半月城通信
No. 92(2002.12.31)

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  1. 百済の武寧王と倭・百済交流
  2. 倭寇と倭館
  3. 倭寇と松浦党
  4. 拉致被害者の子どもたち
  5. 三井鉱山訴訟判決に感動
  6. 松井やよりさんの「美しい人生」
  7. はだかの「慰安婦」
  8. 竹島=独島と鳥取藩文書


百済の武寧王と倭・百済交流 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#6266 2002/12/6   いつか予告したように、武寧王のつづきを書くことにします。   武寧王は倭で生まれたと『百済新撰』に記されましたが、この史書は現存 しません。かつて同書が存在したことは『日本書紀』により知るのみです。同 書の武烈条はこう紹介しました。        --------------------   四年夏四月、(天皇は)人の頭髪を抜いて樹の末に登らせた。樹の本を斬 り倒して、登った者が落ちて死ぬのを快とした。   この年、百済の末多王(東城王)が道に反し、百姓に暴虐であった。国人 は、ついに除いて、島王(せまきし)を立てた。これが武寧王である。   <百済新撰はいう、末多王は道に反し、百姓に暴虐であった。国人は、と もに除いた。武寧王が立った。諱(いみな)は斯麻(しま)王。   これは混支(こんき)王子の子で、末多王の異母兄である。混支は、倭に 向った。ときに、筑紫の島に至り、斯麻王を生んだ。島より(本国に)もどし 送ったが、京に至らぬうち、島で産んだ。それで(斯麻王と)名づけた。   いま各羅(かから)の海中に主島がある。王の産まれた島で、だから百済 人は名づけて主島(にりむせま)とした。今案ずるに、島は蓋鹵(こうろ)王 の子である。末多王は混支の子である。これを異母兄というのは、未詳である >        --------------------   この一節は、武寧王の生前の名である諱の「斯麻」が高麗の史書『三国史 記』の斯摩と音がつうじるものの、話の内容は『日本書紀』の前半にありがち な半創作物語と思われていました。   ところが、おどろいたことに「斯麻」が1971年に武寧王陵から発見された 誌石に刻まれた「斯麻」と正確に一致しました。これは、考古学ファンを興奮 させました。そうなると『百済新選』の信頼性がにわかに高まり、武寧王が九 州で生まれたとする同書の説話も信憑性が出てきました。   武寧王が生まれたと地元でいい伝えられている加唐島は、佐賀県名護屋城 博物館の沖合いに浮かぶ人口250人ほどの島ですが、鎮西町では今年「百済武 寧王 生誕海峡地 国際シンポジウム」が開かれました。地元ではオビヤ浦の湧 水が武寧王の産湯(うぶゆ)に使われたと言い伝えられています。   さて、うえの『日本書紀』で< >内は小さな字で書かれた『百済新撰』 の引用文ですが、それによると武寧王の血縁関係は下記1,2のふたとおりあ ります。『日本書紀』の著者は後者が正しいと考えているようです。 1.混支 -- 武寧王(斯麻)       |        - 末多王(東城王、牟大) 2.蓋鹵王 - 武寧王、  混支 - 末多王   この血縁関係は、高麗の史書『三国史記』の記述とはすこし異なります。 同書の血縁関係および王の代数は次のとおりです。 3.(21代)蓋鹵王-- (22)文周王 - (23)三斤王          |           - 昆支 - (24)東城王- (25)武寧王   この当時の国際情勢ですが、百済は高句麗との戦争で王都の漢城(ソウ ル)が占領され、蓋鹵(こうろ)王も死亡し、まさに壊滅状態でした。その後 も復興した百済では文周王につづき三斤王も貴族により殺害されるなど混乱状 態にありました。これにからんで『日本書紀』雄略条は百済の東城王をこう記 しました。  「23年、夏4月、百済の文斤王が薨じた。天王は、昆支王の五子の中で第 二子の末多王が幼年にして聡明なので、勅して内裏によびよせた。親しく頭を 撫でて、ねんごろにいましめる勅があり、その国の王とした。そこで兵器を賜 い、あわせて筑紫の国の兵士500人を遣わし、国に護送した。これが東城王 となった」   この話は『三国史記』にはまったく記されなかったので、真偽のほどは定 かではありません。そもそも同書の百済本紀は、倭に関するかぎり5世紀後半 の記事は皆無です。これは『日本書紀』における百済の記事の多さとは対照的 です。   当時の倭は百済にとってほとんど無視されるような存在でしかなかったと も考えられないので、これは敗者である百済の歴史は勝者側の史書には断片的 にしか残らなかったということでしょうか。   ところで『三国史記』の性格ですが、これは12世紀に作られた高句麗・ 新羅シンパの史書なので、5,6世紀の百済などの記述は時代的にもあまり信 頼できないと思われがちです。しかし武寧王に関するかぎり、王の諱「斯麻、 斯摩」や、王が亡くなった年月(523.5)、あるいは南朝から授かった官職「寧 東大将軍」などの記述が武寧王陵から出土した墓誌とみごとに一致しました。 古代史にあっては珍しいくらいです。こうした一致は『三国史記』の名を一躍 高めました。   といっても、もちろんすべての記述が正しいとは限りません。ケースバイ ケースの検証が必要です。山尾氏は、武寧王に関して最近の研究成果をもとに 『三国史記』の王統系譜とちがい、武寧王と東城王をともに蓋鹵王の弟である 昆支(こんき)の子と考え、当時の情勢をこう記しました。 4.[田比]有王 -- 蓋鹵王          |           - 昆支 -- 東城王                 |                  - 武寧王        -------------------- 五世紀後半の日朝関係   昆支が兄の蓋鹵王に派遣されてヤマトに来たのは461年であった。百済 はすでに十年間も高句麗と戦争を続けていた。高句麗の軍事的圧迫が一段と強 くなったため、蓋鹵王は弟の昆支をヤマトに派遣して軍事力の援助を求めたの である。   当時のヤマトの王は中国史料では「済」と書かれている人で、日本の史料 の允恭天皇に当る。允恭は要請をうけて大規模な派兵計画に着手したようだが、 その年になくなった。   後継者の「興」(安康天皇)も464,5年に亡くなり、ヤマトの対高句 麗派兵計画は頓挫してしまった。これにはヤマトの王位をめぐる内紛もからん でいたらしい。   