- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/08/08 -
07288/07288 PFG00017 半月城 日経ネットナビ
( 8) 99/08/08 08:43 07272へのコメント
私の書き込みを「救いようのない発言」と考えている人もいるようですが、
その発言集である「半月城通信」は出版界でちょっぴり評価されているようで
す。
これまでにも単行本やWWWイエローページなどに紹介されてきましたが、
それが今度は、日経ネットナビのホームページ紹介本に掲載されました。書名
は『インターネットホームページ、ベストブックマーク2500』と長ったらしい
のですが、その中の世界史の項にこう書かれています。
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半月城通信 http://www.han.org/a/half-moon/
日本に定住している外国人の立場からの韓国・朝鮮に関する歴史上の様々
な問題への論考を公開している。その内容は、古代史から現代史まで、人権問
題から文芸作品にまで及ぶ。ダウンロード用の圧縮ファイルも用意されている。
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また、付録のCD-ROMを何回かクリックすると「半月城通信」に直接
アクセスできる仕組みになっています。
こんなふうに書くと、ここの会議室では、今度は地方議会どころか日経ま
で半月城に汚染されたと言いだしかねないのかも知れませんが、それだけにと
どまりません。マイクロソフトの百科事典『エンカルタ』にまで紹介されまし
た。ちなみに、こちらはたしか社会に分類されていました。
この機会を励みに、とんちんかんな「男版・辛淑玉」あるいは「在日のゲ
ッペルス」などといった罵詈雑言のつぶてにびくともしない半月城の砦を築き
たいと思っています。
(本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
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07306/07307 PFG00017 半月城 ホームページの宣伝法
( 8) 99/08/14 11:49 07297へのコメント
Safety さん、初めまして。
> いやぁ、HPがいろんなメディアで紹介されるなんて、すっごいですね。天下
>の日経や世界のマイクロソフトまで半月城さんに注目してるんですね。すごいな
>あ。
珍しいことがあるものです。ここの会議室にかぎっては、私の書き込みや
ホームページはけなされるのが日常茶飯事で、まともにほめていただいたのは、
この会議室始まって以来の椿事です。ありがとうございます。お礼に耳寄りな
情報をお教えしましょう。
> ところで、私もHPを持っていますので参考のためにお聞きしたいのですが、
>どのように宣伝・営業をすれば半月城さんのようにHPをいろんなメディアで紹
>介していただけるものなのでしょうか。
Safetyさんのホームページ『自由に語ろう北朝鮮』
(http://member.nifty.ne.jp/Safety/)は、韓国・朝鮮関係のネットサーフィ
ンで容易にみかけないので、たしかに宣伝が足りないようです。
宣伝の方法ですが、韓国・朝鮮関係のホームページにリンクを張ってもら
うのも効果があります。でも、これは「北朝鮮」という政治色の強いホーム
ページでは、お互いに思想的な衝突が起こる可能性があり、ややこしいかも知
れません。
政治色抜きに宣伝するには、反帝国主義者さんがあげた Yahooなどのサー
チエンジンに登録することです。これは数十ありますが、それらすべてに下記
のホームページから一括登録ができるそうです。
「一発太郎」 http://ippatsu.net/TARO/
一方、アクセス数を増やす秘訣ですが、これも昨年の「NHK趣味講座」
によると、下記ホームページにくわしいようです。
「アクセス向上委員会」 http://www.access.or.jp/
ちなみに私の場合、ホームページの立ち上げから宣伝まで、ほとんど
「ハンワールド」(http://www.han.org)の管理人さんにまかせっぱなしです。
そのおかげで、私はほとんど書き込みに精を出すことができました。
(本記事はML[zainichi]および下記のホームページに転載予定)
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
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07307/07307 PFG00017 半月城 RE:半月城さんの立場は?
