半月城通信
No.113(2005.8.13)

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    目次

  1. 日本の原爆開発
  2. NHK対 朝日新聞、番組改変問題
  3. 靖国神社はどんな所
  4. 靖国は軍国主義の神社
  5. 靖国神社のA級戦犯合祀
  6. 首相の靖国参拝と外交戦略
  7. 靖国神社と「日本民族の発想」
  8. 教育か研究か
  9. 竹島=独島は日本の固有領土か?
  10. 竹島(欝陵島)と潜商事件
  11. 『隠州視聴合記』の最新解釈
  12. 新発見史料「朝鮮舟 着岸一巻之覚書」
  13. 明治政府、竹島=独島の版図外確認

  14. 日本の原爆開発 2005.8.10 メーリングリスト[AML 2923]   半月城です。   きょうはヒロシマについで、ナガサキにピカドンが炸裂して60周年になります。60周 年に合わせてか、韓国のテレビMBC局が「日本の原爆開発」と題する番組(注1)を放 映していましたので、すこし補足しながら紹介します。   日本の原爆開発の中心人物は理化学研究所の仁科(にしな)博士でした。同氏の考え を一口でいえば、核兵器の恐ろしさが戦争を未然に防ぐという核抑止論者であり、太平洋 戦争でもヒロシマ・ナガサキの壊滅的な惨状が戦争終結の契機になったとして、つぎのよ うに語る人物でした。  「原子核の研究といふ最も純学術的の、しかも何等応用ということを目的としない研究 が、太平洋戦争を終結せしむる契機を作った最も現実的な威力を示すことになったのであ る。これはいかなる外交よりも有力であったといはねばならぬ(注2)」   こう語る仁科芳雄は、原爆開発者として原爆の威力を熟知していたようでした。ヒロ シマに原爆が落とされるやすぐ現地に入り、被害の程度をつぶさに調査し、かれの理論計 算を検証したようでした。   仁科の計算は、6年前に発見されたかれの原爆開発ノートに残されましたが、その中 で仁科は爆発時のキノコ雲の大きさや、爆心地からの距離に応じた被害の程度などを予測 していました。   そうした計算能力は、仁科の業績からすれば容易に察せられます。かれは、原子核散 乱理論の「クライン・ニシナの公式」として世界的に知られた原子核物理学者です。その 能力を買われ、かれは陸軍航空本部の秘密計画「ニ号」研究の責任者として原爆開発にあ たりました。「ニ号」の「ニ」はニシナのイニシャルと言われています。   ただ「二号」計画は、仁科がウラン核分裂の連鎖反応における中性子の所要速度の推 測をまちがえていたり(注2)、予算や物資の不足に加え、1945年3月の東京大空襲により 理化学研究所が壊滅的な被害を受けため、あまり成果をあげることができなかったようで した。   また、原爆製造に必要な原料の確保にも日本は苦戦していたようでした。原爆の原料 としてヒロシマ型原爆の場合はウラン、ナガサキ型の場合はプルトニウムが使われますが、 日本は原子炉を持たなかったのでプルトニウムの入手は不可能でした。   そのため原料はウランに限られるのですが、当時は人形峠の鉱脈が知られておらず、 日本はウランの入手に相当苦労していたようでした。主な入手先は同盟国のドイツからの 輸入だったようです。   ドイツからは数回ウランが運ばれたようですが、戦争末期になるとドイツが降伏した ため、酸化ウラン 560kgを積んで日本へ行くはずであった潜水艦Uボートがアメリカ軍に 押収されてしまい、輸入の道は断たれました。ちなみに、原爆1個を製造するには2トン 近い酸化ウランを必要とします。   理化学研究所はいろいろな困難にもめげずに開発を継続したようでした。ウランを精 錬する理化学研究所のサカモリ研究室を福島県の石川町に移し、ウランの精錬を続けてい たようでした。しかし、ここでは精錬だけなのか、核爆発に必要なウラン235の濃縮は行 われなかったようでした。   仁科はフッ化ウラン、ひいてはウラン235の濃縮には莫大な電力が必要であると気が ついていたのですが、これとどう結びつくのか、電力が豊富な朝鮮の興南で核兵器の開発 が行なわれていました。   その決定的な証拠をMBC局はアメリカ公文書館で発見したようでした。その証拠と は 1947年に連合軍司令部が作成した報告書でした。   そこには日本が朝鮮の興南市でウランの研究を行っていたことが指摘されました。興 南は朝鮮で最大級の電気・化学工業地帯であり、もちろん電力資源も豊富でした。また、 周辺はウラン鉱石も豊富であることが、分析を担当したナカネ・リョウヘイ氏の証言で明 らかにされました。。   また、興南には警備がきわめて厳重な一角があったとのことで、番組はそこがロケッ トおよびウラン開発の拠点ではないかと推測しました。さらに興南のノグチ研究所に勤務 していた目撃者によれば、後日ノーベル賞を受賞した湯川秀樹がたびたび興南を訪れてい たとのことでした。   どうやら、湯川秀樹は日本海軍が推進していた原爆開発計画に関係していたようです。 韓国の『ハンギョレ21』誌は1999年にこう記しました。        --------------------   原爆の開発研究は仁科博士が主導した理化学研究所だけではなかった。京都大学の荒 勝教授が先頭に立ったもう一つのチームもやはり日本海軍の依頼で原爆開発を必死に行っ たのである。特にこのチームにはノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士まで含まれて いた。   日本軍が原爆を製造するために、ウラニウムを収集したという具体的な証言や資料も ある。荒勝教授のもとに勤務した清水京都大名誉教授は、自身も酸化ウラニウム 10kg 程 度を収集したと証言した。   それだけでなく、日本軍は本土で採掘できるウランがきわめて限定されているので、 韓半島や中国東北部にまでウラン採掘を試みた。   また、1944年末には中国の上海闇市場で 130kg の酸化ウランを購入し、日本に 搬入した(注2)。        --------------------   戦時中、大学の物理研究者は軍事研究を強いられていたので、湯川秀樹もその魔手か ら逃れるのはむずかしかったことでしょう。ただし、湯川にしろ、仁科にしろ、原爆開発 については一切語っていないようです。   戦後の湯川は、後日ノーベル賞を受賞した朝永振一郎と共に熱心な核廃絶論者として 世界的に知られていますが、あるいは核開発にかかわった罪滅ぼしの気持ちが核廃絶運動 の原動力になっていたのかも知れません。   さて、日本製原爆の完成度ですが、最初に原爆開発を提案した陸軍技術研究所の鈴木 辰三郎は戦後になって秘話「完成寸前にあったニッポン製原子爆弾の全貌」を雑誌に発表 しました(この雑誌名を誰かご存じでしたら教えてください)。陸軍での研究進捗度をま とめたものとみられます。   また、アメリカの新聞 The Atlanta Constitution は、アメリカ軍が日本軍将校・若 林を尋問した内容をもとに "Japan Developed Atom Bomb"(1946.10.3)「日本は原爆を開 発した」と題する記事を掲載しました。それによると、1945年8月12日、興南沖で閃光と キノコ雲を伴った大爆発があったとのことでした。   キノコ雲は原爆特有の雲ですが、しかし興南で核爆発に伴う被害が知られていないこ とから、これを核爆発とみるのはむずかしいとみる学者もいるようです。   もし、それが原爆だったら、日本の軍部はそれを武器にアメリカに勝てると錯覚した かもしれません。あるいはそのために軍部は終戦に猛反対したのかもしれません。   しかし、たとえ原爆実験には成功したとしても、それを実戦配備するのに半年以上は かかったことでしょう。もし戦争がそれまで継続していたら、その間に日本は破滅状態に なっていたことでしょう。   ウラン爆弾ですが、アメリカですらどうにか1発だけ完成させ、核実験をおこなわず に、それをヒロシマへ落としました。プルトニウム爆弾とちがって、次の1発を作るまで に長い年月が必要だったからでした。   テレビ番組は戦後の話も紹介していました。その後の日本の原爆開発ですが、机上の 研究としては 1970年、当時の中曽根康弘防衛庁長官がおこなった「日本の核兵器に関す る基礎的研究」が明るみにだされました。   その報告書をまとめたロウヤマ・ミチオ氏は「報告書のもっとも重要な結論は、技術 的には原子爆弾の製造が可能であるというもので、特にウラン爆弾の場合、構成や技術面 で簡単である」と語りました。   なお、この秘密研究がノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作内閣のもとで行われたのは 注目されます。佐藤内閣は核兵器を作らない、持たない、持ち込まないとする「核三原 則」を宣言するなどの平和努力で1974年にノーベル賞を受賞しました。   しかし、その陰で秘密裏に核武装の研究をしていることを知ったノーベル賞財団は、 佐藤に平和賞を与えたのは「最大の物議の種」であったと後悔しました。佐藤栄作首相は、 ジキルとハイドさながらの二面性をもっていたようです。   この研究にみられるように、日本は政治家が核武装を決意したら、90日以内に原爆製 造が可能な「準核保有国」であるとMBC局ではみています。その脅威は北朝鮮の原爆の 比ではありません。   日本はプルトニウムを5トン以上保有していますが、これはナガサキ型原爆500個分に 相当します。そのうえ、六ヵ所村のプルトニウム再処理設備が完成すると、日本は年間8 トンのプルトニウムを持つことになります。   現在、日本の核武装論は下火ですが、石原慎太郎のように核武装をもくろむ右翼政治 家を日本国民が迎合する時代になったら、いつ核武装に方向転換するのやら測りしれませ ん。   ヒロシマ・ナガサキの悲劇を再び繰りかえさないために、地球上の核兵器はすべて廃 棄されなければなりません。大量殺戮兵器は人類の敵です。 (注1)韓国MBC局<今なら言える>シリーズ,「日本の原爆開発」  日本ではスカパー332ch, KNTVにて 2005.8.7放映 (注2)半月城通信<日本と原爆のかかわり> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    NHK対 朝日新聞、番組改変問題 2005.8.12 メーリングリスト[AML 2975]   半月城です。   今年初め来、NHKと朝日新聞がツノ突きあわせてきた「戦時性暴力」番組改変問題 ですが(注1)、これまでは朝日新聞がやや劣勢かなというのが私の印象でした。   しかし、このほど「月刊現代」9月号に魚住昭氏が書いた記事「『政治的介入』の決 定的証拠」を読んで、少し考えが変わりました。   朝日新聞は、おそらく取材時の録音テープをもとにして主張を展開しているのではな いだろうか、それなると朝日新聞のほうが信憑性が高いのかなと思い直しました。   ちなみに、雑誌の記事を書いた魚住氏はかなり信頼できそうで、かれの人物評を「田 中角栄研究」で勇名をはせた立花隆氏はこう記しました。        --------------------   この魚住昭氏という人は、元共同通信社の記者で、昨年「野中広務 差別と権力」で 講談社ノンフィクション賞を受賞した人である。私はこの賞の選考委員をしていた関係上、 この人がどのような人間であるかについて十分な知識を得ており、なみなみならぬ取材力 を持った人であることをよく知っている。   つまり、この人の立場なら、録音テープ(ないしその記録)の入手先を明かすことは 決してしないだろうが、テープの入手にあたって、その信憑性は十分にチェックしている にちがいないから、それをもとに彼が書いたものは信用できると思っているということで ある(注2)。        --------------------   記事によると、NHKへは主として中川昭一代議士が恫喝し、安倍晋三代議士は抽象 的なもの言いで政治的圧力をかけたようでした。中川氏の物言いはヤクザさながらだった ようで、NHKの松尾・元総局長は同氏についてこう語ったようでした。  「北海道のおじさん(中川議員をさす)は凄かったですから。そういう言い方もするし、 口の利き方も知らない。どこのヤクザがいるのと思ったほどだ」   その中川氏ですが、松尾氏にこう語ったようでした。  「その偏向した内容を公共放送のNHKが流すのは、放送法上の公正の面から言ってもお かしい。偏っているって言うと、向こうは教育テレビでやりますからとか訳のわからんこ とを言う。あそこを直します、ここを直しますからやりたいと。それでダメだと。放送法 の趣旨から言ってもおかしいじゃないかって」   中川氏は「放送の中立性をうたった放送法」を知ってか知らずか、「放送法の趣旨か ら言ってもおかしい」などと番組へ政治プレッシャーをかけましたが、これは「居直り強 盗の説教」を連想させます。   そうした政治家の恫喝がこれまでNHKを支配してきたようで、そうした両者の腐れ 縁を立花氏はこう記しました。        --------------------   NHKは予算も決算も国会の認承を必要とするところから、どうしても政治家のプレッ シャーに弱くなる。また、それを承知の政治家がNHKに何かというとプレッシャーをかけ てくる。それに従わない場合の政治家側のさらなる圧力が恐いNHKは、有力な政治家の ちょっとした一言にすぐおびえて過剰反応してしまうというのが、これまでもNHKと政治 家側の基本的関係だった。        --------------------   政治家に毅然とした態度を取れないNHKに対し、私も一時は受信拒否を考えたので すが、番組「冬ソナ」で韓流ブームをまき起こしたNHKの功績を評価して、受信料を払 いつづけています。 (注1)<NHK番組改変問題・2005> (注2)立花隆「NHK番組改変の取材メモ流出で問われる報道の使命と政治介入」 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    靖国神社はどんな所 2005.7.3 北京放送BBS「アサヒビールへの公開質問書」   atroposさんは、小泉純一郎首相が靖国参拝をする理由として「1.戦争の悲惨さの再 確認 2.永久不戦の誓い」をあげましたが、それだけでしょうか?   本当にそれだけなら、周辺諸国と波風たててまで靖国神社にこだわる必要はないと思 います。最近の天皇のように、政府主催の全国戦没者追悼式などに参加することで、その 意図は十分伝わることでしょう。   あえてそれでもまだ不十分というのなら、特定の宗教にとらわれない戦没者追悼のた めの新しい施設を建てればいいでしょう。それにもかかわらず、小泉首相が靖国神社にこ だわるのは理由は何でしょうか。   小泉首相は「どのような施設が仮に建設されるにしても、靖国神社は存在しているし、 靖国神社がなくなるもんじゃない(注1)」と語りましたが、靖国神社でなくてはならな い特別な理由がありそうです。   首相の靖国参拝が単に「1.戦争の悲惨さの再確認 2.永久不戦の誓い」だけなら、は たして靖国神社は適当でしょうか? 靖国神社には日本の侵略戦争に関して独特の政治思 想があります。   同神社のホームページは、東条英機などの戦争犯罪人を裁いた東京裁判を否定し、さ らにサンフランシスコ講和条約を調印したことは東京裁判を認めたことにはならないとし て、下記のように記しました。        -------------------- 2、東京裁判(極東国際軍事裁判)は、国際法を無視した不当な裁判であったこと。 3、 サンフランシスコ対日平和条約第11条中の「受諾」の意味は、敗戦国としてやむなく刑の 執行を約束したにすぎず、東京裁判そのものを認めたのではないこと。 <靖国神社ホームページ、資料>        --------------------   靖国神社はこのような政治思想を持つからこそ、そこへ参拝する日本の首相に中国や シンガポールが懸念を表明するのは当然ではないでしょうか。 (注1)朝日新聞「靖国には代われぬ」2005.6.20 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    靖国は軍国主義の神社 2005.7.31 北京放送BBS「アサヒビールへの公開質問書」   中條高徳氏ががアサヒビール顧問の名で靖国を応援する発言をしたことに対し、なぜ 中国ではアサヒビールの不買運動に走ったのか、その原因を考えてみたいと思います。   近ごろ、中国の靖国神社に対する強烈な反発のニュースをしばしば耳にしますが、そ の理由は何でしょうか。それを知るために、まずは『文藝春秋』8月号に掲載された精華 大学の劉江永氏の発言を読むことにします。   劉氏は櫻井よしこ氏たちとの論争で靖国神社についてこう述べました。        --------------------   靖国神社はそれまでの日本の伝統的な神道とは異なる「国家神道」の神社なのです。 東京招魂社は1879(明治12)年に靖国神社へと名称変更されました。私はこのことを重視し ます。つまり名称変更を契機に神社の性格が変わり、対外戦争を目的とする軍国主義の神 社になったのです。   名称変更の前後に何があったかというと、1874(明治7)年に、日本は台湾に出兵し、 その後、1945(昭和20)年の敗戦まで続く侵略戦争をスタートしました。        --------------------   劉氏は、このように靖国神社を「対外戦争を目的とする軍国主義の神社」であると決 めつけましたが、これは正しいでしょうか。それを検証したいと思います。   靖国神社の目的を知るには、創立当時にさかのぼる必要があります。目的は、東京招 魂社が靖国神社と改称した際によまれた「祭文」に明らかにされています。高橋哲哉氏は こう意訳しました。        --------------------   明治維新より今日まで、天皇が内外の国の暴虐なる敵たちを懲らしめ、反抗するもの たちを服従させてきた際に、お前たちが私心なき忠誠心を持って、家を忘れ身を投げ捨て て名誉の戦死を遂げた「大き高き勲功」によってこそ、「大皇国」を統治することができ るのだ、と思し召したがゆえに、(中略)今後、お前たちを永遠に「怠る事無く」祭祀す ることにしよう(注1,P100)。        --------------------   靖国神社は、内外の戦争などで「暴虐なる敵」と戦い、「皇国」すなわち「天皇の 国」のために戦死した人たちの「勲功」を讃えるため「別格官幣社」としてスタートした ようです。   このように、靖国神社は「内外」の戦争を対象としているので、劉氏のいう「対外戦 争を目的とした」という見方はかならずしも当らないようです。実際、靖国神社は西郷隆 盛が起こした内戦、西南戦争で戦死した者も祀っているようです。   ただし、西郷軍など「賊軍」側の戦死者は祀らず、天皇のため、「皇国」のために死 んだ者のみ祀っているようです。   言いかえれば、不幸にも戦争で死んだ人を等しく悼むというよりは、大日本帝国を築 くために戦死した兵士の霊を祀ることに重点がおかれています。それも遺族の意向や感情 に関係なく祀っているようです。   遺族にさからってまで「皇軍」の戦死者を祀りつづけている実態は、遺族からの「霊 爾簿抹消要求」、俗にいう合祀取り下げ要求に赤裸々にみることができます。そうした要 求に靖国神社はかたくなに拒みつづけていますが、そうした事情を高橋氏はこう記しまし た。        --------------------   1968年、プロテスタントの角田三郎牧師は、遺族として「明治以来初めて」、靖国神 社にふたりの兄が祀られているのを取り消してほしいと「霊爾簿抹消要求」を行なったが、 拒否された。その後も「キリスト者遺族の会」として、合祀絶止を求めてきたが、靖国神 社は拒否しつづけている。   角田牧師に対する靖国神社の回答は「当神社創建の趣旨及び伝統に鑑み 到底御申し 出に沿うことは出来ません」というものであった。   牧師との話し合いの席で、池田権宮司が、「天皇の意志により戦死者の合祀は行なわ れたのであり、遺族の意志にかかわりなく行なわれたのであるから抹消をすることはでき ない」と言明したことも明らかにされている(注1,P99)。        --------------------   古く靖国神社創建当時の天皇の意志が今でも尊重される結果、死者にもっとも近く、 死者をもっとも哀悼する遺族ですら、時には無視されるようです。つまり、遺族の意向や 意思より天皇の意志が優先されるという奇怪な現象が起きているようです。   そこには死者を悼むという発想は希薄なようで、ひたすら皇国や大日本帝国のために 命を落とした軍人を讃える発想が優先されるようです。   皇国あるいは大日本帝国の末路は、侵略戦争をしかけての自滅であることはいうまで もありません。そうした侵略戦争を精神的に支えた神社、それが靖国神社であるだけに、 劉氏のいうように、靖国神社は「軍国主義の神社」であるという主張も無理からぬことと 思われます。   そういう靖国神社を応援するアサヒビールの関係者に中国人が憤るのも無理からぬこ とでしょう。 (注1)高橋哲哉『靖国問題』筑摩新書,2005


    靖国神社のA級戦犯合祀 2005.8.1 北京放送BBS「アサヒビールへの公開質問書」   前回、靖国神社の設立目的を記しましたが、その目的はある時点で変質し、今日問題 になっているA級戦犯の問題を招いたようです。今回はそうした経緯などを明らかにした いと思います。   靖国神社設立の当初の目的は「私心なき忠誠心を持って、家を忘れ 身を投げ捨てて 名誉の戦死を遂げた大き高き勲功」を顕彰することにあったのですが、ある時点からは合 祀する範囲を広げ、戦死者以外の者も祀るようになりました。   その典型例がA級戦犯の合祀です。かれらは戦死者ではなく、極東国際軍事裁判、い わゆる東京裁判で処刑された者や受刑中に死んだ者などです。   かれらを、靖国神社の設立目的からはずれて祀ることは多分に政治的な意味あいが濃 いのですが、それだけに靖国神社も14人のA級戦犯を合祀することに当初は慎重でした。 そうした経緯を高橋哲哉氏はこう記しました。        --------------------   戦後、靖国神社への合祀は、厚生省が遺族援護法などを適用できる「公務死」として 認定した人々の名簿を靖国神社に渡し、靖国神社がそれを基にして行なってきた(この厚 生省と靖国神社の連携自体、政教分離を定めた日本国憲法に違反する疑いが濃いと考えら れる)。   厚生省は、1966年の段階で、すでにA級戦犯の祭神名表(ママ)を靖国神社に送って いたことが明らかになっている。   靖国神社側もB・C級戦犯と同じく、A級戦犯を「昭和殉難者」として合祀する方針 だったが、神社側にも「14人に対する国民感情を考えて、時期を選ぶべきという意見」 (藤田勝重権宮司)があったので、合祀が見送られてきて、1978年になってようやく合祀 されたという経緯があった。   このA級戦犯合祀は、ただちには表沙汰にはならず、翌年4月19日の朝日新聞による 報道で公になった。当日の朝日新聞を見るときわめて大きく扱われており、国内でもこれ は「戦争肯定につながる」から問題だ、という批判がすぐ出たことが分かる(注1)」        --------------------   靖国神社が十年以上も見送ってきたA級戦犯の合祀を1978年になって実現したのは、 神社側に一大方針転換があり、政治路線を鮮明にした結果とみられます。   靖国神社の政治主張は、同神社のホームページに書かれた下記の文章に集約されるの ではないかと思われます。        -------------------- 2、東京裁判(極東国際軍事裁判)は、国際法を無視した不当な裁判であったこと。 3、 サンフランシスコ対日平和条約 第11条中の「受諾」の意味は、敗戦国としてやむなく刑 の執行を約束したにすぎず、東京裁判そのものを認めたのではないこと(注2)。        --------------------   どうやら、靖国神社はA級戦犯を裁いた東京裁判を認めない立場のようです。なお、 念のために書くと、靖国神社は私的な宗教法人のひとつに過ぎないので、その神社がどの ような政治信条を持ち、誰を祀ろうがもちろん神社の自由です。   問題なのは、神社周辺にうごめく人々です。たとえば厚生省です。高橋氏は、「厚生 省と靖国神社の連携自体、政教分離を定めた日本国憲法に違反する疑いが濃い」と指摘し ましたが、厚生省が同神社に祀るべき祭神名票までつくり、それを神社に送っていたとい うのは驚きです。これは靖国神社側も積極的にみとめており、こう記しました。        --------------------   厚生省は昭和31年、「靖国神社合祀事務に関する協力について」という通達を出して、 都道府県が御祭神の選考を行うこととなった。そして、厚生省と都道府県が選考した御祭 神を「御祭神名票」というカードに記入して靖国神社に送り、それに基づいて、靖国神社 は御祭神を合祀する。   戦後は、こういう一種の「官民一体の共同作業」によって、靖国神社の合祀がなされ てきたのです。  ・・・   A級戦犯については、昭和41(1966)年2月に「祭神名票」が神社に送られました。刑死 した方7名と、未決で巣鴨収監中に亡くなった方と受刑中に亡くなった方7名の計14名 です。ただ、その頃ちょうど、靖国神社の国家護持の問題が盛んに議論されていた頃であっ たことも配慮してでしょう、すぐには合祀されなかった。   ようやく昭和46年になって崇敬者総代会で合祀が了承されますが、合祀が承認され ても直ちには合祀せず、結局、昭和53年の秋季例大祭の前日の霊璽奉安祭で合祀されると いうことになり、翌54年4月19日、そのことが新聞報道によって明らかになり、国民の 知るところとなった(注2)。        --------------------   政教分離の原則はどこへやら、厚生省が靖国神社の祭神名票まで作成していたのは、 明らかな憲法違反ではないでしょうか。