「慰安婦」の「高」収入と『日本軍慰安所 管理人の日記』
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市民のメーリングリスト[CML 036273](修正), 2015/02/14
半月城です。
以前から気になっていたのですが、「慰安婦」は高収入で「日本兵士の月給の75倍」、「軍司令官や総理大臣より高い」収入を得ていたなどと語る秦郁彦氏の説が日本ではひろく流布されているようです(注1)。常識的にそんなはずはあり得ないと思っていたのですが、意外とこれに対する反論がなかなか見つかりませんでした。この長年の疑問にやっと答えられた方が現れました。京都大学の堀和生氏です。
堀氏は、韓国で2012年に発見されて2013年に翻訳、発刊された『日本軍慰安所 管理人の日記』を神戸大学の木村幹氏と共に和訳されましたが、それに関連して「東アジアの歴史認識の壁」と題する論説を京大東アジアセンター ニュースレターに書かれました(注2)。その中で堀氏は「慰安婦」が得た収入などを経済学的に考察していました。その論説を元にして「慰安婦」の「高」収入を私なりに考えたいと思います。
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日本軍兵士が軍の慰安所で「慰安婦」へ支払う料金は現地日本軍の規則によって定められました。たとえば、ビルマ(ミャンマー)マンダレー駐屯慰安所規定(1943年5月26日 駐屯地司令部)の遊興料金表は、兵士は30分につき 1円50銭でした。
これにそって「慰安婦」が一日に10時間で20人の相手をさせられると料金の合計は30円、1か月25日で 750円、「慰安婦」の取り分を半分とすると「慰安婦」は1か月に 375円を得ることになります。
ところが、問題は彼女たちが受けとった「お金」の種類です。これは内地で発行された紙幣や貨幣ではなく現地の軍票でした。軍票の単位はビルマではルピーですが、1ルピーの為替レートは1円と決められていました。そのため、現地の日本人社会で1ルピーは1円と呼ばれました。シンガポールやマレーシアでは海峡ドルですが、これも1ドルが1円とされました。他の占領地でもほぼ同様です。
この為替の固定相場制に「慰安婦」の「高」収入のからくりがありました。日本軍は現地で軍需物資などを軍票で買いつけましたが、軍票を印刷するだけで物資がどんどん調達できるので軍票の発行はどんどん増大しました。
この結果、必然的に現地の物価がどんどん値上がりを続け、インフレが起きました。ラングーン(ヤンゴン)では1944年末に物価が3年間で何と 87倍という超インフレになりました。単純計算では半年ごとに物価がほぼ2倍になります。それでも日本は 1ルピーが 1円という建前を変えませんでした。
したがって、ルピーを円に換えて日本や朝鮮に送金すれば大もうけできますが、もちろんこれは困難でした。送金を自由に認めると日本にまでインフレが波及して日本経済の混乱が必至なので、大蔵省はそれを防ぐために送金制限などで日本へ流入する資金の流入を極力おさえました。
1945年5月における中国の華中・華南の例でいえば、送金者は送金額の69倍を現地通貨による現地預金にさせられ、内地預金として受け取れるのは外貨表示預金のわずか1/69にすぎませんでした。
南方地域についても同様な措置がとられました。性奴隷としてビルマへ連行された文玉珠さんは、兵士たちからもらった軍票をほとんど軍事郵便貯金にしました。インフレが進むにつれ、朝鮮へ送金しようとすると軍票をかなりの割合で貯金せざるを得なかったのでした。
なお、軍事郵便貯金は軍人や軍属のみが利用できる貯金なので、文玉珠さんは軍属扱いだったわけです。文(文原)玉珠さんの貯金は現在でも軍事郵便貯金を管理している熊本貯金事務センター(現在はゆうちょう銀行に移管)の原簿で確認でき、預金の合計は 25,846円になります(注4)。
大蔵省は台湾の人たちに対してはこうした通帳に書かれた額面の 120倍で 1995-2000年に払い戻しました。この方式で計算すると、文玉珠さんの貯金は約 310万円相当になります。とうてい高収入であったなどといえる額ではありません。
秦郁彦氏が、「慰安婦」が高収入であるとした根拠ですが、これはビルマのミチナ(ミートキーナ)戦場で1944年8月にアメリカ軍が「慰安婦」と雇い主の北村夫婦(日本人)を尋問した報告書(日本人捕虜尋問報告書49号)が元になっています。報告書で慰安所の料金は兵士が1円50銭、下士官が3円、「慰安婦」の月間収入は平均 1,500円とされました(注5)。
