半月城通信
No.129 (2007.12.16)

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    目次

  1. 証拠としての竹島=独島地図、舩杉氏への批判
  2. 竹島=独島は固有領土か、強奪領土か
  3. 「竹島=独島問題ネットニュース」10、2007.11.3

  4. 証拠としての竹島=独島地図、舩杉氏への批判 2007.12.16 Yahoo!掲示板 No.16042   半月城です。   最近、ここの会議室に書いた私の文に対して「Web竹島問題研究所」のホームページにて舩杉力 修氏から「朝鮮側作製の官製地図にみる竹島」と題して、下記のような批判がありました。        --------------------  さて、最近地図の分析について次のような指摘がありました。「元来、地図は視覚的に訴える力が 大きいだけに、ややもすると数枚の古地図をとりあげて領土を論じがちですが、実のところ、不正確 な古地図は国際裁判においてはせいぜい伝聞証拠くらいの価値しか持たず、特に測量にもとづかない 地図は証拠能力に乏しいのが実状です」(半月城通信No.127)。国際法が専門の荒木教夫氏の 論文を引いて、不正確な古地図は国際裁判には価値がないとしています。  しかしながら、荒木氏の論文を読むと、一部のみの引用であることが分かります。荒木氏は、国際 裁判において価値が認められてきた地図は、過去の国境画定作業に基づいた国境条約に附属した地図 でも「当事国の合意」を示すものが基本であること、紛争当事国の公的地図は紛争解決の決定的証拠 とならないものの、関係領土において、主権を享有しないことを自ら認めているような地図は重要な 意味を有するとしています。  しかしながら、韓国側では、係争地(竹島)を自国にとって有利に描いた公的地図など1枚もなく、 それ以前の問題であり、係争地そのものを描いた公的地図が存在しないのです。さらに、係争地での 主権を行使した記録すらないのです。つまり、韓国側には、国際裁判において証拠となる地図が1枚 もないということが明らかになったといえます(注1)。        --------------------   舩杉氏は荒木論文の趣旨を認めているようなので、それを土台に議論をすすめることにします。 同氏は、古地図など測量に基づかない地図は国際裁判にて証拠能力に乏しいものであり、価値が認め られる地図は下記の二つの場合に限られると理解しているようです。 (A).国境条約に付属した地図 (B).主権を享有しないことを自ら認めている公的地図   このように整理すると、舩杉氏が熱心に収集して『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』 に発表した多くの地図や絵図は「測量に基づかない」ことと、公的な地図でないので、国際司法裁判 所においてほとんど意味をもたないということになります。ひいては、竹島=独島の領有権論争にお いてもほとんど意味をもたないということになります。『最終報告書』は、しょせんは趣味的に古地 図を収集したようです。   趣味の世界は好事家にまかせて、ここでは竹島=独島論争に価値のある地図をピックアップする ことにします。上記(A),(B)ですが、竹島=独島に関していえば、国境条約自体が存在しないので、 上記(A)に該当する地図は存在しません。したがって議論は(B)の公的地図に絞られます。それを踏ま えて日韓両国の地図を概観することにします。 1.公的な日本地図   江戸時代から「竹島領土編入(1905)」以前の明治時代にかけて作成された竹島=独島関連の官撰 地図、および官製地図は下記のとおりです。ここでいう「官撰地図」とは地理や国土の担当部署が作 成した地図をさし、それ以外の政府機関により作成された地図を「官製地図」と呼びます。 1-1.日本の官撰地図 (a)1821年「大日本沿海実測全図(実測輿地全図)」、俗称「伊能図」、幕府作成 (b)1867年「官板 実測日本地図」、幕府出版(1870年に明治政府の開成学校から再版) (c)1879年「大日本府県管轄図」、内務省地理局出版 (d)1880年「大日本国全図」、同上 (e)1881年『大日本府県分轄図』、同上(1883年に改訂版)   これらの地図の概略はすでに書いたとおりです(注2)。