半月城通信
No. 64

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 朝鮮出身?東郷・元外相の戦争責任
  2. 東郷・元外相は朝鮮出身?
  3. 竹島(独島)と日本の歴史認識
  4. 金嬉老の釈放
  5. 金嬉老事件の裁き
  6. 差別克服のドラマ


文書名:[aml 13710]朝鮮出身?東郷茂徳の戦争責任 Date: Sat, 28 Aug 1999 17:56:46 +0900   とほほさん、こんばんは。ご期待にそえるかどうかわかりませんが、東郷 茂徳について私なりにコメントしたいと思います。   とほほさん、 >今日 NHK BS7 を見ていたら 韓国で日本のA級戦犯であるところの東郷重徳 >(<字が違うかも)さんを評価する放送がなされた、と言う番組を見ました。 >もちろん、この NHK の放送の政治的世論誘導的意図は十分感じます。 >それを度外視してこの人物に興味を持ったのです(韓国出身で、開戦責任を >問われた外務大臣さんだそうです。)   アジア太平洋戦争開戦時の外務大臣・東郷茂徳は、生まれたときの姓が 「朴」だったので、彼を韓国あるいは朝鮮出身とみなす人は、韓国どころか日 本でも少なからずいたようです。韓国出身かどうかは案外ややこしく、また興 味あるテーマなので、これは次回ふれることにして、まずは彼の戦争責任から 記したいと思います。   中井さん、 >彼の記念館が鹿児島県の東市来町にあり、公費でできたとき、住民の反対運 >動があったことを知っています。 >昨年11月、小渕恵三もこの記念館を視察しています。   A級戦犯・東郷茂徳は90年代に入り再評価され、彼の伝記本が相次いで 刊行されました。また、昨年は上に紹介された彼の記念館が東市来町(鹿児島 県)の町おこし運動の一環として、4億円を投じ建設されました。   町議会では共産党が「侵略戦争やA級戦犯の美化、顕彰につながる」とし て反対しました(注1)。たしかに彼は無謀な戦争をしかけた政府の閣僚だっ たので、開戦責任はもちろん免れません。   そのうえ、彼の場合は開戦時における卑怯な「真珠湾闇討ち」の責任者と して、東京裁判できびしくその責任が問われ、二重の非難があびせられたのは よく知られているとおりです。このような非難は当然のことではないかと思い ます。   その一方で、なぜ日本はあのように無茶な戦争をしでかしたのか、その解 明にあたって、外務大臣・東郷のはたした役割はいうまでもなく重要なので、 この機会にその足跡をたどってみたいと思います。   東郷は、悪名高き東条内閣のもとで外相に就任しましたが、東郷を評価す るには、彼がいた東条内閣とはどんな内閣で、どのように行動したのかを知る 必要があります。   そのさわりについて、かって私はこう記しました(注2)。      ***************************   一般に、主戦論者である東条首相こそが無謀な戦争をしかけた張本人のよ うに思われているようですが、意外にも東条首相は「変節」したのではないか と疑われるくらい、開戦には慎重であったようです。   東条は10月18日、首相に就任するとただちに陸軍省軍務局に国策再検 討の研究を命じました。その一方、東条の参加する大本営政府連絡会議は連日、 開戦か臥薪嘗胆か国策の再検討を行いました。   当時の状況を山田朗氏はこう語っています(注3)。            --------------   統帥部とりわけ参謀本部の作戦関係者は、徹底した主戦論者と見られてい た東條が執拗に国策再検討を主張することに「節操ありや」「変節なり」と強 く反発した。   10月21日、参謀本部部長会議はこのままでは作戦的好機を逸するとし て「10月末日に至るもわが要求を貫徹し得ざる場合には、対米交渉を断念し、 開戦を決意す」ることを改めて申し合わせた(大本営陸軍部第20班『大本営 機密戦争日誌』)。   東條は天皇の意思を楯にして和戦両様、すなわち戦争準備を整えつつも外 交交渉を継続することを強調し、対する統帥部は即時交渉うちきりと開戦決意 をせまった。   国策決定のための大本営政府連絡会議を前にして11月1日早朝、東條首 相兼陸相は杉山参謀総長と会談したが、ここでも東條は天皇の意向をもちだし て統帥部の即時開戦論をたしなめた。・・・  (統帥部の)田中作戦部長も、東條にとって「お上の御意志こそが、何物に も勝る絶対的なもの」であったとしている。   あくまでも天皇の意思を尊重しようとする東條の姿勢は天皇にもよく通じ ており、戦後、昭和天皇も東條について「彼程、朕の意見を直ちに実行に移し たものはない」(木下道雄『側近日誌』文芸春秋)と木下道雄侍従次長に語っ ている。   このように東條は天皇の意思を楯にして(さらに正確に言えば、彼が天皇 の意思だと信じた線に沿って)統帥部とわたりあったが、実際の天皇の意向は、 統帥部の説得によりこの時期にはかなり開戦論に傾いていた。   11月1日の大本営政府連絡会議では、16時間におよぶ討議の末、交渉 不成立の場合には12月初旬に武力発動をおこなうとする「帝国国策遂行要 領」と、対米交渉の甲案・乙案(南部仏印撤兵まで譲歩する)が決定された。   この「要領」は11月5日御前会議で国策として正式に承認された。            --------------   連絡会議の決定事項は「閣議決定以上の効力を有し、戦争指導上帝国の国 策として強力に施策」されるべきものとされました。構成メンバーはほぼ首相、 外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長(陸軍)、軍令部長(海軍)で必要 に応じて関係者が加わりました。    ***************************   主戦論者の東条は、天皇の忠実なしもべとして「お上のご意向」を絶対的 なものと考え、天皇の意見を忠実に実行したようでした。その東条内閣に東郷 が入閣したのは、一説には、戦争を阻止するためであったとされています。   この説はあながち誇張でもないようで、東郷は和平派の代表として、国策 決定の連絡会議において即時開戦をあせる統帥部に対抗し、戦争を避けるべく 精一杯の努力をしたことはたしかなようです。   しかし、その東郷も、開戦の潮流には抗しきれず、譲歩を余儀なくされま した。その譲歩とはうえに記した期限付きの武力発動ですが、そのくわしいい きさつは下記のとおりです(注4)。        --------------------   東郷は10月末からの大本営政府連絡会議において、対米交渉断念と即時 戦争決意を主張する統帥部を説得し、「甲案」と「乙案」の二つをもって、交 渉を継続する決定をかちとったが、この統帥部との論争に東郷が辞職の決意を もって臨んだことがあげられる。   入閣時の東條首相の言質などから、東郷は軍部の説得について、やや楽観 視していた気味があるが、じじつはその通りにはこばず、また外相就任後、日 米交渉の経過を検討すればするほど、それが容易ならぬ事態に差しかかってい ることが明瞭になった。   しかし、この交渉継続をとりつけたことには、いわば付帯条件がつけられ ていた。それは交渉継続と併行して、戦争決意のもとに作戦準備をすすめるこ と、交渉不成立の場合はただちに開戦を決意すること、この二つである。   元来、東郷は交渉継続論者であるばかりでなく、交渉不成立の場合でも、 対米戦争を回避すべきであるという主張を保持していたが、東郷は交渉継続の 承認と引き替えに、この付帯条件への同意を迫られたのである。   というより、この付帯条件への同意がなければ、そもそも交渉継続が統帥 部によって受け入れられたかどうか疑わしい。        --------------------   東郷は軍部から付帯条件への同意を迫られたとき即答を避け、広田弘毅・ 元首相を訪ね、辞職すべきかどうか相談しました。広田の助言は「辞職すれば、 直ちに戦争を支持する人が外務大臣に任命せらるることになるのは明らかであ るから、予(東郷)は職に止まって交渉成立の為め全力を尽すべきである」と のことでした。   この助言にしたがって、東郷は留任し譲歩する道を選びましたが、この譲 歩は評価の分かれるところです。東郷自身、この譲歩を悔やんでいたとの説も あります。結果として留任したものの、軍部の勢いを止めることはとうていで きませんでした。結局、ほどなく東条と衝突し、外相を辞任しました。   すなわち開戦の翌年、東郷は「大東亜共栄圏」地域を所管する大東亜省設 置案をめぐって東條と激しく対立し辞職しました。大東亜省の設置は外交の一 元化をみだすこと、アジア諸国を差別視するものであること、この二点が東郷 の主張でした。慧眼のいたりです。   その後、日本の敗色が決定的になった段階で、鈴木首相のもとでふたたび 外相に就任しました。あきらかに終戦処理のために呼び戻されたといえます。 そのとき、大東亜省を兼任したのは皮肉なめぐり合わせでした。   東郷は、和平工作としてソ連の仲介に期待するなど、今日からみると見当 違いの努力をしたりしましたが、全般的によく軍部を抑え、天皇の「聖断」す なわちポツダム宣言受諾を引き出し、本土決戦を回避しました。和平主義者の 面目躍如といった感があります。   このように東郷の足跡をみるとき、開戦直後に外相を辞任しなかったこと が、個人的にマイナスであったことは論外として、日本にとってプラスだった のかマイナスだったのか、その判断はむずかしいところです。   吉田茂・元首相は、ハル・ノート到来直後に東郷を訪ね「外務大臣を辞め るべきだ。君が辞職すれば、閣議が停頓するばかりか、無分別な軍部も多少は 反省するだろう。それで(暗殺されて)死んだって男子の本懐ではないか」と 東郷に迫ったと、『回想10年』に記したようでした。   当時、軍部対和平派の力関係で、和平派の力がもうすこし強かったら、彼 の留任は戦争抑止につながり、日本にとってプラスであったことは疑いがなか ったことと思われます。 (注1)朝日新聞記事「東郷元外相の記念館」、1998.8.4 (注2)半月城通信<戦争責任>「天皇と戦争責任(2),開戦決意」 (注3)山田朗『大元帥 昭和天皇』新日本出版社、1994 (注4)萩原延寿『東郷茂徳』原書房、1994  (本記事はML[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


