半月城通信
No.127 (2007.7.25)

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    目次

  1. 最終報告書の「竹島外一島」、下條氏への批判
  2. 最終報告書の于山島、下條氏への批判
  3. 最終報告書の明治初期地図、舩杉氏への批判
  4. 『日本地誌提要』の竹島・松島、舩杉氏への批判
  5. 江戸時代の地図の取りあげ方、舩杉氏への批判

  6. 最終報告書の「竹島外一島」、下條氏への批判 2007/ 6/24 Yahoo!会議室「竹島」No.15622   半月城です。   島根県の竹島問題研究会が二年の歳月をかけて作成した<「竹島問題に関する調査研 究」最終報告書>が関係者に公開されました。その中で「半月城通信」が数か所にわたり 批判されているとは心外でした。頭を後から叩かれたような気分です。ホームページが出 版物で批判されるとなると、今後はホームページへ気軽に書き込むのができなくなりそう です。   それでも、あえて拙速のそしりを覚悟で批判文を書かずにはいられない心境です。と いうのも、最終報告書は「竹島外一島」についての見解を中間報告書の時点から180度変 えたからです。とうてい信じられません。   これまで、下條氏の変説には慣れっこになっていましたが、島根県民の税金でまかな われた公共的な研究の結論が、一年も経たないうちにひっくり返るとは驚天動地です。し かも、それについては何らの釈明なり弁解すらありません。昨年、中間報告書を要約し、 島根県の全家庭に配布した『フォトしまね』などまるで存在しなかったかのような書きぶ りです。この一事に「最終報告書」の性格が集約されているといったら言い過ぎでしょう か。   こうした竹島問題研究会の変説を具体的にみることにします。昨年の『フォトしま ね』161号は、明治政府の最高国家機関である太政官が竹島=独島を日本とは無関係であ ると宣言した史実をこう記しました。        --------------------   地籍編纂のため、内務省から1876年に竹島(現在の鬱陵島)に関する照会受けた 島根県は「山陰一帯ノ西部ニ貫付(所属)スベキ哉」と回答したものの、同省(内務省、 半月城注)が最終的な判断を仰いだ太政官は、同島と外一島を「本邦関係無之」とし、日 本領でないとの認識を示した。外一島とは、現在の竹島とみられる(注1)。        --------------------   そもそも、この文章からして疑問でした。『フォトしまね』は、『島根県は「山陰一 帯ノ西部ニ貫付(所属)スベキ哉」と回答した』と記しましたが、そのような回答書は発 見されていません(注2)。問題の「山陰一帯ノ西部ニ貫付スベキ哉」という一節は、島 根県が内務大臣宛に出した伺書「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」の中に、つまり質問 書に登場します。   その文の前後の口語訳は、「山陰一帯の西部に付属するとみられるなら本県の国図に 記載し地籍に編纂しますが、この件はどのように取りはからうべきか御指令をお伺いしま す」となります。   これに対し、問題の最終報告書は、太政官のいう「外一島」は欝陵島であるとして、 下條氏はこう記しました。        --------------------  地籍編纂伺いの顛末を、『公文録』や『太政類典』で確認してみると、島根県が伺いを 立てた「竹島他(ママ)一島」と、太政官が判断した「竹島他一島」には違いがあった。 『公文録』に添付された島根県提出の『磯竹島略図』には、現在の竹島と磯竹島(現在の 欝陵島)が描かれ、島根県では欝陵島と竹島を日本領として認識している。  ところが太政官が「関係なし」とした「竹島他一島」を、『公文録』や『太政類典』に 収録された関連文書で見ると、欝陵島に該当する竹島と「鳥取藩米子の大谷家が漂着し た」松島に関する記載があるだけで、現在の竹島については何も書かれていないのである。  結論から言うと、太政官が「関係なし」とした「竹島他一島」は、二つの鬱陵島を指し ており、現在の竹島とは関係がなかったのである(P2)。        --------------------   この下條説に対する疑問点は下記の三点です。 (1).島根県は「竹島他一島」すなわち磯竹島(欝陵島)と竹島=独島を日本領と認識して   いた。 (2).「公文録」や「太政類典」には、「鳥取藩米子の大谷家が漂着した」松島に関する記   載があるが、竹島=独島についての記述がない。 (3).太政官のいう「竹島他一島」は二つの鬱陵島である。   まず(1)ですが、島根県は「竹島外一島」を日本領という結論をくだしたわけでは ありません。「山陰一帯の西部」に付属するのかどうか、つまり日本領かどうか確信がも てないから内務省へ伺書を提出したのでした。   つぎに(2)ですが、下條氏は、大谷家が漂着したのは「松島」としましたが、これ は「竹島」の誤読ではないでしょうか。これは「公文録」や「太政類典」をみるかぎりで はあいまいなので、さらなる検証が必要です。   その前に公文録の記述をみることにします。その中に島根県が内務省に提出した「日 本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」が添付されましたが、その伺い書に松島は口語訳でこ う記されました。        -------------------- 島根県「由来の概略」の口語訳  磯竹島、あるいは竹島と称する。隠岐国の北西120里(480km)ばかりのところにある。 周囲およそ10里(40km)である。山は峻険で平地はすくない。川は3条ある。また滝があ る。しかし、谷は深く、うっそうと樹木や竹が繁り、水源を知ることはできない。   ・・・  次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐 をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカ) を産する。  永禄年間(1558-1569)に伯耆(ほうき)国・会見郡米子町の商人、大屋(のちに大谷と 改名)甚吉が航海で越後より帰るさい、熱帯性低気圧に遭遇し、この地に漂流した。つい に全島を巡視したところ、すこぶる魚貝に富んでいるのを知り、帰国の日、検使の安倍四 郎五郎 <時に幕名により米子城に居る>にそのおもむきを申し出、以後、渡海を申請し た。安倍氏が江戸に紹介して、許可書を得た。じつに元和4年(1618)5月16日である (注3)。        --------------------   この文章だけを見ると、大谷家が漂流した「この地」が松島であるかのようにも受け 取れます。しかし、漂着した「この地」は竹島(欝陵島)であることを、川上健三氏はこ う記しました。        --------------------   大谷九右衛門の『竹島渡海由来記 抜書控』、『大谷家由緒実記』その他の大谷家文 書によれば、米子で廻船業を営んでいた大谷甚吉は、元和三年(1617年)越後から帰帆の途 上難風に遭って竹島(欝陵島)に漂着し、同島を踏査したところ、無人の孤島で天与の宝庫 であることが判明した(注4)。        --------------------   念のために『竹島渡海由来記 抜書控』をひもとくと、そこにはこう書かれてました。        --------------------  永禄年中 玄番長男 和田九右ヱ門勝宗ニ甥甚吉と申者有之 米子灘江引越住居為 数回 船家業相営居処 越後国ヨリ帰帆之[石切] 与風竹島へ漂流 甚吉全ク島廻り越方等熟思致 処 朝鮮國相隔事 四拾里斗 人家更に無之土産所務之品有之        --------------------   この史料で大谷家が漂着したのはまぎれもなく竹島(欝陵島)とされました。さらに、 大谷家が松島へ渡海を申し出たのは上記に書かれた1617年ではなく、1650年代だったこと が大谷家文書「幕府巡検使に対する請書」から知られており、上記の文脈に合いません。   このように、うえの文章における「永禄年間」以降の説明は松島ではなく、竹島に終 始しているのであり、したがって「この地」は松島ではあり得ません。さらに、下條氏は 「現在の竹島については何も書かれていない」と記しましたが、上記「由来の概略」には 松島について島の大きさや位置、産物などが間違いなく書かれています。それを再掲しま す。        --------------------  次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐 をへだてる80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカ) を産する。        --------------------   この文章は、大谷家文書などをもとにして島根県によって書かれただけに、松島が今 日の竹島=独島をさすことは疑いありません。また、この記述は、島根県が同時に提出し た磯竹島略圖に書かれた位置や大きさに合致することはいうまでもありません。これを今 日の竹島=独島ではないとする下條氏の新説は、すこし我田引水が過ぎるようです。   結局、下條氏の論証は成り立たないので、(3)の「太政官のいう「竹島他一島」は 二つの鬱陵島である」という結論が誤りなのはいうまでもありません。『フォトしまね』 の重大な記述を変えるのに、何とも杜撰な論証といわざるを得ません。変説は、もっとき ちんとした論証を行ってからにすべきです。   それでも下條氏が、公文録付属の磯竹島略圖に書かれた松島を今日の竹島=独島であ ると認めたのは一歩前進ではないでしょうか。ま、昨年6月、漆崎氏に協力していただき、 私が磯竹島略圖を初公開した甲斐はありました。   それにしても、焦点になっている重要な磯竹島略圖を最終報告書に掲載しなかったの はなぜでしょうか? 島根県に不利な史料で一部の読者を動揺させないためでしょうか?     この磯竹島略圖に関連して、舩杉力修氏が最終報告書でコメントを書いていますが、 それへの批判は後日にゆずります。なお、磯竹島略圖を付属している公文録などの重要史 料は下記で写真を見ることができます。 ・公文録、内務省之部-明治10(1877)年 ・太政類典、「竹島外一島 版図外ト定ム」明治10(1877)年 (注1)「特集 竹島」『フォトしまね』161号、P7 (注2)内藤・朴『竹島=独島論争』新幹社、2007,P226 (注3)同上、P85 (注4)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院、1996(復刻版)P72 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 最終報告書の明治初期地図、舩杉氏への批判 2007/ 7/ 1 Yahoo!会議室「竹島」No.15629   半月城です。   前回、紹介したように、島根県 竹島問題研究会の下條正男座長は最終報告書におい て、明治政府の『公文録』付属の地図「磯竹島略圖」に書かれた磯竹島(竹島)を現在の欝 陵島、松島を竹島=独島と認めました。そのうえで『公文録』本文に書かれた竹島も松島 も共に現在の欝陵島であり、竹島=独島ではないと強弁しました。   一方、同研究会で人文地理学(歴史地理学)が専門の舩杉力修委員は、こうした下條 説を踏襲しているのかどうか、あまりはっきりしないのですが、『公文録』に書かれた 「外一島」は現在の竹島=独島かどうかの断定を避けて、懐疑的にこう記しました。        --------------------   明治初期における日本政府の地理的認識は、地図の分析から、竹島はアルゴノート島 (実在しない島)、松島はダジュレー島(鬱陵島)にあったと考えるのが妥当であり、い わゆる「外一島」が現在の竹島を指していたかどうかは極めて疑わしいといえる(P156)。        --------------------   舩杉氏は、このような疑問をもった背景説明として太政官の版図外指令のあった明治 10(1877)年前後に描かれた日本政府の下記の地図を引用しました。        -------------------- (1)1875年(明治8)陸軍参謀局「朝鮮全図」【図3-15】。 (2)1875年(明治8)陸軍参謀局「亜細亜東部輿地図」【図3-16】。 (3)1876年(明治9)海軍省水路局、海図「朝鮮東海岸図」。 (4)1877年(明治10)文部省「日本全図」。 (5)1881年(明治14)内務省地理局「大日本府県分轄図」(全図)。 (6)1882年(明治15)内務省地理局「朝鮮全図」【図3-17】。        --------------------   しかしながら、これらの地図は「日本政府」の地理的認識を知るには大半が二次的な 意味しか持ちません。文部省や陸軍などが竹島=独島に関していかなる認識を持とうとも、 それは政府部内の一機関の認識にすぎず、地理や領土問題の担当外である政府機関の認識 は決して日本政府の公式見解にはなりえません。   日本政府の公式見解は、1877年ころなら国境画定の役割をもった内務省、および最終 的に太政官が示すことができました。時代がくだると、国境画定機関は、やがて海軍省か ら独立した水路部がになうようになりますが、太政官が「竹島外一島」を版図外とした当 時は内務省の地理局が担当機関であり、その部署で公的な日本地図や地誌が作成されまし た。   さて、政府の日本領土に関する公的な認識を知るうえにおいて、上記(6)の「朝鮮全 図」も参考程度にしかなりません。当時は、日本の地理局が朝鮮領土をすべて正確に認識 するのは望むべくもありませんでした。この地図も除外されるとなると、上記で残るのは 地理局の(5)「大日本府県分轄図」のみになります。   といっても、領土に関する日本政府の公的認識を知るには、上記の(5)だけでは充分 ではありません。舩杉氏は、なぜか地理局発行の他の地図を引用せず、地理担当部署と雑 多な機関の地図とを峻別せず、ミソもクソもいっしょくたにしましたが、地理局発行の地 図はすべて重要です。   上記以外に地理局からどのような地図が発行されたのか、これは書籍『明治前期 内 務省地理局作成地図集成』から容易に知ることができます(注1)。