半月城通信
No. 63

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 日経ネットナビと半月城通信
  2. ホームページの宣伝法
  3. RE:半月城さんの立場は?
  4. 日本と原爆のかかわり
  5. 竹島(独島)と明治以前の認識
  6. 韓国と北朝鮮の工作合戦
  7. 関東大震災と朝鮮の独立闘争


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/08/08 - 07288/07288 PFG00017 半月城 日経ネットナビ ( 8) 99/08/08 08:43 07272へのコメント   私の書き込みを「救いようのない発言」と考えている人もいるようですが、 その発言集である「半月城通信」は出版界でちょっぴり評価されているようで す。   これまでにも単行本やWWWイエローページなどに紹介されてきましたが、 それが今度は、日経ネットナビのホームページ紹介本に掲載されました。書名 は『インターネットホームページ、ベストブックマーク2500』と長ったらしい のですが、その中の世界史の項にこう書かれています。        -------------------- 半月城通信  http://www.han.org/a/half-moon/   日本に定住している外国人の立場からの韓国・朝鮮に関する歴史上の様々 な問題への論考を公開している。その内容は、古代史から現代史まで、人権問 題から文芸作品にまで及ぶ。ダウンロード用の圧縮ファイルも用意されている。        --------------------   また、付録のCD-ROMを何回かクリックすると「半月城通信」に直接 アクセスできる仕組みになっています。   こんなふうに書くと、ここの会議室では、今度は地方議会どころか日経ま で半月城に汚染されたと言いだしかねないのかも知れませんが、それだけにと どまりません。マイクロソフトの百科事典『エンカルタ』にまで紹介されまし た。ちなみに、こちらはたしか社会に分類されていました。   この機会を励みに、とんちんかんな「男版・辛淑玉」あるいは「在日のゲ ッペルス」などといった罵詈雑言のつぶてにびくともしない半月城の砦を築き たいと思っています。  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 07306/07307 PFG00017 半月城 ホームページの宣伝法 ( 8) 99/08/14 11:49 07297へのコメント   Safety さん、初めまして。 > いやぁ、HPがいろんなメディアで紹介されるなんて、すっごいですね。天下 >の日経や世界のマイクロソフトまで半月城さんに注目してるんですね。すごいな >あ。   珍しいことがあるものです。ここの会議室にかぎっては、私の書き込みや ホームページはけなされるのが日常茶飯事で、まともにほめていただいたのは、 この会議室始まって以来の椿事です。ありがとうございます。お礼に耳寄りな 情報をお教えしましょう。 > ところで、私もHPを持っていますので参考のためにお聞きしたいのですが、 >どのように宣伝・営業をすれば半月城さんのようにHPをいろんなメディアで紹 >介していただけるものなのでしょうか。   Safetyさんのホームページ『自由に語ろう北朝鮮』 (http://member.nifty.ne.jp/Safety/)は、韓国・朝鮮関係のネットサーフィ ンで容易にみかけないので、たしかに宣伝が足りないようです。   宣伝の方法ですが、韓国・朝鮮関係のホームページにリンクを張ってもら うのも効果があります。でも、これは「北朝鮮」という政治色の強いホーム ページでは、お互いに思想的な衝突が起こる可能性があり、ややこしいかも知 れません。   政治色抜きに宣伝するには、反帝国主義者さんがあげた Yahooなどのサー チエンジンに登録することです。これは数十ありますが、それらすべてに下記 のホームページから一括登録ができるそうです。   「一発太郎」 http://ippatsu.net/TARO/   一方、アクセス数を増やす秘訣ですが、これも昨年の「NHK趣味講座」 によると、下記ホームページにくわしいようです。   「アクセス向上委員会」 http://www.access.or.jp/   ちなみに私の場合、ホームページの立ち上げから宣伝まで、ほとんど 「ハンワールド」(http://www.han.org)の管理人さんにまかせっぱなしです。 そのおかげで、私はほとんど書き込みに精を出すことができました。  (本記事はML[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 07307/07307 PFG00017 半月城 RE:半月城さんの立場は? ( 8) 99/08/14 11:50 07289へのコメント   反帝国主義者さんの好奇心にお答えしたいと思います。 > ところで、これを機会にもう一つお伺いしますけど、いったいどういう立場で書 >き込みをしているのですか。 > >(1)日本に定住する外国人 >(2)日本に定住する無国籍者 >(3)日本に定住する日本人 >(4)日本に定住する大韓民国人 >(5)日本に定住する朝鮮籍残留者 >(6)日本に定住する朝鮮民主主義人民共和国人   この機会に、私の過去を明らかにすると、生まれたときが「(3)日本に 定住する日本人」でしたが、私(両親)の意思とはまったく無関係に1952 年に「(5)日本に定住する朝鮮籍残留者」とされました。   その後、両親が私を「(4)日本に定住する大韓民国人」として登録しま した。私自身は、将来樹立されるべき「統一コリア」の国民になるべきと考え ますが、それまでは「(4)日本に定住する大韓民国人」として発言するつも りです。   この立場は、一方では「(1)日本に定住する外国人」の立場でもありま す。結局、うえの分類で該当しなかったのは、(2)無国籍者、および(6) 朝鮮民主主義共和国人です。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/08/08 - 07287/07288 PFG00017 半月城 日本と原爆のかかわり ( 8) 99/08/08 08:43   今年もまたヒロシマ、ナガサキの日がめぐってきました。一瞬の閃光と爆 風、いわゆるピカドンにより、あるいは残留放射能の影響により数十万人の尊 い命が無惨にも奪われました。   その犠牲者は日本人にかぎらず、強制連行などにより軍需工場などに配置 されていた朝鮮人数万人も含まれていました。   こうした惨劇はいくら強調しても強調しすぎることはないくらい悲惨なも ので、世界に向け、とくにインドやパキスタンなどに対し、もっと強くアピー ルすべきではないかと思います。   それと同時に、この会議室でも日本の核武装を主張する“気散人”さんあ たりに、核兵器のおろかさを理解してもらうのも必要かもしれません。   そうした主張の際に、日本でもかって原爆を開発していたという過去の事 実はきちんと把握しておくべきであると思います。   このいまわしい事実はベールにつつまれ、一般にその実態がほとんど知ら れていないので、今回はとくにこれを取りあげます。   これに関連して、韓国の週刊誌、ハンギョレ21がこの話題を報道してい ましたので、まずはそれを紹介します。        -------------------- 「日本も“原爆開発”にあがき」    仁科博士の研究記録発見      アメリカより先に成功していたら“加爆国”になっていたかも               (ハンギョレ21、第268号、99.7.29)   45年、7月16日(8月9日の誤り、半月城注)と8月6日、2発の原 爆が日本に落ちた。そして30万名の命が地球上から奪われた。ヒロシマに落 とされたのは“リトルボーイ”で、ナガサキに落とされたのは“ファットマン” だ。   おそらく人類の戦争史において、かくも多くの人命が失われたことはかっ てなかったことだろう。そのためか、悲劇の当事者である日本人は、自分たち が世界で唯一の原爆被害者である点を強調している。   同時に、原爆に関連したことにはきわめて敏感に反応する。昨年、アメリ カ政府がスミソニアン博物館に原爆「リトルボーイ」を投下したB29戦略爆 撃機“エノラゲイ”を永久展示しようとしたとき、政府レベルでの抗議をとお して、計画を頓挫させたのはその一例である。   ところで日帝の植民地を経験した多くのアジア人たちは、このような日本 の“悲劇”に頭では共感しても、心からの“情緒的共感”を持てないでいる。 その一番の理由は、日本が過去に対し心から謝罪しないためである。   しかし、また他の理由もある。それは日本がアメリカとの原爆開発競争に 敗北した結果“被爆国”になっただけであり、万一、勝利していたら“加爆国 になっていたかもしれないという歴史的事実のためである。   ナチスドイツのように、日本も原爆開発を推進した証言や、間接的な資料 はあったが、今までその開発過程が資料として公開されたことはなかった。   ところが、最近、日本の原爆開発過程を整理した資料が発見され、それに より日本軍が必死で原爆開発を行った事実が裏付けられた。さる6月、日本の 原爆開発を主導した仁科芳雄博士の研究記録が偶然に発見されたのである。 ○“ウラニウム収集”の具体的証言と資料  『仁科研究室に於けるU(ウラン)研究状況』と『ウランに就いて』という タイトルの二つの資料には、核分裂をめざした研究状況が詳細に整理されてい る。   仁科博士は日本陸軍航空本部の委託で1942年から本格的な原子爆弾研 究に着手した。しかし「不幸中の幸い」で、核分裂の連鎖反応を制御するプロ セスを誤解し、結局、原爆開発に失敗してしまった。   原爆の開発研究は仁科博士が主導した理化学研究所だけではなかった。京 都大学の荒勝教授が先頭に立ったもう一つのチームもやはり日本海軍の依頼で 原爆開発を必死に行ったのである。特にこのチームにはノーベル物理学賞を受 賞した湯川秀樹博士まで含まれていた。   日本軍が原爆を製造するために、ウラニウムを収集したという具体的な証 言や資料もある。荒勝教授のもとに勤務した清水京都大名誉教授は、自身も酸 化ウラニウム 10kg 程度を収集したと証言した。   それだけでなく、日本軍は本土で採掘できるウランがきわめて限定されて いるので、韓半島や中国東北部にまでウラン採掘を試みた。   また、1944年末には中国の上海闇市場で 130kg の酸化ウランを購入 し、日本に搬入した。   もし、日本がアメリカより原爆を先に開発していたらどうなっただろうか。 満州731部隊が生化学兵器を開発、使用した例を考えると、日本軍による原 爆先制攻撃の可能性が高いのではないだろうか。   今年も8月15日「終戦記念日」(敗戦記念日ではない)になれば、日本 はまたヒロシマとナガサキの悲劇を思い起こすことだろう。しかし、被害者自 身、実は原爆開発に必死に取り組んだのであり、結果として成功しなかっただ けという歴史的な事実をどの程度知っているだろうか。  ・・・        --------------------   アメリカの原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」がスタートしたの が1942年なので、日米の原爆開発はほぼ同時にスタートしたといえます。 しかし、その計画のスケールや、力の入れようはけた違いだったようでした。   日本では予算も物資も乏しく、研究開発は苦心惨憺たるものだったようで した。たとえば、サイクロトロン研究用の鉄板を入手するのに、博士の弟子が 切符をもって江戸橋の問屋にのこのこでかけるありさまでした。しかもそこに は現物どころか、その入荷のめどすらなく、弟子たちはしかたなしに闇で鉄板 を買ってくるありさまでした(注1)。   このペースでは10年かかっても、原爆の完成はおぼつかなかったことで しょう。実際、原爆の完成度ですが、日本は原爆の必須材料であるプルトニウ ムの製造、あるいはウラン235の濃縮(注3)、そのどちらの作業もついに 着手すらできなかったようでした。   また、理論的にも未熟で、爆弾用の核分裂連鎖反応には「早い中性子」が 必要なのに、仁科博士は、原子炉のように「遅い中性子」が有効であると計算 違いをしていたようで、幸いなことに、そもそも出発点からゴールと反対方向 を向いていたようでした(注2)。   一方、アメリカの原爆開発は、重要な国家プロジェクトとして金に糸目を つけず、企業の技術者なども巻き込み延べ54万人を動員し、原爆製造に有効 と考えられる方法をすべて試みました(注4)。   爆弾も二種類、ウラン型とプルトニウム型を同時に開発しました。これは、 どちらが見込みがあるのか予期できなかったためでした。   プルトニウム型原爆のほうですが、原料のプルトニウムは原子炉さえあれ ば製造が容易ですが、その反面、爆弾の仕組みがむずかしく、構造によっては 自爆の危険性や、あるいは威力が十分発揮できない可能性もあり、実際の爆発 実験が不可欠でした。   そこで、45年7月16日、アラモゴード上空で史上初の核実験が行われ ました。そこでの成功をもとに太っちょのファットマンが製造され、ナガサキ に落とされたのは上に記すとおりです。   一方、ウラン型の方はウラン235の濃縮に手間取り、45年8月になっ てようやく原爆一発分のウラン235ができあがりました。これを爆発実験に 使ってしまうと、日本に落とす実弾がなくなってしまうので、爆発実験は行わ れませんでした。   そのかわり、いまアメリカなどで盛んに行われている未臨界実験、すなわ ち爆発寸前で実験の進行を止める研究で代用しました。たとえていえば、空手 の多くの試合で、技を決める直前に動きを止めるようなものでしょうか。   一般に、ウラン型原爆は原理や構造が簡単なので、アメリカはこの未臨界 実験で十分確信を持ったようでした。この爆弾はリトルボーイと命名され、ヒ ロシマに落とされたのはハンギョレ21が伝えるとおりです。   ヒロシマに人類史上初めての「新型爆弾」が落とされたとき、開発の責任 者である仁科博士は、それが原子爆弾であると直感し、すぐに現地入りし調査 にあたりました。その被害を目の当たりにした博士は、原爆効果が戦争を終わ らせる契機になったと、46年に次のような注目すべき証言をしました(注1)。  「この(核分裂の)エネルギーが広島や、長崎にあの通りの暴威を振ひ潰滅 をもたらしたのである。これでも解る通り、原子核の研究といふ最も純学術的 の、しかも何等応用ということを目的としない研究が、太平洋戦争を終結せし むる契機を作った最も現実的な威力を示すことになったのである。   これは如何なる外交よりも有力であったといはねばならぬ。