( 8) 99/08/14 11:50 07289へのコメント
反帝国主義者さんの好奇心にお答えしたいと思います。
> ところで、これを機会にもう一つお伺いしますけど、いったいどういう立場で書
>き込みをしているのですか。
>
>(1)日本に定住する外国人
>(2)日本に定住する無国籍者
>(3)日本に定住する日本人
>(4)日本に定住する大韓民国人
>(5)日本に定住する朝鮮籍残留者
>(6)日本に定住する朝鮮民主主義人民共和国人
この機会に、私の過去を明らかにすると、生まれたときが「(3)日本に
定住する日本人」でしたが、私(両親)の意思とはまったく無関係に1952
年に「(5)日本に定住する朝鮮籍残留者」とされました。
その後、両親が私を「(4)日本に定住する大韓民国人」として登録しま
した。私自身は、将来樹立されるべき「統一コリア」の国民になるべきと考え
ますが、それまでは「(4)日本に定住する大韓民国人」として発言するつも
りです。
この立場は、一方では「(1)日本に定住する外国人」の立場でもありま
す。結局、うえの分類で該当しなかったのは、(2)無国籍者、および(6)
朝鮮民主主義共和国人です。
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
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07287/07288 PFG00017 半月城 日本と原爆のかかわり
( 8) 99/08/08 08:43
今年もまたヒロシマ、ナガサキの日がめぐってきました。一瞬の閃光と爆
風、いわゆるピカドンにより、あるいは残留放射能の影響により数十万人の尊
い命が無惨にも奪われました。
その犠牲者は日本人にかぎらず、強制連行などにより軍需工場などに配置
されていた朝鮮人数万人も含まれていました。
こうした惨劇はいくら強調しても強調しすぎることはないくらい悲惨なも
ので、世界に向け、とくにインドやパキスタンなどに対し、もっと強くアピー
ルすべきではないかと思います。
それと同時に、この会議室でも日本の核武装を主張する“気散人”さんあ
たりに、核兵器のおろかさを理解してもらうのも必要かもしれません。
そうした主張の際に、日本でもかって原爆を開発していたという過去の事
実はきちんと把握しておくべきであると思います。
このいまわしい事実はベールにつつまれ、一般にその実態がほとんど知ら
れていないので、今回はとくにこれを取りあげます。
これに関連して、韓国の週刊誌、ハンギョレ21がこの話題を報道してい
ましたので、まずはそれを紹介します。
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「日本も“原爆開発”にあがき」
仁科博士の研究記録発見
アメリカより先に成功していたら“加爆国”になっていたかも
(ハンギョレ21、第268号、99.7.29)
45年、7月16日(8月9日の誤り、半月城注)と8月6日、2発の原
爆が日本に落ちた。そして30万名の命が地球上から奪われた。ヒロシマに落
とされたのは“リトルボーイ”で、ナガサキに落とされたのは“ファットマン”
だ。
おそらく人類の戦争史において、かくも多くの人命が失われたことはかっ
てなかったことだろう。そのためか、悲劇の当事者である日本人は、自分たち
が世界で唯一の原爆被害者である点を強調している。
同時に、原爆に関連したことにはきわめて敏感に反応する。昨年、アメリ
カ政府がスミソニアン博物館に原爆「リトルボーイ」を投下したB29戦略爆
撃機“エノラゲイ”を永久展示しようとしたとき、政府レベルでの抗議をとお
して、計画を頓挫させたのはその一例である。
ところで日帝の植民地を経験した多くのアジア人たちは、このような日本
の“悲劇”に頭では共感しても、心からの“情緒的共感”を持てないでいる。
その一番の理由は、日本が過去に対し心から謝罪しないためである。
しかし、また他の理由もある。それは日本がアメリカとの原爆開発競争に
敗北した結果“被爆国”になっただけであり、万一、勝利していたら“加爆国
になっていたかもしれないという歴史的事実のためである。
ナチスドイツのように、日本も原爆開発を推進した証言や、間接的な資料
