半月城通信
No.137 (2009.6.27)

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    目次

  1. 「竹島=独島問題ネットニュース」17、2009.1.11
  2. 明治政府の竹島=独島認識
  3. 集会「竹島問題をどう考えるか」概要
  4. 集会「竹島問題をどう考えるか」質問集
  5. 集会「竹島問題をどう考えるか」レジメ他
  6. 「竹島=独島問題ネットニュース」18、2009.2.24
  7. 「竹島=独島問題ネットニュース」19、2009.5.15
  8. 安龍福事件と鳥取藩(pdfファイル)

  9. 集会「竹島問題をどう考えるか」概要 期日:2009年2月14日(土)午後1時~5時 会場:文京区民センター(後楽園駅) 報告者:朴 炳渉(パク ピョンソビ 竹島=独島問題研究ネット代表)  竹島=独島は固有領土か、強奪領土か  :若宮啓文(朝日新聞本社コラムニスト) ソウルでの竹島問題国際シンポジウムの報告 司会者:紅林進 参加費:700円 主催:「韓国併合」100年・市民ネットワーク(関東) 当日参加者:49名 1.集会報告  (メーリングリスト [AML 24429] <2/14 「竹島問題をどう考えるか」の(個人的)報   告>、紅林進氏より転載)    日本政府は、「竹島」を日本固有の領土としているが、朴炳渉さんによると、江戸時代、 幕府も鳥取藩も、「竹島」(当時は「松島」と呼ばれていた)を自国の領土とは考えてい なかったとのこと。また明治政府も当初、それを引き継いだとのこと。  しかし日露戦争に当たって、「竹島」の戦略的重要性に気づいた日本外務省は、1905年 に「竹島」の領土編入を図ったとのこと。それは、無主地であった「竹島」(リャンコ 島)に日本人が「移住」したとして、国際法上の占領と主張して日本の領土に編入したと のこと。 しかしこの主張は、現在、日本外務省が主張する「わが国固有の領土」とは明らかに 矛盾する考えである。なお朴炳渉さんによると、江戸時代、「竹島」と呼ばれた島は現在 の「鬱陵島」を指し、現在の、「竹島=独島」は 当時は「松島」と呼ばれていたとのこ と。ここら辺も理解を複雑にしている。  若宮啓文さんは、昨2008年11月に韓国ソウルで開かれた独島(竹島)問題について の国際シンポジウムに出席し、その報告をされたが、この島に対する韓国と日本の熱気 には「100対1」ほどの差があり、韓国の主張には事実認定の前に、「正邪」の価値観が あり、エモーショナルになりがちとのこと。それに対して、日本は一般的に無関心だが、 韓国の反応が日本のナショナリズムをかきたてるとのこと。  日韓両国の主張には、一長一短があり、どちらも100%の理があるわけではない。 特に「固有領土」論には双方、無理があるとのこと。この島を巡る日韓の対立を一番 喜ぶのは北朝鮮だとも言われていた。  若宮さんは、解決への選択肢として、  (1)島を爆破する。(過去に、朴正煕大統領や日本外務省の局長なども主張(冗談半   分?)したことがあるとのこと。)  (2)国際司法裁判所に委ねる。(韓国政府は反対)  (3)静かに現状を固定。(1965年の日韓条約調印直前の佐藤・李会談で「互いに自国民   には互いの言い分を主張することにしたとのこと。  (4)争いを盛り上げて「不幸な歴史」や「民族対立」のシンボルにする。 (5)平和解決によって世界に誇れる「和解」のシンボルにする。  若宮氏の真意はもちろんこの(5)にある。この方法には二つのケースが考えられ、ケー ス1は、日本が主張を放棄する。代わりに漁業権や地下資源などで共同開発に合意する。 韓国は日本の譲歩を得るため日本の対応を高く評価する。「負けるが勝ち」で日本は国際 的に評価されることになる。ケース2は、韓国が主張を半分譲って共同領有に。日韓ワー ルドカップ方式。国際評価は韓国に集まる。日韓でともに「世界遺産」に申請するアイデ アも披露。若宮さんのレジュメの表題には、「竹島/独島 21世紀的な解決法は何か」と あったが、若宮さんは この(5) の解決法こそ「21世紀的な解決法」だとされるのだと思う。 集会「竹島問題をどう考えるか」質問集 メーリングリスト[AML 24498] 、2009.2.18  紅林進さんが[AML 24429]で「竹島問題をどう考えるか」集いの報告をされましたが、 質疑応答にはふれられていないので、それを補足したいと思います。  