安倍首相の大きな失敗
メーリングリスト[AML 13045]
2007.4.1
半月城です。
アメリカ下院のホンダ議員は「武士の情け」でしょうか、「慰安婦」謝罪決議案につい
て「安倍首相に対する礼儀から、訪米まで一切の動きを控える」との方針を明らかにしま
した。
ホンダ議員は、その猶予期間中に「首相には、米国民の理解を得るよう試みてほしい
と思っている」と述べましたが(注1)、はたして安倍首相はその期待にこたえられるで
しょうか?
その答は、3月26日の予算委員会における安倍答弁にうかがえるのではないかと思わ
れます。首相は共産党の吉川春子議員の質問にこう答えました。
--------------------
[首相] 何回か答弁を申し上げていますが、私は河野官房長官談話を継承していくとい
うことを申し上げているわけでございまして、そしてまた慰安婦の方々に対しまして御同
情を申し上げますし、またそういう立場に置かれたことについてはおわびも申し上げてき
たとおりでありまして、今まで答弁してきたとおりであります。
・・・・・
[吉川] 河野談話の内容と、それから、首相官邸での記者会見の強制性はないという発
言は矛盾すると思いますが、談話を受け継ぐとおっしゃるならば、この発言は取り消され
たらいいと思うんです。いかがでしょう。
[首相] そうした発言も含めて今 私は答弁をしているわけでございますが、この河野
官房長官談話を継承していくということでございます(注2)。
--------------------
このやりとりは、私には禅問答のように聞こえます。「狭義の強制性はなかった」と
いう首相発言と、「慰安婦の募集については・・・官憲等が直接これに加担したことも
あった」という河野談話とは矛盾するだけに、一体、首相は「狭義の強制」発言を取り消
したのかどうか、まったく不明瞭です。
こう感じたのは私だけではなかったようです。アメリカもマスコミも首相の「謝罪」
を不明瞭ととらえたようでした。
--------------------
米紙3社、安倍首相の慰安婦発言を批判
米国の主要紙3社が旧日本軍従軍慰安婦に関連した安倍首相の発言と不明瞭な謝罪に
ついて一斉に批判する記事を載せた。ワシントンポスト(WP)は24日、ニューヨーク
タイムズ(NYT)とウォールストリートジャーナル(WSJ)が28日にそれぞれこう
した内容の記事を掲載している。
NYTは「安倍首相が慰安婦問題について謝罪するとしながらも、日本政府の役割は否
認している」とし「北朝鮮へら致された日本人被害者らのおかげで人気を集めた同首相が、
慰安婦動員の強制性を否認したのは偽善」と指摘した。
また、同紙は「安倍首相は慰安婦女性が米下院で行なった証言を強制動員の証拠に見な
せないか、という野党議員の質疑に対し、言及さえ避けている」とし「昨年9月、首相に
なって以降支持度が急落している」と付け加えた。
WSJも社説で「安倍首相は、小泉前首相の靖国参拝で悪化した周辺諸国との関係を改
善するとして、昨年9月の就任直後に韓国と中国を相次いで訪問した」とし「そうした安
倍首相がこうしたとんでもない大きな失敗をした」と指摘した。
また、同紙は「安倍首相の慰安婦関連発言が韓国と中国など東アジア諸国を激怒させ
た」とし「米下院で、日本の謝罪を求める決議案が上程されるなど米国でも日本を非難す
る世論が広がっている」と伝えた(注3)。
--------------------
安倍首相はNYTに「偽善」とまで評されましたが、それも無理ありません。「慰安
婦」問題で先駆的な役割をはたした龍谷大の戸塚悦郎教授はこう語りました。
「拉致はあれだけ追求し、慰安婦にはそっけないではダブルスタンダード。安倍さんは
国家を愛して、人間に向き合っていないのではないでしょうか(注4)」
同様に吉見義明・中央大教授もこう語りました。
「安倍さんが拉致問題に熱心に取り組むのは正当だけれど、従軍慰安婦にも同じ態度で
臨まないと国際的に理解されないんじゃないか(注4)」
ダブルスタンダードに基づく行動は国際的に理解されません。そのうえ、安倍首相は
「慰安婦」の強制連行で広義と狭義を区別する姿勢をあらわにしたものですから、頼りにし
ている「同盟国の米国まで敵に回してしまった」のも無理ありません。イギリス「エコノ
ミスト」誌の論評を「しんぶん赤旗」はこう伝えました。
--------------------
論評は「安倍晋三は日本の首相となってわずか六カ月で、戦争中の歴史というやぶに
突進することによって自らの国際的な評価をずたずたにしてしまった」と書き出していま
す。
安倍首相が日本政府の「慰安婦」への関与について「強制の証拠はない」と述べたこ
とは、「自らが体験した奴隷状態を証言してきた多くの年老いた女性たち」を驚かせたと
指摘。その発言は「軍の文書庫から発見された証拠にも反する」と述べています。
論評は、強制を認めた一九九三年の河野談話を首相は引き継ぐと言ったのに、すぐま
た「強制はなかった」とする答弁書を確認したことを紹介。「安倍氏は近隣諸国との関係
で最近日本が進めてきた成果の多くを一撃でご破算にしたと同時に、同盟国の米国まで敵
に回してしまった」と解説しています。
論評はさらに「安倍氏の無能ぶりを測る物差し」は、「慰安婦」問題で「北朝鮮が道
徳的な高みに立つのを許した」ことだと指摘しています(注5)。
--------------------
エコノミスト誌は「安倍氏の無能ぶり」を極論しましたが、首相の統率力にも問題が
あります。首相が河野談話を継承することで問題を沈静化じようと努めているのに、あろ
うことか、首相の膝元から火に油をそそぐような発言が飛び出しました。
下村博文・官房副長官は 3月25日にラジオ日本に出演し「従軍看護婦や従軍記者はい
たが、従軍慰安婦はいなかった」「慰安婦がいたのは事実だが、私は“一部の親が娘を
売った”とみている」などと、日本軍の関与をすべて否定するかのような発言をしました。
この発言には政権与党である公明党すらあきれたのか、北側幹事長は下村氏をこう批
判しました。
--------------------