関連する地図は下記の とおりですが、いずれも経緯度が記入されました。 1.明治12年(1879)大日本府県管轄図/地理局測量課 2.明治13年(1880)大日本国全図/地理局地誌課 3.明治14年(1881)大日本府県分轄図/地理局地誌課   明治前期における日本政府の公的認識はあくまでもこの三つの資料を中心に論じるべ きです。まず、(1)「大日本府縣管轄圖」ですが、ここに松島と竹島は掲載されませんで した。この地図作成の二年前、内務省は島根県から提出された伺い書にある「竹島外一 島」すなわち竹島と松島を日本の版図外と判断し、しかも「版図ノ取捨ハ重大之事件」と の認識をもち、念のために最高国家機関である太政官から公的な版図外指令をえました。 そうした経緯からすると、日本の版図を示す同省の地図に竹島(欝陵島)と松島(竹島= 独島)が描かれないのは当然です。   同様に(2)「大日本國全圖」も両島を記述しませんでした。問題は(3)「大日本府縣分 轄圖」です。これについて舩杉氏は「大日本府県分轄図は松島を山陰道として彩色してい る」と報告書に記しましたが、前記の書籍は白黒写真のため、カラーは確認できませんで した。いずれ彩色の具合を確認したいと思いますが、国会図書館の「近代デジタルアーカ イブ」でも色は確認できませんでした(注2)。   舩杉氏は、報告書において地理担当外部署の地図を大きく掲載しましたが、かんじん な地理局の「大日本府縣分轄圖」や、焦点の「磯竹島略圖」はなぜか掲載しませんでした。 同氏は「磯竹島略圖」を伝えた中央日報の記事を「重要な史料」と紹介しながら、核心の 「磯竹島略圖」を掲載しないのは理解に苦しみます。両図は日本にとって好ましい地図で ないだけに、資料の取捨にバイアスがかかっているといったら言い過ぎでしょうか。   なお、「大日本府縣分轄圖」に竹島と松島が描かれたといっても、各府県の管轄図に 描かれたのではなく、「朝鮮」や「魯西亜領 満州」を含む極東図である「大日本全國略 圖」だけに両島が描かれました。したがって、着色は別途確認するとして、モノクロ図で 見るかぎり両島を日本領とみるのは困難です。ましてや、いずれかの府県に所属するもの でもありません。   ところで、これらの地図に書かれた松島と竹島間の距離40里(160km)ですが、舩杉氏 は40里を下記のように72kmとしているのは注目されます。        --------------------   一連の絵図では、両島(竹島と松島、半月城注)の距離はたいてい40里と描かれてい る。これは海里であり、約72kmである。むしろ日本の絵図の方が実際の距離(92km)に近い といえる(P126)。        --------------------   この一節には驚きました。絵図の時代には、経緯度の1分に相当する海里(1852m)の 単位は西洋からまだ導入されていなかったはずですが、人文地理学(歴史地理学)の専門 家が自信たっぷりにおっしゃるので、念のために江戸時代の「里」について調べることに します。   1801(享和元)年に書かれた矢田高当『長生竹島記』にこんな記述がありました。  「隠岐島後より松島ハ方角申酉の沖に当る卯方より吹出す風二日二夜〓り 道法三十六 丁一里として海上行程百七十里程」   矢田は36丁を1里としていますが、1丁(町)は約109mであり、1里は約4kmにな ります。これは、明治の人もそのように理解しました。たとえば、奥原碧雲はこう記しま した。        --------------------   隠岐の西北七十余里にして竹島ありと見ゆるは、まさしく欝陵島にあたり、水路誌に 見えたる海上百四十浬に殆ど符合す(注4)        --------------------   陸上の里と区別するために、海里は「浬」と書かれることは周知のとおりです。ただ、 明治初期には里が海里を意味したこともありました。しかし、奥原は140海里(259km)と70 里をほぼ同じ距離にみていたので、70里は280kmになります。   これについては、なお人文地理学(歴史地理学)専門家のご意見を待ちたいと思いま すが、それにより舩杉氏の信頼性や権威がどうなるか興味津々です。   話が多少わきにそれましたが、結論として、明治初期、国境画定部署であった内務省 の認識、ひいては日本政府の公的な認識は、一貫して竹島と松島を日本の版図外とするも のであり、両島の地理的理解は江戸時代の絵図から作成された「磯竹島略圖」の空間認識 を引き継いだものでした。   これは当然です。内務省は慎重に島根県の伺い書に書かれた竹島、松島の記述や「磯 竹島略図」にもとづいて「重大事」を判断したのですから、同図の空間認識を引き継いだ ことはいうまでもありません。   他方、舩杉氏は「磯竹島略圖」についてこう記しました。        --------------------  上記「磯竹島略図」の解釈についてであるが、以下のことが指摘できる。  ①一連の文書では竹島外一島は日本領ではないとは書いてあるが、現在の竹島が朝鮮領 であるとは書かれていない。現在の独島を韓国領であると日本政府が認めたという解釈は 明らかに間違っている。日本領ではないと規定しただけである。朝鮮領であると証明する には、朝鮮側の史料で、朝鮮王朝が島を実効支配していた根拠を提示しなければならない (P156)。        --------------------   舩杉氏がここにいう「竹島外一島」が竹島と松島を指すのかどうか、かならずしも明 確ではないようですが、ここではそれを「磯竹島略圖」に描かれた竹島と松島、すなわち 欝陵島と竹島=独島であるという理解で議論を進めることにします。   たしかに『公文録』や「磯竹島略圖」には、現在の竹島=独島が朝鮮領とは記されて いません。しかし、同省が竹島、松島を日本の版図外と判断するにあたり、元禄時代にな された朝鮮との外交交渉の記録を精査し、その時に日本が朝鮮国の竹島(欝陵島)領有権 を認めた交渉結果をそのまま受けいれました。これは暗に内務省が竹島外一島を朝鮮領と 認めたことを意味するのではないでしょうか。   また、舩杉氏は「朝鮮領であると証明するには、朝鮮側の史料で、朝鮮王朝が島を実 効支配していた根拠を提示しなければならない」として、話を国際法へ飛躍させています が、この主張は日本政府の主張にすら反するのではないでしょうか。国際法の専門家であ る芹田健太郎氏はこう記しました。        --------------------   日本の主張は、開国以前の日本には国際法の適用はないので、当時にあっては、実際 に日本で日本の領土と考え、日本の領土として扱い、他国がそれを争わなければ、それで 領有するには充分であった、と認められる、というものである(注5)。        --------------------   この論理を朝鮮にあてはめるとどうなるでしょうか。太政官の版図外指令当時、朝鮮 はやっと開国が緒についたばかりで、国際法で領土を云々するような時代ではありません でした。その一方、当時の朝鮮では官撰史書の『萬機要覧』(1808)などでたびたび「欝陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり」と認識し、日本でもそ れを争いませんでした。