半月城通信
No. 81

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  1. 蘇我氏は渡来氏族か
  2. 渡来人のアイデンティティ
  3. 帰化人か渡来人か
  4. 天皇騎馬民族説の進化(1)
  5. 天皇騎馬民族説の進化(2)
  6. 韓国の竹島=独島「実効支配」
  7. 竹島=独島の日韓共通認識
  8. 竹島=独島放棄決定の過程


蘇我氏は渡来系氏族か BIGLOBE 日本史ボード #9171 2001年04月09日  SPM07550   飛鳥時代の筆頭豪族である蘇我氏一門は、その実在が記録上ではっきりす るのは蘇我満智からです。その満智が渡来人だとしたら、その影響は大きいも のがあります。   まず、皇族では崇峻天皇や推古天皇、用明天皇などが渡来人の5代目子孫、 聖徳太子は6代目子孫ということになり、天皇の祖先は意外な側面をみせるこ とになります。   さらに、これまでの「帰化人史観」では、百済や新羅などから来た「帰化 人」が倭に文化や技術を伝えたと理解していたのですが、それが一転して渡来 系氏族もヤマト政権の一翼をになったということになります。   このように右翼を仰天させるような大胆な説が門脇禎二氏により提唱され ましたが、この説は地元の明日香(あすか)村教育委員会でもまともに信じら れているようです。職員のキタムラ氏は蘇我馬子の墓と伝えられる飛鳥の石舞 台を前にテレビでこう語りました(注1)。  「この古墳に葬られている方はどなたかというと、蘇我馬子といわれている。 その当時、今から1400年前に勢力を持っていた方で、この方の先祖、正し くはひいおじいさんは韓国の百済からお越しになった方で、韓国のお名前を木 羅満致(もくらまち)、そして日本では蘇我満智(まち)という方」   門脇説は意外なところでも信じられているようですが、はたして満智=満 致という門脇説はどの程度の信憑性があるのか興味あるところです。 RE:#9103 > たぶん、門脇禎二氏は、両者が同一人物であることの傍証を多 >数挙げられているのだと思いますが、未確認。   門脇説の詳細はここの会議室ではまだ紹介されていないようなので、今回 はそれをとりあげたいと思います。まずは門脇説の発想から紹介します(注2)。        -------------------- 蘇我満智渡来人説  『日本書紀』の応神天皇25年条には百済の久爾辛(くにしん)王が幼年の ため木満致が王母と相婬(あいたわ)け、多いに無礼を行った。よって天皇は 彼を日本に召したとあり、同条所引の『百済記』にも、父木羅斤資(もくらこ んし)の功により任那(みまな)で専権し、日本に往還して大和の王権の指示 を仰ぎ、百済の国政を掌握したことが記される。   一方、『三国史記』の百済本紀蓋鹵王(がいろおう)21年(475)条には、 高句麗の攻来によって王都漢城が包囲されたとき、王は王子の文周(もんしゅ う)に避難を命じ、文周は直ちに木刕満致(もくらまち)・祖弥桀取(そびけ っしゅ)と「南行」したとある。   応神紀の木満致と『三国史記』の木刕満致は『日本書紀』の干支繰上操作 を念頭におくと本来同一人物であり、雄略紀に登場すべき人物が応神紀に混入 されたもので、五世紀後半の蓋鹵王時代の人物とみることができる。   門脇氏は『三国史記』の満致の「南行」を応神紀・『百済記』の日本招来 と対応させて、新羅を経由した満致の渡来を説き、日本に定着して蘇我氏の祖 となったとするのである。        --------------------   ここで補足が必要ですが、門脇氏は日本書紀などの記述を単純に結びつけ ているのではなく、専門家として十分な検討を加えています。たとえば、核心 になる木刕満致の日本渡来をこう考察しました(注3)。        --------------------  『三国史記』にいう満致の“南行”と『日本書紀』『百済記』にいうヤマト 朝廷への召致とを直結させる理解には、疑問もでよう。私も、百済からヤマト へ彼が直行したかどうかは疑問だと思う。   だいいち、『日本書紀』『百済記』に、ヤマト朝廷が満致の“無礼”“暴” を制止するために召致したとする記述には、儒教的有徳思想による潤飾の色が 濃い。   これに比べれば、むしろ『三国史記』が満致とともに南行した一行につい ては、「文周をして救を新羅に求めしむ。兵一万を得て廻る」と記しているの が注意される。   新羅兵一万の援兵をえたことには満致の役割も大きかったのかもしれない。 というのは、満智は、『百済記』に「是れ、木羅斤資(もくらこんし)、新羅 を討ちし時に、其の国の婦(おんな)を娶(ま)きて、生む所なり。」とある ように、彼の母は、新羅人であったからである。   しかし満致が、文周とともに百済にとって返した記事はなく、百済は新羅 兵一万の援軍によって高句麗軍を撃退したものの、蓋鹵王もまた戦死したので あった。このあとをついだ文周王のもとにも、満致の姿はもうみえない。   おそらくこの戦乱の過程に、満智はヤマトに渡来したのではないだろうか。 もしかしたら、彼はかってヤマト朝廷の質人としてきていた幼時の直支王の従 者として、何がしかのゆかりをもっていた可能性もあると思う。   このようにして、蘇我満智と、百済官人と新羅婦人との間に生まれ百済の 権臣であった木刕満致とが同一人であった可能性は大きい、と私は考える。こ の場合『日本書紀』の編者が『百済記』や『三国史記』にみえる人名から、日 本古代氏族の人名を創出したことが明白な例もあり、幾つかの氏族の祖先の朝 鮮風の人名を総括的に検討する余地はなおのこるが、一応、右のように考える。        --------------------   当初、門脇氏は蘇我氏を渡来系氏族とはせず、大和盆地の土着集団のうち から成長したものと考えましたが、当時の時代的背景を考察するうちに、渡来 系氏族としたほうが合理的であると考えを変えたようでした。   同氏は基本的に応神王朝はそれまでの三輪王朝とは血統を別にするとして いますが、その王朝は5世紀中葉の雄略天皇期に激動の時期を迎えたと考えま した。対内的には大和盆地から河内平野に進出し、さらに筑紫・吉備・南山 城・摂津・美濃等の要地に県(あがた)をおきました。   一方、対外的には朝鮮三国や他の国々と競合的に宋のアジア支配体制に結 びつくなどの施策をとりましたが、そうした時代状況から「百済官人であり、 また現地の状況や三国間の関係に詳しい木刕満致がヤマト政権に迎え入れられ た」と主張しました(注3)。   同氏は「5世紀後葉の倭王武=雄略天皇は、身狭村主(むさのすぐり)青 や檜前(ひのくま)民使博徳など、渡来系官人を重用したと所伝された王」で あったことなどを傍証にあげました。さらに、蘇我氏と百済の木氏とのかかわ りをこう追加しました(注4)。  <蘇我氏と百済の木氏とのかかわりを示すものは、ほかにもある。のちの蘇 我本宗家のひとりとして名高い蘇我鞍作(入鹿)は、林太郎鞍作ともいわれた のであるが、その林氏は「百済国人、木貴の後なり」との所伝(『新撰姓氏 録』摂津国諸蕃)をもちつづけた。これもその傍証となろう>   こうした論拠から門脇氏は満智=満致と考えたのですが、この人物は対外 的、軍事的に活躍したばかりか、『古語拾遺』によれば雄略朝に宮廷の内蔵・ 斎蔵・大蔵の三蔵を検校したので、宮廷の財政管掌においても手腕を発揮した ようでした。   つぎに、蘇我という氏の由来ですが、門脇氏は、他の多くの氏族と同様に もとは地名によったもので、大和盆地の曽我川に沿う地に居住したことから子 孫が蘇我氏を名乗ったのだろうと推定しました。その子孫の直系は次のように 伝えられています。  (蘇我石河宿禰)-満智(まち)-韓子(からこ)-高麗(こま)-   稲目(いなめ)-馬子(うまこ)-蝦夷(えみし)-入鹿(いるか)   このなかで、蘇我石河宿禰だけはその存在が疑問視されています。それは さておき、門脇氏は満智の後裔についてこう記しました(注3)。        --------------------   満致(満智)のあと、稲目に至るまでの動向は必ずしも明らかではない。 満致の子とされる韓子は雄略紀にみえ、朝鮮問題で活躍した将軍の一人で、現 地に出た新羅との戦闘の陣中において、紀大磐と争いを起こして射殺された、 という。   彼がもと、祖父と父を百済官人、祖母を新羅人としていた以上、同時に出 征していた大伴談・紀小弓・小鹿火らと、何かと意見の違いの生じやすかった であろうことは想像しやすい。だが、それ以上は、ただ系譜に名前をとどめる 次の高麗とともに、文献的には明らかにし難い。   ただ、この氏が、こののち対朝鮮関係におけるヤマト政権の官人としての 活躍が目立ったことは当然であろう。この時代は、葛城氏・平群(へぐり)氏、 そして5世紀末に葛城氏が滅んでからは、大伴・物部氏が主導する時代に入っ たが、この間、しだいに畝傍山(うねびやま)南方から東の見瀬・豊浦(とゆ ら)・飛鳥へと乾田農業の新技術を駆使して開発をすすめた蘇我氏は、いわゆ る継体・欽明朝の内乱期に急速にのび、ついに6世紀末から7世紀中葉にかけ ては、大王を左右するほどの政治的実権を掌握し、統一的支配体制の形成に大 きな一歩を踏み出したのであった。        --------------------   蘇我氏が勢力を伸ばした背景の一因にはITならぬ新技術の導入があった ようでした。配下に阿知使主(あちのおみ)を祖とする東漢(やまとのあや) や、のちに今来漢人(いまきのあやひと)など渡来人をつぎつぎに吸収し、時 代の先端技術を存分に活用したようでした。また、必要とあれば飛鳥寺建設の ように百済から技術者をおおぜい招きました。   こうした技術力、政治力により新興勢力の蘇我氏はどんどん勢力を伸ばし、 宣化天皇期には勢力圏内に王宮を招致するほどになりました。その手段のひと つに皇室と縁戚関係を結んだことがあげられるようですが、その歴史を門脇氏 はこう記しました(注3)。  「留意されるべきは、欽明天皇皇子に“宗賀之倉王”がいたことである。こ の皇子の母は日影皇女(宣化天皇の娘)だが、皇子の呼び名が母の出自に縁っ ていたのなら、満智の後裔の一族に、宮廷倉庫を管掌するものが生じていたと みられよう」  「蘇我氏はすでに宣化天皇と姻戚関係を結んでいたという、記・紀にも記さ れていない関係が復元できる。