文書名:[zainichi:11298]東郷・元外相は朝鮮出身? Date: Sun, 5 Sep 1999 15:21:11 +0900   前回の予告どおり、戦時中の外相・東郷茂徳が朝鮮出身かどうかについて 書きたいと思います。東郷は4歳まで朝鮮風の姓「朴」を名乗っていたので、 彼を「朝鮮出身」とみなす人はけっこういるものです。   朝鮮出身とはいっても、それははるか300年も昔、豊臣秀吉による朝鮮 侵略、別名「やきもの戦争」の際に、東郷の先祖である陶工が島津義弘により 日本に連行されたことに由来するものです。   しかし「みなし」派は、単にこの事実のみから彼を朝鮮出身とみなしてい るわけではありません。   東郷の出身地・苗代川(なえしろがわ)の住民は、豊臣秀吉の時代から明 治初期まで薩摩藩による「陶工純粋培養」政策の結果、日常的に朝鮮語を話す など、朝鮮の風習や生活様式を色濃く残しました。   また、精神的にも古朝鮮の伝説上の始祖である「檀君」の火光が降臨した という玉山宮を祀り、先祖の出身地である全羅道の南原に想いをはせ生きてき ました。   この生き方は、きょうびの在日韓国人2世・3世の多くが、わずか半世紀 そこそこで日本の中に埋没し、韓国語や韓国の伝統文化をほとんど理解してい ない現状とは対照的です。   こうして、苗代川の住民はタイムトンネル的に「日本の中の朝鮮」を生き てきたのですが、その歴史を東郷茂徳の孫で、ワシントン・ポスト紙の東郷茂 彦記者はこう解説しました(注1)。        --------------------   彼らが自らの意志で串木野(上陸地点、半月城注)を後にしたのか、ある いは藩の意向が働いたのかは定かではないが、慶長8年(1603年)、一行 は苗代川に居を移したのだ。   これより薩摩藩の苗代川人に対する隔離政策、厚遇と保護と引き替えに焼 物の技術と朝鮮の習俗を強制し、他所との自由な交流を禁じた特異な政策が始 まる。日本史上、類を見ないことであった。   まもなく、自らも熱心な茶人であった義弘公の直命により、薩摩焼陶祖と して今に名前が伝わっている一行のリーダー格、朴平意、その子貞用らによっ て周辺の地質調査が行われる。   そして、霧島山麓を皮切りに、加世田、指宿、枕崎などで白物の焼ける白 粘土や白い砂が続々と発見される。   宝石のない当時の日本で、白く輝く陶器の肌はこのうえなく珍重された。 白物はその後、藩主御用達になり、一般庶民の製造販売は厳禁される。   苗代川では、1貫5畝の土地と屋敷が各戸に与えられ、武士の特権であっ た門を建て、塀を巡らせ、弓馬や剣を習うのも許される。「朝鮮筋目の者」と 呼ばれ、武士ではないが、それに準ずる扱いを受けたといっても良いだろう。   この地に住んでいた百姓たちは、別の地に追いやられ、苗代川人は租税を 免除され、彼らに対する加害は、とくに重く罰せられるようになった。   庄屋、興頭、横目、祝子、主取等の役職は世襲によらず、藩の実施した試 験によって登用するのを原則としたため、この里には学問の気風が興り、街道 を通る者は、書籍を素読唱和する声を絶えず耳にしたという。   その一方、他所との婚姻による出村や和名の使用は禁じられる。ただし、 他所の女子の婚姻による入村は認められた。風俗も朝鮮のそれを守ることが要 求される。髪は惣髪、仏門に帰依させず、言葉も焼物関係を中心に広く残った。   こうした政策は、義弘の孫光久の代、17世紀後半に完成。参勤交代の際 の宿所となる御仮屋も、伊集院から苗代川に移る。   村人は、藩主来宿のおりには伝来の装束を身に着け、舞を踊り、歌を唄い、 藩主を慰めたという。光久は、時に朝鮮の服を着せ、江戸に伴ったこともある。   鹿児島の高麗人も苗代川に移され、一時は2千人を超える大集落になった こともある。徳川期を通じ、薩摩藩の方針は藩侯の意向などによって時に変化 し、苗代川の里は何回かの盛衰を経て明治に至った。   変わらなかったのは、村人たちの誇りと、かの国への想いである。その心 の支えとなってきたのが、苗代川の下手、蜂巣が谷といわれる高地の頂に建つ 玉山宮だった。   苗代川人を保護するため、朝鮮から飛来したと伝えられる大石を神体とし、 秋の大祭に村人は故国の礼服を着け、冠を被り、龍紋の幡(はた)を持ち、里 へ下っては舞い踊った。   その服装は、寿勝の作ったあの文人の像とそっくりである。コレガンサー (高麗神様)を讃えるオノリソ(神舞歌)には、望郷の思いが切々と込められ ている。  「今日この日は、われにとっては心にかかる。供物までして、心にかけ た・・・神がどうして忘られよう、天がどうして忘られよう。眠っても目醒め ても、神がどうして忘られよう」  (このような祭礼の形は今は廃れ、素戔嗚尊<スサノオノミコト>をはじめ 四柱の日本の神々(注7)も合祀されている)。        --------------------   村人たちの変わらぬ誇りと出身地への想いが、朝鮮へタイムスリップした かのような異郷を作り上げていたようで、江戸時代の中頃、ここを訪れた京都 の医師・橘南谿は、それに強烈な印象を受けたようです。南谿(なんけい)は 旅行記『西遊記』にこう記しました。  「ノシロコ(苗代川)といふ所は、一郷みな高麗人なり。・・・朝鮮の風俗 そのままにして、衣服言語もみな朝鮮人にて、日を追うて繁茂し、数百家とな れり。はじめ捕らはれきたりし姓氏は17氏。・・・実に此身、唐土(もろこ し)に有る心地にして、更に日本の地とは思わず」   このような異国のふぜいは明治初期まで続いたようで、西南戦争直前、薩 摩の不穏な政情を視察に来た英国の外交官、アーネスト・サトウはこう記しま した。(注6)  「ここの住民は住民同士のあいだで自由に結婚し、中国の場合と同様に、姓 が同じであることは、結婚の妨げにならない。・・・   この村の住民と話をしてみてよくわかるのは、自分たちの祖先が連れてこ られたこの日本の国の人間よりも、自分たちのほうがずっと優秀であると、か れらが考えていることである」   苗代川人は優秀である、という自信に裏打ちされてか、芸術性の高い薩摩 焼を次々に世に送り出しました。東郷の父・寿勝も先祖代々から伝わる薩摩焼 の製造・販売で財をなしました。   歴史的に薩摩焼が占めていた地位について、司馬遼太郎はこう記しました (注3)        --------------------   江戸期を通じて、白薩摩の技法はいよいよ醇化した。その象牙色の膚質、 温度を感じさせるやわらかさ、さらにそれに狩野派の絵付けが加わって、世界 の陶芸のなかでもこれほどの巧緻なものはあるまいとさえいわれるようになっ た。   幕末、薩摩藩はこの苗代川に大規模な白磁工場をつくり、12代沈寿官を 主任とし、この時期においてすでにコーヒー茶碗、洋食器の製造を命じており、 これらを長崎経由で輸出して巨利を得、結果的にはのちの倒幕のための一財源 となっている。   さらに薩摩藩は慶応末年にパリでひらかれた万国博覧会に、幕府とは別個 に日本における独立的な地方政権として参加したが、このときの出品のなかで 異彩を放ったものは12代沈寿官の白薩摩であり、さらに明治になり同6年、 オーストリアでひらかれた万国博覧会のときも、右の寿官作の薩摩焼大花瓶一 対が出品され、すでに欧州で高名であった薩摩焼の評判をさらに高めた。これ が苗代川の最もさかんであったときであろう。   しかしながら明治後、薩摩陶業一般に藩の保護から離れたために往年の盛 大さはなくなった。        --------------------   明治維新という時代の変革により、藩の保護を失った苗代川人たちの運命 は大きく変わりました。朝鮮筋目ということで、これまでにない差別を受ける ようになってしまいました。   東郷茂徳の父・朴寿勝は、落ちぶれた士族「東郷」家の株を買って入籍し、 東郷姓を名乗りましたが、やはり差別から自由ではありませんでした。それを 茂彦記者はこう記しました(注2)。        --------------------   この里の場合、朝鮮筋目の者としての異質性が、藩による保護を失った瞬 間から、これまでにない差別の対象になったのだ。   文明開化とともに富国強兵を国是とし、列強に追い付き追い越すことを目 指した日本にとって、アジア諸国は、植民地への可能性を持つ地域であり、そ の住人は一段と下に置かれた存在に変化していく。   