鳥取短期大学『北東アジア文化研究』第28号、2008.10

 

明治政府の竹島=独島認識

 

炳渉

(竹島=独島問題研究ネット・代表)

 

Meiji-Government’s Recognition on Takeshima=Dokdo

 

Byoung-sup PARK

 

キーワード : 領土紛争(territory dispute)、松島(Matsushima)、竹島=独島(Takeshima=Dokdo

 

 はじめに

 

 日本で竹島=独島は江戸時代から明治初期にかけて松島と呼ばれ、欝陵島が竹島あるいは磯竹島と呼ばれていた。ただし、松島といっても松の木はおろか、樹木は1本もなかった。それにもかかわらず松島と呼ばれたのは、竹島と一対ないしは竹島の属島と考えられ、縁起の良い「松竹」にちなんで付けられたようである。その竹島や松島を明治政府がどのように認識していたのか、当時の官撰地誌や官撰地図などで明らかにする。

なお、文中の「竹島」は引用文などを除いて原則として現在の欝陵島をさし、「松島」は竹島=独島をさすものとする。また、明治時代の文書はほとんどがカタカナ書きであるが、読みやすさを考慮し、これをあえて平仮名に変換した。同様に旧漢字は新漢字に変えた。

 

 

2 官撰地誌における竹島・松島

 

1868年、明治維新を達成した新政府は、封建国家を近代的な国家に発展させるために多くの施策をおこなった。その施策の中に国土の詳細な地図の作成や、地誌編纂、地籍編纂などがあった。中でも国家としての官撰地誌編纂は奈良時代の「風土記」以来、実に千年ぶりの本格的な事業であった。その大事業を推進するために明治政府は 1872(明治5)年、太政官に正院地誌課を設けた。太政官とは太政大臣や左右両大臣、参議などからなる国家の最高行政機関であり、内務省などの各省を管轄した。今日の内閣に相当する。

正院地誌課は2年後に内務省地理寮に移ったが、その翌年にはまた正院に戻るなど目まぐるしく組織が変遷した。最終的には内務省地理局に地誌課が1878年に新設されてそこに落着いた。その間に官撰地誌である『日本地誌提要』を順次編纂し、1879年までに全8冊、77巻を刊行した。その第4冊、第50巻「隠岐」において、竹島・松島はこう記された。

 

  ○本州の属島。知夫郡四拾五。海士郡壱拾六。周吉郡七拾五。穩地郡四拾三。合計壱百七拾九。之を総称して隠岐の小島と云。

  、西北に方たりて松島・竹島の2島あり。土俗相伝て云ふ。穩地郡福浦港より松島に至る。海路凡六拾九里三拾五町。竹島に至る。海路凡百里四町余。朝鮮に至る海路凡百三拾六里三拾町。

  

 この官撰地誌において竹島・松島が本州の属島とは別に記載されたが、これは重要である。両島は日本の領土外として扱われたと解される。明治時代の地理学者である田中阿歌麻呂もそのように理解して『地学雑誌』200号にこう記した。

 

明治の初年に到り、正院地誌課に於て其(竹島=独島、筆者注)の本邦の領有たることを全然非認したるを以て、其の後の出版にかかる地図は多く其の所在をも示さざるが如し、明治八年 文部省出版 宮本三平氏の日本帝国全図には之れを載すれども、帝国の領土外に置き塗色せず、又我海軍水路部の朝鮮水路誌には、リアンコート岩と題し、リアンコート号の発見其他外国人の測量記事を載するのみなり。

 

 田中は、その論文において竹島と松島を一時混同したが、いずれにしても官撰地誌が竹島と松島を日本領外にしたという理解に変わりはない。以上のように明治政府が両島の領有を否認したのは、内務省が両島の歴史を充分精査した結果であった。その精査の記録が『磯竹島覚書』である。

 

 

3 『磯竹島覚書』と「竹島一件」

 

