半月城通信
No. 98(2003.9.25)

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  1. ソウルの語源と天皇家の守護神
  2. 「四種の神器」と桓武天皇
  3. 聖徳太子の足袋
  4. 蘇我氏は渡来系氏族か(2)
  5. 蘇我氏は渡来系氏族か(3)
  6. 蘇我氏は渡来系氏族か(4)
  7. 蘇我氏は渡来系氏族か(5)
  8. 朝鮮歴史学会の竹島=独島見解(1)


ソウルの語源と天皇家の守護神 2003.8.4 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#7576   半月城です。   出雲でヤマタノ大蛇を退治した素戔嗚尊(スサノオノミコト)は新羅と関 係が深い神として有名ですが、その孫のなかに韓(カラ)神と曽富利(ソホ リ)の神がいます。   韓神の名は韓国(からくに)に由来すると考えられていますが、他方の曽 富利は、新羅の古名であり、ソウルの語源になっている徐伐(ソボル)に由来 すると考えられています。この二神は単に神話の世界にとどまらず、どうやら 天皇家の守護神ないしはそれにゆかりのある神だったようです。   また、曽富理は『日本書紀』の一書でスサノオが高天原を追放されたとき に降りたったとされる新羅の曽尸茂梨(そしもり)とも関係するようで、国語 学者の故・金沢庄三郎はこう記しました。  「曽尸茂梨の(助辞)尸を除いたソモリは、徐伐すなわちソホリと音韻上一 致するもので、モとホすなわちmp音の相通である(注)」   金沢庄三郎というと、かつて戦時中は皇国史観の旗手として活躍したので、 今ではその説をそのまま受け入れる人は少ないようです。そうした経歴を考慮 して金沢の業績を評価すべきですが、うえのアイディア自体は本居宣長に由来 するようで、あながち荒唐無稽でもなさそうです。かれはこう記しました。        --------------------   古事記にタケハヤスサノヲの命(=素戔嗚尊)の子、オホトシの神がイト ヒメを娶ってもうけた子に韓[から]の神と曽富理[そほり]の神とがある。   この神について、古事記伝(本居宣長)には「(日本)書紀に『素戔嗚尊 その子 五十猛(イタケル)の神を帥いて、新羅国に降り到ります。曽尸茂梨 の処に居はします云々』といふことあれば、その時にこの韓神をも率いて行き たまひて、彼の国にして功などありしにや、曽尸茂梨と曽富理とも似たるをや 云々。こは試みにいへるのみなり」といっているが、これは宣長の想像どおり、 韓神は園韓(そのから)神であって新羅と関係があり、また曽富理とは新羅の 一名 徐伐[そほる]で、曽尸茂梨と同じ語である。   一説に韓神・曽保利[そほり]の神をスサノヲの尊の子イタケルの命(みこ と)であるともいうが、それはいずれにせよ、この神が新羅すなわちソホリの 神であることは疑いがない(注1)。        --------------------   上の説は皇国史観論者の単なるたわごとではなかったとみえます。最近の 学者では上田正昭氏もこうした考えに同調してか、曽富理をソシモリと共に新 羅と密接な関係があるとみています。   さらに、上田氏は宮内省で韓神と対をなす園(その)神が曽富理の神とゆ かりが深いとみています。かつて園神、韓神は天皇家の守護神だったのですが、 上田氏はそれらが新羅や百済からの渡来の神であるとしてこう記しました(注 1)。        --------------------   曽富理神については、園神説と宮内省に坐す韓神二座のうち他の一神とす る説などがある。だがこの(古事記)神統譜における曽富理神は韓神とは明ら かに区別されているので、韓神二座のなかの一座が曽富理神であったとする説 には賛成しがたい。   やはり園神は曽富理神にゆかりの深い神であったとするのがよいだろう。 ソホリとは『紀』(日本書紀)の神話で、ヤマタノオロチ退治の詞章(第4の 1書)にみえる曽尸茂梨(そしもり)と関係のある語と思われる。なぜなら 『日本書紀』の現存最古の注釈書である『釈日本紀』(述義)には、元慶講書 のおりに「今の蘇之保留(そしほる)の処か」と解釈しているからである。   つまりソシモリ・ソシホル・ソホリはいずれも新羅に密接な地名であった。 『紀』の神話に描く曽尸茂梨が新羅に求められていることも注意されよう。と すれば韓神とは百済系の神、園神とは新羅系の神ということになる。ともにわ が国に渡来してきた、いわゆる今来(いまき)の神であった」        --------------------   天皇家は百済の神と新羅の神を守護神として永く祭っていたようです。そ の園神祭・韓神祭は15世紀ころにはすたれてしまったようですが、園韓神社 自体はその後も存続し、平安京から遷都の際に東京へ移ったようです。したが って、現在、宮内庁のどこかにあるかもしれません。くわしくは下記に書いた とおりです。 <宮内省の守護神> (注1)金沢庄三郎『日鮮同祖論』(復刻版)成甲書房、1978 (注2)上田正昭「神楽の命脈」『日本の古典芸能』第1巻        ++++++++++++++++++ ソウルの語源と新羅 2003.8.4 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#7569   半月城です。   ソウルの語源ですが、都あるいは京を意味するソウル(seo-ul)の語源は 『三国遺事』によれば新羅の古名である徐伐(seo-beol)とされます。同書はこ う記しました。  「国号を徐羅伐、又は徐伐(今、俗に京の字を徐伐というのはこのためであ る)、あるいは斯羅、又は斯盧ともいう。初め王は鶏井で生まれたので、ある いは鶏林国ともいう・・・」(注1)   慶州地方で誕生した一小国は、ソラボル、ソボルなどとよばれました。や がて小国は大きくなり新羅と号されましたが、それにともない中心地であった ソラボル、ソボルはその名が京を意味するになったようです。また、ソボルが ソウルに変化したことは容易に察しがつきます。   なお、新羅の国号は『三国史記』によれば、第22代の智證王3(503)年 になって正式に採用されました。同時に「王」の尊号も採用され、それまでの 麻立干の称号が廃止されました。新羅の盛代のスタートです。 (注1)『三国遺事』新羅始祖 赫居世王条 國號徐羅伐 又徐伐(今俗訓京字云徐伐 以此故也)或云斯羅 又斯盧 初王生於 鶏井 故或鶏林國・・・ (鶏のツクリは正しくはフルトリ)   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


「四種の神器」と桓武天皇 2003.8.10 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#7581   半月城です。   宮内省がまつった園(その)神は新羅渡来であったという上田正昭氏の説 に学会でもさしたる反論はないようです。   anti_hijackerさん、#7578 >上田先生説ではねぇ。。 >説得力に欠けるのは仕方がないでしょうね   上田先生は、かつて右翼から国賊よばわりされ「天誅」の対象にされたく らいなので、右よりの人には評価が低いようです。「天誅」の理由は、著書 『帰化人』で桓武天皇が百済の武寧王の流れをくんだ人と書いたためです(注 1)。このとき、右翼は「天皇家に朝鮮の血が混じるとは何事だ」と怒ったそ うですが、今では「朝鮮の血」は常識であり、現在の天皇すらこう発言しまし た。  「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫で あると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」 <天皇「ゆかり」発言>   右翼も最近では「日韓合理化」とかいって「朝鮮の血」を認めるようにな ったようですが、その後も事あるごとに上田氏のところに抗議をしているよう です。90年には百済伝来の大刀契(たいとけい)をめぐって右翼は上田氏に 抗議したようです。このとき、先生は右翼に「あなたは天皇の宸筆(しんぴつ) になる『禁秘抄』(注2)を疑うのか」といったら、相手は反論できずに引き 下がったようです(注1)。右翼も上田教授の実証主義には一目おいているよ うです。   そのとき問題になった大刀契ですが、これは平安時代に天皇家の権力を象 徴するレガリアのひとつになり、天皇の即位などで代々伝授されたようでした。 それまで伝授されたのはいわゆる三種の神器ですが、それに大刀契が加わり四 種の神器になったようで上田氏はこう記しました。  「この大刀契というのは、平安時代、具体的に申しますと桓武天皇の次の天 皇は平城(へいぜい)天皇、この天皇の時から南北朝まで天皇の踐祚(せんそ) 、あるいは即位の時に伝授された 明確にこれはレガリアであります・・・   こういうように平安時代から鎌倉・南北朝にかけての神器の中に百済国伝 来の大刀契というものがあったことは間違いないのです。これは、イデオロ ギーで言っているんじゃありません。歴史的事実なのです(注1)」   歴史的事実を示す史料は多いので省略しますが、ともかく百済伝来の大刀 契が日本で天皇の即位などの際に神器として伝授されるようになったことは確 かなようです。   百済伝来の刀剣というとすぐ七支刀が思い出されますが、七支刀といい大 刀契といい、それらが倭に伝来されるようになったいきさつは興味をそそられ ます。七支刀についてはすでに書いたことがありますのでURLのみ紹介し、 ここでは大刀契についての説を紹介したいと思います。 <皇国史観と七支刀>   江戸時代の学者・伴信友は、神功皇后の「三韓征伐」の際に百済王が大刀 契を献上したと解釈しました。