たのみにしていたヤマトの後援が得られず、追いつめられた蓋鹵王は、そ れまで交流がなかった北魏(高句麗の背後勢力)にまで乞師するありさまだっ た。しかしついに475年、高句麗の長寿王がみずから三万の軍をひきいて百 済王都(漢城)に攻め込んだ。   蓋鹵王は殺され、百済は南北漢江流域の地はもとより、今の忠清道の半ば を失った。これは古代朝鮮史上の大事件である。百済は476年前後、事実上 一時期滅んでいたのである。昆支が帰国したのはその時期であって、かれは1 5年間もヤマトに滞在したのである。   昆支は461年に妻とともにヤマトに来たのだが、おそらく翌462年 (韓国公州武寧王陵買地券銘)、子供が誕生したので妻子を本国に帰した。こ の子がのちの百済武寧王である。   その後、百済から新しい妻がやってきた。この人は文周王の娘らしい(古 川政司「百済王統譜の一考察」『日本史論叢』7)。昆支はヤマト滞在中に5 人の子息をもうけたが、そのうちの第二子は文周王の娘との間に誕生した。こ れがのちの百済東城王(末多王)である。ほかの四人の子供の母はわからない。 しかしその中にのちの飛鳥戸造氏の女性がいたことはまちがいない。   475年に漢城は陥落したのだが、477年になって貴族の真桀取・木満 致らの努力によって、文周王が熊津で即位することができた。昆支は帰国して 王を支えたが、477年7月に亡くなった。   この前後、木満致は、百済復興の援助をひきだすため、みずから何回もヤ マトの「武」すなわち雄略天皇のもとに来ていた。ヤマト政権は479年に筑 紫の軍士500人をもって末多を護送して以来、積極的に百済復興を支援する。   しかし初めのうち百済の政情は不安定で、481年には貴族の解仇・燕信 らが文周王を殺す事件などもおこった。末多(東城王)はこの年即位したと思 われる。   百済の木満致がヤマトに来往したのもこのころである。木満致については いくつかの説があるが、石川(一須賀)の渡来集団の族内に迎えられたといっ たことも推測できそうである(注1)。        --------------------   ここに登場する木満致は、蘇我氏一族の祖となった蘇我満智であるという 説を門脇禎二氏がとなえているのは周知のとおりです。これについてはすでに 下記に書いたとおりです。 http://www.han.org/a/half-moon/hm081.html#No.551   木満致といい、武寧王や昆支といい、5世紀後半は百済と倭との政治的な 結びつきが格段に深かったのですが、それは政治面だけにとどまりませんでし た。朝鮮半島から倭へ人の渡来がピークのひとつをなし、新しい文化や技術が 倭に押し寄せ、技術革新の時代を迎えたのでした。それを上田氏はこう記しま した。        -------------------- 今来の才伎(いまきのてひと)   5世紀以来の渡来の波がいちだんとたかまったのは、5世紀後半の雄略天 皇の時代であった。この時には多数の技術者(才伎)たちが、わが国土へ移住 してきた。そのことは、「雄略天皇紀」にみえる今来の漢人らの伝承からもう かがわれる。   すなわち「雄略天皇紀」の7年の条には、吉備弟君らが今来の才伎を百済 より徴集する説話がある。また東漢直に命じて新来の漢陶部(あやのすえつく りべ)、鞍部(くらつくりべ)、錦部(にしごりべ)、画部(えかきべ)らを 河内国南河内郡内や大和国高市(たけち)郡内に設定したという記述がみえて いる。・・・  「雄略天皇紀」の8年の条には、呉(くれ、この場合はおそらく高句麗のこ とであろう)へ身狭村主(むさのすぐり)、檜隈民使博徳(ひのくまのたみの つかいのはかとこ)を派遣して、呉から手末(たなすえ)の才伎である漢織 (あやはとり)・呉織や衣縫(きぬぬい)の兄媛・弟媛らをともなって帰国し たとのべている。そして14年の条には、彼らを大和国高市郡内に設定したと 記載するのである。   要するに、5世紀末葉の雄略朝に百済や呉などより技術者が渡航してきて、 大和や河内に居住せしめられたという説話が集中的にみえている(注2)。        --------------------  『日本書紀』に書かれた説話がどこまで信頼できるのかは個々に検証が必要 ですが、今来の才伎とよばれる人たちがこの時期に大量渡来したことだけはた しかなようです。   かれらが多く住んだのは高市郡と河内郡とされますが、そこにはいずれも 飛鳥とよばれる地域があります。河内の方は大和と区別するために「近つ飛 鳥」あるいは「河内飛鳥」とよばれますが、ここは昆支一族である飛鳥戸造氏 が支配していました。これについては次回書くことにします。 (注1)山尾幸久「河内飛鳥と渡来氏族」『河内飛鳥』吉川弘文館,1989 (注2)上田正昭『帰化人』中公新書、1965   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


倭寇と倭館 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#6236 2002年11月20日   半月城です。倭寇の話題をつづけます。   倭寇に悩まされ続けた高麗は、ついには倭寇の根拠地のひとつである対馬 を討伐しました。しかし、息の根を止められた倭寇も2,30年たつとまたぞ ろ復活しました。対馬は地形上、田畑が少なく漁労以外に有力な生産手段がな いため、住民は漁労や交易に従事するか略奪行為に走るしかなかったからです。 http://www.han.org/a/half-moon/hm089.html#No.624   復活した倭寇の討伐は朝鮮王朝の世宗のときにもう一度行われました。し かし、賢明な世宗は同時に懐柔策も用意しました。対馬島民の生計問題の解決 策です。これを考慮しないことには、かれらはいずれ悪事に手を染めることに なるので抜本対策にはなりません。朝鮮王朝は対馬の宗氏に禄や官職を与える とともに、貿易も認めました。これにより朝鮮沿岸の倭寇は事実上消滅しまし た。   この時代、日本の朝鮮における貿易の拠点が倭館でした。現在、倭館は残 っていませんが、その記念碑が跡地の龍頭山公園に設けられました。公園は釜 山タワーがそびえる観光名所ですが、記念碑には倭館の歴史が韓国語、英語、 日本語でそれぞれ記され、略図や当時の絵まで描かれました。ただし、日本語 の記述はわずか3行です。韓国語の内容は下記のとおりです。        -------------------- 草梁倭館   倭館は日本の使節と商人が朝鮮に来て外交と貿易を行ったところである。 