戦前は海軍や陸軍が国家神道の中心である靖国神 社を主管して祭神名などを決定していましたが、敗戦により軍隊が解体されたのちは、そ うした役割を厚生省が引き継いだかにみえます。   さらに問題なのは、A級戦犯を祀り、東京裁判そのものに異をとなえている神社に首 相が繰りかえし参拝しているという事実ではないでしょうか。   これでは、日本は過去の侵略戦争を反省するどころか、実はその侵略戦争を正当化し ていくのではないだろうかという疑念が生まれて当然です。そのような配慮からか、天皇 すら1978年のA級戦犯合祀を機に靖国参拝を中断したままでした。   そうした政治的配慮を首相や閣僚なども当然考慮すべきです。日本と事情は違うので しょうが、もしドイツの首相や閣僚がヒットラーの墓などを公然と参拝したらどのような 事態になるでしょうか。周辺諸国のみならず、ドイツ国内でも総スカンをくらうことで しょう。   ドイツと事情はことなっても、小泉首相の靖国参拝はドイツ同様、外交問題であると ともに内政問題でもあります。現在、靖国参拝はとかく外交問題ばかりがクローズアップ されがちですが、この問題を全体的に理解するためには内政問題の視点も欠かせません。   それを同志社大学の村田晃嗣氏はこう語りました。        --------------------   靖国問題は外交問題ではなく内政問題だ、との反論もあろう。内政問題と見ても、二 つの疑問が浮かぶ。   第一に「A級戦犯」の政治責任である。東京裁判の正当性や彼らの対外的な戦争責任 については、確かに多分に議論の余地がある。だが、結果として負けたからではなく、初 めから勝算のない戦争に導いた点で、「A級戦犯」の多くは、国民に対して政治的責任を もつのではないだろうか。   法的責任とは別に、指導者は没後も国民に対して政治的責任を負うものだと、一国の 最高指導者たる首相は考えないのであろうか。   過去も現在も外の指導者の政治的責任を軽視する指導者は、自らのそれを直視できな い。一般国民や一国会議員の参拝と、首相の参拝とは質的に異なろう。   第二に特定の宗教法人とは別に、国としての追悼施設が必要ではあるまいか・・・そ うした施設なら、首相のみならず天皇も、さらには外国の元首も公式に訪問できる。一般 国民もいつでも足を運べる。   首相の靖国参拝は個人の良心の問題であるとともに、外交問題であり内政問題である。 一国の最高指導者としての総合的で大局的かつ未来志向の判断が求められる(注3)。        --------------------   日本はA級戦犯の責任追及を外国にまかせたまま、みずからはそれをないがしろにし たうえ、ドイツのように学校教育の場でファッシストたちの罪を教えることもしませんで した。日本国はA級戦犯の罪を不問に付しているかのようです。   もしそうした作業をきちんとおこなっていたなら、A級戦犯の合祀問題、ひいては外 交問題はおそらく起こらなかったのではないでしょうか。ましてやアサヒビールの不買運 動も起きなかったことでしょう。 (注1)高橋哲哉『靖国問題』筑摩新書,2005,P65 (注2)<靖国神社ホームページ、資料> (注3)村田晃嗣「開かれた追悼施設が必要」朝日新聞,2005.7.30


    首相の靖国参拝と外交戦略 2005.8.7 北京放送BBS「アサヒビールへの公開質問書」   近藤 竜さん、 >A級戦犯に関して、中国が意見を言う資格はないと思慮します。   サンフランシスコ講和条約における中国の立場がどうあれ、中国などがA級戦犯につ いて意見をいうのは当然のことではないでしょうか。   日本はA級戦犯である東条英機首相の指揮下、中国で「奪いつくし、殺しつくし、焼 きつくす」三光作戦を繰りひろげたり、南京では一般市民を大量虐殺したり、女性を強姦 するなどの蛮行を繰りかえしたのですが(注1)、甚大な被害をこうむった中国などがA級 戦犯の結果責任を批判したり、追求するのは当たり前ではないでしょうか。   ただし、これはさらなる謝罪を求めるものではありません。本心は、謝罪はもういい から、謝罪の気持ちを態度で示してほしいというのが中国や韓国などの願望です。   そうした願望に対する意図せぬ回答のひとつが、A級戦犯も祀る靖国神社への首相参 拝であるなら、アジア諸国が神経過敏になるのは当然ではないでしょうか。   シンガポールのリー首相は、靖国参拝について「悪い記憶を思い起こさせる。シンガ ポール人を含む多くの人にとって、靖国参拝は日本が戦時中に悪い事をしたという責任を 受け入れていないことの表明、と受け取れる(注2)」と語りました。   至極もっともです。このリー首相発言はかなり注目されたようで、日本国際問題研究 所のドゥジャリク研究員は発言の影響をこう論評しました。        --------------------   シンガポールのリー・シェンロン首相の発言は注目に値する。シンガポールは米国と 親密な関係にあり、反日ではないが、同首相は日本に対して批判的であった。   東南アジア諸国と日本の緊張関係は明らかに日本外交を不利にすると同時に、中国に とって好ましい状況を作り出すことになるのだ(注3)。        --------------------   アジアの人々の神経をことさら逆なでするような小泉首相の靖国参拝や発言が日本軍 による蛮行の記憶を呼びさまし、日本は「戦時中に悪い事をしたという責任を受け入れて いない」という疑念や怒りをみずから招いているのではないでしょうか。   それが日本の外交にどれだけマイナスであり、中国をどれだけ利しているのか、ドゥ ジャリク研究員はこう分析しました。        --------------------   実は、中国は小泉首相に靖国神社に参拝し続けて欲しいと考えているかもしれない。 首相の靖国参拝はアジアでの中国の立場を強め、日本の立場を弱めている。それを胡錦 涛・国家主席はひそかに歓迎しているのかもしれないのだ。   なぜ靖国問題は中国の国益につながるのか・・・私の個人的な見解を述べてみたい。   第一に、韓国に日本は敵対国だと思わせることになるからだ。中国にとっては親日で はなく、親中の韓国が必要である。中国は、お互いに日本の侵略の犠牲者であるとの立場 を取ることで、反日をテーマに韓国と協調関係を強化することができる。   第二に、小泉首相の靖国参拝と発言は、アジアでの日本の立場を傷つけた。シンガ ポールのリー・シェンロン首相の発言は注目に値する。  ・・・(前掲)・・・。   第三に、歴史問題が香港にまで波及したことだ。香港には言論の自由があり、イン ターネットを無検閲で利用できる社会だ。反日感情は香港を中国寄りにする一方、日本は 中国に影響を与えるルートを失うことになる。   第四に、中国はプロパガンダ活動を通じて、米国においても日本が否定的に映るよう 靖国問題を利用することができる。特に米国社会でも高い成功を収めている韓国系や中国 系米国人の恨みをかうことになりかねない(注3)。        --------------------   小泉首相の靖国参拝により得るもの、失うもの、そうした判断は、これまで小泉首相 に首相経験者をはじめ各界各層の人たちがアドバイスを繰りかえしたので、小泉首相はそ れを百も承知していることでしょう。   20年前、中曽根康弘・元首相は中国の要請を受け入れ、ついに持論の靖国参拝を中止 しました。この時の判断には中曽根氏なりの外交判断や戦略があったようです。   その時の官房長官であった後藤田正晴氏は内政干渉問題について「靖国に中国がとや かく言うのは内政干渉だ、けしからんというのは間違いだ」としたうえで、現在の外交に ついてこう論評しました。        --------------------   外交とは、日本の中長期の国の姿を描きながら、計算のうえにも計算し、戦略的な判 断をすべきものだ。   一番避けなければならないのは行き当たりばったりの外交だ。だが、最近の日本の外 交には戦略性が欠けていると思う(注4)。        --------------------   言葉で戦略をもちだすのは簡単ですが、実際にはどのような戦略がベストなのか、そ れを見きわめることは容易ではありません。ドゥジャリク研究員はドイツの例をひいて戦 略をこう語りました。        --------------------   日本の本当の政策目標は、東京裁判の公平性や教科書の内容についての議論に勝つこ とではない。日本は歴史問題を戦略的に扱うことによって、中国に外交的敗北を喫するこ とを避け、逆に自国の立場を強化すべきだ。   この点、ドイツの例が示唆に富む。ドイツは半世紀以上もの間、謝罪し、賠償金を支 払い、そして近隣諸国を脅かすような戦争にかかわる政府の活動を禁止し続けている。   この結果、より強大になり、ナチに殺害された国民の遺骨が無数に埋まるポーランド や、ガス室で死んだ親類が数多くいるイスラエルでも高い評価を受ける国となった。   レバノンでイスラエル人が誘拐された時、イスラエルはドイツに解放交渉を依頼した。 ナチが残虐の限りを尽くした旧ユーゴスラビアでもドイツ軍兵士は歓迎され、ドイツの外 交官は米国における自国の国益に役に立つ在米ユダヤ人組織との建設的関係を築き上げて いる。   日本も合理的な分析に基づいた政策をとれば、アジア、そして世界における地位を強 化することができるだろう(注3)。        --------------------   現在、すべての問題で意固地になっている小泉首相ですが、靖国問題などで戦略的判 断なしに態度をあいまいにし、いつまでも解決を保留すれば、日本は失うものがますます 増えていきそうです。   靖国解決への試案として、小泉首相は「誰もがわだかまりなく参拝できる新たな施設 を検討する(注5)」として、2001年に金大中・韓国大統領(当時)へ約束しましたが、 その約束もはたせないままでいるようです。迷走の感があります。   かつて日本と同じように残虐行為を繰りかえしたドイツですが、周辺諸国の理解を得 ることに努力した結果、かつての被害国からも全面的に信頼されるような大国に蘇ったよ うです。そのようにして国際的な信頼をかちえた国こそ、国連の安保理常任理事国として ふさわしいのではないでしょうか。 (注1)半月城通信<南京虐殺60周年(5),捕虜の処置> (注2)靖国参拝「周辺国の視点を」 シンガポール・リー首相 (注3)朝日新聞<首相の靖国参拝>「中国の外交利する結果に」2005.7.30 (注4)朝日新聞<後藤田正晴さんに聞く>「首相の靖国参拝 説明がつかない」2005.7.13 (注5)朝日新聞<金大中氏、北朝鮮の核実験「ない」 靖国の戦犯合祀批判>2005.5.24  (金大中氏は)日韓関係では、靖国問題について、「日本の(小泉)首相が01年、  『誰もがわだかまりなく参拝できる新たな施設を検討する』と約束した」と述べ、  国立追悼施設の建設へ向けた論議が棚上げになっている現状に不満を示した。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    靖国神社と「日本民族の発想」 2005.8.10 メーリングリスト[AML 2936]   半月城です。   [AML 2884]、省港旗兵さん、 >もう、釈迦に説法でしょうが、日本民族の発想は、半月城さん他朝鮮人・中国人 の死生観とちがって、死ねば神様仏様というので、没後も政治責任を負うものだ という考えは不適当じゃないでしょうかね?   小泉首相も「死んでも許さないというのは日本人になじまない」として外国に靖国参 拝への理解を求めました(注1)。また、私も深く考えず、そのような趣旨で 「靖国神社と陵遅処斬」を書きました。   しかし、その後わかったことですが、史実はどうやら違うようです。具体例を示しま す。1868年(明治元年)、天皇の軍隊に刃向かった会津藩などの「賊軍」死者を官軍は「神 様 仏様」扱いするどころか、憎しみのあまり、その死体に手を触れたりすることすら禁 止し、もしそれを破る者がいれば厳罰に処するという、むごい仕打ちをしていたようでし た。それを高橋哲哉氏はこう記しました。        --------------------   会津藩側 戦死者三千人の遺体は、新政府軍によって埋葬を禁じられた。会津藩士・ 町野主水による「明治戊辰 殉難者之霊 奉祀の由来」には、こう書かれている。(「西 軍」とあるのは新政府軍、「東軍」とあるのは会津藩側)。   時に西軍は、東軍の戦死者全員に対して、絶対に手を触れてはいけない、と号令した。 もし、あえて手を触れる者があれば、その時は厳禁に処するとした。   したがって、だれも東軍戦死者を埋葬しようとする者はなく、死体はみな、狐や狸な どの獣や鳶や鳥などの野鳥に食われ、また、どんどん腐敗して、あまりにもひどい、見る も無残な状態になっていた(注2,P170)。        --------------------   想像するだに目を覆いたくなるような光景です。会津藩の降伏日は9月2日なので、時 節柄さぞかし死体は腐臭がはげしかったことでしょう。