上記5種類の官撰地図で竹島=独島が 含まれるのは、(e)『大日本府県分轄図』中の極東図「大日本全国略図」のみです。それ以外の地図 に竹島=独島はまったく描かれませんでした。   ただし『大日本府県分轄図』ですが、その中の島根県など各府県図に竹島=独島は描かれません でした。また初版では「大日本全国略図」に竹島と松島は山陰道と同色に彩色されましたが、これは 作成者の無知による誤りと思われ、改訂版では訂正され無彩色にされました。すなわち、改訂版にて 竹島=独島は日本領外と認識されました。蛇足ながらつけ加えれば、上記すべての地図ならびに下記 の官製地図に「リアンクール」の名前は登場しません。   このように「竹島編入」以前、日本政府の官撰地図はすべて竹島=独島を日本領外と認識しまし た。 1-2.日本の官製地図 (a).陸軍参謀局「大日本全図」1877、竹島・松島なし。 (b).文部省「日本帝国全図」1877、竹島・松島は無彩色。 (c).陸軍陸地測量部「輯製二十万分一図一覧表」1885製図、1890修正、1892再修   松島はなし。竹島に相当する島は点線表示で島名がなし。 (d).「磯竹島略図」、『公文録』付属地図として取り扱われる。   上記(a),(b),(c)のすべての地図において、竹島=独島は日本領外として扱われました。また(d) 「磯竹島略図」自体には領土の概念はありませんが、『公文録』本文で竹島外一島、すなわち竹島と 松島を版図外とする際に付属地図として使用されたので重要です。このようにすべての官製地図にお いても竹島=独島は日本領外として描かれました。   まとめると、日本政府は竹島=独島に関して「主権を享有しないことを自ら認めている公的地 図」を作成しましたが、主権の享有を示唆する地図は一時的に誤った「大日本全国略図」を除いて まったく作成しませんでした。   さらに官撰地誌『日本地誌提要』も竹島・松島を日本領外として記述し、明治時代の地理専門家 もそのように確認していることはすでに書いたとおりです(注3)。こうした認識が明治初期の日本 政府の公式見解です。 2.公的な朝鮮地図 2-1.朝鮮の官撰地図   政府の担当機関による国土の近代的な測量は実施されなかったので、1905年以前に官撰地図はありません。 2-2.朝鮮の官製地図   1905年以前、学務行政を司る大韓帝国学部から「教材用」として、下記の地図2種類が発刊され ました。 (1).『大韓輿地図』、1899年?   この地図で欝陵島の東北東に「于山」と記された島がすぐ近くに描かれました。また、欝陵島の 南には実在しない島が5島も描かれました。欝陵島の形も不正確であり、測量に基づかないで描かれ たことは明白です。この地図の成立年代を舩杉氏は1900年頃としましたが、愼鏞廈氏は1898年(注 4)、堀和生氏は1899年としました(注5)。 (2).『大韓全図』、1899年   この地図は経緯度が描かれたのが特徴ですが、欝陵島近辺に関するかぎり前項の『大韓輿地図』 とほぼ同じです。地図の欄外に「光武三年一二月一五日 學部編輯局刊行」と記されました。   『大韓輿地図』および『大韓全図』に描かれた于山を韓国の多くの学者は独島であると主張する のに対し、舩杉氏はそれらの地図に竹島=独島は描かれなかったと述べ、意見が対立しました。一方、 堀和生氏は『大韓輿地図』についてこう記しました。        --------------------   19世紀末、朝鮮政府が欝陵島の開発に着手すると、于山島への認識はより正確になった。その 時点の朝鮮側の認識を示すものが、図1に掲げた大韓帝国学部編「大韓輿地図」(1899年 奎章閣所 蔵)であり、古地図としては欝陵島と于山島がほぼ正しい位置関係に画がかれている(注5)。        --------------------   堀和生氏も于山を竹島=独島とみているようです。古地図の読み方は見る人によりさまざまです。 このように位置や形状などが不正確な古地図は万人の共通理解を得られないだけに、国際司法裁判所 において証拠とはなり得ないという荒木氏の指摘はもっともです。   