半月城通信
No. 88

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  1. 天皇「ゆかり」発言
  2. 倭根子(やまとねこ)と大倭
  3. 中国史書に書かれた倭
  4. 明治政府の本音と建て前
  5. 竹島=独島と万国公法
  6. 竹島=独島とSCAPIN 677の解釈(1)
  7. 竹島=独島とSCAPIN 677の解釈(2)
  8. アメリカ公文書館資料
  9. サンフランシスコ条約の経緯
  10. 日本は竹島=独島をなかば放棄
  11. 係争と紛争


天皇「ゆかり」発言 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか」 2002年3月31日 メッセージ: 4890   半月城です。   天皇の一挙手一投足は日本のみならず、外国でもかなり注目されているよ うです。ときには、日本であまり注目されなかったエピソードが外国でかえっ て注目を集める場合もあるようです。昨年、天皇が誕生日前日に語った「ゆか り」発言がそのいい例です。天皇は、一連の談話の中で韓国に関してこう語り ました。        -------------------- 「韓国とのゆかり感じています」   朝日新聞 2001.12.23  日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀 などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や招へいされた人々によ って、様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時 の移住者の子孫で、代々楽師を務め、いまも折々に雅楽を演奏している人があ ります。  こうした文化や技術が日本の人々の熱意と、韓国の人々の友好的態度によっ て、日本にもたらされたことは幸いなことだったと思います。日本のその後の 発展に大きく寄与したことと思っています。  私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であ ると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王 は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士が代々日本に招へいされるよ うになりました。また、武寧王の子、聖明王(せいめいおう)は、日本に仏教 を伝えたことで知られております。  しかし、残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありま せんでした。このことを、私どもは、忘れてはならないと思います。  ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになってきていますが、それが 良い方向に向かうためには、両国の人々がそれぞれの国が歩んできた道を個々 の出来事において、正確に知ることに努め、個人個人として互いの立場を理解 していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により、滞り なく行われ、このことを通して両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っ ております。        --------------------   私には完璧に共感できる内容です。この談話を国内では上記の朝日新聞が くわしく報道しました。識者の上田正昭氏、所功氏、秦郁彦氏、猪瀬直樹氏の コメントまで添えていました。   一方、他の新聞、たとえば讀賣新聞や毎日新聞、産経新聞は「ゆかり」発 言にあまり注目しなかったようでした。   ところが「ゆかり」発言が韓国で好意的に受け止められて大きく報道され るや、それに驚いて各社はソウルの反響を一斉に書きました。たとえば毎日新 聞はソウル特派員の報告としてこう記しました。        -------------------- 天皇陛下「韓国とゆかり」発言 韓国の主要紙が一斉報道 「友好のメッセー ジ」 2001.12.25 大阪朝刊   韓国の朝鮮日報、東亜日報など主要紙は24日、天皇陛下が天皇家と朝鮮 半島の「血縁関係」に言及したと一斉に報じた。来年のサッカーワールドカッ プ(W杯)を意識した「友好のメッセージ」ではないかなどと、好意的に受け 止められているようだ。  ・・・    また、韓昇洙(ハンスンス)外交通商相は24日、記者団との懇談で 「韓日関係で誰もが知っていた事実が天皇を通じて再確認されたことに意味が ある」と述べ、発言自体を「大変良いこと」と評価した。         --------------------   この記事からすると、天皇発言は韓国でとても好感をもたれたようでした。 昨年は、歴史教科書問題や小泉首相の靖国神社訪問でとかくぎくしゃくした日 韓関係ですが、それを一気に逆転させた感があります。ここの会議室でも韓国 の lakshmi2032さんが好感をもって迎えたように記憶しています。   さて、天皇発言の余波はこれにとどまりませんでした。産経新聞によれば 「欧米のメディアの常に強い関心の的」が皇室のニュースとのことですが、同 新聞はアメリカのニューズウィークが特集記事を組んだことをこう報じました。        -------------------- 「世界は日本をどう伝えているか」2002.03.26 (前半省略)  一方、欧米のメディアの常に強い関心の的が皇室のニュースだ。日本のメデ ィアは記者クラブを通じて皇室報道を自己規制していると考えるだけに、報道 にも一段と熱が入る。  昨年十二月、天皇陛下が「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続 日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と発言された 一件も例外ではない。  米ニューズウィーク誌十八日号は四ページにわたるカバーストーリー「古い 秘密」を特集した。先の発言を《専門家は「十三年間の在位中でもっとも心に 響く、政治的な発言」と見なす》とした上で、真意をこう推測している。  