら日本政府は、帝国支配の過程においてこの領域を日本の本土に編入し、 ある県の行政下においた。   そのため、日本が平和条約の第2章で「済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対す るすべての権利、権原及び請求権」を放棄することに同意した時、条約の起草者はこの岩 を放棄すべき領域に含めなかった(注7)。        --------------------   この書簡に書かれたような背景から、竹島=独島はサンフランシスコ講和条約に記述 されなかったのでした。それにもかかわらず、竹島問題研究会が同条約を「竹島が含まれ たと読み解くのが適切である」などと解釈するのは、下条氏が日頃いさめるところの「我 田引水的 文献解釈」にあたるのではないでしょうか。  『フォトしまね』に対する批判は他にもいろいろありますが、ここでは割愛し、かわり に内藤正中氏の批判論文のデジタル版を(注6)に紹介するにとどめます。 (注1)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004 (注2)半月城通信<国際司法裁判所による解決に反対、下條氏> (注3)竹島問題研究会<鳥取藩資料からみた竹島問題> (注4)半月城通信<国際司法裁判所による解決に反対、下條氏> (注5)半月城通信<日本の「竹島ゴール」変更、裁判から調停へ> (注6)内藤正中「島根県竹島報告書に異議あり」『郷土石見』71号、2004.4月 (注7)半月城通信<竹島=独島と駐日アメリカ大使館> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    「松島渡海免許」と林志弦氏の主張 2006/10/15 Yahoo!掲示板「竹島」No.14997   半月城です。   ahirutousagi2さん、Re:14992 >下條氏に問題点があるのかどうかは知りませんが、私から見ますと、堀和生氏の論文も  ずいぶんと恣意的で良心的とはいいがたいものですよ。   ahirutousagi2さんは「歴史的な事実を知りたい」といいながら、下条氏が書く「歴 史的事実」について何らの考察もしないのでしょうか?   一方、堀和生氏ですが、明治政府が竹島外一島、すなわち竹島(欝陵島)と松島(竹 島=独島)を日本の版図外にした『公文録』などの史料を発掘した同氏の20年前の功績は 不滅ですが、それだけに同氏が書いた「松島渡海免許」の一節は、誇張していえば罪作り な記述です。堀氏はこう記しました。        --------------------  (大谷、村川)両家は竹島=欝陵島に渡る途中にある松島=独島でも若干漁業をするこ ともあったとみえ、1661年頃 新たに松島への「渡海免許」も下された。ただし、両家の 目的はあくまで竹島=欝陵島であり、松島=独島はその往復途中の手間仕事にすぎなかっ た。   また、二つの島の大きさは桁が違うので、当時の史料中でも「竹嶋之内松嶋」「竹嶋 近辺松嶋」「竹嶋近所之小嶋」等のように、松島は竹島の属島として扱われていた(注1)。        --------------------  「松島渡海免許」は「竹島日本領派」の塚本孝氏によって否定されて以来、最近の池内 敏氏の論文に至り「松島渡海免許」は存在しなかったというのが、ほぼ日本の定説になり ました(注2)。   しかし、韓国ではいまだに「松島渡海免許」の存在を信じる人がいるようです。たと えば、歴史学者の林志弦氏は「松島渡海免許」の存在を前提にして国境紛争についてこう 記しました。        --------------------  紛争当事国は、それぞれ皆、この紛争地域が遠い昔から「我が国の国有の領土」と主張 する。特に独島/竹島や釣魚島/尖閻諸島のように無人島の場合、現地住民と本土住民と の文化的紐帯を主張する何らの根拠がないため、歴史資料に依存するしかない。  それで、各々それが「我が国の固有の領土」であることを立証するに値する歴史資料を 探し出そうと血眼だ。「神聖な我が国土」に対する愛国的歴史家の助けで、幸いにもこれ らの国々は、皆それが「我が国有の領土」であることを立証する諸資料を提示できるよう になった。  しかし問題は、紛争地域に対するこれら歴史資料が、相手を納得させるほど、誰の目に も公平無私で客観的な証拠を提示できないという点だ。自分の目にだけそれなりに客観的 な証拠であるにすぎない。そこで国境紛争はたちまち歴史論争に飛び火する。  それは、もはや客観的事実の領域というより、主観的解釈の領域だ。歴史資料を通じて 紛争が終決されるのではなく、互いに異なる主張が、これからは歴史まで背負って伯仲し た平行線を走るだけだ。  