公明幹事長が下村副長官を批判 慰安婦めぐる発言で
朝日新聞、2007年03月28日
公明党の28日午前の記者会見で、下村博文官房副長官が従軍慰安婦をめぐり「直接
的な軍の関与はなかったと認識している」と記者会見で語ったことについて、「官房副長
官は、自分の意見を言う立場にない。安倍首相をしっかり守るのが役割で、個々人の意見
についての発言は、慎重にしてほしい」と批判した。
安倍首相が河野官房長官談話を継承する考えを繰り返しているなか、問題を蒸し返す
形で下村氏が自らの意見を表明したことに、強い不快感を示したものだ。
下村氏は26日の会見で、軍の関与を否定する見解を表明。その後記者団に、「(強
制連行を示す公的資料が)発見されなかった以上、軍や官憲による強制連行はなかったと
いうのが、個人的な見解だ」と説明した。
--------------------
下村氏は、前回紹介した「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」では安倍晋
三事務局長の下で事務局次長を務めた人物でした。かれらの心ない発言が「慰安婦」をどれ
だけ苦しめているのか、そんな思いやりは微塵もないようです。そんな感性が外国の批判
を呼びこんでいるのです。オランダやカナダ政府からこんな疑問がだされました。
--------------------
オランダのベルハーゲン外相は23日、同国 外務省ホームページで「日本は1993年の
声明(河野談話)で日本軍が第2次大戦で数千人の女性を性奴隷にした点を認めたが、日
本政府の最近の発表ではこれらの認識に疑問が示されている。日本の新しい声明は歴史的
証拠と反し、被害者やその家族を苦しめている」と主張した。
また、カナダのマッケイ外相は20日の国会での答弁で、「カナダは第2次大戦で多く
の苦痛を味わった女性に対して大きな同情心を持っている。彼女たちへの誤った行動やそ
の苦しい時代を決して忘れてはならず、この問題は放置されてはならない」と語った。同
外相はさらに「日本の外相にこの意見を今週中に伝える。日本の首相の発言に対して遺憾
を表明し、女性たちに対する謝罪問題には明確な態度を要請する」とも述べた(注6)。
--------------------
カナダでは政府だけでなく、議会も動き出しました。下院の国際人権小委員会はアメ
リカ議会よりさらに一歩踏み込んで、日本政府は慰安婦に正当な補償をするよう決議しま
した。
--------------------
「日本政府に圧力」 慰安婦めぐり決議 カナダ下院小委
朝日新聞、2007年03月30日
カナダ下院の国際人権小委員会は30日までに、第2次大戦中の「従軍慰安婦」問題を
めぐり、日本政府に謝罪を求めるべきだとする決議を採択した。決議は上部の外交国際開
発委員会で4月に審議される見通しだ。
決議は、日本の国会が公式の謝罪決議を出し、被害者に正当な補償をするよう、カナダ
政府が必要な措置をとることを要請している。
・・・・・
決議を推進したマーソトン議員は声明で「安倍首相が公式に謝罪して被害女性に補償す
るよう圧力をかける必要がある」と述べた。またブラック議員は、カナダ政府が昨年、中
国系移民に対する過去の不公平な人頭税に対して謝罪したことを指摘して、「アジア女性
に対する歴史上の不正を正すため、さらに影響力を使うべきだ」と主張している。
--------------------
カナダから、オランダから、イギリスから・・・世界のあちらこちらから安倍首相に
対する疑問の声があがり、日本政府は「慰安婦」問題に関するかぎり四面楚歌になった感が
あります。
この問題の解決に向けて、日本政府は米国務省のトム・ケーシー副報道官が要求した
ように「過去に犯した罪の重大さを認める率直かつ責任ある態度をもって対処していくべ
き」です(注7)。
(注1)朝日新聞記事「慰安婦へ日本は誠実でない、首相訪米後の採決をめざす」2007.3.31
(注2)「しんぶん赤旗」2007.3.30
(注3)中央日報、2007.03.28
(注4)朝日新聞記事<少女に甘言「拉致と同じ」>2007.3.28
(注5)「しんぶん赤旗」2007.3.30
(注6)朝鮮日報、2007/03/26
(注7)朝鮮日報、2007.3.28
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
最近の『隠州視聴合紀』研究
2007/ 6/ 3
Yahoo!掲示板「竹島」
半月城です。
『隠州視聴合紀』の著者を多くの人は斉藤豊仙としてきましたが、これは誤りのよう
です。実は、その親である斉藤豊宣が書いたとするのが正しいようで、池内敏氏はこう記
しました。
--------------------
はじめ「斉藤豊宣」とされていたものが、川上健三以後は「斉藤豊仙」と表記するの
が一般化していることがうかがえる。その一方で松浦康麿[1988]を受けてであろうか、島
根県では「斉藤豊宣」とするのが一般的であった。斉藤豊宣と斉藤豊仙が親子であること
は松浦康麿[1988]が初めて指摘したが、そのことと『隠州視聴合記』の著者との関係につ
いては、これまできちんと解明されてこなかった(注1)。
--------------------
なお、池内氏自身 2005年まで著者を斉藤豊仙としていましたが、それを修正した形
になりました。このように、学者は自らの論説を修正するときはその理由を明らかにする
のが学者なりの「作法」といえます。下條正男氏も見習ってほしいものです。
この作法にしたがって、内藤正中氏も『隠州視聴合記』の解釈を変更しました。対象
になったのは、国代記における日本の限界をめぐる解釈です。まずは、国代記の口語訳を
記します。
国代記
隠州は北海の海中にあるので隠岐島という。これより南は雲州美保関までは35里、
東南は伯州赤崎浦まで40里、西南は石州温泉津まで58里、北から東は住むべき地がな
い。西北に一泊二日行くと松島がある。また一日ほどで竹島がある・・・
この二島は無人の地である。高麗をみるに雲州より隠州を望むごとくである。しから
ば即ち日本の西北(乾地)は此州をもって限りとなす(注2)。