結局、韓国の官製地図において于山島の記述はあいまいなままであり、証拠になる得る近代的な 公的地図は存在しないようです。なお、有名な「大東輿地図」は民間人である金正浩が作成したとい われているので、その地図から国家の意志を読み取ることはできません。   結論として、韓国には舩杉氏がいうように「国際裁判において証拠となる地図が1枚もない」と いえるのに対し、日本は竹島=独島の領有を否定する公的な地図のみが数多く存在します。しかも、 それらは国際司法裁判所にて日本の歴史的な竹島=独島領有を否定する有力な証拠になりそうです。 (注1)朝鮮側作製の官製地図にみる竹島 (注2)半月城通信<日本の公的な官撰地図、舩杉氏への批判> (注3)半月城通信<『日本地誌提要』の竹島・松島、舩杉氏への批判> (注4)愼鏞廈『独島(竹島)』インター出版、1997,P126 (注5)堀和生「1905年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987,P100 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 竹島=独島は固有領土か、強奪領土か 雑誌『もうひとつの世界へ』No.12, P14, 2007.12月号、ロゴス社 はじめに   竹島=独島問題は日韓間に突きささったトゲのようなもので、事あるごとに両国の民族心を刺激 し、過去にはそれが高じて銃撃戦にまで発展したこともありました。一昨年も竹島=独島周辺の調査 船問題がこじれて、一時は日韓両国の警備艇同士が衝突する事態も懸念されたほどでした。   もともと竹島=独島問題の根は深く、日韓両国が正反対の見解で角突き合わせているだけに、今 後も同じような騒動が繰り返される恐れがあります。昨年も韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は 対日政策に関する異例の特別談話を発表し、竹島=独島問題は「日本が朝鮮半島の侵略で最初に奪い 去った歴史の土地だ」と述べ、激しく日本を非難しました。   これに対する日本政府も一歩も後へ引かないようです。その核になっているのは、半世紀以上も 外務省が言いつづけてきた「竹島は日本の固有領土」という主張です。このように日韓両国は竹島= 独島の歴史を根拠に強硬な主張を繰り返していますが、その割には竹島=独島の歴史が、特に日本で はよく知られていないのが現状です。そこで、この稿では主に歴史に重点をおき、江戸時代から明治 時代を概観することにします。 江戸時代の竹島=独島領有意識   日本政府が竹島=独島を日本の固有領土とする根拠は時代とともに変化してきたのですが、その 詳細は省き、最近の主張を同省のホームページにみることにします。竹島=独島を固有領土とする根 拠として下記の3項目を掲げました。 (1)竹島の認知   今日の竹島は、我が国では明治時代の初め頃までは「松島」の名前で呼ばれており、当時「竹 島」(または「磯竹島」)と呼ばれていたのは、現在の鬱陵島のことでした。しかし、我が国が、古 くから「竹島」や「松島」をよく認知していたことは、多くの文献や地図等により明白です。 (2)竹島の領有   我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していたと考え られます。この当時、鳥取藩米子の大谷・村川両家は、鬱陵島への渡海を幕府から公認され、交互に 毎年1回、同島に渡海して漁労や竹木の伐採等を行うとともに、これによって得られた鮑(あわび) を幕府に献上してきました。この間、今日の竹島は、鬱陵島への渡海の船がかりの地として、また、 漁採地として利用されていました。 (3)鬱陵島への渡海禁止   大谷・村川両家による鬱陵島の開発は約70年間平穏に続けられていました。しかし、1692年に村 川家が、また、1693年に大谷家が鬱陵島に出向くと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事して いるのに遭遇しました。