科学が現代の 戦争といはず文化といはず、凡ての人類の活動上、如何に有力なものであるか といふことを示す一例である。   更に原子爆弾の今後の発達は恐らく戦争を地球上より駆逐するに至るであ らう。否、吾々は速やかに戦争絶滅を実現せしめねばならぬ。・・・原子爆弾 は最も有力な戦争抑制者といはなければならぬ」   博士の見方は、すこし単純化しているきらいはありますが、原爆を「戦争 抑制者」と表現したのは、その地獄のような恐ろしさを自分の目で確かめた体 験からの結論に違いありません。   博士の意見に代表される「核抑止論」が、その後の世界の潮流になってし まい、最近ではインドやパキスタンなども核兵器製造に乗り出したのは残念な ことです。   核兵器が戦争抑止の役割だけに終始するうちは、原爆は単なる「張り子の 虎」にすぎず無害なのですが、現実はそう単純ではありません。核兵器を持て ば、戦術を重視する軍人はえてして使いたがるもので、成り行き次第ではいつ 核戦争に発展しないともかぎりません。   朝鮮戦争(1950)の時、GHQのマッカーサー元帥が満州に原爆を30発お とすという無謀な計画を提案したことなどその一例です。   さいわい、独善的なマ元帥はトルーマン大統領により解任され、第2の被 爆国は誕生しませんでしたが、こうした危険性を考えるとき、気散人さんの核 武装論にとうてい賛成するわけにいきません。人類を絶滅の危機に陥れる可能 性のある核兵器は地球上から廃絶すべきです。   仁科博士の愛弟子で、ともにノーベル賞受賞者の湯川秀樹や朝永振一郎は、 恩師の核抑止論を乗り越え、核廃絶を唱え京都会議を設立し、パグウォッシュ 会議に参加しました。そうした活動の一環で、1961年当時、東京教育大学 学長の朝永教授は核廃絶を次のように訴えました(注1)。        -------------------- 人類の滅亡を救うために                         朝永振一郎  (前半省略)   もともと、戦争をなくすのに、二つの考え方があったようである。一つは 軍備縮小からその全廃に向かって話し合いをつけるという方向に向いている。   しかし、話し合いをつけることが成功するためには、国と国との間に信頼 感がなくてはならないから、この道が成功するかどうかは、信頼感を少しずつ でもとりもどすことがうまくいくかどうかにかかっている。   ところが、国と国との不信感はとても根づよいので、信頼感の回復はとて も望みがないと考える人たちは、むしろ逆の道をとるのが現実的であるという。   それはすなわち核兵器の存在そのもの、そのバランスによって、戦争を抑 止するというやりかたである。   しかし、この方法は大変に不安定なものであって、少しの破綻から大事に なる可能性をいつも含んでいる。この破綻を防ぐいろいろな方法も考案された が、やはりその可能性を零にすることはできないように思われる。   この方法の土台には、核兵器の存在のもとでは戦争を始めれば大破壊にな るから戦争は思いとどまられる、という考え方があるわけだが、これは一種の 逆説である。すなわち、戦争の起る可能性によって戦争をおさえるというので ある。   この無理から、本当に戦争をやってはならぬと考えている政治家も、戦争 も辞さないというせりふをせねばならない。そしてそれを民衆に信じさせねば ならない。   そうすると、国と国とはますますお互いに信じられなくなることは必然で ある。この不信感から生まれてくるのは、軍備の増強であり、それはまた不信 感を増大する。これは全くの悪循環である。   核実験停止は僅かでも第一の方向に向かっていたのに、その再開は第二の 方向に向いている。   核実験を断ち切るにはどうしたらよいだろうか。それには国と国との間に 信頼感をつちかっていかねばならないが、どこの国でも政府というものは、一 ぺんに舵の切りかえはできないようになっている。   しかし国と国との信頼感とは、結局は、国民と国民との間の信頼感にほか ならない。だからそれは国民めいめいが関係することがらであろう。   信頼感は、どちらの国が正しく、どちらの国が正しくないという認識から は生まれてこないだろう。むしろ、そういう見方からはなれて、人類全体の生 き死にという見方から問題を考えていかねばなるまい。   とにかく、人類が核兵器を作る知識を持った以上、この知識を亡ぼすこと はできない。そうすれば、人類が生きつづけるためには、戦争のない世界を作 り上げるほかに道はないのではないか。        --------------------   国同士の相互不信を解消し、戦争のない世界をいかにつくるか、これは人 類永遠の課題でしょうが、ともかくそれは敵視政策のなかからは決して生まれ ないことは確かです。 (注1)中央公論社『自然』300号記念、1971 (注2)朝日新聞記事「原爆の開発で日本 爆発の原理誤解」1999.6.16 (注3)天然ウランは、核分裂を起こすウラン235が0.7%しか含んで  いないので、そのままでは爆弾として使えず、そのなかからウラン235  だけを取り出し濃縮する必要がある。    一方、残りの99.7%はウラン238で、これは核分裂を起こさない  かわりに、原子炉などで中性子を吸収し、核分裂を起こすプルトニウムに変  化する。このプルトニウムはそのまま原爆として用いることができる。 (注4)沢田昭二ほか『広島・長崎原爆被害の実相』新日本出版社、1999  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/08/14 - 07308/07308 PFG00017 半月城 竹島=独島と明治以前の認識 ( 8) 99/08/14 16:32 07255へのコメント   かんさん、こんばんは。 > まず、「xがA領であるか」という問題については、少なくとも最低限理論的には >「無主地」である、という可能性がある以上、「日本領土ではない」というだけでは >不十分です。そもそも日本政府は1905年に「りゃんこ島」をそれまで無主地であった、 >と言う理由により、竹島と言う名で領土に編入している訳ですから、「1905年以前に >竹島が日本領土であったかなかったか」はそもそも問題にならないと思います。   ほんとうに“日本政府は1905年に「りゃんこ島」をそれまで無主地であっ た”と主張しているのでしょうか?   かんさんが紹介されたニフティの会議室 Flaw Mes(15) #621に、日本の外 交青書がこう引用されていました。 >平成4(1992)年版(第36号)、180~181頁。 >「韓国との間でその帰属につき争いのある竹島は、法的にも歴史的にも >日本固有の領土であることは明らかであり、韓国に対しては、随時日本の立 >場を踏まえて抗議を行っている。」   最新版の外交青書でも似たような記述だったと記憶していますが、「歴史 的にも日本固有の領土」という主張のうらには、1905年以前にも竹島(独 島)は日本の「固有の領土」であったと主張しているのではないでしょうか? 帝国主義時代に獲得した領土を「固有領土」と称したのでは、厚顔無恥のそし りを受けかねません。   外務省がいう「歴史的にも日本の固有領土」という主張の妥当性をすこし 調べて、インターネット「歴史会議室」に書きましたので、これを以下に転載 します。        -------------------- 「歴史会議室」 【名  前】半月城  08/11 22:57 【タイトル】竹島=独島と明治以前の認識 【メッセージ】 クリリンさん、Tetsu さん、こんばんは。   