《いまや天皇は“歴史を忘れるな”という中国や韓国の運動のスローガンを 借りようとしているのだ。彼(天皇)の戦略はお辞儀をし謝罪することではな い。むしろ日本の文明化への中国、そして特に韓国の多くの貢献を認めること で信頼を得、傷を癒やそうというものである》  ただし特集は天皇陛下の発言を除くと、古代史に関しては周知の事実が多い し、日韓関係についても《教科書は日本への韓国の影響についてほとんど触れ ていない》《在日韓国・朝鮮人の大半は途方もない差別に直面しつづけている 》など、相変わらず表面的な理解に終始している。        --------------------   産経新聞の見方は意外でした。同社は『新しい歴史教科書』を積極的に支 持しているだけに、古代史の見方はニューズウィークと相当違うのではないか と見ていたのですが、「古代史に関しては周知の事実が多い」として異議をと なえていないようです。拍子抜けの感があります。   またニューズウィークの主張「むしろ日本の文明化への中国、そして特に 韓国の多くの貢献を認めることで信頼を得、傷を癒やそうというものである」 をコメントなしで紹介しているので、ある程度それに賛意を示しているのでし ょうか。   なお、ニューズウィークの天皇「ゆかり」記事(2002.3.20)は下記で全文 をみることができます。 <「天皇が結ぶ日韓の縁」>  「明仁天皇の「韓国とのゆかり」発言で日本人が歴史の真実を見据える時が 来た?」   その記事の中に、<ある在日朝鮮人の大学教授は、「就職口がなく、冗談 ではなく暴力団員か学者になるしかなかった」>と語ったのが強く印象に残り ましたが、これは誰でしょうか?   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


倭根子(やまとねこ)と大倭 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか」 2002年3月09日 メッセージ: 4720   半月城です。   前に書いたように、倭漢氏の「倭(やまと)」は大和地方の国名「大倭」 から拝借したと考えられます。しかし、だからといって、皇族の名に多く見ら れる「倭」とはさして関係がないと見るのは早とちりではないでしょうか。   というのも、皇族も「倭(やまと)」の字を大和の国名から拝借したと考 えられるからです。   天皇と「倭」とのかかわりですが、大宝律令(700)のころ、すなわち大倭 など各地の国名が明確にされたころ、急に天皇の名に倭の字が冠されるように なりました。 41代(持統)大倭根子(おおやまとねこ)・・・、703年制定 42代(文武)倭根子豊祖父天皇(すめらみこと)、707年制定 43代(元明)日本(やまと)根子・・・、719年制定 44代(元正)日本根子・・・、748年制定   当時「倭根子」は天皇の枕ことばになった感がありますが、その意味は 「倭の大地に根をしっかり張る意味」とされています。これは天皇と倭との関 係を強調することにより、天皇の権威が「倭(やまと)」に根ざしていること を名前で示したと考えられます(注)。   そうした観点で和風諡号が命名されたと思われますが、それは実在の天皇 だけにとどまりませんでした。通説では実在しないとされている初期の欠史9 代の天皇名にも「倭」の字が冠せられました。9人中、6人にまで倭の字が使 用されました。   古事記や日本書紀が作られたのは8世紀初期ですが、そのころ架空の天皇 を作りだし、その天皇の諡号として定番になっていた地名の「倭」を冠したも のと思われます。そうした考察を井上氏はこう記しました。        --------------------   倭を冠する人名でもっとも多いのは、天皇・皇女・皇子である。これは7 世紀後半から8世紀中葉にかけて、天皇の自称に「倭根子」を冠していたこと と関連するのではないかと思われる。   氏族名で倭を冠するものは、倭漢値氏を中心に、倭画師氏、倭馬飼部氏な ど、韓国朝鮮よりの渡来氏族に数多く使用されている。極めて概括的にいえば、 倭を冠する人名や氏族名は、天皇家と韓国・朝鮮よりの渡来氏族とに限定され たといっても過言ではない。   このことからただちに天皇家が韓国・朝鮮からの渡来氏族であったと断定 するわけにはいかないが、人名に関するかぎり、きわめて関係の深いものであ ったことは指摘できる。   しかもそれが倭の字を冠したところに共通性がある点に注目する必要があ ろう。すなわち、倭の字は記紀の使用法に従えば、地名として律令時代の大倭 国で、現在の奈良県をさし、さらに限定して使うときは、後世の大和郷をいい、 現在の天理市南部をさすものである。        --------------------   lakshmi2032さんは、あるいは天皇家が渡来氏族であったと考えているの かもしれませんが、たんに天皇の名前からそれをいうのは私も無理だと思いま す。しかし、両者は「人名に関するかぎり、きわめて関係の深いもの」という 井上氏の説は傾聴に値します。 井上秀雄『倭・倭国・倭人』人文書院、1991


中国史書に書かれた倭 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか」 2002年3月16日 メッセージ: 4741   半月城です。中国史書にあらわれた倭について検証したいと思います。 RE:4684 > ですからいずれの(中国)史書でも「倭」は同じ国を示している可能性が 高く、一部の史書が日本を示し、他の史書は違う国を示すという可能性はほと んどないと思います。   はたしてそうでしょうか。古代の中国からすると、数多くある周辺国のな かで猛威をふるった「北狄」はまだしも、従順な「東夷」の国についてはよく わからなかったのが実情で、わけても倭の位置は混乱していたのではないでし ょうか。   たとえばその例として『山海経(せんがいきょう)』をあげることができ ます。紀元前3世紀頃つくられたこの書には「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す」と書かれましたが、この倭を北九州とみるのは困難で、山東省 や遼寧省とするほうがより適切です。   次に『漢書地理志』をとりあげます。  