それどころか、日本では太政官が松島(竹島=独島)を朝鮮領と 認識していました。朝鮮の竹島=独島領有根拠は、当時としては充分ではないでしょうか。   話が国際法方面へずれてしまいましたが、舩杉氏は、さらにこう続けました。        --------------------  ②絵図の性格についてであるが、この絵図は、一連の文書の添付資料として付けられた もので、享保年間作製の大谷家所蔵絵図を写したものとされる。すでに指摘したように、 この絵図の記載内容は、元禄絵図の内容であり、享保期に鳥取藩が作製し、幕府へ提出し た享保絵図とは異なっている。またこの絵図は江戸時代の絵図であるため、経緯度も記さ れていない。つまり、この絵図は江戸時代中期の空間認識を示したものである。史料を検 討する際には、こうした江戸時代の添付資料ではなく、明治初期における日本政府の竹 島・松島に対する地理的認識について考慮する必要がある(P156)。        --------------------   これについては記述の順序が入れ替わりましたが、私の見解はうえに書いたとおりで す。すなわち、明治初期における日本政府の公的な竹島・松島の地理的認識は「磯竹島略 図」の空間認識を引き継いだ「大日本府県分轄図」に代表されますが、竹島と松島の二島 は日本の領土外という認識をもち、隠岐の沖合に日本の領土は存在しないという認識を もっていました。それは元禄時代に朝鮮となされた「竹島一件」交渉の結末を受けいれた ものであり、両島を朝鮮領と認識したからでした。 (注1)地図資料編纂会編『明治前期 内務省地理局作成地図集成』柏書房、1999 (注2)下記「近代デジタルアーカイブ」で「大日本府県分轄図」を表示可能 (注3)半月城通信「磯竹島略圖」  隠岐島後福浦ヨリ松島ヲ距ル乾位八十里許  松島ヨリ磯竹島ヲ距ル乾位四十里許  磯竹島ヨリ朝鮮國ヲ遠望スル酉戌ニ當リ海上凡五十里許 (注4)奥原碧雲「竹島沿革考」『歴史地理』第8巻第6号、1906、P464 (注5)芹田健太郎『日本の領土』中公叢書、2002、P153 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 【追記】2007.8.3   国会図書館所蔵の『大日本府縣分轄圖』中の「大日本全國略圖」において竹島・松島 は着色されてませんでした。詳細は下記を参照してください。 半月城通信<日本の公的な官撰地図、舩杉氏への批判> 最終報告書の于山島、下條氏への批判  2007/ 7/ 8 Yahoo!会議室「竹島」No.15641   半月城です。   下條正男氏は、安龍福のいう于山島がどこをさすのかについて、またまた主張を変え たようです。まずは下條氏の変説の遍歴をたどることにします。   当初、下條氏は、安龍福が1693(元禄6)年にみた于山島は現在の竹島=独島でなく、 隠岐島を見誤ったものだとしてこう記しました。        --------------------   安龍福が見た于山島とは、どの様な島であったのだろうか。そこで安龍福の発言を手 がかりにしていきたいと思う。それは次の二点である。 (1)于山島は「欝陵島より頗(すこぶ)る大きな島」であった。(『邊例集要』) (2)于山島は「欝陵島の北東に位置する大きな島で、船で一日の距離」にあった。(『竹島紀事』)  ・・・・・・   欝陵島の北東に位置する「竹嶼」を于山島と認識していた安龍福は、欝陵島の東南の 地点で拉致され、そこから隠岐島に向う船上で島影を目撃したため、夕闇の中の隠岐島を 「頗る大」きな于山島と思いこんだのであろう。  実際に隠岐島の面積は、欝陵島の4.7倍程度であったからだ。こうして隠岐島を于山島 と誤認した安龍福は、「竹島は朝鮮領の于山島である」と供述したのである(注1)。        --------------------   下條氏は、于山島が竹島=独島である可能性については、いともあっさり「(欝陵島 の)北東に見える島は、勿論現在の竹島ではない」として、方角違いを理由に否定したの でした。そうしておきながら、欝陵島の「東南」にある隠岐島こそ安龍福がいう于山島 だったと書きましたが、これは明らかに矛盾しています。   なお、竹島=独島は、八方位式でいえば欝陵島の東に位置するので、北東というのは まったくの方向違いというわけでもありません。これについてはすでに書いたとおりです (注2)。   その一方で、この時に下條氏が安龍福の于山島像を「竹嶼」すなわち韓国名のチュク ト(竹島)としなかった事実は注目にあたいします。下條氏は、安龍福は「「竹嶼」を于 山島と認識していた」と理解していたにもかかわらず、安の于山島像を「竹嶼」ではなく、 隠岐島としたのでした。   その理由は、チュクトが「船で一日の距離」という記述に反するためでしょうか?  あるいは「欝陵島より頗る大きな島」という説明に反するからでしょうか?   こうした主張の後、下條氏は『竹島は日韓どちらのものか』においてこう記しました。        --------------------  (元禄9年)安龍福をはじめ 僧 雷憲、劉日夫、李仁成ら11人は、それより先の5月20日、 舟で隠岐島に着くと出雲藩の代官に、自分たちは竹嶋(鬱陵島)へ渡海した朝鮮舟32艘の 内の1艘で、「伯耆国(鳥取藩)へ訴訟ノ為 渡来」したと伝えていた。  ・・・   安龍福はこのとき、「鬱陵 于山両島監税」という実在しない官職を僭称していた。 安龍福としては、「鬱陵 于山両島」と称することで、鬱陵島と于山島を管轄する朝鮮の 官吏としてやってきた、と言いたかったのだろう。つまり、鬱陵島と于山島も朝鮮領であ るという主張である。   鬱陵島は理解ができるとしても、問題は于山島である。   先に『太宗実録』に、太宗17(1417)年2月、于山島から島民を引き揚げることになっ た、と記されていると述べたが、そこに出てくる于山島は竹嶼とも称される鬱陵島の近傍 の小島である。   しかしここで安龍福が言っている于山島は、その竹嶼のことではない。では、どこを 指していたのか? じつは、今日の竹島なのである。安龍福は、于山島を今日の竹島と思 い込み、鬱陵島とともに朝鮮領だと主張したのである(注3)。        --------------------   このように下條氏は冒頭の説を変更して、安龍福のいう于山島は竹島=独島であると 断定しました。ところが最近になって下條氏はまたまた変説をおこなったようです。驚い たことに竹島問題研究会の最終報告書において下條氏はこう記しました。        --------------------  では安龍福は、何故「于山島は松島なり」としたのか。それを知る手がかりは、最終報 告書に収録した「竹島紀事」にある。幕府の命を受け、朝鮮側と交渉した対馬藩は、交渉 の経緯を文献を中心に編年体にまとめ「竹島紀事」としていた。  その中には、対馬藩の取調べを受けた安龍福の証言も記録されており、于山島に対する 安龍福の知見を知ることができる。それによると、安龍福は、欝陵島より「北東に当たり 大きなる嶋あり」、彼島を存じたるもの申し候は于山島と申し候」と証言している。この 証言から見ても、安龍福が主張する于山島は、今日の竹島ではない。