半月城通信
No. 6

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 文禄・慶長の石碑(1)、北関大捷碑
  2. 文禄・慶長の石碑(2)、加藤清正
  3. 文禄・慶長の石碑(3)、安眠の場所
  4. 文禄・慶長の石碑(4)、義兵将
  5. 文禄・慶長の石碑(5)、靖国神社の宮司の話
  6. 文禄・慶長の石碑(6)、姜ハン
  7. 文禄・慶長の石碑(7)、ホテルオークラの資善堂
  8. 文禄・慶長の石碑(8)、柳宗悦
  9. 【古代史】桓武天皇の外戚
  10. 【古代史】桓武天皇と渡来人
  11. 【古代史】稲作の伝来ルート
  12. 【古代史】稲作の伝来ルート、西朝鮮ルート
  13. 【古代史】お酒と漢字伝来
  14. 【古代史】お酒と漢字伝来
  15. 【古代史】近江の渡来人



- FWORLDT  MES(12):【アンニョンクラブ】     韓国・北朝鮮 96/01/26 -
01747/01747 PFG00017  半月城       文禄・慶長の石碑(1)、
(12)   96/01/24 21:21                       北関大捷碑

   豊臣秀吉が引き起こした「文禄・慶長の役」の時の記念碑と思われるも
のが東京にあります。場所は東京のど真ん中の九段にある靖国神社です。境内
に泰緬鉄道を走ったSL、C56が展示されていますが、その陰に隠れるよう
にひっそりと置かれています。
      その記念碑は高さ2メートルくらいの石碑で題字に「北関大捷碑」と書
かれています。石碑の両面にはぎっしり漢文が刻まれており、ところどころ消
えかかっています。

      これが文禄・慶長に関係していると思われるのは、碑文の出だしに「有
明朝鮮国咸鏡道壬辰義兵大捷」と書かれているからです。壬辰義兵は朝鮮史の
「壬辰倭乱」、すなわち文禄・慶長の役の時の義兵を指すものと思われます。
   一方、咸鏡道は朝鮮の東北にあり、加藤清正がここまで進んでいるので、
この戦いは加藤清正と関係がありそうです。こう考えると、おそらくこれ
は義兵軍が加藤清正を打ち破ったのを記念して建てた400年前の石碑と思わ
れます。

   碑文は難解な漢文で残念ながら私にはほとんど解読できませんでしたが、
ちょっと目をひいた部分がありました。義兵軍の指導者とおぼしき人の名前を
書いたところで、「軍尾撃至白塔大戦又敗之是役也李鵬寿許大成李・・・」と
ありました。

   この戦いを本でちょっと当たってみましたが、この戦闘に相当する合戦
が見あたりませんでした。どなたかこの合戦についてご存じの方がおりました
らその資料などお教え下さい。又、この石碑はどうやら日露戦争の時に朝鮮か
ら持ち去ったらしいのですが、その詳しい経緯なども知りたいものです。
                                                  半月城