この収入は先の計算の2倍になりますが、といって「慰安婦」は2倍の兵を相手にさせられたのではないようです。これは1944年夏の話であり、激しいインフレのために料金制度に異変が生じたためです。
インフレについては後にくわしく見ることにしますが、従来の規定料金では「慰安婦」たちの生活が成り立たないため、ある地域では「慰安婦」は現物なども受けとるようになりました(注6)。インフレ対策が反映され、月間収入が 1,500円へと額面が増加したようです。「慰安婦」たちは、この内 50-60%を借金返済のために慰安所の管理人へ渡しました。
一方、ミチナからそれほど遠くない中国雲南の拉孟では日本軍の敗色が濃厚になるや、軍票すらももらえなかったようです。アメリカ『ラウンドアップ』紙のランドル記者が捕虜になった「慰安婦」にインタビューしてまとめた記事によると、そこでは「全部で24人の女の子がいて、「慰安」以外にも兵士の衣服の洗濯や料理、洞窟の清掃などの義務があったという。しかし、給料は全く支給されず、故郷からの便りも届かなかった」とされました(注7)。
ここに紹介された24人の「慰安婦」は、日本軍が玉砕した拉孟の前線に取り残されてしまい、そのうち14人は中国軍の砲撃で死にました。中には乳房を露わにしたままの姿で世を去った女性もいました(注7)。なんとも痛ましい最悪の境遇の「従軍」慰安婦ではないでしょうか。
ところで、秦郁彦氏がこだわる月収 1,500円ですが、これはインフレを考慮するとどれくらいの価値があったでしょうか。尋問がなされた1944年8月、ラングーンの物価は3年前の 50.6倍、東京は 1.23倍なので、東京の1円はラングーンの41円に相当します(注8)。したがって、ラングーンの1,500円は東京の37円に相当し、その現在価値は 1,020倍して約3万8千円になります(注9)。
これでは「慰安婦」は高収入どころか、生活すら苦しかったようです。秦郁彦氏はこうした現地のインフレを考慮せず、インフレ下にある現地の 1,500円を単純に内地の総理大臣の給料と比べたのでしょうが、これは実状を無視した暴論です。
実際に「慰安婦」の生活が苦しかったことは、秦郁彦氏が引用した先の米軍報告書にも「慰安婦」は 1,500円の収入を得ていたが、半額以上を前借りの支払いにあて、残りも食糧や物品の支払いにあてて「生活困難に陥った」と記述されました。秦郁彦氏はこうした記述を無視し、あたかも「慰安婦」は総理大臣なみの裕福な生活を送っていたかのような書きぶりですが、これは意図的な歪曲ではないかと勘ぐりたくなります。
次に、「慰安婦」の軍事郵便貯金ですが、これは戦時中には本人に代わって日本や朝鮮の留守家族が引きだすことはもちろんできませんでした。戦後はGHQによって払出しが禁止されました。サンフランシスコ講和条約後は日本人の預金だけは払い戻されましたが、外国人預金の払い戻しは停止されたままでした。
その後、日本が条約などで賠償・補償をしなかった台湾の人たちに対しては前述のように日本政府は預金の払い戻しを認めました。しかし、韓国人の場合は引き出しの機会が与えられないまま、日韓条約でその権利すらも失われたとされました。
「慰安婦」として忍苦を重ねて得られたわずかばかりの自分の預金が下ろせないなんて、彼女たちの怒りや悔しさは言葉ではとうてい尽くせないことでしょう。また、預金せずにビルマなどから無効になった軍票を持ち帰った「慰安婦」たちの怒りも天を突き破ることでしょう。そうした彼女たちの日本に対する怒りが韓国ではほとんど解決されないままになっていることはいうまでもありません。
さて、「慰安婦」は高収入を得ていたなどと現地の戦時インフレを無視した秦郁彦氏の説に関し、堀和生氏は「過度な単純化ではなく事実認識としてまったく間違っている」と批判しました。
そもそも「慰安婦」の利用料金は現地の軍が決めるのに、「慰安婦」の収入が総理大臣より高くなるような料金を軍が設定するなんて、およそ常識では考えられません。秦郁彦氏がそうした常識はずれの事実誤認を垂れ流すことは厳しく批判されなければなりません。
一方、表題の『日本軍慰安所 管理人の日記』ですが、堀和生氏はその日記を読み解いて日本軍慰安所の性格を下記のように記しました。
