半月城通信
No.101(2004.2.29)

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  1. 楽浪と狗邪韓国と出雲
  2. 大酒神社と秦氏
  3. 鬱陵島検察日記と竹島=独島
  4. 自称「竹島問題研究家」

  5. 愼教授の獨島問答(2)、江戸時代の経緯


楽浪と狗邪韓国と出雲 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#9570 2004年1月11日   mutouhaさん、「半月城通信」がお役に立てて光栄です。最近は竹島=独 島トピが忙しく、あいさつが遅れました。   RE:9432 >ここで楽浪土器と呼ばれる土器の日本での分布を見ると九州にしかないのです。 http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/lib/wrk/2000a_41.html#4 >九州は楽浪と交流していたがそれ以外の地域は交流していなかった事になるの ではないでしょうか?   邪馬台国が朝鮮半島北部にあった楽浪、帯方郡と交流していたことはよく 知られていますが、これ以外にも京都府の丹後半島なども楽浪と交流していた ようです。日本三名所のひとつ、天橋立近くの遺跡から楽浪遺物とみられるガ ラス釧(くしろ)や鉄、三角縁神獣鏡などが発見されました。   山陰地方は今でこそ「裏日本」ですが、古代は「表玄関」だったので、ふ るくから朝鮮半島との交流が深く、この地域でも楽浪の遺物が豊富にみられま す。とくに「出雲王国」は注目にあたいします。ここも当然ながら楽浪と交流 していたようです。   その例ですが、出雲の田和山遺跡では硯(すずり)の石の破片など、楽浪 の遺物が出土しました。大変な発見です。もし、硯を用いて弥生時代に字を書 いていたとすれば、日本での文字文化の歴史が大幅に早まるので、日本史では 画期的なことになります。   それだけにその破片が本当に硯の石の破片なのかどうか慎重な判断を要し ます。当初、鑑定を頼まれた森浩一氏はその破片をみてサジを投げてこういっ たそうです。  「俺にはわからん、西谷に見て貰え(注1)」   指名された九州大学の西谷正氏は、直感で「これは恐らく日本列島のもの ではない、お隣の朝鮮半島か中国大陸のものではないかと目星をつけ(注1)」 本格的な調査をしました。同氏は戦前の日本が掘った楽浪遺跡の報告書をもと に、類似品が東京国立博物館にあるのを思い出し、その現物を確認しました。 西谷氏は定年後も依然として記憶力は抜群なようです。   西谷氏はそうした綿密な調査をおこなって問題の破片を硯の石と断定した のですが、硯自体は前漢で大いに流行したようでした。楽浪でももちろんそれ を用いて字を書いていたのですが、日本では実際に字を書いたのかどうかは疑 問のようです。   韓国南部の茶戸里(タホリ)遺跡では数ある楽浪遺物のなかで、3本の筆 と木簡を削る小刀が出土し注目されています。そこでは文字を書いていたこと は明らかですが、韓国南部と九州あたりは同時性が強いので、日本でも弥生時 代に文字文化があってもおかしくはありません。しかし、西谷氏によると硯は 権力者の単なるステータスシンボルだったとのことで、弥生時代の文字文化に は否定的なようです。   山陰地域一帯にもたらされた楽浪の遺物ですが、鹿島町の沖合からは楽浪 の土器が引き上げられました。また、西谷3号墳からは小さな土器ですが、 ループ状の取手のついたコーヒーカップのような土器が出土しました。ただし、 これは韓の巾着型土器が祖型になったという人もいますが、いずれにしても楽 浪の影響を受けたもののようです。   他にもジョッキ型の木製容器や後漢鏡の内行花文鏡、獣帯鏡など楽浪遺物 が多数出土し、今後も増えるものと期待されます。さらに楽浪の影響を受けた とみられる木槨墓が出雲の西谷3号墳などでみられます。   木槨墓は朝鮮半島南部で二世紀中頃から三世紀前後に出現します。大成洞 11号墳もそのひとつですが、ほぼ同じ時期に日本列島にも伝わったとみられま す。こうした文化の共通性を考えると、出雲の楽浪遺物は狗邪(くや)韓国な ど朝鮮半島南部や壱岐あたりを経由してもたらされたようです。 (注1)環日本海松江国際交流会議編『楽浪文化と古代出雲』  2002,山陰放送松江支社内   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


大酒神社と秦氏 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#9952 2004/ 2/22   半月城です。   先日、秦河勝をまつる大避(おおさけ)神社をたずねました。行く前は、 いなかの小さな神社を想像していたのですが、それが予想外に大きな神社でし た。   それは、赤穂市の坂越(さこし)浦が土地柄から瀬戸内海で海上交通の要 に位置し、船人の信仰が代々あつかったことも理由のひとつでした。かつては 赤穂藩主はもちろん、熊本藩の細川候なども江戸参勤の海路途中に神社に参詣 されたようでした。   大避神社でひときわ目を引いたのが、大きな絵馬でした。色あざやかな朱 色の衣裳で雅楽を舞っている二枚の絵馬がありましたが、奉納した人は、一枚 は「宮内庁楽部 元主席学長 東儀俊美」とありました。もう一枚、同じように 優雅な舞い姿の絵馬には「樂祖 秦河勝後裔 元宮内省式部職樂部 岡正男 余志 子」と書かれていました。   率直な感想ですが、いなかの神社に格式高い伝統芸能の第一人者が見事な 絵馬を奉納するなんて意外でした。あらためてこの大避神社を見直しました。 いささか私の認識不足だったようです。   考えてみれば、雅楽の祖とされる秦河勝を主神とする神社は現在おそらく 赤穂の大避神社しかないので、秦河勝の子孫を自負する雅楽関係者が絵馬を奉 納するとしたら、やはりここが最適なのでしょう。大避神社と秦氏とのかかわ りを、上郡の別の大避神社宮司(ぐうじ)・深澤景吾氏はこう記しました。        --------------------   当神社は、秦河勝公を御祭神としてお祀りしています。ここで秦氏と河勝 公との関係を紹介します。   秦氏は西暦 300年代に中国から渡来した弓月君(ゆづきのきみ)を祖先と する渡来人です。河勝公の代には、欽明、敏達、用明、崇峻、推古の五代の天 皇に仕え、山背国を受領して大きな勢力を持つ氏族になっていた。   6世紀後半になり、聖徳太子が推古天皇の摂政をされ、寺院建立が盛んに なると、太子の政策に協力・援助をし、太子の子 山背大兄王の守護役として 貢献した。   太子没後、蘇我氏が執政をするが、皇極天皇643年、蘇我入鹿が山背大兄 王を斑鳩(いかるが)寺に囲み、王一族は自害して果てるという事件があった。   入鹿に敵対していた河勝公は身の危険を察し、斑鳩を脱出しました。難波 の浦から播州西端の坂越浦に難を避け、生島(いきしま)にたどり着いた。一 族はこの地に留まり、千種川の流域に新たな地盤を固めていくことになりまし た。これが「土地神」とあがめられる所以です(注1)。        --------------------   ここで秦河勝の都落ち伝説が信じられているようですが、本当に秦河勝が 赤穂にやって来たのかどうかははっきりしません。その一方で河勝の墓が下記 に書いたように、かれがたどりついたとされる生島に祀られています。そこは 坂越 大避神社の目と鼻の先の無人島で、聖なる地とされています。