#2397/2397 日本史ボード ★タイトル (SPM07550) 96/ 1/30 23:19 (137) 近世】RE:2396 文禄・慶長の石碑、加藤清正 半月城 ★内容    広嗣さん、コメントありがとうございました。    この北関大捷碑について、ニフティの方でもコメントがありましたので、 ここに筆者の了解を得て転載します。 ーーーー 転載 ーーーーーー FWORLDT MES(12):【アンニョンクラブ】    韓国・北朝鮮 01755/01759 PXD04071 Chu RE:文禄・慶長の石碑 (12) 96/01/25 11:03 01747へのコメント 半月城さん、こんばんは。 >   豊臣秀吉が引き起こした「文禄・慶長の役」の時の記念碑と思われるも >のが東京にあります。場所は東京のど真ん中の九段にある靖国神社です。 >... > その記念碑は高さ2メートルくらいの石碑で題字に「北関大捷碑」と書 >かれています。石碑の両面にはぎっしり漢文が刻まれており、ところどころ消 >えかかっています。 >... >   この戦いを本でちょっと当たってみましたが、この戦闘に相当する合戦 >が見あたりませんでした。どなたかこの合戦についてご存じの方がおりました >らその資料などお教え下さい。又、この石碑はどうやら日露戦争の時に朝鮮か >ら持ち去ったらしいのですが、その詳しい経緯なども知りたいものです。  「北関大捷碑」は、壬辰倭乱/文禄の役の際、咸鏡北道の吉州で加藤清正軍を 撃退した義兵将、鄭文孚(チョン・ムンブ)の功績をたたえたものです。 北関(関北ともいう)とは、咸鏡北道の摩天嶺(吉州の南)以北の地域を指します。 (咸という漢字はJIS第2水準にありますよ。) 当時の加藤軍は朝鮮の二王子を捕らえていたため機動性に欠け、結局清正本陣は 吉州城の救援に行けずに、同城は孤立・篭城しました。翌年にようやく将兵の 救出はしたものの、加藤・鍋島藩の咸鏡道支配は破綻してしまいました。  本来この碑文は吉州の臨溟駅にあったのですが、日露戦争後の1907年、北韓進駐軍 司令官後備第二師団長の三好成行中将が、凱旋の土産として振天府(皇居内に 設けられた戦利品陳列所)に献上したものです。この背景には、同碑文を 「日本・朝鮮両国民の感情を害する」ものとして撤去するという目的もあった ようです。戦前には「同碑文は朝鮮側の敗北を隠蔽するためのもの」という論文も 発表されたのですが、敗北を隠蔽したのは一体どっちだと言いたくなりますね。 以上、ROMの方のために概要を書きましたが、半月城さんには参考文献として 北島万次「豊臣秀吉の朝鮮侵略」吉川弘文館(日本歴史叢書) (ISBN4-642-06651-9 C1321 P2884E)をご覧になることをお薦めします。 PXD04071 Chu


01782/01782 PFG00017 半月城 RE:文禄・慶長の石碑 (12) 96/01/26 22:58 01755へのコメント 安眠の場所    Chuさん、ていねいなコメントありがとうございました。さっそく、 北島さんの本を買って読んでみます。Chuさんのコメントはわかりやすく的 を得ているので、他のネット(たとえばPCVAN)にも紹介したいと思いま すが、そのままそっくり転載して差し支えないでしょうか? >「北関大捷碑」は、壬辰倭乱/文禄の役の際、咸鏡北道の吉州で加藤清正軍 >を撃退した義兵将、鄭文孚(チョン・ムンブ)の功績をたたえたものです。 >北関(関北ともいう)とは、咸鏡北道の摩天嶺(吉州の南)以北の地域を指 >します。 ところで、この「北関大捷碑」は靖国神社にとって重荷になっているよ うにみえます。置かれている場所が鳩小屋の隣の隅の方で、植木で隠れてしま うようなわかりにくい所にあります。もちろん説明文など何もありません。あ まり人目に触れさせたくない神社の意図がありありとみえます。    もっとも靖国神社という立地条件を考えれば、かえって人目につかない 方が「安全」かも知れません。国粋主義者の手にかかったら石碑の運命はどう なることか知れたものではありません。Chuさんの言葉を借りれば、『同碑 文を「日本・朝鮮両国民の感情を害する」ものとして撤去する』などといった 途方もない考えかたの人が今でもいるかも知れません。    それにしても、この碑は歴史の運命のいたずらとはいえ、あまりにも場 違いな所に置かれてしまって哀れです。    400年の星霜を経た歴史的記念碑であってみれば、この碑はそれにふ さわしい待遇を受けられる所に移すべきではないかと思います。たとえば韓国 の天安の独立記念館あたりなら申し分ない扱いを受けるでしょうに。   しかし、韓国へ移すのはおそらく絶望的ではないかと思います。もとも と北朝鮮にあった石碑なので韓国へ移したら北朝鮮が納得するはずがありませ ん。では、原状回復で北朝鮮へ移す案はどうでしょうか? 国交がない現状で はまず無理でしょうか。    それでは日本国内ではどうでしょうか。文禄・慶長のゆかりの地と言え ば、京都の豊国神社の耳塚や、佐賀県の名護屋城跡が考えられます。    しかし、豊国神社では秀吉が安眠できないでしょうか。一方、名護屋城 の方は朝鮮侵略の拠点なので、ここでは逆に北関大捷碑のほうが安眠できない かも知れません。この石碑の安眠の場所はどこでしょうか? PFG00017                半月城