一七世紀徳川幕府の「渡海免許」が、独島(竹島)に対する日本の実効的支配を意味す るという日本の学界の主張と、むしろ外国であることを立証するという韓国の学界の反駁 は、一つの例にすぎない(注3)。        --------------------   このように、林氏は日本の固有領土論の柱に「松島渡海免許」があると信じているよ うですが、それが存在しないとなれば、同氏の主張は根底からくずれかねません。   下条氏は、明治政府の太政官が竹島=独島を版図外にしたことなどから「竹島=独島 を日本の固有領土とするのは適切でない」といみじくも語りましたが(注4)、もし「松 島渡海免許」が存在していたのなら違う主張をしていたことでしょう。   これを受けてか、島根県発行の『フォトしまね』でも竹島=独島を日本の「固有領 土」とする主張はみられません。『フォトしまね』は下条氏の主張を基調にしているだけ に当然と思われます。   このように、最近は日本で「固有領土」の主張が消えつつあります。実際、島根県の ホームページにも「固有領土」を主張する文字はなく、代わりに下記のように書くのみで した。  「江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)鬱陵島への渡航を禁じこの島を 放棄しましたが、竹島については日本の領土と考え渡航を禁じていませんでした」   この一節も「竹島問題研究会」の意向次第では書きかえられる可能性が大です。前回 書いたように、同研究会は「竹島一件」後の竹島=独島を「日本の領土」と断定するので はなく、「日本領との認識がなかったとは言えず」と控えめな表現にとどめました。   一方、外務省のホームページは、下条氏によれば50年前の認識のままで(注4)、竹 島=独島を「日本の固有領土」としていますが、その根拠は50年前の水準にとどまり、 現在ではほとんど通用しません(注5)。   こうして見ると、林志弦氏の見解<紛争当事国は、それぞれ皆、この紛争地域が遠い 昔から「我が国の国有の領土」と主張>という前提は、竹島=独島問題に関するかぎり、 日本側の事情で崩れつつあります。 (注1)堀和生「一九〇五年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987 (注2)半月城通信<竹島=独島と「松島渡海免許」> (注3)林志弦「国民国家の内と外」『現代思想』Vol33-6,2005.5月号、P100 (注4)CSスカパー256ch「ニュースの深層」5月15日放送の番組「竹島問題 現状と今後の課題」 (注5)<竹島=独島「日本の固有領土」説の検証> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    当局の地図に日本領「竹島」はなかった 2006.10.29 Yahoo!掲示板「竹島」   半月城です。   Am_I_AHO_1stさん、Re:15022 >神戸大学のミスと云うことだ。   もし、神戸大学の所有する長久保赤水「日本輿地路程全圖」が、同大学の言うように、 ほんとうに安永4(1775)年に発刊されたのなら大発見です(注1)。   しかし、これは Am_I_AHO_1stが見抜いたように、後の時代の地図と思われます。一 般に赤水図が安永年間の初版かどうか見分けるのは簡単で、赤水の子孫である長久保光明 氏はこう記しました。        --------------------   初版は、安永己亥春(1799)と浪華の発行所名がある。赤水が松岡七友の鈴木玄淳宛書 簡に、安永九年に発行される、とあるのは「発売」の意味である。今も発行年月の記載よ りも3か月、6か月おくれて発売されることもある。なお、国別・山川・道路は有彩色。  ・・・・   初版と再版以後の区別   この区別も混同されて記される。初版は、再版以後に図の上方左側にある枠内の「東 都榊原隠士考証」の潮汐の解説がない。従って区別もできるし、古地図購入の時も初版は 高価である(注2)。        --------------------   長久保氏の鑑別ノウハウにしたがえば、神戸大学の赤水図には安永八年己亥春と浪華 の発行所名がない一方で、地図の左上に潮汐の解説とおぼしき枠があるので、再版以降の 地図と推測され、Am_I_AHO_1stさんの言うとおり弘化三年版に相違ありません。神戸大学 の鑑識眼を疑わざるを得ません。   初版の地図でウェブ上に公開されているのは下記2点でしょうか。他にもあったら、 教えてください。 1.東北大学狩野文庫 2.明治大学蘆田文庫   これらの赤水図で松島と竹島間のすき間に書かれている一節「見高麗 如自雲州望隠 州」は、再版以降の地図、Am_I_AHO_1stさんのいう「劣化コピー」でもよくキープされて いるようです。