しかし「三韓征伐」が虚構であることは、津田 左右吉の研究以来つとに明らかになっているので、もちろん伴の説は論外です。 <皇国史観と神功皇后伝説>   最近では大刀契について大石良材さんが考察しています。同氏は、百済の 滅亡時に天智天皇が百済国王の宝器である大刀契を接収し「日本国王兼百済王 というべき新しい皇位についた」と解釈しました。着想はおもしろいのですが、 何の裏づけもありません。   この説をさらに想像でふくらませたのが岡田精司氏です。百済滅亡の際、 日本へ亡命した百済王禅広が伝国璽としてヤマト朝廷に献上したと解釈しまし た。一方、ヤマト朝廷はかれを保護して百済王の姓氏を与えて臣下の列に加え、 百済の王権を手にし、崩壊した朝鮮諸国への宗主権主張の根拠としたと推測し ました。   しかし、これもまったく裏付けがありません。それだけに弱点があります。 もし岡田説のとおりなら、奈良時代に何回もあった天皇の即位に関連して大刀 契のことが史料に書かれてしかるべきなのに、一切そうした記述がありません。 記・紀はもちろん養老令などにも書かれていません。記録にあらわれるのは平 安時代の平城天皇になってからなので、大石説も岡田説も無理なようです。   そこで上田氏は、平城天皇の父君である桓武天皇に注目しました。とくに 桓武天皇と百済とのかかわりを重視しました。現天皇も語るように、桓武天皇 は滅亡した百済ととても深いかかわりがありました。   桓武天皇の生母は高野新笠(たかのにいがさ)ですが、彼女の父は百済の 武寧王を祖とする和乙継(やまとのおとつぐ)、母は山背(やましろ)国の乙 訓(おとくに)地方の有力氏族である土師(はじ)氏の女、真妹(まいも)で した。   その当時の伝統は女系家族だったので、桓武天皇は母方の乙訓地方にゆか りが深かったと思われます。それが後に乙訓の北隣りの長岡京に最初の遷都を 強行した動機のひとつに考えられているようです。また乙訓の南には百済王氏 の本拠地が現在の枚方市や交野市にかけてひろがっており、その遺物として現 在でも百済王神社があり、国の史跡に指定された百済寺跡があります。   百済王の出身者は桓武朝廷でも優遇され、延暦9(790)年に天皇は「百済 王は朕(ちん)の外戚である。ゆえにいまその中から一、二人を選んで位階を 進め授ける」との詔勅をだしたくらい、朝廷の重要なポストに百済王族を重用 しました。同時に天皇は後宮にも多くの百済系の女性を入れ、少なからぬ親王 や内親王をもうけました。 <桓武天皇の外戚>   このように桓武天皇は百済王氏や百済系渡来人と密着したので、そのさい 百済伝来の大刀契を入手し、皇室のレガリアにしたことは十分考えられそうで す。それがつぎの平城天皇のときから大刀契が天皇即位式の際に伝授されたよ うです。   さらにあえてつけ加えるなら、前回書いた園神・韓神が天皇家の守護神に なったのも桓武天皇の時代でした。そのとき書いたように、上田氏は韓神を百 済渡来の神とみていますが、それはともかく、天皇は精神的にも物質的にも百 済渡来を重視したようです。   しかしながら、桓武天皇は百済系のみ重視したのではなかったことを付言 します。新羅系渡来人、とくに秦(はた)氏も重用しました。秦忌寸(いみき) 足長には長岡京造営の功績により外正八位下から従五位上へ昇進する破格の位 階を授けました。秦氏を重視したのは藤原氏も同様でしたが、山背における秦 氏の役割を中尾宏氏はこう記しました。        --------------------   おそらく偶然ではない、と思われるのが、新政権の中枢を占めた人びとが、 いずれも山背国の有力渡来氏族 秦氏と姻戚関係にあったことである。官房長 官格の藤原種継の母は秦朝元の女(むすめ)であり、初代(長岡京)造営大夫 の一人、小黒麻呂の夫人は秦忌寸島麻呂の女、そしてこの二人の間に生まれた のがのちの遣唐正使、藤原葛野麻呂である。   新都の造営という大事業には、その土地に住む有力豪族の協力を欠くこと はできない。藤原氏が秦氏と姻戚関係を持っていたというは、この時代、秦氏 は中央政界に登場することはほとんどなかったにしろ、山背国をはじめ各地で 在地豪族として隠然たる力を蓄え、中央の貴族もまた秦氏の財力に何かと依存 することが多かったのではないか、と考えられる(注3)。        --------------------   桓武天皇が百済系の韓神のみならず、新羅系の園神を皇室の守護神にした のは、長岡京や平安京への遷都に当たって新羅系渡来人の力量を無視できなか ったことも理由のひとつではないかと思われます。 (注1)上田正昭「古代日朝関係史の問題点」『朝鮮史研究会論文集』第29集,P5,1991 (注2)順徳天皇「禁秘抄」  匡房記顕實云、鋒劔三尺或二尺、総十、其中一劔脊有銘、斗左青龍、右白虎、 其他不見、是自百濟所被渡之劔之 (注3)中尾宏『京都の渡来文化』淡交社、1990   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


聖徳太子の足袋 2003.8.31 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#7821   半月城です。   下記サイトに紹介された法隆寺の聖徳太子像は画像が小さく、聖徳太子が 朝鮮風のボソンをはいているのかどうか定かでありません。また、その画像は 色彩があまりにも鮮やかなので製作年代は新しいようです。おそらく「ある座 像」を元に製作されたようです。 <聖徳太子座像>  「ある座像」とは、下記サイトの高麗博物館で発売しているビデオ『宋富子 ひとり芝居、身世打鈴』に法隆寺提供の聖徳太子座像が写っていますが、それ をさします。座像は見るからに古色蒼然としており、いかにも永い歴史を感じ させます。その座像は高麗博物館でもあるいは写真が展示されているのかも知 れませんが、上記の画像とは違って頭には垂れ飾りの付いた板状の冠をかぶっ ています。こちらは足にボソンをはいているのがビデオで確認できます。 <高麗博物館>   さて、日本の足袋の前身は襪(しとうず)とのことですが、襪は新羅の記 録でも確認されます。第42代 興徳王の時に服飾禁制が設けられたようですが、 それによると王が祭祀をする時は赤襪、朝廷では白襪、王妃の婚礼の時は青襪 をはくと定められていたようでした。こうした襪がボソンの前身であることは いうまでもありません。倭の襪と新羅の襪は大同小異だったと思われます。   日本の「しとうず」はおそらく百済から入ったのでしょうが、これは朝鮮 半島でいう「ボソン」だったようです。これが中国大陸の「襪」とどう違うの か、興味のあるところです。   襪にかぎらず、飛鳥・奈良時代の朝服は朝鮮半島風だったと考えられます。 それが養老年間に唐風に変わりました。倭服が唐風か朝鮮半島風かを見分ける にはコツがあるようです。白石太一郎氏によれば、着物の襟が左前なら朝鮮半 島風、右前なら唐風ということになるとのことです。以前にも書きましたが、 同氏はこう語りました。  「養老3年、719年に左前(さじん)を改めて右前(うじん)とすることが 法令で定められております。これは要するに、それまでの朝鮮半島風の服装を 中国の唐風に改めようとしたのに他ならないのです」   ちなみに、高松塚の女性の服装は朝鮮半島風でした。したがって、壁画は 719年以前に描かれたようでした。 <高松塚壁画と襟の左前>


蘇我氏は百済からの渡来氏族か(2) 2003.8.24 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#7688   半月城です。   朝鮮日報の論説委員である李圭泰氏は、どうやら日本の学者の主張をよく 吟味せずに記事を書いているようです。 >王室に韓国の血が流れていることへの拒否感を感じるためか、日本の学者は 蘇我氏が百済系であることを隠しているが、今後この是非をめぐって議論すべ きことだろう(注3)。   そもそも「拒否感」などで真実を隠すような人は学者とは呼べません。そ れはエセ学者です。日本の学者は「蘇我氏が百済系」であることを隠すどころ か、それを真剣に研究対象としています。最初に蘇我氏が百済系であると本格 的に主張したのは門脇禎二氏です。   同氏は、当初は蘇我氏を渡来系氏族とはせず、大和盆地の土着集団のうち から成長したものと考えましたが、当時の時代的背景を考察するうちに、渡来 系氏族としたほうが合理的であると考えを変えたようでした。こうした詳細は 下記サイトの半月城通信に記したとおりです。 <蘇我氏は渡来氏族か>   蘇我氏が百済系であるという説は説得力があるようで、蘇我馬子の墓と伝 えられている石舞台古墳がある明日香村の教育委員会も支持していることは上 のサイトに書いたとおりです。   さらに、立命館大学の山尾幸久教授も蘇我氏の百済出身説を支持しました。 同氏は、大化の改新以後に蘇我氏の主流になった石川臣に関連して、蘇我満智 の百済渡来説をこう記しました。        --------------------  (蘇我)馬子は「石川の宅(やけ)」すなわち石川氏の、祖(みやお、女性) との間に、「蘇我の倉の麻呂」(雄当、をまさ)をもうけた。   この集団は石川郡の「一志賀(いすか)」(「壱須何(いすか)」、現在 は一須賀)にいた。八世紀中頃には原形が成立していたとされる「蘇我・石川 両氏の系図」は、この子孫がまとめたものだが、稲目に先んずる石河(いしか) ー満智(まち)ー韓(から)ー高麗(こま)の四代は、七世紀末葉に石川氏が つけ足したのだという新説を支持したい(ただ石河は名を変えただけだろうが)。   この満智を百済の有力貴族で、事実上の伽耶王であった木刕満致(もくら いまんち)と同一視する説がある。私はこの説をも支持する。この人物は、権 力抗争に敗北して、480年前後に日本に亡命してきた。   石川氏にとって真の始祖は、名前を変えただけの石河ではなく、その次の 満智のはずである。