半月城通信
No.122(2006.9.26)

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    目次

  1. 日本の原爆開発の輪郭
  2. 「新親日派」の呉善花氏は日本人
  3. 竹島=独島問題ネットニュース3

  4. 日本の原爆開発の輪郭 2006.8.13 メーリングリスト[AML 8678]   半月城です。   テレビ朝日の精力的な取材により、日本の原爆開発計画の輪郭がほぼ明らかになりま した(注1)。その番組をもとに全体計画の全貌に迫りたいと思います。   1943年初、日本の原爆開発は、東条英機首相の「原子爆弾により今次大戦の死命が決 される」という大号令のもとで本格的に推進されました。開発を主導したのは陸軍省およ び海軍省でした。両省は、縦割り組織そのままに、それぞれが独立して開発を推進しまし た。当然、人的資源や物資、予算、開発成果などすべてが分散されました。   それらのケースを具体的に見ることにします。 1.海軍のプロジェクト   1943年春、海軍は原爆開発を京都帝国大学の荒勝文策研究室に命じました。荒勝教授 は原子核物理学の専門家であり、ウラン235の1原子が核分裂する時に放出される中性子 の数は平均2.5個であることをほぼ正しく測定した研究者でした。   その中性子は他のウラン235に衝突して核分裂の連鎖反応を引きおこしますが、その 反応をコントロールしない原爆は、一瞬にしてとてつもない破壊力、殺傷力を生みだし、 強力な大量殺戮兵器になります。   京都大学の原爆開発はF研究と名づけられ、予算は60万円、現在の価値でいうと2億 円が当てられました。そのメンバーには、後日ノーベル賞を受賞した湯川秀樹や、前回紹 介した清水栄などが加わりました(注2)。   清水は、1944年冬、上海で酸化ウラン 50kgを購入しましたが、問題はそれからどの ようにウラン235を濃縮するかでした。京大が考えた濃縮方法は遠心分離法でした。   その原理は洗濯機の脱水槽と同じで、ガス化したウランを超高速の遠心分離機に入れ、 わずかに重さの違うウラン235と238を少しずつ分離し、それを何段もつなげて運転し、ウ ランを濃縮します。現在ではこの濃縮方法が主流になりました。   濃縮の原理は簡単ですが、当時、超高速の遠心分離機を製造するのは至難でした。ち なみに、通常の交流モーターの回転数は 60ヘルツ地区では原理的に毎秒 60回転が限界で あり、これに増速ギヤーをつけても毎秒1万回転で回すのはかなり困難です。   ところが、ウラン濃縮用の遠心分離機では毎秒10万回転が必要とのことでした。清水 氏が描いた遠心分離機のポンチ絵は、同氏自身が番組で証言したように「机上の空論」に 終り、ウランの濃縮実験すら行われませんでした。 2.陸軍のプロジェクト   1941年、陸軍の鈴木辰三郎中佐が、世界的に著名な理化学研究所の仁科芳雄を訪問し、 原爆開発を打診したのが皮切りでした。   これを受けた仁科は原爆の偉力を計算して、通常火薬18,000トンに相当するとの見解 を 1943年初、陸軍の安田中将に示しました。この頃から原爆開発の「ニ号研究」が正式 にスタートしました。予算は2,000万円、60億円相当の巨費が当てられました。予算額だ け見ても、日本政府の期待がいかに大きかったかがわかります。   当時の戦況ですが、日本はミッドウェー海戦に惨敗し、サイパンで全滅し、米軍の本 土空襲が目前に迫っていました。日本軍は神風にたよるわけにもいかず、起死回生の新兵 器として原爆開発に一縷の望みを託しました。それだけに陸軍も必死でした。原爆関連の 技術将校を11人も理化学研究所へ派遣し、二号研究を支援・督促しました。   理化学研究所の研究体制ですが、仁科は若い研究者を下記のような班に分けました。 (1) 化学班、木越邦彦   原爆製造の第一ステップは、イエローケーキと呼ばれる酸化ウランからガス化の容易 な六フッ化ウランを製造することにあります。1944年春、木越はセトモノの釉薬に使う硝 酸ウラニルから、困難の末に六フッ化ウランを製造するのに成功しました。   ついで量産工程を確立する必要がありますが、陸軍化学班の川村清がいかに協力しよ うとも、予算や物資が払底していた日本では、試験管レベルが精一杯だったようでした。   