遠い朝鮮の文化を色濃く持ち続けた苗代川人は、この新しい帝国主義的な 差別に身をさらすようになる。  ・・・   苗代川の幼年時代には、いきいきとした表情を見せた茂徳である。それが、 なぜ「寡黙な人」と言われるようになったのか。   苗代川という共同体から、鹿児島という、ときには情容赦のない都会の中 で生きるようになった多感な少年に課された二つの差別----実質的には平民出 身故の階級的差別と、朝鮮人の血を曳く故の民族的差別に、その原因の一端を 求められるのではないだろうか。  「壷屋の高麗人(これじん)と、周囲から言われて育ったわけよね。だから こそしっかりしなければ、とみんな思っていたの」と、山口としは昔を振り返 る。「ツボヤ」、あるいは「ツボヤンシ」(壷屋の人)という言い方もされた という。   寿勝(茂徳の父)朴家と遠い親戚に当たり、今は東京で生活している野崎 美保は、「昔はあそこの出ということを隠していましたからね。結婚の相手に それがばれて、断られたり、破談になった人が戦前にはあったんですよ」と話 す。        --------------------   かって、土と火から黄金を生みだした薩摩焼の錬金術師も、単なる壷屋と さげずまれるようになってしまいました。   そのうえ、「あそこ」の出身ということで縁談が破談になったりするのは、 部落差別をほうふつとさせるものがあります。いや、苗代川を「朝鮮部落」と みれば、これも典型的な部落差別といえます。   東郷はこのような地に生まれ、育ちました。彼は朝鮮出身と言うより「日 本の中の朝鮮」出身、あるいは朝鮮部落出身というのが妥当ではないかと思い ます。   この部落出身ということで、どのように痛い目にあったのかについて、東 郷は鬱屈してしまったせいか寡黙になってしまい、ほとんど語らなかったよう です。かわりに、作家の阿部牧郎氏は、東郷が上級生にいじめられたことなど を伝記本に記しています(注4)。   こうしたいじめについて、東郷茂徳・顕彰会長である第14代、沈寿官さ んの体験談を司馬遼太郎が書きとめています。いじめに由来するものや、その いじめにどう対処したのか、事実は小説より奇なりを地でいく迫力があるので、 長くなりますがそれを引用します(注3)。        --------------------   沈寿官氏は、苗代川小学校を出て6里むこうの鹿児島市内にある旧制二中 に入学した。   入学早々、教室にすぐ上級の者が数名入ってきて、 「このクラスに朝鮮人が居っとじゃろ。手をあげい」  と、わめいた。沈少年が手をあげなかったのは、かれは自分が日本人でない など夢にもおもったことがなかったからである。   かれが出た村の小さな小学校はすべて村民の子弟のものであり、そこでの 教育は日本の他の小学校とかわりがなく、無いばかりでなくこの苗代川小学校 は学童の平均学力は県下第一であり、学校では「わが学校は小なりといえども 日本一の小学校である」と学童に教えていた。   しかも村中のほとんどの家は士族であり、この大戦の終了まで士族が権力 をもちつづけてきたこの県にあっては、苗代川村民であることはむしろ選民で あるとおもっていた。  ・・・   明治10年、西郷隆盛が士族の子弟をひきいていわゆる西南戦争をおこし たときも村から馳せ参じた若者があり、朴竜金という姓名の若者もそのうちの 一人であった。   このような村の閲歴からみれば薩摩苗代川村はむしろ日本的でありすぎる ほどであったであろう。沈少年が手をあげなかったのもごく自然なことであっ た。  が、不幸なことは、かれらを擁護し礼遇した薩摩藩がすでに遠い過去に消滅 してしまっていることであった。明治以後の政府は、かれらをただの日本人と した。ただ、姓と血液伝統だけが特異なものとして残り、その特異さが、世間 の目をそばだたせた。   すでに鹿児島市内でも苗代川のことを知る者は少なくなっていた。教室に 入ってきた一つ上級の少年たちがそれを知っているはずがなく、ただ新入生名 簿によって韓姓の少年がいることを知っただけである。   沈少年が名乗らなかったということで、少年たちは激昂した。精神を注入 してやる、と咆え、沈少年を教室のそとへ出し、屋上へつれてゆき、10人ほ どが寄ってたかって殴った。   少年はときどき気を失いかけたが、渾身の力で泣くまいと努めた。日本人 は強いという。泣けば日本人でなくなりそうであった。   しかしこうも殴られているところをみると、自分の姓や家系がそうである ように日本人ではないのではないかと思いはじめたとき、倒されて後頭部を打 ち、気をうしなった。きょうそれを着たばかりの制服が、鼻血で血まみれにな っていた。やがて少年はひとりで醒めた。  ・・・   少年はこの日から日記をつけた。かれの日記というのは、沈氏がいま読み 返しても寒気がするほどのものであるというが、要するに中学入学のときから 3年生ぐらいまでのあいだ、毎日たった一つの主題で書きつづられていた。   大人の言葉に言い直せば、日本人とは何かということであった。ひとも父 もいうように自分に韓人の血が流れてしまっている以上、日本人の血液という ものを見きわめる以外にこの世で立ってゆく姿勢がとれぬように思われた。   教師は日本人を賛美していた。まず、名誉心がつよく恥を知る、という。 しかし教室のなかでクラスの者が他人の答案を盗み見している姿をみて、これ が廉潔の国民性だろうか、と真剣に考えこんだ。義に勇む、というが、弱者を いたわるかどうか。   なによりも武勇の民で世界のどの民族よりも強い血が流れていると教師は いうが、もしそうであれば日本人の血液をもたぬ少年は立つ瀬がなかった。   このためにも一人一人の「日本人」と喧嘩をせねばならなかった。強いと いう評判のある者なら他のクラスの者に対しても挑んだ。薩摩では、少年が他 の少年に対し右肩をわずかにそびやかすだけで挑戦の意を伝えることができた。   挑戦されれば退けぬという習慣があり、これが沈少年のこの課題の探求を 容易にした。毎日、学校のそばのどこかの空地で少年は他の少年と絡みあって いた。   ときに少年の手に負いかねる強者がいたが、そのときは少年は死ね、とお のれに命じ、骨が砕かれそうになっても闘うことをやめなかった。ときどき相 手を捻じ伏せ相手を息絶えだえにさせ、すでに自分が勝ったと思うときも、  ----ひょっとすると、この子供に日本人の血が出て来て、自分を撥ねかえし はせんか。  と、不意に不気味になることがあった。日本人の血に対する信仰が、むしろ 沈少年の側にあった。というより、その信仰が迷信にすぎぬという証拠をこの 少年はつかまねばならなかったし、それ以外に中学にかよっているこの時期の 少年には理由はなかった。   ついにこの探求が中学の三年生のころに少年なりに完成を見た。少年は、 同年の他のいかなる少年をもすべて降しきった。  ----血というのはうそだ。  という、世界のどの真理よりもすばらしい真理を、この少年はつかんだよう に思った。かといって日本人を軽侮することができなかったのは、皮肉なこと にかれ自身、のがれようのない国籍上の日本人であるからであった。   さらには、少年は知恵ぶかい資質と陽気な性格をその祖父や父から引き継 いでいた。この発見を、----ひとは間違っている。自分こそむしろ最も良質な 日本人ではないか、というふうに、そのように結論づけることに役立たせた。        --------------------   沈寿官さんは、民族差別を腕力で跳ね返しましたが、秀才の誉れ高い東郷 は民族差別を避けるかのように、中学時代はひたすら勉学に打ち込んだようで した。   その後も東郷は、苗代川出身というくびきから逃れるためかドイツ文学を 志したりしましたが、結局は外交官試験を受けました。出願の際に外務省に提 出した履歴書において本籍地の記述から「苗代川」の文字を意識的に削除した ようでした。その間の動機を萩原氏はこう記しました(注5)。  「東郷にとって、外交官志望とは、ドイツ文学への愛着とその教養を生かし つつ、官吏をのぞむ父寿勝の要請にもこたえ、かつ自分の出自にまつわる懸念 を封じる道ではなかったろうか。   いったんは“苗代川者”という“桎梏”からの脱出の夢を、文学に託した かにみえた東郷であったが、その行路の多難さを目撃する衝撃から立ち直った とき、東郷が選んだのは海外へはばたく道であった」   東郷は畑違いの外交官試験に三度目の受験でめでたく合格しました。合格 者の名前が官報に掲載された2日後、「苗代川」出身を戸籍から抹殺するため か、本籍地をあわただしく鹿児島市に移しました。職業柄「日本の中の朝鮮」 出身では具合が悪いと考えたのでしょうか。   これが陶工の場合だったら、先祖が朝鮮出身ということはかえって伝統の 箔づけになるので好ましいのか、朝鮮姓を持ち続けている人が多いようで、司 馬遼太郎は「村には沈氏のほかに朴氏があり、金氏がある。さらに鄭氏があり、 李氏があり・・・」と記しています(注3)。   さて、東郷は苗代川や朝鮮につながるものに縁を切ったつもりでも、血統 主義の日本ではそれがそのまま通用するものでもありません。沈寿官さんによ れば「日本中が戦争を叫んでいたときに、朝鮮人とののしられながらも戦争を しないようにがんばった」と、東郷がののしられたことを明らかにしています ので、彼に対する偏見はいぜんとして根強く残ったようでした(注6)。   一方、彼が縁を切ったはずの苗代川(現在は美山)のほうでは東郷を忘れ ず、郷土の偉人と讃えました。