半月城通信
No.140

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    目次

  1. 尖閣(釣魚)諸島と竹島一件
  2. 尖閣(釣魚)諸島の先占は一時凍結か
  3. 尖閣(釣魚)諸島の領有権と国際法
  4. 『坂の上の雲』と日露海戦、竹島=独島
  5. 明治時代の欝陵島漁業と竹島=独島問題(1)
  6. 明治時代の欝陵島漁業と竹島=独島問題(2)
  7. 「竹島=独島問題ネットニュース」25、2010.12.26
  8. 
    尖閣(釣魚)諸島と竹島一件
    2010/10/16
    [CML 006005]
    
    半月城です。
     皆さんの尖閣(釣魚)諸島の領有権をめぐる論議を興味深く拝見しています。その論議
    を読んで、私はふと元禄時代の「竹島一件」を思い出しました。ただし、竹島といっても
    これは欝陵島のことです。現在の竹島=独島は江戸時代に松島と呼ばれていました。
     当時、竹島(欝陵島)は朝鮮の官撰地誌に載ってはいるものの、同島は倭寇の被害を防
    ぐため無人島にされ、しかも百年以上も捨て置かれました。その間に鳥取藩の商人が入り
    込み、70年間も継続して何の障害もなくアワビなどを採取しました。
     その商人、大谷・村川両家は幕府から竹島渡海免許というお墨付きを受けてアワビ採り
    をしていました。さらに、ある時は悪天候で朝鮮へ漂流しましたが、朝鮮政府は取り調
    べをおこなっても彼らの竹島における漁を問題視しませんでした。こんな場合、
    皆さんは竹島(欝陵島)の領有権は日本、朝鮮のどちらにあるとお考えでしょうか?
    
     この状況は、時代はずれるものの尖閣(釣魚)諸島に似ています。尖閣(釣魚)諸島も
    中国の古文書にそれなりの記載はあるものの、長年捨て置かれたのも同然でした。その間
    に日本人が同島で経済活動をし、それを口実に日本政府は日清戦争中に中国に何の連絡も
    なく日本領に編入してしまったのでした。
    
     竹島(欝陵島)では70年後に海禁を犯して密漁をおこなった朝鮮人漁民がいました。彼
    らは季節風の関係で日本人より早く島に到着してアワビなどを先取りしました。そのため、
    日本人漁民はほとんど漁にならず、大きな「被害」を受けました。翌1693年も同じ状況だ
    ったので、たまりかねた大谷家は竹島(欝陵島)にいた朝鮮人 安龍福らを証人として連行
    し、藩へ引き渡して善処を要望しました。
     これを機に、日朝間で竹島(欝陵島)の領有権論争「竹島一件」が始まりました。交渉
    を担当した対馬藩は朝鮮へ安龍福らを送還すると同時に朝鮮人の入島禁止を要求しました。
    これに対し、豊臣秀吉の侵略の記憶がまだ覚めやらぬ朝鮮政府は百年以上も捨て置いた島
    のことで日本と事を構えるのを控え、対馬の要求を受け入れて竹島への渡航禁止を書簡で
    約束しました。
     これで終われば、欝陵島は日本領になっていたのですが、朝鮮政府はその書簡で海禁政
    策を説明し、「弊境の蔚(欝)陵島といえども、漁民が外洋に出るのを禁止している」と付
    け加えました。朝鮮政府は竹島が蔚陵島であることを承知しながら、日朝友好のために一
    島二名という苦肉の策をとったのでした。
     しかし、対馬藩はその妥協案に満足せず、「弊境の蔚陵島」の文言を除くよう執拗に要求
    したため、交渉はもつれにもつれました。進退両難に陥った対馬藩は、藩主の後見人であ
    る宗義真(元藩主)が江戸へ赴き、幕府の指示を仰ぐことになりました。
     幕府は、かつて竹島渡海免許を発行した史実などが継承されずに実状が把握できなかっ
    たのか、鳥取藩などへ竹島渡海の経緯を尋ねました。鳥取藩は渡海事業の詳細や、竹島・
    松島は同藩の所属でないと回答しましたが、この回答が幕府にとって決め手になりました。
     幕府は、竹島(欝陵島)へは町人がアワビを採りに行ったまでであり、無益な島である
    ところに、この件がこじれて朝鮮と年来の通交が絶えてもどんなものだろうか、武威をも
    って談判におよぶのも筋違いであると決断し、1696年に竹島(欝陵島)を朝鮮領であると
    認め、日本人の渡航を禁止しました。
     余談ですが、この時まで幕府は松島(竹島=独島)の存在を知らなかったことは特筆に
    値します。そのため、幕府は鳥取藩の回答に登場した松島に関心をもち、さらなる質問を
    鳥取藩へおこなったくらいでした。
    