1945年4月、理化学研究所が爆撃されるや、木越は研究室を山形県にある山形高校の 理科室へ移し、そこで細々と六フッ化ウランを製造しました。製造量は 8kgに達したとの ことですが、原爆1個を製造するには数トン必要だったので、成果は雀の涙ほどの微々た る量でした。 (2) 分離班、竹内征   原爆開発における最大の難関は、六フッ化ウランからいかにウラン235を濃縮するか にありました。その濃度を 0.7%から 90%以上に濃縮する方法ですが、仁科は熱拡散法 を採用しました。その際、誰でも思いつく、今日主流の遠心分離法を採用しなかったのは、 当時の技術では手が届かなかったためでしょうか。   番組では竹内が画いた分離筒のスケッチが紹介されましたが、それは数メートルの長 さの二重円筒からなり、銅でできた内筒をヒーターで熱する一方で外筒を冷やし、温度差 を利用して軽いウラン235を上方へ拡散させる構造でした。   分離筒は44年2月に完成しましたが、濃縮は最後まで成功しませんでした。濃縮度の 測定方法がまずかったのか、あるいは分離筒の設計計算が間違っていたのか、ともかく徒 労に終りました。   一般に、軽いガスは上に、重いガスは下に集まるはずだと思われがちですが、これは 時には正しくありません。たとえば、空気は重さが二倍も違う窒素ガスと炭酸ガスが一様 に混ざっており、決して重い炭酸ガスが地表面に集まっているわけではありません。まし てや、重さがたった1パーセントしか違わないウラン235と238を熱拡散で分離するのは困 難を極めたことでしょう。   ちなみに他の濃縮方法ですが、今から数十年前はガス拡散法が主流でした。圧縮した 六フッ化ウランのガスを直径が100オングストロームくらいの無数の細孔をとおしてウラ ンを濃縮しましたが、その技術も戦時中は不可能だったことでしょう。   ウランの濃縮研究は大きな壁に突きあたっていましたが、陸軍の鈴木辰三郎中佐は最 後まで濃縮をあきらめませんでした。理化学研究所が爆撃されるや、研究室を大阪中之島 の大阪帝国大学へ移し、そこで巨大な分離筒を3本製作しました。しかし、苦労して製作 した分離筒は稼働することはありませんでした。   設備が十分でない大阪大学では、毒ガスが発生する恐れのある危険な六フッ化ウラン を扱いかねていたようでした。そのうち、空襲による停電で研究の続行が不可能になりま した。   しかし、執念の鈴木は研究室を兵庫県尼崎市にある住友金属に移し、わずかに残る銅 や鉄で分離筒を5本製作しました。そこも空襲で研究続行が不可能になるや、鈴木は三重 県名張の実家で研究を続行したとのことでした。こうした熱意だけは、キュリー夫人のラ ジウム発見にかけた熱意に劣らないようです。   戦後、鈴木は雑誌に秘話「完成寸前にあったニッポン製原子爆弾の全貌」を雑誌に発 表しましたが(注3)、自分の研究が必ずや成功すると夢みていたようでした。   こうして、原爆開発の核心となる濃縮は夢物語に終りました。 (3) 検出班、山崎文男   ウランの濃縮が成功したかどうかの判定は、検出班がサイクロトロンを用いておこな いました。この装置は感度にすぐれ、かつて理化学研究所ではこの装置で核実験で発生し たウラン237を検出したこともありました。   最初の検出は 1944年11月におこなわれ、濃縮は失敗と判定されました。最終的には 1945年5月に測定が行われ、やはり「ネガティブ」との判定が出されました。この結果を うけ、陸軍は二号研究の中止を決定しました。二号研究は完全な失敗に終りました。 (4) 原料班、飯盛里安   原爆の原料になる酸化ウランは、下記のように各地から集められました。 ○マレー半島   スズの鉱山から出る鉱石のアマンが 0.1%のウランを含有 ○朝鮮半島   黒砂(ピッチフレンド)中のモナズ石が 0.5%のウランを含有 ○アメリカ   別目的で輸入しておいたカルノー石から酸化ウランを300kg抽出 ○ドイツ   ヒトラーの協力を得てウラン560kgを潜水艦Uボートで運ぶも、ドイツの降伏により アメリカに押収される ○日本国内   福島県石川町でとれるサマルクス石が酸化ウランを20%含有、石川中学校の生徒を動 員して採掘。原料班も石川町へ移転 3.結論   アメリカ公文書館に保管されている極秘資料「スネル レポート」には「日本は終戦 の3日前に原爆を完成し、その実験に成功した。