半月城通信
No. 66

[ 半月城通信・総目次 ]


  1. 櫻井よしこ氏と地方「参政権」
  2. 「半月城通信」への転載
  3. 会議室"FNETD"の看板
  4. 孫正義と帰化
  5. 「半チョッパリ」
  6. 差別の合理化と詭弁、規約人権委員会
  7. 竹島(独島)と国際司法裁判所
  8. 竹島(独島)と「北方領土」
  9. 竹島(独島)と朝鮮側の認識
  10. 竹島(独島)は鬱陵島から見えるか
  11. 白村江の戦い以後の東アジア


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/11/21 - 08573/08573 PFG00017 半月城 櫻井よしこ氏と地方「参政権」 ( 8) 99/11/21 21:44 08474へのコメント   不如省事さん、こんばんは。かんさん、お帰りなさい。   不如省事さんがふれた櫻井よしこ氏の『週刊新潮』(11/18)記事を読みま したが、タイトルが何と大仰なことでしょうか。<「永住外国人の地方参政 権」は亡国の第一歩である>と大書していました。   人口比率で0.5%くらいの永住外国人に地方「参政権」を与えることが 亡国につながるという見出しは、櫻井氏や週刊誌の売らんかな商法を割り引い たとしても、ずいぶんと永住外国人の力量や影響力を過大評価したものです。   永住外国人は、約9割を韓国・朝鮮人が占めるので、櫻井さんは在日韓 国・朝鮮人に何やら過剰な警戒心をいだいているようです。   同氏は「参政権問題は、即、在日韓国、朝鮮人問題である。参政権付与に 賛成の政治家たちは、彼らの日本での状況をどれだけ認識しているのか」と指 摘していますが、私からすれば櫻井さんこそどれだけ認識しているのか疑問で す。   在日韓国・朝鮮人の近況といえば、毎年1万人近く帰化する人が続出して いるうえに、日本人との結婚が8割を超え、しかも国籍の父母両系主義の影響 で子どもはほとんど日本人になり、永住韓国・朝鮮人の数は減少傾向にありま す。   そのトレンドに少子化の波がかぶさり、民族学校も少しずつ閉鎖されるな ど、民族的な力量は徐々に失われつつあるというのがおおかたの見方で、櫻井 さんの警戒心にほど遠く、同氏の認識不足といわざるを得ません。   認識不足といえば、地方「参政権」の把握もそうではないかと思います。 たしかに「参政権は国民の権利です」という言い分は正しいのですが、日本の 地方「参政権」は、およそ国民主権に影響するようなしろものでないことには 意図的に目をつぶっているようです。あるいは気がついていないのかもしれま せん。   日本型の地方「参政権」の限界は、かんさんが書かれた日米比較であます ところなく明確になっているのではないかと思います。   かんさん、RE:8066 >               アメリカと日本の地方自治の違いは、財源等々にお >ける三割自治云々ではなく、アメリカの州が究極的には連邦を離脱する権利を有する >「国家」であるのに、対し、日本の都道府県はその権利を有さない、単に中央政府か >ら存在を認められた「地方自治体」に過ぎない、ということです。 >・・・ >    日本のようなシステムにおいては、「主権者たる国民」の委託を受けた国会 >により、地方自治の範囲が決定されることになってますので、ある意味、地方参政権 >はもとより、地方自治そのものの内容が、主権者により自由に確定できる、というこ >とも忘れてはなりません。言い換えるなら、日本国民、であっても、地方参政権は制 >限される可能性が原理的にはある(究極的には地方自治そのものがなくなる可能性さ >えある(^^;))訳で、連邦制の場合と比べるなら、所詮それは「地方自治体」に割り >当てられた権利と義務、そしてより現実的には、それに割り当てられた、先の巨大な >財源の配分決定に預かる権利、くらいに考えた方が良いかも知れません。   おっしゃるとおりです。日本において地方自治体の権限は割り当てられた、 制約だらけのものであり、およそ国家主権に直結するような権限など存在しな いのではないかと思います。   櫻井さんは地方政治が国政と密接につながっている例として「基地問題に みられるように、しばしば国政レベルの力学を圧倒する」と記しました。   しかし、とかく住民とトラブルになっている過密な米軍基地を返上しよう とした沖縄県政に、かりに永住外国人が関わったとしても、即、これが国民主 権の原則にふれるものではないと思います。県レベルの施策は、国レベルの政 策と明らかに次元が違いすぎます。   こうした現状には目もくれず、単純に地方「参政権」という字面の参政権 のみ強調して、それがあたかも国民主権に直結しているという思いこみは幻想 に過ぎないといえます。   このような日本型の地方「参政権」を私は参政権とよばず、地方自治選挙 権とよんでアメリカ型の地方参政権と区別していることは、前に記したとおり です。   このように櫻井さんは、出発点になる基本認識が適当でないので、後の議 論展開は、かけ違いのボタンを糊塗するため、つじつま合わせの材料さがしに 汲々としているようにみえます。   たとえば、在日朝鮮人の日本国籍剥奪の経緯がその一例です。これについ て櫻井さんは、荒木氏(現代コリア研究所)を引用する形で「占領されていて 主権も回復していない日本国政府が、彼らに一方的に国籍の選択を迫り、国籍 を取りあげたというのはあり得ないことです」と書き、日本政府の「正当性」 の言い訳に終始し、荒木氏の主張が正しいかどうかなど一顧だにしないようで す。   これに対する反論を書き始めると長くなるので、ここでは簡単に田中氏の 主張を次に紹介するにとどめます(注1)。        --------------------   「在日朝鮮人の国籍問題は、第一次大戦後のベルサイユ条約にある国籍選 択方式を念頭に置きながら、やがては日本国籍の一斉喪失へ、そして、それ以 降の日本国籍取得は『帰化』によって対処する、その際も、『日本国民であっ た者』とも『日本国籍を失った者』とも扱わないことによって完結した。   それは、かって帝国臣民たることを強制した者を、一般外国人と全く同じ 条件で帰化審査に付すことを意味し、みごとに『歴史の抹消』がなされたと言 えよう。   そもそも、帰化というのは、日本国家がまったく自己の好みによって相手 を自由に『選択』できる制度なのである。前にみた西ドイツにおける国籍選択 は、オーストリア人の選択に西ドイツが従う制度であり、日本とはまるで正反 対である。   かくして、いったん『外国人』にしてしまえば、後は日本国民でないこと を理由に国外追放も可能なら、さまざまな『排除』や『差別』も、ことごとく 国籍を持ち出すことによって『正当化』され、それが基本的には今日も続いて いるのである」        --------------------   櫻井氏は国籍問題に限らず、南京事件や「従軍慰安婦」問題でもそうでし たが、日本帝国の侵略や植民地支配が招来した過去は何とか免罪してしまおう とする姿勢に立っているようです(注2)。   たとえば同誌でふれている朝鮮人強制連行ですが、徴兵や・徴用による在 日韓国・朝鮮人の割合は13.3%以下と少ないので、「日本による強制連行 を強調して参政権を与えよというロジックも歴史事実を検証すれば通用しない のだ」と言い放ち、強制連行の割合さえ少なければ何も問題ないのだといわん ばかりのロジックです。   これらの問題について、私はこれまでかなり書いてきましたので、ここで はふれないことにします。   今回、櫻井さんの記事を読んで意外だったのは、永住外国人の肯定的な側 面を評価しようとする姿勢がまったくみられなかったことです。ジャーナリス ト出身者にしてはすこし視野が狭いようです。   今や日本の国際化は、目に見えないところで着実に進みました。たとえば、 櫻井さんが長年活躍した日本テレビなども、外国資本が実質的に法律上限の2 0%を超えたほどです。TBSやフジテレビも同様です。ただ、外資が入った といっても多くは利殖目的のようで、経営権に影響するものではないかもしれ ませんが、国際関係の渦中におかれていることだけは確かです。   外国資本といえば、日本の代表的な企業と考えられているソニーなども外 資が45%を占めるまでになりました。そのため、ソニーの名ではBSデジタ ルデーター放送に参入できなくなってしまい「日本企業」の名にかげりがでて きました(注3)。ましてや外国では、日本企業という認識はかなり薄くなっ ているかもしれません。   このように経済界を中心に日本の国際化はすすみ、グローバルな視点なし には将来を見通すことが困難な時代になりました。地方自治体もしかりです。 かって、オリンピック誘致運動に取り組んでいた大阪市は、国際化をめざし外 国人にも地方公務員の門戸を大きくひらくなど劇的な転換をなしとげました。 こうした動きや、永住外国人の果たす積極的な役割に櫻井さんは鈍感なようで す。   いってみれば、同氏の国際感覚は70年代以前にとどまったままで、一向 に進歩していないようにみえます。 (注1)田中宏『在日外国人』岩波新書,1991 (注2)半月城通信<「従軍慰安婦」83,櫻井よしこさんのこと> (注3)「空洞化する民放外資規制」日経産業新聞,1999.11.19  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 08773/08773 PFG00017 半月城 半月城通信への転載 ( 8) 99/12/04 20:10 08690へのコメント   ○○さん、RE:8690 >ご存知でしょうが、「半月城さんと実名でレスを交わすな」という警告メールが出 >まわっております。 >このメールの中では、事実かどうかは存じませんが、半月城通信に実名カキコを転 >載された人が、何者かに襲われ負傷した事件がつづられています。 >事実でないなら、悪質な中傷でしょうが、相手の了解を得ずに転載する半月城さん >の姿勢にも、責任の一端はあると思います。   