これを契機に、日本と朝鮮の政府間で鬱陵島の領有権を巡る交渉が開始され ましたが、最終的に幕府は、1696年1月、鬱陵島への渡海を禁止することとしました(いわゆる「竹 島一件」)。ただし、竹島への渡航は禁じませんでした。   日本が竹島や松島をいかによく知っていようとも、それだけでその地が日本領になるわけではあ りません。また、その地で頻繁に漁労や竹木の伐採等を行なうことは、もしその地が外国領であれば、 その行為は密漁ないしは略奪行為であり、許されるものではありません。欝陵島がその典型例でした。   1620年、江戸幕府は対馬藩に命じて、竹島(欝陵島)で密貿易を行なっていた弥左衛門・仁 右衛門親子を「潜商」の罪で捕えました。そのことが幕府の外交資料集である『通航一覧』に記され ましたが、その記事において欝陵島は「竹島、朝鮮国属島」と記述されました。幕府は竹島を明確に 朝鮮領と認識していたのでした。   それにもかかわらず、幕府は「潜商事件」の5年後、外務省が説明するように、竹島への渡海免 許を鳥取藩の大谷・村川両家に与えました。幕府に竹島奪取の意図があったのかどうか疑われるとこ ろです。このように幕府や対馬藩が朝鮮領と考えていた竹島へ大谷・村川両家が出漁したのですから、 朝鮮漁民との「遭遇」は必然でした。 元禄期の1693年、二度目の遭遇を契機に、幕府は朝鮮との通商をまかせていた対馬藩に対し、竹島へ 朝鮮人が渡海しないように朝鮮へ要求する交渉を命じました。外務省のホームページに述べられた 「竹島一件」の始まりですが、これは無理難題でした。朝鮮領である欝陵島へ朝鮮人の渡海を禁じる という途方もない要求だっただけに、朝鮮が受けいれるはずがありません。交渉はたちまち暗礁に乗 りあげました。   その時になって、幕府はやっと竹島問題を本格的に調査し始めました。まず、鳥取藩へ7か条の 問い合わせをおこないました。その第1条を意訳すると「因州、伯州に付属する竹島はいつのころか ら両国の付属か?」となります。当時の幕府は、竹島が因伯両国を支配する鳥取藩の所属と思いこん でいたようです。   しかるに、鳥取藩の回答は「竹島は因幡、伯耆の付属ではありません」として自藩領ではないこ とを明言しました。そもそも、竹島への渡海許可は鳥取藩主によるものではなく、幕府の老中4人が 連署した奉書によってなされたので、鳥取藩の回答は当然でした。   幕府は、他に竹島の大きさや渡海の実情などを尋ねましたが、注目されるのは第7条の「竹島の 他に両国へ付属の島はあるか?」との質問です。これに対する鳥取藩の回答は「竹島や松島、その他、 両国に付属する島はありません」として、松島(竹島=独島)も鳥取藩の付属でないことを明言しま した。実はこの時、幕府は松島の存在を知らなかったのでした。幕府は回答書に松島の名が登場した ことに関心を示し、追加質問をおこなったくらいでした。   外務省のホームページは、欝陵島への渡航禁止後も松島への「渡航は禁じませんでした」と記し ましたが、これは明らかに我田引水です。竹島が鳥取藩所属でない、ひいては日本領でないという理 由で同島への渡海を禁止したのですから、同じく鳥取藩所属でない松島もひいては日本領ではないの で、渡海が当然禁止されたとみるべきです。   さらに当時、松島は竹島と一対ないしは竹島の付属島と考えられており、史料に「竹島近辺松 島」「竹島の内松島」などと記されました。そもそも、松島はその名前に反して松の木はおろか、木 が1本も生えていない岩の島でした。それにもかかわらず松島と呼ばれたのは、竹島と対をなすとい う考えから自然に名づけられました。そのため、多くの「地図や文献」で両島は一対に扱われました。 しかし、公的な地図や文献で両島が日本領として記載されたことは一度たりともありませんでした。   地図でいえば、外務省は沈黙していますが、江戸時代に発行された唯一の官撰地図「官版 実測 日本地図」に竹島・松島は記述されませんでした。この地図は伊能忠敬の地図を元に作られたのです が、伊能図にも竹島・松島はありません。官撰地図や官撰絵図からも江戸幕府は竹島=独島を日本領 と認識していなかったことがわかります。 朝鮮王朝の竹島=独島領有意識   朝鮮では古くから朝鮮の東海に二島あることが知られていました。