村に立つ標語の杭にこう書かれました(注3)。  「うそを言うな。負けるな。弱い者をいじめるな。東郷先輩につづけ、美山 の子」   また、昨年、東郷を顕彰する記念館や銅像が彼の郷土・東市来町に建った のは、前回記したとおりです。 (注1)東郷茂彦『祖父、東郷茂徳の生涯』文芸春秋社、1993 (注2)アーネスト・サトウ「薩摩における朝鮮人陶工」 (注3)司馬遼太郎『故郷忘じがたく候』文芸春秋社、1968 (注4)阿部牧郎『危機の外相、東郷茂徳』新潮社、1993 (注5)萩原延寿『東郷茂徳』原書房、1994 (注6)朝日新聞記事「東郷元外相の記念館」1998.8.4 (注7)スサノオノミコトはかならずしも日本の神でもないようで、司馬遼太  郎はこうみています(注3)。  「(玉山宮の)社家屋敷は、大地のはずれにある。その前は、一望の麦畑で あり、いかにも天が広く地があかるく、神々の神遊びの庭としてこれほどふさ わしいところはあるまいとおもわれた。   神遊びといえば、この小さな山の上の韓神の社に、京の祇園八坂神社から 毎年、会合の招待がくるという。八坂神社というのは全国に7千ほどある。祭 神はスサノオノ命(みこと)である。命は出雲に住んでいたが、どやら韓国の 新羅が故郷であったのか、新羅のソシモリにも住み、日韓の間を往来していた とも日本書紀などで書かれているから、この神は古代に日本列島にきた韓人た ちが奉祭していたものかもしれず、京の八坂神社も薩摩苗代川の山の上に鎮ま る玉山宮の祭神とが、たがいに同族であるがために毎年招待状を送っているの であろう」   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


【タイトル】竹島(独島)と日本の歴史認識 【名  前】半月城 「歴史会議室」1999 09/17 23:04 【メッセージ】   クリリンさん、こんばんは。   竹島(独島)に関する議論も秋とともに深まってきましたが、まずは長久 保赤水の「日本輿地路程全図」からコメントしたいと思います。 >                安永8年(1779年)刊の「改正 >日本輿地路程全図」は朝鮮、竹島、松島を彩色していないことは確認し >た。しかし、これを以て竹島、松島を朝鮮領と見なすのはかなり強引な >のである。   たしかに、地図で日本と同じ色に彩色されていないという事実のみから、 松島・竹島をただちに朝鮮領とするのは即断かも知れません。しかし、状況か ら見てすくなくとも日本領ではないという認識は成り立つのではないでしょう か?   しかるにクリリンさんは希望的観測からか、同図で朝鮮領の島には名前が 記されていないが、松島・竹島は島名がきちんと記されているという理由で、 両島は「日本領との認識であった」と書かれていますが、この主張こそ強引で はないでしょうか。   松島(現・竹島)の方はひとまずおくとしても、少なくとも竹島(現・鬱 陵島)は外交紛争「竹島一件」の結果として朝鮮領になったという認識がこの ころの日本ではかなり広まっていました。   まず徳川幕府の外交文書を集めた『通航一覧』ですが、ここに「竹島一 件」以後の竹島(鬱陵島)について、こう書かれています(注1)。  「・・・むかし隠岐の辺より渡て、大竹を切来て諸方へ売、甚だ大にしてよ き竹也と云ふ、近来その島へ渡る時は、朝鮮人多く来て、此方の船を見れば鳥 銃を打て船を近づけずと云ふ、この島果して日本の属島なれども、遂に朝鮮に 取られたり」   このころになると朝鮮の空島政策も有名無実になったようで、鬱陵島には 朝鮮人が住みつき、日本の船を銃で追い払うまでになりました。   トラブルを憂慮した幕府は「異国航海」の厳禁を改めて通達しました。そ の政策にしたがって奉行所も密航者を処罰していたようで、内藤教授はこう記 しています(注1)。        --------------------   享保年間(1716-35)までは、隠岐や長門から竹島に渡って大竹を持ち帰っ ていたのが、その後は朝鮮人が島にいて、船を近づけると鉄砲を打って島に上 陸させないと記してあります。さきの『朝鮮王朝実録』の記事(1710)に対応す る時期になります。   さらに1723年(享保8)6月には、大阪町奉行所が、7年以前に竹島 に渡って密貿易をしたといって、石見国・大森代官所支配地の3名を捕えて処 分しています。   また1836年(天保7)には石見国・浜田藩会津屋八右衛門の竹島密貿 易事件が発覚します。しかもこの事件は、浜田藩だけでなく、対馬、越後長岡、 北国などでも同様のことが行われていたと、江戸市内でいわれていた事実が松 浦静山の『甲子夜話』に出てきます。   そのためもあって幕府では、1837年2月21日付で、改めて「異国航 海之儀は重き御禁制」と全国に達します。とりわけて竹島については「元禄之 度 朝鮮国之御渡しに相成候以来、航海停止被仰出候場所に有之」と述べてい るのでした。   こうして江戸期の代表的な地図であるとされる林子平の「三国接壌図」 (1785年刊)では、竹島(鬱陵島)と松島(現竹島)を記して朝鮮領を示 す黄色で彩色しています。そして両島のところに「朝鮮ノ持ニ」と特記してい るのです。        --------------------   林子平とほぼ同時期に出版された長久保赤水の地図も、このような時代背 景から、松島・竹島が日本領でないことを色で表現したのではないでしょう か?   そのうえ重要なことに、長久保赤水は、松島と竹島とのすき間をつなぐか のように文字を書き込み、誰が見ても明らかなように松島・竹島を一対に画き ました。   クリリンさんは、松島「属島」説を認めたがらないようですが、せめて長 久保赤水の「一対」認識くらいはお認めになるのでしょうか?   ともあれ、この地図にみられるように江戸時代は松島・竹島は一対である という認識が強く、そのため幕府が竹島(鬱陵島)の領有をあきらめたとき、 松島(現・竹島=独島)も暗に一緒に放棄されたという認識が強かったものと 思われます。   この認識は当然のごとく明治政府に受け継がれ、内務省から太政官まで松 島(独島)は竹島(鬱陵島)の属島として扱われました。その帰結として「竹 島外一島」は本邦に関係無しとして、明治政府は竹島(独島)の領有を放棄しました。   ここで Tetsuさんは「外一島」が竹島(独島)でなく、鬱陵島近辺の竹嶼 と思いこんでおられるようなので、反論のために、明治政府の竹島(独島)認 識に関連した堀和生氏の論文を引用することにします(注2)。        -------------------- 明治政府の竹島認識   幕末から明治初年にかけて欧米と接触したことにより、日本の鬱陵島と竹 島=独島の認識には甚だしい混乱が生じた。   まず、18世紀末日本海に進出してきた仏・英船が、あいついで鬱陵島を 発見した。ところが、その位置測定が不正確であったため、同島はダジュレー とアルゴノートという別の島として紹介された。   竹島=独島は遅れて、1849年仏船に発見されリャンクールと名づけら れた。そのため、19世紀半ばの欧米の地図には、日本海に鬱陵島が二つあっ たり、竹島=独島と合わせて三島が画かれたりした。   この欧米側の情報と日本の旧来の竹島、松島の知識が組み合わさるなかで、 二つの島についての認識が混乱していった。これらの経過は、既に従来の研究 によって明らかにされている。   陸軍参謀部の「朝鮮全図」(1875年)と文部省の「日本全図」(1877年)に は、鬱陵島が竹島と松島と二つに画かれ、現在の竹島=独島はぬけ落ちている。   やがてアルゴノートの存在が否定されると、鬱陵島は江戸時代とは逆に松 島という名称で呼ばれるようになり、日本海中に一島のみの地図が出た。また 民間には三島の地図もあった。   いずれにせよ、70年代から80年初頭にかけて、日本政府の二つの島に ついての認識は相当混乱していた。三島説、二島説、一島説があり、二つの島 の位置関係を正しく押さえていたものは少なかった。   これらの事実は、そもそも竹島=独島を古来の日本の固有領土だとする見 解への反証となるであろう。   日本政府内でこれらの混乱が整理されていくなかで、それらの島の領有権 の帰属も確定されていった。ただ、それを各機関が統一して行ったわけではな いので、個別にみてゆこう。   まず、内務省が二つの島の所属について、最初に決定をせまられた。18 76年内務省地理寮が地籍を編纂するために、島根県に同県の沖にある「竹 島」なる島の情報を照会したことが契機となった。   そこで島根県当局は、17世紀の大谷・村川両家による竹島=鬱陵島開拓 の経緯を取調べ、竹島と松島=独島の略図を付し、「日本海内竹島外一島 地 籍編纂方伺」として内務省に提出した。つまり、島根県当局は、松島を竹島の 属島として理解していたため一括して取扱ったのであった。   内務省は、独自に元禄期の「竹島一件」の記録を調べ、島根県の「伺」の 情報と合わせ検討したうえで、この両島は朝鮮領であり、日本のものではない と結論をだした。   しかし、「版図ノ取捨ハ重大之事件」であるため、同省は翌77年3月1 7日太政官に「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を提出して、その判断をあ おいだ。附属書類中で「外一島」とは松島であると明記され、その位置と形状 も正しく記述されていた。   