下條正男の論説を分析する

韓国嶺南大学校『獨島研究』第4号より転載

 

  

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 1. はじめに

 2. 下條と独島問題のかかわり

 3. 下條と日本外務省とのかかわり

 4. 下條の朝鮮史書に対する批判

   () 『東国文献備考』への批判

   () 安龍福事件に対する批判

   () 大韓帝国勅令

 5. 下條の日本史に対する見解

   () 江戸幕府の独島認識

   () 外務省報告『朝鮮国交際始末内探書』

   () 太政官の「竹島外一島」版図外指令

 6. 結語

 * 表 「下條正男著作一覧」

 

 

 

1. はじめに

 

  日本で独島(日本名, 竹島)に関する論説を一番多く発表している人物といえば, それは下條正男·拓殖大学教授である. 下條が書いた著書や論説の一覧を表に示すが, 特に2005年の島根県条例「竹島の日」制定以降に多く, 毎年5, 6編の論説が発表されている. それも『諸君』や『正論』など右翼系の二大雑誌に発表されることが多いので, 専門家以外からも注目をあびている. 本稿ではそれら数多い論説の中で, 特に問題の多い主張を重点的に批判することにする.

 最近, 下條の発言はとかく目立つので, 韓国では彼の発言をあたかも日本を代表する発言ととらえる傾向が強いが, これは間違いである. 特に, 「竹島の日」以前に書かれた下條の論説は, 日本では完全に少数意見である. これは日本における独島問題研究の状況を彼自身が「竹島研究をしてきた日本側の研究者たちは, 朝鮮史研究者が圧倒的に多く, 日本の主張が間違っていて韓国の主張が正しいとする意見が圧倒的な影響力をもっていました(表の著作記号2006C, P118).」と語ったことからも容易に推測される.

 また, 下條の論説で留意すべきは, それが発表された時期である. ある時期の論説だけを取りあげて, それをそのまま彼の意見とみることはできない. 下條の見解はよく変わるからである. たとえば, 後述するように明治政府の太政官指令に登場する「外一島」を, ある時には不明とし, またある時には独島とし, さらにある時には欝陵島とするなど定説がないのである.

 さらに下條の論説で特記すべきは, 文献資料の恣意的な解釈である. 1996, 彼は韓国でも独島に関する見解を雑誌『韓国論壇』に発表し, 国防大学の金柄烈と論争を繰りひろげたので, 彼の論調スタイルは韓国でもよく知られている. そうした下條の流儀は, 韓国で受けいれられないばかりか, 日本でも外務省などに容易に受けいれられなかった. しかし, 状況は「竹島の日」条例の制定を機に変わりつつある. 島根県が下條を竹島問題の中心に据え, 彼の主張を印刷物やインターネットをとおして流布し始めたので, 下條の影響力は高まりつつある.

 

2. 下條と独島問題のかかわり

 

  まず, 下條正男の簡単な経歴をみる. かれは国学院大学の大学院にて日本史を専攻したが, 博士論文は書かず, 1982年に韓国へ渡った. 翌年, 三星総合研修院で主任講師を務めた. 1994, 市立仁川大学校の客員教授となった.

1995年末, 韓国政府が独島に船舶の接岸設備を建設するや, 韓日関係が騒然となったが, 下條はその頃から独島問題に関心をもったとされる. 日本史を専攻した彼は韓国の歴史資料を分析するうちに「韓国側はきちんと過去の文献が読めていないのではないかという結論に至り(2006C, P116), その考察を日本の雑誌『現代コリア』や, 先に述べた『韓国論壇』に発表した. その論説は, 安龍福の見た于山島を隠岐島とするなど荒唐無稽なのだが, 一躍, 韓国で注目される存在になった.

  その後, 下條は日本へ帰国し, 19994, 拓殖大学国際開発研究所教授になった. 拓殖大学は特異な歴史を有する大学である. 拓殖大学の前身は台湾協会学校であり, 日本の植民地である台湾の「開発」に貢献しうる人材の育成を目的にして1900年に創立された. 1907年には開発の対象を大韓帝国など東洋に広げるため, 名前を東洋協会専門学校と改めた. さらに, 1918年に名前を植民地開拓の意味あいから拓殖大学と改名した. 日本のアジア植民地支配と深いかかわりを持つ大学である. 元首相の中曽根康弘が学長を務めたこともある. 日本で拓殖大学は国学院大学と共に右寄りの大学として知られている.

  下條は拓殖大学に転職してからは独島関係の論説を毎年数編ずつ書いたが, 2004年に日本の大手出版社である文芸春秋社から単行本『竹島は日韓どちらのものか』を発刊するや, 脚光を浴びるようになった. その彼に着目して島根県が竹島問題研究会の座長に迎えた.

  2007, 竹島問題研究会は2年にわたる調査研究の末, 『竹島問題に関する調査研究-最終報告書』(『最終報告書』と略す)を島根県へ提出して任務を終了した. この報告書の形態は, 研究会としての統一見解を示さず, 各委員や協力者による論文および資料を寄せ集める形で発刊された.

その後, 島根県は竹島問題研究会を引き継いでインターネット中心の「Web竹島問題研究所」を発足させ, 下條を所長にした. 現在, かれは同研究所のホームページで「実事求是」と題する随想文シリーズを連載し, 彼の論敵である池内敏や筆者, あるいは韓国海洋水産開発院や東北亞歴史財団などの諸団体を批判している.

 

 

3. 下條と日本外務省とのかかわり

 

  下條と外務省とのかかわりは, 1996年にさかのぼる. 独島問題に関する自己の論説を駐韓日本大使館の幹部へ届けたのが始まりである. その時, 大使館は何の反応も示さなかったようである(2006C, P117). 当時の日本政府は独島問題で積極的な弘報活動をほとんどおこなわず, イッシュー化された時だけ形式的な抗議を韓国政府へ申入れる程度であった. いわば, 静かな外交政策をとっていたのである. その背景には独島問題に関する韓日間の密約があったようであり[1], 韓国も同様に静かな外交政策を採用していた.

  しかし, 両国の静かな外交政策も島根県が「竹島の日」を制定したことで転機を迎えた. これに韓国世論が激しく反発して沸き立つや, その余波は日本を刺激した. 独島問題が急に注目を浴びるようになり, 論説などが多く発表された. その際, 日本政府を批判する先頭に立ったのが, 下條正男である. 彼は事あるごとに日本政府, なかでも外務省をきびしく批判した. たとえば「竹島の日」制定直後に, 下條は下記のような現状分析をおこない, 政府を批判した.