色鮮やかな蒸気が成層圏内に巻き起こっ た」と記されました。   このソースを元にしてか、アメリカの新聞 The Atlanta Constitution は、"Japan Developed Atom Bomb"(1946.10.3)「日本は原爆を開発した」と題する記事を掲載しまし た。それによると、1945年8月12日、北朝鮮の興南沖で閃光とキノコ雲を伴った大爆発が あったとのことでした。   これらは、アメリカ軍が日本軍将校・若林を尋問した内容をもとに書かれたとされま すが、若林の供述を裏づける資料は何一つありません。たしかに、キノコ雲は原爆特有の 雲ですが、その一方で、興南で核爆発に伴う被害が知られていないことから、核爆発が実 際にあったとみるのはむずかしいようです(注3)。   さらに、上記に書いたような日本の研究水準からすると、日本の原爆は完成する目途 は皆無で、五里霧中の状態でした。テレビ朝日の番組もスネル レポートは誤りで、日本 は原爆を完成していなかったと結論づけました。   原爆開発に失敗した仁科博士は、広島に新型爆弾が落とされたことを知った時、開発 失敗の責任を感じて「文字どおり腹を切る時がきた」と記しました。同時に、かれは日本 が頓挫した原爆製造をアメリカの科学者が成し遂げた事実にたいへんなショックを受けた ようでした。   そのころ、仁科は原爆を確認するために広島に行きましたが、そこで一面廃墟と化し た市街地を目の当たりにして原爆の恐ろしさをこう記しました。        --------------------   この(核分裂の)エネルギーが広島や、長崎にあの通りの暴威を振ひ潰滅をもたらし たのである。これでも解る通り、原子核の研究といふ最も純学術的の、しかも何等応用と いうことを目的としない研究が、太平洋戦争を終結せしむる契機を作った最も現実的な威 力を示すことになったのである。   これは如何なる外交よりも有力であったといはねばならぬ。科学が現代の戦争といは ず文化といはず、凡ての人類の活動上、如何に有力なものであるかといふことを示す一例 である。   更に原子爆弾の今後の発達は恐らく戦争を地球上より駆逐するに至るであらう。否、 吾々は速やかに戦争絶滅を実現せしめねばならぬ。・・・原子爆弾は最も有力な戦争抑制 者といはなければならぬ(注4)。        --------------------   仁科は原爆の脅威をつぶさに見て、原爆は「太平洋戦争を終結せしむる契機を作っ た」と語りましたが、これはアメリカの主張「原爆が対日戦の終結を早めた」という主張 に一脈つうじるものがあります。   それほどに核の脅威を重大にとらえた仁科は、核兵器の脅威が戦争を抑制するという 核抑止論者になってしまいました。残念なことに、そのような核抑止論がその後の世界的 な流れになってしまい、核兵器をもつ国がアメリカ以外にもぞくぞく登場し、最近では遺 憾にも北朝鮮までもが核保有国であることを宣言するまでになりました。   ま、核兵器が毛沢東のいう「張り子の虎」にとどまり、核兵器が使用されない限り核 抑止論も一理あるのですが、いざ戦争が始まると軍人は戦争勝利を口実にとかく暴走しが ちです。たとえば、劣化ウラン弾を開発したブラー博士はこう語りました。  「さまざまな危険があることは知っている。しかし、軍の仕事は戦争に勝つことにある。 そのためには最も優れた兵器を提供しなければならない(注5)」   勝つためには手段や兵器を選ばない、これが軍人の共通した根本思想です。そうした 暴論は朝鮮戦争(1950)当時にも見ることができます。朝鮮戦争を指導したマッカーサー元 帥は、アメリカが満州に原爆を30発おとせば戦争に勝てるという計画を立案しました。   この計画に反対して、トルーマン大統領はマッカーサーを解任して事なきを得ました が、この世に核兵器がある限り、それが実戦に使用される危険性は常に存在します。   また、軍人を抑えるべき政治家にしても、本当は戦争はしてはならないと考えていて も、時には軍人を抑えるどころか、かけひきから往々にして「戦争も辞さない」という発 言をしかねません。   さらに始末が悪いことに、そうした勇ましい発言は、えてして民衆から拍手喝采を受 け、歓迎されがちなので、成りゆきは予断を許しません。   