この点、前の拙著(『飛鳥』)で気付きながら 解けなかったこと、つまり、王宮も陵墓もともに蘇我氏の勢力圏の飛鳥の檜 前・身狭に初めて営まれたのが宣化天皇であったことの理由も解けてくるよう に思う。それは、おそらく蘇我氏が一族の日影皇女の母を、すでに宣化天皇に 納れていたということによっていたのである」   門脇氏は思わぬ発見をしたようですが、それはさておき、以上が門脇説の あらましです。この説にはもちろん反論があります。たとえば、加藤氏は「い ずれも蘇我氏と百済との親密な関係を示唆する、いわば状況証拠」と批判しま した(注2)。   しかし、話が古墳時代のことなので、肯定説であれ否定説であれ決定的な 証拠を提示するのは困難なのはいうまでもありません。ま、状況証拠の段階で あっても、蘇我氏は渡来氏族であったとすると多くのことがすっきり理解でき るのもたしかです。   たとえば、馬子にまつわるエピソードもその一例です。馬子は蘇我氏の氏 寺である飛鳥寺で仏舎利、すなわち釈迦の骨を塔の芯礎におさめる儀式に百済 服を着用したことが仏教関係の史書である『扶桑略記』に記されました。   このような個々のエピソードに対しては個別にそれなりの反論が可能なの かもしれませんが、全体的に概観すると蘇我氏は渡来系氏族と考えたほうが自 然なように思われます。 (注1)韓国KBS局番組歴史スペシャル「百済最後の日、日本はなぜ支援軍   を送ったか」(2001.3.24)、日本では SKY PerfeckTV 331chで3/31放送。   韓国語の台本は http://www.kbs.co.kr/history/review_txt/010324.txt (注2)加藤謙吉「蘇我氏は百済人の後裔ではない?」『歴史読本特集、日本   と韓国・朝鮮の2000年』新人物往来社,1985 (注3)門脇禎二「蘇我氏の出自について」『日本文化と朝鮮』新人物往来社,   1973 (注4)門脇禎二『新版飛鳥』NHKブックス,1977 (半月城通信)http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/


古代史】渡来人のアイデンティティ BIGLOBE日本史ボード 9187 2001年04月15日  SPM07550   RE:9176, >“渡来人としてのアイデンティティ”がある代までが”渡来人”なので >あって、アイデンティティを喪失した以後は“渡来人ではない”のですね。   これは渡来人本位に考えればそのとおりです。しかし、本人は渡来人でな いつもりでも、周囲が依然として渡来人とみなすケースもあります。そうした 場合、その人をやはり渡来人とみるべきかどうか微妙になります。   そんな場合、その人は往々にして周囲の目により受動的に渡来人として意 識させられるものです。それをある人は「負のアイデンティティ」と表現しま したが、これは渡来人たちが蔑視されるような状況で生じやすいようです。   そのいい例が薩摩焼14代、沈寿官さんのケースです。先祖は400年前 に朝鮮から連れてこられて以来鹿児島で朝鮮人部落を形成して暮らしたのです が、日本人のつもりでいた沈寿官は中学に入学するやいなや朝鮮人ということ で思いがけず上級生のいじめにあいました。   また、詳細は(注1)に書きましたが、戦時中の東郷茂徳外相も同じよう な目にあいました。もっともかれらは司馬遼太郎の小説の題材になるような ケースだったので、特殊な部類にはいるのかもしれません。   奈良時代はそのようなことはなかったようで、逆に彼ら渡来人、とくに専 門家の活動は、井上光貞によれば「ちょうど明治時代の欧米の外人教師が西欧 文明の移植に果たした役割と類似したもの」と高く評価されました(注2)。   そのためか、前回書いたように<『日本書紀』の編者が『百済記』や『三 国史記』にみえる人名から、日本古代氏族の人名を創出したことが明白な例> もあったくらいでした。   蘇我馬子(うまこ)の場合はどうでしょうか。先祖の満智が百済からの渡 来人だとすると馬子は5代目になるので、渡来人としてのアイデンティティが 希薄だった可能性は一般論としてあります。   ところが馬子の場合、アイデンティティの考察に一石を投じるようなエピ ソードがありました。かれは飛鳥寺(法興寺)でおこなわれた儀式(593)に百 済服を着用したことは前に記したとおりですが、これは、馬子が百済渡来系と いうアイデンティティをもっていたので、重要な儀式において百済服で正装し たと考えるのが自然な解釈です。   馬子はたとえ5代目であっても、なお百済系のアイデンティティを持ち続 けていたとしても不思議はありません。蘇我氏は百済一辺倒といえるくらい百 済とのかかわりが深かったうえに、配下には百済渡来系の東漢(やまとのあ や)を擁するなど、内外ともに百済色が濃厚でした。   馬子にとって東漢はよほど信頼できる集団だったと見えて、東漢直駒(あ たいこま)に馬子は甥の崇峻天皇を殺害させ、姪の推古を天皇にすえたくらい でした。   一方、馬子が百済服を着用したのは、アイデンティティにかかわりなく当 時の状況がそうさせた可能性もありそうです。というのも、寺の創建は百済か ら招請した建築技術者や画師、瓦工、金工に加えて、東漢などほとんど百済系 一色でなされました。   さらに倭で初の本格的な百済式寺院とあって、仏舎利(ぶっしゃり)奉納 の儀式は百済式でおこなうのが自然な成りゆきだったと思われます、そのため、 参列者の多くが百済服を着用したのであり、馬子もアイデンティティにかかわ りなく百済服を着用したのかもしれません。   こうした状況からすると、かりに先祖の満智が渡来人でなかったとしても、 馬子は百済との親密な関係を強調するために逆に百済渡来系を吹聴していた可 能性すらあるのかもしれません。   時代はくだって、馬子の孫である入鹿(いるか)の代になっても蘇我氏と 百済との関係は深まるばかりでした。入鹿は大化改新(645)のとき暗殺されま したが、その場所は「三韓」の使節を迎える場であり、百済とのつながりは明 白でした。さらに興味ある記事が日本書紀に記されました。暗殺事件をみた古 人大兄(ふるひとのおおえ)はこう語りました。  「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ、入鹿)を殺しつ。韓政 (からのまつりごと)によりて誅せられるをいう。吾が心痛し」   この一節の解釈は難解なようですが、すなおに読めば、蘇我入鹿は百済一 辺倒の政治が原因で殺害されたということになりそうです。韓政の結果は、百 済系の東漢までが最終的に入鹿の父、蝦夷を見放すなど、蘇我一門にとっては 皮肉な結末でした。   東漢の中で唐に留学した高向漢人玄理(くろまろ)や僧・旻(みん、新漢 人日文)、南淵漢人請安(しょうあん)らは唐や新羅の律令国家を志向し、入 鹿の百済一辺倒政策とは相容れなかったようでした。そのため、かれらは政変 の際に中大兄皇子や中臣鎌足の側に味方しました。かれらは百済系のアイデン ティティ以前に国際感覚を重視して倭の将来を考えたものと思われます。   その背景として、請安や玄理の唐からの帰国(640)経路が浮かびあがりま す。当時はまだ遣唐使船が建造されず、行き帰りはおもに百済や新羅にたよら ざるをえなかったのですが、請安や玄理らは帰りに百済でなくわざわざ新羅を 経由したのが注目されます(注3)。   新羅は百済とちがって切れ目なしに留学生や僧を唐に派遣したようですが、 玄理らは唐でかれらとの交流をとおして新羅に注目し、律令国家のバリエーシ ョンを新羅に実地に学び、国際的視野を広めたようでした。   その後の政局ですが、蘇我入鹿が暗殺されても親新羅路線は形成されなか ったようでした。それどころか、日本書紀によれば 646年、高向黒麻呂(玄 理)は新羅におもむき、翌年、新羅の高官、金春秋をともなって帰国するので すが、その金春秋、のちの武烈王を人質にとったとされたくらいでした。   もちろん、この人質の話は額面どおりに受けとることはできません。とく に新羅の話となると日本書紀は憎しみをこめて書いているだけになおさらです。 日本書紀の成立過程からすると、関与した百済系の史(ふひと)らのアイデン ティティが投影された可能性は十分ありそうです。   ともかく、入鹿なきあともヤマト朝廷は親百済路線で固まっていたといえ ます。それはやがて滅亡した百済を復興するため、唐や新羅を相手に白村江で 戦い(663)をするまでに深入りしました。   余談ですが、白村江は従来定説とされていた錦江(白馬江)ではなく、そ の 20km 南にある東津江であるという説が韓国では有力なようです。 (注1)半月城通信「東郷・元外相は朝鮮出身?」   http://www.han.org/a/half-moon/hm064.html#No.412 (注2)井上光貞『日本の歴史』3、小学館 (注3)田村圓澄『仏教伝来と古代日本』講談社学術文庫,1986   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