そのようなメールが出回っているとは知りませんでした。しかも、まこと しとやかに暴力事件の尾ヒレまでつけているとは心外です。これは中傷の一言 につきますが、無視するわけにもいかないので、ともかくも半月城通信とは無 関係であることを明言しておきます。   ちなみに、その暴力事件とはおそらく下記書き込みに書かれた「左翼」に よる襲撃(?)を指すものと思われます。   仮面忍者とびかげさん、RE:843 > また、月刊『正論』今年4月号で明らかになっていますが、左翼系ホームペー >ジ「オルタナティブ運動情報メーリング・リスト」を内側から批判した名大大学 >院生、中宮崇氏が、左翼の待ち伏せを受けてビールビンで頭部を殴られ負傷する >という事件も昨年には発生しています。吉川さんの認識を遥かに越えて、過激派 >にまで至らない「リベラル・サヨク」まで、現実には暴力による反対派へのテロ >を実行しています。   この被害者を名乗る中宮氏ですが、半月城通信では書き込みの転載どころ か「中宮」の名前すら出てきません。このことは念のためにホームページ付属 の検索エンジンで確認しました。   このようなデマを誰が流したのかしりませんが、罪作りな人もいるもので す。そのメールを半信半疑で受け取る人がいるかもしれないので、おっしゃる ように悪質な中傷といえます。このように事実無根のメールを配布するやり方 は、私との激論の結果による一種の「遠吠え」でしょうか。   RE:8690 >追伸: >フォーラム規約に則り、私の発言の他のメディア(例えば半月城通信)への転載 >は、お断りいたします。 >>(規約抜粋) >>o 当フォーラムは、超ネットワークであり、当事者の了解を得た場合に >> 【転載自由】としております。発言される方は、他ネットワークに転載 >> される可能性のあることをご承知おき下さい。また、転載される方は、 >> 「どこに・どのように」転載するかを当該発言へのコメントとして記載 >> 下さい。   時折、私の引用を問題にする人がいるようですが、私は無断転載をしてい るとは思っていません。上の規約にいう転載の定義がはっきりしないのですが、 まさか、相手の書き込みを一節でも引用すれば、規約にいう「転載」になると いうものではないと思います。   私は引用や転載を、ニフティ会議室 FSHISO の指針を基準に考えています。 そこにはこう書かれています。 > ●著作権について >  著作権については次の点に留意してください。 >  ○音楽データの転載・引用はできません。 >  ○新聞や雑誌などの他の出版物や他者のファイルからの引用に際しては、次 > の基準に配慮してください。 >    (1)著作物の引用が必要であること >   (2)自分の文章と引用の文章の「主」と「従」の関係が明確であること >   (3)引用元の著者、書名、発行所などが明示されていること >  ○書いた人の権利について >  FSHISOに著作物を公表した人はそれにより著作権を取得することになります。 > 著作者はFSHISOに書込むことによっていかなる権利の制限も受けません。著作 > 者は自分の原稿を自分の判断により、雑誌原稿として利用したり、書込みを他 > のネットに再掲載したりすることができます。(プログラム、データ、画像等 > も同様です)   この基準にてらして、これまでの私の引用はなんら問題ないと思っていま す。また、仮にこの文章を他に転載したとしても著作権上はもちろん、本「超 ネットワーク」のローカルルールにも反しないと思っています。  (本記事は下記のホームページおよび「歴史会議室」に転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/12/26 - 09149/09149 PFG00017 半月城 会議室"FNETD"の看板 ( 8) 99/12/26 17:40 09045へのコメント   arrowさん、はじめまして。   arrow さんはホームページなどへの転載問題に関して、私が自分の議論に 自信があるなら『半月城通信』に論争相手の全発言を載せるべきだとのお考え のようですが、片言の引用すら問題にされるような会議室ではとうてい不可能 です。   かってこの会議室で転載が自由だったころ、それに類したことをした人が いました。下落合95さんです。その後、かれは方針を180度かえたのか、 引用や転載に強硬に反対しているのは周知のとおりです。気まぐれなのか言行 不一致なのか、ともかく首尾一貫しない姿勢です。   arrow さんはあるいは転載解禁に賛成なのかもしれませんが、会議室外へ の引用に反対している人たちの言い分を突き詰めると、半月城通信では私の論 戦相手がほとんど論破されているようにみえるという点につきるようです。   そしてそれは、私が論戦相手の発言を引用する際に、相手の論点を十分反 映していないからと考えておられるようです。しかし、これは引用の性格を十 分考える必要があります。引用は最小限にするのがマナーなので、当然限界が あります。   また、たとえ相手の発言をそっくり転載しようとも、相手の真意を完全に 表現するのは困難です。そのいい例が、下落合95さんによる私の発言の転載 です。そこで私の真意はもちろん十分反映されていません。   しかし、私はそんなことで不平不満を言うつもりはありません。引用され た文が私の発言の一部であるかぎり、それに対しいかなる批判も甘んじて受け るつもりでいます。これは、私が何かのテーマに関して「書かない」というこ とで八つ当たり気味の非難をされるより数段ましです。   それにここは、今では有名無実になった感がありますが、表向き「超ネッ トワーク」という時代をリードするような看板を掲げていますので、ここでの 発言がいかように引用されようとも、私にはそれなりの覚悟ができています。   そうした覚悟も自信もない甘ちゃんは、ネットワークの影響力のみ思い知 らされ、あげくのはてにごまめの歯ぎしりをすることになるのではないかと思 います。   そうした甘ちゃんが多くなると、シスオペさんもそれに迎合してか、著作 権上なんら問題がない引用まで制限するなど、ネットワーク時代に逆行し、こ の会議室の看板である「超ネットワーク」の理念を曲げ、逆に閉鎖的な方向に 迷走してしまったようです。   その言い訳なのか、あいまいなマナーを持ちだしたようですが、しょせん 私の引用がマナーに反するわけでもなし、結局のところ、苦労して至難なマ ナーの指針を築いたところで甘ちゃんのクレームは解消されないと思います。   ここで念のために、誤解を避けるためシスオペさんに質問しますが、ここ の看板である「超ネットワーク」会議室の意味は、ネットワークを無視して超 然とする超人や、あべこべにネットワーク時代に適応できない時代遅れの人た ちのための会議室という意味でしょうか?   それとも、ここの会議室の発言がネットワークを超えて自由に飛びかい、 影響力を存分に発揮するような先端的な会議室を目指すという意味でしょう か?   もし後者だとしたら、それに適応できそうにないあなたの個人会議室から そろそろ「超ネットワーク」という羊頭狗肉の看板を降ろすときが来たのでは ないでしょうか。  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


文書名:[zainichi:12512]孫正義 Reply-To: Date: Sun, 7 Nov 1999 19:28:34 +0900   チョンさん、こんばんは。RE:12392 >     日本のベンチャー企業の旗手ソフトバンクの社長、孫正義は数少ない朝鮮 >名の「帰化」者ですが、「帰化」の話を持ち出すときあまり彼の話は取り上げられな >いですね。   つい先日、孫正義氏はナスダック・ジャパンを発表するなど、経済人とし て大胆に腕を振るっているようです。そのめざましい活躍ぶりを書いた石川好 の著書『孫正義が吹く』は韓国でも翻訳本がかなり売れているようです。   しかし、そのかれも一般に名前が知られるようになったのはここ数年のこ となので、孫が帰化者の例として本などで取りあげられる例はまだ少ないこと と思います。しかし皆無ではありません。ご存じかもしれませんが、放送大学 助教授の原尻氏が取りあげています(注1)。   それによると、彼は新しいタイプの帰化者として注目される存在ですので、 まずはそれを引用します。        -------------------- ソフトバンク孫正義と日本社会   孫正義は福岡県久留米市の進学校を中退して、アメリカに留学し、そこで 高校を卒業してから、大学も卒業した。周囲の人々はなぜ東京大学に進学しな かったのかいぶかしがったと言われている。   優等生だった孫ではあるが、彼は少年期にいじめも体験している。額に残 る傷は朝鮮人と言われて殴られた跡だという。   孫はアメリカ留学中に自らの人生設計を確立し、日本帰国前に数々の発明 でいくつもの特許を獲得した。   帰国後は、裸一貫でベンチャービジネスを始め、日本経済界の常識を次々 と塗りかえた。孫は経済の分野だけで突出したのではなく、その世界観も世間 の常識を超えていた。   孫は現在日本国籍であるが、孫によれば、近未来の地球は多国籍の時代に なるので、免許証を取るように国籍も変更できるし、国籍は便宜上のものにな るという。ただ、どのように名乗るかは個人の自由であるので、名前は朝鮮名 のまま孫にしたという。   この孫という氏については、よく知られたエピソードがある。孫が孫とい う苗字で帰化を申請したところ、それは日本人の人名にないという理由で蹴ら れた。そこで孫は、まず日本人の妻を、孫という氏に変更させた。これで、日 本人の氏に孫ができたことになる。再び帰化申請の手続きをした彼は、日本人 にも孫という氏があるので、孫という氏で帰化が認められたという。  ・・・   孫についての話にもどると、孫は、山村政明が自死するまで悩みあぐねた 民族と祖国の問題を単なる記号表記の次元でとらえ、自分自身の人生を生きる ことを決めた。   