1875年、太政官正院地誌課の中邨(中村)元起は江戸幕府関係史料や対馬藩政史料、鳥取藩政史料などの古文書を集め、竹島を放棄した経緯をまとめた『磯竹島覚書』を校正した[]。同書は特に江戸時代のいわゆる「竹島一件」に重点をおいて記述した。竹島一件とは、幕府の特別許可を得て竹島で漁をしていた米子の大谷家が元禄期に同島で出会った朝鮮人漁夫・安龍福らを拉致したが、その事件の後処理をめぐって朝鮮と対朝鮮の交渉窓口になっていた対馬藩との間でなされた竹島の領有権論争をさす。

『磯竹島覚書』は、後に内務省が竹島・松島を版図外と判断する際の基本資料になった重要な史料である。同書は写本によっては表紙の題箋が『磯竹島事略』、内題が「磯竹島覚書」とされるが、内容はほぼ同じである。ただし『磯竹島事略』は「乾」「坤」の二巻からなるが、『磯竹島覚書』にそのような区別はない。『磯竹島事略』「乾」巻は「竹島一件」に関して交わされた対馬藩と朝鮮間の初期の書簡や、それに関連する対馬藩内の口上書、朝鮮側の主張の根拠になった『輿地勝覧』や『芝峰類説』の関連史料などを収めている。『磯竹島事略』「坤」巻は竹島一件交渉が行きづまった1695(元禄8)年以降、対馬藩が幕府と共に解決策を模索した過程の記述が中心である。同書により竹島一件の全体像を知ることができる。

竹島一件の解決策であるが、対馬藩は幕府の当初の方針どおり、朝鮮人の竹島渡海禁止要求を変えずに朝鮮と交渉を継続するよう主張したのに対し、幕府は独自の調査をもとに方針を変え、竹島を放棄する方向に転じた。幕府の独自調査は因幡・伯耆二カ国を支配する鳥取藩に対して質問書の形でなされた。最初の質問は7か条から成るが、内容は「因州伯州え付候竹島」がいつ頃から両国の付属になったのか、竹島はどのような島か、他に島はあるのか、あるいは竹島渡海の実状などであった。

それに対する鳥取藩の回答書で注目されるのは、竹島が同藩に所属する島でないと明言したのに加えて、「竹島松島其外 両国え附属の島」は無いと回答したことである。幕府は鳥取藩の回答に松島が新たに登場したことに関心をもち、さらに松島に関する詳細な質問を追加した[]。実は、幕府はこの時まで松島の存在を知らなかったのである。鳥取藩の回答が決め手になり、幕府は竹島などを朝鮮領であると認識したのである。その判断をもとに対馬藩と協議し、最終的に朝鮮へは当初の要求とは逆に日本人の竹島渡海を禁止する幕府の決定を伝えた。

内務省はこの詳細な経緯を『磯竹島覚書』にまとめたので、同省が竹島・松島を一対にして日本領外と認識して『日本地誌提要』を編纂したのは当然であった。なお、竹島・松島を一対にする表現は江戸時代には一般的であった。1667年、隠岐郡代の斉藤豊宣は藩命により隠岐の地誌を調査し『隠州視聴合記』を著わしたが、同書にも竹島・松島は一対として扱われた。また、江戸時代中・後期に広く使用された長久保赤水の地図「改正日本輿地路程全図」(1779年)などでも両島は一対として記述され、しかも両島は朝鮮国同様に無彩色にされたのである。これは『隠州視聴合記』が隠州を日本の西北の限界とし、竹島・松島を日本領外[]にしたことに対応している。

 

 

 太政官の竹島外一島版図外指令

 

明治政府は、竹島・松島を日本の領土外とする方針を1905年「リャンコ島(竹島=独島)編入」まで一貫して堅持した。その一例として地籍編纂事業をあげることができる。明治政府は近代的な土地台帳を作成するために全国の地籍編纂事業を実施したが、その過程において竹島の地籍が問題になった。1876(明治9)年、内務省地理寮の田尻らは島根県を巡回した際に竹島の情報に接し、これをいかに扱うべきか、同県の地籍編制係に竹島を照会した。