タイトル:  帰化人か渡来人か BIGLOBE 日本史ボード #9230 投稿者 :  SPM07550 半月城 投稿日 :  2001年04月29日   遅ればせながら、記事#9171「蘇我氏は渡来系氏族か」でいただいたコメ ントにふれたいと思います。   RE:9195 >古事記に竹内宿禰の末裔と出ています。   古事記で竹内宿禰(すくね)とは初見ですが、建内宿禰ならたしかに蘇我 満智の祖父、さらに建内宿禰の二代前が孝元天皇とされています(注1)。   孝元天皇は欠史9代の天皇のひとりなので、その存在は問題外ですが、建 内(武内)宿禰や、蘇我満智の父とされる蘇我石川宿禰らもやはり実在が疑問 視されます。   門脇氏は、黛弘道氏の研究を引用し「宿禰という姓(かばね)は684年 (天武天皇13年)以後のものであり、この人物(石河宿禰)自身も後世の創作 による可能性が多いとされ、律令時代の石川(宿禰)氏による祖先系譜作成の 可能性が説かれているのである」と記しました(注2)。   やはり、蘇我石川宿禰は後世の捏造である可能性が高いようです。石川宿 禰が疑問なら、建内宿禰はさらに疑問なのはいうまでもないのですが、おもし ろいことに、建内はなぜか蘇我氏同様に渡来人とのかかわりが深いようです。 古事記の応神天皇紀で「新羅の人々が渡来した。そこで建内宿禰がこれらの 人々をひきいて、渡の堤池として百済池を作った」とされました。   新羅の人々をひきいて「百済池」を作ったという記事はどういうことでし ょうか。建内宿禰が百済系でないとすれば、池を作る技術は百済式でなされた と解釈すべきでしょうか。   これと類似の記事が日本書紀にもありますが、こちらは百済池でなく韓人 (からひと)池とされ、こう書かれました。  「7年、秋9月、高麗人、百済人、任那人、新羅人がそろって来朝した。こ のとき武内宿禰に命じて、多くの韓人らをひきいて池を作った。それで池を名 づけて韓人池とよんだ」   つい先日、大阪河内で狭山池資料館?がオープンしましたが、古墳時代、 潅漑用の池が渡来技術を駆使してあいついで作られたようでした。それらにか かわった人たちや、あるいは木羅満致などを渡来人とみるのか、帰化人と見る のか、専門家の間でも意見がわかれるようです。   RE:9195 >  当時の渡来した人達は渡来人と言うよりは帰化人というほうが >あっているような気がする。   古代はいうまでもなく明確な国境や出入国管理があるわけでもなく、往来 は自由でした。そのため、戦乱や飢饉のたびに集団の移動がたえず、フン族や ゲルマン族の移動にみられるように、かえって古代のほうが現代より集団移動 が多かったかもしれません。   日本はどうでしょうか。現代の感覚からすると、日本は島国なので海が障 壁になって日本への渡来は容易でなかったと考えられやすいのですが、事実は そうでもなさそうです。朝鮮半島から日本への航海はかなり容易なようでした。 それを裏づけるような実験が戦時中おこなわれました。それを中川友義氏はこ う記しました(注2)。  「釜山付近から200トンほどの船二隻に大豆を積んで無人で流したところ、 5日目に一隻は山口県仙崎に、一隻は鳥取県赤崎に着いたそうである。いわゆ る裏日本でタマカゼと称する西北季節風の吹く冬のことである。   しかし大陸からの季節風が吹かなくとも朝鮮半島の西岸から南岸にかけて は、北上した西朝鮮海流の末流が南下しているから、裏日本への海流に乗るこ とはそれほどむずかしいことではないのである」   いまでも韓国製のペットボトルなどが山陰や北陸海岸によく漂着しますが、 海流の関係で韓国から日本へ航海するのはいともたやすかったようです。実験 で無人の模擬船が山口県に着いたのは妥当としても、もう一隻が島根県を通り 越して鳥取県にまで漂着したとは意外でした。   もっとも、大加羅国の王子の場合はさらに遠く若狭の敦賀に渡来したとさ れるので、鳥取あたりはことさら驚くにはあたらないようです。日本書紀には こう書かれました。  「ミマキ(崇神)天皇の代に、額に角のある人が、船に乗って、越国の笥飯 浦(けいのうら、気比神社)に泊まった。それでそこを角鹿(つぬが)と名づ けた。問うと、大加羅国の王子で、名はツヌガアラシト、またの名はウシキア リシチ干岐(かんき)という。日本国に聖皇がいると伝え聞いて帰化した」   この記事をそのまま史実とみることはもちろん禁物ですが、物語によると ツヌガアラシトははじめ山口の穴門(あなと)に上陸し、北の海からまわって 出雲を経て敦賀へ着きました。そのさい、倭国内での移動は海路とされました。 古代や中世では陸路は幹線でもないかぎり海路より不便なので、海路での移動 は自然なところです。   さて、うえの記事で注目すべきは、ツヌガアラシトが「帰化した」と記さ れている点です。古代における帰化、日本書紀のルビで「おのずから まうく」 とは王の徳を慕って自発的に化に帰するという意味であり、そのためには前提 として王をより所とした国家秩序が成立している必要があります。   そのような国家は、崇神天皇の古墳時代には未成熟だったと考えられるの で、日本書紀がいうような帰化はありえなかったことでしょう。日本書紀は一 事が万事で、ことさら「帰化」あるいは「投化」などと国家意識をあらわにし ているのが特徴です。   これにたいし、古事記や風土記では単に「渡来」と書かれ、事実が淡々と 記されています。日本書紀が国家意識にこだわったのは、上田正昭氏によれば、 日本版中華思想にこだわり、新羅を蔑視したためのようです(注3)。        --------------------   7世紀後半の持統天皇の頃になりますと、だんだんと朝鮮の国(当時は統 一新羅)を一段と低く見るように、日本の支配者階級は変わってくるわけです。 中国の人には「帰化」という言葉を一例も使っていないのですが、朝鮮半島か らの渡来には使っている。   つまり、日本は東夷の国なんですが、東夷の中の小帝国たらんとするわけ です。『日本書紀』に「蕃」の字を使っているのはどこか。中国に対してはも ちろんありません、すべて朝鮮の国々です。   「蕃国」といっている場合もある。「蕃神」、「蕃女」などの用例もある。 例えば百済の聖明王の代、仏教が伝来しますね。その仏教受容にかんする記述 のなかで、仏を「蕃神」と書いている。朝鮮の女性のことを「蕃女」という使 い方もしております。中国にはそうした使い方はしておりません。   この「蕃」を野蛮の蛮のように解釈している人がおりますが、そうではあ りません。徳川幕藩体制のときに、水戸藩とか尾張藩とかありました。あの藩 と同じ意味です。日本の朝廷に貢物をもって朝貢する国という意味であって、 藩国の意味です。        --------------------  「蕃国」視された代表例が新羅ですが、皮肉なことに白鳳時代においては、 唐と一時断絶したヤマト朝廷は新羅にたびたび使節や留学生を送り、新羅仏教 や律令、文化などを取り入れるのに熱心でした。それが国家意識の成長ととも に、国の正史である日本書紀は新羅を藩塀(はんべい)国あつかいしましたが、 その背景を李進煕氏はこう記しました(注5)。        --------------------   きびしい史料批判なしに『日本書紀』の朝鮮関係記述を使うわけにはいか ないが、8世紀において、できあがったばかりの律令体制を維持・強化するに は、内にあっては天皇を「神国の聖王」とし、万世一系の「皇統」をつくりだ さねばならなかった。   いっぽう、「夷狄」と「藩塀国」を設定する必要がある。720年に完成 した『日本書紀』は、こうした政治的要求を満たす目的で編纂されたのであっ た。  「小中華意識」にもとづく政治書であるために、実際とは関係なしに統一新 羅を藩塀国だとし、朝鮮三国が古くから「朝貢」をつづけてきたかのように修 飾した。そして渡来人を「天皇」の徳化に帰附したとして、「帰化人」にして しまうのである。        --------------------   ほかに帰化人にされた例として、高句麗の慧慈(えじ)をあげることがで きます。日本書紀の推古3年(595)に「高麗の僧、慧慈が帰化した。皇太子が 師事した」と記されました。当時の高麗はいうまでもなく高句麗をさしますが、 渡来した慧慈は永住したわけでなく、20年後には帰国しました。   一方、同じ年に百済から渡来した慧聡(えそう)は単に「来た」と記され ました。両者は「仏教をひろめて、ともに三宝(仏法僧)の棟梁となった」と されましたが、両者の違いは一体どこにあるのでしょうか。   あえていえば、慧慈のほうは皇太子の聖徳太子が師事したとされるので、 皇室の権威を高めるため、慧慈は「帰化」したと書かざるを得なかったのでし ょうか。   研究者のなかには平野氏のように帰化の定義である「王化に帰附」を拡大 解釈し「みずからの意志に従って、自国での政治的、経済的生活を放棄し、安 住の地をもとめて他国に移住」したのを含める人もいますが(注6)、その拡 大解釈にしたがっても慧慈は帰国しているので帰化という語は不適当です。   以上のように、日本書紀の性格や信憑性が問い直されるなかで、帰化とい う用語が不適切なことがしだいに明らかにされました。そうしたうえに、渡来 人を無限定に帰化人と表現したのでは、支配者の王化思想の目で社会を観察す る姿勢になってしまうという反省が上田氏からだされました。その反省は広範 囲に受け入れられたようで、松尾氏はこう記しました(注7)。  <その反省が学界はもとより教育界にも反映され、教育の場・教科書でもほ とんど「渡来人」という言葉で置き換えられるようになってきた。   現在、中学・高校の教科書の記述では、ほとんどが「渡来人」になり、 『記紀』的な「帰化人」のまま表現する書はごく一部であり、また出版業界も、 ほとんど「渡来人」の語を用いて刊行している。こうして現在「渡来人」の語 が定着し、この問題は一応の決着をみたようにみえる>   こうして日本書紀のいう「帰化」はほぼ否定されたのですが、それでもな お、他に帰化にかわる適当な語がないので、あえて帰化という用語を用いる人 もいます。水野氏は、単に渡来人としたのでは彼らのはたした歴史的役割が正 当に評価されないので、暫定的に帰化人の用語を用いるとしてこう記しました (注8)。        --------------------   この(日本国籍法の)ように現行法においても帰化という語が使用されて いるが、そこに規定されている帰化の語には、儒教的解釈の影響をうけた中国 古典的意義はまったく含まれていないことは明白である。   私が帰化もしくは帰化人という語を使用するばあいは、つねに現行法的用 語としての意味によっているのであり、そして、帰化人という表現をとること によって、私としては、むしろきわめて重要かつ基本的な意義を明確に示すこ とができて、有益であると判断する。  ・・・   帰化人が古代日本において、非常に多く社会の構成員として存在し、彼ら が土着し、世代を重ねて日本人と完全に混血融合してきたという事実は、日本 民族の形成には形質上、多量の異人種的な要素が混入していることを示してい る。すなわち日本民族が純粋な単人種ではなく、複雑な混血民族であることを 示すわけである。   また帰化人が古代社会において、文化上に多くの貢献をしたという事実は、 日本民族文化が、異質文化の複合文化であることを意味する。つまり帰化人の 存在は日本民族の種族・文化というものが、そもそも複合的構造であることを 十分に示すものである。   私は帰化人という存在と、その日本の社会・文化のうえにおける貢献を評 価することの正当性を主張したいのであり、その帰化人はたんに一時的に渡来 しただけの人たちではなく、一時的な移住民でもなくて、これまで述べてきた ような意味での存在なのである。   