はあったが、今までその開発過程が資料として公開されたことはなかった。
ところが、最近、日本の原爆開発過程を整理した資料が発見され、それに
より日本軍が必死で原爆開発を行った事実が裏付けられた。さる6月、日本の
原爆開発を主導した仁科芳雄博士の研究記録が偶然に発見されたのである。
○“ウラニウム収集”の具体的証言と資料
『仁科研究室に於けるU(ウラン)研究状況』と『ウランに就いて』という
タイトルの二つの資料には、核分裂をめざした研究状況が詳細に整理されてい
る。
仁科博士は日本陸軍航空本部の委託で1942年から本格的な原子爆弾研
究に着手した。しかし「不幸中の幸い」で、核分裂の連鎖反応を制御するプロ
セスを誤解し、結局、原爆開発に失敗してしまった。
原爆の開発研究は仁科博士が主導した理化学研究所だけではなかった。京
都大学の荒勝教授が先頭に立ったもう一つのチームもやはり日本海軍の依頼で
原爆開発を必死に行ったのである。特にこのチームにはノーベル物理学賞を受
賞した湯川秀樹博士まで含まれていた。
日本軍が原爆を製造するために、ウラニウムを収集したという具体的な証
言や資料もある。荒勝教授のもとに勤務した清水京都大名誉教授は、自身も酸
化ウラニウム 10kg 程度を収集したと証言した。
それだけでなく、日本軍は本土で採掘できるウランがきわめて限定されて
いるので、韓半島や中国東北部にまでウラン採掘を試みた。
また、1944年末には中国の上海闇市場で 130kg の酸化ウランを購入
し、日本に搬入した。
もし、日本がアメリカより原爆を先に開発していたらどうなっただろうか。
満州731部隊が生化学兵器を開発、使用した例を考えると、日本軍による原
爆先制攻撃の可能性が高いのではないだろうか。
今年も8月15日「終戦記念日」(敗戦記念日ではない)になれば、日本
はまたヒロシマとナガサキの悲劇を思い起こすことだろう。しかし、被害者自
身、実は原爆開発に必死に取り組んだのであり、結果として成功しなかっただ
けという歴史的な事実をどの程度知っているだろうか。
・・・
--------------------
アメリカの原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」がスタートしたの
が1942年なので、日米の原爆開発はほぼ同時にスタートしたといえます。
しかし、その計画のスケールや、力の入れようはけた違いだったようでした。
日本では予算も物資も乏しく、研究開発は苦心惨憺たるものだったようで
した。たとえば、サイクロトロン研究用の鉄板を入手するのに、博士の弟子が
切符をもって江戸橋の問屋にのこのこでかけるありさまでした。しかもそこに
は現物どころか、その入荷のめどすらなく、弟子たちはしかたなしに闇で鉄板
を買ってくるありさまでした(注1)。
このペースでは10年かかっても、原爆の完成はおぼつかなかったことで
しょう。実際、原爆の完成度ですが、日本は原爆の必須材料であるプルトニウ
ムの製造、あるいはウラン235の濃縮(注3)、そのどちらの作業もついに
着手すらできなかったようでした。
また、理論的にも未熟で、爆弾用の核分裂連鎖反応には「早い中性子」が
必要なのに、仁科博士は、原子炉のように「遅い中性子」が有効であると計算
違いをしていたようで、幸いなことに、そもそも出発点からゴールと反対方向
を向いていたようでした(注2)。
一方、アメリカの原爆開発は、重要な国家プロジェクトとして金に糸目を
つけず、企業の技術者なども巻き込み延べ54万人を動員し、原爆製造に有効
と考えられる方法をすべて試みました(注4)。
爆弾も二種類、ウラン型とプルトニウム型を同時に開発しました。これは、
どちらが見込みがあるのか予期できなかったためでした。
プルトニウム型原爆のほうですが、原料のプルトニウムは原子炉さえあれ
ば製造が容易ですが、その反面、爆弾の仕組みがむずかしく、構造によっては
自爆の危険性や、あるいは威力が十分発揮できない可能性もあり、実際の爆発
実験が不可欠でした。
そこで、45年7月16日、アラモゴード上空で史上初の核実験が行われ
ました。そこでの成功をもとに太っちょのファットマンが製造され、ナガサキ
に落とされたのは上に記すとおりです。