これをうけて、島根県は竹島へ渡海していた大谷家の記録などを調査し、それらの書類を添え、同年1016日、内務卿あてに伺書「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」を提出した。「外一島」とは松島を指す。この時、島根県が地理寮の伺書にはなかった「外一島」をわざわざ伺書につけ加えたのは、大谷家資料に「竹嶋近辺松嶋」、「竹嶋の内 松嶋」などと記されており、松島は竹島と一対、あるいは竹島の属島であるという認識が強かったためとみられる。両島は島根県伺書の付属書類「由来の概略」にこう記述された。

 

島根県伺書付属「由来の概略」

磯竹島 一に竹島と称す 隠岐国の乾位一百二拾里許に在り 周回凡十里許 山峻険にして平地少し 川三条あり 又瀑布あり 然れとも深谷幽邃樹竹稠密其源を知る能はす・・・次に一島あり 松島と呼ふ 周回30町許 竹島と同一線路に在り 隠岐を距る八拾里許 樹竹稀なり 亦魚獣を産す

 

 この文章から松島、すなわち外一島が現在の竹島=独島をさすことは疑いない。そのため、多くの研究者、たとえば堀和生[]や塚本孝[]、内藤正中[]らはそのように理解した。そうした中、下條正男は「竹島外一島」の比定に関する見解を毎年のように変えており異色さが注目される。2004年、下條は「「竹島外一島」の「一島」が、今日の竹島を指すのかそうでないのか、判然としない[]」と記したが、2006年には一転して「外一島とは当時の松島、現在の竹島を指していると思う[]」と考えを変えた。しかるに20073月にはさらに自説を変更し、次のように記した。

 

島根県が伺いを立てた「竹島他一島」と, 太政官が判断した「竹島他一島」には違いがあった。『公文録』に添付された島根県提出の「礒竹島略図」には、 現在の竹島と礒竹島(現在の欝陵島)が描かれ、島根県では欝陵島と竹島を日本領として認識している。・・・・ 結論から言うと, 太政官が「関係なし」とした「竹島他一島」は、二つの鬱陵島を指しており、現在の竹島とは関係がなかったのである[]

 

 下條はこの文にて、島根県は「外一島」を竹島=独島と認識していたが、太政官は「外一島」を欝陵島と認識し、両者の理解には違いがあったと記した。この見解は、島根県竹島問題研究会の座長として示されただけに重要である。ところが、それから半年もしない内に下條は座長見解を変更し、島根県のいう「外一島」も欝陵島を指すとして「島根県は「竹島」のみならず、「松島」をも欝陵島と認識していた. つまり「竹島他一島」は, いずれも現在の欝陵島のことを指していたのである[10]」と又もや自説を変えた。このように自説を何の説明もなしにしばしば変えるとは、あまりにも異例である。

しかし、松島が今日の竹島=独島であることは『公文録』内務省之部に保存された「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」の付属地図「磯竹島略図」(図1,2)からも一目瞭然である。同図に描かれた松島は、東西二島からなる小島であり誰の目にも現在の竹島=独島であることは明らかである。この地図は島根県が大谷家図面をもとに作成したものであるが、それを内務省は同省の伺書に添付して太政官へ提出したのである。したがって、松島に関する地理的認識は島根県や内務省、太政官に共通することはいうまでもない。

 

さて、島根県からの伺書を受けた内務省は竹島外一島を本邦に関係ないとの結論を慎重にくだした。かつて内務省は『日本地誌提要』や『磯竹島覚書』を編纂し、両島を日本領外であるとの認識をもっていたので当然の判断であった。そのうえで「版図の取捨は重大の事件」との認識から翌年3月、念のために太政官へ伺書「日本海内 竹島外一島 地籍編纂方伺」を提出した。