朝鮮前期には済浦(現・鎮海熊川)、釜山浦(現・釜山凡一洞)、塩浦(現・ 蔚山塩浦洞)の3か所に倭館があったが、壬辰倭乱(文禄・慶長の役、半月城 注)により以前の倭館は閉鎖され、日本使節がソウルに上り朝鮮国王を謁見す ることも禁止された。   1607年に新築された豆毛浦倭館は狭く、船着場の施設が貧弱だったた め、何度か移転論議の末、草梁倭館の新築が決定された。   1678年(粛宗4)開館した草梁倭館(現・竜頭山周辺)は500名以 上の日本人が居住し、外交・貿易用に朝鮮側が用意した各種の建物が並び、日 本人も自身の生活にあうように日本式の家を建てた。   ここでは衣食住生活と関連した日本の物品を売る店も日本人が直接運営し、 朝鮮の中の日本人村をなした。草梁倭館は広い敷地に、増えゆく貿易を充足で きる良港をもっており、倉庫も広く、両国交流の新しい契機となった。   倭館は朝鮮文化と日本文化が出会う代表的な文化接点地域として文物交流 が活発になされていたが、時には良からぬこともあった。また、倭館運営には 費用と労働力が多く必要であったため、倭館の近くに住む釜山住民の負担は大 きかった。   草梁倭館は約200年間存続したが、1876年の開港以後は日本人専管 居留地となった。        --------------------   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


倭寇と松浦党 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#6325 2002/12/30   半月城です。   RE:6249 >倭寇の原因は元寇であったという渡部昇一・呉善花説(?)は説得力があり そうです。しかし、hal2hal2001さんが指摘したように時代にずれがあります。 >50年もの開きは説明困難でしょう。   元寇が倭寇の直接の原因になったとみるのは時代的に無理ですが、倭寇の 遠因にはなったようでした。そのあたりを少し補足します。   鎌倉時代、武士は何を目的に戦ったのかといえば、第一に恩賞が目当てで した。しかしながら元寇の際、幕府には奮戦した武士に恩賞として与えるべき 土地や報奨はあまりありませんでした。   これが北九州の武士、とくに松浦や対馬あたりの武士にはたいへんな不満 でした。命がけの奮戦が報いられなかったばかりか、甚大な被害をこうむった にもかかわらず、なんら救済の手は差しのべられませんでした。しかも、かれ らの住むところは地形的に農業がふるわないだけに食糧も乏しく、武士たちは 生き残りに必死でした。   そのため、対馬の宗氏などは幕府に見切りをつけました。それも無理はあ りません。元寇の時、鎌倉幕府は対馬を守るためにたった100騎の軍勢しか 配置しませんでした。その結果、対馬は元・高麗軍に蹂躙され放題で、まとも に生きのびられた男は皆無だったことでしょう。そうした歴史から幕府に徹底 的に不信感をもった宗氏は思いきった行動に出ました。下記のように高麗に対 馬の編入を願い出る請願書を提出しました。 宗家請願書   もし我島をもって貴国境内州郡の例により、定めて州名をなし印信を賜わ らば、即ちまさに臣節をつとめ、ただ命これに従わん(注1)   このとき、宗家は本気で高麗王朝の家臣になる決意だったようでした。宗 氏はもともと惟宗(これむね)と名乗っていたのですが、その姓を「宗」に変 えたのは高麗に迎合したためのようです。元来、対馬は地理的に九州本島より 朝鮮半島に近いので、朝鮮に組み込まれていたとしても不思議はないくらいで す。このとき、高麗が対馬の願いを聞き入れて自国に編入していれば、対馬の 歴史は大きく変わっていたことでしょう。   さて、幕府に徹底的に不信感をもったのは佐賀の松浦あたりの武士も同様 でした。かれらの成り立ちですが、中には嵯峨源氏の流れをくむ者もいたよう ですが、かれらは血縁関係を乗り越えて生きるために団結し、のちに松浦党と 侮蔑される徒党集団を組みました。その集団には領袖的な人物は不在で、何事 も談合で事を運んだようでした。それを下記の「松浦党契諾状」にみることが できます。 1.中央権力の命令より自分たちの談合を優先し、談合は多数意見を尊重する。 1.判断については常に道理に従い、骨肉の情や主従の義理には縛られない。 1.個人の利害は道理に基づいて調整し、その結果は多数意見に従う。   この契諾状には41人の代表者が署名しましたが、松浦党の運営は民主的 だったようです。名誉や立身出世などに無関心なかれらには、身分や出自など は問題ではなかったようです。そうした気風が高麗や明などの異国人を容易に 受け入れ、どんどん勢力を拡大していきました。   さらに、高麗王朝の対応のまずさがかれらの略奪行為を助長しました。高 麗は、さらわれた人間ひとりを木綿二匹(四反)と交換するという政策をとり ました。   これには九州の諸大名が喜びました。大内や大友、島津などの大名は松浦 党に人さらいを奨励し、略奪された人を買い上げ、高麗から木綿をせしめまし た。これが松浦党を太らせる結果になり、以前にもまして高麗は倭寇の横行に 苦しむようになりました。勢力を増したかれらは、やがて数百隻の船団を組ん で高麗軍と戦ったことは前に書いたとおりです。 http://www.han.org/a/half-moon/hm089.html#No.624   こうした倭寇の侵略は高麗王朝の滅亡を早めました。かわって登場した朝 鮮王朝はアメとムチの政策で倭寇をうまく処理しました。ムチは松浦党の前進 基地になっていた対馬の討伐(1419)であり、アメは宗家に対する禄の支給や通 行手形による貿易の許可でした。宗家に図書文引(ぶんいん)とよばれる通行 手形を発行して貿易を許したのですが、朝鮮で貿易の拠点となったのが前に書 いた倭館でした。   この政策が功を奏し、倭寇は朝鮮から遠ざかり、明や台湾などへ矛先を向 けました。とくに明では自国の体制や中央権力に不満をいだく貧しい福州あた りの人たちを多く仲間に引き入れました。その結果、松浦党は明国人のほうが 多くなってしまったくらいです。   そのなかの有名人として、ポルトガル人を種子島に案内した王直や、歌舞 伎・国姓爺(こくせんや)合戦のモデルになった鄭成功の父・鄭芝龍などをあ げることができます。長崎、平戸生まれのハーフである鄭成功は清を相手に活 躍し、のちに台湾からオランダ人を追い出す功を立てました。これにより、台 湾、中国で民族の英雄と称えられているのは周知のとおりです。   やがて豊臣秀吉が天下を統一し、海賊禁止令を出して取り締まったので、 倭寇も姿を消しました。 (注1)NHK TV番組「サムライたちの海、松浦党と倭寇」   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


