半月城通信
No.131 (2008.3.16)

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    目次

  1. 外務省、『大韓地誌』に狂喜?
  2. 朝鮮の領土の東限
  3. 勅令にいう「石島」はどこ?
  4. 「竹島=独島問題ネットニュース」12、2008.2.11

  5. 外務省、『大韓地誌』に狂喜? 2008/ 2/ 6 Yahoo!掲示板「竹島」No.16287   半月城です。   韓国のある本に韓国の東限が130度35分と書かれているので、現在の竹島=独島を含 むはずがない、したがって当時の韓国は竹島=独島を認識していなかったという単純な論 法を信じている人が未だにいるようです。   半世紀以上も前に日本の外務省はその論法を韓国に対する有力な反論材料にしました。 そして大まじめに次のように記しました。        -------------------- 「竹島に関する1953年9月9日付 韓国政府の見解に対する日本国政府の反駁」 1.日本国政府は、本件に関する韓国政府の見解について慎重に検討した。日本国政府は、  韓国側がその主張を各種の資料に基き立証しようと試みていることに対しては、これを  歓迎するものである。日韓両政府がかかる立場に立って、本問題を虚心に検討するなら  ば、その結論はおのずから明白となるであろう。 2.しかしながら、韓国側がその主張の根拠として挙げているところは・・・ 5.韓国側は最近でこそ竹島の領有を問題としているが、明治38年の竹島の島根県編入  前後において、竹島を韓国領とは考えていなかったことは、次の事実からも明らかであ  る。 (1)光武5年(明治34=1901)刊の玄采著『大韓地誌』(光武9年 2冊本として再   刊)には韓国領土の東限を東経130度35分としており、竹島は含まれていない。著者   は学部職員であり、学部編しゅう局長の序もあるので当時の権威ある著書とみられる。 (2)民国4年(大正4=1915)刊の太白狂奴著『韓国痛史』も韓国領土の東限を130度   50分としており、これまた竹島は含まれていない。   この書物は日本の朝鮮統治に反対してその独立を企図し、上海に亡命した一人によっ   て編さんされたものであり、竹島について関心があれは当然これが取りあげられるべ   き である。 6.これを要するに韓国側の説明によるも・・・(注)        --------------------   このように日本外務省は官撰書でもなければ官製図書でもない一般書の『大韓地誌』 などを引用して韓国に対する反論の4本柱のひとつに据えました。   しかも日本政府は『大韓地誌』などに喜んで飛びついたのか、中味をよく読んでいな かったようです。もし、精読していたら、その書を反論の材料に使用したでしょうか?  同書はあとがきでこう述べました。        -------------------- 大韓地誌跋  余所編地誌 本諸日人所記 參諸輿地勝覧・・・顧以教課事急 不能摩歳月博考据此 其所 愧也 世之君子其或嗣 而輯之匡余過誤 而歸于至當 則斯厚幸云        --------------------   これを意訳してみます。        --------------------   自分が地誌を編纂した基本には日本人たちの記した書や、輿地勝覧などを参考にし た・・・・顧みるに教課が至急であり、熟考のために歳月を無駄にできない。それが慚愧 にたえない。世の君子がそれを継いで自分の過誤を正して編輯して至当なものに仕上げる なら、これに勝る幸せはない。        --------------------   玄采はとても正直な方のようです。教課を急いで作成したので、内容を充分吟味する 時間がなく、やむをえず、日本人の書や輿地勝覧だけに頼ったと述べました。なかでも緯 度や経度は輿地勝覧などにはないので、日本人の著書を引用したようです。それはおそら く『朝鮮水路誌』あたりでしょうか。   ともかく、『大韓地誌』はそのような体裁の本なので、たとえ官員が作成したといっ ても韓国政府の見解を代弁するものでないことは当然です。   