     このように竹島一件では、朝鮮は古文書に竹島(欝陵島)が記載されているということ
    を根拠にして百年以上も捨て置いた島の領有権を主張し、紆余曲折の末にそれがとおりま
    した。朝鮮の古文書が日本の70年来の実効支配に勝ったのでした。
     近世ではそれほど古文書の存在は重いものでした。といっても、私は尖閣(釣魚)諸島
    問題においては中国が有利であるとか不利であるとか評価するつもりはありません。判断
    は基本的に日中両国民が冷静におこなうべきです。
    
     現代の領土問題は、時には国際法により判断されることになりますが、一口に国際法と
    いっても戦前と戦後ではその性格が大きく異なります。それを区別するために私は戦前の
    国際法を明治時代の用語のままに万国公法と呼んでいます。
     万国公法について明治の元勲である木戸孝允は「万国公法は小国を奪う一道具」と喝破
    しました。万国公法は、弱肉強食の時代に覇権を追い求めた大国が、貪欲に領土拡張をお
    こなった際にお互いの利害調整をはかって積みあげた強者間の、いわば「狼どもの国際法」
    でした。そのため、侵略戦争すら合法であることは周知の通りです。
     したがって、もしアヘン戦争を万国公法で裁いたら、イギリスの蛮行はもちろん合法と
    判断されるでしょう。そうした万国公法、ならびにそれらを土台にした国際司法裁判所で
    尖閣(釣魚)諸島問題など戦争に関連した領土問題を判断するのが適切なのかどうか、疑
    問が残ります。
    
      (半月城通信) http://www.han.org/a/half-moon/
    
    
    
    
    
    
    尖閣(釣魚)諸島の先占は一時凍結か
     2010/11/01
     メーリングリスト[CML 006275] 
    
    半月城です。
     ある日、突然起きた中国漁船と日本巡視船の衝突事件はあれから2か月になろうとしま
    すが、両国の関係はぎくしゃくするばかりで、日中友好の修復にはほど遠いようです。
     このように両国に緊張を強いる尖閣(釣魚)諸島問題は、両国の間の抜くに抜けないト
    ゲであり、ちくりちくりと両国に痛みを与えているようです。
     かくも重大な影響をもたらした尖閣(釣魚)諸島問題について、改めてその歴史的な原
    点を見直したいと思います。中でも、日本による尖閣(釣魚)諸島の編入手続きや「無主
    地先占」にはどのような問題があるのかなどを中心に検証したいと思います。
    
    1.内務省の内命
     1885(明治18)年、日本政府は沖縄近海にある無人島の日本領編入を積極的に進めまし
    た。内務省は在京の沖縄県大書記官 森長義に沖縄近海の無人島を調査し、国標を建てるよ
    う内命をくだしました。その詳しい内容は指令文書が残っていないので不明です。
     しかし、だいたいの指令内容は、森が内命事項を確認するために内務省へ提出した伺書
    「大東島巡視取調要項の義に付伺(注1)」などから知ることができます。
     大東島では伺書の中に「同島を沖縄県管下と定め 名称は従来称呼に拠り大東島と唱へ 
    国標を建設すること」という一項があるように、内務省は大東島を沖縄県に組み込んで国
    標を建てるための調査を森に命じたのでした。
     内務省の内命は、沖縄県と清国の福州間に散在する無人島、すなわち尖閣(釣魚)諸島
    に対してもくだされました。沖縄県は久米赤島(大正島=赤尾嶼)他二島、すなわち尖閣
    (釣魚)諸島に関する資料や、清国の冊封使が航海した航路図などを詳細に調べ、次のよ
    うな内容の伺書「久米島 赤島 他二島 取調之儀ニ付上申」を同年9月22日に内務省へ提出
    しました。
           ――――――――――――――――――――
     それらの島は清国の史書『中山伝信録』に記載された釣魚台や黄尾嶼、赤尾嶼かも知れ
    ない。もし同一なら清国が琉球王を冊封する使節が詳細に記述しているのみか、それぞれ
    名前を付けて琉球への航海の目標にしていることは明らかである。
     とりあえず10月に島の実地調査をするが、その後、大東島のようにただちに国標を建て
    るわけにはいかないと思われるので、国標の件はどのようにすればいいのか、ご指揮を受
    けたい。
           ――――――――――――――――――――
    
