半月城通信
No.130 (2008.1.26)

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    目次

  1. 答えに窮した? 内藤教授の反論
  2. 朴世堂『西渓雑録』の誤読? 下條正男批判
  3. 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』
  4. 「竹島=独島問題ネットニュース 11」、2007.12.29
  5. 大佛次郎論壇賞『和解のために』に異議あり

  6. 答えに窮した? 内藤教授の反論  2007.1.6   半月城です。   江戸時代から明治初期にかけて、現在の竹島=独島は松島とよばれ、欝陵島は竹島あ るいは磯竹島と呼ばれました。明治政府は「竹島外一島」すなわち竹島と松島を日本の版 図外にする太政官指令を1877年にくだしました。   この「竹島外一島」をめぐって、ある専門家が刺激的な論説を書きました。島根大学 の内藤正中教授はそれを見るに見かね、下記の文章をインターネットに公表してほしいと の依頼をなされました。   ある専門家とは、毎年のように自説を二転、三転させてきた拓殖大学の下條正男教授 ですが、同氏は『諸君!』に「内藤氏は答えに窮した」などと事実に反することを書きま した。その神経はいかがなものでしょうか。        -------------------- 「竹島外一島 本邦関係無之」をめぐって   ー下條正男氏の妄論批判ー                 内藤正中  『正論』2008年2月号に、下條正男氏の「韓国人研究者との出会いで痛感した『竹島問 題』の不毛」なる論稿が掲載されており、そのなかで、去る11月16日に東京大学東洋 文化研究所で開催されたシンポジウムにおける私の発言が批判されている。   すなわち、質疑応答で下條氏が質問し、「外務省が主張する竹島の固有領土論を批判 する論拠を尋ねたが、内藤氏は回答することはできなかった」(P265)とか、「竹島他一島 本邦関係これなしの竹島と外一島は、今日のどこの島をさしているのか、説明を求めたが、 内藤氏は口ごもり答えることができなかった」とも記している(P271)。   そしてつづいて、「内藤氏が答えに窮したのも当然であった。当時、日本海には架空 の竹島(アルゴノート島)と松島(ダジュレート島)、それに今日の竹島(リャンクール ロック)があるとされ、『竹島外一島』はダジュレート島とアルゴノート島を指していた からである。内藤氏は、『竹島外一島本邦関係これなし』の字面だけを読み、文献批判を 怠ったのである。「竹島は韓国領」とする東洋文化研究所の思惑は粉砕されたのである」 と述べるのであった(P271)。   だがしかし、下條流のプロパガンダに惑わされないためには、事実関係の確認をして おく必要がある。   当日のシンポジウムでの私のテーマは「竹島固有領土論への疑問」であって、下條氏 がいっているような「竹島固有領土論再考」ではない。そして当日会場で配布したレジュ メで明らかなように、1618年の幕府による竹島渡海免許をはじめ、1696年の竹島 渡海禁止、そして1905年のリヤンコ島の日本領土編入に至るまでについて、それぞれ の項目についての疑問点を指摘したものであった。   したがって、当日の私の講演の趣旨を「1877年、日本の太政官が『竹島外一島本邦関 係これなし』と決定した太政官指令を根拠に、日本政府は1877年に竹島を自国領でないと したので、外務省の言う固有領土説は成立しないというものであった」と断定するのは、 いかにも下條流の一面的な言いがかりといわなければならない。   当日のレジュメに明記してあるように、私のこの問題に対する見解は、「1876年 10月16日、島根県が内務省に『日本海中 竹島外一島 属否の事』を照会したのに対し て、1877年3月、太政官は『竹島外一島の義 本邦関係これなし』と決定した。外一 島は松島(現竹島)である」ということである。   そうである以上、下條氏の質問に対して、内藤が窮したというのは当らない。すでに 講演のなかで述べているのであるから、下條氏の質問は何であったかということになる。 恐らく、下條氏はつづいて持論を述べるつもりであったと思われる。そのことを予想した 私は、直ちに回答することをしなかったため、司会の発言で討論は中断されることになっ た。   下條氏の「外一島」についての見解は毎年のように改変されてきている。   まず2004年の『竹島は日韓どちらのものか』(文春新書)では「太政官による審 査は十分とはいえなかった。『竹島外一島』の『一島』が今日の竹島を指すのかそうでな いのか、判然としないからである。もしその『一島』が今日の竹島だったとすれば、『本 邦関係これなき』というはずがない」と記していた。2005年刊の『竹島、その歴史と 領土問題』も同文である。   ところが、島根県が竹島問題研究会の中間報告として2006年に発行して、県内全 戸に配布した『フォトしまね』161号では「外一島とは現在の竹島とみられる」として いるのである。   そして2007年の島根県竹島問題研究会の『最終報告書』では島根県が伺い出た 「竹島他一島」と、太政官が判断した「竹島他一島」には違いがあったという。島根県が 提出した「磯竹島略図」には、現在の竹島と磯竹島が記載されているが、太政官が「関係 なし」とした『公文録』その他の文書には、欝陵島に当る竹島と米子の大谷家が漂着した 松島についての記述があっただけで、現在の竹島については何も書かれていない。   したがって、太政官が「関係なし」とした「竹島他一島」は、二つの欝陵島を指して おり、現在の竹島とは関係がなかった。これは当時使用されていた地図に、実在しない竹 島(アルゴノート島)と松島(ダジュレー島)が描かれていることに起因するというので ある。   さらに、2007年9月号の『諸君!』誌上では、島根県による竹島と松島の説明で、 欝陵島に当る竹島はよいとして、松島についての説明も欝陵島に関するもので、島根県は 竹島だけでなく、松島も欝陵島と認識していたという。そしてそうした混乱の原因は、当 時使われていたシーボルトの日本図を基にした地図にあり、そこでは竹島をアルゴノート 島、松島をダジュレー島として描いていた。