内藤氏は、この文の最後に書かれた「此州」を「この島」と解釈する田川孝三説に賛
成して、日本の西北の限界を竹島(欝陵島)としましたが、今回その説を改めてこう記し
ました。
--------------------
この(『隠州視聴合紀』の)記述は隠岐国についての位置関係を記したものであり、
関連するかたちで西北にある竹島・松島に言及しているのである。というわけで末尾の
「日本の乾地 以此州為限矣」の文言については、「此州」を隠岐国とみるか、鬱陵島
(竹島一)みるかで意見が対立している。
私は、幕府の特別許可を得て竹島領海事業を行なっていた時期であること、一八二三
年の『隠岐古記集』で「今は朝鮮人来て住すと言ふ」の記述があることから、日本の西北
境は竹島と考えると、二〇〇〇年刊行の拙著『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』のな
かで記していた。
しかし、最近の池内敏による詳細な検証(『大君外交と「武威」』参照)から、「此
州」は隠岐国とみるべきであるとするのが正しいと思うに至った。ただし、隠岐国を日本
の西北の限界であるとしても、竹島・松島が朝鮮国の島だということにはならない。この
史料は、そのことについては何らの言及もしていないのであるから、領有権をめぐる論争
に利用するのは誤っている。
なお、一七七八(安永七)年に作成された長久保赤水の官許「日本輿地路程全図」の
なかでは、竹島(鬱陵島)のところに「見高麗猶望雲州隠州」と記してある。これは明ら
かに『隠州視聴合紀』にある「見高麗如自雲州望隠岐」の記述を参照して記したものと思
われる。しかもこの地図では、松島・竹島を外国領として彩色しているのである。この時
期は幕府の竹島渡海禁止令によって、竹島が外国領であることが周知されていたためであ
る。
ところが外務省のホームページは、「日本は古くより竹島(当時の「松島」)を認知
していた」といって、その例証として長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』をあげてい
るが、その意図するところがわからない。竹島(鬱陵島)の存在を認知していたことには
なっても、外国領と彩色されているものをもって、日本の領有権を確立していたとする根
拠にならないことは明らかである。
--------------------
半世紀前、日本の限界とされた「此州」が、此島すなわち竹島(欝陵島)なのか、そ
れとも隠州すなわち隠岐なのか、日韓間で外交論争になりました。この問題は、池内敏氏
の研究がきっかけになり、内藤正中氏が自説を変更するにいたり、下條正男氏以外の存命
中の学者は、日本の西北の限界を隠岐島とすることで意見が一致したようです。
この問題に関する日韓論争は半世紀ぶりに決着がついたといえます。
(注1)池内敏『大君外交と「武威」』名古屋大学出版会,2006,P398
(注2)内藤正中他『史的検証 竹島・独島』岩波書店,2007,P21
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
江戸時代の地図の彩色、下條正男氏への批判
2007/ 6/10
Yahoo!掲示板「竹島」No.15599
半月城です。
Re:15592
> それでも『大日本史』なぞは二島は隠岐の一部と書きながらも、慎重を期して、どう
いう経緯でそうなったか分からないと注記したわけですよ。
まず、江戸時代の地図において竹島=独島がどのように彩色されているのか、先人の
研究を確認したいと思います。この問題の草分けである堀和生氏は崔書勉説を踏襲してこ
う記しました。
--------------------
「竹島一件」以後の幕府の領土意識を示す資料として、その官撰地図があげられる。日
本の官撰地図のなかで、松島=独島を最初に画いたのは、長久保赤水の「日本輿地路程全
図」(1773年)である。この地図は経緯線を使用した最初の地図でもあった。長久保は、更
に木版彩色刷りの「日本輿地路程全図」(1778年)を刊行した。
この地図で特に注目されるのは、日本本土とその付属地にはすべて彩色をほどこして
いるが、竹島と松島は、朝鮮半島とともに彩色していないことである。つまり、「竹島一
件」を踏まえた後の官撰地図は、竹島、松島をともに日本領として取扱っていないのであ
る。
また、古地図の段階を完全に脱皮したといわれる官撰地図、伊能忠敬の「大日本沿海
輿地全図」(1821年)には、竹島、松島ともに含まれていないのである。つまり、一七世
紀半ばにはやや曖昧であったが、元禄期の朝鮮政府との交渉を経た後には、幕府は松島=
独島の存在を認知していながら、それを日本領だとは見ていなかったのである(注1)。
--------------------
堀和生氏は「日本輿地路程全図」の初版を1778年としていますが、長久保赤水の子孫
によれば1779年とのことです(注2)。それはさておき、この堀説に異議を唱えたのが下
條正男氏であり、こう記しました。
--------------------
ところが、実際に『日本輿地路程全図』を見ると、崔書勉氏の主張には根拠がないこと
が分かる。日本の付属地で彩色がほどこされていないのは、鬱陵島や竹島に限らないから
である。鬱陵島や竹島と同様、沖永良部島、青ヶ島、沖ノ島などにも彩色がほどこされて
いない。しかも沖永良部島には、「是より南百二十里、琉球国」とする付記があり、長久
保赤水が沖永良部島を日本領として認識していることが分かる(注3)。
--------------------
下條氏は「日本輿地路程全図」において竹島=独島が朝鮮と同様に無彩色とされたこ
とを認めたうえで、沖永良部島は日本領にもかかわらず無彩色なので、崔書勉・堀説は成
り立たないと主張しました。
しかし、沖永良部島が初版本で本当に無彩色なのかどうかは検証を要します。「日本
輿地路程全図」初版本の写真が神戸市立図書館から出版されましたが、そこでは沖永良部
島は大隅半島と同色に彩色されているようです(注4)。
ただ、東北大学の狩野文庫にある「日本輿地路程全図」(初版)ですが、これは傷み