遅くなりましたが、竹島(独島)に関する重要な堀和生氏の研究論文をや っと入手できましたので、これをもとに、明治時代以前における竹島(独島) の領有意識について反論したいと思います。   クリリンさん、 > 日露戦争前の一般認識については判断する材料を持たぬのであるが、 >江戸時代後期においては当時もっとも普及していた長久保赤水の日本輿 >地路程全図(1775年)及びその派生地図は竹島、松島を日本領とし >て描いている。小生は文久年間(1861年~64年)の赤水図を基に >した地図を所有しているが、それによっても竹島、松島は日本領の扱い >である。   1775年のおっしゃる地図をみたところ、竹島(現・鬱陵島)と松島 (現・竹島=独島)が一対に描かれており、両島のすきまに「見高麗猶雲州望 隠州」と書かれていました(注1)。   この意味は、竹島から高麗を見ることができると解釈できるので、松島や 竹島は高麗のものではなく、日本のものだという即断が可能かも知れません。 しかし、この解釈は安易にすぎることが、林子平の地図により明らかになりま す。   林子平、別名・六無斉は「親も無し・・・金も無ければ死にたくも無し」 と詠んだことでよく知られている経世家ですが、彼は1785年に軍事地理書 『三国通覧図説』を著しました。   その中の三国接壌図は、長久保の地図の流れをくみ、竹島(鬱陵島)のわ きに「〓島より隠州ヲ望 又朝鮮ヲモ見ル」と、似たような書き込みがありま す。ところが、こちらにはさらに「朝鮮ノ持ニ」という書き込みが加わってお り、竹島とその属島は朝鮮領であることが明らかです(注3)。   したがって、単に「高麗、朝鮮を見る」という一節だけでは、その島は日 本領ということにはならないようです。なお、林子平は念入りに竹島(現・鬱 陵島)とその属島を明瞭に日本領土と違うカラーで彩色までしました。   ところで、Tetstさんはこの属島を竹島(独島)でないと考えておられる ようです。 >林子平の「三国通覧図説」(1785年)に記載されている島も鬱陵島のことで、 >竹島はこれには記載されていません。   竹島(独島)が記載されていないという Tetsuさんの見方はすこし無理で はないかと思います。それは、林の三国接壌図は長久保の地図の影響を受けて いるので、林は両島一対の認識にたち、松島(竹島=独島)を竹島の属島とし て描いたと見るほうが自然ではないかと思われるからです。   それに当時、松島は竹島の属島であるという認識が強く、資料でも「竹嶋 之内松嶋」「竹嶋近辺松嶋」「竹嶋近所之小嶋」などと扱われていました(2)。 名前からして、松などが一本もないのにもかかわらず、松島(竹島=独島)と 名づけられたのも、そうした背景であることは容易に察しがつきます。   ここでまた1775年の長久保の地図にもどりますが、この地図では松島、 竹島が日本領として描いたのかどうかかならずしもはっきりしませんが、注目 すべきことに、3年後の改定地図では松島、竹島ははっきり朝鮮領と認識され ました。それについて、堀氏はこう記しています(注2)。        --------------------  「竹島一件」(元禄時代)以後の幕府の領土意識を示す資料として、その官 撰地図のなかで、松島=独島を最初に描いたのは、長久保赤水の「日本輿地路 程全図(1773年)である。   この地図は経緯線を使用した最初の地図でもあった。長久保は、更に木版 彩色刷りの「日本路程輿地図」(1778年)を刊行した。この地図で特に注 目されるのは、日本本土とその附属地にはすべて彩色をほどこしているが、竹 島と松島は、朝鮮半島とともに彩色していないことである。   つまり、「竹島一件」を踏まえた後の官撰地図は、竹島、松島をともに日 本領として取り扱っていないのである。   また、古地図の段階を完全に脱皮したといわれる官撰地図、伊能忠敬の 「大日本沿海輿地全図」(1821年)には、竹島、松島ともに含まれていな いのである。   つまり、17世紀半ばにはやや曖昧であったが、元禄期の朝鮮政府との交 渉を経た後には、幕府は松島=独島の存在を認知していながら、それを日本領 とは見ていなかったのである。   以上小括すれば、日本人が17世紀に松島=竹島について深く知るように なったのは、あくまで日本人が朝鮮領たる鬱陵島に進出していた状態があった からである。そして、両国政府の交渉で鬱陵島の朝鮮所属が決定した際に、そ の属島たる松島=独島も、ごく自然に日本の版図からはずされたのである。        --------------------   やはり、元禄時代の「竹島一件」以後、竹島(鬱陵島)およびその属島と 考えられていた松島(竹島=独島)は、朝鮮領という認識が強かったようです。   このように、権威ある地図ではっきり竹島(独島)が日本領であることを 示したものはほとんどなかったようです。   次に、「竹島一件」以前はどうであったのかについて記したいと思います。 これをみるためには、竹島(独島)の本島と考えられていた鬱陵島はどのよう に認識されていたのかが重要になりますので、この角度からみたいと思います。   13-16世紀、「倭冦」と呼ばれる海賊が朝鮮や中国を荒らしまわって 大きな被害をもたらしましたが、竹島(鬱陵島)もしばしば襲われました。   この対策として、1403年、朝鮮王朝の太宗は同島の居住者にたいし、 本土への移住を命じました。いわゆる「空島政策」の発令でした。   これを知った対馬の守護・宗貞茂は、1407年、朝鮮王朝におみやげを 持参し、茂陵島(鬱陵島)に家臣を率いて移住したいと申し入れました。しか し、室町幕府との関係が悪化することを恐れた朝鮮王朝は、この申し入れを断 りました。   さらに時代が下って、1614年に対馬藩は船三隻を派遣し、鬱陵島を調 査したうえで「磯竹島」という日本名をつけ、その領有を画策し、朝鮮と交渉 しました。   これに対し朝鮮側の『朝鮮王朝実録』は、次のように強い態度でこれをは ねつけました(注4)。  「日本の船三隻が鬱陵島にやってきて、この島はどこに属するかと質問した ので、朝鮮の慶尚道と江原道の間にある鬱陵島であり、日本人が往来すること を禁止すると回答した。   しかし対馬島主から入島を要望してきたので『東国輿地勝覧』にも記載さ れている通りの朝鮮領の島であり、いまは無人島で荒廃しているが、他国の人 に占拠される理由はない。   日本人の朝鮮への渡航は、対馬を経由する一路以外は認めておらず、それ 以外で朝鮮に来航するものは海賊とみなすということは、かねてより約束して いるところであり、対馬島主が知らないはずはない・・・」   このような交渉の直後の1617年、たまたま米子の大谷甚吉の商船が遭 難して鬱陵島に漂着しました。大谷は、その物産の豊富なことに着目して、村 川市兵衛とともに、幕府に渡航許可を申請しました。申請をすること自体、鬱 陵島が朝鮮領であると考えていたことを示すものといえます。   これに対し、幕府は次のように対処しました(注4)。        --------------------   これを受けた幕府では、老中の土井大炊頭(おおいのかみ)が中心になっ て、朝鮮側の強い反対でゆきづまりをみせていた対馬藩による領有化交渉を断 念し、代って新しい方策として、鳥取藩の米子町人による渡海事業に期待をか けたとみることができます。   