     この伺書に対して内務省は、久米赤島 他二島は『中山伝信録』に記載された島嶼のよう
    だが、清国は船の針路を取ったに過ぎず、清国に所属するという証拠がないので国標の建
    設は差しつかえないと判断し、太政官の承認を得るべく内申案を作成しました。
     その内申案を念のために外務省へ送って外務卿の意見を求めました。ところが外務省
    は、当時は宮古・八重山諸島を清国の所属にする方向で清国と交渉中であったためか、内
    務省へブレーキをかけました。
     井上馨外務卿は10月21日付の回答書にて「近時、清国新聞にも我政府に於て台湾近傍 清
    国所属の島嶼を占拠せし等 風説を掲載し 我国に対し猜疑を抱き しきりに清政府の注意を
    促し候」と清国の実状を紹介し、内務省へ「実地を踏査せしめ 港湾の形状ならびに土地・
    物産・開拓見込み有無詳細報告せしむるに止め 国標を建て開拓に着手するは他日の機会に
    譲る」よう提案しました。
     これら一連の史料はアジア歴史資料センターのサイトで簡単に見ることができます(注2)。
     外務省がふれた清国の新聞とは『申報』と思われますが、その記事(1885.9.6)は台湾
    警信として台湾の東北の海島に最近日本人が日本の旗をかかげ、島を占拠する勢いである
    と伝えました(注3)。
     このころ、清国が日本の動向に神経を使っていたのにはわけがあります。当時は大国で
    あった清国は日本政府の「琉球処分」に対して不満をもち、その件で日本と交渉中であっ
    たので、とくに琉球の動向を注視していたのでした。
     ここでひとまず、このように尖閣(釣魚)諸島問題に大きな影響を与えた日清関係につ
    いて、その概要を簡単に見ることにします。
    
    2.「琉球処分」と清国の反発
     1871年、日本では廃藩置県が実施されましたが、これとは逆に沖縄では「琉球藩」が設
    置され、明治政府により尚泰が「藩王」に任じられて華族に列せられました。これは日本
    政府による琉球王国解体の序章でした。
     1879(明治12)年、日本政府は琉球処分官 松田と共に450人の軍隊、160人の警官隊を首
    里城へ送りこみ、尚泰王代理の今帰仁王子に琉球藩を廃して沖縄県を設置する廃藩置県を
    通告しました。これがいわゆる「琉球処分」ですが、武力占領に等しいやり方でした。
     そうした武力を背景にした日本の沖縄県設置に対して現地では根強い反対がありました
    が、中でも清国の影響力の強かった八重山や宮古島では特に反対が激しく、日本政府への
    協力者が制裁を受けて殺される事件まで起きました(注4)。
     こうした事態に清国が動き出し、アメリカの仲介で日清会談が開かれました(1880)。
    会談において日本は清国の「琉球三分割案」に対して次の「分島・増約案」を提案しまし
    た(注4)。
    
     1.沖縄諸島以北を日本領土する。
     2.中国に近い、宮古・八重山を中国領土とする。
     3.上記を認める代わり、日清修好条規(1871)に、日本商人が中国内部において欧米
       諸国なみの通商ができるよう条文を追加(増約)する。
    
     交渉の末、清国は日本案をのんで調印することになりましたが、いざ調印の直前になる
    や、清国は増約による国内市場の混乱や、日本への帰属反対運動などを再考し、調印を保
    留しました(1881)。
     ここで特記すべきは、この時点では尖閣(釣魚)諸島どころか宮古・八重山諸島の帰属
    すら流動的だったことです。両島は、清国が日本に妥協さえすれば清国領になる予定でし
    た。また現地でも、特に宮古島では多くの島民が日本領になるのを嫌ったようです。
     こうした宮古や八重山諸島は日本の固有領土といえるのかどうか、少し疑問が残るとこ
    ろです。それは固有領土をどのように定義するのか、用語の問題になるものと思われます。
     それはさておき、その後も日清間で分島・増約案や条約改定をめぐって交渉がおこなわ
    れましたが、結局は決着せずに交渉は打ち切られました(1888)。
     このような日清関係だったので、清国が琉球問題に格別の関心を持つのは当然でした。
    ましてや1874年には琉球漁民の台湾遭難事件を口実に日本が清国の台湾へ出兵を強行した
    だけに、琉球問題は清国のかねてからの特別な関心事でした。当然、日本が「台湾近傍 清
    国所属の島嶼を占拠」する事態を憂慮したのでした。
    
     このような清国の情勢を熟知する外務省のアドバイスを受けた内務省は、尖閣(釣魚)
    諸島の編入は清国との協議が必要であると判断し、太政官へ当初の案とは正反対に「国標
    建設の儀は清国に交渉し かれこれ都合もこれ有り候に付 目下見合せ候方しかるべく(注
    5)」と内申し、沖縄県へもそのように指令しました。
     ここで注目されるのは内務省の判断変更です。同省は、尖閣(釣魚)諸島は清国にとっ
    て琉球への使節の単なる航路の目印に過ぎず、清国に所属する証拠がないが、と言って
    も、それだけの理由で一方的な領土編入はできず、清国との交渉が必要であると最終的に
    判断したのでした。その判断は太政官も承認しました。
    
    3.沖縄県の二度目の伺書
     その後、沖縄県は1890(明治23)年1月に二度目の尖閣(釣魚)諸島に関する伺書「無人
    島 久場島 魚釣島の義に付伺」を提出し、「水産取締の必要より所轄を相定められたき旨 
    八重山島役所より伺出」があったので、そのようにしたいと申請しました。
     当時は八重山島から久場島=黄尾嶼や魚釣島=釣魚嶼へ漁夫が出漁していたようです。
    このころからなぜか、かつての久米赤島はほとんど無視され続けました。
     この伺書に対して内務省は過去の関係文書の写しを沖縄県に要求し、送られたそれらの
    書類を検討したようですが、特段の措置をとりませんでした。1885年当時と何ら事情は変
    わらなかったためと思われます。
    