01793/01816 PXD04071 Chu RE:文禄・慶長の石碑 (12) 96/01/28 09:22 01782へのコメント 義兵将  半月城さん、お役に立てて幸いです。この会議室での発言であることを 明記して頂ければ、本発言を含め、転載して頂いて構いません。  先日は、書店で容易に入手できる参考文献のみ記しましたが、もしこの碑文に ついて本格的に御関心をお持ちであれば、「韓」という雑誌を所蔵している 図書館を探してみて下さい。第7巻第3号/通算第74号(1978年3月)に 「七十五年ぶりに確認された咸鏡道壬辰義兵大捷碑」という論文があり、全文と その現代語訳が掲載されています。 ちなみに、半月城さんは最初の書き込みで >義兵軍の指導者とおぼしき人の名前を書いたところで、 >「軍尾撃至白塔大戦又敗之是役也李鵬寿許大成李・・・」とありました。 と尋ねたのに、僕が最初のレスで > 「北関大捷碑」は、壬辰倭乱/文禄の役の際、咸鏡北道の吉州で加藤清正軍を >撃退した義兵将、鄭文孚(チョン・ムンブ)の功績をたたえたものです。 と答えたので、「李鵬寿はどうなったの?」とお思いのROMの方がいらっしゃる かと思います。ログを読み返していて今気付いたので、簡単に補足説明しますと、 義兵の準備を進める李鵬寿たちが、人望の厚い鄭文孚を義兵将に推戴したのです。 半月城さんの引用された部分は、碑文の後半部の 是役也 李鵬寿 許大成 李希唐 戦死 然賊遂退 (この戦いで李鵬寿・許大成・李希唐が戦死したが、賊(加藤軍)は退散した。) という個所だと思います。鄭文孚の名前は碑文の前半部に出てきます。 > ニころで、この「北関大捷碑」は靖国神社にとって重荷になっているよ >うにみえます。置かれている場所が鳩小屋の隣の隅の方で、植木で隠れてしま >うようなわかりにくい所にあります。もちろん説明文など何もありません。  そうですね。僕はまだ行ったことがないのですが、北島さんの本にも「SL 蒸気機関車の脇の鳩小屋のそのまた脇にあって、その気になって探さないと 判らない」と書かれています。 > それにしても、この碑は歴史の運命のいたずらとはいえ、あまりにも場違いな >所に置かれてしまって哀れです。...この石碑の安眠の場所はどこでしょうか?  やはり元あった場所に戻すのが一番良いと思います。あるいは南北統一後の政府に 返還して、どこ(吉州/独立紀念館/戦争紀念館)に置くかは任せるのがいいかも しれません。いずれにせよ、安住の地が定まるまでは、中途半端な引越しはせずに もう少しこのままお待ち頂く方が、半月城さんのいう通り「安全」かもしれませんね。        ーーーー 転載終 ーーーーーーー 半月城


- FWORLDT MES(12):【アンニョンクラブ】    韓国・北朝鮮 96/01/31 - 01858/01858 PFG00017 半月城 RE:文禄・慶長の石碑 (12) 96/01/31 22:58 01793へのコメント 靖国神社の宮司の話    Chuさんは歴史に相当造詣が深いですね。「韓」という雑誌は初めて 知りました。国会図書館あたりで探してみます。ところでChuさんのコメン トはPCVANに転載させていただきました。場所はJREK、日本史の#2 397です。この転載は#2396の広嗣さんのコメントに対するお礼として 書かれたものです。 広嗣さんは、北関大捷碑の戦闘を次のようにみています。 ーーーーーーーーーーーーーーー  結論から言えば、半月城さんは >  この戦いを本でちょっと当たってみましたが、この戦闘に相当する合戦 >が見あたりませんでした。 と書いていますが、当然です。李鵬寿らは加藤清正の軍勢に食糧が渡るのを妨 害していました。元々咸鏡道、特に北部は地味が痩せ、人口が少なく、食糧に 事欠くことも珍しくない地域でした。既に夏の盛りを過ぎ、食糧の入手も事実 上不可能な状態で、やむなく加藤清正は撤退を開始します。元山に近い安辺ま で後退します。  靖国神社にある碑は、越権行為で咸鏡道に進軍した加藤清正に対する上記の 「戦闘」を記した物です。 ーーーーーーーーーーーーーー これに対し、私はコメントできるほどの知識がなかったので、Chuさ んの記事を転載したにとどめました。 先日、この碑について私は飛び込みで靖国神社の宮司に会って話を伺っ てきました。といっても、宮司は口が重く、北関大捷碑については多くを語ろ うとしませんでした。碑文の内容はもちろん、誰がこの碑を日本へ持ち去った のかすら教えてもらえませんでした。    それにもめげず何とか話をつなぎ、次のとおり伺うことができました。 1。この碑は日露戦争の時「戦利品」として日本へ運ばれた。 2。戦前、この碑は神社内にあった陸軍の博物館、遊就館(86年再開)に寄  贈された。そうした経緯から、碑は館近くの現在地に置かれている。 3。いずれしかるべき所へ返したいが、朝鮮が統一されていない現状ではそれ  もむずかしい。ただし、今まで返還要求はどこからもなかった。 4。韓国からはマスコミが何回か取材に来た。 5。保存状態について、現状はプラスチック波板の屋根があるだけでちょっと  お粗末ではないかとの批判もあるが、石碑はもともと雨ざらしにされるもの  なので必ずしもこうした批判はあたらない。 5。拓本は複写に当たるので神社としては許可しない。拓本は神社でとったも  のを保存している。 この話のなかで、遊就館が登場したり、返還請求が一度もなかったなど、 当事者ならではの貴重な話を聞くことができ、それなりに有益でした。      PFG00017                半月城


