和解学からみた市民運動
佐渡金山の朝鮮人「募集」
目次
市民のメーリングリスト[CML 068691]
2024/05/01
半月城です。
これまで日本の市民運動を総合的に分析した研究はあったでしょうか?昨年、早稲田大学国際和解学研究所の市民運動班は、市民運動を分析し、それが果たした役割を調査しました。対象としたのは、戦時性暴力(満州黒川開拓団)問題、中国残留日本人孤児問題、在日コリアンの人権と戦後補償、在日朝鮮人帰国協力会と日朝友好運動、アイヌ遺骨返還運動、樺太旧住民問題、台湾人元日本軍人・軍属問題、済州島4・3運動などです(浅野豊美『和解学の創成、成果報告書』、発行は www.waseda.jp/prj-wakai/)。
これらの市民運動は、一部では史実の調査や公的謝罪、補償等である程度の成果を勝ち取りましたが、一方、戦後補償裁判はほとんどが敗訴になったし、東アジアでの和解のための政策も、その対象となる人びとが限定されるなどの問題を残しました。
こうした結果について、市民運動班代表の外村大(東京大学)教授は、市民が自主的に繰りひろげている活動は、被害当事者やその遺族が自分たちの経験の意義や名誉回復の可能性を実感し、関係者への赦しの感情を生み出す場として極めて重要なものになっていると指摘しました。
また、市民が作り出している和解を広げ持続させていくためには、行政当局との協働や政策が必要となるが、政治的対立がそれを妨げているケースが多い。また、対立する政治勢力の妥協なしには、行政当局の関与する政策が実現しない場合がしばしばあり、それは被害当事者の不満を生み出す可能性も高い。加えて、立案された政策の対象者の限定や公的な歴史解釈の提示が、被害当事者の分断を生み出す可能性もあると分析しました。
この代表例が日本軍の性奴隷にされたアジア女性、特に韓国人「慰安婦」に対する補償問題でした。被害に対しては完全な原状回復が不可能である以上、補償などの和解策にはおのずと限界があり、当事者や周辺はどの程度の「正義」で我慢するのか、いいかえればどこで「妥協」するのかをめぐって深刻な意見の対立が生じました。同じようなケースが「徴用工」問題です。日韓両国の政府間では外交的な和解が進みましたが、市民レベルで和解への道のりはまだ遠いようです。
Re: 和解学からみた市民運動
市民のメーリングリスト[CML 068696]
2024/05/01 20:27
前田さんのブログは参考になりました。ありがとうございます。近々、和解学研究所は第二回フォーラムを開くとのことです。ご参考にその概要を記します。
「国際和解学から見る日韓関係の展開」
日時、5/14(火)13-18時
場所、早稲田大学大隈講堂(東京都新宿区西早稲田1)
受付、当日可能
参加費、たぶん無料
問合せ、川口博子(早大) wakai@list.waseda.jp
第一セッション「持続可能な日韓関係-和解の源流と展開」
発表、李晟遠(全南大)長周期時間から見る東アジアの和解と交流の記憶
小林聡明(日大)和解への意志と南北分断体制-在韓被爆者問題
金奉局(全南大)和解を巡る悠久の未来-光州事件
高賢来(関東学院大)1980年代の「日韓新時代」と在日コリアン
在日三世の法的地位と指紋押捺
金琫中(全南大)文明史的視覚から見た戦争と和解
第二セッション、パネルディスカッション「国益を超えた和解文化の共有を求めて」
パネリスト:里中満智子、朴裕河、高麗文康、澤田克己、箱田哲也、浅野豊美
私としては、韓国通の朝日新聞箱田記者や、毎日新聞澤田記者が何を
語るのか気になります。また、光州事件を地元の大学教授がどう位置づけ
るのかも気になります。
半月城
市民のメーリングリスト [CML 069082]
2024/07/31
半月城です。
佐渡金山の世界遺産登録が決定したのは、いろいろ問題があるにせよ、とにかく喜ばしいことだと思います。今回の狂騒曲ですが、かつて地元では民・官ともに佐渡金山の歴史を光だけでなく影の部分を含めて丹念に掘り起こし、記録に残していました。しかし、日本の栄光だけを強調したい者たちが歴史の一部だけを切り取って世界遺産の申請を進めたために歪みが生じ、国際的な摩擦をおこす結果になってしまいました。
2022年、ラムザイヤーや李栄薫(イ・ヨンフン)などを高く評価する「歴史認識問題研
究会」は、新潟日報(2月3日付け)に佐渡金山に関する意見広告を掲載し、こう主張
しました。
