半月城通信
No. 99(2003.11.12)

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  1. 北朝鮮バッシング
  2. 蘇我氏は渡来系氏族か(6)
  3. 狛犬と高麗犬
  4. 雅楽ブームと東儀秀樹さん
  5. 古代ヤマト民族と固有文化
  6. 秦氏のルーツ
  7. 東漢(やまとのあや)とヤマト朝廷
  8. 北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解(2)


北朝鮮バッシング 2003.9.27 メーリングリスト[aml 35877]   半月城です。   昨日の「9.26 姜徳相氏講演集会」に参加できなかったのですが、どなた か行かれた方がおられましたら、その様子をアップしてくだされば幸いです。   同氏は集会の趣旨に沿うかのように、最近の北朝鮮バッシングの世相は8 0年前を想起させるとしてこう記しています。        --------------------   作家・中西伊之助は関東大震災下の朝鮮人虐殺事件に日本の民衆が無批判 に加担したことにふれ、  「試みに、朝鮮及日本に於て発行せられている日刊新聞の、朝鮮に関する記 事をごらんなさい。そこにはどんなことが報道せられていますか。私は寡聞に して、未だ朝鮮国土の秀麗、芸術の善美、民情の優雅を紹介報道した記事を見 たことは殆どないと云ってもいいのであります。   そして爆弾、短銃、襲撃、殺傷、-あらゆる戦慄すべき文字を羅列して、 所謂不逞鮮人--の不法行動を報道しています。それも新聞記者の事あれかし の誇張的な筆法をもって」(『婦人公論』1923,11/12合併号)と述べ、「この 日常の記事を読んだならば、朝鮮とは山賊の住む国であって朝鮮人とは猛虎の たぐいの如く考へられる」そうした先入観があったため、自警団はより積極果 敢になったと結んでいる。   関東大震災の悲劇から学ぶべきことを凝縮した発言である。  ・・・   昨年9月以降はマスメディアに朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の情報のの らない日はないようになった。独裁、麻薬、拉致、核問題に、適当な調味料や 薬味をそえて、嘲笑、軽蔑の競演の日々が続いた。   最近は新聞も読みたくない。テレビもみたくないと思うことが多い。朝鮮 半島の北が避難されることがいやだからではない。声高の非難を聞いていると、 この百年の間に日本が朝鮮半島にどうむきあってきたのかを問わざるを得なく なるからである。   自分の姿が相手の鏡にどう映っているのか、自分の手はどれほど白いのか、 内省すれば、いやでも未清算の過去に目をつぶって、かくも口汚くののしるこ とができるのか、不思議に思えるのである。   そういう姿勢にいるかぎり、対立は深まるばかりである。隣に悪人がいる と騒ぎ立てる報道に日々ふれていればそれがまた刷りこまれて在日韓国・朝鮮 人に対する差別意識が頭をもたげてくるのも必定である。   創氏改名は韓国人の要請ではじまった、「日韓併合」は国連のお墨付きだ という発言もとび出しているが、それには北も南もないのである。いま南と仲 良くみえるのは北の問題をかかえたねじれ現象であって、北の問題が解決した ら次に南たたきがはじまる予感がしてならない今日この頃である(注1)。        --------------------   私は、「南たたき」は杞憂のような気もしますが、ともかく今の日本は 「ならず者国家」を奇貨にして軍事偵察衛星を打ち上げたり、自衛隊派兵を決 定したりするなど軍事重視の道を歩むとともに、その一方では石原慎太郎 都 知事のようにテロ容認とも受け取れる発言が大手をふってまかり通る世の中に なりました。   こうした世相は、テレビなどマスメディアによる、過剰ともいえる「北た たき」が影響しているのではないかと思います。   軍事大国への道、テロ容認の世相がファシズムへの道、アジア侵略への道 につながらないことを望むとともに、在日朝鮮人などへ跳ねかえらないことを 願っています。 (注1)姜徳相『新版、関東大震災・虐殺の記憶』青丘文化社、2003 (注2)ニューズウィーク日本版「拉致ヒステリーの落とし穴」 2003年10月22日号 P.18 ------------------------- 被害者の帰国から1年拉致問題の解決だけにこだわり続ける姿勢が外交をゆが ませている ------------------------- 横田孝、久保信博(東京)  北朝鮮との国交正常化交渉を再開させて、東アジアに平和と安定をもたらす ――昨年9月17日、平壌を訪れた外務省の田中均アジア大洋州局長は壮大なプ ランを描いていた。  この日、小泉純一郎首相が金正日(キム・ジョンイル)総書記との首脳会談 に臨むことができたのも、田中が水面下で北朝鮮と30回以上の交渉を重ねてき た成果だった。日本の外交当局は、この歴史的な会談が北の軍事的脅威を除く 重要なステップになることを期待していた。  だが金正日が13人の日本人を拉致した事実を認め、そのうち8人は死亡した と小泉に伝えると、平和への希望は吹き飛んだ。日本中が怒りを爆発させ、田 中は交渉の一線からはずされた。田中は独断で北に妥協したとして、「国賊」 というレッテルを張られた。  今年9月には、田中の自宅前に爆発物が仕掛けられるという事件まで起きた。 タカ派として知られる東京都の石原慎太郎知事は、事件後にこう語った。「田 中均という奴、今度爆弾仕掛けられて、あったり前の話だ」  日本が怒りをいだくのも無理はない。独裁国家が10代の少女を含む多くの市 民を拉致したという事実は、人権と国家主権に対する重大な侵害にほかならな い。問題は、怒りによって外交政策が有益なものになりうるのかどうかだ。  昨年10月15日に5人の拉致被害者が帰国してから1年。日朝間の緊張は、これ までにないほど高まっている。北朝鮮は今も5人の被害者を自国へ戻すよう主 張して譲らず、先週には核問題を話し合う6カ国協議から日本を「排除」する と一方的に宣言した。  核開発を放棄しない北朝鮮とアメリカの関係は打開の糸口さえ見いだせず、 中国は北から大量の難民が押し寄せることに神経をとがらせている。にもかか わらず、日本は「拉致」というたった一つの問題にこだわり、北に敵対的なメ ッセージを送り続けている。  ここへきて、そうした姿勢に疑問を投げかける見方も出てきた。日本の強硬 姿勢はなんの成果ももたらさず、むしろ日本がこの地域に平和をもたらす役目 を務めようとするうえで障害になっているのではないか、という見方だ。  拉致一色に染まった日本の世論は「対北朝鮮政策において政治的な足かせに なっている」と、戦略国際問題研究所(ワシントン)のウィリアム・ブリアは 言う。「北朝鮮の側から突破口が開けないかぎり、日本政府が大きく踏み出す のは非常にむずかしい」  日本が核問題を無視しているわけではない。だが日本は、北に残る拉致被害 者5人の家族が帰国し、死亡したとされる8人の被害者の詳細が明らかにされな いかぎり、国交正常化交渉の再開には応じないとしている。自民党の安倍晋三 幹事長をはじめとする強硬派が主張しているのと同じ立場だ。 拉致の解決は大前提だが  今や拉致問題は、政治家にとって地雷のような存在と化しつつある。「北朝 鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)」は、11月に行 われる総選挙で、すべての立候補者にアンケートを行う計画を立てている。  北朝鮮への経済制裁を支持するか、拉致はテロ行為と考えるかどうかなどを 尋ね、結果を投票日前に公表する。今回の選挙は「拉致された同胞を救うため の国民運動」という位置づけだと、民主党の西村真悟・前衆院議員は言う。  メディアの過熱ぶりも、ヒステリーの域に達した。昨年秋、小泉が訪朝した 後の週刊誌には「『亡国官僚』田中均をクビにせよ!」「8人を見殺しにした 政治家・官僚・言論人」といった見出しが掲げられ、北に「弱腰」の発言をし た人物は名指しで攻撃された。  昨年10月、77年に拉致された横田めぐみの娘キム・ヘギョンを全国紙2紙と 民放テレビ1局がインタビューし、彼女が涙ながらに答える姿が報じられると、 他のメディアはこの3社を袋だたきにした。拉致被害者と家族の結束を乱そう とする北の「策略」にはまったというのだ。  怒りの渦は、罪のない在日韓国・朝鮮人も巻き込んだ。小泉の訪朝後、各地 の朝鮮学校には「子供を拉致してぶっ殺してやる」といった脅迫電話が相次い だ。  そろそろ日本は冷静さを取り戻すべきだろう。日本の安全保障にとって重要 な問題は拉致以外にもあると、専門家は指摘する。  8月の6カ国協議では、北朝鮮の金永日(キム・ヨンイル)外務次官がジェー ムズ・ケリー米国務次官補に対し、北朝鮮は核保有宣言と核実験を行う用意が あると語ったとされる。  10月2日には北朝鮮外務省の報道官が、8000本余りの使用済み核燃料棒の再 処理を完了したと発表。北はすでに最大7発の核弾頭を製造する能力をもち、 約200基の弾道ミサイルを日本に向けて配備しているという。  外務省の竹内行夫事務次官は8月、被害者家族の早期帰国を優先すると明言 しつつも、そのために「最もよい方法を探求し、(帰国を正常化交渉の前提と するかについて)今から何かを決めてかかるといった考えはない」と述べた。  この発言に、救う会のメンバーや「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家 族会)」の蓮池透事務局長は、政府の公式見解と異なるとして激怒。竹内は発 言を撤回せざるを得なかった。  「国民の命を犠牲にして得られる国益とはなんだと、外務省は世論から問い かけられた」と、拓殖大学の重村智計教授は言う。「国交正常化のほうが国民 の命より大切だなどと口にする官僚もいたが、それではもう国民が納得しな い」 議論ができない民主国家  拉致問題の全面解決を繰り返し主張することは日本の長期的な国益にかなう と、一部の政治家は主張する。北朝鮮には強硬路線しか通用しない、という考 え方だ。  「政策を一本化してもらって、支障になるものは排除する必要がある」と、 「北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟(拉致 議連)」の副幹事長を務める民主党の原口一博・前衆院議員は言う。  だが、論争自体が存在しないことを懸念する向きもある。「北朝鮮が一枚岩 だから日本も一枚岩でないといけないという人たちがいるが、日本は民主主義 国家だからいろいろな見方があっていい」と、国際基督教大学の柴田鐵治客員 教授は言う。「偏狭なナショナリズムが日本を覆ってしまっている」  民主党の西村は4年前、日本も核武装するかどうかを国会で検討するべきだ と週刊誌で発言したことを批判され、防衛政務次官を辞任した。タブーなしに 議論することの重要性を痛感しているはずの西村に、拉致問題をめぐる状況は 核武装の議論をタブー視しているのと同じ構図ではないかと問うと、こんな答 えが返ってきた。  「そのとおり。議論がないと言えば、小泉首相が平壌で共同宣言に署名すべ きだったかどうかという議論がない。(拉致問題の解決法としても)経済制裁 や宣戦布告などいろいろなオプションがあるが、今は懇願するだけで、議論が ない」  本誌は家族会の蓮池事務局長にも現状についての意見を求めたが、蓮池は取 材に応じなかった。  強硬派は、目に見える形で北に圧力をかけることを望んでいる。「経済制裁 を科さなくて拉致や核の問題を解決できるのか」と、救う会の佐藤勝巳会長は 言う。「話し合いで解決できるなら、なぜ25年間も解決できなかったのか」 失われた独自外交の好機  強硬派は、北へ現金や物資を運んでいるとされる万景峰号の日本への入港禁 止も求めている。自民党は先週、北朝鮮への送金停止を検討すると発表した。  もっとも、日本だけが経済制裁を実施しても効果があるかどうかは疑問だ。 北に流入する燃料や食料の大半は、中国が供給している。北朝鮮は、経済制裁 は「宣戦布告」とみなすと主張してもいる。  経済制裁を実施すれば東アジアの軍事的緊張が高まり、韓国や中国からの資 本流出を引き起こして経済を破綻させると、慶応大学の小此木政夫教授は指摘 する。「日本が単独で経済制裁に踏み切るのは、政策としては愚の骨頂だ」と、 小此木は言う。  対北朝鮮強硬派は以前から、日本はもっと積極的な外交をして東アジアにお ける国益を守るべきだと主張してきた。昨年の日朝首脳会談はそのチャンスだ ったが、拉致問題をめぐって2国間のパイプは断ち切られ、経済協力やミサイ ル実験の凍結延長といった問題を決着させる道は閉ざされた。  「核というグローバルな問題の解決に日本は重要な役割を果たせるはずだっ たが、その存在はレーダーから消えてしまった」と、東京大学の姜尚中(カ ン・サンジュン)教授は言う。「今の日本は、小さな穴から世界を見ていると いう印象しか受けない」  日本にとって今の問題は、失った主導権をいかに取り戻すかだ。アメリカや 中国にとっては、北朝鮮が核をもつことで、東アジアに核開発のドミノ現象が 起きることだけは避けたい。「拉致問題については日本の主張を支持するが、 核問題にも取り組む必要がある。優先するのは核のほうだ」と、米国務省のあ る当局者は言う。  日本はいずれ、政策の優先順位を見直す必要に迫られるだろう。「北朝鮮は 体制保障と経済再建の両方を必要としている」と、慶応大学の小此木は言う。 「拉致問題だけを先に解決しても、北朝鮮は体制保障を得られない。だから、 核問題が前進しないと拉致問題も動きださない」 (以下省略)   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


