竹島=独島問題ネットニュース、44

2020.3.13

竹島=独島問題研究ネット

http://www.kr-jp.net

 記事一覧

1.【論文】池内敏「「老中の内意」考」

2.【論文】朴炳渉「天保竹島一件における松島(独島)に対する日本の有権爭」

3.【論文翻訳】朴炳渉「独島領有権に対する歴史・国際法の学際間研究」

4.【論文】池内敏「17世紀竹島漁業史のために」

5.【論文】塚本孝「小笠原諸島のいわゆる林子平恩人説と竹島」

6.【論文】大島悟「竹島問題の平和的解決に向けた対話に着目した授業実践と考察」

7.【論文】藤井賢二「対日講和条約と竹島」

8.【論文】杉原隆「吉田松陰と竹島」

9.【ブックレット】中野徹『竹島=独島問題と国際法』

10.【論説】下條正男「歴史認識問題としての竹島問題を何故、解決できないのか」

11.【報告】高井晋「領土・主権をめぐる内外発信に関する有識者懇談会提言」

12.【行事・集会】

 

記事詳細

1.【論文】池内敏「「老中の内意」考」『日本史研究』682号、2019

塚本孝は、大谷家の松島(独島)渡海に関し、幕臣阿倍四郎五郎の家来である亀山庄左衛門が大谷九右衛門あての書簡(1660)に、「来年から竹島(欝陵島)の内松島ヘあなたの舟が行く予定であることにつき昨年四郎五郎がご老中様から内意を得ました」とあることから松島に対しても1661年からは幕府の許諾の下で渡海したことが知られると主張した(竹島問題研究会『竹島問題100100答』)。

この「老中の内意」なる一節から川上は松島渡海免許を論じ、塚本は幕府の松島渡海公認を論じた。しかし、そもそも「老中の内意を得た」という事実そのものの無かったのである。「内意を得た」なる文言は、代替わりを終えたばかりの阿部家が、従前通りに大谷家・村川家の調整役たる地位に留まり、それに由来する利権を確保し続けるために持ち出した権威づけの修飾に過ぎない。「老中の内意」を歴史的事実と誤認してはならないのである。

20183月、島根県高校入試問題中に「幕府の許可を受けて、日本人が現在の竹島[独島]での漁業を始めた」という一節があった。こうした歴史的事実は存在しないのであり、この出題は不適切である。

(PW必要) www.kr-jp.net/member/ronbun_cl/ikeuchi/ikeuchi-1906-naii.pdf

 

【コメント】かつて池内は、塚本の「松島渡海許可」説に対し、「名前も明らかにならない某老中の「内意」をもって「幕府の公認」「幕府の許可」とするのは暴論」「こうした空疎な史料解釈で外務省見解の穴埋めをするのは無理というもの」と批判したが、今回はその批判をさらに発展させた。

一方、松島(独島)が「竹島の内、松島」、すなわち松島が竹島の属島なら松島へ行くのに幕府の許可や免許などはそもそも不要である。

 

 

2.【論文】朴炳渉「天保竹島一件における松島(独島)に対する日本の有権爭」

 『韓日關係史硏究』67集、2020

池内の塚本批判には説得力に欠ける一面もある。池内は、天保竹島禁令が元禄竹島禁令をふまえたので、松島(独島)への渡航は引き続き禁止されていたと主張する。しかし、天保禁令は将軍が元禄期に竹島(欝陵島)を朝鮮国へお渡しになられたと記すなど史実に反しており、元禄禁令をすべて正しくふまえたわけではない。池内は幕府がこのような誤解をした由来は大谷家文書にあるとするが、これは疑問である。その由来は、『天保撰要類集』などによれば、浜田藩が竹島の所属を確認するため、対馬藩から元禄竹島一件に関する外交文書の写しを入手し、その写しから将軍が竹島を朝鮮へお渡しになったと理解して評定所の尋問にて話したことにある。

一方、松島に関しては、幕府は天保竹島一件にて八右衛門が松島を名目に竹島へ渡航したので松島の所属などに特別な関心をもって対馬藩へ問い合わせた。その結果、幕府は竹島の近所に松島という島があり、かつて日本人がそこへも渡って漁をしていたが、元禄期に竹島同様に渡海が停止されたようであること、朝鮮地図を見ると蔚陵・于山の二島があり、朝鮮漁民も竹島へ渡海していることなどを知った。こうした情報から幕府は竹島を欝陵島、松島を于山島に比定したであろう。評定所関係者が作成した竹島・松島の図<2>にて両島を朝鮮半島同様に朱色に着色した。これは大坂町奉行所が作成した竹島渡海一件記』付属の「竹嶋方角図」と同様に竹島・松島を朝鮮領として表示したのである。