死体を遺棄したまま、埋葬を許さ ない行為は日本ではもっともむごい行為ではないでしょうか。   現在の厚生労働省が、戦死者の遺骨を求めて地の果てまで行くことを考えれば、明治 天皇の軍隊がしでかしたむごさの程度が察せられます。   ともあれ、小泉首相の「死んでも許さないというのは日本人になじまない」というの は間違いです。さらに「死ねば神様 仏様」という見方も妥当ではないようです。   なお、会津藩が降伏した9月2日は、靖国神社の前身である東京招魂社の例大祭の日と 定められました。会津での内戦は白虎隊の活躍と相まって、官軍にとっても大きな山だっ たようでした。ちなみに 1969年、兵部省により定められた他の例大祭日はつぎのとおり です。  1月3日  伏見戦争記念日  5月15日 上野戦争記念日  5月18日 函館降伏日   いずれも天皇に敵対する「賊軍」に勝利した日を例大祭にしていることがわかります。 東京招魂社は戦死者を追悼する施設ではなく、天皇に対し忠節をつくした戦死者の「英 霊」を顕彰する施設なので「賊軍」戦死者の霊を祀らないことはいうまでもありません。   しかし「賊軍」を祀らないのは、かならずしも「日本民族の発想」ではないようです。 アメリカの有名なアーリントン墓地も同様です。同墓地は、南北戦争で勝利した北軍の戦 死者を祀るために作られました。   こう書くと、靖国神社には鎮霊社があり、そこでは「靖国神社本殿に祀られていない 方々の御霊と、世界各国すべての戦死者や戦争で亡くなられた方々の霊が祀られています (注3)」とされるで、靖国神社は敵味方の区別なく祀っているのではないかという批判 が聞こえてきそうです。   この鎮霊社がいかなるものか、高橋氏はこう記しました。        --------------------   靖国神社境内の片隅に鎮霊社と称する小さな祠(ほこら)が建てられたのは、1965年 7月である。   それはあたかも、「日本軍 軍人軍属のみの神社ではないか」という批判を受けたと きの逃げ道としてのみ用意されたかのように、訪れる人もいない薄暗い一角にひっそりと 立っている。   靖国神社が国家機関としてその本来の機能を果たした約90年間、鎮霊社は存在して いなかったし、敗戦後も20年間、存在していなかった。それだけでも、鎮霊社が靖国神 社にとって不可欠の一部であると考えることに無理があることは明らかである。   より本質的なことは、鎮霊社が建てられて以後も、靖国神社の「祭神」数は本殿の約 250万柱であって、鎮霊社の「霊」は「祭神」数にはカウントされていないということで ある。   そもそも、「世界各国すべての戦死者や戦争で亡くなられた方々の霊」と言っても、 いつから、どの戦争から含まれるのか分からない。   第一次、第二次世界大戦を合わせただけでも7千万人、19世紀後半から現在まで含め れば総戦死者数は優に一億を超えるだろう。これらの途方もない「祭神」を抱え込むこと に意味があるとは思えない。   鎮霊社に「霊」を「祀る」と言っても、本殿への合祀と同格にはなりえない。もしも 同格であるなら、鎮霊社に本殿の「祭神」を合祀してしまってもよいはずだが、それは絶 対に許されないことだろう。   もしも同格であるなら、逆に、鎮霊社の「霊」のうち名前等が判明しているものを 250万の「祭神」に同じ手続きを踏んで合祀してもよいはずだが、これもまた絶対に許さ れないことだろう。  「世界各国すべての戦死者や戦争で亡くなられた方々の霊」が靖国神社の「祭神」とな り、「英霊」と呼ばれる日が来ることは、およそ考えられないことなのだ。   靖国神社の「祭神」は、単なる「戦争の死者」ではない。日本国家の政治的意志に よって選ばれた特殊な戦死者なのである(注2,P176)。        --------------------   鎮霊社について意地悪な見方をすれば、本殿には天皇に忠節をつくした「第一級」の 英霊を祀り、それ以外の会津藩関係者などの雑霊は「訪れる人もいない薄暗い一角にひっ そり」祀る、それが靖国神社の流儀であるといえそうです。   しかし、そんな鎮霊社に会津藩の遺族などが、はたして参拝するでしょうか? また、 そんな鎮霊社に故人が祀られることを遺族は望むでしょうか? そもそも鎮霊社に故人が 祀られているのかどうか、どう判断するのでしょうか? 本殿の場合は、厚生省などが作 成した霊爾簿を奉納するので、故人が祀られているのかどうかは明瞭です。   このように誰を祀っているのかはっきりしない疑問だらけの鎮霊社であってみれば 「訪れる人もいない」のは半ば当然です。参拝する遺族がほとんどいないのなら、高橋氏 がいうように「批判を受けたときの逃げ道としてのみ用意」されたという主張は至当と思 われます。 (注1)首相の靖国参拝、欧米諸国にも疑問の声   朝日新聞、2003.2.1  小泉首相が来年も靖国神社に参拝するようだ。合祀(ごうし)されているA級戦犯につ いても「死んでも許さないというのは日本人になじまない」と言う。首相は一方で、こう した気持ちを「外国の方には理解してほしい」というだけで、日本外交や国際関係への影 響を考え抜いた気配はない。首相の姿勢への疑問はいま、中韓両国だけでなく、欧米諸国 や首相周辺にも及び始めている。 (注2)高橋哲哉『靖国問題』ちくま新書、2005 (注3)靖国神社ホームページ<境内のご案内、5.鎮霊社> (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    教育か研究か 2005.7.13 北京放送BBS「アサヒビールへの公開質問書」   教育・研究の話はトピずれで、ここの話題にふさわしくないかもしれませんが、やく まるじんさんのたってのお願いなので、あえて答えることにします。   やくまるじんさんは、大学教授は教育・研究者であるが、小学校の教師は教育者であ り研究者ではないとするお考えのようですが、それでは中学、高校教師はいかがですか?   高校教師といえば、古代史の上田正昭氏は高校教師時代の研究が評価され、ついには 京都大学の教授にまでなりました。同じく加藤謙吉氏も高校教師から大学の教官になりま した。これらは氷山の一角で、高校にも研究者はごまんといます。   また、東京都の教育委員会などは教師の研究を後押ししているくらいです。今でも存 続するのかどうか、都立高校では毎月1回は「研究の日」として教師が一日自由に活用す る制度がありました。教師に何らかの自主研究をうながす建前です。教師の資質を高める のに不断の研究は不可欠という趣旨と思われます。   このように、大学というピラミッドの裾野にひろがる高校、中学、小学校は、下にい くにしたがってグラデーションは薄くなっても、それでも研究的な側面は存在するのでは ないでしょうか。   小学校の例でいえば、大学の付属小学校は学校自体が研究の場です。世間の目には、 付属小は有名進学校にしか見えないでしょうが、本来は教育自体を研究する場であり、そ この先生は教育者であり研究者です。   付属小でなくても、少なからぬ小学校教諭は教育法の研究くらいは心がけているので はないでしょうか。また、社会科も担当する先生であれば、時事問題くらいは研究してい るのではないでしょうか。   そうした研究熱心な先生ほど生徒に感化する能力があり、皆から尊敬されます。同時 にそうした先生の発言は社会にも影響力をもつものです。これは、利益を追求する会社員 にはない特性であり、これだけ取りあげても会社員と教師を同列に並べるのは不適当です。   念のためにいえば、そうした先生の発言は高校であれ、小学校であれ所属組織の発言 とはみなされないものです。また、その発言が分不相応なものであれば、当然非難される ことはいうまでもありません。


    竹島(欝陵島)と潜商事件 2005/ 6/26 Yahoo!掲示板「竹島」10013   半月城です。   te2222000さんは『隠州視聴合記』における竹島(欝陵島)や松島(竹島=独島)が 日本領でないという解釈は認めても、それらは異国というより「どこの国にも属さない土 地」というわずかな可能性にこだわりたいのでしょうか。   しかし前にも書きましたが、著者の斉藤豊仙はそれらの島が異国であると考えていた からこそ、『隠州視聴合記』に「村川氏、官より朱印を賜り、大舶を磯竹島へ致す」と記 したのではないでしょうか(注1)。   実際は、大舶が「朱印」をもっていないのにもかかわらず、斉藤が「朱印を賜り」と 記録したのは、異国へ渡る朱印船を連想して書いたとみるのが妥当ではないでしょうか。   またこれも #9769に書きましたが、朱印状ならぬ奉書を発行していた当の幕府も竹島 (欝陵島)を朝鮮領と考えていたことが『通航一覧』から明らかになっています。   Re:9771, tinopureさん >通航一覧が成立した1853年の認識では 「竹島(鬱陵島)を「朝鮮国属島」と明確  に認識していた」でしょうねぇ。   tinopureさんは、『通航一覧』の下記記事が対象としている1620年に、幕府は竹島 (欝陵島)を「朝鮮国属島」とは考えていなかったと思いこみたいのでしょうか?        --------------------  ○貿易(潜商罪科、耶蘇禁制告諭、商賣金高并銅渡方) 元和六庚申年、宗對馬守義成、命によりて、竹島(朝鮮國屬島)に於て潜商のもの二人を 捕へて京師に送る(その罪科いま所見なし)(注2)        --------------------   tinopureさんは本気で私に反論したいのなら、すこしは一次資料に目をとおしてから にしてください。  『通航一覧』は、捕えられたのが対馬の商人・弥左衛門、仁右衛門であることを『対州 編稔略』を引用して明らかにしました。朝鮮との交易を幕府から認められている対馬藩が、 幕命で対馬の商人を「潜商」の罪で捕えたのでした。   これは、弥左衛門親子のことが、かつて日朝関係修復のため来日した朝鮮通信使のほ うから話題に出されただけに、弥左衛門のように正規のルートでない朝鮮貿易は幕府とし ても放っておけなかったとみられます。これはとりもなおさず、幕府および対馬藩が竹島 (欝陵島)を朝鮮領とみていたことを示すものです。   この事件について内藤正中氏はこう解説しました。        --------------------   このことについて中村栄考は、李景稷の『李石門扶桑録』のなかに、関係記事がある ことを明らかにしている。李景稷は1617年(元和3)に、朝鮮王朝から徳川将軍家に対し て、大阪平定を祝賀する使節として派遣された回答兼刷還使の従事官であり、『李石門扶 桑録』とはその時の旅行記である。同書には伏見城で老中 土井利勝に語ったとされる次 の記事がある。  ・・・   ここで「蟻竹島」とあるのは磯竹島の誤記である。秀吉の時代に願い出て磯竹島に 渡って材木などを伐採して持ち帰り、秀吉に大変喜ばれ、磯竹弥左衛門と呼ばれていた。   彼は島に渡ることで生計を立て 毎年貢租を納めていたが、秀吉の死後に弥左衛門も つづいて死去し、いまでは島に往来する者もいなくなったという。このことを聞いた家康 が事実確認を求めたとする内容である。   通信使の従事官として日本に来た李景稷は、伝聞情報として磯竹弥左衛門なる者が秀 吉の時代に鬱陵島に渡って材木などを持ち帰っていたことを知っていたわけで、そのこと は日本側の資料である『対州編稔略』や『通航一覧』に記されている内容にも対応してい る。   通信使従事官から話題にされたからには幕府としても捨てておけず、対馬藩に命じて 調査させ、鬱陵島にいた磯竹弥左衛門ら「潜商二人」を捕えて伏見に送り、幕府の処分を 待ったのである(注3,P34)。        --------------------   朝鮮通信使との会談において、朝鮮通信使から弥左衛門の処罰を要求されたわけでも なかったようですが、幕府がすすんで弥左衛門を捕えたのは、やはり竹島(欝陵島)は朝 鮮領であるという認識が前提になっていたとみられます。   一方、対馬藩の認識は史料のうえでもっとはっきりしています。同藩は、朝鮮政府が 欝陵島に空島政策をしいて4年後の1407年には、早くも朝鮮王朝に対し欝陵島に家臣を率 いて移住したいと申し入れたことが『太宗実録』に記録されました。   これに対して朝鮮王朝は、当時の対馬藩が九州探題と敵対関係にあることを理由にし てことわりました。   しかし、対馬藩は財政の柱になる米がほとんどとれないだけに、通商で生きるしかな く、その後も竹島(欝陵島)に触手をのばし、朝鮮王朝を相手に領有を画策したようでした。 幕府の『通航一覧』巻137にこう記されました。  「慶長十七 壬子年、宗対馬守 義智より朝鮮国 東莱府使に書を贈りて、竹島は日本属 島なるよしを諭(さと)せしに、彼許さず、よて猶 使書往復に及ぶ」   慶長17年というのは慶長19年(1614)、光海君六年の誤りとされていますが、対馬藩 の画策に対し、朝鮮王朝は断固とした態度で拒絶しました。その回答書を内藤氏はこう要 約しました。        --------------------  (磯竹島は)慶尚道と江原道の海上にある朝鮮の鬱陵島のことであり、『東国輿地勝 覧』にも掲載されており、いまは荒廃しているが他国人に占拠される理由はない。   