しかし両島の緯度はともに現在の竹島のもの とは異なっているので、明治政府が決定した「竹島他一島」の「一島」は今日の竹島とす ることができないというものである。   この下條氏の所論には、二つの問題がある。その一つは、関係文書には欝陵島の竹島 と、大谷家が漂着した松島についての記述はあるが、現在の竹島について何も書かれてい ない、松島の記述も欝陵島についてであり、島根県は竹島、松島ともに欝陵島と認識して いたというが、果してそうであるかという問題である。   つづいては、当時使われていた地図は、シーボルトの「日本図」を基にした地図であ るといっているが、どのような名称の地図であったかを明らかにすべきであり、その地図 を内務省および太政官が参照したとする資料があるのかどうかということである。   まずはじめに、島根県が付属文書として提出した「由来ノ概略」である。そこでは 「磯竹島 一ニ竹島ト稱ス」として、隠岐から120里にある竹島の詳細が記されている。 そして「次ニ一島アリ、松島ト呼ブ」として、竹島と同一線路にあり、隠岐から80里の 位置にある松島について記述する。   さらにつづけて大谷甚吉漂着のことを記している。この記述を下條氏のように、松島 の説明とみることはできず、明らかに竹島についての説明とみるべきで、大谷甚吉が漂着 した松島というのは、歴史の事実を無視した曲解といわなければならない。   したがって、竹島とともに松島についても、島根県は欝陵島と認識していたというの も、記述内容からいっても当らない。   島根県が伺書の付属文書として内務省に提出したさいには「大谷家図面」、内務省が 太政官に提出した付属文書では「磯竹島略図」であり、下條氏がいっているような「当時 使用されていた地図」が参考資料として取りあげられたとは思われない。   ダジュレー島(松島)とかアルゴノート島(竹島)をもちだすためには、シーボルト の「日本図」(1840年)が必要になる。しかし、アルゴノート島は1854年のロシ ア艦隊バルラダ号の測量で存在が否定されることはよく知られているところで、その後の 一時期には、アルゴノート、ダジュレー、リアンクールの三つの島が記載された欧米製地 図もあったようであるが、20年を経過した頃には、ダジュレーまたは松島、そしてリア ンクールという二つの島だけが記載されるようになる。内務省そして太政官が参照したの であれば、付属文書に地図名が記されていなければならない。   以上で下條説は全面的に否定されることになる。文献批判を怠ったのは、当の下條氏 自身である。        -------------------- 追記(半月城)   下條正男教授の「竹島外一島」に関する主張を整理すると下記のようになります。 2004、5年、「外一島」は竹島=独島かどうか不明。 2006年、  「外一島」は現在の竹島=独島とみられる。 2007年3月、島根県のいう「外一島」は「磯竹島略図」の松島、すなわち竹島=独島。       太政官のいう「外一島」は欝陵島。 2007年9月、島根県のいう「外一島」は欝陵島。   毎年のように自説を目まぐるしく変えているようです。そのような人にどんな説明を しようと、本人は「明確な答えになっていない」というのが通例でしょうか。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 朴世堂『西渓雑録』の誤読? 下條正男批判 2007/12/29 Yahoo!会議室「竹島」No.16064   半月城です。   下條正男氏の「事実求是」を読んで、どうしてもコメントを書かずにはいられない心 境です。同氏は、Web竹島問題研究所のホームページ「事実求是」第1回「朴世堂の『鬱 陵島』 」において韓国海洋水産開発院の柳美林博士が「漢文が読めないための誤謬」を おかしたと断言し、こう記しました。        --------------------   朴世堂の「欝陵島」では、「(于山島と欝陵島の)二島、寧海を去ること甚だしくは 遠からず」とし、「歴々見える」も寧海から見た于山島と欝陵島のことと解釈している。 にもかかわらず柳美林氏は、朴世堂の「蓋二島此(寧海)を去ること甚だしくは遠から ず」を、「およそ二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と 読み誤った。 柳美林氏は「二島此を去ること」の「此」が寧海である事実を無視し、旧来の説を繰り返 したのである。これは故意というより、漢文が読めないための誤謬である(注1)。        --------------------   下條氏がこのように述べるのは、朝鮮日報の韓国語記事を引用してのことでした(注 2)。しかし、同氏の翻訳には問題があります。下條氏が「およそ二つの島(欝陵島と于 山島)はそれほど離れていない」と翻訳した部分は、ふつうなら yabutarou01さんが No. 16028 で紹介したように「たいてい二つの島(鬱陵島と于山島)があまり遠くなく」と訳 されます。   すなわち、朝鮮日報は欝陵島と于山島がある場所から遠くないと書いたのに、下條氏 は欝陵島と于山島がお互いにそれほど離れていないと無理に訳しました。これは、下條氏 が「韓文が読めないための誤謬」をおかしたというより「故意」の我田引水をおこなった というべきかも知れません。下條氏はその記事を『世宗実録』地理誌と結びつけて、こう 記しました。        --------------------   日韓はこれまで、この「二島相去ること遠からず」の解釈で争ってきた。韓国側は 「二島相去ること遠からず」に次いで「歴々見える」の一文があるため、欝陵島から竹島 が「見える」と読み、欝陵島から竹島が見えることが、竹島を韓国領とする証拠としてき た(注1)。        --------------------   下條氏は、柳博士が韓国側の旧来の説を繰り返すために、朴世堂の『西渓雑録』を誤 読して引用したと主張しているようです。しかし、そのような重大な指摘をする元ネタが 新聞記事とは情けない話です。その記事には取材源が次のように記されました。 (yabutarou01さんの訳)        --------------------   韓国海洋水産開発院独島研究センター責任研究員であるユミリム(柳美林) 博士は最 近この開発院が発刊する「海洋水産動向」1250号で「朝鮮後期朴世堂・1629~1703)」が 書いた「鬱陵島」を分析した結果、于山島は鬱陵島ではなく独島を指すことが明らかにさ れた」と述べた。        --------------------   下條氏は「海洋水産動向」1250号をきちんと確認せずに、新聞記事を誤読し、柳博士 が「誤謬」をおかしたなどと書いたのは余りにも独善的ではないでしょうか。同書にて柳 博士は「2島(欝陵島と于山島を指す、柳注)がここからさほど遠くなく」と正しく読み くだしており、下條氏の指摘が誤謬であることが明らかです。つぎに同書の関連部分を紹 介します。        -------------------- 「海洋水産動向」1250号  「于山島は独島」を立証する朝鮮時代の史料を発掘   ・・・・・  朴世堂(注3)の「欝陵島」(注4)は大きく四部から構成されている。  第1部は『新増東国輿地勝覧』を引用した部分  第2部は、壬辰倭乱の時に捕虜として捕えられ、日本の船に乗り、欝陵島へ行って帰っ   た僧侶から聞いた話を記録した部分  第3部は 1694年9月2日に張漢相が軍官の報告を元に備辺司へ報告した内容  第4部は同年の1694年9月20日から10月3日まで張漢相が捜討した状況を備辺司へ   報告した内容からなる。   この中で第4部は張漢相の『蔚陵島事蹟』に載っている内容とほぼ同じである。朴世 堂は第2部、前述の僧侶から聞いた話を伝え、自分の意見を加えたが、ここで于山島が独 島であることを物語る重要な記述が次のように含まれている。  「たいがい、2島(欝陵島と于山島を指す、柳注)がここからさほど遠くなく、ひとた び大風が吹けば到達できる程度である。于山島は地勢が低く、天候がくっきり晴れていな いとか、最頂上に登らないと見えない。欝陵が(于山島より、柳注)少し高い(注5)」   このような内容がまさに于山島が独島であることを証明する重要な根拠といえる。上 の文章をつうじて我々は次のような事実を知ることができる。  第1にこの文で欝陵島と于山島が明らかに違う島と区分される点である。  第2に二島の距離と位置関係が明らかにされており、これから于山島は少なくとも欝陵   島近隣の島を指すものではないという点が明らかになったのである。  第3に于山島が欝陵島より少し低いところにあるので、欝陵島からは簡単に見ることが   できないということを知ることができる。欝陵島が于山島より少し高いので、天候が   晴れているとか、高いところへ登って初めて于山島が見えるとしたためである。  第4に上に述べたように、朴世堂の記録は張漢相が于山島に対し、「東側に海を望んだ   ところ、東南方向に島がひとつかすかにあるが・・・」と表現したこととぴったり合   う点である。   張漢相は聖人峰から東南方向に島が一つかすかに見えるとしたが、朴世堂の記録は于 山島は非常にくっきり晴れた日に欝陵島の高いところだけで見えるとした。こうした事実 を考慮すると、朴世堂が語る「于山島」は張漢相のいう、まさに「かすかな島」に該当す る。   欝陵島から離れていて、くっきり晴れた日に高いところだけから見える島は現在の独 島以外にないためである。したがって、結論をいうと朴世堂のいう于山島と、張漢相のい う東南方向の島は現在の独島をさすのは明らかである。        --------------------   余談ですが、柳博士は数年間にわたって朴世堂の『西渓集』を講読してきた方です (注6)。そのような専門家に対し、事実関係や原典をろくに確認せず「漢文が読めない ための誤謬」などと誹謗するのは、いかにも下條正男教授らしいやり方ではないでしょう か。蛇足ですが「原典を確認せよ」は大学院教育の第1歩です。大学教授ならそれくらい は先刻承知済みでしょうが。 (注1)Web竹島問題研究所のホームページ  「事実求是~日韓のトゲ、竹島問題を考える~」第1回 朴世堂の『鬱陵島』 (注2)朝鮮日報記事「于山島はやはり独島であった」2007.12.4 (注3、柳博士の注)朴世堂は17世紀の思想界を風靡した碩学であったが、自由奔放な 思惟体系のために、当時朱子学を信奉していた老論学界により「斯文乱賊」と罵倒される。 彼の文集『西渓集』は『韓国文集叢刊』に入っているが、「欝陵島」が載っている『西渓 雑録』は刊行された文集には入っておらず、未分類資料となっている筆写本である。この ため、史料の存在が一般に知られていない。 (注4、柳博士の注)「欝陵島」は、朴世堂が他人の文と他人から聞いた話を引用して自 身の意見をつけ加える形になっている。朴世堂はこの文において「欝陵島」と「于山島」 を確然と区分して言及している。彼の言及から推論すると、于山島はまさに独島を指すこ とが明確に知ることができる。   さらに朴世堂が生きた時代は安龍福事件があった時期であり、朴世堂は当時、安龍福 事件で重要な役割をはたした領議政・南九萬の妻の兄弟である。南九萬は死刑を受けた安 龍福を配流の刑に減軽するのに大きな功績がある。   朴世堂と南九萬がしばしば書信のやりとりをしていた事実からみて、朴世堂は南九萬 から安龍福が日本へ渡った事実と、そこで欝陵島に対する領有権を主張して来た事実を聞 いていたと推定される。全16頁からなるが、筆写本の状態が良くなく、時折欠字がある。 (注5、柳博士の注)この部分は、朴世堂が僧侶から聞いた話を記した後、自身の説で締 めくくったのだが、他人の文を転載した可能性も排除しがたい。そうだとしても、この文 が当時、于山島に関する朝鮮人の意識を明らかにしている点で著者が朴世堂であろうとな かろうと問題にならないと考えられる。 (注6)「西渓集を読む集い」(韓国語)京郷新聞、2007.2.9 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』 2008.1.3 Yahoo!会議室「竹島」No.16083   半月城です。  『西渓雑録』に書かれた僧の記事はなかなか興味を引きます。特に僧が「壬辰の乱で日 本へ俘虜として入り、丙午年に倭船にしたがって欝陵島へ至った」とするくだりは歴史の 生き証人としての証言だけに注目されます。   僧は欝陵島の情景を詳細に語っていることなどから、上記の一節に関するかぎり、ほ ぼ信頼できそうです。