- FWORLDT MES(12):【アンニョンクラブ】    韓国・北朝鮮 96/02/05 - 01943/01943 PFG00017 半月城 RE:文禄・慶長の石碑 (12) 96/02/05 21:39 01918へのコメント 姜ハン    服部さん、図書館の紹介ありがとうございました。いろいろ考えた末、 雑誌「韓」のコピーは東大図書館から知り合いを通じて入手しました。なお、 東大の図書はオンライン検索システム(OPAC)で探せるそうです。 猩猩猴(ゴリラ)さん、雑誌「アリラン」の紹介ありがとうございました。 いずれ「北関大捷碑」の記事を見つけたいと思います。雑誌アリランは1冊だ け我が家にあったのでパラパラと見ていたら、何と「文禄・慶長関係の石碑」 が写真入りで載っていました(94年、11月号)。 ただし、この石碑は400年前のものではなく、6年前に建てたもので す。石碑の名称は「姜*顕彰碑」で、場所は愛媛県大洲市の大洲(おおず)城 入口です(*はサンズイに亢と書きます。JIS第2水準にはないようです)。    このカン・ハンは、ご存じの方も多いと思いますが、江戸時代の朱子学 の祖、藤原星窩の師匠と言われる儒学者です。当時、日本の儒教の伝統は       カン・ハン ー 藤原星窩 ー 林羅山 により築かれたとされています。 カン・ハンは李朝の役人時代に壬辰倭乱に遭い、抗日戦争中に藤堂高虎 の捕虜になり大洲、後に京都伏見に連れてこられ、そこで京都五山の相国寺の 高僧、藤原星窩と出会ったのでした。    カン・ハンはわずか3年で帰国しますが、その間の日本の国情をまとめ た「看羊録」は韓国のトップシンガー、チョウ・ヨンピルの歌にもなっている くらい有名です。その看羊録の歌詞の内容をどなたかご存じでしょうか? また、カン・ハンについての資料は何か出版されているでしょうか?    マルチレスになりますが、ChuさんがUPした >ホテルオークラの別館にあった、景福宮の一建物の土台は韓国に返還される >ことになった事で、めでたいことです。 という書き込みは初耳です。もう少しくわしく教えていただけませんか? PFG00017(NIFTY)             半月城