 

日本には, 竹島問題を専門に取り扱う部署がない. これでは日本政府が戦略的な対応ができないのも無理はない. そのことは「竹島の日」の制定と前後して書き換えられた外務省のホームページの記事に, 端的に現れている. 新しいホームページでは, 「不法占拠している」と踏み込んだ表現を採ったが, 竹島の領有権を主張する日本側の論拠は旧来のものを踏襲しており, 韓国側が納得する内容とはなっていないからだ.

   それは外務省の調査員であった川上健三氏が1966年に刊行した『竹島の歴史地理学的研究』を無批判に使っているからである. これに対して韓国側の竹島研究は, 川上健三氏等の研究成果を批判するところから始まっている.

そのため韓国のインターネット上では, すでに外務省のホームページに対して, 反論できる水準と一蹴しているのである. …… 現状のまま竹島が日本領であると主張し続けていれば, 日本側に領土的野心があると疑われても仕方がない.

   日本側が旧態依然としているのは, 日本の竹島研究が1960年代を境に中断し, 代わって日本国内に竹島を韓国領とする研究がいくつも出現したにもかかわらず, 積極的に反駁してこなかったことによる.

これは外務省の怠慢というよりも, 日本の構造的な問題である. 領土問題という国家主権に関わる問題が, 一政権の政策に委ねられ, 問題解決が先送りされてきたこととそれは関係している.

さらに外交を担当する外務省も, 数年で人事異動が行なわれる現状では, 担当者が代わるたびに領土問題に対する捉え方に濃淡があっても無理はない. そこに, 日本国内には過去の歴史問題を取り上げ, 安易に政府批判をする風潮が生まれていた. それも客観的事実に基づいた論争なら歓迎できるが, 一方的な非難であった(2005D, P42).

 

   下條の現状批判は外務省の問題点を的確に指摘している. 日本で独島問題は国民的な関心が比較的薄いうえに, 解決への展望が暗く, 努力しても成果がまったく見込めないので, そうした困難な問題に外務省は有能な人材を長く担当させられないのである. そのため, 外務省は独島問題への対応が消極的になっていた. これは韓日間の「独島密約」がからむのかも知れないが, 外務省首脳は島根県の「竹島の日」条例に対してさえ「実効的には何の意味もないことを県民感情だけで決めるのは, 率直に言っていかがなものかと思う」と冷ややかに突き放していた. そんな外務省を下條はこう批判した.

 

「竹島の日」が成立してから, この1年の経過を見ていますと, 日本には外交というのが全くなかった. より正確に言えば, 外交に携わる政治家·関係当局といった人々に, 当事者能力がまったくないということがはっきりした(2006B, P30).

 

  このように下條は「日本には外交がない」とか, 「当事者能力がない」とか日本政府を辛辣に非難した. こうした毒舌に対して外務省はほとんど沈黙している. 下條が指摘するように, 独島問題で外務省が積極的に動かないのは他にも事情がありそうである. 外務省は1950年代の主張を容易に変えられないという自縄自縛の側面を有する. その典型例が外務省の「竹島は日本の固有領土」という主張である. この見解に内藤正中·島根大学名誉教授らが歴史資料の根拠をあげて批判し続けているのはよく知られているとおりである[2]. そのため, 島根県ですら「固有領土」論を採らないのである. 具体的にいうと, 島根県竹島問題研究会は, 独島は1905年以前に「無主地」であったので, 日本の固有領土ではなかったとしている. それを下條が下記のように紹介した.

 

今日の竹島は「無主の地」となっていたのである. 従って, 島根県(竹島問題研究会,筆者注)の中間報告では「固有の領土論」を採っていない.……

事実関係を明らかにすることなく, 外務省が竹島関連のホームページを「(韓国が, 筆者注)不法占拠している」と書き換え, 文部科學省が竹島を「固有の領土」と発言すれば, 韓国側が反論しても当然である(2006E, P276).

 

  竹島問題研究会が「竹島固有領土論」を採用しなかったのは, もちろん下條の意見によるところが大きい. そのため, 下條の見解を大幅に取り入れて島根県が発行したパンフレット『フォトしまね』 161号「特集竹島」には固有領土の記述はみられない. しかし, その見解は今後も変わらないのかどうか, 注視する必要がある.

一方, 外務省が言いだした日本の「固有領土論」は日本国内でどんどん一人歩きをして, 今では文部科学省が教科書に「固有領土」の記述をするよう指導するまでになった. そのため, 外務省のみならず, 日本政府はいかなる批判があろうとも「日本の固有領土論」を簡単に引込めるわけにはいかない情勢である.

これまで日本政府を批判してきた下條は, 最近では外務省へ独島関連の資料を提供し始めたので注目される. 具体的にいうと, 竹島問題研究会が作成した『竹島問題に関する調査研究 - 最終報告書』を外務省北東アジア課へ提出した[3]. これに外務省も反応を見せ始めた. 外務省は『最終報告書』における下條の主張を部分的に取り入れ, 20082月にはパンフレット『竹島問題を理解するための10のポイント』を日本語や韓国語, 英語で作成した. その中に下條の主張がいかに取り込まれたのかは次節で示す.

 

 

4. 下條の朝鮮史書に対する批判

 

(1)『東国文献備考』への批判

 

  下條の独島問題研究の原点は, 朝鮮史書に対する批判にある. その動機は, 独島は歴史的に韓国領であるという韓国の主張に反論するためには, 日本の資料だけに依存するのではなく, 韓国が依拠している朝鮮史書を批判する必要があると考えたからである. 中でも下條が特に問題にしたのは『東国文献備考』に書かれた「于山は則ち倭の所謂松島なり」という一節である. 下條は, それは捏造されたと決めつけて下記のように記した.

 

  韓国側は, 何を根拠に, 独島を欝陵島の属島とするのであろうか. その論拠となっているのが, 1770年に編纂された『東国文献備考』である.その分註には, 「輿地志に云う, 欝陵于山皆于山国の地. 于山は則ち倭の所謂松島なり」とあって, 「欝陵島と于山島はいずれも干山国の地で, 于山島は日本の松島だ」と記されている.