一方、ウラン型の方はウラン235の濃縮に手間取り、45年8月になっ
てようやく原爆一発分のウラン235ができあがりました。これを爆発実験に
使ってしまうと、日本に落とす実弾がなくなってしまうので、爆発実験は行わ
れませんでした。
そのかわり、いまアメリカなどで盛んに行われている未臨界実験、すなわ
ち爆発寸前で実験の進行を止める研究で代用しました。たとえていえば、空手
の多くの試合で、技を決める直前に動きを止めるようなものでしょうか。
一般に、ウラン型原爆は原理や構造が簡単なので、アメリカはこの未臨界
実験で十分確信を持ったようでした。この爆弾はリトルボーイと命名され、ヒ
ロシマに落とされたのはハンギョレ21が伝えるとおりです。
ヒロシマに人類史上初めての「新型爆弾」が落とされたとき、開発の責任
者である仁科博士は、それが原子爆弾であると直感し、すぐに現地入りし調査
にあたりました。その被害を目の当たりにした博士は、原爆効果が戦争を終わ
らせる契機になったと、46年に次のような注目すべき証言をしました(注1)。
「この(核分裂の)エネルギーが広島や、長崎にあの通りの暴威を振ひ潰滅
をもたらしたのである。これでも解る通り、原子核の研究といふ最も純学術的
の、しかも何等応用ということを目的としない研究が、太平洋戦争を終結せし
むる契機を作った最も現実的な威力を示すことになったのである。
これは如何なる外交よりも有力であったといはねばならぬ。科学が現代の
戦争といはず文化といはず、凡ての人類の活動上、如何に有力なものであるか
といふことを示す一例である。
更に原子爆弾の今後の発達は恐らく戦争を地球上より駆逐するに至るであ
らう。否、吾々は速やかに戦争絶滅を実現せしめねばならぬ。・・・原子爆弾
は最も有力な戦争抑制者といはなければならぬ」
博士の見方は、すこし単純化しているきらいはありますが、原爆を「戦争
抑制者」と表現したのは、その地獄のような恐ろしさを自分の目で確かめた体
験からの結論に違いありません。
博士の意見に代表される「核抑止論」が、その後の世界の潮流になってし
まい、最近ではインドやパキスタンなども核兵器製造に乗り出したのは残念な
ことです。
核兵器が戦争抑止の役割だけに終始するうちは、原爆は単なる「張り子の
虎」にすぎず無害なのですが、現実はそう単純ではありません。核兵器を持て
ば、戦術を重視する軍人はえてして使いたがるもので、成り行き次第ではいつ
核戦争に発展しないともかぎりません。
朝鮮戦争(1950)の時、GHQのマッカーサー元帥が満州に原爆を30発お
とすという無謀な計画を提案したことなどその一例です。
さいわい、独善的なマ元帥はトルーマン大統領により解任され、第2の被
爆国は誕生しませんでしたが、こうした危険性を考えるとき、気散人さんの核
武装論にとうてい賛成するわけにいきません。人類を絶滅の危機に陥れる可能
性のある核兵器は地球上から廃絶すべきです。
仁科博士の愛弟子で、ともにノーベル賞受賞者の湯川秀樹や朝永振一郎は、
恩師の核抑止論を乗り越え、核廃絶を唱え京都会議を設立し、パグウォッシュ
会議に参加しました。そうした活動の一環で、1961年当時、東京教育大学
学長の朝永教授は核廃絶を次のように訴えました(注1)。
--------------------
人類の滅亡を救うために
朝永振一郎
(前半省略)
もともと、戦争をなくすのに、二つの考え方があったようである。一つは
軍備縮小からその全廃に向かって話し合いをつけるという方向に向いている。
しかし、話し合いをつけることが成功するためには、国と国との間に信頼
感がなくてはならないから、この道が成功するかどうかは、信頼感を少しずつ
でもとりもどすことがうまくいくかどうかにかかっている。
ところが、国と国との不信感はとても根づよいので、信頼感の回復はとて
も望みがないと考える人たちは、むしろ逆の道をとるのが現実的であるという。
それはすなわち核兵器の存在そのもの、そのバランスによって、戦争を抑
止するというやりかたである。
しかし、この方法は大変に不安定なものであって、少しの破綻から大事に
なる可能性をいつも含んでいる。この破綻を防ぐいろいろな方法も考案された
が、やはりその可能性を零にすることはできないように思われる。
この方法の土台には、核兵器の存在のもとでは戦争を始めれば大破壊にな