韓とか高麗とかの名はいかにもあやしげだが、イスカ神社 で祀られていた可能性さえある始祖の名を、百済の権臣にあやかって創作した などということは考えにくい。   おそらく480年前後に亡命してきた木刕満致は、百済王家ゆかりの地に近 い(百済の東城王・武寧王の父 昆支(こんき)の子孫である飛鳥戸造(あす かべのみやつこ)氏はすぐ北にいた)イシカ(イスカ)の渡来系集団に迎えら れたのであろう。石川氏の先祖が渡来系であることは、一須賀古墳群について の考古学上の知識からも、まず動くまい(注1)。        --------------------   雄略天皇の時、百済などからの渡来人である今来(いまき)の才伎(てひ と)が倭へどっと来たことが『日本書紀』に記されましたが、かれらは河内の 飛鳥や石川、あるいは大和の高市(飛鳥)に住んだようでした。そうした渡来 人の墳墓の一例が河内の石川にある一須賀古墳群とみられます。   一般に群集墳は渡来人に関係しているとみられますが、300基もの古墳が 集中する一須賀古墳群もその例にもれません。古墳群を特徴づけるのが、そこ から出土した竈(かまど)のミニチュアである形代(かたしろ)ですが、これ ひとつだけ取りあげても渡来人の墳墓であることは疑いをいれません。   水野正好氏は「一須賀古墳群の背景にも、漢人(あやひと)ー百済系氏族 など渡来系氏族の存在することが明確に読みとれることになろう(注2)」と して百済との関連を強調しました。   河内か飛鳥かは別にして、そうした百済系渡来人の集住地に百済の支配階 級出身である木刕満致が渡来して満智と名乗り、蘇我氏の始祖となったという 可能性はかなり高いものと思われます。 <百済の武寧王と倭・百済交流> (注1)山尾幸久「蘇我氏と東漢氏」『歴史読本』1984.11 (注2)水野正好、門脇禎二『河内飛鳥』1991,吉川弘文館 (注3)http://srch.chosun.com/cgi-bin/japan/search?did=9303&OP=5&word=日王%20&name=%8A% D8%8D%91%8C%A9%82%C4%95%E0%82%AB%20&dtc=20011224&url=http://japanese.chosun.com/ site/data/html_dir/2001/12/24/20011224000013.html&title=%81y%97%9B%8C%5C%91%D7%8 3R%81%5B%83i%81%5B%81z%93%FA%96%7B%82%CC%8A%BA%95%90%89%A4   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


蘇我氏は渡来系氏族か(3) 2003/ 9/ 7 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#7921   半月城です。   日本や東アジアの古代史に明るい人もいるこの会議室において、蘇我氏が 百済からの渡来氏族であったという説に対してはまったく反論がないようです。   それも無理ありません。ここの会議室どころか、学者の間でもはっきり反 対する人は少ないようです。しかし、もちろん蘇我満智の渡来説に慎重な学者 もいます。その代表は学習院大学の黛弘道氏でしょうか。同氏は蘇我満智につ いてこう述べました。  「ともあれ、満智、韓子ー高麗までの系譜は、それ以後の稲目ー馬子ー蝦 夷ー入鹿とちがって異国的であり、前後に断絶があるように思える。これに関 しては前者(満智ー韓子ー高麗)は、ソガ氏の支族 倉(くら)氏が後者(稲 目以下)に架上した系譜であり、満智・韓子・高麗は朝鮮三国の百済・新羅・ 高句麗から連想・造作されたもので実在の人物ではないとする説がある。しか し一方では、これを実在するとみる説もあり、その評価はむずかしい(注)」   蘇我稲目を境にして断絶があるとみるのは、前回紹介した山尾幸久氏も同 様で「石河ー満智ー韓ー高麗の四代は、七世紀末葉に石川氏がつけ足した」と 見ています。そのうえで山尾氏は満智を百済から渡来した木満致と認めたので すが、一方の黛氏は満智の存在を「評価はむずかしい」として考えあぐねてい るようです。   しかしながら、蘇我氏は5世紀の雄略朝の時代には確実に活躍を開始した とみられます。このころはちょうど百済の木満致が南へ移動したとされる時期 です。ここから門脇氏は木満致を蘇我満智とする発想が生まれたのですが、こ の説に賛成する学者は増えつつあるようです。山尾氏以外にも井上満郎氏も賛 同しているようで、こう記しました。        --------------------   蘇我氏は、『新撰姓氏録』の時代には滅びていたからその記録はないが、 孝元天皇を祖先とし、武内宿禰につながるれっきとした皇別氏族である。しか しながら、最近この皇別氏族説は疑いがもたれている。諸蕃系、つまり渡来氏 族ではないかというのである。   系譜のうえではどのような文献にも蘇我氏が諸蕃とは書かれていないが、 『日本書紀』などの記録を検討していくと、どうも渡来氏族と考えたほうが、 蘇我氏の活躍する六、七世紀の歴史が理解しやすい。   その具体的な考察はここでは省略せざるをえないが、蘇我氏の系譜の中で 信頼性の高いと思われる蘇我満智は『日本書紀』にいう木満致で、朝鮮半島の 出身ではないかと考えられること、またその子・孫の韓子・高麗という名前も 朝鮮の国名だから、どうも朝鮮半島から渡来してきた氏族なのではないかと考 えられるのである。   もしそうだとすると、天皇家と渡来系氏族との関係は、またちがった観点 から考察しなければならなくなってくる。   蘇我氏は日本古代において、もっとも有力な氏族である。この点について は、たぶん誰にも異存がないだろう。大和王権の権力の拡大に大きく貢献し、 皇室と結びついて氏族としての勢力をも発展させた。   ただその活躍は大伴・物部よりも新しく、欽明天皇の時代からで、蘇我氏 のなかではじめて具体的に活動の跡をたどれる稲目は、娘の堅塩(きたし) 媛・小姉(おあね)君を欽明天皇の宮廷に入れた。その間に、堅塩姫は用明天 皇・推古天皇を、小姉君は崇峻天皇を、と三人の天皇を出している。   用明天皇の子の聖徳太子は祖母が渡来系氏族の出身ということになるし、 聖徳太子自身も蘇我馬子の女の刀自古(とじこ)を妻として山背(やましろ) 大兄王をもうけている。  ・・・   蘇我氏と和(やまと)氏、ともに百済系の渡来系氏族である。六世紀と八 世紀に、大王・天皇家と渡来系氏族は深くかかわり、そしてその先進的な文化 が日本の君主である大王・天皇の家系と結びついた(注2)。        --------------------   和氏とは、桓武天皇の生母である高野新笠の氏族をさしますが、井上満郎 氏は和氏とともに蘇我氏も百済系の渡来氏族であると断言しました。門脇禎二 氏の蘇我満智渡来説を支持しているようです。   一方、門脇氏は持説である蘇我氏の渡来説に磨きをかけ、蘇我満智一族の 発展過程を講演でこう述べました。        --------------------   蘇我満智の蘇我は、後からできる氏の称で、もともとは木満致が日本に渡 来した、そしてどこに定着したかというと、先ほど申しましたように大和の曽 我である。   だから、初めは木満致といっていたのでしょうけれども、もともと居地に よりて氏の称をなすのが、日本の古来の原則ですから、そこから曽我とか蘇我 とかなったのではないか。こうして、百済の高級官僚の木満致とその一族が大 和の曽我に定着して、ソガ氏はそれから出発した。だから子や孫でも、韓子や 高麗という渡来系の名がついているのではないか、というのが私の主張です。   この地にも、木満致が来た頃の、雄略天皇は特に渡来人を大切にしたとい うことがちゃんと『日本書紀』には書いてある。あるいは、蘇我氏とは反対側 の立場に立った中臣氏が書いた『古語拾遺』にも蘇我氏は雄略天皇の頃から日 本の財政問題を担当したと書いてある。   たしかに蘇我の一族には倉人、つまり財政に携わった人が多く出てくるの です。更に六世紀に入った継体天皇の頃から木氏の一族が次々と十数人も渡来 するのです。  ・・・   木満致らは、今申しました曽我の地域に定着すると、細かい年代は省略し ますが、曽我川に沿って南へ進出し、畝傍(うねび)山の南をまわり、大和飛 鳥に入ってくる。この経緯は明らかにわかります。   ですから、畝傍山南方の新沢千塚が蘇我氏初期の墓群ですね。その他、曽 我川流域には今はほとんど壊れていますが、かつては点々と古墳があったわけ です。そして飛鳥に入ってからの墓群は、石舞台古墳が馬子の墓と思われます。   そして、あの北側に多武(とうの)嶺に上がる道があって、その細川谷の 斜面に数百の群集墳があります。新沢千塚につづき、この細川谷の群集墳も、 蘇我氏一族の墓だと理解しています。   そうするとその墓群の近くに考えられる蘇我氏の地盤は、おわかりのよう に、低湿地ではない。有名な唐古遺跡など初期の農業遺跡は、大和盆地でも中 央の国中平野の低湿地にあるのですが、蘇我氏が来た頃は、乾田耕作が始まっ たのですね。   たとえば飛鳥などでも山と原野部ですね。あるいは斑鳩(いかるが)など も同じ地形です。これは低湿地耕作ではなくて、乾田耕作技術をもっていなけ れば開発に困ります。この北方系の乾田耕作技術の渡来も考古学の先生方が明 らかにして下さっています。そこで、先程言ったように曽我川流域を遡って飛 鳥に入り、蘇我氏の基盤を開拓していく(注3)。        --------------------   かつては山と原野だった飛鳥や斑鳩の地を蘇我氏が切り開いたのか、ある いは百済系渡来氏族の東漢(やまとのあや)が切り開いたのかは別にして、そ の開拓には潅漑工事など高度な土木技術と集団的な組織力が必要だったことは いうまでもありません。