蘇我氏は渡来系氏族か(6) 2003/ 9/28 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#8322   前回までの学説を私なりにまとめてみます。   何十年も高句麗と死ぬか生きるかの戦争を続けてきた百済は、特使・昆支 王の外交交渉もむなしく倭の援兵がえられず、475年、対高句麗戦において蓋 鹵王は戦死し、国は一時滅亡しました。そんなとき、新羅人を母に持つ木満致 は新羅から一万の援兵を得てかろうじて高句麗を撃退し、文周を王にたてて熊 津(公州)に移りました。   さらに木満致は倭に渡り、雄略大王の支持も取り付けて百済の復興に尽力 したのですが、混乱期の政情不安定な百済政局の中で木満致らが擁立した文周 王が暗殺される事態になり、木満致は自己の存立基盤を失い、倭に亡命したよ うでした。   木満致の最初の移住地ですが、門脇禎二氏は大和の曽我川流域とみている のに対し、山尾幸久氏は南河内の石川(一須賀)とみて意見がわかれています。 一方、前回紹介した鈴木靖民氏は後者の河内説を支持しているようで、こう記 しました。        --------------------   さて、木満致は渡来して雄略の政権に属したが、当初たとえ単独にせよ、 多くの渡来人がそうであるように河内の地に居住したのであろう。そして河内 各地に分布する古渡、あるいは今来(いまき)の各種の渡来人集団と無関係で はなかったろう。そもそも木満致自身も当時の大きな渡来のうねりのなかにあ った。   かれを蘇我満智と同一人とすると、上記の『古語拾遺』の雄略朝に三蔵を 管掌した麻智の話も、かれと東、西文(あや、ふみ)氏との緊密な関係を具体 的に仄示するものである。   なかでものちの東漢(やまとのあや、倭漢)氏のような百済系の渡来人集 団を率いて政権に参加する官僚的性格の大氏族(葛城氏)は、必然的に政治家 木満致と結びつくことになったに相違ない(注1)。        --------------------   これまでは蘇我氏の起源をヤマト、河内、葛城(かつらぎ)とする説が対 立していたのですが、鈴木氏はそれらを調和する説を出しました。それを紹介 する前に、ひとまず蘇我氏と葛城氏との結びつきを簡単に紹介しておくことに します。   蘇我氏において、大王(天皇)の生殺与奪を左右するほどの権力を握った 蘇我馬子は葛木(城)臣と呼ばれたことが『聖徳太子伝暦』や『上宮聖徳法王 帝説』などからうかがえます。   また、蘇我馬子自身も推古大王に「葛城県はもともと臣の本居であります。 それでその県によって姓名としました。そこで願わくは、恒常的にその県を得 て、臣の封県としたいと思います」と奏上したことが『日本書紀』推古32年条 に記されました。大王は、これだけは後世の物笑いの種になるとして許可しま せんでした。   さらに『日本書紀』皇極元年条に「この歳、蘇我大臣蝦夷は、自分の祖廟 を葛城の高宮に立て、八ツラの舞をした」と記されました。こうした記述など から井上光貞氏は蘇我、葛城同族説をとなえたくらいでした。   葛城氏はよく知られるように、5世紀、大王家の外戚として権勢をふるっ たのですが、雄略大王のとき失脚しました。それでもなお、雄略の妃に葛城円 大臣の娘である韓媛(からひめ)を入れており、しかもその子の清寧が大王に なるなど多少の権勢は持ち続けたようでした。   なお、韓媛はその名が示すように渡来人の血をひくと考えられています。 葛城氏はもともと朝鮮半島と縁が深い氏族で『日本書紀』神功条には葛城襲津 彦が対朝鮮関係の将軍として活躍したことが記されました。ただし、それらの 記事の信憑性には疑問がもたれていますが、襲津彦は一応実在したと考えられ ているようです。   襲津彦を祖とする葛城氏は、雄略朝前後に大量に倭へ渡来した今来の才伎 (てひと)ひいては東漢など渡来人との結びつきが強かったようですが、その 所産が韓媛の存在とみることもできます。   こうした状況からすると、葛城氏と木満致が結びついた可能性は容易に考 えられます。鈴木氏は、木満致が没落しかけた葛城氏を受け継ぎ、蘇我氏とし て発展させたとみて、こう記しました。        --------------------   いわば渡来人集団の最大の居住地である河内の古市ないし丹比(たじひ) あたりにおいて、そうした西文(かわちのふみ)氏をはじめとする渡来人を仲 介にして、木満致は没落に傾きかけた葛城氏と接触をもったのではなかろうか。   そして憶測をたくましくすると、満致は葛城一族に入り婿して結びついた ことが考えられる。そればかりではなく、同氏の同族的集団の首長に推戴され ることになったのではなかろうか。   もともと葛城氏という実態も固定した一つの家系ではなく、葛城地方一帯 のいくつかの有力首長によって構成されていたものとみられる(石部正志『大 阪の古墳』)。この葛城氏の女性と満致(満智)との所生が系図や雄略九年条 に知られる韓子(からこ)その人にほかならない。   百済人と葛城氏の女性との間に生まれた子につけた、まさに象徴的な名で ある。これらは葛城氏本宗家の衰える五世紀後半のことであろう。   葛城氏と結合した満致(満智)もしくはその一族は河内の石川にも勢力を 殖えつけたが、その主流はついで丹比道(竹の内街道)を通って大和西南部に 至った。   かれらは曽我の地に新たな拠点をおき、やがて軽の地に本拠を移すのであ る。この過程で、当然ながら凋落した葛城氏の故地 葛城地方にも勢力を伸ば したに違いない。これよりこの一族は最盛期を迎える基礎を築くこととなった。   この段階は、韓子-高麗-稲目とつづくころにあたる。軽から小墾田(お はりだ)にかけての地域へ本拠を構え、さらに飛鳥地方へ勢力を伸張するのは 文献上、六世紀中葉以降の稲目の時からであるが、この地はそれ以前から開発 されていた形跡がある。   ことに軽の地は南に倭漢(やまとのあや)氏の本拠地である檜前(ひのく ま)が接しており、両者の密接な関係もこのころより増したことが推量される。   いわゆる蘇我氏が軽にあった時期、その西方の越智岡丘陵上に広がる朝 鮮・中国的色彩の濃い有名な新沢千塚こそ、同氏の奥津城であることを強調す る和田氏の見解もある。新沢千塚の古墳群は五世紀後半より六世紀後半ころま での間に築造されたものとされるので(注2)、もし蘇我氏一族の墳墓とすれ ば、同氏は五世紀後半ころより軽の地に移住しはじめたものと考えられる。   この軽の地に定着する以前、河内から移動した人々が曽我に至り、そこか ら葛城にも入ったのであろう。つまり曽我の地は蘇我氏一族の大和における原 点であり、出発点であったとみなされる。   この氏が河内から大和へ入った要因は何であろうか。それは大和の西南部 が葛城氏にゆかりの深かったことも一つの理由であろう。だが、より基本的に は、五世紀ないし六世紀前半に生起したと思われる倭の政権の大きな政治的変 動、なかんずく政権の中心の河内から大和への移動にともない、蘇我氏がはた した役割と関連するであろう。   すなわち蘇我氏は旧族 葛城氏のあとをうけて自ら新たな氏族集団を形成 するとともに、満致(満智)以来蓄えた政治的力量を存分に発揮して、継体系 の人物おそらく欽明あたりを大王に擁立し、その配下につけた倭漢氏を先頭と する渡来人集団を再編・統括しながら、先進的な技術・文化をもって飛鳥地方 一帯の開発を推進するいっぽう、勢力をつぎつぎに拡大し、かつ政権の中枢に すわったと想察するのである。   たとえば六世紀前半の大伴金村の政権から退場後、倭の朝鮮政策を主導し て登場したのが蘇我稲目であったという田村圓澄氏の指摘(注3)は、あらた めて蘇我氏のもつ政治的性格を認識させるに足る。   また右の渡来人は主としてかつて葛城氏の統率下にあった朝鮮からの漢人 (あやひと)集団を管理した桑原村主(すぐり)、高向村主・忍梅村主などの 諸氏族であるが、満智もしくはその子孫が河内におけるかれらとの関係をふま えて、あらたにそれらを倭漢氏のもとに帰属させる形で掌握しなおしたのであ る。   この渡来人集団管掌者としての蘇我氏の政治的地位は、新しい政権の成立 につれて確立したものである。こののち、七世紀前半以降、この一族と意識し、 同族的結合をする家々が、いわば総称として蘇我氏を名のることになったと思 う(注1)。        --------------------   鈴木靖民氏の説は、蘇我氏の起源として考えられた大和、河内、葛城説な らびに渡来説を網羅し、すべてを矛盾なく解釈している点で注目されます。し かも文献学上も考古学上も合理的であり、蘇我氏の研究が深まれば深まるほど 総合的につじつまがよく合うようになりました。   それだけに鈴木説に対し有力な反論も見当たらないようで、加藤氏のいう ように蘇我氏渡来説は研究者の間でほぼ通説になりつつあるとみてさしつかえ ないようです。 (注1)鈴木靖民「木満致と蘇我氏」『日本のなかの朝鮮文化』第50号,1981 (注2)原著注、『新沢千塚126号墳』、上田正昭氏ほか「座談会・新沢千塚   と古代朝鮮」『日本のなかの朝鮮文化』37 (注3)原著注、「古代日朝交渉史序説」『史淵』106   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


狛犬と高麗犬 2003/10/ 5 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#8358   半月城です。   私も狛犬(こまいぬ)の話題に加わりたいと思います。   神社でよくみられる魔よけ用の狛犬ですが、日本ではその異様な姿を犬に みたてました。といっても日本の犬とはだいぶ違うので、異国の犬、すなわち 高麗(こま)の犬と考えてコマ犬と呼んだようでした(注1)。ここでいう「こ ま」とは高句麗をさします。   現在、多くの神社でみられる狛犬はほとんど左右とも同じ動物の形をして いますが、元来、左右の動物は別々で、神殿からみて左が獅子、右が狛でした。 それがいつのまにか、両方ともライオン風ないしは犬風の形になってしまった ようでした。   本来の姿ですが、インドあたりを起源とする獅子の方は獅子舞などに伝承 されたとおりのようですが、狛の方はどんな姿だったのか、想像上の動物であ るだけに今ではよくわからないようです。   狛の姿をうかがわせる一例ですが、平安時代、宮中の清涼殿や天皇や皇后 の帳帷では一対の動物のうち、頭に角を1本もち、人の邪正をよく知るという カイチといわれる獣を狛犬としたようでした(注1)。   また、平安時代初期に舞楽などの様子を描いた『信西 古楽図(しんぜい こがくず)』に「新羅狛」が図示されましたが、これには角はなく、かなり獅 子に近い姿になりました。これについて坂元義種氏はこう記しました。        --------------------  「新羅狛」の顔つきは『信西 古楽図』の獅子舞の獅子とほとんど同じで、 しかも獅子のタテガミにあたるものも、さらには獅子の特徴であるふさふさと した尾端の葺毛もともに極似している。   獅子舞の獅子との比較からいえば、この「新羅狛」は明らかに獅子的な様 相が濃いということになる。ところがこちらはさらに異様なことに左右の手足 にそれぞれ獅子頭状のものが付いており、しかも獅子とは違った立ち姿である。   なお、手と足とでは付いている頭部に違いがあり、また、手の方の頭部に は耳がついているのに対して足の方の頭部には耳がない。耳の有無が意味する ものは不明だが、いずれもタテガミ状の毛があるので、これも獅子と見て良か ろう。   ただ、この異様な神獣の立ち姿を見ていると、この図像の背後には羆(ひ ぐま)などの熊の姿があるように思えてならない(注2)。        --------------------  『信西 古楽図』にのった新羅狛の狛と「高麗(狛)犬」の狛は同じなのか どうか、今となっては知る由もありませんが、新羅狛の立ち姿が熊に似ている という事実は重要です。ここから坂元氏は「こま」という呼び方の推理を行い ましたが、それを紹介する前に、神社における狛と獅子の配置を先にみること にします。   これらの左右の配置ですが、これは意外にも雅楽と関係があるようです。 坂元氏は、日本最古の総合音楽書である『教訓抄』を引いてこう記しました。        --------------------   (神社の)獅子と狛犬の左右の配置は、おそらく平安時代の楽舞と関係が ある。天福元年(1233)10月の奥書をもつ狛近真(こまのちかざね)の『教訓抄』 には、左右の番舞(つがいまい)である「舞番様」を列記したあとに「別番 様」を記し、その中に左舞として「師子」、右舞として「狛犬」を対比的にあ げている・・・   この「狛犬」の舞が右舞になっているのは、いわゆる舞楽の「狛」楽の位 置づけと関係がある・・・狛楽(こまがく)は左右舞のうち右舞と定められて いたのである。  「狛犬」の舞が右舞になったのは、これが狛楽に属していたからであり、し たがって「狛犬」と左右セットになるものがあるとすれば、当初から「狛犬」 は右で、これと対になる舞は左と定まっていたようなものである。   