だから私のいう帰化人にまったく合致する適切なことばが、ほかにあるな らば、私はそのことばを使用するのに、けっしてやぶさかではないのだが、い まの時点ではそのようなことばがないのだ、ということを理解していただきた い。        --------------------   水野氏がいうように日本民族が複雑な混血民族であることは、前に記した とおり、宝来聡氏のDNA研究により科学的に立証されたと思われます。しか し、これはおもに弥生時代前後の国家秩序が確立していない時期の渡来集団の 話であり、帰化人の融合とは性格が異なるように思われます。   水野氏の歴史観は、帰化人は「日本人」と混血融合する過程で、多くの社 会的、文化的貢献をなしたということのようです。   それがもし門脇氏や明日香村教育委員会職員のいうように、蘇我氏のよう な有力氏族までが渡来系だとしたら、渡来人は単なる文化的に貢献したにとど まらず、政治的にも古代史にふかくかかわってきたことになり、水野氏の帰化 人観はさらに再検討をせまられることになります。   さて、水野氏が強調する帰化人の混血融合ですが、平野氏によればこれは 簡単ではなく、数百年の歳月が必要であったとのことです。時期的には、下記 のように平安時代中期にまでおよぶとしているのが注目されます(注6)。        --------------------   和辻哲郎氏も帰化人について、古代の朝鮮と日本は彼我の差別が少なく、 国家意識は希薄で相互の混血もきわめて多かったから、帰化人は優遇され、わ が国民にたやすく同化、融合されたと述べている。このような安易な“帰化人 同化論”には、同調するわけにはいかないであろう。  “異民族”の受容はさほど単純なものではない。古代国家において大陸とわ が国の間に帰化、つまりオノヅカラマウクという歴史現象が、波状的かつ継続 的につづいたのは、ヤマト王権が一定の政治的意志によって、積極的にそれを 受容したからである。   それは帰化人がむしろ鮮烈な“異文化”を保持し、その都度あたらしい大 陸文化、つまり知識と技術、さらに習俗をわが国にもたらしたゆえである。そ れはわが社会に強い刺激をあたえ、各段階における国家組織を革新した。“異 文化”は主体的に消化され、あたらしい文化を生む。   “異民族”も貴族層はわが王権に登用され、政府の実務官僚として指導的 な役割を果たしたが、一方でわが氏姓制度に組み込まれ、氏の組織を改編され た。それを最終的に促進した措置として、“改賜姓(かいしせい)”が考えら れよう。“改賜姓”は貴族から一般の百姓にいたるまで、わが氏族社会の特性 を示すもので、帰化氏族もこの制度に包摂されたのである。   このようにみれば、民族・文化とも、帰化氏族がわが国の一部と化する道 程は、さほど短期間ではないし、また単純でもない。“同化”という概念を適 用しうるとすれば、その時期は平安時代中期までとみてよいであろう。このよ うな道程をへて、帰化人はわれわれの“祖先”そのものとなったのである。帰 化人はわれわれの祖先以外のものではない。  「帰化」または「帰化人」という概念は、ここまで視野を拡大して考えねば ならぬ。それは“政治現象”であり、「渡来」または「渡来人」というような “物理的な移動”を示すことばでは、歴史用語とはならないであろう。        --------------------  「帰化人」の「同化」は平安時代中期ころという説は一理ありそうです。平 安時代初期に編纂された新撰姓氏録(しょうじろく)に京畿内の氏族1182氏が 掲載されましたが、その1/3にもあたる 443氏が渡来系氏族として諸蕃に分 類され区別されました。これは渡来系氏族の同化が当時はまだ完全でなかった ことのあかしといえそうです。やはり、同化は長期間かかったようです。   ときに、平野氏は異文化・異民族を受容したヤマト王権と帰化人とを対照 的にとらえていますが、渡来系かも知れない蘇我氏のような「帰化人」が古墳 時代末期、ヤマト朝廷そのものをつくりあげた可能性はいちおう留意すべきで はないかと思われます。   古墳時代は、埴原和郎氏の弥生・古墳時代100万人渡来説を持ちだすま でもなく、渡来人が多かったのはいうまでもありません。宝来氏によれば「本 土日本人の遺伝子プールの約 65% は,弥生時代以後に大陸からもたらされた 遺伝子に由来している」と示唆されました(注9)。   そうしたなかから、鉄器や騎馬など先進技術・文化をもった渡来人がヤマ ト朝廷を誕生させたとしてもそれほど荒唐無稽とも思われません。なにしろ、 古墳時代は正確な記録がほとんど空白で、江上氏の天皇騎馬民族説が生まれる くらい種々の可能性に満ちた時代ですから。 (注1)門脇禎二他『河内飛鳥』吉川弘文館、1989 (注2)門脇禎二他『日本文化と朝鮮』新人物往来社、1975 (注3)上田正昭他『古代豪族と朝鮮』新人物往来社、1991 (注4)上田正昭『アジアのなかの日本古代史』朝日選書、1999 (注5)李進煕『新版,日本文化と朝鮮』NHKブックス、1995 (注6)平野邦雄『帰化人と古代国家』吉川弘文館、1993 (注7)松尾光<検証「帰化人」と「渡来人」>『歴史読本』1988.12 (注8)水野祐<古代日朝関係と「帰化人」>『歴史公論』1978.9 (注9)半月城通信「日本人の遺伝子」 http://www.han.org/a/half-moon/hm073.html#No.486


天皇騎馬民族説の進化(1) BIGLOBE 日本史ボード 記事ID:9286  2001年05月22日     江上波夫氏の騎馬民族説に関する議論がふたたび話題になっているような ので、この機会に前回の書き込み(注1)で足りないところを補足したいと思 います。   歴史学界に一大センセーションを引きおこした江上氏の天皇騎馬民族説で すが、これにたいして半世紀にわたりさまざまな批判がなされました。しかし、 江上氏はそれにひるむどころか自説をどんどん強化し、ついに1991年「騎馬民 族説は実証された」といいきるまでになりました(注2)。   江上氏がそうまで断言するようになった背景には、韓国の古代国家である 金官伽耶(加羅)の驚くような発掘成果がありました。それまでの江上説では 騎馬民族が日本へ渡来するにあたり、実証されるべき朝鮮半島南部における足 跡が不明だったのですが、それが金海市の大成洞古墳の発掘により明確になり、 江上説の大きなミッシングリンクがひとつ埋められたからでした。   こうも重要な意義を持つ大成洞古墳ですが、その特徴は申氏によれば下記 のとおりです(注3)。        --------------------    三世紀末、金海に突然、北方遊牧・騎馬民族的な文化が出現する。たと えば、騎馬用甲冑・くつわといった馬具類、長身の鉄鉾、陶質土器、人や馬の 殉葬、折り曲げた武器の副葬など、典型的な騎馬文化遺品が大成洞古墳から出 土した。    突然の変化はそれだけに止まらず、それまでの墳墓(木棺墓)を破壊し て新しい様式の木槨墓に変った。こうした変化はこの地域に騎馬民族、おそら く扶余族が押し寄せ、支配者が交代したのではないかと思われる。    その結果、国名が狗邪韓国(弁辰)から金官加耶(または単に加耶)に 変わったのではないだろうか。        --------------------   江上氏によれば、木槨墓の起源はシベリアなど北アジア方面であり、スキ タイの墓やシベリアのパジリク古墳、匈奴のノイン・ウラ古墳などの北方遊牧 民にみられるそうです。さらに、その簡略型となると、中央アジアやアフガニ スタンの遊牧民にまで広範囲に広がるそうです。   しかし、申氏によれば、パジリクやノイン・ウラの下限年代は1世紀代を くだらないものなので、大成洞を直接これらと結びつけるのはむずかしいとの ことでした。かわりに申氏は『三国志・魏書』扶余伝にある「有槨無棺」の記 述に注目しましたが、いずれにしてもこれらは北方遊牧民の墓制であることに かわりありません(注4)。   つぎに江上氏は、殉葬が大成洞古墳でもみられたことに注目しました。か って、日本でも身代わりの埴輪がつくられる以前には殉葬がおこなわれていた ようですが、殉葬は北方遊牧民族でしばしばみられる風習とのことでした。   さらに、江上氏は発掘品のなかでとくにオルドス型の青銅製ケットルに着 目しました。これは遊牧民族にとって特別な器であるとしてこう記しました (注2)。        --------------------   北方ユーラシアの古代騎馬民族の間ではケットルは単なる炊さんの器物で はなく、天神はじめ神々を祀るときに犠牲をいれて煮て献納するための神聖な 祭器で、彼ら遊牧騎馬民にとっては携帯用の一種の祭壇・神祠(しんし)を意 味し、そのようなことからスキタイのケットルについては、いろいろな伝承が のこされている。  ・・・   広く騎馬民族の間では、誓いを立て、盟友になるとき、ケットルに酒を入 れ、二人の血をそれぞれに注いで一緒に飲む風習があった。   騎馬民族にとって祭事や宴会や儀式にケットルはなくてはならないもので、 馬につけてどこへでも携えていったのである。騎馬民族の行くところ、つねに ケットルがあったのは、そのような理由からである。   これが伝世して金官加羅の王墓に副葬されていたということは、その王家 の出自が東北アジアの騎馬民族にあったことを有力に示唆するものにほかなら ない。        --------------------   こうした論拠からすれば、大成洞古墳は北方遊牧民系統の墓であることは たしかなようです。江上氏が勢いづくのもむりはありません。ただ、その古墳 を江上氏がいうように具体的に下記のような「流移の人、辰王」に結びつけら れるかどうか、ここにもミッシングリンクが残っています(注2)。        --------------------   そこに埋葬された金官加羅の王族と想定される人々が、土着の韓人ではな く、『三国志・魏書』「東夷伝」に、外界から移動してきた「流移の人」とい われた辰王家に、まさに該当するものであることを示唆しよう。   しかし、彼らは決して土着民から離れ、孤立した支配者ではなかった。そ の反対に、つねに土着の王侯の豪族と婚姻し、合作し、その推戴をうけて王家 を保った人々であった。その点も、彼らは、  「流移の人であるから自ら立って王となることはできなかった。韓人の豪族 から推戴されて、その王位を継続することができた」  という東夷伝の語るとおりであったろう。        --------------------   よそ者の辰王朝は、やがて日本列島へ進出したというのが江上氏の持論で すが、ここの会議室では最近の騎馬民族説を誤解している向きもあるように見 受けられます。そこで、とりあえず江上説のあらましを引用します(注2)。        --------------------   加羅(任那)に都した辰王朝本家は日本征服に乗りだし、まず目の前の対 馬を取り、次に壱岐を取り、さらに北九州に上陸して筑紫を取った。   この段階で本拠の加羅とあわせて、対馬海峡の両岸にまたがる韓倭連合王 国が成立し、それに冠する国号として、加羅からみて東南の太陽の昇る方向の 筑紫を取ったことで「日本」と称したのである。そして、本拠の加羅にあった 辰王の都を「日本府」とよんだのである。   こうした私の説は、日本史の学者がふつう考えているところの、大和朝廷 が朝鮮半島に進出して日本府を設置したという説とまったく逆である。   やがて、倭人の中枢部である摂津・河内に進出し、名実ともに倭国の王と なった辰王家は、中国に対して倭国王を名乗るようになる(大化改新後にまた 日本と称する)。   しかしながら、辰王朝発祥の地としての任那(加羅)には、辰王家の直轄 領(官家、みやけ)としての日本府という名前が残ったのである。それゆえ、 『日本書紀』において、「日本天皇」「日本軍人」あるいは「日本府」といっ た名称は日本側にはなく、ずべて『百済本紀』など朝鮮側の所伝にのみ見える のである。  ・・・   金海に拠点を置いた辰王朝の日本侵入、韓倭連合王国の成立を、日本史の 側からみてみよう。記紀には、周知のように、最初にクニを統治したことを意 味するハツクニシラススメラミコトの名をもつ天皇が、神武天皇と崇神天皇の 二人いたことになっている。  ・・・  (古事記の)御真木、(常陸風土記の)美麻貴とは『日本書紀』に崇神天皇 の諱(いみな)を御間城(みまき)としていることから、すなわちミマ(韓語 で王)のキ(城・宮)のことで、崇神天皇が任那に都したことを示唆する宮号 にほかならない。   多くの国史学者が考えているように、崇神天皇の前までの諸天皇は実在し なかった架空の天皇であって、崇神天皇こそ、韓倭連合王国「日本」の創始者 であった。   ただし、崇神天皇の段階では、筑紫に橋頭堡を築き、海峡を挟んだ韓倭連 合王国「日本」は成立したが、まだ本拠は任那(みまな)にあった。北九州か らさらに近畿地方に進出し、大和朝廷政権の土台を築いた第二の建国者は、筑 紫で生まれたとされている応神天皇である。・・・   倭人の中枢部たる摂津・河内に進出した応神・仁徳以後は、本拠を近畿地 方に移し、その墳墓として、誉田山古墳(いわゆる応神陵)や大山古墳(いわ ゆる仁徳陵)として知られる巨大古墳が築かれたが、まだ本拠を任那において いた崇神天皇の段階では、その墓は任那にあったに違いないことは、私がかね て主張してきたところである。   それゆえ、今回発掘された大成洞古墳の、四世紀半ばの年代を与えられる 木槨墓中には、私の説では、崇神天皇の墓が存在している可能性もあるといわ ねばならない。   以上のごとく、私の騎馬民族征服国家説のミッシング・リンクはついに発 見され、私の学説はほぼ完全に実証されたのである。        --------------------   なんとも江上氏は自信満々なようです。それだけに、江上説にたてば多く の歴史上の難解なナゾがすっきり解釈できることもたしかです。その例として、 江上氏は中国文献に登場する倭の五王や秦王国をこう解釈しました(注2)。        --------------------   応神・仁徳以後の倭の五王-北九州の筑紫に築いた橋頭堡からさらに倭人 の中枢部である河内・摂津に進出した辰王朝本家-が中国の南朝(宋)に対し て、代替わりのたびに、  「使持節都督、倭・百済・新羅・任那(加羅)秦韓・慕韓六国諸軍事・安東 大将軍、倭国王」  と自称して、執拗に朝鮮半島南部の宗主権の認証を求め、宋が、すでに百済 王を任命していた百済を除く他地域の宗主権を認めたことの謎も解けるのであ る。   倭王の主張は、現存している新羅・百済・任那(加羅)のほか、秦韓(辰 韓)は新羅の前身、慕韓(馬韓)は百済の前身という、すでになくなってしま っている国々まで挙げて宗主権を主張し、それでいて弁韓は挙げないというま ことに奇妙なものであった。   これは倭王が三韓時代に朝鮮半島南部を支配した辰王朝の本家であったか ら、宋もその主張に理を認めたこと、そして倭王が弁韓を要求しなかったのは、 現に保持している任那(加羅)の前身だから言うに及ばなかったのである。   そのように考えると日本古代史の学者たちのなかには、国際環境に無知な る夜郎自大的要求とみるむきもあるところの、倭王の一見、不可思議な主張と、 中国がそれを認めた理由のすべてが一挙に解決できるのである。   倭人の国を征服した辰王国が最終的に都をおいた大和は、聖徳太子の時代 まで秦王(辰王)の国といわれていた。『隋書』「倭国伝」には、遣隋使・小 野妹子の返礼使として隋から派遣された裵(はい)世清の見聞が記録されてい るが、そこにはかれらが対馬・壱岐を経て竹斯(筑紫)に至り、さらに東に進 んで、秦王国に至ったとある。  ・・・   倭国王の宋への上表文では、辰韓は常に秦韓と書いていたように、秦王国 はすなわち辰王国である。        --------------------   江上氏が崇神天皇の墓があるかもしれないと推測している金海地方ですが、 かって3世紀にここは狗邪韓国とよばれました。そこには『魏書』「東夷伝」 によれば、韓人とともに倭人が居住していました。したがって、4世紀、金官 加耶の時代に倭人の墓があったとしても不思議はありません。   それが5世紀にいともふしぎなことが起きました。この地方の支配者集団 が急にいなくなってしまったようで、発掘者の申氏はこう記しました(注3)。  「ところが、五世紀になり高句麗の圧力が強まると、奇妙なことにこの金官 加耶から支配集団が突然いなくなってしまった。彼らはどこへ行ったのか?  倭へ行ったのか?」   それにちょうど符丁をあわせるかのように、このころから日本に大量の馬 具など騎馬民族文化がとうとうと入ってきました。これは誰しも認めるところ です。さらにつけ加えるなら、モノだけでなく精神世界の支柱である神話も入 ってきたようでした。前にも書きましたが、高天原(たかまがはら)から九州 に天下ったニニギノミコトの天孫降臨神話が加耶の首露王神話によく似ている ことは三品氏により指摘されたとおりです(注5)。   こうした事実を勘案すると、5世紀、陶質土器(須恵器)文化をもった強 力な騎馬武装集団が加耶から渡来し、あるいは江上説のいうように東遷し征服 王朝、応神朝をたてたのかもしれません。 (注1)以前の書き込みは下記のとおりです。 前方後円墳 http://www.han.org/a/half-moon/hm009.html#No.89 天皇騎馬民族説 http://www.han.org/a/half-moon/hm009.html#No.90 天皇騎馬民族説と加羅 http://www.han.org/a/half-moon/hm009.html#No.91 騎馬民族の定義 http://www.han.org/a/half-moon/hm009.html#No.92 (注2)江上波夫「騎馬民族説は実証された」『月刊 Asahi』1991.6 (注3)申敬澈「韓国の伽耶文化と倭」『倭族と古代日本』雄山閣,1993 (注4)申敬澈「5世紀、金海の支配者達はなぜ消えたか」『月刊 Asahi』   1991.6 (注5)首露王とニニギノミコト   http://www.han.org/a/half-moon/hm017.html#No.152   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/  (ミラーサーバー)http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/


天皇騎馬民族説の進化(2) BIGLOBE 日本史ボード #9299 2001年05月22日     ここでは、どうやら騎馬民族の定義にこだわりすぎてか、その先の本論で ある征服王朝説にはなかなか進まないようです。そうした定義にこだわるかぎ り、これまで一部の批判がそうであったように、騎馬民族の独特の風習が日本 にもあったとかなかったかというやりとりに終始しがちではないかと思われま す。   この場合、参考になるのが百済ではないかと思います。百済でも同じよう に騎馬文化は見いだされるものの、騎馬民族特有の風習があったかどうか、そ の痕跡を見いだすのは容易ではないようです。   それでいて、百済が騎馬民族とされる夫余族の征服王朝であることに誰し も疑いをいれません。それは百済の建国神話などで支配者が騎馬民族とされる 夫余族であることがはっきりしているからです。神話の詳細は以前書きました が、高句麗の始祖、朱蒙(チュモン)の王子・温祚が南下して百済を建国した とされています(注1)。   百済の場合、資料は神話だけでありません。百済は最終的な首都を「夫 余」と名づけたくらいなので資料はいくらでもあるようです。中国の資料にも 残されました。かって北宋の首都であった開封市の図書館に「夫余隆の墓誌 銘」が収蔵されています。   夫余隆は、百済最後の王・義慈王の太子で、百済が滅んだとき唐側にとら えられて長安に送られた人物です。唐は百済を復興して新羅に対抗させること を計画し、夫余隆を楽浪郡王にして朝鮮に行かせようとしましたが、彼にはそ の意志がなく、中国で一生を終えました。   こうした確実な資料があるので、百済に騎馬民族の風習、たとえば家畜の 去勢の習慣や、ケットルなど騎馬民の祭器などあろうがなかろうが、百済の騎 馬民族征服王朝説はゆるぎません。つまり、征服王朝説にとって、騎馬民族独 特の風習の有無はさして重要ではないようです。   日本では騎馬民族という語にすこし反応しすぎではないでしょうか。そも そも、日本へ征服者が5世紀にやってきたとすると、金官加耶の時代からもす でに200年もすぎているので、たとえ騎馬民族の特性すら失われたとしても 不思議はないと思われます。   