このように元禄竹島渡海禁止令以降、幕府が竹島・松島を日本の地であると認識したことは一度もなかったばかりか、天保期に幕府は竹島・松島を朝鮮領と認識した。したがって、天保竹島渡海禁止令に松島の名はなくても、竹島最寄りの松島への渡海も許されない。

www.kr-jp.net/ronbun/park/park-2002-tenpo.pdf

 

 

3.【論文翻訳】朴炳渉「独島領有権に対する歴史・国際法の学際間研究」

『獨島研究』27号、2019

17世紀、朝・日両国間の欝陵島争界(竹島一件)にて交換された外交文書は距離慣習に関する略式条約を結んだという朴ヒョンジン(박현진)の主張をめぐって論争が継続中である。この争点を検討した結果、略式条約説には疑問が残る。また、「距離慣習」説が成立するのか疑問である。

一方、朝・日両国は「欝陵島争界」にて離島の帰属に関する判断基準を立てており、これは「広義の国際法」といえる。これにしたがって于山島(独島)の帰属を判断すれば、于山島も朝鮮の地となる。その後、朝鮮政府は欝陵島と于山島に対する領有意思を継続して官撰書にて明らかにした。また、日本でも竹島(欝陵島)と松島(独島)の帰属を判断する機会が数回あったが、そのたびごとに日本政府は竹島・松島を朝鮮の地であると判断した。この判断は17世紀の判断基準どおりであった。その判断基準は両国にて慣習になったと見ることができる。

ところで、朝鮮では海禁政策によって韓末期に于山島は位置のわからない伝説の島になった。これとは別に全羅道の漁民たちによって「トクソム(独島)」が発見され、漁業に利用された。この島が1900年勅令第41号に「石島」という漢字表記で欝島郡の管轄と明示された。これは大韓帝国の独島に対する主権の表示である。この独島は無主地ではないので、1905年に日本政府が独島を島根県に編入した措置は国際法に反する。

上のように独島に対する韓国の歴史的・原始的権原が継続して確認されても、国際法廷では紛争当事国の主張にしたがって条約及びウティ・ポシディティスの原則などが重要な検討対象になる。ところが、サンフランシスコ講和条約からは独島の帰属に対して結論を得ることができない。そうであれば、ウティ・ポシディティスの原則によって独島に対する韓国の領有権が確定する。

www.kr-jp.net/ronbun/park/park-1912j-int.pdf

原文(韓国語)は、 http://www.kr-jp.net/ronbun/park/park-1912-int.pdf

 

 

4.【論文】池内敏「17世紀竹島漁業史のために」

『名古屋大学人文学研究論集』第2号、2019

竹島(鬱陵島)渡海事業も松島(今日の竹島)渡海事業も、大谷家と村川家そして阿倍家の三者が緊密に結び合いながら実現され、その利権が享受されてきたものであった。阿倍家の側からすれば、そうした利権が第三者に侵されないように細心の注意を払う必要があり、そのために大谷家や村川家ないしは両家ともどもに対して強力な指導を行った。その際の権威付けに利用されたのが「老中の内意」なる架空の作為であった。

近時、この「老中の内意」を歴史的実態と勘違いをした論を立てる者[塚本孝]がある。松島(今日の竹島)渡海にも幕府の許諾・公認のあったことを是が非でも論じたい気持ちが先に立つのであろう。しかしながら、史実は史料から組み立てねばならないのである。そのためにいささか煩雑ながら未紹介史料等々を翻刻紹介してみたものである。

https://nagoya.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=27813&item_no=1&page_id=28&block_id=27

 

 

5.【論文】塚本孝「小笠原諸島のいわゆる林子平恩人説と竹島」

『島嶼研究ジャーナル』第91号、2019

ペリーが小笠原諸島のアメリカ領たることを主張し、日本が林子平の三国通覧図説の訳書を示した結果事なきを得たという“林子平恩人説”は、日米の記録にそのような記述が見当たらないだけでなく、日本遠征記や海軍長官報告書からペリーが日本に対し小笠原諸島の領有を主張する考えを持っていなかったことが知られるので、史実であり得ないと言えよう。ペリー自身が三国通覧図説の訳本を持っており、それを基に英国の発見に基づく領有主張を否認している。

“林子平恩人説”が史実でないので、日本政府が三国通覧図説を外交交渉に用いたから同書の地図が公的な性格を持つ云々の議論(第1節「D」)は、同書の地図が今日の竹島を朝鮮領としているかどうか以前の問題として、そもそも成り立たないのである。