るから戦争は思いとどまられる、という考え方があるわけだが、これは一種の
逆説である。すなわち、戦争の起る可能性によって戦争をおさえるというので
ある。
この無理から、本当に戦争をやってはならぬと考えている政治家も、戦争
も辞さないというせりふをせねばならない。そしてそれを民衆に信じさせねば
ならない。
そうすると、国と国とはますますお互いに信じられなくなることは必然で
ある。この不信感から生まれてくるのは、軍備の増強であり、それはまた不信
感を増大する。これは全くの悪循環である。
核実験停止は僅かでも第一の方向に向かっていたのに、その再開は第二の
方向に向いている。
核実験を断ち切るにはどうしたらよいだろうか。それには国と国との間に
信頼感をつちかっていかねばならないが、どこの国でも政府というものは、一
ぺんに舵の切りかえはできないようになっている。
しかし国と国との信頼感とは、結局は、国民と国民との間の信頼感にほか
ならない。だからそれは国民めいめいが関係することがらであろう。
信頼感は、どちらの国が正しく、どちらの国が正しくないという認識から
は生まれてこないだろう。むしろ、そういう見方からはなれて、人類全体の生
き死にという見方から問題を考えていかねばなるまい。
とにかく、人類が核兵器を作る知識を持った以上、この知識を亡ぼすこと
はできない。そうすれば、人類が生きつづけるためには、戦争のない世界を作
り上げるほかに道はないのではないか。
--------------------
国同士の相互不信を解消し、戦争のない世界をいかにつくるか、これは人
類永遠の課題でしょうが、ともかくそれは敵視政策のなかからは決して生まれ
ないことは確かです。
(注1)中央公論社『自然』300号記念、1971
(注2)朝日新聞記事「原爆の開発で日本 爆発の原理誤解」1999.6.16
(注3)天然ウランは、核分裂を起こすウラン235が0.7%しか含んで
いないので、そのままでは爆弾として使えず、そのなかからウラン235
だけを取り出し濃縮する必要がある。
一方、残りの99.7%はウラン238で、これは核分裂を起こさない
かわりに、原子炉などで中性子を吸収し、核分裂を起こすプルトニウムに変
化する。このプルトニウムはそのまま原爆として用いることができる。
(注4)沢田昭二ほか『広島・長崎原爆被害の実相』新日本出版社、1999
(本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)
http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信)
- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/08/14 -
07308/07308 PFG00017 半月城 竹島=独島と明治以前の認識
( 8) 99/08/14 16:32 07255へのコメント
かんさん、こんばんは。
> まず、「xがA領であるか」という問題については、少なくとも最低限理論的には
>「無主地」である、という可能性がある以上、「日本領土ではない」というだけでは
>不十分です。そもそも日本政府は1905年に「りゃんこ島」をそれまで無主地であった、
>と言う理由により、竹島と言う名で領土に編入している訳ですから、「1905年以前に
>竹島が日本領土であったかなかったか」はそもそも問題にならないと思います。
ほんとうに“日本政府は1905年に「りゃんこ島」をそれまで無主地であっ
た”と主張しているのでしょうか?
かんさんが紹介されたニフティの会議室 Flaw Mes(15) #621に、日本の外
交青書がこう引用されていました。
>平成4(1992)年版(第36号)、180~181頁。
>「韓国との間でその帰属につき争いのある竹島は、法的にも歴史的にも
>日本固有の領土であることは明らかであり、韓国に対しては、随時日本の立
>場を踏まえて抗議を行っている。」
最新版の外交青書でも似たような記述だったと記憶していますが、「歴史
的にも日本固有の領土」という主張のうらには、1905年以前にも竹島(独
島)は日本の「固有の領土」であったと主張しているのではないでしょうか?