さて、「夫余隆の墓誌銘」にもどりますが、ここには江上氏の騎馬民族説 にとってきわめて重要なことが書かれていました。  「公、諱(いみな)は隆、字(あざな)も隆、百済辰朝の人なり」   江上氏がかねてから主張していた辰(秦)王朝の実在がここでも証明され たのでした。これと倭とのかかわりは、前回すこしふれましたが、これを整理 して江上氏は座談会でこうのべました(注2)。        --------------------  (随使)裵世清の紀行では奈良の飛鳥の都のことを「秦王国」と言っており、 その国名は倭国王の出自が三韓時代の南部朝鮮半島の大半を支配したという辰 王朝にあったことを示唆しています。   というのは、倭国での「秦」の字は中国側の記録ではすべて「辰」字で表 されており、そのことは倭の五王の上表で三韓の中の辰韓が例外なく秦韓と記 されている事情からも明らかです。   したがって、倭国王の都した大和の国を「秦王国」というのは、「辰王 国」と解するのが至当であって、倭国王が辰王朝から出自したところからその 名を得たものに相違ないのです。   百済の夫余隆も辰朝の出なりと言っているので、同じ辰王家から出た倭国 王の天皇家が、辰王の国(国都)として飛鳥時代まで伝えられていても不思議 はないでしょう。百済王家が滅びるときまで辰(王)朝と伝えられているのに 相応じるものです。   このようにして、先に掲げた百済王関係(夫余隆)と、倭国王関係がぴっ たりと並列し、三韓時代の辰王家を共通にしたものとして結びつきますが、そ れが二つに分かれて、一つは元の馬韓が百済に統一され、そこにずっと居座っ て百済の(夫)余王家になったのに対し、他方は加羅(任那)に遷って日本列 島の征服に乗り出し、まず対馬・壱岐・筑紫などを占領し、さらに数代の後、 畿内の河内・摂津に都を遷して倭王となり、最後に大和に入って、そこの土着 の豪族と合作して大和朝廷を創始したのですが、その後も倭国は終始百済と緊 密な関係を保っており、このことも同じ王朝の分岐したものとして、初めてよ く理解できるのです。        --------------------   江上氏のいう辰王朝の日本征服は、まず北九州の筑紫に拠点をおき、数代 かけて畿内へ進出したことになっていますが、筑紫にはそれにふさわしい遺跡 が残されているようで、江上氏はこう記しました(注2)。  「筑紫の地からは、福岡市老司(ろうじ)古墳群と同県甘木市(あまぎし) 池の上古墳群が検出され、しかもそれら古墳群出土の武器・馬具などには、従 来日本の後期古墳時代に特徴的なものとされていた三角形鉄板鋲留(びょうど め)の短甲や衝角(しょうかく)式鉄冑(てっちゅう)などを含み、またいわ ゆる加耶式陶質土器の共存も認められた」   これらの古墳から出土した土器や鉄製品はどうやら加耶から直接もたらさ れたもののようです。おそらく、それらをたずさえて加耶からすくなからぬ人 が渡来したものと思われます。しかし、それらの人たちがさらに東遷して畿内 に進んだのかどうかはなお検証が必要です。  『日本書紀』で神武天皇が九州から大和へ東征した神話はともかく、征服王 朝とみられる応神天皇は九州で生まれ畿内に入ったことになっており可能性は ありえます。   そうした東征に関係があるのかどうか、4,5世紀、加耶の鉄は畿内のあ ちこちに大量にもたらされたようでした。その典型例として京都の椿井(つば い)大塚山古墳をあげることをできます。この古墳は、邪馬台国の卑弥呼が魏 からもらった鏡ではないかといわれる三角縁神獣鏡が30面以上発掘されたこ とで知られていますが、ここから出土した鉄器について、申氏はこう記しまし た(注2)。        --------------------   加耶と倭ということですけれども、弁辰から加耶へというのは大きな画期 でしたが、その頃、日本でも前方後円墳という大きな古墳が出現します。それ に伴い加耶と倭の間に交易の面でも大きな変化があったのではないかと思いま す。   加耶の鉄を入手するのが、九州北部から大和中心の勢力に移っていくので す。たとえば京都府山城(やましろ)町にある前方後円墳、椿井大塚山古墳か らは、板状鉄斧や矢尻など鉄製遺物がたくさん出土しています。   それまで近畿地方にはそれほど多くの鉄器は出土していなかったんですが、 この椿井大塚山古墳の頃から豊富に出土するようになります。しかも、それら の鉄器を分析すると、ほとんど加耶と関係がある。素材を入手して大和で製品 にしたものもあるかもしれませんけれども、基本的にはほとんど加耶で作った ものではないかと思います。   ですから、4世紀代になると倭の中心の大和と加耶との関係はものすごく 密接になります。        --------------------   申氏は天皇騎馬民族説には慎重ですが、加耶が倭の古墳時代にインパクト を与えたことだけは強調しています。いずれにせよ、卑弥呼の時代から古墳時 代への発展および古墳時代の情勢を理解するには、加耶を抜きにしては語れな いようです。 (注1)「百済」について   http://www.han.org/a/half-moon/hm020.html#No.170 (注2)文芸春秋編『幻の加耶と古代日本』文春文庫,1994


韓国の竹島=独島「実効支配」 Yahoo!掲示板 竹島問題を考える。 2001年5月06日 メッセージ: 2119   半月城です。RE:2102, hakkoda_1297さん > 1905年の島根県告示以前に、竹島に対する韓国の実効的支配が開始され、 それが継続していたことが実証されれば、1905年の告示は他国領土に対する行 為として、意味を失うと考えます。とすれば、一時的に日本の実効支配があっ たとしても、それは国際法上意味を持たないことになります。   一般的に他国が「実効支配」する領土を自国の領土に告示などで組み込む のは国際法的に無効なのは当然としても、帝国主義的軍事占領の場合はかなら ずしも無効とされないので、すくなくとも日本の一時的な実効支配は国際法上 で意味をもつように思われます。   そのため、私はこれまで何度ものべているように、帝国主義時代の国際法 により領土問題を解決することに反対しています。したがって「実効的支配」 の有無などといった狼どもの国際法にそった判断は私にはそぐいません。   それにかわって、私はインドのゴアの場合のように、係争地の歴史、地理、 文化などを総合的に判断したうえで、どちらに帰属するのが妥当かというアプ ローチを取ることにしています。   もっとも対日本の場合、そうした弱肉強食的な国際法の欠陥は多少是正さ れ、カイロ宣言で暴力的に略取した地域は日本から切り離されることになって おり、もし竹島=独島に韓国の「実効的支配」が成立していたのなら、日露戦 争以後における日本の「実効支配」は無効になるのでまだ救いはありそうです。   ともあれ、私は「実効的支配」の検証というのは気が進まないのですが、 せっかくのご要望なので、いったんは韓国における国際法の議論を簡単に紹介 することにします。   それにふさわしい論調として、竹島=独島問題の国際法ブレーンである金 明基氏の主張を紹介します。金氏は韓国が竹島=独島を統治した歴史をこう記 しました(注1)。        --------------------   独島の歴史 (1)于山国の帰順(省略) (2)蔚珍県に付属   高麗時代にいたり鬱陵島は鬱陵、芋陵、羽陵、武陵、茂陵等の名で呼ばれ るようになった。朝鮮時代にいたり、独島を于山島として鬱陵島とともに江原 道蔚珍県に付属させた。  「世宗実録」江原道巻153「蔚珍県」には于山島と武陵等を列挙し、ふたつ の島の間の距離に関して「・・・于山・武陵二島 在県正東海中 二島相距不遠 風日清明 則可望見・・・」と記録されている。 (3)安龍福事件   正宗18年(1794)ころから独島を「カジ(あしか)」が生息している関係 から「カジ島」と呼ぶようになり、高宗18年(1881)ころから独島と呼ぶよう になった。   粛宗19年(1693)に東莱漁民の安龍福の一行と日本人の間で独島にて衝突 があった。これに日本は対馬島主を通じて「竹島への朝鮮漁民の出漁を禁止し てもらいたい」という要求を李朝当局に申し入れ、これに李朝当局は「竹島は 鬱陵島であり、日本漁民の出漁を禁止するように」と主張して両国間の外交戦 が展開されてきたが、粛宗23年(1697)に我々の要求にしたがい、日本は今後 日本漁民の鬱陵島での出漁を禁止するという公文を対馬島主を通じて伝えてき た。   これにて鬱陵島と独島問題はいったん解決をみたが、李朝当局はその後に も鬱陵島と独島にたいし空島政策を継続して、出漁はわがほうの漁民のみがお こなってきた。 (4)島根県編入   日本は明治維新により近代国家を形成して国民の海外進出を奨励するよう になったのにともない、日本漁民がふたたび鬱陵島と独島に出漁するようにな った。   これにたいし、李朝当局は高宗18年(1881)に日本外務卿代理の上野景範 に厳重な抗議をおこなうとともに、空島政策を放棄して鬱陵島にわが国漁民の 入住を許可した。しかし独島は依然として空島状態が継続した。   これにたいし日本漁民も出漁するようになり、1905年2月に日本は独島を 島根県に編入する行政措置をとった。その後、同年11月に韓国は日本の被保護 国となり、1910年に日本に併合され、独島問題は没却されてしまった。        --------------------   このように竹島=独島の歴史を概観した金氏は、空島政策について補足し 「これもやはり主権の行使であり、領域権放棄の意思を表明したものではない。 したがって日本の本源的権原はわれわれの領域権のうえに成立する余地はな い」と記しました。  また、マンキエ・エクレオ事件を分析し「鬱陵島が空島である隙に乗じて 日本人が潜入した事実をもって独島を実効的に占有したという主張は、固有の 領土という主張の根拠とはならないし、漁夫の寄港および漁労活動を国家機関 の公的行為と認めることはできない」と述べました。   さらに金氏は国際司法裁判所についてふれ、もしそこで争った場合、歴史 的権原に関しては「わがほうに有利であるが、わがほうの主張がそのまま国際 司法裁判所で容認される保証はない」と率直に記しました。   金氏がこのように書く背景を想像すると、竹島=独島とされる于山島を朝 鮮領に組み入れた地図は数百枚あっても、竹島=独島がほとんど利用価値のな い無人島であったため公的資料でその正確な位置がよくわからず、ときには鬱 陵島近辺の島とまぎれたりして、一貫して日本側を十分納得させるのが無理な ことを物語っているのではないかと思われます。   