1614年の対馬藩による、磯竹島は日本領であるとする東来(トンネ) 府使への申し入れと朝鮮側の拒否、17年の伏見城における(朝鮮使節)李景 禝への磯竹弥左衛門についての質問、そして翌18年に米子町人への渡海免許 とつづくのです。   渡海を免許し事業の実行を見とどけたうえで、その2年後の20年には対 馬藩に命じて磯竹島で弥左衛門を捕らえさせ、京都に送って潜商の罪で処分し たことは、朝鮮側が明確に朝鮮領とした磯竹島問題に、幕府がハッキリと見切 りをつけたことを意味します。  ・・・   朝鮮王朝に対する公式窓口を担当する対馬藩には、「潜商」といってきび しく取締まらせたのに、鳥取藩には許容したところに、幕府のしたたかな外交 政策をみることができます。        --------------------   本来、日本領土内の島なら渡航許可は不要なので、幕府は鬱陵島が日本の 島でないことを念頭に渡海免許をだし「実効支配」をもくろんだのでしょうか。 その政策は成功するかにみえましたが、どっこい75年後に問題が起きました。   同島で日本と朝鮮漁民の間に衝突事件が発生しました。この事件を処理す るにあたり、幕府は同島の領有をあきらめました。その過程を堀氏はこう記し ました。        --------------------   1693年鬱陵島において、大谷家の一行と、慶尚道から出漁してきた安 龍福ら朝鮮漁民との間に大きな衝突が起った。   そして、大谷・村川両家が幕府に訴えたことから、この問題は日本と朝鮮 の外交ルートで、竹島=鬱陵島の漁業権・領有権を争う所謂(いわゆる)「竹 島一件」に発展していった。   この外交交渉のなかで、対馬藩は明らかに朝鮮から鬱陵島を奪おうと企て た。朝鮮政府では一時方針が動揺したが、安龍福が二度日本へ渡って、鬱陵 島・于山島は朝鮮領だと主張してきたことが契機となって、領議政・南九萬ら の対日強硬姿勢が支配的となった。   歴史的に鬱陵島が新羅時代から朝鮮に属していたことは明らかであったの で、幕府はついに対馬藩の動きを抑え、対朝鮮の協調政策を選択した。   即ち、1696年1月大谷・村川両家の竹島渡航が禁止され、99年1月 日本側が鬱陵島を朝鮮領であることを正式に承認して、この「竹島一件」は決 着がつけられた。   その外交文書には直接松島の名称はないが、同島が竹島の属島とみなされ ていた以上、その領有権も同様に処理されたと考えられる。   17世紀の日本人の松島=独島での漁業とは、あくまで竹島=鬱陵島に附 随したものにすぎないので、その竹島渡航禁止とともに終焉するほかなかった。   その証拠に、この後、大谷・村川両家が松島のみをめざして渡航したこと は全くなかったのである。   ただし、このように元禄期に竹島=鬱陵島への渡航が幕府によって禁止さ れた後も、山陰地方の漁民らが密かに同島に渡ったことはあったようである。 また、民間では松島=独島を隠岐国の所属と書いている本があり、さらに、竹 島=鬱陵島が朝鮮の属領であることを知らない本さえあった。しかし、これら 責任のない民間人の認識は領土主権の帰属には関わりがない。        --------------------   うえに書いたように「竹島一件」以後、竹島(独島)は朝鮮領であるとい う認識が強かったようです。この認識が明治政府の太政官裁決書に受け継がれ 「竹島外一島之義 本邦関係無」という結論になり、日本は竹島(独島)の領 有をあきらめたことは以前に記したとおりです。 (注1)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院,1996(初版,1966) (注2)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』   第24号、1987 (注3)愼鏞廈『独島(竹島)』インター出版(TEL075-212-6559),1997 (注4)内藤正中ほか『韓国江原道と鳥取県』富士書店(0857-23-7271),1999  (本記事はML[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/08/21 - 07332/07332 PFG00017 半月城 韓国と北朝鮮の工作合戦 ( 8) 99/08/21 22:58   昨年6月、韓国沖で北朝鮮の潜水艦が漂流されているのが発見され、工作 船かと新聞をにぎわしましたが(注2)、冷戦が継続する韓国・北朝鮮では南 北間の工作活動が秘密裏に活発に行われているようです。   北朝鮮の対韓工作は日本でもときどき報道されますが、逆に韓国の対北工 作はこれまであまり話題にならず、日本ではほとんど知られていないようです。   それどころか韓国においてすら、韓国による工作活動の典型例である「北 派工作員」について、その実態はほとんど知られていないようです。   韓国から北朝鮮に派遣された北派工作員は、韓国ハンギョレ新聞社の調査 によると、失踪者だけでも7千名に達することがこのほど明らかになりました。 これからすると、全体の規模は相当なものになりそうです。   この衝撃的な事実を、韓国の週刊誌『ハンギョレ21』がくわしく報道し ていましたので、これを中心に南北による工作合戦の一端を紹介します。        -------------------- 「北派工作員、7,726名が消えた」    軍情報司令部関係者“失踪者ごとに関連ファイル保管中”       今も北派工作部隊をそのまま維持                    『ハンギョレ21』99.8.5   6.25(朝鮮戦争、半月城注)は53年7月27日、終戦で幕をおろし た。数百万人にのぼる人命の被害と、同族相残の痛みを残したこの戦争は、こ の時点ですべて終わったとするのが一般的である。   しかし、その後も南と北は休戦ラインをはさんで「見えない戦争」を行い、 実はさらに多くの犠牲者を生みだしたのである。   戦争で犠牲になった当事者の一端は、失踪した「北派武装スパイ」である。 彼らは分断の時代に消え去り、歴史的評価を受けられないまま、数十年も忘れ られたまま埋もれている。 「60年以後にも2,150名の北派失踪」   失踪した北派工作員とは、一体どれくらいいて、いつまでどのように活動 したのか。   半世紀ぶりに初めてベールを脱いだ北派工作員の規模や、運営実体はとて も衝撃的だ。韓国戦争以後、南韓当局により北に派遣され、北韓(北朝鮮、半 月城注)当局に捕らえられたり、失踪・死亡した工作員の数は合計7,726 名に達することが明らかになった。   対北情報部隊を運営してきた国軍情報司令部の高位関係者は、最近“北韓 への工作員浸透は戦争後も70年代初まで継続し、この過程で失踪した工作員 は確認されただけでも合計7,726名”であると明らかにした。   また、彼は“軍はこれら失踪した工作員毎に、関連ファイルを記録し保管 中”と付け加えた。さらに、戦争期間が事実上終わった60年代以後も大規模 な工作員の北派が続き、72年の7.4南北共同声明までに失踪した北派工作 員は2,150名に達すると確認した。   これまで、失踪した北派工作員の規模について数千名に達するという漠然 とした推定はあったが、正確な規模が確認できたのはこれが初めてだ。   今回明らかになった北派工作の実体で驚くべきことは、休戦後7年も過ぎ た60年代以降に失踪した北派工作員の人数だ。12年間で年平均180名の 工作員が犠牲になったのである。   50年代は戦争の余波が続き、なおも前線の混乱は激しかった。