この狛楽の狛犬舞を右とする固定観念が威儀のものや鎮護獣としての狛犬 の位置をも必然的に決定づけ、神社における阿吽(あうん)一対の神獣のうち の一角・吽像の狛犬は右位置と定まったものと思われる(注2)。        --------------------   狛楽は高麗楽とも記され、唐楽とともに現在の雅楽の双璧をなしますが、 舞楽における左右の位置付けが狛犬の配置を決めたという説はなるほどと思わ れます。配置どころか、あるいは狛犬の起源すら舞楽の左右舞にあったのかも 知れません。   そうした舞楽をになった狛近真ですが、かれは明らかに高句麗からの渡来 系と思われます。余談ですが、天皇によれば「宮内庁楽部の楽師の中には、当 時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、いまも折々に雅楽を演奏している人が あります」とのことであり、古く狛近真など渡来系の人たちが雅楽の伝統をに なったようです。 天皇「ゆかり」発言   さて、次は狛の語源をたどることにします。狛犬、狛楽、狛舞などにみら れる「狛」はすべて「高麗」の文字に置きかえが可能であり、ともに「こま」 と読まれますが、ほかにも類似の例は狛龍、狛笛、狛調子、狛桙(ほこ)、狛 錦など枚挙にいとまがありません。こうした狛=高句麗の用例は『日本書紀』 に端を発するようです。初見は雄略紀にこう記されました。  「二十年冬、高麗王おおいに軍兵を発して百済を伐ち滅ぼした・・・百済記 はいう、蓋鹵王の乙卯の年(475)の冬、狛の大軍が来て大城を攻めること七日 七夜。王城は陥落して、ついに尉礼(漢城)を失い、国王および大后、王子ら はみな敵の手により死んだ」   この事件は、前回書いたように、蘇我満智とされる木満致が渡来するきっ かけになった百済の一時滅亡にふれた記事ですが、『日本書紀』の編者は高句 麗を「高麗」と書いたのに対し、百済記の百済人編者はそれを「狛」と記した ようでした。その読み方ですが、『日本書紀』では「高麗」も「狛」もともに 訓で「こま」とされました。   この表記の違いに百済の高句麗に対する憎しみを読み解くことができます。 高句麗は宿敵の百済を広開土王碑で百残などと記しましたが、その一方で倭に 亡命した百済人は高句麗を憎しみから狛などの漢字で表記したようでした。   百済人が高句麗をこう呼ぶのはもちろんそれなりの根拠があります。『三 国志』によれば、当時の中国東北地方の種族はあいまいにワイとか、貊(ば く)とされましたが、高句麗もそれらと同種ないしは別種とみられていました。   これに注目した坂元氏は、百済は憎き高句麗を「貊」などの蔑称で呼んで いたのだろうと考えました。そして貊の「ムジナ偏」はやがて「ケモノ偏」に 置きかわり、さらに百が白におきかわり、狛などが高句麗の別称になったのだ ろうと考えました。   ムジナ偏とケモノ偏が相互に置きかわるのはよくあることで、たとえば狢 (ムジナ)、狸(たぬき)、猫など多数の例があります。また、百が白に置き かわるのもよくあることで、貊の百が白に変わった文字は貊の異体字として通 用しているくらいです。こうした考察から、貊が最終的に狛に変化したという 説は説得力があるようです。   なお、ケモノ偏に百と書く漢字は現存しないようなので、ここでは便宜上 この漢字を「〓コマ」と書くことにします。ややこしいのですが、これが現状 ネットワークの限界なのでやむを得ません。   一方、狛を「こま」と読む根拠ですが、坂元氏は、熊が想像上の動物であ る貊に似ているとされることに関係するのではないだろうかと推察し、狛の語 源や読み方を下記のようにまとめました。        --------------------   古代貴族のイメージした「〓コマ」と『信西 古楽図』の描く異様な図像 の「新羅狛」との間にどれほどの落差があるのかわからないが、ともかく「〓 コマ」の文字に込められたある種のメッセージをうかがうことは出来るであろ う。   ところで「〓コマ」は「高麗」で、ともに「こま」と呼称されて来たわけ であるが、この読みの由来ははっきりしない。「高麗」が朝鮮三国の高句麗を 意味し、高句麗は「句麗」とか「高麗」と記されたが、これらの音から「こ ま」を導き出すことは困難である。   だからと言って、朝鮮三国と三韓の関係から高句麗を馬韓に比定し、馬韓 を指した「こま」が転じて高麗を指すようになったとの見解には従うことは出 来ない。高句麗を指して「こま」と呼称したのは馬韓を拠点とした百済の人々 であり、日本人はこの百済人の知識に従って、高句麗を「こま」と呼ぶように なったものと思う。   高句麗は中国人によって「貊」と記され、「貊」は熊に似た獣であるとい う。「貊」を知らない人がそれを表現しようとすれば、類似の熊を持ち出すほ かはない。ところで熊は朝鮮語で「コム」といい、「こま」ときわめて音が近 い。おそらく「貊」・「〓コマ」が「こま」と表現され、それによって高句麗 が「コム」と呼称されるようになったのであろう。   中国人が高句麗を「貊」と記したのは、高句麗を北方の蛮族と見てのこと であり、そこには多分に侮蔑的な発想が込められていた。「貊」に込められた マイナスイメージがあったために高句麗人は自己をこの文字で表記することは なかった。   ところが高句麗と敵対した百済は高句麗に憎しみをこめた蔑称として、こ の用語を採用したと思われる。かつて高句麗が百済を指して、好太王碑文の中 で「百残」と記したようなものである。  「百残」は音の類似を借用しての蔑称であったが、「〓コマ」(貊)は中国 人の差別的用字の借用で、しかもそこに野獣のイメージが込められていたので ある。   おそらく日本人は高句麗に対して百済人のような憎しみを抱いてはいなか ったであろうから、高句麗の別称のようなつもりで用いたものと思われる。 「〓コマ」(狛)」を姓とする氏族の存在はこのことと関係があろう。ところ が次第に「〓コマ」のもつ本来の字義が明らかになって来て、ここに違った対 応を迫られることとなった。   なお、『日本書紀』の「〓コマ」の初見が雄略天皇20年(476)冬条 所引の 「百済記」に見える「蓋鹵王 乙卯年(475)冬、〓コマの大軍来たりて、大城を 攻むること七日七夜。王城降り陥つ。遂に尉礼国を失ふ。王及び大后・王子等 皆、敵手に没す」という、高句麗による百済王都漢城の陥落記事であったとい うのはじつに示唆的である。   この後も「百済本記」では高句麗を「〓コマ」と記し、『日本書紀』の記 事中に出典を記さない場合も「〓コマ」と記された史料の典拠は百済系史書に よったものと考えてよい。   たとえば「〓コマ賊」とか「〓コマ虜」などと見え、聖明王の上表文にも 「〓コマ」が散見する。これらは百済が敵国の高句麗を悪者視して、これを侮 蔑的に表記したものであろう。これに対して日本と高句麗との外交などの場合 は相手を「高麗(国)」と記し、これを「〓コマ」と記すことはなかった。  「〓コマ」はやがて「狛」に文字が変わっていった。この文字の変化は「狛 犬」にも影響を与えることとなった。決定的なことは狛犬の色が白と定まった ことである。これは明らかに「〓コマ」から「狛」への文字の変化に同調した ものである。   狛犬の「狛」はケモノヘンに白であるから、狛犬の色は当然「白」でなけ ればならないと考えられるようになったのである(注2)。        --------------------   高句麗の別称・貊を熊に見たてて、その読みであるコムがコマに変化した とする坂元氏の説はたしかに説得力があります。 (注1)日立デジタル平凡社『世界大百科事典』 (注2)坂元義種「狛犬の名の由来」『古代の日本と渡来の文化』学生社,1997   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


雅楽ブームと東儀秀樹さん 2003/10/13 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」8390   半月城です。   雅楽が話題になったついでに、天皇の下記「ゆかり発言」の根拠について 調べたいと思います。  「韓国から移住した人々や招へいされた人々によって、様々な文化や技術が 伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽 師を務め、いまも折々に雅楽を演奏している人があります」   歴史的に雅楽の伝統を守ってきたのは、三方楽所(がくそ)といわれる京 都方、大阪方、奈良方とされます。このうち、もっとも歴史の古いのは南都と もよばれる奈良方で、『日本書紀』などの記録がベースになります。ただし、 古い記録はどこまで信用できるのかはもちろん疑問ですが、まずはその書にお ける音楽関係の記事をみることにします。 1.允恭大王(天皇)42年(5世紀半ば)   新羅王は、天皇がすでに崩じたと聞き、驚き憂い、調(みつき)の船80艘、 それに種々の楽人80人を貢上した。 2.欽明大王15年(554)   二月、百済が楽人の施徳・三斤、季徳・己麻次、季徳・進奴、対徳・進陀 を貢じた。 3.推古大王20年(612)   百済人の味摩之(みまし)が帰化した。曰く、呉に学んで伎楽(ぎがく) の舞を習得した。桜井に安置し、少年を集めて伎楽の舞を習わせた。真野首弟 子、新漢(いまきのあやの)済文のふたりが習ってその舞を伝えた。これは今、 大市首、辟田首らの祖である。  (この記事に関連して『聖徳太子伝略』では味摩之のところに注があり「上 下18人 来る」と書かれましたが、このとき大勢の楽人がやって来たようです) 4.天武天皇12年(683)、正月   この日、小墾田の舞と高麗、百済、新羅の三国の舞楽を(朝)庭のなかで 奏した。 5.持統天皇  7年(693)正月、漢人(あやひと)らが蹈歌(とうか)奏した。  8年(694)正月、漢人が蹈歌を奏した・・・唐人らが蹈歌を奏した。   蹈歌とは新年の祝詞を集団で足を踏みならして歌い舞う舞踏ですが、この ころから唐人も朝廷の舞楽に登場するようになったようです。それまで朝廷の 舞楽といえば、高句麗、百済、新羅の三国の舞楽が中心だったようでした。な お、漢人は百済ないしは加羅からの渡来人の集団をさします。   こうした歴史から奈良が舞楽の中心になったのですが、都が京都に移った 後もその伝統は興福寺や春日大社などに引き継がれたようでした。それをにな ったのが狛(こま)姓をもつ一族でした。   一般に、狛は高麗(高句麗)と同義語なので、狛姓の楽人(がくにん)は 高句麗などからの渡来系とみられますが、その一族は多くの家に分かれました。 かれらはお互いを識別するために、各々の住んだ場所を特徴づける東、北、中、 奥、上、芝、窪、辻などをそのまま各々の新しい姓としました(注1)。こう して奈良方は唐楽を中心に栄えました。   このころ、奈良の都以外でもう一カ所、舞楽の盛んなところがありました。 難波の四天王寺で、そこは後に大阪方 雅楽の中心になりました。四天王寺は いうまでもなく聖徳太子の発願により建てられたとされる寺ですが、それが奈 良の都でなく難波の地に建てられたのは、難波という地理条件とスポンサーで ある秦(はた)氏の後援があったからとみられています。   秦氏ですが、司馬遼太郎は「非常に強力なスポンサーで、聖徳太子が政治 的に存在しえたのは秦氏の政治力と財力のおかげ(注2)」と語ったくらいで した。両者の密接な関係を直木孝次郎氏はこう記しました(注3)。        --------------------   難波の地の渡来人についてもう一つ注意されるのは、渡来氏族中の雄族 秦氏の存在である。すでに指摘されているように、『続紀』・・・条に、「西 成郡人外 従八位下 秦神嶋、正六位上 秦人広等九人」に秦忌寸(いみき)の 姓を賜ったことがみえる。一人は秦、一人は秦人(はたひと)をウジとするが、 広義の秦氏といってよかろう。   いずれも位をもち、忌寸という秦氏としては宿禰(すくね)につぐ上位の カバネを得たのであるから、難波では由緒あり、力を備えた有力者と考えられ る。  ・・・   秦氏の母国も明確ではないが、新羅よりの渡来人とする説が有力である。 その説をとるならば、難波津にもっとも関係のある西成・東成の地域には、 秦・三宅・吉士など新羅系の渡来人が多く、その東南の百済郡の地には主とし て百済系の氏族が住み、さらにその南の住吉郡の地には渡来人が少ないという 地域差を指摘することができる(注3)。        --------------------   難波の地に四天王寺が建てられたのは、秦氏との関係以外にも政治的な意 味あいも濃かったようで、その地について梅原猛氏はこう述べました。  「難波という地は重要な意味をもっていると思います。一つはそこは物部氏 の本拠に近い。物部氏がかつて仏像を流したといわれるところだ。そこのとこ ろに仏教勝利のしるしである寺を建てる。   そしてそれとともにそこは外交の場所だ。飛鳥寺と四天王寺を結ぶ線、そ こが政治の中心線だ。飛鳥寺によって一つの新しい政治の原理をつくろうとし た仏教側は同時に外国に対しても、日本が文化国家であるというデモンスト レーションをしている。四天王寺は国内側と国外側の二つのデモンストレーショ ンであったと思います(注2)」   難波はヤマト朝廷が東アジアと交流するときの玄関口になったのですが、 それだけに四天王寺が国外向けの顔になったのかも知れません。