しかしながら、孫は単純な「とんでる中年」ではなかった。孫は、199 6年の毎日経済人賞の授賞式の時に、リヤカーで残飯を集めていた祖母に言及 し、涙で喉を詰まらせたといわれる。   朝鮮人としての屈辱や偏見それに差別は十分なめつくしたが、ここで自分 の人生を生きられなかったら、おそらく未来への遺産を残せないと判断したの であろう。これには日本での立身出世を放棄し、地球的視野を獲得するために 高校中退後、アメリカで自分の才能を磨いた経歴も関係したのだろう。   しかし、すべての「在日」が孫のように非凡な才能に恵まれているわけで はない。大半の帰化希望者は、世間の流れに逆らわずに、「日本人らしい名 前」で帰化申請し、帰化すれば「もともとの」日本人のような顔をして生活し ているのである。   もし非凡な才能があったとしても、日本社会に順応しなければ、そこ(日 本)での立身出世は望めない。その実例が新井将敬である。・・・        --------------------   孫正義の祖母がリヤカーで残飯を集めていたのは、おそらく豚を飼ってい たからと思われます。在日韓国・朝鮮人社会にはよくあるケースです。   かれは高校時代まで日本名の安本を名乗っていたのですが、状況からして 孫がいじめを受けたというのはいかにもありそうな話です。そのために額に傷 を残したというのであれば、かれは三世よりはむしろ二世に近いきびしい差別 と偏見を受けてきたようです。これは、かれの年齢・42歳からすると十分考 えられます。   しかし、その差別への対処はやはり二世とはひと味違うようです。ちなみ に、それまで「在日」の「正しい生き方」とは、原尻氏によれば次のようなも のでした。        --------------------  「正しい」「在日」の生き方とは、日本にいても民族としての自分を認識し、 祖国との連帯をはかることだったのである。   その「正しい」生き方しかないのならば、それ以外の選択肢は「在日」と は関わらず、「日本人」になりすまして生きていく以外なかったといえる。実 はこれは過去形ではなく、現在でもこの状況は続いている。しかし、ソフトバ ンクの孫正義はこれをうち破った。        --------------------   かれは差別克服の道としてアメリカン・ドリームにかけたのか、日本を離 れアメリカに留学しました。カリフォルニア大学バークレー校に通うかたわら、 かねての人生設計、20代で名乗りをあげるという計画どおり、21歳の若さ でユニソン・ワールド社を設立し成功を収めました(注2)。   その後、22歳でバークレー校を卒業し、なぜか日本へ戻りました。翌年、 ソフトバンクを設立、起伏はあったものの天賦の才能を発揮し、97年には営 業利益他500億円を達成、30代で軍資金を蓄えるという目標を達成しまし た。   こうした成功のうらには、並々ならぬ努力があったことはいうまでもあり ません。夜1時に株価をみて床につき、朝7時半に起きてすぐにパソコンに向 かうというからすさまじいまでの仕事ぶりです。そのパソコンも自宅に50台 というから、驚きを越してあきれるばかりです。ただし50台全部が稼働して わけではないのでしょうが。   それよりも驚嘆したのは、孫は寸暇を惜しむような毎日なのに、ゴルフが シングルの腕前であるという事実です。運動神経もまた天才的なようです。も しかれがプロゴルファーになっていたら、あるいはタイガーウッヅをしのいで いたかもしれません。   このように八面六臂で世界的に活躍するかれであれば、「国籍は便宜上の ものになる」というかれのセリフが、説得力のあることばとして生きてきます。 国際的なビジネスにおいて、韓国籍は日本籍よりたしかに不便です。 (注1)原尻英樹『「在日」としてのコリアン』講談社現代新書、1998 (注2)「孫正義はこんな人」『ベンチャークラブ』99年11月号,     東洋経済新報社   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/12/04 - 08772/08773 PFG00017 半月城 「半チョッパリ」 ( 8) 99/12/04 20:09 08694へのコメント(一部修正)   世宗さんのハンドルネームは、かのハングルを創った世宗にあやかったも のでしょうか? 李朝の世宗は黄金時代を築いた名君ですが、その大王を尊敬 されておられるのでしょうね。  RE:8694、世宗さん >私個人としては、本国の連中に半チョッパリとか言われるぐらいなら、さっさと >日本国籍とってまえ。と思う一人なんで、地方参政権よりもたとえば三世以降の >在日には自動的に日本国籍付与をしたほうが現実的と思っています。 >ホント、生まれたときから住んでいるのにクルマ一台分ぐらいのコストと暇と >かかるんだから、なかなか国籍取得はおっくうですわね。   在日韓国・朝鮮人二世・三世を侮蔑的に半チョッパリ(半日本人)という 人がかなりいるようですが、私は「パンチョッパリ」の可能性をむしろ肯定的 にとらえています。   それは「パンチョッパリ」が両国の文化、伝統や両国の人々の心情を熟知 できる可能性を秘め、ときには双方向に複眼思考が容易だからです。   それに櫻井よしこさんがやっかむように、「日本人なら本来できないこと も、韓国人にもできないことも、両方できるのが在日」韓国人だからです。櫻 井さんは、その具体例として李青若さんをこう引用しました。 (週刊新潮、99.11.18)。  「在日は、日本でも韓国でも不法就労にならない。こういう立場を活用して いる在日もいる。本国で国会議員をしているケース。生活の拠点を韓国に移し ながらも、親が徴兵に取られないように在日在留資格を維持し続けるケース・・」   このように活躍の舞台が広がるのは、たしかにメリットです。ただ、その ような「特権」を十分活用するには、それなりに相当な努力と、才能や運にめ ぐまれなければ無理です。早い話が、日韓両国語を母語に近いレベルで修得す る必要がありそうです。   ま、この段階で在日韓国人二世・三世の99%はふるい落とされることで しょう。かくいう私も失格になりそうです。   さて、日本国籍の「付与」ですが、私は三世以降どころか、日本で出生し た在日外国人すべてが自動的に日本国籍も取得できる「出生地主義」を主張し ています。これは国際人権規約を基準に、人は生まれながらにして法の下に平 等で、親の国籍で法的に差別されてはならないと考えるからです。   一方、自動的でなく人為的な国籍取得のほうですが、これは現状の国民国 家の原則からすれば、たとえその間接費用がクルマ1台分かかろうとも、また、 許可までに数年かかろうともやむを得ないと思っています。  (本記事はML[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/11/01 - 08304/08304 PFG00017 半月城 差別の合理化と詭弁、規約人権委員会 ( 8) 99/11/01 07:09 08204へのコメント   RE:8122 > 指紋押捺のみならず、外国人登録証の携帯義務を外せということであれば、外国 >人である以上は常に旅券を持ち歩けということになりますね。外国人に旅券の携帯 >義務を課していない国というのは少ないと思いますよ。   この書き込みは、あるいは書き損じかと思ってコメントしなかったのです が、さらに #8204で同じようなことを書かれましたので、今度は反論すること にします。   まず簡単にいえることは、性質の違う旅券と外国人登録証(外登)を同列 にならべ、常時携帯義務で一緒にくくるのは、すこし無理があります。   そもそも旅券携帯の義務は、日本に定住していない一時入国者にとって、 旅券が身分を明らかにする唯一の手段になることから義務化しているもので、 永住資格や定住資格をもった外国人などにはその必要はほとんどありません。   また、定住者に対するこのような義務は、人権規約でいう内外人平等の原 則に反するので、世界的にも考えにくいことと思います。   そうした一般論に加え、在日韓国・朝鮮人の場合は特別な歴史的経緯がか らみます。日本では、外国人というと皆が旅券を持っていると思いこんでいる 人が多いようですが、在日韓国・朝鮮人の場合、外国人扱いにされる以前から 日本人として日本に住んでいた経緯もあって、旅券を持っている人のほうがむ しろ少ないかもしれません。   もっと端的にいえば「朝鮮」籍である在日朝鮮人の場合、旅券をもってい る人は稀です。あるいは皆無かもしれません。これは、日本政府が朝鮮民主主 義人民共和国の旅券を認めていないことにも由来します。   こうした理由から、旅券携帯義務はすくなくとも在日朝鮮人に対してはほ とんど無意味になります。したがって、下記文章にある「その(外登)の代替 に旅券の携行義務を外している」という考えは成り立ちません。   RE:8204 > ただし、社会権規定においても第4条にて「一般的福祉による制限」という項目 >があり、外登法が外国人の居住関係および身分関係を明確にするための手段として >証明書の携帯を16歳以上の在留外国人に義務づけていることとその代替に旅券の >携行義務を外していることを考え合わせれば、規定の枠内から外れていると言いき >るのは無理であるとの説も充分になり立つでしょう。残念ながら、日本国政府の説 >明努力が不足しているようです。   他方、前半に書かれた「一般的福祉による制限」は、日本政府が外国人に 対する「合理的な差別」のよりどころとしており、これは問題のあるところで す。たとえば、当の国連人権規約委員会は、日本政府のそうした解釈は不適当 かつあいまいであるとして、しばしばやり玉にあげました。具体的にいうと、 昨年も委員会の「最終見解」でこう指摘しました(1998.11.5)。 第8項  委員会は、規約で保障された権利に対して、「公共の福祉」を根拠とする制 限を加えることができることについて、懸念を繰り返し表明する。  この「公共の福祉」という概念は、あいまいで限定がなく、規約上許容され ている範囲を超えた制限を可能としかねない。