   だが, 『東国文献備考』は, 申景濬の『疆界誌』を底本としていた. そこで底本の『疆界誌』を見ると, 当該箇所では「輿地志に云う, 一説に于山欝陵本一島」と引用されており, 『東国文献備考』の分註に引用された「輿地志」とは文章が違っていたのである. さらに申景濬の『疆界誌』に引用された「輿地志」を, 原典である柳馨遠の『東国輿地志』で確認してみると, そこには「一説に于山欝陵本一島」とあったのである.

  この事実は, 『東国文献備考』で「于山島は倭のいわゆる松島なり」とされた分註は, 柳馨遠の『東国輿地志』に由来するのではなく, 『東国文献備考』の編纂過程で捏造されていた, ということである. 独島を欝陵鳥の属島とし, 6世紀以来韓国の領土とする韓国側の根拠は, 崩れてしまったのである(2007B, P3).

 

この文章で特筆すべきは, 『東国文献備考』が引用した『輿地志』の本来の記述は于山島と欝陵島を同一の島であると下條が考えたことである. これは, 彼の著書『竹島は日韓どちらのものか』を見ると, もっとはっきりする. 彼はこの書物のなかで, “オリジナルの『輿地志』では, 「一説に于山鬱陵本一島」と于山島と鬱陵島は同じ島の別の呼び方(同島異名)としている(2004A, P100).”と記したのである.

この下條の見解は, そのまま外務省の最近の弘報刊行物に取り入れられた. 外務省が初めて刊行したパンフレット『竹島問題を理解するための10のポイント』に, 「これ(韓国の主張, 筆者注)に対し, 『輿地志』の本来の記述は, 于山島と鬱陵島は同一の島としており, 『東国文献備考』等の記述は『輿地志』から直接, 正しく引用されたものではないと批判する研究もあります」と記された. 明らかに下條の論説が引用されたのである.

このように, 外務省は下條の論説をまったく検証することなく引用したが, そもそも下條の論説は誤りである. 『輿地志』すなわち柳馨遠の『東国輿地志』は, 同島異名説を本説にしたのではなく, 于山島と欝陵島を別々の島とする二島説を本説としている. すなわち, 『東国輿地志』の記述は下記のように見出しからして于山島·欝陵島の二島になっている.

 

于山島, 欝陵島

一に武陵という. 一に羽陵という. 二島は県の真東の海中にある. 三峰が高くけわしく空にそびえている. 南の峯はすこし低い. 天候が清明なら峯のてっぺんの樹木やふもとの砂浜, 渚を歴々と見ることができる.風にのれば, 二日で到着できる. 一説によると于山, 欝陵島は本来一島という. その地の大きさは百里である.

 

  この文は官撰書『東国輿地勝覧』と完全に同じである. といっても剽窃ではない. 元来『輿地志』は, その「凡例」に断り書きがあるように, 目的は『東国輿地勝覧』を「増修」することにあった. 当時, 名著の『東国輿地勝覧』は増訂版の出版後100年以上も経過し, その間に社会の変動が多々あったので, その増補を目的に『輿地志』が書かれたのであった. したがって, 于山島のように変動がない記述はそのままにされた.

 要するに, 『東国輿地勝覧』も『輿地志』も于山島と欝陵島を別々の島とし, 一島説を単なる一説として書いた. したがって, 下條の両島を「同島異名」とする解釈は明らかに引用の誤りである. 下條は『輿地志』に書かれた一説の記述のみをとりあげ, 『輿地志』の見解とは正反対の見解を, さも『輿地志』の見解であるかのように記したのであった. このように資料の一部を恣意的に取りあげ, 我田引水的な解釈をするのが下條の特徴である.

 ここで, 改めて『輿地志』と『彊界考』および『東国文献備考』の関係を整理する. 『輿地志』は申景濬により『疆界考』および官撰書である『東国文献備考』の分註に次のように引用された.

 

『疆界考』(1756)

   按ずるに 輿地志がいうには一説に于山·欝陵は本一島, しかるに諸図志を考えるに二島なり, 一つはすなわちいわゆる松島にして, けだし二島ともにこれ于山国なり.

 

『東国文献備考』 「輿地考」(1770)

  輿地志がいうには 欝陵 于山は皆于山国の地, 于山はすなわち倭がいうところの松島なり.

 

一般に, 古文書は日本のみならず, 韓国や中国でも句読点が一切ない. したがって, この場合でも分註のどこまでが引用で, どこからが申景濬の見解なのかはっきりしない, 『輿地志』の原文を参照すると, 『疆界考』の場合は下條が指摘するように「一説に于山・欝陵は本一島」が, 『輿地志』の引用文であり, それ以下は申景濬の見解であることがわかる. 申景濬は『輿地志』や『東国輿地勝覧』に一説として書かれた同島異名説を否定するため、ことさら『疆界考』でその一説を特記したとみられる. その一方, 当時は本説である二島説は自明であったためか, 分註では特にふれなかったと見られる.

つぎに『東国文献備考』の場合は, 「欝陵・于山は皆于山国の地」が引用文であり, それ以下の「于山はすなわち倭がいうところの松島なり」は申景濬の見解であることが『輿地志』からわかる. もちろん, 下條正男が喧伝するような史書の「捏造」や「改竄」などはなかったのである.

 

(2)安龍福事件に対する批判

 

 官撰書である『東国文献備考』に「于山は倭のいう松島」と書かれたのは, 明らかに安龍福事件の影響とみられる. そのため, 下條は安龍福の備辺司における供述に着目し, それがいかに虚偽に満ちているのかを力説することにより, 『東国文献備考』などが信頼できないことを示そうとした.

  安龍福の認識であるが, かれが「子山(于山)は倭のいう松島」と考えるようになったのは, 1696年の二度目の渡日時であった. その年の5, 安龍福は竹島(欝陵島)から松島(子山島)を経由して隠岐島や鳥取藩へ行ったが, 隠岐島に安龍福が「松島は子山島である」と供述した記録が残された.

  その記録は村上家文書と呼ばれるが, 正式名は「元禄九丙子年 朝鮮舟着岸一巻之覚書」である. その記録において, 安龍福は竹島, 松島の位置に関して「竹島と朝鮮の間は30(120km), 竹島と松島との間は50(200km)」と述べたので, 竹島と松島は今日の欝陵島と独島を指すことは間違いない. さらに安龍福が実際に松島へ渡ったことも, 村上家文書に彼の供述として, 515日竹島出発, 同日松島に到着」と記録されたのでほぼ間違いない. 安龍福は今日の独島を松島(子山島)であると正しく認識していたのである. しかし, 下條は安龍福の第1次渡日時における于山島認識を持ちだし, 安龍福のいう于山島は隠岐島であるとして, 下記のように主張した.