太政官調査局の審査では内務省の見解が認められ、次のような文章が起草 された。  (この文章は、注3に記す)   この指令按は、右大臣岩倉具視、参議大隈重信、寺島宗則、大木喬任によ って承認された。そして、同年3月29日正式に内務省に指令された。   即ち、当時の日本の最高国家機関たる太政官は、島根県と内務省が上申し てきた竹島=鬱陵島と松島=独島をセットにする理解に基づいて、両島を日本 領に非ずと公的に宣言したのであった。この指令は4月9日付で内務省から島 根県に伝えられ、現地でもこの問題に決着がつけられた。  ・・・   外務省がこの二島の所属について、主体的な判断がせまられたのは、76 年からの松島開拓問題に関してである。  ・・・   これらの開拓願いに対して、外務省の官僚にはさまざまな意見があった。  ・・・   これら省内の議論では結論がでず、結局開拓願いの対象松島を実地に調査 することになった。   1880年7月軍艦天城がその松島に赴き測量した結果、同島が鬱陵島で あることが判明した。久しく関心を集めてきた豊かな松島とは、まぎれもなく 朝鮮領であったわけで、ここにおいて開拓願いはすべて却下され、この問題は 終焉した。   いまひとつの竹島=独島は全く不毛な岩礁にすぎず、そもそも何らの関心 の対象となりえなかったからである。   後81年11月29日、内務省が竹島と松島を版図外とした先述の太政官 の指令書きを付して、外務省に鬱陵島の現状を照会したことがあった。それに 対して、外務省は何ら全く異論を申したてていない。   そしてその後も1905年に至るまで、外務省が竹島と松島の領有権を分 けて扱うようなことは決してなかったのである。   海軍については、当時の原文書が残されていないので、その出版物から当 局の認識をうかがうほかない。日本の海軍水路部が主に依拠していた英国版の 海図では、60年代既に二島の所在が確定していた。   そのため、日本の海軍も70年代末にはその点を充分認識していたようで、 80年代の日本製の海図には二島が正確に画かれていた。   しかし、海図は地理的な認識を示すだけなので、海図中の島の所属につい ては、その解説書たる水路誌を重視しなければならない。  ・・・  (海軍は)日本領海を他と区別して『日本水路誌』として独立させ、92年 から順次刊行していった。   この水路誌には、95年の下関条約による日本の新領土台湾や澎湖島、さ らには千島列島最北端の占守島まで載せられているが、反面台湾の対岸やカム チャッカ半島は全然含まれていない。すなわち、この『日本水路誌』の扱う範 囲は、あくまで日本の領土・領海に限定されていたのである。   そして重視すべきは、この水路誌の日本海のところで、リャンクール島= 独島に全く触れていない点である。当時の日本の海図には、同島は正確に位置 づけられており、その所在を知らなかったわけではない。   図2のとおり、この水路誌の1897年版の付図と、同島を日本に領土編 入した後の水路誌の付図を対照させれば、事態は明白である。即ち、1900 年の時点で日本の海軍水路部当局は、明らかに同島を日本領から除いていたの である。   そして他方、日本海軍の『朝鮮水路誌』1894年版と99年版には、鬱 陵島と並んでリアンコールト列岩が載せられている。つまり19世紀末に、日 本海軍の水路部当局が竹島=独島を朝鮮領だと認識していたことは、疑いのな いところである。   以上要するに、明治維新以後日本の政府が、竹島=独島に独自の関心を示 したことは全くなかった。そして、認識の程度に強弱はあっても、日本政府の 関係諸機関のすべてが、同島を鬱陵島と合わせて朝鮮領だとみていたことは明 らかなことであった。        --------------------   うえの文に出てくる図2は、残念ながらここに表示できませんが、竹島 (独島)が記載されていない1897年版の付図は、水路部・肝付兼行部長が 編集しました。   したがって、肝付部長は竹島=独島が朝鮮領であると当然知っていたとい えますが、その肝付らは1905年、竹島(独島)の日本領編入をもくろみ、 反対であった内務省を押し切り、中井養三郎に「りゃんこ島領土編入並ニ貸下 願」を提出させました。   その際、肝付は名目上「無主地の先占」理論の適用をぬけぬけと提案しま した。これについて、堀氏はこのように記しました。        --------------------   1904年時点で竹島が全く無主地であるという肝付の主張は、先述のよ うに海軍水路部の従来の認識とは明らかに異なるものであった。   にもかかわらず、中井が前年から同島で漁業を始めたという事実をもって、 「無主地の先占」理論の適用を提案したのである。   しかし、これはあくまで表向きの理論にすぎず、日本政府を本当に突き動 かしたのは、山座の発言にあるように、ロシア艦隊に対抗するための施設が必 要だという軍事の理論なのであった。   つまり、竹島の領土編入とは、同時期日本が戦争遂行のため朝鮮各地でそ の主権を侵害しながら行った軍事措置と同様のものであった。   ただそれが、漁場独占をねらった一漁民の動きを利用したがために、単な る占領にとどまらず領土編入の形式をとったのにすぎない。   朝鮮全土の軍事占領が「朝鮮併合」の前提であったことからすれば、この 竹島の領土編入は、その小さなさきがけともいえるのである。   中井養三郎は、先の三人の指示によって、1904年9月29日「りゃん こ島領土編入並ニ貸下願」を、内務・外務・農商務の三省に提出した。そして これを認める形で、1905年1月28日日本政府は同島の領土編入を閣議決 定したのであった。        --------------------   明治政府は、竹島(独島)は朝鮮領であるという認識を持ちつつ、領土拡 張欲から竹島(独島)を日本領に編入したことは、韓国から帝国主義的方法と 批判されても無理からぬことと思われます。 (注1)内藤正中「竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史」   『韓国江原道と鳥取県』富士書店(鳥取)、1999 (注2)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』   第24号、1987 (注3)別紙内務省伺 日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件   右ハ元禄五年 朝鮮人入嶋以来 旧政府該国ト往復之末 遂ニ本邦関係無之   相聞候段申立候上ハ 伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉 此段相伺候也     御指令按   伺之趣竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事  (本記事はML[zainichi]および下記のホームページ他に転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/09/25 - 07841/07841 PFG00017 半月城 金嬉老の釈放 ( 8) 99/09/25 18:47 07646へのコメント   不如省事さん、こんばんは。地理の授業にビートたけしを持ちだすとは、 一風かわった先生ですね。   RE:7646 > 先週は地理の授業で、数年前に放映された金嬉老事件をドラマ化したもの >(ビートたけしが主演)をビデオで見せました。時事ネタばかり取り上げる授 >業は生徒にはそれなりに刺激があるようですが、準備は大変なものがありま >す。ときにこの問題、半月城さんなどはいかなる感想をお持ちなのでしょう >か。   ビートたけしは「ライフル魔」金嬉老に顔つきがやや似ているところもあ って適役でしたが、私は釈放された現実の権禧老氏をみて、けげんな面持ちで した。   この人がかってダイナマイトを腹に巻き、13人もの人質を4日間にわた り一人で監禁し続け、ほとんど不眠不休でエネルギッシュに差別問題を訴え続 けた、あのライフル魔なのだろうかと、いぶかしく思いました。   さらに彼が韓国に着いて、一人前に韓国語を話すのにはもっとびっくりし ました。会話は独学では不可能なのに、どうやって練習したのでしょうか。受 刑者仲間から習ったのか、あるいはテープで勉強したのか? テープだとした ら、刑務所でウォークマンは許可されるのだろうか? 疑問はつきません。   それにしても、彼は並はずれた人物、いや怪物であったようです。いまや 金嬉老の名は『戦後史大事典』(三省堂)にも残りました。そこにはこう書か れています(注1)。        -------------------- 「金嬉老事件」   1968年2月20ー24日、在日朝鮮人金嬉老が日本国家・日本人の民 族差別を告発した事件。   ライフル銃で暴力団員を射殺したのち、南アルプス山麓の寸又峡温泉の旅 館に立てこもった金嬉老の4日間の言動は、テレビや新聞によって連日茶の間 に届けられ、人々に大きな衝撃を与えた。   この事件は、日本人が日ごろこともなげにおこなう差別や蔑視が、差別さ れる者の内にどれだけ深い怒りや絶望をもたらすかを明るみに引き出すと同時 に、日本政府がその年に祝おうとしていた明治100年=日本近代100年が、 けっして栄光の100年ではないことを明白にした。   