前回の見解に引き続き、委員会 は、締約国が国内法を規約に合致させることを再び強く勧告する。   委員会がこの勧告をするにいたった動機に、外国人指紋制度をはじめとし て、それを支持した司法に対する疑問がありました。規約委員会は京都地裁の 「驚くべき」判決に注目し、98年10月、日本政府報告書を審査した際、イ ギリスのコルビル委員は懸念をこう表明しました(注5)。  「ここに、非常に驚くべき1992年の京都地裁の判決のコピーがある。裁判所 は、外国人に対する強制的な指紋押捺は(憲法)第13条、14条の下で合憲 であると判断している。その理由は、公共の福祉に基づいて、国民と外国人の 間の異なる取り扱いは許されるというものである。   また裁判所は、品位を傷つける取り扱いは、拷問と同じレベルでなければ ならず、このやり方(指紋押捺)は必要かつ合理的なものだから、外国人に対 する強制的な指紋押捺は品位を傷つけるものではないとして、規約第7条に抵 触しない、としている。私はこの裁判所の論理に強く反対する。この問題はど うなっているのか」   この質問に、日本政府を代表して貝谷・人権難民課長はこう答えました。  「ある取り扱いに関する差異が、合理的であるか否かについては、それぞれ の事案により判断すべきであると考えられるが、最高裁判所の判例では、例え ば指紋押捺制度を外国人のみに義務付けていることに関して、戸籍制度のない 外国人は日本人と社会的事実関係上の差異があり、その取り扱いに差異を設け ることは合理的根拠があるので憲法第14条に違反しないとした上で、規約第 26条に違反すると解することもできない、としているものがある」   指紋制度を合理化するために、外国人には戸籍制度がないことを理由のひ とつにしている最高裁の発想や、またそれを引用する「人権」難民課長の人権 感覚は疑問だらけです。   これでは、日本の裁判官に「人権研修」が必要であるという規約委員会の 勧告もなるほどとうなずけるところです(注6)。   さて、指紋制度自体は強い反対の声に押され、98年についに廃止されま した。それにいたる長い過程で、日本政府の考えが矛盾に満ちたものであるこ とが明らかになり、「公共の福祉」がいかにあいまいで恣意的に用いられたか が露呈しました。   この経過は、今も続く外登常時携帯義務など外国人に対する「合理的な差 別」を考えるうえできわめて重要なので、ここでその一端を明らかにしたいと 思います。   外国人の指紋押捺は82年から、それまでの3年ごとから5年ごとになり ました。そのとき、あくまでも指紋の繰り返し押捺にこだわる根拠を法務当局 はこう説明しました。  「登録外国人の同一人性の維持を担保するためには、ある期間を置いて二度、 三度と押さなければ意味がなく・・・もし一度だけ押させることとすれば、登 録における指紋制度は、その意義をまったく失い、外国人に対するいやがらせ 以外の何ものでもなくなってしまう」(注1)   指紋の繰り返し押なつは、88年に一回制に変更され、法務官僚のいう 「外国人に対するいやがらせ」になりましたが、そのとき「その意義をまった く失う」はずの一回制を、当局はこう説明しました。  「不法入国者あるいは不法残留者というものが正規残留者を装う場合・・・ 成りかわろうとする相手は、ほとんど例外なく長期在留者あるいは永住者であ ります。   したがって、長期在留者、永住者であればこそ、その身分関係、居住関係 を明確にして、こうした不正規在留者が利用する余地を排除する余地がある」 (注2)   このときの「永住者であればこそ」という大義名分も93年には完全に反 古にし、永住者には指紋を求めず、長期在留者のみに指紋制度を残しました。 そのときの詭弁はこうでした。  「1年から3年という“在留期間”の方は、定着性に欠けるし、一過性でも ない。この方たちには一番確実な手段としての指紋を用いる」(注3)   さらに99年には「定着性に欠ける」はずの非永住者の指紋制度も廃止し ました。その理由を次のように説明しました。  「諸外国、特に先進国において指紋押なつ制度を採用している国が少なく、 また地方公共自治体から指紋押なつ制度の廃止について強い要請が出されてい る実情にある」(注4)   先進国において、外国人指紋制度がないのは数十年も前にわかっていたこ とであり、国連からも人権規約に反するので廃止するようたびたび勧告を受け てきました。つまり、日本のとるべきゴールは、はるか以前からはっきりして いたわけです。   それなのに「先進国」であるべき日本政府は「公共の福祉」とか「合理的 な差別」などとあいまいな詭弁を弄し、国連の勧告を蹴ってまで指紋制度に固 執してきました。しかし、結局は国連の勧告にしたがわざるを得なかったわけ です。   また、そうして外国人指紋制度を廃止したことによって「公共の福祉」が 害されたという例は寡聞にして聞いたことがありません。結局のところ、公共 の福祉を口実とした「差別の合理化」は、少なくとも指紋撤廃運動が盛んだっ た80年代以降は、単なる外国人に対する過剰恐怖心(ゼノフォービア)が招 いたものではないでしょうか。   日本はこうした歴史を教訓とせず、いま外登常時携帯問題で同じような轍 を踏んでいるようにみえます。どのみち国連の勧告にしたがうはめになるので あれば、一刻も早く受け入れたほうが国際的に非難を浴びずにすむ反面、世界 各国から評価されることにつながるので得策ではないかと思います。   また、日本は人権規約を批准した以上、それを忠実に守る義務があること はいうまでもありません。 (注1)小島恭次「指紋押なつについて(1)」『外人登録』1980.12 (注2)小林入管局長、1987.9.1・衆議院 (注3)田原法務大臣、1992 (注4)法務省「外国人登録法の一部を改正する法律案の概要」1999.3 (注5)「自由権規約と外登法」『RAIK通信』第58号、1999 (注6)国連規約人権委員会が日本政府に勧告◇ 朝日新聞ニュース速報(98.11.6)  日本で人権が尊重されているかどうかを審査していた国連規約人 権委員会は五日、「公共の福祉というあいまいな概念に基づく人権 規制に懸念を表明する。国内法(憲法一二、一三条を指す)を国際 人権規約に整合させるよう(日本政府に)勧告する」などとする最 終見解を採択した。  勧告されたのは、裁判官の人権研修▽警官や入管職員の暴力や公 権力による人権侵害の訴えを扱う政府から独立した人権救済機関の 設立▽被差別部落住民への差別の解消▽永住外国人の滞在許可証携 帯義務の廃止▽入管収容施設諸規則の再検討▽死刑廃止と暫定措置 としての死刑対象の罪の減少▽裁判前の拘置システムの改善▽自白 強要を避けるため警察などでの取り調べの録音など。  また、在日韓国・朝鮮人差別、結婚年齢や離婚後再婚できるまで の期間の男女差別、刑務所内の厳しすぎる規則、子どもの売春、家 庭内での女性への暴力なども人権侵害として取り上げられた。  最終見解で示された懸念や勧告は、日本の非政府組織(NGO) が出した問題点をほとんど網羅した内容となっている。一方、改善 があったと評価されたのは、雇用における男女平等の推進などわず かにとどまり、最終見解は「前回の勧告がほとんど実行されていな いのを遺憾に思う」と日本政府を非難している。  規約人権委員会は、国際人権B規約(市民的及び政治的権利に関 する国際規約)の締約国を五年に一度審査する。 (以下省略)  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 08687/08687 PFG00017 半月城 竹島(独島)と国際司法裁判所 ( 8) 99/11/28 21:02   かんさんの意見などを参考に、国際司法裁判所について私の見解を「歴史 会議室」に書きましたので、ご参考に転載します。        -------------------- 「歴史会議室」 【名  前】半月城 【タイトル】竹島(独島)と国際司法裁判所 【メッセージ】  '99 11/15 23:08 雷小僧さん、こんばんは。   雷小僧さんに約束していた国際司法裁判所に関する私の見解ですが、竹島 (独島)に関する議論のツリーが途切れてしまったこともあって遅くなってし まいました。   最近、人権問題などで相当な成果を上げている国際法も領土問題ではほと んど無力なので、竹島(独島)問題を国際法の面から考えることに私自身消極 的なことは前に記したとおりです。   しかしながら、日韓双方とも国際法上、竹島(独島)は自国領と固執して いるので、一応は国際法および司法裁判所について考えてみたいと思います。   領土に関する国際法では、いうまでもなく最新の国際的な取り決めのみが 重視され、過去の歴史的背景などはほとんど無視されます。したがって国際法 の前では「固有領土」の主張はほとんど意味をなしません。   そのいい例が日本の北方領土です。これらの島は、今は日本人になってい るアイヌの居住地だったので、日本の「固有領土」という主張は正当かもしれ ませんが、国際法からすればサンフランシスコ条約以降、ロシア領であること は明白です。   それゆえに竹島(独島)では国際司法裁判所にこだわる日本政府も、北方 領土に関するかぎり国際司法裁判所はまったく眼中になく、かっての沖縄のよ うにひたすら政治的解決をはかろうと努力しているわけです。   このような観点から竹島(独島)問題をみてみます。竹島(独島)の場合、 最新の国際的な取り決めはGHQの指令第677号になります。46年1月、こ の指令により竹島(独島)は沖縄などとともに日本の統治から次のようにはず されました。 ○連合国最高司令部 (GHQ) 指令第677号 (SCAPIN 677) 「若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する覚書」  ・・・ 3.この指令において、日本とは日本四大島(北海道、本州、九州及び四国)  及び約1000の隣接諸小島を含むものと規定される。