安龍福が見たのは、 地図上に「所謂于山島」とされたチクトウ(竹島)である。チクトウは安龍福が漁撈活動 をしていた欝陵島の苧洞から東北に位置し、竹島は欝陵島の東南にあるからである。だが 于山島を松島とした安龍福の証言は、「東国文献備考」の分註に載せられ、歴史的事実と されてしまった(注4)。        --------------------   このように下條氏はみずからの解釈や主張を再度変え、今度は安龍福の于山島像を チュクト(竹島)にしました。最初の段階で下條氏はチュクト説を捨てていたのですが、 それをひっくり返したようです。何とも人騒がせな変説です。   そうなると、自己の当初の指摘「船で一日の距離」あるいは「欝陵島より頗る大きな 島」という考察をどう処理するのでしょうか? チュクトは欝陵島からわずか数kmの位置 なので、船で一日どころか、一時間の距離であり、しかも欝陵島より「すこぶる小さな 島」になります。   下條氏の再度の変説は、いかにも支離滅裂のように見受けられます。しかし、このよ うな見方は私だけではなかったようです。名古屋大学の池内敏氏は、下條氏の隠岐島説を 「荒唐無稽」であるとしてこう記しました。        --------------------   安龍福を虚言癖の男と評価する流れは、近年では下條正男に代表される。しかしなが ら、たとえば安龍福が見た松島(竹島=独島)は竹島/独島ではなく隠岐島だったとする 下條正男の主張は荒唐無稽である。   安龍福が竹島(鬱陵島)および隠岐諸島と区別された島として松島(竹島/独島)を 認知していたことは隠岐・村上助九郎家文書によりはっきりしたが、そもそもから右主張 は『邊例集要』の誤読にもとづく誤謬であった。こうした誤謬がもたらされた背景には、 安龍福を虚言癖の男とする評価への過剰なこだわりがある(注5)。        --------------------   池内氏は、下條氏が「安龍福を虚言癖の男とする評価への過剰なこだわり」から「誤 読」をおかしたと批判しましたが、まさにそのとおりと思われます。安龍福の朝鮮におけ る供述は基本的に手柄話・自慢話なので、それを割り引いて真偽を究明する必要がありま すが、その努力が欠けているようです。   ちなみに、竹島=独島問題の先駆的な研究者である田保橋潔は、安龍福は「徒に大言 を弄する嫌はあるが、(供述は)大體において事實と信ぜられる」と評しました(注6)。 これについては、さらなる検討を要します。   池内氏の痛切な批判に対し、下條氏はまさか意趣返しではないのでしょうが、池内敏 氏の研究を「竹島問題の障害」と極言しました。その衝撃的な問題発言は次のとおりです。        -------------------- 竹島問題の障害   最後に、「竹島問題研究会」が調査研究を進める中で、障害となったものがある。池 内敏氏による一連の『隠州視聴合記』研究である。池内氏の論稿は、韓国側の『独島論文 翻訳選2』に韓国側の主張を補強する文献として紹介された(注4)。        --------------------   よりによって、碩学の研究に対して「調査研究をすすめる中で、障害になった」とい う放言は聞き捨てなりません。見解のことなる研究に「障害」とのレッテルをはるような 手法は、真実を追究する姿勢とはほど遠いものです。しかも放言は下條氏個人の名ではな く、「竹島問題研究会」の名のもとになされたことは重大です。同研究会の品位を疑わせ ます。   かくも下條氏にショックを与えた池内氏の論文については一年前に紹介したとおりで す。そこで下條説に対する批判がこうなされました。        --------------------   下條正男説は、結局のところ「見高麗如白雲州望隠岐、然則日本之乾地 以此州為限 矣」だけを抜き出して読み、誤解した、田川孝三の同じ轍を踏んでいる。先述したように 「見高麗如白雲州望隠岐」のどこにも竹島(鬱陵島)が日本領とは書いていないばかりか、 「隠州視聴合記」すべてを精読してもそうした記述は出てこない。   にもかかわらず、「「高麗を見ること雲州の隠州を望むがごとし」は、高麗(朝鮮) を見ている位置は当然日本領と認識しているわけで、竹島、欝陵島、隠岐島の中で雲州 (島根)から隠岐島を見るように朝鮮が見えるのは、欝陵島だけしかない」[下條正男一 九九六・六九頁]とか「日本領から高麗(朝鮮)を望めるのは、「国代記」の中では鬱陵 島だけである」[下條正男二〇〇四・一七一頁]などとするのは、竹島(鬱陵島)が日本 領と書いてあるとする思いこみである。   そうした思いこみの補強説明として、「『隠州視聴合記』が書かれた当時の出雲藩に は、竹島(鬱陵島)を日本領として認識するだけの事情があった」[下條正男二〇〇四・ 一七一頁]という。その主たる論拠は、米子の大谷・相川両家が竹島渡海を繰り返してい た事実が「隠州視聴合記」に記載されているというところに求められている。   たしかに、大谷・村川両家は、「竹島渡海免許」を受けて、年に一度、竹島(鬱陵 島)へ渡海し、数ヶ月 同島に滞留しながら漁業活動を行った。大谷・村川両家は、竹島 (鬱陵島)および松島(竹島/独島)を将軍家から拝領したと述べているから、これを もって日本領と認識したと考えがちである。   しかしながら、「竹島渡海免許」は、大谷・村川両家が同業の競合者を排除するため に、旗本阿部家を介して得た「渡海免許」であり、したがって竹島(鬱陵島)へ大谷・村 川家および同家に雇われた者以外は渡海できなかった。また竹島(鬱陵島)へは毎年一度 渡海したのみであって、漁期が終われば鳥取藩領に戻ったから、誰もそこに居住しなかっ た。こうした状態は、客観的にみたときに「日本領」であったとは言いがたい。   また、少し後のこととなるが、元禄八年(一六九五)一二月、鳥取藩江戸藩邸は老中 阿部正武の問いに対し「竹島は因幡・伯耆附属にては無御座候」と述べた。これを受けて 翌年正月九日、対馬藩国元家老に対し、「(竹島は)因幡・伯耆江附属と申二而も無之」 「日本人居住候か、此方江取候島に候ハハ今更遣しかたき事候得共、左様之証拠等も無 之」などと述べた[池内敏二〇〇一・一九-二〇頁]。すなわち鳥取藩は、竹島(鬱陵 島)を鳥取藩領としたことがないと述べ、幕府も自分の領土としたことがないと明言して いるのである。   大谷・村川家が竹島(鬱陵島)で排他的に漁業活動をしてきただけであって「日本 領」ではなく、そのようにも認識されてはいなかった(注7)。        --------------------   この批判に対する下條氏の反論ですが、ちょっと首をかしげざるをえません。下條氏 はさきの問題発言につづけてこう記しました。        --------------------   それは池内氏の研究が、これまで日本側が『隠州視聴合記』の「此州」を欝陵島と解 釈し、江戸時代にも竹島を日本領としていたとする見解を、根底から覆すものだったから だ。池内氏は、「此州」を隠岐島と解釈し、鬱陵島を日本の西北限とする日本側の主張は 成立しないとしたのである。   だが「此州」を隠岐島と解釈したのは、池内氏の初歩的なミスである。