当日(2/14)の参加者は一水会を始めとして右から左まで、また国籍も日本人だけでな く韓国人もかなり参加されたので、多様な質問が寄せられました。最初に質問したのは 「外国人参政権に反対する会」の活動家ですが、報告者の回答が終らないうちにしゃべり だし、たしなめられたのをきっかけに会場は一瞬ざわつきましたが、すぐ平穏に戻り、し かし緊張感を漂わせ、タイムリミットまで延々1時間半も質疑応答が真摯におこなわれま した。  その中で、ここでは朴報告への質疑応答のみを記憶をたよりに、不正確ですが記してみ ます。若宮報告への質疑応答はどなたか書いていただきたいと思います。 1)島根県発行の「フォトしまね」161号に竹島は竹嶼であると書かれているのではない  か? 答)「フォトしまね」161号には、明治政府とでもいうべき太政官が1877年に本邦の版図  外とした「竹島外一島」について、竹島を欝陵島、外一島を今日の竹島(独島)としま  した。それが島根県の公式見解です。 2)別刷(朴炳渉「明治政府の竹島=独島認識」)で欝陵島の「欝」の字が誤っている。  この一事を取りあげても、この別刷は信頼できない。 答)現在の日本では主に「鬱」が使われますが、朝鮮史書や明治時代の日本ではほとんど  別刷に書かれた「欝」が使われました。現在の日本で欝と鬱はお互いに異体字とされて  いるので、どちらを使用しても誤りではありません。別刷は特に歴史を重視して「欝」  を使用しました。 3)竹島問題は国際司法裁判所で解決すべきではないか? 答)竹島(独島)問題を国際司法裁判所で扱うことには疑問がふたつあります。  ひとつは国際法への疑問です。戦後の国際法は国連の平和理念などを取り入れているの であまり問題ないのですが、戦前の国際法では侵略戦争すら合法とされました。そのため、 戦後の国際法とは性格が著しく違うので、戦前の国際法は万国公法と呼んで区別すべきで す。その万国公法で、香港返還前にもしアヘン戦争や香港返還を裁いたら、おそらく侵略 戦争を起こしたイギリスが勝ったことでしょう。そのような万国公法をもとに1905年当時 の竹島問題を国際司法裁判所で扱うのは疑問です。  もうひとつの疑問は日韓協定です。日本は竹島問題を国際司法裁判所で扱う目途がつか ないうちは日韓協定を結ばないと主張していましたが、結局はその主張を引っ込めて紛争 解決の交換公文を結びました。交換公文の中で紛争の解決は国際司法裁判所でなく第三者 の調停によるとされました。したがって、竹島問題を国際司法裁判所で扱うのは日韓協定 の精神に反するので疑問です。  一方、日本では竹島問題を国際司法裁判所で解決すべきであるとの主張がよくなされま すが、領土問題を国際司法裁判所で解決をはかろうとするなら、北方領土問題も国際司法 裁判所で解決するよう主張すべきです。そうした声が聞かれないのはダブルスタンダード ではないでしょうか。 4)韓国は、(1905年に日本の)閣議による竹島編入を知っていながら抗議しなかったの  ではないか? 竹島編入は新聞でも報道されたではないか。 答)韓国が日本の竹島(独島)編入を知ったのは、1906年に島根県「竹島視察団」が欝島 郡郡守にそれを知らせた時点でした。韓国政府は郡守からその報告を聞いて知ったのです が、その時に韓国は日本によって外交権を奪われ、外交を扱う外部が廃止されていて抗議 は不可能でした。  一方、1905年当時、竹島編入は官報に告示されなかったので、韓国政府はおろか、レジ メに書いたように日本の海軍省や外務省、官報の担当者すら竹島編入を知らずに、しばら くの間「竹島」の名でなく「リアンコールド」とか、「ランコ島」などと呼んでいたくら いでした。  また、新聞に載ったといっても、それは地方新聞である山陰新聞の5、6行の小さな記 事であり、しかもリヤンコ島を領土編入したというのではなく、北緯何度かにある新しい 島を隠岐島司の管轄下においたというような記事であり、それが独島を日本領へ編入する ことを意味するのだと気がつくのは困難です。 5)朴裕河の和解論をどう思うか? 答)韓国で和解論を主張している朴裕河さんは、日本でも『和解のために』を出版して朝 日「大佛次郎論壇賞」を受賞しましたが、その本は独島に関する限り、重大な認識の誤り が多いのが実状です。日本の主張を誤解していたり、はなはだしくは日本の主張と韓国の 主張を取り違えたりしました。