しかし、 60年以後、北派されて戻れなかった武装工作員が2千名を越える事実は、終 戦以後も南北間に熾烈なゲリラ戦が続いたということに他ならない。   軍関係者も“当時、隠密裡に進行した南北の武力衝突の状況からみて、こ の失踪者の数字は決して多いとはいえない”と語った。   こうも多くの工作員が消えたのに、どうしてその実態が今までまったく表 に出なかったのか。その理由は、終戦協定が武力挑発をできないよう規定して いるためである。全面戦争を覚悟しないかぎり、「表だった」戦争は不可能で あった。   しかし、当時、南と北は20年近く、滅共統一と赤化統一のスローガンの もと、人知れず相手を攻撃する武装浸透作戦をしていた。「表に出ない」戦争 をしていたのだ。   このたぐいの戦争は、戦闘にでた彼らの存在を埋もれさせるしかなかった のだ。彼らの存在を認定した場合、不法を是認することになり、すぐに政治的 に負担になるからだ。このような事情は、北韓も同じだ。その間、「国のため に」若い血を捧げた彼らは、分断という特殊事情のなかで依然として「分断に よる迷子」の身分を押しつけられているのである。 “物色鳥”が6カ月にわたり観察   南韓当局の北派工作は、20年という歳月が流れるうち、その様相は相当 変化した。50年代、戦時中における北派工作活動と運営実態は当事者の証言 をとおしかなり知られてきた。しかし、60年代以後の様相はあまり知られて いないのが実状だ。   60年代後半、北派工作員をつとめたK氏の話は北派工作の変化をよく物 語っている。K氏が語るもっとも大きな変化は、失踪者の規模が小さくなった 点だ。当時における北派工作員の失踪者は、工作参加者の10%程度だったと いう。   これは、50年代の失踪者が工作参加者の90%に達したことに比べ、格 段に犠牲率が低くなったのである。   彼は“昔の先輩たちの時とは違った。科学的にも高度の訓練を受けたため、 犠牲者は多くなかった”と説明した。軍関係者も“50年代の主流だった組織 編成とおおざっぱな運営は、後半に入り組織化された”と語った。   北派工作員を補充する方法も60年代に入ってすこしずつ変化した。北派 工作員の選抜は「物色鳥」(注1)と呼ばれる雇用担当官の長期観察結果を土 台に緻密になされた。物色鳥の観察は通常6ヶ月間行われる。   その結果により、選抜は1対1の面接をとうして行われる。60年代末に 勤労再建隊の中隊長生活をしたことのあるK氏は“ある日、物色鳥があらわれ ‘国家のために生き甲斐のある仕事をしないか。国家のために一度奉仕してみ ろ’といわれ、4日間悩んだ末に入隊を決意した”と話した。   工作員の出身にも変化があった。50年代までは、主として寄る辺のない 単身越南した以北(北朝鮮)出身者が選ばれた。60年代以後は、以北出身者 とともに南韓出身で縁故のない人やチンピラなども選ばれた。物色鳥から、体 力はもちろん、頭がよく対共意識がはっきりしているとの評価を受けて・・・。   60年代以後の採用は契約方式で、3年または4年など一定期間が決めら れた。採用時に相当な報酬が約束され、作戦の成果が飛び抜けてよかった場合 は成果給も支給された。一度採用されれば、だいたい契約期間は仕事をする。 社会に復帰するときは秘密保持の覚え書きを書かなければならない。   期間を延長するケースはないが、当事者が社会復帰を希望しない場合、軍 人として特別採用した。しかし、いったん除隊した人を再契約するケースはな い。これはどこの国も同じで、情報戦の鉄則だという。   工作員の訓練内容や度合も体系化し科学的になった。K氏の回顧談である。  “一日平均8時間訓練した。読図法や通信、写真などをはじめ、ひとりで生 き残る方法も教わった。今でも、誰もいない山の中で孤立しても、一年は暮ら すことができる。   一番困難な訓練は、30 kgの砂嚢を背負い、12 km の山岳を一時間以内に 走破することだった。最初は数メートル走るのも苦しかったが、6カ月が過ぎ るころになると跳ぶように走った。空荷の部隊員といっしょに走ったことがあ るが、われわれの方が20分以上早かった” 「72年、7.4共同声明後、北派中断」   しかし、彼らが遂行した任務は、60年代後半に入っても変わらなかった。 北派武装工作員たちの任務は大きくふたつに分けることができる。ひとつは、 北韓の主要官公庁や軍の部隊に潜入し秘密文書を盗むとか、要因を拉致する高 級工作任務で、もうひとつは、休戦ラインを越えて北韓軍を攪乱するとか、北 韓軍の装備を獲得するなどの一般工作任務だ。   前者の場合、代表的な北派工作員としては、58年死亡した金某氏がいる。 金氏は51年から合計51回も北韓へ浸透し数多くの戦果をあげ、北派工作界 では“英雄”としてしられている。   そのなかで、54年5月元山付近で北韓軍・李某大佐を生け捕りしてきた ことは、「北派戦果1号」として記録された。一般工作任務の場合は、北韓軍 のテロに対し報復を加えるとか、北韓軍が新しい装備を整えた場合、その装備 一式を持ってくることなどである。   このような任務は、60年代を過ぎ72年までそのまま続いた。他にも北 派工作員出身のB氏は、“浸透は、訓練を受け「作戦」となればいつでも実施 された。北韓軍部隊に直接打撃を加えるとか、訓練状況を把握するとか、新し い武器が現れた場合、武器の性能を確認するために、これらを獲得するのも任 務に含まれていた。一旦、決行されれば、長い場合は8日や9日も続くことも あった”と語った。   彼は危険で重要な任務を遂行するときは、当時の中央情報部が作戦を指揮 したと付け加えた。   部隊生活も一般軍人とは違っていたと経験者たちは語る。要員たちの間に 暴行や殴打がまったくなかった。すべての要員たちはいつも武器を携帯してい るためだ。要員たちが使う物は、みな出所不明の品だった。   この北派工作員たちに関し、当局は個人別に契約日時と解雇日時、故郷、 家族、工作形態、勤務日時、作戦成果などの記録を保管しており、電算化が進 んでからはマイクロフィルムに収め管理している。これまでの失踪者や除隊者 など全要員の記録を管理しているのである。   しかし、戦争当時と終戦直後消えた工作員について“当時は完璧な管理が 不可能だったのが事実”と軍関係者はいう。7,726名だけでなく、ある程 度集計できない失踪者が存在する可能性を示している。   その間、軍は把握したあらゆる失踪工作員たちに対し、遺家族の有無にか かわりなく、位牌を作り保管してきた。さる93年には失踪者位牌の全体的な 管理のために60年以後の失踪者2,150名を含め、全体7,726名の位 牌をソウル牛耳洞の望月寺に祀り、合同慰霊祭をおこなった。  (途中省略)   北派工作部隊は現在も江原道○○地域(ママ)に、当時の規模そのままで 維持されている。そうなると現在も北派工作は継続しているのだろうか。   これについて、軍関係者の話は多少くい違っている。しかし、情報司令部 のある関係者は“有事に対処するために部隊を維持している”のであって、 “7.4南北共同声明後(注3)は‘相互に被害を与えるだけなので、共同声 明精神を考慮、お互いに武装工作員の派遣を中止しよう’と約束し、北派は中 断された”と公式的な立場を明らかにした。 「国防部、北派要員の補償に動く」 (省略) 「あくまで彼らを見捨てるのか」 (省略)        --------------------   南北双方が工作活動をする必要がなくなる世の中、すなわち南北統一が早 く達成されるよう期待したいものです。 (注1)物色鳥は水鳥の発音をモジった造語 (注2)朝日新聞ニュース速報、98.6.26      ◇北朝鮮の対応が焦点に。北朝鮮の潜水艇問題◇  韓国領海内で発見された朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の潜 水艇について、韓国政府は二十六日、「工作のための侵入作戦であ る」と断定し、「訓練中の遭難・漂流」とした北朝鮮の説明と対立 した。韓国側は北朝鮮側の解明作業や関連者の処罰措置を求めてい る。しかし、「実害」がなかったことや金大中政権の「太陽政策」 などから、予想以上に批判のトーンは低い。南の慎重な対応に、北 がどう応じるかが今後の焦点となりそうだ。  韓国国防部は事件の協議のために在韓国連軍司令部と北朝鮮軍の 将官級対話の早期開催を要求している。この場で、北朝鮮の説明や 再発防止策を求める。一方、「潜水艇を捜索中」と発表している北 朝鮮側は潜水艇や遺体の返還要請に動くと見られる。  二年前の潜水艦事件の後、北朝鮮は再発防止を約束した。今回、 この約束が破られたにも関わらず、韓国側は比較的冷静に対応して いる。国防部は事件翌日に「このような武力挑発を恣意的に行うな ら、交戦規則に基づき強力な懲戒をする」などとする強い警告声明 の発表を準備していたが、政府の指示で延期していた。二十六日に 発表された声明にはこうした強い調子は見られない。  韓国側は声明では軍事挑発行為は容赦しないという原則を強調し ているものの、「北朝鮮の態度変化を注目する」などとしている。  さらに韓国側は今回の事件を一九九一年に締結した「南北基本合 意書」違反と規定している点が注目される。和解や交流協力のほか に南北不可侵をうたった、この合意書では、危機管理のための南北 軍事当局者の直接対話も規定している。金泳三前政権では「合意書 」は事実上、無視された形だったが、金大中大統領は「合意書」の 共同履行を北に提起している。 (以下省略) (注3)南北共同声明(FNETDの原文に追加)   韓国の李厚洛中央情報部長と朝鮮民主主義人民共和国の金英柱労働党組織 指導部長との間で合意をみた朝鮮統一に関する7項目の基本合意で、1972 年7月4日双方がそれぞれ共同声明として発表した。7.4共同声明ともいう。   朝鮮統一に対する南北朝鮮の主張は大きな食い違いをみせていたが、70 年8月、朴朴正煕大統領が南北間の善意の競争を呼びかけ、人的往来、文化交 流など非政治問題の解決を先行させる案を打ち出した。   このため71年9月から離散家族捜しのための南北赤十字会談が26年ぶ りに開始されていた。こうした動きの背景には、70年代初頭に始まる米中接 近のなかで72年2月ニクソン大統領の訪中が実現するという劇的な国際環境 の変化がある。   共同声明の内容は、祖国統一の原則として、 1.自主統一 2.平和的統一 3.思想と理念、制度の差異を超越した民族の大同団結 という3点がうたわれ、赤十字、調節委員会の2チャンネルを通じて話し合い が始まった。   翌73年8月の金大中事件を契機に共和国が接触を中断、実質的進展はみ なかったが、声明でうたわれた原則は統一問題の将来に生かしうる貴重な遺産 といえよう。 (平凡社『朝鮮を知る事典』1994より転載)  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/08/29 - 07336/07336 PFG00017 半月城 関東大震災と朝鮮の独立闘争 ( 8) 99/08/29 21:22 07268へのコメント   今年も防災の日、すなわち9月1日の関東大震災記念日が近ずいてきまし たので、これにちなんで、太陽の牙さんへのコメントを書くことにします。   太陽の牙さん、RE:7268 >「官憲・軍隊によるデマ工作の動機は、戒厳宣告の理由作りにあった」とい >うのが、姜と琴及びその他多くのお追従者の主張である。   この理解は誤りです。姜徳相氏は、研究の初期にはありもしない「朝鮮人 暴動」を口実にして戒厳令が引っ張りだされたとしていましたが、70年代以 降は、この説を修正しました。姜氏の主張は下記のとおりです(注1)。        --------------------   以前、私はこの(関東大震災)時の戒厳令が、9月2日午前から流布され 始めた「朝鮮人暴動」という流言を当局が認定し、震災による食糧の欠乏や避 難場所の混乱のために、民衆が政府を批判することや「米騒動」のような事態 が再現することを避けるために「朝鮮人暴動」を口実にした常套的な政治手段 だとしたことがある。   しかし、その後、政府当局の戒厳要請が、9月1日午後2時頃に始まり、 種々の経過をへて、遅くとも9月1日夜には戒厳軍隊の動きが見えるなど、臨 戦態勢が確立されたのを知り(注2)、戒厳令は「朝鮮人暴動」すなわち内乱 を認定して発布したのではなく、朝鮮解放闘争との日常的緊張関係に置かれて いた日本政府当局が明らかに「朝鮮人を警戒すべきである」という予測の中で たてた対策であるとみなすのが、より妥当であると考えた。   そのように考えないと、出動命令を受けた千葉県駐屯軍隊が9月1日夜か ら戒厳出動して臨戦態勢を整え、朝鮮人狩りを展開しながら東京へ進駐してき た過程を説明するのがむずかしい。   また、逆にもし単純に秩序維持のための戒厳令だったら、戒厳軍は流言を うのみにして朝鮮人を迫害した自警団など不良の輩をすぐ逮捕・鎮圧すべきで あった。   しかるに事実は、9月3日に朝鮮人暴動説がデマであることを確認したの にもかかわらず、依然として軍警と自警団により朝鮮人虐殺が引き続き行われ、 戒厳出動した軍隊に、迫害を中止しろという命令が下るまで、さらに数日かか った。   戒厳の目的が、朝鮮人に対する敵対視から日本人自警団の暴力行為阻止に 転換したのは、朝鮮人暴動というデマが確認されて自警団統制の強化方針に自 警団団員が反発し、彼らの横暴がひどかった地域に戒厳令が拡大された時点、 すなわち千葉・埼玉などに戒厳令が拡大された9月4日以後であった。        --------------------   震災直後、軍は朝鮮人を「敵」とみなし、朝鮮人狩りを行ったことはこの シリーズで記したとおりですが、こうまで朝鮮人を警戒した背景を姜氏は「朝 鮮解放闘争との日常的緊張関係」からだとしました。   太陽の牙さんは、当時の在日朝鮮人は4万人たらずで、このように少数の マイノリティでは「地震という機会を利用しようと、体制を覆すような力には なりようがない」と単純にみていますが、すこし楽観的過ぎるのではないでし ょうか。   大前研一氏はホームページで「変革はマイノリティから」と主張していま すが、革命や大事件もえてして小さな事件がきっかけで始まるものです。   姜氏が「朝鮮解放闘争との日常的緊張関係」のひとつに列記している、3. 1独立運動(1919)もその典型的な例でした。   当時、東京にいた朝鮮人留学生600人は、神田の「朝鮮YMCA」で集 会「朝鮮人留学生学友会役員総選挙」をもちましたが、これは警察の目をあざ むくための名目で、本来の目的は独立会議でした。この会議で読み上げられた 「東京留学生2.8独立宣言書」はひそかに朝鮮に持ち込まれ、朝鮮全土に 「朝鮮独立万歳」の熱風を引き起こしました。   この3.1独立運動は日本や朝鮮に大きな影響を与えたのみならず、イン ドの不服従運動や中国の5.4運動のさきがけにもなったようで、エポック メーキングな出来事でした。