余談ですが、 そうした難波における古代東アジアの交流を再現する祭り「四天王寺ワッソ」 が今年は復活するようです。 (今年は雨のため中止になりました)   さて、四天王寺で舞楽が発展したのは、仏教の布教活動と二人三脚をなし たためでした。かつて仏像が捨てられた難波で、仏教をひろめるための「人寄 せ」の手段として雅楽や、百済の味摩之が伝えたとされるコミカルな伎楽が利 用されたようでした。したがって、大阪方は伝統的に朝鮮の三国楽を得意とし ました。   平安時代、吉田兼好は『徒然草』において「何事も辺土は賤しくかたくな なれども、天王寺の舞楽のみ都に恥じず」と書きましたが、大阪方の舞楽はな かなかの人気だったようでした。その舞楽を演じた楽人は秦姓の渡来人でした。 しかも、聖徳太子のスポンサーであった秦河勝(かわかつ)の子息がこれをに なったようで、かれらの役割は下記のとおりとされます(注1)。  次男、薗氏、笙(しょう)、左舞(さまい)  三男、林氏、笙、右舞(うまい)  4男、東儀氏、ヒチリキ、右舞  6男、東儀氏、ヒチリキ、左舞  8男、岡氏、笛、左舞   大阪方の特徴について田辺尚雄氏はこう記しました。  「この一族で笙、ヒチリキ、笛の三管、および左舞、右舞が完備していて、 外の力を借りずに独立している。したがってその楽風および舞風にも外にもみ られない特色を備えている(注1)」   ヒチリキ(篳篥)とは長さ20cmくらいの縦笛ですが、小さい割に大きな音 が出るのが特徴です。そのためか、雅楽では主旋律を奏でる主役になります。 現在、これをもっとも得意とするのが女性ファンの多い東儀(とうぎ)秀樹氏 です。しかし、その彼でも時にはしくじることもあるようで、それほどヒチリ キは扱いがむずかしい楽器のようです。   というのは、ヒチリキは上端に葦などのリード(舌、ぜつ)を二枚差し込 んで吹くのですが、葦が乾いてしまうと、吹いてもウンともスンとも音が出な くなってしまうようです。そのため東儀氏は本番で難儀したこともあったよう でした。これも余談ですが、かれはヒチリキの扱いにくさをこう語りました。  「篳篥はこの(葦の)リードの具合一つで音が左右されてしまうのである。 ただでさえ、音を出すのが難しいのに、音程もとても不安定で取りにくい。舌 の圧力、位置、息の強さなどを瞬時に変えながら、一瞬で音程を作らなければ ならない。   何しろ、ちょっと唇や息の具合が変わっただけで、とんでもない音程にな ってしまう。吹き方によっては三度も四度も音程が変わってしまったりする。 しかし逆にいえば、同じ指使いでも、口の操作だけで、さまざまな音を吹き分 けることができるというのが利点にもなる(注4)」   こうしたむずかしい笛だけに、かれは本番で最初の第一声を発するとき、 いつも緊張するとのことです。   閑話休題。本題にもどりますが、東儀秀樹氏は自分のルーツをこう記しま した。        --------------------   東儀家の歴史を語れば、奈良時代にさかのぼる。六世紀の終わり頃に、中 国から渡来した秦河勝という人物がいる。聖徳太子の時代に政治にも参加して いて、京都・太秦(うずまさ)の広隆寺や大阪・四天王寺などの建立にも積極 的に貢献した。   その子孫が代々、雅楽を継承するようになるのだが、秦河勝の四男と六男 が、後に東儀を名のるようになったといわれている。つまり、僕の先祖は渡来 人ということになる。東儀家は、篳篥と舞を主に伝承する楽家だった。   ただし、古文書の記録を見ると、昔は「東儀」というのは、ミドルネーム のようなものであったようだ。「秦の東儀某」というように、秦姓を名乗って いたらしい。広隆寺のある太秦の地名から「太秦東儀」ともいわれていたよう だ。   東儀家は「三方楽所」のうちの一つ、大阪の四天王寺の楽人として、雅楽 を継承することになる。ただし、応仁の乱以降は、京の宮中儀式の応援として 要請されることが多くなり、東儀家のベースはだんだん四天王寺から京都へ移 っていったようだ。   そして、江戸期、徳川の時代になってから、家光に招かれて、東儀姓の一 部の楽家は「紅葉山楽人」として、江戸に移住することになる。その楽家が僕 の家の系統なのである。東儀家を名乗る楽家は、四天王寺にも京都にもまだた くさん残っていたのだが、僕の祖先の東儀家は、江戸末期まで江戸をベースに 活動していたという記録が残っている(注4)。        --------------------   雅楽界の「貴公子」東儀秀樹氏はフリーなので、人気に気を使ってか、秦 氏のルーツを新羅でなく中国としました。しかしこれは疑問で、ほとんどの歴 史家は秦氏を新羅系とみています。このことはいずれ書くとして、ここでは深 入りしないことにします。   雅楽の三方楽所のうち奈良方は狛(高句麗)系、大阪方は新羅系とわかっ たのですが、京方はどうでしょうか。京方(大内方)は応仁の乱(1467)で壊滅 的なダメージをこうむったのですが、それでも大阪方や奈良方から人を補充し て命脈をながらえました。そうした人たちのルーツを田辺尚雄氏はこう述べま した。        --------------------   もっとも問題になっているのが京都の御所の楽人で、多(おおの)、豊 (ぶんの)、安倍、山の井などの家があり、従来はこれらはいずれも古来から の日本人であると称されていた。   すなわち多家は神武天皇の皇子神 八井耳命が大和の多村に隠退されてそ の一族が雅楽の中の神楽を専業としたとか、天武天皇の皇子が謀叛の罪で備前 の豊原に流され、のちに免されて都に帰り音楽を専業として豊原(豊の姓は江 戸時代に至って豊原を略した)と名乗った等々と言い伝えられていた。   しかし私の考えるのに、音楽を業として仕える者は楽戸と称して部落をな していた帰化人であったのである。したがって多も多村に居住した帰化人であ り、豊原も備前の豊原に居た帰化人であり、同じく安倍や山井もそれに所属し た帰化人であったと考えるべきであろうと思っている。   したがって御所の楽人もまた本来は朝鮮の帰化人であって、それが京都に 居住するために皇室ととくに関係が深かったのである。  ・・・   以上のことから考えて、今日わが国のきわめて芸術的に高い雅楽は、古く 朝鮮の帰化人によって創成され、発展され、守られて来たものであって、言い 換えれば日本が誇る雅楽は日本の本土において朝鮮の帰化人がつくりあげた芸 術だといってもさしつかえない。   しかし朝鮮の帰化人は日本の国民であるに相違ない。したがってこの立派 な雅楽は日本音楽の一つであることに相違ない(注1)。        --------------------   雅楽を「朝鮮の帰化人」が唐楽なども取り入れて発展させたうらには、興 隆期である天平時代の雅楽寮制度などが大きな役割をはたしたのではないかと 思われます。当時、雅楽寮の楽生は、「三国楽(のちの高麗楽)などの楽生の 場合は、それぞれ朝鮮渡来系の人々をもって構成する(注6)」と定められ、 血統が重視されました。   これに対し、唐楽の場合は唐人の居住者が少なかったのか「唐楽の楽生は 唐人に限らず、教習に堪えうる者をもって充当(注6)」するとされました。 そうした結果、先に述べたように、唐楽は狛姓の渡来人がになうようになりま した。そのほか、もろもろの度羅楽・諸県舞・筑紫舞などの楽生には雅楽寮に 付属していた楽戸をあてました。   度羅とは朝鮮の済州島の舞、諸県舞とは日向の諸県地域の土風舞をさしま すが(注7)、これらは宮廷の歌舞になじまなかったのか、一ランク低い扱い になり、平安時代には雑楽に分類されました。   こうした制度の結果、平安時代の初期に唐楽と高麗楽のふたつが「雅曲・ 正舞」になり、舞はそれぞれ左方舞、右方舞と名づけられ、雅楽といえば狭義 でこのふたつの楽を指すまでになりました。   そうした歴史に加え、雅楽の閉鎖的な伝承方法が天皇の発言にあるように 「当時の移住者の子孫」が今日でも雅楽の演奏をするという現象を生みだした とみられます。   雅楽は今でも譜面は補助手段で、本格的には口伝で伝承されているようで す。かつて、楽家の跡継ぎが「一子相伝の秘曲、家の舞」の伝授を受けるとき は、親子相対して真剣勝負さながらに伝承されたようです(注5)。   こうした家元制は、明治時代、宮内省に雅楽局ができ、秘伝を公開するよ うになって廃止されたようですが、それまでは閉鎖的な伝承方法が主で、芸の 純粋培養が行われたようでした。それでも長い年月の間には少しずつ変化する もので、その積み重ねが今日の雅楽として幽玄の響きをかなでることになりま した。 (注1)田辺尚雄「音楽から見た古代日本と朝鮮」『日本文化と朝鮮』朝鮮文   化社,1973 (注2)司馬遼太郎他編『日本の朝鮮文化』中公文庫,1982 (注3)直木孝次郎『古代日本と朝鮮・中国』講談社学術文庫,1988 (注4)東儀秀樹『雅楽-僕の好奇心』集英社新書,2000 (注5)東儀俊美『雅楽への招待』小学館,1999 (注6)上田正昭『古代の銅鏡と朝鮮文化』人文書院,1989 (注7)上田正昭『アジアのなかの日本古代史』朝日選書,1999   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


古代ヤマト民族と固有文化 2003/10/19 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#8443   半月城です。   anti_hijackerさん、RE:8403 >日本の雅楽は時代によりその内容は一定していない >しかし現在では >1.神楽、大和舞などの日本固有の歌舞 >2.5世紀から9世紀末までに中国や朝鮮などから伝来した舞と音楽(その  様式により日本で新作されたものを含む) >3.平安時代の貴族により新しくつくられた催馬楽、朗詠などの芸術歌曲を  総称   どうしても「日本固有」にこだわりたいのでしょうが、よく吟味すると (1)の神楽や大和舞(やまとまい、倭舞)がほんとうに「日本固有」かどう かあやしいものです。これらは新嘗祭(にいなめさい、11/23)や大嘗祭など 皇室行事に関連しているだけになおさら疑問ですが、これについて上田正昭氏 は座談会でこう述べました。        -------------------- 上田:それから最近発見して大変うれしいんですが、大和舞というのがあるん です。これは今まで東(あずま)舞に対する大和の舞だという説が有力でした。 通説になっているようです。   だがこれは違うんです。これは和(やまと)氏の舞なんです。和氏という のは、つまり高野新笠の系譜にみられる百済系の和氏です。日本の土着のやま と氏は、みな大和氏と書いて区別がはっきりあります。高野新笠の系譜の和で す。 金:高野新笠というのは、桓武天皇の母親ですね。 上田:ええ、最初に出てくる和舞の記事は宝亀六年。これをやったのは河内の 渡来系の人々です。だから大和舞はもともと和舞であって、まさに朝鮮の人々 が参加してつくられていった舞ですな。そういうもんですよ。それがだんだん 東舞に対する大和地方の舞だというようになっていくんですね。   だから(平安時代に)形式的には蕃国意識があっても、実際の文化の伝統 みたいなものには、朝鮮の人たちの文化の伝統が根づよく生きつづけていくん ですよね。   それと関連しておもしろいのは神楽(かぐら)です。神楽といえば日本独 特のものみたいにみんないうでしょう。ところが宮中の御神楽にはやはり朝鮮 文化が入っています。宮内省には韓神(からのかみ)がまつられている・・・ これは『延喜式』にも明記されている。 村井:いまの二条城の北、NHK京都放送局のあたりにあったといわれていま す。『古事記』などの伝えによれば、平安遷都以前から、ここにあったともい い、造営に際して他に移そうとしたが、託宣に従ってそのまま宮内省に残した ともいいます。 金:その場合のからは、唐という字ですか。 上田:いや、韓の韓(から)です。御神楽ですが、そのなかに、からかみとい う演目があるんです。これは重要な演目なんです。宮中の神楽歌にも、からお ぎせんと、からおぎせんと、というのがある。   これはね、韓の神をまねくという解釈をしていますけれど、このからおぎ の、おぐというのはまねくということですわ。からふうのおじぎをするという ことで、つまり朝鮮ふうの神むかえのわざをするという意味だろうと思うんで すよ。   宮廷の御神楽においてさえね、しかも平安の時代ですよね。そういう宮廷 のもっとも重要な伝統的なまつりの歌舞のなかに朝鮮のまつりの伝統みたいな ものが生き残っているわけです。   だから蕃国視したといっても実際には矛盾しているわけで、無視できない 伝統が根強く生きている。これは古代貴族の矛盾といってよいでしょうね(注 1)。        --------------------   韓神については下記URLに記したとおりですので説明は省略しますが、 平安時代の皇室では新羅や百済の神を祭っていたようでした。 http://www.han.org/a/half-moon/hm048.html#No.318   元来、文化とは常に渡来文化と融合・習合するものであり、どこの国でも そうですが「固有文化」だけをさがすことは往々にして困難を伴います。とく に日本の場合はその傾向が強いようです。   それでも、今はなくなってしまったクズ(国 [木巣])舞などは成り立ちが 皇室と無関係と考えられるだけに「日本固有」になるのかも知れません。