日本と朝鮮との境界は明確になっており、日本人が朝鮮に往来できるのは対馬を経由 する一路だけであり、それ以外の来航は海賊と見なすということは、すでに約定した通り である(注3,P32)。        --------------------   結局、対馬藩の画策はとおらなかったのですが、この画策は対馬藩が弥左衛門を捕え たわずか6年前なので、潜商事件当時、対馬藩は竹島(欝陵島)が朝鮮領であることを確 実に認識していたとみられます。   その認識がそのまま幕府の認識になっていたのか、幕府は弥左衛門を潜商の罪で捕え たものとみられます。 (注1)『隠州視聴合記』(一部,1178kB) (注2)『通航一覧』巻129 (注3)竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000 (注4)『通航一覧』巻137 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    『隠州視聴合記』の最新解釈 2005/ 6/19 Yahoo!掲示板「竹島」#9947   半月城です。   日韓間で論争になった『隠州視聴合記』おける「此州」の解釈について研究者はどう 見ているのか紹介します。なお、『隠州視聴合記』の影印は(注1)を参照してください。   te2222000さん、Re:9789 >しかし、私自身は隠州視聴合紀には「此二島」という書き方で二つの島をひとまとめに  した記述があることや、日本政府もかつてこの考えを支持したことなどから、全く疑問  に思っておりません。   たしかに日本政府は、56年「『隠州視聴合記』(1667年)も、松島(今日の竹島)お よび竹島(欝陵島)をもって日本の北西部の限界と見ており(注2)」と解釈して韓国政 府に回答しました。これに韓国政府はこう反論しました。        --------------------   また、日本側は自己の主張を有力にするために『隠州視聴合記』を引用したが、その 引用は大きな誤読に起因するのであり、もう一度その原文を精読する必要がある。  ・・・   ここにいわゆる松島はすなわち獨島、竹島は欝陵島をさすのであり、この二島から高 麗(韓国)本土を望見する距離関係がちょうど雲州から隠州を望見するがごとくであり、 そうであるから日本の西北部は此州を限界とするというのである。これを日本側は誤読し、 前二島を日本の西北部の限界としたことは誤りである(注2)。        --------------------   韓国は日本に対し強い調子で「誤読」とか「誤り」と指摘しましたが、日本が回答書 でそれに反論しなかったのは韓国の主張を暗に認めたことを意味します。すなわち、松島、 竹島が日本の北西部という日本政府の解釈は間違いだったということを暗示します。   それに符合するかのように、最近、日本政府はホームページにおいて「固有領土」の 主張に私的な大谷家文書を引用しても、半ば公的な『隠州視聴合記』は引用しませんでし た(注3)。   もし『隠州視聴合記』で日本の限界を松島、竹島と解釈しうるなら、これほど日本に 有利な切り札はないのに、あえてそうしなかったのは、そうできなかった事情があったに 違いありません。これは『大日本史』の解釈にもつながるとみられます。   これまで『隠州視聴合記』の全文を詳細に分析して「此州」の解釈を客観的に考察し た研究者はいなかったのですが、ここに紹介する池内敏氏がはじめてその検討をおこない ました。   同氏は、まず『隠州視聴合記』「国代記」の文章構成上で日本政府の解釈は無理だと いうことをこう記しました。        --------------------  「国代記」は概ね(おおむね)三つの内容から構成される。「隠州在北海中」から「然 則日本之乾之地、以此州為限矣」までが隠岐国の地理的特性を述べた部分、・・・までが 隠岐国に賦課された貢納物(物産と言い換えうるかもしれない)について述べた部分、 ・・・までが隠岐国の歴史(源義親から京極氏に到る隠岐国を支配した武将の変遷)である。  ・・・  (3)そうであるならば則ち、日本の北西の地はこの州をもって限りとす。  ・・・   右に見るように、「国代記」冒頭の地理的特性を述べた部分は、隠岐国の構成につい て述べた部分(1)、隠岐国を基点にして四方位に何があるかを述べた部分(2)、(2)を踏ま えて日本(の本土)と隠岐国との位置関係を述べた部分(3)、の三つの内容から構成される ことが明瞭である。   先述したように、「国代記」は、国単位で見た隠岐国の特性を記したものであり、地 理・貢納・歴史の三部構成をとる。   右に整理した(3)の部分は、次の項目(貢納)に移行する直前にあって、隠岐国の国 単位での地理的特性を述べるに際して締まりをつける部分にあたっている。   こうした点に鑑みて資料を率直に解釈しようとすれば、(3)にある「此州」が何を 指しているかは自ずから明瞭であり、議論の生じようはずもない(注4,P149)。        --------------------   池内氏は『隠州視聴合記』の文脈からすれば、議論するまでもなく日本の乾(北西) の地は明確に「隠州」であると考察しました。   しかし「溺れる者はワラをもつかむ」という諺もありますが、「日本の固有領土」説 にこだわりすぎると、時として我田引水的解釈をするエセ学者が出てくるものです。田川 孝三氏はこう記しました。        --------------------   竹島の地は、是より高麗を見ること 恰(あたか)も雲州より隠州を見るが如くであ る。上記の如くであるから、すなわち、日本の乾の方の限界は此の州(州はシマの意であ る)なのであると釈読しなければならぬ。故に従前の諸書にも地図にも、この意味の如く 解して書して来ているのである(注5)。        --------------------   この説は見るからに根拠薄弱であり、検討する価値も疑問ですが、それでも池内氏は まじめに次のように批判しました。        --------------------   この史料解釈は、「高麗を見るに雲州より隠州を見るが如し、然らば則ち、日本の乾 の地は、此州を以て限りとなすなり」の「高麗を見る」位置について、「この二島(鬱陵 島と竹島/獨島ー池内注)から高麗(韓国)本土を望見する」とした韓国政府見解の誤読 に対し、「鬱陵島(竹島)から見て」と訂正するものである。   しかしながら、「然則」で挟まれた前後だけを抜きだして読んだために「此州」の主 語が「見高麗」の主語と一致すると錯覚し、ために「州」を「島」と読み替えざるをえな くなったのである。   ところで右に引用した文中で田川のいう「従前の諸書」「地図」とは「隠岐国古記」 と長久保赤水「日本輿地路程全図」(そのなかの竹島傍注)のことである。   これらは確かに竹島(鬱陵島)から朝鮮半島が見えると記されている。しかし、その ことは、「竹島(鬱陵島)と高麗」「出雲と隠岐」それぞれが互いに視認できる位置関係 にあることを示しているだけであって、竹島(鬱陵島)が日本領だなどとはどこにも書い ていない。   したがって「すなわち、日本の乾の方の限界は此の州(州はシマの意である)なので あると釈読しなければならぬ」などというのは願望をそのまま決意表明したに過ぎないの である。  「州」に「島」の意味があるのは一般論としてはそのとおりである。しかし田川は、 「隠州視聴合紀」中に数多くある「州」のうち右の部分だけは「島」と解さねばならない ことについて、何らの客観的検討もしておらず、これでは論として成り立ちようがない (注4,P158)。        --------------------   なかなか手厳しい批判です。その批判の裏返しとして池内氏は『隠州視聴合紀』にお ける「州」や「島」の用法を徹底的に調べあげました。そのうえで下記のような結論をだ しました。文中で「A」とあるのは問題の「然則日本之乾之地、以此州為限矣」をさしま す。        --------------------   以上、「隠州視聴合紀」における「州」および「島(嶋)」の用例をすべて検討した 結果、「隠州視聴合紀」における「州」の用例66例のうち、保留してあるAを除く65 例が「国」の意で使用されていることが分かった。   また先行する固有名詞を受けて、指示詞「此」を含む語によって当該の島を再び指示 しようとする際には「此島(嶋)」という語を使用していることも指摘した。これは換言 すれば、先行する固有島名を再び指示する際に「此州」という語を使用しないということ である。   したがって、これらを踏まえるならば、先に保留しておいたAも、「そうであるなら ば則ち、日本の北西の地は隠岐州(隠岐国)をもって限りとす」としか読みようがない。   それは文章構成の上からもそのようにしか読めないし、用語法上の特徴からもそのよ うにしか読めない。にもかかわらず、Aにおける「此州」だけは「島(嶋)の意で解釈し なければならない、とするのはあまりにも無理な話であり、恣意的との謗りを免れえない (注4,P154)。        --------------------   このように池内氏は、用語法上からも此州は隠州であると断言し、田川氏の見解を恣 意的であると批判しました。   恣意的な解釈は下條正男氏も負けないようです。下條氏は愼鏞廈氏を批判して「『隠 州視聴合記』から自説に都合のよい個所だけを抜きだして解釈し、「国代記」の文章全体 を読んでいなかった」と書きましたが、ご自身はどうなのか、それが問題です。池内氏は、 細部は割愛しますが、下條氏をこう批判しました。        --------------------   下條正男説は結局のところ「見高麗 如自雲州望隠岐、然則日本之乾地 以此州為限 矣」だけを抜きだして読み、誤解した、田川孝三の同じ轍を踏んでいる。   先述したように「見高麗 如自雲州望隠岐」のどこにも竹島(鬱陵島)が日本領とは 書いていないばかりか、「隠州視聴合記」すべてを精読してもそのような記述は出てこな い。   にもかかわらず、「『高麗を見ること雲州の隠州を望むがごとし』は、高麗(朝鮮) を見ている位置は当然日本領と認識しているわけで、竹島、鬱陵島、隠岐島の中で雲州 (島根)から隠岐島を見るように朝鮮が見えるのは、鬱陵島だけしかない(注6)」とか 「日本領から高麗(朝鮮)が望めるのは、「国代記」の中では鬱陵島だけである(注7)」 などとするのは、竹島(鬱陵島)を日本領とする思いこみである。   そうした思いこみの補強説明として、「『隠州視聴合記』が書かれた当時の出雲藩に は、竹島(鬱陵島)を日本領として認識するだけの事情があった(注7)」という。その 主たる論拠は、米子の大谷・村川両家が竹島渡海を繰り返していた事実が『隠州視聴合 記』に記載されているというところに求められている。   たしかに、大谷・村川両家は、「竹島渡海免許」を受けて、年に一度、竹島(鬱陵 島)へ渡海し、数ヶ月同島に滞留しながら漁業活動を行った。大谷・村川両家は、竹島 (鬱陵島)および松島(竹島/独島)を将軍家から拝領したと述べているから、これを もって日本領と認識したと考えがちである。   しかしながら、「竹島渡海免許」は、大谷・村川両家が同業の競合者を排除するため に、旗本 阿部家を介して得た「渡海免許」であり、したがって竹島(鬱陵島)へ大谷・ 村川家および同家に雇われた者以外は渡海できなかった。   また竹島(鬱陵島)へは毎年一度渡海したのみであって、漁期が終われば鳥取藩領に 戻ったから、誰もそこに居住しなかった。こうした状態は、客観的にみたときに「日本 領」であったとは言いがたい(注4,P159)。        --------------------   池内氏は、田川氏や下條氏は「竹島(欝陵島)を日本領」とする思いこみから『隠州 視聴合記』を誤読したと解釈していますが、あるいは両氏は「竹島(欝陵島)を日本領」 にしたいという願望が先にたっていたのかも知れません。   「竹島(欝陵島)を日本領」とする認識は『隠州視聴合記』にないばかりか、鳥取藩 や幕府すらそのような認識はなかったことを池内氏はこうつづけました。        --------------------   また、少し後のこととなるが、元禄八年(1695)12月、鳥取藩 江戸藩邸は老中 阿部 正武の問いに対し「竹島(鬱陵島)は因幡・伯耆附属にては無御座候」と述べた。   これを受けて翌年正月九日、対馬藩 国元家老に対し、「(竹島は)因幡・伯耆江附 属と申ニ而も無之」「日本人居住候か、此方江取候島に候ハ、今更遣しかたき事候得共、 左様之証拠も無之」などと述べた(注8)。   すなわち鳥取藩は、竹島(鬱陵島)を鳥取藩領としたことがないと述べ、幕府も自分 の領土としたことがないと明言しているのである。   大谷・村川家が竹島(鬱陵島)で排他的に漁業活動をしてきただけであって「日本 領」ではなく、そのようにも認識されてはいなかった(注4,P159)。        --------------------   池内氏は、さらに内藤正中氏の説などもすべてを検討し、結論として『隠州視聴合 記』は「竹島/独島の帰属を示す歴史的根拠として使用することは日韓いずれの側にとっ ても適当ではなく、そうした議論の現場から退くべきものなのである」と記しました。   結局『隠州視聴合記』の解釈は、日本の限界は隠州であり、竹島(欝陵島)と松島 (竹島=独島)は異国の地になるという結論になるようです。日本政府はそれを承知して か、「誤読」という韓国側のきびしい批判にダンマリを決めこんでいるようです。 (注1)『隠州視聴合記』(一部,1178kB) (注2)愼鏞廈『獨島領有權資料の探求』第4巻(韓国語)2001,P330,P378 (注3)外務省「竹島問題」http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/index.html (注4)「前近代竹島の歴史学的研究序説」『青丘学術論集』第25集,2005,P145 (2260kB) (注5)田川孝三「竹島領有に関する歴史的考察」『東洋文庫書報20』1988,P42 (注6)下條正男「竹島問題考」『現代コリア』361,1996,P69 (注7)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春文庫,2004 (注8)池内敏「竹島一件の再検討」『名古屋大学文学部研究論集』史学47,2001,P19 (2595kB) (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    新発見史料「朝鮮舟 着岸一巻之覚書」 2005.7.18 Yahoo!掲示板「竹島」#10182   半月城です。   韓国で英雄とされる安龍福は、竹島(欝陵島)ではち合わせした村川家により元禄6 (1693)年に米子へ連行されましたが、その三年後、今度はみずからの足で伯耆(ほうき) へやって来ました。   その時の詳細な記録はほとんどありません。これは、鳥取藩がルールにない過分な対 応をしたため、意図的に詳細な記録を残さなかったとみられます。   その時の核心の記録はなくても、その予備段階の公式記録が隠岐で発見されました。 前回簡単にふれた「朝鮮舟 着岸一巻之覚書」ですが、史料の空白を埋める貴重な発見で した。   この資料を具体的に紹介する前に、安龍福が隠州から鳥取藩へ到着するまでの簡単な 経過をみることにします。内藤正中氏はこう記しました。        --------------------   五月二〇日に、朝鮮船一艘が隠岐に着岸する。代官所で取調べたところ、朝鮮から三 二艘で竹島へ渡海、そのなかから一艘が伯耆州(鳥取藩主のこと)に訴えたいために来た ことが明らかになり、その旨を隠岐の代官 後藤角右衛門の手代から鳥取藩に連絡があっ た。   鳥取藩の『御在府日記』元禄九年六月十三日の条には、幕府の大久保加賀守への届出 として、次のような鳥取藩の「口上書」がある。  ・・・   隠岐では鳥取藩からの回答が遅延しているといって朝鮮船を引き止めていたが、待ち きれなくなった安龍福ら一行は無断で出港して伯耆をめざし、六月四日に伯耆国赤崎灘に 着岸する(注1,P98)。        --------------------   今回、隠岐で発見された覚書は『御在府日記』の空白を一部埋めるものであり、安龍 福の日本での足跡を知るうえで貴重な史料です。   安龍福の行動としては、朝鮮の備辺司における安龍福の供述が『粛宗実録』などに 載っているのですが、なにしろ安の供述は手柄話、自慢話のたぐいであり、そこから真実 を知るのは容易ではありません。   その点、今回発見された覚書は、隠岐の官吏が安龍福の言動を客観的に記録している だけに資料価値が高い史料です。   覚書には「伯耆守様へ訴訟在之参候」と書かれてあり、やはり鳥取藩主に対する訴訟 が渡航目的であることが裏づけられました。さらに重要な要点を山陰中央新報(2005.5.17) はこう記しました。        --------------------   覚書で安は江原道の鬱陵島は日本で言う竹島であり、所持した朝鮮八道の地図に記さ れていると説明。さらに松島(現・竹島)は同じく江原道の子山(そうさん)と呼ぶ島で あり、これも地図に記されているとして、朝鮮領であるとの認識を示している。   これまでの史料では、安の言う「子山」(または「于山島」)がどの島を指すのかあ いまいだったが、「竹島と朝鮮之間三十里 竹島と松島之間五十里」と位置関係を説明し ている記述などから、現・竹島を指しているとみられる。   覚書の末尾には京畿道など「朝鮮之八道」が記され、江原道には注釈として「此道ノ 中ニ竹島松島有之」と書かれ、松島(現・竹島)も朝鮮領と認識していることがうかがえ る。        --------------------   この覚書について、下條正男氏は「領土問題については言及していない」と山陰中央 新報(2005.5.17)に語りましたが、いつもながらの強弁にはあきれるばかりです。   余談はそこそこにして、覚書で核心になる部分を紹介します。原文は文末に記します が、まずは現代語に仮訳してみました。        -------------------- 「元禄九丙子年 朝鮮舟着岸一巻之覚書」 朝鮮船が着岸した一巻の覚書   隠岐国、島後   船の長さ、上口 5.4m, 下口 3.6m 1.朝鮮の舟一隻、幅は中ほどの上口で 2.4m, 深さ 1.26m  ・・・ 1.安龍福がいうには、竹島を竹島という。朝鮮の江原道 東莱府に欝陵島という島があ  り、これを竹の島というとか言っている。すなわち、朝鮮八道の地図に記されているの  を持っている。 1.松島は、江原道のうち子山という島があるが、これを松島というそうである。これも  朝鮮八道の地図に記されているという。 1.今年3月18日、朝鮮国を朝食前に出港、同日の夕方竹島へ着いて夕食を食べたと言っ  ている。 1.舟の数は13隻で、人数は1隻に9人、10人、11人、12-3人、15人ほど乗り、竹島まで来  たとのこと。人数の総計を聞いたが、答えなかった。 1.13隻のうち、12隻は竹島にてワカメやアワビを採ったり竹を伐るという。今、こうし  たことを行なっている。今年、アワビは多くないと言っている。 1.安龍福がいうには、自分が乗ってきた船の11人は伯耆へ来て、鳥取藩の伯耆守様へ  「おことわりの儀」があってやって来たという。順風満帆で隠岐へ寄ったという。伯耆  へ渡海する予定である。   5月15日、竹島を出港、同じ日に松島へ着く。16日に松島を出て18日の朝、隠岐の西 村の磯へ着く。20日、大久村へ入港という。   西村の磯は荒磯なので、18日、中村へ入港。この〓湊は初めてなので、翌19日〓所を 出て、その晩は大久村のかよい浦という所に船をつないだ。20日、大久村へ来たという。 1.竹島と朝鮮の間は 120km, 竹島と松島の間は200km あるとのこと。 1.安龍福とトリベの二人は、あしかけ4年前の1693年の夏、竹島で伯耆国の舟に連行さ  れて来た。そのトリベは今回も連れてきたが、竹島に残したという。 1.朝鮮を出る時、米は五斗三升入〓十俵を積んできたが、13隻の者たちに給したので、  今は飯米が乏しくなったとのこと。 1.伯耆国での用事が終わったら竹島へ戻り、12隻の舟に荷物を積み替え、6,7月ころ帰  国し、殿に報告する予定とのこと。 1.竹島は江原道の東莱府にて、朝鮮国王の名はクモシ〓〓、天下の名前を主上、東莱府  殿の名は一道方伯、同所の支配人の役職名は東莱府使というとのこと。 1.以前、すなわち 1693年11月に日本で受けとった書付を一冊出した。これを書き写した。  ・・・ 朝鮮の八道  京畿道  江原道 この道に竹島、松島がある  全羅道  忠清道  平安道  咸鏡道  黄海道  慶尚道        --------------------   この覚書をみると、安龍福は竹島(欝陵島)や松島(竹島=独島)の位置をきちんと 把握していたことがわかります。下條正男氏すら「安龍福が、于山島が松島(竹島)であ ると確信的に思いこんで述べていたことがよく分かる文書」と語り、それまでの自説を覆 さざるを得なかったほどでした。   その一方、安龍福は松島(竹島=独島)が江原道に所属するということを隠岐の官吏 に力説していたようすがうかがえます。それを鳥取藩の伯耆守に訴えるのが安龍福の来日 の主目的であったことが明らかです。   また、隠岐国も鳥取藩にそのように伝えていたことが『御在府日記』から明らかです。 それを意訳すると「隠岐国より申しきたるところによると、安龍福一行は竹島之義につい て御訴訟に参ったと申している」と書かれていました。   ただし、『御在府日記』はここから先をとぼけて事件を記しました。『御在府日記』 は「様子をみるように平井金左衛門に命じたところ、通訳もなく埒があかない」などと記 しましたが、これはウソであることが判明しています。   安龍福は、隠岐では官吏と十分に意思疎通ができたのに、鳥取藩の官吏と意思疎通が できないはずはありません。そもそも、かれは前回日本へ連行されたときは「和語訳者」 とか「通詞」すなわち通訳として日本側の史料に記録されたくらいでしたので、日本語が 通じないはずはありません。   さらに『御在府日記』は「あんひちゃん(安龍福)たちは竹島訴訟のようにも聞こえ ないと金左衛門からうけたまっている」と記しましたが、ここにも鳥取藩の作為があるよ うです。そうした作為の背景を内藤正中氏はこう記しました。        --------------------   予め隠岐国代官から連絡があったように、「竹島の義に付 御訴訟に参り候」という のであれば、米子城主の荒尾大和が指示したといっているように、長崎奉行所に送ればよ いのである。   強制的に送還しないまでも、相手にしないで追い返すこともあったはずである。その いずれもとらず、八日間も青谷に滞在させ、村民との交流を許したのは何故なのか。   さらに城下鳥取に迎えて、後述のような厚遇を与えたのは何故なのかなど、鳥取藩が とった対応には疑問が多いのである。   そこで考えられることは、安同知(安龍福)が「三品堂上」を名乗ったことに対して、 鳥取藩は朝鮮からの外交使節として、最大限の敬意を払ったのではないかということであ る。   したがって前述した米子城主 荒尾大和が、外国人からの訴訟は長崎でしか取りあげ ないと、伯耆 着船の当初に説諭したとかいわれている原則性は、鳥取藩では完全に忘れ 去られていたというべきであろう(注1,P102)。        --------------------   鳥取藩は、このようにイレギュラーな対応をしたので、その痕跡を史料に残さないよ うにして『御在府日記』が書かれたのではないかと思われます。   一方、韓国の史料『粛宗実録』などに記された安龍福の供述は矛盾の多いことが前か ら指摘されていましたが、それが今回の史料で改めて浮き彫りになりました。内藤氏はそ うした違いをこう記しました。        -------------------- 『実録』供述との差異  『実録』での供述との差異は、鳥取城下に入る時の服装でも見られる。安龍福がほか一 人とともにかごに乗っていたのは事実であるが、青帖裏の官服を着て革の靴をはいていた というのは、事実ではないと思われる。   隠岐での船内所有道具の調査では、そうした衣類を所持していたという記録はない。 安龍福の服装は「冠ノヤウナル黒キ笠」「アサキ木綿の上着」で、腰に札をつけていた、 とだけある。   また安龍福は鬱陵島で日本人に出会った時、「鬱陵島は我が境域である。何故倭人が 越境侵犯しているのか」と大声で怒鳴り、さらに松島へ行き「松島は子山島、そこもわが 国のものだ」と称し、隠岐まで追いかけたと供述している。しかしこの一年は、一月に出 された幕府の渡海禁止令のため、日本人は誰も渡海していなかったのであるから、この言 動はすべて作り話となる(注2)。        --------------------   古来、自慢話にはホラがつきものですが、備辺司における安龍福の供述は、話が微に 入り細に入るほどますます信用ならないようです。しかし、供述に登場する「書契」の話 だけは注目に値します。   安龍福は1693年に日本へ連行されたとき、欝陵島と于山島が朝鮮領であることを認め させた書契を江戸幕府からもらったが、対馬藩で没収されたと供述しました。これは韓国 ではそのまま信じる人が多いのですが、日本では疑問視されていました。   その供述とどう関係するのか、今回発見された覚書では、安龍福が1693年に日本で受 けとった「書付」を持参し、それを隠岐の官吏が写しとったと記録しました。これについ て内藤氏はこう記しました。        --------------------   注目すべきは五月二十日の取り調べで、「癸酉十一月 日本にて下され候物共書付の 帳壱冊出し申し候、則ち之を写し申し候」とある個所で、癸酉の年にあたる元禄六年に、 竹島から米子に連行された時に日本でもらった書き付けを持ってきた、そしてその書き付 けは在番所が写しとったと記してあることである。   