(PW必要)www.kr-jp.net/member/ronbun_cl/tsukamoto/tsuka-1911-shihei.pdf

 

 

6.【論文】大島悟「竹島問題の平和的解決に向けた対話に着目した授業実践と考察」『学校教育実践研究』2巻、2019

―中学校社会科歴史的分野「日韓国交正常化交渉と竹島問題」を事例として―

 竹島問題の平和的解決に向けては,日韓の若者同士の対話や議論の積み重ねが大切であり,民間レベルでは実際にそのような議論も行われている。本研究は,日本の中学生が韓国の中学生と対話をする際にどのような対話を試みるのか,その対話の質を高めるための指導はどうあるべきかという問題意識に基づき,@韓国の中学生との対話場面を想定した調査を行い,どのような対話をしようとするのかを分析し,その特色について明らかにすること,A対話の質を高めるための社会科の授業実践を行い,事前の調査結果との比較分析を行い,対話の質がどのように変容したかを明らかにすること, Bこれらの取組を通じて今後の授業開発への知見を得ることを主たる目的としている。

(PW必要) www.kr-jp.net/member/media/z-2019/ooshima-1903-jugyo.pdf

 

 

7.【論文】藤井賢二「対日講和条約と竹島」『鳥嶼研究ジャーナル』第82号、2019

英国は、日本と朝鮮の間にある島嶼の帰属を明確にすることを望んだ。その結果、米英共同草案第2条では「日本国は、朝鮮(済州島、巨文島および鬱陵島を含む)に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」とした。竹島の名前はここにはなく、サンフランシスコ平和条約第2条(a)は米英共同草案第2条の内容を踏襲したため、竹島は朝鮮の領土には含まれない、1947年のキャンベラ会議以来の、日本に近接する島嶼の帰属を明確にして紛争の発生を防ぐという英国の方針は、対日講和条約において竹島は朝鮮の領土には含まれないことを明らかにさせた、一方で竹島は日本領に残されたと理解されるが、それは1951年8月10日付で米国政府が韓国政府に送った書簡いわゆるラスク書簡で確認されることになる。

(PW必要) www.kr-jp.net/member/ronbun_cl/fujii/fujii-1903-SF.pdf

 

【コメント】この論文にても藤井は資料の恣意的な取捨選択をおこなっている。藤井が引用した鄭炳俊『独島1947』にはダレス電文が掲載されているが、これを無視している。ダレスが駐日・駐韓米大使館へ送った電文(1953.12.9)は、ラスク書簡のようにリアンコールト岩(竹島=独島)を日本領とみる見解は多くの条約署名国の中でアメリカ一国の考えに過ぎないので、アメリカはこれを公開することによって日韓の領有権紛争に巻きこまれてはならず、解決は条約第22条にしたがって国際司法裁判所に任せるべきであるとした。これからもわかるように、ダレスはイギリスの見解がアメリカと同じとはみなかったのである。また、イギリスが独自の最終草案で竹島=独島を韓国領とした見解を変えた事実はない。一方、条約調印後も米韓で竹島=独島の帰属に関する協議が継続中であった。条約調印時に竹島=独島の所属が決定したわけではない。

結局、対日講和条約は竹島=独島の所属に関して何の結論も出さなかったし、条約からいかなる解釈も不能である。そうなると、上記(3)の論文がいうようにウティ・ポシディティスの原則が適用されよう。

 

 

8.【論文】杉原隆「吉田松陰と竹島」『島嶼研究ジャーナル』第82号、2019

 吉田松陰の「竹島・大坂島・松島合わせて世に是れを竹島と云ひ、二十五里に流れ居り候」という竹島についての認識は、鬱陵島の測量ミスから生まれたアルゴノート島の竹島、正しい位置のダジユレーの松島を引きずっていると思われるが、烏有ノ島竹島がわかるにつれて微妙な変化をしつつも、門下生桂小五郎達の「タケエイ・ララド」、境二郎(斎藤粂蔵)の「竹島外一島」につながっている。また松陰の海防からの竹島開墾の必要性の思いは、桂等の江戸幕府への「竹島開拓建言書草案」、境二郎の明治政府への「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」、「日本海内松島開墾ニ付伺」に具現化されている。

(PW必要) www.kr-jp.net/member/media/z-2019/sugi-1903shoin.pdf

 

 

9.【ブックレット】中野徹『竹島=独島問題と国際法』島根県竹島問題研究会、2019

以前からいわれているように竹島=独島問題は英仏間のマンキエ・エクレオ事件に類似しているので、この判決にならい、日韓のいずれがより有力な法的論拠を提示しているかを判定するのが問題解決に重要である。