さらに『大韓地誌』には于山島を含む絵図が付属していますが、それも従来の地図を 流用したものであり、玄采が独自に調査したものではありません。欝陵島の東に于山島を、 南に存在しない小さな島を5島も描きました。これは竹島=独島問題を云々できるような 絵図ではありません。   ま、それでも『大韓地誌』は学術書なのでまだしも、外務省が「狂奴」と自称する人 の『韓国痛史』を引用するのはいかがなものでしょうか。しかも10年後の書を針小棒大 にとりあげ、まるで鬼の首でも取ったかのように公式の反論に利用するのは理解に苦しみ ます。これは見方を変えれば、外務省がいかに反論の材料に事欠いていたのかを示してい るともいえます。そうでなければ、何かが狂っているようです。 (注)外務省情報文化局「竹島の領有権問題」『海外調査月報』1954年11月、P71 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 朝鮮の領土の東限 2008/ 2/ 9 Yahoo!掲示板「竹島」No.16325   半月城です。   前回書いたように、外務省は韓国領土の東限として『大韓地誌』などを引用して韓国 への反論をまとめましたが、実はそれには種本がありました。それは「取扱注意」の警告 印が押された田川孝三の論文「文献に明記された韓国領土の東極」です。   田川孝三といえば『李朝貢納制の研究』でひとかどの業績をあげた学者ですが、かれ は韓国の東限に関してこう記しました。        -------------------- 「文献に明記された韓国領土の東極」   地理学的知識の発達を見た極めて近時の文献に於いて朝鮮の領域を示せるものの中に、 その東極を説明するものにつき 之を著述の時間的順序に従って挙げれば左の如くである。 一.大韓地誌   本書は光武3年 学部職員たりし玄采の著述になり、学部編輯局長 李圭植の序あり、  光武5年(明治34年 1901年)京城広文社より刊行され、更に9年(明治38年 1905年)  二冊本として再刊された。その第一編第一課 位置幅員海岸の條に於いて説明して云う。  ・・・・   もとより本書の記述は簡易を旨とせるものであるから、すべて詳細なる記事は之を省  き細些に及ぶことは避けてゐるのであるが、東経130度35分を東極端としてなしている。   此の経度は果して陸地上の東端たる豆満江口○○○(判読困難)ものか、或いは又欝  陵島を接するものか説明はないが、もし欝陵島を接するものとすれば130・35分は130度  56分34秒が正確でなければならない。 二.韓国痛史 太白狂奴著 民国4年(大正4年)   本書は日本の朝鮮統治に反対し その独立を企図せる者の一人により著わされしもの  で・・・・・(注1)。        --------------------   田川孝三は、東限としての東経130度35分を欝陵島とすることに少し疑問を呈してい たのでした。それにもかかわらず、外務省はその疑問を伏せ、ディベートに好都合な部分 だけをピックアップして、東経130度35分という数値を韓国へ反論する際に四本柱のひと つとしたのでした。外務省は、よもや「取扱注意」の資料が後日外部へ洩れることはない と判断してそうした小細工を弄したのでしょうか。   田川孝三は、玄采が東経130度35分なる数値をどこから引用してきたのかについては 究明しなかったようです。これについて私は『朝鮮水路誌』から引用したのだろうと書き ましたが、同書と『大韓地誌』の記述は朝鮮の範囲に関して下記のように一致します。  東限は東経130度35分、西限は124度30分  北限は42度25分、  南限は33度15分   両書の数値が完全に一致するので、田川孝三の東限に関する見解はそのまま『朝鮮水 路誌』にも当てはまります。つまり、東経130度35分は欝陵島ではなく、豆満江の河口を 指すのかも知れません。   これについては後にふれることにし、ここで趣を変えて、朝鮮の東限問題について発 言している島根大学・舩杉氏の意見を先にみることにします。同氏はこう記しました。        -------------------- (3)『朝鮮水路誌』。明治27年(1894)水路部刊行。・・・   この史料では、第一編総論の形勢のところで、朝鮮国の範囲を記している。