その書き付けが発見されるとよいのであるが、日本でもらった書き付けは帰国時に対 馬藩で没収されたと供述しているので、ここでの書き付けとはどのようなものであったか が気にかかる(注2)。        --------------------   書き付けのことが覚書に書かれているので、『実録』にいう「書契」は安龍福のまっ たくの作り話でもないようです。安龍福は、幕府でなくても鳥取藩あたりから何らかの重 要な「書付」をもらっていた可能性が高くなりました。   もしそれが発見されたなら、日韓間で第一級の史料になりそうです。ひょっとしたら、 隠岐のどこぞやの土蔵に眠っているかも知れません。        -------------------- ○資料原文(〓は不明字) 元禄九丙子年 朝鮮舟 着岸一巻之覚書 http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/an_yongbok.pdf 朝鮮舟 着岸一巻之覚書   隠岐國嶋後   長 上口三丈 下口貳丈 一 朝鮮舟壱艘 幅中に而上口壱丈貳尺 深サ四尺貳寸  ・・・ 一 安龍福申候ハ竹嶋ヲ竹嶋と申候 朝鮮国江原道東莱府ノ内ニ欝陵嶋と申嶋御座候 是  ヲ竹ノ嶋と申由申候 則 八道ノ圖ニ記之 所持仕候 一 松嶋ハ右道之内 子山(ソウサン)と申嶋御座候 是ヲ松嶋と申由 是も八道之圖ニ記  申候 一 當子三月十八日朝鮮國朝飯後ニ出船 同日竹嶋ヘ着夕 夕飯給申候由候 一 舟数十三艘ニ人壱艘ニ 九人 十人 十壱人 十貳三人 十五人程宛乗リ竹嶋迄参候由 人  数之〓(1)問候 而も一〓(2)不申候  (〓(1)は高?、〓(2)は圓?、桶野俊晴さんの解読による)) 一 右十三艘之内十貳艘ハ竹嶋ニ而 若布鮑ヲ取 竹ヲ伐リ申候 此事ヲ只今仕候 當年者  鮑多も無之由申候 一 安龍福申候ハ私乗参候船ニハ拾壱人伯州江参取鳥(ママ)伯耆守様江御断之儀在之候  越申候 順風惣布候而當地ヘ寄申候  順次第ニ伯州江渡海可仕候 五月十五日竹嶋出船 同日松嶋江着 同十六日松嶋ヲ出十八  日之朝 隠岐嶋之内西村之磯ヘ着 同廿日ニ大久村江入津仕由申候  西村之磯ハあら磯ニ而御座候ニ付 同日中村江入津是〓湊初て故 翌十九日〓(3)所出  候而同日晩ニ大久村之内かよい浦と申所ニ船懸リ仕 廿日ニ大久村江参懸リ居申候  (〓(3)は波?、同上) 一 竹嶋と朝鮮之間三十里 竹嶋と松嶋之間五十里在之由申候 一 安龍福ととりべ貳人四年己前酉夏竹嶋ニ而伯州之舟ニ被連まいり候 其とりべも此度  召連参竹嶋ニ残置申候 一 朝鮮出船之節 米五斗三升入〓十俵積参候得共 十三艘之者共給申候ニ付 只今者飯米貧  ク成候由申候 一 伯州用事仕〓竹嶋江戻リ 十貳艘之舟ニ荷物ヲ積み改仕 六七月之此帰国仕リ殿江も運  上ヲ上ケ申筈之由申候 一 竹嶋ハ江原道東莱府之内ニ而朝鮮國王之御名クモシ〓〓天下ノ名 主上(チュシャン)  東莱府殿ノ名 一道方伯(イルトハンバイ)同所支配人之名 東莱府使ト申候由申候 一 同年以前癸酉十一月日本ニ而 被下候物共書付之帳 冊出シ申候 則写之申候  ・・・ 朝鮮之八道  京畿道(キョクイドウ)  江原(カンオン)道 此道ノ中ニ竹嶋松嶋有之  全羅(チェンナ)道  忠清(チ・・・)道  平安(ペアン)道  咸鏡(ハンギョン)道  黄海(ハンバヘ)道  慶尚(ケムシャン)道        -------------------- (注1)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000 (注2)内藤正中「隠岐の安龍福ー村上家「覚書」を通じてー」山陰中央新報 2005.6.4 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    明治政府、竹島=独島の版図外確認 2005/ 6/12 Yahoo!掲示板「竹島」#9811 ***様、半月城です。   明治政府が竹島=独島を日本領外と判断した資料はいろいろありすぎて、戸惑うこと が多いものです。かつての私もそうでした。また、私のホームページではそれらがきちん と整理されてないので、この際、改めてそれらの資料や経緯を整理してみることにします。   なお、これまで私は論文などで、<明治政府の竹島=独島「放棄」>と書いてきたの ですが(注1)、おっしゃるとおり明治初期の日本政府は、外務省といい、内務省や太政 官といい、竹島=独島を「本邦の版図」と考えたことも、また領有を意図したこともな かったので「放棄」という語はたしかに不適当です。これを「日本領外の確認」と訂正し ます。   竹島=独島を日本領外とする太政官指令の発端は、内務省地理寮係官の伺書からでし た。1876(明治9)年、地理寮の田尻らは島根県を巡回したおりに竹島(欝陵島)の情報に 接し、同県の地籍編制係へ竹島を照会しました。        -------------------- 内務省の地理寮から島根県宛の伺い書(口語訳、注2)  (島根県伺い書の添付文書・乙第28号)   ご管轄である隠岐(おき)国のかなたに、従来、竹島と呼ばれる孤島があると聞いて おります。もとより旧鳥取藩の商船が往復した船路もあります。伺い書のおもむきは、口 頭で調査依頼およびご協議を致しました。   加えるに、地籍編製に関する地方官心得書第五条の趣旨もありますが、なお念のため ご協議をお願いします。以上の件、五条に照らして、古い記録や古地図などを調べていた だき、内務省本省へお伺いを立てていただきたく、ここにご照会致します。   明治九年十月五日 地理寮十二等出仕 田尻賢信            地理大属     杦山栄蔵  島根縣地籍編製係御中        --------------------   これをうけて、島根県令(代理)は竹島(欝陵島)へ渡海していた大谷家の記録など を添え、同年10月16日、内務卿あてに「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を提出しまし た。        --------------------  「日本海内にある竹島外一島の地籍編纂方法に関する伺い書」                        (口語訳、注2)   貴省(内務省)の地理寮職員が地籍編纂確認のため本県を巡回したおり、日本海内に ある竹島調査の件で別紙乙第28号のような照会がありました。   この島は永禄年間(1558-1569)に発見されたそうですが、旧鳥取藩のとき、元和4年 (1618)から元禄8年(1695)までおよそ78年間、同藩領内伯耆(ほうき)国の米子町の商 人・大谷九右衛門と村川市兵衛が江戸幕府の許可を得て、毎年渡海し、島の動植物を持ち 帰って内地で売却していました。これについては確証があります。現在まで古書や古い書 状が伝えられていますので、別紙のように由来の概略や図面をそえ、とりあえず申しあげ ます。   今回、全島を実検のうえ、詳細をそえて記載すべきところですが、もとより本県の管 轄に確定したものでもなく、また、北海百余里を隔て船路もはっきりせず、ふつうの帆船 ではよく往復できないので、上記の大谷、村川家の伝記など詳細を追って申し上げます。   しかして大勢を推察するに、管内の隠岐国の北西に位置し山陰一帯の西部に付属する とみられるなら本県の国図に記載し地籍に編纂しますが、この件はどのように取りはから うべきか御指令をお伺いします。   明治九年十月十六日 島根県参事 境二郎   内務卿 大久保利通殿        --------------------   ここで注目されるのは、島根県が地理寮の照会にはなかった「外一島」をつけ加えて 内務省に伺書を提出したことです。「竹島外一島」について、「竹島日本領派」の塚本氏 はこう記しました。        --------------------   この“竹島”は鬱陵島のことであり“ほか一島”は同じく江戸時代に渡海した松島す なわち今日の竹島のことである。島根県が両島を地籍に編入する方向で指示を仰いだのは、 “竹島”については、現地(大谷家)では元禄9年の渡海禁止(前記3)を、朝鮮から “竹島”(鬱陵島)の日本領であることを認める証文を取り付けた上での措置であったと 認識していたこと(上記『公文録』収録の文書、また『竹島渡海由来記抜書控』)による と考えられ、“ほか一島”について地籍を編制するなら松島も忘れてはならないというよ うな考えであったと思われる(注4)。        --------------------   島根県がわざわざ「外一島」をわざわざつけ加えたのは、古来の資料に「竹嶋近辺松 嶋」とか「竹嶋之内松嶋」とか記されているので、松島は竹島と一対であるという認識が 強かったためとみられます。   そもそも松島(竹島=独島)はその名前に反して松の木はおろか木が一本も生えてい ないにもかかわらず「松島」とよばれたのは、竹島と対をなすという発想だったとみられ ます。   なお、「外一島」が松島(竹島=独島)であることは、島根県伺書に添付された下記 の文書「由来の概略」から明白です。        -------------------- 島根県「由来の概略」の現代語訳(注5)   磯竹島、あるいは竹島と称する。隠岐国の北西120里(480km)ばかりのところにあ る。周囲およそ10里(40km)である。山は峻険で平地はすくない。川は3条ある。また滝 がある。しかし、谷は深く、うっそうと樹木や竹が繁り、水源を知ることはできない。  ・・・   次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠 岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカ か)を産する。   永禄年間(1558-1569)に伯耆(ほうき)国・会見郡米子町の商人、大屋(のちに大谷 と改名)甚吉が航海で越後より帰るさい、熱帯性低気圧に遭遇し、この地(竹島=欝陵 島)に漂流した。ついに全島を巡視したところ、すこぶる魚貝に富んでいるのを知り、帰 国の日、検使の安倍四郎五郎 <時に幕名により米子城に居る>にそのおもむきを申し出、 以後、渡海を申請した。安倍氏が江戸に紹介して、許可書を得た。じつに元和4年(1618) 5月16日である。        --------------------   余談ですが、下條正男氏はこの資料の存在を知ってか知らずか<「竹島外一島」の 「一島」が今日の竹島を指すのかそうでないのか、判然としない(注3)>などと途方もな いことを記しました。   その理由は、単に<今日の竹島を日本領とする「書留」がすでにいくつもあったから である>とするのみで、上記の資料は不都合でもあるのか引用すらしませんでした。同氏 のいう「我田引水的」文献引用の見本です。資料を取捨選択すれば、いかなる結論も可能 です。   ただし、そうして得られた結論は砂上の楼閣であることはいうまでもありません。ひ とたび大波がくるともろく崩れさります。   さて、本論に戻りますが、島根県が提出した付属文書は下記のとおりです。 島根県「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」の付属文書一覧 (1).第28号「地理寮の伺い書」(上記) (2).島根県「由来の概略」(上記) (3).幕府「渡海許可書」、原文は(注6) (4).島根県「渡海禁制いきさつ」(注7) (5).幕府「渡海禁制令」(注8) (6).島根県「あとがき」(注9) (7).大谷家「図面」(注14)   これらは『公文録』内務省之部一(注10)でみることができます。 この伺書を受けた内務省は独自に元禄時代の「竹島一件」に関する江戸幕府の記録などを 調べ、竹島外一島を本邦に関係ないと判断しました。   そのうえ「版図之取捨ハ重大之事件」との認識から右大臣に下記の伺書を、翌年3月 に提出しました。        -------------------- 日本海内 竹島外一島の地籍編纂方法の伺い書(口語訳)  竹島所轄の件について、島根縣から別紙の伺いがあったので調査したところ、該当の島 は、元禄五年に朝鮮人が入島して以来、別紙書類に抜き書きしたように、元禄九年正月、 第一号 旧政府の評議の主旨や、第二号 訳官への達し書き、第三号 当該国(朝鮮)から の書簡、第四号 本邦回答および口上書などからして、元禄12年にそれぞれ書簡の往来 が終わり、本邦は関係ないと聞いていますが、版図の取捨は重大事件なので別紙書類を添 付し、念のためにこの件をお伺いします。  明治十年三月十七日      内務卿 大久保利通代理                 内務少輔 前島密 右大臣 岩倉具視殿        --------------------   このときの付属文書は下記のとおりです。  