二島とは欝陵島と于山島です が、欝陵島は時には武陵島、蔚陵島など様々な名前で呼ばれました。両島は15世紀の官撰地理誌で ある『世宗実録』地理志にこう記されました。   于山と武陵の二島が県の真東の海中にある。お互いに遠くなく、風日が清明であれば望見するこ とができる。新羅の時に于山国と称した。一説に欝陵島と云う。その地の大きさは百里という。   欝陵島近辺には無数の岩や島がありますが、天候が清明の時にだけ望見できる島は竹島=独島し かありません。したがって、この文章における于山島は竹島=独島とみることができますが、その位 置や大きさなどは記載されませんでした。さらに、当時の欝陵島には倭寇などを避けるために空島政 策がしかれ、渡海が禁じられていました。そのため、于山島の認識はあいまいで、いわば書物の上だ けの観念的な存在でした。   ところが、1696年に一大転機が訪れました。韓国で英雄とされる漁民の安龍福が鳥取藩へやって 来ました。かれは、3年前に欝陵島で日本の大谷船により拉致されたことがありましたが、今度はみ ずから来日しました。   その目的は鳥取藩への訴訟であり、朝鮮の官吏を装って、船に「朝欝両島 監税将 臣 安同知騎」 と書いた旗を立ててやって来ました。旗の意味を日本では「朝鮮の欝陵、子山両島の監税将、臣、安 同知が乗務」と解されました。子山は于山島であり、同知は職名です。   この時の安龍福は訴訟のために「朝鮮八道の図」まで用意しました。その地図で欝陵島と子山島 が朝鮮の江原道に属するとされました。しかも欝陵島は日本でいう竹島、子山島は松島であり、両島 は朝鮮領であるとされました。   この事件は、鳥取藩のみならず、幕府や対馬藩に衝撃を与えました。紆余曲折の末、対馬藩は当 初の主張とは逆に日本人の渡海禁止を朝鮮へ伝達して「竹島一件」交渉を終結させました。   この安龍福の第2次渡日事件により、朝鮮の官撰史書である『東国文献備考』や『萬機要覧』な どに「欝陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいうところの松島なり」と記されるようにな り、于山島に対する領有意識が確立しました。   しかし、離島に対する空島政策がその後も継続されたため、于山島の存在は次第にあやふやにな り、1900年の勅令41号では于山島の名が消え、竹島=独島は石島とされました。その詳細は文末の 参考書に譲ることにします。 明治時代の「竹島外一島」版図外確認   かつて奈良時代に全国の風土記が作成されましたが、それに匹敵する本格的な地理誌が明治初年 に発刊されました。刊行は、明治時代の国家最高機関である太政官に付属した正院地誌課およびそれ を引き継いだ内務省地理局によってなされました。その『日本地誌提要』は、竹島・松島を「隠岐」 条にてこう記しました。    ○本州の属島。知夫郡45。海士郡16。周吉郡75。穩地郡43。合計179。これを総称して隠岐の小島 という。  ○また、西北にあたり松島・竹島の2島がある。土俗が伝えている。穩地郡の福浦港から松島に至 る。海路はおよそ69里35町(275km)。竹島に至る。海路およそ100里4町(393km)。朝鮮に至る海路およ そ136里30町(537.3km)。      このように官撰地誌において竹島・松島が本州の属島外とされましたが、これは重要です。明治 政府が両島を日本の領土外と断定したことを意味します。明治時代の地理学者である田中阿歌麻呂も そのように理解して『地学雑誌』200号にこう記しました。  「明治初年に到り、正院地誌課にてその島(竹島=独島)が本邦の領有を完全に非認したので、そ の後の出版された多くの地図はその所在を示さないようである。明治八年 文部省出版 宮本三平氏の 日本帝国全図にはこれを載せても、帝国の領土外に置き塗色せず」   明治政府は、竹島・松島を日本の領土外とする方針をその後も一貫して堅持しました。その一例 として明治政府の地籍編纂事業をあげることができます。明治10(1877)年、竹島(欝陵島)の地籍 が問題になった時に内務省は元禄期の「竹島一件」を考慮し、竹島外一島を日本の領土外と判断しま した。ここにいう「外一島」が松島(竹島=独島)をさすことは、島根県からの伺書「日本海内 竹 島外一島 地籍編纂方伺」に添付された資料から明白です。