あるいは、戦争と明言しなくても、政治屋は「自衛のために」を大義名分に「先制攻 撃」などと口走ったりするものです。ともかく、情勢の成りゆき次第でおろかな戦争は起 きるし、同時に危険な核兵器使用も起きかねません。   そうした愚を避けるためにも、人類を破滅に導く恐れのある核兵器は廃絶されるべき であるし、また、そもそも戦争自体が放棄されるべきです。   こうした観点から私は日本の「非核三原則」と、戦争の放棄をうたった「平和憲法」 を世界に誇るべき「道しるべ」として高く評価しています。 (注1)テレビ朝日、ザ・スクープ スペシャル 「終戦61年目の真実、幻の原爆開発計画」2006.8.6 (注2)半月城通信「日本の核兵器、過去と未来」 (注3)半月城通信「日本の原爆開発」 (注4)中央公論社『自然』300号記念、1971, P15 (注5)NHKスペシャル番組「調査報告 劣化ウラン弾」2006.8.6 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    「新親日派」の呉善花氏は日本人 2006.9.18 メーリングリスト[AML 9375]   半月城です。   呉善花氏は、デビュー作『スカートの風』を出版して以来、わずか十年あまりで驚異 的にも数十冊もの本を出版し、すっかり売れっ子のニューカマー「韓国人」になった感が あります。   彼女の本がこうもヒットした秘密はどこにあるのか、韓国のテレビ局MBCが徹底取 材し、番組PD手帳「新親日派の正体を明らかにする」(8/15)で解き明かしたので、その 内容をかいつまんで紹介します。   PD手帳の性格ですが、この番組は、かつて韓国で国民的英雄とされた生命科学者・ 黄ウソク教授の論文捏造を鋭く告発するなど、逆風にも屈せず真実を追求しましたが、そ の姿勢は社会の木鐸として高く評価されています。   それらの番組は下記で登録すればいつでも無料でみることができます。最近では、こ こでも話題になった9.11事件にちなんで、番組「9.11陰謀論、米国の自作劇なのか?」 (韓国語)が放送されました。 http://www.imbc.com/broad/tv/culture/pd/vod/index.html   主題の番組ですが、それは「新しい歴史教科書をつくる会」の集会シーンから始まり ました。2005年4月の集いでは、呉善花氏はパネラーとして登場するはずだったのですが、 直前に取りやめになりました。   司会者である藤岡信勝氏の説明によれば、彼女は身の危険があるためパネラーとして 参加できなくなったとのことでした。   しかし、その説明の直後に彼女は会場の観客席から立ち上がって参加者に向って一礼 しました。テロの危険があるとのことなのに一体どうしたことでしょうか。客席でなく、 パネラーとして登壇すると、客席から射たれかねないとでもいうのでしょうか? 「身の 危険」なるものは、単に彼女の強迫観念にすぎないのではないでしょうか。   ま、彼女が強迫観念に捕らわれるのも当然かも知れません。何しろ「従軍慰安婦」は 日本軍の強制によるものではなかったとか、歴史を歪曲するような発言を公然と繰り返し ているだけに批判から身を潜めざるを得ないのかも知れません。   しかし、身を隠すのは強迫観念のためばかりではないようです。彼女はMBCの取材 からも逃げまわりました。MBCからの電話取材の際、彼女は何とみずからを彼女の親戚 であるかのように装って、呉善花氏は長期旅行で当分留守です、などとあからさまな居留 守を使いました。   ところが、頭隠して尻隠さずとでもいうのでしょうか、翌日、長期留守のはずの彼女 は産経新聞の黒田勝弘氏からの電話には応対しました。もちろん、MBC取材陣は黒田氏 と同席していました。居留守は明白でした。   ウソも方便でしょうか。それは彼女の経歴にも言えるようです。十年前に山本七平賞 を受賞した著書『攘夷の韓国、開国の日本』において彼女の経歴はこう書かれました。   <著者紹介>  1956年、韓国・済州島生れ。1983年に渡日し、大東文化大学(英語学専攻)の留学生と なる。その後、東京外国語大学大学院修士課程(北米地域研究)を修了。通訳、翻訳業な どを通じて日韓ビジネスの現場を体験・・・   このように日本での学歴はくわしく書かれましたが、どうしたことか韓国の学歴は記 されませんでした。