    4.沖縄県の三度目の伺書
     沖縄県は1893年11月にも「久場島 魚釣島へ本県所轄 標杭建設の義に付 上申」を内務
    省、外務省の両省へ提出しました。これに対して内務省は沖縄県へ(1)該島港湾の形
    状、(2)物産および土地開拓見込みの有無、(3)旧記・口碑等につき、我国に属せし
    証左、その他 宮古島・八重山島等との従来の関係を問い合わせました。
     この(1)、(2)に対し、沖縄県は1885年当時の現地調査書を内務省へ提出したにと
    どまりました。基本的に沖縄県は1885年の現地調査以来、新たな調査をおこなわなかった
    ので、追加情報はありませんでした。
     次に(3)に関しては、「該島に関する旧記書類および我邦に属せし証左の明文 又は口
    碑の伝説等もこれ無し」と回答しました。他の島との関係については「古来 県下の漁夫 
    時々八重山島より両島へ渡航 漁猟致し候」と明らかにしました。
     沖縄県はいろいろ調査しても、久場島と魚釣島が日本領であるとの証拠書類はおろか、
    それらしき伝説すら示せませんでした。尖閣(釣魚)諸島は日本領という認識がまったく
    なかったといえます。これでは当然「日本の固有領土」たり得ません。
     この沖縄県が出した三度目の伺書に対して内務省は1年以上も保留にしたのですが、そう
    する内に東アジアの情勢が大きく変化しました。1894年7月、韓国豊島沖での日清海戦を機
    に日清戦争が勃発したのでした。
     戦況は日本の連戦連勝で推移したのですが、清国の降伏が確定的になるや、内務省が動
    き出しました。同年12月27日、内務省は沖縄県の伺書を外務省と協議すべく、内務省の閣
    議請議案を外務省へ送り、「(1885年)当時と今日とは事情も相異」しているので、沖縄
    県からの伺書どおり久場島と魚釣島を同県の所轄とし、標杭を建てさせたいと提案しまし
    た。
     外務省は、今度は清国への配慮などおくびにも出さず、内務省案に全面的に賛成しまし
    た。日清戦争で清国の弱体ぶりが明確になったので、清国を侮って交渉など不要と考えた
    のでしょうか。
     翌1895年1月、内務省は沖縄県からの伺書を閣議にかけ、承認されました(注6)。十年
    前には果たせなかった尖閣(釣魚)諸島に国標を建てるという宿願が日清戦争に勝利した
    ことで可能になったのでした。
     閣議の承認結果は沖縄県に伝えられたようですが、その指令書の原文は残っていないよ
    うです。しかし、指令が伝えられても、沖縄県ではそれを告示するとか、標杭を建てると
    かの行政措置は何も取らなかったようです。これが重大な問題をかかえることになりまし
    た。
    
    5.無主地先占論をめぐる問題点
     国際法学者である緑間栄の『尖閣列島』によれば、「尖閣列島に対する国内法上の領土
    編入措置は明治29(1896)年3月5日の勅令13号が施行されるのを機会におこなわれた」と
    されます。
     しかし、この時点はすでに台湾が日本の植民地になった後なので、尖閣(釣魚)諸島の
    領土編入措置が台湾割譲に付随するものなのか、それとも閣議決定によるものなのか判然
    としません。
     もし、編入が台湾割譲に付随するものであれば、戦後になって日本は台湾を放棄したと
    きに尖閣(釣魚)諸島も台湾の中に含まれることになるので、同島は日本領でなくなりま
    す。中国や台湾はこの立場に立つようです。
     さらに、勅令13号にも問題があります。緑間は「勅令は沖縄県を島尻、中頭、国頭、宮
    古、八重山の五郡に設定し、久場島、魚釣島を八重山郡に編入」と記すが、実は勅令13号
    には久場島など尖閣(釣魚)諸島の名前は一切ありません(注7)。
     勅令には島尻郡として島尻各間切、久米島、慶良間諸島、渡名喜島、粟国島・・・など
    の島名が詳細に記載されました。それにもかかわらず尖閣(釣魚)諸島の名は記載されな
    かったので、勅令13号に同島が含まれるという緑間などの解釈は我田引水の感があります。
     余談ですが、勅令13号には宮古諸島と八重山諸島がそれぞれ宮古郡、八重山郡として記
    載されました。所属が流動的であった両諸島は日清戦争が終わった後に不動の日本領にな
    ったのでした。
    