朝鮮国の 範囲、東限は東経130度35分と記している。『朝鮮水路誌』では、鬱陵島(中心)は東経 130度53分・リアンコートルト列岩(現在の竹島)は東経131度55分としていることから、 朝鮮国の東限は鬱陵島であり、現在の竹島は入っていないことが分かる(注2)。        --------------------   ここで舩杉力修氏は誤りをおかしているようです。もし「朝鮮国の範囲、東限は東経 130度35分」とするなら、その範囲に竹島=独島どころか欝陵島すら含まれません。欝陵 島の西限は東経130度48分なので東限の130度35分からはみ出します。それにもかかわらず 「朝鮮国の東限は鬱陵島」と決めつけるのは舩杉氏の明らかな誤謬です。   そうなると、東限の130度35分という数値は、田川孝三が指摘したように欝陵島以外 を基準にした可能性が強くなるので、もう少し『朝鮮水路誌』を熟読する必要があります。 問題を解く鍵は、同書付属の地図「朝鮮沿岸海圖索引」と北限との関係にありました。   当時、朝鮮の北限はあいまいでした。帰属がはっきりしない間島地方を朝鮮領とみる のかどうか、それにより北限の緯度は大きく変わります。しかるに『朝鮮水路誌』はそう した国境問題を避け、付属の「朝鮮沿岸海圖索引」にて中国との国境を描かずに空白とし ました。その上で朝鮮の北限を豆満江の河口におき、北緯42度25分としました。   これは現在の北限である43度1分と比べてもかなり南になります。このように『朝鮮 水路誌』が記した北限の数値は実際の領土の北限とは無縁なものになりました。   そうした事情を明確にしたのが付属の「朝鮮沿岸海圖索引」でした。その地図で示さ れた範囲と、上に記した東西南北端の緯度経度がほぼ一致します。ちなみに、その地図は 欝陵島を含みません。豆満江の河口を東限にしたことが一目瞭然です。朝鮮の東西南北端 として、その地図から目の子で緯度経度を5分単位で読み取った概略値を記したのでした。   結局、欝陵島と竹島=独島が朝鮮の東限から外れたからといって、それらが朝鮮領外 を意味することにはなりません。水路部は、その部署の性格上、外国の正確な領土範囲を 定める必要はなかったし、ひいては『朝鮮水路誌』にそのような内容を望むべくもありま せん。   このように水路部は外国関係の水路誌ではその国の実際の領土にあまり拘泥せずに記 述しました。その一方で『日本水路誌』では厳密に日本領だけを扱ったことはすでに堀和 生氏が指摘したとおりです。   その『日本水路誌』は、「竹島編入」以前には竹島=独島を『日本水路誌』には載せ ず、『朝鮮水路誌』にリアンコールト列岩の名で記載しました(注3)。これについて堀 和生氏は「19世紀末に、日本海軍の水路部当局が竹島=独島を朝鮮領と認識していたこ とは、疑いのないところである」と断言しました(注4)。妥当な見解です。 (注1)島根県立図書館『竹島資料10』所載 (注2)竹島問題研究会『「竹島に関する調査研究」最終報告書』2007年、P154 (注3)半月城通信<明治の国境画定機関の竹島=独島認識と『水路誌』> (注4)堀和生「1905年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987、P106 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 勅令にいう「石島」はどこ?  2008.3.16 Yahoo!会議室 No.16368   半月城です。   1900(明治33)年、大韓帝国は勅令41号を公布し、欝島郡の管轄区域を「欝陵島全 島」と「竹島」、「石島」としました。この石島は現在のどの島をさすのか、多くの人の 関心を集めてきました。石島が竹島=独島をさすなら、竹島=独島問題への影響は重大で す。それを下條氏はこう記しました。        --------------------   もしその石島が韓国側の主張通り竹島とすれば、竹島が島根県に編入された1905年よ りも早く、竹島は韓国領となっていた。そうなれば日本政府による竹島の島根県編入は、 韓国側の主張通り違法行為となる(注1)。        --------------------   このように重要な石島を日本の研究者はどのように考えているのか、改めて整理した いと思います。 1.梶村秀樹氏   最初に石島は竹島=独島であると主張したのは梶村秀樹氏でした。同氏はこう記しま した。        --------------------   この法文(勅令41号)中の「竹島」は欝陵島の小属島である竹嶼のことだろうが、 「石島」はもう一つの小属島である観音島をさすとは地形からしても沿革からしても考え 難く、いまの竹島=独島をさすと解するのが最も自然であろう(注2)。        -------------------- 2.内藤正中氏   石島は竹島=独島であるとして、こう記しました。        --------------------   1900年(光武四・明治三二)一〇月二五日の大韓帝国勅令四一号で、欝陵島を「欝 島」と改称し、島監を「郡守」と改正するとともに、「欝島郡」の区域に欝陵島、そして 「竹島」と「石島」を含めると明定したことにより、石島すなわち独島に対する大韓帝国 の領有権が明確に示されたのである(注3)。        -------------------- 3.大西俊輝氏   大西氏も石島は竹島=独島であるとして、こう記しました。        --------------------   石島の文言のある勅令は、中央官・禹用鼎と、地方官・裵季周の報告に拠ったもの、 そこに立ち会うのがラ・ボーテである。だから彼らの島の認識は一致していなければなら ない。勅令は鬱陵島の属島として、竹島と石島を記す。そしてラ・ボーテの報告は、鬱陵 島の属島として、竹島と于山島を記す。となれば石島とは、すなわち于山島を指すものと なる。それは遙かな岩礁の島、独島(リアンクール岩)のことだった(注4)。        --------------------   大西氏はチュクト(竹島、竹嶼)と于山島を明確に区別し、于山島を石島としている のが注目されます。 4.塚本孝氏   塚本氏は、大韓帝国は「独島(法令上の文言は石島)を管轄するとの内容の勅令を制 定公布した」として、次のように記しているのが注目されます。        --------------------   ○鬱陵島は永らく無人であったが、明治以降日本人による無許可の渡航居住伐木等が 頻発したため朝鮮政府は積極的な植民開発を図る政策に転換し、一九〇〇年の大韓帝国勅 令第四一号で郡守を置いた(官報一七一六号光武四年一〇月七日)。   日本が一九〇五年に竹島の編入措置をとった後 一九〇六年三月 島根県部長一行が竹 島視察の帰途に鬱陸島に立ち寄り郡守 沈興澤と面会した。郡守は江原道観察使に報告し 「本郡所属独島は本郡の外洋百余里にあるが・・・日本官人一行が官舎に到り、独島は今 日本領地になった、故に視察の途次に来島した、と自ら語った」とした。郡守が該島を 「本那所属」としたのは、先の勅令の第二条に「郡庁位置は台霞洞に定め区域は鬱島全島 と竹島石島を管轄する事」とあったことによる(石を方言でトクということから独に通じ るという)と考えられる。   道は政府に報告し、議政府参政大臣は「独島領地之説は全く無根であり日本人の行動 如何を更に調査報告する事」と指示した。しかし、独島(法令上の文言は石島)を管轄す るとの内容の勅令を制定公布したことは、ホールの説く「其土地ヲ保持スルノ意思ヲ表 示」したことになるとしても、勅令の前後において韓国政府や韓国人がこの島に対して 「占有ノ所為ヲ為シ」たという事実はない(注5)。        --------------------   塚本氏は、かつては石島の比定について断定を避けていました(注6)。その後、研 究が進んだのか、石島は竹島=独島であると結論づけたようです。ということは、観音島 が石島かどうか熟慮したうえで結論を出したようです。その結論は沈興澤が竹島=独島を 独島と認識していた史実によくマッチしていると考えているようです。妥当な見解です。 5.下條正男氏   しばしば変説する下條正男氏ですが、この問題でも変説しているようです。かつて、 下條氏は、石島は欝陵島直近の観音島であると断定してこう記しました。        --------------------   さらに「勅令41号」に記された竹島は、今日の竹嶼であったので、石島は今の観音 島とすることが出来る。何故なら獨島(竹島)でアシカ猟が始まるのは「勅令41号」が 公布された三年後(1903年)で、それ以前は絶海の孤島だったからである(注7)。        --------------------   下條氏は竹島=独島が「絶海の孤島」であることを理由にして、石島と観音島を直接 結びつける文献資料をまったく提示せず、短絡的に石島を観音島と断定しました。根拠が 薄弱であることは誰も目にも明らかです。同氏はそうした安易な判断に気がとがめたのか、 2004年の著書では観音島説を撤回したようで、次のように「石島はどこを指すのか判然と しない」と記しました。        --------------------   1900(明治33)年、大韓帝国は禹用鼎を鬱陵島に派遣、その報告をもとにして十月二 十五日、鬱陵島を「鬱島郡」に昇格させ、郡守の常駐を決定した。   その際、大韓帝国政府は「勅令四十一号」を発布し、鬱島郡の行政区域を「鬱陵島全 島と竹島、石島」と定めた。政府の認識では、鬱陵島には竹島と石島という二つの属島が あったことになる。   しかしこの「勅令四十一号」には、属島の緯度や経度までは明記されておらず、竹島 と石島が実際にどこの島を指すのか、正確さを欠いていた。   今日の竹島は、当時はまだ竹島と呼ばれておらず、古くは松島、そのころでは日朝と もにリャンコ島と呼ばれていたので、「勅令四十一号」にある竹島は、李奎遠の調査でも 「竹島」とされた鬱陵島近傍の竹嶼と思われるが、石島はどこを指すのか判然としない (注8)。        --------------------   この見解は 2007年3月の段階でも変化がなかったようで、下條氏は石島の比定を避け、 次のように竹島ではないと指摘するにとどまりました。        --------------------   さらに一九〇五年の竹島の島根県編入を侵略とする論拠として、韓国側が挙げた「勅 令第四一号」の解釈にも問題があった。『勅令第四一号』は一九〇〇年、欝陵島が欝島郡 に昇格する際に発布され、その中で欝島部の行政区域が「欝陵島全島と竹島と石島」、と 定められている。そこで韓国側は、発音の近い石島こそが独島に違いないので、一九〇〇 年に竹島が韓国領になっていた証拠としたのである。   しかし独島という呼称は一九〇四年、日本人業者に雇われた韓国人が竹島(当時はリ ヤンコ島)に渡り、アシカ猟に従事したことから始まる。『勅令第四一号』の四年後であ る。それに一九〇四年以前、日韓は共に竹島をリヤンコ島と呼んでおり、石島ではなかっ た(注9)。        --------------------   下條氏は2007年の以降の論説においても石島の比定にはふれていないようです。とこ ろが、2008年2月の「竹島の日」でおこなった講演「日韓新時代と歴史問題の処理」では 再度変説したようで、そのレジュメにはこう書かれました(注10)。        -------------------- (3)『勅令第41号』(1900年)第2條の石島は独島か  ① 独島の呼称は1904年頃から、それ以前はリャンコ島  ② 竹島はチクトウ(于山島)、石島(ソクトウ)は島項(観音島)        --------------------   石島を観音島とするレジュメが下條氏の意図どおりだとすれば、下條正男氏はまたも や変説したようで、この問題に関してもやはり定見がないようです。 6.舩杉力修氏   かつて島根県の「竹島問題研究会」で委員を務めた舩杉氏は同会の最終報告書におい てこう記しました。        --------------------   今回(2006年)の研究会の現地調査では、大韓勅令第41号に記載される石島が、韓国 側の主張する現在の独島(竹島)か、日本側の主張する現在の観音島であるかどうかを検 討した。現地調査では、観光遊覧船で、島の周囲から、島、岩を確認した。  ・・・   現地調査の結果、島は、竹嶼、観音島しか確認されなかった。また島と岩とは外観上 も明確に区別された。韓国側の主張で、鬱陵島の周辺では、島と岩とは区別がつかないと いうのは明確に間違った指摘であるといえる。