や変色がはげしく、インターネットで見た限りでは、九州南部の竹島、黒シマ、永良部が
薩摩半島と同色かどうか断定は微妙です(注5)。ちなみに、それらの島は後世の「日本
輿地路程全図」では航路が大隅半島ではなく、薩摩半島と結ばれました。
下條氏が見たという「日本輿地路程全図」は引用先が不明なので、彩色に関して下條
氏の反論が有効かどうか、さらなる検証が必要です。初版本でも多少の異同があるので、
それらを総合的に検証する必要があります。たまに、私的な一枚の地図だけをとりあげて、
領有権の決定的資料と喧伝する人が日韓両国にいますが、それに踊らされないよう心がけ
たいものです。
ともかく、下條氏は神戸図書館の初版本を見ていないようですが、先行研究に反論す
るからには文献批判を綿密に行ない、慎重な態度で臨むべきでした。そうした彼は、堀氏
へのさらなる反論をこう記しました。
--------------------
また、もう一つ重要な事実がある。それは長久保赤水の『日本輿地路程全図』に描か
れた鬱陵島(図では竹島と表記)の右上に、「高麗を見ること、猶雲州より隠州を望むが
ごとし」という付記があることである。この付記は齊藤豊仙(ママ)の『隠州視聴合記』
からの引用である。この事実から見ても、長久保赤水が鬱陵島を日本領と認識していたこ
とは明らかである(注2)。
--------------------
下條氏は『隠州視聴合記』において斉藤豊宣が竹島・松島を日本領に解釈していると
断定していますが、これは我田引水のようです。池内敏氏の詳細な研究によれば「この史
料(『隠州視聴合記』)をもって、竹島/独島が当時の日本の版図から外れたものと認識
されていたとするのは妥当(注6)」とされるからです。この池内氏の論文に対し、下條氏
からの反論はまだないようです。
長久保赤水は下條氏も認めるように『隠州視聴合記』を踏襲しているので、当然、赤
水も斉藤豊宣同様に竹島・松島を日本の版図外と認識していたということになり、下條説
は成り立ちません。
下條氏の我田引水はこれだけにとどまらないようです。堀説への反論をこう書き加え
ました。
--------------------
この例から言えるのは、長久保赤水が鬱陵島や竹島を日本の領土として認識していたか
どうかは、彩色の有無だけでは判断ができない、ということである。
そのことは、一八五二(嘉永五)年、鈴木驥園が長久保赤水の『日本輿地路程全図』を
改訂して刊行した『増訂 大日本国郡 輿地路程全図』からも裏づけられる。そこでは竹島、
松島、沖永良部島、青ヶ島にも日本本土と同じく黄色い彩色がほどこされているからであ
る(注2)。
--------------------
この文に下條氏特有の論法を見る気がします。長久保赤水の竹島・松島認識を問題に
しているのに、なぜ長久保赤水が亡くなって 50年後の、しかも他人の地図をわざわざ持
ちだすのでしょうか? 私には単なる論点ずらしにしか受け取れません。しかも、鈴木驥
園の地図は私的なものなので、資料価値に乏しいことはいうまでもありません。
下條氏は今年3月まで竹島問題研究会の座長を務めましたが、そのような人だからこ
そ島根県によって選ばれたのかも知れません。最初から「竹島は日本領」という結論あり
きの会では、島根大学の内藤先生のような方が選ばれないのは当然と思われます。
余談はさておいて本論にもどりますが、下條氏が例示した地図のように、竹島・松島
を一対にして隠岐と同色に彩色される地図が出現するようになったのはいつごろからで
しょうか? この変遷を池内敏氏はこう記しました。
--------------------
江戸時代の日本図における竹島(鬱陵島)・松島(竹島/独島)記載や彩色の有無に関
する年代的な特徴とは、「A.記載無し ---> B.記載あり無彩色 ---> C.記載あり彩
色」とする変化。AからBへの変化は概ね18世紀前半に、BからCへの変化は18世紀
末(注7)。
--------------------
分類Bの無彩色の地図には赤水の「日本輿地路程全図」が含まれるのですが、池内説
によれば、竹島・松島を記載しても無彩色に彩色したのは18世紀前半とのことなので、
すでに長久保赤水以前にそのような地図が存在していたことになります。赤水はみずから
実地検証をしたわけではないので、それは当然のことです。
つぎに、分類Cの彩色された地図には、AM_I_AHOさんの言う「日本輿地路程全図」の
劣化コピーなどが含まれるのですが、これは長久保赤水の晩年にはすでに始まっていたよ
うです。それは竹島(欝陵島)へ密航して密漁などをする輩が後を絶たなかった史実を反
映したようです。そうした密航の事情を内藤正中氏はこう記しました。
--------------------
日本からも、幕府の渡航禁止令が出されたにもかかわらず、渡航する者が跡を絶たな
かった如くで、『朝鮮王朝実録』のなかに「倭船がしばしば漁採することは真に嘆かわし
い」という1710年(宝永7)の関係記事を見ることができる。日本側の資料のなかでも幕
府の『通航一覧』に次のような記事が出ている。
「むかし隠岐の辺より渡て、大竹を切来て諸方へ売、甚た大にしてよき竹也と云ふ、近
来その島へ渡す時は、朝鮮人多く来て、此方の船を見れば鳥銃を打て船を近づけずと云ふ、
この島果して日本の島なれとも、遂に朝鮮に取られたり」(注8)
--------------------
無人島の竹島(欝陵島)は宝の島だったようで、日本と朝鮮の漁民が朝鮮政府の捜討
官の目をかいくぐって竹島(欝陵島)へ密航し、両者がせめぎあっていたようです。そう
した密航者の竹島・松島紀行が伝わり、水戸藩による『大日本史』で両島は隠岐国の所属
と認識されるようになったようです。したがって、同書が公式記録でそれが確認できない
のは当然です。
しかも、『大日本史』は天保8年の幕府による竹島(欝陵島)渡海禁止令すら知らな
かったようです。幕府は、浜田藩の今津屋(俗称、会津屋)八右衛門が竹島(欝陵島)で
行なっていた密貿易を摘発し、改めて「異国航海之儀は重き御制禁に候条」を全国に布達
しました。
