半月城通信
No.100(2003.12.30)

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  1. 渡来人と言語
  2. 「奈良は韓語か」
  3. 飛鳥文化と東漢
  4. 大酒神社と世阿弥と赤穂浪士
  5. 「関東大震災」80周年記念行事
  6. 竹島=独島年表
  7. 愼鏞廈教授の獨島問答(1)、序説および海洋法


渡来人と言語 2003/11/23 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#8719   半月城です。   RE:8653, blastahffさん >古代朝鮮半島の言語に『韓語』などという現在の韓国語と混同させるような 名称をあえて付け、日本語の起源として位置付けていることに疑問を感じます。   blastahffさんは『日本書紀』にそれほど精通していないのか、日本で 「韓語」という語が古く『日本書紀』に由来し、そこでは「からさえずり」と 読みくだされていることをご存じないようです。   blastahffさんは、そうしたおのれのレベルをかえりみず「言語学をも朝 鮮優越論に利用するコリアン」などと予断に満ちた文を書いているように見受 けられます。   ここで blastahffさんの意識水準にあわせ、あえて「優越論」にふれるな ら、戦時中に皇国史観論の旗手とされた金沢庄三郎すら「上古の漢韓はわが国 から見て先進国であった」と述べました(注1)。   また、天皇も「こうした文化や技術が日本の人々の熱意と、韓国の人々の 友好的態度によって、日本にもたらされたことは幸いなことだったと思います。 日本のその後の発展に大きく寄与したことと思っています」と語りました   このように金沢庄三郎の趣旨に賛成と思われる人は多いのですが、そうし た状況からすると、ここの掲示板で古代の倭韓(から)関係が明らかになれば なるほど、終始「優越論」にこだわる blastahffさんはさぞかし耳のいたいこ とでしょう。それが文面からひしひしと伝わってきます。   まえおきはこれくらいにして本論に入ります。私の書き込み<「奈良」は 朝鮮語か>にたいする疑問のひとつに、飛鳥・奈良時代にほんとうに韓語が話 されていたのかどうかいぶかるむきもおられるようなので、そのあたりの事情 を記したいと思います。   まず、この問題に積極的に発言している人を紹介します。小室直樹氏は 「奈良時代、日本の高官は朝鮮語を自由に話せた」という見出しでこう記しま した。 ーーーーーーーーーーーーーーーー   天智天皇の近江朝では、多くの帰化百済人が、すぐさま、政府高官に任ぜ られたことは、すでに述べた。天智天皇だけが三韓からの帰化人を優遇したの ではない。彼の弟 天武天皇も帰化人を重く用い、多くの新羅 帰化人を政府高 官に任命した。  ・・・   聖徳太子時代に、日本と三韓とがいかに親密であったかということは、 「日本書紀」をよく読んでみると、容易に看取されうることである。日本の高 官が外国の使臣と会うとき、相手が中国(この時は随、のちに唐)だと通訳を つける。それが三韓の使節だと通訳がいらないのである。ということは、日本 の指導者層の人びとは、朝鮮語を自由に話せた、ということである。日本の貴 族にとって朝鮮語とは、ロシア貴族におけるフランス語の位置を占めていたこ とがわかる。   とくに、百済と天智天皇の日本とは仲良しであった。百済が日本の親の国 (クンナラ)であったかどうか、それはわからないが、すくなくとも、一種の 「兄弟の国」であったことはたしかである。天智天皇の詔に、「百済はわが兄 弟の国である。なにがなんでも助けなければならない」とある(注3)。        ーーーーーーーーーーーーーーーーー   この時代、小室氏がいうように隋、唐との交渉には通事(おさ、通訳)が つき、『日本書紀』にはその動向まで伝えられ、たとえば「大唐から・・・通 事の福利は帰らなかった」などと記述されました。   その一方、6,7世紀ころ、三韓諸国などとの外交交渉に通事が登場した 記録は『日本書紀』にほとんどないようです。百済などの諸国と倭との間で外 交使節の往来は頻繁だったのですが、それでも通事に関する記述がほとんどな いところをみると通訳はあまり必要なかったようです。それくらい韓語はヤマ ト朝廷では普及していたとみられます。   そうしたありさまをうなづかせる状況が『日本書紀』にいくつかみられま す。まず、聖徳太子ですが、倭に渡来した高麗(こま=高句麗)の僧・慧慈に 師事したことが『日本書紀』推古3年条(595)に記されました。聖徳太子はも ちろん韓語を理解していたことでしょう。聖徳太子は10人の訴えを聞き分けた と記録されましたが、これはあるいはマルチリンガルのたとえ話だったのかも 知れません。   聖徳太子は、血統的に蘇我氏の血を濃厚に受けついだのですが、多くの学 者が考えるように、蘇我氏が渡来氏族なら、聖徳太子もその係累として韓語に 明るかったと考えられます。ちなみに当時の最高実力者である蘇我馬子も『日 本書紀』敏達13年条によれば、やはり高句麗の僧・恵便を師としました。当然、 韓語に通じていたことでしょう。   マルチリンガルは蘇我氏一門のみならず、他氏族でも同様だったようです。 602年、百済から僧の観勒(かんろく)が渡来しましたが、かれは大伴村主高 聡に天文・遁甲(とんこう)を、山背臣日立に方術を、陽胡史の祖の玉陳に暦 法を教えたとされます。当然、これら氏族の弟子たちは百済語を解していたと 考えられます。   663年、倭と百済復興軍が白村江で大敗し、<百済から逃げてきた鬼室集 斯(きしつしゅうし)はいきなり文部大臣兼大学総長ともいうべき「学識頭」 に補せられている(注4)>とされますが、これも多くの貴族が百済語に通じ ていたのであれば、なんら不思議はないようです。また、鬼室集斯が「大学」 において百済語で講義をしたとしてもなんら支障がなかったと思われます。   しかし、たとえ倭の指導層は韓語を理解できたとしても、それ以外では一 般に韓語はもちろん通用しなかったとみられます。『日本書紀』雄略6年条に は今来の才伎(てひと)の渡来に関連してこんな記述があります。  「天皇は、大伴大連室屋に詔して、東漢直掬(つか)に命じ、新漢(いまき のあや)の陶部の高貴、鞍部の堅貴、画部の因斯羅我、錦部の定安那錦、訳語 (おさ)の卯安那らを上桃原、下桃原、真神原の三か所に移住させた」   この記事自体どこまで信頼できるのかは疑問ですが、ともかく少なくとも 5世紀末の畿内では一般に韓語は通用せず「訳語」つまり通訳が必要だったよ うです。   もう少し時代がくだって八世紀の天平時代になるとどうでしょうか。それ を知る手がかりが少しあります。