上の隣接小島は、対馬及  び北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口の島を除く)を含み、また、次の  諸島を含まない。 (a)鬱陵島、リアンクール岩礁(竹島)、済州島 (b)北緯30度以南の琉球(南西)諸島(口ノ島を含む)、伊豆、南方、小笠  原及び火山(硫黄)群島並びに大東諸島、沖鳥島、南鳥島、中鳥ノ島を含む  他のすべての外かく太平洋諸島、 (C)クリル(千島)列島、歯舞諸島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽各島を  含む)及び色丹島 ・・・   ただし、この指令は第6号にあるように、諸小島の最終的決定に関する連 合国の政策を示すものではなく、暫定的な指令です。   実際、上記の島のなかで沖縄などがアメリカとの交渉により日本に返還さ れたのは周知のとおりです。   そのような別途の取り決めや、あるいは他の SCAPIN指令があるまで、上 記の島に日本の統治権は及ばないとされたのですが、竹島(独島)の場合、そ うした取り決めなどは、その後まったくありませんでした。   それどころか、上の SCAPIN 677 を補強するGHQの指令すら発せられま した。つまり SCAPIN 1033です。これは李承晩ラインのもととなったいわゆる マッカーサーラインを設定するもので、日本の船舶および国民は竹島(独島) 周辺12マイル以内に接近することが禁止されました。   こうした経緯により、竹島(独島)の統治権は在韓米軍になりました。さ らに48年8月に韓国が独立した後、統治権は韓国政府に移りました。したが って現在、韓国政府が竹島(独島)を統治することは国際法的に正当といえま す。   一方、日本政府は、竹島(独島)に関する規定がサンフランシスコ平和条 約(1952.4.28発効)になかったことから「竹島が日本の領土であることは、平 和条約で明らかである」(岡崎外相)と首をかしげるような主張をしました。   ちなみにサンフランシスコ条約の関連部分ですが、第2条(a)で「日本国 は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するす べての権利、権原及び請求権を放棄する」とあるのみで、竹島(独島)につい ては一言半句もありませんでした。   したがって、この条文から竹島(独島)は日本領になったと読み解くのは 困難です。なかには、上記の三島は韓国領の最外側を示したものなので、これ からはずれる竹島(独島)は韓国領と認められないと誤解する人もいるようで す。これは竹島(独島)と同じようなケースとして、済州島の外側に疑いのな い韓国領の馬羅島が位置することから、そうした解釈は成り立ちません。やは り、三島は代表的な島を例示したと解釈するのが妥当です。   日本の外務官僚はさすがにこのようなことはいわないようです。公式には 条約局長が「平和条約では日本から剥奪する領土だけを書くのが当然で、書か ない限り日本に残る。もし平和条約に明かにされている鬱陵島よりもっと日本 に近い竹島を奪うならば、正に平和条約に特記すべきである」と衆議院外務委 員会で答弁しました(1952.9.17)。   この見方は我田引水に過ぎるようです。もし同条約が竹島について書かな いのであれば、それまでの竹島(独島)に関する規定 SCAPIN 677が否定ない しは改定されたことにならず、ひいてはそれにもとづく韓国政府の措置が継続 されて当然と考えられます。もちろん韓国側はそのようなとらえ方をしていま す。   一方、同条約で竹島(独島)について明記されなかったのは、韓国政府に とっても残念な結末でした。韓国は第2条に竹島(独島)を含めるよう連合国 に修正を申し入れましたが、実現しませんでした。その理由ははっきりしない のでどうにでも憶測できるのですが、これが今日に禍根を残すこととなりまし た。   他方、サンフランシスコ条約をめぐるこうしたいきさつは、仮に竹島(独 島)問題が国際司法裁判所で審査されるようになっても、おそらく議論になる ことはないと思われます。これは決定的期日(critical date) の問題がからむ ためです。   過去のマンキエ・エクレア事例の判例からみて、裁判所は裁定の基準とす る時期、すなわち決定的期日として、日本が竹島(独島)の主権を公式に表明 した52年1月28日に設定する可能性が強いと思われます。   この日、日本は韓国の平和線(李ライン)宣言に最初の抗議をしました。 これは、韓国が平和線の中にマッカーサーラインと同様、竹島(独島)を取り 入れていたからです。   この決定的期日以降のことは、裁判ではすべて無視されます。したがって、 54年に韓国が竹島(独島)に灯台を建てたりして同島を実効支配してきたこ となども実績としてもちろん認められません。   こうしたことから裁判のポイントは、SCAPIN 677にもとづく在韓米軍によ る竹島(独島)の統治と、それを引き継いだ韓国政府の統治が52年1月の時 点で国際法上正当だったかどうかという点に絞られるのではないかと思われま す。   これらの統治はほとんど問題ないと思われますが、そうなると、よしんば 竹島(独島)が日本の「固有領土」であったとしても、現在、韓国が竹島(独 島)を実効支配していることは国際法上なんら問題がないことになります。   なお「固有領土」に関して念のためにつけ加えれば、初期の明治政府が竹 島(独島)の歴史的経緯を吟味し、本邦に関係なしと結論を出していますので、 外務省のいう「日本の固有領土」説は根拠薄弱であることはいうまでもありま せん。   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


「歴史会議室」 【名  前】半月城 【タイトル】竹島(独島)と「北方領土」 【メッセージ】1999 11/28   このテーマは皆さんの関心が高いようで、かなりの方からコメントをいた だきました。それらへの反論として新たなスレッドに書くことにします。なお、 あらかじめお断りしますが、私は笑い話レベルの議論は好みませんのでご了承 ください。   雷小僧さん、 >  日本とロシアとの間に締結された領土条約の歴史的背景。これらの要素 >が国際法上にどのように影響するのかはわかりませんが、何を取っても、北 >方領土領有の正統性は日本にあると思っていただけに、北方領土領有の正統 >性が「明白に」ロシアにあるとお考えの半月城さんが、どのように北方領土 >と竹島を絡めて論じてこられるのか楽しみにしております。   領土問題になると、日本でも韓国でも多くの人がショービニストになりが ちで、ややもすると冷静な判断がないがしろにされかねません。   日本では、外務省が竹島(独島)に関する明治時代初期の太政官通達など を十分検討もせず、かって外交青書で「竹島は日本の固有領土」と書いたくら いなので、これを素朴に信じて疑わない人がかなりおられるのではないかと思 います。   そうした人は、日本政府が国際司法裁判所に竹島(独島)を提訴したこと を支持し、国際法による解決に期待をいだいているわけですが、領土関係の国 際法はもともと帝国主義時代の残渣をひきずった理不尽なもので、これによる 領土問題の完全解決は、ときには日本にとってマイナスとなります。   その現実に目を向けてもらうため、いわゆる「北方領土」問題をひきあい に出しました。ところが、冷静に北方領土が現時点で「国際法上」ロシア領で あることを率直に認める人はすくないようです。それを口に出したら最後、か っての「非国民」みたいな非難があびせられかねないためでしょうか。   クリリンさんは「北方領土に関しては、ロシアの専門家ですらロシアに十 分な権原があるのか疑う意見があるくらいです」と書き、私の質問、<いわゆ る北方領土は「国際法上」日本の領土とお考えでしょうか? そうだとしたら、 ロシアの統治は「国際法上」不法になるので、日本は国際司法裁判所に訴える べきだとお考えでしょうか?>には率直に答えられないようです。その苦衷に は同情すらおぼえます。   おそらく、クリリンさんは北方領土がサンフランシスコ条約でどのように 記載されているのか百もご存じなのでしょう。そのうえで、意識的にそこから 目をそむけているのでしょうか。   念のために記すと、そこにはこのように記されています(注1)。 ○サンフランシスコ講和条約、第2条C項   日本国は千島列島ならびに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約 の結果として主権を獲得した樺太の一部およびこれに近接する諸島(北方領 土)に対するすべての権利、権限および請求権を放棄する」   条約では千島列島がどこからどこまで指すのかあいまいで、条約締結当時、 吉田茂全権は、四つの島のうち歯舞(ハボマイ)、色丹(シコタン)は列島に 含まれないと表明しました。しかし、発言のみで実効支配しようとしなかった ので、やや負け惜しみの感があります。   なお、吉田茂はクナシリ、エトロフについてはまったく言及しませんでし た。この時点で、日本はすくなくともクナシリ、エトロフは「国際法上」日本 の領土でないことを追認しました。   このような過去の事実を認めたがらないのか、クリリンさんは「潜在主 権」なるものをもちだし、「最終的」な領土の決定は講和条約によるなどと書 かれましたが、国際法に潜在主権や固有領土などという言葉はないと思います。 これらの用語を国際法上の議論に持ちだすのは、ある人にいわせれば「負け犬 の遠吠え」になるそうです。   さらに、クリリンさんの誤解ですが、領土はユーゴのように、その時々の 情勢で帰属が変わるもので、未来永劫かわらぬ「最終的」な決定など存在しま せん。   一方、雷小僧さんは「領有の正統性」と書かれていますが、領有の正当性 なら最新の国際的な公文書により決定されます。たとえば、ハボマイ、シコタ ンの領有権ですが、これらは日ソ共同宣言(1956)でこう決められました(注1)。  