そこにこう記されました。   次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町(3.3km)である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだて る80里(320km)ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣(アシカか)を産する。   また、島根県からの伺い書に「磯竹島略図」が添付されましたが、そこに描かれた松島を見ても 同島が竹島=独島を指すのは明らかです。内務省は「領土の取捨は国家の重大事」との認識から念の ために太政官の裁可を仰ぐべく「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」を太政官へ提出しました。こ れは難なく承認され、竹島・松島を日本の領土外とする太政官の指令が出されました。   この決定にしたがい、国土担当機関である内務省を始め、政府機関は地図において竹島=独島を 日本の領土外として扱いました。それらの一覧は下記の通りです。 1.内務省(1879)、「大日本府縣管轄圖」、竹島・松島なし 2.内務省(1880)、「大日本國全圖」、  竹島・松島なし 3.内務省(1881)、『大日本府縣分轄圖』、各府県図に竹島・松島なし (極東図の「大日本全国略図」改訂版で竹島・松島は無彩色) 4.陸軍参謀局(1877)、「大日本全圖」、竹島・松島なし。 5.陸軍陸地測量部(1885)、「輯製二十万分一圖一覧表」、松島はなし。竹島は島名がなく、点線表示。 6.文部省(1877)、「日本帝國全圖」、竹島・松島は無彩色   これらの地図で竹島=独島はまったく記載されないか、あるいは描かれても日本領外として無彩 色にされました。この認識は海軍でも同様でした。水路部は竹島=独島を『日本水路誌』には載せず、 『朝鮮水路誌』にリアンコールト列岩の名で記載しました。また、外務省の認識も同様で、明治初年 の『朝鮮国 交際始末 内探書』において「竹島松島 朝鮮付属に相成候 始末」とする報告書を作成し ました。   このように明治政府のすべての機関が、竹島=独島を朝鮮領と考えていたといっても過言ではあ りません。このような事実に対して、外務省は一切沈黙したままです。これは一種の情報隠しといえ ます。 日本の「竹島領土編入」   帝国主義国家として著しい発展を遂げた日本帝国は、朝鮮や満州における勢力圏確保をめぐって ロシアと対立するようになり、1904年2月、旅順のロシア艦隊に奇襲攻撃をかけて日露戦争を始めま した。   しかし、初期の戦況は日本に不利でした。特に日本海では日本の輸送船がウラジオ艦隊に次々と 沈められ、軍需物資の補給に支障をきたしていました。そのため、日本海における軍事施設の強化が 急務であり、欝陵島や竹島=独島は重要な軍事上のキーストーンとして浮かびあがりました。   そうした折、隠岐に住む中井養三郎はリヤンコ島(竹島=独島)におけるアシカ猟の独占を図り 「リヤンコ島領土編入ならびに貸下願」を政府に提出しました。しかし、これには内務省が反対しま した。かつて同省は竹島=独島を版図外とする太政官指令を受けていただけに、願書に対して「この 時局に際し、韓国領地の疑ある莫荒たる一箇不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の 野心あることの疑を大ならしむ」として願書を一旦は却下しました。   しかし、外務省の考えは違っていました。政務局長の山座円二郎は「時局なればこそ、その領土 編入を急要とするなり。望楼を建築し、無線もしくは海底電信を設置せば、敵艦監視上きわめて屈竟 ならずや。特に外交上、内務のごとき顧慮を要することなし。すべからく速やかに願書を本省に回付 せしむべし」として中井を督促しました。   この時期、日本は日英同盟や桂タフト条約を締結しており、もはや朝鮮問題で西欧列強に神経を 使う必要がなかったのでした。日本は帝国主義国家の本性のままに領土拡張の牙をむきだしにしたの でした。