帝国主義時代に獲得した領土を「固有領土」と称したのでは、厚顔無恥のそし
りを受けかねません。
外務省がいう「歴史的にも日本の固有領土」という主張の妥当性をすこし
調べて、インターネット「歴史会議室」に書きましたので、これを以下に転載
します。
--------------------
「歴史会議室」
【名 前】半月城 08/11 22:57
【タイトル】竹島=独島と明治以前の認識
【メッセージ】
クリリンさん、Tetsu さん、こんばんは。
遅くなりましたが、竹島(独島)に関する重要な堀和生氏の研究論文をや
っと入手できましたので、これをもとに、明治時代以前における竹島(独島)
の領有意識について反論したいと思います。
クリリンさん、
> 日露戦争前の一般認識については判断する材料を持たぬのであるが、
>江戸時代後期においては当時もっとも普及していた長久保赤水の日本輿
>地路程全図(1775年)及びその派生地図は竹島、松島を日本領とし
>て描いている。小生は文久年間(1861年~64年)の赤水図を基に
>した地図を所有しているが、それによっても竹島、松島は日本領の扱い
>である。
1775年のおっしゃる地図をみたところ、竹島(現・鬱陵島)と松島
(現・竹島=独島)が一対に描かれており、両島のすきまに「見高麗猶雲州望
隠州」と書かれていました(注1)。
この意味は、竹島から高麗を見ることができると解釈できるので、松島や
竹島は高麗のものではなく、日本のものだという即断が可能かも知れません。
しかし、この解釈は安易にすぎることが、林子平の地図により明らかになりま
す。
林子平、別名・六無斉は「親も無し・・・金も無ければ死にたくも無し」
と詠んだことでよく知られている経世家ですが、彼は1785年に軍事地理書
『三国通覧図説』を著しました。
その中の三国接壌図は、長久保の地図の流れをくみ、竹島(鬱陵島)のわ
きに「〓島より隠州ヲ望 又朝鮮ヲモ見ル」と、似たような書き込みがありま
す。ところが、こちらにはさらに「朝鮮ノ持ニ」という書き込みが加わってお
り、竹島とその属島は朝鮮領であることが明らかです(注3)。
したがって、単に「高麗、朝鮮を見る」という一節だけでは、その島は日
本領ということにはならないようです。なお、林子平は念入りに竹島(現・鬱
陵島)とその属島を明瞭に日本領土と違うカラーで彩色までしました。
ところで、Tetstさんはこの属島を竹島(独島)でないと考えておられる
ようです。
>林子平の「三国通覧図説」(1785年)に記載されている島も鬱陵島のことで、
>竹島はこれには記載されていません。
竹島(独島)が記載されていないという Tetsuさんの見方はすこし無理で
はないかと思います。それは、林の三国接壌図は長久保の地図の影響を受けて
いるので、林は両島一対の認識にたち、松島(竹島=独島)を竹島の属島とし
て描いたと見るほうが自然ではないかと思われるからです。
それに当時、松島は竹島の属島であるという認識が強く、資料でも「竹嶋
之内松嶋」「竹嶋近辺松嶋」「竹嶋近所之小嶋」などと扱われていました(2)。
名前からして、松などが一本もないのにもかかわらず、松島(竹島=独島)と
名づけられたのも、そうした背景であることは容易に察しがつきます。
ここでまた1775年の長久保の地図にもどりますが、この地図では松島、
竹島が日本領として描いたのかどうかかならずしもはっきりしませんが、注目
すべきことに、3年後の改定地図では松島、竹島ははっきり朝鮮領と認識され
ました。それについて、堀氏はこう記しています(注2)。
--------------------
「竹島一件」(元禄時代)以後の幕府の領土意識を示す資料として、その官
撰地図のなかで、松島=独島を最初に描いたのは、長久保赤水の「日本輿地路
程全図(1773年)である。
この地図は経緯線を使用した最初の地図でもあった。長久保は、更に木版
彩色刷りの「日本路程輿地図」(1778年)を刊行した。この地図で特に注
目されるのは、日本本土とその附属地にはすべて彩色をほどこしているが、竹