「ソ連邦は、日本国の要望に応え同時に日本国の利益を考慮して、ハボマイ 諸島および色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島 は日本国とソ連との間に平和条約が締結された後に実現する」   この宣言で、ハボマイ、シコタンは、平和条約後に日本領になることが予 定されていますが、それまでこれらの島をソ連が統治することを日本は認めま した。したがって、現時点でこれらが「国際法上」ロシア領であることは明白 です。もし、ロシアによる統治を不法として、日本が国際司法裁判所に訴えた りしたら、世界中の物笑いになりかねません。   このように、国際法では固有領土とか潜在主権とかの主張はまったく通用 しません。これを認めて領有権を決め直したら、ヨーロッパなどはたちまち混 乱の渦と化すことでしょう。あくまで国際法では国際的な公文書がおもにもの をいいます。   竹島(独島)の場合、これは前回紹介した連合国指令 SCAPIN-677 および SCAPIN-1033 になります。これ以後、竹島(独島)の領有関係を記載した国際 的な公文書は存在しません。したがって、それらの流れをくんで韓国が竹島 (独島)を実効支配していることは、国際法上もちろん不法行為にあたりませ ん。   さて、連合国が指令677号を発したころ、アメリカは竹島(独島)を韓 国領と考えていましたが、その後、アメリカでこれに疑問が出されたのはクリ リンさんが書かれたとおりです。   しかし、結局のところアメリカは明確な結論を出しませんでした。195 0年ころ、竹島(独島)に関し歴史的な知識を十分もっていないアメリカが結 論をだすこと自体無理だったといえます。アメリカは、初期の明治政府が竹島 (独島)は本邦に関係なしと結論をだしたことなど、もちろん知る由もありま せんから。   したがって、過去にアメリカが首尾一貫しない場当たり的な対応をとって きたとしても不思議はありません。また、アメリカ一国の見解が決定的な意味 をもつものでもありません。   これに関し、梶村氏はアメリカ、日本、韓国の態度をこう批判しました (注2)。        --------------------   戦後のこの問題には、連合軍の名で日・韓両国を占領したアメリカがコミ ットしている。しかし、アメリカははなはだ首尾一貫しない場当たりの対応を した末、サンフランシスコ条約以後、両国間の折衝にまかせてこの問題から逃 げてしまっている。   アメリカのこの態度は、たとえ両国の対立をあおることで支配を維持しよ うとする意図的なものだったとまでいえないとしても、少なくともそういう結 果を残した。   今日にいたるまで、日韓双方にアメリカの見解が竹島=独島の帰属を左右 する力をもつとする幻想ないし事大主義の発想があって、アメリカの場当たり な態度を自国に有利に解して水掛け論をぶつけあうということが続いているが、 もともとアメリカの見解は決して決定的な意味はもたない。        --------------------   アメリカは、世界の警察官でもないし裁判官でもありません。アメリカに 解決を頼る事大主義的発想は、日韓双方ともやめる必要がありそうです。   雷小僧さん、 > 半月城さんの見解によると、北方領土は国際法からみて「明白」にロシア >領であり、日本政府もそれを認識しているので、北方領土問題を国際司法裁 >判所の判断に委ねようとしないんですよね。その見解に従って竹島(独島) >問題を見るならば、日本政府は竹島領有の国際法上の正統性に自信を持って >いるので、国際司法裁判所に裁定を委ねたということになります。   そのとおりです。日本政府は竹島(独島)は日本の固有領土と信じている うえに、1904年、竹島(独島)を島根県に編入する国内的な告示以来、竹 島(独島)を実効支配してきたので、国際法上日本領であると自信をもってい るようです。   このうち、竹島(独島)が日本の固有領土と考えられないことは、今まで たびたび書いてきたとおりですが、その一方で、1904年から45年までの 実効支配は「国際法上」有効になるのではないかと思います。   45年以前の国際法は、占領や征服による帝国主義的領土獲得を合法とし ていましたので、「本邦に関係無」かったはずの竹島(独島)に軍事施設を建 設したのは、国際法上の占領にあたり「合法」ではないかと思います。   ただし、これは韓国から帝国主義的領土奪取として非難されていることは、 これまで書いたとおりです。そうした非難をかわすために、日本政府は「固有 領土」の主張をはずすわけにいかないのですが、ここにそもそも無理がありま す。   さらに国際法の争点になると、日本は何としても SCAPIN-677 にとってか わるものを主張しなければならないのですが、それがサンフランシスコ条約と はいささか疑問です。   同条約で竹島(独島)の記載がなかったという単純な理由からから、 SCAPIN-677 が否定され、明確に日本の領土になったなどという論理は国際的 に通用するでしょうか? そのうえ、これは国際司法裁判所でかりに争われた としても、決定的期日の点から論争にすらならないことは前回書いたとおりで す。 (注1)鹿島海馬『アジア国境紛争地図』三一書房、1997 (注2)梶村秀樹『朝鮮人と日本人』明石書店、1992  (本記事はML[zainichi]およびホームページ「半月城通信」に転載予定)


「歴史会議室」 【名  前】半月城 【タイトル】竹島(独島)と朝鮮側の認識 【メッセージ】 '99 12/12 22:41   まず、クリリンさんの古い質問から答えたいと思います。 >半月城様:「世宗実録地理志」に記載があるというのは、于山島のことでし >ょうか。三峯島のことでしょうか。韓国側では于山島をもって現在の竹島に >当て、領有の根拠としているようですが、世宗実録地理志自身に「新羅の時、 >于山国と称した。一に鬱稜島という。」などという記述があるそうです。記 >述が混乱していてとても証拠にはなりません。   李朝第4代王の公式記録『世宗実録』地理志に記載されている島は、武陵 島と于山(ウサン)島の二島で、三峯島の名は出てきません。同書にはこう記 されており、別に混乱はありません(注1)。  「于山と武陵の二つの島は(蔚珍)県の真東の海にある。二つの島はそれほ ど離れておらず、天気が清明な日には望み見ることができる(風日清明 則可 望見)。新羅の時、于山国と称した。あるいは鬱陵島ともいった」   ここに記された武陵島は現在の鬱陵島ですが、問題は于山島が竹島(独 島)かどうかです。これについては後ほどふれることにします。   次に三峯島ですが、これは李朝9代王・成宗のときにナゾの島でした。こ の島に税や軍役を逃れるため流民が移り住んでいるという報告が入り問題にな りました。王は、その真偽を確かめるため調査隊や捜討隊を何度か派遣しまし た。   しかし、調査隊の多くは悪天候にはばまれ目的を果たすことができません でしたが、そのなかで金自周の調査隊だけ島を確認したという報告を行ったこ とが『成宗実録』にこう記されました(注8)。  「25日に島の西方7,8里(2.8-3.2km)に到着し停泊して観察しました。 島の北側に三つの岩が並び立ち、次には小島、次には巌石が並び立ち、次には 中島があります。   中島の西側にはまた小島があり、全て海水が通じ流れています。また、海 と島の間には人形のようなものが30ほど並び立っており、不思議に思い恐れ て直には接岸できず、島の形を絵に描いて持ち帰りました」   残念ながら、調査隊が書いた島の絵は発見されていませんが、その形は、 ソウル大学の慎教授によれば、現在の竹島(独島)に瓜二つなようです(注1 0)。その文中にある「人形のようなもの」という記述は、同じ『成宗実録』 の別な条では「有人30余列立」と記録されました。   いずれにしても、このように人影があったらしいという報告にもとづき、 さらに捜討隊が派遣されました。しかし悪天候のためか、問題の島を確認する ことができませんでした。   そのため、ナゾは依然として残されたままですが、報告にある人影という のは人間ではないようです。何しろ3km先の遠くから見ているのですから、人 間を確認するのは無理ではないかと思います。   それはともかく、島の形状をてらしあわせると、三峯島は鬱陵島ではなく、 やはり竹島(独島)であったとみるのが適切ではないかと思います。   さて于山島にもどりますが、この名が史書に現れるのは先の『世宗実録』 (1432年に成立)が最初で、日本より約200年ほど早いとされています(注 3)。これが竹島(独島)かどうかが、日韓の間で大きな論争点になりました ので、これにふれたいと思います。   当時、朝鮮では鬱陵島に空島政策(1403)が実施されていたこともあって、 于山島について正確な知識に乏しく、その後の文献では于山島を鬱陵島と同一 視する資料すらあらわれました。   すなわち『高麗史』地理志(1451)ですが、その本文では一島説をとり、註 で二島説を記しました。その後、時代がくだって『新増東国輿地勝覧』(1531) ではその誤りが正されたのか、本文で二島とし、註で一島説としました。   これらの資料のうち、川上健三氏は『高麗史』のみが正しいとして、他の 資料を誤りであると主張しました(注4)。しかし、これは記述の性格や成立 年代の解釈などを誤っているようで、堀氏により論駁されました。   また、川上氏は鬱陵島から竹島(独島)は見えないと誤認したため『世宗 実録』の于山島は竹島(独島)でありえないとし、『高麗史』にもでてくる 「風日清明 則可望見」は、二つの島どうしのことでなく、鬱陵島と本土間と のことであると解説しました。これに対し、堀氏はこう反論しました(注3)。        --------------------   まず、文脈を無視して主語を変えて読むのは恣意的であろう。また、物理 学的な計算では、鬱陵島から竹島が見えることは既に決着がついている(注5)。   