なお、その一節は日本の領土であることを示すものでないことは池内敏教 授により論証されたとおりです(注3)。   その一方、初版本で松島、竹島は朝鮮半島同様に着色されていなかったのに対して、 弘化年間の「劣化コピー」で着色されて日本領と誤解されるようになったのは、その当時 は日本人の竹島(鬱陵島)における密漁が絶えなかったことを反映した結果と思われます。   弘化以前、1710年の朝鮮王朝実録に「倭船がしばしば漁採することは嘆かわしい」と 書かれたように日本人の竹島(欝陵島)密航がありましたが、19世紀になって 1836年に は浜田藩あげての竹島密貿易事件「会津屋八右衛門事件」が発覚するなど、日本人の竹島 (欝陵島)密航は絶えなかったようです。   その結果、1850年代に長州藩では竹島(鬱陵島)開拓が真剣に論議されるまでになり ました。そうした世相が、松島・竹島の着色に反映されたのではないかと思われます。   このような経緯から、竹島(欝陵島)は日本領であるという「俗言」が生まれたので しょう。しかし、そうした俗言がどうであれ、重要なのは公的な当局が松島、竹島をどう 認識したかということです。   その認識は地図などに表現されるのですが、神代の大昔から戦後の1975年にいたるま で、日本の公的な地図作成機関が発行した地図で欝陵島や竹島=独島を日本領として描い た地図は一枚もないようです。   そうした地図を「竹島日本領派」の面々が必死に探したのでしょうが、徒労に終りま した。結局、竹島=独島を日本の「固有領土」とする意識は幻だったといえます。   Re:15005 > 日本の陸軍陸地測量部は、内務省地理局を統合したものですから、当時は日本で唯一  の公的地図の発行機関でした。現在の国土地理院の前身でもあります。   第2次大戦後、唯一の公的地図作成機関である国土地理院が 1975年に発行した「国 土基本図 作成地域一覧図」でも竹島=独島が除かれました(注4)。 (注1)神戸大学住田文庫「日本輿地路程全圖 : 改正、安永4(1775)年」 (注2)長久保光明「長久保赤水の日本地図編集のあらまし」『歴史地理学』第127号,1984 (注3)池内敏「前近代竹島の歴史学的研究序説」『青丘学術論集』2005 (注4)保坂祐二『日本、古地図にも独島はない』(韓国語)子音と母音社、2005 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 追記 1.<陸地測量部の地図に「竹島」記載>         山陰中央新報、2006.10.31  現在の国土地理院にあたる陸地測量部が一九〇九年に発行した地図「東亜輿地図」に、 竹島が島根県に属することを示す記載のあることが、島根大法文学部の舩杉力修助教授の 調査で分かった。 2.半月城通信<日本の公的な官撰地図、舩杉氏への批判>  国土地理院の地図、1948年版の「日本全図」は1952年に修正、さらに1955年に「一部増 補」がおこなわれ、1955年に竹島=独島やクナシリなどは初めて日本領として描かれました。


    竹島=「独島問題ネットニュース」4      2006.11.14 1.「日韓首脳会談、それぞれの問題の要旨」 2.「韓日の学者が学術大会を開催へ、独島問題など協議」 3.「竹島をめぐる韓国側の動向 歴史的事実基に語る機運」 4.内藤正中教授インタビュー 5.「独島は韓国領」…保坂祐二教授、19世紀の日本地図公開 6.日本の「竹島問題研究会」、欝陵島など視察 7.陸地測量部の地図に「竹島」記載 8.「竹島問題」、韓国研究者「マスコミは冷静に」 9.独島沖の海底に太極旗設ける 10.「独島はわが領土」の日本語歌詞が登場 11.「独島に地震観測所を建設」 12.鳥取県議会の「竹島議員連盟」が発足 13.「日本、独島で漁をした日本人漁民を処刑」 14.韓・日「独島領有権」対談 1.「日韓首脳会談、それぞれの問題の要旨」         朝日新聞、2006.10.9 【竹島(独島)問題】  ・大統領 共同調査は現実的で賢明な措置。境界画定交渉も必要だ。  ・首相 周辺海域の放射能調査を共同調査としたのは懸案解決の好例だ。排他的経済水   域の境界画定交渉や、海洋調査に関する暫定枠組みの交渉を速やかに進めたい。 2.「韓日の学者が学術大会を開催へ、独島問題など協議」         聯合ニュース(日本語)、2006.10.23 韓日両国の学者が集まり、独島や歴史教科書問題の解決策を模索する共同学術大会が 27日にソウル大学で開かれる。島根大学の内藤正中名誉教授をはじめ、名古屋大学の池 内敏教授、韓国・世宗大学の保坂祐二教授、東京大学東洋文化研究所の玄大松教授が論文 を発表し、ソウル大学の李ギ錫(イ・ギソク)名誉教授らが討論者として出席する。 