半月城通信
No.120(2006.6.9)

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    目次

  1. マンガ『嫌韓流』に対する反論本
  2. 拉致被害者の家族愛と西岡力氏
  3. 「歴史教科書をつくる会」の深刻な内紛
  4. 国際司法裁判所による解決に反対、下條氏
  5. 『蔚陵島事蹟』以後の竹島=独島認識
  6. 【寄稿】独島は日本の「固有領土」か?

  7. マンガ『嫌韓流』に対する反論本 2006.5.7 メーリングリスト[AML 7016]   半月城です。   これまでインターネットで嫌韓をあおるサイトにはきちんとした体系的な反論がなく、 いわば、野放しになっている感があります。   その理由の一端は、ヘイトサイトに書かれた内容が事実誤認に満ちたアホらしいもの が大半であるために、肩ひじ張ったプライドを持つ専門家がまともに相手にしなかったこ とにあります。   また、反論する場合でもそれなりのエネルギーと時間が必要なので、かなり面倒なも のです。戦闘でいえば、ゲリラを正規軍が攻撃するのに相当な労力を必要とするようなも のです。   具体例でいうと、私は嫌韓派の書き込み「ハングルは日韓併合以前は、公文書にも、 祝祭祀文にも、まったく使われなかったんですよ」に反論して、<朝鮮総督府の朝鮮語政 策>と題する文を下記に書いたことがありましたが、専門家でない私の実力不足もあって、 かなりの労力を要したものです。 <朝鮮総督府の朝鮮語政策>   他にもいろいろな事情が、ことさら嫌韓派をのさばらせて来たのではないかという思 いがするのですが、マンガ『嫌韓流』などが数十万部も出回ったのでは、とうてい放って おけない状況になりました。   今回、遅ればせながら『嫌韓流』に対する反論本がコモンズ社から出版されることに なりました(注)。題名は『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』で、執筆者の何人かはこ このメンバーが選ばれました。私も「竹島=独島の知られざる歴史」を担当しました。 『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』の目次は下記のとおりです。 第1話 W杯サッカー史に新たなページを加えた日韓大会 姜誠      [検証]「日韓共催ワールドカップの裏側」 5 第2話 「補償問題は解決したのか?」 太田修      [検証]「戦後補償問題」 31 第3話 在日コリアンへの誤解と偏見の増幅を斬る! 朴 一      [検証]「在日韓国・朝鮮人の来歴」 53 第4話 文化交流を阻む無理解と非友好的心性 鄭夏美      [検証]「日本文化を盗む韓国」 83 第5話 差別拝外主義を煽り立てる『マンガ嫌韓流』とマスメディアの真の問題                           鄭雅英      [検証]「反日マスコミの脅威」 103 第6話 間違いだらけのハングル講釈と植民地美化 呉文淑      [検証]「ハングルと韓国人」 129 第7話 外国籍住民への排除と同化の圧力 綛谷智雄      [検証]「外国人参政権の問題」 151 第8話 「植民地支配は絶対悪」という真理 藤永壯      [検証]「日韓併合の真実」 173 第9話 竹島=独島の知られざる歴史 半月城      [検証]「日本領土侵略ー竹島問題」 201  特別編『冬のソナタ』がくれたもの 高吉美 223  エピローグ 「嫌韓」「反日」から「好韓」「知日」へ 朴 一 241   この機会にすこしは理論武装して、嫌韓派との対決に備えたいものです。   なお、未確認情報で恐縮ですが、5月20日、大阪市立大学の学術情報センターで午後 から『韓流と嫌韓流を読む』というシンポジウムが朴一教授主催で開催されます。どなた か確認できましたら、その旨の書きこみをお願いします。 (注)コモンズ社『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』5/10発売、\1575円 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    拉致被害者の家族愛と西岡力氏 2006.6.3 メーリングリスト[AML 7446]   半月城です。   よく知られていることですが、韓国人の親類への情は日本人に比べてかなり濃厚です。 たとえば、韓国では伯父のことを「クナボジ」(大きいお父さん)、叔父のことを「チャ グナボジ」(小さいお父さん)と呼び、父親に準じる存在に位置づけています。   また、日本ではハトコはほとんど他人ですが、韓国では日本のイトコくらいの感覚で しょうか。つまり韓国の6親等は日本の4親等くらいの感覚に相当するといってもいいか も知れません。   そのような感覚の差が日韓の拉致被害者家族間にあるような気がします。先月、横田 めぐみさんの義母にあたるとされる崔ハルモニ(おばあさん)が来日しましたが、ハルモ ニと、めぐみさんの母である横田早紀江さんとでは肉親に対する考え方が少し違うようで す。こんな記事がありました。        --------------------  今回の(崔さん一行の)訪日で、韓日政府レベルだけでなく、ら致被害者家族の間にも 明白な隔たりがあることが分かった。金さんの家族は、訪日期間中に「英男に会えるのな ら、北朝鮮へ行くこともできる」との立場を示した。そうすると、めぐみさんの家族は 「北朝鮮が『会いに来るように』というからと言ってすぐに応じたりしたら、北朝鮮の ペースに巻きこまれる。慎重に対処すべき」と注文した。 早紀江さんは「02年末に孫娘のヘギョンに会いたいなら北朝鮮を訪問するように、と 言われたが、行かなかった」という説明までした(注1)。        --------------------   4,5年前、横田さん夫妻は機会があったにもかかわらず、孫娘のヘギョンさんに会 いに行かなかった時のことが生々しく思い起こされました。   横田さんは北朝鮮の政治的意図に乗せられてしまうのを嫌ってか、孫娘との面会を拒 絶したようですが、もし、私が横田さんの立場におかれたら、たとえ政治的に利用されよ うとも一度は肉親に会うことを最優先にして孫娘に会いに行くのに、と思ったものでした。 といっても、私は被害者である横田さんを批判するつもりは毛頭ありませんので、誤解の ないようつけ加えます。    皆さんならどう判断されるでしょうか? また、横田さんと私の違いは、日本人と韓 国人との違いからくるものでしょうか? それとも、単に肉親に対する思い入れの深さの 違いでしょうか?   それにしても今回の日韓拉致被害者の出会いは「事実は小説よりも奇なり」という俗 言がぴったりの出来事でした。それぞれ拉致された夫婦の親同士、韓国語でいうサドンキ リが日韓の国境を越えて、子ども不在のまま劇的に出会うとは三文小説も顔負けです。   そうした成果の一方で、ハルモニは今回の訪日で相当お疲れになったようです。過熱 したマスコミの取材に追い回されながらの強行スケジュールに体調をくずされたようです。 先の中央日報はこう伝えました。        -------------------- 横田めぐみさんの両親など北朝鮮による日本人ら致被害者の家族に会うため日本入り した韓国人ら致被害者、金英男(キム・ヨンナム)さんの家族が先月31日、新潟空港か ら帰国した。4日間の日程は、金さんの母親・崔桂月(チェ・ゲウォル、78)さんと 姉・金英子(キム・ヨンジャ、48)さんにとって、強行軍の連続だった。 