 太政官に提出された伺書は太政官調査局で審査された。その結果、内務省の見解をそのまま認める指令案が作成され、稟議に回された。これは右大臣 岩倉具視、参議 大隈重信、同じく寺島宗則、大木喬任らにより承認、捺印され、内務省へ伝えられた。この指令は内容が重大なだけに関係書類と共に『太政類典』にも「日本海内竹島外一島を版図外と定む」として以下のように記録された。

 

三月廿九日 [十年]

日本海内 竹島外一島を版図外と定む

    内務省伺

  竹島所轄の儀に付 島根県より別紙伺出取調候処 該島の儀は元禄五年朝鮮人入島以来 別紙書類に摘採する如く 元禄九年正月 第一号旧政府評議の旨意に依り 二号訳官ヘ達書 三号該国来柬 四号本邦回答及ひ口上書等の如く則元禄十二年に至り夫々往復相済 本邦関係無之相聞候へとも版図の取捨は重大の事件に付 別紙書類相添 為念此段相伺候也

 三月十七日 内務

 (朱書)伺の趣 竹島外一島の儀 本邦関係無之儀と可相心得事

     三月二十九日

 

  このように、明治時代の最高国家機関たる太政官は内務省が上申したとおり、竹島、松島をセットにする理解にもとづいて、両島を日本領でないとして内務省へ指令をくだした。さらに内務省から現地の島根県へ太政官の指令が伝達され、この問題はすべて決着した。

 

 

 官撰地図等における竹島・松島

 

 江戸時代、幕府は何度も各藩に国絵図の作成を命じ、それをもとにして日本全体の国絵図を作成した。代表的な国絵図は、慶長図(1605)、正保図(1644),元禄図(1697),天保図(1831)などが知られている。それらの国絵図に竹島・松島は記載されなかった。各藩の絵図や幕府の日本絵図において竹島・松島は日本領と認識されなかったのである。

19世紀になり、幕府は伊能忠敬の測量にもとづいて近代的な官撰地図を作成した。「大日本沿海実測全図」、いわゆる「伊能図」であるが、そこにも竹島と松島は記述されなかった。これは元禄時代の「竹島一件」の結果から当然である。

幕末から明治時代前期にかけ、伊能図をもとに官撰地図が出版された。ここで官撰地図とは地理や国土を担当する政府機関が作成した地図をさし、それ以外の政府機関が作成した地図を官製地図と定義する。

 

(1) 日本の官撰地図

江戸時代から「竹島領土編入」以前の明治時代に作成された官撰地図をまとめると下記のとおりである。

 

(a)1821年「大日本沿海実測全図(実測輿地全図)」幕府作成、俗称「伊能図」

(b)1867年「官板実測日本地図」幕府出版、1870年に明治政府の開成学校から再版

(c)1879年「大日本府県管轄図」内務省地理局出版

(d)1880年「大日本国全図」同上

(e)1881年『大日本府県分轄図』同上、1882年に改訂

 

 上記の官撰地図で竹島=独島が含まれるのは、唯一 (e)『大日本府県分轄図』(地図帳)のみであり、それ以外の地図に竹島=独島は描かれなかった。ただし『大日本府県分轄図』であるが、竹島=独島は島根県などの各府県図には描かれず、日本や朝鮮を含む極東全体を描いた「大日本全国略図」にのみ描かれた。また注目されるのは、初版の「大日本全国略図」は松島を山陰道、すなわち日本の西北地方と同色に彩色したが、改訂版は同島を無彩色にしたことである。改訂版では初版の誤りを正し、松島を日本領外と表現したとみられる。

なお、蛇足ながらつけ加えれば、上記すべての地図ならびに下記の官製地図に竹島=独島の別名である「リアンクール」の名前は登場しない。以上のように「リアンクール編入」以前、明治政府の官撰地図はすべて竹島=独島を日本領外に表現したといえる。

 

(2) 日本の官製地図

 明治時代、内務省以外の政府機関にて作成された日本地図は下記の通りである。

 

(a)陸軍参謀局「大日本全図」1877年、竹島・松島は無記載。

(b)文部省「日本帝国全図」1877年、竹島・松島は朝鮮同様に無彩色。

(c)陸軍陸地測量部「輯製二十万分一図一覧表」1885製図、1890修正、1892再修。松島はなく、竹島に相当する島は点線表示にされ、島名は無記載。

 