「ああ、それで楽浪郡の海中に倭人がいて、百余国にわかれ、年毎に郡に朝 貢にくるというのである」   これは燕地条の付則のさらにまた付則にあたる部分で、いわばおまけに書 かれた不確実な記事です。文体も伝聞調ですが、これを素直に解釈するとこう なります。  「この倭人の居住地は、文字に即していえば、楽浪郡から船で行けるところ に倭人が住んでいたということである。日本列島に比定することもできるが、 朝鮮南部とみることが、より妥当であろう(注1)」   これが『三国志・魏志』東夷伝になると倭人の居住地は、日本および朝鮮 半島南部という両説併存になりました。倭人伝(通称、魏志倭人伝)にはこう 書かれました。  「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧百余国。 漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十国。郡より倭に至るには、海岸 にしたがって水行し、韓国をへて、あるいは南し、あるいは東し、その北岸狗 邪韓国に到る七千余里」   倭の北岸が狗邪韓国とされました。同じ書の韓伝ではどうでしょうか。  「韓は帯方郡の南にあって、東西は海であり、南は倭と接している」  「弁辰の涜廬国は倭と境を接している」   このように朝鮮半島南部にも倭があったことが記されており、倭人伝と共 通するものがあります。しかし、韓伝にせよ倭人伝にせよ内容が混乱している ことはたしかです。そもそも、作者の陳寿は序文で辺地のことはよくわからな いと、わざわざこう記しました。  「しかし遠く離れた辺地のことは、何人もの通訳を経て伝えられるので、中 国の使者の車がその地方に行けないときには、その国の風俗やその特徴を知る ことができない」   「東夷」などの記述はあやふやだからあまり信用するなとことわっていま す。良心的な著者です。これにかぎらず、史料はつねに資料価値に注意する必 要があるのはいうまでもありません。   つぎの後漢書も同様です。これは魏志を引用したものなので、倭人に関す るかぎり目新しいものはありません。   以上を総合すると、古い史書では倭人のクニは朝鮮半島南部にもあったら しいということになりますが、それを井上氏はこうまとめました(注1)。        --------------------   このような(倭人の居住地)両説併存の考え方は、中国正史では5世紀ま で、朝鮮では7世紀中葉まで続いている。   倭を一地域名に限定するのは、後世のことで、漢代では倭人の居住地は江 南地方・内蒙古東部・南朝鮮ないし日本列島の三つの倭となり、三国時代には、 南朝鮮と日本列島の倭が分離して四つの倭となる。   この多数の倭を、江上説では関連づけて、騎馬民族の移動として捉えられ ているが、史料に則していえば、三ないし四の倭が同時並列している。   後漢時代の辞典である『説文』に、倭は従順の意味であるとしている。私 はこの意味をとって、倭を後漢や魏王朝に従順な民族に付した半ば普通名詞と み、完全な民族名として倭が使用されるのは、唐代を待たなければならないと 考えている。   中国知識人にとって、東夷所属は観念的な対象であっても、北狄などのよ うな具体的な対象ではなかった。それ故、その記事も史実を伝えるよりは、理 念が先行する場合が多かったようである。中国の正史を尊重するのはよいが、 その史料批判もなく、盲従するのはよくないと思われる。        --------------------   まったく正論です。古代史を考えるときは文献だけにたよらず、考古学資 料などの裏づけも必要なのはいうまでもありません。その点、倭人の居住地に 関する日本、南朝鮮両説併存は十分な考古学的裏付けがありそうです。   まえに書きましたが、朝鮮半島西南部・南部と北九州は支石墓やかめ棺な ど共通の墓制があるのをはじめ、土器や青銅器など共通の遺物や初期稲作など 共通の文化が多くみられるので、やはり玄界灘をはさんで双方に倭族が住んで いたのはたしかなようです。   その渡来経路ですが、倭族はおそらく中国江南地方や山東半島あたりから 朝鮮半島西南部へ渡り、そこで土着する歴史があり、さらに北九州へ渡来した のではないかと思われます。こうした朝鮮半島にも倭人が住んでいたという説 は上田正昭氏も支持しています(注2)。この詳細は次回にゆずります。   ふたたび中国史書にもどり、『宋書』の記述を見ます。同書は「倭国は高 驪(高句麗)の東南大海の中にあり、世々、貢職を修めている」と記しました が、倭の位置は不明です。   それにもかかわらず、日本の歴史学界では同書に記された倭王「讃」など 五王が日本書紀のどの天皇にあてるのかの論争が続いていますが、議論は精緻 にはほど遠いようです。   たとえば倭王の比定ですが、宋書で倭王の名が「武」だから大泊瀬幼武 (おおはつせわかたけ、雄略)であると決めつけ、それを根拠にほかは兄弟、 親子関係からたどって安康天皇とか比定しています。しかし、どうにも伝えら れる天皇家の系図とは合わないようで議論ははてしないようです。はたして天 皇家と関係があるのかすら疑わしいかもしれません。   上にあげた史書は、それぞれの倭国の位置があいまいですが、『隋書』に なってやっと倭国は中国・近畿地方らしいことがわかります。ただし、この書 では秦王国や阿蘇山の名は登場しても、飛鳥や難波の名はでてこないので、倭 王の所在地まではわかりません。なお、中国使節の行路は下記に記したとおり です。 <ナゾの秦王国と宇佐八幡宮 >   なお、同書では倭のおおまかな位置を依然として「会稽(逝江・江蘇省) の東にあり、タンジ(広東省)と相近し」と記しました。台湾あたりと混同し ているのかもしれません。   このようにあいまいながらも、倭国の位置がはっきりしたのもつかの間で 『旧唐書』になるとまた混乱しました。同書は明らかに倭国を北九州にあった 奴国のあとと考え、「日本」をヤマト地方に考えているようです。  「倭国は古(いにしえ)の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東 南の大海の中にあり」  「日本国は倭国の別種なり・・・あるいはいう、日本はもと小国、倭国の地 を併せたりと・・・またいう、その国の界、東西南北各々数千里あり、西界南 界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし」   こうした記述から倭の九州王朝説をとなえる人もいるようです。