RE: 拉致被害者の子どもたち 2002年11月23日 メーリングリスト[zainichi:24097] http://www.tcp-ip.or.jp/~axson/zainichi/zainichi.html   半月城です。   RE:[zainichi:24084] > 私は10日ほど日本に帰国し、母の顔も見てきましたが(オーストリーで) >息子は飛行機の到着時間の5時間も前からローカル空港で待っていました。 >私がオーストリーに帰らなかったら、9歳の息子はどう思うでしょう? >どのような事情があろうと、子供を置いたまま、日本に永住帰国など >できません。曽我さんも同じ気持ちではないかと思いますけど。   この母親としての心情は至極もっともですが、残念ながらこのような発言は日本 では通りにくくなってしまったようです。それどころか「子供を置いたまま」の永住 帰国が最善策であるかのようにメディアがキャンペーンをはっているようです。   そのあおりを受けたのが『週刊金曜日』でしょうか。北朝鮮で曽我ひとみさんの インタビューを載せた同誌は評価されるどころか「北寄り」とか、報道姿勢が軽率と され、逆に袋だたきにされる始末です。   ここでひとまず『週刊金曜日』の北朝鮮報道姿勢を明らかにしておきたいと思い ます。私がみたところ、同誌は北朝鮮にとってかなりきついことを書いています。た とえば、同じ号でアムネスティの寺中氏にインタビューし、同氏との問答をサブタイ トル「改善の兆しが見えない北朝鮮での人権状況」と題してこう掲載しました。  Q<拉致事件を引き起こしたことによって、北朝鮮国内の人権状況についても関心 が向けられています。以前から強制収容所の存在についても指摘されていますね>  <残念ながらこの国は、世界で最も人権状況に関する情報の公開性が低いのです。 軍事国家や独裁国家でも、こちら側が「こういう事例があるのでは」と確認を求める と「調査中」とか「現在こう進行している」など、ともかく何らかの返事が返ってく るケースが多い。   ところが北朝鮮の場合は、取りつくしまがないというか、ほとんど「そういう事 実はない」としか言ってこないのです。しかも、私たちとしては確認の仕様がなく、 実際何が起きているのかを知るのは困難を極めています>   このように北朝鮮にとってきびしいことを書く同誌が、よく北朝鮮でひとみさん の家族にインタビューできたと私はむしろ感心しています。もちろん、取材の際に何 らかの制限や制約があったことは想像にかたくありません。   また、インタビュー記事を掲載すること自体が北朝鮮の政治宣伝にのる可能性が あることはいうまでもありませんが、これは北朝鮮にかぎらず外国報道の宿命です。   そうした副作用を考慮しても、今回『週刊金曜日』によりひとみさんの家族の消 息や考えを知り得た事実は総合的にプラスではないかと思います。一時、この報道に 関連してひとみさんが「おこっている」との伝聞が伝えられましたが、本人は否定も 肯定もしていないので、真相は明らかではありません。   冷静に判断すれば、その情報がたとえひとみさんにとって衝撃的なものであって も、子どもの苦しみや悩みが親に伝わっただけでも収穫ではないかと思います。   ただ、その情報は一部しか書かれなかったことは容易に察しがつきます。これは 北朝鮮に配慮したこともさりながら、日本の雰囲気にも相当配慮して自己規制をした ようにみえます。実際、同誌は誌面に書けないことを直接伝えたいとして、ひとみさ んに会見を申し入れていたようでした。   想像ですが、ひょっとするとひとみさんの娘の美花さんなどはもう少し社会主義 国家の青年にふさわしいことを話していたのかもしれません。   それが誌面では、大学で英語を専攻した理由を「英語は国際的に通用する言葉だ し、特に朝鮮の主体性を世界に伝えるには英語が必要だからです」とさりげない表現 で書いていました。   美花さんの父親が脱走米兵であることなどを考えると、北朝鮮のために尽くした いという抱負くらいはもっと口にしていたのかもしれません。   これが地村さんや蓮池さんの子どもの場合はどうでしょうか。いずれも旅行に行 くと言い残して内緒で日本に帰っているようですが、いつまでたっても帰らない親を どう思うでしょうか? ひとみさんの杞憂のように「親が家族を見捨てたと誤解して いるかもしれない」状況でなければ幸いです。   外務省が北朝鮮との数週間前の外交約束を守らなかったためにこじれてしまった 帰国問題ですが、双方の国のメンツもあり、家族再会は第三国でするしか道はないよ うに思えます。   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


三井鉱山訴訟判決に感動 メーリングリスト[aml 27576] 2002年4月28日   半月城です。   はじめて企業の賠償責任が認められた画期的な判決に感動し、ひとこと書かずに はいられない心境です。   かねがね、私は戦後補償裁判に裁判官がどのような判決をだすのかは、しょせん はその裁判官の人間性に左右されるものと考えています。これまでの多くの裁判で は、杓子定規に時効とか除斥期間とかを大義名分にして、被害者が受けた艱難辛苦を いとも簡単に切り捨てるような血も涙もない判決が多くいいわたされてきました。   裁判官個人にとって、そのような大樹によりかかった判断をするのが自分の将来 や出世にとっても安泰なのでしょう。   しかし、今回の判決はちがったようでした。被害者が受けた辛酸や悔しさ、憤り の大きさを理解し、何とかそれをいやす道はないのか積極的に模索したようでした。 そして、除斥期間を単純に適用するのは「正義の理念に著しく反する」として“時効 の壁”を破る判断を示しました。心から拍手を送ります。 http://www20.u-page.so-net.ne.jp/yc4/ikenaga/topic.htm   今回、「除斥期間」という大きな壁をあえてぶち破らなければならないほど、劉 さんたちが受けた過去の扱いはひどいものでした。監視付きの「収容舎」に押し込め られ、強制労働に酷使された日々は筆舌につくしがたいものでした。   ふつう、人は座って半畳、寝て一畳というのが最低の空間なのに、ここで与えら れたスペースは一人あたりわずか0.6畳。