その中で竹島(欝陵島)については「元禄之度、朝鮮国へ御渡しに相成候以来、航海
停止被仰出候場所に有之」と渡海禁止を述べたのでした。この事件は江戸市中でも話題に
なるほど有名だったのですが、『大日本史』がその事実を知らないとなると、同書の竹
島・松島関連の「隠岐國四郡」条は天保8年以前に原稿が完成していたのかも知れません。
ま、『大日本史』は幕府や竹島・松島関連の国家機構に無関係な史料であるだけに、
その内容がどうあれ、領有権論争にはあまり影響がなさそうです。
『大日本史』が事情をよく知らないまま、竹島・松島を隠岐国に含めても、江戸時代の
隠岐国図に竹島・松島が実際に描かれることはなかったようで、池内敏氏はこう記しまし
た。
--------------------
江戸時代に描かれた四点の隠岐国図に竹島(鬱陵島)・松島(竹島/独島)が描かれ
ることはないが、いずれにも島後・福浦に竹島(鬱陵島)にかかわるほぼ同一の記述【此
湊船懸吉、竹島江之渡海此湊ニ而 天気見合候】が見える(注7)。
--------------------
これらの隠岐国図は、竹島・松島をよく知る人によって描かれたようですが、竹島・
松島を含めなかったのは妥当な見識と思われます。
(注1)堀和生「一九〇五年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987
(注2)長久保光明「長久保赤水の日本地図編集のあらまし」『歴史地理学』127号,1984,P33
(注3)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春文庫,2004,P174
(注4)神戸市博物館『古地図セレクション』(第2版)神戸市体育協会,2000,P37
(注5)狩野文庫「新刻 日本輿地路程全圖」
(注6)池内敏「前近代竹島の歴史学的研究序説」『青丘学術論集』2005,P164
(注7)池内敏「竹島考ー近世日本の西北境界」講演レジメ(2007.2.24)
(注8)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000,P123
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
「竹島一件」以後の竹島(欝陵島)渡海
2007/ 6/17
Yahoo!掲示板「竹島」No.15609
半月城です。
Re:15602,Am_I_AHO_1stさん
>『大日本史』の国郡誌は長久保赤水の膨大な原稿は不採用になり、明治時代になって栗
田寛によって編集され大日本史に集録されたと赤水の子孫が述べていましたよね。お忘
れですか。
たしかに私は<竹島=独島と『隠州視聴合記』『大日本史』>でそのように書いてい
ます(注1)。ただ、赤水の原稿が不採用になったといっても、かれの草稿や、かれが集
めた資料は同じ水戸藩の粟田寛によって『大日本史』を書く際に参考にされたでしょうか
ら、赤水の認識が色濃く反映していたと見るべきです。
『大日本史』は、竹島=独島論争においては部外者の立場なので、さして重要な資料
ではないのですが、やはり下記の「隠岐国4郡」の記述は世相を反映した記事として気に
なります。
別に松島、竹島があり、これ(隠岐国)に属する(隠岐古記、隠岐紀行、案ずるに隠地
郡の福浦より松島に至るには海上69里、竹島に至るには100里4町である。韓人は竹
島を称して鬱陵島という。すでに竹島といい、松島といい、我が版図となした。智者を待
つが知れない。ついては、以て考えに備える)。
この記事のもとになった「隠岐古記」は 大西教保の『隠岐古記集』(1823)に引用さ
れた史料とは異なるかも知れません。『隠岐古記集』では『隠州視聴合紀』同様に竹島・
松島は隠岐に属さない理解になっており、上記の文脈に合いません。
一方、『大日本史』の「福浦より松島に至るには海上69里」という記述はどこから
来たのでしょうか? これは『大日本史』の認識はいつ頃生まれたのかを知る手がかりに
なるかも知れません。これまで私は江戸時代の史料をきちんと整理してこなかったので、
この際、竹島・松島関係の主な史料にあたって、再度『大日本史』を考えたいと思います。
さて、江戸時代の主な史料は下記のとおりでしょうか。
1667(寛文7)年、斉藤豊宣『隠州視聴合紀』
1696(元禄9)年、(幕府の竹島渡海禁止令、1回目)
1742(寛保2)年、松岡布政『伯耆民諺記』つづいて『伯耆民談記』
1751-63(宝暦)年、北〓通〓『竹島圖説』、因人某に伝記するを編集(注2)
米子と竹島間160里、福浦と松島間60里、竹島と松島間40里
1779(安永8)年、長久保赤水「日本輿地路程全図」
1795(寛政7)年、安部恭庵『因幡志』
1801(享和元)年、矢田高当『長生竹島記』、竹島に渡航した水主からの伝聞のさらに伝聞
隠岐州と松島間160里、隠岐州と竹島間260里、松島「本朝西海のはて」
1823(文政6)年、大西教保『隠岐古記集』、(1)を底本に隠岐の漁夫の実見談など
隠岐と松島間40余里、隠岐と竹島の間70里
1827(文政10)年、中川顕允『石見外記』
高田屋嘉兵衛の商船が「松竹二島ノ間ニ出デ」と記述
1828(文政11)年、岡嶋正義『竹嶋考』
1837(天保8)年、(幕府の竹島渡海禁止令、2回目)
1842(天保13)年、岡嶋正義『因府年表』つづいて『因府歴年大雑集』
1830 -43(天保)年、『天保雑記十八』、竹島にて異国人と交易の記事
『竹嶋渡海一件記 全』、竹島事件の供述調書の抄録
1854(安政元)年、松浦武四郎『竹嶋雑誌』
1868(慶応4)年、大谷勝廣『竹島渡海由来記抜書控』
年代が特定できないか、多岐にわたる資料
『朝鮮竹嶋渡航始末記 全』
『大谷家由緒實記』
『朝鮮通交大紀』
『竹島紀事』
『通航一覧』
池田家文書他
松浦静山『甲子夜話 続編三』
これらの史料を見ても、「福浦より松島に至るには海上69里」という記述はないよ
うです。後年の『竹嶋雑誌』には、享保年間(1716-35)に浜田の漁夫がしばしば竹島へ渡
海したとの記事があるので、そのあたりから情報を得たのかも知れません。