しか し、これらは当時にあっては「自民族」ではなく「異民族」の歌舞だったよう で、司馬遼太郎はこう語りました。        --------------------   舞のお話で思い出したのですが、奈良朝がはじまりますと、宮中の重大な 行事があるときには宮門のまえに東夷、西戎、北狄の異民族どもを集めて、今 の毛沢東さんみたいに(笑)、つまり毛沢東さんが外国人たちも天安門の前に 集めお祭りをするように、当時の日本朝廷も中国のまねでそれをやった。   たとえば、南方の薩摩や大隅から隼人族をよんでくる。また大和の吉野の 山岳民族である国 [木巣](葛)の舞をやらせたり、隼人には、隼人というの は民族舞踊をもっていませんから、犬の鳴き声をさせる。吠声(べいせい)を せしめる。宮門の前でね。つまり四方の異民族も王政を喜んでこんなに芸をし ている、という儀式です。  (明治)維新前まで京都で即位の式なんかの時にやっていたようですね。そ のときはもう隼人の代わりに誰かがやったんでしょう。要するに大和朝のころ は隼人族も国 [木巣]族も儀式上 異民族というあつかいです。   ところが異民族といえば朝鮮渡来者が宮廷にも官人のなかにも、大和の 村々にいるんじゃないか、なぜかれらを招待しなかったか。その理由はですね、 朝鮮民族だとは思っていなかったんです。つまり自分たちと同じ側と思ってい る。自分らよりましな連中だと思っていたかもしれません(注1)。        --------------------   百済などからの渡来者を自分たちと「同じ側」とみなす背景には、以前、 山尾幸久氏の主張を紹介したように、百済系の漢人(あやひと)などが飛鳥文 化の創造主体であり、かつ朝廷政治や官司制度を支えていたという歴史があり ました。   そうした体制側の人びとからすると、隼人や蝦夷などはいうまでもなく異 族でした。その一方で「同じ側」の人たちの実体はどうであるのか、これにつ いて山尾氏は注目される見方を示しました。すなわち朝鮮系移住民は「ヤマト 人」の祖先であるとしてこう記しました。  「王権による地方社会の制度的収取は六世紀半ばに始まる。この国家支配の 持続によって、血縁世襲の王を秩序の根拠として「ヤマト人」という民族 ethnos的実体が形成されてゆく。つまり朝鮮系移住民は「ヤマト人」の祖先で ある。日本列島の「民族文化」は朝鮮半島の文化を大規模に習合している(注 2)」   歴史的には、7世紀までに朝鮮半島から渡来の大波が4回、小波は多数あ りました。そうした渡来人の合計数としては埴原和郎氏の有名な「百万人渡来 説」があるくらいですが、その数はともかく大勢の人が日本列島に渡来し、混 血していったことは遺伝子レベルでも裏づけられているようです。 <日本人のルーツ(2),二重構造モデル>   そうした大波の一波が雄略大王の時代にもありましたが、このころ渡来し たとされる蘇我氏一族が、革新技術をもった渡来人集団である漢(あや)氏や 文氏などを背景にして次第にヤマト王権の実権を掌握し、地方に国造制を広げ 「収取」していったのですが、山尾氏の<朝鮮系移住民が「ヤマト」人の祖先 である>という見方はじつに大胆な発想です。   そうした人たちがもたらした文化が次第に融和、習合して倭の文化を形成 していったのですが、雅楽が「朝鮮半島の文化を大規模に習合した」ほんの一 例に過ぎないことはいうまでもありません。また、融和は文化にとどまらず人 の混血も同時に進行し、その結果「ヤマト人」が形成されていったことでしょ う。   日本民族の形成は、文化人類学者の大林太良氏によれば、白村江の敗戦 (663)や蝦夷など「異族」との武力衝突などがインパクトになって、民族意識 の形成に必要な共同幻想の「われわれ意識」が高まり、徐々に民族意識が芽生 えて発展したとされています(注3)。これを裏返せば、すくなくとも飛鳥時 代後期ころまでは「大和民族」や「日本民族」はまだ存在していなかったとい えます。   したがって、当時はもちろん「日本の民族文化」も存在しなかったといえ ます。しからば従来いわれてきた、古代における「日本の民族文化」とされる ものの実体はいかなるものなのか、いささか雲ゆきがあやしくなります。これ に関して、蘇我氏渡来説をとなえた門脇禎二氏の意見を聞くことにします。        --------------------   今の若い人には当たり前かもしれませんが、私ども年配者にとってはご記 憶のように、何か日本の民族文化といえば、他にない特殊なもの、日本独特の ものである、と教わってきたのではないでしょうか。   だから、そういう考えを前提とすると動揺がくるわけです。例えば、三種 の神器の一つとされる勾玉(まがたま)でも、日本固有のものだ、と教わった。 嘘ですね。これは戦後になって気付きましたが、すでに 1942年の『出雲玉造 遺跡 発掘報告書』には、勾玉はもともと韓国で早くから発達したものですよ、 と遠慮した表現ながらもちゃんと学術書には書いてあるのです。   それから埴輪(はにわ)、例えば踊る埴輪とか、巫女(みこ)が座って琴 をひいている埴輪の写真など教科書にもよくみられますね。あれなどは日本独 特の埴輪である、といわれた。   ところが 1964年、もう二十数年前ですが、北京の博物館で曹魏の時代の 俑(土人形)を見た時、ともに同じ姿のものがある。アレッと思いました。俑 と人物埴輪との違いはありますけれども、埴輪のこういう姿は日本独特ではな いのか。   だから、もし、日本の民族文化を世界にない特殊なものと思っていると、 こういう事実の前に自信がなくなります。だから、日本文化についての考え方 を変えなければいかんと思いますね。飛鳥寺なども渡来文化によって造営され たが、複数の国際的文化要素をもって、しかし日本独自のものを創出していっ ているわけです。   他にも心配しないで日本独自のものもあるんです。よく不安そうに、「結 局、日本独自のものはありませんのか」と聞かれますが、東アジアで、中国の 律令をあれほど完全に体系的に入れたのは日本だけです。   あるいは独自の文字-かな文字-もいち早く創りましたね。もっとも仮名 文字は当時の貴族からはすごく軽蔑された。何と教養がない。真名=正式の漢 字を書けないのか、と。  ・・・   だから、民族文化とは何か、ということを考える前に、特殊・固有なもの だけではなくて、多様な国際的要素をもとにしながら創出した独自なものだ、 というふうに考え方を変えなければいけないのではないか、と私は思っていま す(注4)。        --------------------  「日本固有」の文化を発見するには、複合要素のなかの渡来文化を真に理解 してこそ初めて可能です。その作業をおろそかにすると、たとえば早合点で 「大和舞や神楽は日本固有」の文化であるなどと誤解することになります。 (注1)司馬遼太郎他「日本民族と“帰化人”」『日本の朝鮮文化』中公文庫,  1982 (注2)山尾幸久『古代王権の原像』学生社,2003 (注4)門脇禎二「蘇我氏と渡来人ー聖徳太子をめぐって」『古代豪族と朝鮮』 新人物往来社,1991 (注3)大林太良「民族」『世界大百科事典』日立デジタル平凡社(1998)から 抜粋  「日本民族に関しては,第1に弥生時代以来の水稲耕作文化複合,第2におそ らく古墳時代のうちに朝鮮半島経由で入ってきたと思われる支配者文化複合, 第3に5世紀ごろから,7世紀にかけての朝鮮や中国からの多数の渡来人,など のおもな構成要素がそろった時期,つまり奈良時代の初めごろが,民族形成に とって重要な時期と考えられる。   民族とは,上にも述べたように,たんに文化的伝統を共有するばかりでな く,〈われわれ意識〉をもつ集団である。したがって,民族の形成には,おも な構成要素がそろって,文化的共同体ができるだけでなく,意識共同体として も成立することが必要な要件である。  日本民族の場合,この観点からして も,奈良時代の初めごろが重要な時期だと考えられる。その理由は二つあり, 第1は,古墳時代以来の政治的統合の進行に伴って,日本列島の大部分の住民 が単一の国家に属するようになったことである。   第2は,異民族との対決である。〈われわれ何人(なにじん),何民族〉と いう意識は,われわれ以外の他民族と接触することによって生じ,成長する。 とくにその接触が摩擦,ことに武力による対決を含んでいるような場合に,共 属意識は尖鋭となり高揚する。   663年の白村江の戦で唐・新羅連合軍に敗れ,日本列島にとじこもるように なったこと,また奈良時代には日本列島の北には蝦夷(えぞ),南には隼人(は やと)というように,当時の中央の人々から異族として意識された人々が住み, ことに蝦夷とは武力衝突を繰り返していたこと,などの状況は,われわれ日本 人という意識が,少なくとも中央の上層部に発達するのに適した状況であった。   日本民族というべきものの形成にとって,奈良時代の初めごろは,決定的 な時期だったといえよう」   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


秦氏のルーツ 2003/10/26 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#8516   半月城です。   雅楽界の貴公子ともてはやされている東儀秀樹さんは、本人のいうように 秦の始皇帝の子孫なのか、それとも新羅からの渡来人の子孫なのかがここで興 味をもたれているようなので、秦氏について調べたいと思います。   秦氏を京都大学の上田正昭教授は「京都の恩人」と書きましたが、秦氏族 は京都のみならず広く日本各地に基盤をもっていたようでした。その広がりを 平野邦雄氏はこう記しました。  「秦氏は、その基盤として、全国に秦人・秦部・秦人部などの貢納民を有し ていた。その範囲は、東は美濃・伊勢・尾張・越前・越中、西は播磨・美作・ 備前・備中・讃岐・伊予・豊前・筑前に及んでいる。おそらく秦氏はその人口 においても、古代豪族中、最大の規模をもっていたと思う。秦氏の支配の根深 さがうかがわれるであろう(注1)」   秦氏は広範囲な居住地もさることながら、その人数も大規模だったようで す。秦氏の戸数を『日本書紀』欽明元年条は 7053戸と記しましたが、この 「戸」を律令制下の郷戸(ごうこ)とみると、1郷戸は平均27人となるので、 その総数はじつに19万人にもなります。この人数をすぐそのまま信じること はできませんが、ともかく一大渡来氏族だったようです。   そして秦氏は単に渡来氏族の雄であるだけでなく、古代豪族の雄でもあっ たようです。それだけに秦氏の出自を調べるのは、単に東儀家のルーツをさぐ る以上の意義がありそうです。   秦氏を秦始皇帝の子孫とする説の根拠は、9世紀に編纂された『新撰姓氏 録』だけのようです。この本は、桓武天皇の第5皇子である万田(茨田)親王 が諸氏族に提出させた本系帳にもとづいて 815年にまとめたものでした。   したがって、同書で各氏族の出自は自己申告が元になっており、いきおい 自称の信憑性は疑わしいものです。とくに当時の桓武天皇は「百済は朕の外 戚」と公言したくらいだったので、かつて百済や倭に敵対した新羅出身の渡来 系の人はさぞかし肩身がせまかったと思われますが、そうなると祖先の詐称は 十分ありえただろうと推察されます。   こうした事情を考慮するとき、各氏族の本当の出自をさぐるには『新撰姓 氏録』以外の資料を検討する必要があります。たとえば『古事記』や『日本書 紀』(『記紀』と略す)です。ただし、これら『記紀』の古い記録は信頼性が 薄いことはいうまでもありません。それらを考慮して、上田正昭氏は秦氏につ いてこう記しました。        --------------------   わが国の古文献、たとえば『記紀』などにあっては、朝鮮から渡来した 人々を漢人(あやひと)とか秦人(はたひと)とかよんでいる。「欽明天皇 紀」に「秦人・漢人らの諸蕃の投化(まい)ける者」などと表現しているのが それである。『記紀』によると、それら秦人や漢人の祖先のことについては、 つぎのようにのべられている。   すなわち『記』では、応神天皇の条に「秦造(はたのみやつこ)の祖、漢 直(あやのあたい)の祖」が渡来したことを記載し、『紀』では同じく応神天 皇の段に、秦氏の祖とされる弓月君(ゆづきのきみ)が「人夫百二十県を率い て来帰」したことなどを記述している。  『記』では「秦造の祖」などというように抽象的で、その渡来に付随する内 容もなんら書かれていないのに、『紀』ではその祖先とする人物の名が記され ているばかりでなく、その渡来が多数であったことを誇示するために「百二十 県」とか「十七県」とかというようにその伝説的内容も豊かになっている。  『記』のほうがより古い所伝らしいことは、この一例をもってしてもわかる が、「応神天皇紀」のこうした渡来説話の史実性は、すでに多くの人人によっ て指摘されているように、記事内容に矛盾が内包されており、後世の氏族伝承 の形成過程で加上されたものが、『紀』編者らの史観で、応神朝に修飾されて 付託されたものとみなされる。  ・・・   だが、ここで注意したいのは、これらの『記紀』の内容には、漢人の祖先 が「後漢霊帝の曾孫である阿智王」などであったとするような、八世紀末以降 の史書にみられる中国王室の後裔とする思想や、あるいは秦人の祖先が秦始皇 帝であるとするような、九世紀後半からさかんとなる中国出自説が、すこしも みられないことである。   