さらに飛鳥の発展に際して「北方系」乾田耕作技術の 確立という農業革命もあったようでした。   そうした開拓者である渡来人の墓標が群集墳なのですが、飛鳥には新沢 (しんざわ)千塚と細川谷群集墳などがあり、考古遺跡からも渡来人の足跡を 確認しているようです。   ただ、新沢千塚を門脇氏のように蘇我氏一族の初期の群集墳とみるのか、 または橿原市教育委員会のように東漢一族のそれとみるのか意見の分かれると ころです。あるいは両者が婚姻関係で入り組んでいたのかも知れません。蘇我 氏一族が発展するには東漢氏族との血の結びつきは当然あり得たと思われます。 山尾幸久氏はこう書きました。        --------------------   大和の高市の宗賀に発祥した小土豪の蘇我氏は、六世紀の初め頃から、東 漢系の渡来人集団との結びつきを求めて婚姻関係を持ち、それがゆかりとなっ て、531年辛亥の変で大伴氏がその地位を失った後には、その後継者として政 治組織の上で東漢系諸氏の集住地に移して族的結合を強め、六世紀中頃には、 新たな渡来人を擁した東漢系諸氏のさらに上位の者として、もはやなんぴとも これを無視しえない権力を構築していた。   かくして娘が大王の子女を産むまでになり、587年丁未の役で、独裁的態 勢を敷く条件を獲得したのである(注4)。        --------------------   飛鳥のあたり高市郡は別名、今来(いまき)郡ともよばれ、ニューカマー 渡来人の集住地でした。飛鳥時代はそこに宮廷がおかれたのですが、そこが蘇 我氏の強固な地盤なら、一族は大王(天皇)の外戚として大王の生殺与奪さえ 左右するようになったのも自然に理解できます。   このように、飛鳥時代の政治に蘇我氏をはじめとする漢人(あやひと)な ど百済からの渡来人が決定的な役割をはたしたのですが、ここで注意すべきは、 かれらは百済のために動いたのではなく、あくまでもヤマト朝廷の構成メン バーとして活躍したことはいうまでもありません。   その際、かれらは出身地である百済や、あるいは百済をとおして中国南朝 から新知識や新技術を積極的に導入したことはいうまでもありません。そうし た進取の性向が飛鳥時代を築く原動力となったのですが、かれら漢人など渡来 人の役割を山尾氏はこう記しました。        --------------------   これらの人々の活躍は、まことにめざましい。人民の掌握と収取とにかか わる統治技術、法令の策定、財政にかかわる出納や計算、対外折衝、土木にか かわる測量や計算の技術、天体の観測と暦・時刻、医薬や食品、舞楽、絵画・ 彫刻・建築、朝廷の書記などは、資料の上にも跡づけられる。   古代には資料の上にまで現れるのは氷上の一角に過ぎず、推古朝以後の朝 廷政治・官司制の発達を支えていたのは、実際上は彼らなのである。これらの 渡来人のうちかなりの部分は、東漢諸氏を代表する人物(「大費直」、おおし こおりちか)の部下として「漢人、あやひと」を称している。漢人には仏教に 帰依して僧尼になる人が多かったが、このような六世紀代の渡来人こそ、飛鳥 文化の創造主体である。   彼らは大和のイマキや南淵、河内の高向に居住していただけではなく、近 江のシガ(滋賀県大津市北部)にも住んでおり、大津宮が営まれた地が、飛鳥 時代仏教文化の一大センターであった蓋然性は大きい(注4)。        --------------------   イマキ郡であった飛鳥は、渡来人の集住地として国際都市的な様相を呈し ていたようでした。そうした人たちが国際的な感覚で先進技術や文化を百済や 高句麗、南朝などから継続して導入した結果、飛鳥時代は飛躍的な発展をとげ、 その結実した文化はのちに飛鳥文化と称されるようになりました。 (注1)黛弘道『物部・蘇我氏と古代王権』吉川弘文館,1995 (注2)井上満郎「皇室の「渡来度」 いまに続く血脈」『歴史読本』1988.12 (注3)門脇禎二「蘇我氏と渡来人」『古代豪族と朝鮮』人物往来社,1991 (注4)山尾幸久「蘇我氏と東漢氏ー飛鳥文化の創造的主体」『歴史読本』1984,11   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


蘇我氏は渡来系氏族か(4) 2003/ 9/ 14 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#8131   半月城です。  Re:7935, anti_hijackerさん >蘇我氏は武内宿禰の子孫 >石川宿禰の子孫って書いてあるじゃありませんか。 >第一次史料を大切にしましょうね。w   蘇我氏の系図をあらためて書くと下記のようになります。 建内宿禰(たけうちすくね)ー蘇我石河宿禰-満智(まち)-韓子(からこ) -高麗(こま)-稲目(いなめ)-馬子(うまこ)-蝦夷(えみし)-入鹿 (いるか)   建内宿禰は武内宿禰とも書かれますが、その実在可能性を国学院大学の鈴 木靖民教授はこう記しました。  「建内宿禰も景行・仲哀・神功・応神・仁徳の歴朝に仕えた三百歳という長 寿の人物として描かれるが、これも後世、蘇我氏もしくは中臣(藤原)氏など によってその祖先系譜の成立過程のなかで作り上げられた伝説的人物であるこ とが明らかにされている。つまり蘇我氏が建内宿禰、さらには孝元の後裔であ るということはできないのである(注1)」   ま、古代史の専門家がなんと言おうと、建内宿禰が実在しなかったという 証拠はもちろんないので、三百歳のかれを実在したと信じるのはもちろん勝手 です。ただ、そのような人は私の論戦相手にはなりえません。   ついで書くと、ささいなことですが、宿禰の称号は後の時代のことであり、 5世紀頃にはなかったとされます。この面からも建内「宿禰」は不適切です。   さて、建内宿禰が存在しないとしたら、つぎの蘇我石川宿禰はどうでしょ うか。鈴木氏は「一次資料」をこう考証しました。        --------------------   まず問題になるのは蘇我(蘇賀)石河(石川)宿禰である。かれは満智以 下の人名と表記を異にしている。   また石川宿禰の名は『日本書紀』応神三年条に百済の辰斯王を詰問するた めに遣わされた将軍のひとりとしてみえるが、その記事は造作されたものであ るといわれる。さらに天平宝字六年(762)の石川年足の墓誌にも石川朝臣が 「宗我石川宿禰」の子孫と称している。   石川氏は七世紀中葉の蘇我氏本宗家およびその他の蘇我諸家の滅亡ののち、 わずかに残った蘇我氏の後身であり、石川氏を名のったのであるが、蘇我石川 宿禰とはこの氏によって八世紀奈良時代に入ってから創出され、『書紀』など に採用された祖先と考えられている。   現在伝えられる『蘇我石川両氏系図』も十世紀以後に記紀をもとにして原 形がなり、追加されたものという。   こうして蘇我氏の実在性が高い始祖としては、つぎにのべる満智を想定で きるのである(注1)。        --------------------   蘇我満智ですが、かれを百済からの渡来人、木満致であるとする門脇禎二 氏の説は、歴史学会に衝撃をもたらしたようでした。その説がきっかけになっ て 70年代後半から80年代、蘇我氏の研究がホットなテーマになり研究が急速 に進みました。そして蘇我氏に関する研究が進めば進むほど、蘇我氏は渡来氏 族と考えた方が合理的であると考える学者が増えました。   その結果、いまや渡来氏族説は定説化しつつあるようで、門脇説に批判的 な共立第二中学・高校の加藤謙吉教諭すらこう書くくらいでした。        --------------------   近時、蘇我氏に対する学問的関心がにわかに高まりつつある。蘇我氏の特 集を組んだ雑誌類の刊行が相つぎ、テレビの教養番組でこの氏が取り上げられ ることが多くなった。いわゆる邪馬台国ブームと同一の現象が、起こりつつあ るようである。   このブームは思うに蘇我氏渡来人説が門脇禎二氏によって提唱されたこと に起因するものであろう。六世紀の後半から七世紀にかけて大和王権の政治を 主導した蘇我氏が、百済からわが国へ渡来した人物の子孫であるという指摘は、 単に蘇我氏一氏族の問題にとどまらず、六、七世紀の王権史そのものに抜本的 な見直しを迫る衝撃的な提言であった。  ・・・   門脇氏らの問題提起は、蘇我氏研究に飛躍的な進歩をもたらしたものとし て高く評価できるのであるが、一方において若干気がかりなのは、蘇我氏渡来 人説が、ほとんどこれに対する十分な批判・検討もなされないままに、いたず らに定説化してゆく傾向が認められることである。   それと同時に最近の「蘇我氏ブーム」の中で、蘇我氏渡来人説が門脇氏ら の真意を離れ、いわゆるルーツ探し的な興味だけで論じられる弊害も出来して いる(注2)。        --------------------   加藤氏が憂うほど「蘇我氏渡来人説」は定説化しつつあるようですが、前 回まで紹介した学者以外に鈴木靖民氏やたなかしげひさ氏(注3)、作家の黒 岩重吾氏(注4)、明日香(あすか)村教育委員会のキタムラ氏なども「蘇我 氏渡来人説」を支持しました。定説化しつつあるという表現も誇張ではないよ うです。   さて、研究が進歩したおかげで、蘇我氏始祖とされる蘇我満智あるいは木 満致の足跡もかなり明らかになってきました。これはつぎの機会に紹介するこ とにします。 (注1)鈴木靖民「木満致と蘇我氏」『日本のなかの朝鮮文化』第50号,1981 (注2)加藤謙吉『蘇我氏と大和王権』吉川弘文館,1983 (注3)たなかしげひさ『奈良朝以前寺院址の研究』 (注4)黒岩重吾「蘇我氏は百済王族か」『歴史と人物』1978.7   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