そのため 島には人が入らず、自然のままに残され、樹林は天然記念物に指定されました。 <大酒神社と世阿弥と赤穂浪士>   宮司は、秦氏の祖先とされる弓月君が中国から渡来したとしましたが、弓 月君は『日本書紀』応神条で百済から「人夫百二十県を率いて来帰」したとさ れており、中国渡来は根拠がありません。   中国から渡来したという説は、平安時代の『新撰姓氏録』で秦氏がみずか らを秦始皇帝の子孫と自称したことによるものであり、裏づけがほとんどなく、 それを信じる歴史学者がほとんどいないことはすでに記したとおりです。 <秦氏のルーツ>   さて、全国の大辟神社の根本となるのは、京都の太秦(うずまさ)にある 大酒神社ですが、私はこの神社も訪問しました。この神社は、もとは秦氏の氏 寺である広隆寺境内にあって寺と一体のものでしたが、明治時代初期の神仏分 離令により広隆寺から切り離されました。   広隆寺といえば、国宝である新羅仏の弥勒菩薩像で名高いのですが、ここ では神仏分離前のなごりか、秦河勝を祀った「太秦殿」が境内にあり、神社の 痕跡が残っています。その案内板にはこう書かれていました。        -------------------- 太秦殿   往古より秦氏を祭祀せる神社なり。本尊は秦河勝公、後に漢織女(あやは とり)、呉織女(くれはとり)を合祀す。天保十二年十二月再建す。   百済国の弓月君 百二十県の民を率いて帰化し、其の子孫 河勝に至りて地 を山城北部に賜い葛野(かどの)に住居し土地を開拓し養蚕 機織(はたおり) の業に従い之を奨励した。後人其の徳を讃え神を崇め太秦明神と称した。        --------------------   1970年頃、広隆寺は秦河勝の出自を「秦始皇帝の子孫 秦河勝」と称して いたようですが、どうやら上田正昭氏の提言をいれてか「百済国の弓月君…の 子孫」と正したようです。広隆寺のパンフレットにも次のように秦始皇帝の記 述はないようです。  「さて、秦氏族が大勢で日本に帰化したのは書紀によると、第十五代 応神 天皇の十六年で、養蚕機織の業が主であったが、その外に大陸や半島の先進文 明を我が国に輸入することにも努め農耕、醸酒等、当時の地方の産業発達に貢 献していた」   広隆寺は別名、秦寺ともいわれるだけに、当然ながら秦氏を高く評価して いるようです。他方、広隆寺から分離した隣の大酒神社は依然として「秦始皇 帝」にこだわっているようで、案内板にはこう書かれました。        -------------------- 大酒神社  祭神 秦始皇帝、弓月王、秦酒公  相殿 兄媛命(えひめの みこと)、弟媛(おとひめ)命(呉織女、漢織女)  神階 正一位 冶歴四年四月(一〇六八年)   当社は延喜式神名帳 葛野郡 二十座の中に大酒神社(元名 大辟神社)と あり、大酒明神ともいう。  「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇8年(356年) 皇帝十四世の孫 功 満王が漢土の兵乱を避け、日本朝の純朴なる国風を尊信し 始めて来朝し此地 に勧請す。これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生まれた。   后(のち)の代に至り、功満王の子 弓月(ゆづき)王、応神天皇14年 (372年) 百済より127県の民衆18,670余人 統率して帰化し、金銀玉帛等の宝物 を献上す。   又、弓月王の孫 酒公(さけのきみ)は秦氏諸族を率て蚕を養い、呉服漢 織に依って絹綾錦の類を夥しく織出し朝廷に奉る。絹布 宮中に満積して山の 如く丘の如し。天皇御悦の余り、理益(うずまさ)と言う意味で酒公に禹豆麻 佐の姓を賜う。   数多の絹綾を織出したる呉服漢織の神霊を祀りし社が大酒神社の側にあり しが明歴年中 破壊に及びしを以て、当社に合祭す。   漢織のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに力め農耕、 造酒、土木、管弦、工匠等 産業発達に大いに功績ありし故に、其二神霊を併 せ祀り三社となれり。今、大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改 む。   広隆寺建立后、寺内 桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていた が、明治初年 政令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在 広隆寺で十月十日に行われる京都三代奇祭の一つである牛祭りは以前 広隆寺 の伽藍神であった時の当時の祭礼である。   尚、603年 広隆寺建立者 秦河勝は酒公の六代目の孫。又、大宝元年(701 年)子孫 秦忌寸(いみき)都理(とり)が松尾大社を創立。和銅4年(713年) 秦伊呂具(はた いろぐ)が伏見稲荷大社を建立した。   古代、葛野一体を根拠とし、畿内のみならず全国に文明開化の発達に貢献 した。秦氏族の祖神である。                    昭和59年5月        --------------------   大酒神社は秦河勝の六代先祖とされる秦酒公を祀り、広隆寺より古いよう ですが、広隆寺内の元神社「太秦殿」とは祭神が一致しないようです。両者の 祭神を整理するとこうなります。  大酒神社   秦始皇帝、弓月君、秦酒公  広隆寺太秦殿 太秦明神(秦河勝)、漢織女、呉織女   ただし大酒神社は、入口の大きな石柱ではなぜか次のように刻み、広隆寺 の太秦殿と一応の符合がみられます。 「太秦明神 呉織女 漢織女」 「蠶養 機織 管絃樂衆之祖神」   この石柱を見ると、大酒神社では養蚕や機織とならんで管弦樂を重視して いることがわかります。やはり、秦河勝の功績で欠くことのできない雅楽など を高く評価しているようです。それもそのはず、かつて雅楽の歴史で「太秦東 儀家」が存在したくらい太秦と雅楽は縁が深く、神社が管弦を強調するのは当 然と思われます。 <雅楽ブームと東儀秀樹さん>   伝説上の弓月君はともかく、秦酒公や秦河勝、秦都理、秦伊侶具などの秦 氏族が京都の地を開拓し、産業や文化、精神世界などの基盤をつくったようで した。 (注1)深澤景吾「大避神社(赤穂郡上郡町竹万鎮座)」『赤相神祇』第5号,2003 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