このころになると、新たに渡来する人はめっ きり少なくなったようですが、それでも貴族の邸宅に新規の渡来人は珍しくな かったようです。たとえば、大伴家には理願という新羅の尼が長いあいだ逗留 したことが万葉集(巻3,461)から知られます。   また、左大臣・長屋王の邸宅には新羅人や、あるいはすでに滅んだ百済の 人や狛(こま)の人がいたことが木簡から判明しています(注5)。なんとも 国際色豊かです。居住目的は明らかでないのですが、長屋王邸宅ではしばしば 漢詩の詩宴が開かれていたのでそれに関係していたのか、あるいは雅楽に関係 していたのかさだかでありません。いずれにしても渡来文化とかかわりがあっ たようです。当時の一般的な渡来人について、奈良女子大学の佐藤宗諄教授は こう述べました。  「八世紀の渡来人というのは僧侶、法律家、それから楽人、医師のような特 殊技術を持っていた人たちがいて、これらの渡来人が最も先進的な文化を日本 へもたらして、そこに天平文化の基礎を支えるようなものがあったと考えられ るわけです(注5)」   長屋王木簡のようにたまたま見つかった資料から渡来人が貴族の家に住ん でいたことが判明したのですが、おそらくこうしたことはもっと一般的であり、 天平時代にいたってもニューカマーの新羅人が貴族の邸宅で居住できるような 言語環境にあったとみられます。   一方、8世紀の言語状況に関連して『続日本紀』天平宝字5年(761)条に はこんなおもしろい記事がありました。  「正月9日、美濃、武蔵二国の少年それぞれ三十人宛に新羅語を習わせた。 新羅を征討するためである(注6)」   新羅の征討と少年たちの新羅語の習得がどう関係するのか理解に苦しむと ころです。軍の指揮官ならともかく、少年たちに新羅語を学習させるのは新羅 にもぐりこむスパイとして活用するためでしょうか?   余談はともかく、当時の政治情勢から新羅語の習得は切実に必要だったよ うでした。そのとき、武蔵、美濃二国が指定されたのはそうした地域に新羅郡 あるいはそれに類似する郡があり、新羅語がある程度通用していたからとみら れます。   武蔵のほうは『続日本紀』天平宝字2年(758)条に「帰化した新羅僧32人、 尼2人、男19人、女21人を、武蔵国の未開発地に移住させた。ここに初めて新 羅郡を設置した」とあるので、これに関係すると思われます。新羅郡はのちに 新座(にいくら)郡あるいは新倉郡などと名前を変えるのですが、現在の新座 市や和光市、朝霞市一帯とみられます。なお、和光市には新倉という地名が現 存します。   一方、美濃のほうは『続日本紀』霊亀元年(715)条に「尾張国の人 外従八 位上 席田君迩近および新羅人 74家を美濃国に貫して、はじめて席田(むしろ だ)郡を建つ」とあります。   といっても、こうした郡の少年たちに新羅語を学習させたのかどうかは疑 問です。というのも、新羅「征討」に新羅郡の人を動員するとは考えにくいた めです。単に新羅語に堪能な人材をもとめて新羅語が通用しそうなそれらの郡 が指定されただけかもしれません。   なお新羅人の移住ですが、上記は単発的なものでなく過去にもしばしばあ ったことが『続日本紀』に記述されています。新羅人以外にも高麗の人、百済 の人などがしばしば各地に配置され、高麗郡や百済郡などが設置されたのです が、今回、そうした詳細は割愛します。 (注1)金沢庄三郎『日鮮同祖論』(復刻版)成甲書房,1978 (注2)<天皇「ゆかり」発言> (注3)小室直樹『韓国の悲劇』光文社,1985 (注4)司馬遼太郎「近江の鬼室集斯」『街道をゆく2、韓のくに紀行』   朝日新聞社、1972 http://www.han.org/a/half-moon/hm097.html#No.710 (注5)佐藤宗諄「渡来人の諸相」『渡来人』大巧社,1997 (注6)宇治谷孟『続日本紀』講談社学術文庫,1992   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


「奈良」は韓語か 2003/11/24 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#8841   奈良の語源が韓語であるという説を補足するなら、これは松岡静雄氏が提 唱してすでに半世紀以上になりますが(注1)、その間、松岡説に異議をとな えている言語学者はいないようです。これに関連して、民俗学者の柳田国男氏 が漢語ではないとしているようですが、韓語との関連については何も語ってい ないようです。その探求は、民俗学者には荷が重いのでしょうか。   ここの会議室の面々は松岡説を否定しようとして躍起になっているようで すが、いまだに異議を唱える言語学者の学説を探しだせないでいるようです。 私もみたことがありません。古代史関連で反対の学説が見当たらないというの はむしろ珍しいといえます。反対の学説がなければ、それはほぼ定説とみて差 しつかえないのではないでしょうか。 <奈良は朝鮮語か>   その一方、中島利一郎氏や水上静夫氏などの研究者も韓語起源説に賛成し ているのはすでに記したとおりです。そうしたことの反映か、奈良の韓語起源 説が若狭の神宮寺のパンフレットにも書かれていたとは意外でした。五木寛之 氏も韓語説をとっているとは耳よりな情報です。 (注1)松岡静雄『日本古語大辞典』刀江書院1929、復刻版1963、東出版1995  ナラ(那良・那羅・奈良) 大和の地名旧都として有名である。崇神紀に軍 兵屯聚して、草木を踏みならした山を、那良山と号(なづ)けたとあるのは信 じるに足らぬ。   ナラは韓語ナラで、国家という意味であるから、上古此(この)地を占拠 したものが負わせた名であろう。此語は用いられたのが、夙(つと)に廃語に なったのか。或は大陸系移住民のみが用いて居たのであろう。 言語学者「松岡静雄」 2003/11/24 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#8855   半月城です。   ysb2054さん、情報をありがとうございます。松岡静雄が柳田国男の弟と は知りませんでした。私も下記のサイトで確認しました。松岡静雄は軍人から 学者になり、古語辞典のみか蘭和辞典、太平洋民族誌まで書いていたとは驚き ました。文武両道の天才であるようです。        -------------------- <柳田國男生家・記念館> ■概要  文化勲章を受章した民俗学者柳田國男は福崎町名誉町民第1号でもあり、國 男の生家である松岡家の兄弟(鼎、泰蔵、國男、静雄、輝夫)はそれぞれの道 で大成し、共に顕彰するために記念館が作られました。  生家は記念館の西隣に移設・保存されており、昭和47年に兵庫県指定民俗文 化財となりました。柳田國男はこの生家を「日本一小さな家」といい、そこか ら民俗学への志も源を発したといってよいと著書『故郷七十年』の中に記して います。 ■松岡 静雄  松岡家の7男。明治11年生れ。海軍兵学校を首席で卒業。日露、日独両戦役 に従軍。軍令部参謀、戦史編集委員長、外国駐在武官等になったが、海軍大佐 で退官し、言語学者となり多くの業績を残した。著書に日本古語大辞典、蘭和 辞典、太平洋民族誌等がある。昭和11年59歳で没。