北朝鮮にら致された息子・英男さんと結婚したものとされる横田めぐみさんの母親・早 紀江さん(70)に初めて会った後、国会に出席して証言し、ら致問題に積極的に取り組 んでいる安倍晉三官房長官と一緒に食事もした。めぐみさんがら致された新潟県へ向かう 「地方日程」まで消化しなければならなかった。常に数十人の報道陣が遂行し、テレビ番 組に出演させようとする各テレビ局の競争も激しかった。 そのため元々体調が悪かった崔さんは、めぐみさんがら致された現場を訪ねる3日目の 日には「目まいがする」とし、日程を取り消した(注1)。        --------------------   ハルモニが日程を取り消したのは、現場視察だけではなかったようです。『週刊新 潮』はこんな記事を載せていました。        --------------------   横田めぐみさんの夫とされる金英男さんの母・崔さん一行が来日した5月27日、都内 ではこれに合わせて「日韓連帯東京集会」が開かれ、翌28日には「国民大集会」が開かれ た。   本来なら、崔さん一行も出席すると見られていたのだが、蓋を開けてみれば、崔さん らは横田さん夫妻には会ったものの、この二つの大きなイベントを欠席してしまったのだ。  「崔さんらの欠席は、一緒に来日した韓国の『拉北者家族会』代表・崔成龍氏と『韓国 人拉致被害者・脱北者人権連帯』事務局長の都希命氏が強く反対したためでした。もちろ ん、崔氏も都氏も出ていません(「救う会」の関係者)。  ・・・   それにしても、拉致被害者の救出運動を止めかねないほどの怒りとは何なのか、当の 崔成龍さんに聞いてみた。  「我々が欠席した理由は、救う会副会長の西岡力氏のやり方に堪忍袋の緒が切れてし まったからなんです」   そう語る崔氏は、西岡氏とは付き合いを始めて5年ほどになるという。  「彼は今までも色々なことで我々を軽んじて見下してきました。例えば、今回、横田め ぐみさんの夫が金英男氏ではないかという情報がもたらされた時、我々は韓国政府を動か してDNA鑑定をやろうとしたのです。   ところが、西岡氏が電話をかけてきて、"あなたたちの力では無理だから私にまかせ なさい"と横槍を入れてきた。また、西岡氏は、横田滋さんが5月に訪韓したときも詳し い日程を教えようとせず、今回の訪日だって我々には招待状すら寄越さなかったのです」  ・・・   一方、今回の"火種"とされた西岡氏はというと、「私のことで怒っているというなら、 一歩引いた形で見守るしかありません」と困惑気味(注2)。        --------------------  『週刊新潮』は興味本位で記事を書くので、うえの記事を話半分に読むとしても、とも かく「救う会全国協議会」の西岡力・副会長のやり方は相当な反発を受けたようです。   やさしそうな横田滋さんが、肉親優先より政治的判断を先行させた背景には「救う 会」の理念や活動方針が影響したのでしょうか。もしそうだとしたら「救う会」は肉親の 情を裂く、救いがたい団体のように思えます。 (注1)韓国「中央日報」2006.6.1 <ワールドエッセー>金英男-横田さんの家族、「訪朝」で微妙な隔たり (注2)<「横田さん夫妻」も嘆く日韓支援団体の「内輪もめ」>『週刊新潮』2006.6.8 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    「歴史教科書をつくる会」の深刻な内紛 2006.5.3 メーリングリスト[AML 6938]   半月城です。   戦前の「国粋主義的な愛国思想」を連想させる歴史教科書を出したことで知られる 「新しい歴史教科書をつくる会」の内紛が深刻なようで、産経新聞をまきこんで泥仕合を やっているようです。   産経新聞が問題になったのは、つぎの記事でした。        -------------------- 「つくる会、八木氏を副会長に選任 夏までに会長に復帰へ」                   産経新聞(2009.3.29)  新しい歴史教科書をつくる会は28日の理事会で、会長を解任されていた八木秀次理事 を副会長に選任した。7月の総会までに会長に復帰するとみられる。同会の内紛は事実上 の原状回復で収束に向かうことになった。  つくる会は先月27日、無許可で中国を訪問したことなどを理由に会長だった八木氏と 事務局長だった宮崎正治氏を解任。種子島経氏を会長に選任していた。副会長だった藤岡 信勝氏も執行部の責任を取って解任されたが、2日後に「会長補佐」に就任していた。  しかし、地方支部や支援団体から疑問の声が相次いだことなどから再考を決めた。藤岡 氏は会長補佐の職を解かれた。種子島会長は組織の再編などを進めた後、7月に予定され ている総会までに八木氏に引き継ぐとみられる。宮崎氏の事務局復帰も検討されている。  理事会では西尾幹二元会長の影響力を排除することも確認された。(以下略)        --------------------  「つくる会」では、公民の教科書を書いた八木氏(高崎大教授)と歴史教科書を書いた 藤岡氏(拓殖大教授)、両巨頭間の対立は公然の事実ですが、上記の理事会では八木派が 西尾・元会長に近い藤岡氏を執行部から排除したようです。   しかし、これで理事会から藤岡派が排除されたわけではなく、逆に同派の反撃が開始 されました。その第1弾が産経新聞に対する抗議で、「つくる会FAX通信」第170号は抗議 文をこう掲載しました。        --------------------  『産経新聞』(3月29日付朝刊)で報道された理事会の内容は、憶測を多く含んでおり、 「つくる会」本部として産経新聞社に正式に抗議しました。とくに、「西尾幹二 元会長 の影響力排除を確認」「宮崎正治 前事務局長の事務局復帰も検討」は明らかに理事会の 協議・決定内容ではありませんので、会員各位におかれましては、誤解することの無いよ うにお願いします。        --------------------   先の新聞記事を書いたのは、産経新聞社 教科書班の渡辺浩氏ですが、同氏は抗議に 対し、こう反論しました。        --------------------  本日午前、新しい歴史教科書をつくる会 事務局員の鈴木尚之氏から私に対し、組織内 を収めるために抗議しなければならないという趣旨で電話があり、「あなたのお立場も大 変ですね。聞きおきます」と返答しました。  しかしFAX通信に掲載されるに及び、私は種子島経会長あてに文書で厳重に抗議しま した。抗議の内容は①昨日の理事会で「今後は西尾氏を無視する」旨の確認がなされたこ とは取材で判明している②宮崎氏の事務局復帰については理事会で議論されたとは書いて いない(執行部で検討されていることは事実であり、現に4月からの復帰が固まってい る)-です。  FAX通信の内容は事実に反しており、引用は嘘を増幅することになります。 この事実を知った後も「捏造記事」などの誹謗中傷を不特定多数の閲覧に供することが続 くようであれば、刑法の名誉毀損罪を構成することをここに警告致します。 平成18年3月29日午後8時5分 産経新聞社教科書班 渡辺浩 <産経新聞への私の対応(一)>        --------------------   渡辺氏は「刑法の名誉毀損罪」を云々するなど、ただならぬ気配ですが、それほどに 産経新聞と藤岡派との関係は険悪なようです。   藤岡派は反撃の第2弾として、記事取材源の八木氏を追求し始めたようです。その事 実は「つくる会 FAX通信」第173号(2006.5.2)にこう掲載されました。        --------------------  3月28日の理事会で、理事間の内紛は一切やめる、今後は将来についての議論のみ行い 過去に遡っての糾弾は行わない、との方針を決めた。