鬱陵島検察日記と竹島=独島 Yahoo!掲示板「竹島」#3138 2004/ 1/18   半月城です。愼教授の獨島問答Q48にたいするコメントをここに書きます。   鬱陵島検察使に任命された李奎遠は出発前に王と対話しましたが、その時 の両者の鬱陵島、于山島にかんする認識は下記のとおりでした。  王(3島認識)、鬱陵島(通称)=鬱陵島(本島)+芋山島+松竹島  李(マクロ的に2島、ミクロ的に3島認識)、鬱陵島=芋山島、松竹島=松 島+竹島   一行は船で鬱陵島を一周したとき、東海岸でふたつの島を確認し、報告書 の草稿本である『啓本草』にこう記しました(注1)。  「もうひとつの浦があり、名前は船板邱尾である。その南辺の海の中にふた つの小さな島があるが、形は臥せった牛のようで、左右に回ってお互いに抱い ているような姿である。 ひとつは竹島で、ひとつは島項というが、ただ竹藪があるのみである。日が暮 れたので陸地にあがった」   李奎遠は鬱陵島を調査して地図「鬱陵島外圖」を作成しましたが、それを みると「島項」は現在の観音島(別名、ガッセ島)、「竹島」は現在の竹島 (韓国名、別名は竹嶼)にあたります。 <鬱陵島外圖>   ちなみに「島項」は訓読みにすると「島のうなじ」になりますが、これに 相当する韓国語の Seom Mokは現在でも鬱陵島と観音島間のノドのような場所 の名として使われています。ahirutousagi2さんの憶測に反して、李奎遠が記 した島「島項」は于山島とは無縁です。それとは別に于山島や松竹島について 李奎遠はこう記しました。  「松竹于山などの島を現地仮住の同胞たちは、みな近傍の小島をこれに当て ている。しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に 高いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの 石も一握りの土もなかった。すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と 称するごとくである(注2)」   李奎遠は松竹島=松島竹島については竹嶼に比定することを避け、不明な ままとしました。もし松島竹島のうち「竹島」を竹嶼にしたら、「松島」をど うするのか、これを観音島にするわけにもいかないので、扱いがむずかしかっ たためと思われます。   一方、于山島についても高所からの単なる目視を試みたのみで、実際の探 査は実施しませんでした。高所での目視はやはり失敗でした。現在でも鬱陵島 から竹島=独島をみるのは条件がかなりよくないと見えないものです。 <竹島(独島)は見えるか>   李奎遠は出発前に「芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は昔の国都の名」と 王に語り、島名の「芋山島」と国都名の「芋山」を微妙に使い分けていました。 他方で上記のように、于山島は「近傍の島」という島人の話を記録しているの で、李は于山島=鬱陵島というみずからの認識を疑問視したようです。もちろ ん于山島を島項や竹島(韓国名)などには比定しませんでした。不明ながら、 それ以外の島と考えたようでした。   その一方で「芋山は昔の国都の名」という認識は依然としてそのままのよ うだったようで「鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくであ る」と記しました。いうまでもなく耽羅国も于山国同様に昔の国都の名でした。 (注1)李奎遠『啓本草』5月9日条 「又有一浦 名船板邱尾 南邊洋中 有二小島 形如臥牛 而左右回旋 勢若相抱 一曰竹島 一曰島項 只有叢竹而已 日暮 下陸」 (注2)原文は下記参照 <『高宗実録』と鬱陵島検察>


自称「竹島問題研究家」 Yahoo!掲示板「竹島」#3260 2004/ 1/25   半月城です。   ahirutousagi2さん、RE:3153  ahirutousagi2さんは、内務省や太政官が判断した「竹島」伺書にある「松 島」(文末参照)は、実は鬱陵島であったと速断し、その裏付けとして伺書の 付属資料とはまったく無関係な「大日本國沿海略圖」を持ちだしましたが、一 体全体その地図は松島、竹島を放棄した太政官指令と具体的にどのような「直 接の因果関係」があるのでしょうか?   落語で「風が吹けば桶屋がもうかる」という演目がありますが、ここで落 語以上のオチをひとつ聞かせてください。   さらに ahirutousagi2さんは「竹島」伺書の付属書に動植物の宝庫である かのごとく詳細に記された「竹島」が、実は存在しない「架空の島」であった と主張するにいたっては、あいた口がふさがりません。  「版図の取捨」を「国家の重大事」と認識していた内務省や太政官が、より によって架空の島を「竹島」と考えて放棄したとなれば、何ともマヌケな政府 です。   もっともそのように考えるのは自称「竹島問題研究家」のみのようです。 ahirutousagi2さんもその部類ですか? ちなみに竹島=独島問題の研究者は、 たとえ竹島=独島を日本領と考える人ですら、塚本孝氏のように明治政府は竹 島=独島を放棄したと結論づけています。 <「竹島日本領派」の松島(竹島=独島)放棄への対応>   学術的な論証を欠如した自称「竹島問題研究家」の主張は一事が万事、そ うした主張にいちいちコメントするのは時間の浪費かなと感じ始めています。        -------------------- 「由来の概略」   磯竹島、あるいは竹島と称する。隠岐国の北西120里(480km)ばかりの ところにある。周囲およそ10里(40km)である。山は峻険で平地はすくない。 川は3条ある。また滝がある。しかし、谷は深くうっそうと樹木や竹が繁り、 水源を知ることはできない。   多く目にふれるのは、植物では五りょう松、紫檀、黄蘗(おうばく)、椿、 樫、桐、雁皮(がんぴ)、栂(つが)、竹、マノ竹、コラフ(ニンジン)、蒜 (ひる)、カンドウ(ツワブキ)、ミョウガ、ウド、百合、ゴボウ、グミ、フ ボンシ(草イチゴ)、虎杖(いたどり)、アラキパである。   動物では海鹿(うみしか)、猫、ネズミ、ヤマガラ、鳩、鴨、ヒワ、ノガ モ、鵜(う)、ツバメ、ワシ、クマタカ、タカ、ナヂコアナ鳥、シジュウカラ の類である。   そのほかには、辰砂、岩緑青などを見る。魚貝類は枚挙にいとまがない。 なかでもアワビと海鹿が代表的な物産である。アワビをとるのに、夕方に竹を 海に入れ、朝これを引きあげれば、アワビが枝や葉にビッシリ着く。その味は 絶倫とのこと。また、海鹿一頭から数斗(50リットル)の油が得られる。   次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路 にある。隠岐をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。 また、魚や獣(アシカか)を産する。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


愼鏞廈教授の獨島百問百答(2)、江戸時代の経緯 Q14.日本政府は、獨島が歴史的にもはるか昔から韓国の領土であることを知 らないのか? 「獨島」はいつから韓国領か? Q15.あるいは「于山国」の領土は「鬱陵島」だけであり「獨島」は于山国の 領土でないこともあり得るのではないか? 鬱陵島だけでなく「獨島」もみな 于山国の領土だったのを証明する古文献があるのか? Q16.(『世宗実録』』地理志)  『世宗実録』地理志にはどのように記録されているか? A.原文には次のように記録されている。  「于山、武陵二島は県(蔚珍縣)の真東の海中にある。二島はお互いに隔て ること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山 国と称した(于山・武陵二島 在縣正東海中 二島相距不遠 風日清明 則可望見 新羅時稱于山國)」   ここでまず注目すべきは、于山島と鬱陵島をふたつの島に区分して記録し ているだけでなく、二島がお互いに遠くなく、天候が清明であれば見ることが できると記録している点である。   東海の重要な地理的特徴のひとつは海には大きな島が「鬱陵島」と「獨 島」の二島しかないという事実である。鬱陵島周辺にはいくつかの大きな岩の 島があるが、これらは近いので天候が清明でなくともとてもよく見える。   ただ天候が清明なときにだけ小さくお互いに見える島は東海には「鬱陵 島」と「獨島」以外にはない。   世宗時代には鬱陵島を「武陵島」(武陵島・羽陵島、「武」の中国音は 「う」)と呼んだことが『世宗実録』にしばしば出てくる。