飛鳥文化と東漢 2003/11/30 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#9086   半月城です。   すこし間があきましたが、東漢のつづきを書くことにします。   崇峻大王を暗殺した東漢(やまとのあや)を単に蘇我氏の「ヒットマン」 であったとする見方もあるようですが、そうした単純な見方では、乙巳の変で 蘇我本宗家が滅んだ後もなお朝廷で実力を発揮した東漢の存在を理解するのは むずかしくなります。   蘇我氏が実力をつけはじめるのは稲目の代からですが、東漢はそれ以前に、 征服王朝とみられる継体大王の時代にはすでに檜隈(ひのくま)を本拠地とし た有力な氏族に成長していたとみられます。   昨年、継体大王陵とされる大阪 今城塚(いましろづか)古墳の埴輪列が 発掘され、大きな話題をよびましたが、このころ東漢はすでに大王家と深いか かわりがありました。  『日本書紀』によれば、継体大王が尾張連草香の娘(目子媛)との間にもう けた皇子は檜隈高田皇子とよばれました。この皇子は、真偽のほどは別にして 『日本書紀』によればのちに宣化天皇となるのですが、宣化大王は別名「檜隈 天皇」ともされました。   そう呼ばれたのは、宮廷を檜隈の廬入野(いおいりの)に構えたからとさ れています。檜隈の地は、『続日本紀』に記された東漢系である坂上家の申し 立てによると東漢氏族が8-9割を占めたとされるほど東漢氏族の強固な根拠 地でした。そこに大王の朝廷がおかれたのは、それだけ東漢の政治力が強固で あったためとみられます。   さらにその政治力は一時的なものではなかったようです。すでに書いたよ うに欽明大王の坂合陵(さかいりょう、571)が築かれたり、その半世紀後の推 古大王時代に、欽明大王の后であり、蘇我稲目の娘である堅塩媛(きたしひ め)の陵が改葬されてそこに合葬(612)されました。さらに天武天皇、持統天 皇も檜隈大内陵に葬られたのは前に書いたとおりです。それのみか、文武天皇 も檜隈安古山陵に葬られたとされたようです。   このように東漢は、蘇我氏と切り離しても朝廷に相当な影響力があったこ とがしられます。しかし、東漢の実力は政治、軍事面だけではありませんでし た。他の分野の活躍もみることにします。   前回紹介したように、平野邦雄氏は「漢氏は飛鳥に新来の仏教文化を創出 した」と述べましたが、東漢は文化や学問、外交、土木建築などの分野などに おいてもその活躍はいちじるしいものがありました。   一例ですが、檜隈坂合陵の改修(620)を行ったさい、東漢一族の坂上直が もっとも大きな柱を立てたので大柱直と称されました。最高の土木技術をもっ ていたとみられます。あるいは倭漢直比羅夫(やまとのあやのあたいひらふ) が大化3年(647)、白雉元年(650)に造京にたずさわったり、倭漢直県(あが た)は造船にたずさわるなど多方面の技術を有していたようでした。   また学問の道ですが、のちの遣隋使や遣唐使の留学生や留学僧には多くの 東漢氏の関係者がいました。教科書によく登場する高向玄理、南淵請安、僧旻 などがそうです。東漢における学問や文筆関係の伝統は古くからあったようで、 『日本書紀』の雄略条には「(大王が)ただ寵愛したのは、史部(ふひと)の 身狭村主青(むさのすぐりあお)、檜隈民使博徳(たみのつかいはかとこ)ら である」と記されました。  「フヒト」はいうまでもなくフミヒト(文人)が縮まったもので、朝廷で文 書関係をあつかった人たちをさしますが、その官職がそのまま姓になりました。 ほとんど東漢や西漢(かわちのあや)などの渡来人がになったとみられ、文、 書(ふみ)氏はここに由来するとされます。   こうした活躍に加えて、なんと言っても特筆すべきは仏教関係です。それ を上田氏はこう記しました。        --------------------   仏師としても東漢氏の人々がすぐれた才能を発揮したことは、飛鳥寺の造 仏にたずさわった「山東漢大費直麻高垢鬼」や同「意等加斯」ら(「元興寺露 盤銘」)あるいは法隆寺広目天像の製作者の一人である山口大口費(注1)な どにもはっきりしている。   この山口氏が東漢氏の一族であることは、『新撰姓氏録』(右京諸蕃)や 「坂上系図」の所伝で推察されよう。画師(えし)のなかにも東漢氏の人々が いる。中宮寺天寿国繍帳の画者「東漢末賢」はその代表的な一人であった。   飛鳥文化をになった仏師でもっとも名高いのは、法隆寺釈迦三尊像の仏師 「司馬鞍首止利」である。いわゆる鞍作鳥(くらつくりとり)がその人であっ た。彼の出自を中国系とする説がすくなくないが、私はつぎの諸点から推して、 彼もまた漢氏とつながりのある仏師ではなかったかと考える(注2)。        --------------------   前回紹介した平野邦雄氏も鞍作を漢氏に吸収された百済の才伎(てひと) とみていますが、馬の鞍を作る才伎がなぜ仏像を作るようになったのか一見ふ しぎです。これについて上田氏はこう記しました。  「鞍部であった達等(たつと)の孫にあたる鳥(止利)が仏師として登場す るその背景には、馬具制作の技術が、造仏に活用され、馬具の制作よりも造仏 の方が重視されるようになってゆく古墳文化から仏教文化への推移を象徴して 興味深い(注2)」   鞍作りの技を仏像作りに応用したのは時流にのった技術の転換だったよう です。仏像の制作といい、飛鳥寺や百済大寺、檜隈寺の建立などに東漢はこと ごとくかかわっているだけに、平野邦雄氏がいうように「仏教文化を創出し た」という賛辞は過言ではないようです。   なお、東漢が本来の馬文化に関係が深かったことは『日本書紀』にもうか がえます。欽明条に檜隈邑の人である東漢氏の一族 川原民直宮が、高台に登 って良馬をみつけ、これを飼育したという物語がのっていますが、これは後世 の所伝である可能性が強いにせよ、東漢と馬との深い関連を示していることだ けは確かなようです。   この伝統は平安時代まで受け継がれたようで、『続日本紀』延暦5年正月 条に「(坂上)苅田麻呂の家柄は代々 弓馬の事を職とし、走る馬から弓を射 ることを得意とした」と書かれました。東漢系の坂上家は流鏑馬(やぶさめ) の伝統をしっかり伝えたようです。   おわりに東漢の語源について書くことにします。