いずれにしても、1837(天保8)年の渡海禁止以降は竹島(欝陵島)への密航もほとん
ど途絶えたでしょうし、ましてや紀行など証拠になるような資料は残さなかったでしょう
から、参考になるような史料に乏しく、『大日本史』の「隠岐國四郡」記述は天保以前に
骨格が定まったと見られます。
ところで、幕府は天保8年の竹島渡海禁止令で竹島(欝陵島)を下記のように朝鮮領
と判断しましたが、『大日本史』がそれにふれないのは大きな疑問です。禁止令は全国規
模の布告だったので、水戸藩も知っていたでしょうし、さらに、この布告の経緯について
書かれた書物は『天保雑記』など多数ありました。また江戸市中でも話題になり、『甲子
(かっし)夜話』にも書かれました。
それにもかかわらず『大日本史』で竹島を日本領としたのは、天保以後の史料をまっ
たく見直さかったか、あるいは Am_I_AHO_1stさんが示唆したように天保の史実を「隠
蔽」したのかも知れません。
天保の渡海禁止令ですが、これを受けて、たとえば加賀藩では次のような「ふれ書」
(口語訳)が「郡方御觸」として記録されました。
--------------------
1.今般、松平周防守の元の領地である石州の浜田松原浦にいた住所不定の八右衛門が竹
島(欝陵島)へ渡海した一件、吟味のうえ、右の八右衛門その他はそれぞれ厳罰に処され
た。右の島は、昔は伯耆・米子の者たちが渡海して漁労などをしたが、元禄期に朝鮮の国
へお渡しになった時から渡海停止が仰せつけられた場所である。
すべて異国へ渡海することは重いご禁制である。今後、右の島のことも同様に心得て渡
海してはならない。もちろん、国々の廻船などは海上で異国船に出合わないように乗り筋
などを心がける旨を先年も触れたとおりであるが、いよいよ守り、以後はなるべく遠い沖
へ出ないように乗り回すことを申しつける。
右の趣御料は、ご代官私領は領主・地頭より浦方の村や町など洩らさず触れて知らせる
べきである。また、触書の趣旨は立て札にして高札場などに懸け置くよう申しつける。
(天保8年)2月
右の通り、触れられるべきである(注3)。
--------------------
上のふれ書で注目されるのは、下記の3点です。
(1).元禄期に竹島(欝陵島)を朝鮮へ渡した。
(2).竹島(欝陵島)のみならず、なるべく遠い沖へ出てはならない。
(3).元禄時代とは違って、禁止令は全国への布令であった。
(2)の「遠い沖」の中には、隠岐から40里(160km)とも60里ともされる松島(竹島=独
島)が入るのはいうまでもありません。結局、幕府は竹島および松島への渡海を実質的に
禁止したのでした。元禄時代、幕府は竹島・松島を日本領ではないと確認していただけに
当然の措置でした。
(注1)http://www.han.org/a/half-moon/hm111.html#No.819
(注2)北〓通〓、きたもとつうあん
「もと」は「クニガマエ」に元、「あん」は「葬」の死を合に置換。
(注3)お触れの原文
(引用は「郡方御触 14」『加賀藩農政経済史料』第2期13回、1966)
一 今度 松平周防守元領分 石州濱田松原浦ニ罷在候 無宿八右衛門 竹嶋江渡海いたし候
一件 吟味之上 右八右衛門其外 夫々厳科ニ被行候 右嶋往古ハ 伯州米子之者共 渡海魚漁
等いたし候得共 元禄之度 朝鮮國江御渡ニ相成候以来 渡海停止仰付候場処ニ有之
都而異國渡海之義者重キ御製禁ニ候条 向後右嶋之義も同様ニ相心得 渡海いたし間敷候
勿論國々之廻船等 海上ニおゐて 異國船不出合様 乗筋等心かけ可申旨 先年も相觸候通り
弥相守以来者可成たけ遠沖乗不致様 乗廻り可申候
右之趣御料者御代官私領者 領主地頭より浦方村町共 不洩様可觸知候 尤觸書之趣 板札
ニ認 高札塲等ニ懸置可申者也
二月
右之通可被相觸候
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
竹島=独島問題ネットニュース7
2007.4.21
竹島=独島問題研究ネット発行
1.新刊『史的検証 竹島・独島』岩波書店
2.<書評>『竹島=独島論争,歴史資料から考える』
3.<竹島は「韓国領」と主張する「元日本人」大学助教授の正体>
4.<竹島問題研究会の最終報告書提出、5月中旬以降に>
5.「竹島資料室」がオープン
6.島根県の「竹島研究顧問」に杉原氏就任
7.韓日協定締結の5カ月前に「独島密約」あった
8.竹島問題「密約ない」=政府答弁書
9.独島は「愛国型観光地」、2年間で12万人が訪問
10.<書評>『竹島=独島(トクト)論争』(新幹社)
1.新刊『史的検証 竹島・独島』岩波書店
著者:内藤正中 ・金柄烈ISBN:9784000237741 (4000237748)
販売価:\2,310(税込) (本体価:\2,200)
日韓の間に突き刺さる小さな、しかし鋭い棘。この困難な問題を解くには、史実の客観
的な検証を重ねて両国共通の土俵を作る必要がある。その作業を日韓の歴史学者が共同で
試みた。新史料を含め史料を丹念に読み込んで、島の歴史に新たな光をあてる。
2.<書評>『竹島=独島論争,歴史資料から考える』
サンデー毎日、2007.4.29
日本海は隠岐諸島の北西一五七キロメートルの海上に浮かぶ竹島は、二つの小島と数十
の岩礁から成る。対岸の韓国では独島(ドクト)と呼ばれ、かねて日韓両国の間で領有権
が争われてきた。大衆レベルでの対立が激化した契機は、島根県が二〇〇五年に制定した
「竹島の日」だった。
両国の歴史家が編んだ本書を読む限り、歴史的な理は韓国の側にあるようだ。一八七七
(明治十)年、当時の太政官(現在の内閣に相当)が欝陵(ウルルン)島と竹島を本邦の
版図外にしたというのである。江戸時代における日朝間の交渉結果を尊重した決定だった。
3.<竹島は「韓国領」と主張する「元日本人」大学助教授の正体>
週刊新潮、2007.3.15
日韓両国の間で、いまだに解決できないのが竹島開題。いうまでもなく竹島は日本の領
土だが、韓国は実効支配を進め、日本はなすすべもない。おまけに竹島は韓国の領土と主
張する元日本人の助教授まで現れて。