そして「獨島」を 「于山島」と呼んだ。この事実は17世紀から今日まで古地図において「獨島」 の正確な位置にある、鬱陵島以外にもうひとつの島を「于山島」と呼んだ事実 にも確認される。   『世宗実録』地理志にはこのような「武陵島」と「獨島(于山島)」を 「于山國」と称したと記録し、于山國が「鬱陵島」と「獨島」領土にした海上 小王国であったことを明白に明らかにしているのである。   したがって、「于山國」が西暦 512年(新羅智證王13年)に新羅に併合さ れたことは領土上「鬱陵島」と「獨島」が新羅に併合されたことを意味する。 コメント:『世宗実録』地理志については下記に解説があります。 <『世宗実録 地理志』と于山島> Q17.(獨島は見えるか)   天候が清明であれば、本島に鬱陵島から獨島が見えるのか? A.もちろん見える。鬱陵島と獨島の距離は 92 km(49カイリ)だが、地球が 丸いため海辺では見えるときもあれば見えないときもあるが、200m以上の鬱陵 島高地では天候が清明なら鮮明に見える。特に鬱陵島の聖人峰(高さ 984m) では獨島がはっきりと見え、鬱陵島ではこれを観光資源に利用することもでき る。   鬱陵島と獨島では天候が清明であればお互いに見えるので、鬱陵島で見え る「獨島」をカメラで撮影した人が多い。最近では鬱陵島の Kim Cheol Hwan 氏が肉眼で獨島が見えるときに写真を撮り「新慶北日報(1999年12月11日付) に掲載したことがある(写真参照)。   この写真にも証明されるように『世宗実録』地理志に鬱陵島と獨島の「二 島はお互いに隔てること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができ る」としたのは正確な記録であり、二島がみな新羅時代には「于山國」だった という記録も正確だったのである。 コメント:竹島=独島がみえるかどうかの理論的な考察は下記のとおりです。 <竹島(独島)は見えるか> Q18.(東国輿地勝覧)   他の古文書資料にはどのようなものがあり、その特徴は何か? A.『東国輿地勝覧』と『新増東国輿地勝覧』がある。この本には江原道蔚珍 縣条に「于山島・鬱陵島:武陵島ともいい、二島は県の真東(蔚珍縣)の海中 にある。(中略)(于山島、鬱陵島:一云武陵 一云羽陵 二島在縣正東海中 (以下略)」と記録されている。   朝鮮王朝は 1481年(成宗12年)に『東国輿地勝覧』を編纂し、50年後で ある 1531年(中宗26年)にこれを増補し『新増東国輿地勝覧』を編纂したが、 増補した部分は特に表示した。   現在『東国輿地勝覧』は伝わらないが、その内容は『新増東国輿地勝覧』 にみな含まれている。『東国輿地勝覧』『新増東国輿地勝覧』は単純な官撰地 理書ではなく、朝鮮王朝が領有する領土に対する規定と解説書なのでとても重 要である。この本に収録された地域や郡・県と島はみな朝鮮王朝の領土である。   すなわち朝鮮王朝の朝廷は『東国輿地勝覧』(および『新増東国輿地勝 覧』)に朝鮮王朝が統治する領土の内容を規定し、その領土に対する来歴と地 理的解説を整理して編纂刊行し、国内外にひろく頒布することにより自己が統 治する領土を世間に明白に宣明したのである。   このように『新増東国輿地勝覧』で新増部分でなく元来の『東国輿地勝 覧』部分において、于山島(獨島)と鬱陵島の二島が行政区域上で江原道 蔚 珍縣に属した朝鮮王朝の領土であることを明らかにした。   この資料は獨島が朝鮮王朝であることを15世紀に明確に証明し、世間に 宣明した決定的に重要な資料である。『東国輿地勝覧』の記録は『世宗実録』 地理志を継承したものといえる。 コメント:『東国輿地勝覧』の解説は下記に書いたとおりです。 <『東国輿地勝覧』と于山島> Q19.(『萬機要覧』)   その他に獨島が于山国の領土で、すでに西暦 512年以来、韓国領土である ことを証明する古文献資料にはどんなものがあるのか? A.たとえば 1808年に編纂された『萬機要覧』軍政編がある。この文献には 「『輿地志』にいうには鬱陵島と于山島はみな于山国の地である。于山島は倭 人がいうところの松島である」と記録された。   この資料に引用された『輿地志』という本は現在発見されていない。しか し、これを引用した『萬機要覧』軍政編という朝鮮王朝政府が編纂した本に引 用された上記の記録は二段がまえで「獨島」が于山国であり、韓国領土であっ たことを証明している。   まず最初の文章で「鬱陵島と于山島(獨島)は“みな”于山国の地」とし て、鬱陵島だけでなく「于山島(獨島)も“みな”(二島すべて)昔の于山国 の領土であったことを明確に明らかにしている。   二段目の文章は「于山国(獨島)は倭人がいう松島である」として、于山 島がまさに今日の「獨島」であることをくり返し明らかにしている。   今日とちがい、日本は 1870年代末まで朝鮮の鬱陵島を「竹島」と称し、 獨島(于山島)を「松島」と呼称した。これは日本のすべての学者と日本政府 も認定する事実である。うえの資料の二段目の文章で「于山島は倭人がいう松 島である」としたのは「于山島はすなわち(今日の)獨島である」という意味 なのである。   そうであるから『萬機要覧』軍政編は「獨島」が鬱陵島とともに「みな」 昔の于山国領であることを明確に証明しており、また「獨島」が 1808年以前 に韓国では「于山島」と呼ばれ、韓国の固有領土であることを明確に証明して いるのである。 Q20.粛宗時代に安龍福という人が鬱陵島と獨島を守るのに大仕事をしたと 聞いたが、その時の記録には獨島が朝鮮領という記録があるのか? Q21.(『増補文献備考』)   その他に「獨島」が昔の于山国領であり、韓国の固有領土であることを証 明する古文献にはどのようなものがあるのか? A.たとえば 1908年に大韓帝国政府が刊行した『増補文献備考』がある。こ の本は朝鮮王朝の民族百科事典ともいうべき本であり、1792年編纂された『東 国文献備考』を増補した本である。  『増補文献備考』でも『萬機要覧』軍政編のように同じ本を引用して「輿地 志がいうには、鬱陵、于山は皆于山国の地であり、于山はすなわち倭人がいう ところの松島である(輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也) と記録した。   すなわち鬱陵島と于山島はみな昔の于山国の領土であり、このなかで于山 島は倭人がいう松島(今日の獨島)であることを『輿地志』という地理書を引 用して明白に宣明している。   日帝は、大韓帝国の「獨島」をほかの国がこれまで占有した形跡がない 「無主地」であると主張し、1905年1月28日、日本に領土編入すると日本の閣 議で決定し、1906年3月末、日本は韓国領である「獨島」を侵奪しているとい う事実が知らせた。   大韓帝国政府がこの『増補文献備考』を刊行したのはその2年後の 1908 年のことである。このときは日帝の統監府が大韓帝国政府を指揮監督していた 時期であるにもかかわらず、大韓帝国政府は『増補文献備考』で鬱陵島と于山 島(獨島)は主人のない無主地でなく、于山国のときから韓国領であることを 記録し、日帝の獨島侵奪に強力に抗議する意味をもたせると同時に于山島(獨 島)が于山国の領土で韓国の領土であることを明白にしたのである。 コメント:『増補文献備考』については下記に解説があります。 <朝鮮政府の松島(竹島=独島)認識> Q22.古文献以外に「獨島」が鬱陵島とともに昔の于山国の領土であること を証明する資料はないのか? Q23.