- FWORLDT MES(12):【アンニョンクラブ】    韓国・北朝鮮 96/02/09 - 01978/01979 PFG00017 半月城 RE:文禄・慶長の石碑 (12) 96/02/09 00:32 01948へのコメント ホテルオークラの資善堂 松浦さん、景福宮・資善堂の基壇の紹介ありがとうございました。 > 「返しましょう。ただし大騒ぎせずに」ホテルオークラの青木寅雄名 >誉会長の一言で帰国が決まった。 この話でちょっと腑に落ちないのは、「好意で返す」のであればもっと にぎやかに感謝されてもよさそうなのに、ひっそり返すのはなぜでしょうか? 何かうしろめたいことがあるのでしょうか? この資善堂が日本へ持ち込まれた経緯をぜひ知りたいものです。 財閥ならば、お金で買ったのでしょうが、誰が資善堂を売ったのでしょうか? 韓国皇帝? 伊藤博文? 寺内総督? ・・・? >記事では、山口県立山口女子大の「寺内文庫」(初代朝鮮総督をつとめた >寺内正毅が集めた朝鮮半島の文化財多数を含む)から書画類134点を慶 >南大学に「寄贈」することになったことも、併せて書かれています。 当時の総督といえば、立法・行政・司法の3権をにぎり、韓国の天皇と 称され、「総督にできないことといえば、男を女にすることくらいだ」といわ れたほどの絶対権力者。その権力者の「収集品」が山口県にあったんですね。    山口女子大は一度行ってみる価値がありそうです。もっとも、134点 もの文化財を韓国に返したあとでは「もぬけの殻」かも知れません。 > 日本は景福宮の一角を壊して朝鮮総督府を建てた。    このとき、危うく光化門が取り壊されかかりました。これを惜しみ、柳 宗悦が「失われんとする一朝鮮建築のために」と題する有名な文を1922年、 雑誌「改造」に発表しました。その一節を書きます。 >  まだ世は矛盾時代だ。門の前にたたずんで仰ぎ見る時、誰もその威力あ >る美を呑みうるものはないのだ。しかし今お前を死から救おうとするとする >者は反逆の罪に問われるのだ。お前を熟知している者は発言の自由を得ない >のだ。しかしお前を産んだ民族の間においては、不幸を伴はぬ発言はないと >言ってもよいのだ。この事で今そこにいる凡ての者が暗い月日を送っている。 ・・・ >  おお、光化門よ、光化門よ、雄大なるかな汝の姿。今からおよそ50有 >余年の昔、汝が王国の力強い摂政大院君が、かの躊躇を許さぬ意思によって、 >王宮を守れよとて、南面する素敵な場所に汝の礎を動くなと固めたのである。 ・・・ (一部、かな遣いを現代風に変えました。)    この筆の力によって光化門は「死」を免れました。この文などを収めた 柳宗悦の単行本「朝鮮とその芸術」という本が我が家に何冊かあります。棚に 眠っているのでは宝の持ち腐れなので、希望者二人にタダであげます。先着順 とします。メールでお知らせ下さい。    なお選にもれた人には、私の書いたパンフレット「パソコン通信集」を 差し上げたいと思います。     PFG00017(NIFTY)             半月城


02087/02087 PFG00017 半月城 RE:文禄・慶長の石碑 (12) 96/02/12 22:17 01995へのコメント 柳宗悦 Chuさん、本の紹介ありがとうございます。 > 日本に持ち去られた韓国文化財全般に関心をお持ちであれば、 >李亀烈著・南永昌訳「失われた朝鮮文化~日本侵略下の韓国文化財秘話」 >新泉社 IBN4-7877-9322-5 C1036 定価2369円(税込) >はお読みでしょうか。 この本は知りませんでした。買って読んでみたいと思います。 >>柳宗悦の単行本「朝鮮とその芸術」という本が我が家に何冊かあります。棚に >>眠っているのでは宝の持ち腐れなので、希望者二人にタダであげます。先着順 >>とします。メールでお知らせ下さい。なお選にもれた人には、私の書いた >>パンフレット「パソコン通信集」を差し上げたいと思います。 >前者の本は持っているけど後者のパンフレットに興味のある、という人は?   パンフレット「パソコン通信集」(約100ページ)も希望者にはタダ で差し上げます。こちらは人数に制限はありません。希望者はメールを下さい。 なお、柳宗悦の本の希望者は今のところ一人だけです。希望者はまだ間に合いま す。      PFG00017(NIFTY) 半月城


- FWORLDT MES(12):【アンニョンクラブ】    韓国・北朝鮮 96/02/12 - 02058/02078 PFG00017 半月城 女のはなし、桓武天皇の外戚 (12) 96/02/11 19:24 02040へのコメント コメント数:1     リーチさん、こんにちは。    確かに、桓武天皇の祖父(母方)の、和 乙継は『新選姓氏録』によれ ば百済の武寧王の子孫とされています。桓武天皇はそうした血統を意識してか、 妻にはたくさんの百済系の女性を迎えています。それらの女性を挙げると 本人 父親 系譜 子  全子   坂上苅田麻呂  百済系漢氏   高津内親王  春子   坂上田村麻呂   同上     葛井親王、春日内親王 教仁   百済王武鏡 太田親王  貞香   百済王教徳 駿河内親王  河上真奴 錦部春人 百済系 坂本親王 その他 百済王明信 ?   桓武天皇の子の平城天皇も、百済系の葛井氏の女性を妻にして阿保親王 をもうけています。    また、その弟の嵯峨天皇も百済王氏の何人かの女性を妻にして、忠良親 王、基良親王、基子内親王、源定、源若姫などをもうけています。 さらに、次の仁明天皇も百済王氏の女性との間に高子内親王をもうけて います。    この当時の女性は、百済系にあらざれば女にあらず、といったら言い過 ぎかもしれませんが、ま、女は百済系に限る、といったところでしょうか。 それにしても不思議なのは、百済が滅んで一世紀近くになるのに、百済 系の女性を妻にするメリットは何だったんでしょうか? えっ? 女はメリッ トで選ぶんじゃないって? ごもっとも。      PFG00017(NIFTY)             半月城