この外務省の論理に内務省も従い、1905年2月、リヤンコ島を日本領へ編入することを閣議 決定しました。   日本政府が竹島=独島を領土編入した論理ですが、それは「無主地」であるリアンコ島に中井が 1903年以来「移住」したので、これを国際法上の占領と認めて日本の領土に編入したというものでし た。   しかし、この論理には無理があります。まず、竹島=独島は民間人が居住できるような島ではな かったし、また中井が竹島=独島に本格的に居住した事実もありませんでした。それにも増して重要 なのは、それまで日本政府が朝鮮領と考えていたリアンコ島を無主地と判断したことです。かつて明 治政府は、内務省や外務省、海軍、太政官など関係機関が同島を朝鮮領と考えていましたが、その判 断を根本的に覆すものでした。   閣議決定後、領土編入は政府内で秘密裏に処理されました。官報による告示もなく、わずかに政 府の訓令を受けた島根県が県告示で関係者に公表したにとどまりました。同県は2月22日、県告示 四〇号で同島を竹島と命名し、隠岐島司の所管にすると公示しました。   このように日本の竹島=独島編入は政府レベルで秘密裏になされたので、日本国民はその事実を ほとんど知らずにいました。それどころか主要なマスコミすら知らずにいました。告示から三か月以 上たった五月三十日、日本海海戦の勝利を伝えるほとんどの新聞は「竹島」の名前を用いずに、外国 名の「リアンコールド岩」という名で報道しました。   はなはだしくは、海軍省や官報ですら「竹島」でなく「リアンコールド岩」の名を使用していま した。これは水路部を擁し、国境について熟知しているはずの海軍省においてすら「竹島」編入の事 実が周知徹底していなかったようです。また、地元の山陰新聞は県告示を「隠岐の新島」という見だ しで小さく報道しました。地元でも固有領土の意識は皆無だったようです。 おわりに   日本は江戸、明治時代をとおして竹島=独島の領有を確認したことは一度たりともありませんで した。それどころか、元禄期および明治10年の二回にわたり、竹島=独島を朝鮮と関連づけて幕府や 太政官は日本の領土ではないと判断したのでした。   その後、帝国主義国家として発展した日本は、日露戦争のさなか「時局なればこそ、その領土編 入を急要とするなり」との判断から竹島=独島の領土編入を閣議決定しました。その際の口実は、竹 島=独島は「無主地」であるというものでした。これは現在の外務省が主張する「固有領土」説と相 いれないことはいうまでもありません。 参考書;内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争』新幹社、2007 竹島=独島問題ネットニュース 10   2007.11.3                 竹島=独島問題研究ネット発行  ニュース一覧 1.独島本部、江原道と鳥取県の交流合意に批判声明 2.領土問題テーマに小中学生が公開授業 3.松江駅前に竹島広告塔設置を検討 4.「Web竹島問題研究所」公開始まる 5.竹島の隠岐所属示す彩色地図見つかる 6.ソウルで10日から「北東アジア歴史週間」イベント開催 7.市民交流の視点強調 独島問題シンポ 8.嶺南大で独島関連国際学術大会開かれる 9.下條正男<「事実かどうかは問題ではない」と言いきった韓国「独島本部」> 1.独島本部、江原道と鳥取県の交流合意に批判声明  聯合ニュース、2007/11/02 【鬱陵2日聯合】独島関連市民団体の独島本部は2日、江原道知事が日本の鳥取県との交流再開に合 意したことを受け、これを強く批判する声明を発表した。  声明は、「先月31日に金振ソン(キム・ジンソン)江原知事と平井伸治・鳥取県知事が両自治体 間の交流を再開するため努力すると合意したことは、『竹島は日本の領土』とする鳥取県の主張を国 際社会に認定する結果」だとし、合意撤回を要求した。 2.領土問題テーマに小中学生が公開授業  山陰中央新報、07/10/14  日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)など領土権問題をテーマにした公開授業が十三 日、松江市大庭町の島根青少年館であり、島根県内の小中学生三十六人が竹島問題の経緯や問題点を 学んだ。  