(『隠州視聴合記』)   そうなら、日本側で日本の古文献で「獨島」が最初に現れたのはいつから であり、その内容はどうなっているか? A.日本政府が 1960年 韓国政府に送った外交文書によれば、1667年に編纂さ れた『隠州視聴合記』という報告書が日本で初出の古文書である。   日本政府外務省の説明によれば、この本は出雲の官吏(藩士)齋藤豊仙が 藩主(大名、封建領主)の命を受け 1667年(日本の寛文7年)秋に隠岐島 (隠州)を巡視しながら受けた報告を記録し、報告書として作成し奉じたもの である。   この本において初めて獨島を「松島」、鬱陵島を「竹島」と呼称し言及し たという。その記録内容は下記のとおりである。  「隠州(隠岐島)は北海のなかにある。ゆえに隠岐島という。・・・戍亥間 (西北方向)に二日一夜行くと松島がある。また一日の距離に竹島がある。 “俗に磯竹島というが、竹や魚、アシカが多い。神書にいういわゆる五十猛 (いたける)か” 二島(松島と竹島)は無人島だが、高麗を見るにちょうど 雲州(出雲国)から隠岐島をみるごとくである。しかるに日本の西北(乾)の 境界はこの州(隠州:隠岐島)をその限り(限界)とする」   しかし、うえの記録を詳細に検討してみれば、この報告書は航海距離の日 数をとおして「獨島」を「松島」、「鬱陵島」を「竹島」と呼称し、「獨島」 を日本で初めて記録しながら「獨島」と「鬱陵島」がみな朝鮮領であり、日本 領でないことを明白に記録している。 コメント:原文で「然則日本之乾地 以此州為限矣」とある「此州」を韓国で は「隠州」と解釈しましたが、日本政府は「州」を「シマ」と読んで、松島・ 竹島を日本の限界としました。この日本政府の解釈が無理であることは『大日 本史』からうかがえます。その詳細は下記に記したとおりです。したがって韓 国政府の解釈が妥当です。 <大日本史1> <大日本史2> <『隠州視聴合記』の読み方> Q24.(他の日本古文献)   その他に日本では「獨島」を日本領と記録した古文献はないのか? ANS.日本側が現在までに公開発表した古文献には「獨島」を日本領土と記 録したものはない。それどころか、今まで知られた日本の古文献において「獨 島」を記録した古文献はみなこの島が鬱陵島の付属島嶼であり、朝鮮領と記録 しているのである。   一方、韓日間で古文献資料の調査などを活用し「獨島」領有権を熾烈に展 開した過程において日本はすこしでも日本に有利と思われる日本古文献を総動 員して論争を展開してきたという事実を考慮すると、非公開の日本の古文献で 「獨島」が日本領だったと証明する資料が出てくる可能性はほとんどなく、 「獨島」が韓国領と証明する資料が多数出てくる可能性が高まっている。 Q25.(「松島渡海免許」)   日本政府は最近「歴史的」にも「獨島」は日本固有領土と主張し、その根 拠として1600年前後から約80年間にわたり日本が免許証を民間人に与え「獨島」 を実効的に支配、占有したという証拠があると主張した。日本側の主張は根拠 があるのか? ANS.日本政府がそのように主張する根拠とするのは徳川幕府が日本の漁業 家である大谷甚吉と村川市兵衛の両家に 1618年に与えた「竹島渡海免許」と 1661年に与えた「松島渡海免許」である。   このふたつの「渡海免許」は一見すると「竹島(鬱陵島)と松島(獨島) の占有権を日本の徳川幕府がもっているかのように見えるかも知れないが、そ の内容をみれば、かえって「竹島(鬱陵島)」と「松島(獨島)」が朝鮮領で あることをもっと明確に証明する資料である。なぜなら、このふたつの「渡海 免許」は「外国」に渡るときに許可する「免許状」であったためである。   これは重大な争点なので、その一部始終を調べる必要がある。壬辰倭乱 (1592-98)前後、鬱陵島は日本軍(倭寇)に略奪を受け廃墟になってしまった。 そこで朝廷は鬱陵島の空島・刷還政策、つまり鬱陵島を空け、そこに入ってい る民を本土に帰す政策を強化した。   この直後、日本の伯耆国の米子に居住する大谷甚吉なる者が越後という所 を往来した際に颱風にあい遭難して「鬱陵島」に漂着した。大谷が鬱陵島(竹 島)を踏査したところ、人が住まない無人島ではあるが水産資源が豊富な宝に 満ちた島であることを知った。   そこで大谷はこの鬱陵島に渡り、漁をしようとした。しかし当時、鬱陵島 は人が住んでいないとはいえ、朝鮮の領土であることを知っていたので、鬱陵 島(竹島)に渡って漁をするために、まず幕府の許可がかならず必要であった。   なぜなら鬱陵島が日本領でなく外国の領土なので、国境を越え外国に渡り 漁をしても越境罪の処罰をまぬがれるならば、幕府の公式の許可証が必要だっ たためである。   そこで大谷は徳川幕府の官吏と通じている村川市兵衛とともに1616年に竹 島渡海免許を申請して許可を得ようと運動した。   その結果、徳川幕府の官吏で当時の伯耆国の太守職をになっていた松平新 太郎光政が1618年に大谷・村川両家に「竹島渡海免許」を与えた。 コメント1:韓国の愼鏞廈氏は「松島(獨島)渡海免許」の存在を信じている ようですが、そのような免許状は存在しなかったようです。これは池内敏氏に より詳細に研究されましたが、竹島=独島日本領派の塚本孝氏も存在しなかっ ただろうと記しています。 <「松島(竹島=独島)渡海免許」> コメント2:「竹島(鬱陵島)渡海免許」の形式は奉書船制度による奉書でし た。これも御朱印船制度と並んで異国へ渡る際に必要な許可の一形式でした。 また、免許の出された年は、最近の研究では 1618年ではなく 1625年と考えら れています。 <竹島(鬱陵島)渡海事業2> Q26.(付属島の認識)   そうであれば、当時 日本の大谷、村川 両家や「渡海免許」に関連した者 たちは獨島が鬱陵島の付属島嶼であることを認知していたのか? ANS.もちろんである。大谷家と村川家が 1661年「松島渡海免許」を申請 する直前にその申請を論議する過程で 1660年9月5日付の大谷家の亀山庄左衛 門(注1)が村川家の大屋九右衛門に送った手紙に「将来、また来年(1661 年・・・原引用者)より竹島之内松島(鬱陵島内の獨島)へ貴様の舟がお渡り の筈に御座候」として、「松島渡海免許」を幕府に申請した根拠が、すでに 「竹島(鬱陵島)渡海免許」を1618年に受けたので「鬱陵島内の獨島(竹島之 内松島)」に越境して渡る「松島(獨島)渡海免許」は松島(獨島)が「竹島 (鬱陵島)の内」にある島なので、申請するのがあまりにも当然であることを 明白にした。   また、このころ6月21日付で大谷家の亀山庄左衛門が村川家の大屋九右衛 門に送った手紙に「竹島近辺松島(鬱陵島に近い周辺の獨島)に渡海の件」と して、獨島を「鬱陵島に近い周辺の獨島」とみなしたために「竹島(鬱陵島) 渡海免許」を受けた両家は「松島(獨島)渡海免許」も受けるべきと考えてい たことを表している。   また、亀山庄左衛門が1660年9月8日付で筆写して村川家に送った手紙に おいて獨島(松島)にふれ、「竹島近所之小島」(鬱陵島近くの小さな島)に 小舟で渡海する件」として獨島を鬱陵島近くの小さな島、つまり鬱陵島の付属 島嶼と認知した。 (注1)亀山庄左衛門は大谷家の者ではなく、阿部四郎五郎の家臣である。著 者の混同と思われる。また、著者は「松島渡海免許」の存在を信じているが、 これは否定されていることは前回書いたとおりである。 (注2)大屋九右衛門とあるが、これは大谷九右衛門とすべきところを当時の 亀山庄左衛門が書き間違えたと思われる。大谷九右衛門は大谷家の当主。 