02127/02127 PFG00017 半月城 RE:メリットは母方にあり (12) 96/02/13 22:56 02079へのコメント 桓武天皇と渡来人 >半月城さんもおっしゃるとうり、桓武天皇と百済系渡来人とは密接な関係に >あったようで、百済王氏の男女を重用し、「朕の外戚」と呼んでいます。 ちょっと気になったので、桓武天皇が渡来人を重用したメリットを考えて みました。そこで手っ取り早く、そこから得られたものを拾ってみました。   桓武天皇の業績を思い起こすと、  1。長岡京への遷都  2。平安京への遷都(昨年、1200周年)  3。蝦夷制圧  4。渤海との交流 などが挙げられます。   この中で、都の造営には渡来人の行政能力や土木技術が遺憾なく発揮され ています。平安京のモデルは長安とされていますが、それに加えて風水地理説 に基づく都の設計は、新羅の慶州などが直接の参考になっています。   そもそも長岡京にせよ、平安京にせよ、そこは広隆寺を建てた秦氏の地盤 であり、この新羅系の秦氏一族の力が都の造営に大いに貢献しているのは言う までもありません。 他方、蝦夷の制圧は坂上田村麻呂により成し遂げたわけですが、この人は 百済の阿知使主(あちのおみ)の後裔です。軍事的手腕のすぐれ者だったので しょう。   つぎに渤海との交流ですが、それまでの遣唐使や遣新羅使に代わり、高句 麗の後裔や契丹族がたてた渤海との交流には高句麗系の渡来人が大いに活躍し たと思われます。 百済や新羅・高句麗、元来これらの国は犬猿の仲なのに、そうした渡来人 をうまく使いこなし強固な政権を築き上げた桓武天皇はさすがに大人物です。   でも、松浦さんによれば悪どいこともかなりしたようですが。それにして も、この人は精力絶倫ですね。妻が29人とは。名前を覚えるだけでもたいへ ん。夜はもっとたいへんかも? 天皇は並みの人では勤まらないですね。 PFG00017(NIFTY)            半月城


02245/02245 PFG00017 半月城 稲作の伝来ルート (12) 96/02/18 00:13    少し前に、松浦さんでしたか稲作の伝来ルートについて書かれていまし たが、遅ればせながらコメントをしたいと思います。    松浦さんは、たしか中国の江南地方から直接伝わった説と、朝鮮半島か ら伝わった説の両方を紹介されていたと思います。    この学術論争には私も関心があり、各地の博物館を訪れた時は注意して 伝来ルートの展示をみるようにしています。その結果わかったことですが、こ の問題を深く研究している博物館はほとんど朝鮮半島説を採用しています。そ のあたりの足で集めた情報を紹介します。 1。庄内米歴史資料館(山形県、酒田市)   ここが紹介しているルートは多彩で、上の両説以外にも南方の島伝いの 説(柳田国男)や、江南から朝鮮南西部と日本へ同時渡来説まであります。昔 の教科書をそっくり書き写した感じです。 2。国立歴史博物館(千葉県、佐倉市)    館内で配布しているパンフレット「稲作の系譜」にこう書かれています。 A)朝鮮半島では遅くとも紀元前6世紀には稲作が存在していたことは確実で   ある。 B)出土した米は日本と同様に、すべて日本型(短粒種)に属し、また木製品   をつくる石斧のセットも共通している。 C)中国で、日本型の米は長江以北の華中に分布しているので、長江下流から   江蘇省の稲作民の一部がまず西朝鮮に移動するという歴史があり、その後、   朝鮮半島南部で土着化した文化がまた稲作民の移動とともにそっくり九州   に伝えられたと考えられる。    展示でも朝鮮伝来を強調するために、日本と朝鮮のとてもよく似た石包  丁(刈り取り用)や銅剣などを並べていました。 3。福岡市立博物館    古い水田遺跡「板付」遺跡が近くにあるので、米の伝来については展示 で力をいれています。ここでも米は朝鮮から伝わったと断言し、やはり両国の よく似た石包丁や銅剣などを並べていました。 4。佐賀県立名護屋城博物館    最古といわれる水田「菜畑遺跡」が近くにあるだけにさすがに詳しく、 米だけでなく麦や粟の日本と朝鮮における分布図まで掲げていました。肝心の 米の伝播経路については次のように書かれていました。    <日本への稲の伝播経路については、農耕の類型からも長江下流域から 華北(山東半島)、朝鮮を経由して伝えられたと考えるのが最も妥当なところ です。このことは大陸系磨製石器と呼ばれる石器類や朝鮮の無紋土器などの出 土品からもうかがえます> これらの博物館をみた限りでは、米は朝鮮半島を経由して伝来したとい うのが最近の学説の主流のようです。      PFG00017(NIFTY)             半月城