蘇我氏は渡来系氏族か(5) 2003/ 9/ 21 Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#8224   半月城です。   蘇我満智(木満致)が百済から渡来し、その後裔が飛鳥時代の政権を掌握 したという説を理解するためには、古墳時代ないしは飛鳥時代の国際交流や抗 争などの背景を知る必要があることはいうまでもありません。   当時はもちろん国境管理などはなく出入国は自由だったので、国際交流は わりあい活発だったようでした。とくに百済は地理条件のせいか異国の官人が 多く活躍したようで、『随書』百済伝によると新羅・高句麗・倭・南朝などの 異国人も朝廷で活躍したようでした。   そうした状況はスケールは違っても倭でも似たようなものと思われます。 『古事記』や『日本書紀』には百済や高句麗、新羅、伽耶などから相当数の渡 来人が来たことが記されました。そうした状況をふまえて、前回書いたように、 蘇我氏の先祖である蘇我満智は百済からの渡来人であるという説が生まれ、い まや通説になりつつあります。そもそも満智という名前自体、倭風ではなく新 羅風であるようで、鈴木靖民氏はこう記しました。  「満智なる名は日本語の意味では解しがたい異国風の人名であるが、同一人 説に立てば、満智(満致)の智(致)は百済人でなく、多く新羅人の人名語尾 につけられる呼称でもある。満致が新羅人女性を母にもつことが想起される (注1)」   満致の母が新羅人というのは『日本書紀』応神25年条にこう記されている ことに由来します。  「百済記にいう。木満致は、木羅斤資が新羅を討ったとき、その国の婦をめ とって生んだのである。その父の功によって任那を専権した。わが国に来て貴 国と往還した。天朝の制をうけてわが国の政を執った。権は重く国政をみた。 しかし天朝はその暴を聞いて召した」   百済記は、倭に亡命した百済人がヤマト朝廷にへつらって書いたとされる 史書で現存しませんが、この記述からすると木満致は倭と百済を頻繁に往来し た百済の為政者だったようです。   さらに、文中に「父の功によって任那を専権した」とあることから、山尾 氏はこの木満致を事実上の任那王で百済王権の中枢部にはいり込み、倭との外 交交渉にあたったとみました。同氏は5世紀後半の倭と百済の関係をこう理解 しました。        --------------------   百済はすでに十年間も高句麗と戦争を続けていた。高句麗の軍事的圧迫が 一段と強くなったため、蓋鹵(こうろ)王は弟の昆支(こんき)をヤマトに派 遣して軍事力の援助を求めたのである。   当時のヤマトの王は中国史料では「済」と書かれている人で、日本の史料 では允恭(いんぎょう)天皇に当る。允恭は要請をうけて大規模な派兵計画に 着手したようだが、その年になくなった。   後継者の「興」(安康天皇)も 464,5年に亡くなった。これにはヤマトの 王位をめぐる内紛もからんでいたらしい。   たのみにしていたヤマトの後援が得られず、追いつめられた蓋鹵王は、そ れまで交流がなかった北魏(高句麗の背後勢力)にまで乞師するありさまだっ た。しかしついに 475年、高句麗の長寿王がみずから三万の軍をひきいて百済 王都(漢城)に攻め込んだ。   蓋鹵王は殺され、百済は南北漢江の地はもとより、今の忠清道の半ばを失 った。これは古代朝鮮史上の大事件である。百済は 476年前後、事実上一時期 滅んでいたのである。昆支が帰国したのはその時期であって、かれは 15年間 もヤマトに滞在したのである。   昆支は 461年に妻とともにヤマトに来たのだが、おそらく翌 462年、子供 が誕生したので妻子を本国に帰した。この子がのちの百済 武寧王である。そ の後、百済から新しい妻がやってきた。この人は文周王の娘らしい。   昆支はヤマト滞在中に5人の子息をもうけたが、そのうちの第二子は文周 王の娘との間に誕生した。これがのちの百済 東城王(未多王)である。ほか の四人の子供の母はわからない。しかしその中にのちの(河内)飛鳥戸造氏の 女性がいたことはまちがいない。   475年に漢城は陥落したのだが、477年になって、貴族の真桀取・木満致ら の努力によって、文周王が熊津(コムナリ、公州)で即位することができた。 昆支は帰国して王を支えたが、477年7月になくなった。   この前後、木満致は、百済復興の援助をひきだすため、みずから何回もヤ マトの「武」王すなわち雄略天皇のもとに来ていた。ヤマト王権は479年に筑 紫の軍士 500人をもって未多を衛送して以来、積極的に百済復興を支援する。   しかし初めのうち百済の政情は不安定で、481年には貴族の解仇(かいき ゅう)・燕信らが文周王を殺す事件などもおこった。未多(東城王)はこの年 即位したと見られる。百済の木満致がヤマトに来住したのもこのころである。 木満致についてはいくつかの説があるが、石川(一須賀)の渡来集団の族内に 迎えられたといったことも推測できそうである(注2)。        --------------------   475年、百済は一時滅亡して国は混乱の極みにあったようですが、山尾氏 がそれから 477年まで百済王は空白であったとみているのは注目されます。 『三国史記』で文周王は 475年に即位し、477年に殺されたことになっている からです。一方、鈴木靖民氏は『三国史記』を支持してか、当時の政局やそれ にからんで木満致の渡来をこう記しました。        --------------------   かれ(満致)の倭への渡来は『三国史記』にみえる 475年、つまり高句麗 のために漢城を落とされた百済がかろうじてその後継者 文周によって南の熊 津に都を移すという一大危機の生じた年をおいてほかにはない。   想像が許されるならば、この年ごろ、文周をともなって南行した満致は、 母の故国 新羅に立ち寄って援軍を頼むが、その足で倭へ赴き、新たに即位し た雄略の政権にたいして、文周王の承認とともに文周=百済との同盟ないし救 援を求めたのではなかろうか。   満致の要請によって倭の政権が文周を支援したことは、雄略21年条に雄略 が熊津を王に賜って百済を救い興したとある物語にうかがわれる。   雄略の政権は、前代からの対朝鮮南部政策ともからむ複雑な百済との関係 から脱却する上で、文周王を立てた以上は高句麗による百済侵略を絶対に阻止 しなくてはならなかった。   著名な倭王 武(雄略)の宋への上表文に高句麗の無道を訴えてその征討 を要請したのも、こうした倭と百済、百済と高句麗との問題と不可分の関係の もとに理解されなければならない。いわば 475年の百済漢城の陥落と 478年の 倭王 武の遣使・上表とは連動した一体的なできごとにほかならない。   この間の倭と百済との間を往復し、交渉を取り結ぶ媒介者こそ木満致であ り、かれの政治手腕は倭の政権においても相当に評価されるものであったろう。 だが、その後、木満致が擁した文周も 477年ついに暗殺された。   これによって満致は百済政権における自己の存立基盤を喪失することが決 定的となり、倭へ亡命・渡来することになったのではなかろうか。ゆえに満致 渡来の直接的契機は漢城陥落の時にあるが、最終的には 477年以降 倭に定着 したものといえよう。  ・・・   倭の(雄略)政権は大和と河内の各地を主要な基盤とした畿内豪族によっ て構成されていたと思うが、この政権に渡来後の木満致が与えた影響は甚大な ものであったろう。倭に迎えられたかれが早くも政権の内部に入って、とくに 縁深い朝鮮・中国(宋)への政策に参画したことは想像にかたくない。   山尾氏の説くように、倭の任那「経営」策はほとんど木満致がかって任那 王として君臨したという歴史的事実を根拠とするとみるかどうかは、なお判断 を保留するとしても、この段階での倭の政治の方向は、主として朝鮮南部をめ ぐる軍事と外交に比重がおかれていたことを考えるなら、国際政治にたけた満 致が倭の権力に投じた波紋は重大であり、在来の政権を構成する氏族たちにと っても看過すべからざるところとなったろう(注1)。        --------------------   ヤマト朝廷における木満致は、その国際的な出自や経歴から軍事や外交な どで存分に政治手腕を発揮したと古代史の大家はみているようです。 (注1)鈴木靖民「木満致と蘇我氏」『日本のなかの朝鮮文化』第50号,1981 (注2)山尾幸久「河内飛鳥と渡来氏族」『河内飛鳥』吉川弘文館,1989   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/