Q27.日本側は、朝鮮政府が知らぬ間に日本漁民の2家門に鬱陵島と獨島に 国境を越えて漁をしてもいいと許可する免許証を出し、日本漁民が鬱陵島・獨 島近海に出漁したが、朝鮮政府と朝鮮漁民はそのまま傍観したのか? Q28.(対馬の画策)   そうであれば、このとき対馬島主は徳川幕府とどのような関係であり、対 馬島主の要求に朝鮮の朝廷はどのように対応したのか? ANS.島主は江戸(今の東京)徳川幕府の支配下にあったが、日本中世の特 徴である封建制で若干の地方分権的な権利も有していた。朝鮮の世宗時代以来、 日本の朝鮮に対する外交交渉は対馬島島主だけが公式窓口として公認されてき た。   このとき、対馬島の島主である宗義倫は鬱陵島を侵奪し対馬島の住民を移 住しようとして、自身が幕府を代弁するとの前提で正官の橘真重を使節に任命 し、安龍福・朴於屯を釜山に護送するかたわら朝鮮政府に文書を送り、鬱陵島 ではないがそれと似たような別の日本領土である「竹島」があたかも存在する かのような文章をつくり、今後は竹島に朝鮮の船舶が出漁するのをけっして容 認しないので、貴国は(朝鮮漁民の出漁を)厳格に禁止せよなどととんでもな い要求をしてきたのである。   当時、朝鮮の朝廷では安龍福などを牢に入れたまま、執権の左議政 睦来 善、右議政 閔Am 一派の穏健対応論と、南九萬、兪集一、洪重夏らの強硬対応 論が対立した。当時、主導権を握っていた左議政 睦来善、右議政 閔Amは国王 の粛宗に穏健対応論を建議した。「粛宗実録」1693年11月丁己(18日)条には 強硬対応論と穏健対応論がつぎのように記録されている。  <接慰官 洪重夏が王に別れの挨拶をすべく、左議政 睦来善、右議政 閔Am が洪重夏とともに王に拝謁をした。   洪重夏が申し上げるには「倭人のいう竹島はまさにわが国の鬱陵島です。 今、関係ないからといって放置なさるのならそれまでですが、そうでないなら あらかじめ明確に判別せねばなりません。また、万一彼らの民が入って住むよ うになれば、いかにも後日の心配の種になりましょうや」とした。   睦来善、閔Am が申し上げるには「倭人たちが民戸を移し入った事実はま だ明確にはわからないが、これは 300年間も空島にしたままの土地であり、こ れにより事を荒立てて友好を害することはけっしていい方策ではありません」 とした。王は閔Am らの意見にしたがった>   これで睦来善、閔Am 一派は対馬島主に礼曹をとおして次のような穏健な 対応の回答を送った。  <わが国が東海岸の漁民に外洋に出られないようにしたのは、ひとえにわが 国の境地である鬱陵島といえどもやはり遠いので任意の往来を許可しないもの であり、その他の理由はない。   いま、この漁船が貴国の境地である竹島に入ったことでわざわざ捕らえて 送り返す煩雑な手間のうえに、書状まで送ってくださり、隣国の親善の友誼に 感謝する次第である。   漁をして生計をたてている漁民は、海で漂流する心配がたえずあるが、国 境を越え深く入りこんで本格的に漁をすることは法律で厳正に罰するものであ り、今回、犯人たちを法律により罪を問い、今後は沿海地域で規則を厳重に制 定し、これを取り締まるつもりである>   朝鮮の朝廷が対馬島島主に送ったこの回答文書は穏健対応に徹するあまり、 日本側が主張する「竹島」がまさにわが領土である「鬱陵島」であることをよ く知りながら、わざと知らぬふりをして「貴国(日本)の境地、竹島」云々と して「竹島」へ朝鮮漁夫が漁のために往来することを厳重に取り締まり、罰を 与え、その結果を知らせると回答した屈辱的な外交文書であった。万一「わが 国の境地である鬱陵島」という一節が含まれていなかったら、鬱陵島を「竹 島」として日本領土であると主張する日本の文書を、朝鮮の朝廷が外交文書と して承認する証拠文書となってしまうような回答文を作成し送ったのである。 Q29.(朝鮮の対応)   当時、朝鮮の朝廷はそうも弱腰で、国土守護の意志もなかったのか? 穏健対応派の決定を批判する勢力がなかったということか? ANS.そうではない。まず史官たちがこれを取りあげて立ちあがった。   史官たちは「倭人のいういわゆる竹島は、まさにわが国の鬱陵島であるば かりか、鬱陵島の名前は新羅や高麗の歴史書籍にもみえる」と指摘し、鬱陵島 と竹島は一島二名(ひとつの島にふたつの名前)なのに、倭人が「鬱陵島」の 名を隠し、ただ「竹島」だけ持ちだしたのは、わが国の回答書における「貴国 (日本)境地の竹島」「竹島漁採」を禁止するという文言を証拠にして、鬱陵 島を後日占拠する画策であると分析し、わが彊土を他国に与えるのは不可なの で、すぐ明確に判別し、狡猾な倭人をして二度と鬱陵島占拠のむら心を生じさ せないようにするのが当然の道理なのに、(穏健対応派)一部臣下たちはみな 慎重さが過ぎ、鬱陵島占拠の根拠となる文書などつくって与えたり、鬱陵島に 入った罪のない漁民に罪を与えようとする話をしているなどと激烈に批判した。   また、武臣たちは、日本が鬱陵島を持てば、近い時期に東海岸で倭寇のた めに被害をみることになろうと国王に申し上げ、穏健対応派を批判した。   政界元老である南九萬は国王に上訴をあげ、歴史書籍や「芝峰類説」をみ れば、鬱陵島は新羅時代から朝鮮の領土であり、鬱陵島を日本では「竹島」 「磯竹島」というが、祖先が残してくれたわが領土に他国の人間を容認しては ならず、前回、対馬島主に送った模糊とした回答文書は回収し、新しい回答書 を作成して送るべきだと懇々と建議した。   国王の粛宗は強い批判の世論に当惑し、南九萬の建議を採択し、南九萬を 領議政(総理格)に任命し、前回の回答文書は取り消して回収し、新しい回答 文書を作成して対馬島へ送るよう命令した。   こうして1694年(粛宗20年)陰暦8月14日付で新たに作成して送った回答 文書の内容は下記のとおりである。  <わが国の江原道 蔚珍縣に属する島があり「鬱陵」と称するが、蔚珍縣の 東海中にある。・・・わが国の「東国輿地勝覧」という本に記載され歴代にわ たり伝えられており、ことの次第は非常に明瞭である。   今回、わが国沿海の漁民たちがこの島に行ったが、思いがけず貴国の人た ち自ら国境を侵犯してやって来て、お互い対置し、かえってわが国の人を拘束 して江戸に送った。さいわいにも貴国の大君が事情を明確に調べ、多くの路銀 をくだされ帰してくれた。   しかし、わが国の民が漁をした地は本来「鬱陵島」であり、竹が多く産出 するのであるいは「竹島」と称するが、これは一島(一つの島)二名(ふたつ の名)にすぎない。一島二名は単にわが国の書籍に記録されているだけでなく、 貴州の人も皆よく知っている。   今回もらった書簡をみると、「竹島」を貴国の地とし、わが国の漁船の往 来禁止を望み、貴国の人がわが国の境地を侵犯してわが国の民を拘束した失策 は論じられていない。これでは誠実な信頼の道に傷となるといわざるを得ない。   将来、この文の意味を深くくみとり、東都(江戸:今の東京であり、ここ では幕府の将軍をさす)に伝え報告し、貴国沿岸の人たちに徹底して鬱陵島に 往来しないようにし、二度とこのような事が起きないようにするのが相互間の 友誼にとってこの上なく好ましいことである>   朝鮮の朝廷と強硬対応派が作成し対馬島に送ったこの新しい回答文書は 「鬱陵島=竹島」の一島二名をとりあげ「鬱陵島=竹島」が朝鮮領であること を明確に宣明すると同時に日本漁民の「鬱陵島=竹島」への往来を厳重に禁止 することを要求した堂々とした外交文書である。 Q30.日本の朝鮮にたいする公式窓口である対馬島主は朝鮮政府のうえのよ うな堂々たる外交文書にどのような反応を示したのか? Q31.