『隠州視聴合 記』を編述した齋藤豊仙は、隠岐島の位置を説明する方法として、島後の西郷を基点とし、 各方位にあたる地名を挙げた。   基点の西郷から「北西の間」に松島と竹島があり、「此州」から朝鮮がみえるのは、 出雲から隠岐島が見えるのと同じであるとしたのである。松島と竹島の内で、朝鮮を見る ことができる位置にあるのは、欝陵島の外にない(注4)。        --------------------   下條氏の説はつづくのですが、ここまで書いただけで下條氏の問題点は明らかです。 下條氏は、<「此州」から朝鮮がみえるのは、出雲から隠岐島が見えるのと同じ>と書き ましたが、これは池内氏の批判を受けて、「日本領」を「此州」に書き改めたようです。   しかし『隠州視聴合記』にはそのような記述はありません。また、高麗の見える竹 島・松島は『隠州視聴合記』の文脈上で「此州」に含まれません。そもそも、両島が「此 州」に含まれると解釈されるのなら、日本の限界が文脈上「此州」にせよ、あるいは竹 島・松島にせよ、どちらでも日本の限界は「此州」の中の竹島・松島ということになり、 日韓間で「日本の限界」論争が起きる余地はありません。   両国政府共に竹島・松島が「此州」に含まれないと解釈したからこそ、そのような論 争が生じたのでした。これには研究者間でも異論はないようです。結局、<「此州」から 朝鮮がみえるのは・・・・>などという下條氏のくだりは、これもやはり「誤読」といえ ます。   以上のようにたび重なる変説をしてきた下條氏が、実証的な研究で論説にほとんどブ レがない池内氏の論説に対し「初歩的なミス」などとのたまうのは滑稽にみえます。竹島 =独島問題の本当の障害は、たび重なる変説や迷走で世人を惑わせてきた御仁にあるので はないでしょうか。 (注1)下條正男「竹島論争の問題点」『現代コリア』P31,1998年7,8月号 (注2)半月城通信<安龍福の于山島像・竹嶼編、下條正男氏への批判> (注3)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書,P65,2004 (注4)竹島問題研究会『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』P4,2007 (注5)池内敏「隠岐・村上家文書と安龍福事件」『鳥取地域史研究』第9号,2007,P14) (注6)田保橋潔「鬱陵島 その発見と領有」『青丘学叢』第3号,1931,P20 (注7)池内敏「前近代竹島の歴史学的研究序説」『青丘学術論集』第25集,2005,P145 『日本地誌提要』の竹島・松島、舩杉氏への批判  2007/ 7/15 Yahoo!会議室「竹島」No.15672   半月城です。   前回、舩杉氏に対し「磯竹島略圖」などの重要な地図をなぜ「最終報告書」で取りあ げなかったのかと苦言を呈しましたが、同氏への疑問はこれだけではありません。   舩杉氏は人文地理学(歴史地理学)の専門家であるとのふれこみですが、それなら 『大日本府縣分轄圖』と同時期の資料である内務省の地誌をなぜ取りあげなかったのか、 はなはだ疑問です。公的機関にて作成された地誌は地図以上に重要であるといっても過言 ではありません。   その公的な地誌に竹島・松島がどのように記述されたのか、どのように認識されてい たのかを紹介しますが、その前にまず、地理・地誌を公的に担当した機関の変遷を簡単に 次に示します。  1869(明治2)年 民部省に地理司戸籍地図掛を設置  1871(明治4)年 民部省の廃止にともない、太政官 正院(せいいん)の地誌課となる  1874(明治7)年 内務省の地理寮となる  1877(明治10)年 同省の地理局となる   1877(明治10)年3月、太政官は「竹島外一島」を版図外にする指令をだしましたが、 その時の地理担当機関の認識は、その前年の10月に地理寮から島根県へ提出された地籍編 纂の伺い書から知ることができます。そこにおいて地理寮は竹島・松島をこう認識してい ました。  「隠岐(おき)国のかなたに、従来、竹島と呼ばれる孤島があると聞いております。も とより旧鳥取藩の商船が往復した船路もあります(注1)」   地理寮からの伺い書が島根県で処理される過程において、大谷家の「磯竹島略圖」が 島根県から内務省への伺い書に添えられました。したがって、地理寮はその知見も得るこ とになりました。その「磯竹島略圖」に竹島・松島の位置は次のように記載されました (注2)。  隠岐と松島間; 隠岐 島後の福浦より松島を隔てる北西80里(314km)ばかり  松島と竹島間; 松島より磯竹島を隔てる北西40里(157km)ばかり  竹島と朝鮮間: 磯竹島より朝鮮国を遠望する西北西に当り、海上およそ50里(197km)          ばかり   竹島・松島の位置について、内務省は磯竹島略圖の記述と同じような認識をもってい たことが、明治時代の官撰地誌から知れます。すなわち、1878(明治11)年1月に発刊さ れた『日本地誌提要』の「巻之五十、隠岐」に竹島・松島はこう記されました。        -------------------- 島嶼  島津島。・・・  松島。一名島山。海士郡豐田村ニ屬ス。・・・・・・  大森島。・・・  ○本州ノ屬島。知夫郡四拾五。海士郡壹拾六。周吉郡七拾五。穩地郡四拾三。   合計壹百七拾九。之ヲ総称シテ隠岐ノ小島ト云。  ○又西北に方リテ松島竹島ノ二島アリ。土俗相傳テ云フ。穩地郡福浦港ヨリ松島ニ至ル。   海路凡六拾九里三拾五町。竹島ニ至ル。海路凡百里四町餘。朝鮮ニ至ル海路凡百三拾   六里三拾町(注3)。        --------------------   重要な最後の段落を口語訳にします。  ○また、西北にあたり松島・竹島の2島がある。土俗が伝えている。穩地郡の福浦港か ら松島に至る。海路はおよそ69里35町(275km)。竹島に至る。海路およそ100里4町(393km)。 朝鮮に至る海路およそ136里30町(537.3km)。   ここで注目すべきは、竹島・松島の一対が「本州の属島」とされなかったことです。 両島は「本州の属島」でなければ、日本の領土外になります。これは、前年に太政官から 内務省へ「竹島外一島」を版図外にするとの指令があったので、それに従ったようです。   この距離や位置関係はそのまま『大日本府縣分轄圖』中の「大日本全國略圖」(1881) に反映されました。同一の担当機関がその地図を作成したので当然の結果です。   『日本地誌提要』に書かれた島相互の距離を「磯竹島略圖」と比較すると、「磯竹島 略圖」のほうが全体的に少し長くなっています。それでも両者はほぼ似たような位置関係 にあります。   この時、『日本地誌提要』は「磯竹島略圖」が記述した数値を採用しなかったのです が、理由は「磯竹島略圖」の情報を古いと判断したのでしょうか。しかし、より確かだと 信じた情報源が「土俗の伝え」とは頼りない話です。もともと「本州の属島」ではない話 題なので真剣味が薄かったようです。   ま、土俗の伝えにせよ、大谷家の伝えにせよ、竹島は現在の欝陵島、松島は現在の竹 島=独島とされているので、内務省は公的な地誌においても竹島=独島が本州の属島でな い、すなわち日本領でないと確認したことになります。