井上氏は、 外国の史書からすると古墳時代の倭とは九州であると考えているようで、こう 記しました(注1)。        --------------------  「倭の五王を含めて、従来間違いないといわれておりましたものも、必ずし も不動の史実ではないといえましょう。古くいいますと平安時代、新しくいい ますと江戸時代、あるいは明治以降、倭を日本にきめたのであり、そして日本 といえば大和朝廷が最高の権威であり、それ以外には考えられないのだという ふうにきめてかかったのではないでしょうか。   私は結論だけいわせていただきますと、中国との関係というのは、南斉か ら官位・軍号をもらいます武王でもって、倭国そのものは実質的に終わると思 うのです。   朝鮮の史料『三国史記』<新羅本紀>でも500年で倭の記事がひとまず 終わっております。これは文献上の操作であるか、史実であるか非常にむずか しいところですけれども、まず外国の目から見て、倭国そのものが滅びたと考 えていいのは6世紀の初頭だといえると思います。   しかし、外交権はその後も倭国が握っていたと考えられます。これは隋書 一つ見ていただいても、「日出づるところの天子、書を日没するところの天子 にいたす、つつがなきや」という戦時中非常に喧伝されたあの史料が『日本書 紀』には出てまいりません。   もし大和朝廷のだれか、普通聖徳太子だといわれるわけですけれども、そ れを書いたとするのならどうして『日本書紀』にでないのでしょうか。だれか 別の人間が書いたから『日本書紀』にでなかったのではないだろうかというの が私の疑問です。   702年、粟田朝臣真人が国名変更を告げる遣唐使として出かけている。 私は、それは白村江の戦いの後始末だと考えております。   それまでは倭国外交、すなわち実質的に大和朝廷あるいはほかの王朝に支 配されたかもしれないが、北九州の旧倭国が--ちょうど中世の鎮西奉行ある いは大内氏、近世でいいますと対馬の宗氏のように--中央からの指令がある とはいえ、実質的には独立外交をしていたのではなかろうかと考えています。   その辺の考証は今後いろいろやっていかねばなりませんが、少なくとも 『日本書紀』を絶対視するというのは対外関係史から見てたいへんむずかしく、 古い時代になればなるほど、ほとんど外国の史料と合わなくなります。        --------------------   補足ですが、隋書にたいする疑問はほかにもあります。隋の使者がやって きたのは、日本書紀の編年では女帝である推古朝に該当しますが、そのときの 倭王は男とされました。これなども九州の倭国の話とすれば、つじつまはあう のでしょうが、そのためには井上氏のいうように相当な考証が必要です。   それはともかく、日本書紀の記述は信頼性に相当問題があるが、中国史書 も倭の記述に関するかぎり、矛盾や混乱にみちていることだけはたしかで、倭 の位置すらよくわからないといえます。 (注1)井上秀雄『倭・倭人・倭国』人文書院,1991 (注2)上田正昭『大和朝廷』講談社学術文庫,1995   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


明治政府のホンネとタテマエ LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 #864   02/03/16   RE:840 >そう致しますと、最低限云えることは、1905年の島根県による領土編入 は、かつて日本政府の主張した「無主地の先占」ではないと云う事ですね。 >明治政府は「無主地」とは認識していなかったと云うことで、宜しいのです か。   これはホンネとタテマエが異なります。竹島=独島編入を閣議に提案した のは他ならぬ内務省でした。同省は太政官へ「竹島外一島」伺いをだし、その 回答から判断してか「韓国領地ノ疑アル」竹島=独島の編入に反対していまし た。   しかし、内務省は日露戦争のさなか、外務省の「時局ナレバコソ」という 主張を受け入れ、方針を180度変えました。その外務省にしても早くから 「竹島 松島 朝鮮付属ニ相成候」と認識していました。   以上が明治政府のホンネですが、それにもかかわらず、タテマエは「他国 ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク」と強弁し、無主地であることを理 由に竹島=独島編入を閣議決定しました。くわしくは下記をご覧ください。 <竹島=独島の領土編入>   ホンネにせよタテマエにせよ、いずれにしても1905年の閣議編入まで明治 政府は竹島=独島を日本領と考えていなかったことだけは確かです。また、現 在外務省の主張する「竹島は日本の固有領土」説が根拠のないこともたしかで す。もっとも外務省の主張はタテマエで、ホンネは別かもしれません。


万国公法 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 #1013 02/03/21   Am_I_AHOさんは「狼たちの国際法」という言葉に抵抗があるのでしょうか。   RE:914 >貴兄のお嫌いな「狼たちの国際法」であれば、内部の認識と対外的な表明が 同一でなかったとしても、対外的にはそれを理由に略取することは可能ではな いでしょうか。   一般的にはそのとおりです。帝国主義時代は力を背景にした大国の強弁が まかりとおる場合が多かったようです。「狼たちの国際法」は明治時代「万国 公法」とよばれましたが、木戸孝允はその本質を「万国公法は小国を奪う一道 具」と喝破しました。   さて、竹島=独島の場合ですが、領有にかんする「対外的な表明」はあり ませんでした。島根県の告示を日本政府の対外表明とみるのは困難であるのは いうまでもありません。   もし、明治政府が竹島=独島を「無主地」と強弁して領土編入を正式に官 報で公示したのなら、これは対外的な表明に近くなり、太政官の竹島=独島放 棄指令や「竹島=独島は朝鮮領」という内部認識を超越して、おそらく木戸語 録どおりの展開になったと思われます。   しかし、実際にそうならなかったのは、日本は仲間である狼たちの眼を恐 れて官報公示を控えたためでしょうか。かって内務省はこう考えていたようで した。  