     以上のような尖閣(釣魚)諸島の編入について、百瀬孝は「官報に出たわけではなく、
    外国にも通告されておらず、領土編入について無主地先占の万全の手続きをふんだとは到
    底いえない(注8)」と記しました。
     ただし、百瀬は日本政府を擁護する立場から「通知していないので中国側は知る由がな
    かったという言い分はあるが、1885年当時は古賀の久場島上陸を中国は把握していたので
    あり、このときに限って知らなかったとはいえまい」と付け加えるのでした。
     しかし、閣議決定後から台湾割譲までの半年間に何らの行政措置も島の利用もなかった
    ので、その短い間に清国のみか日本国民でさえ領土編入の事実を知ることはとうてい困難
    です。こうした事情を整理して芹田健太郎は『日本の領土』(2002)にこう記しました。
           ――――――――――――――――――――
     尖閣諸島は、先に見たように、明治二十八年一月十四日に閣議決定によって日本領に編
    入され、同年六月十日、古賀辰四郎が「官有地拝借御願」で国有地借用願を申請し、翌二
    十九年九月に政府は、魚釣島、黄尾嶼、北小島、南小島の四島を三〇年間、開拓奨励のた
    め、無料で古賀に貸与することを許可した。
     ところが、この間の二十八年四月十七日 日清講和条約調印、五月八日 批准書交換、そ
    して、六月二日には台湾の受渡しが完了していたのである。確かに、尖閣諸島に対する日
    本の実効的支配は明らかであるが、そのほとんどは日本が台湾の割譲を受けた後の台湾統
    治時代のものである。
     そのため、中国からの抗議はないものの、無主地先占をした島嶼に対する支配なのか、
    割譲された地域に含まれる島嶼に対する支配なのか、必ずしも分明にすることができない
    かもしれない。
     その意味では、敗戦の一九四五年(昭和二十年)八月十四日までの日本の行為はいわば
    凍結され、実効的占有として意味ある行為は戦後のものに限られてしまうかもしれない。
           ――――――――――――――――――――
    
     要するに、万国公法にいう日本の尖閣(釣魚)諸島に対する実効支配は、台湾割譲の結
    果なのか、無主地先占に対するものなのかはっきりしないので、戦前の日本の無主地先占
    は万国公法上にて凍結されるもののようです。
     この説にしたがえば、1920年に中華民国長崎領事が古賀に送った感謝状に「日本帝国沖
    縄県八重山郡 尖閣諸島・・・」と書かれても万国公法上はほとんど意味がないようです。
    
    (注1)江崎龍雄『大東島誌』1929;百瀬孝『史料検証 日本の領土』河出書房新社、2010。
    (注2)外務省資料1417「沖縄県久米赤島、久場島、魚釣島ヘ国標建設ノ件 明治十八年
     十月」『帝国版図関係雑件』外交史料館所蔵。原文は漢字カタカナ交じり文であるが、
     読みくだし文にてカタカナは平仮名に変換。以下同様。
    (注3)「文匯報登有高麗伝来信見、謂台湾東北辺之海島、近有日本人懸日旗于其上、大有
     占拠之勢、未悉是何意見、姑録之以后聞」(鞠徳源『日本国窃土源流』二〇〇一年)、
     百瀬孝『史料検証 日本の領土』河出書房新社、2010、p.66より引用。
    (注4)新城俊昭『高等学校 琉球・沖縄史』東洋企画、1997。
    (注5)公文別録・内務省・明治十五年~明治十八年・第四巻・明治十八年「沖縄県ト清国
     福州トノ間ニ散在スル無人島ヘ国標建設ノ件」(国立公文書館所蔵)
    (注6)「標杭建設に関する件」『公文類聚・第十九編・明治二十八年・第二巻・政綱一・
     帝国議会』国立公文書館所蔵
    (注7)明治29年 勅令第13号「朕 沖縄県の郡編成に関する件を裁可し〓(ここ)に之を公
     布せしむ」
    (注8)百瀬孝『史料検証 日本の領土』河出書房新社、2010。
    
      (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
    
    
    
    
    
    
    
    
    尖閣(釣魚)諸島の領有権と国際法
     2010/11/12
    メーリングリスト[CML 006449] 
    
     半月城です。
     尖閣(釣魚)諸島沖の巡視船衝突事件は落ち着くどころか、新たに衝突映像の流出
    事件をめぐって連日マスコミをにぎわしているようです。こういう時こそ、問題の根
    本的な理解が必要ではないかと思います。
     そこで今回は、尖閣(釣魚)諸島の領有権を国際法から考えることにします。ま
    た、最近になってロシア大統領のクナシリ訪問を機に北方領土問題も騒がしくなって
    きたので、それもからめて「都合の悪い話」なども織りまぜて書きたいと思います。
    
    1.領土取得の経緯
     前回書いた日本による領土取得の経緯を要約すると、下記のとおりです。
    1)1885年、日本が尖閣(釣魚)諸島に国標を建てると清国からクレームがくる可能
     性が強く、清国との協議が必要である、すなわち無主地でないかも知れない、こうし
     た判断から日本政府は国標建設を見送った。
    