02345/02345 PFG00017 半月城 RE:稲作の伝来ルート (12) 96/02/20 22:55 02281へのコメント 西朝鮮ルート   そうですか、松浦さんは歴博の近くに引っ越したのですか。佐倉は宗五 郎に代表されるような古い歴史を持った落ち着いた街ですね。 私は地方へ出張に行く機会が多く、そんな時はその街の歴史になるべく 接するようにしています。明日からは九州へ行きますが、あまり時間はなさそ うです。また今晩もあまりのんびりしていられないので、大急ぎでこの記事を まとめます。    さて、樋口説の最大の弱点は樋口氏も認めているように、江南から日本 へ本当に人が渡れるかどうかという点です。松浦さんもご存じとは思いますが、 東シナ海は海の難所で、唐の鑑真が日本へ来るのに5回も失敗して失明したほ どの荒海です。その海を、紀元前3世紀の早期弥生人がろくな構造船もなしに 渡るなんて、冒険家以外はちょっと考えにくいですね。    常識的には歴博がいうように、紀元前6世紀頃(あるいはもっと前)に 江南の稲作民が西朝鮮に移動し土着化してそこから紀元前3世紀ころ日本へ渡 ったと考えるほうがまだ可能性はあると思います。    私は紀元前における日本と朝鮮の交流について最近興味を持ちだしたと ころです。これについては次の機会にまた書きます。      PFG00017(NIFTY)             半月城


- FASIA MES(10):【アンニョンクラブ】    韓国・北朝鮮 96/03/10 - 00161/00161 PFG00017 半月城 お酒と漢字伝来 (10) 96/03/10 00:11 近頃、歴史リンクもさびしくなってしまいました。そこで、だいぶ前の 話題を引っぱり出します。前に、王仁が漢字を日本へ伝えたかどうかについて 中途半端なままになっていたかと思います。    これについて、神戸の「むくげの会」が出している隔月刊の「むくげ通 信」154号(1996.1.28) に断片的な記述がありましたので引用します。    このむくげ通信には、出版物の「朝鮮に関する論文」の本格的なタイト ル一覧などもあり参考になります。       ーーーーー 引用 ーーーーーー タイトル 朝鮮の暮らしと文化(33)、酒 著者 佐々木道雄 ・・・(前略) これら(古事記の)神話の中の酒のうち、須須許理(ススコリ)の酒に ついての「古事記」の記録を要約しよう。    百済の肖古王から馬や太刀、大鏡が使いに託して献上された。さらに天 皇は「優秀な人物があれば献上してくれ」と頼んだところ、論語と千字文を携 えた王仁(わに)や、朝鮮の鍛冶屋と機織り技術者を献上してきた。また、秦 造(はたつくり)や漢造(あやつくり)の祖先、そして、酒を造ることを知っ ている仁番(にほ、またの名をススコリ)らが渡ってきた。ススコリが酒を造 って献上すると、天皇はこの酒を飲んですっかり気分が良くなって歌を詠んだ。     ・・・    しかし、「古事記」のススコリ説話そのものを疑う考えもある。 「王仁が論語と千字文を伝えた話(中略)などいくたの渡来説話が出てくる。 しかし、これらの説話は「神功皇后の三韓征伐」の結果として扱われていて史 実ではない。たとえば、千字文は梁の武帝 (502-549)のときにつくられたもの であって、「応神天皇」の時代にまでさかのぼらない」(李進煕「日本文化と 朝鮮」1980)。 ・・・ ーーーーーー 引用終 ーーーーーーーー いうまでもなく、神功皇后の存在は史実として認められていません。し かし、王仁のほうは実在したようです。金達寿氏の著書「日本古代史と朝鮮」 (講談社学術文庫)によれば、王仁は大阪の河内地方で西琳寺という法隆寺や 四天王寺より古くしかも当時かなりの規模の寺を氏寺にするくらい勢力があっ た氏族です。さらに、王仁という名前からして王族を連想させますが、この名 前について、金氏はこう述べています。    <王仁とは王任、すなわち朝鮮語ワンニム(王任=王様)であるという ことだけははっきりしています。王仁系氏族がその本拠地としていた古市(ふ るいち)古墳群のある古市とともに、このことについてはなおよく考えてみな くてはならないだろうと思います> 古市は「近つ飛鳥」のすぐとなりにあり、古代においては重要な地点で した。金氏はこうしたことから、王仁は学問を伝えただけの単なる学者ではな く、百済の王家につながるかなり有力な氏族であったと推定しています。 半月城