たとえば、重要な争点である太政官の「竹島外一島」を版 図外とする指令について日本の主張をこう述べました。    「明治政府は鬱陵島ともう一つの島が朝鮮領だとの判断を下したが、このときの言及に  あるもう一つの別の島とは竹島ではなく、鬱陵島の横にある小さな島のことであった」  この後半の部分は、日本では誰も主張していません。朴裕河さんの誤りです。また、 1693年に安龍福が連行されて来日した時、彼と鳥取藩とのやりとりについて日本側の主張 を彼女はこう述べました。  「当時交渉の末に伯耆藩の藩主が朝鮮領と認定したふたつの島というのは、鬱陵島と竹  島ではなく、鬱陵島と竹嶼島であった」  まず、伯耆藩は存在せず、鳥取藩というか、あるいは伯耆国というべきです。それより も重大なのは、藩主が朝鮮領と認定したなどという主張は日本で一切なされたことがあり ません。これは韓国の主張です。朴裕河さんは日本の主張と韓国の主張を完全に取り違え ています。このように基本的な認識が間違った彼女の和解論は、土台のない砂上の楼閣で あり、問題を混乱させるだけです。 6)鈴木宗男議員の政府に対する竹島質問をくわしく教えてください。 答)2008年11月10日、鈴木議員は議員の権利を行使し、質問趣意書第222号を衆議院議長  へ提出して、竹島問題をこう質問しました。  「竹島問題についての政府冊子に関する再質問趣意書  本年十月一日、新幹社より発行された、「竹島=独島問題入門 日本外務省『竹島』批 判」という題の内藤正中島根大学名誉教授の著書では、「竹島を理解するための十のポイ ント」が徹底的に批判されている。そのことについて外務省は「前回答弁書」で「御指摘 の著書については承知しているが、当該著書に対する外務省の見解等についてお答えする ことは、竹島の領有権に関する我が国の立場を主張し、問題の平和的解決を図る上で、今 後の事務の適正な遂行に支障を及ぼすおそれ等があることから、差し控えたい。」と答弁 しているが、竹島問題に関する外務省、ひいては政府の立場、見解と異なり、しかも日本 人によりなされている「主張」に対して、外務省として何ら反駁せずに静観することは、 韓国に対してつけいる隙を与え、逆に竹島問題の平和的解決を図る上で、今後の事務の適 正な遂行に支障を及ぼすおそれがあるのではないか」  この質問に対して日本政府は下記のように回答し、実質的な回答を避けました。  「政府として、大韓民国側の対応について予断を持って判断することは差し控えたいが、  いずれにせよ、竹島の領有権の問題に関する我が国の立場を主張し、問題の平和的解決  を図る上で、今後の事務の適正な遂行に支障が及ばないよう適切に対応していく考えで  ある」 7)韓国では、安龍福が日本へ連行されたときに竹島は朝鮮領であることを日本に認めさ  せたなどと主張しているが疑問である。 7')韓国の主張における疑問点は韓国へ向かって正すべきではないか。 答)1693年に安龍福が連行されたときに独島が朝鮮領であるとの書契を伯耆藩からもらっ たと主張する人が韓国では多いのですが、日本の史書を照合すると疑問です。ただし、 1696年に安龍福がみずから来日した時、彼は欝陵島と子山島(独島)が朝鮮領であると主 張したことは日本の村上家文書などから確認できるのですが、1693年の場合は日本の史書 ばかりではなく、朝鮮史書を見ても疑問です。安龍福の取調官は、拉致された一介の漁民 が領土主張しても日本は認めないだろうと判断していましたし、首相に相当する領議政も 同じように考えていました。  私は、そうした疑問点に対して両国の史書を検証して『安龍福事件に対する検証』を韓 国水産開発院から出しました。今後も機会あるごとに韓国へも疑問点をぶつけていきたい と思っています。 8)韓国は李承晩ラインを突然設け、竹島周辺で日本漁船を銃撃で排除したではないか。 答)李ラインはGHQのマッカーサーラインを引き継いだもので、竹島(独島)周辺の線 引きは両者ほとんど同じでした。李ラインが引かれる数カ月前、マッカーサーラインを侵 して拿捕された日本漁船は数十隻にのぼりました。そのため、もしマッカーサーラインが なくなったら、極度の食糧難にあった日本の乱獲は必至であり、漁業資源の枯渇は自明で した。そのため、李ラインが引かれました。  なお、李ラインを侵して拿捕された日本漁船は二百数十隻にのぼりますが、竹島(独 島)周辺で拿捕された日本漁船は1隻もありません。