ところが、翌日の産経新聞が不正確 な記事を出し、その取材源の追及が始まった。さらに一部の理事は、4月7日、会の活動と は関係のないことをことさら問題にして、八木氏を査問にかけるべきだとの提言を行って きた。私(種子島会長)は峻拒した。 <つくる会FAX通信,173号>        --------------------  「つくる会」の公式サイトは、もはや内紛を隠そうともしないようです。というより、 とても隠しおおせないほど内紛は深刻なようです。   藤岡派とみられる東京支部は、ホームページの冒頭に露骨に<ブログ「藤岡信勝ネッ ト発信局」>へのリンクを張ったくらいでした。また、東京支部の掲示板には会員の声と してそうした軋轢が赤裸々に書かれ、事態の推移が一目瞭然です。たまりかねた「つくる 会」本部は掲示板へのリンクを断ったことを公表しました。 「新しい歴史教科書をつくる会」 東京支部のホームページ   本部の FAX通信に書かれた「4月7日」の事態というのが気になりますが、これは藤岡 氏により同じ通信でこう説明されました。        --------------------  4月3日、(産経新聞の)渡辺記者は藤岡理事に面会を求め、藤岡理事に関する「平成13 年 日共離党」という情報を八木氏に見せられて信用してしまったが、ガセネタであるこ とがわかったと告白して謝罪した。6日には、謀略的怪文書を流しているのが「八木、宮 崎、新田」であると言明した。  福地理事は、事態は深刻であり速やかに事の真相を糺す必要があると判断、4月7日に種 子島会長に八木副会長から事情聴取する必要があると進言したが拒否された        --------------------   先日、国会ではガセネタで民主党党首の首が飛ぶといった事態に発展しましたが、 「つくる会」でもガセネタで産経新聞まで巻きこんで大騒動が展開され、結局は会長、副 会長の首が飛んだようです。同通信173号は理事会(4月30日)での討論をこう伝えました。        -------------------- 討論の流れ  田久保理事から、「藤岡理事は八木氏宅へのファックスにたった一言書き込んだ言葉に ついて八木氏の自宅に赴き、夫人に謝罪した。藤岡氏の党籍問題に関するデマ情報の流布 は極めて重大な問題であり、八木氏はそれを他の理事などに公安調査庁の確かな情報であ るとして吹聴したことについて藤岡氏に謝罪すべきである」との発言がありました。事実 関係についても、参加者から具体的な補足情報の提供がありました。  ・・・・・  藤岡理事は、八木氏が世間一般の基準よりもより高い倫理的規範を求められる当会の最 高幹部でありながら、このような反社会的行為を繰り返したことは決して許されないこと であり、会則20条の除名処分に該当するとしつつ、終戦後「天皇を守ろうとした人びとは、 気づく、気づかないは別として、独善、猜疑心、悪意、流血が連鎖、循環する悲劇を繰り 返すまいとしたのである」という鳥居民氏の言葉を引用して、八木氏らが「理事会と会員 に対し、事実を認め、心から謝罪するなら、すべてを水に流して、大義のために、会と会 員と国民のために、手を結びたい」と提案しましたが、応答はありませんでした。  議論は2時間半以上にわたって続きましたが、結局八木氏は謝罪せず、種子島・八木両 氏は辞意を撤回するに至らず、辞任が確定しました。この両氏の辞任に続いて、新田・内 田・勝岡・松浦の4理事も辞意を表明(松浦氏は欠席のため文書を提出)、会議場から退 出しました。        --------------------   結局、「反社会的行為を繰り返した」八木氏が副会長を辞任し、理事会を蹴って退席 したようですが、そのような人が書いた公民の教科書は、はたして信頼するに値するで しょうか?   八木氏は「世間一般の基準よりもより高い倫理的規範を求められる当会の最高幹部」 であるべきなのに、会内部からそのような資格がないと断定されるような人物なので、八 木氏が書いた公民教科書を採択した地方自治体は、今からでもその採択を取り消すべきで はないでしょうか。   八木氏は辞任するにあたり、その理由を「つくる会FAX通信」第172号で下記のように 流したとされますが、その号は「会の混乱を企図した許されざる行為」としてすぐさま撤 回されたことが「つくる会FAX通信」第172号で明らかにされました。        --------------------  さて私は、本日をもって本会の副会長・理事を辞任し、同時に正会員も辞して、名実共 に本会を去る事に致しました。  (今年2月)会長を解任された後、3月末に副会長に就任し、7月の総会で会長に復帰 する予定でありましたが、その路線を快く思わない一部の理事が会の外部と連動し、私の 与り知らない問題で根拠も無く憶測を重ねて嫌疑を掛け、執拗に私の責任を追及し始めま した。私としては弁明もし、何とか「理事会」の正常化が出来ないものか、と思って耐え 忍んで参りましたが、この半年間を通じて彼等との間ではいつも後ろ向きの議論を余儀無 くされ、その結果、遂に志も萎え、肉体的にも精神的にも限界に達するに至りました。ま た、これ以上、家族にも精神的負担を掛けられない、と判断致しました。  本会は発足以来、定期的に内紛を繰り返して参りましたが、“相手変わって主変わら ず”という諺がある様に、今回は私などがたまたま<相手>とされたに過ぎません。<主 >が代わらない限り本会の正常化は無理であり、また発展も未来も無いものと判断し、止 む無く退会を決断した次第です。        --------------------   八木氏が指弾する<主>とは藤岡氏、「会の外部」とは西尾幹二・元会長をさすよう です。西尾氏は「つくる会」を離れたものの「院政」を取り沙汰されるくらい影響力が強 く、4月19日、ブログ「近況報告」で八木氏をこう批判しました。        --------------------  「つくる会」に残った人の中にも少数だが理想を失っていない人がいる。彼らは「事務 局長の資質」「八木会長の指導力」に疑問を突きつけてきた。彼らは世間に広くまだ名前 を知られていない。彼らがいや気がさして会をやめれば、そのときこそすべての幕が閉じ るであろう。 西尾幹二<近況報告>        --------------------  「つくる会」を憂慮する西尾氏は、「つくる会」を離れた後もそれなりの策動をこころ みていたようです。そのひとつが「藤岡会長擁立案」でしょうか。それがあらわになりま した。西尾氏はそれを先の「近況報告」でこう告白しました。        --------------------  証拠書類は私が過去に藤岡氏に出したメール(2月3日付)である。私信が回り回ってい つしか覆面の脅迫者の手に渡っていて、脅迫文と一緒に、藤岡氏が「西尾の煽動に反論し て」八木氏に屈服した証拠書類としてファクスで送られてきたのである。  このメールは私が藤岡氏に「つくる会」の会長になることを強く要望し、藤岡氏がため らって逃げ腰であることに私が失望したという内容の、互いに正直に内心を打ち明けた往 復私信であって、一枚の紙に二人で書き込まれ、ファクスで往復された(後に全文を公開 する)。        --------------------   西尾氏がもっとも信頼していた藤岡氏ですが、格言「昨日の友は今日の敵」さながら 袂を分かったようです。西尾氏は上の文章にこうつづけました。        --------------------  この2月3日付の「西尾・藤岡往復私信」が3月末日に覆面の脅迫者の手に渡っている事 実からいえることは、まず第一に藤岡氏が私信を無断で他に流用した道義的罪である。第 二に藤岡氏は敵対している勢力――八木秀次・新田均・宮崎正治の諸氏に脅迫されたか何 かの理由で屈服し、秘かに私を裏切って、内通し、相手への自己の忠誠を誓うしるしとし て差し出しているのではないかという私の疑問である。  私は早くからこの疑問を抱いて、今回の怪メール事件のクライマックスはこれだと踏ん でいた。なぜなら「西尾・藤岡往復私信」の西尾・藤岡以外の所有者が、覆面の脅迫者で あり、彼こそ他でもない、「怪文書2」の作成者並びに発信者と同一人となるからである。 犯罪人を突きとめる立証のカナメである。        --------------------   西尾氏は藤岡氏の「道義的罪」を問い、かれを「裏切り者」扱いにしているようです。 こうなると猜疑心はますます深まるばかりで、西尾氏は藤岡氏の「共産党員」時代を問題 にし始めました。        --------------------  藤岡氏にもひとこと、多くの人が口にする正直な疑問を私がいま代弁しておく。共産党 離党は平成3年(1991年)であると信じてよいが、それでも常識からみると余りに遅いの である。先進工業国でマルクスは60年代の初頭に魅力を失っていた。68年のソ連軍チェコ 侵入は決定的だった。左翼は反米だけでなく反ソを標榜するようになり、いわゆる「新左 翼」となった。私は彼らは理解できる。しかし70年代から80年代を通じて旧左翼、民青、 共産党員であったことはどうしても理解できない。  青春時代に迷信を信じて近代社会を生きつづけることがなぜ可能だったのか。藤岡さん、 やはりあなたが保守思想界に身を投じたのは周囲の迷惑であり、あなたの不幸でもあった のではないか。私はあなたが党との関係史を一冊の本にして、立派な告白文学を書いて下 さることを希望しておく。        --------------------   藤岡氏に「あなたが保守思想界に身を投じたのは周囲の迷惑であり、あなたの不幸で もあったのではないか」と語りかける西尾氏ですが、それならそのような人を「つくる 会」の会長にと画策した西尾氏の見識が問われるところです。   そもそも、かつて共産党員であった人が「つくる会」を支える宗教団体などと協調で きるのかどうか疑問です。内紛の根源の一端はそこにあるような気がします。   かつてマルクスは「宗教はアヘンである」と述べましたが、転向した共産党員が宗教 の理解者になれるのかどうか疑問です。おそらくそうした困難のため、藤岡氏は日本会議 系の理事たちと長年にわたり暗闘を繰りひろげてきたように思えます。   日本会議派は、その地方組織が「つくる会」のそれとかなり重なるだけに発言力も強 く、西尾幹二氏もブログで「つくる会」事務局の人事は日本会議の承認なしには動かせな い実態となっていると明らかにしたくらいでした。   蛇足ですが、日本会議派の生い立ちは「日本をまもる国民会議」と「日本を守る会」 が統合する形で1997年に発足しました。「日本を守る会」には、神道・仏教系宗教・修養 団体中心、統一協会、キリストの幕屋などがメンバーになっていました。なかでも「幕 屋」と「つくる会」との関係は深いようで、俵義文氏はこう記しました。        --------------------  (前会長の種子島経氏は)「原始福音キリストの幕屋」という国粋主義・天皇主義の宗 教組織との関係が指摘されている。また「幕屋」と「つくる会」の親密ぶりは有名で、 「つくる会」の会員の4分の1は「幕屋」のメンバーだという内部情報もある(注)。        --------------------   昨年、宗教団体などをバックに持つ宮崎正治氏を西尾氏や藤岡氏が追い出そうとした ようですが、それが一連の内紛の始まりだったようで、俵氏はこう記しました。        -------------------- 教科書採択「惨敗」責任のなすりあい   今回の内紛の一番の原因は、昨年の教科書採択における採択率が、歴史 0.39%、公民 0.19%と「惨敗」(八木)した責任のなすりあいだと思われる。  「つくる会」の内部情報によれば、昨年9月に西尾・藤岡が採択の責任を宮崎に押し付 けて解任しようとしたが、後述するように宮崎擁護派の理事が反対し、宮崎も退任に応じ なかったということである(西尾は、八木もこの段階では宮崎解任に賛成だったと、自ら のホームページ「インターネット日録」に書いている)。   西尾が「日録」に掲載した「『つくる会』顛末記」や内部情報によれば、10月から 1月にかけて、宮崎の解任をめぐって、日本会議派の理事(内田智・勝岡寛次・新田均・ 松浦光修)と西尾・藤岡グループの間で泥仕合のような応酬がつづいていた。   この4理事は「抗議声明」を出したり、新田が西尾の理事会への出席資格を問題にし たり、八木が全く相反する内容の声明を2回出したりするなど、醜い泥仕合を演じている。   そして1月の理事会で「会に財政的損害を生じさせた」という理由で西尾・藤岡らが 宮崎を解任しようとしたが、八木・日本会議グループが抵抗し、逆に西尾が退任すること になったのである。  ・・・・・   さらに荒れたのが、2月27日の理事会だ。まず、藤岡と八木が議長に立候補し、投 票の結果、8対6で藤岡が議長に選出された。   次に宮崎事務局長の解任を8対6で可決。さらに八木会長、藤岡副会長の解任動議が 出され、八木は6対5(棄権3)で、藤岡は7対4(棄権3)で、いずれも解任が可決さ れた。・・・・・   八木、藤岡は理事として留まったが、宮崎は退職させられ(事実上の解任)、副会長 と事務局長が不在という異常事態になり、まさに、解体・分裂の「危機」に直面した。  ・・・・・   新会長には種子島経理事(元副会長)が就任した。70歳の種子島は西尾の学友で、 元BMW東京社長。・・・・・   3月1日、新会長となった種子島と会長補佐に納まった藤岡が産経新聞社社長の住田 良能を訪問した。しかし住田からは「今回の内紛に関しては、開いた口がふさがらない」 と冷たくあしらわれたと言われている。   また同月13日に扶桑社社長の片桐松樹を訪問した際も、片桐は2人に「あなた方と は連携できない。八木さんたちに新しい会を作ってもらう」と厳しく宣告したという。   産経・扶桑社が八木を支持するのは、八木がフジテレビの番組審議委員であり、フジ テレビの支持が背景にあるという内部情報もある(注)。        --------------------   内紛はこれに納まらず止めどなく続きました。3月28日、藤岡氏が特別補佐を解任 され、八木氏が副会長に就任しました。これは、冒頭に書いた産経新聞の記事が報道した とおりです。これでは会の名を「内紛をつくる会」と呼んだほうがふさわしいかも知れま せん。   実際、「つくる会」の歴史は、内紛・内部抗争の歴史でもありました。過去のいざこ ざを俵氏はこう記しました。        -------------------- (1)草野隆光事務局長の解任  結成からわずか1年後の98年2月、初代事務局長の草野隆光が解任された。大月隆寛は  『あたしの民主主義』の中で、草野を「Pさん」と仮名にして退任(大月は「追放され た」としている)の経緯を書いている。「(追放の)経緯は本当に妙なものでした。事務 局員との間が少しギクシャクしていたのをことさらに理事会がとりあげて、それを理由に 放り出すというおよそ考えられないような仕打ちでした」 (2)藤岡信勝・濤川栄太 両副会長の解任  99年7月29日の理事会で藤岡、濤川栄太 両副会長を解任、高橋史朗が副会長に就任した。 