上記の地図すべてにおいて、竹島=独島は記載されないか、あるいは記載されても日本領外として扱われた。1905年以前、すべての官製日本地図において竹島=独島は日本領外として認識されたといえる。

官製地図とは別に、海軍水路局は海図を1冊にまとめた『大日本海岸実測図』を明治12(1879)年に発刊した。その中で日本および朝鮮を描いた「日本海岸全図」に欝陵島が松島の名前で、竹島=独島がリアンコールトの名前で記載された。この島名は水路局が依拠していたイギリス海軍の海図の影響によるものである。また、水路局の前身である水路寮は明治91876)年に「朝鮮東海岸図」を発刊したが、そこには欝陵島が「松島」の名で、竹島=独島が「ヲリウツア並メネライ礁」の名で記載されたのである。

こうした軍用地図や海図は地理的な認識を示すだけなので、そこからリアンコールトなどの島に対する国家としての領有意識を判断することはできない。しかしながら、竹島=独島が洋名のリアンコールトなどと命名されたので、少なくとも水路局には日本古来の松島という名前に対する明確な認識はなかったといえる。

 

 

 外務省の竹島・松島認識

 

竹島と松島を日本領外とする認識は外務省も同様である。1869(明治2)年、外務省は朝鮮との新しい外交関係樹立を模索するために朝鮮の内情を調査すべく、太政官の裁可を得て、同省高官の佐田白茅、森山茂、斉藤栄らを朝鮮に派遣した。佐田らはその翌年、報告書『朝鮮国 交際始末 内探書』を提出したが、そのなかで「竹島松島 朝鮮付属に相成候始末」と題する一項をもうけ、こう記した。

 

    竹島松島 朝鮮付属に相成候始末

此儀は 松島は竹島の隣島にて 松島の儀に付 是迄掲載せし書留も無之 竹島の儀に付ては元禄度後は暫くの間 朝鮮より居留の為差遣し置候処 当時は以前の如く無人と相成 竹木又は竹より太き葭を産し 人參等自然に生し 其余漁産も相応に有之趣相聞へ候事・・・・

 

 この報告書からわかるように、外務省も竹島・松島は元禄期以降に朝鮮領となったと認識していたのである。この認識は、外務省から朝鮮内探の報告を受けた太政官も同様であったと思われる。日本では元禄期以降の天保期にも今津屋八右衛門事件をきっかけに竹島への渡海や遠き沖乗りが禁止されたので、竹島や松島は朝鮮領と考えられていたのである。

明治時代になると、日本は官民を挙げて海外へ次第に進出するようになったが、その風潮の中で資源が豊富な竹島(欝陵島)が再び注目されるようになった。欝陵島の豊富な森林資源や海洋資源などを目当てにして、外務省などに「松島開拓の議」、「松島開拓願」などが1876年から78年にかけて相次いで提出された。これらの開拓願いにいう「松島」とは、実は古来の竹島、すなわち欝陵島を指す。そのころになると、外国の誤った地図の影響を受け、欝陵島を次第に松島と呼ぶ民間人が増えはじめたのである。

松島開拓願を受けた外務省は「松島」なる島の所在をめぐって大いに混乱した。松島と竹島との位置関係や、はなはだしくは隠岐の沖合にある島は2島なのか、3島なのかすら外務省は把握しきれない状況であった。