 

 なぜ安龍福は干山島を日本の松島(現在の竹島)と思い込んだのだろうか. それには大谷家の漁師たちによって日本に連れ去られた際の, 安龍福の体験が深く関わっていた.

『辺例集要』によると, 日本に連れ去られた際, 安龍福は鬱陵島を出帆して「一夜を経た翌日の晩食後」, 黄昏の海上に鬱陵島よりも「すこぶる大きな」島を目撃した. 鬱陵島を出たのが418日の午後2時ごろ, 隠岐島の福浦(現在の五箇村)に着いたのが20, したがって安龍福が言う「翌日の晩食後」は, 19日の晩食後ということになる. 鬱陵島にいた際, 子山島までは「大方, 1日の道程」と目測していたが, 明日は隠岐島に着くという直前の夕方, ほぼ「1日の道程」で, 安龍福は「すこぶる大きな島」に遭遇したのである. 安龍福はこの島を, 日本人が言うところの松島(今日の竹島), 朝鮮側で言う子山島と思い込んだのである. そして, 鬱陵島から「1日の道程」にある「すこぶる大きな島」は, 朝鮮領に違いないと思ったのであろう.

  しかし, 鬱陵島から鳥取藩に至る間に, 鬱陵島より「すこぶる大きな」島は隠岐島以外には存在しない. 今日, 日韓の係争の地となっている竹島は, 鬱陵島よりもはるかに小さな島である. 実際に船酔いで船中に臥せていた朴於屯も, 鬱陵島の「前後, さらに他島なし」と証言している. おそらく安龍福は、隠岐島を于山島と誤認したのだろう(2004A, P71)

 

下條は, 安龍福は于山島を欝陵島の東北にあると認識していたので, 欝陵島の東南にある独島は関係ないとしておきながら, 同じように東南にある隠岐島を独島と関係なしとせず, 安龍福の供述で「すこぶる大きい島」という部分のみを重視し, 安龍福の見た于山島は隠岐島であると強弁したのである. この主張は荒唐無稽であるとして, 池内敏は下記のように指摘した.

 

  安龍福を虚言癖の男と評価する流れは, 近年では下條正男に代表される. しかしながら, たとえば安龍福が見た松島は竹島/独島ではなく隠岐島だったとする下條正男の主張は荒唐無稽である.

  安龍福が竹島(鬱陵島)および隠岐諸島と区別された島として松島(竹島/独島)を認知していたことは隠岐·村上助九郎家文書によりはっきりしたが, そもそもから右主張は『邊例集要』の誤読にもとづく誤謬であった. こうした誤謬がもたらされた背景には, 安龍福を虚言癖の男とする評価への過剰なこだわりがある[4].

 

池内が指摘するように, 下條が安龍福を虚言癖の男と主張することに執着するのは, 安龍福の証言が官撰史書に取り入れられ, 英雄としての安龍福像がつくられていったことへの反発があるようである. 彼は究極的に安龍福を虚言癖の男とするために, 安龍福の供述を評して「欝陵于山両島監税という官名を名乗ったことと, (安龍福, 筆者注)自身が駕籠に乗り, 他の者は馬で鳥取城下に入ったという証言以外はすべて偽り(2006D, P12)」と極論したのである. その挙句, 安龍福を「諸悪の根源」扱いにして, こう記した.

 

竹島問題において「諸悪の根源」ともいうべき人物がいる. 1696, 日本に密航した安龍福という賤民(私奴), 彼は朝鮮に帰還後, 取調べに対して, 「鳥取藩と交渉して欝陵島と松島(現在の竹島)が朝鮮領になった」と供述し, 「松島は即ち于山島だ」と証言していた. 安龍福の証言は, 官撰の『粛宗実録』にも記録され, 李孟休が禮曹(外交と儀礼を担当)の文書を整理した『春官志』(1745年序)のなかに, 「欝陵島争界」としてまとめたことから, 英雄としての安龍福像が確立していくきっかけになった(2007D, P99).

 

たしかに, 安龍福の供述中には疑問視される内容も多い. 彼は海禁の罪を犯してまで日本へ渡航したので, その罪を少しでも軽くすべく, 事実でないことを供述したり, 自分の功績を過大に語る傾向は否めない. また, 記憶違いや, 異文化の故に起こりうる勘違いなどもあり得る. しかし, そうした供述を充分に検証し, 歴史の真実を探求するのが歴史家の役割である. そうした充分な検証の中から生みだされる見解はそれなりの重みがあり, 容易に覆せないのであるが, 下條の場合は, しばしば自説を何の説明もなく突然覆してしまうのである. 下條は, うえの隠岐島説もいつの間にか取り下げたようで, 最近はそれに代わって「チクトウ(竹嶼)」説を次のように唱えた.

 

  安龍福は, 何故「于山島は松島なり」としたのか. それを知る手がかりは, 最終報告書に収録した『竹島紀事』にある. 幕府の命を受け, 朝鮮側と交渉した対馬藩は, 交渉の経緯を文献を中心に編年体にまとめ『竹島紀事』としていた.

   その中には, 対馬藩の取調べを受けた安龍福の証言も記録されており, 于山島に対する安龍福の知見を知ることができる. それによると, 安龍福は, 欝陵島より「北東に当たり大きなる嶋あり」, 「彼島を存じたるもの申し候は于山島と申し候」と証言している. この証言から見ても, 安龍福が主張する于山島は, 今日の竹島ではない. 安龍福が見たのは, 地図上に「所謂于山島」とされたチクトウ(竹嶼)である. チクトウは安龍福が漁労活動をしていた欝陵島の苧洞から東北に位置し, 竹島は欝陵島の東南にあるからである. だが, 于山島を松島とした安龍福の証言は, 『東国文献備考』の分註に載せられ、歴史的事実とされてしまった(2007B, P4).

 

  下條は前と同じ資料を使いながら, 今度は「大きなる島」よりは方角を絶対視し, 安龍福のいう于山島は安易にチクトウ(韓国名, 竹島)と結論を出したのである. このように下條はその時々によって着目点を変え, 前と違った結論を安易に出している. しかし, 上記の主張も妥当ではない. 下條は方角を絶対視するが, 海上では遠くにある島の方向や位置は誤りやすいのが通例である. そうした事情や, 他の資料『竹島紀事』などを充分検討すると, 安龍福が第1次渡日時にみた于山島はやはり今日の独島という結論になる. 『竹島紀事』によれば, 対馬藩は安龍福の第1次渡日時に独自の調査をおこない, 欝陵島の北東にかすかに見えるブルンセミという島があることを認識していた. そのブルンセミは, 安龍福が欝陵島の北東に一日の路程とみた于山島と考えられる. その詳細は別稿で論じたので, ここではふれないことにする[5].