その重要性にかんがみて、ひとまず3.1独立運 動の概要を『朝鮮を知る事典』でみておきたいと思います(注3)。        --------------------   3月1日、運動はまずソウル、平壌、大邱、開城などの主要都市で始めら れた。ソウルではパゴダ公園に集まった学生たちが正午の鐘を合図に行動を開 始した。   彼らは独立宣言書の朗読を終えると、太極旗(大韓帝国時代の国旗)をう ちふり<独立万歳>を高唱しながら街頭に出た。これはたちまち数万の群衆が 参加する大規模なデモとなった。   それ以後、各地の運動は大衆の集まりやすい市のたつ日に合わせて行われ、 3月中ごろからは朝鮮全土が反日独立運動のるつぼと化した。   わけても農村部の運動が激しかった。1918年に終了した土地調査事業 によって、朝鮮の農村は日本人地主や親日的な地主たちが支配するところとな った。   また大戦中に日本の工業の成長を支えるために綿花や桑苗の作付強制がな され、朝鮮米が大量に持ち出された。農民たちが面事務所(村役場)を襲い、 土地台帳や作物の供出簿を焼き捨てたのはそのためであった。   ところが、日本の支配層はこの運動を徹底的に弾圧した。憲兵、警察のほ かに正規軍を投入した鎮圧作戦によって、水原の提岩里事件、天安事件(4月 1日並川市場でデモ隊20名射殺、<朝鮮のジャンヌ・ダルク>柳寛順が逮捕 され獄死)、定州事件(3月8日デモ隊、市民120名余を無差別殺戮、民族 代表・李昇薫らの家宅が破壊される)などが相次いで引き起こされた。   この運動は多くの犠牲者を出して終わったが、その影響は大きかった。世 界大戦の戦勝国に対する闘いとして、同年のインドの非暴力運動(4月)や中 国の5.4運動(5月)の先がけとなり、また、日本の植民地支配者には深刻 な打撃を与えた。   学校教師が帯剣して授業することや、憲兵警察制度は廃止せざるをえなか った。制限つきではあったが、朝鮮人は集会・結社の自由や言論の自由をかち 取った(翌年<東亜日報><朝鮮日報>などが発刊)。   朝鮮総督の長谷川好道は更迭されて斉藤実が第3代朝鮮総督となった。斉 藤は朝鮮民族の分断を策して<文化政治>を唱えたが、3.1独立運動を経験 した朝鮮人はさまざまな組織を作って頑強にこれと闘った。   労働運動、青年運動や衡平運動(朝鮮の部落解放運動)などの大衆運動は、 3.1独立運動をその出発点として本格的に展開されることになった。   国外では4月10日、多くの独立運動家たちが集まって、上海で大韓民国 臨時政府が組織された。それは亡命政府ではあれ、朝鮮最初の共和政体の登場 を意味するものであった。しかし、朝鮮内での独立運動は厳しく取り締まられ たため、朝鮮人の居住者が多かった中国領・間島地方を中心にして武装独立運 動(独立軍抗争)が活発に展開された。        --------------------   3.1独立運動直後に、新たに朝鮮総督に任命された斉藤実の片腕が水野 錬太郎・政務総監で、そろって京城に着くや爆弾で歓迎されました。この水野 が震災発生時の内務大臣で、戒厳令布告を推進した当事者でした。   水野は朝鮮に着任した早々、中朝国境地帯の武力戦闘の処理に直面させら れました。   この年の8月、間島地方を根拠とする洪範図が率いる大韓独立軍200名 が朝鮮でゲリラ活動を行い、甲山、恵山などの日本軍兵舎を襲撃し多大な戦果 を収めました。さらに洪は精鋭部隊を率いて江界、満浦鎮を陥落させ、慈城で は3日間にわたり交戦し、日本兵70名を殺傷しました。   しかし、朝鮮内での武力闘争は次第に困難になり、武力闘争は朝鮮北部の 間島などに移りました。間島での武力戦闘について、韓国の歴史教科書はこう 記しています(注4)。        -------------------- 鳳悟洞、青山里の戦闘   3.1運動以後、満州では国民会軍、北路軍政署軍、大韓独立軍、西路軍 政署軍、大韓義勇軍、光復軍総営などの独立軍部隊が活躍した。   これらの独立軍部隊は日本軍と交戦しながら、軍資金の調達、密偵の処断、 独立精神の宣揚など独立のための闘いを続けた。   このなかで最も輝かしい戦果として、洪範図が率いる大韓独立軍の鳳悟洞 戦闘と金佐鎮の率いる北路軍政署軍および国民会傘下の独立軍が勝ちとった青 山里大捷があった。   鳳悟洞戦闘で大韓独立軍は、独立軍本営を奇襲してきた日本軍1個大隊を 崔振東の軍務都督府軍、安武の国民会軍とともに鳳悟洞に誘いこみこれを包囲、 攻撃して大勝利を収めたのである(1920)。   これに対し日本は韓国(朝鮮)内に駐屯していた部隊と関東地方に派遣さ れていた部隊および沿海州地域の部隊を動員し、東、西、南の三方面から独立 軍を攻撃してきた。   北路軍政署軍をはじめとする独立軍の連合部隊は、日本軍の大部隊と衝突 し、6日間の十数回にわたる戦闘で日本軍を撃破し、輝かしい戦果をあげた (1920)。これを青山里大捷という。   大打撃を受けた日帝は、独立軍の抵抗を植民地統治の脅威とみなし、独立 軍のみならず満州に住む韓国(朝鮮)人に対してまで無差別に虐殺するという 間島惨事を引き起こした(注5)。        --------------------   こうした本格的な戦闘と同時に、朝鮮国内においても義烈団を中心に抗日 テロが頻発しました。関東大震災までに起きた主な事件は次のとおりです (注6)。 1.1919年9月、 斉藤総督襲撃事件 2.1920年9月、 釜山警察署襲撃事件 3.1920年12月、密陽警察署爆弾事件 4.1921年9月、 総督府爆撃事件 5.1923年1月、 鍾路警察署爆撃事件   こうした抗日闘争を身にしみて熟知している水野は、大げさにいえば「朝 鮮解放闘争との日常的緊張関係」を強いられたといえます。   そのため震災時の内務大臣として、震災による混乱、とくに朝鮮人による 暴動といった最悪の事態を想定し、先手を打つつもりで戒厳令を引っ張り出し たとしても不思議はありません。   この水野の影響下、後藤・警保局長は2日「朝鮮人は各地に放火し、不逞 の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火 するものあり」というデマをつくりだし、全国に発信しました。   このような流言飛語を積極的に流す背景には、水野など治安トリオは、震 災を機に朝鮮人の抗日闘争に火がつくことを恐れたのか、あるいは最初から朝 鮮人をスケープゴートにして、米騒動のような民衆騒動を未然に防ぐするつも りだったのではないかと思います。 (注1)姜徳相「関東大震災朝鮮人虐殺をみる新しい視点」 『歴史批評』1999年夏号(韓国語) (注2)原著注、姜徳相「関東震災下‘朝鮮人暴動流言’について」        『歴史批評』(韓国語)1973.10 (注3)平凡社『朝鮮を知る事典』1994 (注4)宋連玉他訳『韓国の歴史』明石書店、1997 (注5)原著注、間島地方で日本軍に虐殺された韓国人は琿春県で242人、   延吉県で1124人、和龍県で572人、汪清県で347人、寧安県で   17人、そのほかの県で804人にもなった。 (注6)統一朝鮮新聞社『統一朝鮮年鑑』1965  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


ご意見やご質問はNIFTY-Serve,PC-VANの各フォーラムへどうぞ。
半月城の連絡先は
half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。