「内務当局者は、この(日露戦争の)時局に際し、韓国領地の疑いある莫荒 たる一箇不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の野心あること の疑いを大ならしむるは、利益の極めて小なるに反して事体決して容易ならず (注1)」 <島根県告示と保護条約>   あるいは、明治政府は官報公示した場合の韓国の反発を懸念し、無用な摩 擦をあらかじめ避けたのかもしれません。実際、韓国は遅ればせながら日本が 竹島=独島を編入した事実を1906年に知ったときには相当な反発をしたくらい ですから、懸念はありえます。 <島根県告示と保護条約>   いずれにしても、竹島=独島は「無主地」でなかっただけに国際法上は無 主地の編入という解釈は困難です。当時、韓国はすでに竹島=独島を領土とし て認識していました。 <韓国の竹島=独島「実効支配」>   さりながら、日本の領土編入が万国公法において合法かどうかという問題 は、日本の竹島=独島軍事占領という既成事実の前にかすんでしまいました。 福沢諭吉は「百巻の万国公法は数門の大砲に如(し)かず」と公言しましたが、 竹島=独島はそのとおりになりました。   日露戦争下、日本は日本海における戦略を重視し、竹島=独島を占拠し軍 事用の望楼を建設しました。こうした軍事占領による領土獲得は、万国公法で は適法とされたようです。しかし戦後、そのようにして略奪した日本の領土は カイロ宣言で放棄することが求められました。  「日本国は又暴力及貪欲に依り日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐 せらるべし」   さらにこれは、日本のポツダム宣言受諾により実行が義務付けられました。 <日本の竹島=独島放棄と領土編入17>   竹島=独島がこの「略取」に該当するというのが韓国の主張であるのは周 知のとおりです。 (注1)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24 号、1987


SCAPIN 677の解釈(1) LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 #907 02/03/17   RE:872 >ソ連は東西冷戦の東の横綱、ICJに提訴して勝ち取ることができても関係を 悪化させ、軍事的な緊張を高める可能性もある。   これは杞憂ではないでしょうか。北方領土問題で日本が国際司法裁判所 (ICJ)で勝訴する見込みはほとんどありません。前に書いたように、日本はす くなくともクナシリ・エトロフを含む千島列島をサンフランシスコ条約で放棄 したので、裁判の付託を提案したら笑われそうです。   一方ハボマイ・シコタンですが、こちらは吉田発言に見られるように日本 は放棄の意思表示をしていないので、もし日本が竹島=独島問題で勝てるなら、 ハボマイ・シコタンは楽勝です。というのも竹島=独島とちがって、ロシア側 は同島を自国の固有領土であるという主張を一度もしていないからです。   しかし、これもサンフランシスコ条約を考慮するとき、勝ち目はないと思 われます。戦後、ハボマイ・シコタンならびに竹島=独島は SCAPIN 677号で 同時に日本から政治上および行政上分離され、それ以来ソ連・ロシアならびに 米軍政庁・韓国が合法的に統治してきました。   これとサンフランシスコ条約との関連ですが、同条約ではそれらの島に一 言半句の記述もありませんでした。アメリカとしては、忠実な同盟国である日 本に配慮し、これらの島を日本領にしたかったのでしょうが、これは韓国やソ 連の反対で実現しませんでした。   これは当然です。条約の非調印国であるソ連や韓国の了解なしに、同条約 でそれらの島の領有権を勝手に日本に移すことは不可能という事情がありまし た。この一点だけを考えても、外務省の主張「平和条約が竹島にふれていない のは、竹島が日本領でないからではない。平和条約では、日本から剥奪する領 土だけを書くのが当然で、書かない限り日本に残る」という見解はとうてい無 理だと思われます。   といっても、これらの島の帰属が同条約でソ連や韓国のものになったと解 釈するのは困難であると思われます。同条約に規定されない以上、それらの島 は棚上げにされたといえます。これは日韓条約でも同じで、何も明記されなか ったので、竹島=独島はやはり棚上げされたと私は解釈しています。これは Am_I_AHOさんと意見の違うところです。   RE:865、風の助さん >「現在の韓国の領土を規定する根拠は何ですか?」   あらためて書くと、竹島=独島にかぎらずハボマイ・シコタンもそうです が、サンフランシスコ条約は SCAPIN 677号に抵触するような規定は何もなか ったので、SCAPINにもとづく韓国やロシアの継続統治は合法的です。   ただし、SCAPIN 677号は最終決定でないと6条に規定されているので、暫 定的な措置であるといえます。この点、私の見解は韓国政府と異なります。し かし、半世紀も過ぎた今となっては暫定という語は永久という語と実質的に変 わりないかもしれません。   韓国併合条約では、韓国皇帝は統治権を「永久に」日本皇帝に譲与すると されましたが、半世紀もしないうちにくつがえりました。永久が半世紀以下で、 暫定が半世紀以上と逆転しました。   つぎにハボマイ・シコタンと竹島=独島との違いについて書くことにしま す。ハボマイ・シコタンの場合、戦後の法的状況は竹島=独島とそっくりなの に、外務省は竹島=独島のような「平和条約に書かない限り日本に残る」とい う主張は一度もしませんでした。なぜなのか不思議です。これは竹島=独島の そのような主張が間違いであったことに気がついたのでしょうか。   そうなると、日本政府は SCAPIN 677号指令を今でも有効と考えているの かどうか不明なところがあります。外務省の広報誌では「この指令は、占領行 政上の措置にすぎず、領土問題の最終的決定とは関係がない」と記すのみで、 SCAPIN指令が今でも有効かどうか明確にしませんでした。   私は #586で「竹島=独島に関するかぎり、アメリカ一国の考えや書簡が どうであれ、国際的に有効なのは SCAPIN 677,1033のみです」と述べましたが、 現在有効なのは 677号のみで、1033号は廃止されました。ここに訂正します。   1033号(46.6.22)は、李ラインのもととなったマッカーサーラインを定め た指令ですが、サンフランシスコ条約が発効する3日前、すなわち52年4月 25日に廃止されました。   もし、すべてのSCAPIN指令がサンフランシスコ条約とともに自動的に消滅 するのなら、わざわざ撤廃するまでもないのですが、それが3日前に特別指令 を出して撤廃したことからすると、サンフランシスコ条約に新たな規定がなさ れないかぎり SCAPIN指令は今でも生きているとみるべきです。   そのためか、外務省はソ連によるハボマイ・シコタン占領を日ソ共同宣言 以前でも「不法占拠」とは一度も非難していないようです。竹島=独島の場合 とは大違いなようです。