また, 日本政府の独島問題ブレーンであった田川孝三もそのように理解して, 「この條件に適い得るものとしては, この竹島(リヤンクール島)以外に求むることは出来ない. 即ち, 于山島はこの竹島に比定せねばならない[6]」と記した. 田川のいう「この條件」とは「欝陵島の北東に現に二度目堵した島を于山島であると聞かされ, その距離は大体一日路であり, 大いなる島である」という安龍福の供述をさすのである. 田川の見解は妥当である.

結局のところ, 下條は安龍福のいう于山島が独島でないとの結論を出したいために「大きな島」とか, 「東北」などを理由にして, その時々によって隠岐島であるとか竹嶼であるとか主張を変えたものと思われる.

169610, 安龍福は第2次渡日の帰国後に備辺司に捕われた. その時の供述で彼が実際に行った子山島は日本でいう松島であり朝鮮領であると語ったことは『東国文献備考』のみならず地図にも大きな影響を与えた. それまで曖昧であった于山島の方角が実際に合致して欝陵島の東側に描かれるようになったのである. しかし, いつも于山島の認識が正しく地図に反映されたわけではない. たとえば, 1711年に欝陵島捜討官の朴錫昌等が作成した『欝陵島図形』である. その地図では欝陵島の東に小島が描かれ, 「海長竹田 所謂于山島」と文字が記入された. これについて, 呉サンハクは「この島は描かれた位置と, “海辺に長く竹田がある.”という注記からすると, 欝陵島の本島より4kmくらい離れたチクトウ(竹島)と推定される.[7]」と解釈した. どうやら, 朴錫昌は于山島とチクトウ(韓国名, 竹島)を誤解していたようである. しかし, 欝陵島捜討官の中には張漢相のように独島を正しく認識した官吏もいた. 張漢相は, 欝陵島の辰(東南東)方向三百余里(120km)に島があることを確認して『蔚陵島事蹟』に記録した. このように于山島確認の実状は捜討官によってまちまちであった.

そうした中, 下條は張漢相が確認した島の話には決してふれず, 于山島を誤認した朴錫昌を特筆大書するのである. さらに下條はそれを出発点にして, 他の地図に描かれた于山島もチクトウであると拡大解釈し, “『欝陵島図形』の「所謂于山島」と付記された小島が, 金正浩の「青丘図」では于山島とされ, 大韓帝国の学部編輯局が1899年に刊行した「大韓全図」でも, 于山島として継承されている.”と主張した(2007B, P3). しかし, 「青丘図」にしろ, 「大韓全図」にしろ, 欝陵島周辺の島に関する限り, 正確性を欠いた絵地図の域を脱せず, それらの絵地図から于山島をチクトウ(韓国名, 竹島)と断定するのは困難である.

 

(3)大韓帝国勅令

 

1900, 大韓帝国は勅令第41号を公布し, 欝陵島を欝島郡と改称し, その管轄区域を「欝陵島全島」と「竹島」, 「石島」とした. この石島は今日の独島であり, 大韓帝国が独島を支配した有力な根拠とされる. しかし, 下條はこれにも否定的な見解を出した. かれは, 最初に石島は欝陵島直近の観音島であると断定してこう記した.

 

 さらに「勅令41号」に記された竹島は, 今日の竹嶼であったので, 石島は今の観音島とすることが出来る. 何故なら獨島(竹島)でアシカ猟が始まるのは「勅令41号」が公布された3年後(1903), それ以前は絶海の孤島だったからである(1999A, P52).

 

このように, 下條は石島と観音島を直接に結びつける文献資料をまったく提示せず, 韓国は「絶海の孤島」である独島を知らなかったという単なる推量で石島は観音島であると主張した. しかし, さすがに下條はこの主張を根拠薄弱と考えたのか, やがて見解を変え「石島はどこを指すのか判然としない」として、こう記した.

 

1900(明治33), 大韓帝国は禹用鼎を鬱陵島に派遣, その報告をもとにして1025, 鬱陵島を「鬱島郡」に昇格させ, 郡守の常駐を決定した.

その際, 大韓帝国政府は「勅令41号」を発布し, 鬱島郡の行政区域を「鬱陵島全島と竹島, 石島」と定めた. 政府の認識では, 鬱陵島には竹島と石島という二つの属島があったことになる.

しかしこの「勅令41号」には, 属島の緯度や経度までは明記されておらず, 竹島と石島が実際にどこの島を指すのか, 正確さを欠いていた.

今日の竹島は, 当時はまだ竹島と呼ばれておらず, 古くは松島, そのころでは日朝ともにリャンコ島と呼ばれていたので, 「勅令41号」にある竹島は, 李奎遠の調査でも「竹島」とされた鬱陵島近傍の竹嶼と思われるが, 石島はどこを指すのか判然としない(2004A, P112).

 

  下條が石島を観音島とする説を撤回したのも無理はない. 両者を結びつける根拠が何もないからである. 歴史的にいうと, 1882年に検察使·李奎遠は欝陵島を調査し, 絵地図「欝陵島外図」などを描いたが, その絵地図で現在の観音島は島項と記された. その後, 欝陵島開拓令が出され, 欝陵島に開拓民が入島するようになったが, 開拓民は島項を「カッセ島」と呼んだことが知られており, 観音島が石島と呼ばれた形跡はまったくないのである. そのためか, 下條は上のように石島は不明であるとしたようである. しかし, 彼は, 一度は撤回したはずの観音島説を最近になって再び引っぱりだし, 下記のように主張した.

 

(勅令第41号の, 筆者注)竹島は竹嶼(韓国名, 竹島). 石島は, 李奎遠が島項と報告した今の観音島とするのが妥当である(2006D, P22).

 

下條は, ここでも何ら根拠を提示することなく自己の説を再び変えた. これは, 前回の説などが根拠のない単なる推量であったことを自ら証明したに等しい. この問題でも下條には定説がないのである.