そして、後の日本側の文献にも、竹島=独島は「晴天の際、鬱陵島山峯の 高所より之れを望むを得べし」(注2)と書かれている。まさしく『世宗実 録』の記述と一致する。さらに、後掲図3のように、その姿まで確かに画かれ ているのである。   『高麗史』本文に若干の混乱はあるが、15世紀初頭に朝鮮人が鬱陵島と は別の島の存在を認知していたことは明らかである。そして、その文献が朝鮮 の正史中の地理志であることから、それはそのまま国家の領有意識を示してい るといえよう。        --------------------   やはり『世宗実録』に関するかぎり「則可望見」は、二つの島の関係で、 本土から島が見えるという解釈は無理なようです。これが『東国輿地勝覧』記 載の「歴々可見」だったら、下條氏の指摘どおり、竹島一件の交渉時に李朝政 府が主張したように、本土から島が見えるという文脈上の解釈が可能かもしれ ません(注9)。   その『東国輿地勝覧』に、地図として于山島がはじめて記載されたようで した。堀氏はさらにこう続けました(注3)。        --------------------   朝鮮の地図で、鬱陵島と別に于山島が登場するのは、「東国輿地勝覧」 (1499年)が最初である(注7)。   そして、それ以後今日まで発見されている地図のなかで、于山島が載って いるものは数百枚にも及ぶという。勿論それらは古地図であるから、鬱陵島と 于山島の位置関係や大きさは、必ずしも正確とはいえない。   しかし、これほど多くの地図が二島を併記している事実は、朝鮮において 于山島の存在が広く知られていたことを示している。   さらに19世紀末、朝鮮政府が鬱陵島の開発に着手すると、于山島への認 識はより正確になった。その時点の朝鮮側の認識を示すものが、図1に掲げた 大韓帝国学部編「大韓輿地図」(1899年、奎章閣)であり、古地図としては鬱 陵島と于山島がほぼ正しい位置関係に画かれている。   以上にあげた事実によって、川上の于山島非存在説がもはやなりたたない ことは明らかである。        --------------------   于山島を画いた地図が、数百枚もあるとは驚きですが、それらの古地図で は、于山島は鬱陵島の属島であるという認識から、鬱陵島のそばに画かれてい るのが特徴です。これをとらえて、なかには于山島とは鬱陵島の2km東北東に ある竹嶼ではないかと解釈する人もいるようです。   しかしこれは無理な解釈のようです。鬱陵島周辺の大きな島は、竹嶼以外 に鬱陵島の東北約100mのところに竹嶼とほぼ同じ大きさの観音島がありますが、 この島を省いて竹嶼だけを画くことは考えられないからです。   そのうえ、竹嶼は世宗実録の記述「二つの島はそれほど離れておらず、天 気が清明な日には望み見ることができる」という記述にうまく合いません。竹 嶼は近いので天気が良くなくても見えるからです。   Tetsu さん、 >ちなみに、鬱陵島の最高峰の頂上に立っても、竹島は見えないことが、韓国 >側の資料により確認されています。 >したがって、その他の干山島にかんする資料(と言ってもたいした資料はあ >りませんが)はすべて、証拠としては採用できません。   たまたま、そのような資料がひとつ、ふたつあるからといって、正史の 『世宗実録』や于山島を画いた数百枚の古地図をすべて否定するのは無茶では ないでしょうか。   かの藤岡信勝氏お得意のディベートならいざしらず、真理にせまるには一 部を誇張するのでなく、すべての古文献や古地図を総合的に判断すべきではな いでしょうか。   Tetsu さん、 >次に『粛宗実録』の安龍福の証言ですが、証言といっても、安龍福は密航の >犯罪者として日本当局により逮捕され、朝鮮へ引き渡され、朝鮮当局から取 >り調べを受けた際の供述調書です。 >したがって、その信憑性には韓国側からも疑問視されており、歴史学者申教 >授もその記録には多少の誇張もあるようだと述べています。   私も安龍福の供述はかなり疑問が多いと思います。当時は海上の測量技術 が未発達だったので、無人島である于山島の位置を正確に記録することは困難 であり、あるいは下條氏がいうように、安は竹島(独島)と隠岐島を混同して いた可能性すら考えられるのかもしれません。   明治時代ですら、フランス軍艦が鬱陵島を誤認してダジュレー島を「発 見」したくらいですし、その影響で日本では2島説ならぬ3島説が一時信じら れたり、松島と竹島が混同され、混乱のはてに松島の名前が竹島にすり替わっ たくらいでした。   ましてや1690年代、民間人の安龍福が竹島を他の島と混同していた可 能性は十分考えられます。しかし、領土問題を考える際に注目すべきは、日本 がいうところの松島(竹島=独島)は、朝鮮でいうところの于山島に該当する という認識がすくなくとも朝鮮で定着し、堀氏によれば、朝鮮政府はその島の 領有意識を維持し続けたことです。同氏はこう記しました(注3)。        --------------------   川上の著作の大きな欠陥は、自己の于山島非存在説によって、16世紀以 降多くの文献、地図中に登場する于山島をすべて否定してしまうことである (注4)。   例えば、『粛宗実録』(1728年)巻30には、17世紀末鬱陵島をめ ぐる紛争のため日本に二度渡った安龍福が、「松島即子山島、此亦我国地」 「以鬱陵子山等島、定以朝鮮地界」等、発言した事実が載せられている。   川上は、安龍福が今日の竹島=独島の存在を知っていたことを認めながら も、彼の証言は虚構が多いとして、その資料的価値を否定している。   しかし、安龍福の証言内容の信憑性はひとまずおくとしても、彼が竹島= 独島を子山島と呼び、鬱陵島とともに朝鮮領だと発言している事実は、川上の 子山島非存在説を覆すのに充分である。   また、『増補文献備考』(1908年)輿地考でも、「輿地志云鬱陵于山皆于 山国地、于山則倭所謂松島也」「松島即芋山島、爾不聞芋山亦我境乎」等のよ うに、于山島を正しく今日の竹島の呼称として使っている。   そして、この『増補文献備考』が二百年にわたる編纂事業の所産で、実録 を補完する官製文献であることから、朝鮮政府が于山島に対して領有意識を維 持していたことが明らかである。        --------------------   于山島は子山島などとも書かれましたが、これが安龍福の「竹島一件」を きっかけに日本でいう松島(竹島=独島)であるという認識が定着しました。   なお「竹島一件」の結末ですが、日本と朝鮮間の外交交渉で日本は鬱陵島 が朝鮮領であることを正式に承認して決着しました。その文書に、いま問題の 松島(竹島=独島)の名はありませんが、これは次のように処理されたとする 堀氏の意見が妥当ではないかと思います(注3)。  「その外交文書には直接松島の名称はでないが、同島が竹島の属島とみなさ れていた以上、その領有権も同様に処理されたと考えられる。   17世紀の日本人の松島=独島での漁業とは、あくまで竹島=鬱陵島進出 に附随したものにすぎないので、その竹島渡航禁止とともに終焉するほかなか った。その証拠に、この後、大谷・村川両家が松島のみをめざして渡航したこ とは全くなかったのである」   日本でも鬱陵島附属の竹島(独島)は日本領でないという認識が、前にも 書いたように、江戸時代、日本の官撰地図である長久保赤水の「日本輿地路程 全図」に反映され、さらに明治政府に引き継がれ「竹島外一島は本邦に関係無 し」と再確認されました。   このように「竹島一件」以後、1905年の日露戦争まで日本と朝鮮(韓 国)両政府は、積極的か消極的かの差はあっても、于山島=竹島(独島)は日 本領ではなく朝鮮領であると認識していたのではないかと思います。 (注1)『世宗実録』地理志 江原道蔚珍県   「于山・武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見 新羅時    称于山国 一云鬱陵島 地方百里」 (注2)原著注、『地学雑誌』210号(1906)P123 (注3)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』    24号(1987) (注4)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院、1966 (注5)梶村秀樹「竹島=独島問題とは何か」『朝鮮研究』182号 1978.9   あるいは、梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店、1992 (注6)『粛宗実録』安龍福供述   「松島即子山島、此亦我国地」「以鬱陵子山等島、定以朝鮮地界」 (注7)原著注、崔書勉「古地図から見た独島」『統一日報』1981.5.27-29 (注8)『成宗実録』巻七二 成宗七年 十月 丁酉(二十七日)条 (1473年刊)  兵曹啓 永興人金自周供招云 本道観察使以三峯島尋覚事 金自周及宋永老与  前日往還金興金漢京李吾乙亡等十二人 給麻尚船五隻入送 去九月十六日 於  鏡城地瓮仇未発船 向島 同日到宿富寧地青厳 十七日到宿会寧地加隣串 十八  日到宿慶源地未慶大 二十五日西距島七八里許到泊 望見則於島北有三石列立  次小島 次厳石列立 次中島 中島之西又有小島 皆海水通流 亦於海島之間 有  如人形別立者三十 因疑惧不得直到 画島形而来 (注9)下條正男「竹島問題考」『現代コリア』1996.5  『東国輿地勝覧』の記述   一云武陵 一云羽陵 二島在縣正東海中 三峯岌業掌空 南峯稍卑 風日清明   則峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説于山 鬱陵 本一島  (岌業掌空の「業」は山かんむりがつく。また「掌」はてへんがつく) (注10)『独島(竹島)』インター出版(TEL075-212-6559)1997,    (著者)愼鏞廈  (本記事はML[zainichi]およびホームページ「半月城通信」に転載予定)