    2)その十年後、日清戦争で清国の降伏が確実になるや「当時と今日とは事情も相
     異」したので、日本は同島を沖縄に組み込んで標杭を建てることを閣議決定し、沖縄
     県へ伝えた。その際、清国との協議は眼中になかった。その間、同島が日本領である
     ことの証拠を探したが見つからなかった。またそれらしき伝説も見つからなかった。
    
    3)閣議決定は何も実行されない(行政措置がとられない)うちに日清戦争の講和が
     結ばれ、台湾は日本の植民地になった。そのため、尖閣(釣魚)諸島は日本の先占い
     かんにかかわらず、明確に日本領になった。同島が国内法で沖縄県に組み込まれたの
     は、それ以後である。
    
    2.国際法上の無主地先占
     尖閣(釣魚)諸島は、無主地先占による領土取得といえるのかどうか見ることにし
    ます。無主地先占が国際法で認められるのは次の三条件です。
    (1)対象地が無主地
    (2)国家が領有の意思を示す
    (3)継続的かつ平和的な主権の発現
    
     この中で、(1)尖閣(釣魚)が無主地であったかどうか、これは非常な難問で
    す。同島は日本領の認識がなかったことだけは確かですが、さりとて中国領とするに
    足る国際法上の充分な証拠はないようです。それゆえに日中間で領土論争が継続して
    いるわけですが、今後、研究次第ではその認識が大きく変わる可能性があります。
    
     余談ですが、北方領土問題の場合、かつての北方領土担当であった佐藤優によれ
    ば、日ソ両国の外務省は歴史的、国際法的議論を徹底的に行った結果、皮肉なことに
    日露両国の外交官は「自国の立場が正しい」という確信を一層深めることになったの
    でした(注1)。
     特にエトロフに関していえば、同島は18世紀までは日本よりもロシアの影響力が強
    かったとのことでした。アイヌモシリの問題を別にしても「固有領土」の根拠はあや
    しいもんです。
     また、日本はクナシリ・エトロフをサンフランシスコ平和条約で放棄したことな
    ど、都合の悪い話は「見て見ぬふり」をしているとのことでした。しかし、これはう
    わべだけではないでしょうか。外務省は平和条約を充分検討したからこそ、この問題
    では国際司法裁判所への提訴をおくびにも出さないものと思われます。ただ、それを
    国民に説明しないだけではないでしょうか。
     そうした外務省の情報操作を知ってか知らずか、多くの日本国民は国際法には無頓
    着に、ロシアがクナシリ・エトロフを不法占拠していると信じているようです。しか
    し、戦時中の武力占拠は万国公法で合法とされることはいうまでもありません。蛇足
    ですが、国際法上の終戦は日本の降伏調印日(9月2日)か、学者によっては講和条約
    の調印日とされます。
    
     一方、竹島=独島論争では1950年代に日本政府は圧倒的に有利でしたが、これは日
    韓の情報格差および外務省による情報操作のためでした。ところが、1980年代から明
    治政府の竹島=独島放棄が論証されたり、松島(竹島=独島)渡海免許が存在しな
    かった資料などが次々に明らかになり、日本政府は不利になるばかりでした。
     市民団体「日韓会談文書・全面公開を求める会」によると、「竹島問題に関する文
    献資料」は交渉上不利になるとして、一切不開示にされた」ままですが、今後も資料
    の発掘が進めば進むほど日本政府はさらに不利になるかも知れません。
     このように領土問題に関するかぎり、外務省は不利な情報を伏せているので、研究
    次第では尖閣(釣魚)諸島問題でも竹島=独島と同じような事態が起きかねません。
    
     さて(2)に戻りますが、国家が無主地領有の意思を示す方法には、関係国への通
    告、官報などによる告示、法令の公布、行政措置や宣言などがあります。
     なお、公表されない閣議決定を単に沖縄県へ伝えただけでは国際法にいう領有意思
    の表明と見るのは困難です。一般に閣議決定の内容は後日になって変更されたり、
    まったく実行されなかったり、とかく流動的なので、確実な行政措置がともなわなけ
    れば明確な領有の意思表示とはいえません。
     尖閣(釣魚)諸島の場合、特異なことに上記のいずれの領有表明措置も取られない
    うちに日清講和条約が成立して台湾が日本領になり、尖閣(釣魚)諸島は先占いかん
    にかかわらず確実に日本領となりました。したがって、尖閣(釣魚)諸島については
    領有意思の表明はなかったといえます。
    
     最後の(3)平和的な主権の発現ですが、日本政府が民間人である古賀に対して
    「官有地拝借御願」を許可したことなどがこれに相当します。しかし、この許可など
    の行政措置はすべて台湾割譲後のことでした。
     また、閣議決定された標杭の建設は、台湾割譲を前にして建設の必要性がなくなっ
    たのか、結局は実行されませんでした。戦後になり、国連が石油資源の埋蔵可能性を
    指摘し(1968)、尖閣(釣魚)諸島が国際的に注目を浴びて標杭を建設する必要性が
    生じたのか、1969年に石垣市が市の標杭を建設しました。結局、台湾割譲以前に日本
    政府による主権の発現はありませんでした。
    