下條とは別に, この問題を日本人研究者達がどのように考えているのか簡単に紹介する. 堀和生はこの問題に言及がないようであるが, 多くの日本人研究者は石島を独島と考えている. たとえば, 梶村秀樹や内藤正中, 大西俊輝などが石島を独島であると主張した. さらに, 独島を日本領と主張する塚本孝は, 当初は「勅令の石島がそれら(欝陵島)周辺の岩礁島の総称ないし代表格たる観音島のことでなく必ず竹島のことであるというためには, 今少し証明が必要であると思われる.」として判断を保留した. しかし最近では沈興澤郡守の独島報告(1906)に関連して, 石島は独島であると断定して次のように記している.

 

郡守が該島(独島, 筆者注)を「本郡所属」としたのは, 先の勅令の第2条に「郡庁位置は台霞洞に定め区域は鬱島全島と竹島·石島を管轄する事」とあったことによる(石を方言でトクということから独に通じる)というと考えられる. ……

独島(法令上の文言は石島)を管轄するとの内容の勅令を制定公布したことは,……[8]

 

  塚本の説は妥当であるが, すべての研究者が石島を独島と認めるためには, それを直接示す資料の発掘が必要である. それが明確に示されれば, 下條や島根県が主張する「1905年以前, 竹島は無主地であった」という主張が完全に否定されることはいうまでもない.

 

5. 下條の日本史に対する見解

 

(1)江戸幕府の独島認識

 

江戸時代, 独島は日本で松島, 欝陵島は竹島と呼ばれていた. 鳥取藩伯耆国米子の商人である大谷甚吉は, 大谷家の伝記によれば, 偶然に竹島(欝陵島)へ漂流し, その島が魚貝類などの自然産物が豊富な無人島であることを知ったとされる. 大谷家は竹島の産物を採取して商売をするために1625年ころ, 村川家と協力し, 鳥取藩をつうじて江戸幕府から「竹島渡海免許」を得た. これ以後, 安龍福事件が起きるまで両家は毎年のように欝陵島へ出漁した.

そうした実状は隠岐国でもよく知られ, 1667年に出雲藩士の斉藤豊宣(とよのぶ)が藩命によって著した『隠州視聴合記』国代記に大谷·村川家が竹島へ渡海したことなどが記された[9]. この史書は, かつて韓日両政府間で独島の領有権論争がおこなわれた時, 日本の独島領有の有力な根拠とされた書である. 日本政府が引用した『隠州視聴合記』 「国代記」の主要部分は下記のとおりである.

 

隠州は北海の海中にあるので隠岐島という.…… 西北に12日行くと松島がある. また1日ほどで竹島がある(俗に磯竹島という. 竹や魚, アシカが多い). この二島は無人の地である. 高麗をみるに雲州より隠州を望むごとくである. しからば即ち日本の西北(乾地)は此州をもって限りとなす.

 

この文の最後の部分「日本の西北(乾地)は此州をもって限りとなす.」において, 日本政府は「此州」を「この島」と読み, 竹島が日本の西北の限界であると主張した. この説は, 最初に田川孝三が言いだした説であるが[10],田川が亡き今では下條ひとりが主張するにとどまる.

しかし, 此州をこの島と読むのが無理であることは池内敏により 綿密に論証された. 池内は『隠州視聴合記』における「州」や「島」の使用例をすべて調べ, 用語上で「此州」をこの島と読むのは無理だと判断した. さらに, 国代記の文脈上もこの島と読むのは無理であり, 「日本の北西の地は隠岐州(隠岐国)をもって限りとす」としか読めないと結論づけた[11]. この池内論文が発表されるや, それまで此州を竹島と解釈していた内藤正中も自説を改め, 此州を隠州、すなわち隠岐国であると解釈した[12].

後年, 1823年に『隠州視聴合記』を引き写し, さらに詳細を付記し『隠岐古記集』を著わした大西教保は問題の個所を「日本の乾(北西)の地, 此国を以て限りとする」と記し, 国代記の此州に相当する箇所を此国, すなわち隠岐国と読んだ. さらにつけ加えるなら, 大西教保の子孫で『隠州視聴合記』を徹底分析した大西俊輝も此州を隠州と解釈した[13].

さらに, 江戸時代から明治時代にかけて作成された『大日本史』の解釈も参考になる. 同書は『隠州視聴合記』を引用し, 隠岐国の属島は179で隠岐小島と呼ばれるとし, この他に松島・竹島があると記述した. すなわち, 同書は『隠州視聴合記』では松島・竹島を隠岐国の属島にしなかったと解釈したのである[14]. ちなみに, この考えは明治時代の官撰地誌『日本地誌提要』に共通する. 『日本地誌提要』は, 隠岐小島179を本州の属島とし, それ以外に松島·竹島があるとした. 松島·竹島が本州に属さなければ, もちろん日本領に属さない[15].

このように, 江戸時代や明治時代の日本人学者たちは此州を隠州(隠岐国)と解釈したのである. しかし, 以上のような研究成果にもかかわらず, 下條はそれらを認めようとせず, なおも自説に固執して反論を書いている(2007E, P293). それらを要約すると, 下記のとおりである.

 

A. 文の最後にある「限りとなす」の主語は, すぐ前にある「この二島」である.

B. 隠岐島の北西に位置する欝陵島から高麗(朝鮮)が見えることが, 「此州()」を日本の西北限とする条件となっているのである.

C. 異国である朝鮮を見ている場所は, 当然, 日本領として認識していたと見なければならない.

D. 『日本国記』(「隠岐国」条)にも, 「隠岐の海上に竹島(, 欝陵島)あり. 竹多く, 鮑多し…….」と記されており, 著者は「竹島(欝陵島)」を日本領として認識していた.

E. 異国への渡海は禁じられていた時代, 竹島(欝陵島)が朝鮮領なら,「竹島渡海」が認められるはずがない.

F. 池内敏による「此州」の全用例の比較検討は,『隠州視聴合記』のように和文や漢文が混合して統一されていない文章や, 年代の違う文献の寄せ集めにはあまり意味がない.

 

上記の中で(A) - (C), 池内によりすでに反論されている. それによると, 下條の主張は『隠州視聴合記』に「竹島(欝陵島)が日本領と書いてある思い込み」からくる誤読に過ぎない[16]. 次に(D)であるが, 「隠岐の海上に竹島あり」という一文から竹島を日本領と読み取るのは我田引水に過ぎないのである. また, たとえ『日本国記』の著者が竹島は日本領だとの認識を持っていて, しかも斉藤豊宣がその書を知っていたとしても, 隠岐を最も良く知る斉藤豊宣が『日本国記』の著者と同じ認識であったとは限らない. (E)であるが, 幕府による特別許可を得て渡海するような竹島(欝陵島)を直ちに日本領とするのは早計である. 実際, 斉藤豊宣は竹島を幕府の朱印をもった船, すなわち朱印船(外国貿易船)が行くような島と認識していた[17]. したがって, 下條の見解は無理である. (F)に関しては, 単なる論点はずしに過ぎないと思われる.