同時に、内務省は隠岐の沖合には その2島しかないと認識していたことも注目されます。   さらに特筆すべきは、内務省が架空のアルゴノート島を描いた地図に惑わされた形跡 がみじんもないことです。アルゴノートは、勝海舟の「大日本國沿海略圖」ですら偽存の 島として点線で描かれていただけに、地図・地誌の専門機関がそれに惑わされなかったの は、さすがというか当然というべきか、とにかく順当な判断です。   以上のような考察の結果からすると、舩杉氏の下記の指摘は的はずれではないでしょ うか。        --------------------   明治初期における日本政府の地理的認識は、地図の分析から、竹島はアルゴノート島 (実在しない島)、松島はダジュレー島(鬱陵島)にあったと考えるのが妥当であり、い わゆる「外一島」が現在の竹島を指していたかどうかは極めて疑わしいといえる(P155)。        --------------------   内務省の認識、すなわち「日本政府の地理的認識」は、江戸時代に竹島・松島へ渡海 し、漁業・商業活動をおこなっていた人たちに伝承された地理的認識や地図にもとづくも のであり、誤った西洋の地図に書かれたアルゴノート島に惑わされた痕跡は皆無です。   それにもかかわらず、あえて舩杉氏がアルゴノートをもちだしたのは、下條説の根拠 を模索したからでしょうか? 下條正男氏は、島根県がいう「外一島」は現在の竹島=独 島であるが、太政官のいう「外一島」は現在の欝陵島であると強弁しました。   舩杉氏はその下條説を支持するつもりでしょうか? また「外一島」を一体どこに比 定するつもりでしょうか? 肝心なところが不明です。   舩杉氏に対する疑問をさらにつづけます。前回書いた「里」と「浬(カイリ)」問題 の続きですが、上記にみられるように『日本地誌提要』でも36町を1里としていることが 明白です。したがって、同書に書かれた「里」は決して「浬」とは解されません。ところ が、舩杉氏は、同書の里数と大差ない「磯竹島略圖」の「里」を「浬」と断言しましたが、 これは明白な誤りではないでしょうか?    舩杉氏がそのような解釈をするところをみると、同氏はそもそも地誌課の『日本地誌 提要』を知らないように見えます。しかし、地理の専門家なら『日本地誌提要』を知らな いはずはないので、同氏はその資料を意図的に排除したと見るべきかも知れません。いず れにせよ、核心になる資料にふれないで「日本政府の地理的認識」を大上段に説く舩杉氏 の論説は、私には支離滅裂なようにみえます。   話かわって、以前、話題になった『大日本史』ですが、そこに書かれた竹島・松島の 位置を『日本地誌提要』とくらべると意外な類似や相違点が浮かびあがります。『大日本 史』は両島の位置を口語訳でこう記しました。 「案ずるに隠地郡の福浦より松島に至るには海上69里、竹島に至るには100里4町である (注4)」   これをみると、隠岐と竹島(欝陵島)間の距離 100里4町は『日本地誌提要』とピッ タリ一致します。しかし、隠岐と松島(竹島=独島)間の距離は69里まで一致して、そ れ以下の35町が一致しません。また『日本地誌提要』は竹島・松島を日本領としなかっ たのですが、『大日本史』は「すでに竹島といい、松島といい、我が版図となした」と記 しました。   これから察するに、『大日本史』は竹島・松島の記述を『日本地誌提要』から引用し たのではなさそうです。その一方、おそらく「竹島に至るには100里4町」という記述 は、両者とも共通な資料から引用したものと思われますが、これは大西教保の『隠岐古記 集』などにもなく、出所はまだ不明です。 (注1)半月城通信「明治政府、竹島=独島の版図外確認」 (注2)『公文録』付属地図「磯竹島略圖」 (注3)『日本地誌提要』巻之五十、隠岐  編纂は、巻之一~巻之三十五は内務省地誌課、巻之三十六~巻之七十七は元正院地誌課。 (注4)『大日本史』巻308,志3、隠岐国4郡 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 江戸時代の地図の取りあげ方、舩杉氏への批判  2007/ 7/22 Yahoo!会議室「竹島」No.15687   半月城です。   島根大学の舩杉氏は専門が歴史地理学だけに、さすがに絵図や古地図にくわしく、最 終報告書に数多くの古地図などを掲載しました。これまで絵図や古地図は、日本では舩杉 氏が指摘するように「その記載の不正確さから、研究が重要視されていない」だけに、異 例の取り組みといえます。   元来、地図は視覚的に訴える力が大きいだけに、ややもすると数枚の古地図をとりあ げて領土を論じがちですが、実のところ、不正確な古地図は国際裁判においてはせいぜい 伝聞証拠くらいの価値しか持たず、特に測量にもとづかない地図は証拠能力に乏しいのが 実状です(注1)。   それにもかかわらず、舩杉氏がそうした古地図などをなぜ熱心に追求するのか、率直 な疑問がわきます。それを同氏はこう記しました。        --------------------   不正確かどうかを重要視するのは、絵図を、現代の価値観をもって分析する視点であ るといえる。検討の際には、現代の地図に比べて不正確かは重要ではない。絵図の作製過 程や作製の背景を分析することは当然のこと、それだけでなく、絵図の分析を通して、絵 図の作製された時代の空間認識、価値観を読み取ることが重要であるといえる(P103)。        --------------------   舩杉力修氏は、最終報告書においてどのような「検討」を目的としているのか不明で すが、ともかく「絵図の作製された時代の空間認識、価値観を読み取ることが重要」と考 えているようです。   そう説くなら、舩杉氏はなぜ最も重要な『公文録』付属の「磯竹島略圖」について 「空間認識、価値観を読み取る」ことを避けたのか、また同図の写真をなぜ最終報告書に 載せなかったのか疑問が残ります。同氏の弁はこうです。        --------------------   この絵図(磯竹島略図)は江戸時代の絵図であるため、経緯度も記されていない。つ まり、この絵図は江戸時代中期の空間認識を示したものである。史料を検討する際には、 こうした江戸時代の添付資料ではなく、明治初期における日本政府の竹島・松島に対する 地理的認識について考慮する必要がある(P156)。        --------------------   経緯度も記されていない江戸時代の絵図は「史料を検討する際には」無用と言わんば かりの書きぶりですが、これは先の、絵図における空間認識の重要性を説いた前言とどう 調和するのでしょうか? ともあれ、舩杉氏は「磯竹島略圖」に関する磯竹島や松島が現 在の欝陵島や竹島=独島と読み取れるのかどうかについては言及を避けました。   同図の解釈について最終報告書の責任者である下條氏は「『磯竹島略図』には、現在 の竹島と磯竹島(現在の欝陵島)が描かれ」たと記しました。その一方で同会において地 理・地図担当の舩杉氏がなぜ磯竹島と松島の比定を避けたのか理解に苦しみます。   なお、舩杉氏が上記の口実に用いた「明治初期における日本政府の竹島・松島に対す る地理的認識」ですが、これは前回書いたように、担当部署である内務省の地図や地誌か ら両島は日本領ではないことが読み取れます。   