北朝鮮歴史学会の竹島=独島に関する見解(1) 2003/ 8/15 Yahoo!掲示板「竹島」#2512   半月城です。   竹島=独島問題を北朝鮮がどのようにみているのかを紹介します。下記は、 韓国の雑誌『歴史批評』(2002冬号)に発表された北朝鮮歴史学学会の論文を 訳したものです。原論文は昨年8月15日、ソウルで行われた「8.15民族 統一大会」行事の一環として開かれた学術討論会「独島領有権守護と日本の過 去清算をめざしたわが民族の課題」で北朝鮮歴史学会会長が発表したものです。   ふだん、日本では北朝鮮の主張を聞く機会がほとんどないだけに、この論 文は北朝鮮の公式主張を知るうえで貴重です。雑誌は論文をすこし編集し、学 会発表文冒頭の「宣言」を削除するとともに、文中の語句「日本反動」を「日 本極右」あるいは「日本」に、「李朝社会」を「朝鮮社会」に変えたと記して います。論文は31ページにもわたるボリュームですが、その拙訳をここの掲 示板にすこしずつ掲示します。   文中の( )は原著者の注であり、引用者とあるのは雑誌社の関係者をさ します。        --------------------  「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)               朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会 1.独島は歴史的にも朝鮮の不可分の領土   わが国の独島領有は約1500年の永い歴史をもっていた。独島を最初に発見 し、代々開拓、経営した国は朝鮮であり、それを国土に編入し、独島を内外に 宣布した最初の国家も朝鮮である。   独島は自然地理的であれ、人間の経済生活領域、国家法的地位であれ鬱陵 島の付属島としてみなされてきた。高麗時代には于山島とよばれ、朝鮮 中・ 後期時代には三峰島、可支島、独島などと呼ばれるようになった。鬱陵島は武 陵、羽陵などいろいろな名前をもっていた。   独島はふたつの大きな峰の巖島(東島、西島)とひとつの小さな峰の巖島 から成り立ち、大小の島は全部暗礁である。したがって、人は定着することが できないが、重要な漁場があるので、漁労期になれば鬱陵島住民がこの島に渡 り、テントを張り、魚とりをした。   独島は、晴れた日には鬱陵島から肉眼で望める位置にあるので、鬱陵島住 民は自然に独島を鬱陵島に付属している島と考え、歴代王朝もつねに二島を同 時に論じ記録に残した。  『高麗史』にて「于山、武陵は本来ふたつの島であり、お互いの距離が遠か らず、清明な日であれば望むことができる」(巻58地理3蔚珍縣)とし、于山 島と武陵島がおたがいに違った二島であり、密接した関係にあることを明らか にしており、『世宗実録地理志』と『新増東国輿地勝覧』も二島を論じ、それ らの島が江原道蔚珍縣に属すると指摘している。   事実、鬱陵島にて肉眼で望める独島がその付属島とみなされるのは、どこ からみても自然なことである。そうであるから、沈興澤は1906年3月29日、 日帝の独島強奪策動にたいし報告書で「本郡所属獨島」と明記し、全羅道の愛 国志士・黄炫も『梅泉野録』にて「独島は昔から鬱陵島に属していた」と書い ているし(巻5,興武10年4月)、当時の人民もそのように知っていた。   1696年、東莱漁民・安龍福が松島に入りこんだ倭人たちに「松島はすなわ ち于山島であり、于山島もやはり我が地」(『粛宗実録』巻30,22年9月戊 寅)とした史実がそれを物語っている。このように独島は昔から鬱陵島の付属 島とみなされてきた。   独島が朝鮮領土として鬱陵島の付属島ということについては日本の記録に も残っている。すなわち1870年5月、日本外務省の佐田、森山、斉藤などが提 出した朝鮮にかんする調査報告書に「松島(独島)は竹島(鬱陵島)の隣島」 としたし、1878年12月、外務省記録局長・渡辺と公信局長・田辺などの意見な どにも「日本で松島とよぶ島は朝鮮の鬱陵島の属島」と指摘していた。この事 実は独島が法的であれ慣習上であれ鬱陵島の属島と見なされてきたことを物語 っている。   わが国の独島領有は時期により異なった形態をとっている。領有の第1の 時期は6世紀初、于山国(于山島と鬱陵島)を征伐し服属させ朝貢関係を維持 したうえ、政治、経済、文化的に民族的同一性を強化してきた時期であり、第 2の時期は12世紀高麗中葉(仁宗ー毅宗)以後、政府にて官吏を島に派遣し、 直接統治経営した時期である。   このころ、于山国は高麗の蔚珍縣所属に改編され、本土住民が移住し島を きっちり開拓していった。第3の時期は15世紀初、朝鮮政府が消極的な「空島 (島をカラにすること)政策を実施し、倭人たちの侵犯が頻繁だった時期であ り、第4の時期は独島を鬱島郡付属島に編入した後、日帝が朝鮮を強占するま でである。独島はわが国が日帝の植民地統治から抜けでて本土とともに再び朝 鮮領有になった。   6世紀初、鬱陵島には朝鮮系統移住民が立てた于山国という小国があった。 于山国は鬱陵島を基本領域にし、独島まで併せて支配していた。『増補文献備 考』で「“輿地志”がいうには鬱陵、于山はみな于山国の地であり、于山は倭 人たちがいう松島(すなわち独島ー引用者)である」とし、于山国の統治地域 が今日の鬱陵島と独島を包括していたことを明白に明らかにしている。   この于山国は中世、わが国において三国のひとつであった新羅により 512 年(智證王13)に統合された。『三国史記』によれば、何瑟羅州の軍主であっ た異斯夫が于山国の人々は愚直で力だけでは屈服させられないとし、策を用い て平和的な方法で服属させたという。新羅に帰属した于山国はそののち代々新 羅に土産物を贈り、新羅との服属関係を維持した。   高麗期、独島は鬱陵島とともに相変わらず我が領土であった。高麗王朝に たいする于山国の朝貢は新羅についで継続され、二島は蔚珍縣の所属として本 土と緊密な連携をもっていた。   高麗太祖のとき、島の人々が供物をもってきたのにたいし、かれらに役職 と爵位を与え、1018年、東北女真人の侵害のため陸地に避難してきた人々をふ たたび島に送り返し、島を空にしないようにした。   しかし、女真人の略奪が継続し、陸地に渡って来る人々が増えるや、1022 年、かれらを禮州(盈徳)に定着させ、食糧と生活基盤を保障する一方、永遠 に本土の郡県民に編入するようにした(『高麗史』巻1,太祖13年7月丙子;巻 4,顕宗9年11月丙寅;10年7月己卯;13年7月丙子;巻58,蔚珍縣、『増補文 献備考』巻31)。   これは于山国民が同族であったということを物語っており、于山国が高麗 の主権下にあったということを意味する。その後にも高麗政府は鬱陵島(独島 も含めて)にたいする主権行使を継続した。   1141年、溟州道 監倉使 李陽實を鬱陵島に派遣し珍貴な土産物をもって来 るようにしたし、1157年にも鬱陵島に派遣し珍貴な土産物をもたらすようにし たし、1157年には鬱陵島を積極的に開拓しようとする意図で溟州 監倉 金柔立 を派遣し、鬱陵島を調査し「ふたたび県に編入」しようとした。   当時、廃墟となった村落に石仏、石塔、鉄鐘などが残っている事実は本土 文化が島に深く浸透、普及したことを物語っている。崔忠献 執権時期(12世 紀末ー13世紀初)には陸地人民を移住させる措置をとったが、荒い風浪に船が しょっちゅう転覆し、多くの人名被害をだすや中断された。   このような事実は 12世紀中ごろ于山国が凋落し、高麗王朝が鬱陵島一帯 を直接統治するようになったことを物語っている(『高麗史』巻17,仁宗17年 7月己亥;巻18,毅宗11年5月丙子;『増補文献備考』巻31)。   その後、1273年に大将軍 姜渭輔を鬱陵島 斫木使に任命し、材木資源を探 査するようにしたという記録が伝えられるのは、高麗末にも鬱陵島が独島とと もにわが人民により継続開拓、利用されたことを物語っている。   朝鮮時代になっても鬱陵島、独島は依然として江原道 蔚珍縣に所属し、 朝鮮の不可分の領土であった。単に封建政府の領有政策に多少変化があったの みで、それはすなわち島をカラにする「空島政策」であった。朝鮮政府が「空 島政策」を追求するようになった主な原因は、高麗中葉以後、悪辣な所業を敢 行した倭寇の侵入と、封建国家の賦役・租税負担を避けて島に移住する住民が 多くなった事情に関連している。   朝鮮政府は、本土に侵入した倭寇にたいし強硬な掃討戦をくりひろげると 同時に、鬱陵島については官吏を送り、島の住民を召還する消極的な政策を実 施した。政府は 1416年に前萬戸 金麟雨を「武陵等處(鬱陵島、独島ー引用 者)按撫使」に派遣して「流浪民」たちを連れてくるようにした。   その後、封建政府の官吏の中には島の住民を召還せずに食糧と農機具を保 障して定着させようという意見も提起されたが、結局は島をカラにすることで 落着してしまった(『太祖実録』巻33,17年2月乙丑)。  「空島政策」は世宗の時代にも継続して実施され、1425年と1438年の二度に わたり86名の男女住民が陸地に送還された(『世宗実録』巻30,7年戊戌)。 こうして鬱陵島には次第に人が常住しなくなった。しかし、封建政府は「武陵 等處」に対する主権行使を継続した。   政府は何年か一度、捜討官(調査官)を派遣して鬱陵島と独島を巡察して 島の状態を調査し、捜討官たちは土産物を王に献上した。15世紀以後、実施 された封建国家の「空島政策」は、当時の環境において倭寇の侵略と略奪から 領海にある島の住民を管理するための消極的な防御策ではあるが、けっして領 有権の放棄ではなかったのである。「空島政策」の実施、それ自体がすなわち 領有権行使の具体的な表現であった。   しかし、封建政府のこのような消極的な領有政策は、倭人たちに鬱陵島と 独島へ足を踏み入れるスキを与え、「奪還」ごっこをくり広げる草刈り場にし てしまった。倭人たちは島がカラになっているスキをついて鬱陵島に侵入し、 日本の島であるかのような主張をするまでになった。   当時、かれらは勝手に鬱陵島を竹島、独島を松島と名前をつけ、1615年に は狡猾にも礒竹島(鬱陵島)を探測するとして2隻の船を送ってきた。   これにたいし朝鮮政府では東莱府使・朴慶業を派遣し、日本がいう「いわ ゆる礒竹島とは、実はわが国の鬱陵島のことである。これは地理志において明 確にされており、鬱陵島が新羅、高麗以来わが国の領域であることを知らない はずはないのに、あえて他人の土地に欲を出し居座ろうとするとは何とよこし まな魂胆か」と糾弾した。   そうして「空島政策」がけっして「他人(外国人)が勝手に入って住むこ とを許したものではない」ことを宣言して、日本が「わが国と往来する道はた だ一つ」対馬ー釜山の門戸だけであり、そのほかの道を行き来するのは「一切、 海賊船として取り扱う」ことを厳重に警告したので、倭人たちに鬱陵島に対す る我々の領有権を確認させたことになる(『増補文献備考』巻31,輿地考19)。   このとき、独島問題は直接登場しなかったが、鬱陵島の付属島という条件 で自然にいっしょに妥結したものとみることができる。