ところが、最近公表された著書には韓国、大邱大学卒業という経歴が つけ加わりました。   しかし、これはMBCの調査で学歴詐称と結論づけられました。MBCが同大学に行 き実際に調査したところ、彼女の本名・呉スンイルはありませんでした。この報道に対し、 彼女がMBCを名誉毀損で訴えた様子はないようです。   学歴詐称は拓殖大学の渡辺利夫教授(現在、同大学学長)によれば立派に犯罪とのこと ですが、それもさることながら、呉善花氏をめぐる疑惑で重大なのは、何といってもゴー ストライターの存在です。番組は、かつて呉善花氏の内縁の夫であった清塚誠氏や出版関 係者に取材し、その内幕を赤裸々に放映しました。   清塚氏が呉善花氏と同棲するようになったのは、かれが遊びにいった上野の韓国クラ ブ「ニュー太陽」でそこのホステスとして働いていた呉善花氏に出会ったのがきっかけで した。実業家の清塚氏は才色兼備の彼女を見込んで秘書に雇い、日本の大学へ入学させま した。   かつてPD手帳は、1991年に東京の韓国人ホステスを取材し、番組「赤坂の韓国女性 たち」(6/11)を放送しましたが、その番組で呉善花氏はこう語りました。  「韓国から留学で来た女子学生はホステスになり、プロホステスと同じく金持ちの愛人 になる場合が多かった」   まさか呉善花氏はこれを実践したわけではないのでしょうが、やがて清塚氏と同棲す るようになりました。そして大学に通うかたわら、本を出版する決意をしたようです。そ の目的は清塚氏によれば、日本ペンクラブの会員になって、卒業後の日本在留ビザを獲得 するためだったとのことでした。   しかし、本の出版は容易ではなかったようです。何しろ、彼女は日本語がつたないの で、書いた原稿は何度も出版社から返され、1年たっても校正は終りませんでした。しま いには出版社がしびれを切らしたのか、代筆ライターを世話するにいたったと清塚氏は証 言しました。   そうして世に出たのが出世作『スカートの風』でした。本のネタの7割は、清塚氏が 運営する韓国語学校でかれが授業中に生徒の眠気覚ましに面白おかしく語った、韓国クラ ブのホステスにまつわる話などが元になりました。   その本の第1章は「日本で働く韓国人ホステス、なぜ日本に永住したいと願うの か?」という見出しですが、これは彼女の来日動機そのものでもあるようです。   原稿の代筆を請け負った韓国人は、その本が出版されるや、道義的良心からすぐ身を 引きました。二人目の代筆ライターは在日韓国人三世の女性ですが、彼女は番組に顔を隠 して登場しました。彼女は、代筆は彼女以外に何人もいると証言しました。   このような代筆こそが、彼女の著書の秘密を解く鍵になります。代筆者さえ確保でき ればいかなるテーマでも容易に文は書けるものです。呉善花氏は「神社神道の核心を考え る」という一文を『日本文化』に掲載しましたが、その内容はかなり高度なものです。こ れについて高橋哲哉氏は控えめに「日本人が書いたようにみえる」と語りました。   また彼女の著書の中で『韓国併合への道』を読んだ歴史家の李泰鎮氏は、彼女が甲午 改革に関する田保橋氏の論文を引くなど、歴史の専門家でなければ知らないような文献を 引用しているのに舌を巻いていました。   もちろん、彼女がそれだけの実力の持ち主である可能性はあります。しかしながら、 彼女の書く文章と彼女の語る内容の落差があまりにも大きいことは拓殖大学の学生のみな らず、衆目の一致するところです。   大学の授業ですが、番組で見るかぎり、そのレベルは容易に察しがつきます。ソウル 南大門市場近くのゴミの山を高層ビルに重ねて写した写真を学生に見せて、韓国は「この ようにごっちゃまぜの文化」であると説くのでした。   あるいは、こうも説きました。韓国は三面が海なのに日本とは大違いである、たとえ ば韓国は台風が少ないが、これは日本のおかげであるとか、韓国人は海の幸をあまり食べ る習慣がなかったとか、誇張して言えば、授業の内容は観光ガイドの話と五十歩百歩です。   ま、番組の性格を割り引いても、少なくとも神社神道に関する論稿を書いたような知 性は、彼女の発言からはその片鱗を見いだすのはむずかしいようです。   こうした落差に産経新聞の黒田勝弘氏ですら「毎年のように本を出版するのは、一人 ではむずかしい」「誰か助けている」「協力者がいる」などと代筆をほのめかすほどでし た。   