これが史書からも裏付けられるのかどうか考察したいと思います。   まず、壬辰の乱とはいうまでもなく、1592年に豊臣秀吉が朝鮮を侵略した無謀な文禄 の役を指しますが、日本軍は慶長の役とあわせて、朝鮮人を5万人ないし7万人も日本へ 拉致しました。薩摩焼の沈寿官さんや、戦時中の東郷外相などはそうした子孫の一人とし て有名ですが、拉致された人びとのほとんどは日本に残りました(注1)。   それも無理ありません。何しろ戦後処理の遅れから、被虜を連れ戻す公式の刷還使が 日本へ派遣されたのが、なんと10年も経た1607年であり、その時は被虜本人もほとんど が日本に定着して帰国を望まなかったのでした。また、被虜の主人や藩も被虜が帰国する のをほとんど望まなかったのでした。   しかし、対馬だけは別でした。対馬は侵略戦争により朝鮮との交易を完全に断たれた ので、糧道を断たれたも同然でした。良田の少ない対馬は、魏志倭人伝の時代から交易が 命でした。宗義智は朝鮮との交易を再開すべく懸命な努力をしました。その一環として、 朝鮮へ誠意を示すべく、被虜人の送還を積極的に行ないました。   1600年、対馬にいた被虜 300余名、翌年には250名を朝鮮へ送り届けましたが、これ らの努力が功を奏し、朝鮮もやや軟化し始めました。05年に朝鮮から講和のさきがけとし て松雲大師を招き、徳川家康と対面させるまでにこぎつけました。松雲大師は加藤清正と 戦った義兵僧でした。   その時の話し合いで被虜の送還が決まり、対馬はさっそく手始めに被虜 1200人を送 還しました。その後も、対馬は被虜人を積極的に各地から集めるのに躍起でした。その中 に『西渓雑録』に登場する僧がいた可能性は充分に考えられます。その僧が欝陵島へ行っ たとする丙午年は僧の年令から考えて 1606年と思われます。   一方、対馬と欝陵島とのかかわりですが、古くは室町時代 1407年にさかのぼります。 宗貞茂は、朝鮮の太宗が欝陵島を空島にしたことをかぎつけたのか、朝鮮に土産物を献上 し、倭寇の被虜を送還して、茂陵島(欝陵島)に対馬島民を移住させたいと申し出ました。 これに対して太宗は、それを許すと、幕府と対立する謀反人を入れることになるという理 由で許可しませんでした。   その後、対馬は豊臣秀吉の朝鮮侵略の先導をになうのですが、そのころ、対馬から欝 陵島へ渡航していた人がいました。それは鷺坂(磯竹)弥左衛門・仁右衛門親子ですが、 幕府の『通航一覧』によれば、元和6(1620)年に竹島(欝陵島)で潜商の罪で捕えられま した。ただし『通航一覧』は続けて『対州編稔略』を引用し「潜商の事とも定めがたく」 と記しました。どうやら親子の活動は公認の事業であったようです。   関連記事は、1617年に朝鮮使節の従事官として来日した李景稷の旅行記である『李石 門扶桑録』にも記されました。それについて中村栄孝はこう記しました。        --------------------  (『李石門扶桑録』)記事のなかで、対馬の老臣 柳川調興が、伏見で、土井大炊助利 勝と朝鮮のことを語ったさい、利勝から、磯竹弥左衛門のことをのぼらせたとあるのは、 注目すべきところである。秀吉の許可をえて、「礒竹島」へ渡り、材木などを取ってかえ り、その縁故で「礒竹弥左衛門」とよばれた日本人があった。かれは、その後、この島へ の渡航によって生活し、歳役を納めていたというのである(注2)。        --------------------   弥左衛門は歳役を納めていたので、やはり竹島(欝陵島)で公認の事業をしていたよ うです。しかも、かれは公儀から御朱印をもらっていたようで、中村栄孝は「柚谷記に曰、 磯竹島は、昔、鷺坂弥左衛門父子、渡此島 陰(ママ)居、自公儀以御朱印」と紹介しま した(注2)。   磯竹島に倭人が入り込んでいた記事は朝鮮史書『芝峰類説』にもあり、「壬辰變後 人有往見者 亦被倭焚掠 無復人煙 近聞倭奴占據 礒竹島 或謂礒竹 即蔚陵島也」と記され ました。すなわち、壬辰の変以後、倭人が礒竹島(蔚陵島)を占拠したとされました。こ れは弥左衛門親子の居住をさすものと思われます。   そうした実績に立ち、対馬は欝陵島を自国領にすべく、1614年、朝鮮に対して竹島 (欝陵島)は日本領であると言いだしました。これを『通航一覧』は「宗對馬守 義智よ り朝鮮國東莱府使に書を贈りて、竹島は日本屬島なるよしを諭せしに、彼許さず、よて猶 使書往復に及ぶ」と記しました。ただし、同書はこれを慶長17(1612)年のこととして 書き、注で『朝鮮通交大紀』では慶長19年のこととしていると記しました。   これに対応する記事が『光海君日記』1614年9月2日条に見えるので、対馬の申し入 れは慶長19年が正しいようです。朝鮮は対馬の主張をもちろん受けいれるはずはありま せん。東莱府使の尹守謙は「いわゆる磯竹島は、これ我国の欝陵島なり・・・・・貴国の 我国に来往するは、ただ釜山一路を除くのほか、皆海賊をもって論断せり」と回答したこ とが『通航一覧』巻137に記されました。   以上のように、弥左衛門親子は慶長年間に豊臣秀吉や対馬国の公認のもとに竹島(欝 陵島)で活動していたことは史料からも裏付けられます。したがって、その時に『西渓雑 録』に登場する僧が対馬から弥左衛門親子にしたがって欝陵島へ渡航したことは充分あり 得ます。僧は日本人と行動した時のことをこう語りました。  「(欝陵島で)倭人が竹を伐り、薬草を採っていた。自分が船に残り留守番をしていた ところ、横の船に同じような俘虜が七人いたので、夜、一緒に語り合った。ちょうど暁ど きに船を出して以来、日が申時(午後3-5時)にはもう寧海の地に着いたと云う」(韓国 人研究者訳)   この伝聞によると、僧は俘虜7人とともに欝陵島から寧海へ行ったとされますが、そ れが可能かどうか疑わしいところです。俘虜の送還は対馬から朝鮮の東莱府へなされてい るので、俘虜を欝陵島経由で送ることは考えられません。ただ、俘虜たちが欝陵島から逃 げて寧海へ行ったとするなら、まだ少しは可能性があるかもしれません。   いずれにせよ、僧の話には多少の脚色があるようです。ま、僧が俘虜として日本へ 行った話だけは信じられるとしても、欝陵島から寧海へ行ったという話は、実は倭人に 随った時のことではなく、別な機会に朝鮮から往復していたのかも知れません。   そこで思い当たるのは、弥左衛門親子が「潜商」であった事実です。