それは、その後17世 紀末に鬱陵島と独島を守って闘った東莱漁民・安龍福の闘争資料をつうじてよ く知ることができる。   1693年(粛宗19)伯耆藩主との一次談判をとおして鬱陵島が朝鮮の島であ るということを認めさせ「関白」(江戸幕府の将軍ー引用者)の書契まで受け とった安龍福はその後、鬱陵島、独島問題が順調に進展しないとわかるや義憤 を禁じえず、1696年(粛宗22)再び鬱陵島に出かけた。   このとき、かれは非法に鬱陵島へ侵入した倭人たちが松島に住むという話 を聞いて「松島はすなわち于山島であり、于山島もやはり我々の地」として、 かれらを鬱陵島と独島からすべて追い出した後、隠岐島を経由して伯耆藩に行 き、伯耆藩主と二度目の談判をした。   安龍福はこのとき自身を「鬱陵・于山両島監税将」と称し、以前に鬱陵島、 独島がわが領土であることを日本が認定して「関白」の書契までだしたことを 想起させ、日本の侵犯行為が根絶されないことに対し厳重に抗議した。   この厳然たる歴史的事実を認定せざるをえなかった伯耆藩主は、二島にた いする朝鮮の領有権をふたたび認定し、鬱陵島と独島を侵犯した倭人15名を 捕らえて処罰する措置もとった(『粛宗実録』巻30,22年9月戊寅)。   竹島(鬱陵島)を日本の領土にしようとする倭人たちの策動に対して朝鮮 政府は領議政 南九萬などの主張にしたがって強硬な外交攻勢に出た。1693年、 安龍福が送還された後に開始された外交攻勢は主に対馬島主を対象に展開され たが、1696年1月、江戸幕府に「竹島とその外の一島(松島)」が朝鮮領土で あることを公式確認させ、同時に二島に対する倭人たちの侵犯を厳禁措置をと らせた。   1697年4月、朝鮮政府は領議政 ユ サンウンの提議にしたがい巡視制度を 再確定し、三年に一度ずつ二島に対する巡視を強化し、倭人たちの侵犯をきび しく取り締まり、主権行使を中断しなかった。   そうであるから、明治維新後に日本政府は独島の朝鮮領有を継続して認定 せざるをえなかった。1878年8月、日本政府の官吏は、長崎県の下村と千葉県 の斉藤が政府に「松島開拓願」を提起したとき、独島が朝鮮の領土という理由 でその請願を棄却した事実がそれを物語っている。   これに対し、外務省の公信局長 田辺は次のように書いた。「松島はわが 国の人々が命名した島名であり、実は朝鮮鬱陵島に属する于山島である。鬱陵 島が朝鮮に属するは、旧政府の時代に葛藤を生じ、文書往復の末、永久に我々 は所有しないことを約定した。   これは両国の歴史に書かれている。今や理由なしに人を派遣し巡視するこ とは、他人の宝を欲張ることと同じである。ともすれば隣接国境を侵犯するに 等しい」(『松島之議』)。   このように朝鮮政府は「空島政策」を実施した時期にも鬱陵島、独島に対 する領有権を相変わらず行使したのであり、独島は依然として于山島と呼ばれ、 鬱陵島とともにわが領域に属していた。これは「空島政策」がけっして二島に 対する主権放棄ではなく、独島は無人島であっても、けっして主人のない「無 主地」でなかったことを物語っている。   朝鮮政府が鬱陵島と独島に対する450余年間の消極的な「空島政策」を放 棄して積極的な開拓政策を実施したのは 1880年代初からであった。「安龍福 事件」後、一時静かだった倭人たちは、明治維新以後に高唱された「征韓論」 に便乗して、ふたたび鬱陵島をねらうようになった。そうした中、1881年5月、 7名の倭人が鬱陵島に侵入し盗伐行為を行ったが、定期的に鬱陵島を巡視した 朝鮮政府の捜討官により発覚するという事件が発生した。   これに対し、朝鮮政府はすぐさま日本政府に抗議文を送る一方、現地調査 のため副護軍 李奎遠を鬱陵島検察使とする102名の現地調査団を1882年4月、 鬱陵島に出発させた。李奎遠の調査報告書によれば、当時、鬱陵島には140名 の朝鮮人以外に非合法で78名の日本人がきていたが、かれらは「日本国の松 島」という標木まで立てていたという(『Il seong 録』高宗19年5月22日 ;『日本外交文書』第14巻、『鬱陵島検察日記』)。これは両政府間の協約 に対する破廉恥な背反であり、乱暴な挑発であった。   事態の深刻さをさとった朝鮮政府は、1882年6月、日本政府にふたたび抗 議する一方、鬱陵島開拓のため積極的な対策を立てた。その主要内容をみると、 本土の人民たちを島に移住させ農耕地を開拓し、鬱陵島行政官として島長を任 命、派遣するというものであった(『承政院改修日記』、光緒8年(1882)8月 20日)。   その後 1883年3月、開化派の中心人物である金玉均を東南諸島開拓使 兼 捕鯨使に任命することにより朝鮮政府は鬱陵島開拓事業に一層拍車をかけるよ うになり、当時不法滞留していた 254名の日本人たちを皆撤収させた。   政府の積極的な鬱陵島開拓政策により、従来の島民に対する強制刷還政策 「空島政策」は逆転し、本土陸地住民を島に移住させる事業が本格的になされ、 島を開墾し島の資源を開発するために事業も公式的に推進された。   朝鮮政府の内部官吏、禹用鼎の報告によれば、1900年に鬱陵島住民は400 余戸1700名と大幅に増え、耕作地は7700マジギ(斗落)に拡張され、小麦、大 麦と豆、ジャガイモなどを栽培し(『新東亜』2000年5月号、「独島」)、鬱 陵島の自慢である優良木材も大々的に採伐された。   鬱陵島が積極的に開拓され、その付属島である独島に対する管理と利用、 領有権もさらに強固になった。鬱陵島住民は漁労期になれば、自然に独島に押 し寄せアザラシを始め、 その外の珍貴な魚を捕らえた。   1904年11月、日本軍艦 対馬号が独島を測量して提出した報告書で「毎年 夏になると鬱陵島から多くの人たちがこの島に渡って来て、島の上に小さな小 屋を建て、付近で漁業に従事する」としたのは、独島が近代に入り確実に鬱陵 島の付属島としてわが人民により効果的に利用されていたことを実証してくれ る。   このように独島を最初に発見して経営したのも朝鮮人であり、その島を朝 鮮の行政区域内に編入し内外に最初に公布した国も朝鮮であった。  『三国史記』と『高麗史』、『朝鮮王朝実録』など国家的な正史に厳然と于 山国以来、于山島、三峰島(1476年)、可支島(1794年)、独島(1881年以後)な どと記録され、公式にたえず経営されてきており『輿地志』と『世宗実録地理 志』、『新増東国輿地勝覧』、『増補文献備考』など歴代地理書と歴史文献な どに于山島(独島)が鬱陵島とともにいつも江原道蔚珍縣の島の条項とならん で明記された事実は、独島が新羅以来朝鮮領土であったし、高麗時代からは蔚 珍縣に編入されてきた朝鮮領土であったことを物語っている。   とくに、この文献などが個人の著述でなく国家による官撰ということを念 頭におくとき、またそれら文献が日本と中国にも伝来され、その国の対朝鮮外 交事業の重要な基礎文献として利用されたという事実、そして重要なことに、 当時は近代的な国際法が顔を出さず、またそれが制定された後でもまだ広く知 られていなかったという条件下て、うえの文献記録は明白に対外的な国家の公 式文献としての性格を帯び、国家意志の表示となるのである。   そうであるから国際法でいう領土権認定の基本要件がすでに古くから当時 の歴史的条件にあうように整えられたことを物語っている。   しかし、朝鮮政府は1900年になって当時知られていた国際法体制の要求に あうよう独島領有権を再確認するため、10月25日、勅令第41号を公布し、独 島に対する領有権を再三にわたり明白に宣布した。その主要条項は次のとおり である。 勅令第41号 鬱陵島を鬱島に改称して島監を郡守に改訂する件  第1条 鬱陵島を鬱島と改称して江原道に付属し、島監を郡守に改訂し、官 制中に編入して郡等(級)は5等とする。  第2条 郡庁・・・区域は鬱陵島全島と竹島(竹嶼ー引用者)、石島(独 島ー引用者)を管轄する・・・  第6条 本令は発布日から施行する。  光武4年10月25日   この勅令は政府新聞である『官報』第1716号、光武4年(1900)10月27日付 で世界に正式公布された。こうして新羅以来、一貫して朝鮮の領域であった独 島はふたたび全世界に自己の所属を明白に宣言するようになったし、近代国際 法の要求に合うように朝鮮の領土であることが再確認された。 2.独島に対する日本の侵犯、強奪策動   独島は新羅の時から朝鮮領土の一部とみなされ、朝鮮歴代王朝により合法 的に経営されてきたが、日本はそれを奪い、自国の領土にしようと執拗に策動 した。独島に対する日本の侵奪策動は、高麗後期の倭寇による鬱陵島侵略から 始まった。   1379年、倭寇が鬱陵島を侵犯し15日間も滞留し、島民を殺戮したり財物 を略奪したが、壬辰倭乱のときもそこに侵入し、島を廃墟にした。このとき、 もちろん鬱陵島に隣接した独島が倭寇の蹂躙からまぬがれなかったことは明白 である。しかし、まだ領土的野心は表面化せず、ただ鬱陵島と独島の島および 海の資源の略奪を基本にした侵略であった。   領土を奪おうとする策動は、17世紀(光海君~粛宗年間)から表面化し たが、この時期の侵奪策動の特徴は鬱陵島と独島の朝鮮領有を認定したうえで 経営の看板を出し、将来の有利な機会に鬱陵島と独島を完全に奪うための基盤 づくりをねらっていたことにある。   鬱陵島を侵奪しようとする策動は、1615年、対馬島主が礒竹島(鬱陵島) の日本領有を主張したことで表面化する。これに対し東莱府使 尹守謙(その 後は朴慶業)は日本人のいう「礒竹島」とは朝鮮の鬱陵島であり、したがって その島に出入りする倭人を海賊として取り締まると警告した。   こうした状況で、日本は日本人が鬱陵島と独島に出入りすることを「越境 罪」で取り締まるふりをしたが、実際は朝鮮政府の「空島政策」を悪用し、朝 鮮巡視官に発覚しないかぎりこれを黙認し、背後で慫慂する両面政策を実施し た。