これでは寝返りすらうてません。   また、衣服も「そこに着いてから1つのシャツを1枚とふんどし1本、それと小 さなズボンを1つもらっただけ」というから、とうてい人間扱いとは思われません。   さらに食事ともなれば、一日ちっぽけなマントウ5個とのこと。これでは豚のえ さのほうがまだしも栄養があるかもしれません。元従業員の武松さんは食糧事情を次 のように証言しました。  「収容所の人たち、あるいは三池炭鉱に強制連行されてきた中国人の話を全部集め てみますと、動くものを全部食べたと言ってます。例えば、ネズミとか、ヘビとか、 トカゲとか、その辺にあるものは全部食べたと言ってます。それから、食糧が足りな かったものだから、収容所の中の草も全部食べたと言ってます。ただ、収容所の草だ けでは足りないので、坑口のほうに、労役に向かっていく途中の道筋の草まで食べて しまったと言ってます」 http://www20.u-page.so-net.ne.jp/yc4/ikenaga/takematu.htm   想像を絶する衣食住ですが、こうした処遇は政府の政策を忠実に実行した結果な のかもしれません。龍谷大学の田中宏氏は、内務省作成の「華人労務者使用上ノ参考 資料」についてこう証言しました。  「この中には、中国人は食事はちゃんとやらんでいいと、少しひもじい思いをさせ たほうが作業の能率が上がるんだとか、風呂に入れるなんてとんでもないことなんだ とか、宿舎も悪いほうがいいんだとか、彼らが故郷を思って流す涙は芝居であると、 そんな人種じゃないんだという、非常に偏見に満ち満ちた、蔑んだ表現がいっぱい出 てくるわけですね」 http://www20.u-page.so-net.ne.jp/yc4/ikenaga/tanaka.htm   いったい、内務官僚や三井鉱山の管理者には人間の血がかよっているのかと疑い たくなります。さらに、それにも増して現場監督の仕打ちは残忍をきわめたようでし た。かれらは「バカヤロ」「チャンコロ」という罵声と同時に、ありとあらゆる暴行 をくわえました。「つるはしでも殴るし、ショベルでも殴るし、ときにはおのも振り 回しました」いうから、やられるほうは命からがらです。また、拷問も日常茶飯事 だったようで、その手口を武松氏はこう証言しました。  「拷問の方法はですね、ホースを口にくわえさせて、蛇口をひねって、飲まないと 窒息しますから、飲むと腹が膨れるのをけり上げられたり、あるいは、足のひざの後 ろに青竹を置いて正座させて、痛いというと、痛いてあるかとたたかれたり、ひどい ときには手のつめと肉の間に針を差し込んで回したりということが言われています」   聞くだけでも身震いします。これほど残酷なタコ部屋もそうざらにはないことで しょう。白昼、このように暴力が大手をふるって支配する企業で、原告の劉さんもリ ンチをくらって大けがをしました。石炭をショベルで出してるときに、いきなり後ろ から足を切りつけられました。   その手当といったら、体を縛りつけられ、麻酔なしに手術されたというから地獄 絵図さながらの光景だったにちがいありません。三井鉱山の診療所といえば、九州で もトップクラスの設備をそなていたはずなのに、中国人ということではろくに診ても らえなかったようでした。こんな証言が気になります。  「第1に、やっぱり敵国人であるということ、朝鮮人の場合は治療を受けることは できて、朝鮮人の場合、よく病院へ来たと看護婦さんたちも言いますけれども、これ は、その当時朝鮮人は日本人であったこと、そういう点では、中国人というのは、日 本人が受ける治療の枠の中に入ってなかったというのが言えるんじゃないかと思いま す」  「敵国人」に治療は不要ということでしょうか。その結果は数字の上で歴然とあら われました。三井鉱山は国策で炭鉱としては全国最大の5,517名にのぼる中国人の割 り当てを受けましたが、酷使の結果、そのうちの1,072名を死亡させました。およそ 5人にひとりが死んだ計算になります。   はるばる遠い異国の地へ銃剣を突きつけられて強制連行されたあげく、一日の休 みもなく奴隷労働にこきつかわれ、食べ物もろくに与えられず衰弱して果てていくな んて、まさに犬死ににひとしいものです。   こうした事実が次々に明らかになっても、日本政府や三井鉱山は正面から「強制 連行」や「強制労働」を認めようとはしませんでした。そのうえ、三井鉱山の悪質ぶ りは度を超しているようで、判決はこうのべました。  「同鉱山は原告らに労働の対価を支払わないばかりか十分な食事も与えなかったの に、国からは多額の補償金を受け、強制労働で多くの利益を得た」   三井鉱山という企業には道義のかけらすらないようです。道義的な面では外務省 もひけをとらないようです。判決は「外務省は企業に強制連行に関する資料を作成さ せた後、廃棄させ、原告らの権力行使を困難にする状況を作り出した」とのべ、外務 省の証拠隠滅を断罪しました。   しかし、外務省や内務省はいかに悪質であっても、その法的責任は問われません でした。大日本帝国はたとえどんな誤りをおかしても責任は問われないという「国家 無答責」の壁を判決は破ることができませんでした。        -------------------- 福岡の強制連行訴訟、三井鉱山に賠償命令 国責任認めず   朝日新聞、02.4.26  先の大戦中に日本に強制連行され、福岡県の炭鉱で坑内労働などに従事させられた として、中国人15人が国と三井鉱山(本社・東京)に総額3億4500万円の損害 賠償などを求めた訴訟の判決が26日、福岡地裁であった。木村元昭裁判長は、強制 連行・労働について国と企業が「共同で計画し実行した」と認定。不法行為の時から 20年で賠償請求権は消滅するという、民法の「除斥期間」の規定をこうしたケース に適用することは「正義、衡平の理念に著しく反する」と述べ、三井鉱山に総額1億 6500万円(原告1人当たり1100万円)の支払いを命じた。国への請求は棄却 した。  三井鉱山は福岡高裁に即日控訴した。原告側も国の責任に関する判断を不服として 控訴の方針。一連の戦後補償裁判で企業の賠償責任が認められたのは初めてで、各地 で係争中の同種訴訟にも影響を及ぼしそうだ。  判決はまず、強制連行・労働について「国と産業界が協議し、国策として実行され たもので、労働実態は劣悪で過酷だった」と指摘した。  そのうえで除斥期間の適用の是非を検討。