・・・・・
保坂助教授が、竹島は韓国の領土と主張する根拠は、明治時代の1877年、当時の太政官
が内務省に送った「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」と題した文書である。
4.<竹島問題研究会の最終報告書提出、5月中旬以降に>
山陰中央新報、2007.4.13
日韓両国が領有権を主張する竹島問題について、島根県の竹島問題研究会が四月下旬に
予定していた最終報告書の提出が、五月中旬以降にずれ込むことが十二日、分かった。澄
田信義知事の日程が取れないためで、提出は三十日付で就任する溝口善兵衛・新知事に対
して行われることになる。
5.「竹島資料室」がオープン
山陰中央新報、2007.4.20
日韓両国が領有権を主張する竹島問題を啓発する島根県の「竹島資料室」が十九日、松
江市殿町の旧県立博物館内にオープンした。関係者五十人が集まったオープニングセレモ
ニーでは、この日公務に復帰した澄田信義知事も駆け付け「竹島問題の解決に向け、一歩
も二歩も前進するよう活用してほしい」と資料室に期待を寄せた。
6.島根県の「竹島研究顧問」に杉原氏就任
山陰中央新報、2007.4.3
島根県が新設する竹島研究顧問に、元松江北高校長で竹島問題研究会の副座長を務めた
杉原隆氏(68)=松江市在住=の就任が決まり、加松正利総務部長から2日、辞令が手
渡された。県の非常勤嘱託職員で、任期は1年。
杉原氏は、県が近く同市の旧県立博物館内に開設する竹島資料室で毎週木曜日に勤務し、
資料の整理や来場者への説明にあたる。2年間の活動を終えた研究会に代わり、日韓両国
の研究者の意見を収集するなど竹島研究の窓口的な役割も担う。
7.韓日協定締結の5カ月前に「独島密約」あった
中央日報、2007.3.19
42年間も迷宮入りしていた韓国と日本の「独島(ドクト、日本名・竹島)密約」の実
体が表れた。「月刊中央」は19日発売された創刊39周年記念4月号で、「韓日協定締
結5カ月前の1965年1月11日当時、日本建設相・河野一郎の特命を受けてソウルを
訪問した宇野宗佑自民党議員が城北洞(ソンブクドン)の朴健碩(パク・コンソク)汎洋
商船会長の自宅で丁一権(チョン・イルクォン)国務総理に会い、 ‘未解決の解決’を
大原則に全4項からなる独島(ドクト、日本名・竹島)付属条項に合意した」と暴露した。
8.竹島問題「密約ない」=政府答弁書
時事通信、3月30日
政府は30日午前の閣議で、日本と韓国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)に関し、
1965年1月に日韓双方が互いの主張を黙認する趣旨の密約を結んでいたとする韓国誌の報
道を否定する答弁書を決定した。鈴木宗男衆院議員(新党大地)の質問主意書に答えた。
9.独島は「愛国型観光地」、2年間で12万人が訪問
聯合ニュース、2007.3.23
国民の独島訪問は、2005年3月に日本の島根県が「竹島の日」条例を制定したこ
とを受け、独島領有権を強化し国民の訪問機会を拡大するため、同月24日に自由化され
た。それまでの独島訪問許可制を申告制に変更し、制限人数も1日70人から1日2回1
48人に、同年8月には1回200人・1日400人に、先月22日からは1回470
人・1日1880人に拡大した。このため独島開放から現在まで2年間の訪問客数は12
万196人に達した。2005年は4万1134人、2006年は7万8152人で、今
年はすでに2670人が独島を訪れている。
10.<書評>『竹島=独島論争』(新幹社)
聯合ニュース2007-04-11
(簡易訳)
日本政府の'独島(トクト)(日本名竹島)固有領土論'を韓国と日本の新しい資料に立っ
て,批判的に検証した'竹島=独島(トクト)論争'が日本で出版された。
・・・・・
第1章'日本の固有領土論に対して'は過去日本政府が鬱陵島(ウルルンド)と独島(ト
クト)を日本領と関係ない島だと決めた事実があることを色々な資料で立証,
2章'竹島=独島(トクト)の歴史上争点'では現在日本で争点になっている歴史的事実を
両国資料に立って,詳しく説明している。
3章と4章は日本言論と,島根県の竹島問題研究会などに対する反論と独島(トクト)の
実測データ,日本人の鬱陵島(ウルルンド)・独島(トクト)紀行文等を含んでいる。
竹島=独島問題ネットニュース8
2007.6.1
竹島=独島問題研究ネット発行
記事一覧
1.インターネット「竹島=独島論争」仮オープン
2.竹島問題 知事へ最終報告書
3.独島:米日の専門家「韓国の独島領有権を認めよ」
4.「Web竹島問題研究所」開設へ
5.忠州市と武蔵野市、2年ぶりに交流を再開
6.独島の領有権認識は新羅時代から、研究者が発表
7.独島・東海表記に関する討論会
8.「竹島資料室」来場者数は"苦戦"
9.隠岐の島町教委が「竹島」副教材
10.李ライン翌年竹島にニホンアシカ多数生息
11.初歩的ミス?歪曲?独島博物館の竹島位置に誤り
12.「ウィキペディア」から消えた独島
13.独島:訪問客が前年比114%増1万6882人
14.独島海域で大規模なサンゴの群落発見
1.インターネット「竹島=独島論争」仮オープン
竹島=独島論争に関係する資料集を集めたサイト「竹島=独島論争(資料集)」が仮オープン。
2.竹島問題 知事へ最終報告書
朝日新聞、2007年05月29日
県が竹島(韓国名・独島(トクト))問題の啓発のために設けた竹島問題研究会のこれ
までの活動成果をまとめた最終報告書が完成し、28日、研究会の座長を務めた下條正
男・拓殖大教授から溝口善兵衛知事へ手渡された。溝口知事は県のホームページ(HP)
内に今秋までに、竹島問題専用のコーナーを設け、報告書を公開するとともに専門家を交
えた新たな研究組織をつくる考えを明らかにした。
・・・
報告書は6月中旬ごろまでに150部作られる。100部を外務省、内閣府など国の機
関や研究者らに配り、残りの50部を希望者に売る予定。
3.独島:米日の専門家「韓国の独島領有権を認めよ」
朝鮮日報、2007/05/29