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佐渡金山では1549人の朝鮮人労働者が動員されたが、約1000人は「募集」に応じた者たちだ。中には「一村落20人の募集割当に約40人が殺到した」ケースもあった。残りの約500人は「官斡旋」「徴用」で渡航したが、合法的な戦時動員であって「強制労働」ではない。
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これまで、『新潟県史』(近代編10)などは、「昭和14年[1939年]に始まった[日本政府の]労務動員計画は、名称こそ募集、官斡旋、徴用と変化するものの、朝鮮人を強制的に連行した事実においては同質であった」と記しましたが、意見広告はこうした通説に反するものでした。
この意見広告を著書で紹介した竹内康人は反論として、「1940年から42年にかけて、佐渡鉱山には約1000人が動員されましたが、それは甘言による動員であり、約束が違うと労働争議が起きました。43年5月までに10人以上が死亡し、過半数が再契約を強要されました。逃亡すれば逮捕され、処罰されました。のちの官斡旋や徴用による動員では約500人が動員され、労働を強制されました」と、『佐渡鉱山と朝鮮人労働』に記すのみで、「殺到」については何も反論しませんでした。
竹内が反論しなかった、初期の「募集」段階で就労希望者が殺到したという主張はいかにも疑わしく、何か事情がありそうだと興味をそそられました。その疑問が最近やっと解けました。そのヒントは、佐渡金山のある相川町が編纂した町史、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)にありました。この本は、誰でも国会図書館に登録すればホームページでみることができますが、その680頁にこう書かれました。
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昭和14[1939]年2月、第一陣の募集に朝鮮(忠清南道)へ出向いた[三菱鉱業]佐渡鉱山労務課、杉本奏二氏(昭和49年東京都青梅市在住)が語ったところによると「前年の13年は南鮮は大干ばつ、飢饉で農民などは困難その極に達していた」という。一村落20人の割当に約40人の応募が殺到したほどであった。が、これは鉱山への就労を希望したものではなく、従前に自由渡航した先輩や知人を頼って内地で暮らしたいという者が多く、下関や大阪に着いてから逃亡した人が多かった。
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なんと、佐渡鉱山の「募集」に応募者が多かったのは、「募集」に乗じて日本へ潜入しようと企てた人たちが多かったためでした。それなのに、歴史認識問題研究会は上の町史から一部だけを切り取って、あたかも佐渡鉱山は就労希望の朝鮮人であふれていたかのように主張したのでした。実に巧妙なレトリックではないでしょうか。
先の『佐渡相川の歴史』は上の文章に続き、「佐渡鉱山が朝鮮人募集を開始した理由として、杉本氏は「内地人坑内労務者に珪肺[塵肺]を病む者が多く、出鉱成績が意のままにならず、また内地の若者がつぎつぎと軍隊にとられたためである」と記しました。佐渡鉱山では、若者は徴兵にとられ、年配の坑内労務者は珪肺を病む者が多く、生産量が落ちていたのでした。一方、当時の日本では失業者が多くても鉱山や炭鉱は敬遠されて人手不足でした。そのため、三菱は遠く朝鮮へ行って労働者を求め、朝鮮総督府や各地方の役所の強制力に頼って労働者を「募集」したのでした。
こうして佐渡鉱山に連れてこられた朝鮮人は、当然、日本人が嫌った坑内労働に回されました。先の町史によれば、鑿岩・支柱・運搬などの坑内労働は約8割が朝鮮人でした。多くの日本人労働者は、粉塵のない坑外の海岸で、それまで金の含有量が少なく見向きされなかった膨大な砂利を採取する仕事などに従事したのでした。
朝鮮人労働者は佐渡金山に就労するや否や、「募集」条件が実際と違うことを知りました。こうした欺瞞的な「募集」は、佐渡金山に限らずどこの炭鉱でもあったようです。というのも、朝鮮での「募集」が容易ではなかったからです。朝鮮総督府は北部の開拓や工業化に注力していたので、日本へ労働者を送ることにはやや消極的でした。また、地方の役所も農村の家庭崩壊になりかねない強制「募集」にはそれほど協力的でなかったとされます。そのため、企業はどうしても「募集」時に甘言を弄して欺瞞的な手段を使わざるを得なかったのでした(注1)。その結果は、日本へ連れてこられた朝鮮人労働者のストライキ騒動に発展しがちでした。その様子を先の町史はこう記録しました。