そうした「協力者」はなぜ自分の名前を出さずに黒子に徹するのでしょうか? その 狙いを高橋哲哉氏はこう推測しました。  「日本人が日本人の名で韓国や中国を批判する、これはある意味では不思議ではない。 しかし、韓国人にもそういう人がいるとなると、それは偏見ではないということを日本人 に信じさせることができる」   中国や韓国に対する批判を日本人がいくらおこなってもインパクトはないが、韓国人 が批判すれば説得力が格段に増すということから、協力者たちは黒子に徹し、彼女を看板 スターに仕立てているようです。この作戦はかなり功を奏しているようで、彼女の言説は いたるところで利用されました。   たとえば麻生太郎発言です。同氏は日本が植民地の朝鮮でおこなった創氏改名を「満 州で仕事がしにくかったから、名字をくれと言ったのが、そもそもの始まりだ(注1)」 と語りましたが、これは呉善花氏の著書がネタ元であることが番組で明らかになりました。   また彼女の本は、ヒットしたマンガ『嫌韓流』の教本にもなりました。やはり、韓国 人が語る韓国史の歪曲は説得力があるので、嫌韓をあおる絶好の材料になりました。   彼女の著書はそうした効果が期待でき、かつ商業ベースに乗るだけに、彼女への協力 や代筆システムは次第に確固たるものになっていったようです。毎年のように韓国批判の ヒット本が生み出されました。   そうした一冊に崔吉城氏との共著『これでは困る韓国』があります。この本で崔吉城 氏は<どんな戦争でも「慰安婦」はついて回る。ユーゴでもロシアでも・・・決して日本 だけではない>と書いたとされますが、MBCがかれに直接取材したところ、何とかれは その内容を否定しました。   かれは、出版社から頼まれて呉善花氏と対談はしたが、自分の趣旨はその本とは違う し、自分はその本の表紙すら見たことがないと証言しました。崔吉城氏の話を出版社は否 定するので、どちらがウソをついているのか定かではないのですが、代筆の疑惑はますま す深まるばかりです。   いずれにせよ、彼女の本の出版に際しては強力な協力陣が暗躍していることだけは確 かなようです。そのからくりはともかく、数多くのヒット作を生み出せば、それだけ彼女 の名声は右派陣営でますます高まるばかりです。   その結果、彼女は拓殖大学日本文化研究所長の井尻千男氏によって推薦され、同大学 の国際開発学部教授に就任しました。その時、彼女はおそらく日本人に帰化した事実を隠 していたのでしょうか。   MBC取材陣は、井尻氏に面談した時に彼女が日本人に帰化した事実を告げたのです が、同氏は「私は聞いていない」「それはデマですね」といってはねのけました。しかし、 相当ショックを受けたのか、かなりの周章狼狽ぶりでした。   MBC取材陣はどこで手に入れたのか、彼女の戸籍謄本を井尻氏に示しました。そこ には 1998年10月29日に日本国籍を取得し、戸籍から除籍された事実が記されました。日 本は帰化者の二重国籍を防ぐため、帰化者の名を韓国へ通告し、それを受けて韓国政府は その人を戸籍から除籍するようになっています。   いまや、彼女は韓国人でないことがはっきりし、その事実がウィキペディアにまで記 されました(注2)。彼女が日本人になったことが知れわたると、今後どのような変化が 起きるでしょうか。   一橋大学の渡辺治教授は「彼女は韓国が売りである。そのレッテルがなければ、ただ の右翼にすぎない」と語りましたが、はたしてそう楽観できるでしょうか。また、彼女の 学歴詐称はどう決着するでしょうか。   また、彼女はかつて著書『私はいかにして「日本信徒」となったか』を出版しました が、今度は『私はいかにして「日本人」になったか』という本の出版が待たれます。 (注1)半月城通信<麻生太郎会長の「創氏改名」発言> (注2)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「呉善花」 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