なお, 「此州」を「この島」と読む日本政府の解釈を韓国政府は誤読であると指摘したが, それに対する反論は日本政府からはなかった. これは, 暗に韓国政府の指摘を日本政府が容認したものと見なされる.

韓日両政府の論争に付言すれば, 日本政府は川上健三が主張した「松島渡海免許」を大谷·村川両家が得ていたと主張したが, この免許について下條正男が一切ふれていないのは注目される. 韓国では「松島渡海免許」の存在を信じる学者もいるが, 日本では早くから塚本孝や池内敏らにより否定されており, 「松島渡海免許」はなかったというのが日本の通説になっている. そのためか, 最近の外務省や島根県は「松島渡海免許」にまったく言及していない.

 

(2)外務省報告『朝鮮国交際始末内探書』

 

  1868, 日本は明治維新になり国家の統治機構が一変した. それまで対馬藩が担ってきた朝鮮との外交は外務省が直接おこなうようになった. 外務省はその手始めに朝鮮へ官吏を派遣し, 朝鮮の実状を調査した. 朝鮮の調査旅行から帰った佐田白茅は1870年に『朝鮮国交際始末内探書』を提出したが, その中に「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」と題する報告がある. この資料で朝鮮の付属とされた竹島は欝陵島, 松島は独島を指すとするのがほとんどの研究者の見解であるが, これに関して下條は最初のうち下記のように記した.

  

この報告の松島が今日の竹島であったとすれば, 佐田白茅が「是迄掲載セシ書留モ無之」と記述するはずがない. なぜなら, 今日の竹島を指す松島については, 「是迄掲載セシ書留」がいくつも存在するからである. ……

 これらの事実は, 佐田白茅がいう松島が, 現在の竹島とは無縁であったことの証左である. 江戸幕府が渡海を禁じたのは欝陵島であって, 現在の竹島への渡海を禁じてはいなかったという事実も, 日本側が今日の竹島を日本領と認識していたことを裏づける(2004A, P107).

 

  このように, 下條は松島を独島とは無縁であると記した. また, 彼は上の文で江戸幕府が「今日の竹島を日本領と認識していた」と記したが, これは誤認である. 江戸幕府は安龍福事件が起きるまで松島(独島)の存在自体を知らなかったのである. そのため, 幕府は鳥取藩からの書状に松島の名前が新たに登場したことに興味をもち, その島がどのような島であるのか鳥取藩へ質問をおこなったくらいである. そのように無知であった松島に幕府が領有意識をもつことはあり得ない. さらに, 鳥取藩が竹島·松島が鳥取藩領ではないと回答したために, 幕府は争点になっていた竹島を朝鮮領と認めた. したがって, 同じく鳥取藩領でない松島についても同様であり, 直接の言及がなくても暗に幕府は朝鮮領と認めたと解釈すべきである[18].

この時, 幕府が松島にふれなかったのは, 単に争点になっていなかったからである. 後年の天保期における竹島渡海禁止令では「遠き沖乗り」が禁じられたが, その中に松島への渡海禁止も含まれるのである. したがって, 幕府は松島(独島)を異国の地であると考えていたのである.

下條は, 上記の見解を発表してから二年後に自説を変え, 次のように述べた.

 

 1870年に, 朝鮮の視察から帰国した外務省の佐田白茅が報告を行う. タイトルは『竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末』. 竹島(現·鬱陵島)だけでなく,松島(現·竹島)も朝鮮領になったとの驚くべき表題だった(2006D,P19).

 

  このように下條は, 外務省の報告書にある松島は今日の独島であったとしたが, この見解もいつまた変わるかも知れないので注意が必要である.

 

(3)太政官の「竹島外一島」版図外指令

 

  1877, 明治時代の政府ともいうべき国家最高機関の太政官は「竹島外一島」を日本の版図外とする指令をくだした. 竹島とは欝陵島であり, 外一島は松島(独島)を指す. この重要な指令を収めた「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」は『公文録』内務省之部や『太政類典』に収録されているが, 長い間その存在は知られず, やっと1987年になって堀和生により初めて公開された[19].

太政官指令の解釈であるが, 堀和生は外一島を今日の独島と解釈し, 明治政府は欝陵島と独島を日本の領土外にしたと解釈した[20]. また, 内藤正中や塚本孝も同様の解釈であった[21]. これに対し, 下條はその解釈について長い間沈黙を守っていたが, 2004年に初めて外一島を不明とする見解を述べた. それ以後, 下條は自説を毎年のように変えているが, それらの見解を抜書きすると下記のとおりである.

 

    A.「外一島」は不明

  太政官による審査は十分とはいえなかった. 「竹島外一島」の「一島」が今日の竹島を指すのかそうでないのか, 判然としないからである. もしその「一島」が今日の竹島だったとすれば, 「本邦関係これなき」というはずがない(2004A, P123).

 

    B.「外一島」は不明

 太政官による審査は, 十分とはいえなかった. 「外一島」が今日の竹島だったとすれば, 「本邦関係これ無き」と言うことはないからだ(2005A, P63).

 

    C.「外一島」は竹島(独島)

 地籍編さんのため, 内務省から1876年に竹島(現·鬱陵島)に関する照会を受けた島根県は, 竹島(現·鬱陵島)と外一島は「本邦関係無之」とし, 朝鮮領との認識を示した外一島とは当時の松島であり, 現在の竹島を指している. その回答を基に, 内務省が仰いだ太政官の示した判断も同じ結論だった[22].

 

    D.「外一島」は竹島(独島)

      外一島とは当時の松島, 現在の竹島を指していると思う(2006D, P19).