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昭和15[1940]年2月、98人の第一陣が到着した早々、40人の朝鮮労働者が会社に押しかけて待遇改善の要求をし、会社がこれを認めた。同年4月には3月分の賃金支給をうけた97人が「応募時の条件と違う」として賃上げのストライキを決行し、首謀者3人が強制送還されたりした(「特攻月報」から)。
当時の労務管理者によると、「給与のほかに、食費(当時、一日50銭や寝具代(一組月50銭)のほか、無料支給と思っていた地下足袋などの作業必需品がすべて本人持ちだったほか、労務や勤労課職員の一部に極端な差別意識を持った人たちがかなりいた」などと、当時の朝鮮人労働者の争議の原因を回想している。
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ここに書かれた「労務や勤労課職員の一部に極端な差別意識を持った人たち」のふるまいについて、竹内康人は前掲書にこう記しました。
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労務係(外勤)杉本の手記(書簡)に、「一方 稼働の悪い連中に弾圧の政策を取り、勤労課に連れ来り、なぐるける、はたでは見て居れない暴力でした」とあります。また、「弾圧に依る稼働と食事に対する不満」は逃亡につながり、一時は十数人一団となっての逃亡もあったと記しています。両津や鷲崎などから機帆船で逃亡するので、船着き場に見張りを置いて警戒したといいます。
さらに「彼等にすれば強制労働をしいられ、一年の募集が数年に延期され、半ば自暴自きになって居った事は疑う余地のない事実だと思います」と記しています。
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三菱工業の労務担当による暴力的な強制労働に耐えられなくなり、逃亡した朝鮮人の数が先の町史に年ごとに記録されましたが、1943年5月末までに就労した朝鮮人1,005人中、逃亡者は実に148人に達しました。厳重に監視しても逃亡者がこのように多かったのは、いかに「弾圧に依る稼働と食事に対する不満」がひどかったのかを間接的に示すものです。このように、佐渡金山における朝鮮人の労働は、三菱の労務係自身が証言するように、「暴力をともなった強制労働」だったのでした(注2)。
ところが、現在の日本政府はこうした労働を強制労働とは認めていません。2023年3月、当時の外務大臣林芳正は衆議院にて、「旧朝鮮半島出身労働者の朝鮮半島から内地への当時の移入の経緯、これは様々でございまして、一概には言えませんが、自らの自由意思による個別渡航のほか、募集、官あっせん及び徴用があったものと考えられます。これら[自国民の戦時動員]はいずれも「強制労働ニ関スル条約」上の強制労働には該当しないものと考えておりまして、これらを強制労働と表現することは適切ではないと考えております」(注3)と述べました。これが日本政府の公式見解です。
しかし、先の竹内康人の著書によれば、「1999年、ILO(国際労働機関)の条約勧告適用専門家委員会は戦時の朝鮮や中国からの動員について、「悲惨な条件での、日本の民間企業のための大規模な労働者徴用は、この強制労働条約違反であった」と認定しています。国際組織はこの動員が国際法に反する行為であるとし、日本政府が責任をとることを求めています」とされます。日本政府は、こうした国連の見解を受け入れようとしないので、必然的に韓国や中国政府と衝突することになります。
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(注1)亘明志「総力戦と戦時期における植民地からの労務動員をめぐって」『現代社会研究科論集:京都女子大学大学院現代社会研究科紀要』14号。詐欺的な「募集」がむずかしくなるにつれ、労働者確保は次第に暴力的な強制力が使われるようになったとされる。
(注2)未見ですが、小林 久公「佐渡金山の世界産業文化遺産推薦 朝鮮人労働者には未払い金、差別の構造、強制労働の構造があった」『週刊金曜日』, 2022.3.4号があります。どなたか、この内容を紹介してもらえれば幸いです。また、新潟の市民団体が韓国にて聞き取り調査などをおこなった記録、『佐渡鉱山・朝鮮人強制労働資料集』(佐渡鉱山・朝鮮人強制労働資料集編集委員会編)が、2024年6月末に神戸学生青年センターから発刊されました。
(注3)第211回国会議事録 衆議院 安全保障委員会 第2号 2023年3月9日。
[ ]内は半月城の注。