彼らは欝陵島で 単に木の伐採だけを行なっていたのではなく、交易の途絶えた朝鮮とは欝陵島を中継地点 にして密貿易をおこなっていたのではないかと想像されます。   ところで、話はかわりますが、下條正男氏は「朴世堂は、『東国輿地勝覧』の記事を 基に僧侶からの旧聞を加え、八百字程で「欝陵島」を作文したのである」としていますが、 朴世堂が僧から直接話を聞いたかどうかは疑問です。   ここで注意すべきは、すでに紹介されているように『西渓雑録』の「欝陵島」は同書 だけでなく『臥遊録』にも登場することです。時期的にはどうやら『臥遊録』のほうが古 いようです。韓国蔵書閣の『臥遊録』は17世紀半ばまでの記事を扱っており、その中に 「欝陵島」が記載されているので、その頃に「欝陵島」の話は完成していたと見られます (注3)。   それに対し、朴世堂『西渓雑録』は「欝陵島」以外に張漢相「蔚陵島事蹟」も載せて いるので、同書の成立は1693年以降、亡くなる 1703年以前と思われます。したがって、 朴世堂が『臥遊録』の文をそっくり転載したか、あるいは両書共通の種本があったと見ら れます。朴世堂の経歴からすると(注4)、そのころの朴世堂は種々の情報を容易に得ら れる立場にあったようです。そのために「蔚陵島事蹟」の転載も可能だったと思われます。   両書の前後関係はともかく、ここで重要なのは「欝陵島」が性質も時代も違う二書に 記述されたことです。これは取りも直さず、その話が17世紀半ば以降は広く知れわたっ ていたことを意味します。   しかも、それまでの「于山と欝陵はお互いに遠くなく、天候が清明なら望見される」 とされる程度であった認識がより具体的になり、「于山島は地勢が低く、くっきり晴れた 日に高い所に登らなければ見えない」と明確にされ、描写がより具体的になったことです。 そのような島は竹島=独島しかあり得ません。 (注1)半月城通信<東郷・元外相は朝鮮出身?> (注2)中村栄孝『日鮮関係史の研究』下、吉川弘文館、1969、P456 (注3)韓国「王室図書館蔵書閣デジタルアーカイブ」の「臥遊録解題」によれば、『臥 遊録』は2種類が知られており、「欝陵島」が記載されている蔵書閣の『臥遊録』は17 世紀半ばまでの史料のみが掲載されているとのこと。 (注4)朴世堂(1629―1703、仁祖7―粛宗29)の経歴(Yahoo! Korea辞書による)  朝鮮中期の学者、文臣。字は季肯、号は西渓。本貫は播南。1660(顕宗1)年、増広文 科に首席で及第し、成均館典籍に叙授された後、兵曹正言などを経て、1664年に副修撰、 黄海道の暗行御使になった。1667年に修撰、翌年に吏曹佐郎になったが、就任せずに杖刑 を受けた後、同年に冬至使書状官として清を往復した。  その後、礼曹、刑曹の参議を勤め、1694(粛宗20)年の甲戌喚局以後に少論が重用され るや、承旨に特進し、翌年、工曹判書を経て吏曹判書を勤めた。1703年に判中樞府事とし て耆老所に入ったが、『思辨録』を書いて朱子学を批判し、独自の見解を発表したため、 斯文乱賊の烙印を押されて官職を剥奪され、配流途中に玉果で死ぬ。 ・ ・・・  実学派の先駆的人物として、彼の思想と学問は批判的な観点から出発したが、自主意識 が強く、自由奔放な独創性を帯びている。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 「竹島=独島問題ネットニュース 11」、2007.12.29   2007.12.29                  竹島=独島問題研究ネット発行  記事一覧 1.竹島=独島関係論文 2.第7回大佛次郎論壇賞は「和解のために」 3.慶尚北道が中断している島根県との交流再開を検討 4.‘于山島’はやっぱり独島だった 5.日韓交流:江原道と交流再開「やったっちゃな」 知事と金知事、電話で会談 6.東京で竹島問題シンポ 7.独島はわが領土、古地図の研究がカギ 8.竹島啓発ポスター3年ぶり刷新 9.小学校教諭が竹島の本を再出版 10.来年は2月22日に「竹島の日」記念行事 11.独島で新たに26種類の生物確認 12.竹島=独島関係新刊書 1.竹島=独島関係論文 内藤正中「島根県竹島問題研究会報告書批判」『北東アジア文化研究』第26号 朴 炳渉「竹島=独島は固有領土か、強奪領土か」『もうひとつの世界へ』第12号 半月城「証拠としての竹島=独島地図、舩杉氏への批判」 2.第7回大佛次郎論壇賞は「和解のために」    朝日新聞、2007年12月16日  第7回大佛次郎論壇賞(朝日新聞社主催)は、韓国・世宗大日本文学科副教授、朴裕河 (パク・ユハ)氏(50)の『和解のために』(佐藤久訳、平凡社、税込み2310円) に決まった。 韓国で出版された作品の翻訳である受賞作は、副題に「教科書・慰安婦・靖国・独島」と あるように、隣国でありながら、多くの政治的問題を抱える日本と韓国へ、お互いの自省 と寛容による和解の道を提案する。 【コメント】朴裕河氏の竹島=独島論は、本人が語るように「乱暴」の一語につきます。  いずれ、反論を書く予定です。 3.慶尚北道が中断している島根県との交流再開を検討  聯合ニュース、2007/12/11 【大邱11日聯合】日本の島根県が2005年に「竹島の日」を制定したことから同県と の姉妹提携を撤回した慶尚北道が、民間レベルでの交流再開を検討している。慶尚北道が 11日に明らかにしたところによると、独島の領有権をめぐり3年にわたり島根県との交 流が中断しているが、民間レベルの交流とビジネス、観光、農業など経済分野での協力の 必要性を慎重に検討している。 4.‘于山島’はやっぱり独島だった   朝鮮日報(韓国語)2007.12.4  独島領有権で大きな争点だった「于山島が独島」という事実を立証することができる新 しい資料が発掘された。韓国海洋水産開発院独島研究センター責任研究員であるユミリム (柳美林) 博士は最近この開発院が発刊する「海洋水産動向」1250号で「朝鮮後期朴世 堂・1629~1703)」が書いた「欝陵島」を分析した結果、于山島は欝陵島ではなく独島を 指すことが明らかにされた」と述べた。 【コメント】下條氏の見当違いな反論が島根県の「Web竹島問題研究所」に掲載されました。 下條氏に対する反論は<半月城通信>を参照してください。 5.