「強制労働によって企業は極めて多額の 利益を得た」とする一方、(1)政府は強制労働の実態を認めず、関連資料も93年 になって初めて一般に知られるようになった(2)日中国交回復後、戦時中の被害に ついて個人に損害賠償請求権があるかどうか議論があった--などを挙げ、原告らの 提訴が00年まで遅れたのはやむを得なかった、と述べた。  こうした事情を踏まえ、判決は「除斥期間の規定を適用して企業の責任を免れさせ るのは正義に著しく反する」と判断。原告らの精神的苦痛などを考えれば、慰謝料は 1人当たり1000万円が相当とし、これに弁護士費用を加えた額の支払いを三井鉱 山に命じた。  被告側は、日中共同声明や平和友好条約によって賠償問題は解決済みとの姿勢を とってきた。この点についても判決は、中国外相が「放棄したのは国家間の賠償で、 個人は含まれない」と発言していることなどを指摘。「法的に疑義が残されており、 条約が結ばれても原告らの請求権がただちに放棄されたとは認められない」と退け た。  一方、国の責任に関しては「旧憲法下では、国の権力的作用によって損害が起きて も国は責任を負わない」とする国家無答責の法理を採用し、請求を棄却した。 (以下省略)        --------------------   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


松井やよりさんの「美しい人生」 メーリングリスト[aml 31307] 2002.12.14   半月城です。   RE:[aml 31303], > 松井やよりさんから強いメッセージが寄せられていました戦時性暴力に焦点を当 てた資料館を実現するため、いよいよ建設募金活動「1億円キャンペーン」に取り組 むことになりました。(昨日、記者会見を開きました)   このニュースは日本のメディアでは未見ですが、海外との連帯を推し進めて来た 松井さんにふさわしく、韓国の東亜日報が報道しました(注)。その記事で松井さん がガンで闘病生活を送っていることを知りました。   松井さんの思い出話ですが、5,6年前、松井さんは講演でこんなことを語って いました。        --------------------    「慰安婦」問題は最近急にクローズアップされてきたけれど、この問題の存在 は、戦後間もないころのかなり早い時期から公になっていました。それも、皇軍兵士 の手柄話として。彼らは、軍慰安所で何人の女を抱いたとか、朝鮮の女は良かったと か、こんなたぐいのことを本に書いて堂々と出版していました。そうした興味本位の 本は、神田の古本屋で一冊50円くらいで山積みになって売られていました。 この事実に気がつきながらも、それに対し何らのアクションを起こせなかった 自分を含むジャーナリストはちょっとふがいない。また、たとえジャーナリストでな くても、女性の一人として問題提起ができなかったことも情けない・・・。        --------------------   かつての自分自身にたいする情けなさやふがいなさが、松井さんの精力的な活動 の支えになっていることを実感しました。そして今、ガンの身でありながら「女たち の戦争と平和資料館」建設をライフワークとして推進している「美しい人生」に心か ら声援を送りたいと思います。 (注)「従軍慰安婦問題追求 松井やよりさんの美しい人生」 東亜日報 DECEMBER 12, 2002 http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2002121395158 by 李英伊 (yes202@donga.com) 2000年12月に、従軍慰安婦についての日本軍の責任を追及する女性国際戦犯法 廷を開き、昭和天皇に対して有罪判決をくだした女性市民運動家、松井やより(6 8)「戦争と女性に対する暴力」日本ネットワーク代表。彼女は肝臓ガンの告知を受 け、闘病生活を送りながらも、従軍慰安婦の資料を集めて展示する「女たちの戦争と 平和資料館」(従軍慰安婦資料館)設立を生涯の仕事として進めている。 従軍慰安婦問題からさらに進み、戦時下の性暴力の根絶に向けて東奔西走していた 時、予期せぬ肝臓ガンの告知を受け、決心したのがこの資料館の設立。彼女は数日 前、友人がつくった「松井やよりさんの健康回復を願う友人の集い」で、「これまで 収集してきた従軍慰安婦関連の証言や記録を集めて、戦争暴力根絶に向けた活動が続 くように役立てたい」と言って、資料館設立を頼んだ。自分の家と貯金、従軍慰安婦 関連所蔵書籍などを寄付するという意思も明らかにした。 彼女のこのような意思が伝えられ、日本国内はもとより海外の市民団体からも、数百 通の激励の手紙とメールが殺到している。12日には、市民団体運動家約30人が記 者会見を開き、彼女の意思を受け継いで3年以内に資料館を設立すると発表した。 もと朝日新聞社会部記者で、アジアの女性問題を主に扱ってきた彼女は、定年退職直 後の95年にアジア女性資料センターを設立し、海外の市民団体と協力して、従軍慰 安婦などの日本の誤った歴史清算に情熱を注いできた。 女性国際戦犯法廷も、98年に彼女の提案で、韓国挺身隊問題対策協議会などアジア 8カ国の市民団体が東京で共同主催したもの。民間主催という限界はあったが、日本 の従軍慰安婦問題を初めて扱った法廷だった。 この法廷には、アジア地域の従軍慰安婦被害者45人が、日本軍の残虐行為を生々し く証言し、国際社会の関心を呼んだ。また、ユーゴ戦犯法廷のパトリシア・セラーズ 法律顧問を含む各国の法律専門家らで構成された検事団45人が、各種資料と証拠物 件を根拠に、従軍慰安婦制度を痛烈に批判した。 (以下省略)   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