島と松島は、朝鮮半島とともに彩色していないことである。
つまり、「竹島一件」を踏まえた後の官撰地図は、竹島、松島をともに日
本領として取り扱っていないのである。
また、古地図の段階を完全に脱皮したといわれる官撰地図、伊能忠敬の
「大日本沿海輿地全図」(1821年)には、竹島、松島ともに含まれていな
いのである。
つまり、17世紀半ばにはやや曖昧であったが、元禄期の朝鮮政府との交
渉を経た後には、幕府は松島=独島の存在を認知していながら、それを日本領
とは見ていなかったのである。
以上小括すれば、日本人が17世紀に松島=竹島について深く知るように
なったのは、あくまで日本人が朝鮮領たる鬱陵島に進出していた状態があった
からである。そして、両国政府の交渉で鬱陵島の朝鮮所属が決定した際に、そ
の属島たる松島=独島も、ごく自然に日本の版図からはずされたのである。
--------------------
やはり、元禄時代の「竹島一件」以後、竹島(鬱陵島)およびその属島と
考えられていた松島(竹島=独島)は、朝鮮領という認識が強かったようです。
このように、権威ある地図ではっきり竹島(独島)が日本領であることを
示したものはほとんどなかったようです。
次に、「竹島一件」以前はどうであったのかについて記したいと思います。
これをみるためには、竹島(独島)の本島と考えられていた鬱陵島はどのよう
に認識されていたのかが重要になりますので、この角度からみたいと思います。
13-16世紀、「倭冦」と呼ばれる海賊が朝鮮や中国を荒らしまわって
大きな被害をもたらしましたが、竹島(鬱陵島)もしばしば襲われました。
この対策として、1403年、朝鮮王朝の太宗は同島の居住者にたいし、
本土への移住を命じました。いわゆる「空島政策」の発令でした。
これを知った対馬の守護・宗貞茂は、1407年、朝鮮王朝におみやげを
持参し、茂陵島(鬱陵島)に家臣を率いて移住したいと申し入れました。しか
し、室町幕府との関係が悪化することを恐れた朝鮮王朝は、この申し入れを断
りました。
さらに時代が下って、1614年に対馬藩は船三隻を派遣し、鬱陵島を調
査したうえで「磯竹島」という日本名をつけ、その領有を画策し、朝鮮と交渉
しました。
これに対し朝鮮側の『朝鮮王朝実録』は、次のように強い態度でこれをは
ねつけました(注4)。
「日本の船三隻が鬱陵島にやってきて、この島はどこに属するかと質問した
ので、朝鮮の慶尚道と江原道の間にある鬱陵島であり、日本人が往来すること
を禁止すると回答した。
しかし対馬島主から入島を要望してきたので『東国輿地勝覧』にも記載さ
れている通りの朝鮮領の島であり、いまは無人島で荒廃しているが、他国の人
に占拠される理由はない。
日本人の朝鮮への渡航は、対馬を経由する一路以外は認めておらず、それ
以外で朝鮮に来航するものは海賊とみなすということは、かねてより約束して
いるところであり、対馬島主が知らないはずはない・・・」
このような交渉の直後の1617年、たまたま米子の大谷甚吉の商船が遭
難して鬱陵島に漂着しました。大谷は、その物産の豊富なことに着目して、村
川市兵衛とともに、幕府に渡航許可を申請しました。申請をすること自体、鬱
陵島が朝鮮領であると考えていたことを示すものといえます。
これに対し、幕府は次のように対処しました(注4)。
--------------------
これを受けた幕府では、老中の土井大炊頭(おおいのかみ)が中心になっ
て、朝鮮側の強い反対でゆきづまりをみせていた対馬藩による領有化交渉を断
念し、代って新しい方策として、鳥取藩の米子町人による渡海事業に期待をか
けたとみることができます。
1614年の対馬藩による、磯竹島は日本領であるとする東来(トンネ)
府使への申し入れと朝鮮側の拒否、17年の伏見城における(朝鮮使節)李景
禝への磯竹弥左衛門についての質問、そして翌18年に米子町人への渡海免許
とつづくのです。
渡海を免許し事業の実行を見とどけたうえで、その2年後の20年には対