その海域は漁場としてほとんど注目 されていませんでした。日韓会談で問題になった漁場は済州島周辺や黄海などでした。竹 島(独島)周辺は海が深いため、当時は漁場として魅力がなかったようです。 9)竹島問題解決への道は? 答)現状は、日韓両国民の間で竹島問題に対する理解はあまり進んでいません。たとえば、 朴裕河さんは本を書くにあたって竹島問題を充分勉強して書いたはずなのに、それでも基 本的な重要事項を誤っています。韓国でも日本でも竹島問題が正しく理解されず、感情的 な発言が多いのが実状です。  日韓両国で共通理解を得るには、専門家による共同研究を進めるのがいいと思います。 現在、日韓政府間で歴史共同研究委員会が設けられていますが、そこで竹島問題を扱えば いいと思います。あるいは、この委員会の韓国メンバーは国家を背負って出席するので議 論はむずかしいとの意見もあるようですが、少なくとも今日お話しした明治時代の歴史に ついては日韓の研究者の間でほとんど見解の違いはないと言っても過言ではありません。 ただし、自己の主張にブレがある人は問題外です。それは拙論「下條正男の論説を分析す る」(嶺南大学『独島研究』4号)に書いたとおりです。  歴史共同研究の成果を公表することにより、日韓で共通理解が少しずつ得られるのでは ないかと思います。それまで竹島(独島)問題の和解論は時期尚早だと思います。 集会「竹島問題をどう考えるか」レジメ他 A.朴炳渉報告「竹島=独島は固有領土か強奪領土か」レジメ  別刷、朴炳渉「明治政府の竹島=独島認識」『北東アジア文化研究』28号 明治時代の資料が重要(外務省パンフは、(7)領土編入手順のみ言及) ○島名:江戸時代から明治初期、竹島(欝陵島)、松島(竹島=独島) 1)「朝鮮国 交際始末内探書」  1869(明治2)年、外務省は太政官(内閣相当)の裁可を得て、釜山の倭館へ外務省高  官を派遣して朝鮮の内情を探り、外交樹立を模索する。翌年、報告書「朝鮮国 交際始  末内探書」の中に「竹島松島 朝鮮付属に相成候始末」(別刷 p43) 2)官撰地誌『日本地誌提要』編纂、千年ぶりの大事業  ○1872(明治5)年、太政官正院地誌課が官撰地誌の編纂に着手。   内務省地理局地誌課『日本地誌提要』発刊(~1879)、竹島・松島を本州の属島外と   して記述(別刷p34)。  ○ 1875年、正院地誌課の中邨元起『磯竹島覚書』を校正。  「竹島一件」1693(元禄6)年   大谷家が竹島(欝陵島)で安龍福らを拉致し鳥取藩へ引渡す。   (両家は幕府による一回限りの竹島渡海免許を元に毎年出漁)  鳥取藩は幕府へ朝鮮人の竹島渡海禁止、アワビの献上継続を申入れ。  幕府は対馬藩へ安龍福らの送還と渡海禁止交渉を指示。勘定頭の竹島確認。  朝鮮は竹島越境犯の処罰を約束し、「弊境の蔚陵島」海禁の書簡(一島二名)。  対馬藩は竹島領有を画策、「弊境の蔚陵島」削除を要求。交渉は暗礁。  幕府は竹島調査、その時まで松島(竹島=独島)を知らず、追加質問(p36)。  鳥取藩などが竹島・松島の領有を否定。幕府は竹島渡海禁止を指示。 3)全国の地籍編纂  1876年、竹島・松島に関して島根県が内務省へ地籍編纂伺を提出。   (松島を「由来の概略」、「磯竹島略図」に記載、p37,39)  翌年、内務省は「竹島一件」関連書類や島根書類を添え、太政官へ地籍編纂伺。  2週間後、太政官「竹島外一島之儀本邦関係無之」指令。 4)官撰地図の作成、(p41)  1867年、幕府「官板実測日本地図」。1870年再版。  1879年、内務省「大日本府県管轄図」、竹島・松島は無。  1880年、内務省「大日本国全図」、同上。  1881年、内務省『大日本府県分轄図』、各府県図に竹島・松島は無。    極東図「大日本全国略図」に竹島・松島有。  他に文部相や陸軍などの官製地図は竹島・松島を日本領外。 5)海軍水路部、海図・水路誌の作成  『日本水路誌』第4巻(1897)、海図に竹島・松島は無。  「朝鮮東海岸図」(1875)、オリウツア・メ子ライ礁と松島。島名混乱に拍車  「朝鮮全岸」(1882,海図)、リアンコールド岩と欝陵島(松島)。  『朝鮮水路誌』(1894)にリアンコールト列岩と欝陵島(一名松島)。 6)リヤンコ島(竹島=独島)は欝陵島の属島  ○ 漁民、欝陵島あってのリヤンコ島。官民、リヤンコ島を朝鮮領と認識。  ○ 外務省『通商彙纂』(1902.10.16)「欝陵島事情」にリヤンコ島。  ○ 軍艦「新高」行動日誌(1904.9.25)松島からリヤンコ島=独島へ出漁。  ○ 官報(1905.9.18)記事「韓国鬱陵島現況」、欝陵島民がランコ島で猟。 7)リヤンコ島の日本領編入、1905.2.22  隠岐の中井養三郎「リヤンコ島領土編入並に貸下願」を内務省へ提出。  内務省は編入に反対したが、外務省は賛成。P47  閣議、無主地に中井が移住したので、国際法上の占領と認め領土編入。  島根県告示40号、該島を「竹島」と称し、隠岐島司の管轄下とする。  官報による告示なし。外務省(官報)はリヤンコ島。海軍(官報)も一時。  江戸・明治(編入前)、一度も竹島=独島に領有意識を公に持たなかった。 ○ 欝島島監・沈興澤、1906.  島根県視察団への返答「滞留の貴邦人に就ては余に於て充分保護すべし」  朝鮮政府への報告、「本郡所属 独島が外洋100余里にある」 B.若宮啓文報告「竹島/独島 21世紀的な解決法は何か」  2008.11/17-18にソウルで開かれた「独島問題の歴史認識と国際法的正義」(主催;仁 荷大学および東北アジア歴史財団)に参加した。  会議では朝日新聞の看板を背負うことになるので参加前に出席を迷ったが、ともかくも 参加した。出席者は、日本からは和田春樹、柳原正治、俵義文、若宮啓文、荒井信一らが、 アメリカからはジョン・バン・ダイクが、他に中国の学者などが出席した。  会議の開会辞で仁荷大学総長が最近の日本の動きを「独島に対する第二の侵略」と述べ たので、もし「侵略」が前提の会議なら講演を止めると断ったが、そうではないとの回答 なので講演を行なった。 レジメは下記のとおり。 (1)現状の分析   1).日韓両国の主張にはそれぞれ一長一短     日本の「固有の領土」論には無理、明確な韓国領の認識がない。学者間で意見が     分かれる。   2).竹島=独島に対する韓国と日本の熱気には「100:1」ほどの差がある。     韓国の主張には事実認定の前に「正邪」の価値観があり、エモーショナルになり     がち。日本は無関心だが、韓国の反応が日本のナショナリズムをかきたてる。   3).日本が島を武力で取り戻す可能性はゼロ    自衛隊出動のシミュレーションとか軍事演習とかは挑発的にうつる。   4).日本の教科書ノ、の記述は韓国に比べてごく控えめ    中学の教科書に載せる際、韓国の主張も載せることになった。日本の基本的な立場    は日韓条約の交渉でも一貫しており、それを教科書に書くな、中学生に教えるな、    という主張には無理がある。   5).島は実効支配している方が強い    韓国は悠然と構えればよい。「紛争がない」というのなら、なおのことだ。ダイク    は、50年以上の実効支配は韓国に相当有利と主張していた。   6).この対立でいちばん喜ぶの融ヒ朝鮮だ。日韓の亀裂。自由主義陣営の亀裂。 (2)解決への選択肢   1).島を爆破する     過去に朴大統領ら3人の発言記録があるが、現実性はゼロ。   2).国際司法裁判所に委ねる    韓国が踏み切ればスッキリするが、可能性はなさそう。   3).静かに現状を固定      65年の調印直前の佐藤・李会談で「互いに自国民には互いの言い分を主張す    る」ことに。日中平和友好条約では尖閣諸島の問題で郡小平が「こういう問題は一    時棚上げしても構わない、次の世代はわれわれより、もっと知恵があるだろう。み    んなが受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」(1978.11.23 記者会見)   4).争いを盛り上げて「不幸な歴史」や「民族対立」のシンボルに   5).平和解決によって世界に誇れる「和解」のシンボルに    ケース1:日本が主張を放棄する。代わりに漁業権や地下資源などで共同開発など        に合意。韓国は日本の譲歩を得るため日本の対応を高く評価。「負けるが        勝ち」で日本には国際的な評価も。    ケース2:韓国が主張を半分譲って共同領有に。日韓ワールドカップ方式。国際評        価は韓国に集まる。日韓でともに「世界遺産」に申請のアイデアも。  以上



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