はだかの「慰安婦」 メーリングリスト[aml 31398] 2002年12月21日   半月城です。   先日(13日)、テレビで「元従軍慰安婦、一枚のヌード写真が語る重い歴史」と題 する番組が「筑紫哲也 NEWS23」で放送されました。その衝撃的な写真をめぐって、 フリーライターの西野留美子さんが内容の濃い話を語っていましたので、それを補足 して紹介します。   アメリカの公文書館に戦時中の資料として「中国軍によって捕虜にされた日本の 女性」と称される一枚の写真が保管されました。えっ?女性が捕虜に?と思われるか もしれません。 おまけに捕虜のひとりはおなかの大きい妊婦であるだけに、彼女たちが捕虜だなん てにわかには信じがたい話です。それだけに、写真に写っている妊婦のしんどそうな 姿を一度見たら誰でもその写真をけっして忘れることはできないでしょう。   実は、捕虜の妊婦とは朝鮮人「慰安婦」で、公文書館の別な資料に朴永心と記録 されました。するとさらに新たな疑問がわきます。日本軍「慰安所」では性病予防を かねて利用者の兵士ひとりひとりに「突撃一番」とよばれる男性用避妊具を渡してい たので、それが機能するかぎり「慰安婦」が妊娠するとは考えにくいところです。ま た、たとえまちがって妊娠したとしても「慰安婦」はすぐ堕胎させられるか、お払い 箱になるのが通例なので、臨月近い「慰安婦」の存在は不可解です。   この疑問にたいするヒントは写真の撮影場所にありました。そこはミャンマー (ビルマ)に近い中国の山岳地帯で雲南省の拉孟(らもう、通称・松山)とよばれ るところでした。   拉孟は中国抗日軍へ連合軍から物資補給されるビルマルート、いわゆる援蒋ルー トの拠点にあたり、中国軍とのあいだで熾烈な戦闘が展開されました。日本軍は日に 日に敗色が濃くなりやがて玉砕するのですが、当時のようすを西野さんはかろうじて 生きのびた兵士の証言からこう書きました。        --------------------   戦況は不利の一途を辿り、やがて本土陣地も危険になり、早見たちは山崎台に後 退していく。戦死者が続出した。ひとつの陣地の兵力はせいぜい多くて15,6名 だった。彼が積山陣地に着いたとき、わずか12名になっていた。   連日の雨で、壕のなかは膝までぬかる溝川となっていたが、壕から頭すら出すこ とができなかった。用を足す場合も、迫撃砲の弾が入っていた空缶を使った。迎え撃 ちたくともすでに弾丸はすべて切れていた。   制空権はすでに奪われ、後方からの食糧輸送は断たれていた。わずかな食糧を空 缶に入れ、ろうそくの火でトロトロ煮て食べた。しまいにはジャングル野菜と呼んだ 野草を食べて痩せこけた体を保った。空腹で疲労は極致に達していた(注1)。        --------------------   日本軍は戦況がどんなに不利になっても兵士に投降を許さなかったので、残され た道は自滅的な突撃、すなわち玉砕しかありませんでした。番組に出演した朴永心さ んは「日本兵もかわいそう、日本へ帰れば両親、妻子、兄弟もいるのに...」と哀 れんでいましたが、愚かものが指導する侵略戦争は民衆の不幸を倍にしました。その 最大の犠牲者が「慰安婦」なのですが、その「慰安婦」にすら「かわいそう」と同情 される存在が皇軍兵士でした。  「慰安婦」はそうした心根で兵士たちと壕のなかで一緒に暮らし、炊事なども手伝 い、運命を共にしました。「慰安婦」が連合軍により捕虜扱いされた理由はここにあ ります。   さて、先ほどの妊婦の写真ですが、西野さんはこれに10年以上もこだわり続け ました。兵士などの証言から彼女の源氏名が「若春」であることもわかりました。そ して今年になって、新たな数枚の写真を拉孟の近くの騰越で入手しました。それがテ レビで取りあげられた問題のヌード写真です。   それらの写真は雑誌『プレイボーイ』顔負けの構図で「慰安婦」の全身ヌードや、 ベッドで兵士と裸でたわむれる写真などでした。これらは、写真館を日本軍によって 接収され「慰安所」にされてしまった熊氏により撮影されたものでした。   南京大虐殺(1937)以来、性欲旺盛な兵士により多発した強姦を減らすため、日本 軍は各地に「慰安所」を設けました。松山でも部隊長の戦記「若い兵の為に考えてや らなければならぬのが慰安所である」との記述どおりに「慰安所」がつくられました が、そのうちのひとつはいまでも建物だけが現存します。   朴永心ハルモニ(おばあさん)は、17歳の時、巡査に「いい仕事があるから」 とだまされ、ビルマを経由して拉孟へ連れてこられました。そのときのことを朴永心 さんは「なんでこんな所に...涙が止まらなかった...」と語っていましたが、 今の高校生くらいの歳で皇軍兵士の「共同便所」がわりに奉仕させられた生き地獄さ ながらの日々は、筆舌につくしがたいものがあったようでした。   軍刀で斬りつけられた跡が今でも残っているハルモニの首筋をテレビカメラがう つしていましたが、性奴隷として半死半生の生活を余儀なくされたことが容易にうか がえます。   幸か不幸か、ハルモニのおなかの子どもは死産でした。子宮も摘出したので、ハ ルモニは二度と子どもを産むことはできませんでした。「慰安婦」生活は身も心も、 そして人生もズタズタにしてしまったようでした。   さて、朴永心さんがヌード写真のモデルであるとの証言を得た西野さんは、どう してもそれを本人から確かめるたい一心で北朝鮮に飛びました。ピョンヤンのホテル のロビーには公文書館の原画を引き伸ばした写真が掲げられていますが、そのメイン である朴永心さんはピョンヤン近くの南浦市にいまでも健在です。   朴ハルモニに会った西野さんは、ヌード写真を見せようか見せまいか、さんざん 迷いました。もし、写真の主が彼女とわかれば、朴さんのつらい過去をことさらえぐ ることになります。意を決して西野さんは写真をみせました。 「この写真、誰だかわかりますか?」 「いいや...私はおばあちゃんだし...」 「ハルモニの若いときの写真ですか?」 「そうですよ...」 (涙) 「もうやめましょう」   ハルモニは絶句した後、しきりに「死にたい」ともらしていたそうです。涙に暮 れたつらい「慰安婦」時代の古傷を思い出したのでしょう。   ハルモニのような「慰安婦」のひとりが、もし、自分の母親だとしたら...そ う思うと私はいたたまれない気持ちになります。私には朴永心さんが経験した地獄は けっして他人事ではありません。そのため、とめどなく涙を流すハルモニの姿を私は とうてい正視することができませんでした。   悲惨な青春しかなかったハルモニに、せめてもの償いやおわびがなされれば、す こしはハルモニも心安らぐのでしょうが、それは81歳のハルモニが存命中に何とか してあげたいものです。   そうした過去を清算するはずの日朝交渉は、拉致被害者家族の帰国問題ですっか り暗礁に乗りあげてしまいましたが、交渉はハルモニが少しは償われるような形で解 決すべきです。 (注1)西野留美子『従軍慰安婦と15年戦争』明石書店,1993   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