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この日記に登場する慰安所のほとんどは、業者が経営していた。そして、ビルマの場合は、その多くは朝鮮人であった。それら多くの慰安所はすべて日本軍によって動員・組織されたものであった。軍は兵站の一部として膨大な数の慰安所の設立を計画し、業者を通じて各地で多数の慰安婦を集め、軍の専用運搬船で南方に輸送し、各地の日本部隊に配属して慰安所を運営させた。慰安所は軍によって管理され、作戦の遂行や部隊の移動によって慰安所も移動した。慰安所は外形上では公娼制の擬制を取っていたが、日本軍が日本軍の戦争遂行のために組織動員したものであった。慰安所は業者が経営したが、慰安婦・慰安所を動員した主体は日本軍であり、軍兵站が全体を管理していた。慰安婦と慰安所従業員が、軍属の待遇を受けていたことは、慰安所が軍の兵站組織の一部であったからに他ならない。
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この『日本軍慰安所 管理人の日記』の日本語訳「ビルマ・シンガポールの慰安所」は韓国の落星台経済研究所のホームページから下記のURLで直接ダウンロードできます(URLの途中に改行記号があったら取り除いて一行にしてください)。「保存」オプションで「名前を付けて保存」にすると、保存先が明確になります。名前の後ろの「.pdf」は重要です。
http://www.naksung.re.kr/xe/?module=file&act=procFileDownload&file_srl=182546&sid=dbbdf1fa091516f55cc8c5e8d3deb0f9
(注1)秦郁彦、2013年06月13日TBSラジオ番組「『慰安婦問題』の論点」。
(注2)京都大学経済学研究科教授。堀氏は、竹島=独島問題で明治時代の太政官が1877年に松島(竹島=独島)は日本と無関係であると心得よと指令した画期的な資料の発掘者として知られます。
(注3)京大東アジアセンター ニュースレター、555号、2015.2.2
堀氏の論説はインターネットにまだ公開されていないので、堀氏の許可を得て、誤植を訂正して全文を下記サイト「竹島=独島論争(資料集)」にアップします。
http://www.kr-jp.net/ronbun/msc_ron/hori-1502.html
(注4)文玉珠さんの軍事郵便貯金原簿の調書の影印は下記サイト。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BE%B7%B3%B0%D6%B0%C2%C9%D8#p8
(注5)秦郁彦『昭和史の謎を追う(下)』文藝春秋、1993、pp.331-332。
(注6)中国で慰安所を解説した独立山砲兵第二連隊 第一大隊長 平原一男は『山砲の〓江作戦』にこう記した(〓は草かんむりに止)。
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慰安所の開設に当たって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の俸給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。そこで大隊本部の経理室で慰安婦たちが稼いだ軍票に相当する生活物資を彼女たちに与えるという制度にした。
経理室が彼女たちに与える生活物資の主力は、現地で徴発した食糧・布類であったと記憶している。
(引用は、吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書、p.114)
(注7)浅野豊美「雲南・ビルマ最前線における「慰安婦」たち-死者は語る」p.65。
http://www.awf.or.jp/pdf/0062_p061_088.pdf
(注8)日本銀行統計局『戦時中金融統計要覧』1947年(143, 161頁)によると、物価指数は1941年12月を100として1944年6月にラングーンは3,635、東京は118、1944年9月にラングーンは5,765、東京は125である。これから8月を計算すると、ラングーンは 5,057、東京は 123になり、その比は41になる。同書のサイトは
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454605
(注9)下記のサイト「400年の米価」によると、1943-1944年の米価は10kg当たり3.57円、統計の利用できる2000年の米価は3,641円であり、その比は1,020倍になる。現在の米価は、2000年当時とほとんど変わらないと見てよい。
http://www4.airnet.ne.jp/sakura/beika/beika_syowa.html