藤岡は一理事として留まるも、濤川は怒って理事も退任した。解任劇の直接のきっかけは、 『噂の眞相』が濤川の女性問題を追及したことだが、さらに根本的には藤岡と濤川の指導 権争いにあった。  当時、「つくる会」は都道府県支部づくりに取り組んでいたが、それを濤川が主導する ことを快く思わない藤岡が、濤川の女性問題などを理由に攻撃し、二人は公然とお互いを 誹誇・中傷し合い、会の運営に支障をきたすまでになっていたのである。この時は、理事 でもない小林よしのりが二人の解任と新副会長人事を理事に根回しし、理事会にも出席し て「活躍」した。 (3)大月隆寛事務局長の解任  大月の解任も草野の時と同様だったようである。『あたしの民主主義』などによると、 大月は自律神経失調症で99年5月から3カ月間自宅療養をし、9月から活動に復帰したが、 ある日 「事務所にたち寄った時に、西尾さんや藤岡さんが事務所の人たちを集めて何か 話し合っていて、あれ、なんだろう、と思っていたら、露骨に人払いされた」。つまり、 大月は追い出されたということである。  そして、同月15日に西尾会長(当時)から手紙で「『君は思想的にこの会にいないほう がいい人間だ』などと退任を勧告された」。大月は、「病み上がりにようやく立ち上がろ うとしたところを後ろからいきなり斬りつけられた」「どうしてこのような内紛(としか 言いようがありません)が絶えないのか」と書いている。 (4)小林よしのり・西部邁の退会  02年2月に「つくる会」が開催したシンポジウムで、基調講演した小林よしのりが、ア メリカのアフガン侵略によって「無辜の民が死んでいる」とアメリカを批判したことに対 して、八木、田久保、西尾、藤岡らが、「思想と政治は別。思想は反米だとしても、現実 の政治では反米は選択肢たりえない」(「つくる会」会報『史』02年3月号)などと小林 を批判、会場からも小林への激しい野次が飛んだ。これをきっかけに、小林・西部邁と西 尾・八木・藤岡ら理事が対立し、当時理事待遇だった小林と理事の西部が退会した。  これは、反米右派対親米右派との対立で、反米右派が「つくる会」と決別したというこ とを意味する。小林は理事待遇を退任、歴史教科書の執筆も降り、西部は理事を退任して 公民教科書の代表著者も辞めている(注)。        --------------------   このように醜い内紛に明け暮れていた人たちがつくった教科書が教育的であるはずが ありません。その点を俵氏は、下記のように指摘しました。        --------------------  このように「つくる会」は、たえず醜い内部抗争をつづけできた非教育的な政治組織で あり、そこには子どもや教育に対する視点や思いはまったく見られない。  また、現行版歴史教科書の代表著者であり、改訂版歴史教科書の著者欄に名前がある西 尾は、自分の原稿が岡崎久彦によって勝手に書き直されたことを理由に、改訂版には責任 を持たないと言っている。  さらに、まともな歴史研究者がほとんどいない著者陣の中で唯一名前が知られ、歴史教 科書の監修者である伊藤隆も理事を辞めた。「つくる会」教科書は、著者・執筆体制が崩 壊している状況であり、これから学校で使用される際に、内容の問い合わせなどに応答す る責任をとれるのか疑問である。  このような無責任な政治組織と人物がつくった教科書を採択した杉並区、大田原市、東 京都、滋賀県、愛媛県の教育委員会の責任は重大である。今からでも採択を撤回すべきで はないだろうか(注)。 (注)俵義文「「新しい歴史教科書をつくる会」内部抗争の深層」『論座』2006.6 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    国際司法裁判所による解決に反対、下條氏 2006/ 5/21 Yahoo!掲示板「竹島」No.14352   半月城です。   つい最近、マンガ『嫌韓流』に対する反論本『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』 が出版されました(注1)。その中で私は第9話「竹島=独島の知られざる歴史」を執筆しま した(注2)。   割り当てのページ数はわずか20頁だったので、やむなくいくつかのトピックスを割 愛しました。そのせいか、同書の読者や「半月城通信」の愛読者から国際司法裁判所に関 する質問やら詰問のメールがいくつか寄せられました。   とくに、5月15日には某局の番組「TVタックル」で国際司法裁判所が話題になった ようで、その余波か「韓国が国際司法裁判所に応じないのは、勝つ自信がないからで は?」などという、うがった質問が寄せられました。   同じような意見はここの会議室で何回もあったように記憶していますが、そうした考 えの人は、国際司法裁判所に関する拓殖大学・下條正男教授の考えをどう理解するので しょうか?   同氏は、CSスカパー256ch「ニュースの深層」5月15日放送の番組「竹島問題 現状 と今後の課題」で30分以上熱弁をふるいましたが、その中で裁判による解決に反対し、こ う語りました(注3)。        --------------------   それ(国際司法裁判所による解決)はやめたほうがいいと思いますね。韓国との間で はそこまでもっていかないで、交流をつづけるなかで問題を解決する道をさぐっていくの が賢明だと思っています。これは100年、200年後のことを考えて。        --------------------   国際司法裁判所にこだわる人たちは、下條氏が反対している理由を、日本は国際司法 裁判所で勝つ見込みがないからだと単純に理解するのでしょうか?   下條氏の発言を受け、キャスターである東海大学の金慶珠・助教授はこう続けました。        --------------------   多くの方が誤解されているのが、日本は国際司法裁判所にもっていきたいけど、韓国 が拒否しているというんですが、そうじゃなくて両方とももっていきたくないと思ってい るんですね。        --------------------   この発言には他の3人の出席者から何の異議もだされませんでしたが、そのとおりだ と思います。韓国はいうにおよばず、現在の外務省も国際司法裁判所での解決を望んでい ないと思います。   もし、国際司法裁判所での論戦ともなれば、そこで竹島=独島の史実が満天下に明ら かになり、日本外務省の立場が苦しくなることは必定です。   たとえば、明治時代の最高国家機関たる太政官が竹島=独島を朝鮮との関係で領土外 と布告した事実が明らかになり、外務省の「固有領土」説が危うくなります。   これに関連して、下條氏は今回の番組でこれまでの主張をドラスティックに変えたよ うで注目されます。二年前、同氏は太政官の布告について、太政官が竹島=独島を本邦に 関係がないと「いうはずがない」と断言して、こう記しました。        --------------------   内務省は、「版図の取捨は重大の事件」であるため、翌年(1877年)、太政官の判断を 仰ぐことにした。その審査では「本邦 関係これ無き義と相心得べき事」として、竹島 (鬱陵島)と外一島は日本領ではない、という結論が下された。   しかし、この太政官による審査は、十分とはいえなかった。「竹島外一島」の「一 島」が、今日の竹島を指すのかそうでないのか、判然としないからである。もしその「一 島」が今日の竹島だったとすれば、「本邦 関係これ無き」というはずがない。佐田白茅 の報告を考察した際と同じ議論で、今日の竹島を日本領とする「書留」がすでにいくつも あったからである(注3)。        --------------------   下條氏の論証方法には首をかしげることが多いのですが、今回は驚いたことに、同氏 は番組で「日本の太政官が、竹島は日本の領土ではない、関係がないといっている」と語 りました。   その時に述べられた「竹島」は、太政官のいう「竹島」すなわち欝陵島をさすのかな と一瞬思ったのですが、やはりこれは竹島=独島をさします。下條氏は、明治時代に太政 官の指令があったので、竹島=独島を日本の固有領土とするのは適切でないといみじくも 語ったので間違いありません。   下條氏はこれまで韓国勅令41号における石島の比定といい、しばしば自説を突然変 えてきただけに、またか!という思いをさらに強くしました。<「本邦 関係これ無き」 というはずがない>という記述は、竹島=独島を何としても日本領にしたいための、同氏 の切なる願望であったようです。   そんな下條氏ですが、一方では外務省のホームページをきびしく批判しました。 同 氏によれば、外務省の見解は日韓条約を結んだ1960年代当時の認識のままであるので、む しろ「外務省のホームページは見ない方がいい」とまでいいきりました。外務省はこうま でホームページを全面否定されたのでは、外務省のメンツも丸つぶれです。   そう酷評されるのも無理はありません。同ページは、大谷・村川両家が「幕府から竹 島を拝領していた」などと途方もないことを書いており、一事が万事です。江戸時代、町 人が領地を幕府から「拝領」できるはずがありません。   1950年代の日本政府は、架空の「松島(竹島=独島)渡海免許」を「固有領土」の有 力な証拠のひとつとし、韓国政府と竹島=独島論争をくりひろげました。今日では「松島 渡海免許」の存在はほぼ否定されたました。それどころか、幕府は「竹島一件」当時、竹 島=独島の存在をほとんど知らなかった事実すら判明しました(注4)。   そうした近年の史実は、昨年改訂された外務省のホームページにはまったく反映され ませんでした。外務省が 1960年代当時の認識のままにフリーズしているのは、それなり の事情がありそうです。   もし外務省が、明治政府が竹島=独島を領土外にしたという近年の研究成果を認めた としたら、日本中が大騒ぎになることでしょう。それまでの外務省の「固有領土」という 主張が、下條氏が指摘するように、適切でなかったということになるからです。   そうした火の粉がふりかかるのを避けるためにも、外務省は80年代以降の竹島=独 島問題の資料にはほおかむりをせざるを得ないことでしょう。   そんな外務省の実状からすると、外務省が国際司法裁判所での解決を韓国に提案する ことは、日本国民に対するポーズならともかく、実際にはあり得ないと思われます。   また、外務省が国際司法裁判所による解決を提案することは日韓条約に反するので無 理筋になります。同条約の交換公文は、外交で解決できない紛争は「両国政府が合意する 手続に従い,調停によつて解決を図るものとする」と定めており、国際司法裁判所へ提訴 する前に第3国へ調停を依頼する必要があります。これは韓国政府の主張を強く反映した 結果でした(注5)。   半可通の評論家は国際司法裁判所による解決を口にしますが、それは日韓条約にも反 する非現実的なものだけに、しょせんは評論家が自己の存在をアピールするための単なる 手段にすぎないようです。 (注1)『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』 (注2)半月城「竹島=独島の知られざる歴史」(一部のみ、89kB) (注3)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春文庫,2004,P123 (注4)<竹島=独島と鳥取藩池田家文書> (注5)<日本の「竹島ゴール」変更、裁判から調停へ> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    『蔚陵島事蹟』以後の竹島=独島認識 2006/ 5/28 Yahoo!掲示板「竹島」 No.14505   半月城です。   昨年ソウル郊外に移転した韓国の国立中央博物館は、独島特別展に合わせて資料集 『行ってみたい我が地、独島』(30,000ウォン)を発刊しました。   230ページからなる資料集は、貴重な竹島(鬱陵島)渡海免許書の写真など一次資料に 近い史料を多く掲載していて目をひきます。   また、史料『蔚陵島事蹟』の核心となる文の写真も出版物では初めて見るだけに注目 されます(注1)。この史料は「竹島一件」当時、朝鮮王朝の蔚陵島(欝陵島)調査団が竹 島=独島を直接確認しただけに資料価値が際立ちます。   調査団が派遣されるようになった背景や、張漢相が竹島=独島をどのように確認した のかは下記に記したとおりなので、ここでは省略します。  半月城通信<「竹島一件」と竹島=独島再確認>   朝鮮政府が公式に竹島=独島を確認したことや、民間人である安龍福が竹島=独島へ 結果的に二度も渡航し、二度目は日朝両国で「松島はすなわち子山島、これまた我が国の 地」であると強く主張したことにより、朝鮮では于山島に対する認識が一変しました。   それまでの古い文献では于山島があいまいだったり、地図でも古いものは于山島が欝 陵島の西にあったり南にあったり様々で、于山島認識の実態がそのまま浮き彫りにされま した。   そのため、塚本孝氏は「朝鮮古文献にみえる于山(島)はその実は鬱陵島にあった于 山(国)に由来する観念上の存在であった(注2)」と記したくらいでした。   そうした認識が「竹島一件」を機に様変わりしました。竹島(鬱陵島)をめぐる日朝の 領土交渉は寝た子を起こしたようなものでした。朝鮮で東海の地理に関する知識が実際の 渡航によりにわかに豊富になった結果、官撰書の『東国文献備考』(1770)などにみられる ように「輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの 松島なり」と明確に認識されるようになりました。   さて、塚本氏は上記の文につづけて「安龍福は朝鮮人として初めて松島(今日の竹 島)を実見し」と書きましたが、これは必ずしも正しくないようです。下條正男氏によれ ば「鬱陵島には初めて渡り、島の地理に詳しくなかった安龍福は、同行の朝鮮人から、于 山島の存在を教えられていたのである(注3)」とされました。   つまり、安龍福が子山島(于山島)を実見する以前に于山島の正しい認識がすでに広 まっていたようでした。それが逸書「輿地志」(1656)に反映されたとみられます。   その後、上記の「松島はすなわち于山島、これまた我が国の地」という認識は官撰書 『萬機要覧』(1808)、『増補文献備考』(1908)などに繰り返し記述され(注4)、国家とし て于山島(竹島=独島)に対する領有意識が持続されたことは特筆に値します。   なお、官撰書以外の私的な資料では竹島=独島に対する認識が必ずしも正しくない図 書もありますが、領有権問題においては官撰書の認識が優先することはいうまでもありま せん。   先日、下條正男氏がCSスカパー256ch「ニュースの深層」5月15日放送の番組「竹島 問題 現状と今後の課題」で玄采の『大韓地誌』をとりあげ、そこに書かれた朝鮮東端の 経度からすると、当時の朝鮮は竹島=独島を認識していなかったと述べていましたが、そ うした雑多な私書は枝葉末節であることはいうまでもありません。重箱の隅をつつくよう なものです。   日本の史書であれ、韓国の史書であれ、まず検討すべきは官撰書です。官撰書と私書 の資料価値を峻別しないと、外務省のホームページのように「大谷、村川両家が幕府から 鬱陵島を拝領し」などと途方もないことを事実であるかのように平然と書くことになりか ねません。 (注1)『蔚陵島事蹟』  (P1は『獨島研究文獻輯』より引用) (注2)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号,P3 (注3)下條孝『竹島は日韓どちらのものか』文春新書,2004,P70 (注4)『増補文献備考』巻31「輿地考」 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    【寄稿】独島は日本の「固有領土」か?  『民団新聞』2006-05-10 外務省ホームページに見る薄弱な根拠 独島問題 歴史的・根本的に考える  正しく知らない実状  昨年、島根県が「竹島の日」条例を制定したことに韓国が猛反発して一騒動あったが、 今年は日本が独島(竹島)周辺の海域を測量しようとしたため韓日両国間で衝突寸前の悶 着があった。これに関連して廬大統領は特別声明を出し「どんな費用と犠牲があっても、 決してあきらめたり妥協したりできない問題」と決意を語るほどであった。  これまでにも独島問題は韓日間でしばしば大騒ぎになるが、その割には日本で独島の歴 史的背景が正しく知られていないのが実状である。  そのいい例が外務省のホームページである。ホームページは「竹島は日本の固有領土」 と書いているが、実はこの根拠がはなはだ薄弱なのである。その外務省の主張を多くの日 本人はそのまま信じているが、そこにどのような問題点があるのか、この稿で明らかにし たい。  1.江戸時代の「竹島拝領」という記録  外務省のホームページ「竹島問題」は独島を「日本の固有領土」とする根拠の第1点目 をこう記した。  「江戸時代の初期(一六一八年)、伯耆藩の大谷、村川両家が幕府から鬱陵島を拝領し て渡海免許を受け、毎年、同島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上していたが、竹 島は鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも一六六一年に は、両家は幕府から竹島を拝領していた」  外務省は大谷家に伝わる私文書を引用したのか、同家などが欝陵島や独島を幕府から 「拝領」したなどと記すが、これは我田引水といっていい。江戸時代、武士でない大谷、 村川家のような町人が幕府から領土を拝領することはあり得なかったのである。  もちろん「拝領」を裏づける公文書など存在しない。存在するのは、両家が竹島(欝陵 島)へ渡海することを許可した老中連署の鳥取藩への書状のみである。大谷家はそれを誇 大に「竹島拝領」と表現したのである。誇張表現は私文書では日常茶飯事なので、そのよ うな私文書などを領有権の根拠とするのは妥当でない。  独島の領有権論争においては、国家の領有意識がどうであったかが鍵になるので、それ を示す公文書の存在がきわめて重要である。今から50年前の外務省もそう考えたのか、韓 国政府との独島論争の書簡において、領有権の根拠として『隠州視聴合紀』(1667)を持 ちだしたことがある。この書は隠州の郡代である斉藤豊仙により書かれた隠岐国の見聞録 であるので公文書に準じるといってよい。  斉藤は、同書のなかで日本の西北は「此州」すなわち「隠州」が限界であると記した。 その際、斉藤は松島・竹島を隠州に含めなかったのである。ここにいう松島は今日の独島、 竹島は欝陵島をさす。それにしたがい、この稿では江戸時代における両島の日本名を松島、 竹島とする。  松島・竹島をよく知る斉藤が、両島を日本の限界の外、すなわち領土外と考えていた事 実は重要だ。その背景だが、斉藤は大谷・村川両家の竹島(欝陵島)への渡海船を異国へ 渡る朱印船のように考え、村川船について「村川氏、官より朱印を賜り大舶を磯竹島に致 す」と同書に記録している。磯竹島は竹島を指すが、斉藤は松島・竹島を日本の地でなく、 異国と考えていたようである。  日本政府はこの『隠州視聴合紀』を引用して松島・竹島を「日本の西北部の限界」だっ たと主張したのである。これは同書に書かれた「此州」を「この島」すなわち松島・竹島 であると曲解したことによる。日本政府の解釈が無理であることは同書を底本にして増補 した『隠岐国古記』の記述でも明らかだ。同書は「日本の乾地(いぬいち、西北の意味) 此国を以て限りとする」と書き、「隠岐国」を日本の西北の限りとした。  さらに、これに関する徹底的な論証が最近では名古屋大学の池内敏教授によりなされ、 松島・竹島が当時は日本の領土外だったと結論づけられた。さらに、外務省があげた当時 の代表的な地図である長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年)においてすら、 両島を日本領と見るのは困難である。同図で松島・竹島は朝鮮半島と同じく無色に彩色さ れたので、両島は異国と見るのがむしろ妥当である。  2.松島(独島)の所属  外務省のホームページは独島を日本の「固有領土」とする根拠の2点目をこう記した。 「一六九六年、鬱陵島周辺の漁業を巡る韓日間の交渉の結果、幕府は鬱陵島への渡航を禁 じたが(「竹島一件」)、竹島(独島)への渡航は禁じなかった」  外務省は「竹島一件」を韓日間の漁業交渉としているが、実は、これは竹島(欝陵島) をめぐる朝鮮王朝と日本との領有権交渉であった。領有権論争に敗れた江戸幕府は、日本 人の竹島への渡航を禁止したのである。その際、幕府はたしかに松島(独島)への渡航を 禁じなかった。といっても、幕府は同島を日本領と考えていたわけではない。それどころ か、当時、江戸幕府は松島の存在自体をほとんど知らなかったのである。  実際「竹島一件」の時、幕府は実情把握のため鳥取藩に「竹島の他に両国へ付属する島 はあるか」との質問書を出したほどであった。文中の両国とは鳥取藩が支配する因幡国・ 伯耆国を指す。幕府は異例の渡海申請があった竹島を知ってはいても、松島をほとんど知 らなかったのである。  それも無理のないことだ。幕府の地図に竹島や松島は記載されていなかったからである。 当時の幕府の地図は各藩が作成した国絵図が中心だが、竹島に関係の深い鳥取藩自体、松 島・竹島を自藩領でないと確信していたので、鳥取藩や幕府の地図に松島・竹島がないの は当然である。しかも松島は竹島とちがって渡海許可書などもないので、幕府が松島を知 らなかったのも無理はない。  竹島が鳥取藩に知られるようになったのは、1620年ごろだった。米子の回船問屋である 大谷家の船が漂流中に竹島を偶然見つけた。その島は、朝鮮政府が倭冦対策のため空島政 策をしいていたので無人島だった。しかも同島は自然資源が豊富な宝の島だった。そこで、 大谷・村川両家は鳥取藩を通じて幕府から渡海許可を得て、竹島で数十年間にわたり漁労 などを行った。その際、両家は幕府老中の内諾を得て松島で多少の漁労を行った。しかし ながら、幕府内ではそうした事情が伝承されなかったのか「竹島一件」当時、幕府は松島 をほとんど知らなかったのである。  一方、松島・竹島をよく知る鳥取藩であるが、竹島(鬱陵島)渡海許可が幕府から出さ れたことから、両島は幕府所管であり、自藩領ではないと同藩は考えていたようである。 したがって、鳥取藩が幕府の質問書に対して「松島・竹島その他、両国へ附属する島はな い」と回答したのも自然な成りゆきであった。  結局、鳥取藩からの回答で「竹島は因幡・伯耆の付属ではない」「松島・竹島その他、 両国へ付属する島はない」とされたことが決め手になり、幕府はついに竹島の放棄を決定 し、それを朝鮮国へ伝えて「竹島一件」は落着した。