それなら、1693-1695年「鬱陵島=竹島」領有権をとりまく朝鮮と日 本の外交論争はどのように解決されたのか? コメント:「竹島一件」をめぐる日朝交渉は下記に書いたとおりです。 <江戸時代の「竹島一件」> Q32.そうであるなら対馬島の藩主は1696年1月、徳川幕府関白のうえの決 定と命令を即刻遂行して朝鮮側に通告したのか? Q33.安龍福はまたどのような活動をしたのか? Q34.(竹島一件)   安龍福が二度目に日本を往来した後、朝鮮政府と日本政府間に正式外交交 渉と論争終結の文書交換があったのか? ANS.あった。徳川幕府 関白(将軍)が1696年1月28日に鬱陵島・獨島を 朝鮮領土と再確認して日本漁夫が鬱陵島・獨島で漁をすることを禁止する決定 をくだすと同時に、この再確認の決定に関連して対馬島主が対馬島の刑部大輔 を朝鮮に送り朝鮮政府に知らせて外交交渉を終えた後にその結果を幕府将軍に 報告するよう命令するや、対馬島主は帰ってこの外交手続きを徐々に執行し始 めた。   対馬島主は対馬島に帰るや、すぐには公式外交使節を派遣せずに、対馬島 に来ている東莱府の朝鮮通訳に1696年末になってこの外交文書を筆写するよう にさせ、まず朝鮮政府が幕府将軍に送る感謝の書簡を、対馬島主を経由して送 るよう勧めた。   鬱陵島・獨島を朝鮮領と再確認して日本人が国境を越え漁をするのを厳禁 とするという日本徳川幕府将軍の外交文書(対馬島主が代理作成)を朝鮮中央 政府が受取って読んだのは一年後である1697年2月であった。朝鮮政府は日本 側に回答文書を送ったものか、あるいは受取だけをするのかなどを論議し、感 謝の書簡は送らず、日本の決定は了解したので友誼を深めようと言う一般的な 外交書簡のみ送ることにした。   そうして朝鮮礼曹参議の李善溥と日本対馬州の刑部大輔 平義眞の間で二 度にわたり外交書簡のやりとりがあったが、1699年1月、日本側から朝鮮側に 朝鮮の返書を江戸の幕府将軍に伝達したという最後の確認書簡が到着し、外交 手続きがすべて終結した。   これで日本の対馬島主が長崎州の太守と結託して朝鮮の鬱陵島・于山島を 奪取しようとして始めた鬱陵島・獨島領有権論争は1696年(粛宗22年)1月、 徳川幕府将軍が鬱陵島・獨島が朝鮮領であり、日本漁民が越境して漁をするの を禁止することを再確認した決定にしたがい論争を完全に終了し、これに関す る外交文書の交換も1696年1月最終的にみな終えたのである。 コメント:幕府は、竹島(鬱陵島)と松島(竹島=独島)が日本領でないこと は下記のようなプロセスで確認しました。 http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.6981   老中・阿部豊後守は鳥取藩にたいし一七か条からなる質問「御尋の御書 付」を問い合わせた。そのなかで注目される質問は「因州 伯州え付候竹嶋は いつの此より両国え附属候哉」「竹嶋の外両国え附属の嶋有之候哉」の二点で ある。幕府は、竹島が鳥取藩付属であると思いこんでいたようである。  ・・・   幕府の質問に対して鳥取藩は「竹嶋は因幡 伯耆附属ニては(ママ)無御 座候」「竹嶋松嶋其外両国え付属の嶋 無御座候」と明言し、竹島、松島は自 藩領ではないと回答した。   この公文書ゆえに明治時代、内務省や太政官が松島(竹島=独島)を日本 の版図外と決定しました。 <明治時代における松島、竹島放棄> Q35.(幕府の決定)   1696年1月の徳川幕府将軍の決定が、あるいは鬱陵島だけ朝鮮領に再確認 したのか、あるいは獨島を含め鬱陵島と獨島をみな朝鮮領と再確認したのか? ANS.もちろん鬱陵島と獨島をみな朝鮮領に再確認したのである。当時、朝 鮮側も日本側もみな鬱陵島と獨島の価値を今日より低く評価していた。そうし て朝鮮側も鬱陵島住民が何回も倭寇に略奪されるや、島を空にして人が住まな いようにする「空島政策」を実施した。   日本側も鬱陵島を肥沃でない小島程度に低く評価した。このような状況で 鬱陵島の付属島嶼でそれよりもっと小さい岩の島である「獨島」は鬱陵島に含 め、名前もあげない場合が大部分であった。   このために徳川幕府将軍が1696年1月、鬱陵島と獨島を朝鮮領に再確認す る決定と命令をくだすときも簡単な記録には「竹島(鬱陵島)」とだけ記録さ れ、詳細な記録には「竹島」と「その外一島」とし、「その外一島」は「松島 (獨島)」という小さな島であると記録された。   しかるに、簡単な記録において、このときの幕府将軍の決定を「竹島」 (鬱陵島)のみをもって説明、記録する場合でもその付属島嶼である「松島 (獨島)」が含まれるという事実に留意しなければならないということを日本 の明治政府内務省も記録で残している。   1696年1月、日本徳川幕府将軍が再確認した朝鮮領は鬱陵島と獨島をみな 含んでいるのである。 Q36.そうなら、1696年1月以前の鬱陵島と獨島にたいする日本側の領有権 の是非は徳川幕府将軍の朝鮮領再確認決定でみな消滅し、朝鮮と日本の間の領 土論争はみな終結したのか? 徳川幕府が米子の日本人漁民の両家に許可した 「竹島渡海免許」と「松島渡海免許」はみな取り消されたのか? コメント:「松島(竹島=独島)渡海免許」は存在しません。 Q37.そうであれば、今日、日本政府が「獨島」を「歴史的に日本の固有領 土」と主張したのはまったく根拠がないではないか? Q38.(安龍福の処遇)   安龍福は二度も日本へ渡り、鬱陵島と獨島(于山島)を守るのに大きな功 をたてたが、朝廷はかれにそれなりに報償したのか? ANS.報償どころか、罰を与えようとしたが、対日強硬派がやっとそれを押 しとどめた。   安龍福の第1次渡日は日本の大谷家の漁夫に拉致されて行ったのだが、朝 鮮政府側では、空島政策が適用され入れないようになっている鬱陵島に入った という軽い罪だけを問えばいいのであった。   しかし、安龍福の第2次渡日は問題が単純ではなかった。まず当時はすで に朝鮮と日本の関係は、かならず対馬島主の窓口と朝鮮側が対馬島主に刻み与 えた図章に依拠するよう約定されていた。しかるに、安龍福は対馬島の窓口を 無視したまま、直接に伯耆州太守と外交交渉をしたのであり、日本側がこれを 処罰せよと強硬に抗議してきたためである。   また、安龍福の第2次渡日は拉致されたり漂流したのではなく、安龍福が 初めから目的をもって準備したのち、政府の許可なしに故意に国境を越え日本 へ行ったのである。   このために安龍福が帰国して江原道の襄陽に停泊し、文書で前後の事情を 報告するや、朝鮮の朝廷はまず安龍福をソウルに呼んで拘束したのだが、これ をめぐって大臣間で論争がおきた。   左議政の尹址善は穏健対応派の建議を受け、万一、安龍福を死刑に処しな ければ今後よこしまな民の中には他国へ行き、事をしでかす者が多くなるであ ろうから、安龍福には極刑を与えるしかないと主張した。   司憲部がこれに同調し、極刑を主張した。反面、知事の申汝哲は安龍福の 功が罪より大きいのでかれに罪をかぶせてはならないとして即時釈放するよう 主張した。   領中枢知事 南九萬は、安龍福を殺せば対馬島主のみ喜ぶだけであり、国 の弱体をみせると日本との外交において侮られるとして極刑に極力反対した。 領議政の柳尚運は南九萬の主張を支持した。   こうした争論のすえに、国王が南九萬の中間策を採用して安龍福を死刑か ら減刑して幽閉し、のちに強硬対応派がかれを釈放してやった。朝鮮王朝後期 の実学派である大学者の星湖 李翼は安龍福の件に対し「星湖[イ塞]説」の鬱 陵島条で次のように論評した。  