日韓交流:江原道と交流再開「やったっちゃな」 知事と金知事、電話で会談   毎日新聞 2007年12月4日  友好提携先の韓国・江原道が県と交流再開したことを受け、平井伸治知事は3日、県庁 知事室で金振〓(キムジンソン)知事と電話会談し、感謝の意を伝えた。訪韓を呼びかけ られた平井知事は9、10日に実施する予定。県・道知事が江原道で会談するのは05年 11月以来約2年ぶりとなる。 6.東京で竹島問題シンポ   山陰中央新報 2007.11.17  日韓両国が領有権を主張する竹島問題をテーマに、東京大東洋文化研究所が主催したシ ンポジウムが16日、東京都内であった。内藤正中・島根大名誉教授が竹島(韓国名・独 島)を「日本固有の領土」とする外務省の主張に異議を唱えたのに対し、島根県の竹島問 題研究会の座長を務めた下條正男・拓殖大教授が反論。しかし、内藤氏から明確な回答は なく、議論は平行線に終わった。 【コメント】下條氏の質問「太政官のいう竹島外一島」に対し、内藤教授は公文録の文章  を引用して「外一島」が松島(竹島=独島)であることを充分に説明しており、記事の  内容は不適切です。 7.独島はわが領土、古地図の研究がカギ   ハンギョレ新聞(韓国語)、2007.11.11  先週の6日と8日、釜山とソウルで二人の碩座教授の独島講義が開かれた。6日、東西 大学の講義は同大学の碩座教授である孔魯明(76)前外務長官が、明知大の講義は「院 長」と呼ばれる崔書勉理事長が単独にてそれぞれ2時間ほどおこなった。 8.竹島啓発ポスター3年ぶり刷新   山陰中央新報 2007.11.13  島根県と竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議が、日韓両国が領有権を主張する竹 島問題の啓発用ポスターを新たに作製した。3年ぶりの内容刷新で、竹島(韓国名・独 島)を自国領とする日本側の論拠をより強調した内容とした。  前回のポスターは、1905年の竹島の編入から、2005年2月で100周年を迎え ることをアピールしていたが、2年以上経過したことから、内容の変更に踏み切った。 9.小学校教諭が竹島の本を再出版   山陰中央新報、'07/11/11  隠岐島に赴任時に、日韓が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)の翻弄(ほんろう) された歴史をつづった「ある小さな小さな島の物語」を出版した島根県奥出雲町横田の小 学校教諭、宮森健次さん(46)が、12年ぶりに加筆・修正して本を再出版した。 10.来年は2月22日に「竹島の日」記念行事   山陰中央新報 2007.12.5  島根県は四日、来年二月二十二日に迎える三度目の「竹島の日」の記念行事を、同日に 松江市殿町の県民会館大ホールで開くと発表した。今年の式典は、県民が参加しやすいよ うに土曜日の二月二十四日に行ったが、竹島の日をより定着させるため、当日開催に戻す。 11.独島で新たに26種類の生物確認   朝鮮日報 2007.12.13  独島(日本名竹島)で、これまで発見されていなかった生物が26種類も生息しているこ とが分かった。 12.竹島=独島関係新刊書  独島/竹島韓国の論理(増補版) 金学俊/HosakaYuji /論創社 2007/11出版 268p 20cm ISBN:9784846006822 \2,625(税込) 日本海と竹島 続  大西俊輝 /東洋出版(文京区) 2007/10出版 388p 22cm ISBN:9784809675430 \2,900(税込) (韓国語新刊書) 省略 大佛次郎論壇賞『和解のために』に異議あり  2008/ 1/25 Yahoo!掲示板「竹島」No.16165   半月城です。   来る1月29日、朝日新聞社の大佛(おさらぎ)次郎 論壇賞の贈呈式が行なわれ、 朴裕河氏が受賞することになりました。彼女は韓国ソウルにある世宗大学で日本語を教え る教授ですが、この賞を外国人が受賞するのは初めてです。   受賞対象になったのは彼女の著書『和解のために』ですが、早速この本を読んだとこ ろ、特に第4章「独島」は問題が多いことがわかりました。彼女は「(韓国は)日本の主 張をきちんと聞いてみるべき」と書いているので、日本の主張を充分研究したつもりなの でしょうが、事実誤認がかなり多いのが実状です。   本人もそれを自覚してか、同書の「はじめに」において「第四章で試みた要約があま りにも乱暴に映るかもしれない」と書いたくらいでした。   これは本の性格によるのでしょうが、タイトルが日韓両国の「和解」をうたい文句に しているので、その前提のためにはどうしても日本と韓国がいかに対立しているのかを際 立たせる必要が生じます。   そのためか、同氏は「日本側の主張」とか「韓国側の主張」などという曖昧な用語を 多用し、いかにも韓国側の主張と日本側の主張が竹島=独島問題でことごとく対立してい るかのような論説を展開しました。   同氏は「韓国側の主張」についてはある程度知っているようなのでまだしも、「日本 側の主張」に至っては誤謬が多く見られ、とうてい論壇賞にふさわしい論説には思えませ ん。そうした誤謬を具体的に重要事件でみることにします。 1.太政官指令の「竹島外一島」   明治10(1877)年、現在の内閣に相当する太政官が「竹島外一島」すなわち、当時は竹 島と呼ばれていた欝陵島と、同じく松島と呼ばれていた竹島=独島を日本の版図外としま した。竹島=独島問題において最重要なこの指令に関し、同書は177頁にてこう記しま した。        --------------------   日本側の主張は、以下のようなものである。   1876年に朝鮮が日朝修好条規ならびに日朝通商条約を締結し、「日本人漁民処遇 規則」がつくられた。・・・・   このとき島根県が鬱陵島の所有権に対して明治政府に問い合わせたところ、明治政府 は鬱陵島ともう一つの島が朝鮮領だとの判断を下したが、このときの言及にあるもう一つ の別の島とは竹島ではなく、鬱陵島の横にある小さな島のことであった。        --------------------   まず基本的なことですが、島根県が明治政府に問い合わせたのは「鬱陵島の所有権」 ではなく、「竹島外一島」の「地籍編纂」処理に関してでした。