したがって、石島は観音島である可能性が 高いことが明らかになった(注11)。        --------------------   舩杉力修氏は、研究者を自任するなら「日本側の主張」をきちんと調べて書くのが筋 です。最終報告書が出された2007年3月の時点で、石島について「日本側の主張する現在 の観音島」などと書くのは不適当です。その時点における「日本側の主張」は石島を竹島 =独島をする研究者がほとんどであり、わずかに下條正男氏が石島は「判然としない」と していました。観音島説はまったく存在しませんでした。   ま、舩杉氏が上の文章を書いたころの精神状況は「内外から全く根拠もないひぼう中 傷を受けたことが精神的にこたえた。その結果体調を崩し、昨年秋から大学を休むことと なってしまい、現在も休養中である(注12)」とされるので、しっかりした研究ができな かったのかも知れません。お気の毒なことです。   同氏は、最終報告書において「島と岩」の区別の話を唐突に書きましたが、これは舌 足らずで意味不明です。そのうえ、歴史的にも西洋ではチュクト(竹島、竹嶼)をブソー ル・ロック、竹島=独島をリアンクール・ロックと称していますが、舩杉氏の言を進める と、チュクトなどは「島」なので、それらを「岩」と見る西洋人は間違っているというこ とになります。あまりにも独善的な見方ではないでしょうか。   さらに、観光遊覧船で欝陵島周辺を一回りして「岩と島」を区別した結果、「石島は 観音島である可能性が高い」などと記述するのは噴飯ものではないでしょうか。舩杉氏が 内外から「ひぼう中傷」をあびた理由がわかるような気がします。 7.外務省   研究者以外でも、公的機関で石島を観音島と主張するところは皆無です。外務省の公 式見解は『竹島、竹島問題を理解するための10のポイント』にみることができますが、 そこには石島を竹島=独島とすることへの疑問のみ記され、石島がどこであるかについて はふれませんでした。 8.島根県   島根県の公式見解は『フォトしまね』161号にみることができますが、そこでは何と 石島は竹嶼であるとして、こう記されました。        --------------------   ○勅令41号の石島 ○大韓全図や大韓輿地図などに描かれた于山島、李奎遠の報告 した于山島 ○領土の東限とされた竹島-はいずれも、北澤正誠が鬱陵島近くの小島と記 した現在の竹嶼であると理解するのが、自然だ(注13)。        --------------------   島根県は、勅令41号の「石島」を竹嶼と考えるなら、同勅令中の「竹島」を一体ど こにするつもりでしょうか? 勅令の「竹島」をチュクトとすることに研究者間で異論が ないことは上記に紹介したとおりです。   島根県が多額の費用をかけ「竹島問題研究会」を設置して得た研究成果がその程度 だったとはあきれるばかりです。そればかりか、その誤りに気づかず『フォトしまね』を 発刊し、その後もそれを正さずにインターネットで流し続けているようです。一事が万事、 島根県の水準が知れます。   以上のように研究者の意見を総合すると、石島はチュクトであるとか、観音島である とかの説は根拠薄弱で、石島はトクソム、すなわち竹島=独島とするのが妥当なようです。 (注1)下條正男『「竹島」その歴史と領土問題』   竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議、2005、P98 (注2)梶村秀樹「竹島=独島問題と日本国家」『朝鮮研究』182号、1978 (注3)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版、2000、P176 (注4)大西俊輝『日本海と竹島』東洋出版、2003, P76 (注5)塚本孝「日本の領域確定における近代国際法の適用事例」『東アジア近代史』   第3号、2000.3、P89 (注6)塚本孝「竹島領有権問題の経緯(第2版)」『調査と情報』289号,国立国会図書館,   1996、P6 (注7)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999.5、P52 (注8)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004、P112 (注9)下條正男「竹島問題を「消す」なんてとんでもない」『正論』2007.3、P232 (注10)<「竹島の日」記念式典>レジュメ「日韓新時代と歴史問題の処理」2008 (注11)舩杉力修「絵図・地図からみる竹島(Ⅱ)」『「竹島問題に関する調査研究」  最終報告書』2007.3、P171 (注12)山陰中央新報「談論風発: 竹島問題研究会が最終報告」2007.6.5 (注13)『フォトしまね』161号「竹島」、2007 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/ 竹島=独島問題ネットニュース12   2008.2.11                  竹島=独島問題研究ネット発行  記事一覧 1.新刊書、愼鏞廈『独島問題100問100答』 (日本語) 2.内藤正中氏の論説<「竹島外一島 本邦関係無之」をめぐって> 3.東北ア歴史財団、7大懸案説明する映像物制作 4.玄大松さん、日韓関係妨げる「鬼」を究明 5.第7回大佛次郎論壇賞は「和解のために」 6.慶尚北道、独島をはぐくむ事業に本格的に着手 7.欝陵島に「安龍福記念館」建立を推進 8.日本による独島の精密地図作製、北朝鮮が非難 9.独島警備艦艇、体験学習コースとして大人気 10.独島、石油使わない発電へ 11.「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証 12.領土問題、客観性必要 13.「竹島の日」記念行事の概要決まる 1.新刊書、愼鏞廈『独島問題100問100答』 (日本語) 出版元:弘益斎出版(韓国)、著者はソウル大の元教授、韓国独島学会会長 発売元: 新幹社(直売のみ)1500円+税75円、   文京区水道2-1-12 tel;03-5689-4070, fax;03-5689-2988 2.内藤正中氏の論説<「竹島外一島 本邦関係無之」をめぐって>    下條正男氏の妄論を批判  『正論』2008年2月号に、下條正男氏の「韓国人研究者との出会いで痛感した『竹島問 題』の不毛」なる論稿が掲載されており、そのなかで、去る11月16日に東京大学東洋 文化研究所で開催されたシンポジウムにおける私の発言が批判されている。 3.東北ア歴史財団、7大懸案説明する映像物制作  朝鮮日報、2008.1.22   東北アジア歴史財団(キム・ヨンドク理事長)は、東北アジアの7大歴史懸案を分かり やすく説明した教育用映像物「歴史の葛藤(かっとう)を超えて‐平和と 繁栄の東北ア ジア」を制作した。時間にして67分のこの映像物は、▲靖国神社参拝▲日本軍「慰安婦」 ▲日本の教科書歪曲(わいきょく)▲中国の東北工程▲ 白頭山▲独島(日本名:竹島) ▲東海(日本海)表記など、韓・中・日3国間の主要な歴史問題と韓国の立場を明らかに している。財団は、英語・中国語・日本 語の吹き替え版も追加で製作し、配布する予定 だ。 【コメント】「歴史の葛藤(かっとう)を超えて‐平和と 繁栄の東北アジア」の「独   島」版に内藤正中教授も出演。 4.玄大松さん、日韓関係妨げる「鬼」を究明  朝日新聞、2008.1.19  「日韓関係に鬼がいる」と始まる『領土ナショナリズムの誕生』(ミネルヴァ書房)が、 07年度のアジア・太平洋賞の特別賞を受けた。「いくら信頼の石を積んでも・・・関係 がぎくしゃくした時にいつも現れ、両国関係を破壊的にまで損ねる』と指摘する「独島/ 竹島」問題に政治学の視点から迫った研究だ。 5.第7回大佛次郎論壇賞は「和解のために」  朝日新聞、2007年12月16日  第7回大佛次郎論壇賞(朝日新聞社主催)は、韓国・世宗大日本文学科副教授、朴裕河 (パク・ユハ)氏(50)の『和解のために』(佐藤久訳、平凡社、税込み2310円) に決まった。 ・・・・  韓国で生まれながら、日本での長い留学体験を持つ筆者だからこそ体験した両国間のす さまじい情報 ギャップを、両国民に向け、解きほぐし、相互理解への可能性をさぐる誠 実で勇気ある主張に、選考委員の高い評価が集まった。 