竹島=独島と鳥取藩池田家文書 Yahoo!掲示板「竹島」#604 2002/12/29   半月城です。   RE:591 >せめて池田家文書辺りを根拠に出すのなら、地方政府の認識が分かるのです が、小生も見たことありませんから。   池田家の文書は「竹島日本領派」の研究者によりかなり調査されました。 その結果は「竹島日本領派」にとって決して有利ではないようです。まず、池 田家文書とはいかなるものか、塚本氏はこう解説しました。        --------------------   現在、鳥取県立博物館に『竹嶋之書附』と題する冊子体の資料がある(請 求番号610-1711)。この冊子には、目次に掲げた順序で13の文書および一つ の絵図が含まれている。   これらの文書類は、因幡・伯耆両国を統治していた鳥取藩池田家の旧蔵資 料であって、明治42年から昭和8年にかけて池田家による藩史編纂事業に使 用された後、昭和12年に他の多くの資料とともに鳥取県立図書館に寄託(後 に寄贈)され、さらに県立博物館に移管されたものである。  ・・・   次章に全文を掲載する『竹嶋之書附』は、元禄ー享保年間(17世紀末ー 18世紀初)における鳥取藩と幕府の往復を中心とする文書類である。   これより先、元和4年5月(1618年)幕府は鳥取藩を通じて伯耆国米子の 大谷(屋)、村川両家に「竹島」渡海の免許を与えた。ここで言う竹島は、実 は鬱陵島のことである。  ・・・   日本人の“竹島”(鬱陵島)渡海は、爾来約80年続いた。ところが元禄 5年3月(1692年)、現地で初めて朝鮮人と出合い、更に翌年には朝鮮人二名 を連れ帰るという事件が起きた。ここに“竹島”(鬱陵島)出漁をめぐり、国 家レベルの問題が生じた。   次章の文書類は、この紛争に関連したものである。幕府は対馬の宗氏をし て交渉に当たらせる一方、鳥取藩に問合せて“竹島”渡海の経緯を調査し、つ いに元禄9年1月(1696年)、“竹島”(鬱陵島)への渡航を禁止した(注1)。        --------------------   補足ですが、塚本氏は竹島(鬱陵島)渡海免許の年を1618年としています が、最近の研究では1623年とする見方が強いようです(注2)。これに関して は別の機会にふれることにします。   さて、「竹島一件」を記した池田家文書には注目されるふたつの史料があ ります。ひとつは徳川幕府が鳥取藩にあてた「御尋の御書付」であり、もうひ とつはこれに対する「御返答書」です。これにより幕府や鳥取藩が松島(竹島 =独島)をどのようにみていたのかが明白です。このあたりを私のさる小論か ら転載します。        --------------------   老中・阿部豊後守は鳥取藩にたいし七か条からなる質問「御尋の御書付」 を問い合わせた。そのなかで注目される質問は「因州 伯州え付候竹嶋はいつ の此より両国え附属候哉」「竹嶋の外両国え附属の嶋有之候哉」の二点である。 幕府は、竹島が鳥取藩付属であると思いこんでいたようである。   また、幕府は竹島以外に因幡、伯耆両国所属の島が存在するかどうか尋ね たが、これはとりもなおさず当時の幕府は松島(竹島=独島)の存在を認識し ていなかったことを示している。大谷家の記録によると同家は幕府の許可を得 て松島の開発も行ったとされているが、そうした渡海許可の公文書は見当たら ないうえに、元禄時代の幕府が松島を認識していないようなので、幕府は松島 渡海許可の公文書を発行しなかったと考えられる(注2、注3)。   幕府の質問に対して鳥取藩は「竹嶋は因幡 伯耆附属ニては(ママ)無御 座候」「竹嶋松嶋其外両国え付属の嶋 無御座候」と明言し、竹島、松島は自 藩領ではないと回答した(注1)。幕府は、鳥取藩が竹島は自藩領でないと回 答したことや、その島に日本人が住んでいないこと、さらに地理的に因幡から よりは朝鮮からの方が近いことなどを考慮し、同島はかつて朝鮮領であったこ とは明らかであると判断した。   このとき「兵威」を用いて竹島を日本領にする案もあったが、結局は竹島 を放棄した。一六九六(元禄九)年一月二十八日、竹島を「無用の小島」と断 じて鳥取藩に同島への渡海禁止を申しわたした。この決定は、対馬藩を通じて 朝鮮へ伝えられ、竹島一件は終結した。その際、幕府は松島(竹島=独島)に ついては何も言及しなかったが、幕府決定における鳥取藩回答書の役割からみ て、幕府は松島も暗に放棄したものとみられる        --------------------   江戸時代、鳥取藩の町人が竹島・松島に出漁していただけに、鳥取藩は竹 島・松島についての知識が豊富で、それなりの地図も残されました。現在、外 務省の「竹島問題」サイトは、<我が国では古く「松島」の名によって今日の 竹島がよく知られていたことは多くの文献、地図等により明白>と書いていま すが、これはそのとおりです。 「http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/index.html   しかし、竹島・松島を鳥取藩がいかによく知っていても、それは単なる知 識だけにおわり、両島に対する領有意識はありませんでした。しかも、それは 竹島一件の処理過程で公的に再確認されました。   それを幕府も追認しました。ただし、松島(竹島=独島)に関するかぎり 幕府は同島の知見すらなかったので、領有意識などもちろん存在しませんでし た。当時、竹島・松島は日本の版図外だったことが明らかです。   それにもかかわらず、外務省のサイトは固有領土説に固執しました。その 根拠(?)として <例えば、1650年代に伯耆藩(鳥取)の大谷、村川両家が「松 島」を幕府から拝領し経営していたという記録があり>と書いていますが、こ のように民間のあやふやな記録に頼らなければならないとは外務省の苦衷が察 せられます。   今では「竹島日本領派」の研究者すら大谷・村川家の「松島拝領」に否定 的であり、松島(竹島=独島)渡海免許は出されなかっただろうと述べていま す(注3)。日本外務省の「竹島(独島)固有領土説」はどの面からみても成 り立たないようです。 (注1)塚本孝「竹島関係旧鳥取藩文書および絵図」レファレンス、国会図書   館,1985.4月号および5月号 (注2)池内敏「竹島一件の再検討」名古屋大学文学部研究論集』史学四十七   号、二〇〇一年、八一頁。 (注3)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号、国会図   書館,1996   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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