 

    E.島根県「外一島」は竹島(独島), 太政官「外一島」は欝陵島

  島根県が伺いを立てた「竹島他一島」と, 太政官が判断した「竹島他一島」にはちがいがあった. 『公文録』に添付された島根県提出の『礒竹島略図』には, 現在の竹島と礒竹島(現在の欝陵島)が描かれ, 島根県では欝陵島と竹島を日本領として認識している. ……

  結論から言うと, 太政官が「関係なし」とした「竹島他一島」は, 二つの鬱陵島を指しており, 現在の竹島とは関係がなかったのである(2007B, P2).

 

    F.島根県「外一島」は欝陵島

  島根県は「竹島」のみならず, 「松島」をも欝陵島と認識していた. つまり「竹島他一島」は, いずれも現在の欝陵島のことを指していたのである(2007D, P103).

 

このように下條は主張をいろいろ変えているが, 『公文録』に書かれた外一島である松島が独島であることは, 『公文録』付属の「磯竹島略図」を見れば一目瞭然である[23]. それにもかかわらず, 最近の下條は, 松島は欝陵島であるなどと主張しているが, それが誤りであることは内藤正中が反論したとおりである[24].

 

 

6. 結語

 

下條の10年以上にわたる独島についての論説を分析した結果, 改めて判明したことは, 下條は重要な論点に関してしばしば自己の主張を変えており, 一貫した定説がないという事実である. また, かれは突然自説を変えても, 一切その理由を明らかにしていない. まるで過去の自己の見解を忘れたかのような書きぶりである.

次に判明したことは, 下條は資料を恣意的に取捨選択していることである. かれは決して日本の領有権主張に不利になるような資料をとりあげず, 韓国に不利になるような資料を重点的に取りあげている. たとえば『蔚陵島事蹟』と『欝陵島図形』などがその典型で, 後者を取りあげても前者は決して取りあげないのである. また, 資料の引用も恣意的にあり, 資料の一部だけを取りあげ, 時には資料の著者の意図とは正反対の解釈すらおこなった. 『輿地志』に書かれた「一説に于山欝陵本一島」の解釈がそうである. 『輿地志』の著者は本説で于山島と欝陵島を別々の島にしたが, 下條は両島を同一の島であると解釈したのである. そうした我田引水的な解釈を土台にして『東国文献備考』は「捏造」されたとか「改竄」されたとかいう極論を導いている. 土台が間違っていれば, そこに築かれた論説は砂上の楼閣であり, 一瞬にして崩壊する. 下條は, 根本的に資料を客観的に見ようとする姿勢に欠けるようである. そうであれば, 研究者としての資質を疑わざるを得ない.

ある人は, 下條を研究者ではなく「活動家」であると評したが, 彼の論敵に対する攻撃はその側面を浮き彫りにしている. 下條は『最終報告書』において池内敏を「竹島問題研究会が調査研究を進めるなかで, 障碍となったものがある. 池内敏氏による一連の『隠州視聴合記』研究である」との非難をおこなった(2007B, P4). また, 内藤正中に対しては「内藤正中氏の竹島研究は, 竹島問題の本質を歪め続けてきた. 曲学阿世, 内藤氏の竹島研究の問題点はそこにある」との中傷をおこなった(2005F, P21). このように自己の主張と違う研究者に対して「障碍」とか「曲学阿世」などと非難するのは, 良識ある研究者のすべきことではない.

  しかし, そうした下條の流儀や主張は島根県や, 右翼系の雑誌 『正論』や『諸君』で高く評価されている. そうした彼の主張が右翼以外にどこまで受けいれられるのか, 今後も注意深く見守る必要がある. また, 彼と外務省との関係が今後どのように展開するのかも興味深いところである.

            


下條正男著作一覧

 

 

 



[1] ローダニエル「竹島密約 日韓極秘メモを暴く」『文藝春秋』2007.9月号、P214

 독도 밀약」 『월간 중앙 2007.4월호

[2]内藤正中「竹島は日本固有領土か」『世界』岩波書店、2005.6月号

[3] 「山陰中央新報」記事「島根県の竹島問題研究会が最終報告書を外務省へ提出」2007.7.13

 http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=408051006

[4]池内敏「隠岐・村上家文書と安龍福事件」『鳥取地域史研究』第9, 2007, P14

[5]朴炳渉『安龍福事件に対する検証』韓国海洋水産開発院、2007P13;

 번역은 같은 책의 한국어 부분 P14

[6]田川孝三「于山島について」『竹島資料』10,島根県立図書館所蔵, 1953, P100

[7]오상학조선시대 지도에 표현된 울릉도독도 인식과 변화’ 문화역사지리18권 제1, 2006, P87

[8]塚本孝「日本の領域確定における近代国際法の適用事例」『東アジア近代史』第3号, 2000.3P89

[9]最近の下條は『隠州視聴合記』の著者を斉藤豊仙(とよひと)と書くが、大西の下記著書によれば、正しくは斉藤豊宣あるいは勘助(かんすけ)、弗緩(ふつかん)、遊外(ゆうがい)とされる。豊仙は豊宣の子になる。

大西俊輝『続 日本海と竹島』東洋出版, 2007, P15

[10]田川孝三「竹島領有に関する歴史的考察」『東洋文庫書報』201988P43

[11]池内敏『大君外交と「武威」』名古屋大学出版会、2006P323

[12]内藤正中・金柄烈『史的検証』岩波書店、2007P22

[13]大西俊輝、前掲書, P34

[14]内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争』新幹社2007P30;

박병섭나이토세이추독도=다케시마 논쟁보고사, 2008, P14

[15]朴炳渉「明治時代資料からみた独島帰属問題」『獨島研究』第3号、嶺南大学校獨島研究所、2007, P211번역은 같은 책의P202

[16]池内敏、前掲書、P346

[17]  『隠州視聴合記』「知夫(ちぶり)郡 焼火山(たくひさん)縁起」に、「伯耆の国の大賈 村河氏、官より朱印を賜り大船を磯竹島に致す」と記述されている。

[18]内藤正中・朴炳渉、前掲書、P33

박병섭나이토세이추, 앞의 , P18

[19]堀和生「一九〇五年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史学会論文集』第24号、1987P97

[20]同上、P104

[21]塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第244号、1994P5

[22]山陰中央新報社ホームページ「発信竹島」2005.8.25

http://www.sanin-chuo.co.jp/tokushu/modules/news/article.php?storyid=105059145

[23]内藤正中・朴炳渉、前掲書、P324

박병섭나이토세이추, 앞의 , P303

[24]内藤正中「答えに窮した? 内藤教授の反論」

  http://www.han.org/a/half-moon/hm130.html#No.952