SCAPIN 677の解釈(2) LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 #1015 02/03/21   中道さんのご要望(#918)にこたえ、竹島=独島など「SCAPINにもとづく韓 国やロシアの継続統治」が合法かどうか、くわしく見ていきたいと思います。   私は、マッカーサーラインを定めた SCAIPN 1033号がサンフランシスコ条 約発効の三日前にわざわざ廃止されたことから、SCAPINはサンフランシスコ条 約で自動的に無効になるのではないと確信しました。   したがって、竹島=独島やハボマイ・シコタンを日本から政治上・行政上 切り離した46年の SCAPIN 677号は、その後廃止命令がないので現在も有効だ ろうと記しました。   ここの掲示板では、占領軍の統治は同条約で終了したという単純な理由の みで SCAPIN 1033を何らかえりみることなくSCAPIN 677を「無効」と決めつけ ている人が多いようですが、きちんとした検証が必要なことはいうまでもあり ません。   この点、日本や韓国政府は「有効」「無効」をどう考えているのか知りた くて、あらためて両国政府の公式見解を調べてみました。両国政府はどうやら 「有効」「無効」というあからさまな表現を慎重に避けているようです。   まず、日本の外務省ですが、ホームページでは「無効」などの用語は見ら れませんでした。  「対日平和条約前の一連の措置(SCAPIN 677等)は、いずれも日本国領土の最 終決定に関するものではないと明記されており、竹島が日本の領域から除外さ れたものではないことは明白」   一方、韓国政府の公式主張にも「有効」という直接的な表現はみられない ようです。  「対日講和条約は日本の領土問題に関する限りこの SCAPINの条項と相容れ ない如何なる条項も規定していない・・・講和条約は全く実質的な変更をなす ことなく、本問題に関する総司令部の処分を確認したものと了解できる(注 1)」   これらの解釈ですが、現在は SCAPIN 677が有効か無効かが問題なのでは なく、その措置が現在の国際社会でどのような位置づけにあるのかが重要なの かなと私は考えるようになりました。   現状はいうまでもなく、SCAPIN 677号の流れで韓国やソ連が竹島=独島や ハボマイ・シコタンを引き続き統治しているのはいうまでもありません。これ を日本政府はどう考えているのでしょうか?違法統治と主張しているのでしょ うか?   まず、ハボマイ・シコタンですが、日本政府は「ソ連は・・・日ソ中立条 約を無視し・・・(北方領土の)全てを占領(注2)」と記すのみで、あから さまに「不法占領」や「不法侵犯」などと主張した形跡はないようです。まし てや同島に実力行使したことは一度もありませんでした。   一方、竹島=独島ですが、1954年に日本の巡視船が接近して、いわゆる 「竹島=独島銃撃事件」に発展しました。同時に日本は韓国の「竹島侵犯」を さかんに抗議しましたが、現時点ではホームページで韓国の「占拠」をいうの みで、すくなくとも外交青書などの公式文書では「不法占拠」などのヒステリ ックな主張はしていないようです。   外務省もずいぶん冷静になったものです。現状では、サンフランシスコ条 約を根拠に、たとえ「領有権が日本に残る」と負け惜しみの主張は可能しても、 条約非調印国が統治している竹島=独島やハボマイ・シコタンの統治権が、同 条約で自動的に日本に移管されたとするのは困難だと考えているのではないで しょうか。   まえに書いたように、アメリカは同島の日本帰属を望んだのでしょうが、 統治国の同意が得られなかったため、最終的には同条約で竹島=独島やハボマ イ・シコタンについて明記することを放棄せざるをえませんでした。   したがって、同島の統治権が正式に移管されないかぎり、韓国やソ連によ る統治は何ら違法ではなく、合法的といえます。   なお統治権の移管が無理なら、領有権の移管はなおさら無理です。それが 同条約で自動的に日本に移ったなどと主張することはとうてい困難です。日本 はせいぜい「潜在的な領有権」を主張するにとどまざるをえません。   その結果、韓国やソ連による同島の統治は新たな二国間合意が結ばれない かぎり継続することになりそうです。 (注1)田村清三郎『島根県竹島の新研究』島根県、1996 (注2)外務省『われらの北方領土』2000


アメリカ公文書館資料 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 #1209 02/03/26   Am_I_AHOさん、RE:1196 >この(日本領土)最終的決定にポツダム宣言を受諾した日本の意志が入り込 む余地は全くありません。 >何故なら、ここでは連合国の政策のみが謳われているだけで、決定権は連合 国にあるのです。   SCAPIN 677号をふまえて、連合国はサンフランシスコ条約以前に「最終的 決定」をした可能性があります。糞草さんが紹介されたリンクを調べたら、韓 国「世界日報」の下記記事が見つかりました。 <世界日報記事「連合国領土合意書 独島を韓国領土処理(韓国語)」2001.9.22^>   それによると、日本でも著書『独島・竹島』でおなじみの愼鏞廈氏は、ア メリカ公文書館で決定的な資料を発見したようです。それも「独島の領有権を めぐる日本の無理な主張に終止符をうつ重要な資料」というふれこみです。さ っそく訳してみました。しかし、著作権の関係から記事全文を載せることはで きないので、一部のみ引用します。全文を機械翻訳でもいいから読みたい人は 下記のocn翻訳サービスを利用してください。