3.「竹島をめぐる韓国側の動向 歴史的事実基に語る機運」         山陰中央新報、2006.10.31  島根県の竹島問題研究会が発掘した資料「礒竹島事略」によると、安龍福が鳥取藩の赤 碕に着岸する四カ月ほど前、既に江戸幕府は同藩に命じ、米子の大谷、村川両家に与えて いた「渡海免許」を返還させていたとのこと。 4.内藤正中教授インタビュー         聯合ニュース(韓国語)、2006.11.5 「石島=独島と称した1905年以前の記録を必ず探すべき」 「独島関連史料の全面公開後、正々堂々たる論争が必要」 「韓国政府ウェブサイトの領有権主張は不十分、書き直すべき」 5.「独島は韓国領」…保坂祐二教授、19世紀の日本地図公開         朝鮮日報、2006.10.25  保坂教授が公開した地図は1882年「東京府士族鈴木敬作」という人物が制作した『朝鮮 國全圖』と1883年に制作された『大日本全圖』(編集者/大須賀龍潭)だ。どちらも日本 人によるものだが『朝鮮國全圖』には鬱陵島(竹島)と独島(松島)が表記されているが 『大日本全圖』には独島も鬱陵島もない。 6.日本の「竹島問題研究会」、欝陵島など視察         聯合ニュース(韓国語)、2006.10.30  下條教授など「竹島問題研究会」会員4名は、欝陵島など視察。5日には独島守護隊事 務局長、嶺南大学独島研究所所長らと意見交換会を持つ予定。 7.陸地測量部の地図に「竹島」記載         山陰中央新報、2006.10.31  現在の国土地理院にあたる陸地測量部が一九〇九年に発行した地図「東亜輿地図」に、 竹島が島根県に属することを示す記載のあることが、島根大法文学部の舩杉力修助教授の 調査で分かった。  コメント; 古代から1975年に至るまで、日本の地図作成当局が竹島=独島を日本領と して描いた地図は見つかっていなかったので、今回が初めての発見である。 8.「竹島問題」、韓国研究者「マスコミは冷静に」         山陰中央新報、2006.9.26  島根県が設置する竹島問題研究会の第十回会合が二十五日、松江市内であり、韓国の研 究者で、東京大東洋文化研究所助教授の玄大松(ヒョン・デソン)氏(44)が意見発表 した。玄氏は、日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)問題の解決に向け、マ スコミの冷静な対応の必要性を指摘した。 9.独島沖の海底に太極旗設ける         中央日報、2006.11.2  深海無人潜水艇「ヘミレ」は先月28日、北緯36度40分・東経130度30分の海 域から、水深2050メートルまで潜水し、銅版でできた横23センチ・縦13センチの 太極旗を鬱陵盆地の上に設けることに成功した。 10.「独島はわが領土」の日本語歌詞が登場         中央日報、2006.10.29   話題の歌は‘社会風刺歌手’ソ・ヒ(51、本名ソ・ソンテク、写真)氏が歌う 「新・独島はわが領土」。1982年にチョン・クァンテ氏が歌った「独島はわが領土」 の作曲家パク・インホ氏が24年ぶりに作ったロック・ビート風の曲だ。 11.「独島に地震観測所を建設」         東亜日報、2006.10.17  金雨植(キム・ウシク)副首相兼科学技術部長官は、「北朝鮮の第2次核実験に備え、 現在、探知システム導入を急いでいる。今後、地質資源研究院の測定所を独島に追加建立 するなど対北探知体系を大幅に改編する」と述べた。 12.鳥取県議会の「竹島議員連盟」が発足         山陰中央新報、2006.9.29  鳥取県庁であった設立総会には議員三十八人のうち自民、公明、社民の各党などに所属 する三十人が参加。会長に選出された伊藤美都夫議員(県議会自民党)が「県民に竹島問 題を啓発し、島根県議会と一緒になって国に働き掛け、国際社会にも発信したい」と決意 を述べた。 13.「日本、独島で漁をした日本人漁民を処刑」         朝鮮日報、2006.11.3  釜山外大の金文吉(キム・ムンギル)教授は2日、島根県浜田市の郷土資料館で「渡海 禁止令」を詳細に記録した縦50センチ、横1メートルの大きさの高札を最近発見したと明 らかにした。 14.韓・日「独島領有権」対談         ハンギョレ新聞(韓国語)、2006.10.31  崔書勉・国際韓国研究院院長ー内藤正中・島根大学名誉教授、3時間「マラソン討論」 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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