00246/00246 PFG00017 半月城 RE:お酒と漢字伝来 (10) 96/03/16 00:09 00217へのコメント 百濟大王さん、どうも。    交野(かたの)の王仁の墓は1731年に京都の儒学者、並河五一郎が 発見したそうですね。しかし、どうもこれはあやしいと作家の金達寿さんは 「日本の中の朝鮮文化」(講談社文庫)のなかで疑っています。王仁やその子 孫の西文氏(かわちのふみし)が活躍したのは古市、今の羽曳野市あたりのは ずだとしています。    でも既成事実は強いもので、ここでは毎年秋に日本、韓国、中国の親善 のために、王仁の合同慰霊祭をやっているそうですね。一度見たいものです。    ところで、王仁関係の書き込みを検索したらアンニョンクラブに下記の ようにありましたので紹介します。私以外の書き込みは全て FWORLDT です。 百濟大王さんのコメントを期待します。 01874/01884 PXD04071 Chu RE:RE^8:ナラの秘密 01876/01884 PXD04071 Chu ソウルの漢字表記 01912/01918 VFG04124 松浦 眞二    RE:ソウルの漢字表記 01992/02004 PXD04071 Chu 日本への漢字伝来 00161/00161 PFG00017 半月城 お酒と漢字伝来 半月城


00443/00443 PFG00017 半月城 近江の渡来人 (10) 96/03/30 15:46 00326へのコメント    百濟大王さん、鬼室集斯の墓の紹介ありがとうございます。  >滋賀県の蒲生野には百濟國の重臣で亡命官人・鬼室集斯の墓と伝えられる  >ものもあるんですが、これなども江戸時代になってから治定されています。 墓を確定したいきさつは司馬遼太郎の「街道をゆく2、近江の鬼室集斯」 にも書かれていますね。    また、王仁の墓に疑問を持っていた金達寿氏も、この鬼室集斯(きしつ しゅうし)の墓は信じているようです。墓石の形式が日本古来のものとは違う し、石材も朝鮮産とされているので間違いはないのでしょう。    意外なことに、鬼室集斯の子孫を名乗る人が現にいると、金氏の著書 「日本の中の朝鮮文化3」(講談社文庫)に書かれています。その証拠の家系 図を持っている子孫の辻さんは、鬼室集斯が文部大臣に相当する「学職頭(ふ みのつかさのかみ)」に任命されたほどの偉い人だったのがたいへんな自慢の ようです。 さらに驚いたことに鬼室集斯の命日を一ヶ月繰り上げ、毎年10月8日 に行われる祭礼には全国から観光バスを連ねて参拝に来るそうです。私も見物 に行ってみたいもんです。    私はこの近江の渡来人には少なからぬ関心を持っています。百済の亡命 者が千人以上も移り住んで、その勢力やそれ以前の渡来人の文化・技術を見込 んで天智天皇が都を強引に移した「リトル百済」にはかなり興味をそそられま す。    この「近江の渡来人」をテーマに、いま安土城博物館が特別展をやって います。シンポジュームも2回ほどあったようですが、残念ながら終ってしま いました。特別展も4月7日までとのことです。 半月城


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