さらに時代をさかのぼって、江戸時代における「日本政府の竹島・松島に対する地理 的認識」はどうだったのでしょうか? 私は、舩杉氏はこの「検討」のために古地図を考 察したのだろうとみたのですが、どうやら違ったようです。下記のように曖昧な記述をす るにとどまり、日本政府の認識には言明がないようです。        --------------------   これまでの竹島研究では、元禄の竹島一件の際に、鳥取藩が幕府へ回答した文書のな かに、竹島(現在鬱陵島)・松島(現在竹島)が因幡・伯耆の附属ではないという記載を もって、松島(現在竹島)も日本領ではないということを示すとの指摘がある(内藤、 2006)。   しかしながら、当時の幕府関係者が元禄の竹島一件について編纂したとみられる「磯 竹島事略」(別名「磯竹島覚書」、筑波大学附属図書館所蔵)によれば、同時期に幕府は、 松江藩に対しても、両島について照会している。   したがって、因幡、伯耆に付属しないという鳥取藩の回答のみをもって、わが国は松 島(現在の竹島)を放棄したという解釈は再検討されるべきであり、今後文献や絵図など で隠岐国に所属していたかどうかを検討する必要があると考えられる。        --------------------   この一節を読んだ感想ですが、一年前の『「竹島問題に関する調査研究」中間報告 書』からほとんど進歩していないようです。同書ではこう記されました。        --------------------   一方、日本側の主張、見解も究明が必要な課題を抱える。その一つが、鬱陵島と現在 の竹島が鳥取藩に帰属した時期を問い合わせた江戸幕府に、両島が同藩に属さないとした 1695年12月25日付の回答だ。   現在の竹島が当時、同藩に属さないと考えられていたとしても、日本領との認識がな かったとは言えず、ましてや朝鮮領とする証明にはならないが、今後検証を深めたい。        --------------------   舩杉氏は、竹島・松島が「因幡、伯耆に属さないという回答のみ」を問題にしました が、鳥取藩の回答はそれだけにとどまりません。先の中間報告書にも書かれているように、 鳥取藩は「松島は、何れかの国に付属する島ではないと聞いています」という追加回答を したのでした。   その回答をさらに裏打ちするかのように、舩杉氏がふれた松江藩の回答書でも、竹島 はほとんど松江藩に関係がないとしました。しかも、その回答書で注目されるのは、松島 (竹島=独島)について一切ふれなかったことでした。   ところが、舩杉氏はその回答書を元に「わが国は松島(現在の竹島)を放棄したとい う解釈は再検討されるべき」と記しましたが、なぜそのような発想が生まれたのか理解に 苦しみます。   念のために、その回答書をみておきます。1696(元禄9)年1月26日付で幕府へ送られ た松江藩の回答書の翻刻文を(注2)に、口語訳を次に掲げます。        -------------------- 1.同年1月26日、松平出羽守留守居役を召し寄せて質問をしたところ、書付をもって返   答が来る。     口上書                   松平出羽守 1.雲州、隠州の者が自分の為に働いて磯竹へ渡海した件は及ばずながら承っています。  しかしながら、近年の様子は存じません。 1.伯州米子の町人、村川市兵衛 大屋九右衛門は雲州の雲津浦より直に磯竹へは渡海せず、  隠岐国まで乗船し、そこから磯竹へ渡海したと聞いています。 1.竹島の件、雲州では磯竹と申しています。 1.雲州隠州より磯竹へは海路のため、右の両国の者が米子の者に同船して行く件で希望を  申し出なくとも、(村川)市兵衛、(大谷)九右衛門の船子共が年々雇って出かけています。 1.右のとおりであるので、自分として磯竹へ渡海するのでは決してありません。  しかしながら、隠州のことは近年 御代官下へ置かれたので、委細は存じません。 1.委細のことをお尋ねなされるなら、国元へ申しやり、吟味致します。                               以上  正月26日                      松平出羽守        --------------------   この文からわかるように、松江藩主の松平出羽守は、自藩に所属する出雲国(雲州) の者が米子の大谷・村川家の船に乗って竹島(欝陵島)へ渡海していることは知っている が、藩として渡海したのではないし、また、近年(1688)は隠岐国(隠州)の管理が松江藩 から幕府直轄の代官のもとにおかれたので、くわしいことは知らないと回答したのでした。 松島は論外でした。   この資料からは、舩杉氏のいうような「わが国は松島(現在の竹島)を放棄したとい う解釈は再検討されるべき」という根拠は何もなさそうです。これはその後の歴史をみて も明らかです。松島の放棄を補強するかのように、幕府は後世の今津屋八右衛門事件の後 処理において松島(竹島=独島)への渡海を実質的に禁止したのでした(注3)。   このように「竹島一件」以降の江戸時代における日本政府の竹島・松島に対する認識 は自国領に非ずという政策で一貫していました。そうした認識を地図上で確認するなら、 地図の対象は幕府が描いた官撰地図に限定すべきです。個人が自己の主観で描いた地図は、 それがいかに優れていようとも日本政府の認識とは無縁です。   そうした基本的なことを無視してか、舩杉氏は幕府の官撰地図にはまったくふれな かったなかったようでした。ま、伊能忠敬の地図にせよ、幕府の絵図にせよ、官撰地図は すべて竹島・松島を描いていないので、江戸時代の官撰地図に言及するのは竹島問題研究 会としてはタブーなのかも知れません。   ともかく、核心になる幕府の官撰地図に言及せず、雑多な古地図をあれこれ考察する 手法は隔靴掻痒の観があります。 (注1)荒木教夫「領土・国境紛争における地図の機能」『早稲田法学』74巻3号、P1,1999 (注2)『礒竹島覺書』国立公文書館所蔵 一 同年正月二十六日 松平出羽守留守居召寄 相尋候趣、書付を以 返答申来     口上書                   松平出羽守 一 雲州隠州之者 為自分働磯竹江渡海候之儀 不及承候 乍然隠州近年之様子不存候 一 伯州米子町人 村川市兵衛 大屋九右衛門 雲州雲津浦より直ニ磯竹江者不致渡海   隠岐國迄乗舩 彼地より磯竹江渡海仕候由承候 一 竹嶋之儀 雲州ニ而者 磯竹と申候事 一 雲州隠州より磯竹江海路ニ而候故 右両國之者 米子之者ニ同舩仕参候儀望不申候得共   市兵衛 九右衛門 舩子共年々雇申候付罷越候事 一 右之通候故 自分として磯竹江渡海之義 決而無之候 乍然隠州之儀者   近年御代官所ニ成候故 委細不存候事 一 委細之儀 御尋被遊者 國元江申遣 吟味可仕候 已上    正月二十六日                  松平出羽守 (注3)半月城通信<「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海>



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