弓月君や阿知使主(あちのおみ)の実在性や渡来年代、およびその説話内 容には疑うべき点が少なくないが、『記紀』においても、秦人の祖や漢人の祖 は、けっして中国人の系列においてはのべられてはいない。いなむしろそれら は朝鮮南部との関係において登場しているのである(注2)。        ++++++++++++++++++   秦氏と申しますと、中国人の後裔という考え方が古くからかなり強かった わけですね。もちろんそれに批判的な意見もあったのですけれども、主流を形 づくった考えは中国系とする見解でした。   事実『新撰姓氏録』なんかにも太秦(うずまさ)公宿禰は秦始皇帝の三世 孫 考武王の後裔であるというふうに書かれています。平安時代の前期の頃は 秦氏は中国渡来とする説が存在したことがわかります。   その点については三品彰英先生や平野邦雄さんも指摘されていますが、わ たしもやはり新羅系と考えるべきだという考えを、いまから十年ばかり前に書 きました。『帰化人』(中公新書)という著書のなかで強調したわけです。   それにはいくつかの論拠がありますが、『古事記』や『日本書紀』でも秦 氏の祖先は朝鮮半島から渡来したということを伝えていて、決して中国からの 渡来とは書いていない。だいたい秦氏の祖先が中国の人であるという考え方は、 八世紀の末から九世紀の初頭以後に強まってきます。   ハタに秦という字、秦漢帝国の秦という字をあてますが、『姓氏録』でも 別に波陀としるしていますし、『古語拾遺』も波陀という字を使っています。 ハタ氏を秦氏にあてたのだと思うのです。   ハタの語源についてはいろいろの説があって、ハタというのは朝鮮語の Pata に起源があるという説とか、朝鮮の古地名に波旦というのがあって、そ れにもとづくというような説もあります。言葉の類似だけでいうのはむずかし いと思いますが、わたしはやはり新羅系の渡来と考えてよいと思います。   広隆寺に碑が出来まして、それには秦始皇帝の子孫 秦河勝と書いてあり ます。それをわたしは知らなかったんですが、1970年の夏モスクワでの国際歴 史学会から帰って来ますと、鄭詔文さんが「ああいう碑が建っているのを上田 先生は黙認していいのか」(笑)というようなことをいわれまして、広隆寺の ご住職にわたしの考えを申しのべましたところ、「ああ、そうですか、訂正し ましょう」ということでしてね、このことは「京都新聞」にも書かれたりした んですが、そういうふうに秦氏というと中国系とする考えはいままで根強いと 思いますね。   もちろん朝鮮の文化に中国の文化が影響をあたえているのは事実ですし、 日本の文化に中国の文化が大きな影響をあたえていることも否定出来ない。そ のことを大前提としての話ですが、秦 中国系説というのが、たいした根拠も なしにいわれて来たというのは、朝鮮を軽視して来た歴史の見方、考え方の一 つの現れではないかと思いますね(注3)。        --------------------   広隆寺といえば、ヤスパースも絶賛したあの優雅な弥勒菩薩をすぐ思い浮 かべますが、それら新羅から渡来した仏像を秦河勝が安置したことから広隆寺 は別名、秦寺あるいは太秦寺などともよばれました。すなわち広隆寺は秦氏の 氏寺ともいえる存在でした。   その広隆寺が歴史学者の言を入れて秦氏の出自に関する認識を正しく改め たのはいいことです。現在、秦氏の研究者で秦氏を秦始皇帝の後裔とみる人は 誰もいないようで、朝鮮半島からの渡来系ということに異論はないようです。   その一方、秦の語源については学者間で意見が分かれるようです。まず、 上田氏はこう語りました。        --------------------   私どもが、「秦氏は新羅系である」と言うまでは、多くの先生方は、中国 系だと言われてきたわけです。漢(あや)氏も秦氏も、これは借字です。すで に新井白石が、『古史通』や『同或間』で古代を考えるさいは、漢字にとらわ れてはいけないと書いている通りです・・・   そこで、「ハタ」・「ハダ」という言葉の本来の意味はどうか、というこ とが重要です。例えば、先ほど申しました新井白石は、韓国語からきているの ではないか、といっておりますし、国学の大先達、本居宣長も『古事記伝』で、 韓国語に由来する、と書いています。しかし、考証はしていません。  ・・・   この前、朝日新聞にも、京都新聞などにも書きましたが、鮎貝房之進とい う、民間の学者ですが、古く秦氏という言葉の源は、新羅の波旦に由来するの ではないか、と『雑攷』のなかに書いておられます・・・   この説に魅力は感じていたのですが、断定はできないと思っておりました。 ところが1988年の正月、(韓国)蔚珍郡の鳳坪里というところで、権大善さん という地元の方が、自分の田に石が昔から出ていて、それを庭石にしようとし て引いたところ動かない。それで重機を持ってきて引き上げられた。   高さが約2m、細長い碑ですが、中幅が約 36cm,上はもっと狭くなる。そ こに10行、一番長いもので 46字、短い所は 25字 刻まれたものが発見された のです・・・   その碑文は「甲辰年」というのではじまるのですが、これは韓国の先生方 が考証しておられるように、524年に間違いない。その新羅の古碑は新発見の 資料です・・・   この碑自体に考うべき問題がいろいろあって、私も研究している最中です が、なかなか解読できない箇所があるのです。もちろん韓国の先生方も苦労し ておられるわけですが、そこに地名としての波旦というのが、明確に出てくる のです。鮎貝先生の説が俄然有力になったわけです。だけどまだ確定はしてお りません(注4)。        --------------------   秦氏が新羅系となれば、新羅のどこかにハタの語源を求めたくなるのは自 然な成りゆきです。しかし、ハタを朝鮮半島の地名や国名に結びつけることに 反対する意見もあります。そのあたりの事情を加藤謙吉氏はこう記しました。        --------------------   ハタの由来については、その語源を朝鮮語で海を表す語であるパタ(pata) に求め、海に因む古地名のある地域を秦氏の出身地に比定しようとする説があ る。   鮎貝房之進氏は、秦氏の出身地を『三国史記』地理志にみえる慶尚北道の 古地名の波旦(padan)やその近くの波利(pali)とし、秦氏と関係するウヅマサ (太秦)のウヅ(ウツ)についても、蔚珍郡の古名「于珍」(ウタル・ウトル・ ウタ・ウト)に基づくとした。   この説は近年、山尾幸久氏が発展的に継承し、マサは村の義で、ウヅマサ とは「于珍村」を指し、これと南北に接する「波旦」や「波利」をあわせた小 国が秦氏の出身地であると説いている。   一方、井上秀雄氏は同様の観点に立ちつつも、この氏を「臨海」の別名を 持つ南部加耶諸国中の金官加耶国(慶尚南道金海)の出身とする。   しかし秦氏の出身地を、このように朝鮮半島の特定の小国に求めることに はいささか問題があろう。安羅を故国とした東・西漢(かわちのあや)氏の例 に準じるなら、秦氏を蔚珍方面、もしくは金官加耶国からの移住者と解して差 し支えないという見方もできようが、漢氏と秦氏では、ウジそのもののあり方 に明瞭な差が認められ、日本への渡来事情も自ら異なると思われる。  ・・・   ハタの氏称は、先に少しく触れたように、この氏が王権に奉祀した職掌の 内容に因むもので、大和政権内に設けられた職務分掌組織とかかわる名称とし て成立したと考えるべきであろう。   そしてその組織が職務遂行上、多大な人員を必要としたこと、組織を管掌 する渡来系諸氏がハタの氏称を共有して擬制的な同族団を形成したこと、その 支配下集団がハタヒト・ハタヒトベ・ハタベ(秦人・秦人部・秦部)に編入さ れたことにより、秦氏の一大氏族組織と支配組織が誕生したと推察されるので ある(注5)。        --------------------   加藤謙吉氏はこうしたアプローチから秦氏の職掌を検証し、ハタの語源は 古くからある「機織(はたおり)」にあるとする説を発展的に継承しました。 同氏は、まず史書に書かれている秦氏の職掌を下記のように要約しました。 1.諸国に分散し、他の有力氏に駆使されていた秦の民が雄略朝の秦公酒の時  に集められて、その支配下に置かれたこと 2.秦公酒は秦の民を率いて養蚕を行い、絹・カトリ(上質の絹)・綿(絹  綿・真綿)などを調庸として貢進したこと 3.その貢進物が膨大な量にのぼり、朝廷にうず高く積まれたため、酒は天皇  からウヅマサの号(姓)を賜ったこと 4.貢進物を納めるため、新たに朝廷内に大蔵を設け、酒を大蔵の長官とし、 秦氏がその出納の任に当たったこと   加藤氏はこうした内容を詳細に検討した結果、やはりこれらはある程度史 実を反映した結果であると結論し、下記のように記しました。        --------------------   秦氏関係者の分布が概して絹織物や綿・糸を納める地域に密で、布・木綿 (ゆう)・麻を納める地域に疎であることもまた確かである。令制下の養蚕・ 機織製品の貢納国の中に、前代からの伝統を受け継ぐ国々があり、それらが秦 氏関係者の分布と共通する事実は、少なくとも認めて差し支えないのではない か。   かくして秦氏がその家伝において主張したこの氏の職掌の分布の内容は、 基本的には史実に依拠したものであり、したがってハタの氏名の由来も、機織 りのハタか、あるいは織成された繊維製品のハタに基づくと判断してよいと思 われる。   関晃氏が秦氏と機織の関係を否定する根拠の一つとして挙げた「秦氏が機 織関係の官司と結び付く形跡が認められない」という点についても、秦の民の 生産する養蚕・機織製品がミツキとしての貢納品の性格を有する以上、山尾幸 久氏が指摘するように、その機織技術は当然、「大王直属の手工業生産組織の 技術よりは古式で、実用品を生産した」ものと理解すべきであるから、秦氏は 朝廷内において「錦織(にしごり)」・「呉服(くれはとり)」・「漢織(あ やおり)」などの高級機織製品の生産組織よりも、むしろミツキの収蔵組織と 深くかかわったとみることができ、決して機織と無関係であったわけではない であろう(注5)。        --------------------   秦氏は、司馬遼太郎にいわせれば、のちに聖徳太子の政治、財政上のスポ ンサーであったされますが、その財力や政治力は機織の貢納をとおして今でい う大蔵大臣を務めたことに起因するようです。   そればかりか、平安京遷都にあたってはみずから開墾した京都の地を提供 し、都の造営を支えた財力、政治力は大蔵の長を務めたことに基盤があるよう です。   そうした有力氏族でありながら、秦氏は多くのナゾにつつまれているので すが、そのひとつであるハタの語源すら専門家の間でカンカンガクガクの論戦 が継続しているようです。その一方で、秦氏の出自に関しては朝鮮半島出身と いうことで専門家の意見は一致しているようです。 (注1)原著注、平野邦雄「秦氏の研究」『史学雑誌』70-3/4、『大化前代社 会組織の研究』吉川弘文館,1969。引用は、平野邦雄『帰化人と古代国家』吉 川弘文館,1993 (注2)上田正昭『帰化人』中公新書,1965 (注3)上田正昭他「秦氏とその遺跡」『日本の渡来文化』中央公論社,1975 (注4)上田正昭「古代史のなかの渡来人」『古代豪族と朝鮮』新人物往来社,  1991 (注5)加藤謙吉『秦氏とその民』白水社,1998   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