「考えるに、安龍福はまさに英雄豪傑である。微賤な一介の漁夫として万死 をかえりみず国家のために強敵と対峙し、邪悪な心根をへし折り、何代も尾を 引いた紛争を終わらせ、一郡県の地を回復したのであり、傅介子や陳湯に比べ れば、その仕事はもっと困難なものであり、英明な者でなければできないこと である」   星湖 李翼以後では五州 李圭景をはじめ、あらゆる実学者が安龍福の業績 を高く評価し、当時の朝鮮朝廷大臣たちの短見と愚かさを辛辣に批判した。 Q39.(空島政策のその後)   17世紀末、日本との鬱陵島・獨島領有権論争がうまく解決された後、鬱 陵島の「空島政策」は廃止されたのか? 鬱陵島の「空島政策」はいつ、なぜ 始まり、17世紀末、「鬱陵島・獨島領有権論争」以後にも空島政策が継続され たなら、どうしてそうなったのか? ANS.倭寇の侵略と略奪のために朝鮮の太宗が1417年(太宗17年)に鬱陵島 「空島刷還政策」を確定し採択した。   高麗末期~朝鮮初期には倭寇が猖獗し、中国海岸と朝鮮沿岸を侵し略奪を 行った。とくに高麗末には倭寇が内陸奥地にまで深く入りこみ、殺戮と略奪を 行った。李成桂が民族の英雄として浮上し、新たに朝鮮王朝をひらく基盤にな った業績のひとつが、全羅道 智異山麓の奥地まで侵入した倭寇を潰滅した功 労であり、これは大きな比重を占めた。   鬱陵島のケースをあげると 1379年(高麗 ウ王5年)7月、倭寇が鬱陵島 に侵入して住民を殺戮し略奪を犯し 15日間とどまった後に引き上げた。  (朝鮮時代)太宗は即位直後の1403年(太宗3年)8月11日に江原道 観察 使の建議にしたがい鬱陵島住民を内陸に呼び寄せたが、島が空であることを知 った対馬島主の宗貞茂は 1407年3月16日、土産物とその間に倭寇が捕らえた 朝鮮人捕虜を送り、対馬島人を鬱陵島に移住させる許可を要請してきた。   太宗は、よしんば島が空であっても他国の人間が国境を越えて入り、紛争 の種になるようなことはできないという理由でこれを断固として拒絶した。   太宗は 1417年(太宗17年)正月、金麟雨を按撫使に任命し、鬱陵島に派 遣し、鬱陵島に居住する民をみな連れて来させた。   しかるに金麟雨が1417年2月25日に帰還しておこなった報告によれば、鬱 陵島に男女86名が居住しているが、継続して鬱陵島に住むことを請願している ので代表格の3名だけ連れてきたが、鬱陵島近辺に付属島嶼の于山島という小 さな島があるとした。   ここに太宗は 1417年2月8日、右議政をして政府の大臣をみな招集させ て大殿会議を開催し、鬱陵島と于山島の管理政策を論議した。圧倒的多数の大 臣たちは鬱陵島に軍事的な鎮を設置して防御し、民を居住させ農業と漁業を継 続させるよう主張した。   しかし、工曹判書の黄喜はこれに反対し、鬱陵島住民を速やかに陸地に刷 出(連れてこさせること)するのが最も安全な方策であると主張した。   太宗は、黄喜が提案した「刷出政策」をよしとして採択した。鬱陵島に居 住する民を刷出すれば鬱陵島は空になるので、これを「空島政策」と呼ぶので ある。   太宗が鬱陵島にたいし「刷出政策」「空島政策」を決定したのは1417年2 月8日であり、獨島に対し公式に「于山島」という名称を使用したのもこのこ ろ(1417年2月5~8日)であった。   太宗は1417年2月8日「刷出・空島政策」を採択すると同時に金麟雨を于 山・武陵島處按撫使(獨島・鬱陵島等地域 按撫使)に任命し、ふたたび鬱陵 島に派遣し、鬱陵島住民を内地に連れて来させるようにした。   于山・武陵島處 按撫使 金麟雨がふたたび鬱陵島に入り居住民をみな刷出 して来た6か月後の1417年8月6日、倭寇が于山島(獨島)と武陵島にまた侵 入したと「太宗実録」は記録している。   しかし、鬱陵島出身者と遺民たちは朝廷の監視を避け、ひそかに鬱陵島に 入って居住しつづけた。于山島(獨島)は人が住まなかったが、鬱陵島(武陵 島)は人が住むのに適当な地域であったためである。   しかるに日本が1592年、壬申倭乱を起こしたとき、倭寇はまた鬱陵島を侵 略し殺戮と略奪を犯した。このとき、鬱陵島住民はほとんど殺戮されたとみら れる。   これ以後、東海岸漁民は鬱陵島に常住するのは念頭になく、季節的に漁業 にでかけ、舟をつくる木を伐って帰るのが慣行であった。   1696年1月、日本の徳川幕府将軍が鬱陵島と獨島を朝鮮領として再確認し、 日本の漁夫たちの越境漁業を禁止した直後、朝鮮の朝廷は鬱陵島にたいする 「刷出・空島政策」はそのまま継続したが、1697年(粛宗23年)4月13日、領 議政 柳尚運の建議にしたがい「巡視制度」「捜討制度」を採択した。  「巡視・捜討制度」とは2年間隔(3年目毎に1回)で東海岸の辺境武将を して規則的に巡視船団を編成し、鬱陵島に入り巡視・捜討して帰ってくる制度 である。 コメント:『太宗実録』からわかることは下記のとおりですが、実録は武陵島 と于山島を混同しているようです。 <『太宗実録』と于山島 > 1.流山国の島民の話では、武陵島に11家族、60名が住んでいる 1.かって朴習がきいたところでは、武陵島に方之用ら15家族が住んでいる。 2.また、武陵島の傍らに小島がある。 3.于山島から帰った武陵島等處 按撫使の金麟雨は3名を連れ帰った。その島  には15家族、86名が住んでいる。 Q40.(『三国通覧図説』)   日本側は 1696年1月、徳川幕府将軍が鬱陵島・獨島を朝鮮領と再確認し、 日本漁夫の漁を禁止した後、この禁令を順守し、鬱陵島・獨島に対する朝鮮の 領有権を尊重したのか? ANS.徳川幕府は鬱陵島・獨島を朝鮮領と再確認して尊重し、日本漁民が国 境を越え鬱陵島・獨島に入って漁をするのを比較的よく防いだ。その結果は諸 文献と古誌に部分的に反映された。   たとえば、日本実学派の最高学者である林子平(1738-1793)は、1785年こ ろ『三国通覧図説』という本を刊行し、その付録地図5枚の一部に「三国接壌 之図」と「大日本地図」を描いた。地図で国境と領土を明瞭に区分して表すた めに国別に彩色したが、朝鮮は黄色に、日本は緑色に彩色した。   林子平は東海の中に鬱陵島と獨島(于山島)を正確な位置に描き、鬱陵島 と獨島をみな朝鮮色である黄色に彩色し朝鮮領であることを明確に表示した。   そうしておいても、後日あるいは無知な日本人たちのごり押しがあるやも しれないと考えたのか、これら地図は鬱陵島と獨島の二島の横にふたたび「朝 鮮ノ持ニ(朝鮮の物に)」という文字を記入し、鬱陵島と獨島が朝鮮領である ことを繰りかえし強調した。   林子平が 1785年に描いた地図などに鬱陵島と獨島を朝鮮領の色で彩色し、 その横に「朝鮮ノ持ニ(朝鮮の物に)」と描いた文字は、「獨島」が論争の余 地なく朝鮮の領土であることを日本側で証明する決定的な資料とみることがで きる。   また同じ時期、徳川幕府の日本地図である「総絵図」という地図も国境と 領土を明白に区分するために、日本は赤色で、朝鮮は黄色で彩色したが、鬱陵 島と獨島を正確な位置に描き、鬱陵島と獨島をみな朝鮮を表示する色である黄 色に彩色し、鬱陵島と獨島がみな朝鮮領であることを明瞭に表示した。   のみならず、この地図も鬱陵島と獨島の横に文字で「朝鮮ノ持ニ(朝鮮の 物に)」と書き入れ、鬱陵島と獨島が朝鮮領であることを繰りかえし明確に表 示した。 コメント:林子平の地図については下記に解説したとおりです。 <林子平の地図>



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