    竹島=独島問題ネットニュース3  2006.9.24 1.朝日新聞記事    半月城の講演会「竹島=独島の知られざる歴史~日本の固有領土って本当?」 2.「独島は朝鮮領」明治政府文書発見 3.日韓共同調査:竹島=独島周辺海域で10月7日から 4.韓国の対日強硬姿勢に変化? 韓日共同で海洋調査実施へ 5.北東アジア歴史財団は日本を狙った組織 6.‘歴史戦争’に 200億ウォン支援…「北東アジア財団」来年予算策定 7.韓国領土学会「EEZの基点、独島は可・鳥島は不可」 8.日本、「独島は韓国領土」仏テレビ番組に放送取消求める 9.独島切手:北朝鮮が発行、韓国で予約販売開始 10.8月15日から独島で携帯電話の発着信が可能 11.大正期の「隠岐全図」に竹島 12.和田春樹教授「韓国、独島問題で焦る必要ない」 13.日本政府、在日外信記者団の独島訪問に抗議 14.中曽根元首相「独島、解決しないのも方法」 15.自民党外交部会が竹島問題で初会合 各記事の詳細 (著作権の関係上、新聞記事は一部のみ引用) 1.半月城の講演会「竹島=独島の知られざる歴史~日本の固有領土って本当?」  朝日新聞(名古屋版)、2006.9.14  ●不戦のつどい 17日午後1時半、名古屋市中区錦3の市教育館。不戦兵士・市民の会 東海支部主催。(以下省略)  【コメント】講演において、日本は元禄期の「竹島一件」以後、竹島=独島を版図外と 宣言することはあっても、公的に領有意識をもったことは日露戦争中の「竹島編入」時点 まで一度もなかったことを理解していただいたと思います。  なお、参加者の竹島=独島問題への関心が高く、講演に続く質問は一時間以上も延々と 続くほどでした。 2.「独島は朝鮮領」 日本政府文書発見  朝鮮日報、2006.9.14  1877年当時、日本の太政官(現在の首相室)が「独島(日本名竹島)は日本の領海では ない」と公式確認した文書に、鬱陵島と独島を表記した地図が添付されていたことが明ら かになった。  環境部首都圏大気環境庁長の鮮于栄俊(ソンウ・ヨンジュン)氏は13日に「磯竹島略 図」の内容を公開し、「この地図に現れた独島の存在は韓日の学者間で繰り広げられてき た論争を整理する意味がある」と語った。  【コメント】「磯竹島略図」は、日本では漆崎英之氏により今年6月に発見されている。 くわしくは「竹島=独島ネットニュース2,2006.7.1」<新資料発見か>を参照してください。  また「磯竹島略図」は、すでに半月城が『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』第2刷 (2006.8.15、コモンズ発行)P206に引用済みです。 3.日韓共同調査:竹島周辺海域で10月7日から  毎日新聞、2006.9.16  日韓両政府は15,16 両日、竹島(韓国名・独島)周辺海域の放射能の共同調査に関する 実務者協議を東京で開き、10月7日から8日間の日程で行うことを決めた。 4.韓国の対日強硬姿勢に変化? 韓日共同で海洋調査実施へ  朝鮮日報、2006/09/11  東海(日本海)上の放射能調査は韓日共同で実施することで10日、合意した。両国はこ れまで定期的に東海での放射能調査を実施してきたが、最近、日本は独島(日本名・竹 島)近海で調査を行う方針を表明、再び意見の対立が予想されていた。共同調査は、韓日 両国の排他的経済水域(EEZ)を含む海域で、両国はもちろん国際原子力機関(IAEA)の 専門家も参加して行われるとのことだ。 5.北東アジア歴史財団は日本を狙った組織  朝鮮日報、2006.9.9  高句麗研究財団を解体に追い込んだ北東アジア歴史財団の発足は、盧武鉉(ノ・ムヒョ ン)大統領のひと言から始まった。昨年3月7日、盧大統領は「歴史歪曲(わいきょく)、 独島(日本名竹島)問題について総合政策の樹立と研究のための政府出資機構を設立せ よ」との指示を下した。あえて独島の名前を挙げていることからも分かるように、これは 主に日本を狙った組織だと解釈された。 6.‘歴史戦争’に200億ウォン支援…「北東アジア財団」来年予算策定  中央日報、2006.09.09 北東アジア歴史財団は、中国の高句麗(コグリョ)史編入と日本の歴史教科書歪曲に対 抗するための対策を用意しろという盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の指示で昨年4月から 準備を進めてきた。 今月末に50人余の組織(研究員は20人余)で発足する予定だ。 7.