日本の伯耆藩 大谷・村川両家が江戸幕府から「渡海免許状」を得て、日 本漁夫を鬱陵島、独島水域に送ったのはその実例である。  「渡海免許状」とは禁止区域の海に行けるという許可証であり、他国の地に 出入りできるという許可証ではなく、それを発給したこと自体が鬱陵島水域へ の出入りが公式に禁止されていた証拠である。   1618年、伯耆藩の大谷・村川は幕府の承認のもとに隠州すなわち因幡藩か ら竹島渡海免許を得て、その後70年間、年毎に鬱陵島近海に来て漁労作業を した。   倭人のこのような不法行為は1692年、朝鮮漁夫に発覚し、阻止された。翌 年、安龍福、朴於屯をはじめとする東莱、蔚山漁民40余名の集団抗議で侵入 者たちは完全に追い出された。しかし、この事件を契機に日本は鬱陵島、独島 を奪おうとする領土的野望を露骨にさらけだした。   対馬島主 宗義信は、逃げる倭船を追って日本の隠岐島と伯耆藩にまで行 き鬱陵島と独島の朝鮮領有を認定した従前の約束を守ることを要求して闘った 安龍福と朴於屯を拘留・押送し、「貴国の漁民が本国(日本)の竹島(鬱陵 島)へ船に乗って」来たために、2名を逮捕し送還するという文を礼曹に伝え (『増補文献備考』巻31,輿地考19)、同時に竹島(鬱陵島)領有に関する交 渉を進めることを提起した。   1694年には橘を送り、朝鮮人が「日本の竹島(鬱陵島)」に勝手に来て魚 取りをしたが、入れないようにしてほしいと懇請した。これは倭人が鬱陵島を 竹島とよび、それを奪う奸計をたくらんでいることを示している。   これに対し小心な官吏たちは、第2の壬辰倭乱が起こるまいかと慎重に処 理することを提起したが、領中枢府使 南九萬は粛宗に島をカラにしたとて 「なぜ先代の王の時代から受け継いだ彊土を他国に与えられましょうか」とし て、倭奴の奸計に断固として対処するよう提起した。当時、史官はこの事件に 対し次のように明察な評価をした。   倭人のいう竹島はまさにわが国の鬱陵島であり、鬱陵という名称は新羅と 高麗の歴史書と中国人の文集にもみえるが、その由来は非常に古い。その島で 竹が多く産出するので竹島という名もあるが、実は一島に対するふたつの名で ある。   倭人が鬱陵島という名を隠し、ただ竹島で魚取りをするという口実をもう けたのは、わが国からそれを許可するとの回答を引きだし、それを証拠に島を 所持しようという企みを実現しようとするものであった(『粛宗実録』巻26, 20年2月癸酉)。   倭人たちの鬱陵島侵略策動は、その後、対馬島主が亡くなり、新しい島主 が江戸に行き、関白(将軍)に「竹島は朝鮮に近いのでお互い争ってはならな い」と勧告した後に一悶着あったが、結局は朝鮮政府の頑強な態度により、 1696年1月、江戸政府が「竹島とその外の一島(独島)」が朝鮮領であること を認定し、日本人の鬱陵島水域出入りを禁止する命令をだすようになり、1698 年には鬱陵島と竹島が「一島二名(ひとつの島にふたつの名)」であることを 認定し、1699年には文書交換が完了して一旦終りになった。   その後、双方はこの島に出入りする倭人を侵犯罪(越境罪)で取り締まる ことを約束したが、「空島政策」の余波をついて個別的な倭人たちの不法な出 入りや、その水域への漁労は継続された。倭人たちは巡視制度の間隙を利用し、 群をなして押し寄せ、追い出されても追い出されても再三押し寄せたりした。   19世紀後半に「征韓論」が台頭し、明治政府の海外侵略が政策化するや独 島に対する侵奪策動は次第に露骨になり、大規模に敢行され、朝鮮政府が1882 年、積極的な独島開拓政策に移行した後も日本人の違法行動はやまなかった。   1900年、禹用鼎が鬱陵島を巡察したとき、144名の日本人が11隻の船を 停泊させ、鬱陵島に潜入して非法な資源略奪をこととしていた。かれらは撤収 を要求する鬱陵島住民の要求に従順に応じるどころか刀を振り回して反抗し、 こちらの正当な要求に対し自分たちは島監の黙認下に商業貿易をしていたと抗 弁した。   露日戦争時、日帝は非法にも独島に海軍望楼(監視塔)を設置し、北部朝 鮮ー鬱陵島ー独島ー日本本島にいたる海底電線を敷設し、日本の東郷艦隊は独 島に依拠し、付近の海洋でロシア遠征艦隊を撃破した。   この事実を当時の朝鮮政府はまったく知らなかったが、日本政府もこの露 骨な背信行為をまだ隠していた。この時期も日本は独島に対する侵略行為を継 続した。それは中井養三郎の有名な「独島貸下願」の事実が物語っている。   島根県の漁業企業家である中井は独島水域でアシカ捕獲独占権をえるため に、1904年9月農商務省に「りゃんこ島(独島)貸下願」を提出したが、かれ はここで独島を10年の期限で借用し、アシカ猟の独占権をもてるように旧韓 国政府と交渉するよう提起した。   農商務省と外務省、内務省の官吏はそれが朝鮮領であると知っていただけ でなく、その島の借用可能性に対し疑問をもち相手にしなかったが、唯一海軍 省だけがそれに興味をもち政府に提出したという。   独島が厳然たる朝鮮の領土であり鬱陵島の付属であるという状況で、この 問題はただ朝鮮政府との協商によってのみ解決されるのであった。中井自身も そのように考えていた。   このような事実に対し、1923年7月島根県教育会で発行した『島根県誌』 には「・・・中井はこの島(独島)を朝鮮領土と考え、上京し農商務省へ説明 して同政府(朝鮮政府)に貸下願いを出そうとした」と書かれてあり、1933年 2月に刊行された『隠岐島誌』にも「中井はリャンコ島(独島)を朝鮮領土と 信じ、同政府(朝鮮政府)に貸下願を出すことを決心した」と明らかにされた (しかるに、かつて日本はこれに対し「編者の誤解」などと見苦しい弁明をし た)。   中井自身も後に「独島は鬱陵島に属した韓国の領土と考えた」と明らかに し、まさにそのために「上京して農商務省をとおして韓国政府に貸下願」を出 そうとしたと証言した(1910年に書かれた中井の「履歴書」、1906年に出版し た『歴史地理』8巻6号)。日本政府もやはりそのような事実を明らかに知っ ていたため、中井の提議が複雑な問題を引き起こすと判断して1カ月を過ぎて も交渉に応じなかった。   まさにこうした時、この問題に海軍省を中心にして関心をもつようになっ たのは、当時、日本の軍事侵略の対象になっていた朝鮮でこの機会にうまくす れば独島を強占し海外侵略基地にできるし、またそうした可能性もあると計算 したためであった。   というのも、中井が独島でアシカ猟をした事実がそのまま独島に対する日 本の領有権を主張する重要な根拠になりうるし、独島が朝鮮領とはいえ人が常 住しない無人島であるうえに、17世紀以後に日本人が「松島」と呼んだ資料 が残っている事実、そしていかなる帝国主義列強も独島に対する領有権を主張 しないばかりか、もっと重要なことに島の領有国である朝鮮が日帝植民地に転 落していた当時の環境で抗議を提起できないだろうというのがその理由であっ た。   海軍のこうしたあざとい打算により、あれほど冷遇された中井の独島貸下 願は積極的な支持と庇護を受けるようになり、結局は中井の貸下願が1904年9 月29日「りゃんこ島(独島)領土編入並ニ貸下願」という表題をつけられ、 内務、外務、農商務の3省大臣に提出された。   つまり中井の本来の目的である朝鮮政府に対する独島貸下の交渉が日本政 府による領土編入問題に転換、拡大したのである。日本の内閣はこのころ朝鮮 政府に武力で「保護条約」(1905年11月に捏造した乙巳5条約)を強要する計 画をくり返し討議していた時だったので、この機会に独島を強占することも上 策と考えるようになったのであり、これから1905年1月28日に閣議でついに独 島の島根県編入を独断的に決定する横暴を強行するようになった。この閣議の 決定とは次のとおりである。  「この無人島は他国がこれを占領したと認められる形跡がない」。しかるに 隠岐島司の所管にするのは「差しつかえないと判断」し、中井の「請議のとお り閣議決定が成立したと認める」   まったくこれは傍若無人な独断であり、独善的なサムライ式行為であった。 独島を朝鮮が歴代にわたり領有していたという「形跡」は日本にも多くあった し、ちょうどこの閣議決定に先立つ1900年10月、すでに大韓帝国は勅令第41号 で独島の朝鮮領有を再確認し『官報』で世界各国に知らせたのである。   それにもかかわらず、日本が「他国が占有したと認められる形跡がない」 として「差しつかえないと判断」して「決定が成立したと認める」としたこと は実に言語道断である。   この強盗的閣議決定にしたがい、島根県庁は2月22日付で「島根県告示」 第40号なるものを造作し「北緯37度30分、東経131度55分、隠岐島から西北85 マイルにある島嶼を竹島と称し、今日から本県所属隠岐島司の所管に定める」 と公布した。   実に「島根県告示」なるものは、何人かの謀略輩が陰で作りだした完全な 捏造品である。それにもかかわらず日帝は、一朝にして千数百年間にわたり朝 鮮が領有経営してきた独島を「日本領土」と規定し、それが国際法に規定され た「無主地先占」手続きや要求に合致すると言い張った。   こうした独島強奪は完全に謀略かつ陰謀であり、徹頭徹尾 不法無道な強 盗行為であった。300余年前に領議政 南九萬が糾弾した「狡猾な倭人の心根」 はこの時も変わりなかった。独島は日本閣議の決定や「島根県告示」により日 本領土に編入されたのではなく、実際は日帝の朝鮮強占により朝鮮半島および それに付属した他の島とともに日帝に併呑されたのであり、したがって日帝の 敗亡とともにカイロ、ポツダムなど国際協定と連合国最高司令部指令第677号 により本来の主人に帰属した。これで独島を侵奪しようとした日本帝国主義者 たちの策動は完全敗北に終わった。 北朝鮮歴史学会の竹島=独島に関する見解(2)へつづく



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