事件当時、金嬉老(きんきろう)、金岡安弘、権嬉老(ごんきろう)、近 藤安弘、清水安弘、金嬉老(キムヒロ)、権嬉老(コンヒロ)と、七つの名前 をもち、そのどれが自分の本当の名前かわからないという分裂させられた存在 であった金嬉老は、裁判への取り組みや朝鮮語の学習を通じて自分を取り戻す 作業をつづけ、現在、本名の権嬉老(クォンヒロ)を名乗っている。        --------------------   かれの告発は、たしかに大きな衝撃をもってマスコミに迎えられました。 当時、みずから人質になってまで取材した毎日新聞の堀越記者は当時をふりか えり、こう語りました(毎日、99.9.7)。  「差別問題を訴える彼の主張には共感を覚えた。しかし、他人の自由を奪っ てまで表現する自由は誰(だれ)にもない。彼の言葉だけが残り、事件の特異 性、怖さが忘れられてはいけない」   ここで金嬉老の主張の妥当性はひとまずおくとして、かれが多くの人質を 監禁し、恐怖のどん底に突き落とした行為自体はきびしく非難されるべきです。 ましてや、人を殺す行為は、相手がたとえ暴力団員であろうと、あるいは法的 裏付けをもった死刑であろうと許されるものではないと、私は考えています。   こうした罪はかれも十分に自覚しているようで、釈放後にこう語りました (週刊新潮、99.9.30)。  「私は釈放されても自分の罪が消えたとは思ってはいません。相手がどんな 立場の人間であっても、私に殺す権利などありませんでした。これは私が背負 った十字架なんです。一生そのことを背負って、(亡き)母と共に生きていこ うと思っています」   権禧老氏が犯した罪自体の評価に関してはだれも異論がないようですが、 問題はその背景です。日本で多くの人の認識が、金禧老は殺人者であり、ライ フル魔であるという事実で思考停止してしまい、その先は犯罪を民族問題にす り替えたという非難になりがちです。   しかし、一般に裁判の審理では、犯罪の内容とともにその犯罪にいたる背 景も重視され、そのうえで総合的に量刑が決められるのが原則です。   今回の裁判でも、東京高裁は判決で「犯罪を起こすに至った動機、犯行の 経緯、被告人の境遇等は量刑に当たり十分考慮すべきはもちろんである」とわ ざわざことわり書きをつけたくらいでした。   この裁判の原則にしたがって、金嬉老が人質を楯にとってまで訴えるにい たった動機や、かれの境遇などについてふれたいと思います。   この解明は、よしんばかれが自分の犯罪を民族問題にすり替えていたとし ても、かれの語る民族問題なるものが、はたして妥当性があるのかどうか、そ のチェックにも不可欠なものです。   先日、NHKはETV特集「金嬉老事件から31年」(9/16)を放送しまし たが、その番組で、当時は高校生であった姜尚中・東大教授が語ったなかで、 権禧老の姿のなかに我が身をおいて彼をヒーロ-的にみていたと率直にうち明 けていたのが印象的でした。   彼のような在日韓国人のエリート(?)でさえ、金嬉老をある面では自分の 分身のようにみていたという事実は、当時の日本における朝鮮人差別の深刻さ を象徴的に物語っているのではないかと思います。   実際、そのころの朝鮮人差別は官民を問わず苛烈なものがありました。ま ず、司法当局の認識たるや、外国人は「煮て食おうが焼いて食おうが自由」と いうものでした(注2)。   その発想から「貧困者、身体障害者等を(日本から)追い出すというのは、 人道的に見てもひどいのではないか」という問いに、「それは考え方が間違っ ている・・・」などと、人道的配慮のかけらもありませんでした(注2)。実 際、この政策にもとづいて、日本から追放になった病気の留学生もいたくらい でした(注3)。   このように日本で外国人の人権はないも同然で、日常生活で外国人は差別 されて当たり前で、公営住宅や民間アパートの入居差別などは平然と行われて いました。   ここで個人的な思い出になりますが、十数年前にアカデミー賞を受賞した 映画「ガンジー」で、妙に印象に残るシーンがありました。   場面は南アフリカ連邦で、人種差別政策に抗議して黒人たちが携帯を義務 づけられていた指紋入りの身分証明書を燃やすシーンがありました。それに共 感して、インド人のガンジーは身分証明書の返上運動に立ち上がりました。   身分証明書は、いうまでもなくアパルトヘイト政策の根幹をなすものであ り、それを返上するガンジーの行動は、日本の観客に正義の行動として、拍手 で迎えられたのではないかと思います。   しかし、そのとき、私は自分のもたされている指紋・写真入りの身分証明 書を思わずポケットの上からたしかめ、あんなことをしたら懲役一年、罰金・ ・・などと現実的な連想にひたり、すっかり興ざめしてしまいました。   一体、このようなアパルヘイトなみの身分証明書、すなわち外国人登録証 が外国人にいつも携帯を義務づけられている日本の実状を、どれだけの観客が わかっていたでしょうか?   また、その外国人の中には、金嬉老のように日本人として生まれたのに、 いつのまにか朝鮮人にされてしまった人もいたことを知っている人は、日本社 会でどれだけいたでしょうか? いや、今でもどれだけいるでしょうか?   さらには、在日韓国・朝鮮人二世・三世が大学卒業後、公務員はおろか民 間企業でも特殊な例外を除いて、当時ほとんど雇ってもらえなかった現実を知 っていた人はどれだけいたでしょうか?。   そうした時代に育った東大の姜尚中教授(注5)も、自然と心の中にある 差別社会への反発を金嬉老がストレートに表現してくれたとみていました。   また、山本周五郎賞を受賞した『血と骨』の著者・梁石日氏も事件の感想 を朝日新聞に次のように記しました(1999.9.14)。        --------------------  「金嬉老事件」が起きた当時、私は31歳だった。大阪から仙台へ、仙台か ら東北地方を放浪して東京へきた無一文の私は、その日の糧にも困り、必死で 仕事を見つけようと新聞広告に応募していたが、当時の日本社会では小さな商 店ですら外国人という理由で雇ってもらえなかった。   こんなとき、くしくも「金嬉老事件」が起こったのである。それは私の意 識の暗部をえぐるような出来事であった。        --------------------   梁氏の語る「私の意識の暗部をえぐるような出来事」という意味を推測す ると、梁氏もまかり間違うと差別による鬱憤から金嬉老もどきになりかねなか ったということでしょうか。   いずれにせよ、金嬉老のなかに自分の分身を見ていた在日韓国・朝鮮人は 姜教授のみならず、私も含めて相当いたのではないかと思います。   とくに金嬉老の少年時代にあたる1930年代を生きてきた在日韓国・朝 鮮人の思いはひとしおだったのではないかと思います。   金嬉老は1928年、任侠道の次郎長で名高い清水市に生まれました。こ の年は関東大震災から5年目に当たりますが、関東大震災時の朝鮮人虐殺につ いてはこの会議室ではもはや多言は不要かと思います。   震災時、自警団は犬コロを殺す感覚で朝鮮人を殺し、それを手柄と思いこ んで、警察に勲章を貰いにいくような時代でした。また、裁判では自分の殺人 を笑いながらおもしろおかしく語るような世相でした(注4)。   これから察するに、当時は法的には日本人であっても、血統上の朝鮮人に 対する偏見や蔑視は想像を絶するものがあったに相違ありません。そんな筆舌 につくしがたい蔑視に苦しみ、赤貧にあえぎ、虐げられた半生を送った者の反 逆、それが金嬉老の人質事件ではないかと思います。   そうした金嬉老の訴えは、差別による鬱屈の経験者でないとなかなかわか りにくいことと思います。足を踏まれた人の痛みは踏んだ人にはわからないよ うに、差別する側とされる側の間には金嬉老への評価に必然的に断層が生じが ちです。   そんなギャップが日本と韓国の報道に如実に反映されました。そのギャッ プを米国のWP紙はこう記しました。        -------------------- 日本での殺人者は、韓国で殉教者として迎えられた                ワシントン・ポスト(1999.9.8) 【東京、9月7日】   人はキム・ヒロを愛するか憎むかである。日本のギャングはかれが死ぬの を望んでいるし、日本政府はかれが出国するのを望んでいた。   しかし、彼が今日、刑務所から仮釈放され韓国に送られたとき、かれは待 望の同胞として迎えられた。   タカのように鋭い目つきをした70歳のかれが31年ぶりに刑務所の独房 から出てきたことは、日本・韓国がともに抑えてきた両国間の嫌悪感情に波紋 を投げかけた。   日本では、かれは殺人者でありテロリストとみなされてきた。1968年、 日本のやくざをふたり殺し、温泉で13人の人質を4日間も監禁した末、かれ は警察に捕らえられた。   一方、韓国での見方は違う。かれを虐げられた在日韓国人の殉教者とみる 人もいる。あるいは、かれの犠牲はマイノリティへの偏見に対する告発にはず みをつけるものとみるひともいる。   今日、かれが釜山についたとき受けた暖かい歓迎は、すくなからぬ日本人 をうんざりさせた。  ・・・   こうした食い違いの根源は、日本の韓国占領に対する韓国民の深い憤りに 根ざしている。占領は1910年から1945年、日本の第二次大戦敗戦まで 続いた。   占領の間、無数の韓国人が労働力として日本に連れてこられた。