東漢(やまとのあや)とヤマト朝廷 2003/11/ 9 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#8603   半月城です。   私は現代版の渡来人として古代の渡来人には格別の興味をもっています。 私のみならず、ここの会議室でも渡来人にたいする関心が高いようなので、そ れを書き込みの駆動力にして渡来人シリーズをつづけることにします。   日本でまだヤマト民族が形成される以前、朝鮮半島から多くの渡来人が日 本列島へ継続して押しよせたのですが、その中で前回紹介した秦氏はどちらか というと養蚕や織物、製塩、鉱工業、土木、神社建築などの産業面でヤマト朝 廷を支えました。その一方で政治や外交の表舞台にたつことは記録上では少な かったようです。   これと対照的なのが、もう一方の渡来氏族の雄である東漢(やまとのあ や)です。この氏族は5世紀後半から末にかけて朝鮮半島から渡来し、現在は 明日香村に属する檜隈(ひのくま)を基盤にして、ヤマト朝廷において政治や 外交、軍事面で特記すべき活動をしたようでした。   たとえば崇峻大王(天皇)暗殺です。592年、東漢駒(こま)は、同じく 渡来氏族とされる蘇我馬子と組んで時の大王を暗殺しました。また、乙巳の変 (645)で蘇我氏本宗家が滅んだのちもヤマト朝廷内のはかりごとや権力闘争に 深くかかわり、壬申の乱(672)の時には一部は弘文天皇側に、大部分は天武天 皇の側について軍功をあげました。   その後、東漢の主流となった坂上苅田麻呂らの坂上家は平安時代にいたる まで朝廷軍事力の中核として多くの乱や変の鎮圧、あるいは征夷大将軍として 「蝦夷征伐」を行うなどめざましい活躍をしました。   このように東漢は各時代において権力の中枢と結びつき、ヤマト朝廷にお いて権力闘争の場面で重要な役割をはたしたのですが、その功罪を天武天皇は こう指摘しました。 『日本書紀』天武天皇6年条   この月、東漢直(あたい)らに詔して「なんじらの族党は本(もと)より 七つの不可を犯してきた。小墾田の御代(推古大王)から近江朝(天智天皇) まで常になんじらを謀るのを事となした。   今、朕の世にあっては、まさになんじらの不可のさまを責め、犯したとこ ろにしたがって罪にしよう。しかし何が何でも漢直の氏を絶やしたいのではな い。それゆえ、大恩をたれ、罪を赦すことにする。今後、もし犯す者があれば、 決して赦さない。   『日本書紀』に七つの不可の内容は書かれませんでしたが、これは大王暗 殺などをいうことはまちがいないようです。そのような陰謀をはたらいても、 それを天皇といえども罰することができないほど東漢氏は有力だったのですが、 その間の事情を上田正昭氏はこう記しました。        --------------------  「本より七つの不可」という罪状については、具体的にのべられていないが、 蘇我氏らとの画策が、そのなかに含まれていたとみなしてよかろう。この詔文 には、壬申の乱において大海人皇子(天武帝)側に加担して抜群の功を立てた 東漢氏への配慮がある。   事実、坂上直熊毛・書直(ふみのあたい)智徳・書直成覚らには功田・功 封が与えられており、坂上直老は「壬申の軍役に、一生を顧みず、社稷の急に 赴き、万死を出でて国家の難を冒す」と激賞したほどであった(『続日本紀』 文武3年5月条)。   本来罰すべきだが恩赦し、ふたたびその罪を犯す時には厳罰にするという、 圧迫と宥和の東漢対策がありありと詔文にうかびあがる。   朱鳥元年(686)天武帝の病状が悪化したその八月、檜隈寺に封百戸が寄進 されているが、これも一方で東漢氏を抑圧しながら、他方でその伝統を無視し 得ない状況を物語る史料である。   天武帝が檜隈大内陵に葬られる前提として、二年二カ月におよぶ天武帝の 殯宮儀礼があった。・・・天武帝・持統帝のみならず、文武帝までが檜隈の地 に葬られたことの背後には、檜隈の地と東漢氏の伝統がなお軽視しえなかった 事情が横たわっていたとみなければならない(注1)。        --------------------   東漢氏の本拠地に天皇陵がつくられたという事実は、それだけ東漢と天皇 との結びつきが強かったとみられますが、檜隈にもうけられた天皇陵は天武・ 持統陵だけではありませんでした。   その百年前にも檜隈に欽明大王(天皇)の陵がもうけられました。その陵 は橿原市にある丸山古墳とみられます。ときに欽明大王は蘇我氏により擁立さ れたのですが、東漢はその権力者の蘇我氏と結託したので、欽明大王の陵が檜 隈に造立されたのは自然な成りゆきと思われます。   このように自己の勢力圏に大王陵を築くほどに大王家と密着した東漢は、 どのように発展してきたのかを見ることにします。それを平野邦雄氏はこう記 しました。        --------------------   漢氏は後漢 霊帝の子孫といわれ、やはり応神朝に、阿知使主(あちのお み)が「党類17県」をひきいて帰化し、「大和高市郡檜前(ひのくま)村」 を賜り居住したという。   彼らは実際には、百済から渡来したものと思われ、同族に百済王から出自 したと称する者が多い。そしてこの氏は、阿知使主の子の都加使主(つかのお み、東漢直掬)の三人の男から、三腹に分かれ、ひきつづき分化を重ねたらし く、七世紀以前に、川原民・谷・内蔵(くら)・山口・池辺・文(ふみ、書)・ 蔵垣・荒田井・蚊屋・などの枝氏に分かれていたのはたしかである。   延暦四年(785)、坂上苅田麻呂が同族と主張したのは、坂上・内蔵・平田・ 大蔵・文・調(つき)・文部(ふみべ)・谷・民(たみ)・佐太・山田の11 氏で、カバネは忌寸(いみき)である。   平安初期に漢氏を代表した坂上氏の家系を記す「坂上系図」にひかれてい る『姓氏録』逸文によると、そのころ、倭漢(やまとのあや)氏が同族と考え ていたのは約60にのぼる忌寸姓の氏で、ほかに九つの宿禰(すくね)姓と三つ の直(あたい)姓をふくんでいた。   漢氏の分化はこのようにはげしく、同族中多くの異姓が並立し、そのうち、 天武天皇の壬申の乱のころには書直(ふみのあたい)が、養老より天平年間に かけては民忌寸が、天平時代から後は坂上忌寸が、それぞれ勢力を得て、族長 の立場を占めた。これは、朝廷の官人として有力化した一族が、現実の権力関 係によって同族を統制したもので、そのときどきの同族内の勢力の浮沈をあら わにしている。   しかし、彼らも、阿知使主を共通の祖とする同族意識に結ばれ、苅田麻呂 の奏言にあるように、「檜前忌寸および17県の人夫」として、大和高市(たけ ち)郡内の地に満ちて住み、他姓のものは十中の一、二にすぎないありさまで あった。「檜前忌寸」とは、高市郡檜前郷の地名をもって、同族を総称したの である(関晃「倭漢氏の研究」『史学雑誌』62-9)。   しかるに、さきの「坂上系図」によると、漢氏には、この本系の同族のほ かに、阿知使主が帰化したときに連れてきたという「七姓の漢人(あやひと)」 の子孫と、その後に阿知使主の旧居地 帯方に住む人民はみな才芸ありとして 連れかえったものの子孫とを合わせて、30以上にのぼる村主(すぐり)姓の諸 氏が付属していた。   この記事に対応して『日本書紀』には、五世紀末の雄略朝に、西漢(かわ ちのあや)才伎(てひと)歓因知利(かんいんちり)というものが、母国の百 済より才伎を迎え、これを東漢直掬(つか)が上桃原・下桃原・真神原の三所 に安置したとあって、二つの記事が符合する。それが村主や漢人を名のる忍海 (おしぬみ)・飽波(あくなみ)・鞍作(くらつくり)・金作(かなつくり)・ 飛鳥(あすか)・錦部(にしごり)などの諸氏にあたるのである。   しかも、苅田麻呂の奏状によれば、百済から「人民男女、挙落使に従ひ、 ことごとく来る」とあるほど、その集団は大きく、ためについに高市郡からあ ふれ、諸国の漢人(あやひと)として分置されるにいたったとあり、「坂上系 図」では、これを摂津・参河・近江・播磨・阿波などの「漢人村主」にあてて いる。  ・・・   このうち、佐味・忍海・鞍作・飛鳥衣縫(きぬぬい)・飽波・錦部・金作・ 韓鍛治(からかぬち)などは、あきらかに「百済才伎」、すなわち手工業者の 集団で、織物や武器の生産に従い、八世紀にいたっても、宮廷工房における 「雑戸(ざっこ)」として位置づけられていた。   このように漢氏は、新来の多数の技術者を従えたが、それは漢氏が朝廷の 官人であったからであり、おそらくこのとき、百済の官司の諸部の制を輸入し て、わが国にも部民(べみん)制を創始したのではないかと思われる。  ・・・   漢氏は飛鳥に新来の仏教文化を創出した。おそらく、その氏寺は檜隈寺で、 のち坂上氏が知行した道興寺はこれにあたるのであろう。檜隈寺跡は、檜前の 於美阿志(おみあし)神社(奈良県高市郡明日香村・・・)の境内にあり、東 塔・西塔・金堂跡がわずかに知られ、巨大な礎石と平安初期と推定される十三 重石塔が残されている。この神社の祭神は阿知使主である。   漢氏はまた、蘇我氏の造立した大寺院 飛鳥寺や、舒明(じょめい)天皇 の百済大寺にもふかいかかわりをもっている。このほか、鞍作司馬達等が高市 郡坂田原に草堂を営んだという坂田寺(現在地は省略、以下同)、額田氏出身 の僧 道慈が造立したと思われる額田寺もあり、池辺直氷田が本尊を造ったと いう吉野の比曽(ひそ)寺も漢氏と関係が深い。   このほかに、今来(いまき)漢人に関係ある遺跡をあげれば、穴織(あな はとり)社伊居太(いけだ)神社、呉服(くれはとり)神社、飽波神社などが 数えられる。   このようにみてきたとき、一般に、漢氏の性格は官人的・都市的であり、 秦氏は土豪的・在地的であるということもできよう(注2)。        --------------------   東漢のなかで文(書)氏は朝廷における文書を専門にあつかったと見られ ます。文書にはもちろん対外的な文書も含まれ、そこから文氏は外交にももち ろん深く関与したことでしょう。東漢はこうした文官のみならず、新技術をも った渡来人である「今来の漢人」を吸収してますます発展していったようでし た。これら今来漢人に関して田中史生氏はこう記しました。        --------------------   特に東漢氏のもとに順次編成されていく「今来漢人」の存在は、これらが 新技術をもって渡来する人々をも絶えず組み込める弾力的なものであったこと を示し、技術の維持・更新のための技術者集団の再生産システムが東漢氏の組 織のなかでは十分機能していたことを窺わせる。   五世紀後半から、おそらく王権の強い主導もあって目まぐるしく進められ た列島の「技術革新」のなかで、前述のように、すでに大王周辺に多くの渡来 系技術者らが仕奉する状況はあったが、ここに至って、王権のもとで各生産部 門が安定した再生産を繰り返す組織の構築・拡充が開始されたとみることがで きる。特定の職掌をもった渡来系氏族形成の萌芽もここに求められよう(注3)。        --------------------   今来漢人の新技術や知識をたえず吸収し、それらを武器に権力者と結託し、 東漢氏族は朝廷内において長年にわたって不動の地位を築いたとみられます。 (注1)上田正昭『古代の道教と朝鮮文化』人文書院,1989 (注2)平野邦雄『帰化人』吉川弘文館,1993 (注3)田中史生「渡来人と王権・地域」『倭国と東アジア』吉川弘文館,  2002   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解(2) 2003/ 8/15 Yahoo!掲示板「竹島」#2512  「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」    (2001.7.31付)               朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会 (承前) 3.日本の「独島領有権」主張は領土拡張熱に浮かされた者たちの虚説   独島を奪おうとした日本帝国主義者たちの策動はぶざまな敗北を喫したに もかかわらず、今日の息を吹き返した日本軍国主義者たちは再び「日本領有」 を主張しており、独島を「奪還」すべきだと騒乱を起こしている。   独島領有権を主張する日本極右たちの主張はまったく根拠のない妄説であ り、失敗をくり返した領土拡張主義者たちの繰り言にすぎない。それは日本軍 国主義者の侵略的本性が変わらないことを示している明白な証拠でもある。   日本の政治家は独島が「歴史的にも日本の固有の領土」で「昔から日本領 有権を明確に示している文書と古地図がある」としているが、実際のところ、 それは「日本輿地路程全図」や「竹島図説」などいくつかの私撰地図、地理書 にすぎず、その外のあらゆるものはかえって朝鮮領有権を確証してくれるので ある。   前にみたように、朝鮮の歴代文献と地図はどれもがすべて独島を我が領土 としており、日本の領土としたのは一件もない。『三国史記』や『高麗史』、 『朝鮮実録』など政府が編纂した国家正史、あるいは政府の百科事典でもある 『増補文献備考』で独島を于山島、三峰島、可支島などと呼び、江原道蔚珍県 所属の島と明記し、官撰地理書である『新増東国輿地勝覧』では地図として于 山島と鬱陵島を並べ朝鮮領土として描いた。   1900年に大韓帝国が独島を「鬱島郡所属の島」と明白に再宣明し、政府機 関紙である『官報』で世界に公布したことはこうした歴史伝統に基礎をおくも のであった。それのみならず、日本の歴代基本文献と権威ある地図もみな独島 を日本のものでなく、朝鮮の付属の島としている。   前にみたように、1690年代に朝鮮政府と日本対馬島主、江戸幕府間で繰り ひろげられた鬱陵島領有問題論戦のはてに、結局、江戸幕府と対馬島主が「竹 島とその外一島(独島)」の朝鮮領有を認定し、その島への日本人の渡海を禁 止する命令を出したのがその一例である。   幕府が倒れ明治政府が樹立された後、日本政府は鬱陵島とともに竹島の朝 鮮領有を再三にわたり明白に規定した。   明治維新の翌年である 1869年12月、日本外務省は佐田、森山、斉藤など 三名の外務省所属派遣員を朝鮮に送り実態を調査させたが、かれらは「朝鮮の 事情を実地探査」して提出した報告書「朝鮮国 交際始末 内探書」の終わりの 部分に「竹島(鬱陵島)、松島(独島)が朝鮮の付属になっている経緯」に対 する調査結果を報告したのであり、結局それを否定する結論は出さなかった (『日本外交文書』巻3)   この報告書は日本外務省の正式派遣員の公式文書である。かれら3名の公 式派遣代表は一貫して独島が鬱陵島の隣島であり、鬱陵島とともに朝鮮の領土 であることを認定したいた。   1877年、日本内務省は二島に対する5カ月間の再調査結果を政府最高機関 である太政官に報告したが、太政大臣代理 岩倉具視はこれにもとづいて、3 月29日「竹島(鬱陵島)とその外一島(松島すなわち独島)は本邦(日本) に関係ないと心得るべき」という指令を内務省に下達しており、内務省は4月 9日、それを島根県に下達した(『日本国立公文書館』所蔵資料)。   この指令はそのまま日本の明治政府が鬱陵島とともに独島を日本には関係 ない朝鮮領と認定した国家の公文書であり、内務省と島根県に二島を日本の境 域から除外するよう指令した政府の決定書である。