明治政府は近代的な土地 台帳を明確にするため、全国土の地籍編纂事業をおこなったのですが、その時に島根県は 竹島・松島の地籍を同県に編制すべきかどうかを内務省に問い合わせたのでした。   その問い合わせを受けた内務省は、江戸時代の記録などを調査し、問題の「外一島」 を日本の版図外と判断しました。そのうえで「版図の取捨は重大の事件」との認識から念 のために国家最高機関である太政官に伺書を提出し、竹島・松島を版図外とする太政官指 令を得たのでした。   朴裕河氏は、この「外一島」は「鬱陵島の横にある小さな島」すなわち竹嶼(韓国名、 竹島)であると「日本側」が主張していると理解しているようです。   しかし「日本側」という語は漠然としていて、何を指すのか曖昧です。日本側という と日本政府を指すと思いがちですが、この場合、日本政府は当てはまりません。日本政府 は太政官指令に関しては下記のように判断を保留しています。        -------------------- 「独島めぐる太政官指令、日本が存在認めるも解釈留保」   聯合ニュース(韓国)2006/11/20  ・・・・・  聯合ニュースは9月中旬、日本の麻生太郎外相と自民、民主、共産、社民、公明の各 党代表あてに「1905年の日本閣議による独島の島根県編入決定に関する質疑書」を 送った。主な質疑内容は ▼1877年の太政官指令書が存在する事実を知っているか ▼知っているならば独島領有権に関し 非常に重要な文書である太政官指令書に1度も言  及しなかったのはなぜか ▼太政官指令書に従えば、「17世紀半ばまでに竹島領有権を確立した」という日本政府  の主張は虚構となるがどのように考えるか ▼1905年の独島編入の過程では太政官指令書を意図的に無視したのか――などとなっ  ている。  これに対し日本の外務省は数回にわたり、検討中のためしばらく待つよう答えた末、 11月13日に「太政官指令書の存在は知っている」「歴史的な事実などに対しては現在 調査、分析中で、現時点では日本政府の立場でコメントできない」という返答を送ってき た。日本政府が太政官指令書の存在事実を公式に認めるのはこれが初めてだ。韓日両国は 1950年代初め、独島領有権をめぐり政府レベルで文書を交わしながら激しい論争を続 けてきたが、太政官指令書は取り上げられていない。        -------------------   外務省が答えられないのも無理はありません。外務省は半世紀以上にわたって「竹島 は日本の固有領土」と言いつづけてきたので、明治政府が竹島=独島を日本領外としたと なれば、同省の「固有領土」の主張が根本から覆るだけに「解釈保留」を続けざるを得な いものと思われます。   現在、外務省のホームページにおいて、太政官指令は一言半句もふれられていません。 重要事項に関して沈黙しているのは情報隠しともいえます。   朴裕河氏のいう「日本側」が日本政府でないなら、それは当事者ともいえる「島根 県」かというと、そうでもありません。島根県は日本の公共機関では唯一「外一島」が竹 島=独島であると認めました。2007年に島根県が県内の全戸に配布した「竹島特集」のパ ンフレット『フォトしまね』161号にこう記されました。        --------------------   地籍編纂のため、内務省から1876年に竹島(現在の鬱陵島)に関する照会受けた 島根県は「山陰一帯ノ西部ニ貫付(所属)スベキ哉」と回答したものの、同省が最終的な 判断を仰いだ太政官は、同島と外一島を「本邦関係無之」とし、日本領でないとの認識を 示した。外一島とは、現在の竹島とみられる。        --------------------   朴裕河氏のいう「日本側」が政府や自治体でないのなら、日本の世論を指すのでしょ うか? しかし、日本では太政官指令自体がほとんど知られていないので、世論は論外で す。   つぎに「日本側」として考えられる可能性があるのは日本人学者です。しかし、学者 たちの見解は、次のようにほとんど「外一島」を松島(竹島=独島)とみました。 1.堀和生教授、「外一島」は松島(竹島=独島)(注1)。 2.塚本孝氏、「外一島」は松島(竹島=独島)(注2)。 3.内藤正中教授、「外一島」は松島(竹島=独島)(注3)。 4.舩杉力修教授、「外一島」は松島(竹島=独島)?(注4)。    一連の文書で現在の独島を日本領でないと規定 5.下條正男教授、毎年のように見解が変わり定見がない。   ちなみに下條氏の「外一島」に関する変説の遍歴は下記のとおりです(注5)。  2004、5年、「外一島」は竹島=独島かどうか不明。  2006年、  「外一島」は現在の竹島=独島とみられる。  2007年3月、島根県のいう「外一島」は「磯竹島略図」の松島、すなわち竹島=独島。          太政官のいう「外一島」は欝陵島。  2007年9月、島根県のいう「外一島」は欝陵島。   学者以外では『日本海と竹島』を出版した(医)厚生医学会理事長の大西俊輝氏が 「竹島外一島」を竹島(アルゴノート島、武陵島)、松島(ダジュレー島、于山島)とし ました。アルゴノートは架空の島、ダジュレー島は欝陵島を指します。   他に、竹島=独島問題で積極的な発言をしている国際法学者の芹田健太郎氏や朝日新 聞社の若宮啓文氏、櫻井よしこ氏などは太政官指令については口をつぐんでいるのが現状 です。   以上のように、太政官指令の「外一島」を朴裕河氏のいうように「鬱陵島の横にある 小さな島」とみている人は、日本では誰もいないといっても過言ではありません。   それも無理はありません。『公文録』に掲載された太政官指令の「外一島」は松島を 指しますが、同書付属の地図「磯竹島略図」で「鬱陵島の横にある小さな島」は「マノ 島」と書かれ、竹島=独島は「松島」の名で記載されました。朴裕河氏の理解は重大な誤 謬と言えます。 2.安龍福拉致事件   朴裕河氏の誤認は太政官指令だけにとどまりません。元禄時代の1693年、竹島(欝陵 島)で漁をしていた朝鮮人の安龍福を米子の大谷家が拉致して鳥取藩へ引渡すという拉致 事件がありましたが、この重要な安龍福拉致事件についても彼女は「日本側の主張」を間 違ってこう理解しました。  「安龍福は鬱陵島に向う途中で竹島の存在を知ったというが、・・・・彼が見たのは竹 島ではない。