外務省内は諸説紛々であったが、次第に開拓願いにいう松島は古来の竹島であると理解されるようになった。記録局長の渡辺洪基は「その松島デラセ嶋なるものは本来の竹嶋即ち蔚陵島にして、我が松嶋なるものは洋名ホル子ットロックスなるか如し」と述べ、開拓願いの松島は古来の竹島(蔚陵島、欝陵島)であり、古来の松島はホルネットロックス(竹島=独島)であろうと推測していた。また、公信局長の田辺太一は、開拓願いの松島は古来の竹島、すなわち「朝鮮の蔚陵島」であると断定し、開拓願いに却下の意見を付した。さらに古来の松島については「聞く、松島は我が邦人の命名した名前であり、その実は朝鮮の蔚陵島に属する于山なり」と述べ、古来の松島は蔚陵島付属の于山島であると理解していた。このように、外務省では古来の松島と開拓願いの松島をおおむね正しく見分けていたが、誰も確信を持てない状況であった。

 

 一方、欝陵島近辺の測量は18786月になって海軍水路局により行なわれた。その報告書において古来の竹島は、イギリス海軍の海図にならって名前が「松島」とされて『水路雑誌』に公表された[11]。さらに、1880年に「水路報告第33号」にても「松島 韓人之を鬱陵島と称す」と報告された[12]。この水路局の断定は決定的な影響を与えた。外務省の北沢正誠は「今日の松島は即ち元禄12年称する所の竹島にして 古来我版図外の地たるや知るへし」として調査報告書『竹島考證』に記したのであった。その一方、北沢は当時同じく問題になっていた竹島については水路局の「竹嶼 朝鮮人之を竹島と云ふ[13]」という認識をもとにしたのか、竹島を欝陵島東方の竹嶼に比定し、「竹島なる者は一個の岩石たるに過ぎざる」と『竹島考證』に記した。なお、北沢は欝陵島に関してはその歴史を江戸時代にさかのぼって詳細に調査したものの、竹島=独島については知識がなかったのか、ほとんど記述しなかった。

 

 

 海軍省の竹島・松島認識

 

明治時代初期の島名混乱に完全に終止符を打ったのが、水路局後身の水路部である。1894年、水路部は『朝鮮水路誌』を発行し、その中で欝陵島を「一名 松島」と記載した。これは海図や『水路雑誌』に比べてはるかに影響力が大きく、これ以後は古来の竹島、つまり欝陵島は日本で正式に松島と呼ばれるようになった。そのため、古来の松島、すなわち竹島=独島は日本でその固有名称を失い、代わりに西洋名のホルネットやリアンクール、略してリャンコ、ヤンコなどとよばれるようになった。前述の『朝鮮水路誌』にも竹島=独島はリアンコールト列岩として次のように記載された。

 

リアンコールト列岩

此列岩は洋紀一八四九年 仏国船「リアンコールト」号初て之を発見し 船名を取て リアンコールト列岩と名つく 其後一八五四年 露國「フガレット」形艦「パラス」号は此列岩を メナライ及ヲリヴツァ列岩と称し 一八五五年 英艦「ホル子ット」號は此列岩を探検して ホル子ット列島と名つけり 該艦長フォルシィスの言に拠れば 此列岩は北緯三七度一四分東経一三一度五五分の処に位する二坐の不毛岩嶼にして鳥糞常に嶼上に堆積し嶼色為めに白し 而して北西微西至南東微東の長さ凡一里 二嶼の間距離一/四里にして見たる所一礁脈ありて之を連結す

 

リアンコールト列岩は『朝鮮水路誌』のみに記載され、同じ時期の『日本水路誌』に記載されなかったのは特筆に値する。元来『日本水路誌』の扱う範囲は日本の領土・領海に限定されていたのである[14]。したがって、リアンコールト列岩が日本領との認識であれば、日本の西北海域を扱った『日本水路誌』第4巻(1897)に当然記載されるべきである。しかし、そこには欝陵島や竹島=独島に該当する島の記述はないし、関係する日本海図にも両島は記載されなかった。これは日本の島嶼などを確認し、ひいては日本の国境を画定する役割をもった水路部がリアンコールト、すなわち竹島=独島を日本領外とみなしたことを意味する。

以上のように、太政官や内務省、陸軍、海軍、外務省、文部省など、竹島・松島に関係の深いすべての政府機関は欝陵島と竹島=独島を朝鮮領と考えていたといっても過言ではない。

 

 