     このように、日本による無主地先占は必須要件の三項目すべてに問題があります。
    そのためか、前回紹介したように芹田健太郎は、日本の実効支配は無主地先占をした
    島嶼に対するものなのか、割譲された地域に含まれる島嶼に対するものなのか明確で
    ないので、日本の実効的占有は敗戦時まで凍結されるかも知れないと主張しました。
     無主地先占による戦前の実効的占有が凍結される場合、日本の実効的占有は沖縄返
    還時(1972)から始まることになりますが、これも後述のように問題があります。
    
    3.尖閣(釣魚)諸島は台湾付属か
     以上の論考からすれば、日本の尖閣(釣魚)諸島占有は無主地先占ではなく、台湾
    割譲にともなうものであるという中国や台湾の主張は説得力を増します。ただし、尖
    閣(釣魚)諸島が台湾に付属するのかどうかについては検討が必要です。それを簡単
    に見ることにします。
     当時、尖閣(釣魚)諸島が台湾に属するとした明確な文献資料はないようです。一
    方、台湾の範囲に関する交渉が日清講和条約の批准直後にありました。両国は条約に
    したがって「台湾受渡に関する公文」を取り交わしましたが、その時に日清の担当者
    間で台湾の範囲が話題になりました。
     清国は、あるいは日本が台湾の範囲を拡大解釈して「福建省付近に散在する所の島
    嶼を指して、台湾付属島嶼なりというが如き紛議の生ぜんことを懸念」したのです
    が、これに対して日本は当時の地図や海図にて台湾付属の島嶼は明らかであると回答
    しました。
     芹田はこれを取りあげて、「海図及び地図等で公認しある台湾所属島嶼」に尖閣
    (釣魚)諸島が含まれないことは、日清双方の一致して認めるところであったと記す
    のでした(注2)。
     しかし、清国が問題にしているのは福建省付近の島嶼であり、日本付近の島嶼は眼
    中になかったので、地図に尖閣(釣魚)諸島が台湾に含まれるかどうかは検討対象外
    でした。したがって、含まれないということを清国も認めたという芹田の主張は我田
    引水の感があります。当然、台湾が日本領になったのなら、それより日本に近い尖閣
    (釣魚)諸島も日本領になったと考えられます。
     また、芹田は言及しないものの、地図は誤りや不明瞭な点が多いために国際法上の
    価値は低く、地図が条約と一体あるいは付属するか、条約に引用された地図以外はほ
    とんど見向きもされません(注3)。ましてや会話に登場した程度の不特定の地図な
    どは国際法上の議論においてほとんど価値がありません。
    
     ついでに地図に関していえば、中国や井上清らは江戸時代に林子平が作成した「三
    国通覧図説」を根拠の一つとして自国の領有権を主張しています。たしかに、この地
    図は色刷りであり、尖閣諸島は中国本土と同色で刷られています。
     しかし、この地図は私人の立場で作成されたものであり、日本の国家意思を表明す
    るものではないし、公的に認定されたものでもありません。したがって、この地図が
    日本を拘束することはないし、国際法上はほとんど無意味です。
     ただし、国際法が適用される以前の前近代において地図や絵図がまったく無意味か
    というとそうでもありません。江戸時代のころは、ある国が公的な絵図や地誌、その
    他の方法で島嶼などを自国領と認め、他国がそれを争わなければ領土として確立する
    とされます。そのため、尖閣(釣魚)諸島の場合は明や清が同島を自国領とする認識
    があったかどうかがカギになります。
    
    4.戦後の尖閣(釣魚)諸島
     尖閣(釣魚)諸島は日本が無主地先占によって獲得した領土であるという主張には
    無理が多く、同島は台湾割譲にともなって獲得された領土とみるのが妥当なように思
    えます。
     そうなると、日本の敗戦にともなって尖閣(釣魚)諸島は台湾と共に中国領になる
    べきでしたが、戦後沖縄を統治した米国民政府は尖閣(釣魚)諸島が沖縄県に所属し
    た実状をそのまま引継いで自己の統治下におきました。
     これに対して中国や台湾は、戦後の国共内戦や、建国時の混乱などでとても尖閣
    (釣魚)諸島を気遣う余裕がなかったのですが、その後も沖縄の返還が決まるまで同
    島が自国領であるとの主張をしなかったようです。ここに中国や台湾の弱点があるよ
    うです。
     ただ、琉球列島の戦後処理には異論を唱えていましたが、その中で尖閣(釣魚)諸
    島を特に熟慮した形跡はないようです。はたして、中国や台湾はアメリカの軍政府や
    琉球列島米国民政府(USCAR)統治時代に尖閣(釣魚)諸島に明確な領有意識を持って
    いたのかどうか疑問です。
     その疑問の一例として、台湾省で編修された文献をあげることができます。それら
    によると、台湾の範囲を台湾本島からやや北の彭佳嶼をもって台湾省最北端として尖
    閣(釣魚)諸島をはずしているようです。
     しかし、より重要なのは同島が資料上で台湾に含まれないということよりも、同島
    を日本領と認めた公的な資料があるかどうかです。その一例として、1970年の台湾の
    中学地理教科書『國民中學地理』をあげることができます。そこでは釣魚台列嶼が日
    本領とされたようですが、翌年それは改定されて台湾領とされました。
     このように地図は誤りが多く、国際法上はほとんど考慮されないので、こうした一
    時的な地図の誤りは週刊誌のネタにはなっても、国際法上はさして問題にならないよ
    うです。
    