内務省「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」付属文書一覧 (1)島根県「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」本文(上記)及び付属文書一式 (2)第一号「旧政府評議の主旨」(注11) (3)第二号「訳官への達し書き」 (4)第三号「当該国(朝鮮)からの書簡」 (5)第四号「本邦回答および口上書」   右大臣に提出された伺書は太政官により審査されました。太政官とは 1868年(慶応4) 政体書により設置された明治政府の最高官庁で、翌年官制改革により民部省以下6省を管 轄しました。今日の内閣に当ります。   太政官調査局では、内務省の見解を認める形で太政官の下記指令案が作成されました。        --------------------      明治十年三月二十日 大臣                    本局  参議   卿輔 別紙内務省伺 日本海内竹嶋外一嶋 地籍編纂之件 右ハ元禄五年 朝鮮人入嶋以来 旧政府 該國ト往復之末 遂ニ本邦関係無之相聞候段 申立候上ハ伺之趣御聞置 左之通 御指令相成 可然哉 此段相伺候也     御指令按   (伺之趣)   書面竹島外一嶋之義 本邦関係無之義ト可相心得事     (明治十年三月二十九日) (現代語訳)   別紙、内務省からの伺い書「日本海内竹島外一島 地籍編纂」の件ですが、これは元 禄五年、朝鮮人が入島して以来、旧政府(江戸幕府)が朝鮮とやりとりした末、ついに本 邦とは関係ないと聞いているという申し立てに関して、伺い書のおもむきをお聞きになり、 下記のように御指令をくだされるよう、この段をお伺いします。    御指令案  伺い書のおもむき、書面「竹島外一島」の件は、本邦と関係ないと心得るべきこと。        --------------------   指令案は稟議(りんぎ)に回され、右大臣・岩倉具視、参議・大隈重信、同じく寺島 宗則、大木喬任らにより承認、捺印されました(注12)。この決定は内務省に伝えられまし たが、内容が重大だけに『太政類典』も摘採され、文書「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト 定ム(注13)」として記録されました。   これらの文書は、国立公文書館に下記のように所蔵されています。 1.『公文録』内務省之部 一 2.『太政類典』「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」   これらの文書で私が入手したものは下記に掲載しました。  <半月城通信「日本の古文書、資料」> http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/shiryou/shisho_jpn/jmokuji.html   これらの資料から明らかにように、明治時代の最高国家機関たる太政官は内務省が上 申したとおり、松島、竹島をセットにする理解にもとづいて、両島を日本領でないと公的 に宣言したのでした。 (注1)半月城「日本の竹島=独島放棄と領土編入」   『姜徳相先生 古希・退職記念、日朝関係史論集』新幹社、2003 (注2)原文は<島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(1)>   原本の筆写影印文は(注12)参照、(注13)の資料は本文のみでタイトル等は省略 (注3)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書,2004,P123 (注4)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号,1996,P5 (注5)「由来の概略」の全文は <島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2)>   原本の筆写影印文は(注12)、(注13)参照 (注6)幕府「渡海許可書」の口語訳、原文は(注5)に同じ   伯耆国の米子から竹島へ先年船で渡りたいとのこと、そして今度はその ように渡海したいとの件に関し、米子町人の村川市兵衛・大屋甚吉からの申し 出をお上に達し聞いたところ、異議がないとの仰せがあり、渡海の件はその 意がかなえられるとの仰せつけがあったので謹んで申し上げる。  五月十六日        而永井信濃守 尚政               井上主計頭 正就               土井大炊頭 利勝               酒井雅楽頭 忠世 松平新太郎殿 <島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2)>   原本の筆写影印文は(注12)参照、(注13)の資料は本文のみでタイトル等は省略 (注7)島根県「渡海禁制のいきさつ」   当時、米子同町に村川市兵衛なる者がいた。大屋氏と同様に阿部四郎五郎氏と懇意 だったので、両家に竹島(欝陵島)への渡海許可がだされた。されど、竹島の発見は大屋 氏である。両家はこれより毎年継続して渡海し、漁労をおこなった。   幕府は、この遠隔の地が本邦の版図に入ると称して船旗などをあたえたが、とくに両 家を幕府に出仕、謁見させ、しばしば葵(あおい)の御紋がはいった服をあたえた。その 後、大屋甚吉は同島で亡くなった。その墓は今もあるという。   元禄7年(1694)になり、島に上陸した朝鮮人が若干いた。かれらの感情はおしはかれ ない。そのうえ、こちらの船の人数がすくなかったので帰り、お上にこれを訴えた。   翌年、幕府の許可を得て武器を積み、島に渡航したところ、朝鮮人はおそれて逃げた。 残ったふたり、アヒチヤン(安龍福)とトラヱイを捕らえ縛って帰った。命令により、江 戸幕府に知らせ朝鮮に送還した。   同年、朝鮮から竹島は朝鮮に接近しているので、朝鮮に属しているとの申し出がしき りにあった。幕府で協議して、日本管内たるべき証書があれば、以後は朝鮮に漁労の権利 をあたえるべきとの命があった。朝鮮はこれを奉じた。これにより元禄9年(1696)正月、 竹島への渡海を禁制とした。   <島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(3)>   http://www.han.org/a/half-moon/hm082.html#No.566 (注8)幕府「渡海禁制令」   先年、松平新太郎が因幡(いなば)国と伯耆(ほうき)国を治めていたとき、伺いの あった伯耆国米子の町人、村川市兵衛・大屋甚吉が竹島へ渡海し、今に至るまで漁をして いたが、今後、竹島へ渡海の件は禁制を申しつけるべきむねが(徳川綱吉から)仰せつけ られたとの由。そのおもむきは保持されるべきである。謹んで申し上げる。   元禄9年(1696)1月28日   土屋相模守                  戸田山城守                  安部豊後守                  大久保加賀守 <島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(3)> (注9)島根県「あとがき」   元和4年丁巳(1618)より元禄八年乙亥(1695)にいたるまで、およそ78年である。   [ちなみにいう、隠岐国穏地郡南方村字福浦の弁財天女社は、当時、大谷 村川両家が 海波の平穏祈願のために建立する所である。今に至って、本社修繕を加える際は、必ずこ れを両家に告げる]   当時、伝えられるように柳沢氏の変があり、幕府は外事をかえりみることができず、 ついにここにいたったという。今、大谷家に伝わる享保年間(1716-30)の製図を縮写して 添える。なお、両家所蔵の古文書などは後日、謄写されるのを待って全備する。 <島根県から内務省宛「竹島外一島」伺い書(2)> (注10)『公文録』内務省之部 一 (2052kB) (注11)内務省「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」附属文書 (2)第一号「旧政府評議の主旨」現代語訳 「一号」   元禄九年(1696)正月二十八日   天龍院(宗義真)公が江戸城へおいとま乞いで登城されたおり、白書院の間で老中4人 が列座した席にて、(老中)戸田山城守様が竹島(欝陵島)の件で覚書一通を渡され、先 年来、伯耆米子の町人ふたりが竹島に行き漁をしたところ、朝鮮人もその島へ行き漁をし ており、日本人と入りまじるのは無益なので、今後は米子の町人の渡海を差し止めるとの 件を仰せつかった。   同年、これより前の正月九日、三沢吉左右衛門方より(対馬藩の)直右衛門に用があ るのでまかり出るようにとのことだったので参上したところ、(老中の)阿部豊後守様が 逢われ、じかに仰せられたのは、竹島の件で中間(ちゅうげん)衆の出羽守殿、右京大夫 殿にも内談を遂げられた。元来、竹島に関してはよくわからない。これまで伯耆から出か けて漁をして来たいきさつから松平伯耆守殿に尋ねたところ、因幡や伯耆に附属するとい うものでもないという。先年、米子町人ふたりが渡海したいとの申し出があったので、そ のときの領主・松平新太郎殿より案内があったように以前は渡海するよう新太郎殿へ奉書 をもって申しわたした。そのときは酒井雅楽頭殿 土井大炊頭殿 井上主計頭殿 永井信濃 守殿が連判したので、考えてみればおおかた台徳院(徳川秀忠)様の時代だったように思う。 先年といっても、年数は不明である。以上のような首尾で渡海し、漁をしたまでであって、 朝鮮の島を取ろうというものでもない。島には日本人は居住していない。島への道のりを たずねると、伯耆から160里(640km)ほど、朝鮮へは40里(160km)ほどあるので、した がって朝鮮国の蔚陵島であるようだ。それとともに、日本人が居住しているか、こちらへ 取るべき島であれば、いまさら渡しがたいのだが、そのような証拠もなく、こちらからは かまえて言いださないようにしたらいかがであろうか。または、対馬守から蔚陵島につい て書いた件は、その語を削除するようにとの返書を送られ、返事がないうちに対馬守が死 去したため、その返書は朝鮮に差し置かれたとのことである。それなら、刑部(宗義真) 殿より蔚陵島の件はもう言うべきではないか、またはともかく竹島の件についてひととお り刑部殿から書簡にても申し入れるべきとお考えなのか。以上の三通りの了見を考慮され、 よりくわしく仰せ聞かされたい。アワビ取りに行ったまでで無益な島であるところに、こ の件がこじれて年来の通交が絶えてもどんなものだろうか。ご威光あるいは武威をもって 談判におよぶのも筋違いといえるので事をすすめるわけにはいかない。   竹島の件は元はたしかにそうではない。例年は来なかった異国人が渡海するので、か さねて渡海しないように申し渡すよう(老中)土屋相模守殿から申し渡された。元バツと した事である。無益なことに重くかかわってもいかがなものか。宗刑部殿は律儀であり、 始めにこのように申し置いたところ、いまさらこのようにはいえないとの遠慮もあり得る と考えられる。そのことは少しもかまわない。我らがよきように取りはからう間、お考え のように遠慮なく仰せ聞かされるべきである。その方たちも知っており遠慮なく申すべき である。同じことを幾度もいうのはくどいようだが、異国へ申し入れることだけに、たび たび知ってのとおり申したが幾度と仰せ聞かせるようにとのことなのは存じている。こと は繁雑なので、すこし筋道をたてたうえでお上に申しあげるべきと考える。   以上のように申し渡した口上のおもむきは覚えのために書付を残すようにとのことで、 覚書をただちに渡されたので受取って拝見したところ、ただいまの意向があらまし書かれ ているように思える。そうであれば、以後日本人は竹島へ渡海してはいけないとの意向か と伺ったところ、いかにもそのとおりである、かさねて日本人は渡海しないようにとの意 向がなされたとのことなので、竹島の件はお返しなされるのでもないのであるのかと申 し上げたところ、その段もそのとおりである、元から取っていた島ではないので、返すと いう筋でもないのである。こちらからはかまえて言わない以前のことである。こちらより 間違ってもいわないことである。   以上のように仰せつかったのは趣とすこし食いちがっているが、ことを重くいうより は、すこしは食いちがっていても軽くすむようにいうのがよく、このあたりを承知される ようにとのことなので、じっくり落ち着いていうのである。帰って刑部大輔に申し聞かせ るよう申し上げて退座した。 <内務省「竹島外一島」伺い書(2)> (注12)太政官稟議書 (注13)「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」『太政類典』 (注14)追記、<大谷家>図面 http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/map/koubunroku_map.pdf (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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