 竹島=独島の編入

 

帝国主義国家として順調な発展を遂げた日本は、次第に朝鮮や満州などの海外に進出するようになった。特に日本が日清戦争に勝利するや、日本人の海外進出は顕著になり、明治政府もこれを積極的に支援するようになった。漁業分野において、日本は1898年に遠洋漁業奨励法、1902年に外国領海水産組合法を制定し、一貫して日本人の海外進出を奨励し、官民一体となって朝鮮の漁場へなだれ込むようになった。その結果、欝陵島における日本人の漁業も盛んになり、やがて1903年ころからは、隠岐島民や欝陵島民(韓国人および日本人)の間で竹島=独島でのアシカ猟が始まった。翌年、日露戦争が始まるや、アシカの油などが戦争特需の高値相場で注目され、竹島=独島におけるアシカ猟は過当競争、乱獲の様相を呈するようになった。

そうした弊害を避け、竹島=独島におけるアシカ猟の独占を図るべく漁民の中井養三郎は奔走し、日本政府へ働きかけをおこなうようになった。それを島根教育界編『島根県誌』(1923)は「三十七年各方面よりの競争濫猟あり。種々の弊害を生ぜんとせり。是に於て中井は此の島を朝鮮領土なりと思考し、上京して農商務省に説き同政府に貸下の請願を為さんとせり」と記した。中井がリャンコ島を朝鮮領と考え、朝鮮政府へ貸下願いを出そうとしたことは彼が島根県へ提出した彼の履歴書からも明らかである。

中井は農商務省の牧朴眞 水産局長や、海軍水路部の肝付兼行部長らと接触するうち、水路部からリャンコ島の所属は「確乎たる徴証なく、ことに、日韓両国よりの距離を測定すれば、日本の方十浬近し・・・日本領に編入する方然るべし」との見解を得た。水路部は前述のようにリャンコ島を朝鮮領と判断して『日本水路誌』ではなく『朝鮮水路誌』に記載したが、その判断を根本的に変えたのである。

この結果、中井は「リヤンコ島貸下願」を朝鮮政府ではなく日本政府に提出するようになったのであるが、これには最初のうち内務省が反対した。かつて同省は竹島=独島を版図外とする太政官指令を受けていただけに、中井の願書に対して「此時局に際し 韓国領地の疑ある莫荒たる一箇不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の野心あることの疑を大ならしむ」として一旦は却下した。

しかし、外務省の考えは違っていた。政務局長の山座円次郎は「時局なればこそ その領土編入を急要とするなり、望楼を建築し、無線若くは海底電信を設置せば敵艦監視上極めて屈竟ならずや、特に外交上 内務のごとき顧慮を要することなし。須らく速かに願書を本省に回付せしむべし」として中井を督促した。

山座の見解は、当時の日本の戦況からすれば自然な発想であった。日本海(東海)で日本の輸送船がロシアのウラジオ艦隊に次々と沈められ、日本軍は軍需物資の補給に支障をきたしていた。そのため、同海域における軍事施設の強化が急務であり、欝陵島や竹島=独島は軍事上の重要なキーストーンとして浮かびあがった。

さらに対外関係をみると、この時期、日本は日英同盟や桂タフト条約を締結しており、もはや朝鮮問題で西欧列強に神経を使う必要がなかったのである。こうした外務省の状況判断に内務省も従い、19052月、中井から提出された「リヤンコ島領土編入並に貸下願」を閣議にはかり、正式に閣議決定した。

ところで、日本政府が竹島=独島を領土編入した論理であるが、それは「無主地」であるリヤンコ島に中井が1903年以来「移住」したので、これを国際法上の占領と認めて日本の領土に編入したというものであった。しかし、この論理には無理がある。まず、中井は竹島=独島に夏季のみ毎回10日程度仮居するにとどまり「移住」にはほど遠かったのである。それにも増して重要なのは、それまで日本政府が朝鮮領と考えていたリヤンコ島を無主地と判断したことである。かつて明治政府は、前述のように内務省や外務省、陸軍、海軍、太政官など関係機関が同島を朝鮮領と考えていたが、その判断を根本的に覆すものであった。