愛知学院の芹田健太郎教授は「独島問題は両国間の感情が絡み、国際法的な基準だけ
では解決することができなくなった。そこで加害者である日本は、和解の意思表示として
韓国の独島に対する主権を認め、その代わり韓国は、独島近海12カイリを環境保護区域な
どに設定、あらゆる国の学者らに研究目的での利用を認めるべきだ。また、鬱陵島と隠岐
島を起点とした中間線を引き、東海(日本海)の排他的経済水域(EEZ)の境界線を確定
するのが妥当ではないか」と提案した。
【コメント】芹田教授の提案は、『中央公論』2006年11月号の論文「竹島を「消す」こと
が唯一の解決法だ」を推し進めたものとみられます。
4.「Web竹島問題研究所」開設へ
山陰中央新報、'07/05/29
島根県の溝口善兵衛知事が二十八日、竹島問題の新たな研究成果をインターネット上で
公開する「Web(ウェブ)竹島問題研究所」(仮称)を、今秋までに県のホームページ
に立ち上げる方針を明らかにした。
三月末で活動を終えた竹島問題研究会のメンバーを中心に、竹島問題にかかわりの深い
人たちを研究委員に委嘱。それぞれの新しい研究、活動成果を取りまとめて公開するほか、
閲覧者からの質問にネット上で回答してもらう。
5.忠州市と武蔵野市、2年ぶりに交流を再開
聯合ニュース、2007/05/30
【忠州30日聯合】島根県による「竹島の日」の制定により中断されていた忠清北道忠州
市と東京都武蔵野市の相互交流が2年ぶりに再開された。武蔵野市の邑上守正市長一行は
30日に忠州市の金浩福(キム・ホボク)市長を訪ね、両市の交流活性化策について意見
を交わした。
6.独島の領有権認識は新羅時代から、研究者が発表
聯合ニュース、5月28日
【ソウル28日聯合】「独島は韓国の領土」という認識は新羅時代の512年にすでに存在し
ていたと主張する著書が国内の学会で発表された。
独島領有権を研究している鮮干栄俊(ソヌ・ヨンジュン)博士が12日に韓日関係史学会
で発表したところによると、干山国(現在の鬱陵島)が新羅将軍の異斯夫(イ・サブ)に
より服属された後、貢ぎ物を贈る際に独島を指す「武陵」という名称が広く使われていた。
これは独島を朝鮮半島の領土として認識していたことを示すとした。
7.独島・東海表記に関する討論会
朝鮮新報 2007.5.24
独島および朝鮮東海表記に関する社会科学部門討論会が16日に行われた。
討論会では、朝鮮民族による独島の発見と領有、朝鮮東海の開拓過程と伝統的な名称を
科学的に論証し、日本の「独島(竹島)領有権」と「日本海」表記の不当性を明らかにし
た8件の論文が発表された。
8.「竹島資料室」来場者数は"苦戦"
山陰中央新報、2007.5.20
日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)問題を啓発する島根県の竹島資料室
が、松江市殿町の旧県立博物館二階にオープンして十九日で一カ月を迎えた。来場者は当
初より減少傾向にあるが、関係者は問題への関心は高いとみている。
9.隠岐の島町教委が「竹島」副教材
山陰中央新報、2007.5.13
日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)の属する隠岐の島町の教育委員会が、
竹島の歴史や隠岐とのつながりを盛り込んだ副教材「ふるさと隠岐」を完成させ、町内の
小中学校へ配布した。竹島問題が学校の副教材に記載されるのは、全国で初めて。小学校
高学年から中学生を対象に、授業で活用する。
町教委から委託を受けた、町ふるさと教育副教材編集委員会が編集。今年一月には、県
の竹島問題研究会からアドバイスを受け、記載する内容を精査して千部を作った。A4判
で百三十二ページ。
10.李ライン翌年竹島にニホンアシカ多数生息
山陰中央新報、2007.5.10
一九五三年、竹島に渡航した隠岐高校水産科(現・隠岐水産高)の元指導教官、岩滝克
己さん(82)=島根県隠岐の島町加茂=が九日、同県の杉原隆・竹島研究顧問に当時の
様子を証言した。日本側の乱獲で絶滅したとされるニホンアシカが、多数生息していた状
況を説明。韓国側の主張を覆す証言として注目される。
11.初歩的ミス?歪曲?独島博物館の竹島位置に誤り
イザ!、2007.5.5
韓国政府によって竹島(韓国名・独島)近くの鬱陵島(ウルルンド)に建設された「独
島博物館」のレリーフが、史料と食い違っていることがわかり、博物館は近く撤去するこ
とを明らかにした。レリーフは韓国の古地図をもとに、竹島が韓国領だと視覚的に示すた
めに作られた同館のシンボルだが、以前から日本人研究者らが「悪質な史実の歪曲(わい
きょく)だ」と指摘していた。
12.「ウィキペディア」から消えた独島
朝鮮日報、2007.5.31
世界最大のインターネット百科事典「ウィキペディア」英語版で、独島(日本名竹島)
の公式名称が結局「Dokdo(独島)」から「Liancourt Rocks(リアンクール岩礁)」に変
更された。
ウィキペディアによれば、今月21日から29日まで実施された独島の名称変更の是非を問
う投票で、従来の「Dokdo」を支持する意見28件に対し、「Liancourt Rocks」を支持する
意見は43件に達し、独島の公式名称が「Liancourt Rocks」に変更されることになった。
13.独島:訪問客が前年比114%増1万6882人
朝鮮日報、2007.5.2
1日、浦項海洋水産庁によると、先月30日現在、浦項から鬱陵島-独島間の旅客船利用
客は計8万5539人で、前年同期の6万4315人より 33%増加した。特に独島の訪問客は計1万
6882人で、昨年(7883人)より114%急増した。これは先月初めから独島の1日の訪問客が
1880人に増えたことに伴うもの。
14.独島海域で大規模なサンゴの群落発見
朝鮮日報、2007/06/01
国立水産科学院は東海水産研究所の深海研究センターが5月初め、独島西島の南側にあ
る「象岩」周辺の水深3‐6メートルの地点でイソバナサンゴが大量に生息しているのを発
見したと31日発表した。群落の大きさは横10メートル、縦3メートル程度であるとされて
いる。
目次