馬藩に命じて磯竹島で弥左衛門を捕らえさせ、京都に送って潜商の罪で処分し
たことは、朝鮮側が明確に朝鮮領とした磯竹島問題に、幕府がハッキリと見切
りをつけたことを意味します。
・・・
朝鮮王朝に対する公式窓口を担当する対馬藩には、「潜商」といってきび
しく取締まらせたのに、鳥取藩には許容したところに、幕府のしたたかな外交
政策をみることができます。
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本来、日本領土内の島なら渡航許可は不要なので、幕府は鬱陵島が日本の
島でないことを念頭に渡海免許をだし「実効支配」をもくろんだのでしょうか。
その政策は成功するかにみえましたが、どっこい75年後に問題が起きました。
同島で日本と朝鮮漁民の間に衝突事件が発生しました。この事件を処理す
るにあたり、幕府は同島の領有をあきらめました。その過程を堀氏はこう記し
ました。
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1693年鬱陵島において、大谷家の一行と、慶尚道から出漁してきた安
龍福ら朝鮮漁民との間に大きな衝突が起った。
そして、大谷・村川両家が幕府に訴えたことから、この問題は日本と朝鮮
の外交ルートで、竹島=鬱陵島の漁業権・領有権を争う所謂(いわゆる)「竹
島一件」に発展していった。
この外交交渉のなかで、対馬藩は明らかに朝鮮から鬱陵島を奪おうと企て
た。朝鮮政府では一時方針が動揺したが、安龍福が二度日本へ渡って、鬱陵
島・于山島は朝鮮領だと主張してきたことが契機となって、領議政・南九萬ら
の対日強硬姿勢が支配的となった。
歴史的に鬱陵島が新羅時代から朝鮮に属していたことは明らかであったの
で、幕府はついに対馬藩の動きを抑え、対朝鮮の協調政策を選択した。
即ち、1696年1月大谷・村川両家の竹島渡航が禁止され、99年1月
日本側が鬱陵島を朝鮮領であることを正式に承認して、この「竹島一件」は決
着がつけられた。
その外交文書には直接松島の名称はないが、同島が竹島の属島とみなされ
ていた以上、その領有権も同様に処理されたと考えられる。
17世紀の日本人の松島=独島での漁業とは、あくまで竹島=鬱陵島に附
随したものにすぎないので、その竹島渡航禁止とともに終焉するほかなかった。
その証拠に、この後、大谷・村川両家が松島のみをめざして渡航したこと
は全くなかったのである。
ただし、このように元禄期に竹島=鬱陵島への渡航が幕府によって禁止さ
れた後も、山陰地方の漁民らが密かに同島に渡ったことはあったようである。
また、民間では松島=独島を隠岐国の所属と書いている本があり、さらに、竹
島=鬱陵島が朝鮮の属領であることを知らない本さえあった。しかし、これら
責任のない民間人の認識は領土主権の帰属には関わりがない。
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うえに書いたように「竹島一件」以後、竹島(独島)は朝鮮領であるとい
う認識が強かったようです。この認識が明治政府の太政官裁決書に受け継がれ
「竹島外一島之義 本邦関係無」という結論になり、日本は竹島(独島)の領
有をあきらめたことは以前に記したとおりです。
(注1)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院,1996(初版,1966)
(注2)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』
第24号、1987
(注3)愼鏞廈『独島(竹島)』インター出版(TEL075-212-6559),1997
(注4)内藤正中ほか『韓国江原道と鳥取県』富士書店(0857-23-7271),1999
(本記事はML[zainichi]および下記のホームページに転載予定)
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