外務省が17世紀に「竹島[独島]の領有権を確立」したとする認識に対しては国際法の観点からも一抹の不安を感じる。松島(竹島=独島)が「航行の目標」「途中の船がかり」「漁獲の好地」としての利用が「古くからの権原」の存在を立証するにはいかにも弱い。しかし、韓国がこれよりも説得力のある歴史を語っていないので、日本の主張は相対的に有利であろう。

2次日韓協約(1905)以降、日本が竹島=独島に対してとった漁業などに関する措置は国際法廷で一切審査の対象にならないことも想定されるので、文献資料を徹底的に収集分析し、1905年までに竹島=独島が日本領だったことをゆるぎない証拠をもって明らかにしておく必要がある。

(PW必要) www.kr-jp.net/member/book/nakano-1902-law.pdf

 

【コメント】中野は韓国がこれよりも説得力のある歴史を語っていないと記すが、17―19世紀の朝鮮の官撰書が于山島すなわち日本のいう松島は于山国の地、朝鮮領であると繰りかえし記載しているのをどのように考えているのか明らかでない。一方、1905年以降の日本の措置は国際法廷で一切審査の対象にならないことも想定されるという指摘は注目される。

 

 

10.【論説】下條正男「歴史認識問題としての竹島問題を何故、解決できないのか」

  『歴史認識問題研究』第4号、2019

竹島問題が何故、解決しないのか。その理由がある程度、理解ができたのではないだろうか。日本政府と韓国政府では、その政治の仕組みが異なっている。国家主権に関する問題に対しても、当然、その対応の仕方が違ってくる。要はどちらが効率的かということである。

少なくとも韓国側では、その当初から、竹島問題を歴史問題として捉え、「独島死守」のための体制を整えてきた。これに対して日本政府は、国際司法裁判所に付託し、国際法に偏重した姿勢をとり続けてきた。その中で韓国政府は20069月に、「東北アジア歴史財団」を設置して持続的・総合的な研究活動を開始し、それを外交政策に反映してきた。その「東北アジア歴史財団」の理事長には、歴代、歴史研究者が就き、閣僚級の職権が与えられた。それを補佐する事務総長には、外交経験者が就任し、次官級の位置にあった。

これに対して日本では、政府が原案を作り、それを業者や外部機関に委託して、歴史研究者達に調査研究をさせるのである。韓国と日本では、問題解決に向けてのシステムが全く違っている。それも司令塔的な役割を果たす沖縄北方領土担当大臣がころころ代わっていれば、歴史認識問題の解決など覚束ない。その中で、国民世論の喚起とは、如何なる意味があるのだろうか。

(PW必要) www.kr-jp.net/member/ronbun_cl/shimojou/shimo-1903-ninshiki.pdf

 

 

11.【報告】高井晋「領土・主権をめぐる内外発信に関する有識者懇談会提言」

『島嶼研究ジャーナル』第9巻1号、2019

2019年5月から7月にかけて「第3回領土・主権をめぐる内外発信に関する有識者懇談会」(西原座長)が開催されて議論を重ね、その成果である「領土・主権をめぐる内外発信に関する有識者懇談会提言一内外環境の変化を踏まえた発信強化の実践のためにー」が7月29日に宮腰大臣に手交された。以下は、同有識者懇談会の提言である。

(1)総論、(2)対外発信、(3)国内啓発、(4)領土・主権展示館、(5)資料調査、(6)フォローアップ

(PW必要)www.kr-jp.net/member/media/z-2019/takai-1911-teigen.pdf

 

 

12.【行事・集会】

18回「竹島の日」を考え直す集い

日時:2019.10.12

場所:エル・おおさか

主催:「竹島の日」を考え直す会

内容:講演(朴炳渉)、報告(久保井規夫)他

www.kr-jp.net/sympo/s-2019/191012-kangae.pdf

 

15回「竹島の日」記念式典

日時:2020.2.22

場所:島根県民会館

主催:島根県/島根県議会/竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議

内容:鼎談(新藤義孝・下條正男・豊田欣吾)他

www3.pref.shimane.jp/houdou/articles/151269

 

19回「竹島の日」を考え直す集い

日時:2020.2.29

場所:大坂PLP会館

主催:「竹島の日」を考え直す会

内容:講演(久保井規夫・黒田伊彦)他

www.kr-jp.net/sympo/s-2020/200229-kan.pdf

 

○ 竹島=独島問題ネットニュースのバックナンバーは下記で見られます。

 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/mokuji.html#net_news