【タイトル】竹島(独島)は鬱陵島から見えるか 【メッセージ】1999.12/19 「歴史会議室」   鬱陵島から 95km も離れた小島の竹島(独島)が本当に見えるのかどうか、 実は私も半信半疑だっただけに、みなさんの議論は参考になりました。これは 『世宗実録』など韓国側資料の文献批判に影響する重要な問題なので、この際、 すこし真剣に考えたいと思います。   まず、実際に鬱陵島から竹島(独島)を見たという報告ですが、『軍艦新 高行動日誌』(1904.9.25)に、<松島東南望楼臺ヨリ望遠鏡ヲ以テ見タル「リ ャンコ」島>として島の観測図が紹介されています(注1)。   その図で島は三つに分かれていますが、水平線近くまでよく見えているよ うです。ただし、望楼台の高さなどくわしいことはわかりません。   さて望遠鏡が一般的でなかった『世宗実録』の時代、竹島(独島)が肉眼 で見えたかどうかですが、目の視力や気象条件など事情は複雑なようです。   まず目の視力ですが、1.0というのは 5m 離れた所からC字型をしたラン ドルト環の切れ目 1.5mmを見分けられる能力と定義されています。これは視角 がほぼ1分、すなわち 1/60度に相当します(注2)。   竹島(独島)の場合、高さが174mですが、かりにそのうち100mを見るとす るとその視角は 3.6分になり、視力的には千里眼や遠視でなくても十分識別可 能といえます。ちなみに、この視角は 5m先で 5.2mmの識別能力に相当します。   したがって目の能力からすれば、竹島(独島)は肉眼で十分観測可能とい えますが、問題は気象条件です。島の明るさや大気の清澄度、気温と水温の差 によっては、たとえ望遠鏡を使っても見えません。   島の明るさからいうと、浅見さんのコメントにあったように西日が射す午 後や夕方が有利なようです。   また大気の温度は海水温よりかなり低いと海面にもやがたつので、寒風が 強い日は無理と思われます。他方、大気の清澄度は天高く馬肥える秋が一番と いえます。   こうしてみると、竹島(独島)を見やすいのは秋の午後といえます。軍艦 「新高」が、鬱陵島の望楼台から竹島(独島)を観測した日付が9月25日に なっているのもうなずけるところです。   ところで、気象条件は最良と仮定して見える距離 D(海里)と見る人の高度 h(m)や対象物の高さ H(m)の関係式は下記のようになります(注4)。ただし RTSQは平方根を表します。また、1海里は 1852mになります。   D = 2.09 (RTSQ(H) + RTSQ(h))   この式を使って、島の見え方を梶村氏はこう解説しました(注3)。        --------------------   竹島=独島の最高峰を 174m として計算したばあい、49海里離れた鬱陵 島からでも、海抜 120m以上の所からなら見えることになる。ただし 120m地点 からでは、頂上の一点が点として見えるにすぎない。   竹島=独島の海抜 50m以上の部分が面として視認できるのは、鬱陵島の海 抜 284mの地点である。また海抜 200mの地点からなら、約 96m以上の部分が見 えることになり、少なくとも竹島=独島の西島頂部の三角形が見えることにな る。   つまり鬱陵島の、200 - 300m の高度の東南がひらけた場所からなら、竹 島=独島は水平線上に小さくではあるがとにかく見える。そうした視認可能地 点は地図を開いてみれば鬱陵島には随処にあることが分かる。  ・・・   1438年に空島政策が最終的に実行されるまでは少なくとも、公式的に も鬱陵島には多くの朝鮮人民が定住していた。   つまり当然漁業だけではなく農業を行っていたと推定されるのだが、鬱陵 島もやはり海岸部は概して急峻で、むしろ 200 - 300mの台地上に比較的平坦 な開墾適地が多く、現在もそんな土地に少なからず人家があり畑が開かれてい る。   特に旧時の火田式農耕なら、そんな土地がまず開墾された可能性が高いは ずなのである。従って、(川上氏がいうように)密林にさえぎられてどこから も見えなかったとはどうしても考えられない。        --------------------   梶村説からすると、鬱陵島から竹島(独島)が実際に見えたようです。そ うならば、『世宗実録』にある「二つの島はそれほど離れておらず、天気が清 明な日には望み見ることができる」という記述はやはり妥当と思われます。   同時に、多くの資料や地図が、竹島(独島)は鬱陵島の属島ないし兄弟島 として扱ってきたことも納得がいきます。これについて梶村氏はこう続けまし た。        --------------------   両島の関係は、八丈島と青ヶ島の関係のようなもので、兄弟島と規定する ことは、自然地理学的に不自然な主張とはいえない。   現在の国際法ないしは慣行では、決して自然地理学的条件が領土問題のき めてとはされていないが、兄弟島であることが歴史的経緯に影響をもたなかっ たはずはない。   実際、日本側でも昔は両島をそうした関係のものととらえてきたといえる。 後述のように、江戸時代の日本では鬱陵島を「竹島」ないし「磯竹島」と呼び、 いまの竹島=独島を「松島」と呼んでいたが、松も生えないのに「松島」と呼 ぶのは、「竹島」の呼称の方が先にあって、それと対になる名称として後から 生まれたものとしか理解しがたいのである。        --------------------   この説を裏付けるかのように、江戸時代、代表的な長久保赤水の地図など が、竹島(独島)と鬱陵島を一対に描いてきたことはすでに記したとおりです。   したがって、竹島(独島)は鬱陵島の近くにある属島という朝鮮側の認識 はまず妥当であると思います。 (注1)堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』    24号(1987) (注2)視力(日立デジタル平凡社『世界大百科事典』より抜粋)  ・・・視力の単位は国際協定により決められ,視標とするランドルト環 Landolt ring(太さ1.5mm,直径7.5mm)の切れ目(1.5mm角)を5m離れて見分けら れる視力を〈1.0〉とする。この切れ目の視角 visual angle はほぼ1分(1度の 1/60)である。外界の1点と眼を結ぶ線を方向線というが,2本の方向線のはさ む角が視角であり,この逆数で視力が表される。そこで,この2倍の大きさ, あるいは半分の距離で見分けられるとき,視角は2分となり視力は〈0.5〉とな る。・・・ (注3)梶村秀樹「竹島=独島問題とは何か」『朝鮮研究』182号 1978.9   あるいは、梶村秀樹『朝鮮史と日本人』明石書店、1992 (注4)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院,1996(初版,1966)  (本記事はML[zainichi]およびホームページ「半月城通信」に転載予定)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 99/12/26 - 09148/09148 PFG00017 半月城 白村江の戦い以後の東アジア ( 8) 99/12/26 17:39 09086へのコメント   NOVOさんは、倭が白村江で羅唐連合軍に大敗した後、朝鮮式の山城な どを築いて防備を固めるなか、結局、唐が攻めてこなかったのは、海が自然の 障壁になっていたことも要因のひとつだと考えておられるようですね。   たしかに、唐は倭国討伐と称して軍船を修理しましたが、これはカモフ ラージュで、真の目的は新羅を征服することにあったようでした。当時の東ア ジアの情勢からすれば、唐や新羅はとても倭を討てるような状況ではありませ んでした。   戦争前、唐は新羅と約束し、百済や高句麗の領土を平壌を境に分割するこ とで合意しましたが、唐はそれを反古にし、百済はもちろん、新羅の支配まで もくろみました。   実際に唐はこれを実行にうつし、滅亡した百済の王子・扶余隆を熊津都督 に、新羅の文武王を鶏林都督に任命し、白馬の血を共にすする儀式まで行い羈 縻(きび)支配を行いました。   この体制で668年、羅唐軍は長年の宿敵であった高句麗を征服しました が、新羅は唐の露骨な野望にとうてい我慢できるものではありませんでした。 ある時は面従腹背をよそおい、またある時は正面切って反旗を翻しました。   そしてついに新羅は、羅唐連合軍の総大将であった唐の蘇定方を殺害して 旧百済の熊津都督府を攻撃し、7年にもおよぶ唐との全面戦争に突入しました。 その間、新羅の高級貴族のなかには、唐という大国とまともに闘っては勝てな いので唐の軍門に降る道を主張したり、はなはだしくは唐に寝返る貴族も続出 しました。   そんな苦境の中で、新羅は果敢に唐に挑みました。その秘策として、かっ ての敵であった百済や高句麗の遺民を見方にするという離れわざをやってのけ、 軍隊を再編成しました。9軍団のうち3部隊を高句麗人、2部隊を百済人、1 部隊を靺鞨人で組織し、残るわずか3軍団を新羅人で組みました。   この新羅軍に唐は20万にもおよぶ大軍を差し向け攻撃しましたが、新羅 の混成軍や地方豪族はよくしのぎ、ついには唐軍を白村江で撃破しました。   こうして新羅は唐を追い出し三国を統一しました。ただし、統一とはいっ ても、高句麗の大半は唐に編入されました。   その後、唐は二度と新羅を攻撃することはありませんでした。ましてや倭 を攻めることは論外でした。また新羅にしても唐を追い出すのに必死で、倭を 攻撃することなどおよそ考えられなかったことと思われます。   なお、この羅唐戦争を通じて、新羅や百済などは同一民族としての意識が はじめて芽生え、唐という外敵に同族意識をもって戦ったとされています。し たがって、新羅の統一は精神的な統一でもありました。  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


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