日本政府が独島の朝鮮領有 権を認定した文献としてこれよりも有力なものはなく、日本側文献にこれを否 定する文献もない。   日本の古地図を探し回っても事情は同じである。独島博物館で複写した日 本の朝鮮関係古地図をみれば、みな一様に独島を鬱陵島とともに朝鮮領に含め ている。壬辰倭乱の時、朝鮮侵略のために九鬼嘉隆などが豊臣の命により作成 した『朝鮮国地理図』の『八道総図』と江原道部分地図に于山島と鬱陵島が並 んで江原道の沖合に明記された。これは日本で鬱陵島と独島をわが国の名称で 表記した最初の地図である。   つぎに、日本地図製作の大家として知られている林子平が 1785年ころ 『三国通覧図説』に朝鮮と日本および中国東北地方を描いた付録地図を見れば、 竹島(鬱陵島)とその横に小さい島(独島)を明記して朝鮮本土と同じ黄色で 彩色し(日本は対馬と同じ灰色)、その横に「朝鮮のもの」と書いている。こ れは当時の日本学会でも独島を朝鮮の領土と認定していることを示している。   1876年、日本海軍水路部がロシア艦隊パラダ号が作成した地図を作戦用に 再発行した「朝鮮東海岸図」にも鬱陵島と独島など付属島が詳細に描かれてい るが、とくに独島は別に絵で描かれた。   1882年、木村が製作した「東国朝鮮国全図」も日本は赤色で表示したが、 竹島(鬱陵島)と松島(独島)は朝鮮本土と同じ薄い灰色で表示してそれらの 島がみな朝鮮領であることを明らかにしている。   日本海軍水路部で 1883年に初めて発刊した『寰瀛水路誌』にも「リアン コールド岩(独島)」を鬱陵島の属島と明示し、その後、1945年6月に発刊し た『簡易水路誌』に至るまで何度も発行した水路誌ではみな独島を朝鮮領の構 成部分に記録した(1952年 海上保安庁が発行した「朝鮮半島沿岸水路誌」か ら独島を日本領に編入)。   特に、ヒケムセッコが 1930年に出した『日本海(朝鮮東海)に位置する 竹島に関する日鮮関係』では「竹島(独島)と鬱陵島は現在 朝鮮の江原道に 所属し日本海のなかにあるが、朝鮮領土の境界としては最東端である」とし、 1936年 日本陸軍参謀本部陸地測量部で製作した「地図区域一覧表」には日本 領土と朝鮮半島の間にある鬱陵島と独島を一区画でくくり、朝鮮本土所属と表 記した。   このような事実は日帝の朝鮮強占期にも独島が実際上 島根県に所属して いなかったことを意味し、したがって「独島島根県編入」は完全に虚偽、謀略 であったことを告発している。   その他、独島を朝鮮領と認めて表記した日本の古文献や地図はいくらでも あげることができる。このように朝鮮側文献と地図はもちろん日本の基本文献 と地図もみな独島の朝鮮領有を認定しており、したがって「昔から日本の領有 権を明白に示している文献または古地図がある」という主張は完全にこじつけ であり、領土膨張の野望を成し遂げようとする軍国主義者たちの妄言にすぎな い。   伯耆藩の大谷・村川両家が竹島を幕府から借りて経営したという主張も歴 史の歪曲、捏造である。先に分析したように彼らが「渡海免許状」の発給をう けた事実が独島を自国領と見なしたり、かれらが独島を幕府から借りて経営し たという証拠にはなりえないのである。中井がアシカ猟のために大韓帝国から 独島借用の許可を得ようとした事実がそれを物語っている。   日本帝国主義者たちは次に国際法上からみても「日本の固有領土」という 妄説を繰りひろげている。かれらの主張は、国際法上で先占に対する領域確定 が実現されるにはまずその地域が無主地でなければならず、つぎに領域獲得の 国家的意思があり、さらにその意思を対外的に公布すべきであり、加えてその 地域で実効的な占有、経営がなければならないという条項などをあげ、かれら はこれらの要件をみな実現したが、朝鮮側は占有に対する「国家的意思」やそ の表明もなく、効果的な経営もないばかりか「平穏で継続的な占有」もなかっ たというものである。   これもやはり根拠のないこじつけであり、賊反荷杖式の強盗的論理である。 先に何度も強調したが、独島は無人島ではあるが決して無主地ではないし、占 有の国家意思は長期間の「空島政策」期にも倭人に何度も明白に表明したし、 中国でもわが国の文献をとおして知られている。   とくに 1900年、勅令第41号が発表されたことにより朝鮮の独島領有は近 代の慣例に合うよう万国に通告、再確認された。   しかし、日本はどうしただろうか? 軍国主義者たちの破廉恥な主張は主 に独島編入に関する閣議決定と「島根県告示」第40号を念頭においたものだが、 この文書は高宗の勅令第41号が公布された5年後に造作されただけでなく、そ れすら国内外に公布されなかった。   元来、国際法の要求は、無主地を自国領に編入する際に当然その地と隣接 する国々との事前協議や照会を要望しており、またそのようにするのが慣例で ある。   日本自体も小笠原島を自国領にするとき、米国、英国などとは何度も協議 したし、ヨーロッパ 12か国にこの島に対する日本の管理を通報したという。 それなのに独島の場合、それは無主地ではないのに、日本はその主人である大 韓帝国政府に事前協議はおろか事後報告もしなかった。   それのみか、閣議決定内容は公布されなかったし、この重大事は一介の地 方公報である県報に掲載され、地方紙である「山陰新聞」(1905.2.24)に小さ く報道されたという(『新東亜』5月号、「独島」)。   しかし、独島博物館館長が調査したところによると、日本が 1898年7月 に小笠原の無人島である南鳥島の東京所属を決定したときは東京府告示を中央 新聞では『読売新聞』や『ミヤコ新聞』が掲載したが、独島編入は 104もある 新聞の中でたったの1紙も掲載しなかったという。また「島根県告示」第40号 の掲載事実を確認するため島根県図書館で「独島編入」に関する告示原本をさ がしたが、図書館からは遺憾にもその号数は「遺漏している」との回答を受け たという。   実態はこんなところである。「独島編入」に関する「告示」など完全に幽 霊である。政府の指令にしたがい急いで作られたゴマカシの文書は単に数名の 官吏が閲覧したにとどまったのである。   日本政府は東京にある旧韓国代表部にも通報しなかった。在日朝鮮人はも ちろん日本国民や知識人、ひいては釜山駐在日本領事すらそのニュースをまっ たく知らなかったという。この事実は、閣議決定や「島根県告示」なるものは 国内外に公示するするためではなく、後日の証拠を残すために数名の詐欺師た ちが集まって作りだした一片の文書形式ごっこに過ぎないのであり、徹頭徹尾、 虚偽捏造で一貫したゴマカシ行為だったことを如実に物語っている。   元来、国家機関や地方官庁の決定を所属する県民に知らせる役割をもつ県 告示に、領土編入のような国際的性格を帯びた国家の重大事を公示すること自 体が話にならないし、その告示すら告示されず隠されたのである。しかるに 「正式に国際法にもとづいて領土編入手続きを踏んだ」という主張は真っ赤な 偽りとなる。   日帝はなぜ独島の強制編入のみ非公開にしたのか? その理由は自明であ る。それは、独島が朝鮮固有の領土であることを彼らが知っていたからであり、 その事実が朝鮮に知れれば強い抗議をよぶだろうし、列強が異議を提起すれば 露日戦争に不利な影響を与えるだろうという打算があったからである。   さらに、日本はやがて朝鮮を属国にする計画を推進し、日本軍隊が漢城 (ソウル)を強占する準備をしていたので、日本の官吏は非法的な独島強占公 布をその時まで待つことにしたのである。一言でいうと、ひねりだした時間表 に合わせて列車をむりやり走らせようとしたのである。   そうであったからこそ、それから1年1カ月が過ぎた1906年3月28日、乙 巳保護条約を捏造して朝鮮を植民地にした4カ月後に、再言すれば、独島強奪 に対しいかなる国も抗弁する可能性が完全に排除された時期を選んで、初めて 日帝は隠岐島司一行を独島に送り現地を視察させ、帰路に鬱島郡守 沈興澤を 訪問し「独島が日本領になったので視察の途中に島へ来た」と知らせた。   これは国際慣例に完全に反する無道な行為であった。このような国事は、 当然国際慣例にしたがい政府間で協議、通報すべきなのに、日帝は地方官を送 り鬱島郡守に通報した(鬱島郡庁保管資料 沈興澤の報告部分)。   鬱島郡守 沈興澤は「本郡所属である独島」を日帝が不法侵奪した事実を 江原道観察使に報告したが、それは1カ月が過ぎた4月29日に中央政府に報告 された。その報告を受けた内務大臣 李址容、参政大臣 朴斉純など、乙巳五賊 の輩までもが日本の度を超した強盗行為に驚きを表し「独島を日本の属地と称 するは畢竟無理なことである・・・まったく唖然とする」、「独島領地説は完 全に無根」と抗弁した(『新東亜』2000年5月号、「独島」)。  『皇城新聞』、『大韓毎日申報』などソウルの新聞は一斉にこの消息を伝え、 日帝の強盗的独島侵奪行為に対し強硬な抗議を表明したし、黄炫をはじめとす る知識人たちも日本が独島を自国領としたのは完全なごり押しだと糾弾した。   それにもかかわらず日本の極右たちは、独島は「国際法を基礎とする領土 編入手続きをふんで島根県に編入された」とし、「他国から異論がなかった」 とか、はなはだしくは、日本は乙巳5条約以後になってや朝鮮の外交事務を監 督指揮下においたので「ほんとうに韓国が竹島に対し歴史的および行政的権限 をもっていたのなら、日本政府に抗議するのに何の妨げもなかった」などと実 に破廉恥な魂胆をさらけだした。   他の国や朝鮮政府は、そうした消息を知りえてこそ支持するなり、抗議す るなり自己の立場を表明することができるのである。それなのに露日戦争でロ シアに勝ち、「桂ータフト協定」で米国の口を封じた後、乙巳条約を捏造して 朝鮮を支配するようになった翌年になってやっと「領土編入」を朝鮮の地方官 吏に通報したが、どの列強が異論を提起したり、自主権を失った朝鮮政府がい かに抗議できようか。   つぎに朝鮮の独島領有が「平穏で継続的に」なされていないので、これは 「紛争問題」であるとする主張はさらに荒唐無稽きわまりない妄説である。こ の意味は日本が「独島領有権」を主張するかぎり独島は依然として紛争地域で あるというものであり、したがって国際法的に朝鮮の独島領有権は確立された とはみられないというものである。   この主張こそは、独島をかならずや永久強奪しようとする日本軍国主義者 たちのどす黒い腹のうちをさらけだした暴言である。かれらの論理のように、 万一、我々が対馬領有権(対馬島は本来 新羅領土であったが、高麗末期に倭 寇がなだれこんで居座った)を主張すれば、日本はその島を紛争地域に認定し、 領有権を放棄する意思を表明しなければならないが、はたして日本当局者はそ のような意思を持っているというのか? そうではない。かれらは絶対にそう しないはずである。かれらには別な下心があったのである。   日本の当局者たちは「ウソも方便」という日本のことわざを座右銘にして、 機会あるごとに「独島問題」をもちだし、百回でも千回でもウソを重ねてごり 押しをすれば、それで真実と信じさせることができると考えており、またその 時がくれば 1954年に試したように独島領有権問題を国際司法裁判所に提訴す ることもできると皮算用している。   万一、この計画がままならない時は、独島に「本籍」をおく幽霊移住民 (現在は6戸7名)を前面に立てて武力行使を図ろうとしている。日本自衛隊 がくりひろげた狂乱的な「独島上陸接受演習」がこれをはっきり立証している。   日本の極右たち、息を吹きかえした軍国主義の亡霊はどうしてこうまで執 拗に「独島問題」を持ちだすのか? かれらの目的は明白である。かれらの戦 略的計画は、最初の段階は独島地域の経済的利権と管理権を掌握するものであ り、その次の段階は独島を完全に奪い、独島を基点とする 200カイリの独占的 経済専管水域を設定し、この地域の経済利権を独占しようとするものである。   さらにそこを軍事基地に転換し、露日戦争当時のように北方侵略に効果的 に使用しようとしているのである。そこを現代戦の要求に合う多目的の最新軍 事基地に作り上げ、わが国に対する再侵略の野望を実現するのに利用する方向 は、かれらが追求する主たる政治軍事的目的である。   まさにこうした陰凶な戦略計画を秘めているので、日本の独島侵奪策動は 計画的であり故意的であり、かくも鉄面皮であり狡猾なのである。   われわれは、日本が過去の罪悪にたいし謝罪して新しく出発すべき今日に きてまで、ありもしない「独島問題」を持ちだしてまで詭弁を弄し再侵略の策 動を執拗にくりひろげるのを決して許すことはできない。   日本の極右たちは自主の大河に流れる現時代の潮流をまっすぐみつめ、時 代の発展に逆行する笑止千万な妄動をすぐに中止すべきであり、犯罪的領土拡 張の野望を捨て、朝鮮民族の独島領有権を認定すべきである。   今日の朝鮮民族は昨日の朝鮮民族ではない。われわれは日本が歴史的に朝 鮮人民におよぼした罪科を忘れないし、血の代価を百、千倍にして受けとらね ばならないという決意に満ちている。   歴史に生きながら歴史を忘れるのは、破滅の道である。独島を奪い、再侵 略の道を開こうとする時代錯誤的な妄想は7千万朝鮮民族の一致した抗拒に遭 遇し、かならずや破綻するのである。独島は永遠に朝鮮のものである。 (完)



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