 閣議決定後、領土編入は政府内で秘密裏に処理された。官報による告示もなく、わずかに政府の訓令を受けた島根県が2月22日、県告示40号で同島を竹島と命名し、隠岐島司の所管にすると公示したにとどまった。このように日本の竹島=独島編入は政府レベルで秘密裏になされたので、日本国民はその事実をほとんど知らずにいた。それどころか主要なマスコミすら知らずにいた。告示から三か月以上たった五月三十日、歴史的な日本海海戦の勝利を伝えるほとんどの新聞は政府が命名した「竹島」の名前を用いず、外国名の「リアンコールド岩」という名で報道した。はなはだしくは、海軍省や官報ですら「竹島」でなく「リアンコールド岩」の名をしばらく使用していた[15]。海軍省は水路部を擁し、国境について熟知しているはずなのに、海軍省ですら「竹島」編入の閣議決定が周知徹底していなかったようである。また、地元の山陰新聞は県告示を「隠岐の新島」という見だしで小さく報道した。地元でも古来の松島の名は忘れられてしまい、竹島=独島は新島扱いにされた。竹島=独島に対する固有領土の意識は皆無だったようである。

 

 

 まとめ

 

明治政府は、竹島に関して江戸時代の歴史を丹念に調べ、『磯竹島覚書』を編纂した。それにより、江戸幕府が竹島(欝陵島)を日本領でないと判断して同島への渡航の禁止を朝鮮へ伝達したことを確認した。さらに、江戸幕府が竹島と共に松島がいずれの藩にも属さないと理解した史実などを確認した。そうした歴史認識に立ち、内務省は1877年に島根県から竹島・松島の地籍編纂に関する伺書が提出された時、両島を日本の版図外と判断したのである。そのうえ、念のため「版図の取捨は重大の事件」との認識から慎重に太政官へ伺書を提出して承認を得た。こうして、竹島・松島が日本の領土外であることを明治政府は公式に確認したのである。

その明治政府の決定に沿って内務省は官撰地図や官撰地誌において欝陵島と竹島=独島を日本領外として記述したのであった。これは内務省に限らず、文部省や陸軍省なども同様に独自の官製地図において竹島・松島を日本の領土外として記述した。また、海軍省も同様の方針で竹島・松島を『日本水路誌』に記述せず、『朝鮮水路誌』に掲載したのである。

その後、帝国主義国家として発展した日本は、日露戦争の最中に「時局なればこそ、その領土編入を急要とするなり」との判断から竹島=独島の領土編入を閣議決定した。その際の名分は、竹島=独島は「無主地」であるというものであった。これは現在の日本政府が主張する「竹島固有領土」説と相いれないことはいうまでもない。

 

 



[] 大熊良一『竹島史稿』原書房、1968, p.254

[] 塚本孝「竹島関係旧鳥取藩文書および絵図(上)」、『レファレンス』第411号、1985p.86

[] 池内敏『君外交と「武威」』名古屋大学出版会、2006, p.351

[] 堀和生「1905 日本の竹島領土編入」、『朝鮮史研究会論文集』第24号、1987p.103

[] 塚本孝「竹島領有権問題の経緯」、『調査と情報』第289号、1996p.5

[] 内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争』新幹社、2007p.20

[] 下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004p.123

[] 下條正男『発信 竹島』山陰中央新報社、2006p.19

[] 下條正男「最終報告にあたって」、『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』竹島問題研究会、2007p.2

[10] 下條正男「日本の領土「竹島」の歴史を改竄せし者たちよ」、『諸君』、2007p.103

[11] 『水路雑誌』第16号、海軍水路局、18837月、p.42

[12] 北澤正誠『竹島考證』下、1881

[13] 『水路雑誌』第41号、海軍水路局、18837月、p.35

[14] 堀和生、前掲論文、p.105

[15] 「官報」、明治38529日・30