平野氏は漢氏の出自を百 済としましたが、漢の語源を安羅加耶とみる学者は多いようです。安羅は安邪 (あや)とも書かれ、漢(あや)と発音が通じます。これを偶然とみる学者も いますが、安羅説は三品彰英氏や上田正昭氏、山尾幸久氏などが賛成していま す。これは、東漢とならぶ西漢(かわちのあや)氏が安羅と関係が深いだけに 一層説得力があります。   その一方で、漢の語源を『坂上系図』や『新撰姓氏録』そのままに後漢と する研究者は最近ではすくないようです。漢氏や秦氏が氏族の出自を朝鮮半島 とせず中国とするのは6世紀後半から芽生えた倭の小中華意識に基づくようで、 加藤謙吉氏はこう記しました。        --------------------   おそらくそれは六世紀後半から七世紀にかけて、中国にならって日本で中 華思想が形成されたことと関係すると思われる。   日本版中華思想とは、具体的には新羅や百済を大和政権に朝貢する「蕃 国」として扱い、被朝貢国たる自国を中国と並ぶ大国と位置づけることによっ て、東アジア世界における大和政権の国際的地位を確保しようとしたものであ り、遣隋使派遣の目的の一つは、そのことを隋帝国に承認させることにあった。   日本の中華思想は律令国家に継承され、令の規定では諸外国はすべて「諸 蕃」とされたが、実際にはそれ以前からの伝統に基づき、唐は「隣国」、新羅 は「蕃国」として区別されていた。   アヤ・ハタの氏名に「漢」・「秦」の字が当用されたのは、中国と朝鮮諸 国を「隣国」と「蕃国」に分けるこの区分観<差別的な思想>が、生じたこと によるのではなかろうか。  『姓氏録』によれば、諸蕃の条に収録される渡来氏族326氏のうち、漢(中 国)出自のものが163氏ともっとも多いが、その大半は朝鮮系から中国系に出 自を改めたものにすぎない。   したがって東・西漢氏や秦氏の場合も同様に考えることができ、朝鮮諸国 に対する「蕃国」意識が形成される過程で、渡来系諸氏のなかでもとくに有力 であったこれらの氏が、いち早く出自を改変し、「漢」「秦」の氏名を用いる ようになったと推察されるのである(注3)。        --------------------  『日本書紀』は天武天皇を神格化する一方で小中華意識をあらわにしたので すが、これに対し『日本書紀』より8年早く成立した(?)とされる『古事 記』のほうは蕃国意識がより少ないようで、上田氏は座談会でこう述べました。        --------------------   『古事記』と『日本書紀』をくらべた場合、『古事記』の方はどちらかと いうと蕃国視は少ないですよね。だから素戔嗚尊(スサノオノミコト)の話に しても、天孫降臨の話にしても、黄金の国であるとか、朝日のたださす国が韓 の国であるとか、率直に書いています。  『日本書紀』の方は素戔嗚尊は新羅の地におりたくないとか、素戔嗚尊の子 供のイタケルが樹種を新羅にうえたんで、持ち帰るというような話にも蕃国意 識が反映されていますね。   八世紀のはじめには、今いわれた古代貴族の蕃国視みたいなものがでてく る(注5)。        --------------------  『古事記』で蕃国意識がより少ないのは、『古事記』を編纂したとされる太 安万侶(おおのやすまろ)の氏族的な背景に由来するところが影響しているの かもしれません。太氏、のちの多(おおの)氏は百済の王子と姻戚関係あった ようで上田正昭氏はこう記しました。  「太(おおの)氏は壬申の乱で活躍した多臣品治の多氏であり、品治の父が 多臣蒋敷である。『日本書紀』の天智天皇即位前紀をみると、百済王子豊璋に 多臣蒋敷の妹が嫁している。つまり太氏の家系もまた百済渡来の人々とのかか わりが密接であった(注2)」   百済の渡来人と直接の姻戚関係にあるなら、百済など異国に蕃国意識がよ り少ないのは当然かもしれません。山尾幸久氏は6世紀の渡来人こそ「飛鳥文 化の創造主体である(注4)」とのべましたが、太安万侶は渡来人の学問や文 化水準をありのままに見ていたのでしょう。 (注1)原著注:「同光背銘文」、『日本書紀』白雉元年是歳条の漢山口直大   口と同一人物と考えられる (注2)上田正昭『古代の道教と朝鮮文化』人文書院,1989 (注3)加藤謙吉『大和の豪族と渡来人』吉川弘文館,2002 (注4)山尾幸久「蘇我氏と東漢氏」『歴史読本』新人物往来社,1984 (注5)上田正昭他『日本の朝鮮文化』中公文庫,1982  ニニギノミコトは筑紫の日向の高千穂の霊峰に天孫降臨する際、こう語りま した。 「此地は韓国(からくに)に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直さす国、 夕日の日照る国なり。かれ、此地はいと吉(よ)き地」   厳密にいうと、朝日がたださす国は筑紫となっていますが、そこは韓国に 向かっていることもあって、とてもよい地であると『古事記』はみています。 したがって韓国を好意的に見ていることには変わりありません。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


大酒神社と世阿弥と赤穂浪士 2003/12/14 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#9240   半月城です。   今日は、おなじみ赤穂(あこう)浪士らよる吉良邸へ討ち入り三百周年記 念日になります。つい先日、元禄時代に刷られた討ち入りの浮世絵が立命館大 で公開されるなど、いまでも討ち入りをめぐる話題はつきないようです。そこ で今回は「義挙」にちなんで播磨(はりま)の赤穂にまつわる話を書きたいと 思います。   赤穂浪士は江戸へ出立する前に、おそらく仇討ちの悲願成就を祈願してど こかの神社に参拝したことでしょう。赤穂の神社ですが、明治時代の『赤穂郡 神社明細帳』によると、231社のうち実に21社が大避(おおさけ)神社とな っています。   比率にすると1割弱ですが、大避神社は古いだけに、その比率は時代がさ かのぼればさかのぼるほど高くなり、存在感がますます強かったと思われます。 大避神社は渡来系とみられますが、千数百年もの長い歳月にわたり赤穂の精神 風土にそれなりの影響を与えつづけてきたことでしょう。   大避神社の根本とされるのは京都の大酒(おおさけ)神社のようですが、 この神社は秦氏と密接な関係があります。大酒神社は、もとは国宝1号の弥勒 菩薩で名高い広隆寺境内にありました。元の名は平安時代の『延喜式』によれ ば「元は大辟神(おおさけのかみ)」とされました。   大酒神社とはいっても、秦都理の松尾大社とちがって、その名に反し私の 好きなお酒とは直接の関係がないようです。大酒神社の起源は広隆寺よりさら に古いようで、井上満郎氏はこう記しました。        -------------------- 京都の大酒神社   大避(おおさけ)神社は秦氏の氏神である。日本列島に渡来し、各地にこ の氏族は居住を広げていくが、そのプロセスで神社も広がっていった。   秦氏が一族としての集団性を保ち、精神的に結束しながら地域生活を営ん でいたことを示すものとして興味深い。氏寺もそうした役割を持つが、寺があ まり広がりを持たないのに対して、神社信仰は勧請(かんじょう)・分祀(ぶ んし)という方法によって容易に全国に広がっていく。   播磨もそうだが、全国の大避神社の根本となるのは、京都にある大酒神社 (右京区)である。この神社は秦氏の氏寺である広隆寺境内にもとはあって、 寺と一体のものだった。   もっとも、いわゆる公伝よりもはやく渡来人たちは仏教を崇敬してはいた らしいが、それが寺院という形をとるよりも以前に神への信仰があったことは 疑いない。つまり氏寺よりも先に氏神が存在したのである。   広隆寺は飛鳥時代には建立されていたことが分かっているが、おそらく神 社はそれ以前から、どういう姿かは不明だが祀られていたのではないか。それ が秦氏の全国への渡来と定着とともに広がっていったのであって、京都の秦氏 が全国の秦氏を統括していくにつれて、その氏神も全国に広がった。   別々に祀られていた秦氏の神社がのちに大酒神社に統合されていった可能 性もあって、一元的に京都の大酒神社が根本だといい切れないのだが、神社の ある嵯峨野・太秦(うずまさ)あたりが五世紀後半に開発されたことを思えば、 まずこの地に大酒神社が秦氏一族によって渡来とともに祀られたことはたしか であろう。   京都のこの大酒神社が秦河勝(はたのかわかつ)という具体的人物を祭神 とせず、今も秦始皇帝や弓月君(ゆづきのきみ)や秦酒公(はたのさけのき み)という伝承上の人物を祭神としていることは、かえって神社の古さをうか がわせる(注1)。        --------------------   弓月君は『日本書紀』応神天皇条によると、百済から「人夫百二十県を率 いて来帰」したとされました。一方、秦酒公に関する記事は『日本書紀』雄略 天皇条にこう書かれました。  「天皇は酒を寵愛し、詔して秦の民を集め、秦酒公に賜った。公はそれでた くさんの勝(すぐり)をひきい、調庸の絹やカトリを奉献して、朝廷に充分積 み上げた。それによって姓を賜って禹豆麻佐(うずまさ)といった」   こうした『日本書紀』の記述をそのまま事実とみなすわけにはいきません。 これらは比喩的に書かれたものと思われますが、秦氏族について井上満郎氏は こう記しました。  「秦氏の場合でいえば、五世紀後半に渡来の大波があり、ちょうどそれは大 和政権の国家組織が急速に整えられる時期であって、その過程で新羅国から渡 来した人々が「秦氏」という“氏族”として組織されたのである(注1)」   井上氏も秦氏の出身をやはり新羅とみているようです。前に書いたように、 各氏族の自主申告にもとづいて作成された『新撰姓氏録』において秦氏は千年 もさかのぼって秦始皇帝の子孫としましたが、中にはその『新撰姓氏録』を唯 一の足がかりに「秦の亡人説」をとなえる人もいるようです。   その説は、紀元前202年、中国大陸で滅亡した秦が漢王朝に追われて朝鮮 半島に逃亡し、そこで辰韓国を立て、これが新羅に発展したといい、その新羅 から日本に渡来したと主張するものです。この700年にもわたる物語に学問的 な根拠はなく、これをそのまま信じる研究者はほとんどいないようです。   さて赤穂にもどりますが、大避神社の祭神は秦河勝とされます。その由来 について、意外なことに室町時代に能楽を大成した世阿弥(ぜあみ)は、秦河 勝が摂津から赤穂にきて神になったと説きました。   みずから秦氏を称する世阿弥は、能楽論書『花伝書』(かでんしょ、風姿 花伝)において、先祖とあがめる秦河勝の誕生物語をあらかたこう述べました (注1)。  「欽明天皇の時代に大和の初瀬川に洪水がおこり、その時に川上からひとつ の壺がながれついた。なかには美しいみどり子が入っており、三輪神社の鳥居 の前でこれを発見した人々は事の次第を天皇に奏上した。   その天皇の夢枕にその子があらわれ、自分は秦の始皇帝の子孫だといい、 やがて朝廷に仕えて秦の姓を与えられ、秦河勝と名乗った。聖徳太子はこの河 勝に神楽を習わせ、子孫に伝えさせ、これが能楽の起源になった」   ファンタスチックな物語ですが、古代において秦河勝が芸能に関係が深か ったのはたしかなようです。聖徳太子の四天王寺を中心とする雅楽の大阪楽所 は、秦河勝の子息のうち5人までが雅楽をになったとされるのですが、世阿弥 はそうした秦河勝の権威にあやかったのか、あるいは本当に秦河勝の子孫だっ たのか、ともかく能楽の起源を渡来人の秦河勝に直結させました。そのうえで 秦河勝が赤穂に来たとする由来を『花伝書』でこう記しました。  「摂津国 難波の浦より、うつぼ船にのりて、風にまかせて西海に出づ。播 磨国、坂越(さこし)の浦につく。浦人 船をあけて見れば、かたち人間に変 わり、諸人に憑きたたりて奇瑞(きずい)をなす。すなわち神と崇めて国豊か なり。大きに荒るると書きて大荒(おおさけ)大明神と名づく」   河勝は怨恨を秘め赤穂の坂越に来たのか、人々にたたったので大荒神と名 づけられて祀られたというこの物語は、世阿弥の女婿で同じように秦氏を名乗 った能楽の金春(こんぱる)禅竹によっても流布されました。   禅竹の『明宿集』によると、秦河勝は播磨の南波尺師に上陸し神となり祟 ったので大荒神と名づけられ、坂越の大避神社に祀られたことになっています。 このような伝承の背景を井上満郎氏はこう述べました。        --------------------   河勝が播磨に来たというのは、それが誰の手による創作かは伝承という性 格上分からないが、まぎれもなく創作されたものであり、史実・事実ではない。 世阿弥・禅竹のケースでいえば、両人ともに秦氏出身であったことを基盤とし、 能楽の成立をより古いものとして位置づけるための、いわば“物語”としてそ れはできた。   そしてその背景には、すでに述べた天日槍(あめのひぼこ)伝説にたしか められるように、秦氏の播磨での決定的な分布があった。秦氏一族の存在は播 磨に暮らす人々の地域生活に大きな影響を与え、この地域での歴史と文化の基 調をなしていたのである。その秦氏の最大の有名人である河勝は、地元に住む 秦氏一族やそのほかの住民にとって馴染み深く、身近な存在であった。   さらにいえば、河勝を地域の人々に強く意識させたのは、世阿弥や禅竹で もなく、また天日槍でもなかった。地域の日々の生活に大きな関わりを持ち、 日々の信仰の対象となっていた大避神社を通じて、その祭神として親しまれて いたのである。   