しかし、世宗実録に記された于山島や、カジ(あしか)島とされる島など は竹島=独島以外には考えにくいことなど、全体的な流れとしては竹島=独島 を公的資料でたしかに認識していたようです。   そして何にもまして重要なことは、竹島=独島にたいする日本および朝鮮 の認識があります。1696年、安龍福の「竹島一件」をきっかけに、朝鮮では 『増補文献備考』など官製資料で「(古来の)于山はすなわち倭がいうところ の松島」と認識される一方、日本では「竹島 松島 朝鮮付属に相成りそうろ う」と認識され、松島(竹島=独島)も太政官により放棄が確認されました。 この結果、1905年以前に日韓両国の領有権論争は存在しなくなりました。   その間、大韓帝国では 1900年に勅令41号で鬱陵島を格上げし、島監を 郡守にしました。また、名前も鬱島と変え、管轄区域を竹島、石島としました。 ここで注目すべきは、それまでの于山島の名前が消え、新たに石島が登場した ことです。   この石島の位置は公的資料でははっきりしないため、日本では石島を鬱陵 島近くの観音島をあてる人もいるようです。しかし、もし韓国側の主張のよう に本当に石島が独島と発音が通じ、同一の島とみることができるなら、すくな くとも日本の領土編入以前に石島=独島は「韓人」に正しく認識されていたこ とになります。というのも、日本軍艦「新高」の日誌(1904)にこう記されてい るからです。  「リアンコルド岩 韓人之を獨島と書し、本邦の漁夫等 略して『リアンコ』 島と称せり」   リアンコ島が竹島=独島をさすことはいうまでもありません。さて、石島 が独島と発音が通じる根拠として、愼氏はは全羅道の方言を引用しました(注 2)。鬱陵島の住民(季節移住者)は1882年の調査で全羅道出身者が8割を占 めていましたが、愼氏によれば、かれらの出身地、全羅道では石の多い島を 「トクソム(独島)と呼んでいるが、表記はソクソム(石島)となっている」 例がかなりあるようなので、石島=独島説は自然なように思われます。   逆に、鬱陵島近くの観音島は石の島でないことも手伝い、これを石島にあ てる根拠はかなり薄弱なように思われます。   結論として、もし石島=独島なら、それは現在の竹島=独島と正しく認識 されているうえに、管轄が勅令として官報にも掲載されたので、国際法上は十 分な領有の根拠になるものと思われます。さらにつけ加えるならば、官報にた いして周辺国からはなんら異議や疑問は公的にだされなかったようでした。   なお、ここの議論において公的でない史料をあれこれもちだして、鬼の首 を取ったかのように書く人がいますが、竹島=独島問題に関するかぎり私には あまり意味があるとは思えません。 (注1)金明基『独島と国際法(韓国語)』華学社、1991 (注2)愼ヨンハ『独島(竹島)』インター出版、1997


竹島=独島の日韓共通認識 Yahoo!掲示板 竹島問題を考える 2001年5月13日 メッセージ: 2153   半月城です。hakkoda_1297さんの疑問に答えたいと思います。   RE:2131 >いわゆる空島政策というのは、国際法上の主権の行使として認められるので >しょうか?   竹島=独島のように、人がおいそれと住めないような島は空島にするしか ないし、また、たとえ人が住めるような島でも、火山が噴火する時や、海賊の 略奪が横行するような島は空島にせざるをえなくなります。   そんな場合でも島の主権は失われるものではありません。逆にいえば、主 権を有しない外国の島にそもそも何らかの「政策」をしくことは帝国主義的侵 略になります。   空島政策であれ何であれ、何らかの政策をしくのは主権の行使になる一方、 関係国がその島の所属国について一致した認識をもつかぎり、その島をどれだ け有効活用したかなどは内政問題であり対外的には問題になりません。   空島政策で問題になるのは、島を放置したすきに他国が潜入し、長期間有 効活用したうえで領有権を主張しだした場合です。マンキエ・エクレオ島や 「竹島一件」当時の鬱陵島がそうでした。   朝鮮時代、鬱陵島や于山島は倭寇対策や賦税逃れを防ぐため強制的に空島 にされました。その間、日本の大谷家や村川家が江戸幕府の渡海免許を受け、 竹島(鬱陵島)ときには松島で長期にわたり漁労や伐採をし、あげくは漁民同 士のいさかいから島の領有権争いが生じました。そうした潜入や漁労活動を国 際法ブレーンの金明基氏はマンキエ・エクレオ事件の分析からこう位置づけま した。  「鬱陵島が空島である隙に乗じて日本人が潜入した事実をもって独島を実効 的に占有したという主張は、固有の領土という主張の根拠とはならないし、漁 夫の寄港および漁労活動を国家機関の公的行為と認めることはできない」   法学者の意見がどうあれ、元禄時代の領土紛争「竹島一件」は両国間の話 し合いで完全に解決され、竹島(鬱陵島)は朝鮮領とされました。その後、朝 鮮は鬱陵島を放置せず、3年に一度、捜討官を派遣するようになりました。   一方「竹島一件」以後の竹島=独島は、前にも書いたように朝鮮では「于 山はすなわち倭がいうところの松島」と認識される一方、日本では「竹島 松 島 朝鮮付属に相成りそうろう」と認識されました。その結果は何度も記した ように、松島(竹島=独島)は太政官により放棄されました。   この事実を認めたがらない人は、ワラにもすがる思いか、20年後の地図 を持ちだしてまで見当違いの「反証」をこころみたりしてあがいているようで すが、そうした人たちにとって太政官通達を詳述した堀氏の学術論文はタブー なようです。くにたかさんのホームページでもこれを無視しているようで、決 定的な重要情報の扱いに意図的なかたよりがあるように思われます。   だいぶ前に書いたかも知れませんが、堀氏は、太政官が放棄した島は竹島 =独島であるとこう記しました(注1)。        --------------------   島根県当局は、17世紀の大谷・村川両家による竹島=鬱陵島開拓の経緯 を取調べ、竹島と松島=独島の略図を付し、「日本海内竹島外一島 地籍編纂 方伺」として内務省に提出した。つまり、島根県当局は、松島を竹島の属島と して理解していたため一括して取扱ったのであった。   内務省は、独自に元禄期の「竹島一件」の記録を調べ、島根県の「伺」の 情報と合わせ検討したうえで、この両島は朝鮮領であり、日本のものではない と結論をだした。   しかし、「版図ノ取捨ハ重大之事件」であるため、同省は翌77年3月1 7日太政官に「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を提出して、その判断をあ おいだ。附属書類中で「外一島」とは松島であると明記され、その位置と形状 も正しく記述されていた。   太政官調査局の審査では内務省の見解が認められ、次のような文章が起草 された。     別紙内務省伺 日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件 右ハ元禄五年 朝鮮人入嶋以来 旧政府該国ト往復之末 遂ニ本邦関係無之 相聞 候段申立候上ハ 伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉 此段相伺候也     御指令按   伺之趣竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事   この指令按は、右大臣岩倉具視、参議大隈重信、寺島宗則、大木喬任によ って承認された。そして、同年3月29日正式に内務省に指令された。   即ち、当時の日本の最高国家機関たる太政官は、島根県と内務省が上申し てきた竹島=鬱陵島と松島=独島をセットにする理解に基づいて、両島を日本 領に非ずと公的に宣言したのであった。この指令は4月9日付で内務省から島 根県に伝えられ、現地でもこの問題に決着がつけられた。        --------------------   堀氏の論文からすると、太政官や島根県、内務省など関係機関は竹島=独 島を朝鮮領と認識していました。しかし、ここの会議室ではおそらく一部の人 なのでしょうが、太政官が放棄した「外一島」が竹島=独島であることをなか なか認めたがらないようです。   そこで今回、内務省の「附属書類」をくわしく紹介することにします。こ の書類は本文とともに国立公文書館に保管され、その請求番号が titleist_userさんにより #1508で紹介されましたが、その写真が愼ヨンハ氏 の著書に掲載されました。そこには主要部がこう写っていました(注2)。        --------------------  磯竹島 一に竹島と称す 隠岐国の乾(いぬい、北西)位 一百二拾里許に在 り 周回凡(およそ)十里許(ばかり)・・・  ・・・  次に一島あり 松島と呼ふ 周回三十町許 竹島と同一線路に在り 隠岐を距 (へだて)る八拾里許 樹竹稀なり 亦(また)漁獣を産す 永禄中 伯耆(ほう き)國會見郡米子町商 大屋<後 大谷と改む>甚吉 航して越後より歸(か え)り颱風を遇(お)ふて此地に漂 (写真の文はここまで。カナはかなに変換、丸かっこ内は半月城注、カギかっ こ内は原著にて小文字で記されている)        --------------------   文中、松島から竹島までの距離が40里(160km)とされ、実際の距離 92kmよりだいぶ遠いのですが、これは江戸時代の一般的な認識であり、問題の 松島が竹島=独島を指すことに疑問の余地はありません。また、周回30町 (3.3km)というのも大西の『隠岐古記集』にある「周り凡壱里(4km)程」という 記述によくあい、松島が竹島=独島をさすことは確実です。   この公文書が示すように、まぎれもなく島根県や内務省、太政官は竹島= 独島と鬱陵島とを一対に扱い一緒に放棄しました。その持ち主は「竹島一件」 とのからみで朝鮮であることが暗示されました。もちろん「固有領土」の認識 はかけらもありませんでした。   RE:2131 >最後に、大韓帝国が鬱陵郡守の管轄区域として挙げた石島が現在の竹島であ >るとして、大韓帝国政府は石島に対し、どのような支配を及ぼしていたので >しょうか。