竹島と隠岐島のつながりを盛り込んだ副教材の作成に携わった同県隠岐の島町の布施中学校の常角 敏教頭(49)がビデオ映像を交え、かつて島の漁民にとって絶好の漁場だった竹島で、韓国側の一 方的な武力占拠が続く現状を説明した。 3.松江駅前に竹島広告塔設置を検討  山陰中央新報、07/09/29  啓発広告塔や土産物で「竹島」をアピールへ-。日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独 島)が、島根県に属する日本固有の領土ということをアピールするため、県はJR松江駅前への広告 塔の設置に向けて検討を始める。出雲空港などにはすでにあるが、「一番往来の多い県都の駅前にな いのはおかしい」との指摘を受け、乗り出した。竹島グッズの商品開発にも力を入れる。 4.「Web竹島問題研究所」公開始まる  山陰中央新報、2007.9.28 島根県が27日から運用を始めたホームページ「Web竹島問題研究所」  竹島(韓国名・独島)をめぐる研究成果を公開する島根県のホームページ(HP)「Web(ウェ ブ)竹島問題研究所」の運用が二十七日、始まった。県はHPを通じて国内外から意見を求め、竹島 問題に対する共通認識を築きたい考え。 5.竹島の隠岐所属示す彩色地図見つかる  山陰中央新報、2007.9.14  竹島(韓国名・独島)に島根県隠岐諸島を指す「隠岐国」と同じ彩色を施した、水戸藩の地理学 者・長久保赤水による江戸時代の日本図「改正日本輿地路程全図」(1779年刊)の改訂版が、江 津市の旧家で見つかった。竹島が日本領で、隠岐に所属するとの認識が当時、広がっていたことを示 す史料として注目されそうだ。 【コメント】記事の地図は、1846年の弘化版であるが、竹島(欝陵島)と松島(竹島=独島)を 日本領として着色していることから、元禄時代に竹島を領土外と確認した「竹島一件」に無知である ことがわかる。そのように無責任な地図であれ、注目すべきは、竹島・松島を一対に扱っていること である。 6.ソウルで10日から「北東アジア歴史週間」イベント開催  朝鮮日報、2007.9.10  北東アジア歴史財団(金容徳〈キム・ヨンドク〉理事長)が創立1周年を迎えるに当たって企画し た「北東アジア歴史週間」イベントが、10日から16日まで、ソウルで開催される。 7.市民交流の視点強調 独島問題シンポ  民団新聞、2007-10-24 国家のしがらみ超えて…鳥取団長が訴える、忠南大学校で  忠南大学校日語日文学科が主催した独島(竹島)問題を考えるシンポジウムに日本からパネリスト として民団鳥取県本部の薛幸夫団長と前島根大学教授の内藤正中さんが招かれた。  シンポは17世紀後半、鬱陵島と独島を韓国の領土として守った朝鮮時代の番人兼民間外交官で、韓 国でいまも英雄視されている安龍福の業績に再照明をあてるのが目的。5日、同大学校人文大学教授 会議室で開かれた。 8.嶺南大で独島関連国際学術大会開かれる  聯合ニュース(韓国語)、2007.10.25 日、中 など4ヶ国学者、熱を帯びた討論  約100年前の1900年10月25日大韓帝国が勅令41号 を公布して独島が鬱陵島の管轄にとなるという事 実を国内外に知らせたことを記念するための国際学術大会が25日嶺南大で開かれた。慶尚北道と嶺南 大共同主催でこの日午前10時から嶺南大国際館3階大会議室で開かれた国際学術大会には我が国と日 本、中国、ロシアなど北東アジア4ヶ国の学者たちが参加して「近代秩序と領土、現在の独島問題」 を主題に熱を帯びた討論をした。 9.下條正男<「事実かどうかは問題ではない」と言いきった韓国「独島本部」> 『正論』2007.10月号, P288  下條正男氏は同稿で「半月城通信は下條正男批判等とし、竹島問題に関する私の見解に対して、根 も葉もない誹謗中傷をつづけている」と記述したが、具体的に半月城通信のどこが誹謗中傷なのか明 らかにしていない。下記の15回にわたる「下條正男批判」シリーズで誹謗中傷になるような記事は 皆無である。 半月城通信<下條正男批判> 以上



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