韓国領土学会「EEZの基点、独島は可・鳥島は不可」  朝鮮日報、2006.9.5  社団法人韓国領土学会は7日午後1時から6時まで、ソウル白凡記念館で「独島領有権と 排他的経済水域境界画定問題」をテーマにした学術大討論会を開催する。  主題発表者を務める中央大法学部の諸成鎬(チェ・ソンホ)教授は発表文「韓国EEZ独 島起点の国際法上の根拠」を通じ、「島嶼は領海・大陸棚・EEZを持つことができるが、 岩石は領海しか持つことができないので、独島にEEZは設定できない」とする従来の認識 に異を唱えている。 8.日本、「独島は韓国領土」仏テレビ番組に放送取消求める  中央日報、2006.8.31 番組は18日に予定通り放送された。52分にわたる番組は、日本が試みている民族主 義の拡散と軍事化を批判している。とりわけドキュメンタリーの内容を紹介した同番組の ホームページには独島を韓国領土に表記、竹島は括弧の中に入れてある。同テレビ局は 「歴史教科書から南京大虐殺に関連した内容が消えており、首相が戦犯らに敬意を示して いる」と懸念した。 9.竹島切手:北朝鮮が発行、韓国で予約販売開始  毎日新聞、2006.8.18  【ソウル堀山明子】北朝鮮が発行した竹島(韓国名・独島)の記念切手について、独占 販売権を持つ香港の業者が18日、韓国統一省が韓国での販売を承認したのを受け、9月 2日まで販売予約を受け付けると明らかにした。韓国の聯合ニュースが香港発で報じた。 業者は6月に販売承認を得たが、小泉純一郎首相の靖国神社参拝の直後に販売を開始しよ うと時期を調整していたという。 10.8月15日から独島で携帯電話の発着信が可能  中央日報、2006.8.14 今回の光復節(独立記念日、8月15日)から独島(ドクト、日本名・竹島)全域で携 帯電話の通話が可能になる。 11.大正期の「隠岐全図」に竹島  山陰中央新報、2006.8.4  日韓両国が竹島(韓国名・独島)の領有権を主張する中、竹島の位置が書かれている 1912(大正元)年刊行の官製地図「隠岐全図」が、同県隠岐の島町西町の毛利彰さん (45)方でみつかった。  【コメント】1905年、島根県は県条例で竹島=独島を隠岐島司の所管としたので「隠岐 全図」に竹島=独島が記述されるのは当然です。それにもかかわらず、これがニュースに なるのは、当時の公的な島根県分県地図に竹島=独島が入っていないためと思われます。 12.和田春樹教授「韓国、独島問題で焦る必要ない」  中央日報、2006.7.30 東京大学の和田春樹名誉教授は28日、韓国の国民は日本の独島(ドクト、日本名・竹 島)をめぐる領有権主張について、焦ったり防御的態度を示す必要がない、と強調した。 13.日本政府、在日外信記者団の独島訪問に抗議  朝鮮日報、2006.7.26  日本政府は24日、東京駐在外信記者団が独島(日本名・竹島)を訪問したことについて、 駐韓日本大使館を通じ、韓国政府に抗議した。  日本政府は特に独島を訪問した11人の記者団に日本人2人が含まれていることに強い不 快感を表明したという。 14.中曽根元首相「独島、解決しないのも方法」  中央日報、2006.7.18 03年に政界を引退した後、現在、世界平和研究所の理事長を務め、講演やテレビの討 論番組への出演などで多忙な日々を送っている中曽根元首相は、韓日が対立し突破口を見 いだせずにいる独島(ドクト、日本名・竹島)問題について、中国・鄧小平氏の名言だと して「いま解決できないことは解決しないのも解決策」と述べた。 15.自民党外交部会が竹島問題で初会合  山陰中央新報、2006.5.17  初会合では領土特別委の石破茂委員長(衆院鳥取1区)が、領有権問題について講演。 「竹島は日本固有の領土。韓国側は竹島問題を日本の植民地支配の象徴だとアピールする が、問題の本質は十九世紀以前の領有権の有無に尽きる」と説明。二十世紀の日韓の歴史 問題とは別の話だとした。  【コメント】委員長の「問題の本質は十九世紀以前の領有権の有無に尽きる」という発 言に全面的に賛同します。その一方で「竹島は日本固有の領土」という発言には何らの根 拠がないので、まったく同意できません。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



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