【コメント】 特に第4章「独島」は問題が多いのが実状です。朴裕河氏は「日本側」の  主張と「韓国側」の主張を取り違えるなど、多くの誤謬があります。詳細は下記に記し  ました。 半月城通信<大佛次郎論壇賞『和解のために』に異議あり> 6.慶尚北道、独島をはぐくむ事業に本格的に着手(韓国語)  毎日経済ニュースセンター、2008.1.9  慶尚北道は地方政府次元の独島守護意志を明らかにし、独島をはぐくむ事業を本格的に 推進するために樹立した「2008年 独島総合対策」を4日発表した。同道が発表した独島 総合対策は、○独島の実効的支配をめざした基盤構築作業、○学術・研究事業、○地方外 交を通じての独島弘報事業、○欝陵島・独島を連係した東海岸の開発事業、○独島や周辺 海域の生態系および自然環境保全事業など、5項目の戦略から成る。 7.欝陵島に「安龍福記念館」建立を推進(韓国語)  毎日経済ニュースセンター、2007.12.11   来る2011年まで慶尚北道欝陵郡に「独島守護者」安龍福将軍を称える記念館建立を推 進する。欝陵郡は慶尚北道と共に朝鮮時代 日本へ二度も渡り独島領有権に対する確約を 取りつけた安龍福将軍を称えるために欝陵郡北面に120億ウォンを投じて記念館を設立 すると11日明らかにした。 8.日本による独島の精密地図作製、北朝鮮が非難  聯合ニュース、2008.1.25 【ソウル25日聯合】北朝鮮の歴史学学会は25日、日本がこのほど衛星データを利用し 独島の2万5000分の1地形図を作製、公開したことを、「わが民族の尊厳と自主権に 対する、受け入れがたい侵害」と糾弾した。 9.独島警備艦艇、体験学習コースとして大人気  朝鮮日報、2008.1.7  東海(日本海)と独島(日本名:竹島)の重要性を喚起するため東海海洋警察署が実施 している独島警備艦艇の公開が体験学習のコースとして人気を集め、昨年の訪問客が1万 人を突破したことが分かった。 10.独島、石油使わない発電へ 中央日報、2008.1.4  火力発電に全面的に依存してきた独島(トクト、日本名竹島)に環境にやさしい太陽光 及び風力発電施設が設置される。年内、太陽光と風力発電機が設置されればディーゼル火 力発電機は門を閉ざし、独島が石油ゼロ地帯になる。 11.「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証  山陰中央新報、2008.1.19  日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)をめぐり、韓国側が竹島の古い名称 と主張する于山島が、現在の韓国・ 鬱陵島の北東に隣接する竹嶼(ちくしょ)であるこ とを示す記述が、朝鮮時代の文献にあることが分かった。島根県の竹島問題研究会が古地 図を基に指摘する 「于山島は竹島ではなく竹嶼」との主張が、文献で実証されたのは初 めて。・・・・・  日省録の鬱陵島周辺を調査した役人による一八〇七年の報告書の中に、鬱陵島の北に于 山島があり、周囲は二、三里(韓国里で八百-千二百メートル)、との内容を示す「北有 于山島周回為二三里許」の記述があった。 【コメント】 日省録に于山島が欝陵島の北にあると記されているのなら、著者はそのよ  うな認識であったと理解すべきで、これを無理に欝陵島の「東」にあるチュクト(韓国  名:竹島)に関連づけるのは強引すぎる。19世紀、于山島を欝陵島の北に描いた地図に  は江原道『八路地圖』などがある。 12.領土問題、客観性必要 読売新聞、2007.12.20  名古屋市千種区の名古屋大学大学院で19日、読売新聞特別講座(読売講座)が開かれ、 東京本社の鬼頭誠調査研究本部主任研究員が「歴史問題とアジア」と題し、アジアの領土 問題などについて解説した。 13.「竹島の日」記念行事の概要決まる   山陰中央新報、2008.1.22  島根県などが「竹島の日」の二月二十二日、松江市殿町の県民会館中ホールで開く記念 行事の概要が決まった。領土問題に詳しく、駐ベルギー大使などを務めた元東京経済大教 授の兵藤長雄氏と、同県の竹島問題研究会の座長だった下條正男拓殖大教授が講演する。



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