ただし誤訳はつきもので、愼氏 が神になったりします。しかもサイトはつながりにくいようです。 <OCN翻訳サービス>        --------------------  (前略)(2001年9月)18日ソウル大学社会学科、愼鏞夏教授は、1947年連 合国所属28ケ国が合意した'連合国の旧日本領土処理に関する合意書'を公開し た.この合意書には"連合国は韓国に韓半島とその周辺の韓国の島たちに対する 完全な主権を移譲する事に合意したが、その島には済州島と巨文島,鬱陵島,独 島を含む"と言う規定が明示されている.連合国はまたこの規定を明確にするた めに韓半島周辺の地図を作成して添付したことが明らかにされた.   最近までアメリカ公文書館に保存されて来たこの文書と地図は独島問題を 研究して来た愼教授によって最近入手された.   総5項目で構成されたこの合意書は、敗戦国である日本が韓国を含めて中 国とソ連に返還する領土とアメリカの信託統治に委任する領土に対する国際的 合意を盛っている.したがって今度発見された極秘文書と地図も独島の韓国領 有権が国際社会で法的に認められたという事実を確認してくれる決定的な証拠 となるものである.   第3項'韓国に返還する領土'は"韓半島本土とその周辺のすべての島(all offshore Korean islands)を韓国に返還しなさい"と明示しながらその代表的 例に独島(Liancourt Rocks, Takeshima)をあげ、独島が韓国の領土なのを明ら かにしている(以下省略)        --------------------   この合意書は SCAPIN 677号を連合国28か国が再確認したもののようで す。当時の日本の領土は、Am_I_AHOさんのいうように占領軍である連合国によ り一方的に決定されるので、もし合意書が日本の放棄する領土を最終的に決定 したものなら、竹島=独島領有問題を最終的に解決する資料になるかもしれま せん。


サンフランシスコ条約の経緯 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 #1323  02/03/30 RE:1217,AM_I_AHOさん   おっしゃるとおり、愼教授が発見した竹島=独島の新資料はサンフランシ スコ条約草案として作成されたようでした。   韓国「東亜日報」の記事「‘独島は韓国領土’連合国極秘文書公開」 (2001.9.18)によれば、この文書‘連合国の旧日本領土処理に関する合意書’ は「49年、連合国代表が51年のサンフランシスコ条約締結を前に事前準 備」のため集まった席上で作成されたようでした。 <東亜日報記事>   その資料に地図が付属されましたが、それは東亜日報の下記記事でも公開 されました。 <東亜日報記事「“独島は韓国領”連合国も認定 ・・・1949年頃製作合意書確認(韓国語)」2001.9.19>   この地図で日本の領土が線引きされましたが、日本領に竹島=独島は入り ませんでした。   この会議で連合国は SCAPIN 677を再確認したにもかかわらず、サンフラ ンシスコ条約で竹島=独島やハボマイ・シコタンの日本から放棄が明記されな かったのは、日本からの猛烈な働きかけのためだったようでした。日本の努力 は一時みのり、49年末のアメリカ草案では竹島=独島やハボマイ・シコタン は日本領とされました。   しかし、この認識の根拠が正当なものなら問題ないのですが、そうではな いようです。アメリカは竹島=独島に関してほとんど無知だったようで、驚い たことに「竹島には朝鮮名がない」とまちがった判断をしていたようでした。 無知ほどおそろしいものはありません。日本の主張をうのみにして、竹島=独 島を日本領と判断したようでした。国務省の注釈書(50.7)はこう記しました。  「西方近距離にあるダジュレ島(注、鬱陵島)とは異なり竹島には朝鮮名が なく、かつて朝鮮によつて領土主張がなされたとは思われない。同島は、占領 期間中合衆国空軍によつて射爆場として使用され、また、気象またはレーダー 局用地として価値がある可能性がある(注)」   アメリカが明治政府による松島(竹島=独島)の放棄を知らないのは無理 ないとしても、竹島=独島の歴史的経緯をきちんと調べようとしなかったばか りか、それ以前に軍事的価値を重視していたようでした。   そんなアメリカ案は同盟国の見解と食いちがいをみせました。イギリス案 (51.4.7)は竹島=独島を韓国領としており、愼教授が発見した地図に近いもの だったようでした。おそらく、49年の連合国合意を重要視したものと思われ ます。   両国のくいちがいは調停がはかられた結果、竹島=独島やハボマイ・シコ タンがまったく明記されない現在の条約が誕生したのですが、それに関連して アメリカは目をひく記録を残しました。   国務省の注釈書は「歯舞諸島および色丹については、ソ連がその島を占領 していることからして、日本への返還を明確に規定しない方がより現実的であ ると思われる」とのべました(注)。   さすがのアメリカも、現にソ連が統治しているハボマイ・シコタンを日本 領と明確に規定することは無理だったようでした。当たり前です。アメリカと いえども連合国指令SCAPINにもとづくソ連の既得権を否定するような不可能で す。強行すれば、冷戦下の米ソ関係をさらに悪化させることは必定です。結局、 条約で竹島=独島やハボマイ・シコタンの領有権をあいまいにしたまま、統治 権は従来どおりにされました。   ここで注意すべきは、条約において竹島=独島は「韓国領と明記すべき」 という韓国の主張は最終的にとおらなかったばかりか「日本領と明記すべき」 という日本の主張もとおらなかったことでした。   ここの掲示板では、条約で韓国の要求がとおらなかったから、韓国の竹島 =独島領有権は否定されたと短絡的に考える人が多いようですが、同じ論法で いえば、日本の竹島=独島領有権も否定されたことになるのはいうまでもあり ません。   したがって、同条約で竹島=独島は日本のものになったとか、韓国のもの になったとかいう主張は我田引水にすぎません。確実にいえるのは、竹島=独 島やハボマイ・シコタンの統治権が従来どおりであり、それは日本の一部以外 では違法と認識されていないということです。   結論として、これらの島の統治権や領有権が条約で日本に移管されたとみ ることは不可能であり、せんぜい外務省の主張<条約に書かれなかったから、 領有権は日本に「残った」>という負け惜しみが精一杯のところです。 (注)塚本孝「平和条約と竹島(再論)」『レファレンス』国立国会図書館、   1994,3月号