豊作・豊漁を敬虔に祈り、生活の安定、人々の安全、病気の回復、さまざ まな願いと畏れと慎みのなかで、神としての秦河勝への尊敬は高まっていった。 先にあったのは河勝伝承でなく、大避神社への信仰なのであった(注1)。        --------------------   秦氏にとって神社信仰は不可欠なようです。松尾大社や稲荷神社、宇佐八 幡宮など秦氏に関係する神社は枚挙にいとまがありません。百済とは違う新羅 の精神風土を反映したのでしょうか。秦氏にかぎらず、新羅人はスサノオとい い、神社とかかわりが密接なようです。 <神社のルーツ>   さて、井上満郎氏は、秦河勝が赤穂にきたとするのは史実ではないとしま したが、そうした可能性を肯定する意見もあります。兵庫県歴史学会は、世阿 弥の『花伝書』をもとにしてか、こう記しました。  「西播はもともと大陸文化との関係がふかいところだが、とくに相生・赤穂 の両市をふくめた旧赤穂郡は、渡来氏族秦氏とのつながりがつよい。秦氏は京 都盆地を中心に近江・摂津・播磨などにひろがり、欽明天皇のとき秦人 戸数 7053戸といわれたほどだ。   仏教が伝来し、いわゆる崇仏論争がおこったとき、蘇我稲目をたすけて功 績のあったのは秦造(はたのみやつこ)の秦河勝だった。河勝は聖徳太子の信 任をえたが、太子の没後 ざん言をうけて播磨にながされ、この坂越の地で不 遇の日をおくることになった。   河勝は千種川(ちぐさがわ)を中心に赤穂郡を開拓したのち、神仏と化し たと伝えている。前項でふれた矢野荘の開発者 秦為辰や有年(うね)の荘司 寄人の秦氏などは、おそらく河勝の子孫で、赤穂郡開拓の先兵だった。大避神 社とは、これらの子孫が氏神として河勝をまつったものだ(注2)」   赤穂にとくに大避神社が多いのは、京都の大酒神社にかかわる秦氏の大物 が実際に来たのだろうと想像されますが、それが河勝だったのかどうかは同時 代の記録がないようなので知るすべがありません。しかしながら秦河勝の墓が 赤穂市坂越にあるのはたしかです。ただ、それはいつの時代のものかはっきり しないようですが。   一方、河勝の名は、播磨の地理や伝承を記した書とでもいうべき室町時代 の『峰相記』にも記述がないので、河勝来着の可能性はやや低くなります。結 局のところ、よくわからないということになります。   なお、秦氏の居住地には天日槍伝説がともなうことが多いのですが、播磨 は『日本書紀』によれば、新羅の王子である天日槍が最初に上陸した地とされ ます。ただし、そこは赤穂の東北の宍粟邑(しさわむら)とされました。   天日槍の行跡は『播磨国風土記』に記されているのですが、残念ながら風 土記では赤穂郡の部分がそっくり欠落しており、赤穂でのエピソードをしるこ とができません。   そのほかに、赤穂と秦氏のかかわりは東大寺文書などで多少知ることがで きます。そうしたかかわりを加藤謙吉氏はこう記しました。        --------------------   播磨国赤穂は秦氏の勢力が強く及んだ地域である。東京大学史料編纂所 架蔵の「東大寺文書3-6」影写本中には、右の延暦12年4月17日付「赤穂郡坂 越 神戸両郷解」に接続する断簡文書があるが、その郡司の署名部分には、擬 任郡司(臨時の郡司)として、「擬大領 外従八位上 秦造」・「擬少領 無位 秦造 雄鯖」の名がみえる。   正員郡司には貞観6年(864)に赤穂郡大領の外正七位下 秦造 内麻呂がお り(『三代実録』)、秦氏は赤穂郡の郡司に任命される名望家であったことに なる。   平城宮跡出土 木簡にも奈良時代の赤穂郡大原郷に秦造二名、秦(無姓) 一名の名が認められ、下って長和4年(1015)の大原郷の有年荘の寄人のなかに も秦を姓とする者が12人いる。   さらに赤穂郡内には秦河勝や秦酒公を祀る大避神社がいくつもあって、河 勝を初め秦氏にまつわる伝承も少なくない。   かように赤穂郡は秦氏の一大勢力圏であったが、秦大炬は赤穂郡の郡司の 一族に連なる有力者と考えられる。おそらく彼は配下の秦系集団を率いて、 「塩堤」の築造を行ったのであろう。   大炬が失敗した後、今度は東大寺によって塩浜作りがすすめられるが、そ の中心となったのも、動員された赤穂郡の秦系集団であったと思われる。   憶測すれば、このような塩田開発は、後述する秦氏の土木・建築技術とあ わせて、この氏が前代から培ってきた製塩技術によるところが大きいのではな かろうか。   土器製塩と塩浜製塩では技術的に大きな開きがあるが、伝統的な製塩法へ の関与を通して、秦系集団が次第に塩浜製塩法を体得していった可能性は少な くないとみられるのである(注3)。        --------------------   赤穂の塩はミネラルが豊富で甘いのが特徴ですが、秦氏は赤穂郡の長とし て製塩業を振興、発展させたようです。その塩が核になって赤穂は発展し、の ちに悲劇の赤穂城が築かれました。 (注1)井上満郎『古代の日本と渡来人』明石書店,1999 (注2)兵庫県歴史学会『兵庫県の歴史散歩』山川出版社,1975 (注3)加藤謙吉『秦氏とその民』白水社,1998   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


「関東大震災」80周年記念行事 2003.8.21 [zainichi:26689]   半月城です。   9月1日が近づいてきましたが、関東大震災関係の講演や追慕祭がいくつかあり ますので紹介します。下記(3)の観音寺に関しては私の関連記事が下記サイトにあ ります。 <関東大震災と朝鮮人(11)、「鮮人」の払い下げ> 1.記念講演会 「描かれた朝鮮人虐殺」 http://www.40net.jp/~kourai/home/shinsai.htm 講 師  新 井 勝 紘        (NPO法人高麗博物館理事・本展企画担当・専修大学教授) 日 時  8月23日(土)午後2時~4時 会 場  日本キリスト教団新宿西教会     新宿区歌舞伎町2-14-11新宿シャロームビル3階 最寄駅  JR大久保駅(北口)/新大久保駅(北口)/新宿駅(東口)    西武新宿駅(北口)/都営大江戸線東新宿駅(A1出口) 参加費(資料代含む)700円(高校生以下500円) 2.関東大震災80年ミニパネル展示「描かれた朝鮮人虐殺」 2003年8月20日(水)~9月28日(日) 会 場  高麗博物館 開館時間 正午~午後5時 休館日 月・火曜   ※但し9月1日(月)は正午~午後7時まで特別開館 入館料 大人 200円/高校生以下 100円 3.関東大震災 80 周年追慕祭 開催日時:8月31日(日)12:00~ 開催場所:曹洞宗観音寺 参加費:無料*食事代、交通費*①等は自己負担 その他:任意で寄付を募りますが、全く強制ではないので、関心のある方は気にせず ご参加ください。 *①なお希望者には現地までの送迎があります。(要事前申請) その場合は、9:30に日暮里前集合です。 (席の数がありますので、くれぐれも事前申請のこと) 現地住所:千葉県八千代市高津1347 事務局連絡先:03-3805-6905   半月城です。   関東大震災関係の催し物のつづきを転送します。今年は80周年とあって行事が 多彩です。 1.シンポジウム「関東大震災八十周年・いま朝鮮人虐殺の真相と教訓を問う」 8月25日  時間:午後2時~午後5時  報告者:山田昭次氏(立教大学名誉教授)など  場所:中央大学駿河台記念館(御茶ノ水駅下車 徒歩3分)  主催:関東大震災80周年シンポジウム実行委員会          問い合わせ:事務局(03-3230-2002)  資料代:500円 2.関東大震災80周年記念集会  8月30日(土)~31(日)、会場=亀戸文化センター。  30日、開会全体会(11時~11時30分)。  講演・山田昭次立教大学名誉教授「関東大震災と現代~震災時の朝鮮人虐殺と国家 責任・民衆責任」(11時40分~12時40分) シンポ(13時50分~18 時)  31日 シンポと全体会(9時30分~16時40分)  資料代=1500円、(学生・院生は1000円高校生以下無料)  問い合わせ=同記念行事実行委員会事務局長 TEL 03・3533・6969。 3.「関東大震災朝鮮人虐殺80周年-在日本朝鮮青年学生追悼式」 8月31日   時間:午後5:30集合、6:00開始  場所:荒川・河川敷(京成押上線「八広駅」徒歩5分)  主催:関東大震災朝鮮人虐殺80周年 在日本朝鮮青年学生追悼式実行委員会)      在日本朝鮮青年商工会(03-3844-1998)      在日本朝鮮青年同盟(03-3816-4337)      在日本朝鮮留学生同盟(03-3818-6138)


愼鏞廈「愼鏞廈教授の獨島問題100問100答」『新東亜』2000.5月号

  1. 愼教授の獨島問答(1)、序説および海洋法
  2. 愼教授の獨島問答(2)、江戸時代の経緯
  3. 愼教授の獨島問答(3)、明治時代の経緯
  4. 愼教授の獨島問答(4)、「領土編入」
  5. 愼教授の独島問答(5)、戦後の動き
  6. 愼教授の独島問答(6)、韓日条約以降
愼鏞廈教授の獨島百問百答(1)、序説および海洋法 2003/10/ 5 Yahoo!掲示板「竹島」#2589   半月城です。   北朝鮮の公式主張が鮮明になったところで、今回からは韓国の代表的な総 合雑誌『新東亜』に掲載された「獨島問題100問100答」を抜粋して翻訳します。   この記事は後に改訂され、ソウル大学出版部発行の『獨島領有權にたいす る日本主張批判』(韓国語,2001.12)に収められました。したがって、内容的 にはちょっぴり古いのですが、これを代表的な総合雑誌が取りあげた影響は大 きいと考え、あえてこれを紹介します。   新東亜の記事は韓国の公式見解ではありませんが、代表的な意見ではあり ます。これを知らずして最近の韓国の主張を批判できるはずがありません。そ れは批判ではなく、単なる非難ないしは誹謗にすぎないといえます。   抜粋ですが、質問は全部を、答は一部のみを紹介するにとどめ、場合によ っては私のコメントを付けくわえることにします。一方、省略した部分を知り たがる向きがあるかもしれませんが、その要望は後回しにすることにします。        -------------------- 『新東亜』2000.5月号、巻末付録   愼鏞廈教授の獨島問題100問100答     獨島を知れば、大韓民国がみえる   鬱陵島東南方、海路200里、東海岸の孤独な島、我が地である獨島が去る 4月8日「独立」した。3月20日、慶尚北道 鬱陵郡議会が「鬱陵郡の里の名 称と区域に関する条例改定案」を満場一致で通過したのにつづいて、4月8日、 鬱陵郡が改訂条例を公布するにおよんで獨島はこれまでの「鬱陵郡鬱陵邑道東 里 San 42-76番地」から「鬱陵郡獨島里 San 1-37番地」に行政区域上の地位 と住所が変わった。   したがって獨島は今や「孤独な島」ではない。獨島に本籍を移した国民は 4月現在300名を超えたが、獨島行政独立を契機にもっと増えるからである。 獨島の行政区域独立を契機に愼鏞廈教授(ソウル大・韓国社会史)から獨島問 題に関する100問100答をお伺いした。 Q1.獨島はどこにある島か? A.経緯度上では北緯37度14分18秒、東経131度52分22秒の地点にある、大韓 民国のもっとも東側に位置する領土である。   行政区域では慶尚北道 鬱陵郡 鬱陵邑トドンリ サン42-76番地に属してい るが、2000年1月、市民団体が提起した「独島里の新設請願」を契機に、さる4 月8日、里として独立し、現在は慶尚北道 鬱陵邑 独島里サン1-37番地として 行政区域上の地位と住所が変った。   独島は鬱陵島からは東南方向に約92km(約49カイリ)の地点にあり、日本 の一番近い島である島根県 隠岐島からは西北に約160km(約86カイリ)離れた 地点にある。   本土からみるときは、東海岸 蔚珍郡 竹辺港から215kmの地点に、日本の 島根県 境港から220km、恵曇から212kmの地点にある。   独島は東島と西島というふたつの島と、その周囲に散らばっている36個の 岩礁から構成された小さな群島である。東島と西島の間は約200mであるが、そ の2/3までが水深2mに満たない連結された島である。   独島の総面積は186,121m2(56,301坪8合)であり、山頂の高さは西島が 174m、東島が99.4mである。   独島は鬱陵島の付属島で鬱陵島とともに東海沖にある島であるために、岩 礁を中心に付近に棲息する魚類が季節によって集まり、水産資源と海底資源が 豊富であると外国の報告書は明らかにしている。地政学上、国土防衛上の重要 性はいうまでもない。 コメント:竹島=独島の方角は鬱陵島の東南方向でなく、東ないしは東南東に 位置します。正確を期して、下記の球面三角法を修正した Hubenyの拡張式で方 向を正確に計算すると、鬱陵島の中心である聖人峰からみたとき、竹島=独島は 真東の南18度の方角になります パソコンソフト「2点間の距離と方位計算ツール」 Q2.韓日間の「獨島領有権論争」はいつから始まったのか? Q3.韓国政府はこれにどう対応したか? Q4.その後「獨島領有権論争」はどうなったか? Q5.韓国側は日本側のそのような行動にどう対応したか? Q6.その後、日本側はどのような反応をみせたか? Q7.日本側文献で獨島が日本領であったという証拠が出たのか? A. 現在までは明白な文献資料は一件も出てこないで、かえって獨島が韓国 領であるとする文献が相当数発見された。