     なお、地図の誤りについては日本もひけをとりません。1952年10月、すなわち平和
    条約発効後、国土地理院の前身である地理調査所から出版された「日本全図 二百万
    分一」には尖閣(釣魚)諸島はおろか、沖縄やエトロフ島さえ記述されず、クナシリ
    島は描かれても外国同様に着色されました。
     クナシリ・エトロフは佐藤優がいうように日本も当時は日本領外と認めたので当然
    かも知れませんが(注4)、沖縄は単に施政権をアメリカに与えたことをもって、国
    土管轄当局が日本の領土からはずしたのは領土放棄と受け取られかねません。しか
    し、この地図も国際法上はほとんど問題にならないようです。
     なお、その地図で竹島=独島はどうかというと、島が小さいのでやや不明ですが、
    やはり日本領とはされなかったようです。それら問題の島々は、李承晩ラインと竹島
    =独島が問題化した後の1955年発行の地図にすべて日本領として明確に描かれまし
    た。
     領土が問題化してから公的資料中の自国領を見直すのは中国、台湾のみならず日本
    も似たりよったりです。
    
     尖閣(釣魚)諸島が国際的に注目を浴びたのは1960年代末でした。1968年に日・
    韓・台の科学者を中心に東シナ海一帯にわたって行われた地球物理学的調査によっ
    て、台湾のほぼ北東の海底区域に石油資源か豊富に埋蔵されている可能性が指摘され
    たのでした。
     翌1969年、日本が尖閣(釣魚)諸島に標杭を建てた年に沖縄返還が決まり、「核抜
    き、本土なみ、72年返還」をうたった日米共同宣言が発表され、世界中から注目の的
    になりました。やがて、その返還区域に尖閣(釣魚)諸島が含まれることが判明し、
    中国や台湾がクレームをつけました。
     1971年2月、台湾は「釣魚台に対する台湾の領土主権は、歴史、地理、使用、およ
    び法理からみて明白である」との声明を発表しました。同じく12月、中国も「釣魚島
    などの島嶼は昔から中国の領土である」との声明を出しました。
     こうした領土論争にアメリカは「板ばさみにならないように」賢くふるまいまし
    た。ニクソン政権は、沖縄と一緒に尖閣列島の施政権は日本に返還するが、主権問題
    に関しては立場を表明しない方針をとりました。領土争いに巻き込まれるのを避けた
    のでした。
    
     1972年、尖閣(釣魚)諸島を含んだ沖縄は予定どおり日本へ返還され、芹田のいう
    凍結されたと思われる日本の尖閣(釣魚)諸島に対する実効的占有が始まりました。
    しかし、これは国際法上で有効とは認められないようです。すでに中国や台湾が領有
    権を主張しており、その時が国際法上の決定的期日とされる可能性が強く、その日以
    後の行為は証拠として採用されないからです。
     結局、日本の実効的占有は凍結される可能性があったり、決定的期日以後であった
    りするので、かならずしも有効ではないようです。
    
     かつて日本は竹島=独島の領有権に関しては韓国政府と論争をおこない、北方領土
    に関してはロシア政府と論争をおこないましたが、尖閣(釣魚)諸島問題では中国・
    台湾政府と本格的な歴史的・国際法的論争は望むべくもありません。日本が尖閣(釣
    魚)諸島問題は存在しないとしているからです。
     当分の間、両国民は限られた、時には操作された情報をもとにショービニスティッ
    クな非難合戦を繰りひろげるのでしょうか。さらには、日本が領土問題を棚上げする
    という了解に反してパンドラの箱を開けてしまっただけに、今回のような物理的衝突
    が続出するのかも知れません。
    
    (注1)佐藤優「中国帝国主義に対抗するには」『中央公論』2010.11
    (注2)芹田健太郎『日本の領土』中央公論新社、2002
    (注3)荒木教夫「領土・国境紛争における地図の機能」『早稲田法学』74巻3号、1999
    (注4)一例であるが、吉田茂首相はサンフランシスコ平和条約受諾演説の際、ハボ
     マイ・シコタンとは別にクナシリ・エトロフが千島南部であると認め「日本開国の当
     時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも
     何ら異議を挿さまなかつたのであります・・・日本の本土たる北海道の一部を構成す
     る色丹島・・・」と述べた。これは世界に向けて公表された日本政府の見解である。
    http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19510907.S1J.html
    
      (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
    
    
    



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