日本は竹島=独島をなかば放棄 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 #1349 02/03/31   ニルバーナさん、Re:1333   日本がサンフランシスコ条約で「竹島=独島は日本領と明記すべき」と要 求した資料ですが、そのとき書いたリンクにあります。 http://ww1.enjoy.ne.jp/~koukokutenbo/scapin_677.htm   その一部を文末に示しますが、日本政府の意向を受けてシーボルト駐日政 治顧問は条約第3条に竹島=独島が「日本に属するものとして明記」するよう 要求し、一旦は草案で認められました(注)。   しかし、前に書いたようにイギリス案と調整をはかる過程でこの日本の要 求は削除されました。結果的に日韓双方の要求が退けられたのです。   ここで重要なのは、日本はその措置を容認したことです。当時の日本は、 もし竹島=独島や北方四島の領有に固執するのなら条約調印を拒否できる立場 にありました。この点、韓国の立場とは基本的にことなります。非調印国の韓 国には条約を拒否する道はありませんでした。   最終的に日本は独立と引き替えに妥協し、それらを領有することを条約に 明記する要求は放棄しました。日本は条約で竹島=独島やハボマイ・シコタン をなかば放棄したといえます。        -----(引用開始)ーーーーー 塚本孝「平和条約と竹島(再論)」『レファレンス』国立国会図書館,1994.3  ・・・  シーボルド駐日政治顧問は、続いて領土条項全般(放棄だけを規定して、帰 属先は日本以外の締約国間で定める等)、台湾の取扱いおよび北方四島の取扱 いについて提言した後、竹島について次のように述べた。  朝鮮方面で日本がかつて領有していた諸島の処分に関し、リアンクール岩 (竹島)が我々の提案にかかる第三条において日本に属するものとして明記さ れることを提案する。この島に対する日本の領土主張は古く、正当と思われ、 かつ、それを朝鮮沖合の島というのは困難である。また、合衆国の利害に関係 のある問題として、安全保障の考慮からこの島に気象およびレーダー局を設置 することが考えられるかもしれない。 (英文原文省略) (一九四九・十二・二九草案)  シーボルド駐日政治顧問から竹島の領土であることについての指摘を受けた 国務省は、翌月すなわち一九四九年十二月二九日付けの草案で(注28)、関 係条文を修正した。まず、第二章「領土条項」第三条の、日本の保持する島の 列挙に竹島が加えられた。同条は、次のように規定する。  1 日本の領土は、四主要島である本州、九州、四国及び北海道並びに瀬戸 内海の島々、対馬、竹島(リアンクール岩)Takeshima(Liancourt Rocks)、 隠岐列島、佐渡、奥尻、礼文、利尻及び対馬・竹島・礼文の外側の海岸を結ん だ線の内側にある他のすべての日本海の諸島、五島列島、北緯二九度以北の琉 球諸島及び東経一二七度以東北緯二九度以北の東シナ海にある他のすべての諸 島、孀婦岩以北の伊豆諸島及びフィリッピン海にあるこれより日本本土に近い 他のすべての諸島、北緯…〈中略〉…に引いた線より東南に位置する歯舞群島 及び色丹を含むすべての隣接諸小島からなる。上に掲げられたすべての諸島は、 三海里幅の領海とともに日本に属する。  2 前記のすべての諸島は、条約付属地図に示される。 (注28)NARA:RG59,Lot54 D423 JAPANESE PEACE TREATY FILES OF JOHN FOSTER DULLES, Box12, Treaty Drafts 1949-March 1951. なお、このファイ ルにあるのは五〇年二月の改訂版であるが、カバーレターから竹島関係部分は 原案と変わっていないことが知られる。        ------(引用終了)ーーーーーーー   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


係争と紛争 LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」 #1125   02/03/24   tyojinnさんは「偏狭なナショナリズム」をとなえるつもりはないとのこ となので安心しました。それはバトルアックスさんとちがって、SCAPIN 1033 すなわちマッカーサーラインがサンフランシスコ条約発効三日前に廃止された 理由を真剣に考えていることからも推測されます。   しかし、その推論の中に誤りがあります。マッカーサーラインをほぼ引き 継いだ李ラインは同条約発効後ではなく、発効前の1952年1月28日に宣言さ れました。 <李ラインの経緯>   独立後の日本はこれに反発し、巡視船を竹島=独島に派遣して実力行使に でました。これがもとで1953年、両国は銃撃事件に発展しました。不幸なこと です。このとき、両国はたしかに紛争状態にあったといえます。   このとき、日本が竹島=独島問題で国際司法裁判所への付託を提案したの も理解できます。同時に、韓国が竹島=独島は歴史上もSCAPIN上も韓国領とし て、付託提案を拒否したのも理解できます。結局、両国の外交戦略がくいちが ったまま、付託は実現しませんでした。   その後、周知のように竹島=独島問題は日韓基本条約交渉(1965)でも最後 までもめましたが、結局は棚上げされたと私は認識しています。そのとき、こ この会議室で明らかになっているように、両国間の紛争解決方法が定められま した。   tihoroさんも書かれているように、日本はこの規定にそって竹島=独島問 題を韓国に提起したことは一度もありませんでした。また、日韓条約以後は国 際司法裁判所への付託を提案したこともありませんでした。したがって同条約 以後の日本は、竹島=独島問題は外交上の係争問題ではあっても、両国が定義 する「紛争」とは認識していないといえます。   この点は tyojinnさんと同じ認識でしょうか。



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