そうして「獨島領有権論争」は小康 状態に入った。 Q8.それなら、なぜ最近「獨島領有権論争」が激化したのか? A. 1994年、UNで「新海洋法」が通過し、200カイリの「排他的経済専管 水域(Execlusive Economic Zone; 略称 EEZ)を「領海」とさして変わりなく設 定できるようになった事実と関連するとみられる。   EEZを宣布しようとすれば、基点(base point, base line)を自国領にすべ きだが、獨島を基点にすれば、200カイリ領域がずっと広がる。ここに「獨島」 にたいする日本の野欲がさらに大きくなったとみられる。 Q9.日本政府は「UN新海洋法」と関連して「獨島」に対しどんな政策を講 じたか? A. 日本は 1995年の総選挙で与党側が「獨島(竹島)侵奪」に「奪還」と いう用語を適用し、公約のひとつとした。   また 1996年、日本政府は池田外相が内外の言論記者たちを集めて声明を 発表し「獨島(竹島)は歴史的にも国際法的にも日本の領土であり、韓国は獨 島に駐屯した韓国海洋警察隊を即刻撤収し、(獨島に)設置した施設物を撤去 せよ」と主張した。ついで日本外相は駐日本韓国大使を外務省に呼び、同一の 内容を要求した。   さらに 1996年2月20日、日本政府は獨島を含む 200カイリの排他的専管 水域採択を定めて国会に送った。日本国会は 1996年5月に 200カイリ専管水 域の採択を議決し「獨島」を日本の EEZの基点に採用すると発表した。   こうして日本は、両国の 200カイリが重なる東海で日本 EEZ区画線を鬱陵 島と獨島(竹島)の間に確定すべきだと主張した。それだけでなく、日本政府 は 1997年度「外交青書」で日本外交十大指針のひとつに「獨島奪還(侵奪) 外交」を設定した。 Q10.韓国政府は日本政府のこうした攻撃的外交にどう対応したのか? A.韓国政府首脳は 1996年の前半期には獨島を日本領と主張する日本側の悪 癖を直すのだと断固として対応した。あわせて韓国政府も 1996年に「UN新 海洋法」を適用して 200カイリ EEZを宣布すると発表した。   しかしその後、韓国の EEZの基点を引く問題において韓国政府が獨島を基 点にせず、鬱陵島を基点にするかも知れないという噂が飛んだ。そこで獨島学 会をはじめ、多数の関心ある学者たちは当然「獨島」を基点にすべきだと主張 した。   韓国政府は 1997年7月末「鬱陵島」を韓国 EEZの基点にすると発表し、 両国の EEZ区画線として韓国鬱陵島と日本隠岐島の中間線を提議した。   日本政府はすでに 1996年5月に韓国領土である「獨島」を日本の EEZの 基点として発表したのに反し、韓国外務部は1年2カ月後、韓国の EEZの基点 を「獨島」でなく「鬱陵島」にしたのだ。これに国民と学会は驚愕し、韓国外 務部に対する不信が澎湃として起きた。 Q11.99年1月22日に締結された新 韓・日漁業協定で「獨島」はどう扱わ れたのか? A.日本政府は、大韓民国が 1997年12月3日 IMFの管理体制に入り、経済が 脆弱になるや、これを機会に 1998年1月、一方的に韓・日漁業協定を廃棄し てしまった。   これは国際関係に前例がない非常に非友好的な措置であった。韓・日漁業 協定の規定にしたがい、その1年後である 1999年1月から協定廃棄が効力を 発揮するようになった。韓・日両国が漁業協定を結び、魚取りをするなら 1999年1月22日までに新 韓・日漁業協定を締結しなければならない。そうで ないとそれ以後は国際法規にしたがい魚取りをするようになる。   日本政府は「新 韓・日漁業協定」締結を促し、日本政府が主張する韓・ 日 EEZ区画提案線である獨島と鬱陵島間のある線を西側限界線にして、韓国政 府が主張する韓・日 EEZ区画提案線である鬱陵島と隠岐島間のある線を東側限 界線にして「獨島」が含まれる水域を「韓・日共同管理水域」に設定しようと 提案した。   韓・日両国の実務者代表が会談した結果、鬱陵島基点 35カイリと隠岐島 基点 35カイリまでを韓・日両国の EEZにし、その中間にある「獨島」を含ん だ水域を「中間水域」に設定した。その結果「獨島」は中間水域に含まれた。 コメント   日本による韓・日漁業協定の一方的破棄は韓国に衝撃をもたらしましたが、 その当時の報道や EEZをめぐる日韓の攻防は下記に記したとおりです。 <日韓漁業協定破棄(1)、韓国の論調> <日韓漁業協定破棄(2),交渉の争点> Q12.獨島が中間水域に含まれたのは、韓国の獨島領有権を少しでも損なうのか? A.そう見る。   一番目に、鬱陵島の付属島嶼である獨島が母島である鬱陵島の水域(韓国 EEZ内の水域)で「分離」され、質的に他の「中間水域」に入ってしまった。 そもそも、まず侵奪対象を「母体」から「分離」するのは、日本の戦術である。   二番目に、日本は「中間水域」に入った「獨島」を日本 EEZの基点にした が、韓国は自国領でも韓国EEZの基点にすることができなかった。このために これから国際社会で韓国の獨島領有権に対する誤解が生じるようになった。   三番目に、不必要な「中間水域」を設定したことに韓国政府が中間水域の 西側限界線を鬱陵島基点35カイリにしたのは、日本EEZ基点を「獨島」にし た日本の政策を黙認したのではないかという誤解を呼び起こす余地がある。   四番目に、韓国政府は中間水域に入っている「獨島」とその領海(12カイ リ)が「韓国領」であることを示唆する意思表示をまったくしなかったが、日 本は「獨島」とその領海(12カイリ)が日本領土と日本領海であるということ を世界に継続して主張している。   五番目に、韓国政府は「中間水域」の性格を「公海」的と解釈したのに反 し、日本政府は「韓・日共同管理」水域と主張しているのをみると「公海的性 格」に対する合意なしに調印されたようだ。 Q13.日本政府は本当に「獨島」を侵奪する意思があるのか? A.98年11月、日本海上自衛隊は「硫黄島」において「獨島」を武力接受する 海上訓練を秘密裏に実施したことを約1年後の99年に日本の新聞が報道した。 また、99年には日本人の戸籍を「獨島」に移し登記したが、これを戸籍対象に 登載したのは日本政府の行政行為である。   日本は韓国政府と韓国国民の獨島領有守護の意思が弱まって突破が可能な ら、あるいは絶好の機会がくれば、獨島を侵奪する意思をもっていると見る。   97年、日本外務省の十大外交指針に「獨島奪還(侵奪)外交」が設定され たのを想起する必要がある。日本政府は獨島侵奪計画を何段階か設定して計画 通り推進するものと思われる。



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