当時交渉の末に伯耆藩の藩主が朝鮮領と認定したふたつの島というのは、鬱 陵島と竹島ではなく、鬱陵島と竹嶼島であった」   まず、朴裕河氏は「伯耆藩」と書いていますが、伯耆国はあっても伯耆藩は存在しま せんし、そのように書いた日本人もいません。外務省が一時「伯耆州」なる語を使いまし たが、批判を受けて取り消したようです。伯耆藩は鳥取藩の誤りです。   つぎに、彼女は「当時交渉の末に伯耆藩の藩主が・・・」と書きましたが、「交渉」 とは鳥取藩主とだれとの交渉を指すのでしょうか?   文脈からすると、多くの韓国人学者が主張しているように、交渉相手は安龍福を指す ようです。しかし、日本では外務省も多くの学者もこぞって鳥取藩主は安龍福と交渉した 事実はないと主張しました。もちろん、安龍福にふたつの島が朝鮮領と認定した事実はな いと主張しました。朴裕河氏は韓国側の主張と日本側の主張を完全に取り違えるという、 信じられない誤りをおかしているようです。   あるいは「交渉相手」が仮に幕府だとします。一時、鳥取藩は幕府から質問を受けて それに回答したことがあったので、それを彼女が「交渉」と勘違いした可能性が少しはあ るかも知れません。   しかし、この場合でも彼女の論説は成り立ちません。鳥取藩は幕府へ竹島・松島のふ たつの島が自藩領でないと回答したのであり、朝鮮領と認定したことはありませんでした。   また同藩は、「ふたつの島」について「福浦より松島へ80里程」「松島より竹島へ 40里程」と幕府へ回答したので、ふたつの島はまぎれもなく欝陵島と竹島=独島を指し、 竹嶼ではあり得ません。   さらに想像を働かせれば、朴裕河氏は、あるいは「伯耆藩」と「幕府」を取り違えて いたのかも知れません。   しかし、この場合でも少し無理があります。幕府は、鳥取藩の回答を重視し、竹島 (欝陵島)を朝鮮領と認定し、同島への日本人渡航禁止を朝鮮へ対馬藩をつうじて伝えま した。この時、朝鮮へ伝えたのは「ふたつの島」ではなく、争点になっていた欝陵島のみ でした。そもそも幕府は松島(竹島=独島)の存在を知らなかったのでした。   そのうえ、さらに鳥取藩が回答書でついでに松島も自藩領でないと付記したので、幕 府は松島に領有意識を持ち得なかったことはいうまでもありません。   結局、朴裕河氏の理解は、あらゆる勘違いの可能性を考慮しても彼女の論説が成立す る余地はありません。   また、彼女は「彼(安龍福)が見たのは竹島ではない」としていますが、これも誤り です。彼を拉致した大谷家は竹島(欝陵島)へ往復する際に松島(竹島=独島)を航路の 目印にしており、あるいはそこで若干の漁をしていたので、安龍福を拉致した際にも松島 へ寄ったと考えられます。   さらに、安龍福自身も帰国後にそのような趣旨の供述をしました(注6)。したがって、 安龍福は拉致される途中で竹島=独島を実際に見たようです。国会図書館の塚本孝氏もそ のように解釈しました(注2)。   そのような体験があったので、1696年にみずからの足で日本へ来たときに、竹島・松 島を書き入れた「八道の図」をわざわざ持参し、隠岐の役人に松島は子山島であり、朝鮮 の江原道にあると訴えることが可能だったようです(注7)。その時に竹島と松島の間は 50里と語っているので、安龍福の語る松島は竹島=独島であることは疑いの余地があり ません。 3.おわりに   上記以外にも朴裕河氏の誤認は『和解のために』の随所に見られます。それらをすべ て指摘すると長くなりすぎるのでこの辺で切りあげますが、朴裕河氏は数多くの誤認をも とに、砂上の楼閣のような独島論を築きあげたようです。   その挙句、彼女はこう提案しました。        --------------------   独島をどちらか一方が占めつつ さらに数十年、あるいはもっと後の世代にまで不和 の火種を遺すよりは、互いに歩み寄り共有することのほうがはるかに勝ることだろう。   かくして独島が韓日間の平和を象徴する「平和の島」になりうるとしたら、その日は 韓日両国がまことの和解へと向かう道に、かつてない大きな一歩を踏み出す日となるに違 いない。        --------------------   朴裕河氏が竹島=独島問題に関して正しい歴史認識をもっているのならまだしも、彼 女自身も認める「乱暴」な論説の締めくくりとして竹島=独島の日韓「共有」を提案した のでは、彼女に率直に耳を傾ける人は少なくとも韓国ではほとんどいないことでしょう。   かくも「乱暴」な論説が受賞するなんて、大佛次郎論壇賞の名が泣くのではないで しょうか。ちなみに、同賞の趣旨はこう書かれました。  「論壇賞は21世紀の幕開けを機に、日本の政治・経済・社会・文化・国際関係等をめぐ る優れた論考を顕彰すべく設けられました」   誤謬の多い『和解のために』は、日韓両国の「和解」に寄与するどころか、韓国人の 憤激を買い、かえって対立を煽りたてることになると憂慮されます。まず問われるべきは、 日韓の歴史認識問題ではなく、彼女自身の歴史認識問題であるようです。 (注1)堀和生「1905年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987,P103 (注2)塚本孝「竹島領有権の経緯」『調査と情報』第244号、1994年、P4 (注3)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版、2000、P131 (注4)舩杉力修『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』2007、P156  「磯竹島略図」の解釈についてであるが、以下のことが指摘できる。  (1)一連の文書では竹島外一島は日本領でないと書いてあるが、現在の竹島が朝鮮領で   あるとは書かれていない。現在の独島を韓国領であると日本政府が認めたという解釈   は明らかに間違っている。日本領でないと規定しただけである。・・・」 (注5)内藤正中「答えに窮した? 内藤教授の反論」 (注6)『邊例集要』巻17、欝陵島、1694年1月 (注7)村上家文書『元禄九年丙子 朝鮮舟着岸 一巻之覚書』 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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