朝鮮への書簡では松島(独島)にふ れなかったが、幕府は領主のいない松島も日本領でないと判断したことは明らかである。 江戸時代、領主のいない日本の領土はあり得なかった。  外務省はホームページで独島を「固有領土」とする理由に上記の2点のみをあげたが、 それらは上に論証したように、いずれも根拠が薄弱である。さらに特筆すべきは、日本に は独島を日本領とする江戸時代の公文書や官撰地図は存在しないのである。  3.明治政府は独島を日本の領土外と宣言  日本では専門家以外ほとんど知られていないが、明治新政府は朝鮮を内探するため、 1869年に外務省高官を朝鮮へ派遣した。翌年、高官は報告書「朝鮮国交際始末内探書」を 提出し、そのなかで「竹島松島朝鮮付属に相成候始末」という一項をもうけて、松島・竹 島が朝鮮領であることを明確にした。これは単なる報告書にすぎないが、その内容から明 らかなように、外務省が江戸幕府の「竹島一件」のてん末を継承し、独島を朝鮮領と認識 したことを示した点で重要である。 太政官指令書の存在  それよりも重要なのは、松島・竹島を版図外とした太政官指令である。指令のきっかけ は新政府の地籍編纂事業だった。新政府は日本各地の地籍を編纂するにあたり、松島・竹 島が日本領かどうかの検討を行った。その際「版図の取捨は国家の重大事」との考えから 慎重に江戸時代の「竹島一件」などを吟味した。  その結果、やはり松島・竹島は日本領でないとの結論をくだし、1877(明治10)年、明 治政府の最高機関である太政官は「日本海内竹島外一島を版図外とする」との指令をだし た。この画期的な太政官指令書を今の外務省は決して明らかにしようとしないが、その姿 勢は情報隠しに等しいといえよう。太政官指令書には付属文書「島根県伺」があるが、そ こにおいて独島は「外一島」として、こう記述された。 <太政類典 第二編 第九十六巻>  「次に一島あり。松島と呼ぶ。周回三町。竹島と同一の船路にある。隠岐をへだてる八 十里。竹木は希で、魚獣を産する」  この文書にて松島は竹島の付属島のように書かれたが、このように両島は一対という意 識が日本では強かったので、明治政府は竹島とともに松島も版図外としたのである。元来、 松島には松の木どころか樹木が1本もないにもかかわらず松島と呼ばれたのも竹島と一対 という認識のためである。 日露戦争中強引に編入  さて、「島根県伺」における松島の位置は、隠岐から八十里、竹島から四十里とされた。 距離は実際より遠めだが、この距離の記述をはじめ付属文書の内容は、実際に渡海事業を おこなった大谷家などの文書や地図が元になっているだけに、松島が今日の独島をさすこ とは間違いない。  明治政府はそれらの史料や、朝鮮との書簡などを精査して、竹島および外一島、すなわ ち松島・竹島を一対にして朝鮮領と判断し、日本の領土外とする指令を布告したのだった。 この重要な太政官指令について外務省はホームページをはじめ全ての文書で沈黙を守って いる。  さらに重要な史実がある。明治政府は、水路部が日本や隣国の沿岸を測量し、近代国家 として日本の領域を画定して水路誌を発刊したが、その際に独島を「リアンコールト列 岩」の名で『日本水路誌』でなく『朝鮮水路誌』(1894)に含めたのである。  この事実から国境画定機関である水路部は日露戦争以前に独島を朝鮮領と認識していた のは明らかである。これについても外務省のホームページは一切沈黙している。外務省は こうした数々のアキレス腱をかかえたまま「竹島は日本の固有領土」との主張をくり返し ているが、これは重大な情報操作である。  4.帝国主義的な独島奪取  以上のように、明治政府は独島を韓国領と判断しておきながら、1905年、突如として独 島を日本領へ編入することを閣議決定した。その背景には、日露戦争という「時局なれば こそ、その領土編入を急要とするなり。望楼を建築し、無線もしくは海底電信を設置せば 敵艦監視上きわめて届竟ならずや」とする外務省政務局長・山座円次郎の判断などが推進 力になったのである。  実際、同島周辺は軍事的に重要な海域であった。日本が独島を編入したわずか3か月後、 ロシアとの間で歴史的な「日本海海戦」が沖ノ島の沖合から同島近海で戦われ、日本は圧 勝する。この海戦は独島の戦略的重要性をはからずも証明したが、それほど重要な独島を、 日本はノドから手が出るほど欲しかったのである。  そのため、日本政府は日露戦争の最中である1905年2月、隠岐の商人である中井養三郎 から内務・外務・農務の三省に提出された「リャンコ島領土編入並に貸下願」を認める形 でリャンコ島(独島)の奪取を閣議決定した。その際、「版図の取捨は国家の重大事」と いう内務省の見解にもかかわらず、その決定を官報に公示しなかった。  わずかに島根県が独島を新発見地であるかのように装って、島根県告示第四十号で島の 位置のみを明示し「竹島と称し、自今本県所属隠岐島司の所管と定めらる」と布告した。 これは地方新聞に報じられたが、そこでも旧島名の記述もなければ、領土編入という言葉 すらなかった。  領土編入が太政官指令に反するのみならず、他国の領土を自国へ編入するのは明らかに 国際法に反するだけに、内密裡に処理されたようである。秘密処理の結果、日本海海戦の 勝利を伝える新聞や、はなはだしくは政府の官報すら新名称である「竹島」の名を使用せ ずに「リアンコルド岩」という外国名を用いたほどである。  一方、閣議で領土編入の提案部署であった内務省が、かつて独島を「韓国領地の疑いあ る」と判断していたにもかかわらず、明治政府は小笠原諸島編入の場合に行ったような関 係国との協議を行わなかった。同島の場合、日本政府は関係国の米・英両国と何度も協議 し、両国の了解を得て同島を統治することを欧米12 か国に通告したのであった。これは 欧米列強や国際法を重視した措置であった。国際法に対する取り組みは独島の場合と大違 いであった。  両者の違いは当時の国際法の性格にある。現在と違ってその当時の国際法は基本的に欧 米列強間における利害調整のための道具であった。そのため、侵略戦争すら合法であった。 そうした弱肉強食の時代にあって、列強国は相手が弱小国とみるや、国際法など無視して かかるのが常であった。 たとえば1905年8月の第2次日英同盟などがそのいい例である。 この条約は、前年の日韓議定書に明らかに反して結ばれたが、韓国の抗議に対し日英両国 はなんらの措置をとらず「イグノヲア」、つまり無視を決めこんだのである。当時は欧米 列強のそのような帝国主義的手法が公然とまかりとおったのである。  日本は、そのような手法の延長で韓国を保護国とする乙巳条約(1905)を強要し、やが ては韓国全体を併合したのであった。これが韓国に対し、甚大な被害と苦難をもたらした ことはいうまでもない。先日、大統領は特別談話で「独島は日本の韓半島奪取の過程で最 初に併呑された歴史の地」と語ったが、今や、独島は日本による過去の侵略の象徴的存在 となった感がある。  以上のように、独島はもともと日本の固有領土ではなかったし、明治政府は韓国領と判 断し、日本の領土外と宣言した島であった。それを日露戦争という「時局なればこそ」戦 略的に重要な島であると判断し、こっそり日本領へ編入したのであった。日本はそうした 経緯を重く受けとめ、独島をふたたび領土外であると宣言するのが妥当である。  おことわりであるが、本稿では紙面の制約から資料の紹介などは割愛した。また論証が 必ずしも十分でない部分は筆者のホームページ、下記「半月城通信」を参照されたい。 (半月城通信) http://www.han.org/a/half-moon/



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