そして多 くの人は(朝鮮)戦争の勃発や貧困のため、日本に残った。   かれらとその子孫は長い間、日本における二等の地位にいらだってきた。 たとえば、今年まで指紋入りの身分証明書を持ち歩かねばならなかった。  ・・・   朝鮮問題研究家の小此木マサオ・慶応大学教授は「あの時代は、在日朝鮮 人に対する差別がとても深刻だった。そのため、韓国人がこの事件を差別に対 する闘いとみるのも不可避である」と語った。・・・        --------------------   金嬉老事件を差別に対する闘いとみるかどうかは、小此木教授が示唆した ように、当時の差別の実態をどれだけ理解しているかどうかにかかっているの ではないかと思います。   ここでWP紙に関してですが、記事に不正確な表現があるのでコメントを つけ加えます。外国人は今でも外国人登録証を持ち歩かねばなりません。この 常時携帯義務制度は93年以来、国連からたびたび廃止勧告があったにもかか わらず、今年の国会で存続が決定しました。   一方、指紋押捺制度のほうは今年やっと廃止されました。ただし、在日韓 国人などの特別永住者に対してはすでに93年に廃止されました。このかげに は、在日韓国人などの猛烈な反対運動がありました。   おわりに、金嬉老事件以後における差別に関する記事を紹介します。        -------------------- <記者の目>在日外国人の人権、条文と現実乖離なくせ-石原                       毎日新聞ニュース速報(1997.4.30)   (前半省略)  当時(1983)、私が大阪本社社会部記者として取材に歩いた大阪市内には10万人を超 える「日本国籍でない」在日韓国・朝鮮人がいた。この文書(注6)が物語るように、 就職差別は日常化していた。       彼らは、大学を出ても公務員はもとより民間でも大企業にはほとんど就職 できなかった。就職先としては、いまでは近代的なレジャー産業になりつつあるパチン コ店や飲食店などが多く、将来に希望が見えない若者の間には、少なからず脱力感が広 がっていた。  「医者にさせるしかない」。親たちからは、こんな話をよく聞いた。こう語る親はと りわけ教育熱心で、町工場で夜遅くまで働きながら、塾に通う子供を気遣う姿には、何 か心に迫るものを感じた。  「働くところがないから」と、エネルギーの矛先を政治運動に向ける若者もいた。南 北に分断された母国の複雑な政治情勢。そして日本社会の理想と現実の大きなギャップ 。運動がときにエスカレートし、韓国で政治犯として獄中生活を強いられ、母国へ不信 と絶望で心身ともにズタズタにされるという、悲劇も目のあたりにした。  しかし、ここ十数年の時代の流れや国際情勢が変化する中で、少なくとも表面上は、 彼らを取り巻く環境もかなり変化している。  1980年には、公営住宅の入居や住宅金融公庫の貸し付けで国籍条項が撤廃された 。この結果、戦後30年にしてようやく日本人と同じように「健康で文化的な最低限の 権利」の一部を獲得した。民間の賃貸住宅でいまだに外国人への入居差別が残っている ことを考えれば、大きな前進といえるだろう。  また、82年には学者・研究者への道を大きく広げる国公立大外国人教員任用法が成 立。翌83年には東京高裁で、在日韓国人の国民年金加入を求める裁判で原告が勝訴し 、とりあえずは公的年金の支給の突破口になった。  さらに84年には、郵政省が外務職員の採用で、外国人に門戸を開いた。国籍条項を めぐっては、一部地方自治体が撤廃の動きを見せているのに対し、国は「公権力の行使 」をするには日本国籍がなければならない、という朝鮮戦争直後に出した政府見解にな お固執しているが、現業部門に限った例外的措置とはいえ、初めて国家公務員の国籍条 項が撤廃された意義は大きかった。  ただ、80年代前半にこうした動きが相次いだのは、必ずしも在日外国人の人権に配 慮して、国が積極姿勢をみせたからではない。政治や経済の流れと同じように、人権状 況の変化も“外圧”によって変化した気配が濃厚なのだ。  日本は、79年に国際人権規約を、82年には難民条約をそれぞれ批准した。国際人 権規約は、国連が48年に採択した国際人権規約に法的な拘束力を持たせたもので、国 籍の違いにかかわらず人権と基本的自由を保障するよう求めている。一方、難民条約は 本国の保護がない難民に、福祉面で自国民と同等の待遇を与えることを規定していた。  公営住宅入居は国際人権規約に促され、対象を日本人に限定していた国民年金法や児 童手当法の改正は、難民条約の“おかげ”というわけだ。  その後、在日韓国・朝鮮人が外国人登録証の指紋押捺(おうなつ)制度を「人権侵害 だ」として、押捺拒否の一大運動を繰り広げ、同制度が撤廃されたが、これも韓国を含 めた国際世論という“外圧”が大きく作用したようだ。  「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基 本的人権は、侵すことのできない永久の権利として現在及び将来の国民に与へられる」 。憲法第11条はこう高らかにうたっている。「侵すことができない永久の権利」とは 、神聖な自然権を意味する、と解釈される。  11条の対象は「日本国民」で外国籍は対象外、などとは言うまい。人権をめぐる憲 法と現実の乖離(かいり)は、被差別部落出身者などへの差別を温存していることから も否定できないのだから。        -------------------- (注1)篠田直彦「金嬉老事件が日本人に問いかけるもの」    『戦後を生きた在日朝鮮人』新幹社、1996 (注2)池上努「法的地位200の質問」京文社、1965 (注3)田中宏「在日外国人」岩波新書、1991 (注4)半月城通信<関東大震災>参照 (注5)姜教授は、少年時代の思い出を次のように語りました。  猛勉強しても両親に褒められることはなかった。小学5年の時、通知表を開くと「オ ール5」だった。少し有頂天になった私は、家に戻ってすぐ母に誇らしげに見せた。だ が、正月のもち作りをしていた母の反応は極めてクールだった。在日韓国人の母は「学 校の勉強ができても子供の生きる道は限られている」と考えていたようだ。  両親は学校の成績の良しあしより、私がスポーツや芸能界で自立できる術を身に着け ることを望んでいた。親の期待に応えようという気もあり、幼少の私には学校の秀才よ りプロ野球の張本勲選手の方がまぶしく映っていた。「良い学校から良い会社へ」とい うレールを信じていなかった。半ばあきらめていたという方が正しいかもしれない。                    毎日新聞ニュース速報(97.7.19) (注6)大手書店の女性社員のパート採用に関する“マル秘文書”をさす。 PS.在日韓国人の理想的な職業である医者になられたスレイプニルさんは、  金嬉老事件にどのような持論をお持ちでしょうか。スレイプニルさんいうと  ころの「気まぐれな議論」も結構ですが、ときには「持論」を聞かせてくれ  ませんか。  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


文書名:[zainichi:11992]金嬉老事件の裁き Reply-To: Date: Sun, 3 Oct 1999 20:12:59 +0900 Message-Id: <991003201252.C1AF2313.2841102@muj.biglobe.ne.jp> Mime-Version: 1.0 Content-Type: Text/Plain; charset=iso-2022-jp   しんたくさん、こんばんは。   金嬉老裁判で、梶村秀樹氏が裁判官である父君の日記を引用して、次のよ うに証言したそうですが、たしかにこれは重要な問題提起を含んでいます(注)。        --------------------   ・・・在日朝鮮人に関する事件を取り扱って、「そのむずかしさ、法律の 知識ならば自身はあるんだけれども、どうしていいのか法律だけじゃ分からな い」ということが、日記ですから、正直に書かれている部分があったわけです。 本当にそうであったろうなと、大学出て、模範性的な裁判官になった親父のこ とを想像しながら思うわけですけれども、さらに考えてみますと、そういうふ うに日記に書いていながら、わかったようにして裁いてきたということですね。        --------------------   在日朝鮮人問題を法律論だけで裁けるのかという疑問は、ウトロ裁判など ではその感が強いのですが、金嬉老事件のように、ヤクザを殺害したという倫 理の善悪がはっきりしている事件ではあまり問題がないのではないかと思いま す。その際、民族問題の背景は情状酌量として加味されてしかるべきですが。   こう考える私にとって「日本の裁判所は金嬉老を裁けるか」という問題提 起は心情的にはともかく、テーゼとしてはラジカルに過ぎます。この考えにも とづく私の前半の文章が、しんたくさんにすこし違和感を持たせたのではない かと思います。 (注)篠田直彦「金嬉老事件が日本人に問いかけるもの」    『戦後を生きた在日朝鮮人』新幹社、1996   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/10/03 - 07994/07994 PFG00017 半月城 差別克服のドラマ ( 8) 99/10/03 21:13 07847へのコメント  不如省事さんの予想どおり、権禧老氏の手記が週刊誌に発表されましたね。 