私としては、日本が島根県告示の後に竹島に対して行っていたの >と同程度の支配の実績が必要であろうかと思うのですが、いかがでしょうか?   すでにふれましたが、日本の竹島=独島編入告示(1905)以前、日本と大韓 帝国はともに松島・竹島は朝鮮領であるとの共通認識をもっていたので、大韓 帝国が竹島=独島をどう利用しようと領有権論争にはなんら影響しないと思わ れます。   ちなみに、韓国人の竹島=独島利用ですが、これは空島政策が公式に廃止 され、鬱陵島開拓令がだされた翌年の1883年から本格的に始まったようでした。 ただ、漁民など庶民の記録は歴史に残りにくいので公的記録はみかけないよう です。   この年、同島に移住した洪在現氏(62年生まれ)は回想で「開拓当時、鬱 陵島人はすぐ独島を発見し、ワカメやアワビまたはアシカをとりにしばしば独 島に出漁し、自分も十数回往来した」と述べました(注1)。   この回想の信憑性はともかく、1904年に日本軍艦「新高」が「韓人」の独 島認識をわざわざ記録しているので、鬱陵島の韓国人がかなり竹島=独島を利 用していたことはほぼまちがいないようです。   さて、おたずねの大韓帝国による独島「支配」ですが、「支配」の一形態 として、尖閣諸島を例にだすまでもなく、他国が領有権を主張したときの公的 対処をあげることができます。「支配」の認識がなければ何の対処もしません。   竹島=独島の場合、1905年の島根県による竹島=独島編入にたいし、竹島 =独島の領有意識をもっていた韓国は、これを知った時にもちろん反発しまし た。   1906年、鬱陵郡守の沈興澤ははじめて「本郡所属独島」が島根県に組み込 まれたことを日本人官吏から聞いたとき、その事実をすぐ中央に報告しました。 かれは報告書のなかで、勅令にはなかった「独島」を本郡所属としましたが、 これは勅令(1900)に書かれた石島を独島と同一視していたためと思われます。 これからみても、石島と独島は表記上で混用されていたようでした。通常の発 音はやはり「ドクソム」で共通していたように思われます。   沈郡守の報告を受けた中央の参政(総理)大臣・朴斎純は「独島が日本領 になったという話は根拠のないことだが、独島に関する事情を詳細に調べ、日 本が独島で何をしたかを報告せよ」と指示しました(注1)。   これは韓国政府が竹島=独島の「支配」意識を明確にもっていたことを示 すわけですが、この事件はマスコミで報道されるや「朝鮮の中央政府も現地の 鬱陵郡守も、また民間人も、日本の竹島=独島の領土編入をその時点で侵略だ とみなしていた」のでした(注1)。   当時、韓国は日本に乙巳保護条約を強要され、外交権を剥奪されるなど半 植民地状態にありましたが、こうした事件で侵略をまのあたりに感じるように なりました。その後、大韓帝国全体にたいする侵略のまえに、竹島=独島問題 が消し飛んでしまったのは特筆にあたいします。   結論として、日本は竹島=独島の領土編入当時、同島は朝鮮領との認識を もっていたので「固有領土」の主張は論外として、「無主地」の編入論すら成 り立たず、島根県告示は無効ではないかと思われますが、いかがでしょうか。 (注1)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』   第24号、1987 (注2)愼ヨンハ『独島の民族領土史研究(韓国語)』知識産業社,1996   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


竹島=独島放棄決定の過程 Yahoo!掲示板 竹島問題を考える 2001年5月29日 メッセージ: 2192   半月城です。Torazo_xxxさんの裁判ごっこにつきあうのは時間の浪費であ るという心境になり、だいぶ前からよそで古代史の書き込みにいそしんでいま した。その留守の間に私の書き込みを期待する声があったようなので、すこし はそれにこたえるべく、今回は島根県「伺い書」を中心に書きます。   RE:2168, >---------2154番(半月城さん)より引用はじめ--------- >附属書類中で「外一島」とは松島であると明記され、その位置と形状も >正しく記述されていた。 >---------引用おわり----------------- >これもまた、随分と都合の良い解釈ですね。 >なぜならば、この「附属書」というのは、島根県からの「伺い」文の事です。 >島根県から「松島」と伺いがあげられ、 >明治政府は、これに対してわざわざ「外一島」と名称を変えて回答している >訳です。   前回、#2177「資料の捏造?」で記したように、島根県の伺い書のタイト ルは堀氏によれば「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」です(注3)。ところ が、Torazo_xxxさんはこうした学術論文には一顧だにせず、架空の<「松島」 伺い>にあくまで固執しているようです。   その論拠として、もっともらしく太政官の資料「日本海内竹島外一島ヲ版 図外ト定ム」をあげました。この流儀は、いかにも「反証」とかをむねとする Torazo_xxxさんらしいやり方だと、またもやうんざりさせられました。   一般に、民事裁判では真実を明らかにすることよりも、いかに自分の主張 が正しいかをアピールするのに腐心するあまり、自分に不利な資料には一切ふ れないものです。   Torazo_xxxさんは、まさかそのような資料隠しをしているわけではないの でしょうが、かってtitleist_userさんが #1508で紹介された国立公文書館の 重要資料「ふたつ」のうち、なぜかまぎれやすい資料だけをもちだし、それを 土台にあれこれディベートを展開しているようです。   これは、かっての論証に20年後の地図を平然と持ちだしたTorazo_xxxさ んなれば、よもや誰も国立公文書館で資料を確認しないだろうと危険な賭けを したのではあるまいかという憶測を生じかねません。   Torazo_xxxさんが示した太政官の資料には、たしかに「島根県伺 内務省 宛」も含まれていました。しかし、これは島根県の伺い書から必要と思われる 本文だけを筆写したものであり、ほかは太政官にとって不要なのか、島根県の 提出担当者の名や内務省の担当宛先、タイトルなど、いわばヘッダーとフッ ターが省かれました。   Torazo_xxxさんはそんな不完全な資料だけをかかげ、<「松島」伺い>と むりやりこじつけたようですが、たとえこの資料だけを見たとしても、そんな 曲解がまかりとおるものではありません。   こう書くと、裁判ごっこやディベートに徹底的にこだわるTorazo_xxxさん のこと、また何かをひねりだすのでしょうが、それも今回は通用しません。と いうのも、堀氏も確認したように、島根県が提出した伺い書は、内務省の『公 文録』にのっており、そこでタイトルが「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」 とあきらかにされているからです(注2)。ちなみに、提出した担当者は島根 県参事・境二郎で、宛先は内務卿大久保利通殿でした。   この重要な資料をTorazo_xxxさんはあるいは見ていなかったといいだすの かもしれませんが、この資料の存在はTorazo_xxxさんの築いた砂上の楼閣を崩 壊させるものではないでしょうか。   これで、Torazo_xxxさんのいう<明治政府は、これに対してわざわざ「外 一島」と名称を変えて回答している>などといった我田引水は明らかに誤りで あり、島根県の伺い書の段階から松島(現竹島=独島)は「外一島」とあたか も竹島(鬱陵島)の付属島であるかのように一貫して扱われており、明治政府 がわざわざ名称を変えて回答した事実はありません。   なお、松島は #2155「竹島=独島の日韓共通認識」で書いたように、現在 の竹島=独島をさすことは、島根県の伺い書に添付された附属書類から疑いの 余地がありません。この伺い書にたいし、内務省は独自に元禄時代の「竹島一 件」における朝鮮との交渉経過などもしらべ、竹島(鬱陵島)・松島(独島) は朝鮮領であり、日本領ではないとの結論を出しました。   そのうえ、内務省は慎重に「版図の取捨は重大之事件」であると考え、念 のために太政官に島根県伺いと同じタイトルで「日本海内竹島外一島地籍編纂 方伺」を提出し、その判断をあおぎました。これにたいし、太政官は「竹島外 一島之儀 本邦関係無」と裁断しました。つまり、竹島(鬱陵島)と松島(独 島)は朝鮮領であるとした内務省の見解を公式に承認し、両島を放棄したので した。   こうして、松島・竹島は朝鮮領であるという認識が朝鮮のみならず日本政 府でも公式に確立されました。   このように、日本は竹島=独島を他国の領土であると認識していながら、 それを軍事的必要から日本領に編入する閣議決定をし、島根県がその管轄を告 示した行為は無効といわざるをえません。   そうなると、竹島=独島はカイロ宣言にいう「暴力及貪欲に依り」略取し た地に該当するので、戦後、連合軍が指令 SCAPIN 677号で竹島=独島を日本 から政治上、行政上分離した決定は正しかったということになります。 (注1)『太政類典 第二編』明治4年ー明治10年、第96巻   以下の詳細は、titleist_userさんの #1508より引用  件名:日本海内竹島外一島ヲ版図外トス  件名番号:19  作成部局:太政官  作成年月日:明治 10年 03月 29日  請求番号:1-2A-009-00・太-00318-100  関連事項:国堺・稟候・内務  マイクロフィルム番号:太-038-0606 (注2)『公文録』内務省之部一、第25巻、明治10年3月   以下の詳細は、titleist_userさんの #1508より引用  件名:日本海内竹島外一島地籍編纂方伺  件名番号:16  作成部局:太政官  作成年月日:明治 10年 03月  請求番号:1-2A-010-00・公-02032-100  マイクロフィルム番号:公-256-1345 (注3)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』   第24号、1987   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


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