ご存じかもしれませんが、手記は「検察官が裁判で主張したように民族問題を 持ちだすことによって、自分の殺人を正当化するつもりも毛頭ありませんでし た」と書かれていました(注1)。   彼の意図は「自分が受けてきた侮辱、いわれなき民族差別、そして警察官 が私に投げつけてきた屈辱的な言葉--これらを訴えないまま死ぬことはどう してもできなかった」というもので、自決覚悟でレイシストの警官などを告発 するのが目的だったようです。   RE:7847 >半月城さんはどのようにお感じになっていたのでしょうか。   当時の私の感想は、金嬉老は私たちの鬱憤をよく代弁してくれたという想 いと、その一方でこの事件により日本社会に、在日韓国・朝鮮人は何をしでか すかわからないという恐怖心をあおるのではないだろうかという不安な想いと が交錯していました。   同時に、自分もまかりまちがうと金嬉老もどきのことをしでかすかもしれ ない、梁石日氏の言葉を借りると「自分の暗部をえぐられる」想いでした。   東大の姜尚中教授も「私と権氏を分けた運命の違いも偶然のものにすぎな いと思う」と述べていましたが(注2)、当時の差別に肌身を直接さらされて いた在日韓国・朝鮮人は、おおかた彼を自分の分身のように考えていたのでは ないかと思います。   それに反しスレイプニルさんのように、在日韓国人にとって「差別フリー」 の象徴と考えられている医者になられたような人は、えてしてこうした在日韓 国人の心情には疎い存在になってしまうのではないかと思います。ちょうど、 飢えている人の苦しみが、飽食に育った人には決してわからないように。   スレイプニルさんは、それが高じて指紋押捺発言につながったのでしょう か。不如省事さんの質問、<指紋押捺を「たかが紙切れ」とおっしゃった本意 も含めてお聞かせいただきたいものです>にスレイプニルさんからはまだ回答 がないようですが、在日韓国人がこぞって指紋押捺拒否運動をしていたとき、 それに水をさすような在日韓国人がいたんですね。   当時の在日韓国人は指紋入りの外国人登録証を差別・偏見を助長するもの、 人権・人格を踏みにじり犯罪者扱いするものととらえ、自治組織「民団」ぐる みで百万人書名など反対運動を大々的にくりひろげました。その過程で指紋押 捺拒否者が続出したので、民団は指紋押捺拒否時の法的対応マニュアルまで用 意したくらいでした(注3)。   このようにほとんどの韓国人、いや圧倒的多数の外国人が真摯にくりひろ げ、日本の世論のみか韓国政府をも動かし、政治解決をもたらした画期的なこ の運動を、ただ傍観するのならまだしも、それに冷や水を浴びせるような言動 を吐く在日韓国人がいたなんて、私は悲しくなります。   そのころ、マニュアル片手にぎりぎりまで指紋押捺を拒否してきた私とし ては、彼のような在日韓国人の異端児には心から怒りを禁じざるをえません。   そのような発想の持ち主だからこそ、私の書く文章を全否定し、人格を疑 わせるような罵詈雑言を平然と書くものと思われます。その歪んだエネルギー は一体どこから来るのでしょうか?   閑話休題。   話かわって、不如省事さんが高く評価されている姜尚中教授ですが、調べ たところ、おっしゃるように事件のあった高校生のころは「エリート」と呼び うる環境ではなかったようでした。彼の少年時代のプロフィールを引用します (注4)。        -------------------- 孤独な野球少年   姜尚中氏は1950年8月、熊本市で生まれた。もともと熊本は在日韓 国・朝鮮人の少ないところだったが、戦後間もないころは、いわゆる「朝鮮人 部落というものが駅周辺にひっそりと寄り添うようにしてあった。   姜氏の両親はその部落からは離れたところで廃品回収の仕事を営んでいた。 日本に親類縁者をもたない両親だったが、食べるものはもちろん、チェサ(祭 祀)などの慣習やしきたりに至るまで相当に民族色の濃い一家だった。   少年時代の彼は勉強がよくでき、性格の率直な学生だったが、親友とよべ るような友はいなかった。  「そのころの私には自分が透明な存在であるという意識と、皆に注目された いという意識のふたつがあったように思います。周りに在日の友人もいなかっ たし、日本人の親友もいませんでした。自分が在日であるということ自体が私 には悪のように映っていた時期でした」   鬱屈し屈折した思いを何かにぶつけるようにして中学・高校時代は野球に 熱中した。東映球団の張本選手がそのころの彼の憧れのスターだったという。        --------------------   姜教授のような「鬱屈し屈折した思い」は、金嬉老事件以前はそれを訴え ても日本社会にその受け皿はなく、悩める人は自己周辺で局所的に解決するし かありませんでした。   その解決を誤ると、やくざの道に入ったり、あるいは帰化した山村政明君 のように死を選んだり不幸な結果に終わりがちです。   早大生・山村君の焼身自殺(1970)には、同窓生であった姜氏はたいへんな 衝撃を受けたようで、それ以来、生き方を90度転換したようでした。  「大学3年の夏、生まれて初めて一人でソウルに行きました。71年の南北 赤十字会談の前のころでした。帰ってきて私は大学で同胞学生の集まるサーク ルに入り、そこで生涯の友とも言える人物に会えたのです。   心からの友の出現で、初めて私が透明な存在ではなくなったと感じました。 友人たちと語り合い寝食を共にしていくなかで連帯意識というものも芽生えて きたのです」   姜教授はこのようにして意識上の「在日であるという悪」を個人的に克服 していったのですが、その一方で権禧老氏の告発ドラマ以後、在日韓国・朝鮮 人のなかには理不尽な差別をひろく社会に訴え、日本社会に覚醒をうながすと いうスタイルが誕生しました。   そのトップバッターは、日立就職差別事件の朴鐘碩氏でしょうか。70年 から4年にもわたる悪戦苦闘のすえ、裁判で天下の日立に実質勝訴し、在日韓 国人も大企業に就職できるという実績をつくりました(注5)。   この裁判に勇気づけられたのかどうか定かではありませんが、次の挑戦者 として金敬得弁護士をあげることができます。   金氏は72年、早稲田大学を卒業しましたが、当時、就職課の扉をたたい たとき、こう言われました(注4)。  「一部上場会社は99.9%無理。二部以下の会社で人のいい社長さんがい たら就職できるかもしれないから登録だけしておいてください」   金氏は、このとき味わった差別を契機に、どえらい計画、朝鮮籍のままで 弁護士になるという当時の不可能に挑戦しました。  「私は大学卒業時に味わった社会的、職業的差別を契機として、日本人の前 に、朝鮮人としての私の存在をつきつけていこうと決意しました。・・・   その総合的結論が、司法試験に合格して、朝鮮人司法修習生、朝鮮人弁護 士になるということでした」   このドンキホーテのような決意を実行するため、金氏はアルバイトや、は ては受験勉強には致命的ともいえる土方までやって学資を稼ぎ、難関の司法試 験に挑みました。そこまで金氏を駆りたてたエネルギーは、自己の生き方に対 する厳しいまでの反省だったようです。  「朝鮮人社会から逃げ出すことと、自己の内にある朝鮮的なものを排除する ことが、いつしか習性のようになっていた」  「皆が民族的に生きようとしているときに、僕はそういう隊列から外れてき たわけだから、今日から朝鮮人として生きるからよろしくと、そんな厚かまし いことよう言えん。   自分で自分を許せない。一人でできること、差別と戦えることは何か、と 考えて司法試験を受けよう、と。これなら勉強さえすれば、合格しさえすれば、 ケンカできるから」   このように軽やかに語る金氏ですが、その間の苦労や苦渋は並大抵ではな かったことでしょう。4年後、めでたく司法試験に合格し、最高裁を相手に次 なる挑戦、司法修習生規定における国籍条項撤廃を要求しました。   この主張は多くの支援に支えられ、世論を動かし、とうてい不可能と思わ れていた司法の壁にあっさり風穴をあけ、ついに朝鮮人弁護士への道を開きま した。   金氏に限らず、一見苦労知らずのように見える成功者でも、その過程で時 には絶望し人知れず涙に打ちひしがれ、時には苦悩のため眠れない夜もあった ことでしょう。   そうした在日韓国人一世や二世の語りつくせぬ苦闘や泣き笑いのドラマを 経て、今日、三世や四世に門戸がかなり開かれる社会に日本はやっとなりまし た。 (注1)「金嬉老特別手記、寸又峡の“暴発”まで」『週刊新潮』99.10.7 (注2)「姜尚中コラム、権禧老が私たちに問いかけるもの」『文化日報』  (韓国語)99.9.14、訳文は http://akizuki.pr.co.kr/(つぶやき会議室) (注3)在日本大韓民国居留民団発行『指紋拒否した人のために』1985 (注4)良知会編『100人の在日コリアン』三五館、1997 (注5)半月城通信<差別問題、日立就職差別事件>参照  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


ご意見やご質問はNIFTY-Serve,PC-VANの各フォーラムへどうぞ。
半月城の連絡先は
half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。